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幸福雑音

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☆ss「ピグメイリオンの末裔」燐雪(中学時代注意)+藤本

 奥村燐は中学生になった。
 それは奥村燐とその弟の雪男の生活の変化を告げるものだった。
 暗くなった窓の外を見ながら雪男と藤本と修道士達は顔を見合わせていた。兄は今日も帰りが遅い。典型的な不良の生活リズムになりつつある。
「この前あいつの担任が顔青くしてやってきたよな。」
 それは地元の地方紙に小さく記事になった事件だった。燐はその当時、近所に騒音と迷惑と危険を振りまいていた某暴走族グループを、たった一人で壊滅せしめたのだった。しかし学校側としてはそんなハチャメチャな英雄は望むところではなかったらしい。だから担任が厳重注意の為の家庭訪問に来てしまったのだった。
「あの時、燐が大人しくしていてくれたら……」
 当の燐は自分のしたことが、どれほど他人を恐れさせるか分かっていなかった。燐の帰り際に集団で危険走行をした上に、通りかかったカップルに脅迫に近いレベルのかつあげまがいをしているチンピラどもがいた。それにぶちぎれて燐は、暴走族に喧嘩を売ったのだった。そして見事に勝った。
 その事情は南十字教会に後日やってきた燐の担任から、事実を大幅に歪曲された苦情として藤本のもとに届いた。教師は警察沙汰になったということが学校側にとって由々しき問題だと決めつけ、燐に対する評価をあっというまに地に落とした。そしてそれを孤児で教会育ちという家庭環境のせいにした。それにまた燐がきれて教師に掴みかかり、結果、教師の中の燐の評価を悪化させ誤解が解けないままでいる。
「兄さん特有の要領の悪さなんだから、気にしたってしょうがないですよ。」
 雪男は淡々と言う。雪男にしても中学に入って、以前のように兄に庇われたり世話を焼かれることがなくなったせいで、なんとなくその口調は拗ねたように聞こえる。しかし感情を隠すような淡々とした声は、修道士たちには放任しておけばいいというような意味で伝わってしまった。
「雪男。お前なあ、暴走族は今までのいじめっ子とは違うんだぞ。小学校から中学に上がったと同時に、燐が喧嘩する相手もグレードアップしたんだぞ。」
「中学入ってすぐに暴走族だぞ。そのうちヤクザや変質者に関わらないとも限らないぜ。そしたら俺らや藤本先生でさえもどうしようもなくなるぞ。」
 雪男は溜息をつく。自分の言葉がそんな風に取られてしまったとは。それに冷静に考えてみれば、大の大人がそうそう中学生一人を狙いうつはずがないのにとも。
「だから。兄さんには規則正しい生活をさせるべきなんだってば。ちゃんと授業を受けさせて決まった時刻に帰宅させれば、そんなやばそうな物件にそうそう引っかかるもんじゃないよ。」
 しかし冷静な中学生より、大の大人のほうがこの場面に限っては想像力を膨らませてしまう。雪男が自ら「僕が引っ張ってでも連れて行きます。」と言う前に、それは無理だと制される。
「あのな。お前、それはすげえ希望的な観測だぞ。それが出来れば俺らや、あの先生も苦労しねえぞ。」
 何故か燐は昔からトラブルに巻き込まれやすい子どもだった。そしてその面倒ごとを、毎回、馬鹿力による暴力でで解決してしまう。それを見た観測者達からは、とんでもない化物として敬遠されていた。
燐にはどうしてもそうなってしまいがちな理由はある。その事情を知ってしまえば納得はいくが、そうそう言いふらすわけにはいかない事情だった。
「今の燐の精神状態で、ちゃんと学校行けとか家帰って来いは逆効果かもしれない。」
「あのですね。学校行くのは兄さんだけじゃないですし。言っちゃなんですけど、僕のクラスにいる素行の悪い連中のほうが、よほど出席率だけはいいですよ。」
「そいつらはつるんでいるだろ? 友達に会えるから学校にぶつくさ言いながら行ってたって、結局は楽しいんだよ。学校が。だけど燐は一人だから。」
「だからなんですか? 学校は人とつるむために行くところですか。違うでしょう。」
「そうだ。雪男の言うとおりだ。でも考えてみろよ。学生にとって何が自分の自信になるかってこと。周りにいる人間が自分を好きでいてくれるかどうかは、お前くらいの年頃の連中だと、かなり深刻なことじゃないのか?」
 修道士の言葉に奥の席の藤本は頷く。雪男はまだ納得のいかないような顔をしていた。
「だからって! 兄さんを甘やかすつもりですか?」
 確かに雪男の言うことは正論だ。学校に無理して行かなくていいというのは一つの親心の形だろうが、それはけして正しくない。だが――。
「雪男。お前だって分かってるだろ? 燐はもともとはいい子だ。学校の言ういい子に当て嵌まらない、そんな良い子だ。普通だったら暴走族に絡まれてる奴がいたとしても、それを看過するのが常識だ。やっても警察にこっそり通報するくらいが精々だ。それくらいでいいんだよ。善意ってのは。でもあいつは」
 やっと口を開いた藤本の言葉だったが、雪男は睨みつけて奥歯をかみ締める。義父が言う警察に通報する程度の善意というのは、結局は正しいし一番スマートな方法だが――。
「わかってます。兄さんは善意以上のことをした。でもそのせいで! あの場は阿鼻叫喚の大惨事の現場になったし! 兄さんは先生から凶悪な暴力生徒というレッテルを貼られた! ……僕はそれが我慢ならないんだ。兄さんがほんの少し善意の気持ちを引っ込めてくれたり、適切な対処の仕方さえしてくれれば、今回のことは絶対なかったんだ。」
 雪男の言葉に藤本は手慰みのエアタバコをもみ消す仕草をする。話の合間には吸ったつもりで息を吐いていたのを雪男は見ていた。本当にこの人はと、雪男のこめかみがひくつく。
 雪男のジレンマを宥めるように、ひどく穏やかな顔をする藤本は言い切った。
「そんな燐なら、俺は大嫌いだな。お前は違うか?」
 その問いに雪男は答えられない。
「それを、はっきり言えないなら諦めろ。それが一番あいつにとっても、お前にとっても最良だ。」
「なら兄さんのことは、一旦は現状維持。それしかない、ということですね。」
 藤本は食卓に着いている雪男の手元を一瞥する。
今は帰りの遅い燐を残しての修道院の一同が夕食をとっている最中だった。そのときに燐についての会議めいたものが始まった。そしてそれが今終わって、再び夕食を食べ始める。
「いや。そのうち燐のほうからちゃんと帰らずにはいられなくなるぜ。だって雪男、弟のお前が心配になるだろうしな。」
「心配してるのは僕のほうだよ。」
 雪男以外の一同は雪男の席をちらっと見て苦笑いを浮かべていた。こっそりと雪男に気づかれないように目を逸らす。何言か言おうかと、何かを口のなかで咀嚼する者もいた。しかし藤本はそれを目顔で制している。それを口にするのはお前の仕事じゃないと言わんばかりに。
 燐不在の食卓がかれこれ半年続いていた。そしてその場は半年前と微妙に違ってきていた。燐がいないというだけでなく、燐が不在なことである変化がその弟に訪れていた。
「俺が保証する。明日必ず燐を夕食に参加させる。それ以降は、燐は門限の夕食時には帰ってくるようになるさ。ほれ雪男。こっち向け。」
「さっきから何こっちばかり撮ってるのかと思えば。何の悪ふざけなんだか。」
 藤本は家庭用のビデオカメラを構えて雪男を映している。燐のことについて話題が出る前、つまり夕食が始まった時点から藤本は撮影を始めていた。雪男はそれは燐を心配する修道院の人々を撮影して、兄に対する里心を引き出そうという算段かと、ほんの少し義父に呆れていた。
「さっき諦めたほうが良いなんて言ったのは、逆効果なんじゃないですか。」
「いや。大丈夫。俺が何年あいつとお前の親代わりやってると思ってんだ。このビデオを見れば必ずあいつは、夕食までに帰ってこずにはいられなくなる。」
 藤本はそう言うと雪男に向かってカメラを向けた。雪男は煩そうにそれに視線を向ける。しかし何も言わない。
「お前は気づかないだろうな。燐にとっちゃあ、これは衝撃映像なんだぜ。」
 藤本の言葉に首を傾げながらも雪男は残りの夕食を黙々と片付け始めた。
 
     *   *   *
 
「ただいま……」
「おかえり。」
「げ……。なんだよ。起きてたのかよ。」
 
 燐は藤本に対しては主義なのか知らないが無抵抗っぽいところがある。
こっそりと真夜中に教会の裏口から入ってきたところを藤本に出迎えられてしまった。一応はごめんなさいと言ったのだが、それで済まされないことは知っている。だけどごめんなさいを言う以外に、燐に出来ることはなかった。そして懺悔室行きのお説教が始まると思った燐は気だるそうに歩を進めた。
 藤本が連れて来たのは懺悔室ではなく居間だった。そこには夕食が用意されていた。
「さあ。お坊ちゃま。ビデオでも鑑賞されながら遅い夕食でもいかがですかね。」
 門限破りの馬鹿息子への相応しい待遇とは反対の、甘すぎる対応だった。そこで一筋縄でいかないのが自分の義父であることを燐は知っている。
「………なんだよ。ついに俺のことなんか諦めたのかよ。」
 燐は食欲はないが、淡々と夕食を食べ始める。今日も嫌なことがあったんだなと藤本はその様子から察していた。しかし燐は食べ物に当たる様子もなく、食事を拒否することもなく、綺麗な箸使いで食べていた。
藤本はそれに目を細めてしみじみと指摘する。
「――それにしても。お前は食事の仕方だけは上品だな。やっぱり料理作るやつってのは、作る者の心理が分かるぶんだけ、作られたものに敬意を払うべきだということが分かっている。だから食事は綺麗に食べるのが普通だと思っている。お前はそういう何気ない気遣いが出来るやつだ。」
「なんだよ。褒めるところがそれしかないからって、それでか……懐石されると思ってるのかよ。」
「それを言うなら懐柔だろ。」
 燐の泣き言を藤本は一笑する。そしてビデオをセットすると居間のテレビでそれを再生し始めた。
「これは今日の夕食の時に撮ったやつだ。お前の席だけ空席だ。虚しいだろ。」
「べつに。」
「お前が食ってるこれは、あのテーブルに並んでいたアレを温め直した。」
 それがどうしたんだと燐は藤本に目を向ける。それは藤本が見ても陰惨な目だった。燐だって本当はあの輪に入りたいけれど、自分のやらかした事件で掛けた迷惑の大きさを後の祭りの形で知ってしまっただけに、あの輪に入るのを遠慮しているのが見て取れた。だから修道院の人々が寝静まったころに、帰ってくるしかないと思い込んでしまっている。しかし画面の会話はそんな燐を案じている人々の会話が飛び交っている。
「なんだよ。こんなもん見せたからって、俺が反省すると思ってるのかよ。」
「そうだよな。余計なお世話かもしれないな。」
「どうせ俺は人と違って上手くやれねえよ。馬鹿だし。頭悪いし。」
「それ全部重複してんだよ。やっぱ馬鹿だな。お前。でもな、お前は見るとこ違ってるぞ。みんなが話してることが耳に痛くて聞きたくなくても、画面から目を逸らすな。ちゃんと画面を見ろ。」
 燐は意地になって画面を凝視する。何気ない燐の視線に、ズームされた雪男の姿が大写しになる。藤本が意図的に撮った場面だった。
「おい。ジジイ。なんだよこれ。」
 燐は綺麗に持っていた箸を取り落とし、呆然と画面の弟を食い入るように見つめていた。
「こ、こ、こ、こんなのって……。」
「なんだよ? なんかおかしいことあるか?」
「いや。ジジイ。分かるだろ? こんなことがあって、良いと思ってのんかよ!」
「なにが? 人にとっては、それはそれでありだろ?」
 テレビにはしかめっ面をして食事を摂る雪男がいた。ただ、食事を摂っているだけ。燐がその姿を見て驚愕しているとは少しも思っていないように、自然な動作で箸を口に運んでいる。
「嘘だあああああああああああああああああああ!」
 ついに燐の口から悲鳴が迸った。
「ジジイ。なんか、俺、ごめん……。」
「謝ることないんだぜ。これからお前がちゃんと夕食に参加してくれたら、俺はなんにも言うことはねえ。」
「わかった。わかったから。ちゃんと明日から夕食までには帰る。」
 藤本は燐の頭をぽんと叩くと、黙って居間から出ていく。
「俺の、俺の雪男が。ごめん。ごめんなさい。」
 燐はぶつぶつと呟きながら、画面の弟に縋りつく。相変わらず画面の中の雪男は黙々と夕食を食べていた。
 
     *   *   *
 
「ほんとに兄さん帰ってきた!」
「よお。今まで俺が悪かった。……みんな、今まで心配掛けてごめんなさい。」
 昨夜の義父の言葉を半信半疑どころか全然信じていなかった雪男は、夕食時きっかり食堂に現れた兄を見て、思わず身体を竦ませていた。
「だーから。言ったろ。あの映像には帰ってこざる得ない魔法がかかってた。」
「そこまでは言ってなかったでしょ。でもいいよ。兄さん、本当はちゃんと学校も行っておくべきだろうけど……。ちゃんと決まった時刻に帰宅するところから始めてで、いいよ。今日はこれ以上、説教みたいなことは控えるから。」
 辛辣なことを言いながら、雪男の口調の端々に甘さのようなものが窺えた。
「ああ。これからはちゃんと帰宅してお前と一緒にメシを食うからな、兄ちゃん。」
 燐の言葉にも弟を慈しむような気配が滲んでいる。その様子を藤本は何回も頷きながら奥の席から見ていた。
 じゃあ、いただきますと雪男は手を合わせて箸を取る。雪男の隣で燐はそれを横目でちらっと見た。雪男は久しぶりに兄と一緒なのが嬉しいのか、昨日のビデオのようなしかめっ面は浮かべていない。心から嬉しそうにしている。
 五分が経過した。すっと燐が席を立ち、雪男の真後ろに回る。
「雪男。箸はこっちな。」
 燐は雪男の左手から箸を取り上げて右手に持ち替えさせる。
「それから、こっちの左手は、ちゃんとお茶碗持って。」
 燐は方肘をついていた雪男の左手に茶碗を持たせる。」
「あと、箸は握るんじゃなくて、こう持つ。」
「ああ。そうだったね。」
 雪男の箸の先には唐揚げが齧りかけで突き刺さっていた。
「フォークじゃないんだから。箸で食べ物を突き刺さない。握らずに正しい持ち方をすれば挟めるだろ。兄ちゃんはちゃんと雪男に教えたよな。」
「あ。ああ。ああ。半年前までは覚えてたんだけど。兄さんがいなかったから忘れてたよ。」
 燐は雪男の言葉に少し泣きそうな顔をしたあと、皿や茶碗の間に広げられていたテキストやノートを閉じて食卓から追いやる。食堂に雪男が持ってきて、食事をしながら読んでいたものだった。
それは半年ほど続いた、ながら勉強のながら食いの習慣そのものだった。
「ご飯を食べるときに本を読むのはお行儀が悪いって、兄ちゃん、教えたよ……な?」
「ああ。そうだったかな。兄さんが半年間いなかったから、意識したことなかった。」
 雪男は何気なく兄を振り向く。兄は目頭を押さえていた。
「兄さん! 泣いているの? なんで?」
「いや。いいんだ。雪男、それとな。椅子の上で胡坐かくのやめような。」
「兄さんが言うなら、やめるよ。楽だったんだけどな。」
 うんうんと燐は繰り返している。双子の様子を藤本はにやにやと笑いながら見ている。修道士たちは昨日とは別の意味で苦笑いを浮かべていた。
「先生は燐の弱点知り尽くしてるよな。」
「俺らは思いも寄らなかったけど。考えてみれば下手な説得や説教より効くじゃねえか。」
「雪男は燐にとって生きた芸術品っぽいとこあったからな。」
「まさかわずか半年放置で、ああなるとは思わなかっただけに。」
 ひそひそ声で囁きあい思い知ったというように顔を見合わせる修道士たち。その間にも燐は雪男に一つ一つ修整を加えていく。
「雪男。ふりかけをかけたご飯をしつこくかき混ぜるもんじゃねえぜ。ご飯がねばっちまう。キャベツを、……ぼろぼろ落とすな。ちゃんと口の許容範囲で摘んで食えばいいんだ。ああああ!  コップもちゃんと持ち替えてから水飲めよ。テーブルに置いたまま口つけるんじゃねえよ……。ああああ……。俺の雪男が。俺の完璧だった雪男が……。」
 燐は泣きながら雪男の後ろで雪男の食事を矯正していく。今日の雪男は兄が久しぶりに夕食に参加して、なおかつ自分に泣くほど構ってくれるので、小言を言われながらも上機嫌だった。
 
     *   *   *
 
「ほら見ろ。お前の弟は半年放置しただけでこのザマだ。簡単に色んなこと放り投げるもんじゃねえことは、身に染みて分かったろう。」
 
 食堂から憔悴して出てきた燐に声をかけた藤本に、燐は恨めしそうに上目遣いに睨みつける。
「雪男はもともと食事に関しちゃあ、あまり関心のないガキだったからな。それを一つ一つ矯正して、完璧なテーブルマナーを仕込んだのはお前だったはずだ。ガキの癖に凝り性で、男の癖に料理が上手くて、男兄弟相手にヒギンズ教授を気取っていた、そんなお前。そんなつもりなかったと言わせやしねえぞ。お前は雪男を完璧な、お行儀が良くて、可愛くて、頭がいい、そんな存在に仕立て上げて悦に入っていた。そしてそれが半ば生きがいの一つだった。雪男はお前にとって完全なマイ・フェア・レディ! 空想や仮想でしか在り得ない淑女。弟相手にそれを達成したお前はすごい! 同じ男として俺はお前を賞賛する。」
 燐が作り上げたかったのは、御伽噺の中でしか在り得ないお姫様。ガラスケースの中の綺麗なお人形。藤本は十年以上、そんな兄の性癖を看過し続けていた。
「そうだよ。雪男は俺の自慢の弟だ! その昔、メシの食い方がなってなかったあいつを、俺が手取り足取り教えた。俺が兄ちゃんらしいことが出来る数少ないことだったんだ。俺はそのために専門書まで読み漁り、なのに……」
 燐は泣きそうな顔をして首を振る。藤本は、お前は馬鹿の癖にそんなとこばかり凝り性だったよなと相槌を打つ。燐は叫ぶ。
「半年間放っておいただけでああなった。完璧じゃねえよ! 普通だったら箸の持ち方とか食事の仕方は、幼い頃からの習慣がそのままなはずだ! だから小さいうちに箸の持ち方はしつこく躾けられるだろうが。中一の春と夏。たったそれだけの間に……にぎり箸、刺し箸とかが当たり前になるなんて、あり得ねえ!」
「でもそうなっちまったんだから、しょうがねえじゃん。」
「しょうがないなんて言うな! ジジイだってあのメシの食い方がおかしいって、気づいてただろ。注意出来ただろ。」
「いや。最初の頃は注意はしてたんだけどよ。俺相手だと一瞬ももたなかったな。」
 雪男は兄が側にいないと、箸を握って持ち、食べ物をそれで突き刺しかじり、茶碗をテーブルに置いたまま、本を片手に、椅子の上で胡坐を掻いて、……。それが約半年間。燐には、自分がいない間にそんな光景が普通になっていたことが恐ろしくて仕方が無い。
「燐。半年前の雪男はお前が作り上げた芸術品だった。でも雪男は生きた芸術品だ。放っておくとそりゃあ劣化する。お前は芸術家気質とは別に、愛情を込めて雪男を理想の弟に作り上げたんだろ? その愛が欠如した芸術品は製作者に放っておかれれば、何かを見失ったように壊れていくもんさ。」
 
 藤本はいいことを言っているが、中学生になって、燐には内緒の雪男の祓魔師認定試験に向けた特訓や勉強が激烈になっていて、雪男にしてもかなり時間的体力的にきついことになっていた。食事など片手間になっていても仕方ないくらいに。食事に神経を使う時間があれば、そのぶん悪魔薬学のテキストを読んでおくべきだと藤本は考えていた。
 雪男の中では兄を守るという大義名分のもと、インプットされた使命故に、兄が教えた大事なことを簡単に投げ出した。そして半年、やっと雪男の祓魔師修行も一段落した。しかし大事な兄の為に投げ出したものは元に戻らなかった。
 藤本はそれを口実に燐を更正させるネタにした。
 言うなれば全て藤本のせい。
 燐が中学に上がってますます周りと上手くいかなくなっても、雪男の認定試験を優先させたために放置せざるをえなかった。結果、燐は半年間門限を破り続け、その間にも雪男の劣化は進んでいた。目に見えて顕著なのは食事なのだが、燐の目から見ればもっと壊れて放置されたままの雪男の「ひどいこと」は見つかるかもしれない。
 全ては藤本の「見ざる・言わざる・聞かざる」が原因なのだが、当の藤本はそんなことは屁とも思っていない。藤本は親がやるべき精一杯以上はやったのだ。精一杯以上故にいろんな不具合が出ただけ。ただそれだけ。そんなのはどこの家庭の子どもにも出てくる問題だ。気にしていても仕方が無い。藤本の切捨て御免の思考は後に波紋を呼ぶだろうが、それはまだ先のことだ。それこそ今よりも成長した息子達が乗り越えるべき試練だと、神の身でもないくせに考えた。
 しかし藤本だって胸が痛まないわけじゃない。それだけはこの二人の息子達に分かって欲しいと思ってしまう。藤本の最善が、けして最高でないことは知っていて欲しい。
 燐は雪男に最善を尽くした。しかしそれは最高の結果を生まなかった。放っておけば簡単に壊れてしまう、そんなガラス細工を作っただけだった。
「まあな。雪男は寂しかったんだろうな。」
 そんな雪男の感情にも知らぬ存ぜぬを決め込んだ藤本だった。お陰で雪男はもう一歩で最年少祓魔師という称号を手にするだろう。何もかもが報われないわけじゃない。そしてそれが確実になったからこそ、藤本は今更になって燐を雪男のもとに呼び戻した。大いに嘆かせ大いに後悔させ、連れ戻した。なにもかもが行き当たりばったりのスマートじゃない最悪なやり方だった、だろうことは身に染みて分かっている。だが後悔はない。
「俺は、お前らを信じていたからな。」
「じ、ジジイ……。」
 燐は堪えきれずに藤本に縋って泣きじゃくり始める。最高峰祓魔師聖騎士・藤本獅郎。彼はここではただの困った父親でしかなかった。







雪ちゃんが壊れててすみません。兄ちゃんがフェチでごめんなさい。藤本がマナーに関してネグレクトでごめんなさい。高校に入ってからの続編はもしかしたら書くかも。雪ちゃんは果たして兄さんの人形姫から抜け出せるか?

拍手[7回]

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☆ss「ロンド」長編最終話 勝燐♀+雪男

 悪賢い悪魔に比べて人間のほうが一枚上手だった。遠目に窺った駅には、それとなく騎士団の息がかかったと思われる人間がうろついていた。
「雪男のやつ。もう感づいて人を手配しやがった。」
 網走市からは出ているはずなのに。それどころか札幌駅にいるのに。クロは最寄の駅から線路沿いに電車並みの速さでここまで来た。乗っていたのが悪魔の燐でなかったなら、身体がついていかなかったところだろう。
 燐は駅のトイレに入ってくる祓魔師の会話を聞いた。
「奥村下二級祓魔師はお使い中に迷子だってさ。弟の中一級祓魔師の奥村神父見習いから捜索要請があった。早急に保護してくれと。」
「まあ、北海道来てから一年以上網走市の端っこの教会からから出てないらしいし。しょうがないのかもしれないけど。」
 その会話を咄嗟に飛び込んだトイレの個室から聞いて、燐は「迷子だとぉ」と苦々しく呟く。
「よくそれで人が動いてくれるもんだぜ。北海道の祓魔師は暇なのか。」
 祓魔師の会話は続く。早くトイレから出て欲しいものだ。
「服装はシスターの制服を着てるから、すぐに見つかりそうだな。」
「それにしても、騎士団日本支部の名物ともいえるサタンの娘を見れるわけだから、ある意味役得な任務かもしれないな。」
「そうだな。噂の割には情報が少ないからな。なんか凄い可愛いとか、巨乳だとか聞くけど。本当なら間近で見てみたいもんだ。」
 人をパンダみたいに言いやがってと燐は青筋を立てる。可愛いとか巨乳とか、勝呂にさえも言われたことないのに。見も知らない連中に好き勝手言われる日が訪れるなんて思ってもみなかった。
「りん。あいつらこのふくきてること、しってる。」
「そしたら、他所の駅でもこの服で特定されちまう。」
 教会じゃないのだから、シスターの服を着ていたら、どっちにしろ目立ってしまう。祓魔師二人が出て行ったあと、燐はトイレから出て外を窺った。始発を狙っていたので、まだ外は暗い。
「よし。クロ、トンネルにいくぞ。」
 まだ切符は買っていない。朝も早いので、通勤時間ぎりぎりまでならクロの背中に乗っても大丈夫だろう。   何気にクロは北海道を横断するという悪魔ならではの偉業を成し遂げていた。人口密度の低い地域も多い北海道だからこそ為し得た荒業だった。
人通りが多くなれば、そこから先は歩いていくしかない。
「トンネルって、せいかんトンネルか?」
 燐は頷く。
「とにかく本土に渡ってしまえば、交通機関しかマークしてない雪男の目は誤魔化せる。」
 幾ら迷子でも網走から離れすぎている青函トンネルまでは人を配置出来まい。でも、本土に移っても雪男なら何か手を打ってきていそうだが、そのときはそのときだと燐は覚悟した。
 
     *   *   *
 
「ほんじゃあ坊。気をつけて行ってきて下さい。」
「ああ……」
 東京駅のプラットホームで預けていた荷物を志摩から受け取った。
「あいつの顔見て土産渡したらなるべく早く帰るつもりやけどな。」
「坊。そういうときには、なんやかんや帰れん理由こじつけて居座ってしまえばええんや。買っとった切符がどっか行ったとか、財布すられたとか。」
「阿呆。みえみえの嘘なんてよう吐かん。」
 そうやろなと志摩は言う。
「でも、燐ちゃんに言うべき言葉はちゃんと用意しとるんやろうな?」
 この時ばかりと志摩は真面目な顔で言った。
「当たり前や。ちゃんと返事も貰ってくる。」
「坊。気張りや!」
 勝呂は電車に乗り込む。志摩が手を振って頑張りぃと叫んでいた。
 
     *   *   *
 
「札幌駅にいなかったんですか。はい……心配をお掛けします。迷っていたと言っても、この付近に帰ってきているのかもしれません。あとは僕が探してみます。ああ……大丈夫です。もし手に余るようでしたら、本部へ後見人のフェレス卿に助けを求めますから。」
 名誉騎士の名前を出しておけば必要以上の追求を受けずに済むだろうと、この時ばかりは自分の後見人の名前を利用することも屁とも思わなかった。
「フェリーを使われるか、鉄道を使われるか。まさか空路ってことはないよな。」
 それならそれで鍵を使って学園で待ち伏せほうが早いのかと雪男は頭を捻る。しかしそれだと、メフィストに燐が修道院を抜け出したことを知られてしまう。そして燐の話を聞けば、自分がどれだけ捏造した事実を燐に話していたかもメフィストに全て知られてしまう。
 メフィストの呼び出しはいつあるか分からない。そのときすぐに対応出来なければ、何かあったのかと疑われるのは必至だ。しかしここを動かなければ、どっちにしろ燐が本土に渡ってしまう。
「メフィストの呼び出しは何とか誤魔化すかしてみよう。旅慣れない姉さんのことだから、とにかく最短ルートで追えば追いつけるかもしれない。」
 そうと決心したら雪男はすぐさま旅装に身を窶して修道院をあとにした。
「………」
 雪男が修道院をあとしたあと、人ならぬものが修道院へ近づいてくる。それは百年ぶりに訪れる気配だった。
 
     *   *   *
 
 燐はクロと一緒に線路沿いを歩く。普通の徒歩ではなかなか青函トンネルの入り口にたどり着けない。しかし悪魔の体力のお陰でその距離は確実に迫っていた。
「疲れはしねえけど。気が遠くなるな。」
「りん。それおなかすいてるせい。」
「そうだな。交通費浮いたぶん、なんか食っておけば良かったかもな。」
「クッキーあるじゃん。」
「あいつらへのお土産だけど、いっか。」
 缶も大きいし、三つもあるんだから。
 燐は線路の脇に腰掛ける。そしてリュックから牛乳パックとクッキーの缶を取り出した。
「さあ、食ったらまた元気出して歩くぞ。」
 ハンカチの上にクッキーを出す。食べるのが勿体ないと思っていたためか、腹八分にしても少ない量だった。クロも嬉しそうに大好きなクッキーを齧っている。口の周りを舐めているクロを燐は目を細めて見ていた。
「なんだか思っていたより大事になっちまったけどさ、あっちでみんなに会ったら、良かったって思えるよな。」
「もしかしてふあんなのか?」
「いや。ここまで来たんだから、そんなん感じてる暇ねえよ。」
 燐が眺めていたクロと地面の色が急に濃くなる。
 後ろを振り向くと見知らぬ男がいた。しかしどこかで見たような気がする。不思議と自分を探している祓魔師の一人だとは思えなかった。しかし誰かに似ている。
「なんやかや考えなくてもいいですよ。奥村燐。」
「お前は、騎士団の人間なのか?」
「騎士団にも所属していませんし、人間でもありません。」
「んじゃ、悪魔?」
 男は頷く。燐は頭に降って沸いた勘に従って声を発する。
「こんなこと言ったらって自分でも思うけど、お前ひょっとして、俺のこと助けてくれるつもりでここにいるのか?」
 悪魔の直感だった。男は困ったように首を傾げている。否定的なその態度にも関わらず、男は言った。
「確かに兄上には助けるようにって頼まれました。僕、アマイモンって言います。貴方、いや君は、僕に助けて貰いたいですか?」
 燐はアマイモンと同じように首を傾げている。助けてくれそうなのは嬉しいけれど、今は助けて欲しいとは思っていない。
「君一人より、僕という連れがいたほうが何かと有利に働くと思います。」
「いや、いいよ。」
「そう言われても、あれ? これは」
 アマイモンは燐のハンカチの上のクッキーを一つ摘むと、目の上で翳してから口の中に入れた。
「うまい。」
「勝手に食うんじゃねえ。」
「美味しいクッキーをもっと食べたいので、僕は君についていくことにします。」
「勝手に決めるんじゃねえ!」
「報酬はさっき仕舞った缶一個分でいいです。」
 三つしかない内の一缶丸々をこいつに寄越すつもりはない。しかしアマイモンは力づくで燐からリュックサックを取り上げてしまう。
「君はその猫又に乗って、目的地のトンネルを抜けるんでしょ。僕は君たちのあとを追いかけて走りますから。」
 どうでも燐のクッキー目当てに同行してくるつもりらしい。リュックを人質に取られてしまったので、アマイモンの同行を許可するしかないらしい。
「ちゃんとついて来れるんだろうな?」
「はい。美味しいクッキーと兄上に誓って。」
 悪気の無い返事に燐は呆れる。
 悪魔と悪魔と悪魔の珍道中が始まった。





これで網走編の最終話です。次は正十字突入編になります。

拍手[5回]


☆ss「エメロードアナザールート」最終話 雪アマ+シュラ

 アマイモンの持っている鍵で、ヨハンファウスト邸に三人は侵入した。不法侵入者が三人。特に周りをはばかるでもなく歩き回っているのに、何の警備システムも動く様子が無い。最初からそんなものは無いのかもしれない。
「兄上は大事なものや秘密のものは、自分の家には置かない人ですから。」
「肌身離さず持つのとは逆の心理ですね。」
 屋敷の裏。一見古井戸に見える場所が入り口らしい。井戸の周りをコンクリートの建物が囲んでいる。アマイモンを先に立たせてシュラと雪男も続いてそこに入る。
 中は別の次元になっているのか、井戸なんてものはなくなって埃っぽい部屋の一室になっていた。沢山の小物入れの箪笥が並んでいる。それは年代物らしい。その上には西暦らしき四桁の数字が刻まれたプレートが張ってあった。御伽噺みたいなロケーションだった。
「確か奥村燐が生まれたのは一九九……あった。」
 アマイモンは滑りの悪い箪笥の一つを開ける。その年のプレートの張ってある箪笥は五つか六つみられた。雪男からしてみれば、他の年のプレートより多いような気がする。
 アマイモンはその中から一つだけ取り出した。それは一枚の古ぼけた写真だった。保存状態はほぼ壊滅的。ようやく目を凝らしてみて、何が写っているか分かる程度だった。
「なんだこりゃ? えらく色も褪せちゃってる。」
「何年かしてから拾ってきたらしいですから。」
「どこから?」
 アマイモンはその問いには答えない。そしてシュラと雪男にそれを突きつけるように差し出した。
「これはどういうふうに見えますか?」
「女性が横たわっているようにしか……」
 一人の女が両手を組んで横たわっている。その両脇には赤ん坊がすやすやと眠っている。
「母親が寝てる隙に写真を撮ったのか?」
「いいえ。その女の人は死んでますから。」
 シュラと雪男は目を見開いた。そしてアマイモンは雪男と写真の女を交互に指差す。
「その女の人、お兄さんに似ていると思いませんか?」
「僕に?」
 あまりぴんときていない雪男に対して、シュラはああと声を上げた。その顔は今にも泣き出してしまいそうだった。
「この女、確かに良く見ると、黒子がやけに多いかもしれないな。」
 そこから三人は黙り込む。言葉を発することを誰もが躊躇った。周りの空気が、誰か義務を果たせよと訴えてくる。誰かがこの静寂を破るべきなのにと。
 その場でどれくらいの時間が経ったのか分からない。元々時間の流れなんてない部屋なのかもしれない。シュラは黙って部屋のドアのほうへ身体を向けた。一歩踏み出す前にアマイモンが呼び止める。
「ちゃんと、兄上と藤本が仕組んだ御伽噺の始まりを聞いて下さいよ。きちんと絵本の一ページ目からめくらないと、わけがわからないでしょう。」
 シュラが虚ろな目をアマイモンに向ける。雪男もシュラのほうを見たが、初めて見るような生気のない目に、雪男はぞっとする。
「ほっといてくれよ。私は絵本を読んで欲しい子供なんかじゃないから。絵本に縁もなかったし。」
 シュラは残りの話はそいつにしてやってくれと、アマイモンに言い残して部屋を去った。あとに残されたのは悪魔と、絵本の読み聞かせを待つような雪男だけだった。
「どうします?」
 その問いに雪男は答えられない。だから質問を質問で返してしまう。
「その御伽噺の作者は、フェレス卿と義父なんですか?」
「そうですね。あの人たちは親密なお友達同士でしたから。一緒に一つの物語を作りたかったんでしょう。」
 雪男は途端に一つ物語のあらすじが思い浮かんだ。それを迷わず口にする。
「人間として育てられた、優しい悪魔の子供が世界を救う。」
「優しい人間の弟と一緒に、です。」
 
 おちゃらけたようでいて強い父親。
 頭が良くてお節介やきな優しい弟。
 父親の周りの優しい人たち。
 悪魔の子供に戸惑って怖がる人々。
 でもそのうち、悪魔の子供の友達になってくれる愉快な仲間も出来るだろう。
 そして悪魔の子供にも好きな子が出来るかもしれない。
 それを見守るのは父親の親友の愉快で嘘つきな悪魔。
 
「兵器なんて言い方は方便なんですよ。そんなふうに言うから、兄上は奥村燐に近い人から誤解されるんです。まあ、自業自得でしょうけど。」
 シュラがこの場から逃げ出した理由が、雪男にはなんとなく分かった。生前の師匠の願いを拒否した自分を悔いているのだろう。
 藤本獅郎への思い故に、そんなことをしてしまったせいで、愛する男の一部さえ自分は手に入れられなかった。残してくれるはずだったもののほとんどを、あの悪魔に持っていかれた。
 それを理由にあの悪魔を悪者にすることは出来ない。
 御伽噺の作者の三人目になることを拒否したのは、霧隠シュラの確固とした意思だから。もう二度と藤本獅郎と同じ場所に立てないことさえも。
「お兄さんと、お兄さんのお兄さんは、引き離されることなく育てられました。同じように優しいお父さんの記憶を共有して、今こうやって同じ世界に生きています。その事実を弟はどう受け止めるのでしょうか?」
 雪男ははあーっと長く息を吐く。
「幸いなことだと言わなければ、僕は罰当たりでしょうね。」
 アマイモンは頷く。
「僕が読み聞かせ出来るのはここまでです。」
 アマイモンは雪男の腕を取る。
「さあ。落ち込んでいるお姉さんを追いかけて、何もかもが遅すぎることが無いことを教えてあげてください。」
「そうですよね。シュラさんだって遅ればせながら、兄さんの師匠を引き受けましたし。僕、昔からあの人のことを知ってるんですけど。兄に剣を教えるなんて奇跡だって思ったんです。」
 ドアを開けると元どおり薄暗い井戸のある暗い部屋。井戸の縁に腰掛けているシュラが宙を見ていた。
 
「あれ? もう終わり?」
「あなた僕が言うまでもなく、自分で答え見つけて立ち直ったわけですね。」
「いつ私落ち込んだっけ?」
 にゃははと笑いながらシュラは立ち上がる。親指を立てて雪男とアマイモンを振り返る。
「今度またこの面子で肉食いに行こうぜ。」
「お姉さん。ボク今度は甘いお菓子がいいです。」
「いいですけど、今度の祓魔師の給料が出てからにしてください。あと給仕役は二度としませんから。」
 えー? アマイモンとシュラは不平不満を口にする。波長が合ってるのは、どっちだよと雪男は心の中で文句を言った。






これでおしまいです。ちなみにお気づきだと思われますが、うちのメフィストはかなりお人よしよりの解釈を取っています。だからこそいろいろといぶかしむシュラと雪男でした。

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☆ss「エメロードアナザールート」④ 雪アマ

 尋問の舞台は焼肉屋になった。
 特に高級店ではない普通のオーダーバイキング食べ放題が出来る店だった。
「また牛ですか――」
 制限時間は百二十分。
「二時間で尋問が足りるもんなんですか?」
「そうだな。一人頭一キロは食わないと元が取れねえ。二時間食いまくるぞ。」
「いや尋問は!」
「雪男。お前なあ、肉焼く時間も込みなんだぞ。計算甘いと大損だぞ。」
 雪男はこりゃあ駄目だと思った。
「分かりました。僕が肉を焼きますから、あなたたちが存分に食べて下さい。」
 そう言って雪男は腕まくりをすると、運ばれてきた肉を網に乗せていく。
「雪男ちゃん。私はミディアムレアが好みだからね。」
「はいはい。」
 ふとアマイモンを見る。アマイモンは首を傾げながらも言い切った。
「僕は表面あぶっただけのほとんどレアがいいです。」
 ホテルでの愁嘆場をまるで感じさせない口調だった。雪男はそれに安堵する。
「それにしてもお前らも眠たかったんだな。結局私が起こしに行ったし。」
 いや。それはあんたが十二時まで飯を待ちきれなかっただけだろう。雪男は敢えて言葉にしなかった。余計なことを口にして上一級祓魔師に騒がれたくなかったから。
「食いながらでも尋問は進めましょう。シュラさん。」
「いやまず、お前は肉を焼け。そして私とこの悪魔に奉仕するんだ。」
 やっぱりその為に僕を巻き込んだのか。悪魔より可愛くないだけたちが悪いと雪男は思った。
 しかしまたアマイモンの世話を焼けるのは、雪男にとっては僥倖だった。シュラにはおざなりな焼き方で皿に盛ってやるが、アマイモンに対しては絶妙な焼き加減を見極めながら、おまけにふーふーと冷ましてやる甲斐甲斐しさを見せてやる。
「雪男ちゃーん? 私なんて、どうせどんな肉でも食うんだろとか思ってない?」
「え? ちゃんとミディアムレアでしょ?」
 シュラは頬杖をつく。
「そのふてぶてしさを、普段から見せてくれれば全然心配しないんだけどね。」
「なんであんたに心配されなきゃいけないんです。」
 シュラはいやあと誤魔化すように笑った。
「なんか悪魔とやけに波長合ってるからよお。でもまあ、取り越し苦労みたいだな。」
 シュラの目の前で雪男はアマイモンの口をナプキンで拭いてやっていた。
 あのホテルの一室でなんかがあったかもしれないが、この眼鏡はいつものような世話焼きの口うるさい眼鏡に戻っている。しかしいつもより断然穏やかに。それを良いと思うこそすれ、良くないこととはシュラは思わない。その相手が悪魔だったとしても。
 そんなシュラが感慨に耽っている間にも、雪男は交互というよりは二対一ぐらいの割合で、アマイモンとシュラの皿に肉を盛っていく。
「おい肉焼き係。私のほうの肉が少ないじゃないか。」
「アマイモンのほうがレアだから早く焼けるんです。」
「ああいえばこういう。それを普段から見せろっつーんてんだろうが。メフィスト相手にはへーこらするより、ふてぶてしく反抗的なほうが、あいつにはよっぽどうけるのによお。」
 アマイモンがシュラを凝視する。
「それほんとですか? 兄上はふてぶてしくて反抗的な方が好みなんですか? お兄さん。」
「さあ。真偽のほどは知りません。もしシュラさんの言うことが本当なら、僕は無意識のうちにフェレス卿からの厚意を受けたくなくて、従順で礼儀正しくしているのでしょう。」
 アマイモンは少し冷めた目で雪男を見ると、ぼそっと言った。
「お兄さんて、優秀だけど出世は遅そうですね。」
 それはじゅうじゅうと肉が焼ける音に掻き消えた。雪男も敢えて聞かなかった振りをした。シュラはにやにやと笑っている。その顔は、私は世渡りが上手いもんというドヤ顔だった。
「肉焼き係が癇癪起こす前に、本日のメインイベント。アマイモン、お前に訊きたいことがある。」
 開始から三十分強経過。雪男の卓越した肉焼きのお陰で、シュラとアマイモンは一応のノルマ一キロを消化した。あとは雪男の分の一キロを二人がかりで消化すればいいので、ゆっくり話は出来る。
「肉焼くのやめときましょうか?」
「アホ言え。さぼろうと思ってんじゃねえよ。肉焼き奴隷。」
「どんな身分制度――。ていうか残り一時間弱で足りるんでしょうかねえ。」
「たいした質問じゃねえんだよ。最初から言ってるじゃねえか。」
 仕方なく雪男はまた肉を焼き始める。シュラがどんなくだらない質問をしても、いつでも呆れる準備は出来ていた。
 シュラは質問のための口を開く。
「お前。お前の兄貴ことメフィストフェレスと、私の元不肖の師匠・藤本がどうやって知り合って、どんなふうに付き合ってきたか知ってるよな?」
 雪男は呆れるどころか、肉を焼く手を止めてシュラを凝視する。雪男の凝視が目に入っていないかのように、アマイモンは淡々と返す。
「知ってます。兄上は物質界に行かれた時から、父上とヴァチカンを二枚舌で言いくるめていましたから。僕のことを父上サイドを懐柔するための駒にしていました。だからある程度の情報は、僕には伝えられています。」
 シュラは思った通りだと言った。しかしシュラの表情は僅かに硬かった。
「奥村燐については、いつから聞かされていた?」
 アマイモンはその質問には表情を曇らせる。
「奥村燐が母親の腹に宿ったことが確定した頃からです。」
 シュラは雪男のほうに視線を向けた。雪男は多分目を逸らしたかったのだろうが、変なところで意地を張っているのだろう、頑なにアマイモンの横顔を凝視している。
「その当時はまだ、奥村燐なんて名前はありませんから。どちらかというと、母親のほうの名前ばかり聞かされてましたけど。確か――」
「いや。その辺の話はいいんだ。私が知りたかったのは、奥村燐をサタンに対抗する兵器に仕立て上げる計画を、あのバカ達が、本当に大真面目にやるつもりだったかどうかだ。」
 アマイモンは目を伏せる。
「大真面目じゃないと駄目でしょう。じゃないと、奥村燐を十五年間生かしておいた口実になりません。」
「だから口実だってお前、今言っちゃったよな。今。元から本気じゃねえってことだよな。あいつらは燐を兵器に仕立て上げるつもりはなかった。そうじゃねえのか?」
 アマイモンはシュラの口調にげんなりしている。
「お姉さん。現に兄上はあなたに、奥村燐を対サタン兵器としてヴァチカンに差し出したいと、おっしゃったらしいじゃないですか。」
「それにしては辻褄の合わないことが山のようにあるんだよ。」
 雪男には分かるよな。
 唐突な問いかけが雪男には遠く聞こえた。焼肉屋の煙で霞んだ窓ガラスに、死んだ義父の幻を見たような気がした。
「シュラさん。ここから僕が尋問を替わってもいいですか?」
「ああ。思う存分やれば? 元から私は前座のつもりだ。雪男がこいつとの追いかけっこに遭遇した時からな。」
 雪男は、ではとアマイモンに尋問を開始する。
「あなたは同じ兄弟のフェレス卿に特別な感情を抱いているから、フェレス卿と父の事情だけではなく、あの二人の感情も理解しているものと思っていいですね?」
 アマイモンはほんの少し迷ったように胸の前で腕を組んだ。
「理解。とまではいかないと思います。でもいろいろと察してました。」
 雪男は頷く。
「察しているだけでもいいんです。あなたはフェレス卿の使い走りのお人形さんじゃなく、ちゃんと意思あって彼に協力していたのですから。」
 アマイモンは腕を解く。そして雪男に申し訳無さそうに目を伏せて言った。
「お兄さん。かいかぶり過ぎです。兄上は口が上手くて頭が良くて、お兄さんみたいに誠実じゃない大嘘つきだから。ボクみたいに力が強いだけのバカは利用されるだけです。」
「そんなふうに自分を卑下しないで下さい。そんなつもりで言ったんじゃないです。お願いです。僕はフェレス卿をずっと見ていた、あなたの目を信じたいんです。だから、僕の質問に答えてください。」
 アマイモンは頷いた。雪男は長い前置きを終わらせて、本題を口にした。
「義父は、藤本獅郎は――。何故、兄を普通の子供のように育てたのですか?」
 アマイモンは黙っている。雪男は続けて言った。
「兄の思考を人間サイドに近づけたいという動機でも、一応の辻褄は合うかもしれません。でも兵器として育てるつもりだったんですよね? それならあんな普通の町にある、何の変哲のない教会で、人の温かさや優しさを与えて育てる必要なんてなかったでしょう。もっと人と隔離したような場所で、父と二人で心や身体を鍛えれば良かったんじゃないですか? 特別な能力のない僕は、それこそ一人だけ教会に預けられていれば良かった。僕は兄の兵器化計画には余計な存在ですから。その上、先に僕を祓魔師に仕立て上げるなんて、余計な労力もいいところなんです。」
 まるで燐を取り巻く世界と燐を繋ぐために、わざと回りくどいことをしているようだった。雪男はそう訴えている。
 燐の弟である雪男でさえも、義父とメフィストがしていることが、そういうふうに見えていた。
 雪男の言葉の続きをシュラが継ぐ。
「燐を本気で兵器にしたいなら、明らかに燐はスタートが大幅に遅れすぎている。人間の十五年を甘く見るな。もっと幼かったらもっと簡単に柔軟に対応出来そうなところを、敢えてまるで無駄な行程を積み上げて遠回りしている最中なんだ。あのバカどものぬるいやり方のせいで、こいつの兄貴はバカで感受性の強い、仲間思いの精神的マゾに育っちまったんだぞ。兵器としての能力も、炎ばかりいっちょ前で、コントロール一つ出来やしない。あいつらのやり方で上手くいったことと言えば、燐は人間の敵には絶対にならない。それくらいだろ?」
「それが、重要なんじゃないですか?」
 シュラはアマイモンに向かって箸を突きつける。
「お前悪魔の癖に。何言ってんだよ。」
「続きは、肉を食べ終わってからにしましょう。」
 アマイモンは雪男のほうを向いて肉の催促をした。雪男はあと一回と人差し指を上げた。
「僕と兄さんが引き離されなかったのは、父とフェレス卿の、どちらの考えなんですか?」
 アマイモンは雪男がトングで掴んだ肉をじっと見ながら、即答する。
 
