幸福雑音
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☆「super scription of data」後編 燐雪前提の朴雪 グロ注意
*今回グロシーンがあります。
正十字教会に向かって自転車を走らせていた朴は途中で公衆電話を見つけ、自転車をその脇に止めた。
「うふふ。とりあえず連絡手段を設置しといて良かったわ。さてそろそろ理事長が近隣に散らばっている私をかき集めたころかな。」
朴は単なる思い付きで公衆電話を設置したことを棚に上げながら自分で自分を褒め、十円玉を財布から出すと公衆電話に入れた。そして架空ラブホのフロントに電話を掛ける。
『はい。ホテルぱくぱくです。』
「なに勝手にホテルの名前決めてるのよ。」
『いや、のりのりでも良かったんだけど。』
「まあいいわ。どうかな? 理事長はちゃんと私の依頼を聞いてくれたかな。」
依頼と聞いた三号は言いよどむ。
『頼みごとは聞いてはくれたけど、それなりの成果を期待しますって言われちゃったよ。あの人に。』
「そう。」
そのくらいは常套句というか、決まりごとみたいな朴とメフィストの関係だった。しかしそれを共有している端末の三号の様子がおかしい。
『理事長は十分過ぎるくらいこっちの要望は叶えちゃってる。つまりは集められた私たちの数なんだけど。どんだけーって感じで。』
朴は自分の見積もりと三号の半ばびびっている声を天秤にかけてみた。これから起こることは、まだ朴にも予想がついていない。ただ燐がすんなりと現実世界に戻ってくれる可能性を朴は全く感じていない。その証拠に未だに朴は燐を連れた雪男と合流することが叶っていないからだ。兄か弟か。問題をややこしくしているのはどちらなのか分からないが、なんだか雪男のような気がする。
だから圧倒的な人数を揃える意味は十二分にある。三号がびびるような人数でもひょっとして足りなくなる可能性すらある。つまりそれは未曾有の大事件と混乱を意味する。
「ふうん。んで、何人くらい集まったって? ふん。そう。祭りを盛り上げるにはそれくらいは必要かもね。」
電話の向こうで三号は用心のために零号を呼んでおこうかと朴に提案した。朴はいらないときっぱりと言い放つ。
「頭数の中に零号を入れたら祭りを盛り上げても意味がなくなっちゃう。」
朴はそれじゃと言って電話を切るとまた自転車で走り出した。
* * *
雪男は伏せた睫の下の緑がかった青い目を自分の下にいる燐の痴態に向けていた。
燐はどうして自分がこんな仕打ちを受けているのかと言わんばかりに、絶望に濁った目で虚ろに雪男を見上げている。雪男は行為の前の激昂した自分や兄に対する嗜虐的な思いが冷めたように燐を見ている。雪男が見ているのはかつて燐の下で自分が喘いだ姿と二重写しの光景だった。しかし自分はその姿になってなんらかの充足感を感じていたのに、兄は全てを剥ぎ取られたかのように床に寝転がっている。
雪男は胃のあたりに疼痛を覚えて、またがっていた燐の身体から腰を浮かせた。燐の局部に埋めていた指を引き抜くと燐は背中を丸めて蹲り小さく嗚咽を漏らしている。雪男はそんな燐に自分の上着を着せかけ、自分は脱ぎ捨てた下着とスパッツを履いて、逃げるように一旦礼拝堂の外に出た。
なんだか自分がすごく虚しい行為に熱中していたような気がしてきた。彼女の言うように自分一人で兄を迎えに行かなければ良かったような気がする。
雪男は無性に一人になりたくて、どこに行っても一人だろうに教会の住居部分のかつての自分たちの部屋に足早に向かった。
扉を開けて中に入り懐かしい勉強机の前まで行き、手をついて俯いたとき、自分の机の上や本棚が空っぽになっていることに気づいた。そこには雪男が祓魔師の修行中に使った本がたくさんあったはずなのに、たった一冊すら見つからず全て消えていた。
雪男は首を捻りながらも、ここは現実と違うんだからしょうがないと安易に自分を納得させる。
「いるんだったら姿見せたら?」
ふと気配を感じて雪男がどことも知れず言葉を掛けると、二段ベッドの上の段の布団から、小動物的な姿の悪魔が机の上に飛び降りてきた。あの祓魔塾の箱の中に閉じ込められいた悪魔だった。雪男がメフィストを昏倒させるために使ったダミーの使い魔が雪男の前に姿を現したのだった。
「弟様。お久しぶりです。」
小さくて見ようによっては可愛い姿に似合わずに悪魔は成人男性の声で雪男に語りかける。
「お久しぶり。」
悪魔は雪男のことを「弟様」と呼ぶ。燐が「若君」ならその弟という意味だろう。雪男は忠実な悪魔に自分が引っかかっていることについて問いかける。
「あの卵。あれはまさか兄さんの言うように僕たちの子どもってわけじゃないよね?」
悪魔はぶんぶんと首を振る。
「若君には残念なことですが、あれからは子どもは生まれません。」
「じゃあなぜ、最初は手のひらサイズだったのに、抱えられるくらい大きくなってるの? 何が入っているの? あれには?」
雪男は礼拝堂に置き忘れた卵を回収しなかったことを後悔する。幾らいたたまれなかったとはいえ、もう少し冷静さがあれば兄から卵を没収出来るはずだった。そして卵の中身は子どもではなく得体のしれない何かだということは確実なようだ。
悪魔は端的に答える。
「ゲートですね。」
「あのサタンが作れるというあれと一緒? 卵が孵ったら虚無界にいけるわけ?」
悪魔はまた首を振る。雪男は自分の予想を口にする。
「僕の能力は人や悪魔の精神に干渉することで、その脳内に異次元空間を作り出してしまうこと。僕はその能力を自分とフェレス卿に使った。だからこの精神世界が物質界と異なりながらも異次元として存在出来る。」
「弟様は賢くていらっしゃいます。私が言わずともあの卵の正体にはお気づきでしょう。」
「そうだね。あれもここと同じような異次元空間を作り出すんだろうね。僕と兄さんが性交して僕から生まれて、兄さんに七年近く守られて育ったあかつきには、きっと物質界でも虚無界でもない世界が生まれるんだろうね。」
「どうやら物質界や虚無界より混沌として、どちらとも絶縁された世界ではないかと予想できるのです。若君と弟様との組み合わせが悪すぎたのです。真に残念ながら。」
「それは僕と兄さんが血縁だから?」
悪魔は短い手足で腕組をし、唸って困った顔をした。
「お二人とも悪魔として上級すぎるのです。弟様の場合能力が能力ですから、それに青い炎を継いだ若君の精を受けることで弟様が望まずとも能力が強制的に発動されたのでございます。」
雪男は悪魔の答えを聞いて予想通りだったなと肩を竦める。最初の交渉以来、雪男は常に兄に避妊具を使わせていた。自分の体内に精を受ければまた卵が生まれていたのは確かだったようだ。それを考えれば、あの卵はそういう側面で言えば兄の言うように子どもではあるのかもしれない。
「それで? あの卵を放置すればどうなるの?」
一応の問いではあるが雪男にはすでに予想がついていた。悪魔は示し合わせたように答える。
「何回も残念と申し上げてばかりですが、真に残念なことですが、あれほど成長した卵は単に放置しただけでは孵化してしまいます。」
「じゃあ、壊すことはできる?」
悪魔は瞼を硬く瞑り口ごもった。
「今、あの卵は若君の加護により守られている存在でございます。例え強制的に引き離せたとしても若君と卵のリンクを切ったことにはなりません。」
礼拝堂の中であんなに手荒に扱った割にはヒビ一つ入れられなかった卵のことを考えれば、兄と卵の間には切れがたい何かがあることは薄々感づいていた。たぶん雪男の銃弾をもってしてもあの卵は破壊出来なかったのだろう。もし礼拝堂から卵を持ち出せなかったとしても無駄だったということだ。
「ですから若君の加護を断ち切れば破壊も可能で御座います。しかしながら若君のこの空間での七年間は、あの卵に支えられていたようなものなのです。リンクはそうそう簡単に切れないことでしょう。」
「それなら、兄さんにあの卵を諦めさせればいいんだね。そうしないとあの卵の孵化によって出現したゲートが物質界にも虚無界にも影響を及ぼすんだろ。もともと混沌とした虚無界はどうにかなるかもしれないけど、虚無界からの侵攻を防御するのが精一杯な物質界は二重の脅威に晒されることだろうし。はっ。僕たちは本当になんて罪深いことをしてしまったんだろうね。」
「弟様。それこそが悪魔で御座います。わたくしは貴方が思い悩む行為こそ嬉しく思うのです。悪魔になってからの貴方は禍々しいほどに輝いてらっしゃいました。どうかこの先も貴方が思うままに選択して振る舞い、この世界を脅威にも救いにも振り回して欲しいものです。」
悪魔はとても嬉しそうに雪男を褒め称えた。それこそが悪魔の若君の弟君に相応しいと言わんばかりに。雪男はそんな悪魔に鼻白む。そして悪魔落ちをしたとはいえ、自分は人間側だという思いも込め悪魔に告げる。
「じゃあ。僕が産んでしまった卵を、僕の都合で破壊しても、お前は文句言わないわけだね?」
「貴方の生み出したものは貴方の所有物。思う存分それ相応の扱いをして下さいませ。」
悪魔は歯をむき出しに笑う。それは雪男に対して悪魔としてこれからもあり続けるように促さすような言葉だった。雪男はそれに反発したくなりつつも現実は悪魔のいうまま、自分の振る舞いのままなので言い返せない。
「とにかくもう一回兄さんを説得してみる。兄さんの卵に対する加護は兄さんが卵を諦めないと断ち切れないんだろ?」
雪男は悪魔に背を向ける。後ろの悪魔は残念そうにため息をついた。
「弟様。頑張ってくださいませ。恐らくかなりの困難を極めることでしょう。ご無理ならご無理でも致し方ないのです。物質界でも虚無界でもない世界が生まれるというのも、我々
悪魔にとっては歓迎するものなのです。」
雪男は顔を歪める。自分にとって忠実な悪魔でもやはり悪魔は悪魔だった。
雪男は再び礼拝堂に足を向ける。住居部の廊下の窓から、必死に礼拝堂の扉を開けようと奮闘した結果、バッドで扉をたたき続ける朴の姿を見つけた。
朴は振り向いて「あ、先生。」と手を振っていた。
雪男が駆け寄ると礼拝堂の扉はところどころへこんでいた。
「朴さん。教会内でそんなもん振り回さないでください。というか入り口門もそれで突破してきたわけですか?」
「そうだよ。この降魔剣改・降魔バットで。」
「そんなことしなくても僕なら開けられるんですから。今度は一緒に入りましょう。兄さんはここにいますから。」
「最初からそうしてくれれば良かったじゃないっ。」
朴はぜえぜえと息を吐きながら雪男に泣き言を言った。しかしこの世界での最終兵器である降魔剣改・降魔バットは、流石に燐が他者を排除するための二重の門の一つを破壊出来たようだった。
雪男は降魔バッドの性能に感心しながらも朴を横目にいとも簡単に扉を開けようとした。
「あれ?」
礼拝堂の扉は開かない。ドアノブが一ミリも動いてくれない。
「なんで?」
雪男の顔が真っ青になる。なんでなんて自分自身がよく分かってる癖に。
「先生。どいて。やっぱり私がやる。」
朴はいろいろと察しているように雪男を押しのけるとバット構えなおす。
「先生。一旦こっちに出てきたってことは、燐君となんかあったよね? 私が二人きりで会わないほうがいいって言ったのは、ひょっとしたらそうなるかもしれないって思ったからだよ。やっぱり予想は当たっちゃったんだね。」
朴は大きく振りかぶってバットを扉に叩きつける。中から燐の言葉にならない金切り声が聞こえる。朴は中にいる燐に呼びかける。
「燐君。あんまり手荒なことはしたくないんだ。頼むから出てきてくれないかな?」
「朴さん。ちょっと兄さんと言い合いになって僕が無理強いしてしまったせいで、兄さんは今混乱しているんだ。」
雪男は朴の腕を掴んで朴を制止しようとする。しかし朴はまた降魔バットで扉を破壊しにかかる。
「無理強いしてしまったなら、最後まで無理強いでいこうよ。」
「駄目だ朴さん。そんなことしたら卵を守っている兄の力が余計に強くなる。」
「卵? なにそれ?」
「……兄さんが、僕と兄さんの子どもだと思い込んでいるもの。」
雪男は無意識ながら真実そのままを話せなかった。朴が躊躇している内に礼拝堂内から音が聞こえる。それを聞きつけた朴ははっと我に帰ると、最後の一撃とばかりに扉にバットを叩きつけた。
扉は朴と雪男を吹き飛ばすように観音開きに開け放たれる。
「兄さん!」「燐君!」
二人の視界には卵を抱きかかえて二人を怯えたように見る燐の姿があった。中の光景は未だに礼拝堂のようだが、燐の立ち姿を見るとまるで別の場所のように見える。朴と雪男に対して身体を横に向けて、何かを待っているその姿を捉えた。
「やばい。燐君がこの精神世界を自由に操る力を習得しているのかもしんない!」
旧・男子寮の場所に教会を入れ替わりに出現させ、そこで六年間過ごしていたという事実からして、また燐がその力を使ってこの場所を変化させにかかっていると朴は直感する。燐の立ち姿は自分でも見に覚えがある姿なのだが、いったいどこで見たか、自らその姿をしたか、まったくもって思い出せない。
「先生!」
「はい!」
朴と雪男は同時に燐に駆け寄ろうとする。とりあえず考えるより気力の薄い燐を捕らえるほうがいいと判断した。
しかし状況は一変する。燐のいる範囲がいきなりせりあがった。コンクリートの無機質な塊。そしてその下に礼拝堂を縦断してレールが敷かれている。
「思い出した! プラットホームで電車を待つ人だあれは。」
礼拝堂の壁がプラットホームの壁になる。そして祭壇を押しつぶしながらローカル線の電車がこちらに向けて走ってきた。二人は電車に轢かれないようにレールの外に外れる。
「兄さん!」
雪男が叫んでも燐は振り向かない。止まった電車のドアが開く音がする。そして燐は自分だけの無人の電車に乗り込んだ。
『発車致します。』
無機質なアナウンスが流れ電車は走り出す。朴と雪男が見るプラットホームには誰もいなかった。燐は教会内を駅に作り変え、逃走用に電車を作り出した。その今起こった事実に雪男は愕然としていた。
「兄さんが僕たちから逃げた……」
「ああ、そうだね。何もかもから燐君は逃げたくなったんだね。電車か。やるなあ、サタンの息子。」
「兄さんは弱い人間じゃないのに……」
「それは現実の世界ではだよ。ここは人間の弱さが浮き彫りにされる場所なんだ。先生にも見に覚えがあるでしょ。先生も燐君を巻き込んで現実世界から逃げようとしたんじゃなかったっけ? 燐君一人だったらそこまで弱くなくても、先生に引きずられたっていう線もあるよ。」
「全部僕が悪いって言うんですか!」
「全部とは言ってないよ。だけどほとんど全部だよね。だからね。私はちょっと残酷なことして燐君を引き止めて引き上げるつもりだから、それは許してくれるよね?」
雪男は口を固く閉ざして唇をかみ締める。朴は燐の大掛かりな逃走劇から早くも冷静になってこれからするべきアクションを考え出した。
「巨大な乗り物の召喚も燐君のお陰で可能だって分かったから。」
朴は青い空を仰ぎ見る。今頃燐はどことも宛てもなく伸びるレールに沿って逃げ続けているのだろう。あっけらかんと明るく晴れた景色の中、どことも分からない場所に逃げて心安らかになりたがっているのだろう。
「あの卵は、孵化すると物質界にとって脅威になるものが生まれてくるんです。」
今更ながらに雪男は朴と目を合わせないように俯いて自分の更なる罪を告白する。
「やっと正直に話してくれたね。」
「もうたぶんあまり時間がないです。早く破壊しないと。」
そうだね。と朴は淡々と答える。
「朴さん。僕はどうしたら……」
「もう、なにもするな。」
朴は苛立ったように雪男に言い放つ。しかし思い直したように少し言葉を和らげた。
「先生はもう何もしなくていいから。全部私に任せて。そんで現実に帰ってこれたら、後腐れなく目を覚ました燐君におはようって言ってあげて。怖い夢を見たって言ってきたら、平気な顔をして夢だよって言ってあげて。」
「それは僕たちに普通の兄弟に戻れってことですよね。この世界のことはなかったことにしろってことですよね。」
「出来るでしょ。先生なら。燐君を守るためなら。兄弟で愛し合うこともなかった。絶望することもなかった。一人ぼっちで取り残されることもなかった。世界の災いの種なんてなかった。」
青い空に黒い影が幾つも浮かぶ。それは自衛隊やら兵器に関するニュースでしか見たこと無いような垂直離着陸型大型輸送機だった。
「三号が上手いこと察してやってくれたようだね。」
その中の一機が雪男たちから百メートル離れたところに教会を形作る木々や墓石やレンガなどの上に降り立った。もはや教会は瓦礫の山と化していた。
「一号。朴朔子現在五百名集合しました。大型輸送機二十機にて作戦待ちであります。どうぞ指示を。」
三号が輸送機から朴に告げる。朴は悠々と雪男の手を引きながら輸送機の中に入った。
「それじゃあ、朴朔子史上最大の作戦やらかしちゃおうかな。この輸送機軍団二十機で、このレール見えるよね? この轍を辿って、いや先回りするか。対面したほうが後から追うより、前方で待ち受けたほうがインパクト強いよね。出来るかぎり全速前進で。目下逃亡中の燐君を乗せた電車の先回りをして待ち伏せる。」
「そんなこと出来るんですか?」
雪男の不安そうな顔に朴はちっちと指を振る。
「地上を走る電車より、空を飛べる飛行機のほうが移動の幅は広いんだよ。」
「いやそういうことじゃなくて。これを操縦しているのも貴方の中の一人だっていうことでしょ? ちゃんと飛べるんですか。」
「私はやればできる子だよ。というか、やるときはやる子だよ。飛行機ぐらい飛ばせて当然なんだから。それとも夢の世界なのに死ぬのが怖いのかな?」
雪男はしかめっ面になって問いかけることすらやめた。二人で乗り込んで待機中の一機に、搭載されていると言わんばかりに揃った二十五人の朴と対面する。雪男はその異常な光景にほんの少し顔色をなくした。
「この朴さんたちはどうしたのですか。」
「理事長に集めてもらったんだよ。お得意の時と空間を操る能力でね。」
朴たちは誂えたように正十字学園の制服を着ている。たぶんメフィストのおたく趣味による演出のうちだろう。そして背中にパラシュートらしきリュックを背負っている。
朴は次にコックピットにいる三号のもとに雪男を連れていく。
「三号。おつかれ。もう少しお仕事頑張って。」
「分かってるよ一号。それじゃぼちぼち燐君の乗った電車に先回りするから。」
朴たちを乗せた輸送機が垂直離陸し始める。
「燐君が乗ったのがローカル線の電車で良かったよ。もし新幹線だったりもっと速く走れる乗り物だったりしたら厄介だったろうからね。」
「兄さんはあなたほど過激じゃないですから。」
雪男にしてもまさか軍用機を使って兄を追跡する日が来るとは思わなかった。どうせこの女のことだからうけ狙いも兼ねているのだろう。
「呆れてるでしょ。私のやり方。」
「今回の僕のやり方よりずっと上等だとは思いますよ。」
朴はかすかに笑うと自嘲気味に雪男に語りかける。
「私には先生にとっての燐君みたいな、目の上のたんこぶみたいな奴が一人いるんです。ぶっちゃけ姉なんですけどね。私たちはそいつのことを零号って呼んでいるんです。朔(いち)の前の零。私は要するにナンバリングされた一から九千九百九十九で、たった一人の零をハブにして目の敵にしちゃってる、せこい妹をやってるわけで。それでも九千九百九十九の朔(いち)の私は、零に絶対勝てない。それは零が圧倒的に正当で正義だからなんです。」
雪男はこんな状況でそんな話がどう関係するのだろうと首を傾げる。朴はそんな雪男に照れたようにうっすらと笑みを浮かべる。
「いや。私の恥ずかしい話もたまには誰かに聞いてもらわないと。」
「つまりあなたにも僕と同じようなジレンマがあると言いたいんですね。」
「まあ私も九千九百超を従えているとはいえ、妹に生まれたというのは変えられない事実でして。しかも私の前の零に明らかに劣っているわけで。おまけに私のやることは正当性のないイカサマばかりだし。だけどね先生。私は正しさなんてなんぼのもんだって思うんです。」
朴は正しさではこの兄弟は救われるどころか、正当性をかさに来た人間によって地獄に落とされること重々承知していた。
「これからやることは私の初にして一世一代のイカサマ大舞台なんです。大義があるとすれば兄思いの弟がやらかした罪を馬鹿騒ぎで誤魔化すことで、ある兄弟を不幸にしないだけのことです。正しさなんてありません。悪者は真っ当な方法で罰せられません。真実なんて審らかに明らかにされません。全部なあなあで終わらせるんです。どうです?」
雪男は困ったような顔をする。ただ朴が自分たちを助けるために真っ当でないことをすると宣言されてしまった。雪男はまだ理解には程遠いが、(まだメフィストから朴が要求されたことを知らないからではあるが)、自分を庇うためにいわゆる世間でいう悪いことをすると言われた気の重さに眉を顰めてしまう。
「ぱ……朴さん。僕は今の段階でヴァチカンから正当な処罰を受けるわけにはいきませんが、あくまで僕は人間でいたいわけですけど。兄さんが完全に無事だと分かれば申し開きしようかとも考えてるわけだし。」
だからあなたがそんなに無理しなくてもと言おうとしたら、朴は駄目だと大声を上げた。
「先生は今回のことはお墓まで持っていくって約束して。先生が真っ当な方法で罰せられるのは私が許さない。」
「いや僕は真っ当でいたい人間なんだ。」
「だーめ。」
朴は絶対的な意思を持って雪男の真っ当さに対する最後の悪あがきを却下した。そこまで高圧的に言われると雪男の真っ当でいたいという意思も揺らいでくる。
「いいのかな……。僕は罰を受けなくても。」
「いいんだよ。まともに罰を受けない罪があったって。」
罪には罰という綺麗な論理を馬鹿にするような言葉に雪男は肩を竦めた。
「一号。二十機全て先回りに成功。一両目窓に燐君の姿を発見。電車は今も速度を保ったまま走り続けてる。」
朴はコックピットに行き三号に話しかける。
「先生が言うには世界が終わりになるような卵を所持しているらしいけど、そんなの持ってる?」
「カメラで見てみようか。あっ。なんか丸いものは抱えてるみたい。」
「燐君の確保もそうだけど、その前に燐君と交渉して卵を放棄させなきゃいけないみたい。」
「でないと世界の終わりってわけね。こわっ。そんじゃ、えーと一両目になるべく燐君が安全なように近づいてみなくちゃ。」
「頼むね。」
「はいはい。ぎりぎりまで高度下げるわね。」
「横着して地面に激突しないでよ。」
朴の言葉を聞いた三号は燐の乗った電車に近づいていった。
燐は一人きりの電車の窓から外を眺めていた。一人でいることには慣れていながら今までは孤独と苦痛しか感じることはなかったが、今はとんでもなく安らかで眠ってしまいそうになる。電車の振動が眠気を促している。自分の腕には愛しい卵がある。
「ゆき。電車が止まったとこに家建ててさ、お前が生まれたら俺はお前のことを大事に育てるから。お前のお母さんはお前のこと嫌いになっちゃったみたいだけど、それはほんとうに俺の……お父さんのことが好きだからそうなっちゃったんだよ。お前が悪いわけじゃない。」
燐は卵に話しかけている。「ゆき」というのは卵の中の子どもが生まれてくるまでの仮の名前だ。燐は卵にそう呼びかけることで少し生きる気力を取り戻していた。
「お父さんが強くならなくちゃな。六年間もお前と頑張ってきたんだから出来るさ。」
しかしその意思が導き出した行為は逃避。誰もそれを咎めて連れ戻すことも出来ない。
はずだった。
燐は目の前の光景にとろんと寝ぼけたような眼を見開いた。上空には青い空に不似合いな鉄の塊が電車と平行に飛んでいる。あまりニュースを注視せず聞き流すことの多い燐には、それが軍事用輸送機だと理解するのに多少の時間が掛かった。
その入り口部分から朴の姿が現れる。風速も強いのだろうか、朴の髪や服は風に煽られて滅茶苦茶になっている。軍事用輸送機とも相俟って異様な迫力を見せていた。
朴は手すりになる部分に掴まりながらこちらに向かってなにかを叫んでいる。
「…くん。」
「なんで朴が……」
呼びかけようが朴側の輸送機の巻き起こす風やらエンジン音で何も聞こえない。だから朴がここにいる理由を話していたとしても分かるわけがない。それでも燐は叫ばずにはいられなかった。
「お前なぜいるんだよ! 関係ねえだろうが!」
燐が叫ぶ光景を見下ろしていた朴は、後ろに控えていた雪男と、輸送機を自動操縦モードにしてこちらに来ている三号に声をかけた。
「先生。三号。手すりに掴まって後ろで私の背中掴んで。」
朴は二人に制服の背中を掴ませると手すりから両手を離した。朴は両手を前に翳して自分が落ちないことを確かめた。そのまま両手を前方に突きつける。所謂とまれのジェスチャーだが燐には理解されていないらしい。電車の速度は緩まない。朴は両手で握りこぶしを作るとファイティングポーズを取る。これは燐にも判別出来たようだ。
「俺がこの電車を止めないと実力で来るってことか。」
燐には理解出来なかった。たかが数ヶ月机を並べただけの同級生の朴がこんなことをする理由が分からない。幾ら夢の世界とはいえ理不尽過ぎる。前回のサルベージからの記憶が曖昧な燐だったが雪男は無事連れ戻されたらしい。多分朴によって。ならば今度連れ戻されるのは燐の番だ。
それは分かる。それでも燐は帰れない。卵も一緒に現実に帰れないことがわかっているから。自分が現実に戻れば卵はこの世界に置き去りにされる。六年間いや、それ以上の時間をこの世界に取り残された自分同様、置いていかれてしまうのだ。
「そんなこと出来るかよ……」
燐は大きな動きで首を横に振る。そして自分の気持ちを分かってくれと言わんばかりに、開け放たれた窓から身体を乗り出して獣のような雄叫びを上げた。
「うおおおぉおお!」
朴はかすかに聞こえた叫びに耳を塞ぐジェスチャーをする。そしてゆっくりと自分の腕を胸の前にクロスさせた。
「駄目なんだよ燐君。君には事前に真実を教えられないけど、私は有無を言わさず君の乗ってる電車を止めるから。」
朴は三号にサインを送って電車の前方に輸送機を飛ばした。それに続いて残り十九機も電車を追い抜き電車前方に速力を上げる。
朴は三号と雪男に引きずられて輸送機の中に戻っていた。
「ごめん。やっぱりやるしかないようだわ。」
「一号。私もう手が限界だったよ。」
「次は精神が限界になるからね。」
「あんた、やっぱりやる気?」
雪男は自分でも痺れそうになっていた手を擦りながら二人の朴のやり取りを聞いていた。朴は雪男に笑いかける。
「覚めない悪夢は、最高のブラクラ画像で飛び起きさせるしかないようだね。」
「ブラクラ画像……、なんですかそれ?」
「先生。ここから先は目を瞑ったほうが賢明だと思います。でもお兄さんと同じ光景を見る勇気があるならば見ていって下さい。これが朴朔子の本気ですから。」
朴は三号と共にコックピットに向かう。
「先生。どいてください。」
二十五人の朴が列を作って入り口に押しかけてきた。雪男は端に追いやられついには朴たちが待機していた座席に押し込められた。
輸送機の中に朴のアナウンスが木霊する。
「みんなー。これは夢だから死なないからね。一瞬だから怖くならないからね。」
この輸送機だけではない。雪男には聞こえないが全ての輸送機に朴のアナウンスが無線を伝って響いている。朴が持っていたマイクがもう一人の朴に引っ手繰られる。
「はーい。みんな、三号だよ。私が一番に飛び降りるからみんな間髪いれずそれに続くんだよ。」
再びマイクは朴に戻る。しかしその電源は切られていた。
「三号。あんた操縦は。」
「あー。他の子に変わってもらった。やっぱこういう作戦の切り込み隊長は私でないとね。」
「三号……あんた。」
コックピットのドアから一人の朴が入ってくる。
「二号だよ。三号と交代だったねえ。」
「あんたか!」
二号はいつもこんな感じだった。大変な作業をすぐ下位の三号に丸投げして、三号にかっこいいかつ大変な役目を譲ってしまう悪癖を持つ二号。そしてそつなくいつも一号を支える三号。どっちにしたって自分だが。これだから朴は自分が大好きなのだ。自分が複数いて同スペックで協力戦線を越えられる。これで自分を嫌いと言い出したら自分に申し訳ない。
「ほんじゃあ、景気良く頼むわよ。わたしたち!」
既に三号は入り口の最前列で機体の開け放たれたところから足を踏み外した。
うわあ! 雪男はその光景を声を上げて見ていた。
あっという間に制服姿の三号はパラシュートを広げ、電車の軌道上のレール部分に綺麗に着地する。電車と輸送機の距離は約一キロだった。三号は電車が迫ってくるのをにやりと笑いながらレール内に侵入して電車に向かって走った。その間も次々と朴たちが着地してはレール内に侵入する。それを燐は呆然と見ていた。
「あいつら……なにやって…」
軍事輸送機を用意するような女だから何か兵器を使うのか? そう頭に過ぎった。だがそれならレール上に待機しているのはおかしい。しかも電車を止められるような兵器の形すら見えない。
朴たちはおのおのパラシュートをその場に置き捨ててレール上に三列にぎゅうぎゅうに並んでいる。そして待機するだけだ。
燐は迷った。電車を止めなければ大変なことになるんじゃないかと。だが止めれば今度は自分は卵の「ゆき」と引き離されてしまう。卵を守るためには電車を走らせるしかない。
「大丈夫だ。あいつらのあれはただのハッタリだ。脅しなんだ。」
脅しで本当に電車に轢かれては元も子もない。燐は夢と現実の区別をせず判断した。
燐は夢と現実の区別がついてなかった。
「よける。よけるに決まってる。」
レールに降り立った三号は他の朴より百メートル先にいた。既に百五十人の朴は地面に降下している。そしてまた続々と輸送機は二十五人単位の朴を吐き出し続けている。
三号は走った。電車に向かって。
「とめてえ、みせる!」
燐は窓から身体を乗り出して、電車に向かって走ってくる朴を見ていた。
「よけろ! 馬鹿!」
言った途端にぐしゃっという嫌な音と、そのあと電車の車輪が何かを押しつぶした感触。そして燐の顔に人間の肉片の混じった血液が飛んできた。
朴三号は弾けた。電車にぶつかって。そしてその身体は電車の下に引き込まれ、血液は空中に四散した。朴の血液色の欠片が空中の酸素を取り込んで、鮮やかな紅を青い空に撒き散らす。
燐は自分の頬についた血を拭い取った。すぐさま手をふってそれを落とそうとする。
「ぎゃあ……」
慌てて電車の中に戻って卵に駆け寄り卵を通路の真ん中で蹲って抱きしめる。一両目電車の運転席から見える景色が今までののどかさから一変する。
運転席の窓が赤く染まった。まだ前方が見える窓の外に数百人の女子高生が待ち構えているのが見えた。
「あいつら…あいつら……まさか全員……」
未曾有の大惨事もいいとこだった。三号のようには駆け寄ってこないが女子高生の群れは電車に轢かれるのを待っている。そしてその止まらない電車はその女子高生の群れに突っ込むしかない。
飛び散る女子高生の身体。三号のように木っ端微塵でパーツが見えないのはまだいいところで、ガラスに張り付いてはまた落ち、また別の朴のものが張り付く足だとか腕だとか、それなら人形のものだと思い込めばいいが、あくまでその断面はそれが人間のものだと証明するように赤黒く燐に見せ付けている。
「やめろ! もうやめろっ。」
しかし電車はまだ四分の一の朴も押しつぶしていない。たかが女子高生の軽い身体だが電車にぶつかるその衝撃はやはり燐の身体に響いている。生身の人間が破壊される音が燐の耳に入る。しかも普段はコンパクトに収めている質量も体積も拡散してしまって、燐が思う以上の血液の量が電車を赤く染めている。
そして電車の駆動部分に肉やら血液やら骨片やら髪の毛やら、はては朴たちが身に付けていた衣服の繊維が食い込んできたのか、電車の速度は格段に落ちた。いや駆動部分の不調ではなく、燐の精神がこのグロテスクな光景に負けているようだった。
電車の速度が落ちるにつれ、朴のパーツも大きく残ってしまうものも出てきた。燐は忘れていた。窓を閉めることを。
「燐君……」
手を窓に引っ掛け顔をこちらに向けている朴が笑っている。速度の落ちている電車だ。もしかしたらあの惨劇から免れて、電車の車体に取り付くことに成功した朴もいるのかもしれない。燐は思わず卵を置いてそんな生存者に近づいた。
「おい。朴、あいつら避難させろよ。」
「えー……だめだよ。そんなことより燐君帰ろうよ。」
「そんなことよりは俺が言う台詞だ。すぐに引き上げてやるから。」
「引き上げても無駄だよ。」
燐は構わずに朴を引き上げた。その朴には下半身がなかった。
燐はもう声にならない。電車の通路に転がった朴はこと切れた。
「うわあ…うわっ。うわあああ!」
燐は這いずり回っている。そして自分にとって最善の状態に持っていくために、脳が意識をシャットダウンした。その瞬間には卵のことなど考えられなくなっていた。
燐が意識を失うと新たに何十人かの朴を巻き込んだが電車は急停車した。まだ前には百人ほどの朴が並んでいて、最後の二十五人が降下を終えるところだった。
輸送機二十機は垂直着陸してパイロット役の朴二十一人と朴一号と雪男は電車の中に乗り込んだ。電車のドアを壊したのも勿論、降魔バットだった。
「兄さん!」
雪男は青い顔をしながらも気丈に兄を抱きしめている。卵は急停車したときの衝撃で割れていた。燐が意識を失うことも燐と卵のリンクが切れたと解釈されたようだった。雪男は血の気が失せた顔を朴に向ける。
「あなたの本気っていうのは、こういうことだったんですね。大量の人間が破壊される地獄絵図を見せる。そうすることで強制的に目を覚まさせる。ショッキングな体験によって今まで起きた現実と夢の区別がつかないことを、完全に夢に収束させてしまう。すごい手際ですよ。普通の人間なら思いつかない。」
「先生。思いついても半端な情と偽善で出来ないだけですってば。私は他人の夢の中で制限ないだけですから思う存分やれただけで。私は現に飛び降りもせずに命令してただけでしょ?」
「全部あなたに跳ね返るくせに。」
朴の笑顔は少しぎくしゃくしている。一番に飛び降りた三号のことといい、自分が死ぬところを自分の目で見てしまうことは朴にしてもきつかった。たぶんひとつなぎになっている朴の精神なら、ひとりひとりの朴の死の瞬間を詳細に捉えてしまっていることだろう。そしてそれは朴の脳内に消えることなく残る。夢の中で自由になれるぶん、覚醒してもその夢の記憶は現実と変わらない。
「忘れられないなんて辛いですね。」
「でも夢なんだから。いつまでも内容が忘れられない悪夢もあるでしょ。でも笑い話にできるじゃん。」
そう言いながらも朴は震えている足を悟られないように、さりげなく座席に座ってみせた。雪男も兄を抱えて座席に座る。
「朴さん。朴さんがこの夢を忘れないなら、自らこの世界を作った僕もこの夢を忘れないんでしょうね。」
「そうだね。自分の意思で来て自分の意思で帰るからね。」
「そっか。兄さんに抱かれたこと覚えたまま、現実世界だとそんな事実はなかったことにして過ごさなくちゃいけないのか。」
雪男は微妙な顔をしていた。朴はにやにや笑っている。
「したいんだったら、現実世界で仕切りなおして関係持てばいいんじゃないの?」
「いやちょっと……また兄さんにいろいろ強制しそうで。しばらくは無理。」
「それでいいんじゃないのかな。」
雪男は朴に燐は今回のことで現実世界に支障はないのかと問いかけた。朴は大丈夫じゃないのかなと答える。
「電車を走り続けさせることの出来なかった燐君は、夢の世界での支配権を極端に失ったからね。志摩君の状態と似てるのかもしれないね。目覚める寸前の衝撃ばかりが先行してそれ以前を記憶出来ないような状態。だから燐君も私のぐちゃぐちゃ死体のことは覚えてないと思う。」
それでは、はい。朴は雪男にバットを手渡す。
「今回は撲殺でお願いします。」
撲殺のためのバットだったが、今回は破壊活動にも役立った。そんな思いの詰まったバットで雪男は正面から殴りかかろうとした。
「ちょっと待って。先生。あの教会の中で何か気がついたことはなかった?」
「何か気がついたこと?」
朴は何かあるべきものがなかったりした場所はなかったと問いかけてくる。
「私が自転車を拝借するとき、大量の教科書が物置に置いてあったんだよ。あれってこの世界での八十ヶ月、燐君がこつこつ勉強した形跡のあるノートも一緒だったんだ。」
「教科書なら……僕の机からごっそり消えてましたが。祓魔師関連なら。」
朴はネタばらしをする者特有のドヤ顔で雪男に嬉しいサプライズを告げる。
「燐君がこの世界に閉じこもったのが八十ヶ月。そしてプラスその前に先生といた四ヶ月。合計で八十四ヶ月。これって先生が祓魔師になるのに費やした七年間に相当しないかな? 燐君はけして、卵だけにかまけていたわけじゃないんだよ。先生のために一人ぼっちの時間を勉強して頑張ってたんだよ。先生と同じ祓魔師になるために。」
その推理を聞き終わると、雪男は間髪いれず朴に殴りかかってバットに脳漿を塗りたくりながら撲殺した。
わかりやすく嫉妬だった。
「なにもかも分かったようなことを言う。だから僕はあなたは嫌いなんだ。」
自分もあの本の消えた本棚を見れば気づけるはずだった。自分の子どもに固執した兄の心情を思えば、何をしていたかは歴然のはずだった。だけど自分は何も気づけなかった。
「だから僕は僕の言うとおりになる、分かりやすい兄さんを欲しがってしまったんだ。」
こんな分かりにくい深い愛情に気づけるはずがないんだから。
雪男は自分の持ってきた銃の銃口をこめかみに当てる。もうこんな世界はお終いにしなくちゃいけない。ご都合主義でありながら何もかもが叶えられない、こんな世界は。
パンっ!
雪男は電車の通路に倒れるはずだったが、床には何もなかった。座席にも燐はいないし、撲殺された朴の死体もなくなっていた。
とうとうこの夢には誰もいなくなってしまった。
ついに終わりました。あとはエピローグです。
正十字教会に向かって自転車を走らせていた朴は途中で公衆電話を見つけ、自転車をその脇に止めた。
「うふふ。とりあえず連絡手段を設置しといて良かったわ。さてそろそろ理事長が近隣に散らばっている私をかき集めたころかな。」
朴は単なる思い付きで公衆電話を設置したことを棚に上げながら自分で自分を褒め、十円玉を財布から出すと公衆電話に入れた。そして架空ラブホのフロントに電話を掛ける。
『はい。ホテルぱくぱくです。』
「なに勝手にホテルの名前決めてるのよ。」
『いや、のりのりでも良かったんだけど。』
「まあいいわ。どうかな? 理事長はちゃんと私の依頼を聞いてくれたかな。」
依頼と聞いた三号は言いよどむ。
『頼みごとは聞いてはくれたけど、それなりの成果を期待しますって言われちゃったよ。あの人に。』
「そう。」
そのくらいは常套句というか、決まりごとみたいな朴とメフィストの関係だった。しかしそれを共有している端末の三号の様子がおかしい。
『理事長は十分過ぎるくらいこっちの要望は叶えちゃってる。つまりは集められた私たちの数なんだけど。どんだけーって感じで。』
朴は自分の見積もりと三号の半ばびびっている声を天秤にかけてみた。これから起こることは、まだ朴にも予想がついていない。ただ燐がすんなりと現実世界に戻ってくれる可能性を朴は全く感じていない。その証拠に未だに朴は燐を連れた雪男と合流することが叶っていないからだ。兄か弟か。問題をややこしくしているのはどちらなのか分からないが、なんだか雪男のような気がする。
だから圧倒的な人数を揃える意味は十二分にある。三号がびびるような人数でもひょっとして足りなくなる可能性すらある。つまりそれは未曾有の大事件と混乱を意味する。
「ふうん。んで、何人くらい集まったって? ふん。そう。祭りを盛り上げるにはそれくらいは必要かもね。」
電話の向こうで三号は用心のために零号を呼んでおこうかと朴に提案した。朴はいらないときっぱりと言い放つ。
「頭数の中に零号を入れたら祭りを盛り上げても意味がなくなっちゃう。」
朴はそれじゃと言って電話を切るとまた自転車で走り出した。
* * *
雪男は伏せた睫の下の緑がかった青い目を自分の下にいる燐の痴態に向けていた。
燐はどうして自分がこんな仕打ちを受けているのかと言わんばかりに、絶望に濁った目で虚ろに雪男を見上げている。雪男は行為の前の激昂した自分や兄に対する嗜虐的な思いが冷めたように燐を見ている。雪男が見ているのはかつて燐の下で自分が喘いだ姿と二重写しの光景だった。しかし自分はその姿になってなんらかの充足感を感じていたのに、兄は全てを剥ぎ取られたかのように床に寝転がっている。
雪男は胃のあたりに疼痛を覚えて、またがっていた燐の身体から腰を浮かせた。燐の局部に埋めていた指を引き抜くと燐は背中を丸めて蹲り小さく嗚咽を漏らしている。雪男はそんな燐に自分の上着を着せかけ、自分は脱ぎ捨てた下着とスパッツを履いて、逃げるように一旦礼拝堂の外に出た。
なんだか自分がすごく虚しい行為に熱中していたような気がしてきた。彼女の言うように自分一人で兄を迎えに行かなければ良かったような気がする。
雪男は無性に一人になりたくて、どこに行っても一人だろうに教会の住居部分のかつての自分たちの部屋に足早に向かった。
扉を開けて中に入り懐かしい勉強机の前まで行き、手をついて俯いたとき、自分の机の上や本棚が空っぽになっていることに気づいた。そこには雪男が祓魔師の修行中に使った本がたくさんあったはずなのに、たった一冊すら見つからず全て消えていた。
雪男は首を捻りながらも、ここは現実と違うんだからしょうがないと安易に自分を納得させる。
「いるんだったら姿見せたら?」
ふと気配を感じて雪男がどことも知れず言葉を掛けると、二段ベッドの上の段の布団から、小動物的な姿の悪魔が机の上に飛び降りてきた。あの祓魔塾の箱の中に閉じ込められいた悪魔だった。雪男がメフィストを昏倒させるために使ったダミーの使い魔が雪男の前に姿を現したのだった。
「弟様。お久しぶりです。」
小さくて見ようによっては可愛い姿に似合わずに悪魔は成人男性の声で雪男に語りかける。
「お久しぶり。」
悪魔は雪男のことを「弟様」と呼ぶ。燐が「若君」ならその弟という意味だろう。雪男は忠実な悪魔に自分が引っかかっていることについて問いかける。
「あの卵。あれはまさか兄さんの言うように僕たちの子どもってわけじゃないよね?」
悪魔はぶんぶんと首を振る。
「若君には残念なことですが、あれからは子どもは生まれません。」
「じゃあなぜ、最初は手のひらサイズだったのに、抱えられるくらい大きくなってるの? 何が入っているの? あれには?」
雪男は礼拝堂に置き忘れた卵を回収しなかったことを後悔する。幾らいたたまれなかったとはいえ、もう少し冷静さがあれば兄から卵を没収出来るはずだった。そして卵の中身は子どもではなく得体のしれない何かだということは確実なようだ。
悪魔は端的に答える。
「ゲートですね。」
「あのサタンが作れるというあれと一緒? 卵が孵ったら虚無界にいけるわけ?」
悪魔はまた首を振る。雪男は自分の予想を口にする。
「僕の能力は人や悪魔の精神に干渉することで、その脳内に異次元空間を作り出してしまうこと。僕はその能力を自分とフェレス卿に使った。だからこの精神世界が物質界と異なりながらも異次元として存在出来る。」
「弟様は賢くていらっしゃいます。私が言わずともあの卵の正体にはお気づきでしょう。」
「そうだね。あれもここと同じような異次元空間を作り出すんだろうね。僕と兄さんが性交して僕から生まれて、兄さんに七年近く守られて育ったあかつきには、きっと物質界でも虚無界でもない世界が生まれるんだろうね。」
「どうやら物質界や虚無界より混沌として、どちらとも絶縁された世界ではないかと予想できるのです。若君と弟様との組み合わせが悪すぎたのです。真に残念ながら。」
「それは僕と兄さんが血縁だから?」
悪魔は短い手足で腕組をし、唸って困った顔をした。
「お二人とも悪魔として上級すぎるのです。弟様の場合能力が能力ですから、それに青い炎を継いだ若君の精を受けることで弟様が望まずとも能力が強制的に発動されたのでございます。」
雪男は悪魔の答えを聞いて予想通りだったなと肩を竦める。最初の交渉以来、雪男は常に兄に避妊具を使わせていた。自分の体内に精を受ければまた卵が生まれていたのは確かだったようだ。それを考えれば、あの卵はそういう側面で言えば兄の言うように子どもではあるのかもしれない。
「それで? あの卵を放置すればどうなるの?」
一応の問いではあるが雪男にはすでに予想がついていた。悪魔は示し合わせたように答える。
「何回も残念と申し上げてばかりですが、真に残念なことですが、あれほど成長した卵は単に放置しただけでは孵化してしまいます。」
「じゃあ、壊すことはできる?」
悪魔は瞼を硬く瞑り口ごもった。
「今、あの卵は若君の加護により守られている存在でございます。例え強制的に引き離せたとしても若君と卵のリンクを切ったことにはなりません。」
礼拝堂の中であんなに手荒に扱った割にはヒビ一つ入れられなかった卵のことを考えれば、兄と卵の間には切れがたい何かがあることは薄々感づいていた。たぶん雪男の銃弾をもってしてもあの卵は破壊出来なかったのだろう。もし礼拝堂から卵を持ち出せなかったとしても無駄だったということだ。
「ですから若君の加護を断ち切れば破壊も可能で御座います。しかしながら若君のこの空間での七年間は、あの卵に支えられていたようなものなのです。リンクはそうそう簡単に切れないことでしょう。」
「それなら、兄さんにあの卵を諦めさせればいいんだね。そうしないとあの卵の孵化によって出現したゲートが物質界にも虚無界にも影響を及ぼすんだろ。もともと混沌とした虚無界はどうにかなるかもしれないけど、虚無界からの侵攻を防御するのが精一杯な物質界は二重の脅威に晒されることだろうし。はっ。僕たちは本当になんて罪深いことをしてしまったんだろうね。」
「弟様。それこそが悪魔で御座います。わたくしは貴方が思い悩む行為こそ嬉しく思うのです。悪魔になってからの貴方は禍々しいほどに輝いてらっしゃいました。どうかこの先も貴方が思うままに選択して振る舞い、この世界を脅威にも救いにも振り回して欲しいものです。」
悪魔はとても嬉しそうに雪男を褒め称えた。それこそが悪魔の若君の弟君に相応しいと言わんばかりに。雪男はそんな悪魔に鼻白む。そして悪魔落ちをしたとはいえ、自分は人間側だという思いも込め悪魔に告げる。
「じゃあ。僕が産んでしまった卵を、僕の都合で破壊しても、お前は文句言わないわけだね?」
「貴方の生み出したものは貴方の所有物。思う存分それ相応の扱いをして下さいませ。」
悪魔は歯をむき出しに笑う。それは雪男に対して悪魔としてこれからもあり続けるように促さすような言葉だった。雪男はそれに反発したくなりつつも現実は悪魔のいうまま、自分の振る舞いのままなので言い返せない。
「とにかくもう一回兄さんを説得してみる。兄さんの卵に対する加護は兄さんが卵を諦めないと断ち切れないんだろ?」
雪男は悪魔に背を向ける。後ろの悪魔は残念そうにため息をついた。
「弟様。頑張ってくださいませ。恐らくかなりの困難を極めることでしょう。ご無理ならご無理でも致し方ないのです。物質界でも虚無界でもない世界が生まれるというのも、我々
悪魔にとっては歓迎するものなのです。」
雪男は顔を歪める。自分にとって忠実な悪魔でもやはり悪魔は悪魔だった。
雪男は再び礼拝堂に足を向ける。住居部の廊下の窓から、必死に礼拝堂の扉を開けようと奮闘した結果、バッドで扉をたたき続ける朴の姿を見つけた。
朴は振り向いて「あ、先生。」と手を振っていた。
雪男が駆け寄ると礼拝堂の扉はところどころへこんでいた。
「朴さん。教会内でそんなもん振り回さないでください。というか入り口門もそれで突破してきたわけですか?」
「そうだよ。この降魔剣改・降魔バットで。」
「そんなことしなくても僕なら開けられるんですから。今度は一緒に入りましょう。兄さんはここにいますから。」
「最初からそうしてくれれば良かったじゃないっ。」
朴はぜえぜえと息を吐きながら雪男に泣き言を言った。しかしこの世界での最終兵器である降魔剣改・降魔バットは、流石に燐が他者を排除するための二重の門の一つを破壊出来たようだった。
雪男は降魔バッドの性能に感心しながらも朴を横目にいとも簡単に扉を開けようとした。
「あれ?」
礼拝堂の扉は開かない。ドアノブが一ミリも動いてくれない。
「なんで?」
雪男の顔が真っ青になる。なんでなんて自分自身がよく分かってる癖に。
「先生。どいて。やっぱり私がやる。」
朴はいろいろと察しているように雪男を押しのけるとバット構えなおす。
「先生。一旦こっちに出てきたってことは、燐君となんかあったよね? 私が二人きりで会わないほうがいいって言ったのは、ひょっとしたらそうなるかもしれないって思ったからだよ。やっぱり予想は当たっちゃったんだね。」
朴は大きく振りかぶってバットを扉に叩きつける。中から燐の言葉にならない金切り声が聞こえる。朴は中にいる燐に呼びかける。
「燐君。あんまり手荒なことはしたくないんだ。頼むから出てきてくれないかな?」
「朴さん。ちょっと兄さんと言い合いになって僕が無理強いしてしまったせいで、兄さんは今混乱しているんだ。」
雪男は朴の腕を掴んで朴を制止しようとする。しかし朴はまた降魔バットで扉を破壊しにかかる。
「無理強いしてしまったなら、最後まで無理強いでいこうよ。」
「駄目だ朴さん。そんなことしたら卵を守っている兄の力が余計に強くなる。」
「卵? なにそれ?」
「……兄さんが、僕と兄さんの子どもだと思い込んでいるもの。」
雪男は無意識ながら真実そのままを話せなかった。朴が躊躇している内に礼拝堂内から音が聞こえる。それを聞きつけた朴ははっと我に帰ると、最後の一撃とばかりに扉にバットを叩きつけた。
扉は朴と雪男を吹き飛ばすように観音開きに開け放たれる。
「兄さん!」「燐君!」
二人の視界には卵を抱きかかえて二人を怯えたように見る燐の姿があった。中の光景は未だに礼拝堂のようだが、燐の立ち姿を見るとまるで別の場所のように見える。朴と雪男に対して身体を横に向けて、何かを待っているその姿を捉えた。
「やばい。燐君がこの精神世界を自由に操る力を習得しているのかもしんない!」
旧・男子寮の場所に教会を入れ替わりに出現させ、そこで六年間過ごしていたという事実からして、また燐がその力を使ってこの場所を変化させにかかっていると朴は直感する。燐の立ち姿は自分でも見に覚えがある姿なのだが、いったいどこで見たか、自らその姿をしたか、まったくもって思い出せない。
「先生!」
「はい!」
朴と雪男は同時に燐に駆け寄ろうとする。とりあえず考えるより気力の薄い燐を捕らえるほうがいいと判断した。
しかし状況は一変する。燐のいる範囲がいきなりせりあがった。コンクリートの無機質な塊。そしてその下に礼拝堂を縦断してレールが敷かれている。
「思い出した! プラットホームで電車を待つ人だあれは。」
礼拝堂の壁がプラットホームの壁になる。そして祭壇を押しつぶしながらローカル線の電車がこちらに向けて走ってきた。二人は電車に轢かれないようにレールの外に外れる。
「兄さん!」
雪男が叫んでも燐は振り向かない。止まった電車のドアが開く音がする。そして燐は自分だけの無人の電車に乗り込んだ。
『発車致します。』
無機質なアナウンスが流れ電車は走り出す。朴と雪男が見るプラットホームには誰もいなかった。燐は教会内を駅に作り変え、逃走用に電車を作り出した。その今起こった事実に雪男は愕然としていた。
「兄さんが僕たちから逃げた……」
「ああ、そうだね。何もかもから燐君は逃げたくなったんだね。電車か。やるなあ、サタンの息子。」
「兄さんは弱い人間じゃないのに……」
「それは現実の世界ではだよ。ここは人間の弱さが浮き彫りにされる場所なんだ。先生にも見に覚えがあるでしょ。先生も燐君を巻き込んで現実世界から逃げようとしたんじゃなかったっけ? 燐君一人だったらそこまで弱くなくても、先生に引きずられたっていう線もあるよ。」
「全部僕が悪いって言うんですか!」
「全部とは言ってないよ。だけどほとんど全部だよね。だからね。私はちょっと残酷なことして燐君を引き止めて引き上げるつもりだから、それは許してくれるよね?」
雪男は口を固く閉ざして唇をかみ締める。朴は燐の大掛かりな逃走劇から早くも冷静になってこれからするべきアクションを考え出した。
「巨大な乗り物の召喚も燐君のお陰で可能だって分かったから。」
朴は青い空を仰ぎ見る。今頃燐はどことも宛てもなく伸びるレールに沿って逃げ続けているのだろう。あっけらかんと明るく晴れた景色の中、どことも分からない場所に逃げて心安らかになりたがっているのだろう。
「あの卵は、孵化すると物質界にとって脅威になるものが生まれてくるんです。」
今更ながらに雪男は朴と目を合わせないように俯いて自分の更なる罪を告白する。
「やっと正直に話してくれたね。」
「もうたぶんあまり時間がないです。早く破壊しないと。」
そうだね。と朴は淡々と答える。
「朴さん。僕はどうしたら……」
「もう、なにもするな。」
朴は苛立ったように雪男に言い放つ。しかし思い直したように少し言葉を和らげた。
「先生はもう何もしなくていいから。全部私に任せて。そんで現実に帰ってこれたら、後腐れなく目を覚ました燐君におはようって言ってあげて。怖い夢を見たって言ってきたら、平気な顔をして夢だよって言ってあげて。」
「それは僕たちに普通の兄弟に戻れってことですよね。この世界のことはなかったことにしろってことですよね。」
「出来るでしょ。先生なら。燐君を守るためなら。兄弟で愛し合うこともなかった。絶望することもなかった。一人ぼっちで取り残されることもなかった。世界の災いの種なんてなかった。」
青い空に黒い影が幾つも浮かぶ。それは自衛隊やら兵器に関するニュースでしか見たこと無いような垂直離着陸型大型輸送機だった。
「三号が上手いこと察してやってくれたようだね。」
その中の一機が雪男たちから百メートル離れたところに教会を形作る木々や墓石やレンガなどの上に降り立った。もはや教会は瓦礫の山と化していた。
「一号。朴朔子現在五百名集合しました。大型輸送機二十機にて作戦待ちであります。どうぞ指示を。」
三号が輸送機から朴に告げる。朴は悠々と雪男の手を引きながら輸送機の中に入った。
「それじゃあ、朴朔子史上最大の作戦やらかしちゃおうかな。この輸送機軍団二十機で、このレール見えるよね? この轍を辿って、いや先回りするか。対面したほうが後から追うより、前方で待ち受けたほうがインパクト強いよね。出来るかぎり全速前進で。目下逃亡中の燐君を乗せた電車の先回りをして待ち伏せる。」
「そんなこと出来るんですか?」
雪男の不安そうな顔に朴はちっちと指を振る。
「地上を走る電車より、空を飛べる飛行機のほうが移動の幅は広いんだよ。」
「いやそういうことじゃなくて。これを操縦しているのも貴方の中の一人だっていうことでしょ? ちゃんと飛べるんですか。」
「私はやればできる子だよ。というか、やるときはやる子だよ。飛行機ぐらい飛ばせて当然なんだから。それとも夢の世界なのに死ぬのが怖いのかな?」
雪男はしかめっ面になって問いかけることすらやめた。二人で乗り込んで待機中の一機に、搭載されていると言わんばかりに揃った二十五人の朴と対面する。雪男はその異常な光景にほんの少し顔色をなくした。
「この朴さんたちはどうしたのですか。」
「理事長に集めてもらったんだよ。お得意の時と空間を操る能力でね。」
朴たちは誂えたように正十字学園の制服を着ている。たぶんメフィストのおたく趣味による演出のうちだろう。そして背中にパラシュートらしきリュックを背負っている。
朴は次にコックピットにいる三号のもとに雪男を連れていく。
「三号。おつかれ。もう少しお仕事頑張って。」
「分かってるよ一号。それじゃぼちぼち燐君の乗った電車に先回りするから。」
朴たちを乗せた輸送機が垂直離陸し始める。
「燐君が乗ったのがローカル線の電車で良かったよ。もし新幹線だったりもっと速く走れる乗り物だったりしたら厄介だったろうからね。」
「兄さんはあなたほど過激じゃないですから。」
雪男にしてもまさか軍用機を使って兄を追跡する日が来るとは思わなかった。どうせこの女のことだからうけ狙いも兼ねているのだろう。
「呆れてるでしょ。私のやり方。」
「今回の僕のやり方よりずっと上等だとは思いますよ。」
朴はかすかに笑うと自嘲気味に雪男に語りかける。
「私には先生にとっての燐君みたいな、目の上のたんこぶみたいな奴が一人いるんです。ぶっちゃけ姉なんですけどね。私たちはそいつのことを零号って呼んでいるんです。朔(いち)の前の零。私は要するにナンバリングされた一から九千九百九十九で、たった一人の零をハブにして目の敵にしちゃってる、せこい妹をやってるわけで。それでも九千九百九十九の朔(いち)の私は、零に絶対勝てない。それは零が圧倒的に正当で正義だからなんです。」
雪男はこんな状況でそんな話がどう関係するのだろうと首を傾げる。朴はそんな雪男に照れたようにうっすらと笑みを浮かべる。
「いや。私の恥ずかしい話もたまには誰かに聞いてもらわないと。」
「つまりあなたにも僕と同じようなジレンマがあると言いたいんですね。」
「まあ私も九千九百超を従えているとはいえ、妹に生まれたというのは変えられない事実でして。しかも私の前の零に明らかに劣っているわけで。おまけに私のやることは正当性のないイカサマばかりだし。だけどね先生。私は正しさなんてなんぼのもんだって思うんです。」
朴は正しさではこの兄弟は救われるどころか、正当性をかさに来た人間によって地獄に落とされること重々承知していた。
「これからやることは私の初にして一世一代のイカサマ大舞台なんです。大義があるとすれば兄思いの弟がやらかした罪を馬鹿騒ぎで誤魔化すことで、ある兄弟を不幸にしないだけのことです。正しさなんてありません。悪者は真っ当な方法で罰せられません。真実なんて審らかに明らかにされません。全部なあなあで終わらせるんです。どうです?」
雪男は困ったような顔をする。ただ朴が自分たちを助けるために真っ当でないことをすると宣言されてしまった。雪男はまだ理解には程遠いが、(まだメフィストから朴が要求されたことを知らないからではあるが)、自分を庇うためにいわゆる世間でいう悪いことをすると言われた気の重さに眉を顰めてしまう。
「ぱ……朴さん。僕は今の段階でヴァチカンから正当な処罰を受けるわけにはいきませんが、あくまで僕は人間でいたいわけですけど。兄さんが完全に無事だと分かれば申し開きしようかとも考えてるわけだし。」
だからあなたがそんなに無理しなくてもと言おうとしたら、朴は駄目だと大声を上げた。
「先生は今回のことはお墓まで持っていくって約束して。先生が真っ当な方法で罰せられるのは私が許さない。」
「いや僕は真っ当でいたい人間なんだ。」
「だーめ。」
朴は絶対的な意思を持って雪男の真っ当さに対する最後の悪あがきを却下した。そこまで高圧的に言われると雪男の真っ当でいたいという意思も揺らいでくる。
「いいのかな……。僕は罰を受けなくても。」
「いいんだよ。まともに罰を受けない罪があったって。」
罪には罰という綺麗な論理を馬鹿にするような言葉に雪男は肩を竦めた。
「一号。二十機全て先回りに成功。一両目窓に燐君の姿を発見。電車は今も速度を保ったまま走り続けてる。」
朴はコックピットに行き三号に話しかける。
「先生が言うには世界が終わりになるような卵を所持しているらしいけど、そんなの持ってる?」
「カメラで見てみようか。あっ。なんか丸いものは抱えてるみたい。」
「燐君の確保もそうだけど、その前に燐君と交渉して卵を放棄させなきゃいけないみたい。」
「でないと世界の終わりってわけね。こわっ。そんじゃ、えーと一両目になるべく燐君が安全なように近づいてみなくちゃ。」
「頼むね。」
「はいはい。ぎりぎりまで高度下げるわね。」
「横着して地面に激突しないでよ。」
朴の言葉を聞いた三号は燐の乗った電車に近づいていった。
燐は一人きりの電車の窓から外を眺めていた。一人でいることには慣れていながら今までは孤独と苦痛しか感じることはなかったが、今はとんでもなく安らかで眠ってしまいそうになる。電車の振動が眠気を促している。自分の腕には愛しい卵がある。
「ゆき。電車が止まったとこに家建ててさ、お前が生まれたら俺はお前のことを大事に育てるから。お前のお母さんはお前のこと嫌いになっちゃったみたいだけど、それはほんとうに俺の……お父さんのことが好きだからそうなっちゃったんだよ。お前が悪いわけじゃない。」
燐は卵に話しかけている。「ゆき」というのは卵の中の子どもが生まれてくるまでの仮の名前だ。燐は卵にそう呼びかけることで少し生きる気力を取り戻していた。
「お父さんが強くならなくちゃな。六年間もお前と頑張ってきたんだから出来るさ。」
しかしその意思が導き出した行為は逃避。誰もそれを咎めて連れ戻すことも出来ない。
はずだった。
燐は目の前の光景にとろんと寝ぼけたような眼を見開いた。上空には青い空に不似合いな鉄の塊が電車と平行に飛んでいる。あまりニュースを注視せず聞き流すことの多い燐には、それが軍事用輸送機だと理解するのに多少の時間が掛かった。
その入り口部分から朴の姿が現れる。風速も強いのだろうか、朴の髪や服は風に煽られて滅茶苦茶になっている。軍事用輸送機とも相俟って異様な迫力を見せていた。
朴は手すりになる部分に掴まりながらこちらに向かってなにかを叫んでいる。
「…くん。」
「なんで朴が……」
呼びかけようが朴側の輸送機の巻き起こす風やらエンジン音で何も聞こえない。だから朴がここにいる理由を話していたとしても分かるわけがない。それでも燐は叫ばずにはいられなかった。
「お前なぜいるんだよ! 関係ねえだろうが!」
燐が叫ぶ光景を見下ろしていた朴は、後ろに控えていた雪男と、輸送機を自動操縦モードにしてこちらに来ている三号に声をかけた。
「先生。三号。手すりに掴まって後ろで私の背中掴んで。」
朴は二人に制服の背中を掴ませると手すりから両手を離した。朴は両手を前に翳して自分が落ちないことを確かめた。そのまま両手を前方に突きつける。所謂とまれのジェスチャーだが燐には理解されていないらしい。電車の速度は緩まない。朴は両手で握りこぶしを作るとファイティングポーズを取る。これは燐にも判別出来たようだ。
「俺がこの電車を止めないと実力で来るってことか。」
燐には理解出来なかった。たかが数ヶ月机を並べただけの同級生の朴がこんなことをする理由が分からない。幾ら夢の世界とはいえ理不尽過ぎる。前回のサルベージからの記憶が曖昧な燐だったが雪男は無事連れ戻されたらしい。多分朴によって。ならば今度連れ戻されるのは燐の番だ。
それは分かる。それでも燐は帰れない。卵も一緒に現実に帰れないことがわかっているから。自分が現実に戻れば卵はこの世界に置き去りにされる。六年間いや、それ以上の時間をこの世界に取り残された自分同様、置いていかれてしまうのだ。
「そんなこと出来るかよ……」
燐は大きな動きで首を横に振る。そして自分の気持ちを分かってくれと言わんばかりに、開け放たれた窓から身体を乗り出して獣のような雄叫びを上げた。
「うおおおぉおお!」
朴はかすかに聞こえた叫びに耳を塞ぐジェスチャーをする。そしてゆっくりと自分の腕を胸の前にクロスさせた。
「駄目なんだよ燐君。君には事前に真実を教えられないけど、私は有無を言わさず君の乗ってる電車を止めるから。」
朴は三号にサインを送って電車の前方に輸送機を飛ばした。それに続いて残り十九機も電車を追い抜き電車前方に速力を上げる。
朴は三号と雪男に引きずられて輸送機の中に戻っていた。
「ごめん。やっぱりやるしかないようだわ。」
「一号。私もう手が限界だったよ。」
「次は精神が限界になるからね。」
「あんた、やっぱりやる気?」
雪男は自分でも痺れそうになっていた手を擦りながら二人の朴のやり取りを聞いていた。朴は雪男に笑いかける。
「覚めない悪夢は、最高のブラクラ画像で飛び起きさせるしかないようだね。」
「ブラクラ画像……、なんですかそれ?」
「先生。ここから先は目を瞑ったほうが賢明だと思います。でもお兄さんと同じ光景を見る勇気があるならば見ていって下さい。これが朴朔子の本気ですから。」
朴は三号と共にコックピットに向かう。
「先生。どいてください。」
二十五人の朴が列を作って入り口に押しかけてきた。雪男は端に追いやられついには朴たちが待機していた座席に押し込められた。
輸送機の中に朴のアナウンスが木霊する。
「みんなー。これは夢だから死なないからね。一瞬だから怖くならないからね。」
この輸送機だけではない。雪男には聞こえないが全ての輸送機に朴のアナウンスが無線を伝って響いている。朴が持っていたマイクがもう一人の朴に引っ手繰られる。
「はーい。みんな、三号だよ。私が一番に飛び降りるからみんな間髪いれずそれに続くんだよ。」
再びマイクは朴に戻る。しかしその電源は切られていた。
「三号。あんた操縦は。」
「あー。他の子に変わってもらった。やっぱこういう作戦の切り込み隊長は私でないとね。」
「三号……あんた。」
コックピットのドアから一人の朴が入ってくる。
「二号だよ。三号と交代だったねえ。」
「あんたか!」
二号はいつもこんな感じだった。大変な作業をすぐ下位の三号に丸投げして、三号にかっこいいかつ大変な役目を譲ってしまう悪癖を持つ二号。そしてそつなくいつも一号を支える三号。どっちにしたって自分だが。これだから朴は自分が大好きなのだ。自分が複数いて同スペックで協力戦線を越えられる。これで自分を嫌いと言い出したら自分に申し訳ない。
「ほんじゃあ、景気良く頼むわよ。わたしたち!」
既に三号は入り口の最前列で機体の開け放たれたところから足を踏み外した。
うわあ! 雪男はその光景を声を上げて見ていた。
あっという間に制服姿の三号はパラシュートを広げ、電車の軌道上のレール部分に綺麗に着地する。電車と輸送機の距離は約一キロだった。三号は電車が迫ってくるのをにやりと笑いながらレール内に侵入して電車に向かって走った。その間も次々と朴たちが着地してはレール内に侵入する。それを燐は呆然と見ていた。
「あいつら……なにやって…」
軍事輸送機を用意するような女だから何か兵器を使うのか? そう頭に過ぎった。だがそれならレール上に待機しているのはおかしい。しかも電車を止められるような兵器の形すら見えない。
朴たちはおのおのパラシュートをその場に置き捨ててレール上に三列にぎゅうぎゅうに並んでいる。そして待機するだけだ。
燐は迷った。電車を止めなければ大変なことになるんじゃないかと。だが止めれば今度は自分は卵の「ゆき」と引き離されてしまう。卵を守るためには電車を走らせるしかない。
「大丈夫だ。あいつらのあれはただのハッタリだ。脅しなんだ。」
脅しで本当に電車に轢かれては元も子もない。燐は夢と現実の区別をせず判断した。
燐は夢と現実の区別がついてなかった。
「よける。よけるに決まってる。」
レールに降り立った三号は他の朴より百メートル先にいた。既に百五十人の朴は地面に降下している。そしてまた続々と輸送機は二十五人単位の朴を吐き出し続けている。
三号は走った。電車に向かって。
「とめてえ、みせる!」
燐は窓から身体を乗り出して、電車に向かって走ってくる朴を見ていた。
「よけろ! 馬鹿!」
言った途端にぐしゃっという嫌な音と、そのあと電車の車輪が何かを押しつぶした感触。そして燐の顔に人間の肉片の混じった血液が飛んできた。
朴三号は弾けた。電車にぶつかって。そしてその身体は電車の下に引き込まれ、血液は空中に四散した。朴の血液色の欠片が空中の酸素を取り込んで、鮮やかな紅を青い空に撒き散らす。
燐は自分の頬についた血を拭い取った。すぐさま手をふってそれを落とそうとする。
「ぎゃあ……」
慌てて電車の中に戻って卵に駆け寄り卵を通路の真ん中で蹲って抱きしめる。一両目電車の運転席から見える景色が今までののどかさから一変する。
運転席の窓が赤く染まった。まだ前方が見える窓の外に数百人の女子高生が待ち構えているのが見えた。
「あいつら…あいつら……まさか全員……」
未曾有の大惨事もいいとこだった。三号のようには駆け寄ってこないが女子高生の群れは電車に轢かれるのを待っている。そしてその止まらない電車はその女子高生の群れに突っ込むしかない。
飛び散る女子高生の身体。三号のように木っ端微塵でパーツが見えないのはまだいいところで、ガラスに張り付いてはまた落ち、また別の朴のものが張り付く足だとか腕だとか、それなら人形のものだと思い込めばいいが、あくまでその断面はそれが人間のものだと証明するように赤黒く燐に見せ付けている。
「やめろ! もうやめろっ。」
しかし電車はまだ四分の一の朴も押しつぶしていない。たかが女子高生の軽い身体だが電車にぶつかるその衝撃はやはり燐の身体に響いている。生身の人間が破壊される音が燐の耳に入る。しかも普段はコンパクトに収めている質量も体積も拡散してしまって、燐が思う以上の血液の量が電車を赤く染めている。
そして電車の駆動部分に肉やら血液やら骨片やら髪の毛やら、はては朴たちが身に付けていた衣服の繊維が食い込んできたのか、電車の速度は格段に落ちた。いや駆動部分の不調ではなく、燐の精神がこのグロテスクな光景に負けているようだった。
電車の速度が落ちるにつれ、朴のパーツも大きく残ってしまうものも出てきた。燐は忘れていた。窓を閉めることを。
「燐君……」
手を窓に引っ掛け顔をこちらに向けている朴が笑っている。速度の落ちている電車だ。もしかしたらあの惨劇から免れて、電車の車体に取り付くことに成功した朴もいるのかもしれない。燐は思わず卵を置いてそんな生存者に近づいた。
「おい。朴、あいつら避難させろよ。」
「えー……だめだよ。そんなことより燐君帰ろうよ。」
「そんなことよりは俺が言う台詞だ。すぐに引き上げてやるから。」
「引き上げても無駄だよ。」
燐は構わずに朴を引き上げた。その朴には下半身がなかった。
燐はもう声にならない。電車の通路に転がった朴はこと切れた。
「うわあ…うわっ。うわあああ!」
燐は這いずり回っている。そして自分にとって最善の状態に持っていくために、脳が意識をシャットダウンした。その瞬間には卵のことなど考えられなくなっていた。
燐が意識を失うと新たに何十人かの朴を巻き込んだが電車は急停車した。まだ前には百人ほどの朴が並んでいて、最後の二十五人が降下を終えるところだった。
輸送機二十機は垂直着陸してパイロット役の朴二十一人と朴一号と雪男は電車の中に乗り込んだ。電車のドアを壊したのも勿論、降魔バットだった。
「兄さん!」
雪男は青い顔をしながらも気丈に兄を抱きしめている。卵は急停車したときの衝撃で割れていた。燐が意識を失うことも燐と卵のリンクが切れたと解釈されたようだった。雪男は血の気が失せた顔を朴に向ける。
「あなたの本気っていうのは、こういうことだったんですね。大量の人間が破壊される地獄絵図を見せる。そうすることで強制的に目を覚まさせる。ショッキングな体験によって今まで起きた現実と夢の区別がつかないことを、完全に夢に収束させてしまう。すごい手際ですよ。普通の人間なら思いつかない。」
「先生。思いついても半端な情と偽善で出来ないだけですってば。私は他人の夢の中で制限ないだけですから思う存分やれただけで。私は現に飛び降りもせずに命令してただけでしょ?」
「全部あなたに跳ね返るくせに。」
朴の笑顔は少しぎくしゃくしている。一番に飛び降りた三号のことといい、自分が死ぬところを自分の目で見てしまうことは朴にしてもきつかった。たぶんひとつなぎになっている朴の精神なら、ひとりひとりの朴の死の瞬間を詳細に捉えてしまっていることだろう。そしてそれは朴の脳内に消えることなく残る。夢の中で自由になれるぶん、覚醒してもその夢の記憶は現実と変わらない。
「忘れられないなんて辛いですね。」
「でも夢なんだから。いつまでも内容が忘れられない悪夢もあるでしょ。でも笑い話にできるじゃん。」
そう言いながらも朴は震えている足を悟られないように、さりげなく座席に座ってみせた。雪男も兄を抱えて座席に座る。
「朴さん。朴さんがこの夢を忘れないなら、自らこの世界を作った僕もこの夢を忘れないんでしょうね。」
「そうだね。自分の意思で来て自分の意思で帰るからね。」
「そっか。兄さんに抱かれたこと覚えたまま、現実世界だとそんな事実はなかったことにして過ごさなくちゃいけないのか。」
雪男は微妙な顔をしていた。朴はにやにや笑っている。
「したいんだったら、現実世界で仕切りなおして関係持てばいいんじゃないの?」
「いやちょっと……また兄さんにいろいろ強制しそうで。しばらくは無理。」
「それでいいんじゃないのかな。」
雪男は朴に燐は今回のことで現実世界に支障はないのかと問いかけた。朴は大丈夫じゃないのかなと答える。
「電車を走り続けさせることの出来なかった燐君は、夢の世界での支配権を極端に失ったからね。志摩君の状態と似てるのかもしれないね。目覚める寸前の衝撃ばかりが先行してそれ以前を記憶出来ないような状態。だから燐君も私のぐちゃぐちゃ死体のことは覚えてないと思う。」
それでは、はい。朴は雪男にバットを手渡す。
「今回は撲殺でお願いします。」
撲殺のためのバットだったが、今回は破壊活動にも役立った。そんな思いの詰まったバットで雪男は正面から殴りかかろうとした。
「ちょっと待って。先生。あの教会の中で何か気がついたことはなかった?」
「何か気がついたこと?」
朴は何かあるべきものがなかったりした場所はなかったと問いかけてくる。
「私が自転車を拝借するとき、大量の教科書が物置に置いてあったんだよ。あれってこの世界での八十ヶ月、燐君がこつこつ勉強した形跡のあるノートも一緒だったんだ。」
「教科書なら……僕の机からごっそり消えてましたが。祓魔師関連なら。」
朴はネタばらしをする者特有のドヤ顔で雪男に嬉しいサプライズを告げる。
「燐君がこの世界に閉じこもったのが八十ヶ月。そしてプラスその前に先生といた四ヶ月。合計で八十四ヶ月。これって先生が祓魔師になるのに費やした七年間に相当しないかな? 燐君はけして、卵だけにかまけていたわけじゃないんだよ。先生のために一人ぼっちの時間を勉強して頑張ってたんだよ。先生と同じ祓魔師になるために。」
その推理を聞き終わると、雪男は間髪いれず朴に殴りかかってバットに脳漿を塗りたくりながら撲殺した。
わかりやすく嫉妬だった。
「なにもかも分かったようなことを言う。だから僕はあなたは嫌いなんだ。」
自分もあの本の消えた本棚を見れば気づけるはずだった。自分の子どもに固執した兄の心情を思えば、何をしていたかは歴然のはずだった。だけど自分は何も気づけなかった。
「だから僕は僕の言うとおりになる、分かりやすい兄さんを欲しがってしまったんだ。」
こんな分かりにくい深い愛情に気づけるはずがないんだから。
雪男は自分の持ってきた銃の銃口をこめかみに当てる。もうこんな世界はお終いにしなくちゃいけない。ご都合主義でありながら何もかもが叶えられない、こんな世界は。
パンっ!