「どっちも同じ考えでした。」
 
 食い放題。残り一時間。スパートには余裕過ぎる時間だった。
 そこからは何の会話もなく、雪男はひたすら肉を焼く。結局この店で雪男の口に入る肉はなかった。シュラとアマイモンは各二キロずつの肉を平らげ、十分に元を取った。






普通オーダーバイキングは90分ですが、切りのいい時間にしてしまいました。今回は「ロンド」といい、アマイモン特集な気がしてきた。

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☆ss「ロンド」長編⑤ 勝燐♀+雪男

「あ、危なかったぜ。」
 よろよろと燐はベッドに倒れこむ。その枕元にクロがいた。
「タイマン勝負なんて何年かぶりだったからよ。気合の出し方思い出すのに、ちょっちかかっちまった。」
 どこからかクロが燐の側に寄ってくる。
「りん。はくりょくすごかった。ゆきお、うごけなかった。」
「見てたのかよ。お前はよ。ちょっと派手な姉弟喧嘩だったけどさ。」
 雪男が聞いていたとしたら、後で涙で枕を濡らしそうな台詞だった。渾身の告白が姉にとっては弟がちょっとごねたぐらいにしか感じなかったらしい。
「あいつには散々迷惑かけたと思ってるし。俺もそろそろあいつ頼みっぽい生き方はやめるべきだな。」
 またも雪男が聞いたら、縋りつきたくなる決別の言葉だった。
 燐は何一つ弟の気持ちを分かっていなかった。そして最悪のルートの一つを、その気もないのに回避したことにも気づいていなかった。
「それを改めて考えたら、俺はこの網走で、ほけほけとシスターしてる場合じゃないような気がしてきた。」
 雪男の掛けた心理的な心の枷は燐の中でどうとでもなる、ちゃちな存在になっていた。所詮頭の中で考えていただけのことがいつまでも計算どおりに嵌ってくれるはずがない。日々の暮らしの中では、いつのまにか色んな価値観が刻一刻と生まれるのが当たり前だから。
「雪男のここ一年の説教の中では、今日のがすっげえ堪えたんだ。わかるか? クロ。」
「うん。なんかわかるような気がする。」
 猫又の言葉に燐はうんうんと頷いている。
 雪男の言うように、かつての仲間たちはいつまでも学園にいてくれるわけじゃない。正十字町にもいてくれるかどうかも分からなくなる。そして悪魔に関わる頻度が高くなれば、燐に対する見方も変わってくるかもしれない。
「あんなふうに言われちゃったらな、流石の俺もめげそうになったぜ。」
 燐はベッドのマットの下から一枚の紙を取り出す。それを眺めて燐は笑みを浮かべる。七つの名前が並ぶその紙は、燐の宝物だった。そしてその紙に書かれてない名前の持ち主を思い出す。
「勝呂――。」
「すぐろなまえない。」
「いいんだよ。名前なくても。」
 猫又のくせに字が読めるなんてと燐は呟く。どうせ暇つぶしにジジイが教えたんだろうと結論づけた。
「あいつ、俺のこと今どう思ってるのかな?」
 
 燐が再び呟くと同時に部屋のドアがノックされた。
「姉さん?」
「雪男?」
 燐はドアのほうに向かおうとしたが、弟の声がそれを制止した。
「開けなくていいから。僕、今姉さんの顔見たら、何するか分からないから。」
「ええ? まだなんかあるのかよ。」
「な、なんにもないよ。」
 それならいいんだと燐は安堵する。
「姉さん。頭ごなしに言ったことは謝るけど、僕の言ったことも可能性が無いわけじゃないと、ちゃんと理解して欲しい。それこそ姉さんが人間に失望するのは、僕だって見たくないから。どうしてもって言うなら、ヴァチカンが認めるような上位の祓魔師になってからなら、みんなに会ってもいいんじゃないのかな? たぶんあと、最低でも六年いや、五年くらいかかるかもしれないけど。」
 雪男からすれば、五年も経てば勝呂にしても燐にしても、相手への思いが薄れているのかもしれない。雪男は希望的な観測のもとに、燐へ告げた。
「うーん。そうかもしれねえな。」
「好意的に取って貰えて嬉しいよ。」
 それじゃ。雪男はゆっくりした足取りで部屋の前から去っていく。燐はベッドの上のクロのほうを向いて話しかけた。
「あと五年だってよ。」
「ごねん。あっというま。」
「お前にとっちゃな。」
 でも俺は違うんだよ。燐は天井を見上げて、「うん」と一人で頷いた。
「クロ。俺やっぱ、あいつらに……、勝呂に会いにいくわ。」
 学園に戻って、みんなに会って、そのとき自分に湧き上がった心のままに後のことは考えればいいやと開き直る。当然雪男はそんな燐を許さないだろうが。しかしここで躊躇ったら駄目だと燐は決めた。
 燐は自前のリュックサックに、持っていた紙と何枚かの着替えを詰め込む。
「夜冷えるかもしれねえからな。」
 壁に掛けていたシスターの衣装に着替え、その上からジャケットを羽織る。そして一年間封印していたも同然の降魔剣を手に取る。
 リュックを背負って燐は台所に向かった。さっきまで雪男と口論をしていた厨房のシンクの上の小さな照明をつける。
 暗い光の中にぼんやりと浮かぶのは、白い布に覆われた使われないスペース。それに掛けられた布を燐は一気に剥がした。
 
「くくく……。ははは。ふはははは! あっはははは!」
 
 まさしく悪魔というような哄笑が響く。燐の目の前にあるのは、十キロ単位の小麦粉が詰まった袋の山だった。
「クッキーはダミーだったんだよ。雪男。俺の本当の収入源は、この小麦粉を使って作った、うどんやラーメンだったんだ!」
 傍らに使い込まれた麺棒も何本か立て掛けられている。調理台には、面積の広いまな板。そして麺打ちのための大振りな包丁も布の下から覗いていた。
「出雲に感謝しなくちゃな。」
 網走に行く前に燐は、出雲から一つだけアドバイスを受けた。
『何があっても、先立つものは金よ。自分の自由になる金を確保しときなさい。』
 恋する乙女は手段を選んでいられない。
雪男の目を盗んで麺打ちに勤しみ、悪魔級の体力を生かして大量生産した麺を、地元の幹線道路沿いのドライブインに卸していたのだ。週二回ごとのペースだったので、本業のシスターやダミーのクッキー作りにも支障は来たさない。そして夜中にリヤカーを括り付けた自転車で十キロ先のドライブインに出荷していた。
 二人だけの教会なので、雪男の知らない死角が意外とあったのが幸いした。しかも雪男には任務という外出があったので、教会に来ることのない地元民との交流が、燐が思っているより少なかった。なので、このような奇妙なシスターがチャリを転がしているという評判も知られずに済んだ。
 もともと短期の荒稼ぎのつもりだった。雪男にばれそうになればすぐに撤退する予定だった。運良く今日までばれずにいたので、旅費三回分は貯金できている。思えば長い一年だったと燐は小麦粉の袋を眺めながらしみじみと思い出していた。
 
 それを空の上から観測する悪魔がいた。今は厨房の火元は全て沈黙しているので、外とあまり温度差のない窓ガラスは曇りもせず、灯りの点いた中の様子は丸写しだった。
「兄上。兄上はこのことを言ったのですか?」
 抑揚の無い声でアマイモンは言う。
「あのクソ妹は、どうやらこの修道院を抜け出す算段をしていたようですね。」
「クソって……。言いたくなる気持ちは分かりますよ。私はあの末妹が大人しくしているはずがないと、彼女の懐中の蛇である策士な弟が狡猾に企てた幽閉状態を看過していましたから。」
「だから。兄上はあのクソ妹が周りから押し付けられた状況を、ぶち壊す瞬間を待っていたのでしょう。」
 メフィストは笑う。
「どうしますか。アマイモン。こうやって私とずっと実況解説役を務めますか?」
「………。」
 アマイモンは爪を噛んでいる。メフィストはこういう時のアマイモンの操縦法を心得ていた。
「いや。じゃあ私が可愛いメフィスト犬の姿であの妹のお供についていきますよ。」
 メフィストは犬に変身する。
「待ってください。僕がいきます。」
 アマイモンは立ち上がった。犬化したメフィストを愛おしそうに抱える。
「兄上は節操がなくて下らないものがお好きですけど、僕はそんな兄上のことを、物好きもいい加減にしろとか、いい子にしている僕のほうを構えとかは思いません。ですが、兄上直々にあの妹を構うのはやめて欲しいです。」
「わんわん。(お前も余程のもんじゃないですか。)」
 
 
 メフィストとアマイモンが話している間にも、修道院の厨房にいた燐は我に返っていた。
「そうじゃなかった。俺、クッキー取りに来たんだった。」
 燐は冷蔵庫にしまったクッキーを取り出して、保存用の缶に移した。三つの大きな缶に厳重に封をして、それもリュックに詰め込んだ。
 そして何を思ったのか、同じように冷蔵庫にあった三角錐型の牛乳パックも何個か入れた。帰ってくるまでに賞味期限がきたらまずいとでも思ったらしい。日常的なことに無頓着な雪男がうっかり飲んでしまってはいけないと、妙な姉心だった。
「りん、みんなにおみやげか?」
「そう。クッキーはな。牛乳は、途中で飲めばいいだろ。手紙にも書いてあったし、志摩の奴に食わせてやらなくちゃな。」
「すぐろは?」
 燐はいきなり真っ赤になって顔を覆う。
「そんなことより。急がないと。」
 燐はなるべく足音を立てないように、教会の玄関とも呼べる礼拝堂に急ぐ。途中で雪男に置手紙でもしようかと思ったが、そんなものを置いていっても行き先は特定されるし、後から確実に叱られるので、潔く何も伝えずに出て行くことにした。
「チャリは、使わないでおこう。」
 夜の闇が隠してくれるのでとクロのほうを振り向き頷く。クロも待ってましたとばかりに、本来の巨大な姿に変わった。
「りん。せなかにのれっ。」
「おう! じゃあ駅まで頼むわ。」
 クロは燐と一緒に暇な時には地図や路線図を見ていた。いつかは本土に渡るのだから、道を知っているのは損ではない。  しかし二人のいう駅の意味は、とてもざっくばらんで、適当そのものだった。
「とにかく始発まで走って、行き着いた駅から電車を使おう。それなら雪男に特定されずに済む。」
「りん、わるがしこい。あくまみたい。」
「悪魔なんだよ。俺は。」
 二人は夜の闇に溶け込んで初雪がまだの網走の道を走り抜けた。
 
「まったく一年も待たせて。……まあ、いいでしょう。」
 犬になったメフィストはいつのまにか地面に下ろされている。そして一人取り残された。
 






姉さん印のうどんは竹さんの発想です。柴はクッキーまででした。

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☆ss「ロンド」長編④ 勝燐♀前提雪燐♀

「姉さん。ただいま。」
「てめえ、今頃帰ってきやがって! ていうかなんでこんなに早く帰ってこれるんだよっ。」
「姉さん、何か忘れてないかい?」
 雪男は一つの鍵を翳してくる。祓魔師御用達の魔法鍵だった。本当はこれの存在を知らせたくなかったが、辻褄が合うように会話を持っていくためには仕方が無かった。
「帰りはこの教会への鍵を使ってそのまま帰れるんだよ。」
「それにしたって早いじゃねえかよ。」
 本土に渡るにも一日がかりじゃねえのかよという疑問にも、雪男は別の鍵を翳す形で答えた。
「ちっ。」
 祓魔師としてそれなりのキャリアのある弟には、特別な鍵を使う許可が下りている。この教会で留守番しかさせて貰えない自分とは身分が違う。姉の恨めしそうな目を尻目に、弟はそういえばと言って話題を摩り替える。
「ボイラーの調子が変だったの言うの忘れて出てしまったけど、大丈夫だった?」
「大丈夫じゃねえよ。爆発しちまったから、業者呼んで新しいのを俺のへそくりで買ったよ。」
「そう。それは災難だったね。」
 災難で済むのかよと燐は思った。せっかくの旅費がほぼ丸々故障したボイラーに持っていかれてしまった。クッキー作りで細々と貯めた金だったのに。またほぼ一から貯金しなくちゃいけない。
「姉さん。」
 雪男は落胆している姉の肩に手を伸ばす。顔を俯けて髪の間から見える口元がかみ締められている。
「姉さん。」
 実はボイラーが故障した原因は雪男による故意だった。目的は言わずもがなで、燐の貯金を減らすため。任務もこじつけの嘘だった。
 業者と燐の会話で、ボイラーは実は新しく作られたものだと知ったときは、正直言うと故障が人為的原因であることがばれるかと肝が冷えた。しかしそれが幸いして、新しく購入したボイラーの価格は姉の手元にある貯金額ぎりぎりだったので、即金で支払われ雪男の目的は果たされた。しかし何度も使える手ではなかったので、これで安心することは出来ないが、とりあえずある程度の時間は稼げそうだ。
燐は相変わらず俯いている。それには心が痛まないわけじゃない。
「姉さん?」
「雪男!」
「はいっ。」
 燐は顔を上げると弟の目に焦点を合わせてきっと睨んでくる。
「お前ひょっとして、正十字学園に通じる鍵とか持ってるんじゃねえのか?」
 一瞬、ボイラー故障の犯人がばれたんじゃないかと思った雪男は上ずった返事をしてしまったが、それを聞いて呆れるように笑うしかなかった。
「持ってんだろ?」
「持ってたらなんなんだい?」
 燐は手の平を上に向けて雪男に突きつけた。
「貸せよ!」
「貸せないよ。」
「なんで?」
「姉さんは鍵を所持する許可を持ってないから。」
 下二級祓魔師に渡せる鍵ではない。しかし雪男に同伴すれば使えるのも同然だが、雪男がそんな情報を姉に言うわけがない。
「ちょっと貸してくれるだけでいいんだよ。こっそり使って絶対にばれねえようにするから。」
 食い下がる姉。弟は自分に都合のいい情報を開示する。
「姉さん。この鍵は使用者の記録が残るんだよ。」
「そんなの、誤魔化しゃあいいじゃねえかよ。」
「そこまでして鍵を使って姉さんは何をしたいの?」
「みんなに、会いたいからに決まってるだろ。」
 それならなお更駄目だと雪男は告げる。
「そんな抜け道すれすれの手段で会ってくれても、みんな迷惑するんじゃないのかな。一年前なら塾仲間だったかもしれないけど、そろそろ進路のこともあるし。悪魔の姉さんと関わったことがあるなんて、隠したがる人もいるんじゃないのかな。」
「そんなことねえ!」
「言い切れるの?」
「だって……。関わりたくない奴の手紙に、どうして律儀にみんな返事返してくれるんだよ?」
 雪男に掴みかかろうとする燐の腕を、雪男は乱暴にならない程度に振りほどき、その手首を掴んだ。
「そうだね。彼らはみんな優しかったからね。でも、優しさにも限度があるんじゃない? 彼らと知り合いだった時間より、離れていた時間のほうが長くなってるんだよ。もう、いい加減夢は見ないほうがいいんじゃないか。姉さんには僕がいる。僕なら、この先何十年死ぬまで、姉さんのことを守ってみせる。」
 燐は絶句する。離れ離れになった仲間の顔が、記憶している声が、遠ざかっていくような錯覚を覚える。
 一度考え出すと止まらなかった。今まで考えないようにしていたからかもしれない。手紙が送られてくることは現実だけど、それがいつまで続いてくれるのだろうか。みんなが学園にいるのは、あと一年と少しくらいしかない。その期間が過ぎれば、祓魔師として本格的に活躍するだろう。
 雪男が燐の顔色から察したように言葉を続けた。
「彼らはより一層、悪魔との戦いに関わっていくんだろうね。姉さんと同じ悪魔を相手取って。だからそのうち、姉さんに対する認識が変わるかもしれない。」
「わかったから!」
 燐は大声で雪男の言葉を遮る。そしてその脇をすり抜けて部屋を出て行こうとしたが、雪男の腕に捕まえられた。
「わかってないだろ。そんなやけくそな声出して、はしたないよ。どうせ僕に対して反抗的なことを考えてるんだろ。」
「反抗的ってなんだよ。同い年だし、俺が姉なのに。お前がすごく優秀で、立場も上なことは分かってるけど。」
 燐に圧し掛かる劣等感。とうの昔に雪男はそれを知っていた。だからこそ苛立つ。
「そうだよ。それが僕に対する反抗心の根拠じゃないのか。少しは立場とか弟とか、そういうのを捨てて、姉さんを心配する誰かの言葉を、素直に聞くべきじゃないのかい?」
 それを言われると燐には痛い。
「雪男のことは頼りにしてるし、今までだってずっと有難いって思ってた。」
「だったら僕だけでいいだろ!」
「お前には俺だけかよっ。外に友達とか、好きな子とか、考えたことないのかよ!」
 雪男はぐっと燐の腕を引き寄せた。次の瞬間、燐は雪男の胸に抱きしめられる。
「僕には姉さんだけだよ。姉さん以外に何にもいらない。姉さんがいれば、何にも欲しくない。」
 燐は頭がくらくらする。
「姉さん。僕だけのものになってよ。」
 雪男の体格によって燐はテーブルに押し倒される。
「雪男。お前何する気なんだよ?」
「姉さん。好きだよ。」
 雪男は思いつめた目をして顔を燐に近づけていく。緑がかった青い目に燐自身が映る。小さいときから弟のこの目が大好きだった。
 何もかもがお揃いじゃなかった姉と弟にとって、目の色だけが双子らしいお揃いさ加減だったから。小さい頃の雪男は、燐の目の色を、海の底の色みたいと言って褒めてくれたことがある。燐はそれに対してお前の目は、昼間の空の色だと頑張って褒め返した。
 雪男の目の中で途方もない空の中に、自分は閉じ込められている。雪男も燐という海の青に、溺れていて浮かび上がれないのかもしれない。
 このままでいたら、自分たちはどうなってしまうんだろうと、燐は恐怖する。弟があの小さな頃と同じには見えない。いつのまにか燐の知らない男になっている。
「ずっと好きだったんだよ。姉さんを守ろうって思ったから、弱虫でいじめられっ子だった僕から卒業出来たんだ。姉さんの為に強くなれるのが嬉しかった。」
 雪男の手の力が少し緩む。その微笑みは優しいけれど、吐かれる言葉は悲痛な叫びだった。
「姉さんを守れるのは、僕だけだろ? そういってくれよ。勝呂君は姉さんに何もしてくれてないじゃないか。いい加減、夢から覚めてくれよ。お願いだから――。」
 僕だけの、と雪男の唇が動いたあと、それは燐の唇に近づけられた。
 
「やめ、ろぉ!」
 
 雪男は反射的に燐から離れる。燐は青い炎を一瞬ちらつかせた後、踵を返してドアに急いで近寄る。背後から雪男にまた捕まらないように、雪男のほうを向いたまま燐は後ろ手でドアを開けた。
「お前なあ! 間違ってるとは言わねえけど、そんなんでこの先やっていけると思ってるのかよ! 俺だけ? お前だけ? そんなん駄目に決まってるだろ! お前が、俺のことに一生懸命だったことに気づいてやれなかった俺も悪かった。だからっていつまでも何十年も、この先縛られなくてもいいんだよ!」
 雪男は何かを叫ぼうとしたが、燐の迫力に押されて声が出ない。
「お互いに縛りあわなくても、俺はお前が必要としてくれるなら、この先も絶対側にいる。忘れるなよ。俺はお前の姉ちゃんだからな!」
 姉がどたばたと廊下を走って去っていく。雪男は今までの狂ったような熱が冷めたのか、台所の床にへたりこんだ。
「あー…。やっぱり僕は姉さんに勝てないや。」
 卑屈な自分の言葉を、願いを、歪んだ思いを、見事に一蹴してみせた。一年前には考えられなかったことだ。
『縛りあうしかないんだよ。』
 なんだかんだで、ずっとあの言葉に苛まれていた。勝呂に姉を取られてしまうかもしれないという恐怖に、ずっと怯えていただけの自分が恥ずかしい。
「姉さんも成長してるんだ。それに比べて僕は――。くそう、藤堂三郎太め……」
 冷静に考えれば、あの狸の言葉に踊らされていたかもしれない。何が縛りあうしかない、だ。実の姉だということを承知で好きなのに。それを負い目みたいに考えさせた、あの男が憎い。
「姉さんは僕にとって、負い目になんてなり得ない。」
 途端に全てが茶番じみて馬鹿馬鹿しい。だけど――。
「姉さん。柔らかかった……」
 手にまだ姉の感触が残っている。こればかりはこの姉弟喧嘩に感謝するしかなかった。
 




雪男と姉さんの喧嘩回でした! 危機一髪。

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☆ss「エメロードアナザールート」③雪アマ

 世界が全てぼやけて歪む。今の気分と相俟って眩んだ視界に映るバスルームのドアの向こうで、水を撒き散らすような音が聞こえる。
 バスルームの扉を開けると、湯気の向こうにアマイモンがバスタブの中に座っていた。バスタブもあつらえたかのように雪男とアマイモンの男二人が使っても左程狭くないという大きさだった。何から何までどうしてこんなに至れり尽くせりなんだろう。
 雪男は洗面器で湯を掬ってかけ湯をする。そしてアマイモンの隣に失礼しますと、バスタブの中に入った。バスタブの湯があふれ出す。
「僕が入っても狭くないですか?」
 わざとらしく尋ねてみる。アマイモンは横に首を振る。そして雪男のほうに身体を向けてきた。
「こうやってお風呂の横に沿って並んでいると、二人とも向こうの壁のほうを向いてしまいます。お兄さんもこっちのほうに向いて下さい。」
 それじゃ足が触れ合ってしまうじゃないかと雪男は内心焦る。しかしここで乗らなかったら、自分が小さい男のようで余計恥ずかしくなる。雪男はむすっとした態度を装いながらアマイモンと向き合う。
「足伸ばしてもいいですか? お兄さん。」
「いいよ。」
「お兄さんも足伸ばしてもいいですよ。」
 お互いの足の間に足が並ぶ。互いの足の先に急所が当たりそうだった。とにかく間が持つ間はこうして、身体を温めて早いところ洗い場で身体を洗ってしまえばいいんだと雪男は思っていた。
 アマイモンは見るでもなく雪男の身体に視線を向けている。そう見えていたが、視力の悪い雪男の裸眼ではいかんとも判断しがたい。自分もぼーっと輪郭がかすんでいるアマイモンに目を向けていた。
「お兄さん。そんなに見たら恥ずかしいです。」
 雪男は滑り落ちるようにバスタブの水面に潜ってしまった。うっかり鼻の穴に湯が入って痛い。再び水面から出ると、アマイモンが自分に向かって手を差し伸べていた。
「お兄さん。大丈夫ですかっ。」
 腕を引っ張られて抱き寄せられる。かはっと咳き込む雪男の背中をアマイモンは擦っていた。
「し、失礼。そんなに見たつもりはないんですけど。あー、ひょっとしたら一人ずつ入ったほうが良かったですかね? 気がつかないで、すみませんでした。」
 アマイモンの腕が雪男の身体を掻き抱いた。
「恥ずかしいけど、嫌じゃないんです。」
 何。この相手が燐だったりしえみだったりしたら、とてつもなく嬉しい場面は。
 雪男は湯あたりしたように目眩がする。見栄を張って上級悪魔と裸の付き合いをしようなんて十年早かった。
 霞んだ視界の中でアマイモンは優しげに微笑んだような気がした。気がしただけで、本当はいつもの無表情かもしれない。何時の間にかアマイモンの両足が雪男の身体を跨いで、上体が雪男の上に覆いかぶさっている。敢えて見なかったことにした尻尾が嬉しそうに左右に揺れていた。
「こうしているとお兄さんが本当のお兄さんみたいです。」
「フェレス卿ですか。」
 それは勘弁して欲しいところだった。
「違います。僕がいつも考えていた、こんなお兄さんだったらと思うお兄さんなんです。」
 そう言ってアマイモンは雪男の首筋に鼻先を擦り付ける。子供のような無邪気さの中に、なんだか淫靡なものを感じさせる。
「悪いことするのは、互いの兄に連絡しない程度にしましょうよ。」
「悪いことですか、これ?」
 まだ悪いこととは確定していない。雪男は駄目もとで悪魔を諭してみようとする。
「頭の中の理想のお兄さんは、所詮は偽物ですよ。いつもあなたにそっけないお兄様が、あなたにとっての一番の兄じゃないんですか。あのどうしようもない頭の悪い兄が、僕にとっての唯一の兄であるように。」
 わかってますよ。
 アマイモンは雪男から離れて元どおりに向かい合う形に戻った。意外と素直だ。雪男は肩透かしを食らったように呆然としていたが、そろそろ身体が温まったのでアマイモンに提案してみる。
「僕で良ければ身体を洗って差し上げます。」
「ありがとうございます。」
 二人はバスタブから出た。
 
     *   *   *
 
 雪男とアマイモンはバスルームから出た。
 雪男はふわふわのバスタオルでアマイモンの身体を先に拭いてやった。アマイモンは上目遣いで雪男をずっと見ていた。その視線がこそばゆくて逃げ出したくなる。次に自分の身体を拭いて着替えはどうしようと悩む。さっそくあの普段着を着るのは抵抗がある。せめて身体から立ち上る湯気が収まるまでは、もう少し楽な格好をしておきたい。
 ホテルに準備してあったのは浴衣とバスローブだった。バスローブを見ないふりして浴衣を手に取る。何が分かれ目かというと、単純に露出度とイメージだった。
 今まで風呂場で散々、生足や生乳やらを互いに見せ合っていたのに、今更床下三十センチの露出部分に拘る必要はないはずだ。しかし和服のほうが若干防御力は高いような気がする。とりあえずこの目の前の悪魔に着せてしまおうと思った。
「アマイモン――。」
 悪魔は既にマッパで脱衣所からベッドルームに向かっていた。雪男は溜息をつきながら、先に自分が着替えてアマイモンの分の浴衣を抱えて後を追う。
「裸で部屋の中を歩き回っちゃ駄目ですよ。湯冷めもしますし。」
 方便だった。ちゃんと部屋は空調が行き届いている。しかもアマイモンはいつのまにかベッドの布団に包まっていた。
 雪男は片手に浴衣を持ったままアマイモンに手を伸ばす。
「えいっ。」
 アマイモンは差し出した手を取ってくれた。しかし強引に腕を引っ張ってきた。そして顔を雪男のほうに寄せてくる。もう少しで口と口がくっつきそうだった。
 咄嗟に雪男はあっち向いてほいの要領で上を向く。
「どうしたんですか。お兄さん。」
 何を当たり前のように訊いてくるんだ。この悪魔は。そんなふうに雪男は思った。
「どうしたんですか、じゃないですよ。あなたどういうつもりなんですか?」
 アマイモンはきょとんとしたように首を傾げる。
「まだ時間はありますから、暇つぶしにセ――」
「うわあ!」
 雪男はアマイモンの口を両手で塞ぐ。その手をべろりと舐められた。再び雪男は悲鳴をぎゃあっと上げた。口が自由になったアマイモンはここぞとばかりに言ってくる。
「だから、お兄さんとセックスしたいなって。」
 大悪魔の癖に小悪魔みたいな言い草だった。
「あなた。さっき僕の言葉に納得したんじゃなかったんですか? あなたにとって、僕はお兄様の代わりにはならないって言ったじゃないですか。」
「それとは別腹です。ていうか、一緒にお風呂に入った男の人に欲情しないなんて、そんなの悪魔らしくないと思います。」
「それこそ僕なんて、成り行きで悪魔と交わったら祓魔師失格です。」
 ここはもう背に腹は変えられない。シュラに助けを求めようと思った。しかしアマイモンは雪男の手首を掴んでうっとりした目で見てくる。
「成り行きで悪魔の僕をお姉さんから助けて、成り行きで悪魔の兄上の頼みごとを聞いて、成り行きで悪魔の僕と朝ごはん食べて、お風呂にまで入ったのに。今更そんなこと言わないで下さい。」
 アマイモンは雪男の腕を引き寄せると、その手の甲に口をつけた。
「優しくするなら、とことん優しくして下さい。悪魔とか人間とか関係ないでしょう。あなたは僕のこと、少しは可愛いって思ってたでしょ? お風呂に入っているとき。自覚はなかったようですが、凄くそわそわしてたでしょ。」
「僕が若造だからです。」
「違いますよ。お兄さんは、お兄さんの上にいる奴らのように聖人面した偽善者じゃありません。悪魔も人間も関係なく受け入れられる優しい人です。」
「僕は今更ながら、優柔不断な駄目な自分を自覚していますよ。」
「情に絆される様なうっかりさんじゃないと、優しい人にはなれません。」
 雪男は頭の中では、これは悪魔の甘言だと言い聞かせている。自分の夜からの行動は、ただ流されているだけの優柔不断で、行き当たりばったりで後先を考えていなかっただけに過ぎない。
 それでも。とりあえずは言ってみる。
「そんな大層なことを僕に求めないで下さい。僕だって都合が悪いことからは逃げたいし、保身も考えます。」
「だったら何も問題はありません。僕はお兄さんの不利になるようなことは何も言いませんし、しません。ちょっとここだけで、お兄さんの言う『悪いこと』をお兄さんと一緒にしてみたいだけです。」
 アマイモンはいじらしいように雪男の腕をいじっている。
 午前九時三十分。シュラの指定してきた時間からまだ遠い。悪いことをして、それを誤魔化す為の時間は十分にある。逆に悪いことは本当に回避し難い時間だった。
「あなた本当に、人間なんかに抱かれて平気なんですか?」
「悪魔との相の子を産むのはいつも、人間ばっかりだと思っていたら心外もいいところです。悪魔だって人間の子を孕みます。」
 そのあとアマイモンは補足を入れた。
「特殊な場合ですけど。」
「特殊ってどんな場合ですか?」
 アマイモンは一旦口を開きかけたが、思い直したように黙った。
「それは悪魔の弱点を言うことになりますから。言いません。」
 そして雪男の両腕を取って自分はベッドに仰向けになる。さっきのように腕を拘束されたわけじゃないのに、余計に回避できなくなったような気がする。
アマイモンの上に覆いかぶさって、両手の間にはアマイモンの顔がある。アマイモンはすっと目を閉じた。
「本当に悪魔は誘惑するのが上手ですね。」
 アマイモンの口にキスをする。アマイモンはくすくす笑う。
「初めての人とは上手くいくかどうか……」
 語尾をぼやかしてみたが、初めての人どころか雪男にとっては性行為自体が初めてだった。こんな時にも予防線を張ってしまう自分が心底矮小に見えてくる。
 しかしアマイモンはそうではないだろう。なんだかすごく経験豊富そうな気がする。その顔から到底想像は出来ないが。
「大丈夫です。お兄さんが思うとおり、やりたいようにやっていいんです。」
 そしてアマイモンは雪男の首に腕を回してぽつりと言った。
「僕は、お兄さんのお兄さんの身代わりでいいですから。」
「そんなっ……」
「そうでなければ、僕が無理矢理お兄さんに強請ってしまったような気がします。」
 なんでそんな寂しいことを言うんだろうと、雪男は言葉が喉から出掛かった。メフィストに対する思いの慰めとして雪男に抱かれるわけじゃないと言った割には、雪男のそういうままならない思いの代替品で良いと言ってくる。そういうふうに言えば、雪男が気兼ねを無くすると思っているのだろうか。
 悪魔なのだからけして貞操が固いなんてことはあり得ないのだろうけど、まるで初心な小娘のような言い草だった。アマイモンは下から掬い上げるように雪男の頬に触れる。
「お兄さんがとても、しんどそうな顔してるからですよ。」
「プレッシャーです。正直言うとこういうの初めてなんですよ。」
「え?」
「そこ驚くところですかっ。ていうか、人間の十五歳じゃ普通の部類ですよ。」
 そんなもんなんですか。アマイモンは、その無表情からは窺えないが呆れているのか、感心しているのか分からないような態度だった。
「じゃあ。こうしましょう。」
 アマイモンは起き上がって雪男に抱きつく。
「僕もお兄さんを触りますから。お兄さんも僕のこと触ってください。」
 とんでもなく気を遣わせてしまった。とりあえず指と指を絡めてみる。アマイモンがくすっと笑う。対面の悪魔を見てなんだかいけそうだと思った。
アマイモンの口が首筋に触れてきたので、雪男もアマイモンの首筋に口を付ける。悪魔なのだから人肌とは言ってはいけないのだろうが、生の肌同士が触れ合うのは気持ちいい。思わず腕に力が入って、ぎゅっと抱き締めてしまう。
「お兄さん。」
 アマイモンの甘い声が耳元で吐かれる。
「好き、です。」
 まだ半分心に嵌っている箍を外してみた。なんだか分からない内に、アマイモンの身体のあちらこちらに手を這わせていく。その度に上がる声にますます煽られる。
「お兄さんが触ってくれて、嬉しいです。その……気持ちいい、です。」
「えーと……僕なんか。あなたが今まで相手をされた人たちに比べたら、全然そんなことないと思います。」
「そんなの、とっくの昔に忘れました。」
「え?」
 今度は雪男が疑問の声を上げた。情事に対して淡白なのか、見かけ以上に薄情なのか測りかねた。いや、でも。自分の拙い触り方に対して、また気を遣ったのかもしれない。
 アマイモンはごめんと呟く。
「忘れたというのは。最後にしたのは、二世紀以上前だからなんです。」
「ええええええ?」
 人の人生の二回分以上の年月を、エッチ無しで悪魔が過ごしてきたなんて信じがたい話だった。しかしアマイモンが嘘をついているようには見えないし、嘘ならもっとざっくばらんな数字を持ってくるところだろう。
「二百年。そりゃあまあ……」
「特に我慢していたわけじゃないんです。兄上が物質界に行ってしまわれてから、僕が男を引っ掛けても小言を言ってくれる人がいなくて、途端につまらなくて堪らなくなったんです。」
「兄上、ね……」
 またメフィストかと雪男はアマイモンに凭れかかる。こう何度も重なると脱力してしまう。
「あなた。僕との情事については誰にも言わないと言いながら、ちゃっかりお兄様には言うつもりなんでしょう。」
 雪男はアマイモンを引き剥がして、脱がされかけた浴衣の襟を掛け合わせる。アマイモンはぽかんとしていたが、横を向いてしまった雪男に縋り付いてきた。しかし雪男は平淡に告げる。
「あなたはお兄様の気を引きたくて、チャンスがあったら物質界で男を引っ掛けるつもりだったのでしょう? 僕はちょうどいいカモだったわけですね。」
「ちがいます。なんでそんなこと言うのですか?」
 
「あなたが悪魔だからです。」
 
 無邪気で可愛くて頭が悪そうに見えて、とても狡い。
 雪男が誰よりも身近な悪魔だった燐を見てずっと、とうの昔から十分に理解していたつもりだった。なのに、もう少しで誘惑に乗ってしまいそうだった自分が情けない。
「あなたが悪いわけじゃありません。僕だってあなたに付け込んだようなものです。本当にごめんなさい。」
 アマイモンはくるっと後ろを向いて、ベッドの端に寄っていた毛布を頭から被る。
 
「でも、抱いて欲しかったです。」
 
 か細い声が中から聞こえた。雪男は縋り付いて甘やかしたくなる言葉を拒絶する。
「僕は悪魔を抱いて、これからも平気な顔して祓魔師でいられるほど、要領が良くて強かな人間じゃありません。あなたを失望させたのは残念ですが、僕の為に我慢して下さい。」
 毛布の膨らみが何度も上下する。アマイモンが健気に頷いているんだろう。本当に可愛らしくて誘われてしまいそうだ。
 雪男はそれにわざと乗らないようにして、隣のベッドの布団の中に入った。






今回は人間の雪男が一枚上手でした。というか地の王が譲歩してくれただけでしょうか?
ユニットバスが嫌いなのはシュラさんだけじゃない。私もです。

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☆ss「ロンド」長編③ 勝燐♀

 その男はいつも物知り顔でにやにやと雪男の顔を見ていた。油の抜けた中年の癖に。その目だけが眼鏡越しにぎとぎとしていた。雪男はその見透かしているような目が苦手だった。しかしその男――、藤堂三郎太が雪男をほっといてくれないものだから、何回か話をしたこともある。別に仲良くしたい相手じゃなかったから、その会話の内容はかなりえげつなかったような気がする。
『所詮気持ちで思いやっていても、それには何も拘束力がないんだ。だから結局、プラトニックは夢物語になってしまう。』
『藤堂先生。僕はまだ未成年ですよ。』
『でも未成年らしからぬ悩みを持ってそうだけどね。』
 姉を守りたい。姉を独り占めにしたい。姉を生涯の伴侶にしたい。願えども願えども、いくら努力をしたって、雪男には越えられない一線があった。
『君の恋の相手はお姉さんだろ? 別に違うって言ってもいい。でも、お姉さんとは両思いじゃないようだね。お姉さんは別の誰かに恋している。お姉さんの彼を思う気持ちは、日ごとに強くなっている。相手の彼はどうか知らないよ。』
 雪男は黙って聞いている。聞くに堪えない現実を。藤堂は雪男が黙っているのをいいことに、まだまだ好き勝手喋るつもりでいるらしい。
『君達姉弟の網走行きが早まったそうだね。夏休み中には既に北海道か。涼しくていいかもね。でも本来は三年後の三月だったよね。二年も早めるような理由は、おじさんには思いつかないよ。君がごり押しした以外の理由はね。でも考えてみて欲しい。このまま彼女と彼と引き離した。それで君のお姉さんは潔く諦めてくれるかい? 彼はお姉さんを忘れてくれるかい? 答えはノーだ。こんな世界でプラトニックラブが成立する可能性はほぼゼロだと考える僕でさえも、彼らの今のところの恋愛は止められる自信はない。君だって思うだろ。君はお姉さんを網走の檻の中に閉じ込めて、保護という名目で首輪やら足枷やら着けたつもりだろうけど、姉の心はどうにも縛られてくれない。』
 まさに雪男が抱える苦痛そのものを藤堂は平気な顔して言葉にした。雪男が口が裂けても言えるはずもない、言いにくい言葉をこの男は平然と言った。
『君の愛は歪んでいる。』
『僕はただ姉さんを――。』
 守りたい。
 それが雪男が持つ最大の大義名分だ。しかしそれすらも藤堂は踏みにじるように反論を繰り出してきた。
『そう。君はそう言い返すしかない。本音を否定するような自分じゃないと誰も認めてくれないからね。ましてや君にお姉さんを押し付けて、一緒に閉じ篭ってくれなんて言わない。でも考えてみてくれよ。君のような歪んだ愛無しに、誰が彼女を守れる? 誰が守ろうとしてくれる? 誰もあの娘を守ろうなんて考えないだろ。何十年も生きた爆弾を抱えるより、殺してしまって、たかだか一人の少女の後ろ暗い死の秘密を抱えるほうが、正十字騎士団という組織にとって楽で合理的だ。だからこそ僕は君を賞賛する。歪みながらも君は困難な道を選んだ。そして、その道を歩き続けている。でも僕は君が痛々しくて見てられない。だって君はお姉さんにその悲痛な頑張りを褒めて貰えない。認めて貰えない。むしろ煙たがられる。……言い方が悪かった。言い換えれば、それを孤独な人生の始まりだと悪気無く悲しまれてしまった。今までの人生の孤独とは切り離してね。なんて悲しいんだ。でもそれは君の責任でもある。君は歪んだ愛に従いながら、人間としてのルールにも縛られているからだ。』
 何故か最後のほうになって雪男は顔を上げる。
『人間としての……ルール?』
 顔を上げた雪男に藤堂は優しく微笑みかける。
『恋敵と姉のプラトニックを打ち破りたいなら、そのどっちつかずの姿勢はやめたほうがいいってことだよ。』
 ばしん。雪男は手のひらを机に叩きつける。
『僕に姉を辱めろと言うのですか?』
 プラトニックの正反対の恋を考えれば、藤堂が提案するであろうことは理解出来た。しかし雪男は理解してしまったことを後悔する。これではまるで自分の頭の中に、最初からその選択肢があるみたいじゃないか。
『そういう言い方こそが、どっちつかずなんだよ。君は一人の少女の人生を拘束しに掛かってる。しかも誰よりも愛する姉に対してだよ。自由と選択の無い人生を、愛する女に押し付けようとする時点で、既に君はお姉さんの人生を十二分に辱めている。もうこうなったら、一つになればいいじゃないか。お互いに秘密を以ってして、お互いの人生を辱めて、縛り合うしかない。』
 よくも聖職にありながら、長々とそんなことを喋れるものだ。けして自分はこの男の言葉に呑まれやしない。そう思った。
『禁欲というのは、よっぽど人間性を損なうものなのですね。僕の父も聖職者でしたが、同じような職業の方々も多く見てきましたが、貴方みたいな人には初めてお目にかかりました。僕は貴方を反面教師にするつもりです。』
 
     *   *   *
 
 女の子の友達なんて、十五年間まったく出来なかった。馬鹿力で乱暴者の化け物だと、燐は同じ女の子に怖がられていたから。なんで異様に力が強いのか。幼い燐には全然分からないから、余計に頭の中がぐるぐるして痛くて、くらくらして、余計に他人に対して暴力的になってしまう悪循環。
 それを繰り返していたら、いつのまにか学校にさえ通えなくなっていた。
 化け物と呼ばれるような原因の「なんで」が分かって、燐は学校と祓魔塾に通うようになった。もう子どもじゃなかったから、癇癪を起こして誰かを不用意に怖がらせることはなくなった。だけど、友達の作り方の蓄積がなかった燐には、誰かに声を掛ける勇気がなかった。
 そんなとき、燐はしえみが羨ましかった。彼女はやることなすこと、いちいちぎこちないけれど、怖がらない。あの庭に閉じ篭って過ごしたから、人間の悪意も容赦の無さも知らないからなのか。
 出雲の、朴との関係に今までいなかった三人目が入ってくるのが嫌という露骨な態度にも臆する様子がなかった。それが羨ましい。燐はいちいち人の言葉に反応して、暴れて嫌われるを繰り返した自分が嫌になった。
『お前なあ。野郎には何を思おうが勝手やけど。女子にはもうちょい、気軽に話しかけてもええんやないの? 杜山さんも神木に何言われようと気にしてなさそうやし。』
 燐は驚いて声が出なかった。男に対しては辛辣というか、あからさまに喋るのも嫌そうな態度を取ってきた自覚があった。そんな自分に勝呂は声を掛けてきた。それには出雲にパシリ扱いされても物怖じしなかったしえみに感じたものと、同じものを感じた。
『あ? なんや。』
『勝呂はなんで、俺なんかに……?』
 あの化け蛙の件と、貸して貰った髪留めで、貸し借りはチャラになったはずなのに。この男が自分に声を掛けて、しかも自分がクラスの女子に声を掛けられないことに対して、気にかけるようなことを言ってくれるような義理はないはず。
『ああ? お前が物欲しそうな顔して、アッチばかり見とるからや。勝気そうな顔して、どんだけ人見知りの恥ずかしがりやなんや。』
 勝呂はしえみと出雲のいる方向を指差す。
『恥ずかしがりや、じゃねえよ。』
『ならいっぺん声掛けてみいや。』
『うっ。』
 背中を押されて席から一歩踏み出す。後ろで勝呂が見てるから、ここで踵を返すと何を言われるか分かったもんじゃない。何せ自分は勝呂と一度喧嘩している。カッコ悪いところは見せたくなかった。もう十分に恥ずかしがりやだって思われているけど。ここで退いたら勝呂には、そんな奴だって思われ続ける。一回くらい勘違いとかで思われるならともかく、思われっぱなしは嫌だった。
 そして、燐は緊張したままだったけど、しえみと出雲に声を掛ける勇気をやっと出した。
 
『ああもう! 何人でも良いわよ。私と朴の仲をそんなに邪魔をしたいのね? あんたも。あんたも。』
 三人の女子に声を掛けた燐を待ち受けていたのは、やけくそに叫ぶ出雲の声だった。
『神木さん。私、邪魔したいわけじゃないよ……。ただ、神木さんと朴さんの、仲間に入れて欲しかっただけ。』
『それが邪魔って言ってるのよ――。二人だけで淡くて甘い世界に浸っていたかったのに。杜山さん。いや、しえみっ。お前がなあ、性懲りも無くついて来るもんだから、いつのまにやら奥村さんまで寄ってきちゃってるの。』
『俺も、迷惑かけてるつもりじゃ……』
『出雲ちゃん。』
 朴が柔らかな笑顔で出雲に微笑む。その微笑の意味を出雲はとうの昔に悟っているけど、その微笑を向けられたら逆らえない。
『だから諦めたって言ってんのよ。その代わりねえ、あんたたちはあくまでおまけよ。私の朴に大それたこと考えた時点で、あなたたちはとてつもなく後悔することになるのよ。』
『いや出雲ちゃん。手を出すのは私のほうだから。』
『朴ぅー。』
 半泣きになった神木出雲が朴に抱きついて掻き口説いてる。
『他の女に色目使わないでよっ。』
『うーん。燐ちゃんの胸もしえみちゃんの胸も、目移りしちゃう。』
 燐としえみには理解しがたい次元の言葉だった。しかし薄々、朴の陽だまりのような微笑の裏には、とてつもないダークサイドが広がっていることを悟った。その性癖が女性の特徴としては顕著な胸部に集中していることも。
『出雲ちゃん。出雲ちゃんも頑張って育てていこうね。』
『うぅ……。朴ぅ……。』
 燐の初めての友達作りは成功裏に終わったが、とんでもない失敗もしでかしてしまったようだった。しかし後日、その様子を勝呂に話すと、勝呂はようやったと燐の頭を撫でてくれた。その日から燐の男子に対する威嚇行為はぱったりと止んだという。
 
     *   *   *
 
 北海道の空の下、メフィストフェレスは弟のアマイモンとジンギスカンに舌鼓を打っていた。
「兄上。北海道まで呼び出してどうしたのですか。」
「我らが末の妹がいる北海道ですよ。」
「奥村燐のことですか。」
 アマイモンは無表情にラム肉を頬張っているが、その声音には果てしない呆れが混じっていた。
「父上の炎を受け継ぐ娘とはいえ、大人しく北国に一年も引き篭もるような娘を、どうして兄上が目を掛けてやってるんです?」
「大人しく引き篭もるね……。」
 じゅーじゅーと野菜の水分と肉の脂が跳ねる音をBGMに、メフィストは語り始める。
「あの娘は大人しく引き篭もっているわけじゃないですよ。あれは雪男君の姉を思う頑張りの賜物だろうね。でもそれは、あの娘にしても私にしてもちと都合が悪い。」
 アマイモンは首を傾げる。メフィストは構わず肉を口に運んでゆっくり咀嚼して飲み込んでから言葉を続けた。
「サタンの娘でありながら祓魔師になろうとするという数奇な運命に置かれながら、彼女の物語には動きがないんだよ。平穏に時間が過ぎすぎている。本当ならもっと怒涛の展開というか、馬鹿騒ぎみたいなことが一年前にもっと起こってもいい。なんだか本来の物語から二・三年遅れているような気分だよ。漫画に例えると、もっとテンポよく面白くなるはずっていうやつですね。」
 それが悪いとはメフィストは言い切らない。でも悪魔だから、この世界は物足りない。
「あの末妹はそういうことは考えていないでしょうけど。そろそろなんかやらかしても可笑しくないでしょう。だからこそアマイモン、貴方を呼んだわけです。」
 唐突な話題の振り方にアマイモンは胡散臭そうに兄を半目で見つめる。
「なんでしょう。兄上。」
「あの末妹が近いうちになんかやらかしたら、その片棒を担いでやって下さい。」
 アマイモンは無表情なまま言う。
「兄上。弟に頼みごとをしたいのなら、もう少し謙虚な態度でしたほうがいいですよ。」
 
     *   *   *
 
 雪男は少し焦っていた。一年も経てばもう観念すると思っていた姉が、意外と頑張り屋さんだった。本土にいた半年間で、余程勝呂にする理由が出来ていたらしい。手作りクッキーで貯金なんて、なんていじらしいんだろう。他の男のためでなければ、雪男はその背中を押してやれただろうに。
 少しずつだが貯まっていく小金が、雪男と燐だけの甘い生活の秒読みの時計の針の音のように思える。とりあえず得意の策を弄してみることにしてみる。
 
「姉さん。僕これから任務で何日か出るけど、留守大丈夫だよね。」
「お前しょっちゅう任務だよな。さぞかし貯めこんでんじゃねえのか?」
「姉さん。それを言っちゃ駄目だよ。祓魔師の報酬は必要経費も込みなんだよ。」
 そんなことを言いながら、雪男は既にマイホームが建てられるような金額を貯めこんでいる。だけど燐には内緒だ。そして必要最低限の金額しか渡していなかった。
「姉さんも貯金頑張ってるじゃないか。」
「お前、なんでそれ知ってるんだよっ。」
「前、そういうこと言ってなかったっけ。クッキーを売ってどうのこうの。」
「あ。クッキーのことか。そうだよ。」
 燐は雪男に対する後ろめたさから、それ以上は言い返さなかった。勝呂に会うための貯金だということを、うっかり口に出さないためだった。
「じゃあ。行ってくるね。」
 雪男はスーツケースを片手に教会から出て行く。雪男がいない間に精々クッキー作りに精を出すべと燐は厨房に向かう。
 厨房は昔この教会にまだ祓魔師が大勢いたころに作られたので、二人暮らしにしては大きすぎる設備だった。この網走がスノーマンの大量発生地点で開拓民が多かった頃は、同時に二桁の人数の祓魔師が投入されたらしい。だが今はほとんどのスノーマンは駆逐され、それ故に燐が来るまでは閉鎖された教会だった。
『この教会も俺も、見捨てられたのかな。』
 死に掛けた建物が、燐が来ることで息を吹き返した。燐はあの正十字町に帰れるなら帰りたいと思うが、またこの教会が打ち捨てられることには、わずかに胸が痛んだ。この古臭くてだだっ広い厨房にもお世話になったのだから、愛着のようなものを感じている。それは藤本獅郎に育てられた教会での思い出とも重なるせいだろうか。
 厨房はオーブンとコンロと流し台と調理台が横並びになっている。燐は広すぎる厨房の使わない部分には覆い布かけていた。だから厨房の半分以上の面積は白い布で覆われている。
「暗いこと考えるのはやめだ! とりあえず今日はいつもの倍はバリバリ作らないと。」
 燐は冷凍庫にバターとかの材料を取りにいく。台所を見るとボイラーのスイッチがオンになっているのを見つけた。
「おいおい。昼間は使わねえのに、なんで点いてるんだよ。」
 ボイラーをつけっぱなしにするのは冬の真っ只中の時期のはずだ。燐は小走りでボイラー室に向かう。ボイラー室に近づくにつれ不吉な匂いが鼻を掠める。
「嫌な予感がする……」
 嫌な予感は的中した。なんだか嫌な音を立ててボイラーが暴走している。熱の所為でボイラーそのものに近づけない。燐は走って教会で事務所代わりにしている部屋に向かい、様々な連絡先をメモしているノートを広げる。ページをめくって地元のボイラー業者に電話を掛けた。
「もしもし。正十字教会網走支部の奥村ですが」
 そのとき、ボイラー室からボンっという破裂音がした。
「……」
『どうかしましたか。奥村様。』
 受話器の向こうから事務のお姉さんが心配そうに声をかけてきた。
「すみません。中型ボイラー一台お願いします。うちのボイラー、爆発しました。」
『え? ボイラーが爆発?』
 お姉さんはそれはお気の毒というように、うちの専門の職員もそちらに向かわせますと言ってくれた。あと念のため消防車も呼んだほうがいいとも。燐はありがとうございますと丁寧にお辞儀をして受話器を置いた。急いでボイラー室に行くと、ボイラーは煙を上げているだけで、その原型はほとんど留めていなかった。
「くそう。雪男が留守の時に限って。」
 不幸中の幸いは、特に火事にならない事態だったこと。しかし九月の中旬でこんな事故は予測していなかっただけに、手元にボイラー代はない。
「くそう。俺のへそくりを出すしかねえのか。」
 留守の間のことは自分の責任だから。雪男が帰ってくるまでに復旧させておかなければ。
 数時間後には車を走らせた業者が駆けつけてくれた。やはり爆発したボイラーは廃棄処分となり、新しいボイラーを丸々買うしかなかった。
 業者はぼやいていた。
「教会自体はぼろいですが、このボイラーだけは去年作られたものなんです。それが使用頻度の低い今、壊れるなんてちょっと信じられないんです。」
 業者は不良品を納入したのかもしれないと燐にひたすら謝っている。保証期間中なのもあって、かなり安価には値下げしてもらえたが、燐のへそくりのほとんどは消えていった。
 業者が帰ったあと、燐はなんだか足の力が抜けてへたりこんでしまった。
「あはは……なんでだろ。」
「りん。おれ、ボイラーにいたずらしてないよ。」
「わかってるよ。クロ。俺昔、石油ストーブ爆発させたことがあったから、もしかしたら俺の変なテンションがボイラー爆発させたのかもしれない。」
 そんなわけがないのだが、そうでも考えないと自分を慰めることが出来ない。
燐は脱力して調理台に突っ伏していた。時刻は夜の九時ごろ。ここで寝てしまっては風邪を引いてしまうかもしれないが、なんとなく億劫で何もやる気がしない。
昔の思い出に例えるなら、誰も燐に話しかけてくれる奴がいないと分かりきっている学校に行かなければいけないという、そんな憂鬱さだった。
 ふいに厨房のドアが開く。そこから顔を覗かせたのは、今朝出て行ったばかりの雪男だった。






とんだ大事故が起きました。ネタばらしは次回です。姉さん微妙にピンチ。

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☆ss「ロンド」長編② 勝燐♀

 燐が北海道の網走に来てからもうすぐ一年が過ぎる。一年目はとにかく、慣れない気候と僻地の不便さに右往左往していた。しかし二年目となれば慣れたもので、九月の今から異様に早い初雪に向けた準備に頭が向いていた。
「まだスノーマンは出ないだろうけど、本部に聖油とか発注かけようかな。」
 もちろん、ご当地名物の悪魔も時々は出現しては近隣住人に迷惑をかけることもあった。祓魔師にとっては冬に活発化する悪魔の対策も冬の準備に含まれる。
 僻地でありながらも教会の周辺には人が住んでいる。燐は修道女の長いスカートを揺らし教会の行事や整備や任務の祓魔に追われながら、時たま来る人々と話す毎日だった。来るのは信心深い年配の人が多く、若い人は少ない。
『サタンの娘の俺がシスターだなんて、ちょっと皮肉で笑えるかも。』
 くすくすと思い出し笑いが出てくる。燐は自分が作ったクッキーを頼まれた分だけ包んで、教会に来た年配の婦人に渡した。婦人は燐に千円札を差し出してくる。燐は小銭袋からお釣りを婦人に手渡して有難う御座いますと言った。
「燐ちゃんも髪を伸ばしてすっかり女の子になったわねえ。最初来た時は本当に男の子みたいだったのに。」
「えーと俺は……寒いの嫌だから伸ばしてただけですよ。」
「似合ってるわよお。」
「えへへっ。」
 手入れが面倒そうだから、伸ばしても肩あたりまでだった。でもこうやっておだてられると、悪い気はしない。
「好きな人でも出来たのかい?」
「………そういうわけじゃ、ないです。」
 燐はこの手の話題になると逃げ腰になる。何も無ければ無いと開き直れるけど、燐としては何も無いとは言えない事情がある。
『勝呂の手紙。もうそろそろかな?』
 今のようにふと考える瞬間がある。でもこの婦人にこのことを言ったら、たぶん他の人にも――。一緒に暮らしている雪男には絶対にばれる。それで、「思わせぶりなことをしちゃいけないよ」とやんわりとした口調で、こってり叱られるのだ。
「シスターって言っても日本なんだから。そこまで気にしなくてもいいと思うんだけどねえ。」
「そんなんじゃ、日本の教会のシスターはいい加減だって、世界中の人に思われますってば。」
「ところでねえ、このクッキーなんだけど。」
 話題がころころ変わるご婦人だった。これ以上恋愛話をされて深く追求されるよりはましだったが、拍子抜けする。
「町の直売所にクッキー置いてもいいって。」
「本当ですかっ。」
 燐は前のめりになった。
「美味しいからねえ。でも町から遠いから、なかなか買いたくても買えない人も多くて……。でも、場合によっては出荷の量が多くなるけど、大丈夫? 全部一人で作っているのでしょう?」
「なんとかやってみます! ありがとうございます。」
 燐は即答して深く頭を下げた。その嬉しそうな顔を見て婦人は上機嫌に教会から出て行く。燐はガッツポーズを取った。燐の少ない収入にもう少しは色がつくだろう。そして燐は密かにしていた計画の目標額に予定より早く辿り着きそうなことに嬉しくなった。
『俺個人が旅費を捻出出来たら、みんなに、勝呂に逢える時間も取れるかもしれない。』
 前の本土行きの旅費は弟持ちだった。燐は無い頭で必死に考えてみた結果、もしかしたら取れなかったのは時間ではなく、旅費だったのかもしれないという可能性に気がついた。 
時間はあっても先立つものがなければ何処にもいけない。あの時は冬休みだったから、しえみならともかく、勝呂たちは帰省して京都だっただろう。ならば京都まで行く可能性も考えて、自分が旅費を捻出できればと考えた。
 だから少ない取り柄でもある料理でなんとかしてみようと思った。しえみも言っていた。自分が出来ることから始めようと。
でもこんな教会で定食屋みたいな真似は出来ない。それならクッキーを何枚かで何百円っていう感じで売ってみようと思った。そこで教会に入った側の小さな机に袋入りで並べていたら、さっきの婦人が最初に手にとってくれた。そしてすっかり常連になってくれて、友達にも勧めてくれて、直売所に話をつけてくれた。最初のお客さんが行動力のある親切な人だったのが幸運だった。そして近いうちに燐のクッキーが直売所に並ぶ。
 婦人のその優しさが嬉しかった。そしてまた勝呂との思い出がぶり返す。
 涙ぐみそうになるのを堪えて首を横に力いっぱい振る。自分から逢いに行けるのだから、いちいち思い出して泣いていられない。
「姉さん。手紙来てるよ。」
 嬉しさで胸が一杯になっているところに、外からカソック姿の弟が入ってきた。右手に封の切られた封筒を二通持っている。燐は弟の持っている封筒を見て呆れたように手を腰に当てた。
「また先に封切ったな?」
「見られるのが嫌な疚しいことは書かれてないんでしょ?」
 弟に先に封を切られるのはいつものことだが、やはり自分宛の手紙は、自分が真っ先に封を開けたい。雪男から受け取った手紙は勝呂からだった。
「勝呂君がみんなの手紙を集めて、同じ封筒に送ってくれるんだよね。」
 雪男は時折、勝呂の話題を出すときは苦笑いを浮かべる。しかしそれは日常動作に紛れてしまうさりげなさなので、燐は気づかない。
「あ。今回はメフィストからの手紙も入ってる。」
「僕の分にも入ってるかな。」
 燐の処遇が網走行きに留まったのは、ある意味メフィストのお陰だった。そのせいか知らないが、何回かにいっぺんは勝呂の送ってくる手紙に紛れて、メフィストの手紙も入ってくる。
「網走一周年おめでとうって……。そんなん祝われても嬉しくねーよ!」
 燐はメフィストからの手紙を床に叩きつける真似をした。雪男は姉に渡したのとは違うもう一つの封筒から一通の手紙を取り出し、字面を目で追う。
「……。元気そうにやってるみたいだね。」
「志摩ったら俺の手料理が恋しいのかよ。しょーがねえなあ。本当なら、みんなには焼きたてを食わせてやりたいところなんだけどな……。」
 燐が勇み足で台所に向かおうとする。雪男はその姉の肩を掴んで引き止めた。
「姉さん。さっきから嬉しそうだね。嬉しいのは手紙だけじゃないんでしょ?」
 燐はむふふと息を漏らして満面の笑みを浮かべた。
「加藤さんって常連の人がいるだろ。」
「帰るところさっき見たね。」
「その人が町の直売所の人に俺のクッキーを勧めてくれてさ。そこにうちのクッキーが並ぶことになったんだ。」
「へえ……。」
 雪男は姉の肩から手を離す。それじゃあ頑張りなよと言って、これ以上台所に向かおうとする姉を引き止めることなかった。
 
     *   *   *
 
「燐ちゃんから手紙来たんか。」
 勝呂に手渡された紙片をひらひらと見せながら、志摩はイタズラっぽく笑う。勝呂の手の中にはまだまだ分厚い便箋の束があった。
「元気にはやっとるらしい。」
 ぶっきらぼうに勝呂は応える。その声音の固さに志摩はこめかみを押さえた。
「えーとなあ……。もうちょっと、はしゃいでもええんやないの?」
「恥ずかしいわ。あほう。」
「燐ちゃんのこと、好きな癖に。」
「…………………。…………………。あ。理事長宛の手紙が混じっとる。」
「ちょちょちょ。坊? 何気なく話題変えよう思っとるみたいやけど、却って不自然やから!」
 志摩は部屋から逃亡しようとする勝呂の肩を掴む。勝呂は振り向きざま志摩をぎろりと睨んだ。
「志摩。俺はな……。」
 反射的に睨んでしまったのに気付いたのか、わざと目線を下げて目を伏せる。
「俺は、あいつのこと好きかどうかまだ……決めかねとる。でも逢いたいって、いつも思ってる。」
「あー。そう。」
 逢いたいといつも思うこと自体が、そういうことなのではないかと志摩は思っている。本当にこの人は奥手で素直じゃない。一昔前の少女マンガを読まされている気分だ。その奥手っぷりに志摩は力が抜けていく。そんな志摩が見えていないのか、勝呂は言葉を続ける。
「だから。今度逢いに行こうと思う。祓魔師の資格も互いに取れたし。」
「え? 北海道まで逢いに行くんか。」
 勝呂家の長男は奥手な割には行動派だった。勝呂は正面を向いて志摩に耳打ちする。
「学校はなんとか誤魔化して休むつもりやけど。」
 志摩は思わず涙ぐんだ。変態みたいに真面目な坊に、学校を休んでまで逢いたい彼女が出来たことに、ものすごく感動している。あの勝呂のことだから冬休みにとか言い出しかねないところなのに。
「わかった。坊。俺協力するわ。」
「協力は、しなくてええけど。」
 
     *   *   *
 
 燐は今日も甘い匂いを漂わせている。それはクッキーを沢山焼いているから。自然とその匂いが服に染み付いてくる。クロはその匂いが大好きだった。それ以上にクッキーを焼く燐の優しげな顔が大好きだった。
「りん。クッキーやくとき、いつもうれしそう。」
「これで金貰ってるからな。」
「かねがうれしいのか?」
「金そのものじゃなくて……。貯めた金でやりたいことがあるんだ。」
 クロは燐の言葉に首を傾げた。
「やりたいこと?」
「この金でみんなに会いに行くんだ。しえみに志摩に、子猫丸に。出雲に。勝呂。」
 勝呂って呟いた瞬間の燐の顔は、恋する少女が浮かべるものだった。しかし恋を知らない猫又には、微妙に分からないわずかな変化だった。
 燐は家庭用オーブンレンジから、何回目かの焼きたてクッキーを取り出して、次の生地を焼きにかかる。家庭用で作るとなると一回ごとに出来上がる数は少ないが、何回も焼いていく内に、クッキーは皿の上でこんもりと山を作っていた。
「いちまいもらっていい?」
「ほいっ。」
 プレーンのクッキーを一枚だけクロに手渡す。クロは嬉しそうにそれを口に咥えた。
 
 その様子を雪男はドア越しに聞いていた。姉が自分の見てる前では言わない本音を聞いて、確信する。
「やっぱり貯めたお金の使い道はそうなるか。」
 学園のみんなに。勝呂に逢いたい。そんな姉の気持ちが雪男にとっては耐えられない苦痛になる。
 雪男は姉が大好きだ。昔からずっと、姉を守りたいと願っていた。いや、姉を独占したいと言うのが正しい。姉をこの世界のどんなものからも遮って、二人きりで過ごして死んでいきたいと思っていた。その為に祓魔師になった。姉に反論の隙も与えない交渉と工作でここまで辿りついたのに。やっとそんな毎日を一年続けられたのに。
「勝呂君。君が悪いんだよ。」
 姉はあくまでまだ「みんな」に逢いたいと言っている。でも姉をここまで駆り立てたのは一人しかいない。勝呂竜士。姉はこの男に恋している。
 その証拠に姉はどんどん可愛く、綺麗になっている。髪も伸ばして雪男以外の人間からも、女の子らしくなったと言われるようになった。義父が生きていたらさぞ、その変化を喜んでくれただろう。でも雪男は喜べない。その変化をもたらしたのは自分じゃなくて勝呂だからだ。
 自分の選んだ方法がけして、姉に希望を与えるものじゃなかったことは分かってる。でもこのやり方が一番、姉を守るのに確実だった。何せ姉が惚れている勝呂は現時点で姉に何もやってあげられてない。網走行きが決まってなければ、姉はとうの昔に殺されている。雪男のやったことは姉の命を救っている。でも何故か負けた気分になっている。
「姉さん。」
「雪男っ。ノックくらいしろよ。」
「台所に入るのにいちいちノックする人はいないよ。」
「そうかもしれねーけど。」
 今のところ姉の収入源はこのクッキーの山だ。貯金はあるだろうけど、本土に渡るほどじゃない。そして姉は任務に赴くこともある雪男と違って、みんなに逢う以外の本土に行くための名目がない。この生活は短く見積もって半年くらいは続くだろう。
 燐という姉は、自分から逃げおおせられるはずがない。逃げる前に自分が捕まえて閉じ込めるつもりだから。その為なら泣かせても叫ばせてでも、最後には諦めさせる。
それに反対する人間は騎士団の内部には、恐らくいない。可哀想と思わないわけじゃないけれど、これが姉を取り囲
む現実だ。雪男が閉じ込めて守っていることで、姉はなんとか人間らしく生きている。要は姉さえ自分を受け入れてくれればいいわけだ。 
そうすれば、二人だけの完全で完璧な、幸せの世界が確立される。
 姉の初恋が勝呂に行ったことだけは残念だったけど、この先何十年かかろうと忘れさせてみせる。
雪男は歪な決意を胸に、姉に笑顔を見せた。
 





文通すらも雪男に把握されてる現状です。この雪男の悪代官が!

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☆ss「エメロードアナザールート」② 雪男とアマイモン+シュラ

 ちゅんちゅんと雀が鳴いている。二人は街中のオフィス街の片隅にあるお稲荷さんの前に横たわっていた。お稲荷さんの扉は開いている。対になった狐の石像に二人は見下ろされていた。
「午前五時?」
 逃げていた時間を考えれば三十分ほど遅い時間のような気がする。とりあえず鍵穴が合ったというだけで、それは正規の鍵ではないのは承知していた。その所為で移動する時にタイムラグが生じたのだろう。
「いてて。」
 大の男二人がお稲荷さんの社の狭い扉から飛び出してきたのだ。身体が痛むのは当然だ。
 それにしてもと思う。
「逃げ切れた……」
 まだその奇跡を実感出来ない。あのシュラの追跡からまさか逃げられるとは。しかも鍵が一発で開くなんて。ここで運を使い果たしてなければいいなと、合理的な雪男には珍しく成り行き任せなことを考えていた。
「う、うーん――。」
 アマイモンがふらつきながら起き上がろうとする。しかし(精神的な)疲れと空腹のためか両手を前に突き出して、また倒れた。
「アマイモンさん。もう大丈夫です。」
 抱き起こすと閉じられていた瞼が震えて、固く閉じた口は開いた途端に、か細い「ありがとうございます」を零れ落とす。
「あとはあなたに何か食べさせてあげれば、僕はお役御免ですね。」
 雪男は財布を取り出して中身を確認する。アマイモンが大食いでも、ファミレスや二十四時間営業の牛丼屋なら大丈夫そうだ。この時間帯にはそこしか開いてないのだから仕方ない。
 標識を見てみると、案外正十字学園町からは出てないらしい。しかしあまり土地勘がない場所だった。
「これからご飯を食べにいきますけど、このへんはよく知らないんで、ちょっと探して歩かなくてはいけません。」
 アマイモンの目が見開かれる。そしてその目から透明なしずくがぽろっと零れる。
「なんで泣いてるんですかっ。僕が泣かしたんですかっ。」
「探さないとご飯が食べられないんですか?」
 これだけ命の危機にさらされてやっと逃げて来たから気持ちはわかる。気持ちは分かるが、こればかりは雪男はどうしてやりようもない。アマイモンは抑揚の無い声でしくしくと泣いている。雪男はアマイモンの肩を支えてやった。アマイモンがいきなり雪男の肩に抱きついてきた。
「うわっ。」
 よほど心細いらしい。がたいは自分と変わりないのに、なんだかすごく頼りなげに見える。中身は凶悪な悪魔なのにギャップにくらくらする。
 言うまでもなく雪男はこういうのにも弱い。兄とか。兄とか。兄の燐がそうだ。
 抱きつかれたまま町を歩く。アマイモンはしゃくりあげながらも健気に足は動かしてくれた。その様子にまたもきゅんとなる。しかし傍から見ての姿が姿なので、今が早朝なのは幸いだった。べそをかいている男にしがみつかれている男は誰も見たくないだろう。
 しかしそれを目撃してしまう不幸な部外者がいた。勝呂竜士だった。
勝呂は日曜の今日にいつもより早く起きてしまったので、普段は通らないコースもジョギングしてみようと思った。それがとんでもない既知との遭遇になろうとは。
 しかし勝呂はそれを見なかったことにした。すだれのような前髪を、髪を整える振りをして垂らす。しかし勝呂のそんな思いとは裏腹に、雪男は勝呂を見つけ声をかけてくる。
「勝呂君。ちょうど良かった。このへんに何か早朝もやっている飲食店はなかったかな?」
 学園の寮からここまでジョギングしてきたのなら、そのような店を一つか二つか見ているはずだと雪男は判断したから、勝呂にそう尋ねた。勝呂は仕方なく足を止め、その角を曲がったところによし牛がありますと言うと、何事もなかったようにまた前方を向いて走り出した。
 関わり合いになりたくない態度があからさまだったが、雪男は雪男でそれのほうが有り難かった。
「次の角か。意外と近くで済みそうですよ。頑張って下さい。」
 アマイモンは小さく頷く。
 勝呂が言ったとおり、その角を曲がれば吉野家はあった。二人を見た店員は一瞬ぎょっとした。何処のサバイバルから生還して来た奴らなのだと。あっちこっちに木の葉や木の枝をくっつけている、互いに肩を借りあっている二人の男に底知れない畏怖を感じたのだろうが、吉野家は世界に羽ばたかなければならないので、この二人組は試練の一つだと彼は思ったか思わないか。
 いらっしゃいませ。マニュアルどおりに言ってみた。喫煙席と禁煙席どちらがよろしいでしょうかと訊けば、眼鏡のほうが禁煙でと言った。
 二人は席に座って注文を言う。雪男は牛丼の並を頼んだ。
「僕は、お兄さんと一緒のを五つお願いします。」
 またぎょっとする店員。しかし眼鏡のほうが顔色も変えずに続ける。
「それだけじゃ足りないでしょう? すみません。あと定食二つと、サイドメニューのコールスローとお新香と温泉卵もお願いします。」
 はい。かしこまりました。マニュアルばかり敬語のはずが、本当の意味で敬意混じりになってきた。
 店員はキッチンに注文を言いに行く。しばらくして注文していたメニューが大量にきた。アマイモンはそれにがっつく。雪男は持ち前のお行儀の良さで、綺麗な箸遣いを見せながら牛丼を食べている。ふと行方の分からない兄のことが、雪男の脳裏に掠めた。
「アマイモンさん。シュラさんに終われる前に、兄を見たりしませんでしたか?」
「いいえ。というか、あのお姉さんに追われる前の記憶はかなり吹っ飛んでますので。」
「そうですか。あまり期待していたわけじゃないんですけど、やっぱり知らないですよね。」
「奥村燐はどこかに行って帰ってこないんですか?」
 雪男は箸を止め、カウンターに肘をついて項垂れる。
「兄は僕との共同生活に疲れたのかもしれない。」
 嫌な結論を真っ先に出してくる雪男にアマイモンは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「どうしてそう思うのです?」
「なんとなく、ですよ。」
 あの投稿欄の相談者の両親のように、兄にとって自分は煙たいのだろうか? 兄の進路も夢も認めているが、兄より先にそれに到達してしまった自分は、自分の足跡と兄の様子を見比べてばかりで、兄なりの頑張りを認めてやれず、兄を差し置いて口出しが多かったように思う。今更思うことだけど。
「なんとなくで思ってばっかりですね。お兄さんは。」
「でも僕は兄を愛しているんです。だから心配で不安で仕方ないんです。」
「そんな弟はお兄さんだけじゃないですよ。僕だって兄上が大好きなんです。」
 そこでアマイモンは、手に持った味噌汁の椀をじっと見つめる。味噌が沈殿して透明な上澄みがアマイモンの顔を映している。
「だけど兄上は奥村燐のことばっかり。奥村燐に父上が期待していることは知ってます。そんな父上を口八丁で言いくるめながら、兄上は二百年前から物質界にいて、騎士団に協力しているのも知っています。兄上は二百年も実家に帰ってきてくれません。でも兄上は今になってボクを物質界に呼んでくれました。それは嬉しかったです。」
 雪男はアマイモンの話に共感を覚える。父親に言われた言葉を思い出した。
「僕だって兄を守れるんだって思えた時は嬉しかったんですよ。兄さんに頼って貰えると思うと、不謹慎ながらわくわくもしました。でも現実は、兄は僕以外の誰かを心の拠り所にしてるし、以前より僕に対する態度が喧嘩腰だし。」
 アマイモンは再び箸を動かしながら合間に言った。
「それは、奥村燐がお兄さんに嫉妬してるんですよ。コンプレックスですよ。」
「コンプレックスってもっと、どろどろしたものでしょう。」
 伊達に世間しているわけじゃない。男の嫉妬の陰湿さは身をもって知っている。それにアマイモンは反論する。
「それは大人の男ならです。奥村燐はがきんちょですから。だからどろどろせずに、お兄さんに堂々と喧嘩腰なんです。」
 意外と奥村兄弟の関係をアマイモンは観察してるようだ。妙に腑に落ちた言葉だった。
「奥村燐はお兄さんに無関心じゃありません。興味津々の意識バリバリです。」
「それを僕に悟られたくないから、僕と距離をとっているって言うのですか?」
 雪男はなんだか笑えてくる。アマイモンはポツリと言う。
「あ。やっぱり違うかも。」
「どっちなんだい!」
「わかりません。」
 雪男はカウンターに突っ伏した。
「君だって君のお兄様に、随分とおざなりにされてるじゃんか。」
「兄上はドSですから。こんなことを言うのは負け惜しみです。」
 雪男のささやかな反撃は、あまりアマイモンに効いていないようだった。もしかしたら悪魔はドSで、兄弟に対して薄情なのが標準なのだろうか。そうだとしたら兄の態度も幾分かは理解出来るような気がした。大体血液型がA型の癖にどうしてあんなにやりたい放題なんだ。
 アマイモンはこれも負け惜しみですがと前置きして言う。
「だって兄上はボク以外にも弟や妹を沢山抱えてますから。ボクが一人駄々こねても仕方ないですもん。」
「強がってまあ。」
 逃げている最中のアマイモンを思い出してみれば分かった。
アマイモンは多分、メフィストに助けに来て欲しかったのだろう。自分達が今しているように、一緒にご飯を食べたかったに違いない。キャッシュコーナーでお金を下ろせなかったのも、ひょっとしたらわざとだったかもしれない。
 せっかく物質界に呼ばれたから、物質界にいるときに存分に可愛がって貰いたかった。兄が自分を追い越さないうちに、沢山頼って貰いたかった雪男に通じるところがあった。
 
 早朝なのにまた吉野家のドアが開く。二人はまるで気にしていない。しかしその影は嬉々として二人に近づいていた。
「にゃは。見つけた。」
 カウンターに置かれた手に二人はびくりと震える。
「勝呂君に途中で会ってさあ、雪男ちゃんが見知らぬ男と肩を組んでいるところを目撃したって聞いたから。」
 雪男はすぐに立ち上がろうとしたが、アマイモンはそんな雪男を見上げると諦めましょうと一言呟いた。そして回転椅子でシュラのほうへ向き直る。
「これ全部食べるまで、待ってもらえませんか? せっかくお兄さんが注文してくれたので。」
「いいけど。私も腹減ってるし。おじさーん、豚丼の並にトン汁付けてー。」
 シュラは雪男の隣に座る。まるで格闘ゲーのキャラのような女がカウンターに増えたことで、余計に店員はびびっている。かしこまりましたとしか言えない。
 シュラは店員の反応を気にせずに言う。
「あ。大丈夫だから。もうその子いじめる気ないから。」
「本当ですか?」
「ほんとほんと。」
 軽く言ってくれる。じゃあ先刻までの死神っぷりは一体何だったと雪男はぎりぎりと奥歯を鳴らしている。引き際が綺麗といわず無責任な女だった。シュラは言い訳がましくもない言い訳を始める。
「ちょっと話があって引き止めたつもりなのに、この子が派手に抵抗するからさあ。こっちも引くに引けなくなっちゃたんだよ。相手は地の王だと思うと余計にねえ。」
「あんたねえ。そういうのは管理職が思うようなことじゃないんですよ。下っ端のペーペーの血の気の多い若者のお約束でしょうに。」
 雪男は心底呆れている。シュラは運ばれてきた豚丼に手を付け始める。
「アマイモンがあなたの尋問に応じるかどうか、僕はもう関与しませんからね。ここの勘定を払えば、僕はもうあなた達を置いて学園に帰りますから。」
 雪男は残りの牛丼を掻き込むと伝票を持って立ち上がろうとしたが、両方から手が伸びてきて阻止された。
「「駄目!」」
「なんでですか!」
 当然の反論なのに、両方から雪男の腕を抱える二人の視線は責めるようだった。
「ガキの頃から散々世話してやったろ?」
「僕を抱き締めてくれた、あの優しさは嘘だったのですか!」
 すごく身に覚えのないことばかり言われている。ガキの頃はいじめられたし、抱き締めたんじゃなくて支えてやったんだ。店員が目を丸くしている。この眼鏡を中心とする三角関係にすっかり慄いてしまっている。平和な日曜日早朝の暇なシフトだったはずなのに、緊張しっぱなしのようだった。
 雪男は回転椅子に諦めたように腰掛ける。ひょっとしたら今頃、兄は自分たちの部屋に帰ってきてるかもしれないのに、今度は雪男こそが連絡がつかない行方不明状態になっている。
ああ。でも、ひょっとしたら心配して僕のスマフォに連絡があるかも――。しかしだらだら食事を取るアマイモンとシュラが箸を置くまで四十分、スマフォは沈黙したままだった。
 
     *   *   *
 
 とりあえずあの店員の三人に対するびびりようからして、吉野家は一旦出ようという話になった。
「ごちそうさまー」
「ありがとう、ございましたっ。」
 店員が涙目になっている。雪男は五千円札を出してお釣りは取っておいて下さいと言おうと思ったが、それは逆効果とも思い普通にお釣りはもらった。
 今は午前七時過ぎ。シュラはこれからアマイモンに尋問するつもりらしいが、どこで尋問するかは決めていなかったらしい。だらだらと朝の町を三人は歩く。
「ところで、シュラさん。このまま歩き続けていても埒が明かないと思うんです。どこかの扉から学園に戻ったほうがいいんじゃないですか?」
「鍵使ってもいいんだろうけど。今日日曜日じゃーん。このまま学校に直帰してもつまんないし。」
 その物言いに雪男はかちんときた。
「アマイモンを尋問するのは、あなた自らしゃしゃり出た任務じゃないんですかっ。フェレス卿の動向調査に付随する手段の一つでしょうが。」
「いや。私の個人的な興味だけど。」
「興味?」
「いやあ。私も昔は人間兵器になりかけた部類の女だからさあ。」
 なんだか嫌な感じの言葉だった。兵器という言葉は雪男の知己の一人の人間を連想させる。
雪男はなおも食い下がろうとしたが、シュラは気に留める様子はない。アマイモンにどっか行きたいとこはないかと尋ねている。アマイモンはシュラの申し出に遠慮がちになっている。まだ追いかけられた時のことが脳裏に引っ掛かっているらしい。黙ってぎゅっと雪男の腕にしがみつく。雪男はそれを見かねてシュラに言った。
「学園関係者の目につかないほうがアマイモンにとっては良いですよね。」
 シュラは怪訝な顔で、やけにアマイモンの肩を持つ雪男に首を傾げていたが、とりあえずは肯定してやった。
「そうだな。こいつ面が割れてるしな。店が開くまでまだ間があるし。」
「あんたまた食い物屋に入ろうという魂胆ですか。」
 雪男は財布の中身に思いを馳せながら反論するが、シュラはまるで動じることなく切り返す。
「時間を潰すのにホテルにでも入るか。いや。えっちぃほうのホテルじゃないぞ。普通のホテルだ。」
「あんた! 勘定払うの僕なんでしょっ。」
 食い物屋だけならともかく、ホテル代まで出せるかと雪男は叫ぶ。当たり前だ。自分はまだなんだかんだ言っても十五歳の高校生だ。甲斐性にも限度がある。
「いや。雪男ちゃん。大人はこんなスマートなものを持ってるのよ。」
 シュラはクレジットカードを見せびらかす。幾ら雪男が甲斐性があると言ってもまだ、そのアイテムは手に入らない。
「そうですか。そうきますか。」
 アマイモンはそれを横から見ている。
「そうか。キャッシュカードじゃなくて、そういうカードを兄上から貰えば良かったのか。」
「でもこれは駄菓子屋とかたこ焼き屋とか、あなたの好きそうな店では使えませんから。」
「それなら駄目ですね。」
 三人はオフィス街を進んでいく。シュラは携帯電話でホテルに電話を掛けていた。電話を切ったあと、よしと言って雪男とアマイモンに呼びかける。
「二部屋どうにか取れたぞ。今から行って私は朝寝するから、お前らも休みたいなら休んでおけよ。」
 早朝でもチェックイン出来るんだなと、雪男は妙に感心するのだった。
 
 シュラは十二時になったら起こしに来いよと言って、隣の部屋に消えていった。雪男とアマイモンは二人きりで取り残される。
「とりあえず、入りましょうか。」
「僕こういうの初めてですから、ご教授お願いします。」
 ならばこの地の王は、普段は何処で寝ているんだろうと雪男は疑問に思った。
 やらしい意味でのホテルではないので、ベッドは当然二つある。そのベッドの上にアマイモンはダイブした。
「わあ! なかなかのクッションです。」
 ごろごろと寝転がっている。雪男はその隣のベッドに腰掛けた。自分のスマフォを見る。メフィストにこの状況を知らせたほうがいいと思いついてダイヤルしようとしたが、そのスマフォは横から掻っ攫われた。アマイモンの仕業だった。
「駄目です。兄上に連絡なんかしちゃ。どうせボクのこと心配なんかしてないんですから。」
「心配しているから連絡するんじゃないよ。僕は君のことを頼まれたんだから、どうなったかくらい報告しないと無責任になる。」
「お兄さんにボクのこと丸投げした無責任な兄上に対して、お兄さんが責任を持ってやってやる必要は無いんです。」
よし牛ではうっすらとメフィストを弁護するようなことを言っていたのに、やはり少しは拗ねているようだ。雪男はこういうふうな屈折したいい子ぶりっ子にも弱かった。
例えるなら、誰になるんだろう? これはなんだか自分を見るようだった。見ていられないとも言える。
「でも、無事だということくらい伝えないと。」
 それに結局はシュラに確保されたのだ。メフィストの弱みについてアマイモンが尋問されないとも限らない。
「フェレス卿の弱みを証言するのは、あなたの望むところじゃないでしょうに。」
「それならそれでもいいです。兄上は僕が知る限りで一番の大嘘つきですから。僕が知っているような弱みは、とんだダミーっていうこともあります。」
 アマイモンはスマフォを指で摘んでひらひらと雪男の前で振ってみせる。
 メフィストに連絡を入れないという確約が取れるまで、アマイモンはスマフォを雪男に返してくれないだろう。雪男はしょうがなく、分かったよと頷いた。アマイモンは両手で雪男のほうへスマフォを差し出した。雪男はそれを受け取る。
「僕のほうも兄さんへの連絡はどうしよう。」
 兄のベッドの上で鳴り続けている携帯を想像する。一旦は部屋に帰っているだろうが、そこからずっと部屋にいるとは限らない兄だ。もし部屋にいるとしても、それは多分寝ている確率が高い。 電話にでんわを確実に実行される。それが嫌で雪男はメールという選択肢を取った。
 しかしそのメールの内容をどうしよう。
『今、シュラさんとアマイモンと一緒にホテルにいます。夕方には帰れると思いますので、心配しないで下さい。』
 駄目だ。駄目過ぎる。心配どころの騒ぎじゃない。自分と遊園地で戦闘騒ぎを起こしたアマイモンと雪男が与したかと、兄が大暴れしてしまう。ちゃんと文面は考えないと。普通なら「友達と遊びに行っています」とでも嘘でも打つべきだ。しかし手が動かない。
「やっぱり僕も兄さんに対して拗ねてるのかな。」
 メールを打つのをやめた雪男を、アマイモンは頷きながら見ていた。雪男はそれに笑顔で返す。共犯がいる悪いことはなんとなく気持ちよかった。
「さあ。どうやって時間を潰しましょうか?」
 アマイモンの問いかけに雪男は口を滑らせる。
「エッチなホテルだったら、色んな暇つぶしの道具はあるらしいですけど。ここには精精風呂場しかないですね。」
 アマイモンは一瞬黙って、じゃあお風呂に入りませんかと提案してきた。唐突そうに見えて巧妙に雪男から振ったような具合になってしまった。雪男は仕方なくバスルームに向かう。
 この手のホテルのバスルームは大抵はユニットバスと相場が決まっている。しかし雪男はうっかり忘れていた。
「シュラさんって、ユニットバス嫌いだったなあ……」
 案の定、独立したバスルームになっていた。つまり湯をためることの出来るバスタブがあり、遠慮なくそこで身体を洗い倒せる洗い場もついていた。その隣には独立したトイレと洗面所もある。観光ホテル並みの設備だった。
「くそう…。とことんあの人って、何をするにも、どんなときでも物見遊山なんだから。」
 これでは一人ずつ入りましょうのフラグがへし折られるような気がした。大の男が他人と風呂に入るのが恥ずかしいですなんて言えない。別に雪男の歳なら素直に恥ずかしいですと言えばいいのだが、妙な見栄が邪魔をする。振り向いた雪男の後ろでは既にアマイモンが全裸待機していた。
「あ。直ぐに僕も脱ぎますから、先に入ってお湯を溜めといて下さい。」
「はーい。」
 アマイモンは良い子な返事をして浴室に入っていく。雪男も仕方なく装備一式を解除せざるをえない。その装備もアマイモンに見つからない場所に押しやっておく。とりあえずパンツまで脱いで部屋の中の姿見で、日頃はあまり見ない自分の全裸を確認してみた。黒子が多いこと意外は見られて困る所は無さそうだ。どこからどう見ても他人と遜色のない身体だと思う。そう自惚れてもいいだろう。
 雪男は意を決して眼鏡を外した。






他人と風呂に入るときの雪ちゃん必死だな! 弟vs弟のミニマムバトルが始まります。

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☆ss「ロンド」長編① 勝燐 雪燐 燐女体化

 雪男はびしょびしょになった冷たい胸元から姉の身体を引き剥がす。言いようの無い罪悪感から目を逸らしてもう一度言った。
「夏休み明けには、網走の教会に赴任する辞令が出たから。」
「約束と違うじゃねえか!」
 姉の顔は涙に濡れて鼻の下や目元が痛々しいくらい赤くなっている。
「姉さん。」
 雪男は崩れ落ちそうな姉の身体を抱きとめる。そして脇に手を掛けて姉の身体を浮かす。目線を同じにして雪男は言う。
「姉さん。姉さんにとって辛い真実だろうけど、聞いてくれるかい?」
「なんだよ……。約束破るほど重要なことかよ。」
 雪男は「そうなんだ」と言いたげに頷いた。
「フェレス卿と神父さんが姉さんを隠匿して育てたことが、どうしようもなく騎士団の上層部にとって心証が悪かったんだ。」
 藤本の死後、雪男はメフィストフェレスとは別にヴァチカンに繋がりを持っていた。そして姉と自分の身の上も進んで申告していた。勿論姉が自分がサタンの落胤であることを知らなかった事情は、重ねて弁明した。その原因がまるで義父やメフィストであることも。
 雪男としてもメフィストはともかく、義父を裏切っているような気分にならなかったわけじゃない。しかしもういない人を宛てに出来ないのだからと言い訳を重ねていた。雪男の自分でも気づいていない奥深い感情から来る、姉を挟んでの父・藤本への対抗心もそれを後押ししていた。父と娘、雪男から見ても甘酸っぱいような関係だった。抱きついてくる娘に満面の笑みを見せる父親。その光景が羨ましかった。そんな言葉ではぬるいような嫉妬心も思春期前には芽生えていて、それが姉への思いも自覚するきっかけにもなった。
 案の定姉は義父の死を自分のせいだと責め、せめて亡き義父の遺志を継ごうとするように祓魔師になることを決めた。雪男はそんな世界から姉を遠ざけたかったのに、姉は頑なにそれを拒んだ。今でも義父を慕っているが故に。
 義父は姉に甘かった。甘やかしというわけではないけれど、姉の行動を抑制するような教育は最低限のものだった。自分の死後、姉がどんな運命を辿るか分かっていただろうに。雪男が孤独な姉を見て哀れむたびに、見透かしたように呟いていた。
『あいつはあれでいいんだよ。誰の思惑からも外れているほうが。』
 雪男はそれをただ義父が姉を甘やかす口実に言っていたと思い込もうとしている。雪男にしてみれば姉にもっと厳しく勉強させたり、世間の渡り方を教えたほうが、よほど姉にとって有用だったのではないかと。
 姉の良いところは雪男だって認めているが、それを少しくらいは押しつぶしたり歪めたりしても、姉にとって有利に働くのは予想は容易い。
 姉は言葉を詰まらせながら、亡き義父を弁護している。
「だ、だけどさ……俺って、知られた途端に殺されて当然だったかもしれねえだろ。メフィストもそう言ってたし。あいつもそういう今すぐ自殺するか、騎士団に殺されるか選べって言われたし。」
 雪男はそれもメフィストが燐を試す為に言ったのだと言いたかったが言葉を飲み込んだ。下手をしたらメフィストへの心証を上げてしまう可能性があったからだ。
「神父さんが死んだから、自分だけで姉さんのことを背負うのは話が違うって言いたかったんじゃないの?」
「何言ってんだ! お前、あいつは胡散臭いやつだけど、そんなに卑屈で臆病な奴じゃないだろ。」
 急に姉が激昂する。雪男は地雷を踏んでしまったと唇を噛んだ。
「ごめん。僕にはフェレス卿の思惑はよく分からないことがあるから。疑心暗鬼になっていたかもしれない。でもさっきの姉さんの一言で目が覚めたよ。あの人は友人だった神父さんの遺志をないがしろにするほど、最悪の悪魔じゃない。」
 姉を宥めるために雪男は心にもない言葉を吐く。雪男にとってメフィストも、姉が心を許している時点であまり味方とは思えない。姉の近くからは排除したい対象だった。
「そんなフェレス卿には感謝している。でもね姉さん。そんな人にだからこそ、迷惑かけたくないって思わないかい?」
「う……。迷惑……。」
「迷惑とは言いすぎだけど。姉さんが進んで騎士団の意志に沿うということは、フェレス卿にとって騎士団への忠誠が誤魔化しでないという証明になるんだ。神父さんの名誉も回復出来るかもしれない。ある意味、この網走行きが早まったのは僕らを試すためかもしれない。約束が違うと反抗したとなれば、フェレス卿を悪く思う連中にそれみたことかと餌を与えてしまうことになる。」
 燐は俯いて肩を震わせている。姉はもう落ちたも同然だった。
「姉さん。」
 促すように姉を呼ぶと、姉は俯いたままこくりと頷いた。
 