雪男は電車の通路に倒れるはずだったが、床には何もなかった。座席にも燐はいないし、撲殺された朴の死体もなくなっていた。
とうとうこの夢には誰もいなくなってしまった。
ついに終わりました。あとはエピローグです。
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☆「続・super scription of data」中篇⑤ 燐雪R18
注意書きです。
りば的表現あります。(兄さんの心が折れるレベル)
朴さんに関する中二設定あります。
朴が息を荒げてフロントにたどり着くと朴三号が壁にもたれて立っていた。やさぐれたようにその身体をだるそうに朴のほうに向ける。朴は嫌な予感に眉根を寄せた。
「三号。外からのサポートだけでも十分なのに。わざわざ入ってきたんだ。」
「一号。理事長から伝言。」
「えー……。」
悪い予感は的中した。三号は限りなく言いにくそうに自分の絶対的なリーダーに告げる。
「気持ちは分かるけど聞いて。」
『フロイライン朔子にこの私からたってのお願いが。』
メフィストはそう言って朴二号の前で会釈をした。
それが今から五分前の出来事だった。朴三号は二号に押し付けられた伝言を改めて押し付けられ、雪男と朴が歩いてきた長いトンネルを抜けて、このラブホのフロントで朴一号がサルベージを終えるまで待っていようとした矢先だった。
「なんかサルベージ終わってなくない?」
「いや、いろいろと予想外なことが起きてんだよ。」
「なんだ。そっちもトラぶってったってわけ? 追い討ちかけるようで悪いけど、メフィストフェレス自ら出向いての依頼だからね。一応聞いてね。」
朴はうんざりして嫌そうに身体をくねくねとゆすっている。誰が見てもうざいと感じるさりげない駄々のこねかただった。
「あの人今謹慎中じゃなかったっけ?」
「一号。くねくねしないで。ことが動けばあの人って異様に聡いから、今回のことを嗅ぎ付けて謹慎を終了させたんじゃないの。どうせ自主的にやってて拘束力もないことだし。」
どうやら自分達が雪男の精神世界、元男子寮、現南十字教会に行っている間に、何事か嗅ぎつけた理事長ことメフィストが朴に何か頼みたいらしい。どうせろくなことではないのだろうが、嗅ぎつけられたからには無視するわけにはいかない。雪男と共に精神世界に同行することは、雪男にしてみても、朴にしてみても、知られないようにはしていたはずなのに。
「ドアの前にいた二号を祓魔塾の講師に目撃されちゃって。」
「あいつ時々とろいよね。」
「その言葉、まんま自分に跳ね返るから。」
朴は自分の教会での不手際の顛末を思い返して、そうだったと反省する。
「見張りが仇になっちゃったか。」
「それで伝言なんだけど。前回のサルベージで一号がモニターした時のデータを理事長に伝えたら、観測結果に空白の時間が幾らか見られたから、その空白の時間に何か起きていたのなら知らせて欲しいことと、正十字学園での理事長と奥村先生を襲った悪魔のテロの首謀者が、奥村先生であるという言質を取れだってさ。」
「言質は取れてるけど、絶対内緒にするって約束だからちょっとそれ不味いんだけど。」
三号はそういうわけにはいかないかもと肩を竦める。
「エンジェルさんから燐君の状況が理事長に伝えられたらしいんだよ。」
「でもそれは先生に取り込まれていた魔障の後遺症だって誤魔化すことも出来るよね。」
どうやらメフィストは朴の曖昧な報告の、曖昧な部分の全てを明らかにさせたいらしい。たかが小娘にどんなプレッシャーを与えるんだと朴は思った。
「一号の言い分は分かるよ。だけど、あの人にあんまり隠し事しない方がいいんじゃない?」
「でもあの人に全てを知られてるっていうのも、ちょっと……」
「でも私達は祓魔師や悪魔について齧った程度の知識しかないんだよ。何か誤魔化せば簡単に別のところで綻びは出る。それに言質を取れって言ってきてるんだから、大体の真相を知ってるってことじゃない。」
「でもその理事長の推測を私が裏づけを取ったって形は避けたいの。」
朴は自分と同じ自分に対して言い返している状況にはっと我に返る。
「いや私達同じ朴朔子なんだから。こうやって言い合いになって揉めちゃうなんてあり得ないじゃない。」
「一号落ち着け。人間には葛藤っていう自分の中だけの揉め事がしょっちゅうあるから。私達は数に頼って今までそれがなかったって話で、つまり一万人いようが処理出来ない問題なんだよこれは。」
「えー? そんなの大変過ぎる。そういうことを私が解決しなくちゃいけないの? 幾ら先生や燐君がほっとけないからって重すぎ。私の本命は出雲ちゃんだよ。エッチも出来ないような男の子のために、なんで私が。」
三号はちっちっちと指を振る。
「今まで数に驕ってきた私達への試練かもしれないね。朴朔子という種族はこれを機会に進化するか衰退するかの分岐に立たされている。かもしれない。それに同一思考の朴朔子の一万分の一のなかにいるじゃない。一号と正反対の絶対に交わることのない平行線のあの子。」
「零号か。っけ。」
朴は同じ正十字学園にいながら意識して顔すら合わせないようにしている自分のことを思い出す。
自分と違って正統の塊。正直でいかさまなんぞ考えず、なあなあを許さず、貞操も堅固な、尊敬して目標にする以外の選択肢を奪われる存在。
それが朴零号。
しかも彼女はメフィストフェレスこと時の王・サマエルの強烈で激烈で熱烈な信奉者。いかさまだらけの悪魔を信奉する正しさの権化の気持ちは朴一号には分からない。常に頭の隅に置かないようにしているのが朴零号だった。だからこそ朴の中の正しさの割合はごくわずかでしかないのだろう。
朴はいっそのこと零号に今回の主導権を譲ってしまおうかと思いついた。あいつなら否応なしに情け容赦なく今回の事態を収拾させてくれるかもしれない。あの兄弟双方の精神的な弱さから端を発したこの騒動を断罪してくれることだろう。だけど朴が知った雪男の秘密は零号に渡さず、このずるくて不正塗れの自分が笑って抱えればいい。
「零号か。」
朴は本能的な問題から彼女には勝てないと知っていた。朴朔子という種の史上一番最初に現れた分身が朴零号だ。すなわち自分と一緒にこの世に生まれた一卵性の双子の姉。妹の自分はほぼ無量大数とも言える数まで増殖するという卑怯を犯しながら、それでも朴一号は零号一人に一生勝てないという確信がある。
人間は不正を犯すものだが、それとは矛盾して不正は許さず罰されるべきという考えに誰も彼もが支配されている。つまり無限の一の不正はことごとく零にされるべきなのだ。
「だけどね。だけどね。」
「いや。そういうときに逃げの手を打つのもありじゃない? 無理しないのが私らのスタイルじゃん。その点零号だけはそういうのに立ち向かうのこそ得意分野じゃん。身の程と分をわきまえようよ今回は。」
「だけどぉ。……やっぱ無理かな。私じゃ。」
朴は嫌々思い出す。英雄のような姉の姿を。歯噛みするしかない姉の姿を。
『朔子。大丈夫? 一万人いるからってあなたが死んだら、残りの子たちも道連れなんだよ。あとは零お姉ちゃんに任せて。』
今になって奥村雪男の兄への多大なる劣等感を理解する。そうだ。そういうことなんだ。生まれた時から死ぬまで続く苦行なんだ。彼と私は似たような業を背負う似たもの同士なんだと。
ただし私はお姉ちゃんなんか大嫌いなんだけど。
朴はへなへなと崩れ落ちる。しかしその膝が地面につく寸前に朴は再び足を踏みしめた。そして不敵に笑う。一つの種族の頂点に立つ女王の如く。
「まあとりあえずなんとかするわ。零号? 零号ね。ああ、そんな奴もいたわね。だけど私には関係ないし。理事長にはなんだかんだ言って誤魔化すし。そうだよね。やっぱ先生との約束のほうが大事だよね。イカサマ使って自白させたんだから、それくらいのペナルティは受けるべきだよね。」
「んじゃ、誤魔化すってことで。いやあ。一号ならそういう結論を出すって思ってたよ。」
「やっぱり私は私だからね。それじゃ、降魔剣持ってまた自転車走らせなきゃ。」
その前にと朴は天井を仰ぎ見る。三号に伝言を頼むことにした。
「三号。理事長に頼みごとして欲しいの。」
「えー? 依頼をされた人間がまた依頼返しするわけ? そこまで図々しいと自分とはいえ感心しちゃうわ。」
「まあそこは感心しとけ。それでね。事態は予想していたより膠着してしまっているけど、この先急展開させるつもりだから、近隣に分散している私をできるだけかき集めて欲しいって理事長に言っておいて。あの人なら自慢の空間マジックで出来るはずだから。」
わかったよと言うと三号は自分の背後に隠していた降魔剣を朴に見せる。
「私ちょっと暇だったから、降魔剣改造しちゃったけど。」
三号が取り出してきたそれを見た朴は叫ぶ。それは鈍い銀の光沢と本来の鋭利さを欠いた代物だった。
「なんじゃこりゃあ! 降魔剣をどうして金属バットにしちゃおうっていう発想になるの! いや私らしい発想かもしれないけど。降魔剣はあの兄弟の精神にとって象徴的なものの一つだから効力があるのであって、金属バットから青い炎が出たんじゃかっこつかないし。」
「いや、物は考えようだよ。もし前回みたいに先生から降魔剣を向けられることがある場合、二回も斬られるなんて芸がないじゃない。今度は撲殺されようよ。」
「演出上の都合ってやつかい。」
自分自身の悪趣味に朴は嫌気がさしてくる。だがこれも自分だ。朴は三号から手渡された降魔剣改降魔バッドを手にラブホから出て行く。そして自転車に跨り南十字教会を目指した。
* * *
「雪男。ここで俺と一緒にこの卵が孵るのを見守ろうよ。そしてこの世界で親子三人で仲良く暮らしていこう。俺はお前も子供も大事にするから。」
雪男は最早心が折れて虚ろな目で虚ろな願いを口にする兄に蔑視を送る。この精神世界での六年間がどんなに兄の心をすり減らしたのか、雪男には想像がつかないが、現実世界での兄の生気に満ちた言動とはかけ離れ過ぎていた。
「さっきも言ったよね。僕は母親役なんてするつもりはない。」
「だって……。」
「だってじゃないんだよ。ここは所詮現実の世界じゃないって兄さんも分かってるだろ。そしてその卵だって得体の知れないものでしかない。なのに兄さんはそれを自分の思い込みで子どもだってことにしている。いつからそうやって自分の都合のいいことだけ受け入れるような奴になったんだよ。しかも兄さんを迎えにきた僕まで巻き込もうなんて、兄さんらしくもない。そりゃ最初に兄さんを取り込んだのは僕かもしれない。だけど兄さんは僕なんかに囚われる程度の存在じゃない。」
燐は俯いて口の中でだってと何回も呟く。
「そんな俺が、妬ましくって嫌いだったみたいじゃねえか。お前は。だから俺はお前と俺が完全に混ざり合った証のこいつが、俺にとっての特別なんだ。」
「それは所詮兄さんと僕は別個の存在だから、その中間で鎹が必要だってことだよね。それが僕より大切だってことだよね。」
「違う。そんなこと言ってない。」
燐はますます瞳の青を曇らせてしまう。雪男は黙って兄が抱いている卵に銃口を向ける。燐は光のない目でそれを視認した反射で青い炎を身に纏った。雪男が後ろに飛び退いた一メートルの距離直前までその炎は燃え盛っている。燐は青い炎で雪男が近づけないように威嚇しているつもりだろうか。
しかしそれは現実と虚構が混濁している燐にしか通用しない法則でしかない。雪男にとってはこの世界は全て虚構で、その中で起こることはその世界にいる登場人物の思考次第で改変可能なのだ。
雪男は一歩炎の中に足を踏み出した。
燐の炎は雪男の服の裾に燃え移って布を焦がしたが、それだけでしかなかった。
「どうだい。兄さん。そんな青い炎、本体の兄さんがそんなへたれた状態じゃあ、僕を焼き殺すことも出来ないだろ。」
「お前を焼き殺すなんて、そんな……俺はただ……」
「そうだね。その忌々しい卵を守りたいだけなんだよね。」
雪男は冷たい視線を燐に注ぎながら燐の手を思い切り掴み卵を手放させる。卵は硬い音を立てて床に落ちて転がった。卵のほうに手を伸ばそうとする兄を無理やり床に押し付けて雪男は上ずった声で兄に告げる。
「久しぶりに会ったのにさあ、僕のことをどうでもいいみたいに言うから。ちょっと感情的になっちゃったかもしれないね。」
「俺はおまえのことどうでもいいなんて思ってないから。」
「そうだよね。そうに決まってるよね。」
いつも通りの冷静な言葉遣いと言葉選びが激昂していたさっきよりも不穏なものを感じさせる。
青の炎は燐からも卵の周辺からも火花ぐらいの幽かに吹き出ているほどに弱弱しくなっている。そしてほどなく雪男の氷のような憎悪に鎮火されたかのように消滅した。雪男はその様を見てほくそ笑んだ。相変わらず精神世界での自分の有利を兄から捥ぎ取れたことが雪男の傲慢さと嗜虐性に火を点ける。今この場で、自分を蔑ろにしたような世迷いごとをほざいていた兄に本来の自分たちの関係を思い知らせてやるべきだと雪男捲くれ上がったスカートから伸びる長い足で燐の胴を挟み込んだ。
「ごめんね。僕がいなかったせいで一人ぼっちで長いことこんなところに居させて。」
燐はふるふると横に首を振る。雪男の「ごめんね」の言葉の空虚さと本心の無さ加減を感じ取っているような仕草だった。
「ひ、一人で……寂しかったけど、俺、頑張れば報われるってそう、思って…」
「そうだね。報われなくちゃいけないよね。頑張りっていうのは。それに兄さんが報われなくちゃいけないのものはもう一つあるよね。それを頑張るために子どもっていうまやかしに縋り付いたんだよね。うん。よく分かったよ。」
雪男は片足を燐からはずすと、転がっていた卵を蹴りつけて燐とさらに引き離した。
悲鳴を上げようとする燐の口に自らの口を合わせ舌先で兄の唇を嘗め回した後雪男は言った。
「じゃあさあ、久しぶりに仲良ししよっか。兄さんがそう思い込んでる子どもの前でさ。」
雪男は床に兄を押し倒し、自分の服の襟元を緩め始める。跳ね起きて逃げようとする兄を馬乗りになって押さえつけ、両手を掴んで完全に拘束する。
雪男はこの精神世界に舞い戻ってきた理由を軽く忘れかけていた。思いもよらなかった兄の自分に対する心の裏切りを知った途端に、現実への義務が霧散した。今の雪男には兄の自分に対する執着を別の何かに転嫁したことがひたすら腹立たしい。常識だとか大義名分より、はるかに個人のごくごく当たり前の感情のほうが優先される世界だからこそ、こんな事態の悪化の仕方をしたとしか言えない。
そしてそんな世界で、唯一誰よりも理性的にやるべきことを優先できる存在の朴は、まだこの場には間に合ってない。
それは不幸としか言いようが無い。誰にとっての不幸か?
目下の被害者・奥村燐でしかない。
「兄さんはさあ、子ども子どもってしつこいんだよね。うっかり僕が男だってこと後悔しちゃうほどにね。」
雪男は腕を伸ばして床に落ちたウィッグを拾って再び頭に載せる。
「兄さんは結局子どもを産んでくれる、女の子のほうがいいんじゃないかな。」
燐は雪男の下で許しを請うように口を開く。
「雪男誤解だ。卵は本当にもしかしたら子どもかもしれないって思っただけなんだ。そうだったら俺にとって夢が叶ったような気になっただけだ。もとから子どもを期待してたわけじゃないっ。」
「ああ。純粋にそう思い込もうとしたってこと。それに気がついた? じゃあ。もう一回思い返してみようよ。どう? 僕と卵と、どっちが大切?」
燐は雪男を凝視するばかりだ。言葉に出すには迷いのほうが強くてままならないのだろう。しかし卵のほうを見ないようにしようと努力する、虚しいばかりの必死な誠意紛いの振る舞いに雪男は少し愉快になった。
「考えてみればそりゃそうだね。兄さんが六年の孤独に持ちこたえたのは卵のお陰だし。その間ほったらかしたのは僕のせいだ。兄さんが何かの錯覚で卵に入れ込んでいたのはしょうがない。だからこれからすることは治療の一環だよ。いわゆる荒療治なんだ。」
「治療? 何を?」
「エッチと生殖を結びつけて考える兄さんに、男の僕を愛していくのは、これから無理が出てくると僕は考えるんだ。だから純粋に快楽と愛だけのセックスを行うことによって、生殖だとか家族に囚われない思考が兄さんには必要だと僕は判断した。」
「雪男。お前は、何言ってるんだよ? 俺とお前ってずっと家族じゃねえのか? お前って筋が通ってそうでもっともらしいこと言ってるけど、それこそお前のいう無理がでてくるってもんじねえのか。」
「兄さん。そろそろ黙ろうよ。」
雪男は燐のシャツのボタンを外して、雪男が眺めていたりするのが好きだった腹筋の形が浮かぶ腹を撫でている。それもこの六年間で肉が薄くなって肋骨が浮かんできてはいたが、見るも無残というほど痩せてはいなかった。
「いいな。僕の作り物の筋肉とは全然違う。まさしく自然が作り出した健全で綺麗な身体だよ兄さんは。妬ましいほど。」
燐は雪男の手が行き来するごとに浅く息を吐く。
「子どものときから兄さんの身体が羨ましかったよ。病弱な僕と違って速く走れる足、重いものでも持ち上げられる腕、そのくせ手先は器用に繊細に動くし。そんな兄さんの身体を僕はいつも盗み見ながら少しくらいその強さとしなやかさを分けてくれれば良かったのにと思ってた。」
「お、お前は今俺を見下ろすくらい、背が高い、だろ。」
燐は怯えたように雪男に告げる。
「そんなもの、僕の弱さをカモフラージュするために必死で僕が作りあげた虚構だよ。だけどね、そうやって妬ましく思っていた兄さんの身体にいつしか僕は欲情するようになったんだ。それがおかしいこと、正しくないと悩んだことは……思い出せないよ。そんなことに悩んでいる暇もなかったしね。早めに見切りがついて自慰の時だって手っ取り早いから兄さんのことを思い浮かべて慰めてた。兄さんの知らないところで僕はどんどん節操のない自分を増長させていった。なにもかも時間を惜しむしかない自分のせいだって言い訳してね。兄さん。そんないけない僕を叱って可愛がってよ。ほら。ねえ、耳を手で塞がないで。可愛い弟がお願いしてるんだよ。兄さんこそ、自分が叱られる立場のように振舞わないで。兄さんは悪くないって僕はちゃんと理解してるんだから。こんな場所に引きずり込んで閉じ込めて、兄さんの迷惑を省みず僕の都合のいい存在にしようとした、そんな弟を責めてよ。」
雪男の手は燐の腹を滑ってジッパー部分に掛かる。燐は声を震わせてやめろと繰り返す。
雪男は楽しそうにジッパーを下ろして下着から縮こまっている燐のペニスを取り出した。
「ん。久しぶり。兄さんの。」
雪男は自分も腰を上げて片手でスカートをまくりあげスパッツとその下の下着を脱ぎ捨てた。雪男の状態はすでに興奮していてスカートの布地が雪男の昂ぶりで不自然に浮き上がっている。
「ねえ。この姿って倒錯的だと思わない? ぐっとこない?」
雪男は肩までのウィッグを揺らして片膝を立てるポーズを取った。雪男は制服のボタンとブラウスのボタンを外し、リボンを解いて左右に垂らしたまま燐に自分の胸元を見せた。それはあからさまに男の胸という感じで、柔らかさもそれに伴う母性の欠片も感じない。ただその平面に存在する二箇所の小さな突起を雪男は自らの指で弄んでいた。
「見てよ。兄さんがそこはいいって言うのに、可愛いって何度も可愛がってくれた。だから僕はこんなとこも女の子みたいに性感帯になっちゃったんだ。」
雪男の唇から熱い吐息が漏れる。それに引き寄せられるように燐はおずおずと右手を雪男に伸ばした。その手を雪男は自分の胸元に引き寄せ、燐の手のひらを自分の胸に擦り付ける。
「あ…ぁんっ。やっと手を伸ばしてくれた。治療の一段階目クリアだね。」
燐は重心が定まらないように、すぐにでも雪男の胸までの角度から腕が落ちそうになっている。雪男はそれを阻止するように腕を掴んで支えてやっていた。兄はやはり性的なシチュエーションや視覚的な刺激にあまり反応するような状態ではないらしい。
「兄さん愛してる。兄さんも僕だけだって言って。」
一番最初に兄と交渉を持ったとき、あのときも雪男のほうからアプローチをかけた。要するに兄はごく平均的な性欲を持っていると思わせながら、実はかなり奥手な男だった。雪男にしたところで相手が兄でなければ性に対して積極的なほうではない。だからこそあのとき兄と自分の関係を箍をぶち切ることが出来たのは、セックスという手段があればこそだと雪男は思う。なんだかんだで姑息な色仕掛けでしか兄を縛れないのが歯痒いが使える手なら何でも使うつもりだった。雪男は燐のペニスに指を絡ませてみるが、それは熱を持つことなく雪男の手の中で項垂れているだけだった。
「雪男。俺、今駄目かも。」
「そうかもね。」
待てど暮らせど燐のそれの反応は芳しくない。たちあがりかけてはいるが、雪男の中に挿入するには硬度が足りない。しかし雪男には対応策があった。
「兄さん大丈夫だよ。僕が兄さんを気持ちよくしてあげる。」
雪男はポケットからリップクリームを取り出すと、身体を兄の足の間にずらし、一気に兄のズボンをずり下げた。
「ゆ、雪男。なにすんだ……?」
雪男は燐の腰を持ち上げてリップクリームの蓋を開けると、燐の後孔に押し付ける。
「兄さんのペニスを銜えたとき目に付いたんだけど、兄さんのここのほうが僕のより可愛いよね。小さいし色も薄いし。」
雪男の言葉どおりの可憐な窄まりが雪男の視線にさらされていっそう小さく窄まる様がえも謂えずかわいらしい。笑みを浮かべる雪男とは反対に燐は怯えまくっていた。
「だからなにをっ」
「まずは兄さんの可愛いここにお化粧してあげようかな。」
雪男はリップクリームを燐のアナルに塗りたくる。色つきのリップは燐のそこを薄ピンク色に染めていき奇妙な光沢を浮き上がらせる。
「ゆ、雪男……」
リップの長さが半分になるほど丹念に塗り上げると、リップの油分が燐の熱で融けていく。
「うん。ここまでやれば兄さんも初めてでも痛くないよね。」
雪男は自分の指を唾液で湿らせ、燐のそこに押し入れる。
「あっ。ああー!」
「入っちゃった。」
雪男の声は弾んでいた。
「確か尿道の近くだったから、ここらへんだよね。」
雪男はぐっと進めた指で燐の直腸ごしに見当をつけた場所を探る。燐はうめき声を上げながら異物感からくる不快ななにかを雪男に訴えるも、雪男はさも嬉しそうに燐の直腸を弄っていた。
「くすくす。」
燐は身体をずらして逃げようとしたが、気力の少ない身でそれは叶わない。
「うっ。あ……ああ……」
燐は絶望的な表情を浮かべる。雪男は自分の探っていた場所に指が当たったことを悟ってそこを尚更執拗と言うくらいに嬲りにかかる。
「な、なんだよこれっ。」
燐は恐慌状態だった。今まで味わったことのない感覚が燐を襲っていた。雪男がその部分を弄ると燐はその気もないのに勝手に性器が上を向いて立ち上がってしまう。
「男の性感帯の中でここは格別らしいよ。女の子のGスポットみたいに。僕に入れる前にそれをちょっと体感してみるのもいいんじゃない?」
「や、やめろ! ゆ、ゆきおっ。こんなの、こんなの……い、いやだ!」
「怖くなんかないんだから。そんな声出さない。身体強張ってるよ。もっとリラックスして声出して。」
燐は初めての感覚に引きつった声を上げた。今までペニスでは味わったことのない快感が襲ったのだった。しかし性器は精を吐き出すことなくただびくびくと痙攣している。
「兄さん可愛い。」
「あ、ああ! ああ……ああ!」
燐は自分の性器に手を伸ばすが雪男に手を払われてそれが叶わない。
「ゆ、雪男、こ、こすって俺の、う、うしろは、もう、い、いや。あ…。ああ、ああああ――。」
懇願する燐の叫びをあざ笑うかのように、雪男の指は燐を追い詰める。やがて燐は果てた。射精せずに絶頂を迎えた燐は涙の筋を作りながら眠るように意識を失おうとしている。雪男は冷めた気分で兄を見下ろして言った。
「兄さん。ドライでイッたんだからまだいけるよ。」
「やだ……もうやめて……」
「兄さんが悪いんだよ。」
雪男はそう言いながら再び燐の中で指を動かし続けた。
後編に続く
りば的表現あります。(兄さんの心が折れるレベル)
朴さんに関する中二設定あります。
朴が息を荒げてフロントにたどり着くと朴三号が壁にもたれて立っていた。やさぐれたようにその身体をだるそうに朴のほうに向ける。朴は嫌な予感に眉根を寄せた。
「三号。外からのサポートだけでも十分なのに。わざわざ入ってきたんだ。」
「一号。理事長から伝言。」
「えー……。」
悪い予感は的中した。三号は限りなく言いにくそうに自分の絶対的なリーダーに告げる。
「気持ちは分かるけど聞いて。」
『フロイライン朔子にこの私からたってのお願いが。』
メフィストはそう言って朴二号の前で会釈をした。
それが今から五分前の出来事だった。朴三号は二号に押し付けられた伝言を改めて押し付けられ、雪男と朴が歩いてきた長いトンネルを抜けて、このラブホのフロントで朴一号がサルベージを終えるまで待っていようとした矢先だった。
「なんかサルベージ終わってなくない?」
「いや、いろいろと予想外なことが起きてんだよ。」
「なんだ。そっちもトラぶってったってわけ? 追い討ちかけるようで悪いけど、メフィストフェレス自ら出向いての依頼だからね。一応聞いてね。」
朴はうんざりして嫌そうに身体をくねくねとゆすっている。誰が見てもうざいと感じるさりげない駄々のこねかただった。
「あの人今謹慎中じゃなかったっけ?」
「一号。くねくねしないで。ことが動けばあの人って異様に聡いから、今回のことを嗅ぎ付けて謹慎を終了させたんじゃないの。どうせ自主的にやってて拘束力もないことだし。」
どうやら自分達が雪男の精神世界、元男子寮、現南十字教会に行っている間に、何事か嗅ぎつけた理事長ことメフィストが朴に何か頼みたいらしい。どうせろくなことではないのだろうが、嗅ぎつけられたからには無視するわけにはいかない。雪男と共に精神世界に同行することは、雪男にしてみても、朴にしてみても、知られないようにはしていたはずなのに。
「ドアの前にいた二号を祓魔塾の講師に目撃されちゃって。」
「あいつ時々とろいよね。」
「その言葉、まんま自分に跳ね返るから。」
朴は自分の教会での不手際の顛末を思い返して、そうだったと反省する。
「見張りが仇になっちゃったか。」
「それで伝言なんだけど。前回のサルベージで一号がモニターした時のデータを理事長に伝えたら、観測結果に空白の時間が幾らか見られたから、その空白の時間に何か起きていたのなら知らせて欲しいことと、正十字学園での理事長と奥村先生を襲った悪魔のテロの首謀者が、奥村先生であるという言質を取れだってさ。」
「言質は取れてるけど、絶対内緒にするって約束だからちょっとそれ不味いんだけど。」
三号はそういうわけにはいかないかもと肩を竦める。
「エンジェルさんから燐君の状況が理事長に伝えられたらしいんだよ。」
「でもそれは先生に取り込まれていた魔障の後遺症だって誤魔化すことも出来るよね。」
どうやらメフィストは朴の曖昧な報告の、曖昧な部分の全てを明らかにさせたいらしい。たかが小娘にどんなプレッシャーを与えるんだと朴は思った。
「一号の言い分は分かるよ。だけど、あの人にあんまり隠し事しない方がいいんじゃない?」
「でもあの人に全てを知られてるっていうのも、ちょっと……」
「でも私達は祓魔師や悪魔について齧った程度の知識しかないんだよ。何か誤魔化せば簡単に別のところで綻びは出る。それに言質を取れって言ってきてるんだから、大体の真相を知ってるってことじゃない。」
「でもその理事長の推測を私が裏づけを取ったって形は避けたいの。」
朴は自分と同じ自分に対して言い返している状況にはっと我に返る。
「いや私達同じ朴朔子なんだから。こうやって言い合いになって揉めちゃうなんてあり得ないじゃない。」
「一号落ち着け。人間には葛藤っていう自分の中だけの揉め事がしょっちゅうあるから。私達は数に頼って今までそれがなかったって話で、つまり一万人いようが処理出来ない問題なんだよこれは。」
「えー? そんなの大変過ぎる。そういうことを私が解決しなくちゃいけないの? 幾ら先生や燐君がほっとけないからって重すぎ。私の本命は出雲ちゃんだよ。エッチも出来ないような男の子のために、なんで私が。」
三号はちっちっちと指を振る。
「今まで数に驕ってきた私達への試練かもしれないね。朴朔子という種族はこれを機会に進化するか衰退するかの分岐に立たされている。かもしれない。それに同一思考の朴朔子の一万分の一のなかにいるじゃない。一号と正反対の絶対に交わることのない平行線のあの子。」
「零号か。っけ。」
朴は同じ正十字学園にいながら意識して顔すら合わせないようにしている自分のことを思い出す。
自分と違って正統の塊。正直でいかさまなんぞ考えず、なあなあを許さず、貞操も堅固な、尊敬して目標にする以外の選択肢を奪われる存在。
それが朴零号。
しかも彼女はメフィストフェレスこと時の王・サマエルの強烈で激烈で熱烈な信奉者。いかさまだらけの悪魔を信奉する正しさの権化の気持ちは朴一号には分からない。常に頭の隅に置かないようにしているのが朴零号だった。だからこそ朴の中の正しさの割合はごくわずかでしかないのだろう。
朴はいっそのこと零号に今回の主導権を譲ってしまおうかと思いついた。あいつなら否応なしに情け容赦なく今回の事態を収拾させてくれるかもしれない。あの兄弟双方の精神的な弱さから端を発したこの騒動を断罪してくれることだろう。だけど朴が知った雪男の秘密は零号に渡さず、このずるくて不正塗れの自分が笑って抱えればいい。
「零号か。」
朴は本能的な問題から彼女には勝てないと知っていた。朴朔子という種の史上一番最初に現れた分身が朴零号だ。すなわち自分と一緒にこの世に生まれた一卵性の双子の姉。妹の自分はほぼ無量大数とも言える数まで増殖するという卑怯を犯しながら、それでも朴一号は零号一人に一生勝てないという確信がある。
人間は不正を犯すものだが、それとは矛盾して不正は許さず罰されるべきという考えに誰も彼もが支配されている。つまり無限の一の不正はことごとく零にされるべきなのだ。
「だけどね。だけどね。」
「いや。そういうときに逃げの手を打つのもありじゃない? 無理しないのが私らのスタイルじゃん。その点零号だけはそういうのに立ち向かうのこそ得意分野じゃん。身の程と分をわきまえようよ今回は。」
「だけどぉ。……やっぱ無理かな。私じゃ。」
朴は嫌々思い出す。英雄のような姉の姿を。歯噛みするしかない姉の姿を。
『朔子。大丈夫? 一万人いるからってあなたが死んだら、残りの子たちも道連れなんだよ。あとは零お姉ちゃんに任せて。』
今になって奥村雪男の兄への多大なる劣等感を理解する。そうだ。そういうことなんだ。生まれた時から死ぬまで続く苦行なんだ。彼と私は似たような業を背負う似たもの同士なんだと。
ただし私はお姉ちゃんなんか大嫌いなんだけど。
朴はへなへなと崩れ落ちる。しかしその膝が地面につく寸前に朴は再び足を踏みしめた。そして不敵に笑う。一つの種族の頂点に立つ女王の如く。
「まあとりあえずなんとかするわ。零号? 零号ね。ああ、そんな奴もいたわね。だけど私には関係ないし。理事長にはなんだかんだ言って誤魔化すし。そうだよね。やっぱ先生との約束のほうが大事だよね。イカサマ使って自白させたんだから、それくらいのペナルティは受けるべきだよね。」
「んじゃ、誤魔化すってことで。いやあ。一号ならそういう結論を出すって思ってたよ。」
「やっぱり私は私だからね。それじゃ、降魔剣持ってまた自転車走らせなきゃ。」
その前にと朴は天井を仰ぎ見る。三号に伝言を頼むことにした。
「三号。理事長に頼みごとして欲しいの。」
「えー? 依頼をされた人間がまた依頼返しするわけ? そこまで図々しいと自分とはいえ感心しちゃうわ。」
「まあそこは感心しとけ。それでね。事態は予想していたより膠着してしまっているけど、この先急展開させるつもりだから、近隣に分散している私をできるだけかき集めて欲しいって理事長に言っておいて。あの人なら自慢の空間マジックで出来るはずだから。」
わかったよと言うと三号は自分の背後に隠していた降魔剣を朴に見せる。
「私ちょっと暇だったから、降魔剣改造しちゃったけど。」
三号が取り出してきたそれを見た朴は叫ぶ。それは鈍い銀の光沢と本来の鋭利さを欠いた代物だった。
「なんじゃこりゃあ! 降魔剣をどうして金属バットにしちゃおうっていう発想になるの! いや私らしい発想かもしれないけど。降魔剣はあの兄弟の精神にとって象徴的なものの一つだから効力があるのであって、金属バットから青い炎が出たんじゃかっこつかないし。」
「いや、物は考えようだよ。もし前回みたいに先生から降魔剣を向けられることがある場合、二回も斬られるなんて芸がないじゃない。今度は撲殺されようよ。」
「演出上の都合ってやつかい。」
自分自身の悪趣味に朴は嫌気がさしてくる。だがこれも自分だ。朴は三号から手渡された降魔剣改降魔バッドを手にラブホから出て行く。そして自転車に跨り南十字教会を目指した。
* * *
「雪男。ここで俺と一緒にこの卵が孵るのを見守ろうよ。そしてこの世界で親子三人で仲良く暮らしていこう。俺はお前も子供も大事にするから。」
雪男は最早心が折れて虚ろな目で虚ろな願いを口にする兄に蔑視を送る。この精神世界での六年間がどんなに兄の心をすり減らしたのか、雪男には想像がつかないが、現実世界での兄の生気に満ちた言動とはかけ離れ過ぎていた。
「さっきも言ったよね。僕は母親役なんてするつもりはない。」
「だって……。」
「だってじゃないんだよ。ここは所詮現実の世界じゃないって兄さんも分かってるだろ。そしてその卵だって得体の知れないものでしかない。なのに兄さんはそれを自分の思い込みで子どもだってことにしている。いつからそうやって自分の都合のいいことだけ受け入れるような奴になったんだよ。しかも兄さんを迎えにきた僕まで巻き込もうなんて、兄さんらしくもない。そりゃ最初に兄さんを取り込んだのは僕かもしれない。だけど兄さんは僕なんかに囚われる程度の存在じゃない。」
燐は俯いて口の中でだってと何回も呟く。
「そんな俺が、妬ましくって嫌いだったみたいじゃねえか。お前は。だから俺はお前と俺が完全に混ざり合った証のこいつが、俺にとっての特別なんだ。」
「それは所詮兄さんと僕は別個の存在だから、その中間で鎹が必要だってことだよね。それが僕より大切だってことだよね。」
「違う。そんなこと言ってない。」
燐はますます瞳の青を曇らせてしまう。雪男は黙って兄が抱いている卵に銃口を向ける。燐は光のない目でそれを視認した反射で青い炎を身に纏った。雪男が後ろに飛び退いた一メートルの距離直前までその炎は燃え盛っている。燐は青い炎で雪男が近づけないように威嚇しているつもりだろうか。
しかしそれは現実と虚構が混濁している燐にしか通用しない法則でしかない。雪男にとってはこの世界は全て虚構で、その中で起こることはその世界にいる登場人物の思考次第で改変可能なのだ。
雪男は一歩炎の中に足を踏み出した。
燐の炎は雪男の服の裾に燃え移って布を焦がしたが、それだけでしかなかった。
「どうだい。兄さん。そんな青い炎、本体の兄さんがそんなへたれた状態じゃあ、僕を焼き殺すことも出来ないだろ。」
「お前を焼き殺すなんて、そんな……俺はただ……」
「そうだね。その忌々しい卵を守りたいだけなんだよね。」
雪男は冷たい視線を燐に注ぎながら燐の手を思い切り掴み卵を手放させる。卵は硬い音を立てて床に落ちて転がった。卵のほうに手を伸ばそうとする兄を無理やり床に押し付けて雪男は上ずった声で兄に告げる。
「久しぶりに会ったのにさあ、僕のことをどうでもいいみたいに言うから。ちょっと感情的になっちゃったかもしれないね。」
「俺はおまえのことどうでもいいなんて思ってないから。」
「そうだよね。そうに決まってるよね。」
いつも通りの冷静な言葉遣いと言葉選びが激昂していたさっきよりも不穏なものを感じさせる。
青の炎は燐からも卵の周辺からも火花ぐらいの幽かに吹き出ているほどに弱弱しくなっている。そしてほどなく雪男の氷のような憎悪に鎮火されたかのように消滅した。雪男はその様を見てほくそ笑んだ。相変わらず精神世界での自分の有利を兄から捥ぎ取れたことが雪男の傲慢さと嗜虐性に火を点ける。今この場で、自分を蔑ろにしたような世迷いごとをほざいていた兄に本来の自分たちの関係を思い知らせてやるべきだと雪男捲くれ上がったスカートから伸びる長い足で燐の胴を挟み込んだ。
「ごめんね。僕がいなかったせいで一人ぼっちで長いことこんなところに居させて。」
燐はふるふると横に首を振る。雪男の「ごめんね」の言葉の空虚さと本心の無さ加減を感じ取っているような仕草だった。
「ひ、一人で……寂しかったけど、俺、頑張れば報われるってそう、思って…」
「そうだね。報われなくちゃいけないよね。頑張りっていうのは。それに兄さんが報われなくちゃいけないのものはもう一つあるよね。それを頑張るために子どもっていうまやかしに縋り付いたんだよね。うん。よく分かったよ。」
雪男は片足を燐からはずすと、転がっていた卵を蹴りつけて燐とさらに引き離した。
悲鳴を上げようとする燐の口に自らの口を合わせ舌先で兄の唇を嘗め回した後雪男は言った。
「じゃあさあ、久しぶりに仲良ししよっか。兄さんがそう思い込んでる子どもの前でさ。」
雪男は床に兄を押し倒し、自分の服の襟元を緩め始める。跳ね起きて逃げようとする兄を馬乗りになって押さえつけ、両手を掴んで完全に拘束する。
雪男はこの精神世界に舞い戻ってきた理由を軽く忘れかけていた。思いもよらなかった兄の自分に対する心の裏切りを知った途端に、現実への義務が霧散した。今の雪男には兄の自分に対する執着を別の何かに転嫁したことがひたすら腹立たしい。常識だとか大義名分より、はるかに個人のごくごく当たり前の感情のほうが優先される世界だからこそ、こんな事態の悪化の仕方をしたとしか言えない。
そしてそんな世界で、唯一誰よりも理性的にやるべきことを優先できる存在の朴は、まだこの場には間に合ってない。
それは不幸としか言いようが無い。誰にとっての不幸か?