     *   *   *
 
 勝呂竜士は空席になった祓魔塾の教卓のすぐ前の席を見ながら回想していた。
 
 サタンの娘は十八歳の四月一日から網走にて一生を過ごす。
 これを聞いた当初、勝呂はこの運命を惨いと思った。それでも心の片隅では納得してしまった。これはサタンの娘に対する当然の対策だと。
 自分は出雲に言わせれば恥ずかしげもなく「サタンを倒す」なんて言った男だ。多少急ぎ気味にはなるが、三年間も時間があれば、どうにか出来ないことはないと思った。どうにか出来ると思えなければ、あの日、あの少女――、奥村燐を抱き締められなかった臆病な自分が情けなくて、気持ちで負けてしまいそうだったから。
 三年生の三月までにサタンをどうにかすると言う事は、もしかしたら奥村燐の網走行きを阻止出来るかもしれないということだ。奥村雪男から燐がサタンの娘である真実を聞かされて、燐と距離を置いてしまって、数日丸々過ごして考えた青臭くて無謀な結論だった。
 勝呂がここまで燐に入れ込む理由ははっきり言って、無いに等しい。真実を聞かされた当初は、燐と関わらなければ良かったとか、まだまだ引き返せるとか考えていた。でも燐を今更ほうって置くことが出来なかった。
やっと決心がついたところで、燐にこの自分らしくない思いつきを話してみた。すると燐は目を輝かせて言った。
『あのサタンを倒せば、俺は網走に行かなくて済むんだよなっ。どうして思いつかなかったんだろ。サタン倒せたら、勝呂と離れなくてもいいし。雪男巻き込んで網走に引きこもる必要も無いじゃん。』
『ただの思いつきや……。自分でも無茶なことは分かってる。』
 何せ勝呂が他人の前でうっかり口に出す度に笑われていた目標だったから、なおさら自信がなかった。そのうえ、燐は義父に憑依したサタンをその目で見ていたらしいから、受け入れてもらえるかどうか余計に不安になっていたのもあった。なのに燐はあっさりその言葉に食いついてきた。散々な身の上の少女が見つけた希望にしては頼りなくて無茶苦茶だと勝呂は思ったりするが、燐にとっては思いのほか
『でも、ありがとうな! 勝呂が思いついてくれなかったら……ううん。とにかく、ありがとう!』
 出会った当初の頭が悪くて無愛想な少女はそこにはいなかった。ましてやサタンの娘という運命に翻弄される孤独な少女なんていなかった。そこには新しい希望を見つけた前向きな少女がいる。その希望を与えたのは他ならぬ自分だったようだ。
 もしかしたら、ぬか喜びに終わる変な希望だったのかもしれない。それを無責任に口に出してしまって、後から後悔させるかもしれない。でも、この彼女の笑顔は、当時の勝呂にはかけがえのない真実だった。
 
     *   *   *
 
「やあ。奥村先生。網走に赴任されたとはいえ、こうしょっちゅう顔を合わせていると、未だに貴方が私の学校の教え子のように思えてきますね。」
「そうですね。理事長。」
 雪男はにこやかに返事をしたが、心中ではそれならそう何度も呼び出さないで欲しいと思った。祓魔師にとって、鍵を使った移動は常識中の常識だ。
「今日もお姉さんはお留守番ですか。」
「はい。」
 短く答えて、少し愛想が無かったかなと雪男は気になったが、メフィストに対して恨み言はあるのでまあいいかと流すことにした。あまり姉である燐から目を離したくないのに、この悪魔はしょっちゅう自分を呼びつけては姉の様子を聞きたがる。この悪魔曰く――。
「末の妹の様子は気になりますよ。」
 だそうだ。雪男はそれに異議を唱えたい。彼女はお前の妹じゃない、僕の姉だと。メフィストにしてみれば何桁いるか分からない兄弟姉妹のうちの一人だ。だけど雪男にとっては「唯一の姉」だ。分母の小ささが勝ちを決めるわけじゃないが、思いの密度を同じにされては不愉快だ。
 そんな雪男の思いを知ってか知らずかメフィストは軽口を叩く。
「たまには連れて来てくれればいいものを。なんだかんだで、燐にとってもここは母校なんですから。」
 義父が死んでこの学校に移ってきた当時、燐が例外的に威嚇しない男の一人にメフィストがいた。つっかかりながらも、燐とメフィストの関係は良好とも言えるものだった。死んだ義父のように燐をからかいながらも甘やかさず、放任しているようで、さりげなく気を配っているのが雪男には気に食わなかった。自分の役所を掻っ攫われたような気分だったから。
「姉の処遇は貴方を越えてヴァチカンから下されたものです。幾ら貴方に請われても無理なものは無理です。」
 それは半分近くが嘘だった。なんだかんだで成人するまではメフィストが後見人になっている。ヴァチカンの権限という制限が科されようが、メフィストには燐の顔を見たり様子を窺う権利がある。メフィストはそれを見透かしているのだろうが、雪男の言い分には反対も賛成もしていない。
「そうですか。」
「それでは失礼してよろしいでしょうか?」
「いいですよ。」
 雪男はメフィストが指差すドアの鍵穴に魔法鍵を差し込んで回した。扉の向こうは網走の教会の礼拝堂だった。
 
「雪男? そんな懺悔室の隅で何してんだ?」
 短時間の用事の時には、特に姉に行き先を伝えていない。あちらこちらの正十字騎士団の教会を手伝っていると日頃から言っているので、本部に呼び出されているということは燐には黙っていた。燐も訊かないのだから、姉の能天気さにはある意味感謝している。
 自分がしょっちゅうメフィストに会っていると知られれば、姉は間違いなくついていこうとするだろう。そのついでに学園で出来た友人とも再会しようとするだろう。
 今のところ、上手く姉を幽閉している状態を納得させている。この生活を雪男は末永く続けたいと願った。
 
     *   *   *
 
 勝呂は現在二年生の二学期を迎えていた。現在所有している称号は詠唱騎士と竜騎士。元々取ろうと狙っていた称号は獲得していた。塾の同期はそれぞれ素質のある称号をみんなが得ている。ただ志摩は詠唱騎士を目指していたのに、それは未だ取得出来ず、先に騎士の称号を取るという事態になったが。
 燐は騎士の称号を獲得したらしい。「らしい」と曖昧な言い方になってしまったのには理由がある。燐はもう、正十字学園にいないからだ。燐は今、網走にいる。
 姉が網走に行ったら半年しない内に自分も網走に行くと言った奥村雪男も、既にいない。姉と一緒に網走に行ったからだ。特待生で成績も主席の雪男の突然の転校(公の記録によれば)は、主に女生徒の間で騒然の話題になった。二年生に上がるまでには騒ぎは沈静化したが、その間、姉の退学については祓魔塾に通っていない生徒の間では、ほとんど話題に上らなかった。
 三年あったはずの時間が、実際には一年もなかった。悠長に構えていたつもりはない。でも間に合わなかった。
 学生の身分の勝呂では網走までなかなか行けない。今の勝呂と燐の交流は手紙に限られている。
『勝呂。結局去年は冬休みにジジイの墓参りにしか行けなかったんだ。どうしてもみんなに会うのには、まだ時間が取りにくいってさ。』
「ほう。そうなんか。」
 燐の手紙の書き方が実際に喋っているようだから、独り言になってでも相槌を打つ自分がいる。
『そっちは九月になっても暑いのか?』
「こっちは残暑が厳しいで。」
『こっちは夏はそこまで暑くならないけど、去年の雪は凄くて大変だったんだぜ。』
「知っとる。知っとる。お前に言われんでも想像つくわ。」
『俺このごろクッキー作って、それでちょっと稼いでるんだ。』
「お前は料理が上手かったからなあ。」
 手紙を読んで相槌を打ちながら返事を書く。一人きりの寂しい会話だった。
意外と燐は筆まめだった。悪筆でもあったけれど。
 手紙は頻繁に送られてくる。自分の近況を書いたあとに勝呂の近況を訊き返す形の手紙だった。本人は手紙で暴露していないが、全ての手紙の内容を雪男に把握されているに違いない。悪い意味で言えば、燐も勝呂も当たり障りのない内容しか書けていないのかもしれない。
『その売りもんにしてるクッキー。一度食べてみたいんやけど。良ければこっちに宅配便か何かで送ってもらえんか? 志摩が、お前の手料理をまた食べたい言うてごねとるから。』
 なんか無性に笑みが零れる。
 自分の恋に気付いたのはそんなに最近じゃない。でもずっと決心が付かなかったから、何も告げられずに今に至っていた。





前にあげたサンプルに加筆して載せました。これから少しずつアップしていこうと思います。

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☆ss「エメロードアナザールート」① 雪男とアマイモン

 新聞の読者投稿欄の悩み相談が雪男の目に止まる。
「……くだら、いや。」
 口が滑った。雪男はいやいやと首を振ってまた文面を追う。
 何処の誰かは知らないけれど、たぶん自分とそう歳の変わらない学生からの投稿だった。どうやら相談者は親と友達関係と進路のことで揉めているらしい。自分の夢と友達づきあいを優先したい相談者に対し、親は勉強と将来の安定に身を入れて欲しいから、安易な約束事と進路決定をするなとうるさいそうな。
「悩み相談で投稿するなんて――。まあ、ある意味前向きなのかな?」
 回答者はその相談者に対し、今の状態は明らかに互いの考えの押し付け合いの一方通行になっているから、本当の意味で腰を据えて話し合えと言っている。結論はそれなのだが、その前置きに相談者の気持ちは本当に良く分かると重ね重ね書いてあった。人を説得する常套句だなと雪男は思った。そしてわが身を振り返る。
「僕って普通の悩みって、ないよな。」
 進路はほぼ確定しているし、不本意な形であっても干渉してくる親もいない。しかし逆に社会的にも生命的にも綱渡り状態の双子の兄がいて、胡散臭い上司はいる。明らかに普通の十五歳が置かれている状態じゃなかった。
 それを特別に苦に思ったことはない。ただいつから自分はこんなになってしまったんだろうとは思う。それにも答えは出ている。義父に兄の将来がやばいと聞かされた時から始まっていると。
『雪男。兄さんを守りたくないか?』
 その言葉は雪男の運命を変えた。
 まだ幼かった雪男は兄の受難を先回り出来ると考え、必死になって勉強して祓魔師になった。そしてその結果が今である。いつも自分に対して自分のことはよく分かっていると言い聞かせ、そして自分自身に折り合いを付けてここまできた。悩むより前に何もかも自分で解決した。
 ところで現在この部屋に兄はいない。
「あのすっとこどっこいが……」
 金曜日の夜から土曜日の昼まで寝続けたと思えば、日付が変わる頃にふらっと出て行ったまま帰ってこない。それには頭が痛くなるが部屋に帰ってきたところで説教をして、来週から拘束を強めればいいことだ。また自分で解決案を出してしまった。
 兄は化け猫のクロを連れているらしい。部屋が妙に広々としている。そうだ。落ち着かないから新聞なんか読んでいたんだ。そしていつもは見ないような読者欄なんか見ていたんだ。それで自分と世間のズレを認識するなんて。なんて遣る瀬無いんだ。
 新聞はやめて兄の読み捨てた雑誌を拾い読みする。雑誌の記事は日曜のデートやレジャースポットとか、食い物屋や遊び場の記事が続いていた。
「僕が最後に外食したのは、仕事の営業の時だったような……」
 この雑誌に載っているような、恋人同士や家族同士で食事を楽しむような雰囲気じゃなかった。唯一の家族である燐とも、この一年間を振り返っても、一緒に休みの日に外出したり外食なんかしたことない。でもついこの間、燐は一緒に任務に出かけていた時の通称・ロケ弁と呼ばれるものを雪男の隣で美味しそうに食べていた。
「いやっ。それは外食と違うだろ!」
 それを思い出すと、今すぐにでも外に出て兄を探したくなる。それからたまには二人で外で朝ごはんを食べようという、狸の皮算用みたいな計画も頭に浮かんでくる。しかし今は深夜だ。そして兄は帰ってくるかどうか分からない。
 雪男は頭を掻き毟る。ろくでなしで甲斐性無しであんぽんたんな兄でも、この雪男にとっては誰よりも可愛いのだ。
「よく考えれば、僕と出かける約束でも取り付けておけば、兄さんは案外、ここにいてくれたかもしれないじゃないか。ついでにしえみさんも誘えば確実じゃないか。どうしてそれが思いつかなかったんだ。」
 慣れない学校生活と塾の授業に兄を馴染ませることに神経をすり減らしていて、少しは余裕が出てきた今日のこの頃だったのに。気持ちは今も最初の緊張を孕んだ毎日に引きずられていた所為だ。兄のほうはそんな雪男の気持ちも知らず、悪魔友達のクロと夜遊びしてやがる。
「そうだよ。兄さんのほうから誘ってくれても……。」
 この際だからあの兄にも責任転嫁してみよう。しかし雪男ははっとなる。
 よくよく考えれば、自分は兄にとっては近寄りにくい存在になっていることに気付いた。塾の講師であることしかり。同室の監視者であることしかり。雪男にとっては必要があって、なんやかんや干渉して兄にとって数々の嫌なことを言ったけど、それが兄弟の溝になっているのか。
「僕が、僕が悪いのか? 自業自得なの?」
 雪男は慌ててスマートフォンで兄の携帯に電話を掛ける。部屋の中の兄のベッドから着信音が聞こえてきた。
「あの野郎。携帯置いていきやがった! 馬鹿だろあいつ。馬鹿。馬鹿。意味ねえっ。」
 何を今更という感じだが、何気に雪男は夜の零時過ぎからずっとこの部屋で兄を待ちぼうけしていた。知らず知らずの内にストレスが溜まっていたようだ。そして誰にも観測されない密室だから、雪男は行き場のないストレスを吐き出している。
 しかし観測者がいないイコール、それを受け止めて聞いてくれる人もいないということである。雪男の中では部屋の中でぶち切れる以外の選択肢しかなかった。
 壁に掛けていた時計が三時を指す。そろそろ待ちぼうけも限界だった。
「ふふふ。いいだろう。そろそろ僕自ら出るときがきたようだな。」
 雪男は少年向けテレビアニメの悪役のような台詞を呟くと、寮の部屋から抜け出す。つい癖で上着は祓魔師のコートで、二丁拳銃も装備済みだった。兄を迎えに行く割には完全装備で物騒である。
 兄のことだからどうせクロと特訓と称したちゃんばらをしているに違いない。それならばあの炎だって全開だろう。とういことは、人目につかない、しかも学園内にいるはずだ。見事な三段論法に雪男は笑む。しかしいかんせん該当する場所は正十字学園には数箇所ある。雪男は燐と双子である自分の勘が当たりますようにと願いながら、とある場所を目指した。
 
     *   *   *
 
 さながら要塞のような正十字学園の敷地は、メフィストフェレスの屋敷を頂点に、無秩序に無差別に建物を土台にそのまた建物が積み重なっているような威容を見せていた。基本が学校関係者と祓魔師の関係者、そして聖職者が集められている割には、巨大すぎて何がなにやら分からなくなっている。つまり無駄な建物や打ち捨てられた場所も多いことだろうと雪男は思っていた。
 そんなエアースポットの一つで雪男はとんでもないものに遭遇した。
「待てやくぉらあああああ!」
 背後に迫る影。途切れ途切れの自分の息。それが死を実感させる。
「ちっ。見失った。」
 まるで紅い死神のようだと雪男は思った。自分は悪魔の手を引いている。しかしその悪魔は兄じゃない。あの死神が赤で、兄が青とするならば、その悪魔は緑だ。
 学園の最下層に近い尖塔の側。
「お兄さん。助けてくれてありがとうございます。」
 雪男の汗ばんだ手は、その抑揚の無い声にふさわしいひんやりした手を握っていた。自分のほうにそれを引き寄せて緑色の頭を抱え込む。その悪魔は驚いたように目を見開いた。
「とりあえず、あの人は撒けたようだ。失礼。息が切れてしまって。少し休みましょう。」
「分かりました。改めましてありがとうございます。」
 抑揚の無い声で感謝の言葉を吐く悪魔。虚無界八候王の一人で地の王・アマイモンだった。振り向いて影から様子を見ると、シュラは一旦他の場所を探しに行ったらしい。
 なんでこんなことになっているかというと――。最初に駆けつけた場所が大外れだったから。兄はいなくて、助けを求めるアマイモンと、その背中を追う紅い死神こと霧隠シュラがいた。シュラは名前からして、もうそのまま死神と読ませてもいいんじゃないと思わせるような字面の名前の女だった。しかも名前どおりの死神のスペックを持った女である。つまり存在そのものが死神と言っていい。
「ですがアマイモンさん。」
「いやっ。アマイモンって呼んで!」
 反応したら負けだと思った。昼メロじゃねえんだよと雪男は表情には出さないように毒づくが、今の自分とアマイモンの状況を考えてみると、まるで追っ手から逃げる駆け落ちカップルみたい思えてきて、ちょっとげんなりしてきた。しかし、自分の片手はアマイモンの手首を握っているし、もう片方の手はアマイモンの腰に回ってその身体を支えている。そしてアマイモンは体重を完全に雪男に委ねていた。
 状況からして、先のアマイモンの台詞はその場にぴったりだった。嫌な感じに。
「ところでアマイモンさんは、シュラさんなんか敵でもないでしょうに。どうして逃げ惑っていたのですか?」
 今は正十字学園にある公園跡地のような場所の、ちょうどいい土管の中。よくもまあこんな場所にちょうどよくそんなものが転がっているものだ。しかも四方は伸びっぱなしの木の枝に覆われている。アマイモンは息を切らすこともなく、それでもなんだか大義そうに雪男の肩先に凭れかかった。
「僕いま、おなかすいてるんです。」
「あらら。力が出ないんですね。」
 寝不足になった時の兄を見ていればよくわかる。悪魔はどれだけ上級で強くても、空腹や眠気で簡単に弱体化しやすいのかもしれない。
アマイモンは頭からすっぽり雪男のコートを被せられている。悪魔特有の瘴気とも言える何かを少しでも隠すためだった。
「お兄さん、優しいですね。僕を追っかけまわしているお姉さんは怖いのに。」
「あれは僕の上司ですよ。それに昔からの馴染みでもあるんです。」
「じゃあ、なんで?」
 助けてくれたんですか? 目がそう訴えている。雪男は深い溜息をつきながら言った。
「成り行きですよ。あなたを倒せという任務もありませんし。あなた自身は、理事長から呼びつけられてるらしいとの噂もありますし。」
「僕は確かに兄上に呼ばれて物質界にいます。」
 アマイモンはそのとき、少しだけ俯いたように見えた。雪男は「あれっ?」と思う。しかし自分にしても成り行き上の付き合いはこれまでだと考えて、コートをアマイモンから取り上げて言った。
「ここでじっとしていなさい。シュラさんは僕がなんとか足止めしておきます。またあなたはあの人に追われるかもしれませんが、今回だけは僕が丸く収めます。」
 ここまで言ったところで雪男のスマートフォンが鳴る。
「誰だよ。」
 電話にでんわとは言ってられないので仕方なく出る。
「はい。奥村です。」
『グーテンアーベント。メフィストフェレスです。今私が見ているモニターにあなたたちが映っているのですが――。』
 雪男は辺りを見回した。もしかしたら監視カメラでも設置されているのか。こんなところに意味が無いと雪男は呆れる。それなのに人の心を読んだようにメフィストは言葉を続ける。
『そういう人気のないところは、時々カップルがいちゃつくんですよ。私のちょうどいい悪魔らしい娯楽のためですかね。』
「ああそうですか。」
 投げやりに返事をする。さて本題なのですがとメフィストは言った。雪男の胸中に不吉な予感が過ぎる。
 電話を切る。
 このまま会話を続ける。
 前者の選択肢を採りたいところだが、相手は上司だ。しかも後見人だ。アマイモンが側にいるから、どうせ言われることは予想がついている。
『全てを諦めたような顔をしないで下さい。私はただ弟をそのまま無事に、学園の外まで護衛して欲しいだけなのですよ。』
「弟君はお腹が空いているそうです。そっちのほうの対処はどうすればよろしいのですか?」
『何かご馳走して頂ければ助かります。』
 なんでと雪男は叫びそうになったが、なんとか堪えた。当然予想できる答えだった。こんなところで心拍数や血圧を上げるのは不毛だ。そう言い聞かせて善処してみますと言った。
『それではグーテンナハト。』
 電話が切られる。それと同時にアマイモンが後ろから抱き着いてきた。
「兄上は僕を追い返すつもりなのですか?」
「追い返すというより、ここでは一旦外に逃げて欲しいみたいですね。」
「そうですか。」
 悲しそうな様子はない。ひたすら無表情で感情の起伏の窺えない声を聞かされる。
「アマイモンさんはお腹が空いているそうですが、金品は持っていないのですか?」
「僕のためのキャッシュカードは持たされてます。でもお金がないから僕は兄上のところに来たのです。」
 金をせびりにかいっ。
雪男は心の中でつっこんだ。つまり有り金を使い果たしたから、現金を貰いに来たのだろうな。というか昼間のうちに金を下ろしとけとも思った。
「深夜ではコンビニのえーてぃーえむも使えないこと、知らなかったんです。」
「それは、しょうがないな。」
 それだけは教えてやらなかったメフィストが悪い。しかし悪魔の癖に、律儀に非合法活動に手を出さずに兄弟を頼るところには好感が持てた。
少し前の燐とアマイモンの確執がなければ、今雪男の背中で大人しくしているアマイモンは、行儀のいい世間知らずのお坊ちゃんに見えた。
雪男は案外こういうのに弱い。しえみとか。しえみとか。しえみなんかがそうだ。
「わかりました。それでは僕と一緒に学校の外に出ましょう。」
 その時、土管の前方からとてつもない殺気とも狂気ともつかない気配が吹き込んできた。
「どーこーへーいくのかなー?」
 さかさまになったシュラの顔が覗く。
「みーつけたあっ。」
「アマイモンさんっ。」
 声を掛けると同時に土管は雪男のすぐ目の前で輪切りにされた。後ろを狙われていると判断した雪男はアマイモンの手を引き、思い切ってその前方の切り口から飛び出す。
「なにやってんですか。シュラさん!」
「あれ? 雪男じゃん。よく見たら。つか、何やんってんの?」
「だから、なにやってんの? は貴女でしょうが!」
「あ。その言い方。私に敵対する気満々ってこと? っていうか、見たら分かるし。あんたその子猫ちゃん連れて逃げるってことかい。」
 雪男は舌打ちする。こんな時だけはやけに察しがいい女だった。
 目の前は緩やかな傾斜。深い藪の向こうに町が見える。雪男が思っていたよりも町に近い地点だったようだ。
「アマイモンさん。突っ切ります。町に出ればシュラさんの能力は目立つので、彼女に不利に働きます。」
 町まではあまり実用的ではない石段をひたすら駆け下り、主要道路まで走るしかない。しかし、それではアマイモンの体力が持つかどうか分からない。たぶん持つだろうけど、空腹による無気力がどう影響するか分からない。
 分からないことと言えば、どうしてアマイモンはシュラに追われているんだろう。シュラは普段の言動から軽い性格だと思われがちだが、意外と聡明な部分はある。それなのに任務でもないのに地の王を討伐するなんて考えにくい。となれば、彼女は必ずしもアマイモンを害する気はない。
「そういえば――。」
 走りながら考えてみる。町に出る前に遣われていない祈祷所のようなところがあったはずだ。そこのドアの鍵穴を使って外に出られないものだろうか。鍵は教会や神社、寺関係とさまざまなところに通じている。土地勘のある南十字教会付近で出られれば、シュラの脅威を避けられる。
 ただし雪男の持っている鍵は大量にある。しかしそれらを全部試してみる必要はない。常日頃から自分なりに分類してそれを記憶しておいたことが功を奏した。さすが雪男は伊達に頭がいいわけじゃない。その祈祷所の鍵穴に合う鍵がどれか、だいたいの見当はついている。よほど祈祷所の鍵穴が特殊でなければ、見当がついている三つの鍵の一つぐらい当たってくれるだろう。
 曖昧な記憶ではあったが、予測していた通りの場所にそれはあった。
シュラはあまり急いできていないようだ。身内である雪男が絡んできたことで、躊躇でもあるのだろうか。そんなことは、とりあえずあり得ない。大方遊び半分に、巻き込まれた雪男まで鬼ごっこの対象にしようとしているのだろう。だからゆっくり来るつもりなんだろう。ハンデでもくれてやったつもりだろうか。よりゲームを面白くするために。
 紅い髪が遠くで揺らめくのが見える。彼女は徒歩だった。それでも足取りは速い。彼女のハンデをつけたスピードが勝つか、雪男の鍵の予想が勝つか。
 三つの見当を付けた鍵がある。アマイモンがまずこれと横から鍵を奪ってきた。雪男はあっと声を出すが、揉めている暇があったらアマイモンに鍵を回させたほうが早いと判断して、アマイモンに対して頷いた。
 
 カチっ。
 
 なんと一発で当たりを引いた。扉の中に二人は飛び込んだ。





最初から大ピンチなのでした。ここから雪男とアマイモンの秘密の逃避行開始です。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」番外編(明陀)「ゴールデンタイムルーザー」志摩勝志摩

『何で誰も助けてあげんのん?』
 
 柔造は弟の問いに黙っている。だから殊更廉造は主張する。
『なんで誰もあの子を助けてあげへんのん? いつもいつも坊、坊、言うて大事にしとる癖に。祟り寺の子言われて泣いとるあの子を、どうして祟り寺から出してあげへんの?』
 柔造は答える。十歳年下の弟を諭すように。
『廉造。坊は祟り寺から出て行きたい言うたか?』
 廉造は黙って首を振る。しかし口をついて出たのは「でも」だった。
『ほんでも可哀想やんか。』
『それは俺も思うとる。でもなあ、』
 そこから先はきかん気盛りの廉造は聞きたくなかった。所詮兄たちは「あの子」をあの寺から出す気はないんだと。そして「あの子」は寺から出て行くことを考えないのだと。だからこの先も「あの子」は悲しい思いをしなきゃいけないんだと。
『いつか俺があの子を。』
 
     *   *   *
 
 廉造は夢から覚めて身体を起こす。昔の自分に叱られた憂鬱な気分だった。
「なにがいつかや。」
 この正十字学園に親の言いつけで入学した時点で、自分も坊こと勝呂竜士をあの「祟り寺」に縛り付ける片棒を担いでしまったようなものだった。幼稚園頃に誓った志を、なんら困難に直面することなく自らが台無しにしたも同然だった。運命に流されやすい面倒くさがりな性格をひたすら自覚するばかりだった。
「まだ三時もきとらん。こんな時間に起きたら俺確実に寝られんやんか。」
 緩そうな見た目に反して、廉造は意外と神経質だった。それは誰にも内緒だった。しかしこの頃はそれが目に見えて度が過ぎるような気がする。以前よりは寝つきが悪く、以前より夢見が悪い。
 勝呂はすやすやと寝息を立てている。鍛錬や勉強への努力によって、健全な肉体と精神を保っているが故だった。同じ部屋のの子猫丸は名前に猫がつくので、それこそ猫のように布団にくるまって気持ちよさそうに寝ている。
「はあ……。どないしよ……。」
 しょうもなく一人呟いてみる。眠れない理由はいろいろあるが、新しい心当たりとしては、とある同級生の存在があった。
『奥村燐……。むかつくわ、あいつ。』
 最近勝呂が妙に気にしている男。
そいつは双子の弟で塾の講師である雪男から虐待を受けている。その理由は弟に対するスケベ心と、悪魔の血を継いでいるという弱みかららしい。それにあろうことか勝呂が同情というか、手を差し伸べずにはいられなくなったらしい。廉造はその二人の光景を見て酷く苛立つ毎日だった。
『大体、奥村燐はな、自分の悲惨な状況をなんら解決出来へん甲斐性なしやんか。』
 さっき自分が自分に対して憤ったことを、そのまま奥村燐に当てつけている。しかし廉造はそのことについては別件のように棚に上げていた。
『ずっと弟にやられっぱなしやし。何で前向きに頑張り続けてる坊があいつを構うねん。見下したらええんや。あの悪魔は。坊が助けてやらんでもええやんか。』
 心の中で悪態はつくが、坊は人の心の痛みが分かる男である。だからあの悪魔に心惹かれてしまっている。
 
 だって。奥村はほっとくと一人で抱えてまうから。
俺だけでも味方やて言い続けないと。
 
 目元をほんのり染めた坊が目に浮かぶ。
 
「うがっ。」
 思わず歯を剥いて吠える。自分の声にはっとするが、子猫丸が少し唸って寝返りを打つだけに済んだ。
「セーフ。」
 息をついて目を瞑ろうとしたが、ばね仕掛けのようにやはり身体が起き上がる。
「やっぱり眠れへん。奥村のへらへら顔が目の前にちらついてたまらへん。」
 あのへらへらを、少しぐらい凹ませても罪はないのではないのだろうか。しかし日常的な弟からの虐待を受けてもほけほけしている悪魔相手に、どんな嫌がらせも通用しないだろう。
『いや。通用せえへんからこそ、やりようがあるんやないか。』
 目に見える悪意というのを、あの悪魔に味あわせてやりたい。どうせそんなに傷つかない奴なんだから。その間抜けな様を見て嘲笑ってやるのも、憂さ晴らしの手段かもしれない。あんな奴は他人のたたき台になるのがお似合いだと、廉造らしくなく燐に積極的に牙を剥こうとしていた。
「そうと決まったら、夜が明けるまでにやるで。」
 廉造はベッドの下にしまいこんでいた道具を取り出して、寮の部屋をあとにした。
 
     *   *   *
 
 ちゅんちゅんとすずめの囀りが聞こえる。いつもと変わらない旧男子寮。唯一使われている部屋のドアの前には、しかし呆然とする雪男の姿があった。
 
『万事屋燐ちゃん』
 六○二号室のプレートがあったところに、墨で妙に達筆で書かれた看板がぶら下がっていた。それを誰よりも早く発見した雪男は、まず兄とアーサーを廊下に正座させて尋問することにした。
「兄さん。幾らフェレス卿からの小遣いが少ないからって、こんな新しい商売を始めようっていうの?」
 燐は大袈裟にぶんぶんと首を振る。
「俺じゃねえし。」
「俺でもないし。」
 燐とアサ子は正座の足を崩して体操座りになる。雪男は兄が容疑者になった理由を、咳払いの後に説明しだした。
「兄さんは以前、調理室で『奥村屋』の企画をしたからね。念の為に尋ねただけだよ。兄さんはこんな綺麗な字は書かない。」
「わかってくれて、助かった。」
 しかし雪男は燐に人差し指を向ける。
「だけど兄さんが誰かに依頼して書いて貰ったかもしれないね。勝呂君あたりに。でもそれも無いってことは、僕は分かっているよ。この字は彼の字じゃない。そしていつも塾のテストの答案の採点をしている僕だから、この字の主はすぐに分かった。」
 雪男は一人でボケて突っ込む。それを上目遣いでアサ子ことアーサーは、「だったら俺たちを正座させなくてもいいじゃないか」と一人ごちていた。頭脳が明晰な雪男ではあるが、朝からいきなり、なんじゃこりゃあな看板を見せられて動転していたらしい。燐たちに何かしら八つ当たりしている間に冷静になったようだ。
 それらを気にせず燐は弟の推理に乗ってやる。
「じゃあ、誰の字なんだよ?」
「志摩廉造。くそう。あの垂れ目ピンク頭……。」
 雪男は無表情で看板を殴る。燐はどうどうと手を翳しながら言う。
「雪男。そこまで怒るなよ。たかだか看板じゃねえかよ。」
 雪男は燐の胸倉を掴む。
「兄さんには分からないの? この看板に込められた悪意が。」
「え? これって嫌がらせなわけ? せいぜいドッキリだろ。」
「もういいよ。ドッキリって思ってるならドッキリでいいよ。でも僕はこれに泣き寝入りするつもりないよ。」
 なにやら熱くなっている弟を見ていられないのか、燐は雪男を落ち着かせようと両肩を後ろから掴んでやる。しかしその手は振りほどかれた。
 燐は弟の発言を無意識に呟く。
「泣き寝入りってお前……」
 泣き寝入りとは古の民草が専横な暴君に搾取されながらも、何も抵抗が出来ない様を表すのではないかと、某水戸黄門なんぞを見ながら燐は思っていた。しかし雪男は悪魔の暴君であるサタンの息子さえ泣かすような弟なので、燐は弟の意外な沸点の低さに驚くばかりだったのである。
「あのね。言っとくけど兄さんは何もする必要はないから。」
 雪男は看板を外すと、膝に板を添えて両側から力を加えてへし折った。
「何が万事屋燐ちゃんと、眼鏡と金髪だ。……兄さん。ほんとに兄さんは何もする必要ないから。つーか。何もするな。勝呂君への報告こそ問題外だからね。」
 雪男はそう言うと燐とアサ子を残して、ずんずんと寮の出入り口に向かって進む。
「くそう。あのどピンクが。舐めた真似しやがって。」
 
廉造の仕掛けた悪意はとんでもない方向に歩き出そうとしていた。
 
もしあの看板を一番に発見したのが雪男でなければ。もしその看板の犯人が廉造だと判明しなければ。もし雪男が怒らなければ。もし燐がその悪意に欠片でも気づいていれば。もし燐がすぐに一言でも勝呂にこの出来事を伝えていれば。
もっと違う展開になったであろう――。
故に、ここから始まる悪意のキャッチボールは、誰にとっても何も得しないものになってしまうのだった。
 
 
「坊。どうしたんです?」
 顔を洗いに行って部屋の前に帰ってきた志摩は、先に行って戻っているはずの勝呂が部屋の前で立ち往生しているのを見て奇妙に思った。しかしそれへの回答は、勝呂の視線の先を見て察した。
「なんじゃこりゃあ!」
 そこには『真選組屯所』の文字がデカデカと板に書かれていた。それを見て勝呂は呆然としている。隣にいた子猫丸もわけわからんと言った感じだった。
「あのくそがきゃあ!」
 志摩廉造は吠える。そしてその看板をやはり膝でへし折った。
「志摩っ。お前なんで、そんな怒っとん? その看板なんか意味あるん? 俺らは確かに京都人やけど。新撰組の字間違っとるし。」
 志摩は勝呂の言うことなど聞いてはいなかった。ただひたすら坊が受けた暗喩的侮辱に腸を煮えくり返していた。
「そっちがその気やったら……」
「志摩さん。僕ら何もしてへんのやから、敢えて無視するんも手やないですか?」
 嫌がらせを受けた際の消極的抵抗術を子猫丸は提案する。しかし、森林火災にただのバケツ一杯の水を振り掛ける程度の効果しか、廉造には与えられなかった。
「……そういうわけにもいかんのや。子猫さん。」
 子猫丸は悟る。これは十年前くらいの聞き分けのなかった頃の廉造の再来だと。
「そういうことですか。」
 子猫丸は坊の背中を押す。坊と子猫丸はこの件から遠ざかるべきだと思ったからだ。
「坊。これは志摩さんがどうにかしてくれるそうですから、僕らは無視を決め込みましょう。」
「いや。そういうわけにもいかんやろ。誰がやらかしたんかも分からへんし。」
 いいからいいからと子猫丸は勝呂を促して部屋に押し込む。志摩はそれに、続かない。そして何かの目的の為に廊下を走るのだった。
 
 
 朝食を終えて食堂から帰ってきた雪男はまたも看板を見つける。
「ふん。やっぱり来たな。」
 今度はどんな文字が雪男を怒らすのだろうと、燐はおそるおそる覗き込む。
「えーと……。」
 前の看板に変わって『スケット団』と書かれた看板が掛けてあった。燐は思わず呟く。
「ジャンプ繋がり?」
「ジャンプ?」
 普段はあまり漫画を読まないアサ子が首を傾げる。
「うん。この配役でアサ子が該当するのは、ヒメ子だな。ますます志摩の目的がわかんねえ。」
 今度は雪男は看板の真ん中を蹴る。
「わかったようなもんじゃないか。言ってみたらいいだろ? 僕はなんなんだい? あの漫画の三人組で該当するのは? 分かりやすい特徴で言ってみてよ。」
 何の気なく燐は答える。
「スイッチだろ。頭脳派の。だったらこれだと俺はボッスンか。それじゃ前の看板だったら、銀さんってことになるのかな。」
「そうだよ。だから前回は僕は、ぱっつあんだったわけだろ!」
 雪男の白い額に青筋が浮かぶ。今日は日曜日なのに、どうしてこんなに雪男はかっかしているんだろうか。燐とアサ子はあまりピンとこない頭で雪男に何も言えずにいた。分からないことが多すぎるからだ。
「くそう。重ね重ね許すまじ。」
 再び雪男は外に出た。
 
 
 ドアの前の気配に勝呂は部屋を出る。しかし誰もいなかった。
「ありゃ? また看板が? さっき志摩がへし折ったんやなかったかな?」
 看板を持ち上げて、書かれた文字が違うことに気づく。
「えー? 今度はなんや?」
 後ろからその看板を読み上げる声がした。志摩である。
「『麦わらの一味』やて?」
「ワンピースか。またジャンプか? ようわからんわ。志摩、なんでこないなことが二回も起きるん? 何か心当たりあるん?」
「あるわ! 坊の中の人的なアレや! 坊。仇は俺が取ったるから。」
 志摩はまた廊下を駆けた。取り残された勝呂は行き場のない右手を志摩に向かって翳すだけだった。
「麦わらの一味いうても、ゾロとナミとチョッパーしかおらんやんか。」
 あとから出てきた子猫丸が目を伏せて不満を呟く。
「チョッパーってもしかして僕ですか。そうですか。」
 
 志摩はまた看板の板を小脇に抱えて、新寮と旧寮の中間地点で立ち止まった。脳裏には目下の自分の仇敵の顔がよぎる。それは奥村燐ではなかった。白い端正な顔にいつも温度のない笑みを浮かべた、黒いコートの長身が筆を持って坊を嘲笑っている。
 廉造はそれが許せない。ふつふつと湧き上がってくるのは、あの反抗期真っ只中の幼少以降どこかに仕舞い込んではやり過ごしていた感情だった。憎悪に近いが憎悪ではない。男特有の他者への対抗意識だった。
「はっ。俺でもまだ、こんな感情が残ってたんか。」
 取り出した筆で感情を込めて綴る。
「奥村燐。そして、奥村雪男。おまけのアサ子。思い知れや!。」
 
 
 燐の買い物についていった雪男は、思わず生卵の入ったそれを床に落としてしまう。
すんでで燐がキャッチして事なきを得た。
「気をつけろよ雪男。貴重なたんぱく質なんだから。」
「兄さん。アレ。」
 ドアの前にはまた看板があった。
「今日はやけに看板が続くなあ。『毛利探偵事務所』? いきなりサンデーに飛んだのか?」
 (志摩が渾身で書いてもこれだった。)
「兄さんほんとに鈍い! また三人組で眼鏡がいるだろ!」
 燐も流石に雪男が怒っている原因が分かってきていた。
しかしそれに怒る雪男もやりすぎだと思う。かつての周りに化物扱いされたから、怒って暴れて、尚更嫌われていた自分を見るようで、頭が痛くなる。
「気にしすぎるのも良くないぜ。」
「ああ。分かったよ。兄さんが言うなら。でも僕らは後攻だから、もう一回やってお終いだね。」
 燐は止めようと思ったが、それでは雪男の気が済まないと思って「じゃあもう一回だけ」と言った。本当に弟に甘い兄だった。
その代わり、弟の背中を見送りながら、とある人物にメールをする。弟の怒り具合を見て、その人物の安否が気遣われたからだった。
「確か雪男は志摩がやったとか言ってたな。じゃあ、勝呂に連絡してみるか。……ついでにあいつの部屋に行ってみよ。」
 今から行くとメールをして、燐は雪男の後を追うように勝呂のいる寮へ歩き出した。一人になるのはいやなのか、燐の後をアサ子もついていった。
 
 
「奥村からメール……。」
「何ですか?」
「今から行くとだけ。部屋片付けないと。」
「片付けるものなんて、ありまへんでしょう。」
 しかし勝呂はいそいそと物を移動させている。子猫丸と勝呂のやり取りを聞いた志摩は舌打ちして、次の攻撃に備える。
「もうそろそろ来る頃やな。物音がしたら迎え打ってやるわ。」
 
 がたっ。
 
 部屋の外から確実に物音がした。志摩は飛び出す。そこには胸の前で腕組みをして立っている雪男がいた。
「はっ。やっぱり奥村君より字が綺麗やと思うたら。奥村先生やったんですね。」
「そうだよ。」
 雪男は不敵に笑う。
「今回は会心の出来だよ。」
 雪男が指差す先にはやはりドアに掛けられた看板。志摩はそれを見て一気に顔色を失くしたが、拳を握って目の前の敵と対峙する。
「はー。今回も俺に直接やなくて、坊を狙い打ったんかい。」
 
『れっつぱーりぃ!』
 
「したいんじゃないかと思ってね。勝呂君を筆頭に祭り上げてやったよ!」
 雪男は清々しい笑顔で告げる。志摩はきっと雪男を睨んだ。
「あんた卑怯やんか! なんで俺やなくて坊を攻撃するん?」
「君が僕を攻撃するからさ。眼鏡キャラでね。」
 志摩は目を見開いた。その口は「はあ?」と声に出している。
「なんでっ? ……そうか。俺はあいつを、うだつの上がらないリーダーやと当てこすったつもりやったけど。ぶっちゃけそれを………、奥村先生が勘違いしたんか!」
 雪男は目を剥く。
「勘違い? うだつの上がらないリーダー? じゃあ君の標的は――。」
 志摩はふふふと笑う。
「そうどす。あんたの兄さん。その人への悪意だったんどす。」
 部屋から勝呂が出てくる。部屋の前が煩かったからだ。そしてそれとほぼ同時に燐とアサ子も勝呂の部屋の前にたどり着くのだった。
「あ。ごめん勝呂。雪男がもう一回だけやり返したいからって。無事か?」
「え? 無事言われても。なんか先生と志摩が言い争ってるだけやったし。あんじょう志摩も、なんかお前にやらかしたんかい?」
 勝呂と燐が互いに驚いたように立ち話を始めてしまった。それを見た志摩と雪男は「しまった」と思った。
 
     *   *   *
 
「うちのもんがすまん。」
 勝呂が普段はがっしりとした肩を竦ませて、頼りなげにしゅんとさせている。
「いや。俺も弟がやり返さなかったら、こんなにこじれなかったと思うし。俺こそ雪男を止めないでごめん。」
「いやいや。元はと言えば俺らの側に非があったわけやし。」
 燐は勝呂の肩をぽんと叩く。
「俺のほうはいろいろ楽しかったから。お前のほうこそ、わけわからんで困ってただろ。」
 勝呂は肩に置かれた燐の手を、どぎまぎしながら見つめている。そしておずおずと口を開く。
「楽しかったって……。ほんまお前っちゅう奴は。」
 勝呂の部屋の中には六人の人間が詰まっていた。雪男と志摩はまだお互いににらみ合っているが、お互いの大人気なさを痛感しているようだ。子猫丸はソレ見たことかと溜息をつきながら茶を淹れている。それをアサ子は受け取って美味しそうに飲んでいた。子猫丸とアサ子は騒動の蚊帳の外に近い立場なので、悪意のキャッチボールの顛末をまるで気にせず茶飲み話をしていた。
「まあ俺はあの看板に書かれていたどのグループの中でもヒロインらしかったからな。」
「僕はなんでしょうねえ。どれも人数が合致しないものですから。ところで、アサ子さんは煎餅食べられますか?」
「ぽたぽた焼きは大好きだ。」
 可愛く笑うアサ子に子猫丸。子猫丸はぽたぽた焼きの袋を開けて、小分けにした袋ごと渡す。
「君らは気楽でいいよね。」
「ほんまや。こっちは必死で何回も寮の往復してやった言うのに。」
 貴重な日曜日の一日を潰して何をやっていたと言ったら、意味のない応酬をかましていたとしか言えない。
「それにしても若先生。人の心理の妙ってのを、分かってますなあ。本人への攻撃よりも、近しい人間への攻撃のほうがこたえるって奴ですか?」
「それを言うなら君だって、意図せずやってたわけだろ? 僕をけなせば兄さんが傷つくだろうって。願わくばもっと分かりやすい方法をとったほうが良かったと思うよ。聞いただろ? 兄さんは楽しかったんだってさ。」
 志摩は下を向いて唇を噛む。
「もっと分かりやすく、奥村燐を攻撃したとしても。どうせやり返すんは、あんたやろ。奥村雪男はん。」
「はあ? なんで僕が兄さんなんかの為に?」
 志摩はくくっと笑う。
「俺の穿ちすぎなら謝るわ。ちょっと思ってみただけや。」
 でも絶対、奥村燐が他の者に攻撃されたとしたら、奥村雪男はそれを許さないと志摩は確信する。そして自分もその通りのことをするだろうと思った。
 見えない悪意にも。見える悪意にも。この先、勝呂が『あの子』が苦しむようなことがあったとしたら。たぶん、いや絶対、自分はやる。
 