目下の被害者・奥村燐でしかない。
「兄さんはさあ、子ども子どもってしつこいんだよね。うっかり僕が男だってこと後悔しちゃうほどにね。」
雪男は腕を伸ばして床に落ちたウィッグを拾って再び頭に載せる。
「兄さんは結局子どもを産んでくれる、女の子のほうがいいんじゃないかな。」
燐は雪男の下で許しを請うように口を開く。
「雪男誤解だ。卵は本当にもしかしたら子どもかもしれないって思っただけなんだ。そうだったら俺にとって夢が叶ったような気になっただけだ。もとから子どもを期待してたわけじゃないっ。」
「ああ。純粋にそう思い込もうとしたってこと。それに気がついた? じゃあ。もう一回思い返してみようよ。どう? 僕と卵と、どっちが大切?」
燐は雪男を凝視するばかりだ。言葉に出すには迷いのほうが強くてままならないのだろう。しかし卵のほうを見ないようにしようと努力する、虚しいばかりの必死な誠意紛いの振る舞いに雪男は少し愉快になった。
「考えてみればそりゃそうだね。兄さんが六年の孤独に持ちこたえたのは卵のお陰だし。その間ほったらかしたのは僕のせいだ。兄さんが何かの錯覚で卵に入れ込んでいたのはしょうがない。だからこれからすることは治療の一環だよ。いわゆる荒療治なんだ。」
「治療? 何を?」
「エッチと生殖を結びつけて考える兄さんに、男の僕を愛していくのは、これから無理が出てくると僕は考えるんだ。だから純粋に快楽と愛だけのセックスを行うことによって、生殖だとか家族に囚われない思考が兄さんには必要だと僕は判断した。」
「雪男。お前は、何言ってるんだよ? 俺とお前ってずっと家族じゃねえのか? お前って筋が通ってそうでもっともらしいこと言ってるけど、それこそお前のいう無理がでてくるってもんじねえのか。」
「兄さん。そろそろ黙ろうよ。」
雪男は燐のシャツのボタンを外して、雪男が眺めていたりするのが好きだった腹筋の形が浮かぶ腹を撫でている。それもこの六年間で肉が薄くなって肋骨が浮かんできてはいたが、見るも無残というほど痩せてはいなかった。
「いいな。僕の作り物の筋肉とは全然違う。まさしく自然が作り出した健全で綺麗な身体だよ兄さんは。妬ましいほど。」
燐は雪男の手が行き来するごとに浅く息を吐く。
「子どものときから兄さんの身体が羨ましかったよ。病弱な僕と違って速く走れる足、重いものでも持ち上げられる腕、そのくせ手先は器用に繊細に動くし。そんな兄さんの身体を僕はいつも盗み見ながら少しくらいその強さとしなやかさを分けてくれれば良かったのにと思ってた。」
「お、お前は今俺を見下ろすくらい、背が高い、だろ。」
燐は怯えたように雪男に告げる。
「そんなもの、僕の弱さをカモフラージュするために必死で僕が作りあげた虚構だよ。だけどね、そうやって妬ましく思っていた兄さんの身体にいつしか僕は欲情するようになったんだ。それがおかしいこと、正しくないと悩んだことは……思い出せないよ。そんなことに悩んでいる暇もなかったしね。早めに見切りがついて自慰の時だって手っ取り早いから兄さんのことを思い浮かべて慰めてた。兄さんの知らないところで僕はどんどん節操のない自分を増長させていった。なにもかも時間を惜しむしかない自分のせいだって言い訳してね。兄さん。そんないけない僕を叱って可愛がってよ。ほら。ねえ、耳を手で塞がないで。可愛い弟がお願いしてるんだよ。兄さんこそ、自分が叱られる立場のように振舞わないで。兄さんは悪くないって僕はちゃんと理解してるんだから。こんな場所に引きずり込んで閉じ込めて、兄さんの迷惑を省みず僕の都合のいい存在にしようとした、そんな弟を責めてよ。」
雪男の手は燐の腹を滑ってジッパー部分に掛かる。燐は声を震わせてやめろと繰り返す。
雪男は楽しそうにジッパーを下ろして下着から縮こまっている燐のペニスを取り出した。
「ん。久しぶり。兄さんの。」
雪男は自分も腰を上げて片手でスカートをまくりあげスパッツとその下の下着を脱ぎ捨てた。雪男の状態はすでに興奮していてスカートの布地が雪男の昂ぶりで不自然に浮き上がっている。
「ねえ。この姿って倒錯的だと思わない? ぐっとこない?」
雪男は肩までのウィッグを揺らして片膝を立てるポーズを取った。雪男は制服のボタンとブラウスのボタンを外し、リボンを解いて左右に垂らしたまま燐に自分の胸元を見せた。それはあからさまに男の胸という感じで、柔らかさもそれに伴う母性の欠片も感じない。ただその平面に存在する二箇所の小さな突起を雪男は自らの指で弄んでいた。
「見てよ。兄さんがそこはいいって言うのに、可愛いって何度も可愛がってくれた。だから僕はこんなとこも女の子みたいに性感帯になっちゃったんだ。」
雪男の唇から熱い吐息が漏れる。それに引き寄せられるように燐はおずおずと右手を雪男に伸ばした。その手を雪男は自分の胸元に引き寄せ、燐の手のひらを自分の胸に擦り付ける。
「あ…ぁんっ。やっと手を伸ばしてくれた。治療の一段階目クリアだね。」
燐は重心が定まらないように、すぐにでも雪男の胸までの角度から腕が落ちそうになっている。雪男はそれを阻止するように腕を掴んで支えてやっていた。兄はやはり性的なシチュエーションや視覚的な刺激にあまり反応するような状態ではないらしい。
「兄さん愛してる。兄さんも僕だけだって言って。」
一番最初に兄と交渉を持ったとき、あのときも雪男のほうからアプローチをかけた。要するに兄はごく平均的な性欲を持っていると思わせながら、実はかなり奥手な男だった。雪男にしたところで相手が兄でなければ性に対して積極的なほうではない。だからこそあのとき兄と自分の関係を箍をぶち切ることが出来たのは、セックスという手段があればこそだと雪男は思う。なんだかんだで姑息な色仕掛けでしか兄を縛れないのが歯痒いが使える手なら何でも使うつもりだった。雪男は燐のペニスに指を絡ませてみるが、それは熱を持つことなく雪男の手の中で項垂れているだけだった。
「雪男。俺、今駄目かも。」
「そうかもね。」
待てど暮らせど燐のそれの反応は芳しくない。たちあがりかけてはいるが、雪男の中に挿入するには硬度が足りない。しかし雪男には対応策があった。
「兄さん大丈夫だよ。僕が兄さんを気持ちよくしてあげる。」
雪男はポケットからリップクリームを取り出すと、身体を兄の足の間にずらし、一気に兄のズボンをずり下げた。
「ゆ、雪男。なにすんだ……?」
雪男は燐の腰を持ち上げてリップクリームの蓋を開けると、燐の後孔に押し付ける。
「兄さんのペニスを銜えたとき目に付いたんだけど、兄さんのここのほうが僕のより可愛いよね。小さいし色も薄いし。」
雪男の言葉どおりの可憐な窄まりが雪男の視線にさらされていっそう小さく窄まる様がえも謂えずかわいらしい。笑みを浮かべる雪男とは反対に燐は怯えまくっていた。
「だからなにをっ」
「まずは兄さんの可愛いここにお化粧してあげようかな。」
雪男はリップクリームを燐のアナルに塗りたくる。色つきのリップは燐のそこを薄ピンク色に染めていき奇妙な光沢を浮き上がらせる。
「ゆ、雪男……」
リップの長さが半分になるほど丹念に塗り上げると、リップの油分が燐の熱で融けていく。
「うん。ここまでやれば兄さんも初めてでも痛くないよね。」
雪男は自分の指を唾液で湿らせ、燐のそこに押し入れる。
「あっ。ああー!」
「入っちゃった。」
雪男の声は弾んでいた。
「確か尿道の近くだったから、ここらへんだよね。」
雪男はぐっと進めた指で燐の直腸ごしに見当をつけた場所を探る。燐はうめき声を上げながら異物感からくる不快ななにかを雪男に訴えるも、雪男はさも嬉しそうに燐の直腸を弄っていた。
「くすくす。」
燐は身体をずらして逃げようとしたが、気力の少ない身でそれは叶わない。
「うっ。あ……ああ……」
燐は絶望的な表情を浮かべる。雪男は自分の探っていた場所に指が当たったことを悟ってそこを尚更執拗と言うくらいに嬲りにかかる。
「な、なんだよこれっ。」
燐は恐慌状態だった。今まで味わったことのない感覚が燐を襲っていた。雪男がその部分を弄ると燐はその気もないのに勝手に性器が上を向いて立ち上がってしまう。
「男の性感帯の中でここは格別らしいよ。女の子のGスポットみたいに。僕に入れる前にそれをちょっと体感してみるのもいいんじゃない?」
「や、やめろ! ゆ、ゆきおっ。こんなの、こんなの……い、いやだ!」
「怖くなんかないんだから。そんな声出さない。身体強張ってるよ。もっとリラックスして声出して。」
燐は初めての感覚に引きつった声を上げた。今までペニスでは味わったことのない快感が襲ったのだった。しかし性器は精を吐き出すことなくただびくびくと痙攣している。
「兄さん可愛い。」
「あ、ああ! ああ……ああ!」
燐は自分の性器に手を伸ばすが雪男に手を払われてそれが叶わない。
「ゆ、雪男、こ、こすって俺の、う、うしろは、もう、い、いや。あ…。ああ、ああああ――。」
懇願する燐の叫びをあざ笑うかのように、雪男の指は燐を追い詰める。やがて燐は果てた。射精せずに絶頂を迎えた燐は涙の筋を作りながら眠るように意識を失おうとしている。雪男は冷めた気分で兄を見下ろして言った。
「兄さん。ドライでイッたんだからまだいけるよ。」
「やだ……もうやめて……」
「兄さんが悪いんだよ。」
雪男はそう言いながら再び燐の中で指を動かし続けた。
後編に続く
☆「高砂7」勝燐前提今回は雪男の任務話
「あ。兄さん。今現場だから。」
雪男は心配性な兄からの電話を受けていた。任務時の私用の電話は極力避けて貰いたかったが、そんな建前とは裏腹に兄の声を聞くことで結構その後の頑張りが利くことは雪男は自覚している。折りしも任務のその現場は膠着していた。しかしながら先は見えてきていたところなので心配ないよと電話の向こうの兄に言った。
「いやご飯はちゃんと家で食べるから。勝呂君にもそう言ってよ。仕事帰りの義理の弟を待つ気がないならお先にどうぞってね。」
雪男は電話を切ると交渉相手のほうに向き直る。
「すみません。兄から電話が掛かってきたので話を中断してしまって。ではまた僕の話を聞いて頂けますか?」
相手はびくっと身体を震わせる。雪男は取り留めのないこの場所まで来た経緯や、これからの方針を話していたところだった。そして相手の心を和ませるために自分自身の家族のことも引き合いに出してみたりもした。
そうやってかれこれ六時間。雪男は一人で傍らの悪魔に語りかけていた。
「すみません。僕って馴れ馴れしいですかね。初対面の君に。」
「……」
悪魔からの言葉での返答はなく、代わりにわずかな身じろぎだとか時折震える動作で意思疎通の真似事が出来ているつもりで、雪男はずっとその悪魔に話しかけている。
三年前までの悪魔否定一直線だった雪男からは考えられない姿だった。雪男の隣でうずくまっている悪魔は大人しげな印象で、人間に無茶な改造をされた身であることを証明するような気性と外観だった。雪男からしてみても悪魔より人間のほうが業が深いと言われても文句も言えないシチュエーションだった。それほどにその悪魔は攻撃性よりも人間に対する恐怖心が勝っているような態度を雪男にとり続けている。だから雪男は始めはその悪魔に向けていた銃を下ろし、丸腰の状態で親切に優しく接している。
散々一方的に呼び出されて虐待されていたのだろう。しかもその目的が口に出すのも咎められるようなもので、挙句に廃棄され崩壊寸前の建物の中に逃げ込み隠れていたらしい。通報によってその悪魔を処分しにきたのが雪男だった。
雪男は思案する。今の雪男はなんだかんだでもう上級の祓魔師になっている。任務としては処分と言われているが、その悪魔の現状を鑑みて特に危険性だとか凶悪性が見られない場合は、それなりに独自の判断で対処する権限を持っている。かつての義父が凶暴化した猫又を使い魔にすることで丸く収めたように。
一対一で六時間経過していながら交戦状態になっていないのも、その悪魔が見るからに大人しくしかも人間に怯えているらしいという推測がなりたつ。六時間前に初めて対峙したとき、建物の隅でふるふると震えていたその姿は、温和な内面を言葉を解せずとも雪男に伝えていた。
そして徐々に雪男はその悪魔との距離を縮めて近づき、現在、横に並んで言葉を掛けられるようになった。
「僕には悪魔の兄が、いるんですよ。ですが……昔の僕ときたら悪魔を怖がるあまり何がなんでも悪魔に気を許しちゃいけないと思い込んでいた。そんな狭量な人間だったんです。でもそれからなんやかんやとありましてね。きのこっぽいものとかイカとか……えげつない悪魔や人間とも係わり合いになっていくうちに、あらゆる怖いものに慣れちゃったというか。たぶん僕の中で神経が麻痺しちゃったんでしょうね。そんでその麻痺した結果、その他のことに対しても神経が太くなってストレスも溜まりにくくなったんです。」
雪男の隣の悪魔は、ずっとふるふると震えていたが、少しその震えを止めて身体を雪男に寄せてきた。そして雪男の身体に腕を絡ませてきた。
「三年前のきのこ事件のときに、掴み合いだのどんぱちだのになった悪魔のおじさんとも、今じゃ仲良く暮らしてますし。本当。昔の僕はって感じです。僕が今お世話になっている場所には普通の人間もたくさんいますが、君にひどいことや意地悪をする人は一人もいませんよ。少しお手伝いにこき使われるかもしれないけど。だけど絶対にひどいことを要求してきませんから。…えーと、何が言いたいかってことなんですけど、つまり僕についてきて、その家で暮らさないかってことなんですけど。君はそんな姿はしているけど、大人しくてちょっと怖がりで、人間そのものを嫌ってなさそうだなって、なんとなくわかるから。」
雪男の言葉に悪魔は伸ばしていた腕を放して距離を取り、体中をぶるぶると振るわせた。それは悪魔なりの葛藤の表れで、しかしそれは最初のころのような怯え一辺倒ではないということも見て取れた。ひょっとしたら拒否されてしまうかもと雪男は思ったが、とりあえず言葉を続ける。
「その家での僕の部屋は、五十畳あるんですよ。兄とそのパートナーと共同なんですけど、あ、それとさっき言ったおじさんともそこで寝起きしてます。」
悪魔はなんだそれと言うように怪訝な様子を見せている。雪男はそんな悪魔の愛らしい姿ににっこりと微笑みかける。
「僕の住んでいる家は、実は旅館なんです。とらやって言うんですけど。最近は正十字騎士団の宿泊所だとか会議の場所に指定されることが多くて、その為に使われなくなった宴会場を兄夫婦や僕に割り当ててくれたんです。それであまりに部屋が広いもんだから、偶然再会した因縁のあるおじさんも連れ込んでしまいました。それでもまだ部屋の中に空きがあるので、良かったらうちに来て下さい。あ、言い忘れましたけど、猫もいるんです。猫は、苦手じゃないですよね。」
悪魔はぱあっと表情を明るくしたように見えた。悪魔は猫が好きなようだ。雪男はいけると思った。
「可愛いんですよ。尻尾が二本あって。猫なんだけど悪魔でもあるんですよ。君と仲良くできるんじゃないかな。うちの兄のパートナーも兄とくっつくぐらいだから、君が悪魔だからと言って邪険には扱わないと思います。というか彼の実母と僕は無二の仲良しですから、きっととらやでも君は歓迎されると思いますよ。」
悪魔はふるふると震えながら再び雪男に近づき、その身体を絡ませてきた。
「まずは外に出ましょう。」
悪魔は緩慢な動きで立ち上がって出口へ向かう雪男に続く。身体はまだ雪男に密着させている。やはり少しは今までの人間からの仕打ちを引きずっているのか、今のところ信頼出来るのは雪男だけのようだった。
出口から建物の外に出て雪男は携帯電話を取り出す。
「ここであなたからの了承を取れれば、騎士団にこの場所を連絡しようと思います。」
悪魔は控えめな動きでかすかに頷いた。
「よかった。わかってもらえて。」
悪魔は堰を切ったように雪男にしなだれかかり、より一層その身で雪男の身体に絡みつく。
「大丈夫ですよ。これからは今までのような辛い思いはさせません。」
* * *
そして場面は一転してとらやだった。
完全にして全きまでにとらやの一室の五十畳敷きの部屋だった。その部屋は竜士と燐夫婦のものを一切合財詰め込んでも部屋の五分の一すら埋めることも出来ずにいた。すなわち実際の夫婦の生活スペースは部屋の隅のわずかなところで、完全にその広さを持て余しているのだった。かなりの頻度で明陀宗の主なメンバーが遊びに来るし、挙句の果てには燐の弟が得体の知れない居候を連れてきたりしたので、この京都の旅館の元宴会場は常に修学旅行状態なのだった。
「若先生がおっさん連れてきたんか。俺は志摩廉造といいます。」
志摩は得意の作り笑顔で新顔のおっさんにへこへことお辞儀をしている。
「僕はまだおの藤堂三郎太です。よろしくねー。」
「あんた。おっさんやと聞いとったのに、えらい若いことありまへん?」
藤堂は普段は本人曰く気力に溢れていた二十代前半の姿で過ごすことが多かった。
「そいつは悪魔落ちのおっさんやから、外見幾らでも若う出来るんや。」
竜士は志摩に説明してやった。志摩はくすくす笑っている。その太腿を子猫丸は少し痛いぐらいの力加減で抓った。そして志摩に耳打ちする。
「志摩さん。この人と奥村先生がおるってことは、坊は奥村君と二人きりになれへんってことやないの。幾ら五十畳敷きや言うても、そのへんで坊が不便被っとるのは確かやのに。」
「僕なら別に竜士君と燐君が同じ部屋でエッチしてても気にしないんだけどね。」
子猫丸は高く掠れた声を上げながら飛びのいた。子猫丸のすぐ傍に藤堂の顔が接近している。
「ふ、不便いうのは……夜の生活とか、そういうのに限って言ったわけではないんですけど。衝立もない部屋やから、あなたが、藤堂さんが気にしないでも、坊は気にするんですわ。僕が勝手に思っとることやけど。」
そうなの? と藤堂は竜士に視線を向ける。竜士は平然とした居住まいだったが、その胸中は子猫丸もっと言ってやれだった。しかし夜の生活などと恥ずかしいことを口にしたせいで、子猫丸は自分のそれを意図しなかった先程の発言にすら恥じ入ってしまっている。
「え、ええです。気にせんといてください。そうやね。みんな仲ええのが一番やもしれまへん。」
あーあ。竜士は肩を竦めた。常識人はこうやって非常識人に淘汰されていくのだと実感すると同時に、友達の言葉をあてにしようとした自分を恥じる。自分も碇指令のように自ら補完計画を実行するべきだと思ったか思わなかったか。しかしその碇指令も非常識な人間だった。
ふと竜士は壁に掛かっている古びた振り子時計を見る。
「九時か。若先生遅いな。」
夕食は一緒に食べるもんだと誘導するような電話での燐に告げた言い草に振り回されて、志摩と子猫丸にも未だ夕餉を振舞えないでいるので、お茶と煎餅をぼりぼりと齧りながら待っていた。
雪男は何気にかまってちゃんな末っ子体質だった。もし先に夕食を摂っていたとしたら、何時だろうが構わずに内心恨まれてしまうような気がする。そして末っ子を甘やかす長男の燐は十分に一度は玄関とこの部屋の往復を繰り返している。
しかしそろそろ、それは良くない状況になってきた。間が持たなくなってきている。この間燐と二人で見たがっかり有料アダルトチャンネルも大概制覇してしまったし、子猫丸と志摩は顔を見合わせ始めたし、藤堂は雪男君遅いな浮気でもしているのかなと心の声が肉声になっている。そして嫌な感じにどうにかしてくれとみんなが竜士にプレッシャーを与えてくる。何気に一緒にご飯をおあずけになっているクロも、長時間いた子猫丸の膝の上で居心地悪そうにしていた。
『あかん。あかんわ。』
雪男が帰ってくる見込みはない。ならばここは一回義弟に恨まれても、夕食を始めてしまうしかない。その前に。
「なあ志摩。お前の家は兄弟多いけど、やっぱり全員揃わんと飯食べたらあかんのかな?」
志摩は一瞬きょとんとしたが、竜士の問いの核を捉え返答する。
「いや。そんなことありまへんよ。ていうかきちんと家に帰るのは嫁の尻に敷かれとる柔兄くらいで、あとはめいめいに個食の一家になっとるわ。その代わり飯の支度も後片付けも自己責任やけど。」
「そうか。そうやな。ええ大人はそれが常識やな。もう九時やし。みんな明日もあるし。今日は先生には悪いけど、先に俺らは食べるしかなさそうやな。先生は今日は悪いけど一人で食べてもらうしかないなあ。」
志摩から確認は取れた。あとで雪男に文句を言われたら勿論それを盾にするつもりだ。この時間ならぎりぎりで雪男が夕食に途中参加もあり得る。ならばどう転んでも義弟をないがしろにした義兄という構図は免れる。そこまで理論武装しておいて竜士は燐を呼ぶことにした。
「おーい。り……」
竜士は襖を開けて燐を呼ぼうと声を上げた。その瞬間、鈍い衝撃が竜士の胴体に襲い掛かる。
クロが毛を逆立てて背中を丸め襖の向こう側の存在を威嚇する。燐の名前を呼び損ねた竜士は、自分の胸に飛び込んできた燐を受け止めて後ろにこけた。その連鎖で子猫丸が後ろ向きに吹き飛んで志摩の腕に抱きとめられている。ぐったりしているところを見ると失神しているようだ。
「す。すすすすすす、勝呂!」
後ろを指差しながら燐は血相を変えて竜士にしがみつく。竜士も嫁の背中越しに見える何かに怯みながらも嫁を抱きかかえていた。
「ただいま。」
のほほんと雪男が言う。
「ただいまや無いやろ若先生!」
いの一番に志摩が恐怖心の赴くままに大声を上げた。いまや雪男とその同行者は堂々と宴会場の敷居を越え、その中に侵入を果たしていた。
雪男からすれば、任務先で説得した悪魔を背中におぶって連れてきたつもりだ。そして雪男に頼りきったように悪魔は、雪男の身体に全体重を預けている。その手というか足というか、その無数の触手こそが阿鼻叫喚の地獄絵図を図らずとも描いていた。
「なんや先生っ。そのわいせつ物は! 子猫さん気絶したやん!」
「わいせつ物って。ただの触手じゃないか志摩君。三輪君が気絶したのも別の理由だろうし。失礼だな。それに彼の体表は緑色なんだから、見た目はそんなにいかがわしくないだろ。」
確かに雪男がおんぶしているつもりのその触手は見た目には優しいモスグリーン。だが、その形状はマニアックな画像によくあるぬめぬめとした触手そのものだった。しかもその動きはやはり性的なそれを連想させるように、雪男の首筋や襟ぐりからその胸元に侵入しており、身体中いたるところに絡み付いてうねうねとくねっている。
「若先生。それなんともないん? どう見てもあんたその、触手におかされとるように見えとんやけど。」
「うーん。彼は怖がりだからこうして心許した相手に絡み付いてないといけないらしいんだ。多分この環境に慣れてきたら僕と離れてても大丈夫だとは思うんだけど。」
「いや! 先生! 服の中に何気に触手入ってきとるやん。そいつどう見ても先生にエッチ仕掛けとるんやないん?」
志摩は雪男の反応が淡白なことに口角に唾を溜めながら指摘するが、雪男はまるで問題にしていない。
「志摩君。どいて。」
かつて不死鳥を食らった姿の藤堂が志摩を押しのけ前に出た。
「ふーん? 君も雪男君に拾われたんだ? だけど僕が先輩だからね。後輩には後輩の領分ってのがあるんだよ。とりあえず雪男君から降りて僕に挨拶したらどうかな。」
触手は雪男からゆっくり離れて、下側の触手で歩行の真似事をしている。藤堂の前に来ると全長(だいたい竜士の身長より少し高いくらい)の半分のところでその身体は前倒しになった。もともと大人しい性格のようなので、藤堂の高飛車な態度にも反発することはなかった。その下手に出た態度でなんとか藤堂も溜飲を下げたようだった。
「本当にもずくは、大人しくてお行儀のいい子だよね。そうだろ。竜士君。」
「いい子だよね。じゃないんやで。ていうかもう名前つけとる。ほんで次はここで飼うって、そういうつもりやろ? 俺はあかん言わんけど、り……燐はどうやろうな。かなりびびっとったし。なあ、燐? お前今回は無理やろ? こんなん?」
「え。よく見たら可愛いなこいつ。」
燐はあっけらかんともずくの触手を握ってぷにぷにと指でつついている。もずくと名づけられた触手は燐の腕に絡みつき、その短パンの裾から別の触手が服の中に侵入してシャツと短パンの間から出てきている。
「ぎゃあああ!」
悲鳴を上げたのは竜士のほうである。嫁が触手責めにあっているからだ。
「せ、先生。じょ……条件があるわ。人間の腕に絡みつくくらいは許しても、服の中に入ってくるのは禁止っていうのはどうやろ? あと臍から下はお触り禁止や。そのくらいの躾は一週間までにしてもらわんと、「とらや旅館」としても困るからなあ。」
雪男はふーんと何回か頷いてみた。
「そうだね。君の要求は妥当だよ。じゃあそのかわり、君は誠心誠意この子を歓迎すると約束してくれる? 触手って言葉も解するみたいだけど、精神感応力もあるらしいから。自分が歓迎されてないと感じると不安がってこうなってしまうみたいなんだ。もずくにも精一杯努力してもらうけど、君の協力も必要だよ。」
竜士は連れてきたものはどうしようもないと諦めながら、ええですと返す。その間にももずくは燐と雪男の両方に絡みついてうねうねと嬉しそうにくねっていた。
「こらもずく。勝呂君との約束守らなくちゃいけないんだから。」
うねっ♪ もずくはてへっというように触手のうちの一本を腕のように曲げて自分の頭部にあたるような部分を叩いた。その姿に嫁の燐がうけている。どうせ虎子の了承も得ているのだろう。もう自分が何を言っても無駄でしかない。
また義弟がとんでもないものを拾ってきたことを了承せざるを得ない竜士だった。
初の触手ねたでした。
雪男は心配性な兄からの電話を受けていた。任務時の私用の電話は極力避けて貰いたかったが、そんな建前とは裏腹に兄の声を聞くことで結構その後の頑張りが利くことは雪男は自覚している。折りしも任務のその現場は膠着していた。しかしながら先は見えてきていたところなので心配ないよと電話の向こうの兄に言った。
「いやご飯はちゃんと家で食べるから。勝呂君にもそう言ってよ。仕事帰りの義理の弟を待つ気がないならお先にどうぞってね。」
雪男は電話を切ると交渉相手のほうに向き直る。
「すみません。兄から電話が掛かってきたので話を中断してしまって。ではまた僕の話を聞いて頂けますか?」
相手はびくっと身体を震わせる。雪男は取り留めのないこの場所まで来た経緯や、これからの方針を話していたところだった。そして相手の心を和ませるために自分自身の家族のことも引き合いに出してみたりもした。
そうやってかれこれ六時間。雪男は一人で傍らの悪魔に語りかけていた。
「すみません。僕って馴れ馴れしいですかね。初対面の君に。」
「……」
悪魔からの言葉での返答はなく、代わりにわずかな身じろぎだとか時折震える動作で意思疎通の真似事が出来ているつもりで、雪男はずっとその悪魔に話しかけている。
三年前までの悪魔否定一直線だった雪男からは考えられない姿だった。雪男の隣でうずくまっている悪魔は大人しげな印象で、人間に無茶な改造をされた身であることを証明するような気性と外観だった。雪男からしてみても悪魔より人間のほうが業が深いと言われても文句も言えないシチュエーションだった。それほどにその悪魔は攻撃性よりも人間に対する恐怖心が勝っているような態度を雪男にとり続けている。だから雪男は始めはその悪魔に向けていた銃を下ろし、丸腰の状態で親切に優しく接している。
散々一方的に呼び出されて虐待されていたのだろう。しかもその目的が口に出すのも咎められるようなもので、挙句に廃棄され崩壊寸前の建物の中に逃げ込み隠れていたらしい。通報によってその悪魔を処分しにきたのが雪男だった。
雪男は思案する。今の雪男はなんだかんだでもう上級の祓魔師になっている。任務としては処分と言われているが、その悪魔の現状を鑑みて特に危険性だとか凶悪性が見られない場合は、それなりに独自の判断で対処する権限を持っている。かつての義父が凶暴化した猫又を使い魔にすることで丸く収めたように。
一対一で六時間経過していながら交戦状態になっていないのも、その悪魔が見るからに大人しくしかも人間に怯えているらしいという推測がなりたつ。六時間前に初めて対峙したとき、建物の隅でふるふると震えていたその姿は、温和な内面を言葉を解せずとも雪男に伝えていた。
そして徐々に雪男はその悪魔との距離を縮めて近づき、現在、横に並んで言葉を掛けられるようになった。
「僕には悪魔の兄が、いるんですよ。ですが……昔の僕ときたら悪魔を怖がるあまり何がなんでも悪魔に気を許しちゃいけないと思い込んでいた。そんな狭量な人間だったんです。でもそれからなんやかんやとありましてね。きのこっぽいものとかイカとか……えげつない悪魔や人間とも係わり合いになっていくうちに、あらゆる怖いものに慣れちゃったというか。たぶん僕の中で神経が麻痺しちゃったんでしょうね。そんでその麻痺した結果、その他のことに対しても神経が太くなってストレスも溜まりにくくなったんです。」
雪男の隣の悪魔は、ずっとふるふると震えていたが、少しその震えを止めて身体を雪男に寄せてきた。そして雪男の身体に腕を絡ませてきた。
「三年前のきのこ事件のときに、掴み合いだのどんぱちだのになった悪魔のおじさんとも、今じゃ仲良く暮らしてますし。本当。昔の僕はって感じです。僕が今お世話になっている場所には普通の人間もたくさんいますが、君にひどいことや意地悪をする人は一人もいませんよ。少しお手伝いにこき使われるかもしれないけど。だけど絶対にひどいことを要求してきませんから。…えーと、何が言いたいかってことなんですけど、つまり僕についてきて、その家で暮らさないかってことなんですけど。君はそんな姿はしているけど、大人しくてちょっと怖がりで、人間そのものを嫌ってなさそうだなって、なんとなくわかるから。」
雪男の言葉に悪魔は伸ばしていた腕を放して距離を取り、体中をぶるぶると振るわせた。それは悪魔なりの葛藤の表れで、しかしそれは最初のころのような怯え一辺倒ではないということも見て取れた。ひょっとしたら拒否されてしまうかもと雪男は思ったが、とりあえず言葉を続ける。
「その家での僕の部屋は、五十畳あるんですよ。兄とそのパートナーと共同なんですけど、あ、それとさっき言ったおじさんともそこで寝起きしてます。」
悪魔はなんだそれと言うように怪訝な様子を見せている。雪男はそんな悪魔の愛らしい姿ににっこりと微笑みかける。
「僕の住んでいる家は、実は旅館なんです。とらやって言うんですけど。最近は正十字騎士団の宿泊所だとか会議の場所に指定されることが多くて、その為に使われなくなった宴会場を兄夫婦や僕に割り当ててくれたんです。それであまりに部屋が広いもんだから、偶然再会した因縁のあるおじさんも連れ込んでしまいました。それでもまだ部屋の中に空きがあるので、良かったらうちに来て下さい。あ、言い忘れましたけど、猫もいるんです。猫は、苦手じゃないですよね。」
悪魔はぱあっと表情を明るくしたように見えた。悪魔は猫が好きなようだ。雪男はいけると思った。
「可愛いんですよ。尻尾が二本あって。猫なんだけど悪魔でもあるんですよ。君と仲良くできるんじゃないかな。うちの兄のパートナーも兄とくっつくぐらいだから、君が悪魔だからと言って邪険には扱わないと思います。というか彼の実母と僕は無二の仲良しですから、きっととらやでも君は歓迎されると思いますよ。」
悪魔はふるふると震えながら再び雪男に近づき、その身体を絡ませてきた。
「まずは外に出ましょう。」
悪魔は緩慢な動きで立ち上がって出口へ向かう雪男に続く。身体はまだ雪男に密着させている。やはり少しは今までの人間からの仕打ちを引きずっているのか、今のところ信頼出来るのは雪男だけのようだった。
出口から建物の外に出て雪男は携帯電話を取り出す。
「ここであなたからの了承を取れれば、騎士団にこの場所を連絡しようと思います。」
悪魔は控えめな動きでかすかに頷いた。
「よかった。わかってもらえて。」
悪魔は堰を切ったように雪男にしなだれかかり、より一層その身で雪男の身体に絡みつく。
「大丈夫ですよ。これからは今までのような辛い思いはさせません。」
* * *
そして場面は一転してとらやだった。
完全にして全きまでにとらやの一室の五十畳敷きの部屋だった。その部屋は竜士と燐夫婦のものを一切合財詰め込んでも部屋の五分の一すら埋めることも出来ずにいた。すなわち実際の夫婦の生活スペースは部屋の隅のわずかなところで、完全にその広さを持て余しているのだった。かなりの頻度で明陀宗の主なメンバーが遊びに来るし、挙句の果てには燐の弟が得体の知れない居候を連れてきたりしたので、この京都の旅館の元宴会場は常に修学旅行状態なのだった。
「若先生がおっさん連れてきたんか。俺は志摩廉造といいます。」
志摩は得意の作り笑顔で新顔のおっさんにへこへことお辞儀をしている。
「僕はまだおの藤堂三郎太です。よろしくねー。」
「あんた。おっさんやと聞いとったのに、えらい若いことありまへん?」
藤堂は普段は本人曰く気力に溢れていた二十代前半の姿で過ごすことが多かった。
「そいつは悪魔落ちのおっさんやから、外見幾らでも若う出来るんや。」
竜士は志摩に説明してやった。志摩はくすくす笑っている。その太腿を子猫丸は少し痛いぐらいの力加減で抓った。そして志摩に耳打ちする。
「志摩さん。この人と奥村先生がおるってことは、坊は奥村君と二人きりになれへんってことやないの。幾ら五十畳敷きや言うても、そのへんで坊が不便被っとるのは確かやのに。」
「僕なら別に竜士君と燐君が同じ部屋でエッチしてても気にしないんだけどね。」
子猫丸は高く掠れた声を上げながら飛びのいた。子猫丸のすぐ傍に藤堂の顔が接近している。
「ふ、不便いうのは……夜の生活とか、そういうのに限って言ったわけではないんですけど。衝立もない部屋やから、あなたが、藤堂さんが気にしないでも、坊は気にするんですわ。僕が勝手に思っとることやけど。」
そうなの? と藤堂は竜士に視線を向ける。竜士は平然とした居住まいだったが、その胸中は子猫丸もっと言ってやれだった。しかし夜の生活などと恥ずかしいことを口にしたせいで、子猫丸は自分のそれを意図しなかった先程の発言にすら恥じ入ってしまっている。
「え、ええです。気にせんといてください。そうやね。みんな仲ええのが一番やもしれまへん。」
あーあ。竜士は肩を竦めた。常識人はこうやって非常識人に淘汰されていくのだと実感すると同時に、友達の言葉をあてにしようとした自分を恥じる。自分も碇指令のように自ら補完計画を実行するべきだと思ったか思わなかったか。しかしその碇指令も非常識な人間だった。
ふと竜士は壁に掛かっている古びた振り子時計を見る。
「九時か。若先生遅いな。」
夕食は一緒に食べるもんだと誘導するような電話での燐に告げた言い草に振り回されて、志摩と子猫丸にも未だ夕餉を振舞えないでいるので、お茶と煎餅をぼりぼりと齧りながら待っていた。
雪男は何気にかまってちゃんな末っ子体質だった。もし先に夕食を摂っていたとしたら、何時だろうが構わずに内心恨まれてしまうような気がする。そして末っ子を甘やかす長男の燐は十分に一度は玄関とこの部屋の往復を繰り返している。
しかしそろそろ、それは良くない状況になってきた。間が持たなくなってきている。この間燐と二人で見たがっかり有料アダルトチャンネルも大概制覇してしまったし、子猫丸と志摩は顔を見合わせ始めたし、藤堂は雪男君遅いな浮気でもしているのかなと心の声が肉声になっている。そして嫌な感じにどうにかしてくれとみんなが竜士にプレッシャーを与えてくる。何気に一緒にご飯をおあずけになっているクロも、長時間いた子猫丸の膝の上で居心地悪そうにしていた。
『あかん。あかんわ。』
雪男が帰ってくる見込みはない。ならばここは一回義弟に恨まれても、夕食を始めてしまうしかない。その前に。
「なあ志摩。お前の家は兄弟多いけど、やっぱり全員揃わんと飯食べたらあかんのかな?」
志摩は一瞬きょとんとしたが、竜士の問いの核を捉え返答する。
「いや。そんなことありまへんよ。ていうかきちんと家に帰るのは嫁の尻に敷かれとる柔兄くらいで、あとはめいめいに個食の一家になっとるわ。その代わり飯の支度も後片付けも自己責任やけど。」
「そうか。そうやな。ええ大人はそれが常識やな。もう九時やし。みんな明日もあるし。今日は先生には悪いけど、先に俺らは食べるしかなさそうやな。先生は今日は悪いけど一人で食べてもらうしかないなあ。」
志摩から確認は取れた。あとで雪男に文句を言われたら勿論それを盾にするつもりだ。この時間ならぎりぎりで雪男が夕食に途中参加もあり得る。ならばどう転んでも義弟をないがしろにした義兄という構図は免れる。そこまで理論武装しておいて竜士は燐を呼ぶことにした。
「おーい。り……」
竜士は襖を開けて燐を呼ぼうと声を上げた。その瞬間、鈍い衝撃が竜士の胴体に襲い掛かる。
クロが毛を逆立てて背中を丸め襖の向こう側の存在を威嚇する。燐の名前を呼び損ねた竜士は、自分の胸に飛び込んできた燐を受け止めて後ろにこけた。その連鎖で子猫丸が後ろ向きに吹き飛んで志摩の腕に抱きとめられている。ぐったりしているところを見ると失神しているようだ。
「す。すすすすすす、勝呂!」
後ろを指差しながら燐は血相を変えて竜士にしがみつく。竜士も嫁の背中越しに見える何かに怯みながらも嫁を抱きかかえていた。
「ただいま。」
のほほんと雪男が言う。
「ただいまや無いやろ若先生!」
いの一番に志摩が恐怖心の赴くままに大声を上げた。いまや雪男とその同行者は堂々と宴会場の敷居を越え、その中に侵入を果たしていた。
雪男からすれば、任務先で説得した悪魔を背中におぶって連れてきたつもりだ。そして雪男に頼りきったように悪魔は、雪男の身体に全体重を預けている。その手というか足というか、その無数の触手こそが阿鼻叫喚の地獄絵図を図らずとも描いていた。
「なんや先生っ。そのわいせつ物は! 子猫さん気絶したやん!」
「わいせつ物って。ただの触手じゃないか志摩君。三輪君が気絶したのも別の理由だろうし。失礼だな。それに彼の体表は緑色なんだから、見た目はそんなにいかがわしくないだろ。」
確かに雪男がおんぶしているつもりのその触手は見た目には優しいモスグリーン。だが、その形状はマニアックな画像によくあるぬめぬめとした触手そのものだった。しかもその動きはやはり性的なそれを連想させるように、雪男の首筋や襟ぐりからその胸元に侵入しており、身体中いたるところに絡み付いてうねうねとくねっている。
「若先生。それなんともないん? どう見てもあんたその、触手におかされとるように見えとんやけど。」
「うーん。彼は怖がりだからこうして心許した相手に絡み付いてないといけないらしいんだ。多分この環境に慣れてきたら僕と離れてても大丈夫だとは思うんだけど。」
「いや! 先生! 服の中に何気に触手入ってきとるやん。そいつどう見ても先生にエッチ仕掛けとるんやないん?」
志摩は雪男の反応が淡白なことに口角に唾を溜めながら指摘するが、雪男はまるで問題にしていない。
「志摩君。どいて。」
かつて不死鳥を食らった姿の藤堂が志摩を押しのけ前に出た。
「ふーん? 君も雪男君に拾われたんだ? だけど僕が先輩だからね。後輩には後輩の領分ってのがあるんだよ。とりあえず雪男君から降りて僕に挨拶したらどうかな。」
触手は雪男からゆっくり離れて、下側の触手で歩行の真似事をしている。藤堂の前に来ると全長(だいたい竜士の身長より少し高いくらい)の半分のところでその身体は前倒しになった。もともと大人しい性格のようなので、藤堂の高飛車な態度にも反発することはなかった。その下手に出た態度でなんとか藤堂も溜飲を下げたようだった。
「本当にもずくは、大人しくてお行儀のいい子だよね。そうだろ。竜士君。」
「いい子だよね。じゃないんやで。ていうかもう名前つけとる。ほんで次はここで飼うって、そういうつもりやろ? 俺はあかん言わんけど、り……燐はどうやろうな。かなりびびっとったし。なあ、燐? お前今回は無理やろ? こんなん?」
「え。よく見たら可愛いなこいつ。」
燐はあっけらかんともずくの触手を握ってぷにぷにと指でつついている。もずくと名づけられた触手は燐の腕に絡みつき、その短パンの裾から別の触手が服の中に侵入してシャツと短パンの間から出てきている。
「ぎゃあああ!」
悲鳴を上げたのは竜士のほうである。嫁が触手責めにあっているからだ。
「せ、先生。じょ……条件があるわ。人間の腕に絡みつくくらいは許しても、服の中に入ってくるのは禁止っていうのはどうやろ? あと臍から下はお触り禁止や。そのくらいの躾は一週間までにしてもらわんと、「とらや旅館」としても困るからなあ。」
雪男はふーんと何回か頷いてみた。
「そうだね。君の要求は妥当だよ。じゃあそのかわり、君は誠心誠意この子を歓迎すると約束してくれる? 触手って言葉も解するみたいだけど、精神感応力もあるらしいから。自分が歓迎されてないと感じると不安がってこうなってしまうみたいなんだ。もずくにも精一杯努力してもらうけど、君の協力も必要だよ。」
竜士は連れてきたものはどうしようもないと諦めながら、ええですと返す。その間にももずくは燐と雪男の両方に絡みついてうねうねと嬉しそうにくねっていた。
「こらもずく。勝呂君との約束守らなくちゃいけないんだから。」
うねっ♪ もずくはてへっというように触手のうちの一本を腕のように曲げて自分の頭部にあたるような部分を叩いた。その姿に嫁の燐がうけている。どうせ虎子の了承も得ているのだろう。もう自分が何を言っても無駄でしかない。
また義弟がとんでもないものを拾ってきたことを了承せざるを得ない竜士だった。
初の触手ねたでした。
☆「yatsuhashi justice」勝呂+出雲 ギャグ 白鳥と朴もいるよ
「おーい。」
「あぁん?」
いつも何かに憑かれているような目つきの悪い男子が男子寮の前で一人の女子に呼び止められた。男子の名前は白鳥零二。そして女子の名前は朴朔子。ラブコメの定番に沿うならここで告白シーンを期待しそうなところだが、この二人にそうなるべき接点はない。そして白鳥は憑かれたようなではなく、実際にとある悪魔に憑き纏われる毎日だった。しかしこの話ではそんな設定は特に関係ない。彼はこの先特に活躍することもないちょい役である。相対する彼女も今回はこの導入部分でのみ重要な役割を果たす……はずである。
朴は野球のサインのように唐突に手を動かしいくつかの動きを見せたあと、男子寮の入り口を指差し、もう片方の手をぐるぐると回して、顔を白鳥の方を向けてにこにこと笑っている。
「なにい? 勝呂竜士を? 呼び出して来い? だと? ふざけんな。」
何故身振り手振りでそれが伝わるのか、どんな観測者であろうと推察しようのない。しかし白鳥には確かに伝わった。
「あのなあ。俺とあいつはクラスさえ違うんだぜ。あいつは見かけは俺と同類っぽいかもしれないが、優等生で京都の名家の御曹司で俺んちみたいな成金のドラ息子とは違うんだよ。俺みたいなのが声を掛けると絡まれてると誤解されてしまうのがオチだ。」
朴は怪訝な顔して「どうして?」と首を傾げ罪のない疑問を顔に浮かべている。
「おい。頼まれてやんねえとは言ってねえだろ。俺の中の何かがお前には逆らうなといつも警鐘を鳴らしてるんだ。だから見た目大人しそうなお前の頼みを断れねえ。ただし、勝呂が来なかったとしても俺のせいじゃないからな。お前の人選ミスだからな。」
朴はうんうんと頷いて早く行けとばかりに前方に足を蹴りだした。そして白鳥は面倒そうに朴とすれ違って男子寮の中に入っていく。
そして数分後。朴の思惑通り、そして白鳥の思惑に反して勝呂は男子寮の入り口に姿を現した。男子寮の二階の窓から実に不愉快そうな白鳥が顔を覗かせている。朴はにこにこ笑うと腕をぶーんと振り白鳥に向かって石を投げた。それは白鳥の眉間に命中する。
「あ、ありがとうだと。どうせならもっといいように伝えてくれよ。」
白鳥はぶつぶつ言いながら額から流れる血を拭き拭き自室の窓を閉めて引きこもってしまった。
その不可思議な光景を観て見ぬ振りをしていた勝呂は朴に呆れながら怖気づきながら近づく。
「久しぶりやな朴さん。」
「勝呂君久しぶり。ていうか、君、夏休みの始めから出雲ちゃんと行動を共にしてたんだって。」
「いや。それは神木に限ってないし。塾の任務やし。合宿を兼ねた……」
「だけど合宿先は君の実家なわけだったし。言い訳も苦しいよね。それになんだかんだで一日くらい観光してたわけだし、そのあと海にも行ったんだよね。なら私の言いたいことは分かるよね? このどろぼうゴリラ。聞く話によると熱海で出雲ちゃんに狼藉も働いたんだってね。」
「あいつ集団行動やのに、一人でむすっとしとったから。」
「けっ。たかがゴリラが私の出雲ちゃんに対して抗議なんて何様?」
朴は勝呂の言葉をろくに聞こうともしないで吐き捨てる。しかし毒々しい言葉を吐きながらもその顔はいつもの微笑を絶やさない。白鳥に対する必要以上の無口っぷりは影も形もなく、無口加減もこの時のための下準備としか言いようがなかった。
「俺のことゴリラの認識で構わんけど、そないにあんたに今更責められるとは思わんかったわ。いや、でも、一応、謝っとくわ。すんまへん。朴さん。俺は出すぎたことしました。これでええやろか?」
朴は虫を見るような目で勝呂を見た。一瞬だけだったが勝呂の胸になにかがずきりと尖った針を刺した。
「用事はそんだけ? ならもう行ってもええやろか?」
勝呂の足はすでに寮に引き返す方向を向いている。朴はとりあえずは「いいよ」と小声で言った。勝呂はあからさまにほっとしたような顔をしてそそくさと男の園に舞い戻ろうとした。
その時だった。がしっと後ろから手首を捕まれやや捻られるようにその腕は引っ張られた。
「ゴリラの必死なお詫びは一応受け取っておくよ。でもまだ用は済んでないんだな。用はって、何って、聞きたいよね? そうだよね。聞きたいに決まってるよね。そうかしょうがないな。じゃあ言っちゃおうかな。」
勝呂はぶんぶんと首を振る。聞いてしまったら絶対にろくなことにならないと分かっている。しかし勝呂の拒否は形だけになりそうだった。
「あのねえ。出雲ちゃんが君のこと凄く気にしてるんだ。だからこれから私についてきて出雲ちゃんに会って欲しいんだよ。」
朴は凶悪そうな笑顔を浮かべている。勝呂には見えないがそれが伺い知れた。
「神木が俺のこと……いや、誤解やから。それ絶対違うから。」
「いいんだよ。遠慮しなくても私は出雲ちゃんの為ならなんでも出来るから。」
朴は有無を言わさず後ろ向きのままの勝呂を引っ張る。そして鼻歌を歌いながら男子寮とは逆方向に向かって歩き出す。勝呂は転んでしまわないように後ろ向きに歩くのだった。
* * *
熱海のクラーケン事件から一週間が過ぎていた。夏休みの前半も終わろうとしている。しかし正十字学園には実家に帰らず居残っている生徒はぽろぽろといた。都内に実家が有るから家にいようが学園にいようが関係ないとりあえず学園にいたばかりに朴にぱしられた白鳥だとか、普通に進学クラスの夏季講習のある生徒だとか、正十字学園独自の教育、例えば祓魔塾のような特別資格取得を目指す生徒がその例に当てはまる。もちろん出雲もその例に漏れなかった。
何事かを決心して実家から離れている身の出雲にとって、この学園の環境はその思いを最大限に汲み取って貰えているようである意味居心地が良かった。しかしいかんせん友人が少ない故に女子寮の自室に引きこもるのは気が咎めるようで、何かと祓魔塾の小さな図書室もとい資料室で時間を潰すことが多い。そして今も出雲は資料室で一人本を読みながら、しかしその内容はさっぱり頭に入ってこない。溜息が数分間隔で吐き出される。悩ましげに麻呂眉を顰め、少し閉じられた目に睫の影がかかっている。どこからどう見ても物思いに耽る少女の図であった。
思い返すのは夏のある日のこと。クラーケン待ちの自由行動。指揮者兼引率者の霧隠シュラに強制的に水着に着替えさせられた候補生たちは、野郎は全員海パン一丁状態、その中でもひときわ鍛えられた肉体を誇る男がいた。自分の米袋四袋強の体重を軽々と持ち上げた怪力ゴリラの、その広い背中や太い腕に容赦なく太陽の光が降り注いでいた。あのときから頭を占めていたのはあの背中への渇望。
しかしながら互いに嫌いあっているという相互理解が邪魔をする。あの背中を見る前になんでもっと歩み寄っておかなかったのだろうと後悔した。そうすれば後日のアクションも取りやすかったのにと。
『朴ごめん。私どうしても気になって。』
『いつかそういう日が来るとは思ってたよ。私のことは気にせずに、勝呂君に気持ちを伝えたらいいと思うよ。』
『うん……でも、気持ちを伝えても私が望むようにはならないと思う。』
『そんなことはないよ。大丈夫だよ出雲ちゃん。』
朴は協力すると言って出雲の手をそっと握った。朴はいつもそうだった。自分が他人と距離を置きたいときにはそっとしてくれて、ほんの少しでも興味を持った人間との橋渡しはさりげなく協力してくれた。出雲ちゃんのためだからと優しく笑いながら味方してくれた。
こんこんと資料室の戸を誰かがノックした。
「出雲ちゃん。いる?」
「朴。」
「良かった。一人みたいだね。」
戸の影から勝呂が顔を覗かせていた。
「なんであんたがこんなとこにいるのよっ。」
さっきまで勝呂のことを想っていたのに、打って変わっていつもどおりの険の強い表情で相対してしまう。しかし勝呂は事前に朴から出雲が自分を気にしていると聞かされているので、いつもどおりによおとぶっきらぼうに資料室に入ってきた。
「な、なによ。なに勝手に入ってきたのよ。」
「朴さんに叱られて、ついでにここに連れてこられたんや。」
「そうだよ出雲ちゃん。出雲ちゃんは熱海から帰ってきてからずっと勝呂君のこと気にしてたんでしょ。今日で気にして悩むのは終わりにしようよ。一週間だよ。ちょうどいい頃じゃない。」
出雲は一歩だけあとずさったが顎を引き少し俯いた。
「そうよね。一週間も頭から離れなかったんだし。この時間が重要だったわけよね。」
勝呂は取り付く島もなく二人の会話に耳を傾けていたが、あの強気で高飛車で、だけど芯が通っていながらその芯に不安定なところを感じる出雲が、朴の言葉を否定もせずに妙に素直な言動を取っているのを新鮮な驚きで見ていた。
『こいつ。ガセやのうて、本当に俺のこと気にしとったんか。』
甘酸っぱい高揚感と共に、幼馴染の志摩への罪悪感を感じる。なんで世の中、パズルのピースがあうようにいかないのだろう。ここに呼び出されたのが自分ではなく志摩だったら、この場でハッピーエンドが確定していたはずだ。だが自分の心持としては素直でない女が素直な気持ちを吐露している姿を無下に台無しにしてしまいたくない。でも今日この日に確定出来ないのは確かだ。
もし決定的なことを言われたら、何日かの猶予を貰おうと勝呂はこの先の人間関係を、心の天秤や秤や軽量カップや物差しを駆使して全力で最善の結末に導くよう尽くすつもりでいた。
出雲は目の前でもじもじとしながら「あの」と口を開いた。
「ゴリラ。いや、勝呂……」
「言いやすいほうでええわ。さっきまで朴さんからさんざんゴリラ呼ばわりされたし。」
「今日は、勝呂って言わせて。私の素直な気持ち、聞いて欲しいの。」
来た、と確信する。
「な、なんや。いうてみい。」
「あのね……この場で絶対に断らないで欲しいのよ。私せっかく素直になれたんだから。ここで駄目だったら、私は二度と素直になれないかもしれない。」
出雲が勝呂に前置きのように告げた言葉で勝呂は時間を貰うことすら許されない状況になってきた。ここで出雲の気持ちに応えるか、然らずんば一人の女の心に消えない傷を作ってしまうかというぎりぎりの選択を迫られている。この出雲の真剣さからして彼女へ好意を持っているとはいえ友人を代わりに差し出すことは、もはやただの不誠実でしかない。
『なんや。神さんと仏さんにそれぞれ仕えとるもん同士なんに、どうしてどっちにも見捨てられるようなことになっとんやろ。いや、俺が仏さんに試練を与えられとるだけや。ええわ。そんなら俺かて絶対に断らん。そうや。それでええんや。竜士。神木の言葉を素直に誠実に受け止めるんや。』
勝呂の決意を待っていたかのように、出雲は口を開いた。
「朴。私今から言うからね。」
「頑張れ。出雲ちゃん。」
出雲は生唾を飲み込むと勝呂を見上げた。
「お願いがあるの。今すぐシャツ脱いで私にあんたの背中を差し出して欲しいの。」
「背中?」
何かの暗喩だろうか。最近の女子の告白の仕方はよく分からないので、勝呂は「月が綺麗」と同じ種類の言い回しかとしばし考えてしまった。秒数にしてたった五秒ほどだったのだろうか。しかし出雲の態度に苛立ちが見えてきている。
「深読みなんてしなくていいの! さっさと脱いでよ。それで私に背中を向けて!」
「いや。急に脱げ言われても、そりゃちょお気が早いんちゃうか。朴さんもニコニコせんと親友の暴走止めてやれや。」
「いいんだよ。勝呂君。出雲ちゃんは暴走なんかしてないよ。通常運行だよ。」
そう言いながら勝呂のシャツに手をかけると、やあっと掛け声をかけた。その瞬間にシャツのボタンは全て全開になり、続くはあっという声と共に勝呂の上半身を覆っていた布が剥がされた。
「そう。これよ。強烈な紫外線に晒されて肌が焼けて痛めつけられたあとの、日焼けあとの剥けかけの皮。」
「はあっ?」
ガッツポーズを決める出雲の発言にとんでもない裏切りを感じる前に、勝呂はひたすら狐につままれた気分になった。感極まっている出雲の代わりに朴が勝呂に真実を伝える。
「出雲ちゃんはね、日焼けの皮を剥くのが大好きなんだよ。自分のだけじゃなくて、他人がそんなふうに皮が向けているのを見ると、たまらない気持ちになっちゃうらしいんだ。特に自分じゃ剥けない背中とかの皮が剥けてる人見たら、剥いてみたくてしょうがなくなるんだよ。それも年々ただの日焼けの皮じゃ我慢できなくなって、もっと広くもっと大きく綺麗に剥きたいって、私にいつも夏がくるたびに語ってくれたんだ。一週間前に熱海で君の背中を見たとき、君の日焼け具合から、是非とも自分が君の広い背中の皮を剥きたいって衝動を今日まで私以外には打ち明けられなかったんだよ。いじらしいでしょ。出雲ちゃん。」
朴は嘘泣きを始めた。
「確かに、いじらしいのかもしれへん。せやけど、あんたに打ち明けたいうことは、あんたが俺に具体的なことは話さず、ここへ連れてくることを容認、期待しとったわけや。完璧に俺の意思無視でその気やったわけや。」
勝呂は出雲にとっての一週間の意味を悟る。紫外線に晒されて日焼けした皮膚が新しい皮膚と入れ替わり剥離するまでの時間だったということを。
「なによ。たかが皮じゃない。ぐちぐち言ってんじゃないよゴリラ。」
「ゴリラ呼びが復活しとる! そのたかが皮に恋焦がれとったんは誰や!」
出雲はくっと言葉に詰まったがそれでも自分の口から出た願いは諦める気はないらしく、勝呂の背中に張り付いて爪を立てた。
「お願いだから皮剥かせて。いいでしょ? 痛くしないようにするから。優しく剥くから。私これでも皮むきのテクには自信があるから。絶対に綺麗に剥くから。」
「女が男に皮剥く皮剥く言うな。なんかはしたないしいかがわしいわ。思春期男子のささいなことに対する超反応と妄想力を甘くみんなや。これが志摩やったらあいつの頭ん中でお前どうなっとることやら。」
出雲はそんな心配交じりの怒声など聞いていなかった。すでにかりかりと勝呂の剥けかけの皮膚に爪を立てている。
「動かないでよ。あんたの背中だったら今までの最高面積の皮が剥けそうなの。」
「勝呂君。大人しく椅子に座ってようよ。」
「いや。作業的に机の上に腹ばいのほうがやりやすいから。」
女二人はさくさくと皮むきに適した作業場を整えて勝呂を腹ばいに寝かせている。
「いや。すごい屈辱やわこの格好。」
「早めには終わらせるつもりだから。本当に私がここまでお願いしてるんだから、だから。」
「わかったわ。」
勝呂が黙ると出雲も黙った。そして顔は見えないが出雲が勝呂の背中に一心不乱になっている様子が伝わってくる。細い指が細心の注意を払って自分の背中の皮を剥いている。時折小さく声を上げ吐息の音も聞き取れた。
勝呂は唐突に実家の両親を思い出した。母親が父親を膝枕して耳かきで妙に一生懸命に大きな耳垢を掘ろうとしている。ティッシュには戦利品の父親の耳垢が誇らしげに並べられていた。母親もその耳カスを掘るためだけに、夫に対して一ヶ月間の耳掃除禁止令を下したことがある。父親はその妻の強制に従って律儀に耳垢を溜めて、誰にも自分の耳掃除を許さなかった。夫婦間のそんな有様に子どもだった勝呂はどんびきした覚えがある。うちのおとんとおかんは仲が良いというよりは、おかんの執念に対して道具にされている父が哀れだった。
そして夫に対してしたことを、息子にもやろうというのが自分の母親だった。しかし勝呂はそれに頑なに抵抗した。俺の耳は俺の嫁はんの為にとっとくんや、そんときまでは小さな子どもやあるまいし自分で掘るわと苦し紛れに言い訳したら、母は案外あっさりと「そう」と寂しそうに引き下がってくれた。
あのとき母親に対して頑なだった自分は今、罰を受けているのかもしれない。自分のことを屁とも想っていない女に服を剥がされ、背中の日焼けの皮を蹂躙されている現実。それでも勝呂は妙なあたたかさめいた心地よさを覚えていた。
「なんか……気持ちええな。」
「気色悪いこと言うな。手元が狂うじゃない。」
「あー。はいはい。」
勝呂は出雲の甲高い声を聞き流すと、完全に顔を伏せて目を閉じた。出雲は相変わらずかりかりと自分の背中を掻いている。まるで小動物に背中を這われているようなくすぐったさ。
『日焼けの皮むきで済んで良かったわ。今日はそういうことにしたろ。日焼けの皮むきで嫉妬するほど、志摩も小さい男やあるまいし。』
しかし何気なしに数日後志摩にこのことを報告したら盛大に嫉妬されることを、勝呂はこのとき知る由もなかった。そしてその嫉妬の意味を汲み取れない鈍い自分を自覚するのはまだまだ先の話だった。
もう十月きてしまいましたが夏の終わりの物語でした。今回もぱしられる白鳥くん。
「あぁん?」
いつも何かに憑かれているような目つきの悪い男子が男子寮の前で一人の女子に呼び止められた。男子の名前は白鳥零二。そして女子の名前は朴朔子。ラブコメの定番に沿うならここで告白シーンを期待しそうなところだが、この二人にそうなるべき接点はない。そして白鳥は憑かれたようなではなく、実際にとある悪魔に憑き纏われる毎日だった。しかしこの話ではそんな設定は特に関係ない。彼はこの先特に活躍することもないちょい役である。相対する彼女も今回はこの導入部分でのみ重要な役割を果たす……はずである。
朴は野球のサインのように唐突に手を動かしいくつかの動きを見せたあと、男子寮の入り口を指差し、もう片方の手をぐるぐると回して、顔を白鳥の方を向けてにこにこと笑っている。
「なにい? 勝呂竜士を? 呼び出して来い? だと? ふざけんな。」
何故身振り手振りでそれが伝わるのか、どんな観測者であろうと推察しようのない。しかし白鳥には確かに伝わった。
「あのなあ。俺とあいつはクラスさえ違うんだぜ。あいつは見かけは俺と同類っぽいかもしれないが、優等生で京都の名家の御曹司で俺んちみたいな成金のドラ息子とは違うんだよ。俺みたいなのが声を掛けると絡まれてると誤解されてしまうのがオチだ。」
朴は怪訝な顔して「どうして?」と首を傾げ罪のない疑問を顔に浮かべている。
「おい。頼まれてやんねえとは言ってねえだろ。俺の中の何かがお前には逆らうなといつも警鐘を鳴らしてるんだ。だから見た目大人しそうなお前の頼みを断れねえ。ただし、勝呂が来なかったとしても俺のせいじゃないからな。お前の人選ミスだからな。」
朴はうんうんと頷いて早く行けとばかりに前方に足を蹴りだした。そして白鳥は面倒そうに朴とすれ違って男子寮の中に入っていく。
そして数分後。朴の思惑通り、そして白鳥の思惑に反して勝呂は男子寮の入り口に姿を現した。男子寮の二階の窓から実に不愉快そうな白鳥が顔を覗かせている。朴はにこにこ笑うと腕をぶーんと振り白鳥に向かって石を投げた。それは白鳥の眉間に命中する。
「あ、ありがとうだと。どうせならもっといいように伝えてくれよ。」
白鳥はぶつぶつ言いながら額から流れる血を拭き拭き自室の窓を閉めて引きこもってしまった。
その不可思議な光景を観て見ぬ振りをしていた勝呂は朴に呆れながら怖気づきながら近づく。
「久しぶりやな朴さん。」
「勝呂君久しぶり。ていうか、君、夏休みの始めから出雲ちゃんと行動を共にしてたんだって。」
「いや。それは神木に限ってないし。塾の任務やし。合宿を兼ねた……」
「だけど合宿先は君の実家なわけだったし。言い訳も苦しいよね。それになんだかんだで一日くらい観光してたわけだし、そのあと海にも行ったんだよね。なら私の言いたいことは分かるよね? このどろぼうゴリラ。聞く話によると熱海で出雲ちゃんに狼藉も働いたんだってね。」
「あいつ集団行動やのに、一人でむすっとしとったから。」
「けっ。たかがゴリラが私の出雲ちゃんに対して抗議なんて何様?」
朴は勝呂の言葉をろくに聞こうともしないで吐き捨てる。しかし毒々しい言葉を吐きながらもその顔はいつもの微笑を絶やさない。白鳥に対する必要以上の無口っぷりは影も形もなく、無口加減もこの時のための下準備としか言いようがなかった。
「俺のことゴリラの認識で構わんけど、そないにあんたに今更責められるとは思わんかったわ。いや、でも、一応、謝っとくわ。すんまへん。朴さん。俺は出すぎたことしました。これでええやろか?」
朴は虫を見るような目で勝呂を見た。一瞬だけだったが勝呂の胸になにかがずきりと尖った針を刺した。
「用事はそんだけ? ならもう行ってもええやろか?」
勝呂の足はすでに寮に引き返す方向を向いている。朴はとりあえずは「いいよ」と小声で言った。勝呂はあからさまにほっとしたような顔をしてそそくさと男の園に舞い戻ろうとした。
その時だった。がしっと後ろから手首を捕まれやや捻られるようにその腕は引っ張られた。
「ゴリラの必死なお詫びは一応受け取っておくよ。でもまだ用は済んでないんだな。用はって、何って、聞きたいよね? そうだよね。聞きたいに決まってるよね。そうかしょうがないな。じゃあ言っちゃおうかな。」
勝呂はぶんぶんと首を振る。聞いてしまったら絶対にろくなことにならないと分かっている。しかし勝呂の拒否は形だけになりそうだった。
「あのねえ。出雲ちゃんが君のこと凄く気にしてるんだ。だからこれから私についてきて出雲ちゃんに会って欲しいんだよ。」
朴は凶悪そうな笑顔を浮かべている。勝呂には見えないがそれが伺い知れた。
「神木が俺のこと……いや、誤解やから。それ絶対違うから。」
「いいんだよ。遠慮しなくても私は出雲ちゃんの為ならなんでも出来るから。」
朴は有無を言わさず後ろ向きのままの勝呂を引っ張る。そして鼻歌を歌いながら男子寮とは逆方向に向かって歩き出す。勝呂は転んでしまわないように後ろ向きに歩くのだった。
* * *
熱海のクラーケン事件から一週間が過ぎていた。夏休みの前半も終わろうとしている。しかし正十字学園には実家に帰らず居残っている生徒はぽろぽろといた。都内に実家が有るから家にいようが学園にいようが関係ないとりあえず学園にいたばかりに朴にぱしられた白鳥だとか、普通に進学クラスの夏季講習のある生徒だとか、正十字学園独自の教育、例えば祓魔塾のような特別資格取得を目指す生徒がその例に当てはまる。もちろん出雲もその例に漏れなかった。
何事かを決心して実家から離れている身の出雲にとって、この学園の環境はその思いを最大限に汲み取って貰えているようである意味居心地が良かった。しかしいかんせん友人が少ない故に女子寮の自室に引きこもるのは気が咎めるようで、何かと祓魔塾の小さな図書室もとい資料室で時間を潰すことが多い。そして今も出雲は資料室で一人本を読みながら、しかしその内容はさっぱり頭に入ってこない。溜息が数分間隔で吐き出される。悩ましげに麻呂眉を顰め、少し閉じられた目に睫の影がかかっている。どこからどう見ても物思いに耽る少女の図であった。
思い返すのは夏のある日のこと。クラーケン待ちの自由行動。指揮者兼引率者の霧隠シュラに強制的に水着に着替えさせられた候補生たちは、野郎は全員海パン一丁状態、その中でもひときわ鍛えられた肉体を誇る男がいた。自分の米袋四袋強の体重を軽々と持ち上げた怪力ゴリラの、その広い背中や太い腕に容赦なく太陽の光が降り注いでいた。あのときから頭を占めていたのはあの背中への渇望。
しかしながら互いに嫌いあっているという相互理解が邪魔をする。あの背中を見る前になんでもっと歩み寄っておかなかったのだろうと後悔した。そうすれば後日のアクションも取りやすかったのにと。
『朴ごめん。私どうしても気になって。』
『いつかそういう日が来るとは思ってたよ。私のことは気にせずに、勝呂君に気持ちを伝えたらいいと思うよ。』
『うん……でも、気持ちを伝えても私が望むようにはならないと思う。』
『そんなことはないよ。大丈夫だよ出雲ちゃん。』
朴は協力すると言って出雲の手をそっと握った。朴はいつもそうだった。自分が他人と距離を置きたいときにはそっとしてくれて、ほんの少しでも興味を持った人間との橋渡しはさりげなく協力してくれた。出雲ちゃんのためだからと優しく笑いながら味方してくれた。
こんこんと資料室の戸を誰かがノックした。
「出雲ちゃん。いる?」
「朴。」
「良かった。一人みたいだね。」
戸の影から勝呂が顔を覗かせていた。
「なんであんたがこんなとこにいるのよっ。」
さっきまで勝呂のことを想っていたのに、打って変わっていつもどおりの険の強い表情で相対してしまう。しかし勝呂は事前に朴から出雲が自分を気にしていると聞かされているので、いつもどおりによおとぶっきらぼうに資料室に入ってきた。
「な、なによ。なに勝手に入ってきたのよ。」
「朴さんに叱られて、ついでにここに連れてこられたんや。」
「そうだよ出雲ちゃん。出雲ちゃんは熱海から帰ってきてからずっと勝呂君のこと気にしてたんでしょ。今日で気にして悩むのは終わりにしようよ。一週間だよ。ちょうどいい頃じゃない。」
出雲は一歩だけあとずさったが顎を引き少し俯いた。
「そうよね。一週間も頭から離れなかったんだし。この時間が重要だったわけよね。」
勝呂は取り付く島もなく二人の会話に耳を傾けていたが、あの強気で高飛車で、だけど芯が通っていながらその芯に不安定なところを感じる出雲が、朴の言葉を否定もせずに妙に素直な言動を取っているのを新鮮な驚きで見ていた。
『こいつ。ガセやのうて、本当に俺のこと気にしとったんか。』
甘酸っぱい高揚感と共に、幼馴染の志摩への罪悪感を感じる。なんで世の中、パズルのピースがあうようにいかないのだろう。ここに呼び出されたのが自分ではなく志摩だったら、この場でハッピーエンドが確定していたはずだ。だが自分の心持としては素直でない女が素直な気持ちを吐露している姿を無下に台無しにしてしまいたくない。でも今日この日に確定出来ないのは確かだ。
もし決定的なことを言われたら、何日かの猶予を貰おうと勝呂はこの先の人間関係を、心の天秤や秤や軽量カップや物差しを駆使して全力で最善の結末に導くよう尽くすつもりでいた。
出雲は目の前でもじもじとしながら「あの」と口を開いた。
「ゴリラ。いや、勝呂……」
「言いやすいほうでええわ。さっきまで朴さんからさんざんゴリラ呼ばわりされたし。」
「今日は、勝呂って言わせて。私の素直な気持ち、聞いて欲しいの。」
来た、と確信する。
「な、なんや。いうてみい。」
「あのね……この場で絶対に断らないで欲しいのよ。私せっかく素直になれたんだから。ここで駄目だったら、私は二度と素直になれないかもしれない。」
出雲が勝呂に前置きのように告げた言葉で勝呂は時間を貰うことすら許されない状況になってきた。ここで出雲の気持ちに応えるか、然らずんば一人の女の心に消えない傷を作ってしまうかというぎりぎりの選択を迫られている。この出雲の真剣さからして彼女へ好意を持っているとはいえ友人を代わりに差し出すことは、もはやただの不誠実でしかない。
『なんや。神さんと仏さんにそれぞれ仕えとるもん同士なんに、どうしてどっちにも見捨てられるようなことになっとんやろ。いや、俺が仏さんに試練を与えられとるだけや。ええわ。そんなら俺かて絶対に断らん。そうや。それでええんや。竜士。神木の言葉を素直に誠実に受け止めるんや。』
勝呂の決意を待っていたかのように、出雲は口を開いた。
「朴。私今から言うからね。」
「頑張れ。出雲ちゃん。」
出雲は生唾を飲み込むと勝呂を見上げた。
「お願いがあるの。今すぐシャツ脱いで私にあんたの背中を差し出して欲しいの。」
「背中?」
何かの暗喩だろうか。最近の女子の告白の仕方はよく分からないので、勝呂は「月が綺麗」と同じ種類の言い回しかとしばし考えてしまった。秒数にしてたった五秒ほどだったのだろうか。しかし出雲の態度に苛立ちが見えてきている。
「深読みなんてしなくていいの! さっさと脱いでよ。それで私に背中を向けて!」
「いや。急に脱げ言われても、そりゃちょお気が早いんちゃうか。朴さんもニコニコせんと親友の暴走止めてやれや。」
「いいんだよ。勝呂君。出雲ちゃんは暴走なんかしてないよ。通常運行だよ。」
そう言いながら勝呂のシャツに手をかけると、やあっと掛け声をかけた。その瞬間にシャツのボタンは全て全開になり、続くはあっという声と共に勝呂の上半身を覆っていた布が剥がされた。
「そう。これよ。強烈な紫外線に晒されて肌が焼けて痛めつけられたあとの、日焼けあとの剥けかけの皮。」
「はあっ?」
ガッツポーズを決める出雲の発言にとんでもない裏切りを感じる前に、勝呂はひたすら狐につままれた気分になった。感極まっている出雲の代わりに朴が勝呂に真実を伝える。
「出雲ちゃんはね、日焼けの皮を剥くのが大好きなんだよ。自分のだけじゃなくて、他人がそんなふうに皮が向けているのを見ると、たまらない気持ちになっちゃうらしいんだ。特に自分じゃ剥けない背中とかの皮が剥けてる人見たら、剥いてみたくてしょうがなくなるんだよ。それも年々ただの日焼けの皮じゃ我慢できなくなって、もっと広くもっと大きく綺麗に剥きたいって、私にいつも夏がくるたびに語ってくれたんだ。一週間前に熱海で君の背中を見たとき、君の日焼け具合から、是非とも自分が君の広い背中の皮を剥きたいって衝動を今日まで私以外には打ち明けられなかったんだよ。いじらしいでしょ。出雲ちゃん。」
朴は嘘泣きを始めた。
「確かに、いじらしいのかもしれへん。せやけど、あんたに打ち明けたいうことは、あんたが俺に具体的なことは話さず、ここへ連れてくることを容認、期待しとったわけや。完璧に俺の意思無視でその気やったわけや。」
勝呂は出雲にとっての一週間の意味を悟る。紫外線に晒されて日焼けした皮膚が新しい皮膚と入れ替わり剥離するまでの時間だったということを。
「なによ。たかが皮じゃない。ぐちぐち言ってんじゃないよゴリラ。」
「ゴリラ呼びが復活しとる! そのたかが皮に恋焦がれとったんは誰や!」
出雲はくっと言葉に詰まったがそれでも自分の口から出た願いは諦める気はないらしく、勝呂の背中に張り付いて爪を立てた。
「お願いだから皮剥かせて。いいでしょ? 痛くしないようにするから。優しく剥くから。私これでも皮むきのテクには自信があるから。絶対に綺麗に剥くから。」
「女が男に皮剥く皮剥く言うな。なんかはしたないしいかがわしいわ。思春期男子のささいなことに対する超反応と妄想力を甘くみんなや。これが志摩やったらあいつの頭ん中でお前どうなっとることやら。」
出雲はそんな心配交じりの怒声など聞いていなかった。すでにかりかりと勝呂の剥けかけの皮膚に爪を立てている。
「動かないでよ。あんたの背中だったら今までの最高面積の皮が剥けそうなの。」
「勝呂君。大人しく椅子に座ってようよ。」
「いや。作業的に机の上に腹ばいのほうがやりやすいから。」
女二人はさくさくと皮むきに適した作業場を整えて勝呂を腹ばいに寝かせている。
「いや。すごい屈辱やわこの格好。」
「早めには終わらせるつもりだから。本当に私がここまでお願いしてるんだから、だから。」
「わかったわ。」
勝呂が黙ると出雲も黙った。そして顔は見えないが出雲が勝呂の背中に一心不乱になっている様子が伝わってくる。細い指が細心の注意を払って自分の背中の皮を剥いている。時折小さく声を上げ吐息の音も聞き取れた。
勝呂は唐突に実家の両親を思い出した。母親が父親を膝枕して耳かきで妙に一生懸命に大きな耳垢を掘ろうとしている。ティッシュには戦利品の父親の耳垢が誇らしげに並べられていた。母親もその耳カスを掘るためだけに、夫に対して一ヶ月間の耳掃除禁止令を下したことがある。父親はその妻の強制に従って律儀に耳垢を溜めて、誰にも自分の耳掃除を許さなかった。夫婦間のそんな有様に子どもだった勝呂はどんびきした覚えがある。うちのおとんとおかんは仲が良いというよりは、おかんの執念に対して道具にされている父が哀れだった。
そして夫に対してしたことを、息子にもやろうというのが自分の母親だった。しかし勝呂はそれに頑なに抵抗した。俺の耳は俺の嫁はんの為にとっとくんや、そんときまでは小さな子どもやあるまいし自分で掘るわと苦し紛れに言い訳したら、母は案外あっさりと「そう」と寂しそうに引き下がってくれた。
あのとき母親に対して頑なだった自分は今、罰を受けているのかもしれない。自分のことを屁とも想っていない女に服を剥がされ、背中の日焼けの皮を蹂躙されている現実。それでも勝呂は妙なあたたかさめいた心地よさを覚えていた。
「なんか……気持ちええな。」
「気色悪いこと言うな。手元が狂うじゃない。」
「あー。はいはい。」
勝呂は出雲の甲高い声を聞き流すと、完全に顔を伏せて目を閉じた。出雲は相変わらずかりかりと自分の背中を掻いている。まるで小動物に背中を這われているようなくすぐったさ。
『日焼けの皮むきで済んで良かったわ。今日はそういうことにしたろ。日焼けの皮むきで嫉妬するほど、志摩も小さい男やあるまいし。』
しかし何気なしに数日後志摩にこのことを報告したら盛大に嫉妬されることを、勝呂はこのとき知る由もなかった。そしてその嫉妬の意味を汲み取れない鈍い自分を自覚するのはまだまだ先の話だった。
もう十月きてしまいましたが夏の終わりの物語でした。今回もぱしられる白鳥くん。
☆「逆境破戒覇王無頼賭食伝レイジ」奥村兄弟+白鳥 ギャグ
燐と雪男が旧男子寮に暮らし始めて以来、何回目かの珍事が起きた。悪魔のイタズラのせいでガスと電気が止まった。しかし出自がボロ教会の二人にとってはささいなことだった。それぐらいのことは小さな頃から慣れていたので二人とも慌てることはなかったが、ただし今回に限り不測の事態が二人を襲っていた。
「俺ってさあ、サタン様の息子なんだよな。その若君なんだよな。」
「そうだね。兄さんは悪魔のビッグダディの愚息だったよね。」
「ならなあ、その若君様のささやかな暮らしに、下っ端どもが支障を来すような真似はしないのが当たり前なはずだよな。なんで電気とガスが止められなくちゃいけないんだ。あ。でも夜に勉強出来なくなるからいっか。」
「蛍の光窓の雪っていう歌の一節は知ってるよね。兄さんの悪魔的視力なら月明かり星明りでも事足りるんじゃない?」
「ちっちっち。月明かりや星明りはラブラブな二人のためにあるんだぜ。なあ雪男。」
「きゃっ。兄さん。はずかし……」
燐と雪男は傍で見ているクロの冷めた視線に慌てて襟を正した。クロは一声にゃあと鳴く。燐はクロの頭を撫でながら呟いた。
「そうだな。クロ。あれをどうにかしなきゃいけなかったよな。」
クロは何事か燐に告げたらしい。それは今回の事態の唯一の問題を指摘していた。電気とガスが止まることによって、由々しき事態が進行中であった。
「なあ雪男。どうしたらいいんだろうな。」
「そうだね。でも、どうするかはもう決まってるじゃないか。」
燐は観念したように溜息をつく。
「他に方法思いつかないし。俺とお前とクロ。男が三人いるんだ。今夜中にはなんとかなるはずだ。」
雪男はファイトと心の篭らない掛け声をかけ、燐も応とそれに倣った。
* * *
白鳥零二。
青の祓魔師の第一話に登場しているわりには、世界観説明用の悪魔の憑依体としてしか扱われなかったDQNキャラである。名前からして次男かなと思わせるが、その上の零は親の名づけセンスを疑ってしまう。正十字学園一年生、学業は優秀じゃなさそうなので、普通科に入学してきた実家は金持ちのボンボンだ。
夕暮れ時の補習からの帰り道、うざい教師からの生活指導に辟易しながら寮に足を向けていた。そして丘の上にある旧寮が見える場所で何やら集まっている人だかりを見つけた。
「煙が出てる。火事なのかな?」
白鳥と同じように補習を受けていたらしい女子生徒の数人の中の朴という女が声を上げる。火事を疑ってる割には携帯を取り出して消防に通報する仕草は見せていない。至極他人事のような態度だった。
「まあ火の手は上がってないみたいだし、あんだけ中も外もボロボロだったら燃えても大して被害は無いだろうし。私を酷い目に合わせたゾンビみたいな悪魔もちょうどよく居合わせて燃えちゃえばいい気味だし。」
朴の独り言を聞いていた白鳥は、この女あの寮の内部に入ったことがあるんだろうかと怪訝な目で見てしまう。男子寮に入り込んだり、その中でゾンビのような悪魔と遭遇したり、その悪魔が焼死すればいいと物騒なことを言っている女。白鳥は早足で通り過ぎようとした。
数メートル朴から離れたところで振り返ると朴はにこっと笑って白鳥に会釈した。そしてそのあと旧寮を指差し『行ってみる?』と目顔で問いかけてきた。白鳥はぶんぶんと首を振るが、朴は相変わらず旧寮の方を指差し、もう片方の腕をぶんぶん振り回している。
すなわちそれは白鳥に行って来いと告げているらしい。面識のない女に無言の指図をされるのは白鳥にとって屈辱だったが、見かけに寄らない物騒さを感じ取った白鳥は苛立ちを隠さないまま旧寮に寄り道が決定してしまった。
* * *
今は夏休み後半であった。つまり一番暑い季節である。旧寮にはクーラーがないので奥村兄弟は涼を取ることに関しては最初から度外視している。夏なので風呂の湯が出ないこともあまり気にしていない。水風呂に入ればいいからだ。
洗濯だって手洗いのスキルはあるので電気関係の修理が終わるまでどうにかなる。そして照明は燐の特訓の為の蝋燭が大量に余っているのでライターなり青い炎があればいい。問題は雪男の仕事用のパソコンだが、塾にいるときに電源を借りられれば解決する。携帯電話の充電もメフィストに理由を説明すれば上記の方法でも許してくれるだろう。
あらかたの問題点は解決した。衣食住の衣と住は解決した。
「それにしても思わぬ落とし穴があったぜ。」
「そうだね。」
二人は玄関先でしゃがみこんで、七輪を団扇でぱたぱたと扇いでいる。その上に乗せられた金網には魚が焼かれていた。焼けるにつれてその脂が炭の上に落ちる。じゅっという音と共に煙が立つ。そこから少し離れたところでは飯ごう炊飯が行われていた。野外研修以来のキャンプ状態だった。
白鳥と朴らが目撃した旧寮から立ち上っていた煙は、奥村兄弟がごく原始的な方法で夕餉を作っているが故に発生しているものだった。
「おい雪男。お前の上司のあのピエロに今度こういう非常事態の為の自家発電電源でも吹っ掛けてこいよ。」
「えー……そんな怖いこと僕にさせる気? 兄さんこそあの人に後見されてるんだから、僕よりよっぽど要求が通るんじゃないの?」
「俺の支給されてる生活費、前にも言ったことあるけど二千円だぜ。あいつにとって得したり面白そうなことがなけりゃあ、俺のお願いじゃ通らないぜ。」
「なら僕はなおさらじゃないか。」
そんなふうなお互いへの擦り付け合いを繰り返しながら、兄弟の目はひたすら七輪の上を向いていた。その横にある大きなビニール袋の中身に目を移すと、互いに深い溜息をついた。
「一晩あればどうにかなるって話だったけど、一晩たったらある意味アウトじゃない?」
「だからどうしても今晩中に全てを終わらせるしかないんだ!」
「兄さん。暑苦しいよ。七輪だけで十分に暑苦しいんだから、これ以上暑苦しくされたらある意味僕達に残された時間が短くなっちゃう。今の僕達に必要なのは完璧な身体のコンディションを保ちながら、気力の減退も極力抑えることじゃなかったっけ。」
「そうだった。ほれ、これは雪男のぶん。次はクロのぶん。」
『やっとおれに回ってきた。』
雪男の皿に焼けた魚を箸で置く。
そのとき、皿の上に急に影が差した。
「あはは。なんだそんな貧乏臭い焼き魚。貧乏人の食い物は見るからに貧乏くさいな。」
燐は見上げると怪訝そうに「ああん?」と不良時代の片鱗を窺わせる声を上げた。
「てめえこそ鳩を撃ってたじゃねえか。あれは晩御飯のおかずじゃなかったのか?」
「遊びだよ遊び。」
燐は遊びかよと吐き捨てるように小声で言った。鳩の件は言い返すつもりはないらしいが、別のことで燐は黙らずにはいられなかった。
「秋刀魚だぞ秋刀魚。旬で初物だったら結構な高級魚だろ! しかも良い栄養があるんだぞ。雪男は秋刀魚ばっか食べてるから頭が良いんだ。」
「じゃあてめえは?」
「俺は、これ以上馬鹿にならないように。予防してるんだ。」
あまり胸を張って言えない事実だった。白鳥は噴出してしまった。
「どっちにしたってびんぼくさいのは、びんぼくさいんだよ。なんだよその七輪。そんなびんぼくさいもので焼くから、余計に貧乏臭く見えるぜ。」
「お前、このびんぼくさい七輪が七輪だってわかってるじゃねえか。そういうときはさりげに知らない振りするところだろう。」
「白鳥君。七輪で焼いた魚は寧ろ贅沢なんだよ。」
雪男の目線の冷たさに白鳥は後ずさる。
「そ、そういうのはなんだアレ、わざとらしいじゃねえか。レトロなシチュエーションを楽しむってやつ? はあ……。貧乏臭い上にじじ臭いぜ。」
燐は無言で魚をひっくり返す。
「今俺たちの寮、ガスが止まってるんだ。電気もな。」
「貧乏臭いんじゃなくて、本当に貧乏なんだな。」
「光熱費を滞納したわけじゃないんだよ。そう、悪魔のせいでこんなことになってるんだ。」
「悪魔」という言葉に白鳥はぴくっと反応する。白鳥は少し前に自分が悪魔に憑依されたことを自覚している。そして現在も自分の後ろで「わかぎみ? わかぎみ?」と肩に手を置いて燐を覗き込む何かを感じている。
『わかぎみじゃねえんだよ!』
白鳥は心の中で何かを威嚇した。何かはぱっと白鳥から手を離した。雪男と燐も白鳥の背後の何かに気づいてはいたが、全力でスルー中だった。
旧寮の招かれざる客・白鳥は、気を取り直して再び燐にいちゃもんを付けようと口を開く。
「俺なんか親が金持ちだからさ、高級な鯛とか平目とか河豚とかしか食ったことはないんだよ。しかもそんな頭が付いた状態の魚なんてダサくてさあ、俺ん家のシェフはいつもスタイリッシュなフレンチだのイタリアンだのしか作らないから、そんな原型のまま塩振って焼くだけの魚なんて信じらんねえよ。」
燐と雪男は顔を見合わせて頷きあう。
「だからお前は頭悪いんだな。」
「秋刀魚をせっせと食ってなお頭が悪いお前が言うな!」
貧乏人には皮肉も通用しないのかと、白鳥はわざとらしく自分の頭に手を添えた。
「はあ……。」
ことさらに溜息をつく白鳥だった。屈んでいる雪男が上目遣いに白鳥を見つめている。
「な、なんだ?」
「フレンチやイタリアンが高級ってイメージも、なんか貧乏人っぽいよね。いかに画一的な食事しか体験してないっていうのも暗に露呈されてるよね。」
鯛の尾かしら付とか、塩釜焼きとか、生け作りとか、雪男はぶつぶつと白鳥に聞こえよがしに呟いている。兄が率直に言い返すのに、弟は自分の賢さを最大限に活用して嫌味だった。そんな風に兄弟二人からステレオ状態で言われると、まるで自分のほうがいびられているような気分になってくる。
「お前ら、総合的に言うと俺の視野が狭いって言いたいんだな?」
「そうだな。俺たちはそれが言いたかったのかもしれない。」
燐が遠い目をして穏やかに口にした。
「そう言ってるじゃねえか。何を謙遜したような言い方するんだよ。いちいちむかつくんだよ。いやだいやだ。貧乏人のマイペース。」
京都での不浄王や熱海でのクラーケンを体験した燐にとっては、元悪魔憑きの不良なんてまさしく雑魚にしか感じられなかった。その上での余裕のある対応だった。
「確かにお前の家は金持ちで、俺たちは貧乏なのかもしれない。だけど食ったことのないものを頭から貧乏臭いと決め付けるのは、金持ちの驕りを通り越して、タダの無知でしかない気がするんだ。白鳥。お前は本当に秋刀魚の塩焼きを食ったことがないのか?」
「ああ。食ったことないぜ。」
燐は哀れむような目を白鳥に向ける。下から目線(物理的な意味)で。
「古今東西。貧乏人の食い方がある意味贅沢だったという逸話は幾らでもある。どうだ、白鳥。数々の逸話に裏付けられた俺の言い分、聞いてみないか?」
まるで哲人のような燐の言葉に再び白鳥は後ずさる。後ろの何かは自分の背後で正座して燐の言葉を傾聴して感心しているような気がする。白鳥は絶句したままどうやってこの場をやり過ごし、撤退しようかと目線を泳がして思案していた。そんな白鳥の様子を察したのか、燐が先に口を開いた。
「食ってみるか?」
「は?」
天から降ってきたような燐の言葉だった。燐は淡々と白鳥に向かって語りかける。
「もし今焼きあがる出来立ての秋刀魚の塩焼きが、どうしても旨いと感じられないなら、その時こそ俺たちを貧乏人だと罵ればいい。俺たちはその言葉を真摯に受け止めよう。そして金持ちに勝てなかった貧乏人として、これからも慎ましく生きていく。お前は金持ちの家に生まれた幸運を誇ればいい。」
「兄さん! そんな白鳥君の主観に頼るようなこと。」
燐の隣から雪男が身を乗り出す。
「白鳥君は嘘をつくかも、いや、嘘をつくに決まっている。それに白鳥君が特定の味しか美味と感じない、そんな味音痴だとしたら兄さんの提案は馬鹿みたいじゃないか!」
「雪男。いいじゃねえか。俺たちが戦うべき金持ちは白鳥だけじゃねえ。あのピエロとかピエロとかピエロとか。」
雪男は燐の卑屈なまでの金持ちへの反抗心に涙が出そうになった。だが兄はうっすらと口元に笑みを作っている。まるで白鳥という憎き金持ちに勝とうが負けようがどうでもいいという顔だった。
ふと雪男が思い当たったのは、兄がわざと白鳥を挑発しているのではないかというものだった。兄は、白鳥に微笑みながら秋刀魚を乗せた皿を差し出している。雪男ははっと兄の秘策を悟った。そして自分は兄をアシストするために寮の中に走った。
「おい。お前の弟、お前の馬鹿馬鹿しさに悲しくなって寮の中に逃げちまったぜ。」
「いいんだよ。それより食えよ。焼きたては旨いはずだぜ。もう夕食時だから腹減ってるだろ?」
燐の隣でクロが鳴く。
『おれのだって約束だっただろ?』
「また焼くから。それに、お前の取り分だけは減らすつもりはないから。さ、白鳥。食ってみろよ。」
白鳥はおずおずと燐から秋刀魚の皿と箸を受け取った。確かに腹は減っている。つまり何を食っても美味しいと感じやすいコンディションである。たぶん燐の最大の勝算は空腹という名の調味料だろう。だが白鳥だって自分の舌が肥えているというプライドがある。そのプライドを打ち崩すだけの味でなければ、容赦なく「不味い」と嘲る気満々だった。
「そこまで言うなら、食うぞ。」
塩味の青魚を大雑把に焼いただけの料理。しかし何故か恐れを感じる白鳥だった。白鳥にとって秋刀魚というのは未知の味だった。箸で身を摘むと炭火で焼かれた皮がぱりっと音を立て、じゅわっと湯気と脂が溢れてきた。
『慌てるな零二。奴が高級だと言っていたのは、旬の、しかも初物の秋刀魚だ。そんなものをこいつらが買っているわけがない。しかも今は秋刀魚の旬には早いはず。つまりこの秋刀魚は去年の冷凍品だ。品質も味も劣っているに違いない。何せ去年命を落として、死後一年近くも冷凍保存されていた魚の死体なんだ。これは。』
旨いわけがない。旨いわけがないと唱えながら白鳥は秋刀魚を口に入れた。
「ふ、ふふふふふ……」
気味の悪い笑みを浮かべて白鳥は燐に告げる。
「不味い。」
「なら返せ。不味いと思われてるものを、これ以上食わせる悪趣味は俺には無い。」
白鳥はしろどもどろになって言う。
「いや。一口食べただけの感想だ。二口目も試してみなければわからない。」
白鳥は焦ったように再び身を摘み口に運び、燐が何かを言う前に白鳥は再び不味いと叫ぶ。そう言いながら白鳥の箸は止まらなかった。まるで燐に取り上げられることを恐れるように高速で箸を動かし、秋刀魚を蹂躙している。
「不味い。不味い。不味い。」
それは何回も悪し様に言うことで秋刀魚の不味さを主張し、秋刀魚の味を無理にでも貶めようとしているようだった。
「兄さん。不味いって言葉が聞こえてきたけど。」
息を荒げながら雪男は何かを乗せた盆を持って駆けつけてきた。
「おー。雪男。白鳥がどうしても秋刀魚が不味いってよ。」
雪男はつかつかと白鳥に近づき、盆の上に乗せたものを差し出す。
「白鳥君。秋刀魚だけだと味気ないよね。良かったら兄さんが作った、この切干大根の煮物はどう? それと秋刀魚は大根おろしとポン酢を掛けると美味しいんだよ。」
雪男は手招きして玄関の段差を椅子代わりに白鳥を座らせる。白鳥はふんぞり返って燐と雪男に告げる。
「また貧乏臭いもんが増えたな。お前らの挑戦は全部受けてやる。」
白鳥は大根おろしとボトルのポン酢を秋刀魚にかけ、再び口に運ぶ。その間に雪男は茶碗によそった飯ごうの白飯をそっと白鳥の前に置いた。
「あー……。ポン酢の酸っぱさと大根おろしの水っぽさが交じり合って不味い。なんか秋刀魚の脂が中和されてるようで、口の中さっぱりしすぎ。」
すかさず炊き立ての白飯を口に運ぶ。
「炊き立ての飯。あまったるー。もちもちしてて適度な粘り気なんてふざけんじゃねえよ。」
燐は白鳥の横で遅れたクロの取り分を焼き終えている。その頃には白鳥の皿の一匹目の秋刀魚は完食されていた。白鳥はクロが秋刀魚を旨そうに食っている様を見て下品な笑い声を上げた。
「猫と同じもん食ってんのかよ!」
しかし燐と雪男は気にしない。
「すぐに次が焼きあがるからな。少し待ってろよ。」
白鳥はちっと悪態をつく。
「まったく。飯を出した癖におかずが間に合ってねえじゃねえか。」
クロは一旦秋刀魚を食べるのを止め、不愉快な客のことで燐に抗議する。
『りん。あいつぜったいうまいっておもってる。だからつぎをさいそくしてるんだ。あいつはとんでもないおおうそつきだ。』
燐は分かってるんだという目をクロに向ける。そして切干大根の煮物を指差した。
「それ食って待ってろよ。」
白鳥は怪訝な顔をする。旨いものを不味いと言って、まんまとただ飯にありついていたが、切干大根の煮物については、もしかしたら美味しいかもしれないとすら思えなかった。
色彩に乏しい茶色で、大根の本来の瑞々しさを犠牲にして保存性だけに特化した食材。それに申し訳程度に一緒に煮られた細切のニンジンと油揚げが、ほぼ切干大根と同化してしまっている。
しかしこれを食べなければ次の秋刀魚まで間が持たない。そして秋刀魚に口を付ける前の『金持ちの無知』という自分が退けたはずの燐の仮説を、また復活させてしまう。
「……しょうがねえな。」
白鳥は切り干し大根を箸で摘んで目を瞑って口に運んだ。口に入れる寸前、鼻腔に微かな出汁の香りが飛び込んできた。
『不味いに決まってるだろ、こんなもん!』
白鳥は怒りを露にしていた。
「こんな、こんな出汁が染みた……しなびたどころか、ミイラ化した大根が旨いはずねえよ。乾燥した大根が出汁を吸い込むなんて、そんなのインチキだろうが。揚げからも出汁が出ているなんて、それもイカサマだろうが! 炒り煮されたニンジンが甘いなんて、冗談じゃねえぜっ。ゴマのアクセントで茶を濁そうなんて卑怯だろうが!」
『りん。こいつうざい。』
クロはすっかり食欲を失くしていた。せめてもう少し音量を下げて感想を言えばいいのに、いちいち大声で叫ぶものだから、うざすぎる。何よりも本音はともかく言葉で、クロにとって親友である燐を貶し続ける根性が気に食わなかった。しかし燐は相変わらずニコニコと秋刀魚を焼いて白鳥を持て成している。クロも燐の目的は分かっているが、この無礼な小僧を持て成さなくてもいいのにと頭痛を覚えていた。
クロの人間としての姿はオッサンである。すなわち可愛らしく見せてもクロの本質はオッサンである。最近の礼儀知らずな若者に辟易する神経は持ち合わせていた。
燐は白鳥が完食した秋刀魚の骨をどけると、さらに新しく焼かれた秋刀魚を乗せ、お待ちどうさまと微笑みかける。おうと白鳥は偉そうに答える。再び高速で秋刀魚をわしわしと貪り食う。合間に飯をかきこみ、おかわりと言って茶碗を雪男に差出し、時々切り干し大根の煮物を口に運んだ。
「……う。」
そのとき、白鳥の動きが急停止した。燐が怪訝そうに白鳥の顔を見る。白鳥は苦しそうに箸を持ったまま顔を歪ませたあと、五割り増しほど凶悪な顔に変貌して、燐のほうを向いてお久しぶりですと言った。
「……美味しいです。若君。」
ヤギの角を生やして感涙する白鳥がいた。
「アスタロト。また白鳥に憑依して……」
「だって、だって……この小僧ったら若君に失礼すぎます。美味しく若君が料理なさったものを不味いと罵倒し続け、その癖貪り続ける傲慢さ。」
「いや。俺は白鳥が秋刀魚さえ食ってくれればそれでいいんだよ。」
「それなら私めが、この小僧の身体を使って若君が望むだけ食べますから。」
うーんと燐は考えながら「まあいっか」と口にした。
「その秋刀魚食ってもいいから、食い終わったら白鳥への憑依を解除してやれよ。こいつ本当に腹減ってるみたいだから。」
「若君はお優しい。その人間への優しさ故に虚無界にお戻り下さらないなんて、なんて非情なめぐり合わせなんでしょうか。」
燐は困ったように頭を掻く。悪魔否定派の雪男は普通ならそんな兄と悪魔の馴れ合いに目くじらを立てそうだが、燐と共通した達成すべき目的があるために敢えて口は出さなかった。
アスタロトは秋刀魚を一匹平らげると、ごちそうさまと言って満面の笑みで憑依を解除した。意外と素直に言うことを聞いてくれた。しかし素直じゃない白鳥は目の前から秋刀魚が消えた事実に憤慨していた。
燐はまあまあと宥めながら次に焼きあがった秋刀魚を皿に乗せてやる。白鳥はとうとう感想らしき言葉を口にせず、無言で秋刀魚を貪り食うのであった。
白鳥は四匹目の秋刀魚を完食し、雪男が気を利かせて淹れた茶を飲み干すとほーっと息を吐いた。
「あー。不味かった。」
しかし顔は満足そうだった。
「よしよし。ノルマ達成だな。」
「ノルマ?」
白鳥はきょとんとした顔をして違和感に思った言葉を口にする。
「寮の電気が止まったって言っただろう。冷蔵庫の中に冷凍していた秋刀魚が十四匹あってな。七日分を一日一食。それを二人分でストックしてたら、それが仇になっちまったんだ。」
「兄さんが安いからって馬鹿買いするから。」
雪男がぶつぶつと文句を言っている。白鳥はなんとなく事情を察してしまった。
「お前ら、俺を……秋刀魚を大量消費させるための頭数にしたんだな。」
燐はてへっと言ってぺろっと舌を出した。
「夏場だからあっという間に解凍されるし、すぐ悪くなるし。季節柄食中毒は怖いし。だけど勿体ないし。クロが二匹で、俺たちが六匹ずつ食わねえと駄目かなって話してて。だけどお前がちょうど来てくれたんだ。お陰で一人四匹ノルマで済んで良かった。食い物ってやっぱ美味しいって思える分だけ食うのがいいよな。流石に六匹って俺も雪男も自信がなくって。」
「味方……しえみさんとかを呼んでごちそうするっていう考えもなかったわけじゃないけど、友達にそんな恥を晒すのもなんだか躊躇われて。それに、今のここの状態じゃ人を呼んで食事会も難しかったし。あー。でもご飯は多めに炊いておいて良かったよ。」
「そうだな。おかずだけ余ったら悲惨だからって保険かけといたんだよな。」
白鳥はわなわなと震えている。そうか自分は友達じゃないから恥を晒してもいいし、突然来たわけだから食事会の体裁も取らなくていい。所詮自分は、体の良いあまりモノ処理に担ぎ出されただけだった。
「ふっ。そんなの最初から分かってたぜ。貧乏人のそんな企みに気がつかない俺だと思ってたのかよ。」
完全に負け惜しみだった。白鳥は立ち上がって奥村兄弟に指を差す。
「いいな。貧乏兄弟。特に兄。安いからって馬鹿買いすんじゃねえぞ。却って不経済なんだから。」
「そうだよ兄さん。彼の言うとおりだ。」
雪男の同意を追い風に白鳥は言いたいことを言う。
「必要なものは必要な時に必要な分だけ買え!」
「えー。出来るかな俺。」
貧乏性な燐は首を傾げていた。
「まあ、別にいい。またこんなことがあれば俺を呼べ。この白鳥零二様を崇め奉り招待しろ。何せ貧乏人は金の失敗を学習しないからこその貧乏人だからな!」
奥村兄弟は白鳥の小言を他所に自分達の分の秋刀魚を焼いては食べ始めていた。
今さらの白鳥君でした。なんかこれから書くものに登場してきそうで怖いです。連載を一回休みでギャグで失礼しました。次からまたシリアスに戻ります。
「俺ってさあ、サタン様の息子なんだよな。その若君なんだよな。」
「そうだね。兄さんは悪魔のビッグダディの愚息だったよね。」
「ならなあ、その若君様のささやかな暮らしに、下っ端どもが支障を来すような真似はしないのが当たり前なはずだよな。なんで電気とガスが止められなくちゃいけないんだ。あ。でも夜に勉強出来なくなるからいっか。」
「蛍の光窓の雪っていう歌の一節は知ってるよね。兄さんの悪魔的視力なら月明かり星明りでも事足りるんじゃない?」
「ちっちっち。月明かりや星明りはラブラブな二人のためにあるんだぜ。なあ雪男。」
「きゃっ。兄さん。はずかし……」
燐と雪男は傍で見ているクロの冷めた視線に慌てて襟を正した。クロは一声にゃあと鳴く。燐はクロの頭を撫でながら呟いた。
「そうだな。クロ。あれをどうにかしなきゃいけなかったよな。」
クロは何事か燐に告げたらしい。それは今回の事態の唯一の問題を指摘していた。電気とガスが止まることによって、由々しき事態が進行中であった。
「なあ雪男。どうしたらいいんだろうな。」
「そうだね。でも、どうするかはもう決まってるじゃないか。」
燐は観念したように溜息をつく。
「他に方法思いつかないし。俺とお前とクロ。男が三人いるんだ。今夜中にはなんとかなるはずだ。」
雪男はファイトと心の篭らない掛け声をかけ、燐も応とそれに倣った。
* * *
白鳥零二。
青の祓魔師の第一話に登場しているわりには、世界観説明用の悪魔の憑依体としてしか扱われなかったDQNキャラである。名前からして次男かなと思わせるが、その上の零は親の名づけセンスを疑ってしまう。正十字学園一年生、学業は優秀じゃなさそうなので、普通科に入学してきた実家は金持ちのボンボンだ。
夕暮れ時の補習からの帰り道、うざい教師からの生活指導に辟易しながら寮に足を向けていた。そして丘の上にある旧寮が見える場所で何やら集まっている人だかりを見つけた。
「煙が出てる。火事なのかな?」
白鳥と同じように補習を受けていたらしい女子生徒の数人の中の朴という女が声を上げる。火事を疑ってる割には携帯を取り出して消防に通報する仕草は見せていない。至極他人事のような態度だった。
「まあ火の手は上がってないみたいだし、あんだけ中も外もボロボロだったら燃えても大して被害は無いだろうし。私を酷い目に合わせたゾンビみたいな悪魔もちょうどよく居合わせて燃えちゃえばいい気味だし。」
朴の独り言を聞いていた白鳥は、この女あの寮の内部に入ったことがあるんだろうかと怪訝な目で見てしまう。男子寮に入り込んだり、その中でゾンビのような悪魔と遭遇したり、その悪魔が焼死すればいいと物騒なことを言っている女。白鳥は早足で通り過ぎようとした。
数メートル朴から離れたところで振り返ると朴はにこっと笑って白鳥に会釈した。そしてそのあと旧寮を指差し『行ってみる?』と目顔で問いかけてきた。白鳥はぶんぶんと首を振るが、朴は相変わらず旧寮の方を指差し、もう片方の腕をぶんぶん振り回している。
すなわちそれは白鳥に行って来いと告げているらしい。面識のない女に無言の指図をされるのは白鳥にとって屈辱だったが、見かけに寄らない物騒さを感じ取った白鳥は苛立ちを隠さないまま旧寮に寄り道が決定してしまった。
* * *
今は夏休み後半であった。つまり一番暑い季節である。旧寮にはクーラーがないので奥村兄弟は涼を取ることに関しては最初から度外視している。夏なので風呂の湯が出ないこともあまり気にしていない。水風呂に入ればいいからだ。
洗濯だって手洗いのスキルはあるので電気関係の修理が終わるまでどうにかなる。そして照明は燐の特訓の為の蝋燭が大量に余っているのでライターなり青い炎があればいい。問題は雪男の仕事用のパソコンだが、塾にいるときに電源を借りられれば解決する。携帯電話の充電もメフィストに理由を説明すれば上記の方法でも許してくれるだろう。
あらかたの問題点は解決した。衣食住の衣と住は解決した。
「それにしても思わぬ落とし穴があったぜ。」
「そうだね。」
二人は玄関先でしゃがみこんで、七輪を団扇でぱたぱたと扇いでいる。その上に乗せられた金網には魚が焼かれていた。焼けるにつれてその脂が炭の上に落ちる。じゅっという音と共に煙が立つ。そこから少し離れたところでは飯ごう炊飯が行われていた。野外研修以来のキャンプ状態だった。
白鳥と朴らが目撃した旧寮から立ち上っていた煙は、奥村兄弟がごく原始的な方法で夕餉を作っているが故に発生しているものだった。
「おい雪男。お前の上司のあのピエロに今度こういう非常事態の為の自家発電電源でも吹っ掛けてこいよ。」
「えー……そんな怖いこと僕にさせる気? 兄さんこそあの人に後見されてるんだから、僕よりよっぽど要求が通るんじゃないの?」
「俺の支給されてる生活費、前にも言ったことあるけど二千円だぜ。あいつにとって得したり面白そうなことがなけりゃあ、俺のお願いじゃ通らないぜ。」
「なら僕はなおさらじゃないか。」
そんなふうなお互いへの擦り付け合いを繰り返しながら、兄弟の目はひたすら七輪の上を向いていた。その横にある大きなビニール袋の中身に目を移すと、互いに深い溜息をついた。
「一晩あればどうにかなるって話だったけど、一晩たったらある意味アウトじゃない?」
「だからどうしても今晩中に全てを終わらせるしかないんだ!」
「兄さん。暑苦しいよ。七輪だけで十分に暑苦しいんだから、これ以上暑苦しくされたらある意味僕達に残された時間が短くなっちゃう。今の僕達に必要なのは完璧な身体のコンディションを保ちながら、気力の減退も極力抑えることじゃなかったっけ。」
「そうだった。ほれ、これは雪男のぶん。次はクロのぶん。」
『やっとおれに回ってきた。』
雪男の皿に焼けた魚を箸で置く。
そのとき、皿の上に急に影が差した。
「あはは。なんだそんな貧乏臭い焼き魚。貧乏人の食い物は見るからに貧乏くさいな。」
燐は見上げると怪訝そうに「ああん?」と不良時代の片鱗を窺わせる声を上げた。
「てめえこそ鳩を撃ってたじゃねえか。あれは晩御飯のおかずじゃなかったのか?」
「遊びだよ遊び。」
燐は遊びかよと吐き捨てるように小声で言った。鳩の件は言い返すつもりはないらしいが、別のことで燐は黙らずにはいられなかった。
「秋刀魚だぞ秋刀魚。旬で初物だったら結構な高級魚だろ! しかも良い栄養があるんだぞ。雪男は秋刀魚ばっか食べてるから頭が良いんだ。」
「じゃあてめえは?」
「俺は、これ以上馬鹿にならないように。予防してるんだ。」
あまり胸を張って言えない事実だった。白鳥は噴出してしまった。
「どっちにしたってびんぼくさいのは、びんぼくさいんだよ。なんだよその七輪。そんなびんぼくさいもので焼くから、余計に貧乏臭く見えるぜ。」
「お前、このびんぼくさい七輪が七輪だってわかってるじゃねえか。そういうときはさりげに知らない振りするところだろう。」
「白鳥君。七輪で焼いた魚は寧ろ贅沢なんだよ。」
雪男の目線の冷たさに白鳥は後ずさる。
「そ、そういうのはなんだアレ、わざとらしいじゃねえか。レトロなシチュエーションを楽しむってやつ? はあ……。貧乏臭い上にじじ臭いぜ。」
燐は無言で魚をひっくり返す。
「今俺たちの寮、ガスが止まってるんだ。電気もな。」
「貧乏臭いんじゃなくて、本当に貧乏なんだな。」
「光熱費を滞納したわけじゃないんだよ。そう、悪魔のせいでこんなことになってるんだ。」
「悪魔」という言葉に白鳥はぴくっと反応する。白鳥は少し前に自分が悪魔に憑依されたことを自覚している。そして現在も自分の後ろで「わかぎみ? わかぎみ?」と肩に手を置いて燐を覗き込む何かを感じている。
『わかぎみじゃねえんだよ!』
白鳥は心の中で何かを威嚇した。何かはぱっと白鳥から手を離した。雪男と燐も白鳥の背後の何かに気づいてはいたが、全力でスルー中だった。
旧寮の招かれざる客・白鳥は、気を取り直して再び燐にいちゃもんを付けようと口を開く。
「俺なんか親が金持ちだからさ、高級な鯛とか平目とか河豚とかしか食ったことはないんだよ。しかもそんな頭が付いた状態の魚なんてダサくてさあ、俺ん家のシェフはいつもスタイリッシュなフレンチだのイタリアンだのしか作らないから、そんな原型のまま塩振って焼くだけの魚なんて信じらんねえよ。」
燐と雪男は顔を見合わせて頷きあう。
「だからお前は頭悪いんだな。」
「秋刀魚をせっせと食ってなお頭が悪いお前が言うな!」
貧乏人には皮肉も通用しないのかと、白鳥はわざとらしく自分の頭に手を添えた。
「はあ……。」
ことさらに溜息をつく白鳥だった。屈んでいる雪男が上目遣いに白鳥を見つめている。
「な、なんだ?」
「フレンチやイタリアンが高級ってイメージも、なんか貧乏人っぽいよね。いかに画一的な食事しか体験してないっていうのも暗に露呈されてるよね。」
鯛の尾かしら付とか、塩釜焼きとか、生け作りとか、雪男はぶつぶつと白鳥に聞こえよがしに呟いている。兄が率直に言い返すのに、弟は自分の賢さを最大限に活用して嫌味だった。そんな風に兄弟二人からステレオ状態で言われると、まるで自分のほうがいびられているような気分になってくる。
「お前ら、総合的に言うと俺の視野が狭いって言いたいんだな?」
「そうだな。俺たちはそれが言いたかったのかもしれない。」
燐が遠い目をして穏やかに口にした。
「そう言ってるじゃねえか。何を謙遜したような言い方するんだよ。いちいちむかつくんだよ。いやだいやだ。貧乏人のマイペース。」
京都での不浄王や熱海でのクラーケンを体験した燐にとっては、元悪魔憑きの不良なんてまさしく雑魚にしか感じられなかった。その上での余裕のある対応だった。
「確かにお前の家は金持ちで、俺たちは貧乏なのかもしれない。だけど食ったことのないものを頭から貧乏臭いと決め付けるのは、金持ちの驕りを通り越して、タダの無知でしかない気がするんだ。白鳥。お前は本当に秋刀魚の塩焼きを食ったことがないのか?」
「ああ。食ったことないぜ。」
燐は哀れむような目を白鳥に向ける。下から目線(物理的な意味)で。
「古今東西。貧乏人の食い方がある意味贅沢だったという逸話は幾らでもある。どうだ、白鳥。数々の逸話に裏付けられた俺の言い分、聞いてみないか?」
まるで哲人のような燐の言葉に再び白鳥は後ずさる。後ろの何かは自分の背後で正座して燐の言葉を傾聴して感心しているような気がする。白鳥は絶句したままどうやってこの場をやり過ごし、撤退しようかと目線を泳がして思案していた。そんな白鳥の様子を察したのか、燐が先に口を開いた。
「食ってみるか?」
「は?」
天から降ってきたような燐の言葉だった。燐は淡々と白鳥に向かって語りかける。
「もし今焼きあがる出来立ての秋刀魚の塩焼きが、どうしても旨いと感じられないなら、その時こそ俺たちを貧乏人だと罵ればいい。俺たちはその言葉を真摯に受け止めよう。そして金持ちに勝てなかった貧乏人として、これからも慎ましく生きていく。お前は金持ちの家に生まれた幸運を誇ればいい。」
「兄さん! そんな白鳥君の主観に頼るようなこと。」
燐の隣から雪男が身を乗り出す。
「白鳥君は嘘をつくかも、いや、嘘をつくに決まっている。それに白鳥君が特定の味しか美味と感じない、そんな味音痴だとしたら兄さんの提案は馬鹿みたいじゃないか!」
「雪男。いいじゃねえか。俺たちが戦うべき金持ちは白鳥だけじゃねえ。あのピエロとかピエロとかピエロとか。」
雪男は燐の卑屈なまでの金持ちへの反抗心に涙が出そうになった。だが兄はうっすらと口元に笑みを作っている。まるで白鳥という憎き金持ちに勝とうが負けようがどうでもいいという顔だった。
ふと雪男が思い当たったのは、兄がわざと白鳥を挑発しているのではないかというものだった。兄は、白鳥に微笑みながら秋刀魚を乗せた皿を差し出している。雪男ははっと兄の秘策を悟った。そして自分は兄をアシストするために寮の中に走った。
「おい。お前の弟、お前の馬鹿馬鹿しさに悲しくなって寮の中に逃げちまったぜ。」
「いいんだよ。それより食えよ。焼きたては旨いはずだぜ。もう夕食時だから腹減ってるだろ?」
燐の隣でクロが鳴く。
『おれのだって約束だっただろ?』
「また焼くから。それに、お前の取り分だけは減らすつもりはないから。さ、白鳥。食ってみろよ。」
白鳥はおずおずと燐から秋刀魚の皿と箸を受け取った。確かに腹は減っている。つまり何を食っても美味しいと感じやすいコンディションである。たぶん燐の最大の勝算は空腹という名の調味料だろう。だが白鳥だって自分の舌が肥えているというプライドがある。そのプライドを打ち崩すだけの味でなければ、容赦なく「不味い」と嘲る気満々だった。
「そこまで言うなら、食うぞ。」
塩味の青魚を大雑把に焼いただけの料理。しかし何故か恐れを感じる白鳥だった。白鳥にとって秋刀魚というのは未知の味だった。箸で身を摘むと炭火で焼かれた皮がぱりっと音を立て、じゅわっと湯気と脂が溢れてきた。
『慌てるな零二。奴が高級だと言っていたのは、旬の、しかも初物の秋刀魚だ。そんなものをこいつらが買っているわけがない。しかも今は秋刀魚の旬には早いはず。つまりこの秋刀魚は去年の冷凍品だ。品質も味も劣っているに違いない。何せ去年命を落として、死後一年近くも冷凍保存されていた魚の死体なんだ。これは。』
旨いわけがない。旨いわけがないと唱えながら白鳥は秋刀魚を口に入れた。
「ふ、ふふふふふ……」
気味の悪い笑みを浮かべて白鳥は燐に告げる。
「不味い。」
「なら返せ。不味いと思われてるものを、これ以上食わせる悪趣味は俺には無い。」
白鳥はしろどもどろになって言う。
「いや。一口食べただけの感想だ。二口目も試してみなければわからない。」
白鳥は焦ったように再び身を摘み口に運び、燐が何かを言う前に白鳥は再び不味いと叫ぶ。そう言いながら白鳥の箸は止まらなかった。まるで燐に取り上げられることを恐れるように高速で箸を動かし、秋刀魚を蹂躙している。
「不味い。不味い。不味い。」
それは何回も悪し様に言うことで秋刀魚の不味さを主張し、秋刀魚の味を無理にでも貶めようとしているようだった。
「兄さん。不味いって言葉が聞こえてきたけど。」
息を荒げながら雪男は何かを乗せた盆を持って駆けつけてきた。
「おー。雪男。白鳥がどうしても秋刀魚が不味いってよ。」
雪男はつかつかと白鳥に近づき、盆の上に乗せたものを差し出す。
「白鳥君。秋刀魚だけだと味気ないよね。良かったら兄さんが作った、この切干大根の煮物はどう? それと秋刀魚は大根おろしとポン酢を掛けると美味しいんだよ。」
雪男は手招きして玄関の段差を椅子代わりに白鳥を座らせる。白鳥はふんぞり返って燐と雪男に告げる。
「また貧乏臭いもんが増えたな。お前らの挑戦は全部受けてやる。」
白鳥は大根おろしとボトルのポン酢を秋刀魚にかけ、再び口に運ぶ。その間に雪男は茶碗によそった飯ごうの白飯をそっと白鳥の前に置いた。
「あー……。ポン酢の酸っぱさと大根おろしの水っぽさが交じり合って不味い。なんか秋刀魚の脂が中和されてるようで、口の中さっぱりしすぎ。」
すかさず炊き立ての白飯を口に運ぶ。
「炊き立ての飯。あまったるー。もちもちしてて適度な粘り気なんてふざけんじゃねえよ。」
燐は白鳥の横で遅れたクロの取り分を焼き終えている。その頃には白鳥の皿の一匹目の秋刀魚は完食されていた。白鳥はクロが秋刀魚を旨そうに食っている様を見て下品な笑い声を上げた。
「猫と同じもん食ってんのかよ!」
しかし燐と雪男は気にしない。
「すぐに次が焼きあがるからな。少し待ってろよ。」
白鳥はちっと悪態をつく。
「まったく。飯を出した癖におかずが間に合ってねえじゃねえか。」
クロは一旦秋刀魚を食べるのを止め、不愉快な客のことで燐に抗議する。
『りん。あいつぜったいうまいっておもってる。だからつぎをさいそくしてるんだ。あいつはとんでもないおおうそつきだ。』
燐は分かってるんだという目をクロに向ける。そして切干大根の煮物を指差した。
「それ食って待ってろよ。」
白鳥は怪訝な顔をする。旨いものを不味いと言って、まんまとただ飯にありついていたが、切干大根の煮物については、もしかしたら美味しいかもしれないとすら思えなかった。
色彩に乏しい茶色で、大根の本来の瑞々しさを犠牲にして保存性だけに特化した食材。それに申し訳程度に一緒に煮られた細切のニンジンと油揚げが、ほぼ切干大根と同化してしまっている。
しかしこれを食べなければ次の秋刀魚まで間が持たない。そして秋刀魚に口を付ける前の『金持ちの無知』という自分が退けたはずの燐の仮説を、また復活させてしまう。
「……しょうがねえな。」
白鳥は切り干し大根を箸で摘んで目を瞑って口に運んだ。口に入れる寸前、鼻腔に微かな出汁の香りが飛び込んできた。
『不味いに決まってるだろ、こんなもん!』
白鳥は怒りを露にしていた。
「こんな、こんな出汁が染みた……しなびたどころか、ミイラ化した大根が旨いはずねえよ。乾燥した大根が出汁を吸い込むなんて、そんなのインチキだろうが。揚げからも出汁が出ているなんて、それもイカサマだろうが! 炒り煮されたニンジンが甘いなんて、冗談じゃねえぜっ。ゴマのアクセントで茶を濁そうなんて卑怯だろうが!」
『りん。こいつうざい。』
クロはすっかり食欲を失くしていた。せめてもう少し音量を下げて感想を言えばいいのに、いちいち大声で叫ぶものだから、うざすぎる。何よりも本音はともかく言葉で、クロにとって親友である燐を貶し続ける根性が気に食わなかった。しかし燐は相変わらずニコニコと秋刀魚を焼いて白鳥を持て成している。クロも燐の目的は分かっているが、この無礼な小僧を持て成さなくてもいいのにと頭痛を覚えていた。
クロの人間としての姿はオッサンである。すなわち可愛らしく見せてもクロの本質はオッサンである。最近の礼儀知らずな若者に辟易する神経は持ち合わせていた。
燐は白鳥が完食した秋刀魚の骨をどけると、さらに新しく焼かれた秋刀魚を乗せ、お待ちどうさまと微笑みかける。おうと白鳥は偉そうに答える。再び高速で秋刀魚をわしわしと貪り食う。合間に飯をかきこみ、おかわりと言って茶碗を雪男に差出し、時々切り干し大根の煮物を口に運んだ。
「……う。」
そのとき、白鳥の動きが急停止した。燐が怪訝そうに白鳥の顔を見る。白鳥は苦しそうに箸を持ったまま顔を歪ませたあと、五割り増しほど凶悪な顔に変貌して、燐のほうを向いてお久しぶりですと言った。
「……美味しいです。若君。」
ヤギの角を生やして感涙する白鳥がいた。
「アスタロト。また白鳥に憑依して……」
「だって、だって……この小僧ったら若君に失礼すぎます。美味しく若君が料理なさったものを不味いと罵倒し続け、その癖貪り続ける傲慢さ。」
「いや。俺は白鳥が秋刀魚さえ食ってくれればそれでいいんだよ。」
「それなら私めが、この小僧の身体を使って若君が望むだけ食べますから。」
うーんと燐は考えながら「まあいっか」と口にした。
「その秋刀魚食ってもいいから、食い終わったら白鳥への憑依を解除してやれよ。こいつ本当に腹減ってるみたいだから。」
「若君はお優しい。その人間への優しさ故に虚無界にお戻り下さらないなんて、なんて非情なめぐり合わせなんでしょうか。」
燐は困ったように頭を掻く。悪魔否定派の雪男は普通ならそんな兄と悪魔の馴れ合いに目くじらを立てそうだが、燐と共通した達成すべき目的があるために敢えて口は出さなかった。
アスタロトは秋刀魚を一匹平らげると、ごちそうさまと言って満面の笑みで憑依を解除した。意外と素直に言うことを聞いてくれた。しかし素直じゃない白鳥は目の前から秋刀魚が消えた事実に憤慨していた。
燐はまあまあと宥めながら次に焼きあがった秋刀魚を皿に乗せてやる。白鳥はとうとう感想らしき言葉を口にせず、無言で秋刀魚を貪り食うのであった。
白鳥は四匹目の秋刀魚を完食し、雪男が気を利かせて淹れた茶を飲み干すとほーっと息を吐いた。
「あー。不味かった。」
しかし顔は満足そうだった。
「よしよし。ノルマ達成だな。」
「ノルマ?」
白鳥はきょとんとした顔をして違和感に思った言葉を口にする。
「寮の電気が止まったって言っただろう。冷蔵庫の中に冷凍していた秋刀魚が十四匹あってな。七日分を一日一食。それを二人分でストックしてたら、それが仇になっちまったんだ。」
「兄さんが安いからって馬鹿買いするから。」
雪男がぶつぶつと文句を言っている。白鳥はなんとなく事情を察してしまった。
「お前ら、俺を……秋刀魚を大量消費させるための頭数にしたんだな。」
燐はてへっと言ってぺろっと舌を出した。
「夏場だからあっという間に解凍されるし、すぐ悪くなるし。季節柄食中毒は怖いし。だけど勿体ないし。クロが二匹で、俺たちが六匹ずつ食わねえと駄目かなって話してて。だけどお前がちょうど来てくれたんだ。お陰で一人四匹ノルマで済んで良かった。食い物ってやっぱ美味しいって思える分だけ食うのがいいよな。流石に六匹って俺も雪男も自信がなくって。」
「味方……しえみさんとかを呼んでごちそうするっていう考えもなかったわけじゃないけど、友達にそんな恥を晒すのもなんだか躊躇われて。それに、今のここの状態じゃ人を呼んで食事会も難しかったし。あー。でもご飯は多めに炊いておいて良かったよ。」
「そうだな。おかずだけ余ったら悲惨だからって保険かけといたんだよな。」
白鳥はわなわなと震えている。そうか自分は友達じゃないから恥を晒してもいいし、突然来たわけだから食事会の体裁も取らなくていい。所詮自分は、体の良いあまりモノ処理に担ぎ出されただけだった。
「ふっ。そんなの最初から分かってたぜ。貧乏人のそんな企みに気がつかない俺だと思ってたのかよ。」
完全に負け惜しみだった。白鳥は立ち上がって奥村兄弟に指を差す。
「いいな。貧乏兄弟。特に兄。安いからって馬鹿買いすんじゃねえぞ。却って不経済なんだから。」
「そうだよ兄さん。彼の言うとおりだ。」
雪男の同意を追い風に白鳥は言いたいことを言う。
「必要なものは必要な時に必要な分だけ買え!」
「えー。出来るかな俺。」
貧乏性な燐は首を傾げていた。
「まあ、別にいい。またこんなことがあれば俺を呼べ。この白鳥零二様を崇め奉り招待しろ。何せ貧乏人は金の失敗を学習しないからこその貧乏人だからな!」
奥村兄弟は白鳥の小言を他所に自分達の分の秋刀魚を焼いては食べ始めていた。
今さらの白鳥君でした。なんかこれから書くものに登場してきそうで怖いです。連載を一回休みでギャグで失礼しました。次からまたシリアスに戻ります。
☆「super scription of data」中編④ 燐雪前提の朴雪
雪男の精神世界の中における距離や時間は概ね朴の都合で生じるものだった。例えぶらぶらと自宅近辺のコンビニに行くような感覚で自転車を走らせていたとしても、行き着くまでの時間は朴次第。さて今全速力で自転車を漕いでいる朴は、かれこれ一時間はその調子でいた。つまり朴にとってそのテンションと時間が必要だということだった。
そんな意味のない徒労の果てに朴は息を整えることさえ忘れてラブホのゴムの分厚いカーテンの内側に転がり込んだ。
「雪男。そんな格好をしているとまるでお姫様だな。」
雪男は久方ぶりに自分の姿を省みる。精神世界で自分の姿を忘却していたのだから、現実で女子制服に着替えたことがなかったことになっているとばかり思っていた。しかし実際には雪男の姿は相変わらず女装したままだった。
「お姫様は言いすぎだろ。」
「だって唇ピンクだし、髪長いし。」
雪男はウィッグを投げ捨て手の甲で口を拭う。右頬に擦れたリップの色が薄く線を引いた。
「あーあ……」
燐の残念そうな顔が少し癪に障る雪男だった。
「兄さん。その卵まだ大事そうに保管してたんだ。僕はそれは孵化はしないって言ったはずだよ。兄さんと避妊具なしで交わったせいでそれが出来たのは事実だけど、それは魔障の類だろうって言って兄さんも頷いてたじゃないか。実際僕の身体も一時的に変化しただけですぐに元に戻ったし。」
雪男はあくまで自分が悪魔になったことを伏せて兄に話している。
『雪男、これどうしたんだ?』
初めての交渉の翌朝、燐に身体を揺さぶられ起こされた際、雪男の足の間にはひとつの卵が転がっていた。それは粘液に濡れて人肌だった。白い殻と先っぽが僅かに細い球形はまさしく卵としか言えず、しかし先のような状態で見付かった為、雪男としてもとっさに誤魔化す言葉が出てこず、口ごもっていてその間に兄はその忌まわしいものを両手に乗せ、興味心身に観察していた。
『これってひょっとしてさ……。』
兄の手の平の上で卵は優しげに揺すぶられ、手の中で転がっている。状況からして雪男が産んだのだと認めるしかなさそうで、雪男はとりあえず昨夜自分の身体に起きた異常と体の変化を燐に告げた。ベッドの端に腰掛けて恥ずかしかったがその部分を兄の目に晒した。燐は驚きもうろたえもせず次第にその表情は喜色に溢れていったのだった。
「だから、僕言ったよね!」
雪男の言葉に意識が向いているのか向いていないのか、燐の視線は再び祭壇の卵に向けられていた。愛おしそうにまたその手を伸ばしている。そんな兄に雪男はぶちきれ寸前に声を荒げた。反して燐は斜め下に顔を向けながら「でも」と口にする。
「でもとかそんな問題じゃっ。」
「雪男の身体から出てきた卵だから壊してどうするとか出来なかったし。しばらく置いていて中身が腐ったりしてる様子もないから、なんか生き物がいるような感じがしてたし。」
確かに尋常じゃない卵であることは雪男は分かっていた。そして雪男は籠の中の卵の変化に戦慄していた。
生まれた直後は兄の手の平で転がされる程度の大きさだったそれは、両手に抱えるほどの大きさになっていた。あたかもそれは人間の赤ん坊が入っているかもしれないと錯覚させるほどの成長だった。
「お前はこの卵から何も生まれないと言ったけど、違うかもしれないじゃないか。現に大きくなってるし。この卵が孵化したら俺たちの子どもが生まれるかもしれない。」
「だから壊せなかったって。そんで僕に隠してずっと持ってったってこと? ついでに言うならこの卵が気になったから、僕と一緒に帰ることも出来なかったこと?」
雪男の目は卵に対する憎悪を隠しきれずにいた。燐は雪男に口早に待てという。
「だってもしかしたら、俺たちの子どもをこんなところに、生まれてこないまま一人ぼっちにさせてしまうかもしれなかったんだぜ。」
「だったら何なの? そんなの現実の僕らには何の関係もないじゃない。」
「俺とお前の子どもなんだぜ!」
燐の怒声には一瞬だけ雪男を怯ませるだけの迫力があった。雪男本人が生み出したものとはいえ、その卵に雪男は母性の欠片も芽生えることはなかった。反して燐は雪男を愛する故にこの卵にも並々ならない愛情を注ぐことになってしまった。孤児だった我が身の心の傷からそうなってしまったと言えば身も蓋もないが、それ故にその思い込みは悲しく純粋だった。
それこそが雪男の傲慢と独占欲に対するしっぺ返しだった。燐の身に起こったことに気づく機会は幾らでもあった。あの朴が心当たりを問うてきたのが最後の気づきのチャンスだった。
「改めて言うけど、その卵が孵化しても僕らの子どもは生まれないよ。」
「なんでそんなことが分かるんだ? お前の母親としての勘を疑うわけじゃねえけど、こいつ大きくなってるじゃねえか。触るとさあ。時々脈みたいにとんとんって手に響くもんも感じるんだ。そうだよ。きっと俺がガキの頃から夢見たことを、誰か、神様とかが叶えてくれて、俺に父親になるんだから頑張れって……」
燐はその場に蹲った。雪男は兄の言った「ガキの頃からの夢」という言葉を心の中で反芻する。教会に来る親子連れをじっと見つめることが多かった兄だが、あの何気ない風景にどれほど焦がれて憧憬を抱いていたかなんて知らなかった。
雪男の中では家族なんていうものはとっくに諦めの対称だったし、兄一人を独占出来ればそれ以上望むものはなかった。雪男は周りの人間が想像する以上に自分勝手で独善的だった。上手く隠している分だけ成長するに従って増長し、それらを満足させる手段が巧妙になっていった。
精神世界で燐が四ヶ月留まったのは、全ては自分の算段が上手く行ったためだと思った。だが雪男が思いもよらなかった、不確定な自分達兄弟の子どもだと思わしき卵こそ兄を繋ぎ止めていた。
その事実が恨めしくてスカートの下の太ももに装備していたホルスターに手を伸ばす。
「子は鎹って言葉がこれほど嫌になるとは思わなかったよ。」
「なあ……」
かちゃという無機質な音に燐は顔を上げる。雪男が銃を構えて卵に照準を合わせている。
「やめろよ……」
「その卵から子どもは生まれてこないよ。」
「嘘だあ!」
燐は叫んだ。祭壇の周囲が青い炎に囲まれる。
燐の残された精神はとっくに限界を迎えていた。七年近くも独りぼっちで孤独で時間の流れも事象の変化もない世界に閉じ込められていた。否、自分を閉じ込めた。全ては生まれてくると信じている自分の子どものために。それだけが心の支えだった。
だが迎えに来た雪男はそれを全て否定した。卵の中の不確定なわが子の存在も。それに向ける燐の思いも。八十ヶ月も待ち望んで孤独に耐えた努力さえも。
この兄弟は互いが大事にしている一番のモノがなんなのか理解しあうことが出来ない。
雪男は兄と自分以外を望まない。
燐は雪男を愛するが故にそれに連なる存在を望んでいる。
それはまるで子どもをきっかけに崩壊してしまう悲しい家族の物語そのものだった。
そして始まってしまうのは愛し合う二人の醜い罵りあいだった。
「何やってるんだよ! 母親が自分の子どもを殺そうとするなんて何考えてるんだよ!」
「僕は男だ。母親になったつもりはないし、これからもなるつもりはない。それだけじゃない。兄さんが心を移す存在なら、その存在が僕には憎い。兄さんは僕に自分と同じようにその卵を愛せって言うの? 無理だよ。僕みたいな人間じゃなくても無理に決まってる。僕の身体の構造を捻じ曲げて生まれてきて、父親らしき存在の温情で生き残って、日に日に僕からその愛情を奪い取って不気味に七年近くかけて成長してきたモノ、おぞましくって溜まらないよ。」
「それなら俺なんてなんだよっ。わけのわかんねえ魔神が父親で、俺が生まれるせいで母さんが死んで、色んな人たちが俺が生まれた同時期に死んで、そんな俺こそ母さんやジジイからおぞましい奴だって言われてしょうがなかったわけだろ。母さんはどう思ってたか知らないけど、少なくともジジイは息子として俺を育ててくれた。十五年間守ってくれた。だからこの卵の中にいるやつも、俺はジジイが俺にしてくれたように育てて守っていくんだ。」
「僕達に関係ない他の連中の思うことなんて関係ないよ。兄さんの心の傷はよく分かったよ。だけどね僕にも譲れないことがある。僕は僕以外の存在が兄さんの関心を惹くのが許せない。だから、兄さんはその卵を諦めなくても、そうせざるを得ないようにしてあげる。」
精神世界の中ではエゴが現実世界よりも溢れている。まさしく本音と本音のぶつかり合いであることは間違いなかったが、それは愛を憎悪にも変えてしまうほどの和解のない言葉のぶつかり合いでしかなかった。
朴が雪男に問いかけた「燐が留まる積極的な理由」。その存在が朴がなんとなく危惧していた通りの展開に導いてしまった。そして今現在、この二人に干渉できる救済者とも言える存在である朴はこの場にいなかった。
中編が・・・もうなんとも言いたくないです。それとタイトルのつづりを今まで間違え続けていました。あれだと「データの上書き」じゃなくて、「日付の上書き」だよ。どっちにしても不正だよね。
そんな意味のない徒労の果てに朴は息を整えることさえ忘れてラブホのゴムの分厚いカーテンの内側に転がり込んだ。
「雪男。そんな格好をしているとまるでお姫様だな。」
雪男は久方ぶりに自分の姿を省みる。精神世界で自分の姿を忘却していたのだから、現実で女子制服に着替えたことがなかったことになっているとばかり思っていた。しかし実際には雪男の姿は相変わらず女装したままだった。
「お姫様は言いすぎだろ。」
「だって唇ピンクだし、髪長いし。」
雪男はウィッグを投げ捨て手の甲で口を拭う。右頬に擦れたリップの色が薄く線を引いた。
「あーあ……」
燐の残念そうな顔が少し癪に障る雪男だった。
「兄さん。その卵まだ大事そうに保管してたんだ。僕はそれは孵化はしないって言ったはずだよ。兄さんと避妊具なしで交わったせいでそれが出来たのは事実だけど、それは魔障の類だろうって言って兄さんも頷いてたじゃないか。実際僕の身体も一時的に変化しただけですぐに元に戻ったし。」
雪男はあくまで自分が悪魔になったことを伏せて兄に話している。
『雪男、これどうしたんだ?』
初めての交渉の翌朝、燐に身体を揺さぶられ起こされた際、雪男の足の間にはひとつの卵が転がっていた。それは粘液に濡れて人肌だった。白い殻と先っぽが僅かに細い球形はまさしく卵としか言えず、しかし先のような状態で見付かった為、雪男としてもとっさに誤魔化す言葉が出てこず、口ごもっていてその間に兄はその忌まわしいものを両手に乗せ、興味心身に観察していた。
『これってひょっとしてさ……。』
兄の手の平の上で卵は優しげに揺すぶられ、手の中で転がっている。状況からして雪男が産んだのだと認めるしかなさそうで、雪男はとりあえず昨夜自分の身体に起きた異常と体の変化を燐に告げた。ベッドの端に腰掛けて恥ずかしかったがその部分を兄の目に晒した。燐は驚きもうろたえもせず次第にその表情は喜色に溢れていったのだった。
「だから、僕言ったよね!」
雪男の言葉に意識が向いているのか向いていないのか、燐の視線は再び祭壇の卵に向けられていた。愛おしそうにまたその手を伸ばしている。そんな兄に雪男はぶちきれ寸前に声を荒げた。反して燐は斜め下に顔を向けながら「でも」と口にする。
「でもとかそんな問題じゃっ。」
「雪男の身体から出てきた卵だから壊してどうするとか出来なかったし。しばらく置いていて中身が腐ったりしてる様子もないから、なんか生き物がいるような感じがしてたし。」
確かに尋常じゃない卵であることは雪男は分かっていた。そして雪男は籠の中の卵の変化に戦慄していた。
生まれた直後は兄の手の平で転がされる程度の大きさだったそれは、両手に抱えるほどの大きさになっていた。あたかもそれは人間の赤ん坊が入っているかもしれないと錯覚させるほどの成長だった。
「お前はこの卵から何も生まれないと言ったけど、違うかもしれないじゃないか。現に大きくなってるし。この卵が孵化したら俺たちの子どもが生まれるかもしれない。」
「だから壊せなかったって。そんで僕に隠してずっと持ってったってこと? ついでに言うならこの卵が気になったから、僕と一緒に帰ることも出来なかったこと?」
雪男の目は卵に対する憎悪を隠しきれずにいた。燐は雪男に口早に待てという。
「だってもしかしたら、俺たちの子どもをこんなところに、生まれてこないまま一人ぼっちにさせてしまうかもしれなかったんだぜ。」
「だったら何なの? そんなの現実の僕らには何の関係もないじゃない。」
「俺とお前の子どもなんだぜ!」
燐の怒声には一瞬だけ雪男を怯ませるだけの迫力があった。雪男本人が生み出したものとはいえ、その卵に雪男は母性の欠片も芽生えることはなかった。反して燐は雪男を愛する故にこの卵にも並々ならない愛情を注ぐことになってしまった。孤児だった我が身の心の傷からそうなってしまったと言えば身も蓋もないが、それ故にその思い込みは悲しく純粋だった。
それこそが雪男の傲慢と独占欲に対するしっぺ返しだった。燐の身に起こったことに気づく機会は幾らでもあった。あの朴が心当たりを問うてきたのが最後の気づきのチャンスだった。
「改めて言うけど、その卵が孵化しても僕らの子どもは生まれないよ。」
「なんでそんなことが分かるんだ? お前の母親としての勘を疑うわけじゃねえけど、こいつ大きくなってるじゃねえか。触るとさあ。時々脈みたいにとんとんって手に響くもんも感じるんだ。そうだよ。きっと俺がガキの頃から夢見たことを、誰か、神様とかが叶えてくれて、俺に父親になるんだから頑張れって……」
燐はその場に蹲った。雪男は兄の言った「ガキの頃からの夢」という言葉を心の中で反芻する。教会に来る親子連れをじっと見つめることが多かった兄だが、あの何気ない風景にどれほど焦がれて憧憬を抱いていたかなんて知らなかった。
雪男の中では家族なんていうものはとっくに諦めの対称だったし、兄一人を独占出来ればそれ以上望むものはなかった。雪男は周りの人間が想像する以上に自分勝手で独善的だった。上手く隠している分だけ成長するに従って増長し、それらを満足させる手段が巧妙になっていった。
精神世界で燐が四ヶ月留まったのは、全ては自分の算段が上手く行ったためだと思った。だが雪男が思いもよらなかった、不確定な自分達兄弟の子どもだと思わしき卵こそ兄を繋ぎ止めていた。
その事実が恨めしくてスカートの下の太ももに装備していたホルスターに手を伸ばす。
「子は鎹って言葉がこれほど嫌になるとは思わなかったよ。」
「なあ……」
かちゃという無機質な音に燐は顔を上げる。雪男が銃を構えて卵に照準を合わせている。
「やめろよ……」
「その卵から子どもは生まれてこないよ。」
「嘘だあ!」
燐は叫んだ。祭壇の周囲が青い炎に囲まれる。
燐の残された精神はとっくに限界を迎えていた。七年近くも独りぼっちで孤独で時間の流れも事象の変化もない世界に閉じ込められていた。否、自分を閉じ込めた。全ては生まれてくると信じている自分の子どものために。それだけが心の支えだった。
だが迎えに来た雪男はそれを全て否定した。卵の中の不確定なわが子の存在も。それに向ける燐の思いも。八十ヶ月も待ち望んで孤独に耐えた努力さえも。
この兄弟は互いが大事にしている一番のモノがなんなのか理解しあうことが出来ない。
雪男は兄と自分以外を望まない。
燐は雪男を愛するが故にそれに連なる存在を望んでいる。
それはまるで子どもをきっかけに崩壊してしまう悲しい家族の物語そのものだった。
そして始まってしまうのは愛し合う二人の醜い罵りあいだった。
「何やってるんだよ! 母親が自分の子どもを殺そうとするなんて何考えてるんだよ!」
「僕は男だ。母親になったつもりはないし、これからもなるつもりはない。それだけじゃない。兄さんが心を移す存在なら、その存在が僕には憎い。兄さんは僕に自分と同じようにその卵を愛せって言うの? 無理だよ。僕みたいな人間じゃなくても無理に決まってる。僕の身体の構造を捻じ曲げて生まれてきて、父親らしき存在の温情で生き残って、日に日に僕からその愛情を奪い取って不気味に七年近くかけて成長してきたモノ、おぞましくって溜まらないよ。」
「それなら俺なんてなんだよっ。わけのわかんねえ魔神が父親で、俺が生まれるせいで母さんが死んで、色んな人たちが俺が生まれた同時期に死んで、そんな俺こそ母さんやジジイからおぞましい奴だって言われてしょうがなかったわけだろ。母さんはどう思ってたか知らないけど、少なくともジジイは息子として俺を育ててくれた。十五年間守ってくれた。だからこの卵の中にいるやつも、俺はジジイが俺にしてくれたように育てて守っていくんだ。」
「僕達に関係ない他の連中の思うことなんて関係ないよ。兄さんの心の傷はよく分かったよ。だけどね僕にも譲れないことがある。僕は僕以外の存在が兄さんの関心を惹くのが許せない。だから、兄さんはその卵を諦めなくても、そうせざるを得ないようにしてあげる。」
精神世界の中ではエゴが現実世界よりも溢れている。まさしく本音と本音のぶつかり合いであることは間違いなかったが、それは愛を憎悪にも変えてしまうほどの和解のない言葉のぶつかり合いでしかなかった。
朴が雪男に問いかけた「燐が留まる積極的な理由」。その存在が朴がなんとなく危惧していた通りの展開に導いてしまった。そして今現在、この二人に干渉できる救済者とも言える存在である朴はこの場にいなかった。
中編が・・・もうなんとも言いたくないです。それとタイトルのつづりを今まで間違え続けていました。あれだと「データの上書き」じゃなくて、「日付の上書き」だよ。どっちにしても不正だよね。
☆『続・super scription of date』中編③ 燐雪前提の朴雪
雪男と朴は旧男子寮だった場所にたどり着いた。ただしそこは寮の形を成していなかった。
「私はこの建物に見覚えがないんだけど。先生は何か知ってる?」
雪男は淡々と答える。
「僕達が育った教会です。」
目の前には古びてこじんまりとした小さな教会が建っていた。朴はあちゃあと声を上げて雪男を見ている。
「燐君一人で残されたもんだから、色々と模様替えしたみたいだね。ちょっと思ったより事態は深刻かも。」
「深刻って、どういうことですか。」
朴は地面の土をいじりながら雪男に説明し始める。
「あのね。先生から話を聞いた時点じゃ、私って燐君はここじゃ冬眠してるみたいにじっとしてるとばかり思ってたんだよ。でもどうやら、この世界に順応してそれなりに先生の精神世界に改造も加えちゃってる。もしかしたらあの時の先生のように、なかなか帰ろうとしてくれないかもしれない。」
「大丈夫ですよ。兄は真っ当な人間ですから説明すればすぐに説得されて僕達についてきてくれます。」
「いや。なんか。でもね、……」
朴は何か口の中で呟いて思案しているようだ。
「先生。一つだけ質問いいですか? 先生にはここに燐君が残りたくなる、積極的な理由に心当たりありませんか? 先生がここにいなくなっても構わないくらいの理由が。」
「兄さんにとって僕が別にいなくてもいい? そんなのはないでしょ。」
「怖い! 先生怖い!」
朴は雪男の病的な独占欲を垣間見た。しかしながら自分の精神に相手を閉じ込めようとする人間だということを朴が一番視認しておきながら、この反応は雪男の兄への執着を甘く見ていたとしか言いようがないのかもしれない。
「先生! 聞いて!」
「なんですか。貴女の推測の根拠を話すとでも?」
「そ、そこまで大それたことは……。ただの勘です。」
「ただの勘ごときで不用意なこと言わないで下さい。まあいいです。聞いてあげます。」
偉そうだと朴が思ったか思わなかったか。しかし一応は耳を傾けてくれるようなので、朴は言葉に普段三割り増しくらい気を遣いながら雪男に語りかける。
「教会って不特定多数の地域住民が入ることを想定しますよね。訪れる人には誰にでも開かれている場所。」
「うん。日曜礼拝のときは少ないけど人は来てたし、バザーも開かれるし、懺悔室は時々使われるし。神父さんに悪魔祓いを頼む人もいたし。」
朴は目の前の教会を指差す。
「なんかこの教会って、感覚的に入りにくい雰囲気だと思わない?」
別に荒れた様子でもない。薄暗いどころか周囲に建造物もないので日向のど真ん中。それなのに朴は入りにくいと雪男にはっきり告げた。
「僕はそれほどじゃないけど。朴さん個人の感じ方でしょう。朴さんは一万人いる自分がなにやら後ろめたいことをしていても可笑しくないですから。つまり罪人が神の家を恐れる心理でしょう。」
「失礼ですね。ちゃんと稼いで日々のご飯は食べてます。急に見覚えのない建物に出くわした私の錯覚だと思いたいですよ。でも、この教会はなんだか燐君がここに閉じこもるためにここに出現させたような、そんな気がするんです。先生から同意を得られなかったわけですけど、先生はこの教会の住人としてカウントされてるからっていう推測もできます。」
雪男は朴を覚めた目で見ていた。あれだけ雪男の犯した罪に関して根拠を並べ立てた女の言葉にしては稚拙過ぎたからだ。見た目にバリケードでも張り巡らされているならそれも説得力もあるが、この教会にそんなあからさまなものはない。だか、雪男が十五年間見てきた義父の教会のトレースそのものの建物の外観からは、どう見ても朴がそこまで警戒するような要素は見つからない。同じように朴はこの教会の異様さにどうして雪男は気づかないのかと首を捻っているが、お互いにその感覚の違いを説明し合うことはこの状況では叶いそうにない。そういうディスカッションは雪男は時間の無駄だと思っていたからだった。
「じゃあ。警戒している貴女は外で待機しといてくださいよ。」
「そういうわけにはいかないよ。前科持ちの先生だけに行かせるなんて迂闊な真似。」
そう言って朴は教会の扉のところまで駆け寄るとその扉に手をかける。
「うぉいしょお!」
雪男からすれば馬鹿馬鹿しくなるほどの掛け声を上げて扉を引っ張っている。
「教会の扉には鍵なんか掛けられたことなんてないですよ。なんですか。開かないんですか?」
「いや。鍵が掛かってる様子はないんだけどね。なんか凄く扉が重い。開けることに抵抗されてる感じ。」
「貸して下さい。」
雪男は不承不承に朴に変わって扉の前に行く。雪男が触れると扉の取っ手は軽くかちゃという音を立てた。
「なんだ。全然重くないじゃないですか。行きますよ。」
雪男が入ってそこにすかさず朴も続こうとしたら、雪男が教会内に入ったと同時に扉はばたんと朴を跳ね除けるように閉じてしまった。
「ぶほっ。」
「何やってるんですか。とろいですね!」
隔てられた扉の内側から雪男の苛立った声が聞こえてくる。朴は再び扉を引っ張るがびくともしない。
「なんですか。開かないんですか?」
「先生。内側から開けてみてよ。」
しかし雪男が扉を開けてくる様子がない。
「朴さん。もしかしたら僕しか入れないようになっている仕様かもしれません。開きません。」
「なにそれ。誰得な設定なの?」
「まあここまで来れたんだから、あとは兄さんに会うだけです。僕一人でも大丈夫でしょう。」
雪男が自分に都合よく事を進める気がうっすら透けているような言い方だった。何を根拠の大丈夫だと朴は再び雪男に呼びかけた。
「先生!」
「もう、心配性だな貴女は。こういうときには身内で水入らずのほうが良いんですよ。」
「いや。それが信用出来たら苦労はしないんだから。そういうのに限って裏切られるんだから。先生、ちょっとそこで待っててよ。先生。ラブホまで戻ってその扉をぶっ壊す最終兵器持ってくるから。」
「その間に僕が兄さんを連れて出てきますから。」
「いや駄目だから。絶対二人きりで会っちゃ駄目だから。」
雪男の返事はなかった。朴は憎憎しげに扉をにらみつけた後、それに背を向けくそっと悪態を漏らす。頭に血が上るのを抑えるために出雲ちゃんと口の中で唱え、よしっと気合を入れた。
朴は教会の裏手に走って物置らしき場所を見つける。
「んとにもお。あの困ったちゃんは私の言うことに聞く耳もちゃあしないし。」
朴は金属製の扉に何度も蹴りを入れて破壊してしまう。
「あったあ。」
物置の中にはママチャリが仕舞われていた。教会そのものは朴を拒絶していたが、物置まではそうとはいかなかったようだ。
「最終兵器取りに行かなくちゃ。」
朴は自転車に跨るともと来た道を引き返すべく全力でペダルを踏んだ。ママチャリの見た目ではあるが、その性能はスポーツ用のオフロード自転車並の速度と走行性を備えていた。それは朴の並々ならぬ危機感を象徴するようだった。
「てええいっ。」
何であの弟は兄のこととなると、分かりやすいバッドエンドに向かおうとするんだろう。 自転車は砂埃を上げて白い砂浜を越えていく。朴の悪い予感には間に合わないだろうが、そこは行くしかないのが今の状況で、朴は自分の出来る精一杯をするしかなかった。
* * *
教会の内部に入ってかつての自分達の部屋や居間を見回っていたがそこに兄の姿はなかった。もしかしてと思いたどり着いた場所が礼拝堂だった。そこで頭から毛布を被った人影を見つける。僅かに見えた横顔からすぐに燐だとわかった。
雪男は兄を目の前にしておきながら声をひとつ掛けるのに長い間戸惑っていた。
自分が精神世界から脱出する間、現実世界では十二時間が経過する間に、この世界では四ヶ月間経っていたことになっていた。兄の精神の半分がこの雪男の精神世界に取り残されてからは十日が経っている。計算すれば八十ヶ月。七年近くもここに置き去りにしたことになる。
「朴さんから兄さんの精神の半分が取り残されていると断定されるまで、深く考えてはなかったけど。十日間も放置していたのは不味かったかもしれない。」
しかし冬休み中に朴は出雲と寮から出て行方が知れなかった。その間にヴァチカンからの視察もあり、全てが後手に回ってしまった。何もかも自分が蒔いた種ではあるが理不尽な怒りがこみ上げるのは止められなかった。
教会の入り口のところで朴を締め出したままにしたのは、燐に遭遇したときの雪男が感極まってしでかしかねない行動を朴に見られたくなかったからだった。それなのに雪男は燐になかなか駆け寄ることも出来ずにいた。
「兄さん。」
無言で兄は顔を上げる。そこはステンドグラス越に入る光が色鮮やかで、雪男から懐かしい教会の中なのに異様な雰囲気を漂わせていた。礼拝堂の祭壇の直ぐ下に兄は蹲っていた。
「兄さん。」
再び呼びかけて兄に近づく。間隔にして六年以上も経っているはずなのに兄はほとんど見た目が変わっていなかった。ただ少し痩せたという印象で日に当たってなかったのか顔も青白かった。
「……雪男。何処行ってたんだよ。六年も。極秘の任務だったのか?」
現実世界の呆けた兄より若干受け答えがはっきりしている。朴の見積もりでは半分と言っていたが、この世界での雪男の不可解な行方不明に何らかの辻褄合わせをしようとしているあたり、もっと多くの割合で精神が取り残されていた可能性が高い。それは燐のこの世界に対する未練が大きいからではないからかと雪男は思った。
何故? 精神の大半を縛るほどの事象がこの世界に有ったとでもいうのだろうか。兄のそんな状態に理由があるのか? 納得する答えを得るにははっきりと訊いて見るしかない。そこで兄の答えがかみ合えば雪男の不安は杞憂に終わるだろう。そう願って雪男は燐に問いかける。
「どうしたの兄さん。僕と一緒にあの時帰ったはずじゃなかったの? なんでこんなところに残ってたの?」
「ああ……。なんか、帰り損ねちゃった。」
燐はすかさず精神世界での辻褄合わせを放棄した。そこは雪男にしてみては幸いだった。
「帰り損ねた、じゃないよ。先に僕を迎えに来たのは兄さんだよ。」
「そうだな。すまん。だけど」
燐は祭壇の上に上がる。燐の手招きに雪男は従った。
「お前の夢の中に一緒に閉じ込められて後から朴が助けに来たんだったよな。」
燐はサルベージされた日のことまではきちんと把握しているようだ。だが続いて燐の告げようとする言葉に雪男はひたすら嫌な予感がした。
「だけど俺にはここから帰れない理由が出来てたんだ。」
雪男の脳裏に朴が言った「積極的に燐が残りたい理由」という言葉が蘇る。この精神世界では自我が普通の現実世界より強調されることは、雪男は身を持って知っている。兄はそれを戸惑いもなく雪男に伝えようとしている。何の矛盾もなくひたすらそれが雪男も喜んでくれるだろうと思っていることが、その軽い足取りから推察できた。
そして祭壇の上の籠の中で綺麗な白くて柔らかい布の上の小さな物体に心臓が高鳴る。
「これ。あの時の?」
燐は愛おしそうに籠の中の物体の表面を撫でる。
「この世界の真実を知っても、これが心残りで。お前も俺も出て行ったら可哀想だろ。」
籠の中には卵が一つ。
それを直視すると雪男は悲鳴を上げたくなる。
「兄さん……。兄さんはそんなに、その卵のこと――。」
目に映る卵と兄は雪男の自業自得の象徴だった。
「お前と初めてエッチした翌朝にお前が産んでくれた卵だよ。」
何個中編があるんだよ。次こそ後編?