 
 燐たちが部屋をあとにして、勝呂たちはまた三人になった。
「今日はどうしてあんなことしたん? 面倒くさがりのお前らしくないやん。」
「ちょっとカッカしただけです。」
 勝呂は自分のスペースに行って入浴の支度をしている。唐突な志摩の暴走について、最近の心当たりを言ってみる。
「俺が奥村に構いすぎるからか?」
 違いますとは言い返せなかった。志摩は苦笑いを浮かべる。
「奥村君は何をやっても傷つかん人やと、ものごっつい勘違いをしただけや。ちーっとイタズラをやらかしてみたかっただけです。けして坊があいつを気にするからとか、俺は結局なんやねんとか、そないなことは思って……へんから。」
 勝呂はそう思ったんやなと志摩の天邪鬼な言葉を受け止めた。
「まあええわ。今日は何回もあっちこち往復したんで、よう寝れるやろ。また夜中に起きて変なこと考えんで済むんやないか?」
 志摩は気づかれたのかと、腰を浮かせる。
「何言うとん? 俺いつも遅うまで寝てて遅刻寸前ですやん。」
 勝呂は横目で志摩を見る。いつもどおりのへらへら笑いが、しかしながら精彩を欠いているように見えた。
「お前はそういう、やる気のない自分を見せる癖あるやん。わざとめんどくさがって、手を抜いて。でも俺はそれにずっと騙されてたわけやない。ここに来て何ヶ月経ってると思うとん? お前の寝つきの悪さくらいには気づけとるわ。」
 志摩は眉を顰める。勝呂は「ごめん」と志摩に告げる。
「お前の進学先決めるときのこと、覚えとる?」
 勝呂は唐突に今までの話の脈絡とは関係ないことを言う。廉造の記憶の中では、進路を決めた時は父親と兄の三人きりで、勝呂は関わっていなかったはずだ。護衛役は父親からの任命だったと恨めしく思いながら覚えている。
「ん?」
 だから志摩は首を傾げる。勝呂は続ける。
「お前は当たり前みたいに俺についてくるみたいに話進んどったやろ。それでお前が親とか恨んでへんかなって、ちょっと気にしとった。」
「なんで親のやることを坊が気にするん?」
 そもそも志摩は一族とか明陀を恨むとかという感情が希薄だ。無くなれと消極的に念じることはあっても、そこまで積極的な感情は滅多なことでは抱かない。なのに、異様に勝呂は気にしているようだ。
「お前の進路……正十字行きを決めたのは。……俺だった言うてもおかしくないんや。」
「それ。どういうことやのん?」
 勝呂は言いにくそうにしていたが、懺悔とばかりに口を開く。
「俺と志摩家の連中と、宝生連中と他の僧正の家で話があったんや。それで、次期当主の俺と子猫丸の二人きりで京都から出すんは心配やからって、柔造か金造が歳誤魔化して一緒に入学する言い出したんや。無茶や思うたわ。あいつらいっぺん在学しとったのに。それでもあいつらは納得せえへんかった。それで、対抗意識燃やした宝生家が、蝮とか青とか錦を正十字学園の職員として紛れ込ますとか言い出してな。他の僧正家も便乗してなんやかんや言い出しそうやったんや。その間にも、お前も抱きこんで正十字に進学さすなんて誰も言い出さなかったわ。」
「そりゃあ俺は、無気力なガキぶってましたからね。誰も俺のことなんか問題にしてなかったでしょうね。」
 自業自得も甚だしい。それで文句は言えないのを廉造は頭では理解していた。
「だから俺は言ってしまったんや。どうせなら廉造を目付け役にしてくれって。俺は廉造を凄く信頼しとるから、廉造に任させてくれって。そんとき苦し紛れやったから、お前には了解取ってなかったから、ずっと悪かった思ってた。」
「……。え? そんなことがあったんですか。」
 廉造は笑いを堪えている。大袈裟なことを嫌う坊は、僧正家の暴走を、廉造を人柱にする形で収めてしまったらしい。それは当然の帰結かもしれない。勝呂竜士は志摩廉造に頼らないと、僧正家の暴走に飲み込まれてしまったことだろう。
 廉造は勝呂に背中を向ける。拗ねられたと勘違いした勝呂が謝り倒している。今にも土下座してきそうな形で。しかし廉造は横隔膜の痙攣を抑えるのに必死で、肩を震わせている。
「ほんま。ごめん……。」
「は、ははは。謝らないでください。何を今更ですか。昔からあの人らはそうやし、俺も諦めてます。そんなことより、坊が俺についてきて欲しかった言うたことが嬉しかった。ただの明陀の一員やからやなくて、幼馴染のたっての願いやったんなら、天と地の差くらい違いますから。」
 今日はすらすらとやけに口を滑らせる日だと廉造は思った。そして頭の奥に一つ浮かぶ顔が廉造に笑いかける。「あの子」が。
「あの子」は助けて欲しいときに、ちゃんと助けてって言える子だった。廉造はいつのまにかそれを忘れていた。目の前の勝呂はもう「あの子」といえるような歳ではないけど、あの頃と同じように廉造に助けを求めてくれた。ただしそれは明陀を出る形ではなく、明陀にいながらにして廉造を頼ってくれた。その信頼を廉造はいつのまにか見失っていた。
「まあ。これからも頑張りましょう。俺もちいとはやる気出しますから。」
 やる気と聞いて勝呂は慌てる。
「でも変なことはやめてな。」
 廉造は困った顔をする勝呂に抱きついた。
「坊には迷惑かけるような阿呆な真似はもうせんわ。それよりも。」
 廉造は勝呂に耳打ちする。
「俺が寝付き悪いって情報、子猫さんからの入れ知恵やろ。」
「……ばれとったか。」
 良くも悪くもおおらかな勝呂が、そんな身内の細かいことに気がつくわけがない。そんなことに気づくのは、猫のようにどこかから人を観察している子猫丸しかありえない。
「なあ。」
 子猫丸は部屋から消えている。本当に猫みたいに気配に敏感らしい。勝呂は面目を失ったようにまた困った顔をしているが、そういう人だからこそ味方も多いらしい。時々困ったことにはなるけれど。
似てないようで彼の父親を彷彿とさせた。彼の父親も、自分の父親の八百造や宝生の蟒にぞっこん惚れ込まれているからだ。だとしたら竜士と自分も因果な関係らしい。
「あんたと同い年で本当に良かったわ。」
 公認の側近とはいかないが、これはこれで悪くない。明陀でいてもいいかなと思わせてくれるから。
 廉造は勝呂の入浴道具を見てほくそ笑む。
「久しぶりに一緒に風呂入りますか。水入らず。」
「いや。他にいっぱい人おると思うけど。」
「ええやないですか。子猫さん戻ったら誘いましょうよ。」
 昔みたいに勝呂の背中を流してやろうかなと、廉造は少しだけ企むのだった。勝呂は嫌がるだろうけど、それを無理やりさっきの告白を弱みとしてぶつければ、きっと流されてくれるに違いない。精々公衆の前でいちゃいちゃしてやろうと廉造はほくそ笑むのだった。






新春第一弾がこれですか。第十話にカウントしづらい番外編でした。

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☆ss「セレナーデ」アラベスクシリーズ 志摩燐R18

 雪男と双子がメフィストの現在住んでいるアパートの部屋で燐の帰りを待ちわびている頃、当の燐は留守にしている家を案じる様子も無く、病棟に移された廉造と部屋で二人きりだった。
 二人きりというのは、六人部屋を無理やりカーテンで仕切った一区画の中のことで、周りは静かだ。病人しかいないのだから当たり前だが、今は夜の食事の二時間前という中途半端な時間帯なので、志摩の他に部屋の入院者はイヤホンを耳にさしてテレビを見ている者が多い。当然その目と耳はテレビのほうに集中しているものだから、カーテン越しの赤の他人の言動を気にしていない。それも安静にしていなければならない病人なのだから当たり前だった。
「ほんますまんかったな。燐。」
「大したことなくて良かったよ。」
「何? 俺があのまま死ぬって思っとったん?」
 廉造はイタズラっぽく笑う。燐は無愛想にカーテンのほうに視線を向ける。
「あんだけ騒いでたんだから。」
「お前泣きそうになってたもんなあ。」
 燐はその時のことを思い出したのか、少し肩を震わせながら頷く。
「お前は二年前までいたあそこで、結構無茶なこともされたんだろ。今頃その反動がきても可笑しくないかもしれないって、らしくもなく考えちまった。」
「そやな……。」
 
 燐が呼んだ救急車だったが、その救急車は一般の病院に行くことなく、まず先に騎士団の付属の病院に廉造を搬送した。ただの虫垂炎だと分かってから総合病院に移されたのだった。志摩が二年前まで騎士団で受けていたのは「検査」だとは言われているが、実態は実験動物並みの扱いだったのだろう。そうでなければ、後暗いことをにおわせる対応に説明がつかない。
 廉造は二年前まで自分がどういう目にあってきたかを燐に話していない。話せば廉造を巻き添えにしてしまったような燐が、自分で自分を責め立ててしまいかねない。それは廉造のなけなしの努力を否定されるようなものなので、敢えて廉造は何も語らない。
 
「違う病院で余計な検査されたもんだから、お前ずっと苦しんでて……、俺はお前のこと早くどうにかしてくれって頼んだのに……」
「気にすんなや。別に見殺しにされたわけやないし。ただの虫垂炎やて納得してもらったあとにはちゃんと、ここに運んで貰えたし。」
「俺は普通に救急車呼んだつもりだったんだけど。」
 ただの一一九番で祓魔師機関の病院に連れて行かれるのは、はっきり言えば非常識だ。電話の主が、サタンの息子であるのが分かっているのではないかというような、対応のされかただった。廉造や燐の周辺はまだ監視が継続されているのだろう。それを思い知るような出来事だった。
「ここで俺とお前が揉めてもしゃあないやろ。……チビ達は若先生に預けとるんやろ。」
「うん。」
「そっか。」
 俯いた廉造を燐は見つめている。廉造が燐や双子と暮らし始めたのは、双子が二歳を過ぎた頃のことだった。そこから二年経った今でも、双子にとって廉造が父親という感覚は時々希薄になることがある。だから、なるべくだったら家を空けず双子の近くにいたかったのに、廉造はそう考えると自分の内臓の勝手さに少し腹が立った。
「若先生かっこええし頭ええから、俺より懐かれたらショックやわあ。」
「そんなことあるわけねえだろ。あいつらの父ちゃんはお前なんだから。雪男は昨日逢ったばかりのおじちゃんだし。」
 廉造は嬉しそうにへへへと笑う。しかしその笑みとは裏腹の言葉を呟いてしまう。
「俺、元理事長に最近聞いたんや。奥村先生、あんなことがあって一時は騎士団の中で立場も失っとったんやけど。なんや奇跡的な逆転やらかしとるらしいわ。騎士団への貢献度が半端のうて、それを上の上の上のお偉いさんにも認められて、地位も回復たんやて。」
「メフィストの弁明や、しえ……現・聖騎士の証言やらを利用したからだろ。」
「それでも普通なら考えられんことやで。悪魔落ちして日本支部の中心地半径一キロ圏内を壊滅状態にさせるような事件起こしといて。やっぱあの人は頭の中もやることも天才やから。俺には真似できんわあ。」
「お前何が言いたいんだよ。」
 流石の燐も弟が異常だと言われ続ければ苛立ってくる。廉造はそれを察したように、へらへらと自虐の言葉を吐く。
「ほんま俺とは正反対やろ。俺は未だに祓魔師にも戻れへんし、どこかで働く言うても、なんやかんや言っても中卒扱いになるから拾ってくれる会社もあらへん。二年間宙ぶらりんやん。……拗ねとるだけや。今まで親のとかの敷いたレールに乗っておこう思って、何も考えてなかったんやから。しかたあらへんけど。」
「でもお前は俺と結婚してくれたじゃねえかよ!」
 燐はベッドに仰向けになっている廉造に抱きつく。廉造は今までの卑屈な言葉が嘘のように燐を抱きしめた。
「先生。昨日泊まったんやろ? なんもなかったん? お前と。」
「お前は……。俺と雪男を二人にしとけば、お前に対して疚しいことしてるとか、考えてたのかよ。」
 ごめんと廉造は呟く。
「俺はこの世でお前が一番可愛い思うとるから、ほんで、多分俺に負けんぐらいそう思うとるのが、あの若先生やから。それに。燐がそう思ってなくても、若先生はちゃうやろ。どうなん? なんかそれらしいことを言われたりしたんやない? ほんでお前も少しは久しぶりに会った弟の言葉に絆されかけたんやない? 若先生のことやから、最初は少し遠慮してたやろうけど、五年ぶりにお前に会えたんや。そんなもん長く続かへんかったやろ。お前のこと抱きしめて、今でも好きや言うて口説かれたんやないか?」
 何故そんなこと。
 燐はその言葉が口からこぼれ落ちそうだった。確かにお互いの気持ちを確かめ合うような言葉を雪男と交わした。そのあと抱擁もしあった。でもそれはまだ久しぶりに会う兄弟同士のそれ、からは逸脱しているつもりはなかった。しかし燐の心臓が焦ったように速く脈を打つのはどうしてだろう。
「馬鹿言うなよ。お前は少し弱気になりすぎだよ。」
「そうや。弱っとるから弱音吐かせてや。」
「しょ、しょうがねえ奴だな。甘えたかっただけかよ。そんなことなら雪男のことを引き合いに出さなくてもいいだろ?」
「そうやなあ。」
 燐にしては上手くこの場を切り替えたなと廉造は感心した。それだけに自分が言ったことの信憑性が余計に増したなと溜息をつきたくなったが、燐の手前それは出来なかった。
「ほんでどうやって俺のことを元気付けてくれるん?」
 燐はきょろきょろとカーテンの外を窺っている。燐の見ているカーテンの外は、やはり排他的にカーテンで仕切られており、無関心な同室者達はテレビやラジオや本の世界に没頭している様子だった。
 燐は廉造のほうを向き直る。
「俺が……雪男とそういうことやったかどうか、確かめてみる?」
「え?」
「騒ぐなよ。」
 燐は廉造の布団を剥いで寝巻きの裾を捲り上げている。
「おーい。何すんや? ここ病院やけどなあ。」
 燐が何か言う前に意図を察したらしい廉造がわざとらしく小声で指摘する。
「いいから。ちょっと上にずりあがって足曲げてくれねえか。」
 言葉に従うと燐はベッドに出来た空きスペース三分の一に上がりこむ。すこしギシっと鳴ったベッドに乗っかった本人がぎくりと顔を強張らせている。廉造は笑いを堪えるのに必死だった。そして低い声で自分に覆いかぶさってきた燐の耳に囁きかける。
「俺点滴しとるねんで? それに手術後やねん。お前ほんま何する気や?」
 燐は廉造の耳元で、お前は動かなくていいからと言う。
「ほなアレしてくれるいうことかな?」
「どうとでも受け取っていいよ。」
「家じゃ恥ずかしがってなかなかしてくれへんのに。却って大胆になっとるで。」
 こんなエッチなこと言い出すんやから、若先生とそういうことをしとらんのやろうな。
 燐の手で外気に晒された廉造のモノは、既に反応をみせていた。燐はポケットの中から四角いパッケージの何かを取り出す。
「あらゴムやん。生でしてくれへんの?」
 燐は応えない。廉造のモノに淡々とそれを被せている。その顔は真っ赤だった。
「病院にそないなもん持ってきて、悪い子やな。まあ。一晩でも俺がおらんで寂しゅうなったいうことで。」
 ゴムはそういう、奉仕的な行為に慣れてない燐がえづいて廉造の放ったものを零さないための保険なのだろう。
「俺も……」
 燐は自分の履いていた短パンと下着も一緒に脱いだ。その姿に廉造は嬉しいやら驚くやらだった。燐も自分のペニスにゴムを被せようとしている。
「汚さないように……。」
 ああそういうことかと廉造は納得する。そして燐を引き寄せると「俺が付けたるわ」と言って手を伸ばす。燐は素直に廉造に任せた。
「はい。これで大丈夫。」
「…ありがと。……ん……。」
 ついでに少し燐のペニスにイタズラをして離れていく廉造の手。
「ご近所さんが気づかん内に、気持ちようなろうな?」
 燐はそれに対して横に激しく首を振る。
「今日は、お前だけでいいから。」
「あ。そうなん? じゃあお言葉に甘えて。」
 廉造は立膝をした足の間に燐の頭を導く。燐は目の前のものに一瞬だけ戸惑ったが、すぐにそれを口の中に迎え入れた。
「最初から奥まで咥えんでええで。しんどいやろ。」
「時間惜しいから。」
 意地っ張りな子やなあと思いながら、燐の様子を案じている。恥ずかしいのか呼吸が苦しいのか分からないが、必死に頬張って顔を真っ赤にしている燐の顔がある。
「燐。俺がしてやっった時のこと思い出してみ?」
 燐は廉造のペニスを浅く咥えると先端を舐めながら、右手で竿を上下に擦っている。
「そうや。そうやれば俺も気持ちええし、お前も楽やろ。」
 咥えながらうんうんと頷く燐。舌と歯が先端を掠めてむず痒いような刺激を与えてくる。
「玉もいじってな。」
 そういうとぎこちないながらもやわやわと触ってくる感触がある。
「そうや。ええ子や。」
 廉造は燐の頭を撫でる。燐は上目遣いで目を細める。どうやら褒められて嬉しかったようだ。燐は健気に頑張っているが、やはりゴム越しの刺激が少し物足りない。
『ゴム外して言うたら、……やっぱあかんか。』
 ゴムの中は既に先端からにじみ出た我慢汁でぬるついている。それを直に味わえば燐はその異質な味に臆してしまうかもしれない。
『あー。俺の汁が、ストロベリー味とかミルキー味とかやったら、俺の嫁さんはフェラ好きになったやろうなあ。』
 元々世話を焼くことを苦にしてなさそうというか、頼られると張り切る性格だったしなどと思いながら、廉造はその少しの欲望をぐっと堪えた。そして、こんな最中に何ファンタジーなことを考えているんだとも思った。
「うわっ。」
 ぞわっと背筋を駆け抜ける刺激に廉造は素っ頓狂な声を上げる。慌てて口を押さえてみるが、断続的にあっあっと声が出てしまう。
「それ良すぎるわ……」
 再び深く咥えた燐が口をすぼめて根元から先端まで吸い上げてきている。その端々に「んっ」と声がもれ出ている。燐の股間を見れば無意識に腰が動いている。自らの先端をシーツに擦り付けているようだ。やはりゴムしてて良かったと思う反面、廉造は自分は燐を気持ちよくさせてやれないことを悔やんだ。
「手だけは使えるから……」
 燐が廉造を睨んでくる。集中させろとも取れるし、燐の行為に集中してくれとも言っているようだ。
「ごめん。」
 けして上手ではないのに気持ちがいいから、本当に申し訳なくなってくる。しかしそんな気持ちでは燐の努力に応えられるはずはない。廉造は自らの分身に意識を集中させるために目を瞑った。しかしそれでも顔を真っ赤にしている嫁の様を見たいという欲が掻きたてられてしまう。薄目を開けてまるで覗き見をするように燐を見る。
 燐の左手はさっきまで自分の身体を支えていたが、いつの間にか前に回って自分のペニスを扱いていた。廉造が目を瞑ったのを見計らったように。
『ほんまに、やせ我慢して可愛い嫁やわ。』
 このまま薄目していようと廉造はほくそ笑む。
「燐。裏も舐めてくれへんかな。」
「ん……」
 口が離されて自分の裏筋に燐の下が這う。やはりそれもゴム越しの感触でもどかしい。それでもあの未だに幼げな嫁が、自分のあられもないところを舐めていると思うと、刺激そのものよりも感じいってしまう。
「ええで。上手や燐。」
 廉造の手が燐の頬を撫でる。その手に濡れた感触が当たる。ぎょっとして瞼を開けると、
燐は涙を流しながら廉造のものを咥えている。口から滴った唾液がぽたぽたと顎を伝って落ち、シーツに染みを作っている。
「だ、だるいんやな。口が。そうやろな。俺がずっと楽しんでたら燐がしんどくなるわ。」
 扇情的でもっと見ていたいと思うが、流石にそれはワガママが過ぎるというものだろう。
「燐ちょっと頑張ってや。」
 え? 燐が目を丸くすると、廉造は燐の頭を掴んで開けた口の中にペニスを突っ込んだ。そして自分で腰を動かす。無体な仕打ちだが早く終わらせるにはこれしかない。
「ん…んっ…んん……。」
 廉造のペニスから外れて寝巻きを掴む燐の手にぎゅっと力が入る。
「………ん。……はあ……」
 廉造の押し殺した呼吸と手の動きが止まる。ゆっくりと燐の口から萎えたペニスがずるりと引き抜かれる。燐は廉造のベッドに突っ伏しながらはあはあと息を吐いていた。廉造は側に置いてあったタオルで燐の顔を拭いてやる。
「初心者に無茶さしてすまんな。」
「……俺がやるって言ったんだから、気にすんなよ……。」
 改めて廉造は燐を引き寄せる。触って欲しそうにしていた足の間のものは既に萎えていた。
『口でしてイッたとは思えへんけど……。』
 最後の自分がやらかしたことは、勢いで萎えても仕方ないことだと罪悪感がどうしようもなく沸いてくる。可哀想なことをしたと深く反省した。
「ごめんな。退院したら可愛がったるから。」
 燐は廉造の胸に凭れる。手術跡を気にして体重は掛けてこない。でも、少し甘えたいように顔を擦り付けてくる。
「うん。退院したらいっぱいしてくれよ。」
「わかった。」
 燐は素早く身支度をする。廉造も乱れた着衣を直していた。
「もうチビたちのとこに戻らなくちゃ。」
「そうやな。今回はすんまへんでしたと俺からやと伝えてくれ。」
「雪男に?」
「そや。あと元理事長に。」
 分かった。燐は短く応えた。そんじゃあと燐が離れようとすると、廉造は燐を呼び止める。
「これ。始末しといてな。」
 廉造に示されたものを見て燐はすぐさま理解して、自分が持ってきた荷物の中の、手ごろなコンビニ袋の中に二人分のゴムを放り込んで口を硬く縛った。
「ゴミ箱の中にそれがあったら、入院中に何やっとんやと医師や看護師さんに白い目で見られるんや。」
 燐は顔を真っ赤にしてこくこくと頷く。
「そ、そんじゃ。明日も来るからな。な……何か欲しいもんある?」
「お前が来てくれれば何もいらんわ。強いて言えば、チビ達の顔も見たいわ。」
「そうだな。明日は連れてこようかな。」
「ついでに若先生にも来て欲しいわ。」
 その一言で燐は固まる。
「あ、ああ。」
「何も特別な意味は無いで。懐かしいから顔見たいだけやで。」
 燐の胸中を見透かしたように廉造は言う。病室のドアのところまで燐の後姿を目で追い、振り返って自分のほうを見る燐に手を振る。
「明日かあ……。」
 ふと自分の携帯を見るとメールが入っていた。それは柔造からだった。
「兄貴もう京都に帰ったんやな。」
 燐が見舞いに来るのとは時間差で少し前、京都の実家から兄と父が見舞いに来た。そこで廉造にある決定事項を伝えた。それは明陀宗の中の志摩家の今後の行く末についてだった。
 そして、それこそ廉造と燐と子どもたち、果ては雪男までも巻き込みそうな結論だった。





次に続くような話でごめんなさい。これでアラベスクシリーズの現在話が動き始めました。しょっぱなからR18ではじまりましたが、とりあえずエッチを沢山書いておいて慣れておこうという魂胆はあります。
 

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☆ss「why or why not」前編 燐雪 燐とメフィストの会話「BAD APPLE!」続き話その①

 高等科の授業を終えた燐は校舎を出たところで携帯を取り出すと、メフィストに電話した。
『もしもし?』
コールが三回鳴らないうちにメフィストは出てくれた。
「あ。メフィスト。」
 燐は一つ大きく息を吸い込むとゆっくり吐き出した。
『なんですか? 用件なら早く言って下さいよ。』
 電話の向こうでは怪訝そうな、それでいて理由ありの匂いを嗅ぎつけたらしいメフィストのやや上ずった声が聞こえる。まだ短い付き合いだが、なんだかんだで燐に関わることについてはいつも興味津々で、熱心に首を突っ込みたいようだ。
「えーと……。近いうちにそっち行って、ちょっと相談してーんだけど。いいかな?」
『急ぎですか?』
「んと……。」
 燐はしばらく口ごもってしまう。そしてごにょごにょと「おとついやったから……」などと、本人にしか分からない独り言を言っている。
『なんですかおとついって。』
「いや。なんでもない。」
『おとつい何か問題が起こったのなら、昨日あたり言ってくだされば良かったじゃないですか。』
 保護者口調のメフィストに対して燐は何かを誤魔化すように声を上げて笑う。
「あ、あはは。いやいや。昨日は一日なんやかんや考えて俺が問題をどうにかしようと思ったんだけど、やっぱお前に相談するのが一番早いって今日になって決心したんだ。」
 メフィストの溜まりに溜まった溜息を吐き出した。
『はいはい。三日目にしてその判断は貴方にしては、周到だと思いますよ。内容は分かりませんけどね。』
 燐は念を押すように「すまない」と謝った。そして控えめにメフィストに告げる。
「暇なときでいいんだよ。お前だって忙しいだろ?」
『残念ながら私は今は暇なんです。すぐに私の部屋に来なさい。』
 すぐにという言葉に燐の背筋が凍る。そんなにすぐさま相談するつもりはなかったのに、物見高い悪魔は燐の相談事をここぞとばかりに待ち構えている。
「じゅ、塾があるから。」
 思わず燐は相談を先延ばしにしたくなった。大人げない悪魔がそんなことを聞いてくれるわけがない。
『塾までにはまだ一時間半くらいあります。なんですか貴方? 問題を早く解決したいのですか? 先送りにしたいのですか?』
 燐の脳裏に一昨日の弟の姿が過ぎる。
「……早いに越したことないけど。」
『なら早く来なさい。』
 メフィストはショートカットしてくるなら、まず塾へ行って、歴代の理事長の肖像画の部屋に行けと言った。
『こちらの部屋への扉は私が開けておきます。いいですか? ぐずぐずせずに早く来るんですよ。』
 一方的に電話を切られた。燐は肩を落としながら、それでも嬉しそうにぐふふと笑って携帯をポケットにしまう。
「雪男。次からは楽させてやっからな。」
 
     *   *   *
 
 メフィストは正直、末弟からの電話で背筋が震えてしまった。何か分からないが悪い予感がする。しかし自分の悪魔の心臓は、その悪い予感に反応して、うきうきと鼓動を打っていた。
「私らしくもない。あのお馬鹿な末弟の口調が少しどもっていたからって……」
 アレはなんだったのだろう? 馬鹿特有の要領の悪さか? それとも慣れない電話を掛けることに持ち前のコミュニケーション能力の無さを晒しただけなのか? いや違う。あの言葉の端々に見え隠れする戸惑いは、あれは――。
「羞恥か。」
 何に? 誰に? どうして? メフィストは紅茶を淹れながら末弟を待つ。まだその末弟から電話がきて五分も経っていないのに、手持ち無沙汰になって、お茶菓子まで探し始めてしまった。
「まあ。あの末弟になら、正十字アウトレットモールのショッピングセンターで買った、アウトレットスウィーツで十分でしょう。」
 味も質も悪くないが、少し形が欠けているだけで激安になる日本市場の七不思議の一つである。口で味わうのに造形の完璧さは別に気にならないとは言わないが、安さとお得さには勝てないメフィストがちょいちょい買っていたものだった。
「所詮。胃に収めてしまえば元の形は関係ないんですよ。どうせ脳に記憶されるのは甘いとか不味いとか口当たりがどうのっていう次元ですよ。」
 それを言い出すと匂いや味は関係ないとまで言及する羽目になるので、メフィストは人前ではそれを言わない。しかし出自が貧乏所帯の末弟にはなんだかそんな菓子のほうがうけそうな気がするので、わざわざこんなチョイスをしてみた。
「湯が沸けましたか。」
 ポットを暖めるために湯をポットに注いで、チラッと壁際に置かれたアンティーク時計を見る。
「……。」
 その横の開け放した扉から燐が入ってきた。
「遅い。」
「肖像画がある部屋ってわかんねえから、先生らに訊きながら来たんだよ。」
 メフィストはそんな愚図に育てた覚えはありませんとぶつぶつ言っていると、燐は育てられた覚えはねえよと返す。
「知らないんですか? 貴方たちの教育方針は、私が藤本にレクチャーしたのがほとんどですよ。その成功例が奥村先生で、失敗例が貴方でしょうか。」
「また嘘ばっかつくんじゃねーよ。この悪魔。」
 あこぎな嘘でもまだ罪のないほうなのにとメフィストはぼやく。そして当てつけに言う。
「貴方はちゃっちゃと、そこのソファーで菓子でも食ってなさい。紅茶の準備が出来たらそっちにいきます。」
 応接セットが置いてある部屋に燐が行くと、「わあ! ロールケーキが一本まるごとおいてある!」と感激している。やはりうけてくれたようだ。
 メフィストは紅茶のポットと二人分のカップを盆に載せて運ぶ。ロールケーキは半分がた燐の腹に収まってしまったようだ。
そしてメフィストは燐の向かい側に座った。カップに紅茶を注いでミルクを入れた。
「砂糖は何個です?」
「五個。」
 このくらいでリアクションしたら駄目だとメフィストは思った。この年頃のガキはカロリーさえ高ければなんでもいいと思っている。しかし突っ込まない。話題が脱線してしまう。メフィストはシュガーポットから角砂糖を五個、燐のカップに入れてやった。もちろん紅茶はカップのすれすれまでその水位を上げていた。
「すまん。あと三個。」
「いい加減にしやがれ。このガキャぁ!」
 しかしメフィストは紅茶に続けて砂糖三個ぶちこむと、表面張力でなんとか均衡を保っている紅茶のカップを意地でも零さないように燐の手前に置く。燐も無造作ながらやはり奇跡のように零さないまま紅茶を啜る。なにかの曲芸大会の様相だった。
「結構なお手前で。」
 それは戦国大名の心の平穏に一役買った茶の湯を思わせるような台詞だった。馬鹿の癖にとメフィストは苦々しく思う。底に残った砂糖をずずずと吸って燐は紅茶のカップをメフィストに返した。言葉とは裏腹に侮辱されたような気分をメフィストは味わった。
 
「で。私に相談事とは?」
 燐はメフィストから目を逸らす。
「正直言うと、単刀直入ってわけにもいかねえんだ。内容的に。」
「いいですよ。話しやすいところから言ってみてはどうですか?」
「言いやすいところ……」
 燐はロールケーキにフォークを刺したまま迷っている。さっきまでの図太い態度が嘘のように、分かりやすく遠慮している。
「何か生活に支障が出てきているのですか? それともこれからの不安のことを私に相談したいのですか?」
 燐は目を伏せる。ロールケーキを口に放り込みながら。ロールケーキが跡形もなく消えたあと、やっと燐は口を開く。
「どっちもあるかも。」
「じゃあどちらを先に言いますか?」
 悪魔の力や青の炎のことなら、燐の言うとおりどちらにも掛かる問題だろうが、それはメフィストには解決してやれない。地道にやり遂げて貰うしかない。
「悪魔のお前なら話せると思ったんだけど……。でもやっぱ言いにくいな。」
「悪魔相手にしか話せないことですか。」
 それはアウトローでイリーガルな話題だろうかと、不謹慎な悪魔の心臓がはしたなく高鳴っている。
「悪魔なら何言われても気にしないかもしれませんね。でも私は一応、教育者の端くれであり、貴方の後見人を務めています。それなりの意見も出てくることも覚悟しておいて下さい。」
「え。全部スルーしてくれるわけじゃねえのかよ。」
「形ばかりですよ。世間体という概念に則って、言うべきことは言うつもりです。でもそれは私の本意ではありませんから。言ったあとの反応は、なにも心配しなくていいのです。最低限犯罪紛いでなければ。」
 犯罪と聞いた燐はなにやら考え込んでいる。
「確かに犯罪じゃねえけどよ。えー。でも俺たち未成年だよな。うーん。引っかかるのかな?」
 メフィストは教育者らしい予想が頭に浮かぶ。
「俺たち? 未成年? 友達と喫煙か飲酒ですか? その程度のことを気にしていたのですか? それなら今後はしなきゃいいだけの話でしょ。先生とかに見つかってなければ。」
 わざわざ自分に相談しに来ることではないとメフィストは心の中で舌打ちする。そしてこれだけ期待させておいて、ほんの子どもの火遊び程度の悪さで、上級悪魔の自分が盛り上がっていたのなら、この末弟にどれだけ期待し過ぎたのだろうと臍を噛む思いだった。
「飲酒? 喫煙? そんなの金のねえ俺に出来るわけないだろ。」
 メフィストは燐の発言で、自分が目の前の末弟に渡している小遣いの金額を思い出した。それを考えてみれば飲酒も喫煙も難しいかもしれない。
「そうですね。よく考えればそうでした。」
 それで?
メフィストは希望の火を心に灯す。燐も流石に別方向に勘違いされたくないので重い口を開く。
「一週間前に雪男とセックスしたんだけど……」
「セックスなんだそんなことか。……誰と、って言いました?」
 え? とメフィストは燐に問い直す。燐はメフィストに対して顔を真横に向けて「雪男」と小さく返した。
「………。」
 メフィストは紅茶セットを盆に載せてキッチンに運ぶ。
「………。」
 そしてそれを流し台で洗う。その光景をキッチンまでついてきた燐がきょとんと見守っている。
「おーい。メフィストー。」
「………。」
 洗い上げたカップやソーサーを、メフィストは布巾で水分をふき取って元あった場所に戻す。濡れた手をその布巾で拭いながら言う。
「………あー。ゆきおさんて方と、セックスされたんですね。どこのゆきおさんですか? あはは。随分男らしい古風な名前の方ですよね。私なりに貴方を見守ってきたつもりですが、そんな方に今まで心当たりはありませんでした。えーと。私、この学校の関係者なら、教員も生徒も一通り名前は頭に入っているんですけど、ゆきおさんって名前は、さあー分かりません。ひょっとして外部の方ですかね。」
「お前、雪男って言ったら雪男しかいねーだろ。お前がよく知ってる雪男だよ。」
「わかってて、しらばっくれてたんですよ!」
 メフィストはキッチンのテーブルを叩く。ぜえぜえと肩で息をしていた。
「あー。びっくりした。二百前に発情したアマイモンに押し倒された時くらいびっくりした。」
「お前そんな目にあってたの? ひょっとして家出したのってそれが原因だったりする?」
「そんなへたれな理由じゃないですよ。そんなことより貴方ですよ。近親だから今更あまり意味のない質問かもしれないですが、同意の上だったんでしょうね?」
「一応、そんな感じ。」
 一応という言い方にメフィストは引っ掛かりを感じるが、そこは末弟を信用してやるしかない。
「私に相談事というのは、それを懺悔するためですか?」
 燐はそれもあると頷いた。
「やっぱりまずいことだと思う?」
「兄弟で肉体関係……。貴方はそれを悪魔の本性に駆られてやったのなら、不可抗力でしょうけど。悪魔はそういうシチュエーションが大好きですからね。」
 燐は頭をかりかり掻いている。
「悪魔の本性っていうか……たぶん違うと思う。したいって言い出したの、雪男だし。」
 メフィストは宙を見上げ嗚呼と声を上げている。
「弟と共に堕ちる……ですか。やはり貴方たちは、呪われた血を継いだだけある。そして運命は嘲笑うかのように、罪深いお互いの心を結びつけた。」
 滔々とメフィストは演劇の口上役宜しく燐の前で天を仰ぎ、言葉を連ねていた。
「過ちは罪の意識を呼び、しかしその甘美な痛みに逆らえず同じ過ちを繰り返す。貴方、電話で私と話したときに、おとといやったとか口走ってましたよね。一週間前に初めて交情して、一度の過ちに飽き足らず、数回は背徳の夜を過ごしたってことですよね!」
 やっぱり。俺たちは過ちで呪われてて、倫理に背いてるんだな。悪魔にさえ駄目だしされちゃったし。
 燐はメフィストを見て改めて自分たちがしでかした事の救われなさを自覚する。あの時、自分たち兄弟を押し留めるものは誰もいなかった。止められるとしたら、兄たる燐しかいなかった。
 メフィストは横目で見た燐の顔が暗くなっているのに気づき、口上をやめる。
「すみません。」
「いいや。お前だから何を話しても大丈夫だって思ってた俺が悪かったよ。」
「そんな信頼のされかたは……。まあいいでしょう。少なくとも私は、貴方とは共犯者みたいなものですし。貴方がたのことは恒久的にヴァチカンに対して隠蔽されるべきこととして、私の胸の中に収めましょう。」
 しかしとメフィストは付け加える。
「あの男から後見人を受け継いだ私としては、気休め程度(私の)には、これだけは言わせてください。」
 メフィストはついに膝をつき手を組んで「藤本ごめんなさい」と唱えた。
「まあ親父には、俺もちょっとくらいはすまねえなと思ってる。」
「ちょっとですか! 私と弟と共に揃って墓前で土下座するレベルでしょっ。」
 メフィストは肩で息をしている。
「まあ今となっては藤本も土の下ですから。思うに貴方がたがお互いへの気持ちを自覚した時点では、あの男は存命してたことでしょう。多分あの下世話な男なら貴方たちの隠し事くらい気づいていたでしょうね。それに気づいておきながら、ずっとほっといていたなら、それはあの男の自業自得ですよ。私があの男に謝るのはさっきの一回こっきりにしておきましょう。」
 それともとメフィストは思う。もしかしたらあの男も二人の恋愛感情を許していたのかもしれない。そうじゃなきゃ燐のあっけらかんとした態度に説明がつかない。
「やっぱ親父に謝りに行かなきゃいけない?」
「しなくていいですよ。貴方がたが幸せならば、あの男にはなによりでしょうから。私も忌憚ない本音を語らせて貰えば、そうなりますし。」
 世の動乱と混乱に思いを馳せる悪魔ではあるが、個々の小さな世界にはそれなりの平穏と幸せがあって当然だという思いもある。奥村兄弟のそれもその典型だろう。
 
「まあ今までのは前置きみたいなもんだから。」
 全然懲りた様子の無い末弟がずっこけるようなことを言う。メフィストはもうパニックにはならないと心の中で拳を握った。
「今までが前置きだとすれば。じゃあ。貴方がここに来て相談したいことの本題って何ですか?」
 メフィストはなんだかんだで人間の倫理観に毒されている己を今、思い知っている。それを面白おかしく人間やら自分自身を茶化すのが倒錯した楽しみなのだが、まだ歳若い末弟は、自分よりぶっとんだ思考をしているらしい。どんな相談が来るか予想出来ない。
「お前に都合してもらいたいもんがあるんだよ。」
 メフィストは首を傾げる。
「なんなんです? それって……。」
「それは――。」
 燐の返答にまたもメフィストは、人間の良識に浸りきった己に打ちのめされたのだった。そして末弟の愚直さと弟への感情に腹を抱えて笑ってしまった。
「わかりました。すぐに手配しましょう。」

(続く)





うちの今のところの常識人度
クロ、ウコバク>勝呂、子猫さん、出雲、ネイガウス>>志摩>メフィスト、シュラ、朴、獅郎>>燐、しえみ、雪男>>>アーサー、アマイモン>藤堂
改めて表にしてみると意外と奥村兄弟は低いです。じゃなきゃくっつかなかったでしょうね。下位にいくほど怪人度の高いイメージかな。意外と思われるでしょうが、朴さんは女子の中ではしえみに次ぐ怪人物です。そのうち話を書きたいとは思ってます。







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☆ss「BAD APPLE!」後編 燐雪R18

「結局お前ってコート着たままじゃん。」
 雪男はそうだねと答えるがコートを脱ぐ様子は見せない。
「兄さんにとって、こっちのほうが眼福かなって。それに僕だって最初から全裸で絡み合うのは抵抗あるし。」
「でも変な汁で汚れるかもしれねえし。」
「変な汁ねえ……」
 それはそれでと雪男は思う。今までの潔癖だと決め付けられた自分を象徴するかのような祓魔師のコートをお互いの体液で汚せるのなら、それは雪男にとってぞくっとするような恍惚感を覚えるものだった。しかし兄にはそんなことは言えない。言ったってたぶん理解して貰えない。だから雪男は二番目ぐらいに期待していることを口に出してみる。
「脱ぐなら自分からじゃなくて、好きな人にして欲しいのは可笑しいことかい?」
 燐は口のあたりをむず痒そうに歪めている。今更お前からそんなしおらしい言葉を聞かされても信じられねえよと言うような顔だった。雪男はもう少しぶりっ子しとけばよかったとほんの少し後悔した。寧ろ雪男の目に映る兄のほうが余程のこと初々しく見えてしょうがない。
『兄さんでも僕に勝てるところがあったんだ。』
 精神面で負けたと思うところは普段でもあるが、まさかそんなところで負けるとは思わなかった。しかし結局兄は弟のコートに手を掛ける様子は無い。服を全部脱がせてしまえば、今半ば弟から強制されているような情事の空気を確定させてしまうからか。まだ踏ん切りだとか覚悟が固まっていないのかと雪男は嘆息した。
「僕だって初めてなのに……」
 なんとなく呟いた雪男の言葉を聞いて、燐の顔つきが変わる。
「お前さっきのほんとか?」
「え。なにが?」
「初めてって。」
「むう……。初めてに決まってるじゃん。」
 兄の顔が泣き笑いっぽくなる。そうかと声に出さずに呟いていた。
「そうじゃなきゃどうしようかと思ってた。」
 雪男は自分の頭の下にあった燐の枕を燐の顔面に投げつける。ぼふっと音がして燐の顔の下の雪男の腹の上に落ちた。燐は律儀にもそれを拾い上げて、再び雪男の頭と布団の間にねじ込む。
「なんにこだわってんだか。」
「俺だって初めてだもん。」
「うん。それは確信してた。」
 雪男の目の前で燐の尻尾がしおれてしまっている。
「だって兄さんが初めて神父さんのエロ本を見た日だって、僕分かったもん。」
「なんでもお見通しなんだな。」
「なんでもは見通せないよ。兄さんのことだけ。」
 通常の会話を交わしながら雪男の手はてきぱきと仕事をしていた。雪男の手は燐のベルトを緩めている。燐は雪男に比べればもたついた手つきで雪男のワイシャツのボタンを外し、あらわになった皮膚に手を這わしている。
「僕の言葉にへこまされてるっぽいのに。」
 雪男はズボンの下のものを見て安堵している。
「お前もさっきから手際良すぎ。お前は普段のタイプからしてマグロかと思ってたけど……いや、お前って俺の反応見て動くとこあるじゃん。」
「兄さんは何しでかすかわかんないから。」
「何しでかすか、わかんねえのはお前だろ。祓魔師になってたり講師になってたり。戦闘じゃ銃ぶっぱなすし。しえみやシュラとは何年前からの付き合いなんだよ。あと。俺がサタンの野郎の息子だってこと隠してたし。」
 雪男は全部兄さんの為なんだよと反論したかった。しかし立場が逆だったとしたら、自分はきっと、今の兄よりよっぽど恨みがましいことを言うんだろうなと思った。
 燐は雪男の手を取って自分の股間に触れさせる。
「なに? 僕に触って欲しいの?」
「そうだな。いっぺんお前の手で抜いてくれたほうが助かるかな。」
「じゃあ、僕も兄さんの手で……」
 雪男は身体を起こす。燐と向かい合って互いに顔を見合わせる。
「顔を見ると恥ずかしいな。」
 燐は雪男のズボンのファスナーを下ろして下着の下の性器を引きずり出す。雪男もそれに倣った。燐が片手で雪男を引き寄せる。
「キスしていい?」
 雪男は黙って目を瞑る。
 最初押し付けられるだけだった唇は、やがて雪男の唇に吸い付くように感触がしっくりと合ってくる。しばらくして雪男が少し口を開くと燐は戸惑うように口を離した。
「舌入れてもいいんだよ。」
「あ、ああ……」
 再び燐は雪男に唇を重ねる。そして雪男の口の隙間に舌を差し入れてきた。舌先だけを触れ合わせていたのはほんの数秒くらいで、先に雪男がじれったくなって大胆にも音がするくらいに舌を絡めてきた。
「ん…んー……。」
 途端に雪男のペニスを握っていた燐の右手に力が入った。さっきまではただ触れているだけだったのに、深いキスに刺激されたのか少し加減を見誤っている感じだった。雪男は敏感なところを強めに握られて痛みをわずかに感じたが、宥めるように口を離したあと再び軽く唇を重ねた。
「痛いって。」
「すまん。」
 燐は手の力を緩めて握っていた雪男のペニスを手で擦る。雪男も燐のものに手を触れてみる。
『うわ……』
 雪男が触るまでもなく燐のものは熱く硬直していた。雪男は素直に少し驚いた。しかしキスしたままなのでその驚嘆の声は脳内で木霊するばかりだった。
「ん……んん………。」
 燐はまさに一心不乱というか精一杯という感じだった。雪男のペースにまるで踊らされている。兄の呼吸が苦しそうなので雪男はキスをやめて兄の顔を見ると、涙目で顔が真っ赤になっている。燐はぜえぜえ言いながらまた雪男に抱きついてキスしようとする。
「兄さん。自分じゃ分かってないだろうけど、酸欠になっちゃうよ。」
「……だって。雪男はあんまり感じてないみたいだし。……俺は……こんなに気持ちいいのに。」
 雪男は兄の瞼にキスをする。兄の手から与えられる足りない刺激ではいかんともし難い自分の性器だったが、兄への甘酸っぱい気持ちがそれを補ってあまりある感じだった。
「馬鹿だな。気持ちいいんだよ。でももう少し力を入れてくれたら、いいんだけどな。」
 燐は幾分か手の力を強める。
「さっき痛がるから、だから……。」
 初心で愚直で律儀過ぎる。しかしそれが愛おしい。だってそんなところを垣間見えるのは自分だけだから。
「いいから、もっと……。」
 触られることそのものよりも、愚直な兄に対する思いのほうが充足感を与えてくれる。雪男は急に自分の瞼が重たくなるのを感じる。このままだと射精したあとに心地よさに
眠りについてしまいそうだった。
「兄さん。やっぱり……」
「なに……雪男?」
 今日に限っては散々蓮っ葉なことばかり吐いてきた口だが、それを口にするのは流石に羞恥が入り混じってくる。
「雪男。手、止まってる。兄ちゃん……辛いん…だけど。」
 燐は雪男のものから手を外して、燐のものを握って手を止めている雪男の手に重ねてきた。兄は自分の切羽詰った欲求を口に出さずにはいられないのだろう。早くと雪男を急かしてくる。  
雪男は散々羞恥にせき止められていた言葉を少しずつ吐き出す。
「僕の手、じゃなくて……その……。」
「え。ダメなの?」
「そうじゃないんだよ。」
 雪男は燐に耳打ちする。
「やっぱりこのまま挿れて。」
 燐は熱中症患者のように上半身がふらふらと揺れた。
「お前なんでそんな酷なこと言うんだよ?」
「大丈夫……。兄さんなら出来るよ。」
「ダメだ。怖い……。俺男同士のよくわかんねえし……。」
 兄は弟と一生こういうふうにならないこと前提で過ごしてきた。そして普通ならこの歳で詳しく知っているはずもない。多少の勉強不足を責められはしない。
 雪男は燐の両頬を手で挟みこんで額にキスする。
「僕が分かってるから。大丈夫。」
「本当か……? 信じていいんだな? …………あれ。知ってるって、どういうこと?」
 雪男はちょっと待ってと言うと、半端に下ろされたズボンと下着を完全に脱いでそれをベッドの脇にどけた。そして兄をベッドに残して降りると、自分の机の鍵の掛かる引き出しから何やら取り出して戻ってきた。
 
「何持ってきたんだ……。」
 
 燐は衝撃的な光景に絶句している。流石の雪男も兄の反応でかなり赤面していた。
「ローションとゴムだけど。」
「なんで持ってるんだ?」
「……兄さんのこと好きだってはっきり自覚した時に、衝動的に買っちゃったんだ。それでずっと捨てられずに、修道院の机の中に入れっぱなしで、学園に入学する時もどうしていいか分からないから、持ってきちゃった。」
 燐は固まっている。
「修道院って、いつから持ってたんだよ。」
「それでも買ってからまだ一年経ってないんだよ。」
「受験勉強で大変だよ。なんて清清しく笑って言ってたお前が、そんなもん俺が知らないとこで買って机の中に隠してたって。」
 燐は今までとは別の意味で泣きそうになっていた。かつての弟の過去と今取り出されてきたものとのギャップのせいで混乱しているようだ。
「何? ひいちゃったって言うの?」
「いや。なんか変な感動しちゃってる。俺だって雪男のこと好きなのに、そういうのに全然頭回らなかった。」
 それは感動じゃなくてパニックになっているの間違いかと、雪男は失礼な考えが頭を掠めた。
「兄さんが頭回らないことは知ってるけど。」
 そんなことよりと雪男はコンドームのパッケージを破ると、燐のペニスにそれを被せる。
「うわ。本格的。」
「びびらないでよ。うーん。どうしようかな。」
「ど。どうって?」
 雪男はローションのボトルに視線を落としたまま考え込んでいる。ここであまり時間を掛けるわけにもいかない。兄が切羽詰っているし、びびりまくっている。
「しかたないな……。僕がある程度広げてみるよ。」
 雪男はボトルの蓋を開けて垂れるくらいに手にローションを出すと、前から手を差し入れて自分の秘部に指を入れる。異物感はあるがまだ自分の指一本なので特に痛みはなかった。
『大丈夫だ。』
 燐が心配そうに雪男に寄り添ってくる。
「雪男。大丈夫か?」
「うん。ちょっとマッサージしてほぐすから、もう少し待っててね。」
 燐は弟に任せっぱなしなので気が引けて居づらそうだが、兄に任せていては先に進めないので雪男は指を増やす。
「二本目……。」
 指を入れながら滑りやすくなるように周辺や中にローションを塗りたくる。これで少しでも摩擦が減れば兄を受け入れ易くなる。
「兄さん。手、出して。」
 燐は言われるがままに手を出すと雪男にローションを掛けられる。
「兄さん。指、挿れてみてくれる?」
 雪男は自分の指を引き抜くと燐に対して後ろを向いてコートの後ろを捲くり上げ尻を突き出した。ローションで湿った場所を見て燐が生唾を飲み込む。
「いいの、か?」
「ダメだったら僕が言うから。とりあえず、ゆっくり……おねがい。」
 恥ずかしさよりやり遂げなければいけないという使命感に突き動かされている。燐が戸惑いきっているのだから、そんな使命感ほど意味のないものはないが。実際に自分の中に指の一本でも入れてみれば、この兄にしても何らかの実感が沸くのではと思った。欲であれ。衝動であれ。
「入った……。」
 異物感は感じるが自分に対して容赦が無い自分の指より、遠慮がちに入ってくる兄の指のほうがぞわぞわと背中が震えてしまう。
「雪男。大丈夫か?」
 背中が震えているせいで何かを誤解した兄がおろおろしている。痛みはないので雪男はあっけらかんと言ってみる。
「さっき二本まで入ったから、二本目を入れてくれる? で、広げるように回して慣らして。」
「こ、こう?」
 雪男はその感触に自分の手で口を押さえたくなった。兄の手はもちろん拙い動きをしているのに、自分の身体はというと初めての癖に感じてきている。それが性感によるものかは定かではないが、けして不快ではない。それどころか初めての自分の後ろを犯される前戯が気持ちいいなんて、どんな素質があるんだろうと首を捻りたくなる。
「気持ち、いいよ。」
 兄が挙動不審にそうかと上ずった声で応えた。兄にとって初めての相手が、自分で良かったと雪男は本気で思った。赤の他人ならひょっとしたら呆れられて中断されてしまうかもしれないぞと、心の中で呟いた。そして自分はどんだけこの兄が好きなんだと自分自身に呆れた。
 ふいに切ないようなこみ上げてくるものが雪男の胸部に燻ってくる。
「兄さん抜いて。」
「なんか具合悪かったっ?」
 違うんだと雪男は小さく言葉にする。
  指を抜かれた雪男はおもむろに兄のほうに向き直った。
「雪男?」
 はしたなく足を広げ、先走りに濡れたペニスもローションでベタベタの秘部も丸見えにして兄の肩を引き寄せる。
「本当なら初めては後ろからのほうがいいらしいけど、やっぱり兄さんの顔見ていたいから、正上位で抱いて欲しい。」
 燐の顔が赤くなって息を呑んでしまっていた。
「ほ、ほんとうは。顔見られるの恥ずかしいけど……」
「俺のほうが恥ずかしいことになりそうだから、雪男は気にしなくていいと思う。」
 そうだねと言って雪男は後ろに倒れた。
「………挿れて………。」
 兄の手が太ももに添えられ、足を引き上げられてしまう。そして中心部に硬くなったそれが宛がわれる。
「いくぞ。雪男。」
 返事をする前に熱い肉棒が雪男を貫いていた。自分が怯む前に行為に突入してきた兄のタイミングの良さに雪男は、妙に感心した。なんだかやっと兄が弟のことを心得てくれたような気がする。あのまま恐る恐るされたのでは、今更になって自分が怖気づいていたかもしれない。
『さっきまで僕だって少し強がっていたとこもあったから……。』
 強がりが見え隠れしていたからこそ、兄はずっとおろおろしていたのかもしれない。雪男の肩肘ばった態度に余計に踏ん切りがつかなかったのかもしれない。
「兄さん……。嬉しいっ。」
「馬鹿雪男。痛くないか?」
「それは少しは……はうっ。」
 兄に唐突に抱きしめられる。
「嬉しいからって……。少しだけでも痛いんじゃねえかよっ。どうしてそんなにせっかちになるんだよ。今日いきなりじゃなくても、よかったじゃねえか。ゆっくりでもよかったはずじゃねえかよ。」
「だって――。」
 貴方はいつ死んでもおかしくない身の上じゃないか。
 雪男はその回答を燐に提示出来なかった。
 燐は明日も明後日も一年先も何十年も先も、自分がどうにかして生き延びて雪男の側にいる未来しか見ようとしない。それは雪男が考えていることよりも、余程前向きで素敵なことだろう。だけどもしそれが叶わなかったらどうするんだ? もしかしたら両思いになれないまま今生の別れを迎えるかもしれないのに。それは予告もなくある日突然かもしれないのに。兄の努力とか精神とか生き様関係なしに、赤の他人に押し付けられるものかもしれないのに。
 あれやこれやを考えると、雪男はいつだって胸が潰れそうだった。だからいつだって、何か機会がある度に全てやりきってしまおうと思った。
「雪男。」
 燐が再び雪男を突き上げる。
「はぁっ……兄さん。好き……。」
 揺さぶられる視界の中で雪男は兄の顔を見ている。兄の顔はやはりいっぱいいっぱいで、全てが終わったあとには灰になりそうなくらいに、火の点いたような真っ赤な顔をしていた。それも愛おしいと思う。
「雪男のなか……すげえ熱い。」
「兄さんだって……」
 今日、両思いになれて良かった。
 今日、繋がって良かった。
 こんなのは絶対に明日とか明後日とか、もっと先の未来に後回しにさせられない。
「僕らには『今』しかないんだよ……。」
 雪男はうわ言のように言葉を漏らす。
「馬鹿言うな。今しかないなんて、そんなことにさせねえから――。」
 だから一人で決め付けるな。
 兄の声が遠くに聞こえる。手前勝手で頼もしい言葉。自分の刹那的な考えを拒絶してくれる強い言葉。それが何よりも聞きたかった。
これから先も聞かせて欲しい言葉だった。
 
     *   *   *
 
 コートは二人分の汚れを落とすために、洗濯機でワイシャツやら下着やらと一緒に揉みくちゃになっている。
「いやあ。記念に取っておきたかったんだけどね。」
「俺の弟がそんな変態だなんて、やだ。」
 燐は自己嫌悪ゆえに湯船の縁で立て肘をついて頭を抱えている。
「やっちまった。やっちまったよ。しかもかなり弟任せだったし。恥ずかしい恥ずかしい。恥ずかしくて死にてえよ。」
「兄さんみたいな男ばっかりだったら人類は滅びるね。」
 雪男は満足そうに兄にベタベタと触りまくって全裸で抱きついていた。燐は時々感じるのか前かがみになっている。湯船の外に腹を向けたまま自己嫌悪し続けているのは、そのせいもあるかもしれない。
「ちくしょう……」
「悔しかったら、今度は兄さんが僕を恥ずかしがらせればいいだろ。」
 燐は伏目がちに弟を見る。
「俺。仕事帰りのお前のコート姿を見るたびに盛っちまうかも。」
 燐なりの今後の雪男への脅しのつもりだったのかもしれない。責任を取れという意味合いの。
 雪男はむず痒そうに「いいよ」と返した。





「悪魔の兄を~」のシリーズとは関係ありません。ここの雪ちゃんはいい意味でも悪い意味でも素直です。燐兄さんのほうがよほど常識人です。しばらくエッチの主導権は弟にとられっぱなしじゃねえのかな。


拍手[6回]


☆ss「BAD APPLE!」前編 燐雪 告白話

これは燐雪ですが「悪魔の兄~」とは別軸です。軽くキャラを曲解しております。pixivでアンケを取った「今までのことは全部夢オチ、本当は雪ちゃんとラブラブ」の番外編っぽいものを書いてみたかったので書いてみました。ええんかこれ。




「今日は早く終わって良かったな。」
 任務後に仲間と解散して雪男は兄がいる部屋に戻った。
「ただいま。兄さん。」
「おかえり。」
 兄は奥のベッドで布団を被っていたが、弟が帰ってきたとなると半身を起こして顔を見せた。まだ床について間がなかったのだろう。
「そんな律儀に起きなくてもいいじゃん。」
 雪男はハンガーを掛けてある壁に近づいく。雪男の死角から兄の溜息が聞こえた。
「何? 僕が祓魔師だったってこと秘密にしてたの、まだ根に持ってたの?」
「いやそれはもういいけど。その服さ……」
「服? コートのこと?」
 雪男は兄のほうを振り向き袖を摘んでみる。
「そう。なかなかいいよな。」
「それは同感だね。こう見えても動きやすいんだよ。この服。」
「そこまでは気づかなかったけど、お前が着てるとすごく似合ってるから。」
 らしくもない兄の褒め言葉に雪男は笑みがこぼれる。
「どうしたの?」
 燐は困ったように口ごもった。雪男はそれを、兄が弟を褒め慣れてないからだと解釈した。あまりしつこく取り合わないほうがいいと思って、コートのボタンに手を伸ばす。
「あ。」
 兄が小さく声を上げた。
「さっきから何なの?」
「えーと。」
 何をするのかと雪男が思っていると、燐はベッドから出て雪男の前に立つ。
「そのコート。俺に……」
「着させて?」
 燐はぶんぶんと首を振る。考えるまでもないが燐と雪男の身長差では確実にコートの裾を床に引きずるだろう。燐は馬鹿だけどそれくらいのことは頭が回る。雪男は再びボタンに指を掛ける。
「待って待って。」
「兄さん? いい加減に着替えさせてくれないかな?」
「き、着替えてもいいけど。」
 燐は手を伸ばして雪男の指をボタンから外させる。
「俺に脱がさせてくれ。」
「は?」
 いきなりの要求に雪男の目が点になる。しかし要求としては叶えてやれないほど無茶なものではないので、「はい。どうぞ。」と正面を向いてみた。
 燐はすぐさま自分の言葉を実行するかと思いきや、指先を震わせながら雪男のコートの胸に触れる。少し下を向いて、はあっと息をついている。そしてその手はおずおずと手馴れないようにボタンを外し始めた。
雪男には俯いてわずかに見える兄の顔が紅潮しているように見えた。
『なんだよソレ。らしくない。』
 これぐらいのことで手元が覚束ないなんて兄らしくない。ああ見えても手先が器用なんて大嘘だと思わんばかりの不器用さだった。燐は随分な時間を掛けてウエストのところまでボタンを外した。付属のベルトとホルスターも外していく。コートの前をはだけてワイシャツ一枚で隔てられた肌に兄の鼻息がすーすーと当たる。
「兄さん。なんか鼻息荒くない? 胸に顔近づいてるんだけど。」
「うるさい。今集中してるとこ。」
 雪男が見下ろしている燐の後頭部から変な熱気が立ち上っているような気がした。
 もしやとは雪男は思っていたが――。なんとなくだが兄の挙動の理由が分かってしまった。
 雪男は燐の顔を手で顎の下から掬い上げるように上に向かせる。
「兄さんは、制服フェチなわけ?」
 まだ緩い詰問で様子を窺ってみる。兄は案の定、返す言葉が見つからないのか黙ったままだ。
「この制服かっこいいもんね。自分が着るより他人が着てるのを眺めているほうが楽しいのかもね。」
 次の段階に誘導すると兄はホルスターを落とさないように慎重に雪男のウエストに腕を回して外してくれた。そのついでのように雪男の言葉に返事をしてきた。
「そ……そうだよ。」
 ホルスターを雪男の机に置きに行った燐は、雪男を振り向かないままそう呟く。そして脈絡も無いのに取り繕うようにごめんと言った。変な兄だ。雪男は笑いを噛み殺すのに必死だった。そして燐が後ろを向いている隙に自分のコートの前に手を伸ばす。
「あ。おい……。」
 雪男のほうを振り向いた燐の目の前に、いつのまにか裾までコートのボタンを外した雪男が立っていた。
「勝手に全部ボタン外しちゃった。兄さん怒る?」
「いや。怒るわけねえだろ。俺がとろいのが悪かっただけだし。」
「そうだね。兄さんがあんまり時間掛けて脱がしてくれたもんだから、僕焦れちゃって。そこまで扱いづらい服だったのかな? これって。」
 雪男は手を伸ばして燐の腕を引き寄せる。そしてもう一度、雪男のコートの端を手に持たせた。
「さっき変な茶々入れちゃったけど。兄さんが時間掛かった理由って――。かっこいい制服見てて楽しんでたからじゃないよね? 僕からコートを脱がすその行為に興奮してたんだよね?」
 燐はコートの端を投げ捨てるように手を放して馬鹿と叫ぶ。
「それを俺が認めてお前にとってどうなるんだよ!」
 見事な逆ギレだった。
雪男はすかさず燐を抱き寄せると前を肌蹴たコートの中に兄を包み込んだ。
「ゆ、雪……。」
 コートの中に篭っていた雪男の匂いに咽たように燐は言葉を詰まらせる。上手く兄の激昂を押さえ込めたようだ。
「や……。雪男。こんなの、お前らしくない。」
「僕らしさって何? 兄さんが怖がってるのは、兄さんの想像の中の、兄の変態趣味を罵る常識的で真面目な弟ってやつだろ?」
 燐は雪男の腕の中から出て行こうとしたが、雪男はその背中に回した腕でがっちりと拘束している。
「そうだよ。お前は真面目で、潔癖で、非の打ち所のない優等生な弟だから。」
「だから?」
 燐はおずおずと雪男のワイシャツの胸に鼻を擦り付けた。
「そんな弟の仕事着姿に興奮して脱がしてえって、お前の兄貴が思ってるって言えるわけねえだろ。」
「言ってるし。」
 雪男はくすくすと兄を嘲笑ってみる。燐は尻尾をへたれさせてシュンとしている。それが妙に雪男には愉快だった。
「雪男。マジでごめん。今日はこれぐらいでいいから。もう十分だから、許してくれ。」
「僕の服を脱がせて、僕の匂いを嗅いで、今晩のオナニーのネタはこれで十分だって言いたいの?」
「オナニーってお前!」
 雪男は燐の背中を撫でながら耳元に口を近づけて囁く。
「しないで済ませられるの? そんなに欲情したような顔してる癖に。」
「お前にオナニーするって確信されてるのに、この後本当に実行できるほど肝据わってねえよ。」
 燐は泣きそうな顔になっている。雪男はそんな兄を抱きしめて優しく言った。
「こそこそと僕に隠れてしようって思うから恥ずかしいんだよ。」
「じゃ。どうすればいいんだよ!」
 雪男は急に兄を両手で引き剥がして自分の顔を直視させる。
「僕に対して欲情してるんだから、僕に吐き出せばいいんだ。至極真っ当な結論でしょ?」
「……え? えええええええええええええ!」
 燐は反射的に三歩ほど後ずさる。雪男はゆっくりと距離を詰める。
「これでよく分かっただろう。真面目で優等生な常識人の弟なんて、兄さんの猜疑心が生んだ都合の悪い妄想だってこと。」
 まるでサンタがこの世にいないと一方的に言われた幼子のように燐は絶望していた。しかし悪あがきのように反論してくる。
「いや世間一般もお前のことそう思ってるはずだ。」
 兄は「あんなの」だけど双子の弟はなんていい子なんだ。物心ついてから言われた続けた言葉を燐は無視出来ない。そして今もそれが真実だと思っている。それを弟自身に真っ向から否定されたとしても。
 雪男はそんな兄の台詞をせせら笑う。
「兄さんが世間一般に迎合する必要なんてないんだよ。それも元々周りの大人連中が兄さんに当てつけるような言葉だっただろうし。言わせてもらえば僕は世間一般に僕がどう映るかなんて、あんまり興味はないし、そんな認識のせいでいつのまにか兄さんが僕に対して妙なことを植え付けられたって事実のほうが、よっぽど腹立たしいんだけど?」
 兄を引き合いに出して自分を褒める大人たちが大嫌いだった。
そいつらはそいつらの中のいい子悪い子のイメージだけでものを言っていて、言われた方が何を思っていようと関係ない連中だとかなり早い段階で気づいていた。そしてこうも思っていた。僕がこの世で一番好きなのは、お前らが悪鬼だと言わんばかりに罵る兄なのだと。
 でも兄は自分のことはさておき、弟がそういうふうに世間で評判になっていることについてはかなり手放しで嬉しがっていた。
 だから元々から悪い自分の殊更悪いところを否定したくてしょうがない。弟に対する疚しい思いがそれだ。目の前の兄はずっと隠しておきたかったそれを弟に暴かれて、今は抵抗どころかひたすら心中で「ごめんなさい」を繰り返しているかのように肩を震わせている。
「普通は変態兄貴なんて嫌だろうが。」
 ぐしっと燐が鼻の詰まったような呼吸をする。
 兄の兄としての矜持を傷つけすぎたかなと雪男は軽く反省する。兄が自身の本性を垣間見せてくれたからとはいえ、ちょっと調子に乗りすぎた気がした。しかし認めがたきを認めている弟が目の前にいるのに、兄は全然分かっていない。
『兄さんは不良のくせに常識人なんだよ。』
 それも違うかと雪男は思った。兄はいつだって賢くて優れた弟を認めてくれたし誇りにもしてくれた。だからこそ兄の中で弟に対して見誤った見解を打ち立てて、それを信じきってしまっている。大事に思っている弟が、そんな兄自身の認識と合致する世間の評価をくそみそに言ったことが無茶苦茶ショックだったらしい。そんなものにしがみ付いている兄を情けなく思うが、それも自分を思うが故なんだろうと雪男は納得した。
「変態の兄の双子の弟も、やはり変態だって思わないかい。兄さん。」
 また燐が目を見開いて絶句している。燐でも理解できるように筋の通った理屈を言ってやったのに、燐はそれを自分たちのこととして飲み込みたくないようだ。
「じゃあ。こう言えばいいのかな? 兄さん。兄さんが僕のコートを脱がせて興奮してたように、僕も兄さんに脱がされているとき興奮してたよ。兄さんに見られて、もしかしたら犯されるかもって妄想もしたしね。」
「そんなの。そんな冷静な顔して言うことじゃねえだろっ。」
 燐が言うとおり、雪男は普段と何も変わらない様子でしれっと兄に告げていた。だから燐はやはりその言葉が信じられず、その口から反論しか出てこない。
「あ、そう。信じてくれないならそれでもいいや。」
 雪男はコートを引っ掛けたまま自分のベッドのほうに歩いていく。二、三歩歩いたところで急に後ろに引き戻され、燐側のベッドに放り投げられる。
「はあ……。」
 ベッドに放り投げられた衝撃に顔をしかめながら、目を上げるとはあはあと息を荒げて自分を見下ろしている兄がいた。それはどうしようもない感情を押さえ込もうとして、それでも抑えられないという、痛々しい泣き顔だった。
「馬鹿野郎。お前はとんでもない奴だ。」
「兄さんが開き直れないから悪いんだよ。」
 燐は一つ大きく息を吐くと雪男に覆いかぶさる。雪男は密着する兄の頭を撫でた。
「いっこだけきいとくぞ。お前は、俺もお前も変態だからしょうがなく性欲処理のために俺を誘ってんのか?」
「何情けないこと言ってるんだよ。」
「だって。俺は、おまえのこと……好きだから。」
 雪男は顔を綻ばせて兄の頬を撫でる。いつの間にか兄の眼から溢れていた涙を指で掬っていた。
「やっぱり兄さんは兄さんだね。僕より先に言ってくれて嬉しいよ。」
「じゃあ。お前も?」
 雪男は静かに頷く。
「ありがとう。それにごめんね。泣かすような言葉ばかり選んじゃって。」
 結局そこに辿り着くなら、今までの会話はまるで無駄で茶番じみている。
「僕は両思いって確信出来てないと、拒否されると思って怖くて言えなかったんだ。」
「ずるいお前らしいよ。だからってあんなことよく言えるよな。」
「たいしたことないでしょ。」
 燐はまた軽く打ちひしがれている。雪男は燐が今まで抱いていた弟のイメージをことごとくぶち壊しているからだ。でもそんなものは、この正十字学園に入学してから何回も味わっているだろうに。燐が思っていたより雪男はそんなに性格は良くないし、平気で隠し事をしたり嘘もついていた。だからせめて世間一般と同じ弟のイメージにしがみ付こうと必死だったのだろう。それすらも弟はぶち壊した。だってそんなものは、兄の本音を覆い隠す邪魔ものだから。
「とんだ破壊神だ。お前は。」
 燐がまた恨み言を言う。悪魔の首魁の息子には似合いの連れ合いだろうにと雪男は思った。
「兄さん。僕がもし真面目で常識人ないい子だったら、兄さんはずっと弟への欲情を隠して押さえつけて生きていくしかなかったんだよ? 僕は兄さんを受け入れられる程度にはふしだらだし変態だし、兄さんが好きなんだよ。」
 燐はえぐえぐと泣きながら雪男の胸に顔をこすり付けている。
「それが良かったか悪かったか、兄ちゃん正直わかんなくなってきた。」
 雪男は目を瞑ると兄の手を自分の胸に引き寄せた。
「良かったって言ってよ。兄さん。兄さんにとってショックだったのは理解したけど、いつまでも泣かれてたら僕だって傷つくよ。」
 燐は雪男の胸に顔を埋めたままひたすら頷いている。
「わがった。」
 雪男は燐に念を押すように言う。
「きれいごとじゃないんだから。このあとちゃんと僕のこと抱けるんだろうね?」
 燐はがばっと顔を上げる。
「え。俺は今日は両思いになれたと思って、それだけでも十分嬉しいんだけど。お腹いっぱいで入りきらねえんだけど。」
 兄は意外と純情だった。しかし雪男はそれでは済まない。
「なに? 甘いこと言ってるんだ。このくそ兄貴は? ちゃんと甲斐性見せろや?」
 雪男とは思えない口汚い言葉。燐は戦慄する。
「男と女のカップルだって、両思いになったその場でエッチしないもんだし。」
「は? 僕が今まで、どんだけあんたの物欲しげな目つきに焦れていたか、分かってんのかこの野郎。分かってねえだろ?」
「雪男っ。お前壊れてる!」
「っと、口汚く罵られたくなかったら、弟のお願い聞いてくれるよね?」
「十分に罵ってました!」
 雪男はそうだっけと笑ってみせる。燐はようやくほっとしたように溜息をついた。

拍手[8回]


☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第九話「たったひとつのダメなやり方」燐雪、燐アサ、籐雪

 突如覚醒した燐のスーパーモードは、しかし、そう長くは続かなかった。何故ならアサ子が祓魔塾に行くことに三日で飽きて、「燐が帰るまで大人しく留守番してる♪」とほざいて塾に通わなくなったからである。
「僕らの部屋には僕の個人のパソコンとかあるし、日中にアサ子さんが一人でいるとなんとなく心配なんだけどな。他の部屋をアサ子さんの為に開けておく手もあるにはあるけど。」
 雪男からして見れば、アサ子は機械にはあまり明るくないような印象なのだが好奇心だけは嫌に強そうなので、やはり私物のパソコンは触って欲しくなかった。最初は雪男はアサ子の塾通いに反対だったが、塾に通えば通ってくれたで、このようにかなり助かる面もあったのだった。
 現在アサ子が来てから一週間はとっくに過ぎている。しかしアサ子の記憶が戻る様子は無い。塾に通わなくなったという点も含めて雪男はかなり精神的に焦れてきていた。燐が傍らのアサ子の頭を背伸びしながら撫でている。
「いやアサ子はパソコンなんかイタズラしないだろ。」
 雪男が焦れる最大の理由は、燐が無意識にアサ子を庇ったりすることだった。アサ子が空気を読んで提案する。
「でも雪男が心配なら、俺どっかに行こうかな?」
 燐はまたアサ子を庇うように発言した。
「うーん。アサ子を置いておけるような広くて綺麗で居心地が良くて、ゴージャスなとこってあったっけ。」
「兄さん。それって他の部屋に置いておくって僕の提案を暗に却下してない? というか、この部屋も塾も兄さんの言った条件に合致しないんだけど。」
「いや。俺がいることでアサ子は精神的な安定を保っているんだ。俺抜きで一人ぼっちで汚くて狭くて貧乏臭いところにアサ子を一人で置いていたら、どうなるか分からない。」
 雪男は黙って燐の鳩尾にエルボーを叩き込んだ。燐はたまらず膝から落ちて咳き込んでいた。
「兄さん。アサ子さんを部屋に置いていて、どうにかなりそうなのは、兄さんのほうじゃない。忘れちゃいけないことがあったでしょ。ほら言って御覧よ。兄さんにとって一番は誰なんだい?」
「雪ちゃんですぅ……。」
 兄はこう言っているが、実際に雪男にとってもアサ子は脅威だった。
 兄は保護欲をそそられて、アサ子も犬よろしく燐を慕っている。最初はアサ子の記憶が戻れば滅茶苦茶になる関係だったが、時間が経つにつれて記憶が戻ったアサ子がかつてのアーサーのように、燐を殺すべきサタンの息子と見てくれるかどうか分からなくなってきている。
 もしかして燐に対して、彼の半身とも言える魔剣カリバーンを向けることを躊躇う可能性は、日増しに強くなってきている。
『カリバーンはアサ子の記憶喪失によって、契約が一時的に中途半端に切れている状態だ。それに、ここに来てからのアサ子はカリバーンに指一本も触れていない。というか触ろうとしていない。』
 カリバーンは今、部屋の隅っこに追いやられている。時々恨めしげに夜泣きしているようだが。そんなことを知っているのはいつも眠りの浅い雪男くらいで、肝心の聖騎士とサタンの息子は、そんな哀れな魔剣に気づくことなく、のほほんと毎日を送っている。
『カリバーンに呼びかけさせれば、アサ子の記憶は戻るかも。あとアサ子が探しに来たっていうキリちゃんに引き合わせれば。』
 雪男はキリちゃんという名前にも当たりはつけていた。他ならぬかつての自分の姉弟子・霧隠シュラではないのかと。
 しかしキリちゃん=霧隠シュラということは、この正十字学園に霧隠シュラが潜伏しているということだ。そして、その目的は他ならぬ兄であろう。故・藤本獅郎から溺愛されていた燐に対して、ただでさえ心象の悪いシュラがここにいるとなると、雪男の描いた絵図面通りにいかないかもしれない。
『やはり、カリバーンか。』
 雪男は見捨てられた魔剣を見ている。魔剣のほうもなんとなく雪男を見ているようだった。両者の間で交わされるアイコンタクト。
『やってくれるわね。雪男ちゃん。』
『貴方の主人をあの悪魔から取り戻させてみせます。』
 雪男は、蹲って雪男に肘を食らわされた腹を押さえている燐の背中を擦ってやっているアサ子の背中をツンツンとつつく。
「アサ子さん。あそこに立てかけているでっかい剣なんですけど、ちょっと入り口の近くなんで邪魔になるんですけどね。どっかに移動させてくれませんか?」
 アサ子は少し躊躇ったようにあとずさる。
「え……。あ。そうだね。」
 アーサーはおずおずと魔剣に近づこうとしたが、それよりも早く燐が魔剣に歩み寄り、その柄を持って振り上げた。
「きゃっ! どこ触ってんのよ、サタンの息子! そこを許してるのはアーサーだけなのにっ。」
 いきなり物言わぬはずの魔剣が金切り声を上げる。燐は驚いて目の前の魔剣を凝視した。
「いやああああ! そんなおぞましい目で見ないでええええ。」
 続けて声を上げる魔剣の反応が面白いのか燐は、その刀身をこちょこちょと擽り始めた。
「あ……。はあっ。そんなところ……。いやんっ。アーサーの目の前でそんな……汚らわしい悪魔にこんなに好きにされて、私……。」
 カリバーンははあはあと荒い息を吐き始めた。合間に悩ましい溜息も混じる。
「あ……、あん……。こんなこと。アーサーにも…されたこと……」
 雪男は思わず後ろから燐の頭を降魔剣で殴った。
「ぎゃん!」
 燐は頭を抱えてしゃがみこんだ。なんだか分からないが絶頂に達してぴくぴくと痙攣しているカリバーンを、どさくさに紛れてアサ子は燐の机の下の奥に避難させた。
「あ、アーサー……。違うの。これは……、あんな悪魔の手なんか全然気持ちよくなんかなかったからっ。」
 アーサーはアサ子の時には見せなかった表情を浮かべてカリバーンの言葉に頷く。
「わかったから。」
 アーサーは燐と雪男に聞こえないように小さく囁くと、指先でカリバーンを撫でた。
「もう少し、我慢して。」
 その表情はカリバーンから見れば少し苦しんでいるように見えた。だからもう、カリバーンは黙ることにした。
 カリバーンのもとを離れたアーサーは、にこっと笑うと燐のところまでスキップして近づく。
「りーんっ。」
 燐は雪男に袋叩きにされている最中でそれどころではなかったのだが、アサ子の甘ったれた声にすぐさま反応する。アーサーは言いにくそうにしながら提案する。
「……そういえば燐って、頼りにしてる後見人の人がいるって言ってたことがあったけど。その人って、お金持ちで、この学園に大きくて綺麗な部屋を持ってるんだよな? その人が燐のお願いで居て良いって言ってくれたら、俺、燐がいない間はそこにいようと思うんだけど。」
「後見人って、メフィスト?」
 燐は驚いていたが雪男の目(眼鏡)は光った。
「確かに、フェレス卿は日本においての祓魔師の長と言っても過言でもないからね。多分アサ子さんの身の上に同情して、いいって言ってくれるんじゃないかな。」
 雪男はいっそのことメフィストにこの聖騎士を押し付けてしまえばいいんじゃないかとも思えてきた。メフィストのほうがアーサーとの因縁も深いので、記憶の回復の見込みも燐と一緒にいるよりも高い。メフィストの元で記憶が戻れば、その後いちゃもんも付け易いだろう。
「そうだな。あの部屋ならアサ子にぴったりかもしれない。お人形のように綺麗なアサ子は、きっとメフィストに気に入られるだろうし。」
 雪男は腹の中の計算用紙に筆算でこれからのことを計算してみた。現実離れしたアサ子の見てくれと、一見かわいらしく見える仕草に騙されている兄から、アサ子を引き離すにはメフィストにアサ子を押し付けるしかない。あまり世話する必要がなくなって、接触時間が短くなれば、兄も束の間の夢から覚めてくれるに違いない。
「でもアサ子。俺は塾が終わったら直ぐに迎えに行くからな。待ってるんだぞ。」
 燐はポケットから鍵を取り出すと、それをアサ子に見せた。
「これ。メフィストの部屋の直通鍵。今から話つけに行くから。少し待ってろ。」
 背を向ける兄の後ろで雪男は「いつのまにそんなもん貰ってたんだ!」と叫びたくなった。本当に兄も、その周りも、油断も隙も無い。
「合鍵だと……。くそ悪魔同士が馴れ合いやがって。」
「雪男も持ってるだろ。この部屋の合鍵。」
 アサ子のツッコミが雪男の癇に障ったが、それもそうだねと言い切ってみせた。
 燐は鍵穴に鍵を突っ込んで出て行ったが一分も経たないうちに帰ってきた。
「あー。了解取れたわ。で、メフィストのやつ、変則的な出張で毎日朝から夜九時までいなくなるらしいんだよ。だからアサ子に好きなように部屋使って良いって。」
『『なんだと。』』
 アサ子と雪男が同時にチッと舌打ちした。
「良かったなあ。アサ子。俺は塾が終わったら八時半までには迎えに行くからな。」
「う……うん。燐。待ってる。後見人の人の部屋でいい子で待ってる。」
 
     *   *   *
 
 その日からアーサーはメフィストの私室兼執務室で昼間の時間を過ごすことになった。そして燐は当然のように凡人以下の成績に落ち着いてしまった。まるでかのSFの巨匠が描いた儚い人間とネズミの物語のようだった。しかし当の燐は自分にも世界にも絶望することなく、講師達を落胆せしめ、当初から予定されたように補習授業を受けることになった。
「どうせ兄さんのことだから、そうなると思ってたよ。」
 そうやって割り切っていても、兄の頭の悪さを人前で再び晒しても、雪男だけはみんなのように、それに呆れるだけじゃ済まなかった。日に日に兄は自分だけのものじゃなくなってきている。それどころか美味しいところは全部他人に持っていかれているような気がする。
「兄さんってば限定的なサヴァン症候群っぽっかったな。」
 雪男が廊下をとぼとぼと歩いていると見覚えのある人影が手を振って歩いてくる。そして「どうしたの。寂しそうじゃない?」と軽々しく声を掛けてきた。雪男は礼をしただけで淡々と受け流そうとしたが、藤堂はたった一言で雪男の無視をぶち壊す。
「自業自得じゃないのかな?」
 廊下ですれ違う藤堂が雪男の肩を抱いてくる。
 藤堂のほうが背が低いので、年上から上目遣いに見られる居心地の悪さに雪男は目を伏せた。相変わらず日に数回掛かってくる藤堂からの電話で、うっかり兄のことを愚痴ってしまったことはある。いや、迂闊だったわけではない。藤堂は雪男に対してセクハラ紛いの事や揶揄することも言うが、あくまで藤堂は雪男の味方というスタンスは崩していない。時々見え透いたように煽てられたり心配げに声を掛けられると、藤堂が味方でいいと思えることもある。だからなんだかんだで藤堂の番号を着信拒否にすることもないし、意味深なことを言われると耳を傾けたくなる。
 藤堂はというと、あれからも悪魔の討伐のたびにその悪魔の力を吸収しているのか、自分からそうしなくても溌溂とした外見になりつつある。ただし悪魔の性質も濃くなっているため、かつては落ち着いていた雰囲気も歪になってきている。
 雪男は主語無しで問いかけてきた藤堂の言わんとしているところが分かってしまった。
「人は優しくしてくれる他人を好きになりますからね。僕みたいに殴る蹴るを繰り返しても、兄が上辺だけだとしても好きって言ってくれること自体が異常なんですよね。」
「えー? 僕だって君に冷たくされても君が好きだよ。」
 雪男は笑って誤魔化そうとした。その気のない笑顔にも藤堂は食いついてくる。
「僕も君のことが好きだからね。お兄さんの気持ちはよく分かるよ。」
「兄の、気持ち。」
 雪男が一番把握したいものに藤堂は心当たりがあると言う。だから参考までに雪男は問いかける。
「僕みたいな精神的に少し壊れたような男を好きになる男って、どんな感じですか?」
 まさか問いかけられると思っていなかったのか、藤堂は泣きそうな笑顔で口ごもりながら告げる。
 
「劣等感にいつも苛まれている、寂しがりやだよ。」
 
 雪男ははき捨てるように声を上げた。
「それは、昔の僕だ!」
 藤堂は続ける。
「だから君にそんな思いをさせた兄を、昔の自分と同じ存在に変えたいんだよ。君は。過去の君は、そんな兄に、どうして自分の気持ちが分かってくれないんだろうと、焦れていた。そして何年もそんな気持ちを、その綺麗な顔の下に隠し続けて……。しかし君は幸運だった。自分はまっとうな人間で優秀な祓魔師で、当の兄はサタンの息子で人間としては劣性な資質しか持っていない。君の本来的な弱さをそれらが包み隠してくれたんだ。それに君は、父親に与えられた「兄を守る」という大義名分も得ていたろう。」
「それは、認めます。僕が兄に対して強く出られる二本柱ですから。それがなければ……。」
「いいや。三本柱だよ。」
 藤堂は滔々と続ける。
「その上君はまたしても、とてつもない幸運に恵まれた。ある日君は知ってしまったんだよ。たった一冊の薄っぺらい雑誌と写真でね。実の兄が君を性愛の対象にしているということを。そしてその握った兄の弱みを、兄自身に暴露して、その欲望を拒否せしめた。これが決定的だったね。お兄さんは君の言うことにもやることにも抵抗出来なくなっちゃった。君の兄は不良でブラコンだけど、性根は可哀想なくらい真っ直ぐで優しい男だから。」
「そうですよ。だから僕は、かつての僕に苦しい思いをさせた兄さんに、そっくりそのまま、あの時の感情を味あわせているんです。」
 藤堂は少し面食らっている。
「僕が言ったことは推測の域を出ないと反論されると思ってたんだけど。まさか全肯定とは豈図らんやだね。」
 藤堂と雪男は互いに含み笑いの声を上げた。
「藤堂さん。貴方は悪魔の力で人の過去まで探れるようになったんですか?」
 藤堂は歯切れ悪く答える。
「人間だった時にはね、もっと慎ましかったんだよ。僕は。こんな風に人の黙ってあげるべき過去が分かったとしても、それをこれ見よがしに言ったり、どこかに暴露することもなかったんだよ。悪魔の性質っていうのは、それを抑制する部分を麻痺させてしまうんだ。」
 雪男は廊下の壁に凭れて横目で藤堂を眺める。藤堂はそんな雪男をうっとりとした目で見つめていた。
「こんな話をして君に軽蔑されても、悪魔というのはそんな君に潜む卑屈さと頑強さに惹かれてしまうもんなんだ。ああ。でも。君のような簡単に心も肌身も許してくれないような潔癖さを持っている子だったら、好き好き言われても、いや、その言葉が常に自分に纏わりついていると、そんな言葉を君に浴びせる人間に対して、懐疑的になってしまうのかも。」
「そっか。」
 兄が祓魔師を目指してからずっと雪男に纏わり付くストレスの原因。雪男はそれについに気づいてしまった。
 
「僕にとって願ったりだった状況が、一番しんどいことだったんだ。」
 
 雪男はずるずると床にへたり込む。藤堂は手を差し伸べようとしたが、雪男に嫌だと返された。
「後悔したかい?」
 雪男はこみ上げてくる嗚咽を必死で抑えて首を振る。
「貴方の言うとおり、自業自得でしたね。流石は僕の味方だと言い張るだけのことはあります。」
 雪男は片膝を立てて立ち上がろうとする。その目を見た藤堂がやるせなさそうなヘラヘラ笑いを浮かべている。雪男の反応があまり気に入っていないようだった。
「思ったよりダメージ受けないね。君。涙は流しているみたいだけど、うそ泣きっぽく見えるよ。」
 雪男は屈んでいる藤堂の肩に手を添えて、まるで手すりのような扱いで立ち上がった。
「ちょっとだけ弱音を吐きたかっただけですよ。僕はそんなに弱い人間じゃない。そして僕が呪っている悪魔も、ちょっとやそっとじゃ死なないし。僕が作り上げた状況が、僕の心を追い詰めているだって? 上等じゃないですか。そんな状況で傷ついているのは僕だけじゃないでしょう? あの悪魔だって存分に傷ついている。なら僕としては本望だ。」
 藤堂はちょっと鼻白んだが、皮肉な感嘆の声を上げる。
「ブラヴォー。エクセレント。ファンタスティック。」
 人間なのに悪魔的。痛み分けを勝利と言い切る病んだ恋心。
 それを元人間の悪魔に褒め称えられて雪男は、思わず歯を食いしばった。
 
 そして、雪男は藤堂と別れて歩き出す。歩きながら雪男は一人呟いた。
「ふっ。任務三連チャン後に言われたら堪えていたかもしれないけど。通常の僕ならどうってことないや。あの悪魔も詰めが甘い。」
 それでも雪男は唇を噛む。
『あいつが気づいた程度のこと、兄さんが気づかなくてどうするんだよ。』
 元人間の悪魔が放った言葉の矢じりは雪男の心を掠めて、楔形の傷を作っていた。







お気づきだと思いますが(いや絶対気づいていらっしゃるでしょうけど)アーサーはもう記憶が戻っています。次回はマジで明陀番外編いきます。
 

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☆ss「スカボロフェア第二話」藤堂とネイガウス

 それから一週間が過ぎたころ。ネイガウスは藤堂と普通に事務所でコーヒータイムを過ごすようになっていた。ネイガウスは休職中なので、居場所に困っていたそうだ。しかも理由が理由だけにあまり表も歩けないらしい。でも自宅に引き篭もることもこの不器用な男には出来ないのだろう。
「新しい講師の先生に産休って言われちゃったんですか。それは災難でしたね。」
「誰も本気にはしないでしょうがね。」
「でも誰もが一瞬は想像しちゃうでしょう。おなかの大きいあなたとか。そのおなかを慈しむような目で見るあなたとか。」
 ネイガウスは理解出来ないというように藤堂を見ている。相変わらず冗談は通じないらしい。これだけ日本語が堪能なのにと藤堂は残念がった。
「藤堂さんは今はどのような仕事を?」
「今はここでとあるものの警護の責任者に当たっています。警護そのものは部下にやらせてますが、いろいろと配置とかがねえ。祓魔師って出自も特殊で我の強い人も多いでしょう。だから調整は慎重にしなくちゃいけないんです。」
 ちらっとネイガウスのほうを見て反応を窺う。ネイガウスはポリポリとおっとっとをつまんでいる。かなり気に入っている様子だ。
「どうです? 一緒にお仕事しませんか?」
「私は我が強いですから、駄目でしょう。」
 そんなつもりで言ったんじゃないけどな。けど無理にもう一度勧めるのはやめた。社交辞令もあまり通じない真面目さと、人の言葉を受け入れてしまう素直さも強いようだ。
「でもここに来るようになってから、心が休まっているような気がします。」
「怪我の功名ですかね。」
「いえ、あなたのお陰です。」
 おっと。藤堂はほんの少し動揺する。自分の上辺の親切が、このように思われているとは思わなかった。ネイガウスは照れているのか唐突に窓の外を気にする。
「あの悪魔の息子は、来ないですね。」
「まあ。たった一週間前に誰かに男といちゃついているところを目撃されてしまったと思えば、当然の行動ですよ。」
 ネイガウスは見るとはなしに事務所の入り口横に置かれたホワイトボードを見る。
『正十字五丁目住宅エリア被害者二名(男・一、女・一)被疑者不明、心中の疑いあり』。
 祓魔師というよりは、警察のホワイトボードに書かれていそうなことだった。
「これは……」
「いやあ。被害者が悪魔と血縁なもんでうちにまわってきたんですよ。」
 悪魔と人間のハーフ。または何代か前に悪魔と交わった者のいる家系があったりする。それは一般社会では特に取沙汰はされていないが、祓魔師の組織では調査・確認が念入りにされていた。祓魔師の養成機関であり日本のヴァチカンでの支部である正十字学園があるこの街では、特にそれが念入りに為されている。
「ただの金銭目的か心中であって欲しいですね。あのへんは色々と治安も悪いですから。」
 刑事事件と悪魔がらみの事件とでは深い溝がある。しかし悪魔がらみの犯罪は、警察より祓魔師のほうが出張らなければならないという困った構図がある。その境目もなかなか区別がつかないことも多いのに、被害者や関係者、そして大本になった犯罪者が悪魔と血縁というだけで学園に持ち込まれることがよくあった。
「ところで。二名の男女とありますが、どちらが悪魔と血縁だったのでしょうか?」
「両方ですよ。きょうだいだったようです。姉と弟の。」
 ネイガウスはその藤堂の最後の言葉にピクリと反応した。
「姉と弟ですか。」
「親で悪魔だったのが、えーと……父親ですね。数年前までは父親も物質界でまともに生活していたようですが、憑依体にガタがきて死亡。母親は父親の正体を知ったときに失踪。典型的な悪魔に関わった子どもの孤児でした。それで姉と弟は公的施設に頼らずフリーターをしながら二人で生活していました。死亡時の年齢が十九歳と十七歳。まああのへんの環境ですから、そのうち非合法がらみの仕事に就く可能性もあったんで、警察としてもそれを未然に防げたということに安堵しているようでした。」
「それは酷いんじゃないですか? 悪魔がらみの家庭とはいえ、子どもには罪がないと思います。」
 藤堂はぎょっとネイガウスを見る。しかし努めて穏やかな声で告げる。
「私も同じ考えです。そもそも彼らの死自体がその犯罪によるものかもしれないのに、未来の犯罪の被害を防げて良かったなんて言うべきじゃないです。まあ、警察としては悪魔がらみのことは何でもかんでも尻込みする傾向がありますから。未知のものは怖いんでしょうね。被害者の死体であったとしても。」
 藤堂はデスクの上にあったファイルから写真を二枚抜き出す。それをネイガウスに見せた。男女の違いがあっても良く似た顔立ちの姉弟だった。
「近所の人達によると、仲のいい姉弟だったそうですよ。でももっとよく事情を聞くと、ちょっと特殊な感じの仲の良さだったらしいですね。」
 ネイガウスは藤堂の目をじっと見ている。
「ここから先、聞きますか?」
「私みたいな部外者に話してもいいものなら。」
 さっきからのネイガウスの態度から、この事件について少なからず興味を示していることがわかった。藤堂は内心ほくほくとした満足感を覚えて、他の部外者には内緒ですよと前置きした。
「被害者が姉弟だと言った途端、近所の夫人は「若い夫婦じゃなかったの?」と言ってました。あの二人は以前暮らしていたところから引っ越してきたので、それ以前の彼らのことを知っている人はほとんどいません。そんな人達の目に映る彼らは、まるで恋人同士のように見えていたそうです。」
「仲が良かったのでしょうね。異様に。」
「それだけじゃないんですよ。」
 藤堂の軽い声が事務所に虚しく溶けていった。
「あのへんの賃貸住宅は壁が薄くてね、彼らの生活音がわりと筒抜けだったんです。そして、夜なんか聞こえてきてたんですって。」
「なんですか。」
「情交の声とか。」
 ネイガウスは眉間に皺を寄せた。
「心中の疑いは、それから来てるのですか。」
「姉が妊娠してましたからね。三ヶ月くらいで胎児として形は出来てました。DNA鑑定の結果で捜査の方針が固まるでしょうね。」
 弟との子だと判明すればそれを苦にした心中で、他の男の子だとすれば情痴がらみの殺人の疑いが濃くなる。
 藤堂はコーヒーのおかわりを注いでいたが、ネイガウスのカップの中身が少しも減っていないのに気づいた。
「やはり、気分を悪くされましたか?」
「いえ。ありふれた悲劇でしょう。」
 ネイガウスにしては投げやりな感想だと藤堂は感じた。だからもっとこの男の心を波立ててやりたくなった。
「私は思うんですけど、被害者の姉と弟はどんな思いで寄り添っていたんでしょうかね。お互いに呪われた血を分け合って生まれてきた。そのせいで母親にすら見捨てられて。あっという間に社会の底辺になってしまって。私少し調べたんですけど、母親はそれなりの名家のお嬢さんでした。父親とは恋愛結婚だったそうです。それなりの覚悟があったのに、悪魔の血を孕んだというだけであっけなく心変わりしてしまったのでしょう。」
「でも失踪ということは、……」
「そうですね。どこかで命を絶ったかもしれませんね。でも彼女にとってその配偶者が愛するものから、忌避したくなるものに変わったことには違いありません。愛は消えてしまったのです。」
「悪魔は忌まわしいものですから。」
 何故かその言葉をネイガウスは苦しそうに言った。
 ネイガウスはソファから立ち上がる。
「せっかく聞かせて頂いたのに、役に立つような意見は私には無いのです。」
「いや。そんなに親身になって頂くようなことじゃありませんよ。他所から盥回しにされてきた件ですし。正当に悪魔と渡り合ってきた貴方にとっては、くだらない話でしょう。」
 ネイガウスは俯いている。
「私が言えることといえば、そんな最悪な状況の中で寄り添ってきた弟が、姉の妊娠を苦に心中を選ぶような男とは思えない。」
「まだ子どもですからね。十九歳と十七歳。」
「そうかもしれませんね。でも、」
 藤堂はネイガウスを見上げる。ネイガウスは目を逸らす。
「いいです。」
 このへんで潮時かなと藤堂も思った。あまりしつこく話を引っ張って、ネイガウスがここに立ち寄らなくなるのも残念だから。でも、この事件に関してはまたこの男から感想を引き出せるんじゃないかと、後日には期待を残している。精々、素知らぬ振りをして資料でも目に付くところにでも置いてやろうと藤堂は思った。
「私は外に空気を吸いにいきます。」
「私もついていきましょう。」
 二人はゆっくりと事務所を出る。塾のほとんどの教室は閑散としている。
「やはり人手不足みたいですね。」
 そして思い出したようにネイガウスに言う。
「貴方は結婚していたのだから、お子さんが生まれていたらさぞや才能のある祓魔師の素質に恵まれたお子さんだったでしょうね。」
 ネイガウスはピクリと眉を動かした。
「生まれていたら、私より妻に似ていたことでしょう。妻のような金色の髪と明るい目の色の。」
「ちょっと貴方にしては願望じみてますね。奥さん似の女の子が欲しかったとか?」
 ネイガウスは口を噤んだ。
「私は妻を愛してましたから、妻に似た子が欲しかったです。それだけです。」
 掠れた声で言うネイガウスに、藤堂は背中がゾクゾクするほどの興奮を覚えた。しかしそれはネイガウスに悟られてはいけない。だってもっと、この男の中身を晒して欲しかったから。でも急いではいけない。表面的なところを撫でて共感した振りをして、この男の心の箍に念入りに麻酔を掛けなければいけない。
 