「私はこの建物に見覚えがないんだけど。先生は何か知ってる?」
雪男は淡々と答える。
「僕達が育った教会です。」
目の前には古びてこじんまりとした小さな教会が建っていた。朴はあちゃあと声を上げて雪男を見ている。
「燐君一人で残されたもんだから、色々と模様替えしたみたいだね。ちょっと思ったより事態は深刻かも。」
「深刻って、どういうことですか。」
朴は地面の土をいじりながら雪男に説明し始める。
「あのね。先生から話を聞いた時点じゃ、私って燐君はここじゃ冬眠してるみたいにじっとしてるとばかり思ってたんだよ。でもどうやら、この世界に順応してそれなりに先生の精神世界に改造も加えちゃってる。もしかしたらあの時の先生のように、なかなか帰ろうとしてくれないかもしれない。」
「大丈夫ですよ。兄は真っ当な人間ですから説明すればすぐに説得されて僕達についてきてくれます。」
「いや。なんか。でもね、……」
朴は何か口の中で呟いて思案しているようだ。
「先生。一つだけ質問いいですか? 先生にはここに燐君が残りたくなる、積極的な理由に心当たりありませんか? 先生がここにいなくなっても構わないくらいの理由が。」
「兄さんにとって僕が別にいなくてもいい? そんなのはないでしょ。」
「怖い! 先生怖い!」
朴は雪男の病的な独占欲を垣間見た。しかしながら自分の精神に相手を閉じ込めようとする人間だということを朴が一番視認しておきながら、この反応は雪男の兄への執着を甘く見ていたとしか言いようがないのかもしれない。
「先生! 聞いて!」
「なんですか。貴女の推測の根拠を話すとでも?」
「そ、そこまで大それたことは……。ただの勘です。」
「ただの勘ごときで不用意なこと言わないで下さい。まあいいです。聞いてあげます。」
偉そうだと朴が思ったか思わなかったか。しかし一応は耳を傾けてくれるようなので、朴は言葉に普段三割り増しくらい気を遣いながら雪男に語りかける。
「教会って不特定多数の地域住民が入ることを想定しますよね。訪れる人には誰にでも開かれている場所。」
「うん。日曜礼拝のときは少ないけど人は来てたし、バザーも開かれるし、懺悔室は時々使われるし。神父さんに悪魔祓いを頼む人もいたし。」
朴は目の前の教会を指差す。
「なんかこの教会って、感覚的に入りにくい雰囲気だと思わない?」
別に荒れた様子でもない。薄暗いどころか周囲に建造物もないので日向のど真ん中。それなのに朴は入りにくいと雪男にはっきり告げた。
「僕はそれほどじゃないけど。朴さん個人の感じ方でしょう。朴さんは一万人いる自分がなにやら後ろめたいことをしていても可笑しくないですから。つまり罪人が神の家を恐れる心理でしょう。」
「失礼ですね。ちゃんと稼いで日々のご飯は食べてます。急に見覚えのない建物に出くわした私の錯覚だと思いたいですよ。でも、この教会はなんだか燐君がここに閉じこもるためにここに出現させたような、そんな気がするんです。先生から同意を得られなかったわけですけど、先生はこの教会の住人としてカウントされてるからっていう推測もできます。」
雪男は朴を覚めた目で見ていた。あれだけ雪男の犯した罪に関して根拠を並べ立てた女の言葉にしては稚拙過ぎたからだ。見た目にバリケードでも張り巡らされているならそれも説得力もあるが、この教会にそんなあからさまなものはない。だか、雪男が十五年間見てきた義父の教会のトレースそのものの建物の外観からは、どう見ても朴がそこまで警戒するような要素は見つからない。同じように朴はこの教会の異様さにどうして雪男は気づかないのかと首を捻っているが、お互いにその感覚の違いを説明し合うことはこの状況では叶いそうにない。そういうディスカッションは雪男は時間の無駄だと思っていたからだった。
「じゃあ。警戒している貴女は外で待機しといてくださいよ。」
「そういうわけにはいかないよ。前科持ちの先生だけに行かせるなんて迂闊な真似。」
そう言って朴は教会の扉のところまで駆け寄るとその扉に手をかける。
「うぉいしょお!」
雪男からすれば馬鹿馬鹿しくなるほどの掛け声を上げて扉を引っ張っている。
「教会の扉には鍵なんか掛けられたことなんてないですよ。なんですか。開かないんですか?」
「いや。鍵が掛かってる様子はないんだけどね。なんか凄く扉が重い。開けることに抵抗されてる感じ。」
「貸して下さい。」
雪男は不承不承に朴に変わって扉の前に行く。雪男が触れると扉の取っ手は軽くかちゃという音を立てた。
「なんだ。全然重くないじゃないですか。行きますよ。」
雪男が入ってそこにすかさず朴も続こうとしたら、雪男が教会内に入ったと同時に扉はばたんと朴を跳ね除けるように閉じてしまった。
「ぶほっ。」
「何やってるんですか。とろいですね!」
隔てられた扉の内側から雪男の苛立った声が聞こえてくる。朴は再び扉を引っ張るがびくともしない。
「なんですか。開かないんですか?」
「先生。内側から開けてみてよ。」
しかし雪男が扉を開けてくる様子がない。
「朴さん。もしかしたら僕しか入れないようになっている仕様かもしれません。開きません。」
「なにそれ。誰得な設定なの?」
「まあここまで来れたんだから、あとは兄さんに会うだけです。僕一人でも大丈夫でしょう。」
雪男が自分に都合よく事を進める気がうっすら透けているような言い方だった。何を根拠の大丈夫だと朴は再び雪男に呼びかけた。
「先生!」
「もう、心配性だな貴女は。こういうときには身内で水入らずのほうが良いんですよ。」
「いや。それが信用出来たら苦労はしないんだから。そういうのに限って裏切られるんだから。先生、ちょっとそこで待っててよ。先生。ラブホまで戻ってその扉をぶっ壊す最終兵器持ってくるから。」
「その間に僕が兄さんを連れて出てきますから。」
「いや駄目だから。絶対二人きりで会っちゃ駄目だから。」
雪男の返事はなかった。朴は憎憎しげに扉をにらみつけた後、それに背を向けくそっと悪態を漏らす。頭に血が上るのを抑えるために出雲ちゃんと口の中で唱え、よしっと気合を入れた。
朴は教会の裏手に走って物置らしき場所を見つける。
「んとにもお。あの困ったちゃんは私の言うことに聞く耳もちゃあしないし。」
朴は金属製の扉に何度も蹴りを入れて破壊してしまう。
「あったあ。」
物置の中にはママチャリが仕舞われていた。教会そのものは朴を拒絶していたが、物置まではそうとはいかなかったようだ。
「最終兵器取りに行かなくちゃ。」
朴は自転車に跨るともと来た道を引き返すべく全力でペダルを踏んだ。ママチャリの見た目ではあるが、その性能はスポーツ用のオフロード自転車並の速度と走行性を備えていた。それは朴の並々ならぬ危機感を象徴するようだった。
「てええいっ。」
何であの弟は兄のこととなると、分かりやすいバッドエンドに向かおうとするんだろう。 自転車は砂埃を上げて白い砂浜を越えていく。朴の悪い予感には間に合わないだろうが、そこは行くしかないのが今の状況で、朴は自分の出来る精一杯をするしかなかった。
* * *
教会の内部に入ってかつての自分達の部屋や居間を見回っていたがそこに兄の姿はなかった。もしかしてと思いたどり着いた場所が礼拝堂だった。そこで頭から毛布を被った人影を見つける。僅かに見えた横顔からすぐに燐だとわかった。
雪男は兄を目の前にしておきながら声をひとつ掛けるのに長い間戸惑っていた。
自分が精神世界から脱出する間、現実世界では十二時間が経過する間に、この世界では四ヶ月間経っていたことになっていた。兄の精神の半分がこの雪男の精神世界に取り残されてからは十日が経っている。計算すれば八十ヶ月。七年近くもここに置き去りにしたことになる。
「朴さんから兄さんの精神の半分が取り残されていると断定されるまで、深く考えてはなかったけど。十日間も放置していたのは不味かったかもしれない。」
しかし冬休み中に朴は出雲と寮から出て行方が知れなかった。その間にヴァチカンからの視察もあり、全てが後手に回ってしまった。何もかも自分が蒔いた種ではあるが理不尽な怒りがこみ上げるのは止められなかった。
教会の入り口のところで朴を締め出したままにしたのは、燐に遭遇したときの雪男が感極まってしでかしかねない行動を朴に見られたくなかったからだった。それなのに雪男は燐になかなか駆け寄ることも出来ずにいた。
「兄さん。」
無言で兄は顔を上げる。そこはステンドグラス越に入る光が色鮮やかで、雪男から懐かしい教会の中なのに異様な雰囲気を漂わせていた。礼拝堂の祭壇の直ぐ下に兄は蹲っていた。
「兄さん。」
再び呼びかけて兄に近づく。間隔にして六年以上も経っているはずなのに兄はほとんど見た目が変わっていなかった。ただ少し痩せたという印象で日に当たってなかったのか顔も青白かった。
「……雪男。何処行ってたんだよ。六年も。極秘の任務だったのか?」
現実世界の呆けた兄より若干受け答えがはっきりしている。朴の見積もりでは半分と言っていたが、この世界での雪男の不可解な行方不明に何らかの辻褄合わせをしようとしているあたり、もっと多くの割合で精神が取り残されていた可能性が高い。それは燐のこの世界に対する未練が大きいからではないからかと雪男は思った。
何故? 精神の大半を縛るほどの事象がこの世界に有ったとでもいうのだろうか。兄のそんな状態に理由があるのか? 納得する答えを得るにははっきりと訊いて見るしかない。そこで兄の答えがかみ合えば雪男の不安は杞憂に終わるだろう。そう願って雪男は燐に問いかける。
「どうしたの兄さん。僕と一緒にあの時帰ったはずじゃなかったの? なんでこんなところに残ってたの?」
「ああ……。なんか、帰り損ねちゃった。」
燐はすかさず精神世界での辻褄合わせを放棄した。そこは雪男にしてみては幸いだった。
「帰り損ねた、じゃないよ。先に僕を迎えに来たのは兄さんだよ。」
「そうだな。すまん。だけど」
燐は祭壇の上に上がる。燐の手招きに雪男は従った。
「お前の夢の中に一緒に閉じ込められて後から朴が助けに来たんだったよな。」
燐はサルベージされた日のことまではきちんと把握しているようだ。だが続いて燐の告げようとする言葉に雪男はひたすら嫌な予感がした。
「だけど俺にはここから帰れない理由が出来てたんだ。」
雪男の脳裏に朴が言った「積極的に燐が残りたい理由」という言葉が蘇る。この精神世界では自我が普通の現実世界より強調されることは、雪男は身を持って知っている。兄はそれを戸惑いもなく雪男に伝えようとしている。何の矛盾もなくひたすらそれが雪男も喜んでくれるだろうと思っていることが、その軽い足取りから推察できた。
そして祭壇の上の籠の中で綺麗な白くて柔らかい布の上の小さな物体に心臓が高鳴る。
「これ。あの時の?」
燐は愛おしそうに籠の中の物体の表面を撫でる。
「この世界の真実を知っても、これが心残りで。お前も俺も出て行ったら可哀想だろ。」
籠の中には卵が一つ。
それを直視すると雪男は悲鳴を上げたくなる。
「兄さん……。兄さんはそんなに、その卵のこと――。」
目に映る卵と兄は雪男の自業自得の象徴だった。
「お前と初めてエッチした翌朝にお前が産んでくれた卵だよ。」
何個中編があるんだよ。次こそ後編?
☆『続・super scription of date』中編② 燐雪前提の朴雪 R18 微グロ表現あり
朴朔子の抹殺。
それは幾度も雪男の脳裏に浮かんでいた。しかし無数にいる個人など殺しきれるわけがない。それに朴は自分達兄弟を助けてくれた。とは言っても、かなり不本意な道筋に引きずり込まれただけかもしれないが、それでも助けられたことには変わりがない。
ドアを開けた先は崩壊したままの祓魔塾の教室だった。中央には志摩が引きずり込まれた流砂の穴が大きく口を開けている。
「あのときは志摩君には悪いことをしたね。僕は。」
朴は祓魔塾のステージでの雪男と志摩の段を覗き見していた。当然二人の間で演じられた愁嘆場も知っている。
「志摩君は夢の中の具体的なことは忘れているはずだからね。そこまで気にしなくていいんじゃないかな。」
観測者の薄情さで朴はさらっと言ってのけた。志摩にとっては記憶にはないものの、味わった嫌な感じは後遺症のように残っていて、アレ以来少し塞ぎこみがちになっていたらしい。それでも時が解決するレベルだと誰も得には気にしていない。
だが志摩がそんなことになった原因は実は朴だった。
精神世界に入る前の志摩に朴が指示したことがあった。それは、とりあえず色仕掛けでちゅーまで漕ぎ着けろという意味不明なものだった。現実離れした展開と、とどめのちゅーとで、雪男の閉じ込められた精神世界を揺さぶろうということだったらしい。多少戸惑ってはいたが満更ではなさそうな志摩だったのだが、それでも一言朴に言わずにはいられなかった。志摩が朴に言ったのは。
『回りくどいことせんと、ちゃんと状況を説明して説得しといたほうがええんやない?』
それには雪男も同感だった。普通なら事情を説明するべきだ。現に三番目に送り込まれた兄は雪男に対してちゃんと雪男がいる状況を教えた。だからあの時の現状が変わったのだ。
「あー。あれは。」
朴は決まり悪そうに笑って「だってそれじゃ面白くないでしょ。」と言った。それをそのまま志摩に暴露したい衝動に雪男は駆られるが、志摩は精神世界のことは覚えていないらしいので今更蒸し返しても無駄な話だった。というか、三番目の燐の番になってやっと妥協したのかこの女と、雪男は自分達が半分以上は遊ばれていたことに軽く落ち込んでしまう。
「しえみちゃんはね、ちゅー以上に発展しちゃいそうだから、慌てて回収しちゃったんだ。やっぱ天然の子の威力って凄いよね。」
雪男は朴を流砂の穴に突き落としたくなる。しえみへの指示も志摩と大差なかったらしい。雪男にとってしえみは所謂別腹で、兄への思いとは別に愛してやまない存在だ。そんな純粋な気持ちもダシにされたっぽい。
「先生。何か勘違いしてるようだけど、手ブラは私だって想定外だったんだよ。」
「信用できるか。といいたいところですけど、僕がヌーディストビーチだなんて誘導しちゃった所為ですよね。ほんとにしえみさんには申し訳ないことしてしまった。」
そうだ。あの時のしえみの大胆さは、雪男を連れ戻したい一心からのものだったのだ。それに付け込んだ朴という勝手で悪質なプロデューサーに煽られてしたことだったのだ。そうに違いない。しえみには何の罪もない。
「まあ、未遂でよかったよね。現実には何も影響しないけど。」
「ああ、そうでしょうとも。貴女は全て自分得なんでしょうから。」
破壊された壁の向こうの白亜の砂浜を朴と眺める。
あの砂浜でのしえみとの白昼夢を思い出すと、雪男は身体の芯が疼くような感触に身じろぐ。しえみのさらさらとした綺麗な金髪。甘い目元。着物姿からは考えられない露出された肌の艶めかしさ。とろけるような声。悪魔落ちした自分ではもう手が伸ばせないだろう。
回想を振り切るように朴を見る。
「可愛かったよね。あのときのしえみちゃん。ああほんとに、私、あの場面の先生が嫉ましくて嫉ましくて。」
グッドタイミングで思い出をぶち壊してくれた。
雪男は全てがどうでもよくなって砂浜に歩き出す。朴は慌てて後を追ったが、歩幅の差故に追いつくのにしばらく掛かった。
追いついたところで雪男は朴に問いかける。
「ここから六○二号室にどうやって行くつもりですか? 僕の記憶が確かなら、あの部屋へ来たのは夢から覚めたってことになってたと思うんですけど。」
「空間そのものが繋がってないって言いたいのかな?」
「だって学園が存在するような場所じゃないだろうが。」
と言いながら雪男は目線の先にあるものに絶句する。リゾートホテルが並び立つ中で正十字学園が異彩を放っていた。
「現実の理は関係なかったな。そういえば。」
雪男の口から溜息が毀れ出る。夢の中だから、夢の世界だから、何もかもの辻褄合わせは考えなくてもいいのだろう。だとすれば自分の夢なのに雪男はその中でままならないのは、せせこましい辻褄合わせに始終しているせいなのだろう。だから簡単に朴に踏み込まれて現実にサルベージされた。悪魔落ちして来るところまで来たはずなのに、とことん得るものより失うものに目を眩まされている。
「で。正十字学園まで結構距離がありそうなんですけど、まさかその距離まで縮めることは可能なんでしょうか。」
朴は目を逸らしてへへへと笑う。
「じゃあ。仕方がないので地道に歩きましょうか。」
朴と雪男は長い道中を歩き出す。ここに来る前の長いトンネルの道中嫌というほど朴と会話(長さといい内容といい)をしたので特に朴も雪男もおざなりな会話を敢えてしようという精神状態にはならなかった。二人はお互いに声を発さず黙々と歩く。
雪男の仮初の脳内では過ぎ去って失われた兄との甘い日々が再生されていた。
* * *
雪男の目の前には兄の後頭部とその下には広げられたノートが机の上にあった。ノートには兄の個性的な字が並んでいて、字の巧拙はともかく一ヶ月前より内容は見るからに進化していた。一ヶ月間の雪男のスパルタ教育の賜物だった。勉強への集中力も見違えるほどだ。だがそのぶん消耗するのか勉強が一区切りするとこうやって机に突っ伏して半ば仮死状態のようにじっと動かなくなる。それを雪男が頃合を見て起こしてまた勉強に戻るのが常だった。
時計の針が十分だけ進んだ。雪男は兄に近寄ってその頬を人差し指で突いた。
「兄さん。起きてよ。次の章いくからね。」
「……う…うう……。う、うん。」
しかし兄は起き上がろうとしない。雪男としては苦手だったことを一ヶ月間続けた苦痛は分からなくもない。しかし鉄は熱いうちに打てというのがこの場合正しいだろう。
雪男は兄の耳元に口を近づけて再び声を掛ける。
「兄さん。」
しかし兄はのびたままだ。その腕はだらりと下に垂れて机の下で膝の間に隠れてしまっている。
「兄さん。」
「ごめん雪男。今日はちょっと無理だ。」
「なんで?」
雪男は兄の言葉に少し苛立ちを覚えて兄の肩を両手でぎゅっと掴んだ。燐の身体がびくっと反応する。雪男は構わずそのまま兄の背中に身体を密着させ、再び兄を呼ぶ。
「兄さん。どうしたの?」
「あ……。はあ。あー……。」
何かに耐えているらしい兄に雪男は異変を感じた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
燐はうつ伏せていた顔を見上げて雪男のほうを見た。その顔は紅潮して目は潤み、口と鼻は忙しなく呼吸を短く頻繁に続けていた。
「雪男がくっついてくるから、そんで触りまくるから……:」
「なにそれ……」
雪男は恐る恐る兄に問い返す。机の下に隠れていた燐の両手に視線を移すと、それは股間で何かを覆い隠していた。隠されてはいたが同じ同性として瞬時に察してしまう。
「それ。僕のせいなの?」
「いや、その。ちょっとトイレ行ってくる。」
前かがみになって立ち上がる燐を雪男はその長身で阻んだ。
「駄目だよ、兄さん。」
「駄目つったってさあ。行かせてくれよ雪男。」
燐は切羽詰ったように雪男を押し退けようとするが、雪男は退かず、燐と揉み合いにながらも次第に兄を押さえ込んでいった。燐はなんとしてでも部屋から出て自分自身の欲を処理したいと思うのだが、何故か弟がそれを許してくれない。苦し紛れに思いつくことを口走る。
「お前に触られてこうなってるってこと、怒ってんのかよ! だからこんな嫌がらせすんのかよ。」
雪男の腕の中で燐はまるで暴れる猫のように身じろいで目を吊り上げている。盛りのついた動物を下手に刺激してはいけないというのは常識以前の問題なのだが、雪男は敢えて燐を余計に怒らせる言葉を選ぶ。
「なんだよ。そんなことでなんで僕が怒るの? 今まで散々すれ違ってきた僕達の関係を兄さんはまた繰り返そうっていうの? たかだか僕に触られて勃起したことが、そんなに兄さんにとって罪悪感を呼ぶものなの? 僕達は互いの思いは確かめ合ったはずだろ。また一方の思い込みでそれを台無しにするの?」
「限度があるだろ! お前は男で俺の弟で、すごく大切なんだから。俺が汚していいわけねえだろ。」
雪男は馬鹿と叫んで燐の胸に飛び込む。燐はあうっと叫んで後ろに尻餅をついた。雪男は正面から燐を見下ろす。
「僕がそんなに兄さんが思うように綺麗かどうか、わからせてあげようか?」
顔を近づけてくる雪男の目は挑発的で、燐の経験の中で積み上げてきたあらゆる弟を裏切る姿だった。掠れた声で雪男は燐に呼びかける。
「この一ヶ月間、ずっときっかけが欲しかったんだよ。でも僕から切り出しても兄さんはそんな思い込みで僕を拒絶するだろうから、兄さんの我慢が途切れるこの瞬間を待ってたんだ。」
燐は雪男の言葉を聞いて目を見開いて愕然としていた。しかし思い出したようにうっと言葉を詰まらせて股間に手を置こうとする。その燐の手を払いのけて雪男からその欲望の具現に触れる。
「硬い……。それにどくどくと心臓みたいに脈うってる。」
燐は涙目になっていた。惨めでかっこ悪くて、だからこそ弟の口から出てくるはしたない言葉に少し胸の中の重苦しいものが軽くなった。こんな生々しくて傍から見たら汚らしくも聞こえる会話の中で、燐は迂闊にも救いを見出してしまった。
「お前は、男同士のってどういうのか知ってるのかよ?」
少し平静さを取り戻した燐は雪男に問いかける。雪男は兄が会話の途中で萎えたり果てたりしないように、微妙に調節しながら兄の股間を撫でて頷いた。
「知ってる。だから…兄さんいいよ…」
結局、雪男の誘いを燐は拒否出来るはずがなかった。
切羽詰った性欲に抗えなかったのもあるが、巧妙な雪男の泣き脅しと甘言が燐のなけなしの理性を揺さぶり崩壊させた。まだ戸惑いが勝っている兄の手を引き、強引にベッドに引きずり込んだ。雪男は自分から服を脱ぎ、露になった長い手足を兄にからみつかせてかきくどいた。
「兄さん、禁忌を犯すこと…恐れないで。僕を思う気持ちに正直になればそんなことどうでも良くなるんじゃない? もう僕は小さくて弱くて、兄さんが守ってやりたくなるような可愛い弟じゃないだろ。この完全に男の身体になった僕に欲情したんだよね。兄さんは。だったらそれが兄さんの本性なんだよ、僕達の間で取り繕う必要なんかない。」
雪男は燐に圧し掛かって息を荒げた。挑発的で扇情的な言葉も挙動も、半ば演技だったが、兄を興奮させ箍をぶちきるためなら何の羞恥も雪男の心には湧かない。
「だから来て…。僕、どうなってもいいから。」
「雪男。」
自分がやけに性急になっているのはうっすらとは感じていた。きっかけが兄の発情だとしても、「飛ばしすぎだ」とか「抑制しなければ」とか頭の端っこくらいでは何やら計算していた。なのに自分のはしたない口は忙しなく、乱れた息の合間に兄を煽る言葉を吐いている。
雪男は兄に抱きつき肩口に唇を寄せる。シャツの生地に噛み付いて呼気と唾液でぐちゃぐちゃにしてやった。犬が飼い主に構ってもらおうとして見せる媚態とあまり違いがないようなことをしているんだろうけど、今の雪男には人間としての矜持なんてどうでもよかった。
シャツを口に咥えて耳元で切なげに鼻を鳴らしていると、やっと燐の手が伸びてきた。
「雪男。ほんとにいいんだな?」
うんうんと雪男は何度も頷く。兄の肩から顔を離して見返すと、兄の表情はひどく固く、今まで見たことがないくらい真剣な顔をしていた。そんな表情に欲情した頬の赤みがアンバランスである種の滑稽さを生み出していた。自分は兄にとんでもなく重たい決心をさせてしまったのだと自覚する。
「兄さん。ごめん。わがまま言って。」
「わがまま?」
「兄さんが特に何も感じてないならいいよ。」
雪男は広げた脚で燐の腰を挟み込む。腕を燐の首に巻きつけそのまま後ろに倒れこんだ。自分の上の兄の重さが嬉しいのに切なくなって、無意識に巻きつけた腕に力が篭った。
* * *
兄をその気にさせるまでは演技で出していた声が、いつのまにか演技ではなくなっていた。
「あ……兄さん……いた、い。い……いいっ。」
どっちだよとわずかに兄がおろおろしている。兄を受け入れているところは痛いが、兄の腹で擦られている雪男のそこは気持ちいい。そんな具体的でがっかりなことは口に出せないという計算は働いてしまう。やはり初めてなので行為そのものにはのめりこめない。ただはあはあと声を上げたり息を吐いていると、頭の中が空っぽになっていくようで、そこが気持ちよかった。自他共に、特に兄が認める優等生の奥村雪男が、こんなふうに兄とふしだらに繋がって番っている。眉を顰めるどころか石礫を投げられて糾弾されても可笑しくないことをして、それを快楽にしている事実は雪男の頭の中で凝り固まった不安を忘却に導いてくれる。ある意味、堕落してそれ故に怖いものがなくなったという偽物な安心感が包んでくれていた。
兄もそんな偽物の安息に自分と同じように堕ちてくれればいいのにと、自分の視界の中で身体を揺らしている兄のぼやけた顔を見上げながら、微笑んでみせた。
『ほんとに悪魔になったみたい。』
もうそろそろ時も兄の感情も満ちる。
兄は固く目を瞑って、雪男の腰を掴む手に力を込めた。食いしばった歯の間から獣じみた嗚咽が漏れ、雪男の中に埋まっていたモノが雪男の中で痙攣したあと熱い液体を吐き出した……ようだった。
「お、終わったんだよね? 兄さん…」
「ぜえ……ぜえ……。」
燐は初めて故の全力投球故に雪男の胸に突っ伏する。
「兄さん、大丈夫?」
下になっている雪男のほうが、そんな兄の様子を見て不安そうに尋ねてしまう始末だった。
「ま、まあな。」
ふうっと息をついた兄がまた雪男を抱く前の固い表情を見せてごめんと呟いた。それがなんとなく悲しくて、雪男は自分の中から出て行こうとする兄を引きとめようと、兄の唇にキスをした。
「まだ。抜かないで。」
「まだ、大丈夫なのかよ。」
それは二回目のことかと不安げながらに期待してしまう。どうやら今見せているしょぼくれた顔の割には後悔は薄いらしい。
燐は思い出したように雪男の項に指を這わせたり鎖骨に唇を当てたりしていた。前戯をうっかりすっ飛ばしたという事実に今更ながらに気がついたらしい。雪男は兄に触れられる度に小さく声を漏らす。
「あ……あんっ……。」
そんな雪男の声に釣られたように、燐がまたうっと声を漏らす。どうやらまた下半身の具体的な反応と脳の欲情の回線が繋がってしまったようだ。
雪男にとってはそんな単純構造な兄の思考と肉体が愛おしい。そんな思いを込めて、兄を銜え込んでいる部分を自分の意思で締め付けてみる。上手くいくかは自分でもよく分からないが、ただ兄を受け入れているだけというより雪男自身も兄に奉仕してみたいという気持ちの表れだった。
「ゆ、雪男っ。お前は締めなくてもいいから。」
なのに兄から焦ったような制止の声を図れた。
「え? 駄目なの?」
「呼吸あってないから! 兄ちゃんが進もうとするとき止められちゃうから!」
雪男はぷっと吹き出した。
雪男の都合のいいように出来ている精神世界。半ばその中に取り込んでいる兄。なのにどこか兄らしさは失われないし、こんなときなのに笑えてしまうこともある。
雪男が兄に肉体関係を迫ったのは、精神世界での兄を雪男の意思に閉じ込めて定着させる目的があった。兄と兄弟以上の関係を結べば、兄はもう自分と離れられなくなる。
かつて自分は、兄を檻に閉じ込めても無駄だという結論を出した。それは物理的に兄の肉体と精神を閉じ込める檻。それが不可能だということだ。
今回兄に施したのは精神的な檻。肉体と精神を切り離した状態で、精神を閉じ込め物理的に動ける肉体の行動さえも封ずるという手段だった。しかも兄を騙すという形で。
急ごしらえな計算だったが、兄の人の良さが雪男の計画にいいように働いてくれた。
雪男は兄に気づかれないように、恥ずかしさを装って顔を隠した手の平の下でほくそ笑んだ。弟の心という檻の中で何の疑いも持つことなく、弟と平穏な日々を過ごすことになる。まるで終わってから後が全く語られない、続くことの想定されていない御伽噺の「めでたしめでたし」の世界観。物語の終わったあとにもう何も起こらないことだけが確定している。だけど現実にそれはあり得ない。あったとしたら多分破滅した世界だろう。
雪男はベッドの傍に立って、死んだように安らかに眠る兄の髪を掬いながら、うっとりとその寝顔を眺めていた。かつてはその寝顔に憎しみを感じていた時期もあったが、もうこうなってはただただ愛おしいだけだ。雪男の中にはまだ兄の放ったものが留まっている。それは精液という形を取っているが、実態は兄から吸い取った精神エネルギーだ。それが自分の仮初の肉体に浸透していくのがわかった。
「悪魔と悪魔の結合か。なんだかなるべくして成ったという感じだな。」
腹の中で何かが蠢く。雪男は身体を二つに折り曲げ、こみ上げてくるものを抑えるように口を押さえる。身体の中で兄の放ったものと何かが化学反応を起こしたように暴れている。そしてそれは少しずつ形を成してきているのが実感できた。
『ふ…僕の能力は一つだけじゃなかったみたいだな。』
冷静に分析しながら予想外の出来事に対応は出来なかった。雪男は二本の足で立っていることが困難になり、床にへたりこんでしまった。
ほんの少し恐怖めいたものも感じる。雪男の体内で今まで分散していた「ソレ」は出来る限り小さく集合し硬質な外殻を纏って固まった。次第にそれは雪男の体外に出ようともがいていた。
嗚咽を漏らし嘔吐直前で止まる感覚にのた打ち回りながら、雪男は自分の体内で覚醒したものに歯を見せて悪魔らしい笑みを浮かべる。
「はあ……はあ……」
脚を投げ出し首を仰け反らせ、寝ている兄を視界の真ん中に入れ、兄に何の助けを求めることなく、雪男は独り、息を殺してその瞬間を待っていた。
「次からは……絶対にゴムが必要だな。」
会陰部分が熱く充血している。今まで雪男の身体にはなかった器官が形成された。それは出来たばかりだが、それが最終的に成すべきことをこの瞬間に成し遂げようとしていた。
「がはっ……。ぐ……あうっ。」
ようやく痛みと異物感が治まると雪男はそのまま兄の横にくず折れた。
それはそのときだけ覗き見を遠慮して朴が知らなかった場面だった。兄弟のファースト・アフェアをデバガメするのはさすがに気が引けたからなのだが、朴は事後に起きた雪男の異常を見逃してしまっていた。朴は数時間後それを後悔することになる。
雪男の回想は隣を歩く朴には気づかれることなく雪男の脳内に流れ、あの日の雪男が意識を失ったところで終わった。災厄の萌芽はそれに現れていたのに見逃されたままだった。
ごめんなさい。まだ続きます。
それは幾度も雪男の脳裏に浮かんでいた。しかし無数にいる個人など殺しきれるわけがない。それに朴は自分達兄弟を助けてくれた。とは言っても、かなり不本意な道筋に引きずり込まれただけかもしれないが、それでも助けられたことには変わりがない。
ドアを開けた先は崩壊したままの祓魔塾の教室だった。中央には志摩が引きずり込まれた流砂の穴が大きく口を開けている。
「あのときは志摩君には悪いことをしたね。僕は。」
朴は祓魔塾のステージでの雪男と志摩の段を覗き見していた。当然二人の間で演じられた愁嘆場も知っている。
「志摩君は夢の中の具体的なことは忘れているはずだからね。そこまで気にしなくていいんじゃないかな。」
観測者の薄情さで朴はさらっと言ってのけた。志摩にとっては記憶にはないものの、味わった嫌な感じは後遺症のように残っていて、アレ以来少し塞ぎこみがちになっていたらしい。それでも時が解決するレベルだと誰も得には気にしていない。
だが志摩がそんなことになった原因は実は朴だった。
精神世界に入る前の志摩に朴が指示したことがあった。それは、とりあえず色仕掛けでちゅーまで漕ぎ着けろという意味不明なものだった。現実離れした展開と、とどめのちゅーとで、雪男の閉じ込められた精神世界を揺さぶろうということだったらしい。多少戸惑ってはいたが満更ではなさそうな志摩だったのだが、それでも一言朴に言わずにはいられなかった。志摩が朴に言ったのは。
『回りくどいことせんと、ちゃんと状況を説明して説得しといたほうがええんやない?』
それには雪男も同感だった。普通なら事情を説明するべきだ。現に三番目に送り込まれた兄は雪男に対してちゃんと雪男がいる状況を教えた。だからあの時の現状が変わったのだ。
「あー。あれは。」
朴は決まり悪そうに笑って「だってそれじゃ面白くないでしょ。」と言った。それをそのまま志摩に暴露したい衝動に雪男は駆られるが、志摩は精神世界のことは覚えていないらしいので今更蒸し返しても無駄な話だった。というか、三番目の燐の番になってやっと妥協したのかこの女と、雪男は自分達が半分以上は遊ばれていたことに軽く落ち込んでしまう。
「しえみちゃんはね、ちゅー以上に発展しちゃいそうだから、慌てて回収しちゃったんだ。やっぱ天然の子の威力って凄いよね。」
雪男は朴を流砂の穴に突き落としたくなる。しえみへの指示も志摩と大差なかったらしい。雪男にとってしえみは所謂別腹で、兄への思いとは別に愛してやまない存在だ。そんな純粋な気持ちもダシにされたっぽい。
「先生。何か勘違いしてるようだけど、手ブラは私だって想定外だったんだよ。」
「信用できるか。といいたいところですけど、僕がヌーディストビーチだなんて誘導しちゃった所為ですよね。ほんとにしえみさんには申し訳ないことしてしまった。」
そうだ。あの時のしえみの大胆さは、雪男を連れ戻したい一心からのものだったのだ。それに付け込んだ朴という勝手で悪質なプロデューサーに煽られてしたことだったのだ。そうに違いない。しえみには何の罪もない。
「まあ、未遂でよかったよね。現実には何も影響しないけど。」
「ああ、そうでしょうとも。貴女は全て自分得なんでしょうから。」
破壊された壁の向こうの白亜の砂浜を朴と眺める。
あの砂浜でのしえみとの白昼夢を思い出すと、雪男は身体の芯が疼くような感触に身じろぐ。しえみのさらさらとした綺麗な金髪。甘い目元。着物姿からは考えられない露出された肌の艶めかしさ。とろけるような声。悪魔落ちした自分ではもう手が伸ばせないだろう。
回想を振り切るように朴を見る。
「可愛かったよね。あのときのしえみちゃん。ああほんとに、私、あの場面の先生が嫉ましくて嫉ましくて。」
グッドタイミングで思い出をぶち壊してくれた。
雪男は全てがどうでもよくなって砂浜に歩き出す。朴は慌てて後を追ったが、歩幅の差故に追いつくのにしばらく掛かった。
追いついたところで雪男は朴に問いかける。
「ここから六○二号室にどうやって行くつもりですか? 僕の記憶が確かなら、あの部屋へ来たのは夢から覚めたってことになってたと思うんですけど。」
「空間そのものが繋がってないって言いたいのかな?」
「だって学園が存在するような場所じゃないだろうが。」
と言いながら雪男は目線の先にあるものに絶句する。リゾートホテルが並び立つ中で正十字学園が異彩を放っていた。
「現実の理は関係なかったな。そういえば。」
雪男の口から溜息が毀れ出る。夢の中だから、夢の世界だから、何もかもの辻褄合わせは考えなくてもいいのだろう。だとすれば自分の夢なのに雪男はその中でままならないのは、せせこましい辻褄合わせに始終しているせいなのだろう。だから簡単に朴に踏み込まれて現実にサルベージされた。悪魔落ちして来るところまで来たはずなのに、とことん得るものより失うものに目を眩まされている。
「で。正十字学園まで結構距離がありそうなんですけど、まさかその距離まで縮めることは可能なんでしょうか。」
朴は目を逸らしてへへへと笑う。
「じゃあ。仕方がないので地道に歩きましょうか。」
朴と雪男は長い道中を歩き出す。ここに来る前の長いトンネルの道中嫌というほど朴と会話(長さといい内容といい)をしたので特に朴も雪男もおざなりな会話を敢えてしようという精神状態にはならなかった。二人はお互いに声を発さず黙々と歩く。
雪男の仮初の脳内では過ぎ去って失われた兄との甘い日々が再生されていた。
* * *
雪男の目の前には兄の後頭部とその下には広げられたノートが机の上にあった。ノートには兄の個性的な字が並んでいて、字の巧拙はともかく一ヶ月前より内容は見るからに進化していた。一ヶ月間の雪男のスパルタ教育の賜物だった。勉強への集中力も見違えるほどだ。だがそのぶん消耗するのか勉強が一区切りするとこうやって机に突っ伏して半ば仮死状態のようにじっと動かなくなる。それを雪男が頃合を見て起こしてまた勉強に戻るのが常だった。
時計の針が十分だけ進んだ。雪男は兄に近寄ってその頬を人差し指で突いた。
「兄さん。起きてよ。次の章いくからね。」
「……う…うう……。う、うん。」
しかし兄は起き上がろうとしない。雪男としては苦手だったことを一ヶ月間続けた苦痛は分からなくもない。しかし鉄は熱いうちに打てというのがこの場合正しいだろう。
雪男は兄の耳元に口を近づけて再び声を掛ける。
「兄さん。」
しかし兄はのびたままだ。その腕はだらりと下に垂れて机の下で膝の間に隠れてしまっている。
「兄さん。」
「ごめん雪男。今日はちょっと無理だ。」
「なんで?」
雪男は兄の言葉に少し苛立ちを覚えて兄の肩を両手でぎゅっと掴んだ。燐の身体がびくっと反応する。雪男は構わずそのまま兄の背中に身体を密着させ、再び兄を呼ぶ。
「兄さん。どうしたの?」
「あ……。はあ。あー……。」
何かに耐えているらしい兄に雪男は異変を感じた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
燐はうつ伏せていた顔を見上げて雪男のほうを見た。その顔は紅潮して目は潤み、口と鼻は忙しなく呼吸を短く頻繁に続けていた。
「雪男がくっついてくるから、そんで触りまくるから……:」
「なにそれ……」
雪男は恐る恐る兄に問い返す。机の下に隠れていた燐の両手に視線を移すと、それは股間で何かを覆い隠していた。隠されてはいたが同じ同性として瞬時に察してしまう。
「それ。僕のせいなの?」
「いや、その。ちょっとトイレ行ってくる。」
前かがみになって立ち上がる燐を雪男はその長身で阻んだ。
「駄目だよ、兄さん。」
「駄目つったってさあ。行かせてくれよ雪男。」
燐は切羽詰ったように雪男を押し退けようとするが、雪男は退かず、燐と揉み合いにながらも次第に兄を押さえ込んでいった。燐はなんとしてでも部屋から出て自分自身の欲を処理したいと思うのだが、何故か弟がそれを許してくれない。苦し紛れに思いつくことを口走る。
「お前に触られてこうなってるってこと、怒ってんのかよ! だからこんな嫌がらせすんのかよ。」
雪男の腕の中で燐はまるで暴れる猫のように身じろいで目を吊り上げている。盛りのついた動物を下手に刺激してはいけないというのは常識以前の問題なのだが、雪男は敢えて燐を余計に怒らせる言葉を選ぶ。
「なんだよ。そんなことでなんで僕が怒るの? 今まで散々すれ違ってきた僕達の関係を兄さんはまた繰り返そうっていうの? たかだか僕に触られて勃起したことが、そんなに兄さんにとって罪悪感を呼ぶものなの? 僕達は互いの思いは確かめ合ったはずだろ。また一方の思い込みでそれを台無しにするの?」
「限度があるだろ! お前は男で俺の弟で、すごく大切なんだから。俺が汚していいわけねえだろ。」
雪男は馬鹿と叫んで燐の胸に飛び込む。燐はあうっと叫んで後ろに尻餅をついた。雪男は正面から燐を見下ろす。
「僕がそんなに兄さんが思うように綺麗かどうか、わからせてあげようか?」
顔を近づけてくる雪男の目は挑発的で、燐の経験の中で積み上げてきたあらゆる弟を裏切る姿だった。掠れた声で雪男は燐に呼びかける。
「この一ヶ月間、ずっときっかけが欲しかったんだよ。でも僕から切り出しても兄さんはそんな思い込みで僕を拒絶するだろうから、兄さんの我慢が途切れるこの瞬間を待ってたんだ。」
燐は雪男の言葉を聞いて目を見開いて愕然としていた。しかし思い出したようにうっと言葉を詰まらせて股間に手を置こうとする。その燐の手を払いのけて雪男からその欲望の具現に触れる。
「硬い……。それにどくどくと心臓みたいに脈うってる。」
燐は涙目になっていた。惨めでかっこ悪くて、だからこそ弟の口から出てくるはしたない言葉に少し胸の中の重苦しいものが軽くなった。こんな生々しくて傍から見たら汚らしくも聞こえる会話の中で、燐は迂闊にも救いを見出してしまった。
「お前は、男同士のってどういうのか知ってるのかよ?」
少し平静さを取り戻した燐は雪男に問いかける。雪男は兄が会話の途中で萎えたり果てたりしないように、微妙に調節しながら兄の股間を撫でて頷いた。
「知ってる。だから…兄さんいいよ…」
結局、雪男の誘いを燐は拒否出来るはずがなかった。
切羽詰った性欲に抗えなかったのもあるが、巧妙な雪男の泣き脅しと甘言が燐のなけなしの理性を揺さぶり崩壊させた。まだ戸惑いが勝っている兄の手を引き、強引にベッドに引きずり込んだ。雪男は自分から服を脱ぎ、露になった長い手足を兄にからみつかせてかきくどいた。
「兄さん、禁忌を犯すこと…恐れないで。僕を思う気持ちに正直になればそんなことどうでも良くなるんじゃない? もう僕は小さくて弱くて、兄さんが守ってやりたくなるような可愛い弟じゃないだろ。この完全に男の身体になった僕に欲情したんだよね。兄さんは。だったらそれが兄さんの本性なんだよ、僕達の間で取り繕う必要なんかない。」
雪男は燐に圧し掛かって息を荒げた。挑発的で扇情的な言葉も挙動も、半ば演技だったが、兄を興奮させ箍をぶちきるためなら何の羞恥も雪男の心には湧かない。
「だから来て…。僕、どうなってもいいから。」
「雪男。」
自分がやけに性急になっているのはうっすらとは感じていた。きっかけが兄の発情だとしても、「飛ばしすぎだ」とか「抑制しなければ」とか頭の端っこくらいでは何やら計算していた。なのに自分のはしたない口は忙しなく、乱れた息の合間に兄を煽る言葉を吐いている。
雪男は兄に抱きつき肩口に唇を寄せる。シャツの生地に噛み付いて呼気と唾液でぐちゃぐちゃにしてやった。犬が飼い主に構ってもらおうとして見せる媚態とあまり違いがないようなことをしているんだろうけど、今の雪男には人間としての矜持なんてどうでもよかった。
シャツを口に咥えて耳元で切なげに鼻を鳴らしていると、やっと燐の手が伸びてきた。
「雪男。ほんとにいいんだな?」
うんうんと雪男は何度も頷く。兄の肩から顔を離して見返すと、兄の表情はひどく固く、今まで見たことがないくらい真剣な顔をしていた。そんな表情に欲情した頬の赤みがアンバランスである種の滑稽さを生み出していた。自分は兄にとんでもなく重たい決心をさせてしまったのだと自覚する。
「兄さん。ごめん。わがまま言って。」
「わがまま?」
「兄さんが特に何も感じてないならいいよ。」
雪男は広げた脚で燐の腰を挟み込む。腕を燐の首に巻きつけそのまま後ろに倒れこんだ。自分の上の兄の重さが嬉しいのに切なくなって、無意識に巻きつけた腕に力が篭った。
* * *
兄をその気にさせるまでは演技で出していた声が、いつのまにか演技ではなくなっていた。
「あ……兄さん……いた、い。い……いいっ。」
どっちだよとわずかに兄がおろおろしている。兄を受け入れているところは痛いが、兄の腹で擦られている雪男のそこは気持ちいい。そんな具体的でがっかりなことは口に出せないという計算は働いてしまう。やはり初めてなので行為そのものにはのめりこめない。ただはあはあと声を上げたり息を吐いていると、頭の中が空っぽになっていくようで、そこが気持ちよかった。自他共に、特に兄が認める優等生の奥村雪男が、こんなふうに兄とふしだらに繋がって番っている。眉を顰めるどころか石礫を投げられて糾弾されても可笑しくないことをして、それを快楽にしている事実は雪男の頭の中で凝り固まった不安を忘却に導いてくれる。ある意味、堕落してそれ故に怖いものがなくなったという偽物な安心感が包んでくれていた。
兄もそんな偽物の安息に自分と同じように堕ちてくれればいいのにと、自分の視界の中で身体を揺らしている兄のぼやけた顔を見上げながら、微笑んでみせた。
『ほんとに悪魔になったみたい。』
もうそろそろ時も兄の感情も満ちる。
兄は固く目を瞑って、雪男の腰を掴む手に力を込めた。食いしばった歯の間から獣じみた嗚咽が漏れ、雪男の中に埋まっていたモノが雪男の中で痙攣したあと熱い液体を吐き出した……ようだった。
「お、終わったんだよね? 兄さん…」
「ぜえ……ぜえ……。」
燐は初めて故の全力投球故に雪男の胸に突っ伏する。
「兄さん、大丈夫?」
下になっている雪男のほうが、そんな兄の様子を見て不安そうに尋ねてしまう始末だった。
「ま、まあな。」
ふうっと息をついた兄がまた雪男を抱く前の固い表情を見せてごめんと呟いた。それがなんとなく悲しくて、雪男は自分の中から出て行こうとする兄を引きとめようと、兄の唇にキスをした。
「まだ。抜かないで。」
「まだ、大丈夫なのかよ。」
それは二回目のことかと不安げながらに期待してしまう。どうやら今見せているしょぼくれた顔の割には後悔は薄いらしい。
燐は思い出したように雪男の項に指を這わせたり鎖骨に唇を当てたりしていた。前戯をうっかりすっ飛ばしたという事実に今更ながらに気がついたらしい。雪男は兄に触れられる度に小さく声を漏らす。
「あ……あんっ……。」
そんな雪男の声に釣られたように、燐がまたうっと声を漏らす。どうやらまた下半身の具体的な反応と脳の欲情の回線が繋がってしまったようだ。
雪男にとってはそんな単純構造な兄の思考と肉体が愛おしい。そんな思いを込めて、兄を銜え込んでいる部分を自分の意思で締め付けてみる。上手くいくかは自分でもよく分からないが、ただ兄を受け入れているだけというより雪男自身も兄に奉仕してみたいという気持ちの表れだった。
「ゆ、雪男っ。お前は締めなくてもいいから。」
なのに兄から焦ったような制止の声を図れた。
「え? 駄目なの?」
「呼吸あってないから! 兄ちゃんが進もうとするとき止められちゃうから!」
雪男はぷっと吹き出した。
雪男の都合のいいように出来ている精神世界。半ばその中に取り込んでいる兄。なのにどこか兄らしさは失われないし、こんなときなのに笑えてしまうこともある。
雪男が兄に肉体関係を迫ったのは、精神世界での兄を雪男の意思に閉じ込めて定着させる目的があった。兄と兄弟以上の関係を結べば、兄はもう自分と離れられなくなる。
かつて自分は、兄を檻に閉じ込めても無駄だという結論を出した。それは物理的に兄の肉体と精神を閉じ込める檻。それが不可能だということだ。
今回兄に施したのは精神的な檻。肉体と精神を切り離した状態で、精神を閉じ込め物理的に動ける肉体の行動さえも封ずるという手段だった。しかも兄を騙すという形で。
急ごしらえな計算だったが、兄の人の良さが雪男の計画にいいように働いてくれた。
雪男は兄に気づかれないように、恥ずかしさを装って顔を隠した手の平の下でほくそ笑んだ。弟の心という檻の中で何の疑いも持つことなく、弟と平穏な日々を過ごすことになる。まるで終わってから後が全く語られない、続くことの想定されていない御伽噺の「めでたしめでたし」の世界観。物語の終わったあとにもう何も起こらないことだけが確定している。だけど現実にそれはあり得ない。あったとしたら多分破滅した世界だろう。
雪男はベッドの傍に立って、死んだように安らかに眠る兄の髪を掬いながら、うっとりとその寝顔を眺めていた。かつてはその寝顔に憎しみを感じていた時期もあったが、もうこうなってはただただ愛おしいだけだ。雪男の中にはまだ兄の放ったものが留まっている。それは精液という形を取っているが、実態は兄から吸い取った精神エネルギーだ。それが自分の仮初の肉体に浸透していくのがわかった。
「悪魔と悪魔の結合か。なんだかなるべくして成ったという感じだな。」
腹の中で何かが蠢く。雪男は身体を二つに折り曲げ、こみ上げてくるものを抑えるように口を押さえる。身体の中で兄の放ったものと何かが化学反応を起こしたように暴れている。そしてそれは少しずつ形を成してきているのが実感できた。
『ふ…僕の能力は一つだけじゃなかったみたいだな。』
冷静に分析しながら予想外の出来事に対応は出来なかった。雪男は二本の足で立っていることが困難になり、床にへたりこんでしまった。
ほんの少し恐怖めいたものも感じる。雪男の体内で今まで分散していた「ソレ」は出来る限り小さく集合し硬質な外殻を纏って固まった。次第にそれは雪男の体外に出ようともがいていた。
嗚咽を漏らし嘔吐直前で止まる感覚にのた打ち回りながら、雪男は自分の体内で覚醒したものに歯を見せて悪魔らしい笑みを浮かべる。
「はあ……はあ……」
脚を投げ出し首を仰け反らせ、寝ている兄を視界の真ん中に入れ、兄に何の助けを求めることなく、雪男は独り、息を殺してその瞬間を待っていた。
「次からは……絶対にゴムが必要だな。」
会陰部分が熱く充血している。今まで雪男の身体にはなかった器官が形成された。それは出来たばかりだが、それが最終的に成すべきことをこの瞬間に成し遂げようとしていた。
「がはっ……。ぐ……あうっ。」
ようやく痛みと異物感が治まると雪男はそのまま兄の横にくず折れた。
それはそのときだけ覗き見を遠慮して朴が知らなかった場面だった。兄弟のファースト・アフェアをデバガメするのはさすがに気が引けたからなのだが、朴は事後に起きた雪男の異常を見逃してしまっていた。朴は数時間後それを後悔することになる。
雪男の回想は隣を歩く朴には気づかれることなく雪男の脳内に流れ、あの日の雪男が意識を失ったところで終わった。災厄の萌芽はそれに現れていたのに見逃されたままだった。
ごめんなさい。まだ続きます。
☆『続・super scription of date』中編① 燐雪前提の朴雪 前作の解答編
「だから先生は」
暗闇の中から朴朔子の声がした。雪男は前進する朴に手を引っ張られながら人が通れるくらいのトンネル状(?)の通路を通っていた。
一切の光源がない上に雪男は朴の手以外のものには触れていないので、実際の広さは分からない。それでも雪男の脳裏に張り付くイメージはトンネルしかなかった。
この先に前回のサルベージのとき朴が設定した場所がある。他人の精神世界では無敵で無制限状態になれる朴が、雪男の夢の中で勝手に創った架空空間の入り口に、二人は向かっていた。通路は僅かな隆起も陥没も無くしかも進む方向は単一方向なので暗闇の中でも特に不安は感じない。でも探るように腕を手繰られてたどり着いた指先に触れられたとき、雪男は反射的に朴の手を握っていた。まるで縋りつくような弱気な挙動だったと雪男は顔を赤らめたが朴には見えていない。
雪男にも朴の表情は見えないので本当は雪男の強がりを悟られているのかもしれない。粛粛と雪男をエスコートしている少女はどこを向いているのかさえわからない。
朴は一旦切っていた会話を続ける。
「だからあんなことしたんだよね。先生は。」
「あんなことってなんですか。」
唐突に話しかけられて要領を得ない問いに了承を求められた。当然聞き返すに決まっている。朴は雪男の返答に少し不満げに唸った。
「むぅ。本当に素直じゃないな。先生は。」
「だからなんなんです?」
雪男は不本意そうに問い返した。朴は一つ息を吐いて話し始める。
「前回のサルベージの前に起こった事件のことだよ。悪魔による精神攻撃の魔障で理事長と先生が昏睡状態に陥った。あのアクシデントというかテロは、先生自身が仕組んだことだよね。」
不意をつくような朴の言葉だった。雪男は数秒間絶句した後、何だと、と低い声で返した。朴はそんなことは意に解さないとばかりに、長い原稿を読み上げる朗読者のように言葉を続けていく。
「動機はお兄さんが認定試験に落ちるのは確実だと思ったから。認定試験を延期させるために先生は自らを昏睡状態にしたんでしょ。理事長を道連れにして。違うかな?
理事長を行動不能にさせておけばヴァチカンとの相互の行き来に影響を及ぼすよね。並びに日本本部の最重要人物いや悪魔を昏睡させる程の存在への危機に注目を集めて、サタンの息子の危険性を相対的に薄めてしまえる。『どうやってそれを僕がやったんだ』と先生は私に問いかけるだろうけど、それは起こったこと全てが物語っているんだよ。
学園の結界を一部破損させたのも先生だし、悪魔が侵入したのだって先生が悪魔を誘導したからだよね。人を夢の世界に閉じ込めて昏睡させる。そんな悪魔を先生は意図的にこの学園内に招き入れて理事長を狙うように仕向けた。そして自分も一緒にその場で昏睡状態にさせられることで、この事件が人為的に引き起こされたものだと気づかれないようにした。
ていうかサタンの息子の弟の犯行と動機を隠すためでしかないんだろうけど。でも隠し通せなくても先生は構わなかった。ただお兄さんが自分と共犯関係だと疑われなければそれで良かった。最悪でも弟が勝手にしでかしたことだと思われればいいぐらいの採算だったんじゃないかな。そんな情がらみの焼け石に水的な犯罪は、先生のように悪魔の兄を持ちながら身も心も弱い人間が追い詰められた結果だと推測されると計算した。学園に一時的に起きたパニックとは無関係を裏付けるように、お兄さんは自ら先生をサルベージしに先生の精神世界に入って行った。」
雪男は馬鹿らしいと一笑にふそうとした。しかし不覚にも声が出せなかった。朴の決めつけ台詞を否定しなければならないと焦る。大分、機を逸したというタイミングでやっと舌が動いてくれた。
「だけどサルベージされた後、誰も僕や兄さんにそんな疑惑を向けてくる者はいなかったよ。それに貴女がいうことが正しければ僕は愚かにも捨て身の行動を取ったことになる。そんなこと小心なこの僕に出来るわけないよ。」
朴は冷ややかに低い笑い声を立てた。それは嘲笑うようではなく何処か物悲しかった。嘲られているのではなく、憐れまれているらしい。
「先生は夢の世界で燐君を道連れにして捨て身だと思えることしてたよね?」
雪男は自らの精神世界に兄を取り込み、その中で共に果てても構わないと思っていたと取られても仕方ない言動を朴の前で取ってしまっている。だけどそれは、後で泣き言と恨み言と一緒に「諦めた」と朴に告げた。
だから。でも。
そんなことで容赦してくれるような朴ではない。朴の探偵モドキの解説は続く。
「実はね。先生が思うより周りは……正十字学園の祓魔師たちは人為的な犯行というよりは事故だという見解を取っちゃってたんだよ。その分彼らの対応は先生が思うより迅速だった。そりゃそうだよね。祓魔師は警察じゃないんだから真相究明よりも、事故による被害の早期回復と危険対象の拘束なり消滅を優先させるよね。原因になったらしき悪魔はすぐに捕獲されたし。
そういうわけで祓魔師たちはこぞって理事長と先生の救出に専念できてしまった。先生が予測してたより物凄く早く厳戒態勢は解除されたんだよ。そしてサルベージ後に事故に対する違和感とか、遡って原因を追究しようかなんて皆少しは思ったかもしれないけど、そこは被害者の最年少の同僚の証言を聞けばいいくらいに思うよね。先生はいわゆる世間が認める「いい子」だから、誰も先生の言葉を疑わない。先生が事件の状況を「わからない」と言っても事件の元凶は悪魔の仕業だとされてるし、先生は被害者で昏睡してたし、わからないと答えてもしょうがないと思うのが人情だと思うよ。実際皆、先生に同情してたよ。理事長の傍にたまたまあの時いたのが災難だったって。
凄く大雑把でいい加減な話だろうけど。彼らは祓魔師だから次から次へと対応しなくちゃいけない意味不明なことは日常的に慣れているわけだし。若くていい子だと知っている仲間を疑うなんてしたくない。仲間を疑わなくちゃいけない状態は、祓魔師にとって一番危険な心理状態だったよね。そして原因究明がおざなりになったのは、一番の責任者たる理事長が事件当時、事実的不在で調査なり救出の指揮系統のトップがいなかった事と、ヴァチカンからの指示も仰げなかった事。それで、そのへんはうやむやになったんだよ。混乱は起きたけど誰かが意図的に起こしたことだとまでは疑われてない。理事長は早急にサルベージされてヴァチカンとの連絡手段も復活したしね。
今度のことは世界各地の騎士団の拠点で突発的に起こる悪魔の襲来だとみなされ、一番甚大な被害は理事長の昏睡だったけど、日本本部における要の悪魔の行動不能に対して追撃が無かったんで皆ラッキーって、そんな感じで終わっちゃった。」
朴は延々と喋ってふぅと息を吐いた。しかしまだ朴の追及は終わっていない。雪男もそれを察して口を挟まず次の朴の言葉を待った。
「理事長もこのことについては自分が迂闊だったと認め、文書でヴァチカンに届け出て自分以下の日本支部の祓魔師たちに謝罪までして自分自身を今謹慎処分中だし。あの人にしては殊勝だよね。
その辺で理事長の謙虚さを疑ってみてもいいのにね。丸く収まりすぎだろって。それでも彼ら祓魔師達はあまり積極的には疑おうとしなかったんだよ。なんでだと思う? それはね、あの時起きた混乱の現場の最至近距離にいて当事者だった先生のお兄さんが未だに理事長こみで彼らに内心では恐れられているから。係わり合いになりたくなかったのと、反対になんかんだで先生は彼らには好かれているからだよ。人情と無関心故のなあなあが先生を助けてくれたんだよ。ありがたいよね。なのに先生は、そんななあなあが大嫌い。自分でいつもなんとかしようとしてる。」
「でも今は、貴女を頼っている。」
「だけど滅茶苦茶不本意でしょ。」
雪男は朴から自分が見えないことを分かって顔を後ろに逸らす。
「先生にとってお兄さんの精神世界潜入は計画の外で、お兄さんの取り込みはあの場で急遽思いついたことなんでしょ。理事長を昏睡状態にして物理的にヴァチカンとの繋がりを切ってしまうより、お兄さんを自分の中に閉じ込めてしまうほうが早いって気づいちゃったんじゃないかな。先生と一緒に目覚めることのない眠りについたお兄さんと先生を、あとはヴァチカンがどう処分するかは分からないけど。少なくとも目の前でお兄さんが処刑されるところは見なくて済む。そして自分の精神世界の中では先生だけのお兄さんを永遠に確定させることが出来る。」
「それは、兄さんが僕の精神世界に抵抗しなかったから成立する推理ですよね。兄さんは檻に閉じ込めても無駄な人なことは誰よりも僕が知っている。兄さんは僕の精神という脆弱な檻に閉じ込められるほど弱くない。」
「うーむ……。そこで納得してあげてもいいんだけど。それだと今までの私の長ったらしい立証は全て無駄になっちゃう。身内の証言は覆すのがきついね。」
雪男はそうだろうと言うように握っていた朴の手に力を込める。しかし朴はあっけなく雪男に言い返した。
「でも私、君たちのこと、でばがめってたからねえ。燐君の情が深いとこもつぶさに見ちゃったし。精神的な世界は単純に強い弱いの世界じゃない。情が深くて強い人間は、時には弱い人間に流されて間違った選択を取ってしまうんだよ。」
延々と続くトンネルの途中で朴は立ち止まった。斜め後ろで雪男も同じように足を止め、朴が次に口を開くか歩き出すかを待っている。現実世界の朴に対する嫌悪的な態度や反抗的な言葉は今は出てこない。出す必要もないし、今の朴については雪男は嫌悪する気がないからだ。
そして今までの言葉の流れで雪男は自らが意図的にやったということまで認めることにした。それでもまだ朴に対しては厚顔でいられる。向ける感情が宙に浮いてしまった対象に憐れまれていても、意地になるほど切羽詰った衝動は沸かない。朴がとんでもないところに踏み込んでしまう前に流してしまえばいいのだと雪男は心を落ち着けた。
「貴女の言うとおりです。僕は結界をわざと破損させてある悪魔を招き入れた。兄さんのためだったんだ。そしてその後の展開は兄さんが僕の精神世界に来たことで僕が欲を出したからああなった。」
「ふうん。それと――。」
ややあって朴の声が再び暗闇の間隙に滑り込んできた。雪男の自供を聞いていないかのような声音だった。
「まだあるんですか?」
雪男からしてみれば朴の推理は大体のところは真相にたどり着いている。
確かに雪男は意図的に自分とメフィストを昏睡状態にした。兄を取り込んだのもその場の思いつきだった。
しかしこの推理には決定的なものが足りない。朴はそこにまで言及してくるのだろうか。
否、普通の人間はそこに言及できるはずがない。しかし朴は普通の人間でありながら普通の人間ではない。単一の思考と人格でありながら、単一の思考と人格なのに膨大な個体数の集積を実現させていた。視点の多角さ故の緻密な洞察。卑怯業の極致。化物と呼ぶに相応しい禍禍しい女。ある意味ではサタンより恐ろしく見える。
それでも朴が経験した「奥村雪男」から導き出した推理を持ってしては、残りの真相は絶対に引き出せない。善意からでも悪意からでも朴自身が見た「奥村雪男」を信じる限り、その真相は見つけることが出来ない。どんなに優秀なプロファイリングでも「奥村雪男」とソレを繋ぎ合わせることは出来ない。ごく初期の時点で祓魔師をリタイアした彼女にそれは分からない。彼女だけじゃなく「奥村雪男」の思考回路を知る者はきっと、知れば知るほどその真相を否定する。
なのに朴はあっさりとそれを超える。
「あれから私、先生が言っていた大嫌いな元人間の悪魔について調べたんだよ。確か藤堂三郎太っていう悪魔落ちの祓魔師だったらしいね。」
朴が話した自らの生業イコール情報屋からして知られていても当然かと、雪男は混乱を抑えてそれらしく解釈した。
「それがどうしたんですか? 今までの話には全然関係ないじゃないですか。」
「夏休みからちょくちょく先生は、その元上二級から粘着されてたって証言があるんですよ。」
「それは彼の一方的な粘着で、僕は彼のことなんて迷惑でしかありません。それともなんですか。今度の事件は藤堂との共犯だと貴女は言いたいわけですか。」
「先生は藤堂さんとは共犯関係を結んでいない。でも彼は間接的にこの事件を起こす前の先生に悪影響を与えてたんでしょ。私が取材した話では悪魔祓いに関わった人間は、自分の弱さを悪い意味で許容してしまった場合、悪魔落ちという現象を起こしてしまうこと。それによって悪魔の能力を持ってしまうこと。容姿の変化を誤魔化せれば、悪魔落ちした祓魔師と普通の祓魔師を見分けることは難しいこと。」
朴は平然と雪男に告げた。
「私が推測するに一番あり得る可能性を指摘すれば。」
朴は奥村雪男を知っている人間として一番言ってはいけない言葉を平然と言い放つ。
「先生は既に悪魔になってるでしょ。」
雪男はびくっと身体を震わせた。その震えは繋いだ手から朴に伝わっていく。
雪男は怒りか動揺で震える声で朴に言う。
「兄の炎一つさえ肯定できない悪魔嫌いな僕が? 精神の弱さは自覚してるけど、悪魔を許容するかどうかはまた別物じゃないかな。」
雪男は朴の当てずっぽうな考えを修正しようと言葉を吐く。雪男の怒りは尤もだ。それでも朴は雪男をもっと怒らせるように仮説を続ける。
「でもね。そうじゃないと辻褄が合わないんだよ。私が思うのに結界の破損はダミー。捕獲された悪魔もダミー。じゃあ本体は何かと言うと、既に結界の内側にいた悪魔。理事長に匹敵するほどの、そして理事長を行動不能にするほどの。それは理事長と同級かそしてそれ以上の存在。あの理事長自らが謹慎処分を受ける必要性、つまり庇い隠そうとする程度の存在。すなわちサタンの息子の関係者。より強く言えばこの事件の発端。先生はお兄さんの命を助けようと自ら悪魔落ちした。そして強大な能力を手に入れて計画を実行に移した。先生に発現した能力はお兄さんとは全く別のもの。お兄さんの炎が物質的に対象へ消滅するほどのダメージを与えるなら、先生はその対象の精神を蝕み侵食していく能力。」
馬鹿かと雪男は声を絞るように叫ぶ。トンネルと認識しているのに、その声の反響は驚くほどになく、暗闇に溶けていった。
「結界の破損も悪魔もダミーだなんて、どこにそんな証拠がある。」
「証拠はないよ。ただ悪魔落ちした先生はお兄さん同様悪魔の若君になるだろうから、自我のある中級以下の悪魔は先生に無条件に従うんじゃないかな。先生が命じれば。だからそれをダミーにしたわけだよね。」
「君のいうことは意味が分からない。」
「さっきの素直な先生らしくないな。ていうかそのダミーを捕獲した一人っていうのが、その優秀な手騎士のネイガウス先生なんだけどな。それにネイガウス先生は私の言うダミー説の後付もしてくれたよ。無意識的に。」
『これがその悪魔なんですね。』
朴が問うとネイガウスは魔法円に閉じ込めた悪魔を眺めながら首を捻った。
『あのメフィストフェレスが、この程度の悪魔相手に昏倒させられただと?』
『え? 意外とたいしたことないのですか? これ』
『人間の精神や夢に干渉する悪魔であることは確かだが。』
「ほんと。歯切れが悪い言い方でしたよ。でも正十字学園にいる悪魔で該当の能力を持つのはその悪魔くらいでした。それ以前に正十字学園は悪魔の存在が他のどんな場所より少ない区域になってますもんね。」
「僕がダミーを用意したって疑うよりも」
雪男は言いかけたが朴の言葉が入り込む。
「別の悪魔と勘違いして捕まえてしまったというのはナシですよ。実際、その悪魔を使って私達は精神世界に潜入したわけですから。無関係って言うのは苦しいと思いますよ。」
「僕が故意に人間を昏睡させる悪魔を使役してじゃ駄目なんですか。称号は持っていませんが、ある程度の悪魔は召喚出来ます。」
朴は少し強引な言い方で駄目ときっぱり言い放つ。
「『ある程度』の『たいしたことない』悪魔の能力に対して、メフィストフェレスともあろう方がすんなりその悪魔の能力に屈するとは考えにくいです。彼のスペックを鑑みれば、もっと上級の悪魔でなきゃ彼を昏睡させることは出来ない。
しかし結界の張られた正十字学園において存在出来る上級悪魔は結界を作った本人であるメフィストフェレスが一人。そしてメフィストフェレスに人間で祓魔師だと認識されながら、実は悪魔落ちをしていたかつての藤堂三郎太。メフィストフェレスに招待を受けて物質界に来た地の王アマイモン。そして彼の末弟にしてサタンの息子である奥村燐。
それらを総合して考えれば、人間として認識され、メフィストフェレスに知られずに悪魔落ちした人間や、メフィストフェレス自身が敢えて招き入れた悪魔には、それ以降結界の効力がなくなってしまうという仮説が成り立ちます。理事長の自慢の結界というのは、彼の人格と同じように欠陥品。彼の都合のいいように合わせた故に抜け道は幾らでもあるという代物。それまで騎士団の身内であった悪魔落ちした人間や招かれた悪魔にとっては正十字学園はドーナツの穴のようなもの。
それを考えれば先生は、祓魔師なり生徒なりでメフィストフェレスから招待を受けた人間で、サタンの息子の弟である。知らないうちに悪魔落ちしても、先生は自ら自分の身体を検査しているので幾らでも検査結果の誤魔化しが利く。これほどまでに結界をスルーするのに都合のいい立場はない。」
「それが僕が悪魔落ちしたっていう推察の証明にはならない。」
ダメ押しのように雪男は最期の抵抗を試みた。なのにそれは――。
「だから先生自身がもうバラしちゃっていいんじゃないですか? 大丈夫です。私は誰にも言わないし、理事長だって口を噤んでくれます。脅すようですがここで先生が認めなければ、私は今までの推察をお兄さんに告げ口するかもしれませんよ。お兄さんは情が深くてすぐ人を信じますけど、先生にこうも何回も裏切られたと思える事実を私が指摘すれば、先生でなく私を信じる可能性もありますよ。確率的には五分と五分。」
――緩い、決め手には届かない言葉で打ち返される。
「脅迫だね。それは。」
雪男は朴から手を離す。肩まで両手を挙げると暗闇のどこかにいる朴を睨み付けた。
「兄さんは絶対僕を信じてくれる。」
「それならそれでいいけど。私は先生が本当のことを言わないからって、燐君の救出にこれ以上協力出来ないなんて言わないし。」
「当たり前だ。ここまで来ておいて。」
「ただ先生の状況が私の推察どおりなら、自分一人でそれを背負えるの? 燐君でさえサタンの息子であるという現実を、先生や仲間がいなくちゃ抱え切れなかったと私は思うんだけど。
先生は悪魔落ちの動機を「兄さんを守るため」って大義名分を掲げることで気丈に振舞っているようだけど、結局は自分の兄を今度の事件で半廃人に追い詰めたようなもんだよ。私はまたそんな事態になることを未然に防ぎたいって思ってる。
私がこうやって先生を追い詰めるような真似をする動機って間違ってるかな? 私に本当のことを言ってくれれば、燐君にはまだ話していないけど嘘はついてないってことになるんじゃないかな。誰かが、特に名目は一般人な私が知っているんだから。そうなれば気づかない燐君や他の祓魔師のほうがよっぽど鈍いって話にも挿げ替えられるよね。そっちのほうが都合が良くない?」
「僕の人格の瑕疵を、貴女が請け負ってくれるっていうんんですか?」
「私はただの一個人だけど、幸いにも私という存在は膨大にいる。幾らでもフォロー出来るんだよ。」
朴は雪男の手を取ってずんずんと歩き出す。
「今すぐ本当のことを言えとは言わないし、ここでずっと先生の回答を待つつもりもない。道中はまだ十分の一もいってないんだよ。」
「つまり、兄さんに対して僕の都合の悪いことを言われたくなければ、精神世界にいる兄さんと遭遇するまでに貴女に真実を言えと?」
「そういうことと取っていいよ。」
雪男はしかめっ面を浮かべながら朴についていく。朴は手を繋ぐときさりげなく雪男の手首の脈を探っていた。雪男の動揺などで現れる脈の変化は朴には知られているだろう。ただそれは動揺でしかない。動揺している事実は知られているが何で動揺しているかは知りようが無い。しかしその理屈が朴に通用するかどうかは別物だ。
二人はトンネルを抜けるとそこはネオンが輝く歓楽街だった。自分達の女子制服姿はすごく浮いていた。
「朴さん。ここは僕の精神世界のはずでしたよね。あのときの僕らの部屋が星空に浮いた時といい、好き勝手やりすぎじゃないですか。」
「あはは。私が動きやすいようにチューニングした結果だからね。あそこのラブホが入り口だから。」
見るからに趣味の悪い派手な建物だった。出入り口には上から垂れたゴム製の幕が掛かっている。しかし雪男と朴は徒歩なので二人はそのままそこをくぐってフロントに急いだ。
フロントは無人だった。ラブホテルなのでそれが普通なのかと雪男は妙に納得した。しかしながらタッチパネルで部屋を選ぶ朴が妙に手馴れている。よく見るとそれは部屋の選択ではなく、朴が設定したと思しき雪男の精神世界のマップらしきものだった。
「これとこれとこれをこの順で設定して。それじゃいきましょうか。」
「その前に。」
二人は廊下を歩いている。雪男は朴の後ろから言う。
「朴さんの推理は当たっています。僕は悪魔落ちしています。」
朴は振り向いて目を丸くしていた。
「もう少し粘ると思ったんだけど。」
雪男は朴の前に跪く。
「お願いです。兄さんにだけは……」
「いや。そこまで疑うわけ。誰にも言うつもりないって言ったよね。」
雪男はそんな言葉が聞こえていないかのように朴の足にしがみ付いて懇願する。
「なんでもします…だから、兄さんにだけは僕が悪魔落ちしたってことは……」
朴はにやけながらも、困ったように見せかけるために目元を覆い溜息をつく。
「やっぱり凄く気持ちは溜め込んでたんじゃん……。先生は」
「うう……」
朴に屈する屈辱よりも、兄からの信頼が崩されそうになることを恐れた。故に雪男は朴に縋った。朴は誰も通らない廊下の端に雪男を座らせる。
「私は自分じゃその気はないんだけど、先生をいじめちゃうみたいだね。」
「だってまさかこんな推理されるとは思わなかったから。」
いやいやと朴は雪男の言うことを否定する。
「推理っていうか、八割がたハッタリだったんだけど。自分でも騙ってるうちにノリノリになっちゃって。ごめん。」
「ひどい……。」
雪男は一言呟いて立ち上がる。
「そんなことなら、しらばっくれればよかった。」
朴はてへへと笑うと大股歩きの雪男についていく。
「奇跡も魔法も無いけど、イカサマと必然はあるんだよ~。」
歌うような朴の言葉に雪男は耳を塞いだ。
暗闇の中から朴朔子の声がした。雪男は前進する朴に手を引っ張られながら人が通れるくらいのトンネル状(?)の通路を通っていた。
一切の光源がない上に雪男は朴の手以外のものには触れていないので、実際の広さは分からない。それでも雪男の脳裏に張り付くイメージはトンネルしかなかった。
この先に前回のサルベージのとき朴が設定した場所がある。他人の精神世界では無敵で無制限状態になれる朴が、雪男の夢の中で勝手に創った架空空間の入り口に、二人は向かっていた。通路は僅かな隆起も陥没も無くしかも進む方向は単一方向なので暗闇の中でも特に不安は感じない。でも探るように腕を手繰られてたどり着いた指先に触れられたとき、雪男は反射的に朴の手を握っていた。まるで縋りつくような弱気な挙動だったと雪男は顔を赤らめたが朴には見えていない。
雪男にも朴の表情は見えないので本当は雪男の強がりを悟られているのかもしれない。粛粛と雪男をエスコートしている少女はどこを向いているのかさえわからない。
朴は一旦切っていた会話を続ける。
「だからあんなことしたんだよね。先生は。」
「あんなことってなんですか。」
唐突に話しかけられて要領を得ない問いに了承を求められた。当然聞き返すに決まっている。朴は雪男の返答に少し不満げに唸った。
「むぅ。本当に素直じゃないな。先生は。」
「だからなんなんです?」
雪男は不本意そうに問い返した。朴は一つ息を吐いて話し始める。
「前回のサルベージの前に起こった事件のことだよ。悪魔による精神攻撃の魔障で理事長と先生が昏睡状態に陥った。あのアクシデントというかテロは、先生自身が仕組んだことだよね。」
不意をつくような朴の言葉だった。雪男は数秒間絶句した後、何だと、と低い声で返した。朴はそんなことは意に解さないとばかりに、長い原稿を読み上げる朗読者のように言葉を続けていく。
「動機はお兄さんが認定試験に落ちるのは確実だと思ったから。認定試験を延期させるために先生は自らを昏睡状態にしたんでしょ。理事長を道連れにして。違うかな?