 春が夏に入れ替わる前の湿っぽくって青臭い空気の中、舗装されていない草の上を二人で歩いていた。ちょうどここ数日は天気が良かったのでさほど歩きにくくはなかったが、雨でも降ったあとには腐葉土と化した落ち葉のせいで足を取られてしまう。この辺は正十字学園の敷地でもあまり管理されていない場所だった。
「それにしても懐かしいなあ。私も学生の頃はよくこのへんで読書したもんですよ。」
 取って付けたように藤堂が昔を懐かしむようなことを言う。ネイガウスにつられて歩いていたら、まるで戯曲ハムレットのワンシーンのような光景に出くわした。そこは水辺ではなかったけれど、オフィーリアの入水した死体を思わせる誰かが横たわっていた。
 雑草ではあるが彼を取り巻いていたのは可憐な花々で、彼はその上に無造作に転がっていた。
「ほお……。」
 祓魔師の制服を着ているがやけに若い。色白の肌に点々とした黒子が印象的だった。ネイガウスが無味乾燥な声音でぽつんと呟く。
「奥村雪男。」
「え? 彼があの奥村なんですか。」
 中年二人の潜めた声に、雪男はまるで反応しない。
 藤堂は近寄って脈を取るためにその手を取ろうとしたが、ネイガウスがそれを制した。
「何も異常はないです。ただ眠っているだけでしょう。夜あまり寝ないらしいですから。」
 藤堂は照れ笑いを浮かべる。
「僕としたことが、医工騎士の悪い癖が出てしまいましたね。こんな野外に祓魔師が倒れていたら、死体だと思ってしまっても仕方ないでしょう。実際、死体くらいに綺麗だったのですから。」
 藤堂はネイガウスに眉を顰められた気がした。
「あ。すみません。眠っている少年を死体呼ばわりするのは、不謹慎で穿ちすぎですよね。」
「先ほどまで事務所でしていた話が話ですから、貴方がそういう発想に至り易くなっているのは分かっているんです。私が個人的に神経質なのでしょう。」
 頭の上から降ってくる中年同士のやりとりに、雪男の瞼がぴくりと動く。
「起きますね。これ。もうちょっとしたら。」
「それじゃあ、二人で速やかに退散しましょう。」
 日が結構傾いてきたので、もうそろそろ起きたほうがいいに決まっている。しかし寝起きに兄を殺しかけた男と、まるで面識のない中年に見下ろされていたというのは、あまりにも気の毒な話だ。二人は起き上がる雪男から見えなくなるまで、言葉少なく足早に離れる。
 それにしても、幾ら天気続きで多少は寝心地が良くなっていたとしても、あんな人通りの少ないところで死体みたいに転がっているのは、藤堂としてもどうかと思った。
「綺麗な子でしたね。でも眉間の皴はそんな彼の抱える影がなんとなく察せますね。目の下に微かに隈があったな。本来眠れるべきベッドで眠れないから、あんなところで居眠りしてしまったんだろうな。」
 頭からはみ出てしまった思考が口をついて出る。ネイガウスが目敏くそれを聞いて、彼なりの回答を短く言った。
「その原因は、彼の兄だと思いますよ。」
 藤堂は自分の好みの会話の展開に嬉しくなって、またネイガウスに質問する。
「彼らは親密すぎる兄弟ですか?」
 藤堂の問いにネイガウスは首をかしげた。そしてネイガウスなりに回答する。
「不良と教師の関係か、普通の出来の違い過ぎる兄と弟、という感じでした。塾の中では。」
 藤堂は数日前のことをネイガウスに思い出させるように、唄うような口調で言ってみた。
「彼、奥村雪男君は、兄に性別が同じ恋人がいるってことは、知ってるんでしょうかね?」
 ネイガウスは立ち止まる。数日前、勝呂と燐が抱き合っていた場面を見たショックがぶり返して、身体が動くことを放棄したようだった。
「それは……私にはわかりかねます。でももし知っていたとしたら、」
 それを継いだように藤堂は嘯く。
「もし知っていたとしたら、かの潔癖そうな彼なら、少なからず干渉するんじゃないでしょうか。奥村雪男君は躾けられ避妊処置を施された飼い猫や飼い犬を思わせますが、彼の兄はそれとは反対の野良猫のような奔放さです。それこそ犬猫の交尾のようにその辺の雄と、本能の赴くままに関係を持つことも、どうということはないでしょう。あの男に甘える仕草もまるで、最初から遺伝子に組み込まれているように見えましたよね。でもなんというかな? アレはまだ男を受け入れる前の無防備ないやらしさっていう感じでしたね。そんな兄を側で見ている大人しい弟も大人しいままでいられるでしょうか。ねえ――」
 藤堂の生生しい例え話はネイガウスの声で遮られた。
「それはあまりにも、下世話な想像だ!」
 ネイガウスは藤堂がびくっと身体を震わせたのを見て、誤魔化すように咳払いをした。
「いや。彼の寝顔があまりにも美しかったので、想像を掻き立てられただけですよ。兄弟揃って実に興味深い。私の悪い癖だなー。昔は文学少年崩れだったから、つい耽美趣味とか倒錯とか禁断のなんとかに夢を持ってしまうんですよね。いけない。いけない。普通の方が聞いていて愉快な話じゃないですもんね。」
 そんなふうに笑い話にしてしまおうと藤堂はネットとかで仕込んだネタを話し始める。
「私ぐらいになると、あまり脂っこい話は逆に食傷ぎみになるんですよね。画像でばーんと女の人のバストが出てきたりとか、やたらやってることがマニアックとか、日本語が崩壊したような喘ぎ声の羅列とか。そのファンタジー加減が若いっていいなあとか、羨ましくなるんですけどね。」
「貴方はそういうものを見ている時点で、十分に脂っこいものもいけるじゃないですか。」
 ネイガウスはふんっと顔を真横に向けている。
「そうですよねー。でも、私も一応、今は独り身なもんで。そんなサイトを見ないほうが不自然でしょう。言い訳しますと、何かと人間心理の参考にもなります。そうですね。例えば。あのサタンの息子とその恋人は、まだキス以上はしてなさそうですね。っていう下世話な予想ですけど。」
「彼らは学生です。そんなふしだらな行為にかまけている暇はないでしょう。本能だって理性で屈服させるのが普通なんですから。」
「ほら。やっぱり貴方は、現実ってものが分かってない。」
 ネイガウスは首を回して藤堂を凝視する。
「貴方は本当に不思議な人だ。ここまで不愉快なはずの話を聞かされているのに、妙に諭されているような気がする。」
 諭すつもりはなかったんだけどと藤堂は頭を掻く。
「いやあ。こんな下世話な想像くらいしか楽しみのない男ですが、これからも仲良くしてくれたら嬉しいな。」
 ネイガウスは地面を見ながら最小限に口を動かして「はい」と答えてくれた。そして藤堂に言う。
「もう少し時間が経ったら、貴方の好きな人間心理の考察に有意義な話を聞かせたいと思います。」
 藤堂はもちろんこう返す。
「気長に待ってます。」
 たぶんそれはネイガウスの告白話になるだろうから。
 
 二人の男たちの後方で雪男は目を覚まして辺りを見回していた。
「あれ? フェレス卿……。いない。」
 雪男は頭を振る。
「おかしいな。僕は確かにフェレス卿と話してたはずなのに。」
 最近は寝不足ですとか、そんな近況を話していたら悪魔は「では少し眠ってもらいましょう」と言って呪文を唱えていた。しかし暫く眠らされていたにしては、雪男の身は無事で済んでいる。
「フェレス卿の気まぐれはわけわからないな。」
 雪男は知らなかった。遠くない未来、関わる男の目の慰みになっていたことを。そしてそれがメフィストに仕組まれていたことを。






ついにこっちの話も動き始めてしまいました。勝燐の舞台裏こと藤堂とネイガウスの話でした。それにしても誰か藤堂さん話書いてくれんかな。どこかにありましたら教えていただけたらと思います。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第八話「本気と書いてマジ、浮気と書いてアソビ」

 窓から差す朝の光で白いシーツの上に長い金髪が、まるで金色の川のように流れている。燐はその様子をうっとりと床の上に敷いたマットレス(下には大型のダンボールを何枚も重ねたもの)からなんとく見上げていた。
「本当にアサ子は人間じゃないみたいだな。」
 ドカっと背中に衝撃が襲ってきた。兄の猫背になっている背中を踏みつけるように雪男が蹴りを入れている。
「ああ! ごめん! 俺が一番好きなのは雪ちゃんだから!」
 二、三回追加で蹴りを入れたあと、雪男は不機嫌そうに兄に告げる。
「今日はアサ子さんを塾に連れて行くんでしょ。自分が言ってた癖になんだよ。さっさと起こしてあげないと遅刻するよ。」
 
 つい先日、燐は正十字学園に目的があってやってきた祓魔師こと、金髪王子のアサ子を拾った。アサ子は金髪で蜂蜜色の目をした白い服が似合う記憶喪失の祓魔師だった。
 記憶喪失になったのは燐が屋上から落ちてきてアサ子にぶつかったせいなので、燐にぶつかる前までのアサ子はちゃんと自分がなんの為にこの学園を訪れたのかを分かっていたはずだった。しかしアサ子は自分の渾名以外の記憶を失くしてしまっているので、奥村兄弟のいる寮で世話になっていた。
 
 祓魔師の知識もほぼ壊滅的だったので、どうせ人数的にガラガラの教室なのだからアサ子一人が増えても問題ないと、燐は誰にも相談せず勝手に判断して、今日から祓魔塾にアサ子を連れて行く気満々になっていた。
「いっとくけど、フェレス卿が駄目って言ったらそれまでだからね。」
「いやあいつ、初日しかあの塾に顔見せたことないじゃん。バレようがないからいいじゃん。」
「急に来てなんか言われても僕は知らないからね。」
 ちなみにアサ子の本名はアーサー・О・エンジェルだったりする。闇の代理人こと諸悪の誘惑者・メフィストフェレスとは不倶戴天の敵とも言える。(臨○とか○ちゃん的な意味で。)
 今日は土曜日なので兄弟の用事は塾のみだった。アサ子を塾に連れていくにはちょうどいい。
「アサ子―。起きろよ。」
「うーん。まだ眠い。」
「駄目だぞアサ子。今日はアサ子を塾に連れて行くって言ったろ? アサ子見たらみんなびっくりするぞ。綺麗だからな。」
 背後で弟がまたもやチッと舌打ちする。燐はまた蹴られたくないあまりに叫ぶ。
「俺にとっては雪ちゃんが一番可愛くて綺麗ですから!」
 雪男が憮然としたまま顔を洗いに出て行ったのをしっかり確認してから、燐はまたアサ子に構いだす。
燐がアサ子の背中を優しく揺らしている。アサ子は眠たげに瞼をこすりながら燐に向かって手を差し出し「だっこ」と言った。燐は嬉しそうにアサ子を抱きかかえて布団の上に座らせようとしたが、身長差故に燐はアサ子に向かって倒れこんでしまった。
「アサ子、体重かけてない?」
「えへへばれたか?」
 どこの馬鹿っプルだとツッコミを受けかねない男同士だった。
「本当に手の掛かる子だな。アサ子は。」
「アサ子はまだ飼い始められたばかりの馬鹿犬だから、ちゃんと燐が躾けてくれよ。」
「犬って、お前自分でそんなこと言っちゃっていいの?」
「いいのいいの。燐は優しいご主人様だから。」
 誰が見ても信じられないだろうが、アサ子にとって燐の存在は「ご主人様」で自分は「飼い犬」のつもりらしかった。燐はそんなアサ子の認識に戸惑いながらもまんざらではないらしい。
その光景をドアの隙間から、雪男は兄に悟られないように不機嫌そうに見ている。
『けっ。』
 しかし雪男は思うだけで、さっきのように暴力には出なかった。
『所詮アサ子の記憶が戻れば、すぐに滅茶苦茶になる関係なんだよ。』
 何気に雪男はアサ子の正体に気づいていたというか、アサ子の顔を知らない現役祓魔師はいなかった。しかし兄がしでかした粗相(雪男に半分以上責任がある)を追求されたくなさにずっと黙っていた。
『早くアサ子記憶戻らないかな。』
 用意周到なことだが雪男はメフィストに既にアサ子に関する連絡は済ませてある。アーサーの記憶が戻ればメフィストがサタンの息子である燐を隠蔽していたことでアサ子が騒ぎ出すのは必定だろう。
そしてメフィストにその場に参上して貰って、ヴァチカンの審問に持ち込んだ上で、ちょっと無理めな半年後に祓魔師の資格を取らなければ死刑という条件のもとに兄の延命を求める。
 その判決に持ち込めれば、兄はヴァチカンの関係者に勝手に殺されずに済むのだ。
 そして特訓の名の下に自分が兄を独占できる。
 そのときにダメ押しのように、サタンの息子というブラックボックスの中身を勝呂を筆頭(中井さん的な意味で)に塾生全員に見せつければいい。思う存分、教師面して、淡々と。内心で友達ぶっている甘い連中に向かってぶちまけてやるのだ。
 サタンを恐れ倒すことに野望を燃やす勝呂は燐から離れるしかない。サタンとそのへんの悪魔では、アナコンダとミミズくらいの違いがある。勝呂が離れてくれさえすれば、あとの塾生が離れてしまうのは必至だ。
 兄は当然のように孤立無援になって自分から離れられなくなる。
 あと、不安要素といえばあの悪魔落ちした中年だが、(雪男は半分も信じていないが)藤堂は何もやらかさないと雪男に宣誓してくれた。その宣誓が本当なら、藤堂が不測の事態を引き起こすという心配はない。(勝呂との仲直りイベントのある『京都編』とやらには絶対に突入しない。)『世界は雪男にとって俺得』な状況に持ち込めるはずだった。
『兄さん。アサ子の記憶が戻る日を楽しみにしててね。そうしたら他の人に気を散らさずに、僕だけとずっと一緒にいられるからね。』
 アサ子の飲食物に記憶が戻ることを促す薬物も日々仕込んでいる。アサ子の記憶は早くて一週間後に戻るだろう。雪男は燐には知られないようにほくそ笑んだ。今は兄がアサ子の髪を解かす光景を我慢して見届けようという余裕があったのだ。
 
     *   *   *
 
「今日から皆さんと勉強することになります。アサ子さんといいます。」
 よろしくとアサ子はお行儀よくお辞儀をした。いつも塾の空気になっている山田がぶっと噴出して腹を抱えて蹲っている。
「山田君笑わない。アサ子さんはこの学園で発見された時には既に記憶喪失になっていて、自分のニックネームしか思い出せないそうです。祓魔師の知識すらかなりの部分を失ってしまっているので、リハビリも兼ねて塾に入ることになりました。皆さんもアサ子さんと仲良くしてやってくださいね。アサ子さんの身の回りの世話は奥村君がするそうです。」
「ははっ。燐は俺直属の飼い主だ!」
 一同はそれを言うならお前が直属の飼い犬と言うべきだと、態度のでかい飼い犬に対して思った。山田ことシュラは腹の中で人の世話になっていても(サタンの息子の世話になっていても)偉そうな奴だと笑いを堪えている。
 塾の生徒の視線は当然のようにアサ子に集まっている。しかしそれは燐が思っていたような「綺麗」という単純な意味の視線だけではなかった。
 しえみが燐の横から「綺麗」とうっとり見ている。何気に燐としえみの感性は似通ったところがある。金髪の生きた人形のようなアサ子を、きらきらした目で小声で賞賛している。
「なんや奥村は。金髪がそんなにええんか。洋物やったらそんなに有難いんか。」
 勝呂は、横にアサ子をはべらせている燐に言っているのか言ってないのかぶつぶつ呟いている。
「坊。思考が暴走してまっせ。奥村君の本命は若先生なこと忘れとる。……子猫さん、あんたは、この坊の状況を傍観しとるけど、あかんのやない?」
 志摩は子猫丸に耳打ちする。普通なら子猫丸と自分の立場は逆のはずなのに、子猫丸は志摩のようにやきもきせずにニコニコと勝呂の様子を見守っている。そこが志摩には気に食わない。この塾に入ってから、志摩はことあるごとに今のようにしょうっちゅう子猫丸同意を求めては、やんわりと断られていた。
「あかんのやない?」
「ええんやないですの? 奥村君を気にする前の坊は、実家と自分の希望の軋轢に苦しんでましたから。坊は奥村君気にして勉強や鍛錬を怠ってる様子はありませんし。ええ傾向だと思います。……それに坊、ちょっと可愛らしくなったし。怒鳴るときは怒鳴りますけど、態度も柔らかくなってきたし。」
 そう言われればそうなのだが、坊をそういうふうにした奥村燐が気に食わないしまだった。明陀に引きずられる勝呂も見ていられないが、そんな自分が唯一面白くもくそもない正十字騎士団縁のこの学校に入ったのは、実家から離れて勝呂と一緒にいられるためだったのに。実家の志摩家では限りなく末席に近い自分が、総本家の跡取りの坊の側近でいられるのは、その坊と同い年というメリットがあるからだ。
『くそ重いからって血も明陀も全部消えてまえって、思ったのが悪かったんやろうか。思えば思うほど悪い方向にいくもんやし。』
 坊や子猫丸は大好きでありながら、坊や子猫丸と共にある明陀は大嫌い。面倒だから反発もしない中途半端さを、見えない何かに見透かされた結果が、これだったのかもしれない。とりあえず親や兄弟の敷いたレールに乗っておけばいいと思ってたのに。
『これはレールやないやん。とてつもない秘境の獣道やん!』
 自分の意思なんかなくてもいいと思ってたのに。なんとなく祓魔師になって、なんとなく正十字を卒業して、なんとなく仏教大学行って、そのままの流れで京都帰ればいいと思っていた。でもそれじゃ駄目だった。入学して間もないのに、しょっぱなのしょっぱなで自分らしくなく人の間で立ち回らなくてはならなくなってしまったと志摩は頭を抱える。
『どうせこういうのが悪魔落ちフラグ言われるんや。好きな子を横から取られたりなあ。好きな子をいい方向に変えたのが、別の奴やったりなあ。おまけにそいつは俺より不幸そうな奴で、それを苦にしてなくて、俺はそれをギリギリいって嫉ましく思うんや。奥村燐。お前や! お前のことや!』
 雪男は一時間目の講師と入れ替わって教室を出た。一時間目の講師は最前列のサタンの息子と記憶喪失の聖騎士を交互に見る。一介の講師が終生見ることも叶わないようなツーショットが当たり前のように目の前にあった。
 燐はアサ子に教科書を見せている。
 一時間目の授業の講師は当然アーサーの正体を分かっている。それはこの講師に限定せずに祓魔塾講師全員が、メフィストからの命令で記憶が戻るまでそれを知らない振りしていろの指示を受けていた。
しかしそこは同じ祓魔師として、この若くして聖騎士になったアーサーを試してみたいという欲求が湧き上がってきたようだ。
 テキストの数ページを説明したあと、講師は口頭の小テストをすると言い出した。
「それでは、まず神木――。といいたいところだが、アサ子。」
「え。俺か?」
「さっきのところを掻い摘んで説明してみろ。」
 アサ子はテキストと睨めっこをしながら「なんだったかな」と呟いている。講師からすれば、記憶喪失の影響もあるだろうが聖騎士なら暗記で諳んじれるだろうと思って期待している。だがアサ子は首を捻るだけだった。
「えーっと……。なんだろ?」
「おい。アサ子。冗談だろ? 本当はわかってるだろう?」
 アサ子の狼狽っぷりに講師はおろおろしている。山田がこっそり溜息をついた。
『代わりに答えるっきゃないかにゃ。』
 その時、アサ子の隣の燐が「はい」と手を上げる。
「はい。死海文書とは、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの十一箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約八百五十巻の写本の集まりです。その内容はヴァチカンでは異端とされる預言の書です。その理由としては。クムラン共同体が存在した時代はユダヤ・キリスト教世界で終末論が流行した時代でもありました。それだけに死海文書の中には終末に関連した内容を持つものが数多く含まれていますが、特に「戦いの書」および「宗規要覧」と呼ばれている文書などに死海文書独自の内容が含まれているからです。普通、終末時に義人たちを救済するメシヤはただ一人しかいないとされていますが、死海文書の中では、二人のメシヤがやってくるとされているそうです。故にその差異がこの書を異端としているわけです。」
 講師は目を点にした。
「奥村。お前本当に奥村か?」
「いや。奥村燐だし。」
 せっかくの聖騎士向けの問題だったのにと講師は肩を竦める。それにしてもありえなさ過ぎる燐の回答に、教師の目が光った。
「では次の章――。」
 講師は授業を進める。途中で前回の授業のおさらいだと無理やり言い出した
「では、宝……は前回当てたから、アサ子。」
 山田が「はい」と手を上げる。
「アサ子は前回授業受けてねえだろ。」
 山田の反抗的な生徒口調を講師はそ知らぬ顔して無視する。
「えっと……えっと……。すまん。わからん。」
 当然だと一同は思う。しかし教師の標的は別にあった。煮詰まった教室の嫌な空気を切り裂く「はい」が木霊する。
「また奥村か。答えてみなさい。前回は?」
「exorcism悪魔祓いという言葉は、ギリシアの異教に起源があり、『誓約によって確実にする』もしくは『深く求める、あるいは祈る』を意味する、ギリシアのexokizoに由来する。元の意味は誰かあるいは何かに対して厳粛に呼びかけることである。新約聖書はイエスへの切実な懇願の性質を表すため、本来の意味のexorcizeを二度にわたって使用している。――。――。――。」
 なんやその専門書と思わんばかりの回答ぶりだった。明らかにテキストの内容以上のことを言っている。教師は確信する。この奥村燐は奥村燐でありながら奥村燐ではない。記憶喪失の聖騎士を隣に置くことによって覚醒した、奥村燐・改やら、奥村燐・ゼータとか、奥村燐・シードディステニーと呼べる何かだった。
「凄いやんか。奥村。」
 勝呂が感嘆の声を上げる。志摩は苦笑いを浮かべていた。頭の中では『またこのクソ悪魔。坊の前でええかっこしやがって。』と思っている。そしてそんな志摩の心の声を聞いたかのように、隣の子猫丸は心ここにあらずな笑いを浮かべていた。
 
 そのあとの授業も奥村燐無双が繰り広げられた。その話は塾の講師室でもちきりだった。
「奥村先生の教えがやっと実を結んできたようですね。」
「え?」
 雪男は首を傾げる。椿が肩を叩いてくる。
「講義ですごい活躍をしたんですよ。お兄さんに秘密の特訓してあげてたんでしょう。」
「あ、ああ。そうですか。今日は悪魔薬学はなかったので。」
「凄かったらしいですよ。帰ってきたら是非お兄さんを褒めてあげるべきですよ。」
「は、はい。」
 雪男は困ったように俯いた。
 
     *   *   *
 
 燐はちょっと有頂天だった。
 アサ子を庇って自分が教師に叱られるつもりが、今日はなんだか自分でも信じられないくらい冴えていた。日頃ほとんど使われていない脳が一挙にフル回転して、世界がクリアに見える。しかし慣れない感覚のせいで少し眠気がする。
「燐。ありがとう。燐がいなかったら俺は、あの講師にいびられていたところだよ。」
「いやなんか、執拗にアサ子を当てるもんだから、俺がなんとかしなくちゃって思って。」
 思っただけで実際にあれだけの好プレーを披露できるものかと燐は自分自身が怖くなる。
『なんか頭の中が俺じゃないみたい。』
 なんとなく分かることは、隣にアサ子という守ってやりたい存在がいたから、守れるだけの知恵が回ったのかもしれない。
『なんか俺って、なんでも実践派なんだな。』
 でも惜しいと思ってしまう。
『なんで今日、悪魔薬学なかったんだろ。』
 そうすれば雪男にいいところを見せられたのに。ぼんやりと考え事をしている燐に、アサ子がすりすりと寄ってくる。
「燐? 疲れてるのか?」
 燐が作ったご飯をおなかいっぱい食べて、お風呂で身体を洗ってもらって、髪を乾かしてもらって、燐に頭を撫でてもらっているアサ子は燐のベッドで眠そうにしていた。燐は帰ってきてからアサ子が気にするほどに口数が少なかった。アサ子が心配げに燐に目を向けると、燐はから元気のように言い訳をする。
「アサ子。俺、疲れてるように見えるかな。慣れない頭を使っちまったから。」
「じゃあ、もう寝たらいいと思うぞ。ご主人様。」
 敬う呼び名とは裏腹にアサ子は偉そうに燐に言った。
「そうしよっか。」
 燐の返答にアサ子は満足そうに目を瞑る。アサ子は目を瞑ってすぐ現金に寝息を立て始めた。
「やっぱ綺麗だよな。作りもんみてえだし。」
 燐の食指は雪男にのみ動くわけではない。アサ子は金髪で、白い肌にはシミも黒子もなくて、燐が大好きな誰かとは正反対だった。見つめているうちに生唾が口に溜まってくる。
「これって浮気?」
「浮気だろうね。」
 突然後ろからなんだか怒っているように聞こえる声が降ってくる。
「何アサ子さんの顔見て涎垂らしてんだよ。」
 燐は焦ったように口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。いつもニコニコしたアサ子とは正反対の、いつも怒ってるような弟が後ろにいた。
「雪男……。」
 燐に向かって雪男の腕がさっと上げられる。
「ひいっ……。」
 しかしその手は燐に苦痛を与えてくることはなかった。代わりに優しい感触が頭を撫でてきた。
「今日はすごく頑張ったみたいだから、椿先生が褒めてやれって。」
「え? え? え?」
「月曜の悪魔薬学、楽しみにしてるから。」
 雪男は憮然とそう言うと燐に背中を向けてデスクのところに向かおうとした。
「待って。雪男ちゃん。」
「何。兄さん。」
 燐は雪男を手招きする。雪男は渋々とまた燐に向き直った。
「その……ご褒美にキスしてくんないかな? この前みたいな。」
 雪男はちらりと燐の背後を見る。天使のような顔をして眠るアサ子を鼻で笑う。お前は燐にこんなお願いなんてされないだろうと。
「そんな俺のこと笑わなくていいじゃねえか!」
「兄さんを笑ったわけじゃないんだよ。」
「そ、そうか?」
 雪男は燐の顎に手を掛けて引き寄せる。
「いいよ。今日は特別だからキスしてあげる。」
 言うなり雪男は燐と唇を重ねた。ほんの一瞬だけ。
「雪男は、最近はキスは嫌がらないんだ?」
 断られること前提で言ったつもりだったから、燐の表情はきょとんとしていた。雪男は悪そうな笑みを浮かべて兄を斜に見る。
「僕は兄さんが好きなんだよ。兄さんって時々ご褒美あげないと、すぐに別の誰かを構ってしまって弟の存在を忘れるから。仕方なくだよ。」
「え? 俺ってそんなことしたっけ?」
 兄のことだから本気で自覚がないのだろう。この頃はアサ子にばっかり構っていることなんてのも。そして兄に思いを寄せている人間が複数いることにも。
「まあいいけどね。」
「いや雪ちゃん。俺まじでそんなことしてたの。ほんとごめん。怒ってない? なんだったら俺のこと二三発殴ったり蹴ったりしていいから。いや、是非してくれよ。」
 雪男はおろおろしている兄に皮肉げに返した。
「そうすれば兄さんの気が楽になるって言うの? そんなんだったらやらないよ。」
 兄の呆然とした顔を雪男は満足げにうっとりとした目で眺めている。
 
 兄には自分のことで存分に苦しんで欲しい雪男だった。







サブタイトルのサブタイトル「パラディンのパラはパラサイトのパラ」。だんだん展開が恐ろしいことになってきました。次回のヒロインは志摩を予定しています。あくまで予定だからな。

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☆ss「そして誰がいなくなるか?」勝燐前提の雪燐「UNオーエン」の数十分後

けいりんさんのリクエスト勝燐の「UNオーエン」の続きです。勝燐前提の雪燐です。あまりせつなくないですけど、よろしければどうぞ。







 兄が帰ってきた。
 
 医務室に行く前の廊下で別れてから経過した時間は三十八分五十三秒。
これは長いのか短いのか、どちらか判断がつきかねる時間だった。
 
 医務室のドアを開けて中を覗く兄。
 ベッドに伏している勝呂のところまで行って名前を呼ぶ。そして燐の声で起こされる勝呂。ベッドの上に起き上がって二言か三言とか言葉を交わして抱擁しあう。そのあとキスとか、それから――。
 
 雪男はキーボードのエンターキーに指を力いっぱい叩きつける。
 それくらいを見積もったら、ちょうど今くらいになると雪男は思った。
「勝呂君。どうだった?」
「薬が効いてなんとか頭痛は治まったらしいぞ。」
「そうかい。」
 雪男は机に向かったまま背中を向けて兄と言葉を交わしている。兄は自分の背後に近づいてきて、黙って立ち止まった。
「どうしたの?」
 しばらく続いた沈黙のあと、雪男のほうが先に声を発した。背後の兄がなんだか少し自分に対して怒っているような気がしたから。その怒りを胸に留めたまま兄が黙って座っている自分を見下ろしたままなんて、気になって居心地が悪い。これは昔よくやったお互いの気持ちが噛み合わないときの黙ったままの根競べみたいだ。大抵は立ち位置は逆で、我慢出来なくなるのは大抵兄だったけど。
「黙ってちゃ、わからないよ。」
「別に言うことはねえよ。」
 雪男は燐のほうに向き直る。これで二連敗だ。
「じゃあ。僕のほうから訊いてもいいかな?」
「いいぜ。」
 部屋着に着替えている自分に比べて、兄はまだ制服のままだ。いつも着崩している制服だけど、それに何かの痕跡が残ってないか無意識に目が探してしまう。そんな視線に兄はいつも怯んだように視線を逸らすのに、今日は雪男の目を見つめている。雪男はそんな兄に少し苛立ちながら口を開いた。
「勝呂君とキスくらいしてきたの?」
 兄は溜息をつきながら「した」と言った。
「そう。」
 それくらいだったらまだ雪男は、いつものことかと当てつけのように溜息を吐き返す。
「で。そのあとは?」
「本当に俺がそのあとのことを話していいのか?」
 なんだか――。
 兄が自分を試しているような気がする。頭の悪い兄にそんなことが出来るのかと、知らず知らずのうちに兄に対して傲慢になった雪男は「いいよ」と言ってしまった。
「勝呂とキスしたあと。勝呂に俺のこと抱きたいって言われたけど、尻尾とか隠さなくちゃいけないから断った。それで、勝呂のアレを舐めた。」
 雪男は思わず椅子を倒して立ち上がった。乱暴に燐の肩を掴んで壁のところまで押しやって押さえつけた。
「勝呂君がさせたのかい?」
「いいや。俺が自分からやった。」
「へえ……。」
 燐はわざとべっと舌を出した。見るからに柔らかそうな薄いピンク色で、温かくて湿っぽくて気持ちよさそうな舌だった。そして燐はすぐさま舌を自分の口の中にしまった。
「俺は馬鹿だから説明したり誤魔化したりするのは駄目だけど、ちゃんと口使ってなんとかしたさ。」
「馬鹿ならではの口の使い方だね。」
 雪男は端正な顔を歪ませる。眉間に皴が寄り噛み締めた口元から犬歯が覗いた。
「アバズレ。」
 燐が傷つくにはまだ足りない言葉だが、雪男にとっては精一杯の虚勢だった。
「アバズレ。アバズレ。アバズレ。」
「いい加減しつこいぞ。」
「そんなのわざわざ言わなければ、僕にこんなこと言われずに済んだのに。」
 燐は自分の肩から雪男の手を外すと雪男の身体を押して自分から離れさせた。
「お前。勝呂になんか言ったろ? そうじゃなきゃ、あいつがあんな焦ったようなことするわけねえ。」
 燐に迫ってきた勝呂は、何かに焦れて追い詰められているような表情を浮かべていた。それは勝呂の口から何も語られてはいなかったけれど、いつもの勝呂じゃないことはすぐに分かった。それと同時に、勝呂が雪男と二人で昨夜話していたこともなんとなく腑に落ちることだった。
 雪男は悪びれることなく言う。
「勝呂君のそういうとこは察してあげられるようになったんだ。」
「そりゃ褒めてんのかよ。貶してんのかよ。」
 どっちだろと雪男は勿体ぶってみる。
「勝呂君のことはともかく、僕に関して言うなら――。兄さんと勝呂君があまりに人目を気にせずにいちゃついてるから、拗ねてるのかもね。」
「それはお前らしくねえよ。」
「じゃあお互いに、兄さんも僕のことを見誤ってるってことだね。」
 お互いの認識に齟齬があったということか。雪男は苦笑いを浮かべる。
以前にだって燐と勝呂の仲を嫉妬して兄に掴みかかったことがあった。そのときに自分は兄に愛していると伝えたはずだった。しかし兄の勝呂への恋心はやんでくれない。
 雪男は勝呂に深入りすることは兄の正体を晒すことになると兄に訴えてそれを抑制するために色んな干渉をしてきた。
 それでも兄は雪男の思惑に沿ってくれなかった。
 いじらしくいつも勝呂を庇い、雪男の叱責を受けながらも、勝呂と逢い続け、雪男は燐のそんな頑なな感情を、自分に対して強情になっていると判断した。燐も雪男の吐露した言葉を、切羽詰った脅し文句と捉えていたのだった。
 お互いがお互いの気持ちを伝え合っていると思い込んでいた。だけど肝心なところは何一つ伝わってなかった。やはりお互いが自分のことだけで手一杯だったせいだろう。ならばこの膠着状態はどうすれば抜け出せるのか?
「兄さんは僕のことが嫌いなの?」
 縋り付けばいいのか?
「そう思うのか?」
 突き放せばいいのか?
「だって今日のことといい、前々からといい、僕の言うこと全然聞いてくれないから。兄さんのことを思ってのことなのに。」
「お前がそんなに俺のことを背負う必要なんかないのに。」
 自分本位のワガママを言えばいいのか? 真摯な善意を主張すればいいのか? 当たり前な正論を吐けばいいのか?
「兄さん。」
 前々から胸に燻っていた呪詛の言葉をこの場で兄にぶつけたくなった。
 兄がこれを聞いてなおも今までのように、ほけほけと「勝呂が好き」と言えるわけがないと思ったから。
「兄さんは勝呂君のことを好きだと思い込んでいるようだけど、神父さんが死んでから代わりに自分に構ってくれる人間が欲しいだけじゃないの? 兄さんの傍で兄さんを心配する僕は相変わらずそのままいるけど、神父さんはもういないから、それを埋める誰かが欲しいだけだよね? それって恋とは違うよね?」
『――兄さんが本当に好きだったのは。』
 燐は雪男の言葉にあまり反応を見せない。夢の中にでもいるようなぼんやりとした目で弟を見ている。雪男はそんな兄になおも言葉を突きつける。
「なんか嫌な感じに勝呂君に同情的な言葉になっちゃうけど、神父さんの身代わりに選ばれたのをずっと気の毒には思っていたんだよ。」
 燐は勝呂に対して唐突に同情的になった弟にも突っ込まない。雪男は知らばっくれられていると思って、なおも言葉を続ける。
「彼は神父さんと違って、兄さんのとんでもない事情を知らないからさ。彼自身にも学園に来なくちゃならない事情があったのに、会って間もない兄さんのワガママに振り回されて。何も知らないのに。だから言ってあげたんだよ。もし兄さんが勝呂君の手に負えなくなったら、いつでも離れていいって。どうだい? 僕は間違っているかい?」
「お前、そういうことを言ったのか。あいつに。」
 雪男はそうだよと告げる。
「うん、わかった。」
 何がわかったのだろう――。
 前半の義父に対する燐の気持ちのくだりの反論が無いところも、自分の言葉をちゃんと聞いているのかどうか判断しかねるところだった。仕方が無いので雪男はもう一度燐に問い返す。
「何でそこで神父さんのことが出てくるのかとか、言い返したいこととかないわけ?」
「雪男が見たら俺って、そう見えるのかって思っただけ。そうか。勝呂をジジイの身代わりにしたっぽいのが、気に食わなかったのか。」
 雪男の顔がカッと赤くなる。墓穴を掘ったっぽいことを言った羞恥と、それを平然と返された怒りによるものだった。しかし数秒後にはその激情も過ぎ去った。
「もういいよ。兄さんのような人を好きになった僕のほうが余程、大馬鹿だって分かったから。ここまで言っても兄さんは、勝呂君が誰の代替品なのか、はっきりとした自覚はないみたいだし。そうだね。もう兄さんは勝呂君に、サタンの息子だってことを隠しとおせるだけ隠しとおすしかないと思うよ。」
 駄目出しのように付け加える。
「僕としてはね。バレたらその時は知らないけどね。」
 どうせ燐の正体だってずっと隠しとおせるものではないだろう。兄が兄である限り。勝呂に捨てられたあとに必要になる人間はどうせ自分一人しかいない。いつまでも勝呂に義父の影を押し付けて甘えられるものか。
 雪男は痩せ我慢のように笑ってみせた。それを見てどういうわけか燐も笑う。どちらも本心からの笑顔ではないが、この場を収めるのに相応しかった。
「やっぱ厳しいこと言ってくるけど、お前は俺のこと好きなんだな。」
「兄さんは僕のことが鬱陶しいんだろ?」
「いや。俺もお前のこと好きだし。」
 雪男の心臓が一つドクンと高鳴った。
「だから俺は、お前も勝呂も手放すつもりないし。」
 馬鹿な兄の口からとんでもない言葉が出てきた。込めている意味は違うのだろうが、あの勝呂と同じ思いを、兄が自分に向けているなんて思ってもいなかったので、雪男は面食らったまま立ち尽くしていた。
「じゃあ兄さん。」
 ここでそのまま素直になれないのも雪男の困った性分だった。
「僕が勝呂君みたいに兄さんに迫ったらどうするの?」
「やってみりゃいいじゃねえか。」
 兄の捩れた笑みがまるで誘っているようだった。不良の特性の売り言葉に買い言葉かと雪男は思った。
「くっ。馬鹿。」
兄も自分も男なのだから仕方ない。前置きみたいに「どうするの?」と言った時点で、何かが決まりきっている。そしてこのようなやり取りの常套は、男同士なのだから怯んだほうが負けなのだ。
「今はやらないよ。ほいほいそんな言葉に乗る僕だと思う?」
「そうだな。お前は身持ちが固いからな。」
 それは違うと雪男は言いたかった。
兄が帰ってきてから十八分十四秒。これくらいでお開きにしておかないとお互いに明日に差し支える。
 
「雪男ぉ。」
 いきなり兄がくらっと雪男のほうに倒れこんできて腕にすがり付いてくる。
「急になんだよ?」
 燐は雪男の胸元に顔を埋めて掠れた声で言った。
「すまねえがお前、俺の代わりに晩飯作ってくれねえか?」
「へぇっ? 僕が料理駄目なの知ってるでしょ?」
 燐は雪男の胸に突っ伏したまま言う。
「サバ缶開けてくれるだけでもいいんだよ。あとなんかあるもんでいいから。」
「どうしたんだよ兄さん。」
 燐は顔を上げると弱々しげな笑顔を見せる。
「わかんねえのかよ。手とか足とか震えてんだよ。勝呂誤魔化すのにすっげえ神経使って今頃それが身体にきたんだよ。」
「はあ?」
 見れば兄の膝ががくぶると笑っている。勝呂との修羅場を乗り切った反動が遅れてきたということか。脳の伝達速度が遅い割には、確実にそのダメージが来るのがこの兄らしい。そんなダメージを食らっている兄を支えるのは、どうやら弟だけの特権らしい。
「仕方ないな。」
 雪男は兄をベッドまで連れて行って、ぽんっとその上に放り投げた。
「ちょっと! もっと丁寧に扱ってよね!」
 燐がベッドの上でじたばたしている。雪男はそれを鼻で笑って返した。
「はいはい。今お食事を用意して差し上げますから、大人しくしていてくださいね。」
 雪男は部屋を出て廊下をずんずんと歩く。
「何がサバ缶を開けてくれるだけで良い、なんだ。待ってろよ。すごいの作ってくるから。」
 不敵に笑う雪男。兄が観測できない場所で高笑いを上げている。
 なんだ。結局僕のところに帰ってくるしかないじゃないかと。
 
 勝呂にとってのオーエンは雪男だった。燐にとってのオーエンは義父だった。
 UNオーエンが誰かわかったところで、誰もいなくなることはなかった。







裏設定垂れ流しっぽくなって、内心ひやひやしております。「マスカレード」から始まった雪燐・勝燐の総まとめ的なはなしになりました。

拍手[5回]


mamu☆ss「Espranza-じゅうぞうタッチ-」 蝮柔蝮・金柔金、「まむしスネーク」「きんぞうモンキー」の続き

初見の方は「まむしスネーク」「きんぞうモンキー」御覧にならないと事情が掴めないかもしれません。柔造が蝮に片思いで、金造が柔造に片思いです。前回のラストで柔造は蝮に振られました。今回はその後日談です。
SQで雪ちゃんの生存確認ができた嬉しさと、志摩の侠気に当てられて放置していた志摩家話の続きを書きました。あとは蝮ちゃんの復活待ちだけだな。




『私は、お前のところに嫁に行く気はない。宝生から嫁に欲しいなら、錦か青のどっちかにしい。』
 
 志摩家を震撼させた雨の日の出来事。それは最重要人物の彼女の誕生日にちなんで、六四事件と名づけられた。
 あまりにも惨憺たる結果を残した事件だったので、金造に引っ張り込まれて蝮が志摩家に来た六四事件そのものの概要は語らないでいよう。この物語の前提として語らなければならないのは、この件で柔造は蝮のこの宣言によって完全に振られてしまったということである。
 蝮に振られて柔造は魂の重さが半分になったかのように、一人きりの時には呆けることが多くなった。しかし柔造は大人なので、仕事場で蝮に会えば普通に仕事の会話もする。蝮は元々デリカシーに欠ける女なので、自分が意気消沈せしめた男に対しても何かを察して気遣うことはなかった。
 
『蝮。今からうちの家に来てくれへん。そこではっきりさせようや。』
 
 蝮からすれば、一方的に絡んできた金造とのやり取りがこじれてしょうがなくという感覚だったので、彼女は彼女なりにそういう態度になる事情はあった。
 しかし金造は自分から種を蒔いたくせに、そんな蝮に対してあっさりしとんか薄情なんか、はっきりせえと心の中で憤っている。ところが自分も柔造に告白して自爆してやるという決意を未だ果たせずにいるので、それはなんとか心の中に留めていた。
 この件で一番損をしたのは、志摩と宝生の現当主だったりする。次期当主同士が振った振られたを演じたために、後続の息子娘同士で縁談を組んで両家の確執を払拭そののち共に勝呂家を守り立てようという協力体制を確立という思惑が崩れてしまったのだ。
 つまり金造がやらかしたことで物事が何一つ好転することがなかったのだ。またひとつ、明陀の結束を危うくする火種を増やしただけだった。寧ろそれは物事の後退だった。
 ソレは外野の話だ。本筋とは関係ない。
 
 梅雨は相変わらず続いている。湿っぽい廊下の縁側で柔造は目の前で落ちてくる雨垂れを眺めていた。そしてその兄の姿を廊下の端っこで影に隠れながら金造も窺っていた。そんな兄たちの奇妙な場面を、末弟の廉造も見掛けたが、係わり合いになるのも面倒なので見ない振りをして自室に篭った。
しかし普通なら見過ごされるようなそんな梅雨の一場面だったが、志摩家の庭の垣根越しに傘を差した蝮がそんな志摩家次男と四男を見ていた。
 その視線に柔造と金造が同時に気づいた。
「蝮?」
 柔造が縁側から裸足で雨の庭を横切り、垣根に食らい付かんばかりに蝮に対して身を乗り出してきた。
「お前ひょっとして思いなおしてくれたんか?」
「私が何を思い直すんや。たまたまこの辺散歩しとっただけやんか。」
「そうやろうな。」
 柔造は肩を落とす。
 あの日と同じ雨が呼んだように蝮が現れたので、つい夢見がちな思考になってしまった。しかし蝮はそんな柔造の心を思いやるような詩的な思考をするような女ではない。雨の日続きで嬉しくなってうきうきと蛇と散歩に出ただけだ。そして蝮が庭を覗いていたのも別に柔造が気になっていたのではなく、志摩家のやや広めの庭に雨が降る様を覗きたかっただけだ。志摩家の紫陽花は綺麗なのだ。
「柔造。お前裸足で雨の中出てきて、そんなに雨好きなんか? 泥水が気持ちええかもしれへんけど、家上がるとき大変やでそれ。私もようやるけど、ちゃんと家上がるときの為に雑巾用意してからやるし。」
 この女はどんだけ雨の日が好きなんやと柔造はあっけに取られる。準備の良さとか楽しみ方が達人級である。でもお陰で自分の奇行を怪しまれることはないので、内心安堵してしまう。
「雑巾か。」
 振り返った柔造はそこで自分たちを見ている金造を見つける。
「おーい。金造。すまんけど雑巾持ってきてくれんかな?」
 金造はこくりと頷いて屋敷の奥に姿を消した。蝮は用意の悪い柔造に呆れている。
「まったく。弟に手間取らせるんやないで。」
「そうやな。あの日お前の本心を知ることが出来たのも、金造がお前を家に連れてきてくれたお陰やったな。」
「私の誕生日は散々なことになったけどな。」
 柔造は特に金造に恨みがましいことは思っていない。でも金造がよほど宝生家と志摩家が結びつくことに抵抗があるかもしれないと、ほんの少し勘繰っていた。宝生が自分たちを申呼ばわりするのはなんとなく納得出来るし、幼馴染の気安さだということは分かるけど、金造の蝮に対する態度だけは納得できる理由付けは出来ていない。
「蝮お前。金造のこと、怒っとらへん?」
「あの申をか? 今更恨み言うても仕方あらへんやろ。ていうか、兄貴がしっかりせえへんから弟が余計な茶々を入れてくるんやろうが。次期当主なんやからしっかりせえ。」
 蝮は血も涙も無いような、次期当主らしい正論を言ってくる。柔造は苦々しく笑った。
「お前みたいな女を好きになった俺が悪いんか?」
「うん。悪いわ。」
「はっきりいうなお前。」
「だってそうやもん。」
「そうか。」
 雨の中柔造はますます肩を落としている。ずぶぬれになっている柔造を蝮はなんだかニコニコと眺めている。その視線に気づいた柔造が少し拗ねたように言い返した。
「お前今、俺のこと気持ちよさそうやなと思ってるんやろ?」
「なんでわかったん?」
 こういう女だというのは、昔から分かっていた。振られたばかりだというのに姿が見えただけで、思わず駆け寄ってしまうほど未練があるなんて思ってもみないんだろう。
 雨の中で。裸足なのに。でもそんな蝮を罵ってしまえない。
「羨ましいなら、お前も傘を閉じればええやん。」
「いや。この服今日着替えたばっかりやから流石にそれは。」
 ダンスに誘うように差し伸べた柔造の手が虚しかった。蝮はせっかく見つけた同好の士を逃すまいと言葉を続ける。
「そうや。今度、濡れてもええ服着た時には付き合ってやるわ。」
「いや。今日限りやし、こんなの。」
「そんなこと言わんと。今日くらい気持ちいい雨の予報の時は誘ったる。そんときに一緒に雨に打たれようや。」
 どこの子どもやと柔造は心の中でツッコミを入れた。お互いにいい年をしてるのに、子どもの時の遊びの延長のような付き合い方をそのまま持ち込んでくるなんて。でもそれが嬉しいし悲しい。ほんまにこの目の前の女は罪が無い。
「お前が誘ってくれるなら、ええかもしれんな。」
 じゃあと蝮は去っていく。雨の日だというのに、その後姿は軽やかで日向にいるのと変わらなかった。というか日向にいる時以上に輝いて見えた。
「雨はええなあ。蝮に好かれて。」
「柔兄……」
 そうしみじみと呟いた柔造の後姿を見て、廊下で立ち尽くしている金造は鼻の奥がツンとした。
「くしゅん!」
 くしゃみが出だしたので柔造はそそくさと縁側に戻る。そこには雑巾とタオルを持った金造が、何故か潤んだ目で出迎えていた。
「なんや。なんか暗いなお前。」
「暗いんは、雨の日やから。」
「そうか。蝮はあんなに楽しそうやったのにな。」
 金造は誤魔化すように、はよ入りと手招きしている。縁側に腰掛けて足を拭いたあと振り向くと、柔造は金造に頭からタオルを掛けられてぎゅっと抱きしめられた。
「金造? タオルあってもお前まで濡れてしまうで。」
 金造は自分がタオルを用意している間に、あの二人が何を話していたのか分からない。しかし微妙に遠い目をしている兄を見たら、抱きつかずにはいられなかった。
『よし。』
 今が兄に対する罪滅ぼしのタイミングなんじゃないかと金造は思った。
「柔兄。あの……俺。」
「ん? なんや?」
 雨はまだ鬱陶しいほどに降りしきっていた。
 
 金造は自分の胸が軋む音を掻き消してくれる雨音に感謝する。
「……柔兄。好き。」
「そうか。俺も金造のこと好きやで。」
 蝮並みに鈍い兄だった。それだったら思い知らせてやろうかと思う。
「柔兄。こっち向いて。」
 何の気無しに柔造が振り向くと、ぶつけるように金造の顔が近づいてきた。そして自分の唇に弟の唇が重なってきた。
「……。」
「……。」
 金造の眼前には柔造のあっけに取られた目が見える。次の瞬間、柔造の口から「ひえー」という末期の瞬間のような悲鳴が吐き出された。それに釣られて廉造やら八百造やら兄弟姉妹や母親が駆けつけてきた。
 家族一同に包囲された金造は、追い詰められた手負いの獣のように柔造にしがみつく。
「おとん。おかん。それとお前ら、よう聞け!」
「何をや!」
 名無しの三番目の兄が叫んだ。金造は即答する。
「柔兄は俺が唾つけたからな!」
 家族一同はぽかんと口を開けている。六四事件からそんなに日が経ってないのに何事やと、その場は雨天の霹靂のようだった。六四事件とその真相である、柔造と金造と蝮の三角関係を把握しているのは、金造本人しかいないのだから。わけわかめな家族になおも金造は吼えた。
「そういうわけやから、俺にも柔兄にも嫁の世話はいらんから。」
 はあ? というような家族一同。金造に抱きつかれている柔造もかなり混乱している。そんな柔造に金造は熱っぽい目で掻き口説く。
「ええやろ? 柔兄。俺は昔から柔兄のことが好きやったんや。なのに柔兄は蝮、まむし、マムシって。ほんでも。蝮は柔兄のことひとっつも気にしとらんで。だから俺が柔兄もろうてもええよな? それしかないよな?」
「いや。それは違うやろ。」
 割って入ったのは八百造だった。当然のツッコミだった。
「この世に柔造とお前と、蝮しかおらへんやったらそれも通るかもしれへんけど、それは駄目や。とりあえず事情は柔造を着替えさせてからや。」
「お父。さりげなく金兄の言うたこと全否定しとるわな。流石やで。」
 ふざけた茶々を入れる廉造を八百造は拳骨を入れる。
「ほれ。柔造着替えぇ。そのあとでお前からも話を聞くから。金造の話だけじゃ埒があかん。」
 悲鳴をあげたあと固まってしまっている柔造に、八百造が近づこうとした。するとその柔造を抱えたまま水滴を点々と落としながら金造が後ずさる。
「柔兄は大事な人質や。誰にも渡せへん。柔兄を無事でいさせたいんやったら、俺らの仲を認めることやな。」
 それは人質を盾に当の人質の身柄を要求するという、アホならではの技だった。家族はその場で顔を見合わせて、ほんなら好きなようにせえと口を揃えて言った。どうせ音楽家気質をこじらせた「はしか」みたいなものだと思ったからだ。自分のやってることのアホさに対して冷静になれば落ち着くと思ったから。その頃には柔造もなんか分からないショックから立ち直って自分で対処するだろうという、家族同士の信頼という名の日和見主義だった。
 金造と柔造をあとにして家族は屋敷の奥に退散していく。
 金造は荒げた声のせいで乱れた息を整えたあと、まだ放心している柔造ににっこりと微笑みかけた。
「さあ柔兄。俺の部屋に行こう。」
 金造は水浸しの柔造の手を引く。その後柔造がどうなったのか、志摩家では何一つ触れる者はいなかった。





金造がついに暴挙に出てしまいました。一人自爆テロ状態です。でも他カプのssでこんな恋愛テロリスト体質の奴を書いたのは、忍たまの綾部以来なので少し懐かしいというか、まあ楽しかったです。

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☆ss「24-③」雪燐+しえみ

 雪男に開けてもらった扉の先はビルの屋上のように豪風が吹くブリッジへの出口だった。ブリッジの突端に位置するのがしえみの家のフツマヤである。二手に分かれた階段の片方は店に通じている。そしてもう片方は、店の一人娘がこつこつと守っている広い庭だった。
 雪男にとっても燐にとっても特別な少女だった。早くから実社会に揉まれ少々すれっからした雪男にとっては世間知らずの天然なところが、不良の燐にとっては育ちの良さからくるボケが眩しい存在だった。性格面だけでなくその造作も、申し分のない垂れ目といい、ボリュームのある胸といい、金髪なのに私服は和服のみという一見現実離れした取り合わせといい、どこからツッコミを入れようか迷うところも魅力的に映る。(雪男は巨乳に対する耐性はあったが。)
 四月から兄弟関係が激変した奥村兄弟がなんとなく未だになんだかんだ仲良く出来ているのも、しえみが関わっていないとは言えない。要は二人ともしえみが好きなのだった。お互いに対する思いとは別腹で。だからこそ関係が煮詰まらない。焦げ付いて異臭を放って咽返ることもなかった。
 当のしえみといえば、なんとなく気持ちは雪男寄りだと燐は思い込んでいるが、相互関係の容赦の無さ(引け目の無さともいう)は、燐としえみのほうが実質的には近い。先に出会った雪男の時間的差もあっという間に埋まってしまったぐらいだ。
 
 今のところは円満なフィフティフィフティの三角関係といった具合だった。
 
 雪男より前を歩いていた燐は、なんの迷いもないように庭のほうの階段を目指す。雪男はそんな兄に声を掛けようかどうか迷った。当然兄はまだ祓魔師ではないので許可なく店舗には近寄れない。だから庭のほうに回っているのかと考えたが、幾ら熱心なしえみでも、今日この時に庭に偶然いるとは限らないだろう。一応家のほうに先にいくのが常套だと思ったわけだが。
「おーい。」
 魔除けの扉越しに兄に先に中に向かって手を振られてしまった。
「燐。雪ちゃん。」
 なんと。しえみは燐の呼びかけに申し合わせたようにそこにいた。いつものように腕を土で汚して庭いじりしているのではなく、いつもの和服に白いエプロンを付けて笑っている。しえみは門を開けて二人を招きいれた。
「早かったね。あ。違った。いらっしゃい。」
「待たして、いや。いきなり来てごめんな。」
 そんなこと全然ないよとしえみは言う。
「ちょうど良かったよ。」
 祓魔塾のお花畑コンビ(雪男の心中命名・席も隣同士に座ることが多いし、二人ともボケ属性なので)、しえみと燐はいつもどおりほけほけと挨拶を交わしている。しかし雪男の前で流れていた言葉は、妙な違和感を感じさせる。
『早かったね? 待たせて?』
 いつもの二人のボケだろうか? 燐は自分のリュックを胸の前に持ってきて、しえみに見せびらかす。
「今日は休みだから外で雪男と飯食おうって思ったんだ。たくさん作ったからお前も一緒にどうかなと思って。」
「いいよ。ちょっと待ってて。」
 しえみは自分の部屋である蔵に入っていった。燐はリュックサックを下ろすと中から運動会の席取りの定番の青いレジャーシートを取り出して芝生の上に広げる。
 しばらくすると上体を前かがみ気味にしてしえみが出てくる。手押し式のワゴンを押しながら舗装されてない庭を、ワゴンに乗せてあるポットや茶器を落とさないように慎重に運んでくる。
「……。そんなに気を遣わなくていいのに。」
 兄が今朝作っていたサンドイッチくらいでは割に合わない歓迎っぷりに開いた口が塞がらない。雪男はすっかりあっけに取られた。苦労してティーセットを運んでくるしえみを手伝おうとする気遣いも忘れるくらいに。
 はっと我に返って兄のほうを振り向くと、兄はリュックの中から某猫型ロボットよろしく大量の軽食を出していた。サンドイッチのお弁当を持っていくにしては、やけに大きなリュックの中に入れてきて、不自然に膨らんでいると思っていたら、見た目どおりたくさん入っていた。
「兄さん。すごいねそれ。」
 色とりどりのタッパーを燐は開いて見せる。
「おう。サンドイッチだろ。スコーンだろ。それとサラダだろ。それと特製のロースとビーフも入れてきた。あ。手作りジャムと。本場仕込のクロテッドクリームはメフィストのところからくすねてきたし。本当はバスケットに入れてそれらしくしたかったけど。」
「本場のクロテッドクリーム? 兄さん。ちょっと怖いよ、そのラインナップ。」
 雪男は兄が広げる料理の量だけでなく品数も怖かった。あの寮には兄の料理友達の悪魔・ウコバクもいるが、いまだかつてこんなに小洒落た飯に遭遇したことはない。兄のイメージには合わないが、しかしよく考えてみれば、こと料理のことになると変な知識があるのかもしれない。およそ兄には似つかわしくないが、家庭料理の知識がお洒落な軽食にも範囲が広がったに違いない。そう考えるといろいろと雪男の中で整理がついてきた。
 燐の料理と相俟って、しえみの持ってきたワゴンにも嗅ぎなれたハーブティーの香りが漂ってきていた。突っ立っている雪男に構わず二人はパタパタとセッティングをしている。
 しえみはレジャーシートの上に白いテーブルクロスを広げていた。しえみが持ってきた大き目の皿に燐がサンドイッチやらスコーンやらサラダやローストビーフを盛り付ける。その傍らには三人分のティーカップとハーブティーの入ったポット。
「……ちょっとこれ、凄いんじゃない。」
 盛大に遊ぶ感じは避けたいとか、のんびりしたいとか、そんなこだわりは雪男にはあった。しかしそれをこんな具体的な形で作り上げることは出来なかっただろう。ただただ、感嘆の声を上げるしかない。
 まるで嵐じみた準備が終わって燐としえみはにこにこしている。
「さあ。お坊ちゃまこちらへどうぞ。」
「お坊ちゃまとか言わないでよ。」
 今更ながら食事の準備を手伝わなかった恥ずかしさがこみ上げてくる。雪男は靴を脱いでレジャーシートの上に座った。
「いい感じだろ? なんていうのかなあれ? ビアガーデン?」
「ガーデンパーティーだろ。」
「それだ。」
 雪男は見慣れたはずのしえみの庭で居心地悪そうにきょろきょろしている。
「そんなことより兄さん。よくこんなに作ったね。」
「燐ってほんと凄いよね。天才的だよね。」
「ま、まあ。いいじゃねえか。早く食おうぜ。」
 三人揃っていただきますと言う。いつも近くにいると思っていたが、こうやって三人で食事を取るのは初めてだった。
「しえみさん。急に押しかけてこんなに食べ物を持ち込んでごめん。しかもお皿とか、お茶とか気を遣わせてしまって。僕もまさか兄さんがこんなに持ってくるとは思わなかったんだ。」
「全然大丈夫。燐の作るご飯美味しいし嬉しいし。」
 確かに兄の作る食事は美味しい。
 しかし何か変な緊張感に包まれて腰が据わらない感じだ。似たような場面を思い出すと、昼休みにどこからともなくやってきた女子達にキャーキャー言われて食事に集中出来ない感覚だ。しかしそれよりはふわふわした感じだった。
「あう……」
 目の前でしえみと兄はがつがつとサンドイッチを頬張っている。(ガツガツしているのは兄のほうだ。しえみの状況はどちらかというと、一口は小さいが頬が膨らんでハムスターのようだった。)体裁は完璧なガーデンパーティーな感じだったのに、いつのまにやら小学生の遠足の様相だった。だとしたら雪男は引率の先生だろうか。
「あー……。せっかくのお上品な料理が……。」
 いや、兄らしいのだろうけど。しえみの用意したティーセットや皿はなんとなく年代物の逸品っぽかったが、しえみが簡単に蔵から持ち出せるのだから違うのだろうか。でもスプーンやフォークはどう見ても銀製だった。雑貨屋で売っているものとは明らかにものが違う。気にはなるが、気にしていたら却ってしえみに失礼だと思って、雪男は気にしないことにした。
 注がれたハーブティーも熱々で心地よく胃に染み込んでくれた。
 なんだかとても贅沢な感じだった。色んな意味で腹いっぱいだった。
「私。スコーンとか食べるの初めてなんだ。」
 しえみと燐はお互いの鼻にクリームを付けあいっこして遊んでいる。それを雪男は叱る気になれない。
「俺も初めて作ったよ。あ、でも味とかはメフィストのところで食ったことあるから大丈夫だと思うぜ。」
「大丈夫だよ。ねえ雪ちゃん。美味しいよねこれ。」
「そ、そうだね。まさか兄さんがお菓子作りにまで手を出すとは思わなかった。」
 そして何時の間にメフィストと一緒に食ったのかと疑問に思った。
 燐は照れたように言う。
「いや。いっぺんやってみたかったんだよ、こういうの。」
 そんなことは雪男は聞いたことがない。駄菓子やゴリゴリ君を齧っていた頭の中でこんなことを考えていたのかと、兄の侮れなさに面食らった。
 それにしても――。しえみの家に向かう前に、しえみを一緒に飯に誘おうとは雪男には言っていたが、昼食に付き合わせるには大袈裟すぎるような気がする。突然の来訪でありながら、しえみはまるで面食らっている様子はない。燐の用意した料理やら、しえみの歓迎に驚いているのは雪男ばかりだった。
 朝食後に、燐がリュックにあれだけのタッパーを詰め込んでいるところを、この目でしっかり見ていた癖に。
 そのときには何も気づかなかったが――。
『ひょっとして兄さんとしえみさんは、こういうのを前から計画していたんだろうか?』
 しかしこの休日の前提を考えれば辻褄が合わなくなる。出掛けようとか言い出すきっかけは雪男にあったのだ。二人がそんな雪男の唐突な提案を事前に知ることは不可能としか言いようが無い。雪男自身にしたってメフィストのあの提案が無ければ、休日を休日らしく過ごすなんて考えもしなかっただろう。
『でも。美味しいもの食べながらこんなことを考えるのもな。』
今日は気楽に過ごすと決めているのだから。それにサプライズで誕生日パーティーを仕組まれたような嬉しさは、気のせいじゃないだろう。大好きな女の子が淹れてくれたハーブティーに、兄がこの場の為のように作ってくれたような料理の数々。そして周りは色とりどりの花や木々に囲まれた別天地。
「幸せって、こういうことかな?」
「たまにはこういうのもいいだろ。」
 燐としえみが並んで目の前でにこにこと笑っている。
 
「うん。なんだか準備が良すぎる気がするけどね。」
 
 ぎくっと燐の肩が震える。しえみの頬も少し引きつっていた。本当にこの二人は嘘が下手だ。サンドイッチは目の前で兄が作っていたが、スコーンだのローストビーフだの、くすねてきたクロテッドクリームなど時間と手間が掛かるものは、どうやってあの場で用意したのだろう? あらかじめ用意されていたに違いない。
「二人とも、ありがとう。」
「いや。ありがとうは燐だよね。」
「いやいや。雪男が今朝言い出さなかったら、こういうの作らなかったし。」
 いろいろ辻褄も理屈も合わない。でも今日は前提からしてそういう休日なのだ。理屈も辻褄も滅茶苦茶になるに決まっている。
そう思うと、雪男らしくなく、何もかもを受け入れられた。





①~③まではなんとなくほのぼのでまとめてみました。こっからが勝負どころだと意気込んでおります。

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☆ss「高砂5」勝燐 ギャグ・下ネタ注意報

 京都の実家に戻って数日が過ぎた。
 勝呂竜士の様子に特に変化はなかったが、それは外見だけの話だった。いきなり母親によって実家に連れ戻され、職場も京都に移され、妻である燐との夫婦の部屋は弟が同居、三日にいっぺんは両親が泊まりに来て、一週間にいっぺんは親戚同様な門徒の志摩家・宝生家・三輪家・その他もろもろがお泊りに来る、そんな状況だったが、久しぶりに嫁と二人きりになれる日がついに来た。
「なんだー。今日は、雪男はヴァチカンでミーティング、お義父さんは太秦でエキストラに参加、お義母さんは旅館協会の集まり。志摩家は三番目のお兄ちゃんの誕生日会、三輪家は飼い猫ちゃんとの親睦会、宝生家は南米アマゾンで爬虫類探検ツアー、か。」
「ほんま。なんちゅう偶然やろうか。」
 二人で布団を敷きながら燐は何気ない様子で竜士に話しかけている。なんだかいつもと変わらないのに、竜士は一人でその言葉の意味を深読みしてしまっている。
 竜士としては嫁の弟と自分の母親の不在だけでも良かったはずなのに。わざとらしすぎるほど二人きりの夜になりそうだった。ただでさえだだっ広い五十畳敷きの元宴会場の夫婦の部屋が、余計に広く思えてしまう。というか二人が大の字で寝ても埋まるような面積ではなかった。いつも浮ついている嫁がいつも以上に落ち着きを失くして、きょろきょろと部屋の中を見ている。
「初めてこの部屋見た日も広いとは思ったけど、お前と二人きりだとこんなに広いんだ。」
「それはお前が、いつも俺をほっといて、奥村先生ときゃぴきゃぴ言うとるから気にならんかっただけやろ。」
 竜士は我ながらあからさまに拗ねているような気がした。言ってしまったあとに気がついたが、燐のことだからたぶん気がついていないだろうと思って横を見た。しかし。
「ごめん。俺いつもお前のことほっといてたよな。」
 まさかの謝罪だった。
「いや。兄弟仲ええのは俺も嬉しいし、こっちに来てから奥村先生あんまり俺に絡んでこんようになったし。というか、容認してくれるようになったし。」
 恋人として付き合っていたころの後ろめたさを竜士はまだ覚えていた。それに比べれば雪男に限れば随分ストレスは軽減されているはずなのだ。
「そうだな。毎晩誰かが俺たちの部屋にいて、勝呂が俺に手を出せなくてイライラしてるのは俺の考えすぎだったよな。」
「いや。それは考え過ぎとちゃう。」
 それとこれとは別問題だ。過去には過去の、現在には現在の問題点があるのも現実なのだ。
「またまた~。俺がお前の本心を見抜いたからって、恥ずかしがらなくてもいいのに。」
「お前は俺の本心の反対を見抜いとるわ!」
「俺が勝呂の本心の反対を見抜いてるってことは」
 勝呂はうんうんと頷いている。今夜初めて嫁が自分の心を察してくれようしている。まさにその瞬間まであと何秒かだった。
「いや。でもありえんだろ。お前真面目だし。」
「お前の中で俺はどんだけ真面目なんや!」
 燐は「うーん」と考えながら高い天井を見上げた。
「でも俺たちって二人暮らしだったときもあったのに。お前はなーんにもしてこなかったもん。」
 それも歴然とした事実だった。(嫁の弟に気を遣い過ぎていたのもあったが)付き合いは長いくせに、セックスレスも若くしてなってしまえばただの日常だった。日常は日常でも、やはり夫婦間では異常としか言えない状況だった。冷めた関係ではない。寧ろ自分たちは熱々のラブラブカップルでくっついたのだ。なのに、セックスレス。主に原因は自分ちのおかん。そして嫁の弟。いや、人の所為にするのはやめよう。本当の理由は結構前から気がついている。
「燐。」
「なんだ? 勝呂。」
 竜士が燐に手を出せない理由。それは――。
「こっち、来い。」
「うん。」
 燐は無邪気に竜士の布団に入ってくる。布団の中で触れ合う足だとか、肩口をくすぐる髪の毛の感触に竜士はドキドキするが、次に燐の表情を窺うと、本当に嬉しそうに無邪気に笑っているのだった。
『あかん。これやから手ぇ出せん。』
 ある意味初心。ある意味そそられる。しかしある意味、最強のガードの堅さだった。
 しかしこんな好機はいつ訪れるか分からない。ひょっとしたら今夜が最後のチャンスかもしれない。
 竜士は生唾を飲み込んで燐に覆いかぶさろうとした。が――。
「あ。俺テレビ見るー。」
 燐が突然布団から出ると、部屋の隅に置かれた、かなり忘れられた感がある分厚い二十型サイズのテレビの前に座った。竜士の手が空を切って虚しく掠めてしまう。そんな竜士をほっといたままで燐はテレビのスイッチをオンにした。
 竜士は仕方なく燐の横までいくと隣に座った。
「これ映るんか? 地デジ対応とかしてなさそうやけど。」
 テレビの分厚さと埃の被り具合がそれを証明しているようだった。
「いいんだよ。ここに百円入れれば映るってお義母さんが言ってた。」
 竜士は燐の頭に拳骨を入れる。
「それってエッチビデオのチャンネルやろうがっ。お前はなんつーもんを……。」
「お義母さんが暇で興味あるなら見てもええよって言ってた。」
「おかーん。」
 竜士は留守中の母親にツッコミを入れる。なんとも言えない竜士の横で燐は嬉しそうに百円を投入している。
「なんか本番の無修正ものらしいぜ。これもお義母さんが言ってたけど。」
「おかーん。」
 竜士は再び吼えた。嫁になんちゅうもんを見せるつもりやと、竜士は自分の顔を手で押さえて何かに耐えていた。しかしその顔が徐々に真顔に戻る。指の隙間から隣の嫁の顔を窺う。
『ひょっとしたらおかんは……』
 いつまで経っても嫁に対して甲斐性を見せない息子に業を煮やしたのかもしれない。
『いや。妨害しとったのは、おかんを筆頭に親戚一同とも言える奴らの所為やないか。でもこれも遅ればせながらの罪の意識というか、罪滅ぼしかもしれへん。』
 虎子はおぼこい燐に対してそのような映像を見ることによって、何かきっかけになればと思ったかもしれない。だから、今夜二人っきりになるタイミングを図って、燐に対して成人指定の映像を見せる情報を入れ知恵した。ご都合主義な考えだが一応それで筋が通るし、竜士としてもいきなり押し倒すよりはやりやすいとも考えた。
「ほんでも、エロビデオに刺激されるなんてなあ……」
 ひとりでに出た独り言を燐は聞いて竜士のほうを見た。
「お前も見るの?」
「ええやろ。」
「うん。ただちょっと意外だな――。真面目なお前がなー。」
「お前いい加減俺のこと、真面目真面目言うのやめてくれへん?」
 しかしわずかながらに「一緒にエロビデオを見る」という行為の効果が見え始めている。
 テレビはほんの少し起動に時間が掛かって、黒画面にレーベルが表示されたあと、見るからに大自然というような映像が二人の目に飛び込んできた。
「野外ものなんかな?」
 しかし目を凝らしても女優はおろか男優の姿も見えない。細かい砂利の浅い川が映し出されていた。カメラはその川の流れにだんだん近づいているらしい。
 竜士は首を傾げた。これはいったい何を撮りたいのだろうか? カメラの端々に紅葉した木の葉が映っている。
「燐なんかこれ、エッチビデオやないんやない? おかんに騙されたんと違うか?」
「えー。そんなことないだろ?」
「せやかてこれ、どう見てもただの日本の自然なんとかみたいな映像やで。それにしてもおかんのボケにしては大人しいな。燐をからかうにしても、もっとがっかりなもんを選びそうな気がするけどな。」
 カメラはやけに水面が激しく水しぶきを上げるさまを突然映し出す。しかし人間が水中で何かしているにしては人間の姿が見えないし、水中に隠れているにしても川が浅すぎる。川面に何か魚の背びれらしいものが見えた。
「?」
 竜士は目を凝らして映像を見て合点がいった。いきなり切り替わった画面は水中を映している。
「おいこれ……」
「わあっ。すごい激しいな。」
 うっと竜士は息を詰まらせる。自分の母親らしいボケっぷりに。
 
「本番で無修正やけど、これは――。シャケの産卵やないか!」
 
 確かに生々しいし男女の愛の営みだろうが――。
「そうだな。川底に産み付けられた卵にオスがぴゅーって。」
「ぴゅーってなんや! ぴゅーってっ。ふざけるなや!」
 竜士は何かをテレビに投げつけたい衝動に駆られたが、燐がわくわくしている横でそれは出来なかった。
「あ。クマが来る。クマ来るなよっ。」
 川を上って川を遡上する鮭たちに、黒い影が忍び寄る。愛しあう鮭を無情にも引き裂く捕食者だった。秋ごろなのだから冬眠前の貴重なたんぱく質を求めにやってきたのだろう。
「あ。ああ! 食べられちゃったよ!」
「ほんまやな。本番場面があっという間にスプラッタやな。」
 言葉とは裏腹に竜士の言葉は冷めていた。燐は顔を歪めていたが、思いなおしたように独り言を言っている。
「くそう! クマのやつなんて酷いんだ。……いやでも、あの二人が愛し合った結晶は川の中で息づいてるんだ。」
 ようこんなもので感動出来るなと竜士は溜息が出る。
「燐。イクラ好きやったよな?」
「ああ。大好きだぜ。」
「お前はクマを責める権利無いで。」
 竜士は黙って布団の中に戻っていく。こんなの見せられて勝呂は、「いざっ」と夫婦生活に突入するような達人ではないのだ。仮にここで燐を布団の中に引きずり込んでことに及んだとしたら、鮭の産卵に興奮して初夜に挑んだ男というレッテルを貼られてしまう。誰にかと言えば自分自身に。そしてそんな思い出を嫁とのちに話すことになるのも、なんだか嫌なものだった。
「おやすみ。燐。」
「おう。おやすみ。」
 おかんは一体何を考えているんだろう。そして嫁も一体何を考えているのか分からない。その気もないのに自分の真面目さと潔癖さが継続されてしまったことだけは確かだった。
『まあええわ。二十歳までになんとかすれば。』
 今から考えてみれば、「二人きり」という非日常に浮かれて焦っていただけかもしれない。そんなことには動じない普段どおりの嫁が正しいのかもしれない。
『まあ、ええか。こいつが俺の嫁やというのは変わらんし。俺の家族や親戚はもともとボケとツッコミでグダグダやし。』
 環境に流されて変に気が長くなってしまった自分を肯定している時点で、勝呂竜士・十九歳のこれからもなんとなく予想出来るようだった。





結局へたれエンドです。たぶん勝呂は魔法使いにはならないのでしょうけど、先は長い悪寒です。

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☆ss「キャットフードその③」燐雪(ちょっと燐ネイ、藤雪)

 日付が変わる前に燐は目を覚ました。隣を見るとベッド横のスタンドの明かりでネイガウスは本を読んでいる。小説みたいに娯楽で読むような本ではなく、何やらの専門書らしかった。燐はネイガウスに小声でおはようと言うと、ネイガウスはまだ夜中だと返した。
「なんだ。本当に隣で寝るつもりだったんだ。」
 自分のすぐ横で仰向けになっているネイガウスを見て、燐は言わずもがなのことを言う。
「私のベッドなんだから、私が寝て悪いか?」
 燐は首を横に振る。寝起きなのにやけにぱっちりと目を開けてネイガウスを見ている。
「いや。男同士で一つのベッドってなんかな。」
「二人だけだとそう思うだろうが……。私の経験上。」
 ネイガウスの言葉に燐はぴくりと反応する。
「経験上? そんなことってよくあることなのか?」
 ネイガウスは本を閉じてサイドテーブルに置くと燐のほうに身体を向けた。
「祓魔師の任務は野外戦が多いからな。泊りがけで宿が確保出来なければ、簡易的な拠点で雑魚寝は当たり前だ。その場しのぎだから、男同士でも肌と肌が触れた状態で休まなければならないこともある。」
「えええ! じゃあ、雪男も……。複数の野郎と一緒に寝てたりするのかよっ。」
「お前は弟を特別視してるから、そんなふうに驚いているのだろう。しかしな。他の祓魔師にとっては、奥村雪男は単なる年下の同僚にしか過ぎない。そんな疚しい思いでいる奴など滅多にもいるわけがない。」
「わかるもんか。軍隊と男子校と刑務所にゃあ、ホモがつきものなんだよっ。」
 やけに特殊な例にだけ詳しそうな悪魔だった。ネイガウスは常識で言い返す。
「そうかっかするな。騎士団の祓魔師は妻帯者も多いし、女性祓魔師もいる。」
 ネイガウスの言葉はあまり燐には聞こえていないようだった。雪男ちゃんが雪男ちゃんがと小言で喚いている。ネイガウスは、ここは何も言わずにほっといてやろうと思った。
 しかし言わなければいけないことがある。
「ところで、お前は何か気がつかないか?」
 ネイガウスは燐を通り越して燐の枕元に視線を移す。燐はそれから何か察したように頭の後ろを振り返った。
「えーと……。そういや、あの子猫どうした? 俺の枕元で寝てたんじゃなかったっけ?」
 ひょっとして潰してないかと毛布を持ち上げて身体を起こす。シーツの白に紛れているわけでもなく、子猫は姿も形も見当たらない。
「あれ? どこいった? ていうか、ベッドから落ちてるんじゃ。」
 燐は慌ててベッドの下も覗いている。
「そんなことはない。お前が起きたら言わなければいけないと思っていたが、実はあの猫は悪魔の一種だったようだ。存在はかなり微弱だったがな。」
 燐は意味がわからずに頭を抱えている。ネイガウスは分かりやすい言葉を探す。
「猫の幽霊、というべきか。助けて貰いたかったという猫の思念の小さな集合体だったのだろう。お前が気づいて助けたから、未練なく消えることが出来たようだ。」
「そんな、あいつもとから死んでたって言うのか。結局俺はあいつを助けられなかったってことかよ。」
 ネイガウスは首を振る。
「助けるのは遅かったが、救ってやったという事実は変わらない。お前が助けなかったら、性質の悪いものに変わっていたかもしれない。」
 燐はベッドの上に起き上がって、子猫のいたタオルの敷き詰められた箱を覗く。
「あんた。俺が車の中であいつを抱っこしてやってた時から気づいてたのか?」
「まあな。あんなに小さい子猫が袋の中で放置されて、都合よく人間に助けられるまで無事でいられるはずもあるまい。」
「そうだよな。でも生きてるうちに助けたかったな。まあ、いっか。しょうがねえ。」
 意外と諦めのいい悪魔だとネイガウスは思った。そういえば、寝付く前の愁嘆場が嘘のように燐の顔はあっけらかんとしている。それがある意味、奥村燐を支えているのかもしれない。単に物覚えが悪いだけかもしれないが。
「私はもう寝るが、お前はどうする?」
「俺は。」
 燐は窓の外を見る。部屋に残してきた雪男が気になった。しかし、いきなり部屋に帰るのも可笑しな話だし、もしやネイガウスに迷惑を掛けて追い出されたと思われるのも面倒な話だった。それに、雪男は自分がいないほうがよく眠れるかもしれないと、一抹の寂しさも感じながら考えてしまった。
「俺も二度寝する。」
「そうしたいならそうすればいい。」
「ちゃんと起こしてくれよ。明日学校なんだ。」
「善処はしよう。」
 燐はまた毛布にくるまって目を閉じる。
「あーあ、せっかく可愛い子猫を拾ったと思ったのに。クロがいるから別にいいけど。」
 ネイガウスは溜息を吐く。諦めがいいのか未練がましいのかどっちかにしろと思った。
 
     *   *   *
 
 燐のいない部屋の中で雪男は黙々と仕事をしている。やはり兄がいないと三割り増し仕事が進む。兄が思っていたとおり、燐が部屋にいない雪男は好調なようだった。しかし仕事が一段落して伸びをした途端、もの凄い寂寥感が雪男を襲って背筋を竦ませた。
 いつも聞いている兄の息遣いだとか、自分を盗み見る視線だとか、時折聞こえてくる自分を呼ぶ寝言とか。この部屋を構成する兄のパーツがごっそり抜け落ちると、この部屋の構造が不安定に頼りなく思えてくる。
「気のせいだよね。兄さん一人がいないくらい。」
 多分自分は疲れている。仕事がはかどった分だけ多く休むのも手かもしれない。
「もう寝ようかな。」
 朝にシャワーは浴びるし、このまま眠い状態で寝てしまえばいい。雪男はベッドに横になってスマフォでアラームを設定する。しかしアラームとは違う振動がスマフォを震わせた。誰かから電話が掛かってきた。雪男は淡々とそれに出る。
『今晩わ。藤堂です。』
「藤堂さんですか。先日はどうも。」
 雪男が数週間前についた任務の指揮者であった藤堂からだった。藤堂は上二級に留まりながら一部隊を率いる統率者の役割も果たしていた。それは藤堂が悪魔落ちして悪魔の力を取り入れた上で、騎士団に協力しているからだ。それ以前までは名家の出でありながらあまりうだつの上がらない存在だったらしい。しかし雪男は最近藤堂に会ったばかりなので、悪魔落ちするほど冴えない人生を送っていた藤堂など見たことはない。悪魔落ちというある意味ドロップアウトした存在になって初めて輝きだす人間、いや悪魔も珍しいものだった。それは蛇足だった。
一週間前に電話番号を教えたばかりに、そこから一日に二回は用事も無いのに電話が掛かってくるようになっていた。(他の同僚や上司と通話する時のような言葉遣いなので、燐は特に気にしていなかった。)しかし今日やけに時間が遅すぎるような気がする。
「僕に何の用ですか?」
『いやあ。悪魔らしい気まぐれだよ。』
「はあ……。」
 藤堂は電話の向こうでくすくすと笑っている。なんだか嫌な感じだった。
『お兄さん、元気ぃ?』
「ええ。元気ですよ。頭痛の種になる程度には。」
 いつもこうして藤堂からの問いを受け流している。そうすれば勝手に五分ぐらいで飽きてくれるからだ。
『相変わらず、ここの君は即答だね。』
「僕が複数いるかのように言わないで下さい。ここの他にどこに僕がいるんですか?」
 藤堂ははぐらかすように含み笑いを漏らした。
『ついでに、お兄さんのこと嫌いだろう?』
「ええ。嫌いですよ。」
『自分のことは?』
 雪男は子どものようにしつこい藤堂にこめかみがひくつく。
「好きに、決まっているじゃないですか。僕のこと一番分かっているのは僕自身だし、僕を助けられるのは僕だけだ。」
『寄る辺は己っていうことか。悪くは無いね。羨ましいことだよ。僕は自分を寄る辺に出来ずに悪魔の力に縋ってしまったからね。』
 雪男は一連の藤堂と交わした会話の中の自分をほんの少しだけ省みる。この会話の中には嘘が含まれている。たぶんきっと、藤堂はその嘘に気づいている。
「僕と兄の近況伺いが済んだところで、もう電話を切ってもいいでしょうか? 明日、学校があるので。」
 藤堂はあたかも慌てたように雪男に頼み込む。
『えー。もうちょっといいじゃない。一緒に寝た仲じゃない?』
「あれは任務でしょうがなくだったじゃないですか。二人きりでもあるまいし。」
 雪男は少し笑いを含ませて電話の向こうの藤堂にやんわりと告げる。三日ほど泊りがけの任務があったときのことだった。わりと僻地の集落での任務だったので、風呂なし睡眠なしの戦闘に次ぐ戦闘続きだった。眠れたと言えば合間の仮眠ぐらいだ。そのときに藤堂に見張りをしてもらって休んでいた。藤堂はそのときのことを楽しそうに語る。
『僕の隣で無防備に疲れきって眠っていた君は、実に可愛らしかったよ。周りは悪魔の死体でいっぱいだったけど。その中の一体を僕は食べさせてもらったし。君が寝ている間にね。』
 雪男は溜息を吐いた。悪魔落ちをしたこの男が、騎士団に頭を下げる形で祓魔師を続けているのは、悪魔の力を溜め込むためでもあるようだ。そのうち何かをやらかすかもしれないが、そんなのには雪男の知ったことではない。自分がこの手に掛けなければならない悪魔はたった一人だから。幾千幾万の悪魔を屠ろうと関係ない。しかし、便宜上は一応言っておく。
「くれぐれも何もやらかさないで下さいね。僕への嫌がらせだとしても。」
『ここの僕は何もやらないよ。』
「まるで自分も複数いるかのように言わないでください。」
 自分は一人しかいないのだ。そうやってパラレルワールドを信じているから、悪魔落ちに逃げてしまうんだと雪男は文句を言いたかった。だが言わない。他の人間に対してはどうかは知らないが、藤堂はいつも絡んでくるような言動をとってくる。それを軽く雪男はあしらったりする。そして藤堂はそれを嬉しそうに受け取っている。
 本当に楽しそうな様子が伝わってくる。人生の路頭に迷った中年がある日を境に生まれ変わってしまうこともあろうが、悪魔落ちすることによって残り少ない人生が無限に近くなった途端に、こんなに楽しそうに生きられるとは思えない。人生の意味に疲れていた男が、人生の意味を放棄した、逃げただけの話じゃないか。それを肯定するのは、雪男の中の矜持というか潔癖な部分が許さなかった。そんな男に対して憤りはしないが、切り離して考えるべきだということくらいは分別はついている。
『しっかり者だね。君は。好きだな。おじさんは君みたいな子。ほっとけないな。構いたいな。』
「構うなら次に任務で一緒になったときでいいでしょう。」
 とうとう藤堂は声を出して笑い始めた。
『ひゃははは。一応、構うのは許してくれるわけだ。』
「祓魔師は一人では戦えませんから。」
 なんだかんだで頼りになるのは事実だから。
『いいよ。僕は君に味方しよう。何か困ったりしたときはいつでも頼ってくれ。そのために僕は悪魔の力を蓄えておくから。』
「結構です。寄る辺は自分ですから。」
 雪男はちらりと壁の時計を見る。とっくに五分以上は過ぎている。今日はやけに藤堂は粘っているなと思いながら、藤堂に半ば強引に問いかける。
「じゃあ。もういいですね? 切りますよ。」
『あともうちょっと。』
「なんですか。手短にお願いします。」
『夕方。君のお兄さんが職員の寮に来てたんだけど。お兄さんには宿舎に行って勉強を教えてもらうくらい親しい先生でもいるのかい?』
 雪男はなんでそんな場面をわざわざ見ているんだこいつ、と思いながら投げやりに答える。
「ネイガウス先生のところに今夜はお邪魔しています。兄は。」
 藤堂のわざとらしい口笛が聞こえてくる。
『じゃあ君は今日、一人なわけか。やったあ。ちょっと寝ないで待っててね。』
 電話の向こうでなにやらがさごそと動く音がする。ここで反応すれば藤堂の思う壷だから、雪男は無視を決め込む。
「いや。もう僕寝ます。」
 なんだか風を切る音がひゅうひゅうと聞こえている。
『窓開いてるよね?』
 雪男はベッドから飛び出して、換気に開けていた窓を閉め鍵を掛ける。
「いや。今閉めました。」
 バサバサという音は受話器から聞こえてくる。羽ばたきの音のようだ。藤堂は手っ取り早く異形に姿を変えてこの寮を目指しているらしい。雪男は机の中からハンドガンを取り出す。
「『そんなもの。僕に効くと思ってる?』」
 窓の外に、前に見た藤堂よりよほど若い藤堂がいた。背中には悪魔らしい気持ち悪い色合いの翼が生えている。雪男は窓から後ずさった。
「ほんとに一人だ。」
「……。僕はあなたなんか招いてませんよ。」
 雪男の身体に緊張が走る。兄の不在なんか、うっかり口を滑らせるんじゃなかった。迂闊な自分は、話の流れで藤堂の質問に何でも答えてしまう姿勢になってしまっていた。
「いきなりお泊りさせて貰えるとは思ってないよ。でもお兄さんがいないときじゃないと話せないこともあるし。」
「僕には話すことなんてありません。帰って下さい。」
 毅然と拒否の言葉をぶつける。藤堂には無駄と分かっていても、意思だけははっきりと伝えなければいけない。
「生意気なことを言うと、窓を割って入っちゃうよ。そんでどうしよっかな? お兄さんから君を攫っちゃおうかな? 弟の気も知らない兄なんか二人揃ってほっといちゃおうよ。僕なら君を楽にさせてあげられる。」
 何か気になる一言を聞いたような気がするが、雪男はそれどころではない。それにもまた拒否で返す。
「楽になんかならないで結構です。どうか、帰って。」
 宙に浮いた藤堂は優しげに微笑みかける。
「泣きそうな顔でお願いされちゃあねえ。僕もそこまで悪魔するつもりないし。でも勿体ないなあ。このまま帰りたくないなあ。せめてキスくらいさせてくれないかな?」
「僕にとってキスはくらい、じゃありません。」
 それを言ってしまうと、いつか兄にしたキスに意味があるような気がしてくる。どうしてこの場にいない、頼りない兄とのことを思い出してしまうんだと、雪男の眉が歪む。しかし、目の前のしつこくて嫌らしい男と急場しのぎとはいえ同意の上キスするなんて、死んでも嫌だった。それくらいだったら、無理やり強姦されたほうがマシだった。一方的にあっちが悪いと言い張れるから。
 雪男の表情から何か読み取ったらしい藤堂は、にやにやとした笑いを引っ込める。
「そうだね。……軽率なことを言って済まなかった。」
 藤堂は素直に頭を下げて謝った。雪男は一瞬あっけに取られる。藤堂は小さく雪男に手を振る。
「じゃあ。おやすみ。」
「おやすみ、なさい……」
 藤堂は背を向けて飛び去ろうとする。雪男は何故か窓際まで寄って藤堂を見送る形になってしまった。そんな雪男に振り返って、藤堂はやはり嬉しそうに笑っていた。
 
「今日は休もう。」
 雪男は部屋を消灯した後、周りを見回す。さっきの藤堂との邂逅を思うと、自分のベッドで寝るのはなんだか心許ないような気がする。なんだか自分らしくなく気分的にそう思った。
「いや。だからって」
 言い訳しながらも雪男は兄のベッドに近寄る。きょろきょろと周囲を確認して、雪男はそっとベッドに潜り込む。そして両手で掛け布団を握り締めて包まった。
「別に側にいないから不安ってわけじゃないけど。兄さんがいないから、藤堂がやってきたわけだし。気休めのおまじないみたいなもんだよ。そうだよ。これで藤堂が近寄ってこないわけじゃ、ないけど。兄さんが悪いんだよ。藤堂なんかに見つかるから。だから少しくらい。布団借りたっていいじゃないか。」
 雪男は滅茶苦茶な結論を言うと、瞼を閉じた。そしてあっという間に眠りにおちた。
 
悪魔の兄のその床で。





藤堂|∀・)<ミタヨー 

 他ヒロインに2~3話使うと言っておいて、ネイさんに結局3話使ってしまいました。ていうかアサ子一回休みかよ。雪ちゃんはなんとか滑り込みました。ピンチだけど。次回はアサ子が出張るかもな。

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忍たまで「幸福雑音」というサークルで、大阪のイベントに出没しています。
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