理事長を行動不能にさせておけばヴァチカンとの相互の行き来に影響を及ぼすよね。並びに日本本部の最重要人物いや悪魔を昏睡させる程の存在への危機に注目を集めて、サタンの息子の危険性を相対的に薄めてしまえる。『どうやってそれを僕がやったんだ』と先生は私に問いかけるだろうけど、それは起こったこと全てが物語っているんだよ。
学園の結界を一部破損させたのも先生だし、悪魔が侵入したのだって先生が悪魔を誘導したからだよね。人を夢の世界に閉じ込めて昏睡させる。そんな悪魔を先生は意図的にこの学園内に招き入れて理事長を狙うように仕向けた。そして自分も一緒にその場で昏睡状態にさせられることで、この事件が人為的に引き起こされたものだと気づかれないようにした。
ていうかサタンの息子の弟の犯行と動機を隠すためでしかないんだろうけど。でも隠し通せなくても先生は構わなかった。ただお兄さんが自分と共犯関係だと疑われなければそれで良かった。最悪でも弟が勝手にしでかしたことだと思われればいいぐらいの採算だったんじゃないかな。そんな情がらみの焼け石に水的な犯罪は、先生のように悪魔の兄を持ちながら身も心も弱い人間が追い詰められた結果だと推測されると計算した。学園に一時的に起きたパニックとは無関係を裏付けるように、お兄さんは自ら先生をサルベージしに先生の精神世界に入って行った。」
雪男は馬鹿らしいと一笑にふそうとした。しかし不覚にも声が出せなかった。朴の決めつけ台詞を否定しなければならないと焦る。大分、機を逸したというタイミングでやっと舌が動いてくれた。
「だけどサルベージされた後、誰も僕や兄さんにそんな疑惑を向けてくる者はいなかったよ。それに貴女がいうことが正しければ僕は愚かにも捨て身の行動を取ったことになる。そんなこと小心なこの僕に出来るわけないよ。」
朴は冷ややかに低い笑い声を立てた。それは嘲笑うようではなく何処か物悲しかった。嘲られているのではなく、憐れまれているらしい。
「先生は夢の世界で燐君を道連れにして捨て身だと思えることしてたよね?」
雪男は自らの精神世界に兄を取り込み、その中で共に果てても構わないと思っていたと取られても仕方ない言動を朴の前で取ってしまっている。だけどそれは、後で泣き言と恨み言と一緒に「諦めた」と朴に告げた。
だから。でも。
そんなことで容赦してくれるような朴ではない。朴の探偵モドキの解説は続く。
「実はね。先生が思うより周りは……正十字学園の祓魔師たちは人為的な犯行というよりは事故だという見解を取っちゃってたんだよ。その分彼らの対応は先生が思うより迅速だった。そりゃそうだよね。祓魔師は警察じゃないんだから真相究明よりも、事故による被害の早期回復と危険対象の拘束なり消滅を優先させるよね。原因になったらしき悪魔はすぐに捕獲されたし。
そういうわけで祓魔師たちはこぞって理事長と先生の救出に専念できてしまった。先生が予測してたより物凄く早く厳戒態勢は解除されたんだよ。そしてサルベージ後に事故に対する違和感とか、遡って原因を追究しようかなんて皆少しは思ったかもしれないけど、そこは被害者の最年少の同僚の証言を聞けばいいくらいに思うよね。先生はいわゆる世間が認める「いい子」だから、誰も先生の言葉を疑わない。先生が事件の状況を「わからない」と言っても事件の元凶は悪魔の仕業だとされてるし、先生は被害者で昏睡してたし、わからないと答えてもしょうがないと思うのが人情だと思うよ。実際皆、先生に同情してたよ。理事長の傍にたまたまあの時いたのが災難だったって。
凄く大雑把でいい加減な話だろうけど。彼らは祓魔師だから次から次へと対応しなくちゃいけない意味不明なことは日常的に慣れているわけだし。若くていい子だと知っている仲間を疑うなんてしたくない。仲間を疑わなくちゃいけない状態は、祓魔師にとって一番危険な心理状態だったよね。そして原因究明がおざなりになったのは、一番の責任者たる理事長が事件当時、事実的不在で調査なり救出の指揮系統のトップがいなかった事と、ヴァチカンからの指示も仰げなかった事。それで、そのへんはうやむやになったんだよ。混乱は起きたけど誰かが意図的に起こしたことだとまでは疑われてない。理事長は早急にサルベージされてヴァチカンとの連絡手段も復活したしね。
今度のことは世界各地の騎士団の拠点で突発的に起こる悪魔の襲来だとみなされ、一番甚大な被害は理事長の昏睡だったけど、日本本部における要の悪魔の行動不能に対して追撃が無かったんで皆ラッキーって、そんな感じで終わっちゃった。」
朴は延々と喋ってふぅと息を吐いた。しかしまだ朴の追及は終わっていない。雪男もそれを察して口を挟まず次の朴の言葉を待った。
「理事長もこのことについては自分が迂闊だったと認め、文書でヴァチカンに届け出て自分以下の日本支部の祓魔師たちに謝罪までして自分自身を今謹慎処分中だし。あの人にしては殊勝だよね。
その辺で理事長の謙虚さを疑ってみてもいいのにね。丸く収まりすぎだろって。それでも彼ら祓魔師達はあまり積極的には疑おうとしなかったんだよ。なんでだと思う? それはね、あの時起きた混乱の現場の最至近距離にいて当事者だった先生のお兄さんが未だに理事長こみで彼らに内心では恐れられているから。係わり合いになりたくなかったのと、反対になんかんだで先生は彼らには好かれているからだよ。人情と無関心故のなあなあが先生を助けてくれたんだよ。ありがたいよね。なのに先生は、そんななあなあが大嫌い。自分でいつもなんとかしようとしてる。」
「でも今は、貴女を頼っている。」
「だけど滅茶苦茶不本意でしょ。」
雪男は朴から自分が見えないことを分かって顔を後ろに逸らす。
「先生にとってお兄さんの精神世界潜入は計画の外で、お兄さんの取り込みはあの場で急遽思いついたことなんでしょ。理事長を昏睡状態にして物理的にヴァチカンとの繋がりを切ってしまうより、お兄さんを自分の中に閉じ込めてしまうほうが早いって気づいちゃったんじゃないかな。先生と一緒に目覚めることのない眠りについたお兄さんと先生を、あとはヴァチカンがどう処分するかは分からないけど。少なくとも目の前でお兄さんが処刑されるところは見なくて済む。そして自分の精神世界の中では先生だけのお兄さんを永遠に確定させることが出来る。」
「それは、兄さんが僕の精神世界に抵抗しなかったから成立する推理ですよね。兄さんは檻に閉じ込めても無駄な人なことは誰よりも僕が知っている。兄さんは僕の精神という脆弱な檻に閉じ込められるほど弱くない。」
「うーむ……。そこで納得してあげてもいいんだけど。それだと今までの私の長ったらしい立証は全て無駄になっちゃう。身内の証言は覆すのがきついね。」
雪男はそうだろうと言うように握っていた朴の手に力を込める。しかし朴はあっけなく雪男に言い返した。
「でも私、君たちのこと、でばがめってたからねえ。燐君の情が深いとこもつぶさに見ちゃったし。精神的な世界は単純に強い弱いの世界じゃない。情が深くて強い人間は、時には弱い人間に流されて間違った選択を取ってしまうんだよ。」
延々と続くトンネルの途中で朴は立ち止まった。斜め後ろで雪男も同じように足を止め、朴が次に口を開くか歩き出すかを待っている。現実世界の朴に対する嫌悪的な態度や反抗的な言葉は今は出てこない。出す必要もないし、今の朴については雪男は嫌悪する気がないからだ。
そして今までの言葉の流れで雪男は自らが意図的にやったということまで認めることにした。それでもまだ朴に対しては厚顔でいられる。向ける感情が宙に浮いてしまった対象に憐れまれていても、意地になるほど切羽詰った衝動は沸かない。朴がとんでもないところに踏み込んでしまう前に流してしまえばいいのだと雪男は心を落ち着けた。
「貴女の言うとおりです。僕は結界をわざと破損させてある悪魔を招き入れた。兄さんのためだったんだ。そしてその後の展開は兄さんが僕の精神世界に来たことで僕が欲を出したからああなった。」
「ふうん。それと――。」
ややあって朴の声が再び暗闇の間隙に滑り込んできた。雪男の自供を聞いていないかのような声音だった。
「まだあるんですか?」
雪男からしてみれば朴の推理は大体のところは真相にたどり着いている。
確かに雪男は意図的に自分とメフィストを昏睡状態にした。兄を取り込んだのもその場の思いつきだった。
しかしこの推理には決定的なものが足りない。朴はそこにまで言及してくるのだろうか。
否、普通の人間はそこに言及できるはずがない。しかし朴は普通の人間でありながら普通の人間ではない。単一の思考と人格でありながら、単一の思考と人格なのに膨大な個体数の集積を実現させていた。視点の多角さ故の緻密な洞察。卑怯業の極致。化物と呼ぶに相応しい禍禍しい女。ある意味ではサタンより恐ろしく見える。
それでも朴が経験した「奥村雪男」から導き出した推理を持ってしては、残りの真相は絶対に引き出せない。善意からでも悪意からでも朴自身が見た「奥村雪男」を信じる限り、その真相は見つけることが出来ない。どんなに優秀なプロファイリングでも「奥村雪男」とソレを繋ぎ合わせることは出来ない。ごく初期の時点で祓魔師をリタイアした彼女にそれは分からない。彼女だけじゃなく「奥村雪男」の思考回路を知る者はきっと、知れば知るほどその真相を否定する。
なのに朴はあっさりとそれを超える。
「あれから私、先生が言っていた大嫌いな元人間の悪魔について調べたんだよ。確か藤堂三郎太っていう悪魔落ちの祓魔師だったらしいね。」
朴が話した自らの生業イコール情報屋からして知られていても当然かと、雪男は混乱を抑えてそれらしく解釈した。
「それがどうしたんですか? 今までの話には全然関係ないじゃないですか。」
「夏休みからちょくちょく先生は、その元上二級から粘着されてたって証言があるんですよ。」
「それは彼の一方的な粘着で、僕は彼のことなんて迷惑でしかありません。それともなんですか。今度の事件は藤堂との共犯だと貴女は言いたいわけですか。」
「先生は藤堂さんとは共犯関係を結んでいない。でも彼は間接的にこの事件を起こす前の先生に悪影響を与えてたんでしょ。私が取材した話では悪魔祓いに関わった人間は、自分の弱さを悪い意味で許容してしまった場合、悪魔落ちという現象を起こしてしまうこと。それによって悪魔の能力を持ってしまうこと。容姿の変化を誤魔化せれば、悪魔落ちした祓魔師と普通の祓魔師を見分けることは難しいこと。」
朴は平然と雪男に告げた。
「私が推測するに一番あり得る可能性を指摘すれば。」
朴は奥村雪男を知っている人間として一番言ってはいけない言葉を平然と言い放つ。
「先生は既に悪魔になってるでしょ。」
雪男はびくっと身体を震わせた。その震えは繋いだ手から朴に伝わっていく。
雪男は怒りか動揺で震える声で朴に言う。
「兄の炎一つさえ肯定できない悪魔嫌いな僕が? 精神の弱さは自覚してるけど、悪魔を許容するかどうかはまた別物じゃないかな。」
雪男は朴の当てずっぽうな考えを修正しようと言葉を吐く。雪男の怒りは尤もだ。それでも朴は雪男をもっと怒らせるように仮説を続ける。
「でもね。そうじゃないと辻褄が合わないんだよ。私が思うのに結界の破損はダミー。捕獲された悪魔もダミー。じゃあ本体は何かと言うと、既に結界の内側にいた悪魔。理事長に匹敵するほどの、そして理事長を行動不能にするほどの。それは理事長と同級かそしてそれ以上の存在。あの理事長自らが謹慎処分を受ける必要性、つまり庇い隠そうとする程度の存在。すなわちサタンの息子の関係者。より強く言えばこの事件の発端。先生はお兄さんの命を助けようと自ら悪魔落ちした。そして強大な能力を手に入れて計画を実行に移した。先生に発現した能力はお兄さんとは全く別のもの。お兄さんの炎が物質的に対象へ消滅するほどのダメージを与えるなら、先生はその対象の精神を蝕み侵食していく能力。」
馬鹿かと雪男は声を絞るように叫ぶ。トンネルと認識しているのに、その声の反響は驚くほどになく、暗闇に溶けていった。
「結界の破損も悪魔もダミーだなんて、どこにそんな証拠がある。」
「証拠はないよ。ただ悪魔落ちした先生はお兄さん同様悪魔の若君になるだろうから、自我のある中級以下の悪魔は先生に無条件に従うんじゃないかな。先生が命じれば。だからそれをダミーにしたわけだよね。」
「君のいうことは意味が分からない。」
「さっきの素直な先生らしくないな。ていうかそのダミーを捕獲した一人っていうのが、その優秀な手騎士のネイガウス先生なんだけどな。それにネイガウス先生は私の言うダミー説の後付もしてくれたよ。無意識的に。」
『これがその悪魔なんですね。』
朴が問うとネイガウスは魔法円に閉じ込めた悪魔を眺めながら首を捻った。
『あのメフィストフェレスが、この程度の悪魔相手に昏倒させられただと?』
『え? 意外とたいしたことないのですか? これ』
『人間の精神や夢に干渉する悪魔であることは確かだが。』
「ほんと。歯切れが悪い言い方でしたよ。でも正十字学園にいる悪魔で該当の能力を持つのはその悪魔くらいでした。それ以前に正十字学園は悪魔の存在が他のどんな場所より少ない区域になってますもんね。」
「僕がダミーを用意したって疑うよりも」
雪男は言いかけたが朴の言葉が入り込む。
「別の悪魔と勘違いして捕まえてしまったというのはナシですよ。実際、その悪魔を使って私達は精神世界に潜入したわけですから。無関係って言うのは苦しいと思いますよ。」
「僕が故意に人間を昏睡させる悪魔を使役してじゃ駄目なんですか。称号は持っていませんが、ある程度の悪魔は召喚出来ます。」
朴は少し強引な言い方で駄目ときっぱり言い放つ。
「『ある程度』の『たいしたことない』悪魔の能力に対して、メフィストフェレスともあろう方がすんなりその悪魔の能力に屈するとは考えにくいです。彼のスペックを鑑みれば、もっと上級の悪魔でなきゃ彼を昏睡させることは出来ない。
しかし結界の張られた正十字学園において存在出来る上級悪魔は結界を作った本人であるメフィストフェレスが一人。そしてメフィストフェレスに人間で祓魔師だと認識されながら、実は悪魔落ちをしていたかつての藤堂三郎太。メフィストフェレスに招待を受けて物質界に来た地の王アマイモン。そして彼の末弟にしてサタンの息子である奥村燐。
それらを総合して考えれば、人間として認識され、メフィストフェレスに知られずに悪魔落ちした人間や、メフィストフェレス自身が敢えて招き入れた悪魔には、それ以降結界の効力がなくなってしまうという仮説が成り立ちます。理事長の自慢の結界というのは、彼の人格と同じように欠陥品。彼の都合のいいように合わせた故に抜け道は幾らでもあるという代物。それまで騎士団の身内であった悪魔落ちした人間や招かれた悪魔にとっては正十字学園はドーナツの穴のようなもの。
それを考えれば先生は、祓魔師なり生徒なりでメフィストフェレスから招待を受けた人間で、サタンの息子の弟である。知らないうちに悪魔落ちしても、先生は自ら自分の身体を検査しているので幾らでも検査結果の誤魔化しが利く。これほどまでに結界をスルーするのに都合のいい立場はない。」
「それが僕が悪魔落ちしたっていう推察の証明にはならない。」
ダメ押しのように雪男は最期の抵抗を試みた。なのにそれは――。
「だから先生自身がもうバラしちゃっていいんじゃないですか? 大丈夫です。私は誰にも言わないし、理事長だって口を噤んでくれます。脅すようですがここで先生が認めなければ、私は今までの推察をお兄さんに告げ口するかもしれませんよ。お兄さんは情が深くてすぐ人を信じますけど、先生にこうも何回も裏切られたと思える事実を私が指摘すれば、先生でなく私を信じる可能性もありますよ。確率的には五分と五分。」
――緩い、決め手には届かない言葉で打ち返される。
「脅迫だね。それは。」
雪男は朴から手を離す。肩まで両手を挙げると暗闇のどこかにいる朴を睨み付けた。
「兄さんは絶対僕を信じてくれる。」
「それならそれでいいけど。私は先生が本当のことを言わないからって、燐君の救出にこれ以上協力出来ないなんて言わないし。」
「当たり前だ。ここまで来ておいて。」
「ただ先生の状況が私の推察どおりなら、自分一人でそれを背負えるの? 燐君でさえサタンの息子であるという現実を、先生や仲間がいなくちゃ抱え切れなかったと私は思うんだけど。
先生は悪魔落ちの動機を「兄さんを守るため」って大義名分を掲げることで気丈に振舞っているようだけど、結局は自分の兄を今度の事件で半廃人に追い詰めたようなもんだよ。私はまたそんな事態になることを未然に防ぎたいって思ってる。
私がこうやって先生を追い詰めるような真似をする動機って間違ってるかな? 私に本当のことを言ってくれれば、燐君にはまだ話していないけど嘘はついてないってことになるんじゃないかな。誰かが、特に名目は一般人な私が知っているんだから。そうなれば気づかない燐君や他の祓魔師のほうがよっぽど鈍いって話にも挿げ替えられるよね。そっちのほうが都合が良くない?」
「僕の人格の瑕疵を、貴女が請け負ってくれるっていうんんですか?」
「私はただの一個人だけど、幸いにも私という存在は膨大にいる。幾らでもフォロー出来るんだよ。」
朴は雪男の手を取ってずんずんと歩き出す。
「今すぐ本当のことを言えとは言わないし、ここでずっと先生の回答を待つつもりもない。道中はまだ十分の一もいってないんだよ。」
「つまり、兄さんに対して僕の都合の悪いことを言われたくなければ、精神世界にいる兄さんと遭遇するまでに貴女に真実を言えと?」
「そういうことと取っていいよ。」
雪男はしかめっ面を浮かべながら朴についていく。朴は手を繋ぐときさりげなく雪男の手首の脈を探っていた。雪男の動揺などで現れる脈の変化は朴には知られているだろう。ただそれは動揺でしかない。動揺している事実は知られているが何で動揺しているかは知りようが無い。しかしその理屈が朴に通用するかどうかは別物だ。
二人はトンネルを抜けるとそこはネオンが輝く歓楽街だった。自分達の女子制服姿はすごく浮いていた。
「朴さん。ここは僕の精神世界のはずでしたよね。あのときの僕らの部屋が星空に浮いた時といい、好き勝手やりすぎじゃないですか。」
「あはは。私が動きやすいようにチューニングした結果だからね。あそこのラブホが入り口だから。」
見るからに趣味の悪い派手な建物だった。出入り口には上から垂れたゴム製の幕が掛かっている。しかし雪男と朴は徒歩なので二人はそのままそこをくぐってフロントに急いだ。
フロントは無人だった。ラブホテルなのでそれが普通なのかと雪男は妙に納得した。しかしながらタッチパネルで部屋を選ぶ朴が妙に手馴れている。よく見るとそれは部屋の選択ではなく、朴が設定したと思しき雪男の精神世界のマップらしきものだった。
「これとこれとこれをこの順で設定して。それじゃいきましょうか。」
「その前に。」
二人は廊下を歩いている。雪男は朴の後ろから言う。
「朴さんの推理は当たっています。僕は悪魔落ちしています。」
朴は振り向いて目を丸くしていた。
「もう少し粘ると思ったんだけど。」
雪男は朴の前に跪く。
「お願いです。兄さんにだけは……」
「いや。そこまで疑うわけ。誰にも言うつもりないって言ったよね。」
雪男はそんな言葉が聞こえていないかのように朴の足にしがみ付いて懇願する。
「なんでもします…だから、兄さんにだけは僕が悪魔落ちしたってことは……」
朴はにやけながらも、困ったように見せかけるために目元を覆い溜息をつく。
「やっぱり凄く気持ちは溜め込んでたんじゃん……。先生は」
「うう……」
朴に屈する屈辱よりも、兄からの信頼が崩されそうになることを恐れた。故に雪男は朴に縋った。朴は誰も通らない廊下の端に雪男を座らせる。
「私は自分じゃその気はないんだけど、先生をいじめちゃうみたいだね。」
「だってまさかこんな推理されるとは思わなかったから。」
いやいやと朴は雪男の言うことを否定する。
「推理っていうか、八割がたハッタリだったんだけど。自分でも騙ってるうちにノリノリになっちゃって。ごめん。」
「ひどい……。」
雪男は一言呟いて立ち上がる。
「そんなことなら、しらばっくれればよかった。」
朴はてへへと笑うと大股歩きの雪男についていく。
「奇跡も魔法も無いけど、イカサマと必然はあるんだよ~。」
歌うような朴の言葉に雪男は耳を塞いだ。
☆『続・super scription of date』前編 燐雪前提の朴雪
注意
朴さんについてのとんでも設定。
破滅的ヒロインの雪ちゃん。
ボケ老人な兄さん。
とりあえずとんでも設定。
世間は今日もなあなあで過ぎているようだった。それは単純に他者に対する無関心であったりその逆の人情が理由だったりする。人がすれ違うときの微妙で絶妙な距離。今日も正十字学園は日和見と高見の見物をモットーとする人たちの営みで溢れていた。
しかし話のしょっぱなからそんな当たり前の馴れ合いに失敗している奴らがいた。
「まったく。三学期の始業式に登校していないなんてどういうことなんだ。彼女は。」
雪男は更衣室の中でぶつくさと呟いていた。呟きながら学生服のブレザーを脱ぎネクタイを解き、ワイシャツのボタンを外していく。当たり前だが着替えの最中だった。
「……。」
机上に畳まれた衣服を前にして雪男は自らに「覚悟を決めろ」と告げる。用意した着替えはやはり制服なのだが、正十字学園女子制服だった。オタク趣味のある理事長が採用しただけあって多少デザインがアニメ臭い。しかしそれでいて異様に可愛らしく生地もコスプレ衣装にならない程度の品の良さを兼ね備えている。
雪男はまずブラウスを身につけ、首にリボンを結ぶ。そのあとまだ身につけていたスラックスを脱ぎ捨て、スカートを目の前に翳した。普通の規格よりは若干その丈は長めで、多分膝上までを隠してくれそうだ。しかしいつもは晒していない脹脛や足首は露出するしかないらしい。雪男は深く考えないように努めてそれに足を突っ込んで腰まで引き上げた。
「くっ。僕がこんな格好までしなくちゃならないなんて屈辱だ。」
雪男は制服と一緒に置いていたスパッツを手に取る。足全体を隠したいならタイツのほうがいいかと迷ったが、やはり感覚的にスパッツのほうが雪男にとってはまだ抵抗が少なかった。
「覚えてろ。朴朔子。」
憎憎しげに呟いてスパッツを履き制服の上着を着て鏡を見る。仕上げに肩までの長さのウィッグを被り唇にリップクリームを塗った。なんとか背が高い以外は女の子らしく見えてきた。
雪男は足元を見ながら唸る。
「靴下そのままは浮くかな。でもまあいっか。」
幸い白靴下だしと思いながら更衣室を出て雪男が向かったのは、正十字学園女子寮だった。雪男は怯む心を落ち着けながら入り口すぐの寮監室の横を息を殺して通り過ぎた。
今の時間は高等部は授業中なので、この寮に留まる女子生徒はいないはず。しかし例外はないわけじゃない。いわゆる病欠で部屋で休んでいる生徒やら、事情があって自室に待機しなければいけなくなった生徒、あるいは忘れ物を取りに帰った生徒。そんな者がちらほらといてもおかしくは無い。しかし部屋に篭りきりの病欠者以外は、教員に近い立場の寮監に見咎められれば、何らかの追及を受けかねない。ただ正十字学園の女子学生は怠学するような不良女子はほとんどいないので、寮監がこんな時間に女子生徒の姿を見てもそれは前述のような事情であると考えてくれるだろう。あくまで女子生徒の姿であれば。雪男が女子寮に侵入する為に女装したのはそのためだ。
雪男は一年生の部屋が集中するエリアをきょろきょろと探索していた。男子寮より余裕がある四人部屋を三人か二人で使っているのか、部屋のプレートに書かれた名前が男子寮で見るよりは僅かに少なく見える。しばらく両側の壁にドアが続く廊下を左右を見回しながら雪男は進んでいた。
『朴朔子』
プレートの文字が雪男をひきつける。ふとひとつの部屋の前で雪男は立ち止まった。
「えーと……。ここか。」
雪男は朴の部屋を目の前にして違和感を覚える。寮住まいの生徒は大抵は複数の人間と一緒の部屋に住む事になるのに、この部屋のプレートには朴一人しか名前がない。
「隔離でもされてるのか? 彼女は。ふっ。やっぱり学校側も考えるもんだな。」
兄弟ごと別の寮に隔離されているも同然の雪男が言うべき台詞ではなかった。雪男と燐の事情とは違うが、特殊な性癖を持つ朴なら有り得る話だった。
雪男はドアをノックする。
「こんにちは。」
「はーい。」
返事を確認してドアを開けた。女装している姿に何か追及されると思った雪男だったが、朴の反応は普段とそれほど変わりがないようだった。しかし視線はさりげなく雪男のスカートの裾から下に向けられており、嬉しそうに目を細められたことについて雪男は気づいていた。
「あー。おはようございます。わざわざ出向いてくれたんだ。」
朴は大あくびをしながら雪男を招き入れる。一応は制服には着替えていたようだが学校に出向く気はさらさらないような態度だった。
「じゃあ。お邪魔します。」
雪男は奥に配置された備え付けのベッドの上で半身を起こしている朴に近ずく。朴もベッドから降りて雪男を待ち構えた。
しかし一人部屋では聞こえないはずの音が雪男の耳に入る。それはすーすーという寝息が二人分。その最初の違和感に気づいたら、他の目に見える違和感なんて一目瞭然だった。壁際に造られたそれぞれのベッドで眠っている二人の少女。穏やかなその光景とは裏腹にソレは衝撃的だった。
「あー。二号と三号は今休息中。私は先生が来ると思っていたから少し前から起きてみたんだ。あと三十分待ってこなかったら放課後か塾のあとまで寝てようかと思ってた。」
朴が暢気に話している間に雪男は寮の備え付けのベッドの中に朴と同じ顔を二つ見つけた。どちらも突然の来客に気づくこともなく熟睡しているようだった。
「あの。貴女方は三つ子の姉妹なんですか? よく似ていらっしゃるようですけど。いや、なんと言うか気味悪いくらい。」
「ああ。二号も三号も私です。個体的に何の差異も優劣も遜色も無い筈だよ。」
事も無げに告げられた言葉の内容は頭に入ってくるが意味を理解することは躊躇ってしまう。今までも小出し小出しにとんでも設定を出してきた朴朔子だが、今回はその極致とも言っていいものだった。
「ええ!いやいやそんな。」
「この正十字学園にはあと二人ほど朴朔子がいます。」
「いやいやいや、だったらその正十字学園にいる残り二人の朴さんは何してるんですか?」
「この正十字学園内で働いています。」
「いや。いやいや。いやいやいやいや。」
「嫌って言わないで下さいよ。朴朔子というのはぶっちゃけ固有の存在ではないんです。無数にいて、それでいながら一人の人間なんです。」
なんだそんな矛盾した言い草はと雪男は朴に怒鳴った。朴は落ち着いて下さいと雪男を宥める。
「一つ言えることはやっぱり君は信用ならない胡散臭い人間だっていうことだ。」
雪男は自分の中の朴の評価を更に下げた。取り繕うように朴は雪男に提案する。
「なんだったら朴朔子という種の一つとして考えてください。」
「そんな立派なもんじゃないだろ。」
「そうは言いますが。私という存在はもう一つの生物の種として換算できるほど数はいるんです。例えばチーターがたった三千匹ほどしかいなくてもそれが種として通用する世界なんですから。」
「三千人以上はいると言いたいのか?」
「三千人いたとしても一人なんですよ。」
「三千人いたら三千人だろうが。」
「だって私達は全員なにもかも同じなんです。出雲ちゃんのことが全員大好きで、その好きの種類や度合いも全員が一致しているんです。それが曖昧な基準だと言うなら、私をランダムに何十人か抽出して期末テストでも受けさせてみてください。私のように学校に通っている朴朔子も、各地でいろいろな生業をやっている朴朔子も、同じ問題を正解して同じ問題を間違えて同じケアレスミスをして同じ成績を残しますから。」
「僕は今すぐそれを沢山いる貴女にしてもらう暇はないので。」
「信じてくれる?」
「事実は事実として受け止めます。」
だけどますます先生に嫌われたみたいだねと朴はぼそっと言った。
「ちなみに私たちは特性を生かして主に情報屋で稼いでいるのが多いかな。この私の特性に目をつけた理事長が出雲ちゃんと一緒に塾に入るのを許してくれたのも、いろいろと重宝がってくれるのもその所為なんだ。」
ろくに中学も行っていなかった修道院育ちの劣等生のサタンの息子が、この地元で一番有名な名門校と謳われるこの学園に入学できたくらいだ。総数一万人(予測)いる一個人を匿っていてもメフィストだからしょうがないと済まされているようだ。というか、朴朔子はメフィスト好みのキャラクターだ。重宝がられているのもそのキャラクターだけで納得できる。上司で後見人の物好きには呆れるが、今の雪男にはあまり興味が無い。突然知らされた朴の正体についても特に思うところがない。
雪男にはもっと切羽詰った事情があった。そのために雪男は朴の部屋を訪れたのだから。しかしこれだけは訊いておこうと雪男は思った。
「貴女が何千人もいてそれが一つの存在であるということは、神木さんはご存知なんでしょうか?」
朴は首を横に振る。
「学校には日替わりで通ってるからね。部屋に遊びに来られたときには一人だけ残って、他はその場にいないようにしてるし。」
そんなことが普通にまかり通っているのかと雪男は愕然とした。しかし実際に存在する尋常でない数の自分の分身と付き合うにはそういう方法しか思いつかないのかもしれないと雪男はなんとなく納得した。
朴のインパクトにかまけて本題がお留守になりかけていた。そんな雪男に朴が問いかける。
「それはそうと、お兄さん元気?」
雪男は顔を背ける。そして言葉を搾り出すように朴に告げる。
「あのサルベージで現実世界に帰ってから数日は元気だったよ。」
あらと朴は声を漏らす。
「数日は元気だったんだ。というか認定試験大丈夫だったの?」
「認定試験は受けていない。」
朴は背けられた雪男の顔を覗きこむ。
「なんで?」
十二月末に実施されるはずだった燐の祓魔師の認定試験は、ヴァチカンから視察に来た聖騎士アーサーの判断で一時延期になったことを雪男は説明した。
「サルベージされた後の数日後に兄さんの意識が混濁というか、呆けたようになってしまって。」
「半ば夢うつつ?」
「そんな感じです。そんな兄を観察したエンジェル卿は、何を思ったのか兄が正常に戻るまでは試験は延期すると言い出しました。」
アーサーは燐に近寄る前からその異常に気づいていたようだった。燐の前髪を掴み、その顔に魔剣の切っ先を突きつける。周囲にいた人間は皆息を飲んだが燐は口を半開きにして薄ら笑いを浮かべるだけだった。
『名前を言え。』
『……。奥村燐。……。 』
『これは駄目だな。あの時のように減らず口を叩きやしない。こんな他人の質問に対して回答するだけの廃人に何をしても無駄だ。試験はしばらく延期だと三賢人には報告する。』
燐が回復次第連絡せよと言い残してアーサーはヴァチカンに帰ったと雪男は朴に言った。
「えー……。悪魔には人権がないって主張を絵に描いたような人なんじゃないの? 理事長からの受け売りだけど。」
「そのぶんだけ公正さにも拘る人なんですよ。なんというか偏屈といいますか、自分が誰が見ても正当であるために、兄の今回のアクシデント下での判定はそれを損なうと思っているようです。」
雪男はアーサーに対して呆れているように言う。しかしそれが兄の命を救っているのが皮肉な話だった。
「私がエンジェルさんの立場でお兄さんがどうしても殺さなくちゃいけない相手なら、ボケた状態で試験受けさせて、さっさと不合格にして死刑にしちゃうけどな。祓魔師の世界ってやっぱりよく分からない。ていうかエンジェルさんって本当はいい人? 苗字がエンジェルなだけに。」
雪男は眉間に皴を寄せる。アーサーは人情味のあるいい人なんじゃない。模範的な聖職者としていい人なんだと心の中で言い返す。
「ふうん。それで先生はお兄さんを正気に戻したいってわけか。ていうか私はそういう事態は予測はしてたんだよ。燐君はまだ意識の半分が先生の精神世界にいるんじゃないかなって思ってた。」
「やっぱり……」
雪男は頭を抱えていた。
「他人の精神世界に長く留まっていると、そっちのほうに引きずられて取り込まれちゃうからね。志摩君としえみちゃんはすぐに弾き飛ばされたから影響はなかったけど、燐君は精神世界の時間で四ヶ月間という長い期間を過ごしちゃったからね。半ば世界をごっちゃというか取り違い始めてたのかも。それにこの場合、先生自らが積極的にお兄さんを取り込んだというのもあるし。」
「精神の半分がまだ取り残されたとしても可笑しくないと。」
「うん。でもソレは現場で確かめないとなんとも云えないけどね。私も一緒に先生の精神世界でね。」
燐の取り残された半分の意識をサルベージする為に雪男の精神世界に同行する。雪男が言い難くて切り出せなかった依頼を朴は言われる前に了承していたようだった。本当に食えない人だと心中で毒吐きながら雪男はほっと胸を撫で下ろす。
そんな雪男を上目遣いに見ながら朴は、悪魔そのものな提案を思いついた。そしてよせばいいのにそれを口にした。
「ねえ先生、お兄さんを今の呆けた状態にしておけば、全部平和に収まるんじゃない?」
「えっ」
雪男は今まで目を背けていた朴の顔を直視した。朴は謡うように続ける。
「アーサーさんを含めたヴァチカンの人たちにとって、ぼーっとしたサタンの息子は無害だし。サタンがお兄さんに憑依しようとしてもスペックが半減されているから、虚無界にとっては使い物にならない存在だし。危険対象でも道具価値もなくなったお兄さんを、君の気が許すなら君が世話して守ってやればいいんじゃない?」
雪男は朴の胸倉を掴んで怒声を浴びせる。顔は血の気が引いていた。
「貴女がそれを言いますか! 僕と兄さんの世界に土足でずかずかと踏み込んで、綺麗ごとを並べて僕達を引き上げた貴女が。貴女みたいな偽善者に説得されているという辱めに耐え切れず、僕は戻ってこなくちゃならなくなった。腹を括ってここにも来た。ささやかな幸せも諦めた。だから僕は兄さんを以前のような状態に戻さなくちゃならない。そうしないとこの件は終われない。」
朴はツッコミどころいっぱいだなと引き気味に言った。
「サルベージはその場にいた塾の皆とかの総意だから、私だけがそれを責められるのは納得いかないよ。私はサルベージの一番の功労者だろうけど、その行動の示すものが私の考えそのものじゃないってことは、理解してくれないかな?」
雪男は朴の胸倉から手を離す。
「先生は、私に対しちゃ容赦ないね。」
「……すみません。頭に血が上りました。」
いいよいいよと朴はひらひらと手を振る。
「とりあえず、再度のサルベージだね。」
「僕一人で来て何ですが、前は詠唱とか魔法円も使ったらしいけど。」
「うーむ。サルベージ対象は0・5人だから、前回の三人の六分の一。そこまで気張らなくていいでしょ。先生が仮の昏睡状態になって私が現実世界のオペレーター兼先生の精神の同行者になります。それで大丈夫だと思います。」
「昏睡ねえ……。」
雪男は何事かを思案しているような顔をする。朴はすぐに行きますかと雪男に伺いを立てたが雪男は首を振った。
「少し時間を頂けませんか? 兄の様子も気になるので一旦寮に帰ります。一時間後にまた戻ってきます。」
「私は準備っぽいことをしておこうかな。二号や三号を起こしたりとか。出雲ちゃんに対して帳尻も合わせたいから、学園内にいる残り二人のうち一人はここに待機させたいし。」
雪男は眠っている朴達を怪訝そうに見る。
「それじゃ、また一時間後。」
「うん。一時間後だね。」
* * *
雪男はそのままの女装で寮に帰るかどうか迷ったが、どうせまた女子寮に侵入しなくてはいけない身なのでそのままの格好で部屋に戻った。
「兄さん。」
枕元に置いた食事は片付けてあった。しかしとうの燐は中空を見上げたまま呆けている。
雪男は試しに兄の眼前に行く。
「兄さん。」
「雪男?」
「そう、雪男。」
燐はにっこりと笑う。弟の女装に驚愕したりはしゃいだりする心の余地がないようだ。というか変わり果てた雪男の姿にも何も感じていないのだろう。
日常の動作や他人の言葉に対して受け応えは問題なくするが、感受性や自分の意思が抜け落ちてしまっているらしい。感情も平坦で、以前より穏やかといえばいいほうで、正直なところ無感情。激情に苛まれて爆発する危険はないが生者として決定的な何かが欠けている。やはり朴が言ったように心が半分の状態なのだろう。
朴の提案には雪男は激昂したが、雪男はその方法を考えなかったわけじゃない。なによりも兄をこんな状態にしてしまったのは他ならぬ自分だ。自分こそがある意味では兄がこんな状態になることを望んでいたのではと追及されれば、思わず口ごもってしまうかもしれない。
兄だけのことを考えて盲目に、アーサーのいう廃人の領域に燐を貶めてしまった。雪男を正気にさせているのは、朴という嫌いな相手に対する意地でしかない。
「兄さんも僕も、お互いだけを見て生きてるわけじゃないしね。ねえ、兄さん。」
雪男は燐の顎を撫でる。燐は虚ろな目をして雪男を見上げるだけだった。雪男の心中の後悔は他人が想像するより遥かに薄い。
「雪男。」
燐は唐突に雪男を呼んでその胸に顔を埋めた。
「兄さん。いい子だからここで待っててね。」
「うん。」
燐はそこから一歩も動かず棒立ちになっていた。雪男はそんなプログラミングされた場所から動かず決められたままの言葉しか話さない、ゲームに出てくる名無しのモブのような兄に笑いかける。
「ちゃんと待っててね。」
「分かった。」
奇妙な安心感が雪男を包む。抱きついている燐の腕をそっと解いて背中を向ける。
「雪男。」
雪男の背中に燐が再び呼びかける。雪男は腰の辺りに異変を感じた。
「バグかな。」
燐は雪男のスカートをめくり上げていた。無邪気に幼児のようにきゃらきゃら笑っていた。燐に「めっ」と嗜めて雪男は部屋から出る。
「……」
部屋のドアの隙間から燐を覗き見る。燐は棒立ちのままじっとしていた。燐と雪男が生まれてこのかた、こんなに大人しい燐を雪男は一度も見たことはなかった。そしてつくづくそれが嫌なものだと感嘆した。だから自分は燐を元通り騒がしくてはた迷惑な存在に戻さなければと必死に心に念じた。
そうやって思いを断ち切る。もう二度とあの夢の兄と穏やかに幸せに暮らしていた日々は来ないのだと覚悟する。
「さあ。彼女のところに行かなきゃ。」
再び寮監の目を掻い潜り朴の部屋に入室する。雪男は未だ女子の制服を身に纏ったままだった。
朴は自分の分身のようでそうではない存在と四人でウノをしていた。朴はお終いと呼びかけてカードを片付ける。
「じゃあ四号、お留守番お願い。」
「出雲ちゃんが来た時には、調子悪い振りして甘えればいいんだよね。」
「じゃあ、二号三号。行くよ。」
「一号。二号は四号のポジションがいい。」
「三号も。」
「何号がどうしようがどうでもいいんだよ。こっちは。」
雪男は同じ顔が四つある状況に対してついにきれた。まあまあと朴一号は宥める。
「じゃあ先生。鍵出して。」
何の鍵かと問われれば祓魔塾直通の鍵のことだろう。朴は雪男から鍵を受け取る。朴は雪男と二人の朴を引き連れて部屋の外に出た。出たドアの外から再び鍵を鍵穴に差した。
朴がドアを開けるとそこは祓魔塾の廊下が見えた。
「この先の空き教室で先生と理事長を昏睡させた悪魔を封印しているんだ。それの管理を私が理事長から任されてる。あの人絶対また私に他人の精神世界に干渉させるつもりだよ。管理者なんて肩書き貰っても素直に喜べないよね。」
「貴女の場合、腐るほど人数のいる貴女の中の一人がそれ担当ってことにすれば、あまり負担感はない話でしょうが。」
「先生。何人いても私なんだよ。私が別の私に仕事を押し付けても、どうせ私に戻ってくるんだよ。」
朴は勝手知ったるようにある教室の前で立ち止まる。
「お邪魔しまーす。」
教室の中にはガラスケースを置いた机だけがぽつんとあった。床には複雑な魔法円。雪男たちがガラスケースに近寄る。
「ガラスケースの中に箱がある。」
「箱の中に悪魔を閉じ込めてるんだ。」
朴はガラスケースをどけて箱を取り出す。箱は一辺五センチで色は黒く、掛けられた南京錠の金の反射した光が眩しかった。朴は南京錠を渡すとそれを雪男に手渡す。
「その魔法円の中央に立ってその箱を開ければ、その箱の悪魔の力を借りて自分の精神世界に潜ることが出来る。私も後から合流するから先に行ってて。二号は教室のドアのところで見張りで三号は私のサポート。」
二人の朴が頷くのを見ないうちに雪男は魔法円の中央に立って箱を開けていた。一瞬のうちに雪男は箱を取り落としその場に昏倒した。箱の中身の悪魔は逃げ出してこの教室の中に紛れているのだろうか。それともどさくさに紛れて一緒に雪男の精神世界に入り込んだのだろうか。
朴は雪男を仰向けに寝かせてその額に自分の額を重ねる。雪男はまだ女子高生姿のままで雪男の上に覆いかぶさった朴はほくそ笑むように笑い声を漏らした。
「ふふふ……。こりゃ凄い役得だわ。」
雪男の頬に頬ずりしながら次第に朴の意識は遠のいていった。
次回に続きます。
朴さんについてのとんでも設定。
破滅的ヒロインの雪ちゃん。
ボケ老人な兄さん。
とりあえずとんでも設定。
世間は今日もなあなあで過ぎているようだった。それは単純に他者に対する無関心であったりその逆の人情が理由だったりする。人がすれ違うときの微妙で絶妙な距離。今日も正十字学園は日和見と高見の見物をモットーとする人たちの営みで溢れていた。
しかし話のしょっぱなからそんな当たり前の馴れ合いに失敗している奴らがいた。
「まったく。三学期の始業式に登校していないなんてどういうことなんだ。彼女は。」
雪男は更衣室の中でぶつくさと呟いていた。呟きながら学生服のブレザーを脱ぎネクタイを解き、ワイシャツのボタンを外していく。当たり前だが着替えの最中だった。
「……。」
机上に畳まれた衣服を前にして雪男は自らに「覚悟を決めろ」と告げる。用意した着替えはやはり制服なのだが、正十字学園女子制服だった。オタク趣味のある理事長が採用しただけあって多少デザインがアニメ臭い。しかしそれでいて異様に可愛らしく生地もコスプレ衣装にならない程度の品の良さを兼ね備えている。
雪男はまずブラウスを身につけ、首にリボンを結ぶ。そのあとまだ身につけていたスラックスを脱ぎ捨て、スカートを目の前に翳した。普通の規格よりは若干その丈は長めで、多分膝上までを隠してくれそうだ。しかしいつもは晒していない脹脛や足首は露出するしかないらしい。雪男は深く考えないように努めてそれに足を突っ込んで腰まで引き上げた。
「くっ。僕がこんな格好までしなくちゃならないなんて屈辱だ。」
雪男は制服と一緒に置いていたスパッツを手に取る。足全体を隠したいならタイツのほうがいいかと迷ったが、やはり感覚的にスパッツのほうが雪男にとってはまだ抵抗が少なかった。
「覚えてろ。朴朔子。」
憎憎しげに呟いてスパッツを履き制服の上着を着て鏡を見る。仕上げに肩までの長さのウィッグを被り唇にリップクリームを塗った。なんとか背が高い以外は女の子らしく見えてきた。
雪男は足元を見ながら唸る。
「靴下そのままは浮くかな。でもまあいっか。」
幸い白靴下だしと思いながら更衣室を出て雪男が向かったのは、正十字学園女子寮だった。雪男は怯む心を落ち着けながら入り口すぐの寮監室の横を息を殺して通り過ぎた。
今の時間は高等部は授業中なので、この寮に留まる女子生徒はいないはず。しかし例外はないわけじゃない。いわゆる病欠で部屋で休んでいる生徒やら、事情があって自室に待機しなければいけなくなった生徒、あるいは忘れ物を取りに帰った生徒。そんな者がちらほらといてもおかしくは無い。しかし部屋に篭りきりの病欠者以外は、教員に近い立場の寮監に見咎められれば、何らかの追及を受けかねない。ただ正十字学園の女子学生は怠学するような不良女子はほとんどいないので、寮監がこんな時間に女子生徒の姿を見てもそれは前述のような事情であると考えてくれるだろう。あくまで女子生徒の姿であれば。雪男が女子寮に侵入する為に女装したのはそのためだ。
雪男は一年生の部屋が集中するエリアをきょろきょろと探索していた。男子寮より余裕がある四人部屋を三人か二人で使っているのか、部屋のプレートに書かれた名前が男子寮で見るよりは僅かに少なく見える。しばらく両側の壁にドアが続く廊下を左右を見回しながら雪男は進んでいた。
『朴朔子』
プレートの文字が雪男をひきつける。ふとひとつの部屋の前で雪男は立ち止まった。
「えーと……。ここか。」
雪男は朴の部屋を目の前にして違和感を覚える。寮住まいの生徒は大抵は複数の人間と一緒の部屋に住む事になるのに、この部屋のプレートには朴一人しか名前がない。
「隔離でもされてるのか? 彼女は。ふっ。やっぱり学校側も考えるもんだな。」
兄弟ごと別の寮に隔離されているも同然の雪男が言うべき台詞ではなかった。雪男と燐の事情とは違うが、特殊な性癖を持つ朴なら有り得る話だった。
雪男はドアをノックする。
「こんにちは。」
「はーい。」
返事を確認してドアを開けた。女装している姿に何か追及されると思った雪男だったが、朴の反応は普段とそれほど変わりがないようだった。しかし視線はさりげなく雪男のスカートの裾から下に向けられており、嬉しそうに目を細められたことについて雪男は気づいていた。
「あー。おはようございます。わざわざ出向いてくれたんだ。」
朴は大あくびをしながら雪男を招き入れる。一応は制服には着替えていたようだが学校に出向く気はさらさらないような態度だった。
「じゃあ。お邪魔します。」
雪男は奥に配置された備え付けのベッドの上で半身を起こしている朴に近ずく。朴もベッドから降りて雪男を待ち構えた。
しかし一人部屋では聞こえないはずの音が雪男の耳に入る。それはすーすーという寝息が二人分。その最初の違和感に気づいたら、他の目に見える違和感なんて一目瞭然だった。壁際に造られたそれぞれのベッドで眠っている二人の少女。穏やかなその光景とは裏腹にソレは衝撃的だった。
「あー。二号と三号は今休息中。私は先生が来ると思っていたから少し前から起きてみたんだ。あと三十分待ってこなかったら放課後か塾のあとまで寝てようかと思ってた。」
朴が暢気に話している間に雪男は寮の備え付けのベッドの中に朴と同じ顔を二つ見つけた。どちらも突然の来客に気づくこともなく熟睡しているようだった。
「あの。貴女方は三つ子の姉妹なんですか? よく似ていらっしゃるようですけど。いや、なんと言うか気味悪いくらい。」
「ああ。二号も三号も私です。個体的に何の差異も優劣も遜色も無い筈だよ。」
事も無げに告げられた言葉の内容は頭に入ってくるが意味を理解することは躊躇ってしまう。今までも小出し小出しにとんでも設定を出してきた朴朔子だが、今回はその極致とも言っていいものだった。
「ええ!いやいやそんな。」
「この正十字学園にはあと二人ほど朴朔子がいます。」
「いやいやいや、だったらその正十字学園にいる残り二人の朴さんは何してるんですか?」
「この正十字学園内で働いています。」
「いや。いやいや。いやいやいやいや。」
「嫌って言わないで下さいよ。朴朔子というのはぶっちゃけ固有の存在ではないんです。無数にいて、それでいながら一人の人間なんです。」
なんだそんな矛盾した言い草はと雪男は朴に怒鳴った。朴は落ち着いて下さいと雪男を宥める。
「一つ言えることはやっぱり君は信用ならない胡散臭い人間だっていうことだ。」
雪男は自分の中の朴の評価を更に下げた。取り繕うように朴は雪男に提案する。
「なんだったら朴朔子という種の一つとして考えてください。」
「そんな立派なもんじゃないだろ。」
「そうは言いますが。私という存在はもう一つの生物の種として換算できるほど数はいるんです。例えばチーターがたった三千匹ほどしかいなくてもそれが種として通用する世界なんですから。」
「三千人以上はいると言いたいのか?」
「三千人いたとしても一人なんですよ。」
「三千人いたら三千人だろうが。」
「だって私達は全員なにもかも同じなんです。出雲ちゃんのことが全員大好きで、その好きの種類や度合いも全員が一致しているんです。それが曖昧な基準だと言うなら、私をランダムに何十人か抽出して期末テストでも受けさせてみてください。私のように学校に通っている朴朔子も、各地でいろいろな生業をやっている朴朔子も、同じ問題を正解して同じ問題を間違えて同じケアレスミスをして同じ成績を残しますから。」
「僕は今すぐそれを沢山いる貴女にしてもらう暇はないので。」
「信じてくれる?」
「事実は事実として受け止めます。」
だけどますます先生に嫌われたみたいだねと朴はぼそっと言った。
「ちなみに私たちは特性を生かして主に情報屋で稼いでいるのが多いかな。この私の特性に目をつけた理事長が出雲ちゃんと一緒に塾に入るのを許してくれたのも、いろいろと重宝がってくれるのもその所為なんだ。」
ろくに中学も行っていなかった修道院育ちの劣等生のサタンの息子が、この地元で一番有名な名門校と謳われるこの学園に入学できたくらいだ。総数一万人(予測)いる一個人を匿っていてもメフィストだからしょうがないと済まされているようだ。というか、朴朔子はメフィスト好みのキャラクターだ。重宝がられているのもそのキャラクターだけで納得できる。上司で後見人の物好きには呆れるが、今の雪男にはあまり興味が無い。突然知らされた朴の正体についても特に思うところがない。
雪男にはもっと切羽詰った事情があった。そのために雪男は朴の部屋を訪れたのだから。しかしこれだけは訊いておこうと雪男は思った。
「貴女が何千人もいてそれが一つの存在であるということは、神木さんはご存知なんでしょうか?」
朴は首を横に振る。
「学校には日替わりで通ってるからね。部屋に遊びに来られたときには一人だけ残って、他はその場にいないようにしてるし。」
そんなことが普通にまかり通っているのかと雪男は愕然とした。しかし実際に存在する尋常でない数の自分の分身と付き合うにはそういう方法しか思いつかないのかもしれないと雪男はなんとなく納得した。
朴のインパクトにかまけて本題がお留守になりかけていた。そんな雪男に朴が問いかける。
「それはそうと、お兄さん元気?」
雪男は顔を背ける。そして言葉を搾り出すように朴に告げる。
「あのサルベージで現実世界に帰ってから数日は元気だったよ。」
あらと朴は声を漏らす。
「数日は元気だったんだ。というか認定試験大丈夫だったの?」
「認定試験は受けていない。」
朴は背けられた雪男の顔を覗きこむ。
「なんで?」
十二月末に実施されるはずだった燐の祓魔師の認定試験は、ヴァチカンから視察に来た聖騎士アーサーの判断で一時延期になったことを雪男は説明した。
「サルベージされた後の数日後に兄さんの意識が混濁というか、呆けたようになってしまって。」
「半ば夢うつつ?」
「そんな感じです。そんな兄を観察したエンジェル卿は、何を思ったのか兄が正常に戻るまでは試験は延期すると言い出しました。」
アーサーは燐に近寄る前からその異常に気づいていたようだった。燐の前髪を掴み、その顔に魔剣の切っ先を突きつける。周囲にいた人間は皆息を飲んだが燐は口を半開きにして薄ら笑いを浮かべるだけだった。
『名前を言え。』
『……。奥村燐。……。 』
『これは駄目だな。あの時のように減らず口を叩きやしない。こんな他人の質問に対して回答するだけの廃人に何をしても無駄だ。試験はしばらく延期だと三賢人には報告する。』
燐が回復次第連絡せよと言い残してアーサーはヴァチカンに帰ったと雪男は朴に言った。
「えー……。悪魔には人権がないって主張を絵に描いたような人なんじゃないの? 理事長からの受け売りだけど。」
「そのぶんだけ公正さにも拘る人なんですよ。なんというか偏屈といいますか、自分が誰が見ても正当であるために、兄の今回のアクシデント下での判定はそれを損なうと思っているようです。」
雪男はアーサーに対して呆れているように言う。しかしそれが兄の命を救っているのが皮肉な話だった。
「私がエンジェルさんの立場でお兄さんがどうしても殺さなくちゃいけない相手なら、ボケた状態で試験受けさせて、さっさと不合格にして死刑にしちゃうけどな。祓魔師の世界ってやっぱりよく分からない。ていうかエンジェルさんって本当はいい人? 苗字がエンジェルなだけに。」
雪男は眉間に皴を寄せる。アーサーは人情味のあるいい人なんじゃない。模範的な聖職者としていい人なんだと心の中で言い返す。
「ふうん。それで先生はお兄さんを正気に戻したいってわけか。ていうか私はそういう事態は予測はしてたんだよ。燐君はまだ意識の半分が先生の精神世界にいるんじゃないかなって思ってた。」
「やっぱり……」
雪男は頭を抱えていた。
「他人の精神世界に長く留まっていると、そっちのほうに引きずられて取り込まれちゃうからね。志摩君としえみちゃんはすぐに弾き飛ばされたから影響はなかったけど、燐君は精神世界の時間で四ヶ月間という長い期間を過ごしちゃったからね。半ば世界をごっちゃというか取り違い始めてたのかも。それにこの場合、先生自らが積極的にお兄さんを取り込んだというのもあるし。」
「精神の半分がまだ取り残されたとしても可笑しくないと。」
「うん。でもソレは現場で確かめないとなんとも云えないけどね。私も一緒に先生の精神世界でね。」
燐の取り残された半分の意識をサルベージする為に雪男の精神世界に同行する。雪男が言い難くて切り出せなかった依頼を朴は言われる前に了承していたようだった。本当に食えない人だと心中で毒吐きながら雪男はほっと胸を撫で下ろす。
そんな雪男を上目遣いに見ながら朴は、悪魔そのものな提案を思いついた。そしてよせばいいのにそれを口にした。
「ねえ先生、お兄さんを今の呆けた状態にしておけば、全部平和に収まるんじゃない?」
「えっ」
雪男は今まで目を背けていた朴の顔を直視した。朴は謡うように続ける。
「アーサーさんを含めたヴァチカンの人たちにとって、ぼーっとしたサタンの息子は無害だし。サタンがお兄さんに憑依しようとしてもスペックが半減されているから、虚無界にとっては使い物にならない存在だし。危険対象でも道具価値もなくなったお兄さんを、君の気が許すなら君が世話して守ってやればいいんじゃない?」
雪男は朴の胸倉を掴んで怒声を浴びせる。顔は血の気が引いていた。
「貴女がそれを言いますか! 僕と兄さんの世界に土足でずかずかと踏み込んで、綺麗ごとを並べて僕達を引き上げた貴女が。貴女みたいな偽善者に説得されているという辱めに耐え切れず、僕は戻ってこなくちゃならなくなった。腹を括ってここにも来た。ささやかな幸せも諦めた。だから僕は兄さんを以前のような状態に戻さなくちゃならない。そうしないとこの件は終われない。」
朴はツッコミどころいっぱいだなと引き気味に言った。
「サルベージはその場にいた塾の皆とかの総意だから、私だけがそれを責められるのは納得いかないよ。私はサルベージの一番の功労者だろうけど、その行動の示すものが私の考えそのものじゃないってことは、理解してくれないかな?」
雪男は朴の胸倉から手を離す。
「先生は、私に対しちゃ容赦ないね。」
「……すみません。頭に血が上りました。」
いいよいいよと朴はひらひらと手を振る。
「とりあえず、再度のサルベージだね。」
「僕一人で来て何ですが、前は詠唱とか魔法円も使ったらしいけど。」
「うーむ。サルベージ対象は0・5人だから、前回の三人の六分の一。そこまで気張らなくていいでしょ。先生が仮の昏睡状態になって私が現実世界のオペレーター兼先生の精神の同行者になります。それで大丈夫だと思います。」
「昏睡ねえ……。」
雪男は何事かを思案しているような顔をする。朴はすぐに行きますかと雪男に伺いを立てたが雪男は首を振った。
「少し時間を頂けませんか? 兄の様子も気になるので一旦寮に帰ります。一時間後にまた戻ってきます。」
「私は準備っぽいことをしておこうかな。二号や三号を起こしたりとか。出雲ちゃんに対して帳尻も合わせたいから、学園内にいる残り二人のうち一人はここに待機させたいし。」
雪男は眠っている朴達を怪訝そうに見る。
「それじゃ、また一時間後。」
「うん。一時間後だね。」
* * *
雪男はそのままの女装で寮に帰るかどうか迷ったが、どうせまた女子寮に侵入しなくてはいけない身なのでそのままの格好で部屋に戻った。
「兄さん。」
枕元に置いた食事は片付けてあった。しかしとうの燐は中空を見上げたまま呆けている。
雪男は試しに兄の眼前に行く。
「兄さん。」
「雪男?」
「そう、雪男。」
燐はにっこりと笑う。弟の女装に驚愕したりはしゃいだりする心の余地がないようだ。というか変わり果てた雪男の姿にも何も感じていないのだろう。
日常の動作や他人の言葉に対して受け応えは問題なくするが、感受性や自分の意思が抜け落ちてしまっているらしい。感情も平坦で、以前より穏やかといえばいいほうで、正直なところ無感情。激情に苛まれて爆発する危険はないが生者として決定的な何かが欠けている。やはり朴が言ったように心が半分の状態なのだろう。
朴の提案には雪男は激昂したが、雪男はその方法を考えなかったわけじゃない。なによりも兄をこんな状態にしてしまったのは他ならぬ自分だ。自分こそがある意味では兄がこんな状態になることを望んでいたのではと追及されれば、思わず口ごもってしまうかもしれない。
兄だけのことを考えて盲目に、アーサーのいう廃人の領域に燐を貶めてしまった。雪男を正気にさせているのは、朴という嫌いな相手に対する意地でしかない。
「兄さんも僕も、お互いだけを見て生きてるわけじゃないしね。ねえ、兄さん。」
雪男は燐の顎を撫でる。燐は虚ろな目をして雪男を見上げるだけだった。雪男の心中の後悔は他人が想像するより遥かに薄い。
「雪男。」
燐は唐突に雪男を呼んでその胸に顔を埋めた。
「兄さん。いい子だからここで待っててね。」
「うん。」
燐はそこから一歩も動かず棒立ちになっていた。雪男はそんなプログラミングされた場所から動かず決められたままの言葉しか話さない、ゲームに出てくる名無しのモブのような兄に笑いかける。
「ちゃんと待っててね。」
「分かった。」
奇妙な安心感が雪男を包む。抱きついている燐の腕をそっと解いて背中を向ける。
「雪男。」
雪男の背中に燐が再び呼びかける。雪男は腰の辺りに異変を感じた。
「バグかな。」
燐は雪男のスカートをめくり上げていた。無邪気に幼児のようにきゃらきゃら笑っていた。燐に「めっ」と嗜めて雪男は部屋から出る。
「……」
部屋のドアの隙間から燐を覗き見る。燐は棒立ちのままじっとしていた。燐と雪男が生まれてこのかた、こんなに大人しい燐を雪男は一度も見たことはなかった。そしてつくづくそれが嫌なものだと感嘆した。だから自分は燐を元通り騒がしくてはた迷惑な存在に戻さなければと必死に心に念じた。
そうやって思いを断ち切る。もう二度とあの夢の兄と穏やかに幸せに暮らしていた日々は来ないのだと覚悟する。
「さあ。彼女のところに行かなきゃ。」
再び寮監の目を掻い潜り朴の部屋に入室する。雪男は未だ女子の制服を身に纏ったままだった。
朴は自分の分身のようでそうではない存在と四人でウノをしていた。朴はお終いと呼びかけてカードを片付ける。
「じゃあ四号、お留守番お願い。」
「出雲ちゃんが来た時には、調子悪い振りして甘えればいいんだよね。」
「じゃあ、二号三号。行くよ。」
「一号。二号は四号のポジションがいい。」
「三号も。」
「何号がどうしようがどうでもいいんだよ。こっちは。」
雪男は同じ顔が四つある状況に対してついにきれた。まあまあと朴一号は宥める。
「じゃあ先生。鍵出して。」
何の鍵かと問われれば祓魔塾直通の鍵のことだろう。朴は雪男から鍵を受け取る。朴は雪男と二人の朴を引き連れて部屋の外に出た。出たドアの外から再び鍵を鍵穴に差した。
朴がドアを開けるとそこは祓魔塾の廊下が見えた。
「この先の空き教室で先生と理事長を昏睡させた悪魔を封印しているんだ。それの管理を私が理事長から任されてる。あの人絶対また私に他人の精神世界に干渉させるつもりだよ。管理者なんて肩書き貰っても素直に喜べないよね。」
「貴女の場合、腐るほど人数のいる貴女の中の一人がそれ担当ってことにすれば、あまり負担感はない話でしょうが。」
「先生。何人いても私なんだよ。私が別の私に仕事を押し付けても、どうせ私に戻ってくるんだよ。」
朴は勝手知ったるようにある教室の前で立ち止まる。
「お邪魔しまーす。」
教室の中にはガラスケースを置いた机だけがぽつんとあった。床には複雑な魔法円。雪男たちがガラスケースに近寄る。
「ガラスケースの中に箱がある。」
「箱の中に悪魔を閉じ込めてるんだ。」
朴はガラスケースをどけて箱を取り出す。箱は一辺五センチで色は黒く、掛けられた南京錠の金の反射した光が眩しかった。朴は南京錠を渡すとそれを雪男に手渡す。
「その魔法円の中央に立ってその箱を開ければ、その箱の悪魔の力を借りて自分の精神世界に潜ることが出来る。私も後から合流するから先に行ってて。二号は教室のドアのところで見張りで三号は私のサポート。」
二人の朴が頷くのを見ないうちに雪男は魔法円の中央に立って箱を開けていた。一瞬のうちに雪男は箱を取り落としその場に昏倒した。箱の中身の悪魔は逃げ出してこの教室の中に紛れているのだろうか。それともどさくさに紛れて一緒に雪男の精神世界に入り込んだのだろうか。
朴は雪男を仰向けに寝かせてその額に自分の額を重ねる。雪男はまだ女子高生姿のままで雪男の上に覆いかぶさった朴はほくそ笑むように笑い声を漏らした。
「ふふふ……。こりゃ凄い役得だわ。」
雪男の頬に頬ずりしながら次第に朴の意識は遠のいていった。
次回に続きます。
☆ss「super scription of date」後編 燐雪+朴
理不尽もこれに極まれりです。
夕食までと夕食と風呂上りのあとの雪男の家庭教師は深夜零時で打ち切りになった。明日が月曜日で学校があるからだ。燐は布団に潜りこむとすぐさま寝息を立てて熟睡している。しかし雪男は目が冴えてしまって、そのついでに塾の講義のレジュメの確認をしていた。作業も概ね完了し、椅子に座ったまま斜めに振り向いて兄の寝顔を窺う。
「兄さん。愛してる。」
途端に胸がきゅうっと締め付けられた。雪男はつんとする鼻の奥をから咳で誤魔化す。しかし今度は目の前がぼやけてきた。慌てて指で目じりを拭った。もう一度兄に向かって愛の言葉を吐こうとしたが喉が詰まって声にならない。
雪男に言葉を吐かせまいとするように携帯が鳴る。
こんな時間に誰だろうと雪男は深く考えずに電話を取った。
『あ。私です。朴です。少し先生に用事があるので窺ってもよろしいでしょうか? 今女子寮を出たところです。』
雪男は眉を顰めてから応答する。
「今は深夜ですから。明日にしてくれませんか?」
『えー……。んと、そういうわけにはいかないんです。今ちょうど校舎の前を通り過ぎてるんです。』
ちりんちりんと昼間に聞いた自転車のベルが耳に入ってくる。
雪男は電話をスピーカーにして机の上に置く。そのあと引き出しから銃を取り出して弾を込める。
『今旧寮から近い坂道の下にいます。ここからは自転車だときついので歩いていきます。あと三四分後にはお邪魔できると思います。』
雪男は二挺とも銃に弾を込めると、コートを羽織り、腰に巻くベルトに備え付けている装備を目で確認する。兄は何も知らぬげに熟睡していた。
『今、旧寮の前につきました。』
「鍵かかってますよ。」
朴はくすくすと電話の向こうで笑っている。そんなことはまるっと承知だと言わんばかりに。そして雪男に言い返す。
『残念だけど、そんなもんは私には関係ありません。正確に言えば』
がちゃりと鍵の開く音がする。
『この世界は個人の資質と思い込み如何でどうとでもなることは、先生が一番ご存知でしょう。』
雪男はドアの前二・五メートルで銃を構える。
『私は今、六○二号室のドアの前にいます。どうせまた鍵が掛かっているということになっているでしょうが、開けて入らせてもらいます。』
息を詰めて瞬きをしないように目を見開いて、雪男はドアに向かって銃口を向けた。
電話を掛けてきている少女は、名乗ったとおり朴朔子なのだろう。昼間も散々雪男の視界に割り込んで、まるで今夜こうすることを予告するかのようだった。
ドアノブが回り静かにそれは開かれる。明かりを消した部屋に光が差し込む。それは朴が手にしている魔剣から発せられる青い炎だった。
「こんばんは。夜分遅くに失礼します。」
雪男は少女と青い炎という噛み合わない組み合わせに怯んで引き金が引けなかった。朴は雪男が構えている銃を一瞥する。
「はあ……。殺る気満々だね。」
朴が独り言のように呟いたあと、二人の身体は振動を伴って上方向に引き上げられる。身体が浮き上がっているわけではない。二人が足を着けている床ごと部屋がせりあがり、天井やら建物の上部分は崩壊し、壁も兄が寝ているベッドを残して崩壊していた。六○二号室ごと夜空の空間に浮かび上がる。雪男が外を見渡すと、夜の正十字学園の全景が眼下にあった。虚空の舞台の上に朴と雪男と眠っている燐がいる。そんな状況でも雪男は拳銃を取り落としもせず冷静に朴を見据えていた。
ここで発砲すれば兄は目を覚まして雪男と朴を咎めるかもしれない。そしてこんな奇天烈な光景を自分に問い詰めるに決まっている。だがここで朴を仕留めなければという思いが引き金を引かせる。
ぱんっという軽い音と同時に一般人の少女でしかない朴の身体が僅かに動いた。そしてその足元に雪男が放った弾丸が転がっている。背後で燐がううんと唸って寝返りを打つ。雪男はそれにぎょっとするが、朴は何も気にしていないように雪男に近づく。
「お兄さんは起きないよ。先生と一緒に本当に目が覚めるまで。」
朴には鍵の効力同様、銃弾ですらも無効化出来るようだ。雪男は朴の言葉に一瞬だけ身震いしたが努めて声に出す。
「目が覚める?」
「先生がそういうふうに首をかしげちゃいけないでしょ。ていうか何を今更でしょ。」
朴は雪男の精神世界における無敵さを誇示している。それから舞台の上の観客席という名の燐が眠っているベッドにに身体を向ける。
「朴さん。貴女は何がしたいんですか? 僕と兄さんを邪魔したいんですか? 降魔剣なんか見せ付けて何の脅しなんですか?」
朴は淡々と答える。
「いや。この剣はわかりやすいかなと思っての演出なんだけど。嫌がらせにもなるし。ねえ、むかつくでしょ。私みたいな一般人が青い炎使うのって。」
「そうですね。ありえない光景ですね。」
朴はふふふんと笑う。
「頭のいい先生ならもう分かってると思うけど、ここってまだ先生の精神世界で、先生はまだサルベージされてないわけで、それどころかお兄さんも先生の精神世界に取り込んでしまったわけで。そんで私は第四の刺客としてここに来たわけ。」
雪男は銃口を再び朴に向ける。
「それはどうも。だけど、どうか僕達のことは見捨ててほっといて欲しい。僕はこの世界で兄さんと生きていくから。僕達の肉体はヴァチカン側で保管なり処分なりすればいい。」
「それってお兄さんも了承してること?」
雪男は黙ったままで頷きもしない。朴はやっぱりと言いたげににんまりと笑った。
ぽつんと舞台にに青い炎が照明のように灯る。ただ周りを照らすだけの青い炎が数を増やして舞台を青白く演出する。雪男の嫌いな青い炎が雪男を照らして静かに揺れる。
「現実世界の十二月、先生のお兄さんの認定試験が迫った日。正十字学園は結界の破損から侵入した悪魔によってとある混乱が起きた。その悪魔の魔障によって先生と理事長は昏睡し、ヴァチカンと正十字を繋いでいたルートが全て閉鎖された。空間を操るメフィストフェレスが昏睡状態で一時彼の能力が無効になったため。そのへんは覚えてるっていうか、身に覚えあるよね。」
「覚えてます。僕が理事長に面会していたとき、それが起こりました。」
朴は小さく頷く。
「それは人間の意識に干渉する悪魔だったらしいけど。」
「正確な特徴は覚えていません。……不意を突かれた上に、理事長を昏睡させるほどの相手でしたから。」
雪男は歯に物が挟まったような言い方だった。
「まあその辺は学園内でも適当に解釈されてるみたいだよ。いかにメフィストフェレスといえども死角はあったとか、二百年虚無界から離れてたんだから不慮の事態があったとか。」
「そうですか。そんな事も有るかもしれませんね。無いほうが善かったですけど。騎士団にとっても彼にとっても。」
「だけどもう、メフィストフェレスのサルベージには成功したし。」
「え?」
雪男は朴の言葉に顔色を変える。
「え? も、ないでしょ。理事長の精神世界は君以上に混沌としてとんでもなかったけど、そんな世界でこそ万能になれるタレントも存在し得る。つまり私、なんだけどね。説得するにはちょっと掛かったけど、夢の世界で彼好みの遊びに付き合ってあげたら気が済んだみたい。事件発生後三時間以内にメフィストフェレスのサルベージは成功したよ。彼の精神世界の中の時間経過では一ヶ月くらいは付き合ったっけ。」
精神世界と現実世界の時間の流れは違うんだよ。君には興味ないだろうけど。一応は説明がてらにと朴は言った。
「理事長をサルベージしてから、私は先生のサルベージを担当するグループに合流したんだ。途中経過はモニタリングさせてもらったけど。」
雪男は朴の語る状況を頭の中で解析する。メフィストほどの複雑怪奇な精神世界でお遊戯しながらこちらのこともモニタリングしていたと言うのなら、どんだけこの少女の精神は頑強なのだろうと感心した。朴は降魔剣を鞘に仕舞って雪男に手を差し伸べる。
「帰ろうよ。先生。もう気が済んだよね? 先生の望んでた夢の世界、もう十分に味わったよね。お兄さんの本当の気持ちも分かったよね? だからもう、いいよね?」
雪男は横に首を振る。朴はあまり気の進まないような顔をして雪男を見る。いつもの張り付いたような笑顔が六割がた剥れたような目を雪男に向ける。
「幸せだったんでしょ。この世界で。だったら現実に帰ってもそれを糧に先生なら頑張れる。」
「僕は貴女のような現実主義者とは違う。こんな都合の良すぎる世界を知ってしまった後に、僕が悪魔の自分を肯定し青い炎を使うことに抵抗のない兄を受け入れられるわけがない。僕だって分かってる。この世界で僕を愛してくれた兄さんは、僕が精神世界に取り込んで僕の望むことを言ってくれるように改竄を重ねた兄さんなんだ。」
だからこの世界から抜け出したくない。抜け出せない。
朴は先生だって以前は現実主義者だったじゃんと心の中で突っ込んだが、この雪男の精神世界のなかでよっぽどそれに溺れているのかと、事態を重く受け止めなおす。朴はこの夢の世界に爪先から頭までどっぷり漬かった雪男を引き上げる言葉を検索する。
「先生はお兄さんを自分が無理やり引きずり込んだって思ってる?」
「思ってますよ。この世界は僕にとって思い通りだったんだから。僕を連れ戻しにきた兄さんを現実世界に一緒に戻ったことにして取り込むのさえ戸惑いはなかった。」
雪男は遠い目をして微かに笑っているようだった。
「僕は兄さんが悪魔になってから、サタンの落胤という悪魔が兄さんの人格をトレースして身体を乗っ取ったという妄想に時々襲われていた。最初は、それは違う、と思い込みたかったけど。その当時はまだ兄さんは必死にサタンの息子だってこと隠そうとしていたし。要するにあの頃のなんだかんだ言って悪魔の自分を否定してるっぽくも見える兄さんは、なんとか兄さんとして認めることが出来たんだ。でも炎を使うにつれて兄さんは悪魔の自分を肯定しだしたんだ。京都の事件のあとには、それを僕にも求めだした。」
朴は「うん」「あー」と言葉を濁す。
「そりゃ先生にしてみたら、……だね。」
「貴女のように言ってくれる人ばかりじゃなかった。ていうか、僕の考えのほうが僕の置かれた環境では小数派だった。いや、僕一人だけだった。自己主張が強い癖に外面を気にする僕は、悪魔だけど仲間として兄を肯定する人たちを目の前にして何も言えなかった。悪魔として認められて嬉しそうな兄を否定することも出来なかった。」
「優しいんだよ。先生は。」
「優しくないですよ。僕みたいに最低な人間に救いなんてない。それは僕と同等に最低な貴女なら見透かしているはずだ。」
「ちょっ……。最低って先生……。私のことはそういうふうに思ってたんだ。」
雪男はうっかり出てしまった本音に少ししまったという顔をしたが、思い直したように微笑を浮かべる。朴もなけなしの大人げを動員してそれ以上は言わない。
「僕は兄さんが祓魔師になるって言い出したとき、馬鹿だと思うと同時に少し嬉しかったんです。僕と同じように兄さんも悪魔を否定する存在になるんだって。兄さんも僕も同じになれるのが嬉しかったんだ。兄弟なのを疑うくらいに噛み合わない兄弟だったから。」
朴は雪男の告白を聞いているのか聞いていないのか曖昧な感じて、茫洋とした表情で青い炎のステージの中で佇んでいる。心ここに在らずのような様子が朴の最大の凶暴さでもある笑顔の充電でもしているようだった。
「でも結局『同じ』にはなれなかった。僕が銃で悪魔落ちの男と対峙している間にも、兄さんは巨大な悪魔から沢山の人たちの命を守っていた。僕は自分の悪魔の血を否定するけど、兄さんは肯定した。だから兄さんは強くなった。僕の手が届かないところまで。それが忌々しかった。憎らしかった。サタンの落胤が僕の兄さんを食い荒らして、周りの皆に対して僕に先回りして認めさせて成り代わっているようで。」
「君にとって『サタンの落胤』と『兄さん』は別物ってことだったんだね。で、燐君は君にとって全然別物なその二つを、イコールで結んで欲しかったわけだね。」
呆れ混じりに朴は呟く。雪男の主張を聞いていれば、そんな兄弟間の齟齬によって弟が精神世界に兄を取り込むという病的な事態に発展するのかと、他人事ながら頷けた。
「私にはその食い違いは解決しようがないね。だけど先生はちょっと思い違いをしているよ。」
「何をです?」
朴は雪男の目の前に人差し指を突き出してちっちと振って見せる。
「この先生の精神世界での先生の兄さんが、先生にとって都合のいい作り物だって言うのは違うと思う。だってこの世界の燐君は君がずっと触れ合ってきた燐君の気持ちや、君が持っている燐君に関する記憶で構成されているから。たぶん本物の燐君とほとんど同じと言ってもいいんじゃない。ねえ、こんな風に考えてみようよ。先生と燐君は望むものが違うけど、お互いに相手の望みが叶って欲しいと思ってるよね?」
はあ? 雪男は顔をしかめる。朴は無視して畳みかける。
「先生の精神世界で先生の望むことは実現された。延期になって欲しかった祓魔師の認定試験は延期されたまんまだし、燐君は君の言うとおりに勉強に励む日々だし、燐君はそれを幸せだって先生に言ったんじゃない? なら、現実世界に帰って燐君の望む、悪魔だとしても認められる燐君が実現されたとき、先生もそれを喜んであげられるんじゃないかと私は思うよ。」
「それは希望的観測で善意の押し付けみたいですけどね。」
「またそんなふうに斜めに。」
未来の希望も人の善意も一ミリも信じていない者同士が揶揄し合う光景だった。甘くて美味しいお菓子は身体に毒だからと敢えて苦くて口当たりの悪いものだけを摂取していれば安心できる。雪男は実は朴もそんな人種なのだろうと推測していた。
「貴女が言いたいことは分かります。」
雪男は脳裏に焼き付いた悪魔としての兄の姿を思い出す。
「そんな希望や善意を現実世界に反映させるには、現実世界に影響力を持たなければいけません。兄さんが馬鹿なりにしようとしていることはそういうことでしょう。ていうか、貴女と話しているのがだんだん嫌になってきました。藤堂ほどではないですが。」
「え? その人知らないよ。私。」
雪男は数ヶ月前に対峙した男の笑い顔を朴に重ねて不機嫌になる。
「そういえば僕が兄さんに本格的にイライラしだしたのは、あの男がいらんこと言ってきたのがきっかけだったんです。でたらめばっかりなのに百中百本音を突かれたような、あの気持ちの悪さ。さっきまで僕を説得していた貴女の言い草に似ていたような気がします。そして、いつも心の中で何かしら言い訳染みたことを考えている僕自身にも。」
朴は雪男の率直な言葉に反論は出来るかもしれないが、ここは究極的な雪男のプライベートスペースなので、そのくらいの本音がぽろりどころか、駄々漏れでもしょうがないと思った。
「というわけで。僕や藤堂同様のクズな貴女に説得されているという事実が、僕には耐えられません。降参して現実世界に帰りたいと思います。」
「さっきから私のこと、先生は最低とかクズとか言ってますけど。ちょっと酷くないですか?」
雪男は無表情に吐き捨てるように言う。
「僕もそうだって言ってますよね。」
それで失礼な言動が相子になるとは雪男本人も思っていないだろう。しかし雪男は勝手に自分の精神に踏み込んだ他人を拒絶する。朴はやれやれと頭を抱えている。
「同類に説教されているのが嫌っていう意地だけで現実世界に帰って大丈夫なの? 全然誰の言葉にも納得してないのに、そんなんじゃまた同じこと繰り返すんじゃない?」
朴は顔を上げて皮肉げににこにこしながらそう言った。雪男はそんな挑発には乗らず、かまえていた銃を投げ捨てる。
「兄さんが何にでも肯定的な人間なら、僕はどんなものにも否定的にならなくちゃ気が済まない人間として生まれついていてそれは許されるべきです。」
「まあまあ、そのへんの葛藤は帰ってきてから続きをやればいいと思うよ。」
はいと朴は降魔剣を差し出す。雪男は眉間に皴を浮かべながら汚いものを見る目でそれに視線を落とす。
「現実世界に本人が自分の意思で帰る場合、それなりの象徴になるアクションを取ってもらわなきゃならないんだ。なんなら私をその剣で切り捨てたらどうかな?」
朴は雪男に背中を向けてベッドから燐を引きずり降ろしている。燐は昏睡状態なのかと疑うくらいに微動だにしない。その寝顔を雪男は覗き込んで、その寝顔の安らかさ加減に心からの笑みを浮かべた。
「馬鹿だけど本当に愛しい兄なんです。この人は。」
「燐君は馬鹿だけど、先生のことはよく分かってたよ。自分が先生をを連れて帰れなかった場合、私に後は頼むと言ってた。先生の唯一の肉親だけど自分じゃ連れ戻せないって悟ってたとこはあったね。先生と心中してもしょうがないけど、心中しちゃなんにもならないって考えたから私に後を任せた。泣かせるでしょ?」
朴が言うまでも無く雪男の目には涙が溢れていた。朴は呆れたように溜息をつく。
「自分のことで手一杯のお兄ちゃんを弟が心配させちゃいけないよ。」
「僕も心……配しているから、お互い様、です。」
雪男は涙声でつかえながら朴に悪態をつく。そしてすらりと降魔剣を抜いた。やはり悪魔を認めたくないという雪男の意志が反映されてか、その切っ先はただただ白く、青い炎の火の粉一つも見えない。
「最後に一つ訊いてもいいですか? フェレス卿が昏睡して、ヴァチカンと日本本部の行き来は一時不通になったわけですが、認定試験の延期はあったんでしょうか?」
「いや部外者の私に言われてもなんだけど、理事長はすぐに私がサルベージしたから復旧にはそんなに時間はかからないんじゃないかな。だから前々から決まっている予定は変更されることはないと思う。」
「そうですか。僕らは怪我の功名というわけにはいきませんか。寧ろ兄さんの数少ない時間を僕が浪費させたってことですか。」
「うん。そういうことだね。」
朴は燐を無造作に床に寝かせる。
「さあ、遠慮なく斬っちゃってよ。」
「では遠慮なく。」
「……ぐはっ……。」
雪男は朴を袈裟懸けに切り伏せる。朴はわざとらしく時代劇の悪役のように断末魔の声を吐いたあと、床に寝かせた燐の上にうつ伏せに倒れこむ。倒れた朴は首を雪男に向けて言った。
「じゃあ燐君と先に帰ってるから。」
そう言うと朴と燐は消えていく。それを見届けたあと、雪男は自分の胸を降魔剣で刺し貫いた。
* * *
目を覚ますとそこは静かでも平穏でもない、いつだって不安定で騒がしい世界だった。
「おかえり。」
雪男が目を覚まして一番最初に目にしたもの。それは憔悴した顔で自分の顔を覗きこむ兄だった。その後ろの横に顔を覆って泣きそうなしえみがいる。
「……ただいま。心配かけてごめんなさい。」
「雪男。」
「雪ちゃん。」
雪男にとって困難で難関な世界がまた戻ってきた。
元ネタはひぐらし礼のop。雪ちゃんは朴さんのことが嫌いですが朴さんは雪ちゃんのことが好きです。・・・・・・六番目くらいに。
たぶんこのあと現実世界での真相編を書くとは思いますが、こんな理不尽な話の真相にたどり着けた方はご一報がほしいと思う、そんなくされうみねこファンです。
ではエンディングは「解」か「散」にて。
夕食までと夕食と風呂上りのあとの雪男の家庭教師は深夜零時で打ち切りになった。明日が月曜日で学校があるからだ。燐は布団に潜りこむとすぐさま寝息を立てて熟睡している。しかし雪男は目が冴えてしまって、そのついでに塾の講義のレジュメの確認をしていた。作業も概ね完了し、椅子に座ったまま斜めに振り向いて兄の寝顔を窺う。
「兄さん。愛してる。」
途端に胸がきゅうっと締め付けられた。雪男はつんとする鼻の奥をから咳で誤魔化す。しかし今度は目の前がぼやけてきた。慌てて指で目じりを拭った。もう一度兄に向かって愛の言葉を吐こうとしたが喉が詰まって声にならない。
雪男に言葉を吐かせまいとするように携帯が鳴る。
こんな時間に誰だろうと雪男は深く考えずに電話を取った。
『あ。私です。朴です。少し先生に用事があるので窺ってもよろしいでしょうか? 今女子寮を出たところです。』
雪男は眉を顰めてから応答する。
「今は深夜ですから。明日にしてくれませんか?」
『えー……。んと、そういうわけにはいかないんです。今ちょうど校舎の前を通り過ぎてるんです。』
ちりんちりんと昼間に聞いた自転車のベルが耳に入ってくる。
雪男は電話をスピーカーにして机の上に置く。そのあと引き出しから銃を取り出して弾を込める。
『今旧寮から近い坂道の下にいます。ここからは自転車だときついので歩いていきます。あと三四分後にはお邪魔できると思います。』
雪男は二挺とも銃に弾を込めると、コートを羽織り、腰に巻くベルトに備え付けている装備を目で確認する。兄は何も知らぬげに熟睡していた。
『今、旧寮の前につきました。』
「鍵かかってますよ。」
朴はくすくすと電話の向こうで笑っている。そんなことはまるっと承知だと言わんばかりに。そして雪男に言い返す。
『残念だけど、そんなもんは私には関係ありません。正確に言えば』
がちゃりと鍵の開く音がする。
『この世界は個人の資質と思い込み如何でどうとでもなることは、先生が一番ご存知でしょう。』
雪男はドアの前二・五メートルで銃を構える。
『私は今、六○二号室のドアの前にいます。どうせまた鍵が掛かっているということになっているでしょうが、開けて入らせてもらいます。』
息を詰めて瞬きをしないように目を見開いて、雪男はドアに向かって銃口を向けた。
電話を掛けてきている少女は、名乗ったとおり朴朔子なのだろう。昼間も散々雪男の視界に割り込んで、まるで今夜こうすることを予告するかのようだった。
ドアノブが回り静かにそれは開かれる。明かりを消した部屋に光が差し込む。それは朴が手にしている魔剣から発せられる青い炎だった。
「こんばんは。夜分遅くに失礼します。」
雪男は少女と青い炎という噛み合わない組み合わせに怯んで引き金が引けなかった。朴は雪男が構えている銃を一瞥する。
「はあ……。殺る気満々だね。」
朴が独り言のように呟いたあと、二人の身体は振動を伴って上方向に引き上げられる。身体が浮き上がっているわけではない。二人が足を着けている床ごと部屋がせりあがり、天井やら建物の上部分は崩壊し、壁も兄が寝ているベッドを残して崩壊していた。六○二号室ごと夜空の空間に浮かび上がる。雪男が外を見渡すと、夜の正十字学園の全景が眼下にあった。虚空の舞台の上に朴と雪男と眠っている燐がいる。そんな状況でも雪男は拳銃を取り落としもせず冷静に朴を見据えていた。
ここで発砲すれば兄は目を覚まして雪男と朴を咎めるかもしれない。そしてこんな奇天烈な光景を自分に問い詰めるに決まっている。だがここで朴を仕留めなければという思いが引き金を引かせる。
ぱんっという軽い音と同時に一般人の少女でしかない朴の身体が僅かに動いた。そしてその足元に雪男が放った弾丸が転がっている。背後で燐がううんと唸って寝返りを打つ。雪男はそれにぎょっとするが、朴は何も気にしていないように雪男に近づく。
「お兄さんは起きないよ。先生と一緒に本当に目が覚めるまで。」
朴には鍵の効力同様、銃弾ですらも無効化出来るようだ。雪男は朴の言葉に一瞬だけ身震いしたが努めて声に出す。
「目が覚める?」
「先生がそういうふうに首をかしげちゃいけないでしょ。ていうか何を今更でしょ。」
朴は雪男の精神世界における無敵さを誇示している。それから舞台の上の観客席という名の燐が眠っているベッドにに身体を向ける。
「朴さん。貴女は何がしたいんですか? 僕と兄さんを邪魔したいんですか? 降魔剣なんか見せ付けて何の脅しなんですか?」
朴は淡々と答える。
「いや。この剣はわかりやすいかなと思っての演出なんだけど。嫌がらせにもなるし。ねえ、むかつくでしょ。私みたいな一般人が青い炎使うのって。」
「そうですね。ありえない光景ですね。」
朴はふふふんと笑う。
「頭のいい先生ならもう分かってると思うけど、ここってまだ先生の精神世界で、先生はまだサルベージされてないわけで、それどころかお兄さんも先生の精神世界に取り込んでしまったわけで。そんで私は第四の刺客としてここに来たわけ。」
雪男は銃口を再び朴に向ける。
「それはどうも。だけど、どうか僕達のことは見捨ててほっといて欲しい。僕はこの世界で兄さんと生きていくから。僕達の肉体はヴァチカン側で保管なり処分なりすればいい。」
「それってお兄さんも了承してること?」
雪男は黙ったままで頷きもしない。朴はやっぱりと言いたげににんまりと笑った。
ぽつんと舞台にに青い炎が照明のように灯る。ただ周りを照らすだけの青い炎が数を増やして舞台を青白く演出する。雪男の嫌いな青い炎が雪男を照らして静かに揺れる。
「現実世界の十二月、先生のお兄さんの認定試験が迫った日。正十字学園は結界の破損から侵入した悪魔によってとある混乱が起きた。その悪魔の魔障によって先生と理事長は昏睡し、ヴァチカンと正十字を繋いでいたルートが全て閉鎖された。空間を操るメフィストフェレスが昏睡状態で一時彼の能力が無効になったため。そのへんは覚えてるっていうか、身に覚えあるよね。」
「覚えてます。僕が理事長に面会していたとき、それが起こりました。」
朴は小さく頷く。
「それは人間の意識に干渉する悪魔だったらしいけど。」
「正確な特徴は覚えていません。……不意を突かれた上に、理事長を昏睡させるほどの相手でしたから。」
雪男は歯に物が挟まったような言い方だった。
「まあその辺は学園内でも適当に解釈されてるみたいだよ。いかにメフィストフェレスといえども死角はあったとか、二百年虚無界から離れてたんだから不慮の事態があったとか。」
「そうですか。そんな事も有るかもしれませんね。無いほうが善かったですけど。騎士団にとっても彼にとっても。」
「だけどもう、メフィストフェレスのサルベージには成功したし。」
「え?」
雪男は朴の言葉に顔色を変える。
「え? も、ないでしょ。理事長の精神世界は君以上に混沌としてとんでもなかったけど、そんな世界でこそ万能になれるタレントも存在し得る。つまり私、なんだけどね。説得するにはちょっと掛かったけど、夢の世界で彼好みの遊びに付き合ってあげたら気が済んだみたい。事件発生後三時間以内にメフィストフェレスのサルベージは成功したよ。彼の精神世界の中の時間経過では一ヶ月くらいは付き合ったっけ。」
精神世界と現実世界の時間の流れは違うんだよ。君には興味ないだろうけど。一応は説明がてらにと朴は言った。
「理事長をサルベージしてから、私は先生のサルベージを担当するグループに合流したんだ。途中経過はモニタリングさせてもらったけど。」
雪男は朴の語る状況を頭の中で解析する。メフィストほどの複雑怪奇な精神世界でお遊戯しながらこちらのこともモニタリングしていたと言うのなら、どんだけこの少女の精神は頑強なのだろうと感心した。朴は降魔剣を鞘に仕舞って雪男に手を差し伸べる。
「帰ろうよ。先生。もう気が済んだよね? 先生の望んでた夢の世界、もう十分に味わったよね。お兄さんの本当の気持ちも分かったよね? だからもう、いいよね?」
雪男は横に首を振る。朴はあまり気の進まないような顔をして雪男を見る。いつもの張り付いたような笑顔が六割がた剥れたような目を雪男に向ける。
「幸せだったんでしょ。この世界で。だったら現実に帰ってもそれを糧に先生なら頑張れる。」
「僕は貴女のような現実主義者とは違う。こんな都合の良すぎる世界を知ってしまった後に、僕が悪魔の自分を肯定し青い炎を使うことに抵抗のない兄を受け入れられるわけがない。僕だって分かってる。この世界で僕を愛してくれた兄さんは、僕が精神世界に取り込んで僕の望むことを言ってくれるように改竄を重ねた兄さんなんだ。」
だからこの世界から抜け出したくない。抜け出せない。
朴は先生だって以前は現実主義者だったじゃんと心の中で突っ込んだが、この雪男の精神世界のなかでよっぽどそれに溺れているのかと、事態を重く受け止めなおす。朴はこの夢の世界に爪先から頭までどっぷり漬かった雪男を引き上げる言葉を検索する。
「先生はお兄さんを自分が無理やり引きずり込んだって思ってる?」
「思ってますよ。この世界は僕にとって思い通りだったんだから。僕を連れ戻しにきた兄さんを現実世界に一緒に戻ったことにして取り込むのさえ戸惑いはなかった。」
雪男は遠い目をして微かに笑っているようだった。
「僕は兄さんが悪魔になってから、サタンの落胤という悪魔が兄さんの人格をトレースして身体を乗っ取ったという妄想に時々襲われていた。最初は、それは違う、と思い込みたかったけど。その当時はまだ兄さんは必死にサタンの息子だってこと隠そうとしていたし。要するにあの頃のなんだかんだ言って悪魔の自分を否定してるっぽくも見える兄さんは、なんとか兄さんとして認めることが出来たんだ。でも炎を使うにつれて兄さんは悪魔の自分を肯定しだしたんだ。京都の事件のあとには、それを僕にも求めだした。」
朴は「うん」「あー」と言葉を濁す。
「そりゃ先生にしてみたら、……だね。」
「貴女のように言ってくれる人ばかりじゃなかった。ていうか、僕の考えのほうが僕の置かれた環境では小数派だった。いや、僕一人だけだった。自己主張が強い癖に外面を気にする僕は、悪魔だけど仲間として兄を肯定する人たちを目の前にして何も言えなかった。悪魔として認められて嬉しそうな兄を否定することも出来なかった。」
「優しいんだよ。先生は。」
「優しくないですよ。僕みたいに最低な人間に救いなんてない。それは僕と同等に最低な貴女なら見透かしているはずだ。」
「ちょっ……。最低って先生……。私のことはそういうふうに思ってたんだ。」
雪男はうっかり出てしまった本音に少ししまったという顔をしたが、思い直したように微笑を浮かべる。朴もなけなしの大人げを動員してそれ以上は言わない。
「僕は兄さんが祓魔師になるって言い出したとき、馬鹿だと思うと同時に少し嬉しかったんです。僕と同じように兄さんも悪魔を否定する存在になるんだって。兄さんも僕も同じになれるのが嬉しかったんだ。兄弟なのを疑うくらいに噛み合わない兄弟だったから。」
朴は雪男の告白を聞いているのか聞いていないのか曖昧な感じて、茫洋とした表情で青い炎のステージの中で佇んでいる。心ここに在らずのような様子が朴の最大の凶暴さでもある笑顔の充電でもしているようだった。
「でも結局『同じ』にはなれなかった。僕が銃で悪魔落ちの男と対峙している間にも、兄さんは巨大な悪魔から沢山の人たちの命を守っていた。僕は自分の悪魔の血を否定するけど、兄さんは肯定した。だから兄さんは強くなった。僕の手が届かないところまで。それが忌々しかった。憎らしかった。サタンの落胤が僕の兄さんを食い荒らして、周りの皆に対して僕に先回りして認めさせて成り代わっているようで。」
「君にとって『サタンの落胤』と『兄さん』は別物ってことだったんだね。で、燐君は君にとって全然別物なその二つを、イコールで結んで欲しかったわけだね。」
呆れ混じりに朴は呟く。雪男の主張を聞いていれば、そんな兄弟間の齟齬によって弟が精神世界に兄を取り込むという病的な事態に発展するのかと、他人事ながら頷けた。
「私にはその食い違いは解決しようがないね。だけど先生はちょっと思い違いをしているよ。」
「何をです?」
朴は雪男の目の前に人差し指を突き出してちっちと振って見せる。
「この先生の精神世界での先生の兄さんが、先生にとって都合のいい作り物だって言うのは違うと思う。だってこの世界の燐君は君がずっと触れ合ってきた燐君の気持ちや、君が持っている燐君に関する記憶で構成されているから。たぶん本物の燐君とほとんど同じと言ってもいいんじゃない。ねえ、こんな風に考えてみようよ。先生と燐君は望むものが違うけど、お互いに相手の望みが叶って欲しいと思ってるよね?」
はあ? 雪男は顔をしかめる。朴は無視して畳みかける。
「先生の精神世界で先生の望むことは実現された。延期になって欲しかった祓魔師の認定試験は延期されたまんまだし、燐君は君の言うとおりに勉強に励む日々だし、燐君はそれを幸せだって先生に言ったんじゃない? なら、現実世界に帰って燐君の望む、悪魔だとしても認められる燐君が実現されたとき、先生もそれを喜んであげられるんじゃないかと私は思うよ。」
「それは希望的観測で善意の押し付けみたいですけどね。」
「またそんなふうに斜めに。」
未来の希望も人の善意も一ミリも信じていない者同士が揶揄し合う光景だった。甘くて美味しいお菓子は身体に毒だからと敢えて苦くて口当たりの悪いものだけを摂取していれば安心できる。雪男は実は朴もそんな人種なのだろうと推測していた。
「貴女が言いたいことは分かります。」
雪男は脳裏に焼き付いた悪魔としての兄の姿を思い出す。
「そんな希望や善意を現実世界に反映させるには、現実世界に影響力を持たなければいけません。兄さんが馬鹿なりにしようとしていることはそういうことでしょう。ていうか、貴女と話しているのがだんだん嫌になってきました。藤堂ほどではないですが。」
「え? その人知らないよ。私。」
雪男は数ヶ月前に対峙した男の笑い顔を朴に重ねて不機嫌になる。
「そういえば僕が兄さんに本格的にイライラしだしたのは、あの男がいらんこと言ってきたのがきっかけだったんです。でたらめばっかりなのに百中百本音を突かれたような、あの気持ちの悪さ。さっきまで僕を説得していた貴女の言い草に似ていたような気がします。そして、いつも心の中で何かしら言い訳染みたことを考えている僕自身にも。」
朴は雪男の率直な言葉に反論は出来るかもしれないが、ここは究極的な雪男のプライベートスペースなので、そのくらいの本音がぽろりどころか、駄々漏れでもしょうがないと思った。
「というわけで。僕や藤堂同様のクズな貴女に説得されているという事実が、僕には耐えられません。降参して現実世界に帰りたいと思います。」
「さっきから私のこと、先生は最低とかクズとか言ってますけど。ちょっと酷くないですか?」
雪男は無表情に吐き捨てるように言う。
「僕もそうだって言ってますよね。」
それで失礼な言動が相子になるとは雪男本人も思っていないだろう。しかし雪男は勝手に自分の精神に踏み込んだ他人を拒絶する。朴はやれやれと頭を抱えている。
「同類に説教されているのが嫌っていう意地だけで現実世界に帰って大丈夫なの? 全然誰の言葉にも納得してないのに、そんなんじゃまた同じこと繰り返すんじゃない?」
朴は顔を上げて皮肉げににこにこしながらそう言った。雪男はそんな挑発には乗らず、かまえていた銃を投げ捨てる。
「兄さんが何にでも肯定的な人間なら、僕はどんなものにも否定的にならなくちゃ気が済まない人間として生まれついていてそれは許されるべきです。」
「まあまあ、そのへんの葛藤は帰ってきてから続きをやればいいと思うよ。」
はいと朴は降魔剣を差し出す。雪男は眉間に皴を浮かべながら汚いものを見る目でそれに視線を落とす。
「現実世界に本人が自分の意思で帰る場合、それなりの象徴になるアクションを取ってもらわなきゃならないんだ。なんなら私をその剣で切り捨てたらどうかな?」
朴は雪男に背中を向けてベッドから燐を引きずり降ろしている。燐は昏睡状態なのかと疑うくらいに微動だにしない。その寝顔を雪男は覗き込んで、その寝顔の安らかさ加減に心からの笑みを浮かべた。
「馬鹿だけど本当に愛しい兄なんです。この人は。」
「燐君は馬鹿だけど、先生のことはよく分かってたよ。自分が先生をを連れて帰れなかった場合、私に後は頼むと言ってた。先生の唯一の肉親だけど自分じゃ連れ戻せないって悟ってたとこはあったね。先生と心中してもしょうがないけど、心中しちゃなんにもならないって考えたから私に後を任せた。泣かせるでしょ?」
朴が言うまでも無く雪男の目には涙が溢れていた。朴は呆れたように溜息をつく。
「自分のことで手一杯のお兄ちゃんを弟が心配させちゃいけないよ。」
「僕も心……配しているから、お互い様、です。」
雪男は涙声でつかえながら朴に悪態をつく。そしてすらりと降魔剣を抜いた。やはり悪魔を認めたくないという雪男の意志が反映されてか、その切っ先はただただ白く、青い炎の火の粉一つも見えない。
「最後に一つ訊いてもいいですか? フェレス卿が昏睡して、ヴァチカンと日本本部の行き来は一時不通になったわけですが、認定試験の延期はあったんでしょうか?」
「いや部外者の私に言われてもなんだけど、理事長はすぐに私がサルベージしたから復旧にはそんなに時間はかからないんじゃないかな。だから前々から決まっている予定は変更されることはないと思う。」
「そうですか。僕らは怪我の功名というわけにはいきませんか。寧ろ兄さんの数少ない時間を僕が浪費させたってことですか。」
「うん。そういうことだね。」
朴は燐を無造作に床に寝かせる。
「さあ、遠慮なく斬っちゃってよ。」
「では遠慮なく。」
「……ぐはっ……。」
雪男は朴を袈裟懸けに切り伏せる。朴はわざとらしく時代劇の悪役のように断末魔の声を吐いたあと、床に寝かせた燐の上にうつ伏せに倒れこむ。倒れた朴は首を雪男に向けて言った。
「じゃあ燐君と先に帰ってるから。」
そう言うと朴と燐は消えていく。それを見届けたあと、雪男は自分の胸を降魔剣で刺し貫いた。
* * *
目を覚ますとそこは静かでも平穏でもない、いつだって不安定で騒がしい世界だった。
「おかえり。」
雪男が目を覚まして一番最初に目にしたもの。それは憔悴した顔で自分の顔を覗きこむ兄だった。その後ろの横に顔を覆って泣きそうなしえみがいる。
「……ただいま。心配かけてごめんなさい。」
「雪男。」
「雪ちゃん。」
雪男にとって困難で難関な世界がまた戻ってきた。
元ネタはひぐらし礼のop。雪ちゃんは朴さんのことが嫌いですが朴さんは雪ちゃんのことが好きです。・・・・・・六番目くらいに。
たぶんこのあと現実世界での真相編を書くとは思いますが、こんな理不尽な話の真相にたどり着けた方はご一報がほしいと思う、そんなくされうみねこファンです。
ではエンディングは「解」か「散」にて。
☆ss「super scription of date」中編 燐雪R18
相変わらず不条理です。
雪男は目を開けると、そこは今までとは考えられないくらいに穏やかで静かな場所だった。もう何もかもが起こったあとの、これからも何の変化も事件も危機もないことを保証されたような世界だった。目覚めた雪男を出迎えてくれた兄や仲間達も何も言わずに頷くだけだった。
雪男は現実世界にサルベージされて再び兄との日常に帰ってきた。
それから数ヶ月が経った。カレンダーの日付は翌年の四月だった。何故かあれからヴァチカンから燐の祓魔師認定試験の召喚がかかってこなかった。そしてメフィストフェレスも日本支部から姿を消していた。
雪男はこれ幸いにと燐と一緒にいつか訪れるであろう運命の日に備える日々を送っていた。燐は従順に雪男を家庭教師に一日に最低でも三時間は机に向かっている。口癖のようにお前の為に頑張ると言っていた。
燐が告げる言葉の中で雪男にとって一番嬉しかった言葉は、「青い炎に溺れない」だった。
燐は任務でも普通に詠唱や習った剣の技術で悪魔に対抗しようと努力している。それなりの戦果は上げ実績も積んできたが、けしてそれは平凡、並を超えるものではなかった。だけどそれは雪男が手放しで喜べる兄の姿だった。
今日も風呂上りから雪男の家庭教師の時間が始まっていた。
「やろうと思えば出来るもんだな。普通の人間っぽいこと。」
今更なのに燐はそんなことを時々口に出さずにはいられないらしい。雪男は自分の望みを手探りながらに実行している最中の兄に言い聞かせるように返す。
「そうだよ。僕が兄さんに望んでいたのはそんな感じのことだったんだよ。祓魔師になるにしても、青い炎なんていう賛否両論から逃げられないチートなんて必要ないってこと。ヴァチカンに対して恭順を示していれば、兄さんはサタンの息子とは関係ない人間として祓魔師になれるってこと。」
燐はぼそりと勿体ないかもと呟く。
「でも。お前がそうして欲しいなら俺はそれでいい。」
「うん。好きだよ。兄さん。」
燐はペンを止めてはにかんだように笑うと雪男から目を逸らした。
「何? 恥ずかしいの? 今更?」
雪男の手が燐の腰に回る。顔を近づけ顎に手を添えて燐の唇に自分の唇を重ねる。すぐに唇は離されて燐は真っ赤な顔で雪男の胸に顔を埋めた。
「あーもうっ。まるで俺が女の子みてえじゃねえか!」
じたばたする燐に雪男は微笑ましくくすくすと笑う。もう燐と以前のようないがみ合いはない。いや寧ろ、一番幸せだった時期に戻ったようだった。何のわだかまりもなく兄を慕っていたあの頃に。
「兄さん。」
促すように呼びかけると燐は顔を上げた。さらさらとし生地の上から燐の身体を指で辿る。
「兄さん。仲良し、しよ?」
燐は自分の頭をかりかりと掻く。
「か、可愛いこと言ってんじゃねえよ。俺せっかくもう四五時間くらいは頑張ってみようかなと思ったのに。」
「兄さんが張り切るのは分かるけど、僕もたまには兄さんを甘やかしたいときもあるんだよ。というか」
「というかって何だよ。」
「甘えたいかな。」
燐の耳にその言葉が届いた瞬間、もの凄い力で燐に抱きしめられる。
「ベッド、行くか。」
燐に促され席を立ち部屋を横切りベッドに倒れこんだ雪男は、慣れたようにズボンと下着を脱いで燐に向かって足を広げた。燐は雪男の行動に少し硬直する。
「あ。ひいた?」
雪男は気まずそうに顔を背ける。広げていた足を閉じ、しおらしく膝を抱えて兄が動くのを待った。
『兄さんって意外と清純そうな子が好みだったからなあ。』
一抹の後悔を覚えて雪男は凹んだ。サルベージされてからはわだかまりが無くなった分、兄弟仲は昔以上に親密になった。そして当たり前のように交情もするようになった。
「兄さん?」
「雪男。お前が乗り気なのはわかるけどよ。だけどな、だけどなあ……。」
「……打ちひしがれないでよ。このパターン何回目なの?」
「いやお前こそ何回目だよ。恥ずかしくないの? それとも余裕なの?」
「……。僕は……。」
雪男はシャツのボタンを外しながら身体を横に向けて頬を赤く染める。
「兄さんの前なら、どんないやらしいことでも平気。ううん。それどころか鬱屈した心が解放されるような気持ちになるんだ。兄さんを受け入れて、恥ずかしい声を出して、感じちゃうことが。」
再び上を向くと視界の中に燐はいなかった。起き上がって横を見ると、床に転んで自分のところから持ってきた枕を持ってごろんごろんと転げまわっている。ごろごろ転がるのをやめた燐は居住まいを正してにやにや笑いを手の平に隠しながら言う。
「そうか。恥ずかしいのが好きなんだ……。雪男は、い、いやらしいな。」
改めて言われると雪男は馬鹿と短く叫んだ。
「都合のいいとこだけ切り貼りして言うな。」
若干きつい物言いだがその声は甘く、自分を上から見下ろしてくる燐を歓迎するようだった。
燐は雪男の頭を片手で撫でながらかちゃかちゃと音を立てながら自らのベルトを緩め、ズボンの前を開いている。雪男は横目でずらされた下着から覗く兄の昂りを確かめた。まるで意思があるように勃ち上がり雪男の目の前でゆらゆらと揺れている。雪男は半身を起こして燐のペニスに触れる。燐はぶるっと身震いした。
「口……で、やってみようか?」
雪男は唐突に問いかける。
「あ、ああ……。でも、大丈夫?」
この数ヶ月たびたび性交はしたものの、燐からフェラチオを要求されたことはない。燐にしてもそれを先の未来でも要求する気はなかったようで、雪男からの申し出にどぎまぎした反応を返すばかりである。雪男は燐を引っ張ってベッドの上に引き上げた。
「あ……えーと……。風呂入ったばかりだからきれいだとは思うんだ。それでもその……、汁が臭かったり変な味で嫌になったりしたら吐き出していいから。」
「兄さん。ムード無さすぎ。やる前から萎えるようなこと言わないでよ。」
雪男はそんなことを言いながら燐の先っぽのところを舌で舐めた。燐はひゃっと声を上げて腰を引く。その初心な反応が雪男には面白い。
雪男はイタズラっぽく笑って口の中に兄自身をくわえ込んだ。兄のマヌケな声が耳に入ってくる。口の中で舌を動かしてじょじょに硬さと質量を増してくるそれを刺激すると、唾液と燐の先走りが混ざって口から垂れそうになる。わずかに塩辛く生臭いカウパーの味は思っていた以上に舌に優しくなかった。兄の根元に添えた手に唾液とカウパーが滴り汚していく。そのぬめりを借りて口と同時に手でも兄を気持ちよくさせようとする。
「雪男? 大丈夫か?」
雪男は上目遣いに燐を見たあと、伸び上がって燐の口にキスをして口の中に溜まっていたものを燐の口に流し込む。
「うう……うぎゃっ。」
「吐き出しちゃ駄目。ちゃんと飲んで。兄さんのなんだから。」
自分自身の体液だからこそ飲み込めないという常識を無視するかのように、雪男は燐に告げる。燐は涙目になりながら愚直にも雪男の唾液が混じった自分の体液を飲み下す。
それを満足げに見ながら雪男は再び兄の股間に顔を埋めた。硬くそそり立ったものに横から舌を当ててなぞるように舐める。とろりと幹を伝わってくる液が頬を濡らす。粘度のあるそれは皮膚に留まって雪男の顔をべたべたに汚している。
燐も最初の戸惑ったような口ぶりとは裏腹に雪男の奉仕に気持ちよさげに目を瞑って息を断続的に吐いていた。それと同時に腰が動いて雪男の後頭部に手が添えられている。裏筋にも舌を這わせ、手で陰嚢を揉みしだく。
燐は何かの合図のようにぽんぽんと雪男の後頭部を叩く。雪男は兄が言い出す言葉を待った。
「雪男……口の中…咥えて……奥までっ……。」
限界まで膨張したそれを雪男は喉の奥につっかえるまで咥える。それと同時に喉の奥に放出されたものは生々しく濃い匂いと味を雪男の口の中に満たした。
「けほっ。」
雪男は軽く咳き込むと兄に苦笑いを向ける。そしてまた兄の口にキスをしてその残滓を舌で流し込む。兄は声にならない悲鳴を上げて雪男の長いキスに耐えている。兄が諦めたようにそれを飲み下したあと、精魂尽き果てたように雪男に告げた。
「お前……ひどい。」
雪男は悪びれた様子も無くティッシュで口を拭っている。
「兄さんもティッシュいる?」
燐は無言で頷いてティッシュを何枚か取って、雪男とそれを交互に何回か見たあと自分の唾をティッシュに吐き出した。
「ごめんね。兄さん。やっぱり初めてだから精液飲むの無理だった。」
「だからって俺に押し付けることはねえだろ。」
「だって吐き出して捨てたら悪いような気がしたんだもん。」
「どんな罪悪感? 俺がもし同じような理由で同じようなことしたら、雪男は許してくれるんだな? そうなんだな?」
燐は雪男のした仕打ちそのものよりも、その仕打ちに至った動機に腹を立ててしまったようだ。燐は雪男を抱きこんでベッドに置き押さえつける。
「兄さん……」
「初めてだった雪ちゃんの頑張りに、俺もそれなりに応えるしかねえようだな。」
雪男は兄の低い声に戦慄する。
兄は持続力はともかく、回数はかなりこなせるタイプだった。雪男はついていけずに最中に何度か意識を手放して寝落ちしたこともある。
もしかしたら今回は寝落ちすら許されないのかもしれない。
* * *
雪男の予感どおり、雪男は兄の怒りと欲望の赴くままに責め立てられた。しかし幸い目覚めた翌日というのは日曜日の午後前だった。
それでも雪男は自分が意識を手放した曜日を確かめずにはいられなくて、幾度も壁や携帯のカレンダーを確かめる。自分が意識を飛ばした日が確実に「昨日」だと分かって安堵の溜息を漏らす。数日意識を失くすという驚愕の事実にはならずに済んだ。
自分の望みを叶えてくれようと、自分の隣で努力する兄と睦みあう日々を送りながら、一方では漠然とした不安が心の片隅で芽生えていた。兄は青い炎に頼ることなく地道に努力している。その努力は報われるべきだと雪男は信じている。ヴァチカンの認定試験が言い渡されても今の兄ならなんとか凌げる。前と違ってそう確信していた。兄は普通の祓魔師として、物質界・虚無界の境界に干渉する存在にしないでおける。いつまでも自分の傍で悪魔の本性を隠して、昔のように人間としての奥村雪男の兄でいてくれる。
ベッドの中でけだるくまどろみながら、雪男はまだ部屋の中にむせ返っている兄の吐き出したものの匂いを嗅いでいた。
「兄さんは……、昼食でも作ってるのかな?」
ごく普通にあたりまえのようにあたりまえの習慣から発想できる日常が愛おしい。何せ今までの兄はいつなんどき、誰かによって雪男の手から奪われかねなかったからだ。
「サタンの落胤」というれっきとした真実はあれども、兄とその真実を切り離して他者に認識させる下地は出来上がる。根っこが出来てしまえば、兄とサタンを結びつける認識が薄れて、この世界の片隅で二人だけの静かな生活が確立されるだろう。
世界は相変わらず虚無界からの干渉で危ういままだろうが、そのために雪男の兄が人身御供を請け負う義理はない。今までだって危うくてどちらかというと劣勢だったのが普通で、それは何百年どころか千年単位で世界は続いてきたのだから、兄がそれを覆す鍵になる必要はない。
どうせ祓魔師というのは、一部のわずかな人間だけで構成されているようなものなんだから、兄弟二人ともがそれに従事することになっただけでも普通の人間な十二分に尽くしているほうだ。
兄はサタンの能力を引き継いでしまった不運なだけの人間だ。彼が貧乏くじの損な役を押し付けられない為に雪男が兄を守るのは当然だ。悪魔扱いされて殺されるなんて論外だ。
「兄さんは人間なんだ。」
雪男は自分の考えの究極のところを口に出して起き上がる。ちょうど兄がドアを開けた。
「おはよう。雪男ちゃん、いい天気だよぉ。兄ちゃんと一緒に買い物行かない?」
昨夜の性的な名残を一切感じさせない兄がいた。雪男は自分のべたつく肌を感じてちょっと待ってと兄を制した。
「シャワー浴びてくるから。着替えもしなくちゃいけないし、三十分ほど待って。」
「うん。待ってるからな。」
雪男はベッドから降りてふと窓の外を見る。視線の先に木の枝に腰掛けている人影が見える。学園の女子の制服。ショートカットの黒髪。手には食事のつもりなんだろうか、サンドイッチらしきものを摘んでいた。
「彼女。スカートで木に登ったのかな? 大胆だな。」
目的は分からないが雪男は別段気にすることはないと思い、寧ろ無視を決め込むように必要な準備を整えてそそくさと部屋から出た。
* * *
買い物袋を二人で提げて寮に帰る。メフィストがいなくなった今、燐の生活費は雪男が負担している。メフィストと違って必要な時に必要な分だけ。
「あーあ。俺も早く祓魔師になれば、雪男にばっか頼らずに済むのに。」
「焦る気持ちも分かるけど、ヴァチカンから何も言ってこない今のうちに確実に受かるように万全にしとこうよ。今のうちがいい機会なんだから。」
雪男の方針では、暗記で確実に合格点を取れる詠唱騎士や、下二級では基礎知識や魔障への対応が主な設問になる医工騎士を習得させ、実践で矢面に立つ騎士や竜騎士は後回しというものだった。
燐はそれに今でも顔をしかめることはある。でも雪男の悲しそうな顔を見ると、なんとかその不満を口に出すのは踏みとどまってくれた。
「そのうち兄ちゃんが雪男を食わせてやるからな。」
「無理はしないでね。」
普通の恋人同士のようなやり取りが雪男の長きに渡った心の緊張を解いていく。
そんな思いを察したように燐が買い物袋を片方の手でまとめて持って、もう片方の手を雪男に差し出す。雪男はその手を迷わず握った。
「雪男はほんとに可愛くなったよな。前のようにあまりイライラしなくなったし。」
「そ、そんなにイライラしてたかな?」
「俺が怒らせるばっかだったから。いや……その、すまん。」
「気にしないでよ。僕にも余裕がなかった時期のことなんだし。もう忘れてよ。」
ちりんちりんと二人の背後から自転車のベルが鳴る。二人は振り返りながら道の端に避けた。一人の自転車に乗った少女が燐と雪男に会釈して通りすぎた。その目はにこやかだったが、二人の繋がれた手に何かしら言いたそうな雰囲気も醸し出していた。燐がその視線に何か感じたのか雪男の手を離そうとしたが、雪男はぎゅっと力を込めて兄のその行為を許さなかった。
少女は数十メートル先で再びブレーキを掛けて止まる。まるで燐と雪男に追いついてこいと言わんばかりだった。
雪男は敢えて少女の無言の誘いを無視する。
「兄さん。ちょっと遠回りになるけど。」
雪男は少し戻ったところの階段の道を指差して兄を引っ張る。ずんずんと階段を上がっていく。階段の道では彼女の自転車では上がってこれない。あからさまに少女を避けている雪男に対して燐は何も言わなかった。ただ俯いて雪男に従う。
少女が見えなくなったところで燐は再び顔を上げる。そして道端に荷物を置くと雪男に抱きついた。
「兄さん。誰も僕らを邪魔しないよ。」
雪男は燐の頭を撫でる。この頃の燐は雪男に不安を隠さない。素直に頼ってくれる。そんな燐に応えるように、雪男もぎゅっと燐を抱きしめる。
「ほんとに俺、頑張るから。ずっとお前と居られるように。」
「僕も兄さんに精一杯協力するよ。好きだよ、兄さん。」
「俺もだ。」
それじゃと二人は寮に帰る道を行く。それは雪男の言うとおり遠回りだったが、あの奇妙な少女に二度遭遇することはなかった。だが何処からか聞こえてくる自転車のベルがずっと耳について離れなかった。
後編に続く
雪男は目を開けると、そこは今までとは考えられないくらいに穏やかで静かな場所だった。もう何もかもが起こったあとの、これからも何の変化も事件も危機もないことを保証されたような世界だった。目覚めた雪男を出迎えてくれた兄や仲間達も何も言わずに頷くだけだった。
雪男は現実世界にサルベージされて再び兄との日常に帰ってきた。
それから数ヶ月が経った。カレンダーの日付は翌年の四月だった。何故かあれからヴァチカンから燐の祓魔師認定試験の召喚がかかってこなかった。そしてメフィストフェレスも日本支部から姿を消していた。
雪男はこれ幸いにと燐と一緒にいつか訪れるであろう運命の日に備える日々を送っていた。燐は従順に雪男を家庭教師に一日に最低でも三時間は机に向かっている。口癖のようにお前の為に頑張ると言っていた。
燐が告げる言葉の中で雪男にとって一番嬉しかった言葉は、「青い炎に溺れない」だった。
燐は任務でも普通に詠唱や習った剣の技術で悪魔に対抗しようと努力している。それなりの戦果は上げ実績も積んできたが、けしてそれは平凡、並を超えるものではなかった。だけどそれは雪男が手放しで喜べる兄の姿だった。
今日も風呂上りから雪男の家庭教師の時間が始まっていた。
「やろうと思えば出来るもんだな。普通の人間っぽいこと。」
今更なのに燐はそんなことを時々口に出さずにはいられないらしい。雪男は自分の望みを手探りながらに実行している最中の兄に言い聞かせるように返す。
「そうだよ。僕が兄さんに望んでいたのはそんな感じのことだったんだよ。祓魔師になるにしても、青い炎なんていう賛否両論から逃げられないチートなんて必要ないってこと。ヴァチカンに対して恭順を示していれば、兄さんはサタンの息子とは関係ない人間として祓魔師になれるってこと。」
燐はぼそりと勿体ないかもと呟く。
「でも。お前がそうして欲しいなら俺はそれでいい。」
「うん。好きだよ。兄さん。」
燐はペンを止めてはにかんだように笑うと雪男から目を逸らした。
「何? 恥ずかしいの? 今更?」
雪男の手が燐の腰に回る。顔を近づけ顎に手を添えて燐の唇に自分の唇を重ねる。すぐに唇は離されて燐は真っ赤な顔で雪男の胸に顔を埋めた。
「あーもうっ。まるで俺が女の子みてえじゃねえか!」
じたばたする燐に雪男は微笑ましくくすくすと笑う。もう燐と以前のようないがみ合いはない。いや寧ろ、一番幸せだった時期に戻ったようだった。何のわだかまりもなく兄を慕っていたあの頃に。
「兄さん。」
促すように呼びかけると燐は顔を上げた。さらさらとし生地の上から燐の身体を指で辿る。
「兄さん。仲良し、しよ?」
燐は自分の頭をかりかりと掻く。
「か、可愛いこと言ってんじゃねえよ。俺せっかくもう四五時間くらいは頑張ってみようかなと思ったのに。」
「兄さんが張り切るのは分かるけど、僕もたまには兄さんを甘やかしたいときもあるんだよ。というか」
「というかって何だよ。」
「甘えたいかな。」
燐の耳にその言葉が届いた瞬間、もの凄い力で燐に抱きしめられる。
「ベッド、行くか。」
燐に促され席を立ち部屋を横切りベッドに倒れこんだ雪男は、慣れたようにズボンと下着を脱いで燐に向かって足を広げた。燐は雪男の行動に少し硬直する。
「あ。ひいた?」
雪男は気まずそうに顔を背ける。広げていた足を閉じ、しおらしく膝を抱えて兄が動くのを待った。
『兄さんって意外と清純そうな子が好みだったからなあ。』
一抹の後悔を覚えて雪男は凹んだ。サルベージされてからはわだかまりが無くなった分、兄弟仲は昔以上に親密になった。そして当たり前のように交情もするようになった。
「兄さん?」
「雪男。お前が乗り気なのはわかるけどよ。だけどな、だけどなあ……。」
「……打ちひしがれないでよ。このパターン何回目なの?」
「いやお前こそ何回目だよ。恥ずかしくないの? それとも余裕なの?」
「……。僕は……。」
雪男はシャツのボタンを外しながら身体を横に向けて頬を赤く染める。
「兄さんの前なら、どんないやらしいことでも平気。ううん。それどころか鬱屈した心が解放されるような気持ちになるんだ。兄さんを受け入れて、恥ずかしい声を出して、感じちゃうことが。」
再び上を向くと視界の中に燐はいなかった。起き上がって横を見ると、床に転んで自分のところから持ってきた枕を持ってごろんごろんと転げまわっている。ごろごろ転がるのをやめた燐は居住まいを正してにやにや笑いを手の平に隠しながら言う。
「そうか。恥ずかしいのが好きなんだ……。雪男は、い、いやらしいな。」
改めて言われると雪男は馬鹿と短く叫んだ。
「都合のいいとこだけ切り貼りして言うな。」
若干きつい物言いだがその声は甘く、自分を上から見下ろしてくる燐を歓迎するようだった。
燐は雪男の頭を片手で撫でながらかちゃかちゃと音を立てながら自らのベルトを緩め、ズボンの前を開いている。雪男は横目でずらされた下着から覗く兄の昂りを確かめた。まるで意思があるように勃ち上がり雪男の目の前でゆらゆらと揺れている。雪男は半身を起こして燐のペニスに触れる。燐はぶるっと身震いした。
「口……で、やってみようか?」
雪男は唐突に問いかける。
「あ、ああ……。でも、大丈夫?」
この数ヶ月たびたび性交はしたものの、燐からフェラチオを要求されたことはない。燐にしてもそれを先の未来でも要求する気はなかったようで、雪男からの申し出にどぎまぎした反応を返すばかりである。雪男は燐を引っ張ってベッドの上に引き上げた。
「あ……えーと……。風呂入ったばかりだからきれいだとは思うんだ。それでもその……、汁が臭かったり変な味で嫌になったりしたら吐き出していいから。」
「兄さん。ムード無さすぎ。やる前から萎えるようなこと言わないでよ。」
雪男はそんなことを言いながら燐の先っぽのところを舌で舐めた。燐はひゃっと声を上げて腰を引く。その初心な反応が雪男には面白い。
雪男はイタズラっぽく笑って口の中に兄自身をくわえ込んだ。兄のマヌケな声が耳に入ってくる。口の中で舌を動かしてじょじょに硬さと質量を増してくるそれを刺激すると、唾液と燐の先走りが混ざって口から垂れそうになる。わずかに塩辛く生臭いカウパーの味は思っていた以上に舌に優しくなかった。兄の根元に添えた手に唾液とカウパーが滴り汚していく。そのぬめりを借りて口と同時に手でも兄を気持ちよくさせようとする。
「雪男? 大丈夫か?」
雪男は上目遣いに燐を見たあと、伸び上がって燐の口にキスをして口の中に溜まっていたものを燐の口に流し込む。
「うう……うぎゃっ。」
「吐き出しちゃ駄目。ちゃんと飲んで。兄さんのなんだから。」
自分自身の体液だからこそ飲み込めないという常識を無視するかのように、雪男は燐に告げる。燐は涙目になりながら愚直にも雪男の唾液が混じった自分の体液を飲み下す。
それを満足げに見ながら雪男は再び兄の股間に顔を埋めた。硬くそそり立ったものに横から舌を当ててなぞるように舐める。とろりと幹を伝わってくる液が頬を濡らす。粘度のあるそれは皮膚に留まって雪男の顔をべたべたに汚している。
燐も最初の戸惑ったような口ぶりとは裏腹に雪男の奉仕に気持ちよさげに目を瞑って息を断続的に吐いていた。それと同時に腰が動いて雪男の後頭部に手が添えられている。裏筋にも舌を這わせ、手で陰嚢を揉みしだく。
燐は何かの合図のようにぽんぽんと雪男の後頭部を叩く。雪男は兄が言い出す言葉を待った。
「雪男……口の中…咥えて……奥までっ……。」
限界まで膨張したそれを雪男は喉の奥につっかえるまで咥える。それと同時に喉の奥に放出されたものは生々しく濃い匂いと味を雪男の口の中に満たした。
「けほっ。」
雪男は軽く咳き込むと兄に苦笑いを向ける。そしてまた兄の口にキスをしてその残滓を舌で流し込む。兄は声にならない悲鳴を上げて雪男の長いキスに耐えている。兄が諦めたようにそれを飲み下したあと、精魂尽き果てたように雪男に告げた。
「お前……ひどい。」
雪男は悪びれた様子も無くティッシュで口を拭っている。
「兄さんもティッシュいる?」
燐は無言で頷いてティッシュを何枚か取って、雪男とそれを交互に何回か見たあと自分の唾をティッシュに吐き出した。
「ごめんね。兄さん。やっぱり初めてだから精液飲むの無理だった。」
「だからって俺に押し付けることはねえだろ。」
「だって吐き出して捨てたら悪いような気がしたんだもん。」
「どんな罪悪感? 俺がもし同じような理由で同じようなことしたら、雪男は許してくれるんだな? そうなんだな?」
燐は雪男のした仕打ちそのものよりも、その仕打ちに至った動機に腹を立ててしまったようだ。燐は雪男を抱きこんでベッドに置き押さえつける。
「兄さん……」
「初めてだった雪ちゃんの頑張りに、俺もそれなりに応えるしかねえようだな。」
雪男は兄の低い声に戦慄する。
兄は持続力はともかく、回数はかなりこなせるタイプだった。雪男はついていけずに最中に何度か意識を手放して寝落ちしたこともある。
もしかしたら今回は寝落ちすら許されないのかもしれない。
* * *
雪男の予感どおり、雪男は兄の怒りと欲望の赴くままに責め立てられた。しかし幸い目覚めた翌日というのは日曜日の午後前だった。
それでも雪男は自分が意識を手放した曜日を確かめずにはいられなくて、幾度も壁や携帯のカレンダーを確かめる。自分が意識を飛ばした日が確実に「昨日」だと分かって安堵の溜息を漏らす。数日意識を失くすという驚愕の事実にはならずに済んだ。
自分の望みを叶えてくれようと、自分の隣で努力する兄と睦みあう日々を送りながら、一方では漠然とした不安が心の片隅で芽生えていた。兄は青い炎に頼ることなく地道に努力している。その努力は報われるべきだと雪男は信じている。ヴァチカンの認定試験が言い渡されても今の兄ならなんとか凌げる。前と違ってそう確信していた。兄は普通の祓魔師として、物質界・虚無界の境界に干渉する存在にしないでおける。いつまでも自分の傍で悪魔の本性を隠して、昔のように人間としての奥村雪男の兄でいてくれる。
ベッドの中でけだるくまどろみながら、雪男はまだ部屋の中にむせ返っている兄の吐き出したものの匂いを嗅いでいた。
「兄さんは……、昼食でも作ってるのかな?」
ごく普通にあたりまえのようにあたりまえの習慣から発想できる日常が愛おしい。何せ今までの兄はいつなんどき、誰かによって雪男の手から奪われかねなかったからだ。
「サタンの落胤」というれっきとした真実はあれども、兄とその真実を切り離して他者に認識させる下地は出来上がる。根っこが出来てしまえば、兄とサタンを結びつける認識が薄れて、この世界の片隅で二人だけの静かな生活が確立されるだろう。
世界は相変わらず虚無界からの干渉で危ういままだろうが、そのために雪男の兄が人身御供を請け負う義理はない。今までだって危うくてどちらかというと劣勢だったのが普通で、それは何百年どころか千年単位で世界は続いてきたのだから、兄がそれを覆す鍵になる必要はない。
どうせ祓魔師というのは、一部のわずかな人間だけで構成されているようなものなんだから、兄弟二人ともがそれに従事することになっただけでも普通の人間な十二分に尽くしているほうだ。
兄はサタンの能力を引き継いでしまった不運なだけの人間だ。彼が貧乏くじの損な役を押し付けられない為に雪男が兄を守るのは当然だ。悪魔扱いされて殺されるなんて論外だ。
「兄さんは人間なんだ。」
雪男は自分の考えの究極のところを口に出して起き上がる。ちょうど兄がドアを開けた。
「おはよう。雪男ちゃん、いい天気だよぉ。兄ちゃんと一緒に買い物行かない?」
昨夜の性的な名残を一切感じさせない兄がいた。雪男は自分のべたつく肌を感じてちょっと待ってと兄を制した。
「シャワー浴びてくるから。着替えもしなくちゃいけないし、三十分ほど待って。」
「うん。待ってるからな。」
雪男はベッドから降りてふと窓の外を見る。視線の先に木の枝に腰掛けている人影が見える。学園の女子の制服。ショートカットの黒髪。手には食事のつもりなんだろうか、サンドイッチらしきものを摘んでいた。
「彼女。スカートで木に登ったのかな? 大胆だな。」
目的は分からないが雪男は別段気にすることはないと思い、寧ろ無視を決め込むように必要な準備を整えてそそくさと部屋から出た。
* * *
買い物袋を二人で提げて寮に帰る。メフィストがいなくなった今、燐の生活費は雪男が負担している。メフィストと違って必要な時に必要な分だけ。
「あーあ。俺も早く祓魔師になれば、雪男にばっか頼らずに済むのに。」
「焦る気持ちも分かるけど、ヴァチカンから何も言ってこない今のうちに確実に受かるように万全にしとこうよ。今のうちがいい機会なんだから。」
雪男の方針では、暗記で確実に合格点を取れる詠唱騎士や、下二級では基礎知識や魔障への対応が主な設問になる医工騎士を習得させ、実践で矢面に立つ騎士や竜騎士は後回しというものだった。
燐はそれに今でも顔をしかめることはある。でも雪男の悲しそうな顔を見ると、なんとかその不満を口に出すのは踏みとどまってくれた。
「そのうち兄ちゃんが雪男を食わせてやるからな。」
「無理はしないでね。」
普通の恋人同士のようなやり取りが雪男の長きに渡った心の緊張を解いていく。
そんな思いを察したように燐が買い物袋を片方の手でまとめて持って、もう片方の手を雪男に差し出す。雪男はその手を迷わず握った。
「雪男はほんとに可愛くなったよな。前のようにあまりイライラしなくなったし。」
「そ、そんなにイライラしてたかな?」
「俺が怒らせるばっかだったから。いや……その、すまん。」
「気にしないでよ。僕にも余裕がなかった時期のことなんだし。もう忘れてよ。」
ちりんちりんと二人の背後から自転車のベルが鳴る。二人は振り返りながら道の端に避けた。一人の自転車に乗った少女が燐と雪男に会釈して通りすぎた。その目はにこやかだったが、二人の繋がれた手に何かしら言いたそうな雰囲気も醸し出していた。燐がその視線に何か感じたのか雪男の手を離そうとしたが、雪男はぎゅっと力を込めて兄のその行為を許さなかった。
少女は数十メートル先で再びブレーキを掛けて止まる。まるで燐と雪男に追いついてこいと言わんばかりだった。
雪男は敢えて少女の無言の誘いを無視する。
「兄さん。ちょっと遠回りになるけど。」
雪男は少し戻ったところの階段の道を指差して兄を引っ張る。ずんずんと階段を上がっていく。階段の道では彼女の自転車では上がってこれない。あからさまに少女を避けている雪男に対して燐は何も言わなかった。ただ俯いて雪男に従う。
少女が見えなくなったところで燐は再び顔を上げる。そして道端に荷物を置くと雪男に抱きついた。
「兄さん。誰も僕らを邪魔しないよ。」
雪男は燐の頭を撫でる。この頃の燐は雪男に不安を隠さない。素直に頼ってくれる。そんな燐に応えるように、雪男もぎゅっと燐を抱きしめる。
「ほんとに俺、頑張るから。ずっとお前と居られるように。」
「僕も兄さんに精一杯協力するよ。好きだよ、兄さん。」
「俺もだ。」
それじゃと二人は寮に帰る道を行く。それは雪男の言うとおり遠回りだったが、あの奇妙な少女に二度遭遇することはなかった。だが何処からか聞こえてくる自転車のベルがずっと耳について離れなかった。
後編に続く
☆ss「super scription of date」前編 燐雪(志摩雪、雪しえ表現あり)
秘境異次元な不条理ネタで始まります。若干注意してお読みください
「姦淫することがそんなにあかんこと、なんかなあ? 先生。」
「良くないこととは言わないよ。ただそればかりに気を取られる姿が醜いから、僕個人の意見を言うなら自重するべきだとは思う。」
志摩に取り上げていたエロ本を手渡しながら雪男は眉をしかめている。
「ほんでも。なんか嫌なことがあった時なんか手っ取り早いんやけどな。発散するのに。」
雪男は背中を向けている。志摩は無視を決め込もうとする雪男にさらに問いかける。
「先生もいろいろあるんやないの? 嫌なこと。」
「気を取られてる暇はないよ。」
志摩は肩を竦めた。指導する教師の物言いとは、なんだか違うように感じる。大人のイメージするような健全な学生になるよう説得されている気がしない。
志摩は腕組をしながら手探り感溢れる結論を口にした。
「ああ。分かった。要は節操さえ守ればええ言うことやろ? 授業中に余計なこと考えるなとか、塾内で問題になるような人間関係はやめとけとかいうことやろ。そういうことですよね? せんせ。」
「概ねそういうことです。それに底触しないのなら、僕は君の性欲をどうのこうの言う権限はありませんから。」
志摩はにやっと笑う。
「え? なんかおもろいこと聞こえたわ。性欲やて?」
雪男は振り向いて志摩のほうに一歩踏み込んだ。
性欲とか、普段は雪男の口から絶対に聞けないような言葉を聞けて志摩はにやにや笑いが止まらなくなっていた。
志摩とその手の話をこっそりとしている時に、興味津々になりがらも恥らう燐も可愛いが、顔色一つ変えず性欲と口にする雪男にもそそられてしまう。
「授業も終わってることやし、先生も先生ちゅーことを忘れて俺とエロ話せえへん? 折角同級生同士やし、そうですよね。若先生。」
「そう思うなら、そのわざとらしい取ってつけたような敬語はやめてくれないかな?」
冗談とも本気ともつかない誘い方だと志摩自身も思った。取り上げられたエロ本にしたって、カバンの中にテキストと一緒に入れていたのを、ちょうど横を通った雪男に見咎められて取り上げられてしまった。
別に授業中に堂々と開いていたわけじゃない。なけなしの皮肉で先生のお兄さんに貸してやるつもりだったと小声で言ったときに、なんともいえない羞恥の表情を浮かべたあと、まるで敵視するような視線を向けられた。
あれは潔癖な雪男が浮かべる表情としては相応しかったと思う。それとは反対の今のように平然と性欲と言い切ってしまうところにも、ぞくぞくするような震えが走るのは何故だろうか。
「エロ話ねえ……」
雪男は志摩が座っている机に長い足を見せ付けるように腰掛けて、志摩を見下すように見下ろしている。長い足を蓮っ葉に組んで溜息をついた。
「君は普段の僕の教師面がよっぽど気に障るみたいだね。」
「いやぁ。誤解されるようなこと言って、すみません。僕は別に先生に悪意を持っとるわけやあらへんけど。先生みたいな御仁、滅多に御目にかかれへんやろ。普通の男子高生の一般人やったらなあ。しかも同い年やから、ちょっと欲が出てもうたんです。そのきっちり着込んだ服の下、どんなこと考えとんかな? って。」
雪男は鼻で笑うように志摩を嘲笑う。その笑いさえもえげつないくらいに品のある笑みだった。
「先生やったら、脱いでもエロやのうて芸術になるんやろうな。じっくり鑑賞したいわあ。」
コートを着ているシルエットからして綺麗だった。それが志摩の率直な感想だった。
「黒子標本みたいな?」
雪男はわざと的外れな形容を選んだようだ。
「数えてみるんも面白そうやな。」
志摩はそれを否定せずに雪男のきっちりと詰まった襟元の隙間に目をやる。
「君から見て左側、襟で隠れたところの首筋にひとつ。あとは鎖骨から下に集中してますね。」
ほおと志摩は声に出しながら襟の隙間を覗き込む。しかしそれ以上は襟を指で引っ張らないと見えないらしく、志摩は好奇心にまかせて指を伸ばした。
ここは何の変哲もない夕暮れの教室だった。窓のない祓魔塾では夕暮れもくそもないのだが、放課後から塾は始まるので、否応無く塾の中で過ごすのは夕暮れ時から夜にかけての時間だと決まっている。そしてその中に漂う空気も昼間の埃っぽさが少し落ち着いて湿っぽく感じるようだった。一方からの光が照らして作る影もトーンが薄くなっていた。窓のない蛍光灯だよりの灯りでも、志摩はそういうふうに感じていた。
志摩は今時の若い男の典型で昼間よりはこんな時間帯のほうが却って高揚している。彼をそうさせるのは高揚感というよりは開放感なのかもしれない。浮かれた脳が軽口を叩き続けている。いつのまにか雪男のコートやシャツのボタンが外されていた。
「ほんまや。あったわ首に。」
指で突かれてそのあといつも鏡で確認していたその場所を撫でられた。雪男は怪訝そうな顔をしながら思わず身体を少し逸らした。二番目まで外されていたボタンがもう一つ外されると同時に背中が志摩の手で支えられた。
「そんなとこで身体逸らしてもうたら危ないやろ。」
志摩は今の積極的な自分の行動につられるように、椅子から腰を浮かせて雪男を見据えていた。雪男は自分が座っていた場所を省みる。背もたれもない机ではさっきの反射的な動きは、志摩が言ったように危ないようだ。
「せんせ。俺によっかかってええよ。」
雪男は黙ってわずかに志摩にもたれかかる。志摩の首に手を回した。雪男に抱えられるような形にも見える志摩は、ほっとしたように口から息を吐いた。
「どうしたんですか志摩君? 僕に突っかかってた癖に、実は緊張していたんですか?」
「え。いや……。」
歯切れが悪い。雪男はくすくすと笑って自分の胸元を志摩の顔に押し付ける。
「女の子好きな君には物足りないでしょうけど。」
「いや。そんなことない。先生はあまり男臭くあらへんし、肌も綺麗やし、黒子は……エロいし。」
雪男が志摩にわざと晒した隙に入り込むかどうか、志摩は躊躇していたのだろうが、元から堪え性のない男は温い考えに従って踏み込んだ。
「駄目ですね。僕は標本なんでしょう? そんな目で見ないで、よく観察したらどうですか。」
「標本ネタ。まだ有効なことになっとるんですね。」
志摩の手は雪男の四番目のボタンに触れていた。これを外せば胸元は完全に露になる。それはまるで、やっと雪男が心を開いてくれたことを、目に見える形で見せてくれているように志摩は感じた。
志摩は「よし」と心の中で気合を入れて雪男の顔を直視する。
「先生。この先は何が起こっても何でも了承してくれるんやろ?」
「君は何か起こす気満々だろうけど。」
ボタンに手を掛けている志摩の手に雪男は手を重ねる。そしてそのまま雪男は力を込めて志摩の身体を押した。
「ちょっ……せんせっ。」
きょとんとした顔のまま、志摩は長椅子ごとうわっという大袈裟な声と共に後ろに倒れこむ。志摩の体重を受け止めた板敷きの床が、これまたぼこっと大袈裟に陥没し志摩が倒れ込んだ形にくり貫かれた。それはまるで劇画に出てくるような破壊表現だった。
慌てて体勢を整えようとした志摩が動くたび、その陥没した部分から床に亀裂が走り、段々と教室中にそれが広がっていく。床に配置されていた長椅子や長机や教壇も、その亀裂に飲み込まれていく。雪男が座っていた机の周辺を除いて、大掛かりな災害や物理的な力で破壊が進んでいくような様を雪男はぼんやりと眺めていた。
「な、なんやっ。」
志摩はアリジゴクの巣のアリジゴクそのもののように、すり鉢状の穴の一番深くに追いやられた。
「せんせ! 別に俺はあんたに疚しいこと考えとったわけやないんや! ほら、ようあるやろ?」
「何がよくある話ですか。」
志摩の頭上にはアリジゴクに飲まれるアリのように、机や椅子が雪崩れ込んでいこうとする。教室にある塾生の人数の割には多すぎる、一クラス分のそれらが志摩に降り注げば、志摩が無事で済むわけがない。
しかしどんな加減なのか、机や椅子は志摩を押しつぶすことなく志摩よりさらに下の空間に吸い込まれていくだけで、志摩のところにだけ特殊な足場があるように、志摩はすり鉢状の穴の底から雪男に呼びかけていた。
「なあ先生! こんな漫画みたいな拒絶せんで欲しいわあ。」
「不条理系だとしたら君は机や椅子に潰されてジ・エンドってオチですよ。でもそうならないように何かタネがあるみたいですね。」
「潰す気やったんですか……。ああ。やっぱり保険かけといて良かったわ。」
「保険?」
「俺自身がそれやったわけやないですけど。応援というか協賛というか援護というか。」
雪男はふむと頷いて志摩を見下ろしていた。
さっき自分の肌に触れてきた志摩の指先は、あの気安い割にはねちっこい言葉の数々とは裏腹に乾いて冷たかった。雪男に対して何かしらの恐れなりがあったことは窺い知れる。その癖、志摩の目的は自分に対して性的な行為を遂行することだったようだ。いや、別の目的があって、それに性行為がくっついてきたというほうが正しいのかもしれない。
そして今の自分を取り巻く状況。自分が志摩を拒絶した瞬間、志摩を中心に空間が崩壊した。それなのに自分はあまり動じてない。どうやら志摩を拒絶したのは自分の取るべき行動として正解だったらしい。
志摩は足場を確保するように再び雪男に近づくべく穴を登ろうとする。この空間には少しは志摩の意思も働くのか、崩れ行く床を一歩ずつ上っていくことが可能らしかった。
その光景に雪男は眉を顰めた。
「危険に対する保険にしてはサービスが行き届きすぎでしょ。」
「保険っていうか、サポートや。俺の自前の力だけじゃどうにもならんから。」
「第三者の力が働いているんですね。誰の能力かは知りませんが。」
「先生。そんなことより、せめてキスくらいええやろ!」
ついに志摩はすり鉢状の壁を登ってもとの高さまで戻って、息切れを起こしながら対峙した雪男に叫んだ。
雪男は少したじろいで恥らって、「無理」と口走った。
「なんでや! これは必要なことなんや! 先生の為なんや!」
「僕の為って言ってくれるのは、嬉しくないわけじゃないんだけど……」
「俺、ええかげんな奴やけど、ちゃんと責任は取るし。やり逃げなんかせえへんから。」
雪男は服のボタンを全部丁寧にしめて机から降りる。
「ごめん。僕は君をそういうふうに見れないんだ。」
「遊びでもええんや先生ぇ。ちょっと今だけでも気持ちようなろ? 俺テクには自信あるから!」
志摩の叫びは支離滅裂になってきていた。雪男はそれに苦笑いを浮かべている。
「遊びでも、駄目。せめて相手が勝呂君あたりだったら、もう少しだけ考えたかもしれないけど。」
「どういうことや?」
勝呂竜士になら、雪男は志摩がやろうとすることを許してやろうと言う。勝呂になら手を出されても良いなんて、どんな論理の産物なんだろうと志摩はひたすら頭を捻った。
あの真面目な、自分を含め皆の愛する明陀の坊が、雪男の隠れた意中の相手なのだろうか。そんな素振りは一つもなかっただろうし、単純に志摩よりはマシという意味でしかないのだろうか。
「勝呂君だったら、そういう関係になれば僕にとって、彼の弱みを握れるんじゃないかと。どうせ弱みを握るなら、君より彼のほうがお得だし。」
「なんや。それは要するに打算なんか。」
志摩はふらっと倒れそうになった。
「坊。坊か……。先生がお望みならそうしたいのはヤマヤマなんやけど。坊は、坊は最初っから弾かれとんや。この空間。いや、世界から。」
今、雪男が置かれている尋常じゃない空間に入り込める人物には、何らかの限定条件があるらしい。勝呂竜士は残念ながら雪男個人の条件は満たせても、雪男を取り巻く世界の条件は満たせなかったようだ。
「もう一回言うけど、これは先生のためなんや。」
雪男は目を瞑って迷っている振りをする。志摩のために逡巡する素振りを見せたあと、最初から決めていた回答を志摩に突きつける。
「駄目。」
「先生。本当に好きや。今だけでもええから、俺を見て! キスさせてえ!」
「それは全部嘘だろ。」
雪男は今度は両手で思いっきり志摩の身体を押す。
「あ……」
志摩の雪男への言葉は嘘と言えば全て嘘なのかもしれない。それでも嘘を吐き通してでも目的は遂行したかった。
それでも雪男が好きという言葉そのものは半ば嘘でしかないのだから、志摩に掛かった保険の効力が揺らいでしまったのだ。彼は嘘が得意と吹聴するところがあったが、嘘を本当だと言い張れない程度には正直者だった。彼の中のわずかな正直者が仇になった。そして一つの言葉が零れ落ちた。
「すんまへん。」
それは普段の嘘吐きな彼が言ったのか、それとも人見知りな隠れた正直者な彼が言ったのか、それは雪男にはどうでもいいことだった。彼に対して関心など一つもなかったからだ。
志摩は後ろ向きのまま涙の玉をキラキラと宙に浮かせながら再び穴の底に叩き落され、徐々に姿を消していった。雪男は天井を見上げる。天井も四方の壁も原型を留めていない。パラパラと残骸が音を立てて落ちてきていた。
「あーあ……」
雪男が疲労とも安堵ともつかない溜息をつく。
結局、志摩が雪男に触れたのは指一本だけ。乾いて冷たかった指先。雪男が受け入れ可能な人間以外を排除する空間。そんな場所で恐怖に震えながらもエロ紳士を演じようとしたのだから、雪男は皮肉交じりにも志摩に乾いた拍手を送りたくなった。彼の年齢や経験からすればなかなかのものだった。
だから雪男はぱちぱちと退場した役者に拍手を送った。
そのときだった。
後ろで破裂音と共にどんと一際大きく何かが崩れた音がする。空間がその音源の力に耐え切れず衝撃と風を巻き起こした。一瞬のうちにそれらは雪男を前方に転ばせた。
起き上がって振り向くと壁があったところから明るい太陽の光が差していた。
雪男は警戒しながらそこに歩いていくと、そこはどこかの外国のリゾート地の海辺のようだった。
リゾート地の海辺のようだが、雪男以外に誰もいない。ツアーの集団も現地の住民も、新婚旅行らしいカップルも、リゾート地にいるはずの人間の気配がない。しかしあつらえたような白い砂浜とエメラルド色の海が眼前には広がっており、砂浜と陸続きのあちらこちらに綺麗な花やら南国植物が風に揺れていた。エメラルド色の海の沖ではこれまた銀色の魚が飛び跳ねている。そんなところがこの地上にはあるとは聞いていたが、終生見ることは無いと雪男は思っていた楽園とも呼べる場所に雪男はいた。
そんな別天地の風景の中に一人の少女が雪男に向かって手を振っていた。
「ゆっきちゃーん!」
雪男は面食らった。それはかつて任務先の熱海で見た水着を着たしえみの姿だった。白いフリルをあしらったスカートのようなデザイン。緩いポニーテールのような髪型。それ以上に眩し過ぎて直視出来ないような、窮屈な水着から零れてしまいそうな魅惑的な胸が一歩走るごとに揺れている。
「至れり尽くせりだな。」
任務じゃない。見知った人間というギャラリーもいない。熱海以上の素敵な海の風景。それを凝縮したような目の前の少女・しえみ。
「しえみさん。ここは?」
「ここは南の国の島なんだよ。」
「見たまんまですね。」
さっきの空間とうって変わった開放感溢れる眩しい空間だった。雪男はそれを意識した途端、太陽の紫外線と熱された気温に眩暈を起こした。
「雪ちゃん。」
しえみが駆け寄って雪男を支える。柔らかな肌が雪男に押し付けられる。黒く分厚いコート越しに。雪男の姿はここでは場違いそのもので、この場で倒れてしまっても可笑しくない。
「日陰に行きましょうか。」
雪男はよろよろとしえみに支えられながら椰子の木陰に向かう。木を背もたれ替わりに額や背中を伝う汗を気持ち悪いと感じながら座った。
「雪ちゃん。暑いの? 暑いんだったら、コート脱いだほうがよくない?」
「そうですね。コートだけでも脱がさせて貰いましょうか。」
雪男はごそごそとコートを脱ぐ。しかし海とはいえ砂浜なのでまだ暑さを感じてしまう。
「雪ちゃん。ぱっと脱いじゃおうよ。」
しえみはどこから取り出したのか、ガラスに水滴が滴る、見るからに冷たい飲み物を片手に持っていた。「これを飲んで」と真っ先に言わないところが、なんとなく誘導されているように雪男は感じた。しかしそれにツッコミを入れる余裕は暑さでなくしていた。
「しえみさん。それ美味しそうですね。冷たそうだし。一口貰えませんか?」
しえみはグラスを差し出す。ただし雪男には手渡さない。雪男の口に直接傾けて飲ませていた。
「美味しい? 雪ちゃん。」
「美味しいです。」
「よかった……。じゃあもう一口。……あ。」
しえみはガラスに浮かんだ水滴で手を滑らせたのか、グラスの中の飲み物を雪男のシャツの上に零してしまった。呆然としている雪男を尻目に、しえみはグラスを砂浜に投げ出すと雪男のシャツに手を掛けた。
「あーあ。濡れちゃった。早く脱がさないと駄目だよね。うん。あ……ズボンにも掛かってるし。どうせなら全部脱いじゃおうね。雪ちゃん。」
「え? ちょ……ちょっと待ってください。」
躊躇する間も無くしえみは雪男のシャツに手をかけ、志摩がしたように服のボタンを外し始めた。しかもそのスピードは志摩より断然速かった。
「しえみさん。以前洋服の着付けが分からないと神木さんに尋ねに行くほどだったのに、脱がせるのは異様に速いじゃないですか。」
しえみはきょとんと首を傾げた。
「私だって洋服着るの慣れてきたし。そこまでおかしいことじゃないんじゃない? あ。シャツは私が洗濯しておくから。」
それもそうかなと雪男は前かがみになったしえみを無意識に凝視してしまう。失礼だし良くないことだと叱咤したくなるくらいに、しえみの胸元に視線が向かってしまう。
「雪ちゃん?」
雪男は自分の疚しい視線が悟られたと思って気まずさに首を真横に向けた。
しえみはシャツを雪男の上半身からはがし、にっこりと笑って、次に雪男のスラックスのベルトに手を掛けた。
「しえみさんはそれはっ。」
流石に視線を外したままではいられなくなって雪男は、しえみの両肩を掴み自分から引き剥がす。雪男はしえみに向かってしえみの指先を拒否するように首を振る。しかしそんな雪男にしえみも首を振って応戦するかのようだった。
「駄目だよ。雪ちゃん。ズボンも濡れたって言ったじゃん。」
「いや。僕はしえみさんと違って水着もないですし。男が……いや、屋外で下着姿というのは」
「雪ちゃん。ここは南の島だから、下着どころか男の子が裸になったってなんら可笑しくないよ。」
「しえみさん。ここはヌーディストビーチなんですか?」
しえみは考え込んだあと、そうだよと元気よく告げた。
「そうだよ。ここは裸で良かったんだよ。私、こういうとこ初めてだから、……最初だけだからと思って。水着うっかり着っぱなしだったんだ。」
しえみは水着の肩紐をゆっくりずらし始める。堂々としている素振りの割には顔は高熱が出たように紅潮していた。
「て、いうか。ここ……雪ちゃんと私しかいない、島なんだよ。だから……。」
しえみは水着のブラを放り投げる。しえみの胸を隠すものは、しえみ自身の小さな手の平しかなかった。もちろん隠すのには不十分すぎて、しえみの手の平で柔らかな胸の形が歪む。
燦燦と太陽が降り注ぐ風景とは不釣りあいな姿だった。
「えっと……」
雪男は無性にしえみを含めた誰とも知らない各方面に謝りたくなった。大人しい性格のしえみに、ここまでさせてしまった自分が罪深い。
「雪ちゃん。仲良し、しよ。」
「それってどういう意味でしょう?」
引きつった言葉が口から出る。
「んと……、雪ちゃんは先生だから、私に教えて欲しいの。友達同士の仲良しより、もっと仲良くなれること。それって、エッチなことをすればいいんだよね?」
雪男は熱中症とは別にくらくらした。しえみにも性的な要求をされるなんて、この世界はいったい何を雪男に成せというのだろうか。可憐で自分の衝動を抑えきれなくなるような相手を目の前に雪男は、志摩を相手にしている時より追い詰められていた。しえみはまさに雪男の虚を突く刺客だった。
「しえみさん。それは誰から教えて貰ったんですか?」
「誰からってわけじゃないよ。ていうか、そんなの常識だよ。」
しえみは、このごろは各方面に勉強熱心なようだが、教材を間違えているように雪男は思った。しえみの言う常識はマスコミが実しやかに撒き散らしているもので、誰にでも当てはまる真理というものからは遠すぎる。
いや。それは違うかもしれない。たぶんしえみのことだから、世間に氾濫している情報からそんなことを考えているわけではないだろう。
しえみの住居を取り巻く環境は、木立や草木に住み着いている小動物や虫達が自然の営みのように交合していても可笑しくない。それを見つけたしえみに、あの母や祖母が「仲良くしているんだよ。」と微笑ましく言葉を濁していたに違いない。
「雪ちゃんともっと仲良ししたい。」
雪男としては不思議ちゃんの内面のカラクリが分かれば、しえみに淫靡さと気まずさを感じる場所をシャットアウトするのはそれほど難しいことではなかった。
「仲良く、ですか。」
雪男はしえみの髪に手を伸ばして、その金色の糸をさらさらと指で掬う。しえみは胸を隠したまま気持ち良さそうに目を瞑っていた。雪男はしえみに顔を近づける。
「……。どうしよ。」
志摩はキスさせろと、やけに迫っていた。もしこの空間が志摩といた場所と似た空間だとしたら、ここでしえみを突き放せば空間もろともしえみが消滅してしまう。しかも志摩といた空間の崩壊具合からして、海辺という環境で考えられる崩壊の様相は悲惨なものだと予測出来た。荒れ狂った海がしえみを攫う。糸を引く悲鳴が想像の中で木霊する。
『しえみさんの身の安全のためにも、しえみさんの要求を叶えるしかないのかな?』
不自然なまでの積極性を見せているから、このしえみは偽者だと思い込む思考も有りかもしれない。ところが雪男は何故かこのしえみを、第三者が、例えば悪魔か何かが作り出したまやかしとは思えない。明らかに悪魔が使いそうな戦術そのままのシチュエーションなのに。
「雪ちゃん……」
しえみの唇が自分の名を吐き出す。
雪男はしえみの要求に精神が先に屈した。雪男はしえみの両手首を取り、その白い胸を露にして押し倒した。
「しえみさん……。ずっと好きでした。」
「私もだよ。雪ちゃん。」
屈託ない笑みに雪男は泣きたくなった。雪男の緩んだ拘束からしえみの手が逃れて雪男の頭を撫でる。
「しえみさん……。いいんですか?」
「雪ちゃん……。いいよぉ。」
雪男の上半身はしえみの胸に倒れこんだ。しえみは赤ん坊をあやすように、両腕と胸で雪男の頭を包み込む。
『あ。こりゃやばいかも。』
雪男は誰かの呟きにはっとなって周囲を窺うために上半身を起こした。
そこは太陽が燦燦と降り注ぐ海辺ではなくて、正十字学園旧男子寮六○二号室室内だった。
再び視線を落としたら、そこにはしえみの裸体はなく、くしゃくしゃに丸められたコートとシャツと、ガラスコップが散乱していた。
「あれ?」
上半身裸の自分。汗でべとついて気持ちが悪い。汗のべとつきと匂いとは異なる甘い匂いもする。散乱していたのは服やコップだけではなくコップに注いだジュースも撒き散らしてしまったようだ。窓の外は緑を誇る木々が夏の日差しを浴びて二酸化炭素と酸素の交換に勤しんでいた。
「ひょっとして夢だったのかな?」
暑い戸外から帰ってきて、ジュースに飲もうとコップに注いで、ジュースを飲みながら服を脱いでいたら、熱中症ぎみになっていた身体が限界を超えて倒れてしまった。そんな状況がありありと推測出来た。
しかしながら、これは兄がやらかしそうな失敗のような気がしてならない。雪男自身がそんな失敗をしようとするだろうかと、自分が自分に首を捻らざるをえない。
しかし夢で納得してしまうほうが一番無難な思考だった。やけに性的な内容だったのは、最近マスターベーションをしていなかったし、志摩にセクハラまがいのことをつい最近言われたからだろう。あのタイプは雪男ような固そうな人間に対して性的な言動を取りそれを自分の性的な興奮に置き換える人種だと常日頃から雪男は認識していた。
「片付けなきゃ。」
納得したなら次は証拠隠滅だった。服はジュースで汚れていた。それをまず洗濯場に持っていく。洗濯機を起動させたついでに洗濯場の用具入れから雑巾とバケツを借りてきて床を掃除する。掃除が終われば再び掃除道具を洗濯場に持っていき片付ける。洗濯機はまだ止まっていなかった。ふと鏡を見て自分が上半身裸なことを思い出す。
「服着なきゃ。」
雪男はそそくさと部屋に帰ると、兄の燐がいた。
「雪男。って、なんで半裸?」
「汗かいて着ていたものを洗濯しに行ったら、着替えの服持って行くの忘れた。」
「あーあ。お前は俺がいなきゃ駄目だな。」
雪男はそれにむっと蛇のような怒りが鎌首をもたげる。兄に噛み付いてやりたいが、先ほどの失態は事実なのだから言い返して変なボロは出したかった。苛立った心を誤魔化すために雪男は燐に問いかける。
「兄さんに言われたくないけどいいよ。それより今日のご飯なに?」
「ああ。もうそろそろ夕飯か。」
燐は雪男に来いと言って厨房に向かう。夕飯の準備をしてから自分を呼べばいいのにと雪男は思いながらも兄についていく。途中でまだシャツなりを着ていないことに気がついたが、ここは兄と二人きりの寮だし今は暑い七月下旬頃なので夕飯を食べたあとの風呂のひと手間を抜かしたと思えばいいかと思った。
兄は何故かテーブルに簡易ガスコンロを置いていた。その横には野菜。それと鍋用の魚介類。とりわけ用の小皿。コンロの上に置かれた土鍋は湯気をもうもうと暑い室内に漂わせていた。
「兄さん。我慢大会じゃないんだから。何この鍋?」
「いや。今日は寒いし。」
え? と雪男は燐に詰め寄る。これは異常な事態なのかと雪男は今の状況を分析し始める。夏でも肌寒いと思う日もあるかもしれない。それでも兄が夏場に鍋など作ったためしはない。いきなりの思いつきだとかだとしても唐突すぎる。
よく見れば燐は厚手のトレーナーを着ていて、足元に目をやれば冬場に寒がりの兄が愛用しているふかふかのスリッパを履いていた。
「雪男こそ寒くねえのかよ?」
兄は自分の上半身裸のままの姿を指差して心配そうにしている。
「兄さんこそ暑くないの?」
夢から覚めたと思えばまたもここは尋常じゃない空間なのだろうか。ところが燐の言葉からの情報によって雪男の皮膚感覚にまたも変化が降りかかった。
「へ……へっくしょん!」
見れば自分の腕や胸に鳥肌が立っていた。あれだけ暑いと感じていたのに急に寒さを感じる。何故だと雪男は冷静さを取り落としそうになる。
雪男の頭の中の日付は七月下旬。雪男は食堂を飛び出して自分の部屋に向かう。部屋の窓から見える景色は――。
「雪が降ってる……」
自分は暑い戸外から帰ってきたのではなかったのか。だからその暑さで熱中症になり倒れていたのではなかったのか。
「なんだよ……」
雪男はふらふらと壁に凭れた。ふと横を見るとカレンダーは十二月。すっかり自分は寒さで小刻みに震えて裸の上半身を掻き抱いた。やはり兄の言うように冬だった。
かちゃとドアが開き、兄が入ってくる。
「雪男。」
「兄さん……。今十二月?」
少し震えた声で兄に問いかける。
「そうだよ。何そんなに顔青くしてるんだよ。さみいなら服着ろよ。」
なんでもないように言う兄の声に心がざわめく。
「だって……十二月って言ったら、……」
燐の祓魔師認定試験。
暢気に鍋など突いている場合ではないはずだ。それより何より、何でそんなに頭の中で日付が飛んでしまっているのだろう? 単なる記憶障害か? それともこれはあの夢の続きなのか? 雪男は恐る恐る燐の顔を窺う。
「今、十二月の何週?」
「クリスマスは終わったぜ。もう幾つ寝ればお正月かな。」
「それって……」
雪男の今までの生涯で一番来て欲しくない日が前日か、今日が当日なのか、もう過ぎてしまったのか。それがあやふやで次の兄の言葉に縋りたくなる。
「兄さん。試験、どうだった?」
「ああ。あー……。まあそれなり。」
「それなりって何だよそれ。」
兄の暢気な声が雪男を苛立たせる。気化したガソリンが一瞬で爆発するように、雪男は兄に掴みかかった。
「駄目だったんだろ! 落ちたんだろ! 言わんこっちゃねえ! そりゃあそうだよな。兄さんは筆記で稼げるわけじゃないし。任務でも勝手な行動ばっかりしてたし。多少の結果オーライはあってもとどのつまりは不安要素の塊でしかないしっ。ヴァチカン上層部への根回しはフェレス卿頼みだし。ああもうっ。」
雪男は絶望に打ちひしがれて四つんばいで床を叩く。
「それなのに何暢気に鍋なんかやろうとしてんだよ! 最後の晩餐かよ! 馬鹿? 馬鹿なの? 兄さんは。どうして祓魔師になろうって四月に言い出したんだよ。神父さんに渡された鍵の行き先で隠遁生活してたほうが、よっぽど平穏で、安全で、長生き出来たようなもんなのに。」
燐は四つんばいの雪男に手を差し伸べようとする。雪男はその手首を力いっぱいつかんで燐を引き倒した。
「いってぇ……。」
雪男に押し倒されて燐は苦々しく笑っていた。
「隠遁生活なんかしてたら、お前とは一緒にいられなかったかもしれないじゃないか。この八ヶ月間。」
「八ヶ月って……。僕の記憶は夏休みに入ってのところで止まってるんだよ。覚えてないんだよ!」
燐は雪男の怒り狂った言葉に言い返すことなく穏やかに受け止めた。
「俺は覚えてる。お前はだんだんとイライラすることが増えて、喧嘩したり言い争うことも多くなっていったさ。俺は勉強も修行もお前から見れば不十分の準備不足な状態だった。それでも、出たとこ勝負でなんとかなると俺はお前に大口を叩いた。そうだよ。俺は死んでもともとだと思って、死ぬことを前提にお前の言うことを聞かずに、試験で受かろうと努力してこなかった。そういうことだよな?」
兄にしてはしおらしい言葉だった。
「死ぬかもしれないから、もう九割がた死ぬことが確定していたから。俺はお前の言うことも聞かずに任務でも出しゃばってやりたい放題だった。なあ、雪男。中学までの俺は誰にも認められない一人きりだったから、悪魔を倒して皆を守れる青い炎の力に溺れていたようにお前には見えたんだろうな。」
兄は手を伸ばして雪男の頬に触れる。まだかみ締めた口元が引きつっていた。それを解かそうとでもするように兄の手が雪男の頬を滑る。
「そうだよ。兄さんは自己満足の自己中野郎だよ。」
「そうだよな。どうせ死ぬんだったら出来ることは全部して死にたいと、思わなかったとは言わない。お前の気持ちも知らずに。俺は目先の希望に浮かれてたんだ。」
燐は泣き笑いだった。今更自分の愚かさを知ったところで、弟の本音を聞いたところで今までの過去はどうにもならない。
「俺はお前に嫌われて、いや、見捨てられても可笑しくない兄ちゃんで」
「またそういう自己満足な結論を出す!」
そんなことを言いながら、ただ単に燐が自分の思い通りにならなかったことに腹を立て続けた自分のことも雪男は分かっていた。
「死んだら全部終わりなの? そうじゃないだろっ。兄さんが死にたくないなら僕だって兄さんのために動くよ。」
「それって、お前が今まで頑張ってきたことを全部駄目にしちゃいかねないだろ? お前の居場所をなくしちゃうかもしれなかっただろ。」
「だから時間が欲しかったんだよ。半年が駄目なら一年に。」
燐は先ほどの穏やかさとは裏腹の表情を見せた。
「雪男。それって……」
燐に肩をを掴まれて雪男は押し黙る。燐の顔から少し血の気が引いていた。雪男はそんな燐に告げる。
「なんでもない。」
「なんでもないこと、ないだろ。お前は賢いけどメフィストみたいなズルが出来るやつじゃない。」
「それは分かってる。出来なかった結果が今、なんだから。」
現在十二月四週目。雪男はその日付を恨んだ。夏を過ぎたころから雪男は頭の中から日々の日付を消し去りたくて仕方なかった。日本という土地でひしひしと感じる季節の移り変わりでさえも呪った。
雪男は燐の頬に触れて額をくっつけ合う。燐の表情はまたも穏やかになった。
「雪男。俺は最後にお前に謝りたかったのかもしれない。決定的な結果が出る前に。」
「え? まだ試験受けてないの?」
雪男は驚きながらも嬉しさが隠せないように安堵の溜息をついた。
「弟のお前が大変なことになってるからな。試験はその後だ。」
「僕がどう大変だって?」
そう言いながら雪男は自分に降りかかった奇妙な体験を思い出す。
「もしかして、僕が今は夏だって思い込んでたことと関係ある?」
「雪男。お前は今、ある悪魔の魔障に罹ってる。それでお前は夢の中っていうのかな、そういう所に閉じ込められている。」
燐は誰かからの受け売りの言葉をそのままトレースしたかのように雪男に説明を始めた。
「お前が閉じ込められたのはお前の精神世界ってやつかな。そこに入り込めたのが志摩としえみ、それに俺だ。お前に魔障をかけた悪魔を日本本部の祓魔師たちが捕獲して、その力をお前を現実世界にサルベージする為に遣っている。魔法円やら詠唱やら医工騎士の処置とか俺にはよく分からないけど、そんなシステムを利用して入り込めた人間がある程度自由に動けるように設定されてる。その手助けでなんとかお前の夢の中に俺が入り込めた。どうやらあまり真っ当な神経の人間は他人の夢の中には入れないらしいんだ。だから、勝呂や子猫丸は表層で弾かれた。結局入り込めたのは俺たち三人だけだったんだ。」
雪男は頭を抱えて声を出して笑っている。
「は、ははは……。それならそうだと言ってよ。兄さんの説明の割には分かりやすいほうだったし。色々と合点がいくよ。今までの夢中夢もどきの世界が。」
「す、すまん。」
「志摩君もキスさせろとか、しえみさんだって水着で色仕掛けなんて、わけわかんないことしなくたって良かったんだ。そんなことしなくたって、僕は……いや、意外と意固地になって夢の中に立て篭もったかもしれないな。」
雪男は燐に聞こえないように「僕も大概困った弟だな」と呟いて立ち上がる。
「兄さん。帰ろうか。」
「雪男。その前に、」
燐は雪男の後を追うように立ち上がると雪男の前に立つ。
「説明し忘れたんだけど、現実世界に戻る手続きでお前にしなきゃいけないことがあるんだ。」
「それって……えーと……。」
今までの体験から雪男はそれが予測出来た。
「兄さんにだったら、いいよ。」
燐は背伸びをして雪男の唇にキスをした。
中編につづく
「姦淫することがそんなにあかんこと、なんかなあ? 先生。」
「良くないこととは言わないよ。ただそればかりに気を取られる姿が醜いから、僕個人の意見を言うなら自重するべきだとは思う。」
志摩に取り上げていたエロ本を手渡しながら雪男は眉をしかめている。
「ほんでも。なんか嫌なことがあった時なんか手っ取り早いんやけどな。発散するのに。」
雪男は背中を向けている。志摩は無視を決め込もうとする雪男にさらに問いかける。
「先生もいろいろあるんやないの? 嫌なこと。」
「気を取られてる暇はないよ。」
志摩は肩を竦めた。指導する教師の物言いとは、なんだか違うように感じる。大人のイメージするような健全な学生になるよう説得されている気がしない。
志摩は腕組をしながら手探り感溢れる結論を口にした。
「ああ。分かった。要は節操さえ守ればええ言うことやろ? 授業中に余計なこと考えるなとか、塾内で問題になるような人間関係はやめとけとかいうことやろ。そういうことですよね? せんせ。」
「概ねそういうことです。それに底触しないのなら、僕は君の性欲をどうのこうの言う権限はありませんから。」
志摩はにやっと笑う。
「え? なんかおもろいこと聞こえたわ。性欲やて?」
雪男は振り向いて志摩のほうに一歩踏み込んだ。
性欲とか、普段は雪男の口から絶対に聞けないような言葉を聞けて志摩はにやにや笑いが止まらなくなっていた。
志摩とその手の話をこっそりとしている時に、興味津々になりがらも恥らう燐も可愛いが、顔色一つ変えず性欲と口にする雪男にもそそられてしまう。
「授業も終わってることやし、先生も先生ちゅーことを忘れて俺とエロ話せえへん? 折角同級生同士やし、そうですよね。若先生。」
「そう思うなら、そのわざとらしい取ってつけたような敬語はやめてくれないかな?」
冗談とも本気ともつかない誘い方だと志摩自身も思った。取り上げられたエロ本にしたって、カバンの中にテキストと一緒に入れていたのを、ちょうど横を通った雪男に見咎められて取り上げられてしまった。
別に授業中に堂々と開いていたわけじゃない。なけなしの皮肉で先生のお兄さんに貸してやるつもりだったと小声で言ったときに、なんともいえない羞恥の表情を浮かべたあと、まるで敵視するような視線を向けられた。
あれは潔癖な雪男が浮かべる表情としては相応しかったと思う。それとは反対の今のように平然と性欲と言い切ってしまうところにも、ぞくぞくするような震えが走るのは何故だろうか。
「エロ話ねえ……」
雪男は志摩が座っている机に長い足を見せ付けるように腰掛けて、志摩を見下すように見下ろしている。長い足を蓮っ葉に組んで溜息をついた。
「君は普段の僕の教師面がよっぽど気に障るみたいだね。」
「いやぁ。誤解されるようなこと言って、すみません。僕は別に先生に悪意を持っとるわけやあらへんけど。先生みたいな御仁、滅多に御目にかかれへんやろ。普通の男子高生の一般人やったらなあ。しかも同い年やから、ちょっと欲が出てもうたんです。そのきっちり着込んだ服の下、どんなこと考えとんかな? って。」
雪男は鼻で笑うように志摩を嘲笑う。その笑いさえもえげつないくらいに品のある笑みだった。
「先生やったら、脱いでもエロやのうて芸術になるんやろうな。じっくり鑑賞したいわあ。」
コートを着ているシルエットからして綺麗だった。それが志摩の率直な感想だった。
「黒子標本みたいな?」
雪男はわざと的外れな形容を選んだようだ。
「数えてみるんも面白そうやな。」
志摩はそれを否定せずに雪男のきっちりと詰まった襟元の隙間に目をやる。
「君から見て左側、襟で隠れたところの首筋にひとつ。あとは鎖骨から下に集中してますね。」
ほおと志摩は声に出しながら襟の隙間を覗き込む。しかしそれ以上は襟を指で引っ張らないと見えないらしく、志摩は好奇心にまかせて指を伸ばした。
ここは何の変哲もない夕暮れの教室だった。窓のない祓魔塾では夕暮れもくそもないのだが、放課後から塾は始まるので、否応無く塾の中で過ごすのは夕暮れ時から夜にかけての時間だと決まっている。そしてその中に漂う空気も昼間の埃っぽさが少し落ち着いて湿っぽく感じるようだった。一方からの光が照らして作る影もトーンが薄くなっていた。窓のない蛍光灯だよりの灯りでも、志摩はそういうふうに感じていた。
志摩は今時の若い男の典型で昼間よりはこんな時間帯のほうが却って高揚している。彼をそうさせるのは高揚感というよりは開放感なのかもしれない。浮かれた脳が軽口を叩き続けている。いつのまにか雪男のコートやシャツのボタンが外されていた。
「ほんまや。あったわ首に。」
指で突かれてそのあといつも鏡で確認していたその場所を撫でられた。雪男は怪訝そうな顔をしながら思わず身体を少し逸らした。二番目まで外されていたボタンがもう一つ外されると同時に背中が志摩の手で支えられた。
「そんなとこで身体逸らしてもうたら危ないやろ。」
志摩は今の積極的な自分の行動につられるように、椅子から腰を浮かせて雪男を見据えていた。雪男は自分が座っていた場所を省みる。背もたれもない机ではさっきの反射的な動きは、志摩が言ったように危ないようだ。
「せんせ。俺によっかかってええよ。」
雪男は黙ってわずかに志摩にもたれかかる。志摩の首に手を回した。雪男に抱えられるような形にも見える志摩は、ほっとしたように口から息を吐いた。
「どうしたんですか志摩君? 僕に突っかかってた癖に、実は緊張していたんですか?」
「え。いや……。」
歯切れが悪い。雪男はくすくすと笑って自分の胸元を志摩の顔に押し付ける。
「女の子好きな君には物足りないでしょうけど。」
「いや。そんなことない。先生はあまり男臭くあらへんし、肌も綺麗やし、黒子は……エロいし。」
雪男が志摩にわざと晒した隙に入り込むかどうか、志摩は躊躇していたのだろうが、元から堪え性のない男は温い考えに従って踏み込んだ。
「駄目ですね。僕は標本なんでしょう? そんな目で見ないで、よく観察したらどうですか。」
「標本ネタ。まだ有効なことになっとるんですね。」
志摩の手は雪男の四番目のボタンに触れていた。これを外せば胸元は完全に露になる。それはまるで、やっと雪男が心を開いてくれたことを、目に見える形で見せてくれているように志摩は感じた。
志摩は「よし」と心の中で気合を入れて雪男の顔を直視する。
「先生。この先は何が起こっても何でも了承してくれるんやろ?」
「君は何か起こす気満々だろうけど。」
ボタンに手を掛けている志摩の手に雪男は手を重ねる。そしてそのまま雪男は力を込めて志摩の身体を押した。
「ちょっ……せんせっ。」
きょとんとした顔のまま、志摩は長椅子ごとうわっという大袈裟な声と共に後ろに倒れこむ。志摩の体重を受け止めた板敷きの床が、これまたぼこっと大袈裟に陥没し志摩が倒れ込んだ形にくり貫かれた。それはまるで劇画に出てくるような破壊表現だった。
慌てて体勢を整えようとした志摩が動くたび、その陥没した部分から床に亀裂が走り、段々と教室中にそれが広がっていく。床に配置されていた長椅子や長机や教壇も、その亀裂に飲み込まれていく。雪男が座っていた机の周辺を除いて、大掛かりな災害や物理的な力で破壊が進んでいくような様を雪男はぼんやりと眺めていた。
「な、なんやっ。」
志摩はアリジゴクの巣のアリジゴクそのもののように、すり鉢状の穴の一番深くに追いやられた。
「せんせ! 別に俺はあんたに疚しいこと考えとったわけやないんや! ほら、ようあるやろ?」
「何がよくある話ですか。」
志摩の頭上にはアリジゴクに飲まれるアリのように、机や椅子が雪崩れ込んでいこうとする。教室にある塾生の人数の割には多すぎる、一クラス分のそれらが志摩に降り注げば、志摩が無事で済むわけがない。
しかしどんな加減なのか、机や椅子は志摩を押しつぶすことなく志摩よりさらに下の空間に吸い込まれていくだけで、志摩のところにだけ特殊な足場があるように、志摩はすり鉢状の穴の底から雪男に呼びかけていた。
「なあ先生! こんな漫画みたいな拒絶せんで欲しいわあ。」
「不条理系だとしたら君は机や椅子に潰されてジ・エンドってオチですよ。でもそうならないように何かタネがあるみたいですね。」
「潰す気やったんですか……。ああ。やっぱり保険かけといて良かったわ。」
「保険?」
「俺自身がそれやったわけやないですけど。応援というか協賛というか援護というか。」
雪男はふむと頷いて志摩を見下ろしていた。
さっき自分の肌に触れてきた志摩の指先は、あの気安い割にはねちっこい言葉の数々とは裏腹に乾いて冷たかった。雪男に対して何かしらの恐れなりがあったことは窺い知れる。その癖、志摩の目的は自分に対して性的な行為を遂行することだったようだ。いや、別の目的があって、それに性行為がくっついてきたというほうが正しいのかもしれない。
そして今の自分を取り巻く状況。自分が志摩を拒絶した瞬間、志摩を中心に空間が崩壊した。それなのに自分はあまり動じてない。どうやら志摩を拒絶したのは自分の取るべき行動として正解だったらしい。
志摩は足場を確保するように再び雪男に近づくべく穴を登ろうとする。この空間には少しは志摩の意思も働くのか、崩れ行く床を一歩ずつ上っていくことが可能らしかった。
その光景に雪男は眉を顰めた。
「危険に対する保険にしてはサービスが行き届きすぎでしょ。」
「保険っていうか、サポートや。俺の自前の力だけじゃどうにもならんから。」
「第三者の力が働いているんですね。誰の能力かは知りませんが。」
「先生。そんなことより、せめてキスくらいええやろ!」
ついに志摩はすり鉢状の壁を登ってもとの高さまで戻って、息切れを起こしながら対峙した雪男に叫んだ。
雪男は少したじろいで恥らって、「無理」と口走った。
「なんでや! これは必要なことなんや! 先生の為なんや!」
「僕の為って言ってくれるのは、嬉しくないわけじゃないんだけど……」
「俺、ええかげんな奴やけど、ちゃんと責任は取るし。やり逃げなんかせえへんから。」
雪男は服のボタンを全部丁寧にしめて机から降りる。
「ごめん。僕は君をそういうふうに見れないんだ。」
「遊びでもええんや先生ぇ。ちょっと今だけでも気持ちようなろ? 俺テクには自信あるから!」
志摩の叫びは支離滅裂になってきていた。雪男はそれに苦笑いを浮かべている。
「遊びでも、駄目。せめて相手が勝呂君あたりだったら、もう少しだけ考えたかもしれないけど。」
「どういうことや?」
勝呂竜士になら、雪男は志摩がやろうとすることを許してやろうと言う。勝呂になら手を出されても良いなんて、どんな論理の産物なんだろうと志摩はひたすら頭を捻った。
あの真面目な、自分を含め皆の愛する明陀の坊が、雪男の隠れた意中の相手なのだろうか。そんな素振りは一つもなかっただろうし、単純に志摩よりはマシという意味でしかないのだろうか。
「勝呂君だったら、そういう関係になれば僕にとって、彼の弱みを握れるんじゃないかと。どうせ弱みを握るなら、君より彼のほうがお得だし。」
「なんや。それは要するに打算なんか。」
志摩はふらっと倒れそうになった。
「坊。坊か……。先生がお望みならそうしたいのはヤマヤマなんやけど。坊は、坊は最初っから弾かれとんや。この空間。いや、世界から。」
今、雪男が置かれている尋常じゃない空間に入り込める人物には、何らかの限定条件があるらしい。勝呂竜士は残念ながら雪男個人の条件は満たせても、雪男を取り巻く世界の条件は満たせなかったようだ。
「もう一回言うけど、これは先生のためなんや。」
雪男は目を瞑って迷っている振りをする。志摩のために逡巡する素振りを見せたあと、最初から決めていた回答を志摩に突きつける。
「駄目。」
「先生。本当に好きや。今だけでもええから、俺を見て! キスさせてえ!」
「それは全部嘘だろ。」
雪男は今度は両手で思いっきり志摩の身体を押す。
「あ……」
志摩の雪男への言葉は嘘と言えば全て嘘なのかもしれない。それでも嘘を吐き通してでも目的は遂行したかった。
それでも雪男が好きという言葉そのものは半ば嘘でしかないのだから、志摩に掛かった保険の効力が揺らいでしまったのだ。彼は嘘が得意と吹聴するところがあったが、嘘を本当だと言い張れない程度には正直者だった。彼の中のわずかな正直者が仇になった。そして一つの言葉が零れ落ちた。
「すんまへん。」
それは普段の嘘吐きな彼が言ったのか、それとも人見知りな隠れた正直者な彼が言ったのか、それは雪男にはどうでもいいことだった。彼に対して関心など一つもなかったからだ。
志摩は後ろ向きのまま涙の玉をキラキラと宙に浮かせながら再び穴の底に叩き落され、徐々に姿を消していった。雪男は天井を見上げる。天井も四方の壁も原型を留めていない。パラパラと残骸が音を立てて落ちてきていた。
「あーあ……」
雪男が疲労とも安堵ともつかない溜息をつく。
結局、志摩が雪男に触れたのは指一本だけ。乾いて冷たかった指先。雪男が受け入れ可能な人間以外を排除する空間。そんな場所で恐怖に震えながらもエロ紳士を演じようとしたのだから、雪男は皮肉交じりにも志摩に乾いた拍手を送りたくなった。彼の年齢や経験からすればなかなかのものだった。
だから雪男はぱちぱちと退場した役者に拍手を送った。
そのときだった。
後ろで破裂音と共にどんと一際大きく何かが崩れた音がする。空間がその音源の力に耐え切れず衝撃と風を巻き起こした。一瞬のうちにそれらは雪男を前方に転ばせた。
起き上がって振り向くと壁があったところから明るい太陽の光が差していた。
雪男は警戒しながらそこに歩いていくと、そこはどこかの外国のリゾート地の海辺のようだった。
リゾート地の海辺のようだが、雪男以外に誰もいない。ツアーの集団も現地の住民も、新婚旅行らしいカップルも、リゾート地にいるはずの人間の気配がない。しかしあつらえたような白い砂浜とエメラルド色の海が眼前には広がっており、砂浜と陸続きのあちらこちらに綺麗な花やら南国植物が風に揺れていた。エメラルド色の海の沖ではこれまた銀色の魚が飛び跳ねている。そんなところがこの地上にはあるとは聞いていたが、終生見ることは無いと雪男は思っていた楽園とも呼べる場所に雪男はいた。
そんな別天地の風景の中に一人の少女が雪男に向かって手を振っていた。
「ゆっきちゃーん!」
雪男は面食らった。それはかつて任務先の熱海で見た水着を着たしえみの姿だった。白いフリルをあしらったスカートのようなデザイン。緩いポニーテールのような髪型。それ以上に眩し過ぎて直視出来ないような、窮屈な水着から零れてしまいそうな魅惑的な胸が一歩走るごとに揺れている。
「至れり尽くせりだな。」
任務じゃない。見知った人間というギャラリーもいない。熱海以上の素敵な海の風景。それを凝縮したような目の前の少女・しえみ。
「しえみさん。ここは?」
「ここは南の国の島なんだよ。」
「見たまんまですね。」
さっきの空間とうって変わった開放感溢れる眩しい空間だった。雪男はそれを意識した途端、太陽の紫外線と熱された気温に眩暈を起こした。
「雪ちゃん。」
しえみが駆け寄って雪男を支える。柔らかな肌が雪男に押し付けられる。黒く分厚いコート越しに。雪男の姿はここでは場違いそのもので、この場で倒れてしまっても可笑しくない。
「日陰に行きましょうか。」
雪男はよろよろとしえみに支えられながら椰子の木陰に向かう。木を背もたれ替わりに額や背中を伝う汗を気持ち悪いと感じながら座った。
「雪ちゃん。暑いの? 暑いんだったら、コート脱いだほうがよくない?」
「そうですね。コートだけでも脱がさせて貰いましょうか。」
雪男はごそごそとコートを脱ぐ。しかし海とはいえ砂浜なのでまだ暑さを感じてしまう。
「雪ちゃん。ぱっと脱いじゃおうよ。」
しえみはどこから取り出したのか、ガラスに水滴が滴る、見るからに冷たい飲み物を片手に持っていた。「これを飲んで」と真っ先に言わないところが、なんとなく誘導されているように雪男は感じた。しかしそれにツッコミを入れる余裕は暑さでなくしていた。
「しえみさん。それ美味しそうですね。冷たそうだし。一口貰えませんか?」
しえみはグラスを差し出す。ただし雪男には手渡さない。雪男の口に直接傾けて飲ませていた。
「美味しい? 雪ちゃん。」
「美味しいです。」
「よかった……。じゃあもう一口。……あ。」
しえみはガラスに浮かんだ水滴で手を滑らせたのか、グラスの中の飲み物を雪男のシャツの上に零してしまった。呆然としている雪男を尻目に、しえみはグラスを砂浜に投げ出すと雪男のシャツに手を掛けた。
「あーあ。濡れちゃった。早く脱がさないと駄目だよね。うん。あ……ズボンにも掛かってるし。どうせなら全部脱いじゃおうね。雪ちゃん。」
「え? ちょ……ちょっと待ってください。」
躊躇する間も無くしえみは雪男のシャツに手をかけ、志摩がしたように服のボタンを外し始めた。しかもそのスピードは志摩より断然速かった。
「しえみさん。以前洋服の着付けが分からないと神木さんに尋ねに行くほどだったのに、脱がせるのは異様に速いじゃないですか。」
しえみはきょとんと首を傾げた。
「私だって洋服着るの慣れてきたし。そこまでおかしいことじゃないんじゃない? あ。シャツは私が洗濯しておくから。」
それもそうかなと雪男は前かがみになったしえみを無意識に凝視してしまう。失礼だし良くないことだと叱咤したくなるくらいに、しえみの胸元に視線が向かってしまう。
「雪ちゃん?」
雪男は自分の疚しい視線が悟られたと思って気まずさに首を真横に向けた。
しえみはシャツを雪男の上半身からはがし、にっこりと笑って、次に雪男のスラックスのベルトに手を掛けた。
「しえみさんはそれはっ。」
流石に視線を外したままではいられなくなって雪男は、しえみの両肩を掴み自分から引き剥がす。雪男はしえみに向かってしえみの指先を拒否するように首を振る。しかしそんな雪男にしえみも首を振って応戦するかのようだった。
「駄目だよ。雪ちゃん。ズボンも濡れたって言ったじゃん。」
「いや。僕はしえみさんと違って水着もないですし。男が……いや、屋外で下着姿というのは」
「雪ちゃん。ここは南の島だから、下着どころか男の子が裸になったってなんら可笑しくないよ。」
「しえみさん。ここはヌーディストビーチなんですか?」
しえみは考え込んだあと、そうだよと元気よく告げた。
「そうだよ。ここは裸で良かったんだよ。私、こういうとこ初めてだから、……最初だけだからと思って。水着うっかり着っぱなしだったんだ。」
しえみは水着の肩紐をゆっくりずらし始める。堂々としている素振りの割には顔は高熱が出たように紅潮していた。
「て、いうか。ここ……雪ちゃんと私しかいない、島なんだよ。だから……。」
しえみは水着のブラを放り投げる。しえみの胸を隠すものは、しえみ自身の小さな手の平しかなかった。もちろん隠すのには不十分すぎて、しえみの手の平で柔らかな胸の形が歪む。
燦燦と太陽が降り注ぐ風景とは不釣りあいな姿だった。
「えっと……」
雪男は無性にしえみを含めた誰とも知らない各方面に謝りたくなった。大人しい性格のしえみに、ここまでさせてしまった自分が罪深い。
「雪ちゃん。仲良し、しよ。」
「それってどういう意味でしょう?」
引きつった言葉が口から出る。
「んと……、雪ちゃんは先生だから、私に教えて欲しいの。友達同士の仲良しより、もっと仲良くなれること。それって、エッチなことをすればいいんだよね?」
雪男は熱中症とは別にくらくらした。しえみにも性的な要求をされるなんて、この世界はいったい何を雪男に成せというのだろうか。可憐で自分の衝動を抑えきれなくなるような相手を目の前に雪男は、志摩を相手にしている時より追い詰められていた。しえみはまさに雪男の虚を突く刺客だった。
「しえみさん。それは誰から教えて貰ったんですか?」
「誰からってわけじゃないよ。ていうか、そんなの常識だよ。」
しえみは、このごろは各方面に勉強熱心なようだが、教材を間違えているように雪男は思った。しえみの言う常識はマスコミが実しやかに撒き散らしているもので、誰にでも当てはまる真理というものからは遠すぎる。
いや。それは違うかもしれない。たぶんしえみのことだから、世間に氾濫している情報からそんなことを考えているわけではないだろう。
しえみの住居を取り巻く環境は、木立や草木に住み着いている小動物や虫達が自然の営みのように交合していても可笑しくない。それを見つけたしえみに、あの母や祖母が「仲良くしているんだよ。」と微笑ましく言葉を濁していたに違いない。
「雪ちゃんともっと仲良ししたい。」
雪男としては不思議ちゃんの内面のカラクリが分かれば、しえみに淫靡さと気まずさを感じる場所をシャットアウトするのはそれほど難しいことではなかった。
「仲良く、ですか。」
雪男はしえみの髪に手を伸ばして、その金色の糸をさらさらと指で掬う。しえみは胸を隠したまま気持ち良さそうに目を瞑っていた。雪男はしえみに顔を近づける。
「……。どうしよ。」
志摩はキスさせろと、やけに迫っていた。もしこの空間が志摩といた場所と似た空間だとしたら、ここでしえみを突き放せば空間もろともしえみが消滅してしまう。しかも志摩といた空間の崩壊具合からして、海辺という環境で考えられる崩壊の様相は悲惨なものだと予測出来た。荒れ狂った海がしえみを攫う。糸を引く悲鳴が想像の中で木霊する。
『しえみさんの身の安全のためにも、しえみさんの要求を叶えるしかないのかな?』
不自然なまでの積極性を見せているから、このしえみは偽者だと思い込む思考も有りかもしれない。ところが雪男は何故かこのしえみを、第三者が、例えば悪魔か何かが作り出したまやかしとは思えない。明らかに悪魔が使いそうな戦術そのままのシチュエーションなのに。
「雪ちゃん……」
しえみの唇が自分の名を吐き出す。
雪男はしえみの要求に精神が先に屈した。雪男はしえみの両手首を取り、その白い胸を露にして押し倒した。
「しえみさん……。ずっと好きでした。」
「私もだよ。雪ちゃん。」
屈託ない笑みに雪男は泣きたくなった。雪男の緩んだ拘束からしえみの手が逃れて雪男の頭を撫でる。
「しえみさん……。いいんですか?」
「雪ちゃん……。いいよぉ。」
雪男の上半身はしえみの胸に倒れこんだ。しえみは赤ん坊をあやすように、両腕と胸で雪男の頭を包み込む。
『あ。こりゃやばいかも。』
雪男は誰かの呟きにはっとなって周囲を窺うために上半身を起こした。
そこは太陽が燦燦と降り注ぐ海辺ではなくて、正十字学園旧男子寮六○二号室室内だった。
再び視線を落としたら、そこにはしえみの裸体はなく、くしゃくしゃに丸められたコートとシャツと、ガラスコップが散乱していた。
「あれ?」
上半身裸の自分。汗でべとついて気持ちが悪い。汗のべとつきと匂いとは異なる甘い匂いもする。散乱していたのは服やコップだけではなくコップに注いだジュースも撒き散らしてしまったようだ。窓の外は緑を誇る木々が夏の日差しを浴びて二酸化炭素と酸素の交換に勤しんでいた。
「ひょっとして夢だったのかな?」
暑い戸外から帰ってきて、ジュースに飲もうとコップに注いで、ジュースを飲みながら服を脱いでいたら、熱中症ぎみになっていた身体が限界を超えて倒れてしまった。そんな状況がありありと推測出来た。
しかしながら、これは兄がやらかしそうな失敗のような気がしてならない。雪男自身がそんな失敗をしようとするだろうかと、自分が自分に首を捻らざるをえない。
しかし夢で納得してしまうほうが一番無難な思考だった。やけに性的な内容だったのは、最近マスターベーションをしていなかったし、志摩にセクハラまがいのことをつい最近言われたからだろう。あのタイプは雪男ような固そうな人間に対して性的な言動を取りそれを自分の性的な興奮に置き換える人種だと常日頃から雪男は認識していた。
「片付けなきゃ。」
納得したなら次は証拠隠滅だった。服はジュースで汚れていた。それをまず洗濯場に持っていく。洗濯機を起動させたついでに洗濯場の用具入れから雑巾とバケツを借りてきて床を掃除する。掃除が終われば再び掃除道具を洗濯場に持っていき片付ける。洗濯機はまだ止まっていなかった。ふと鏡を見て自分が上半身裸なことを思い出す。
「服着なきゃ。」
雪男はそそくさと部屋に帰ると、兄の燐がいた。
「雪男。って、なんで半裸?」
「汗かいて着ていたものを洗濯しに行ったら、着替えの服持って行くの忘れた。」
「あーあ。お前は俺がいなきゃ駄目だな。」
雪男はそれにむっと蛇のような怒りが鎌首をもたげる。兄に噛み付いてやりたいが、先ほどの失態は事実なのだから言い返して変なボロは出したかった。苛立った心を誤魔化すために雪男は燐に問いかける。
「兄さんに言われたくないけどいいよ。それより今日のご飯なに?」
「ああ。もうそろそろ夕飯か。」
燐は雪男に来いと言って厨房に向かう。夕飯の準備をしてから自分を呼べばいいのにと雪男は思いながらも兄についていく。途中でまだシャツなりを着ていないことに気がついたが、ここは兄と二人きりの寮だし今は暑い七月下旬頃なので夕飯を食べたあとの風呂のひと手間を抜かしたと思えばいいかと思った。
兄は何故かテーブルに簡易ガスコンロを置いていた。その横には野菜。それと鍋用の魚介類。とりわけ用の小皿。コンロの上に置かれた土鍋は湯気をもうもうと暑い室内に漂わせていた。
「兄さん。我慢大会じゃないんだから。何この鍋?」
「いや。今日は寒いし。」
え? と雪男は燐に詰め寄る。これは異常な事態なのかと雪男は今の状況を分析し始める。夏でも肌寒いと思う日もあるかもしれない。それでも兄が夏場に鍋など作ったためしはない。いきなりの思いつきだとかだとしても唐突すぎる。
よく見れば燐は厚手のトレーナーを着ていて、足元に目をやれば冬場に寒がりの兄が愛用しているふかふかのスリッパを履いていた。
「雪男こそ寒くねえのかよ?」
兄は自分の上半身裸のままの姿を指差して心配そうにしている。
「兄さんこそ暑くないの?」
夢から覚めたと思えばまたもここは尋常じゃない空間なのだろうか。ところが燐の言葉からの情報によって雪男の皮膚感覚にまたも変化が降りかかった。
「へ……へっくしょん!」
見れば自分の腕や胸に鳥肌が立っていた。あれだけ暑いと感じていたのに急に寒さを感じる。何故だと雪男は冷静さを取り落としそうになる。
雪男の頭の中の日付は七月下旬。雪男は食堂を飛び出して自分の部屋に向かう。部屋の窓から見える景色は――。
「雪が降ってる……」
自分は暑い戸外から帰ってきたのではなかったのか。だからその暑さで熱中症になり倒れていたのではなかったのか。
「なんだよ……」
雪男はふらふらと壁に凭れた。ふと横を見るとカレンダーは十二月。すっかり自分は寒さで小刻みに震えて裸の上半身を掻き抱いた。やはり兄の言うように冬だった。
かちゃとドアが開き、兄が入ってくる。
「雪男。」
「兄さん……。今十二月?」
少し震えた声で兄に問いかける。
「そうだよ。何そんなに顔青くしてるんだよ。さみいなら服着ろよ。」
なんでもないように言う兄の声に心がざわめく。
「だって……十二月って言ったら、……」
燐の祓魔師認定試験。
暢気に鍋など突いている場合ではないはずだ。それより何より、何でそんなに頭の中で日付が飛んでしまっているのだろう? 単なる記憶障害か? それともこれはあの夢の続きなのか? 雪男は恐る恐る燐の顔を窺う。
「今、十二月の何週?」
「クリスマスは終わったぜ。もう幾つ寝ればお正月かな。」
「それって……」
雪男の今までの生涯で一番来て欲しくない日が前日か、今日が当日なのか、もう過ぎてしまったのか。それがあやふやで次の兄の言葉に縋りたくなる。
「兄さん。試験、どうだった?」
「ああ。あー……。まあそれなり。」
「それなりって何だよそれ。」
兄の暢気な声が雪男を苛立たせる。気化したガソリンが一瞬で爆発するように、雪男は兄に掴みかかった。
「駄目だったんだろ! 落ちたんだろ! 言わんこっちゃねえ! そりゃあそうだよな。兄さんは筆記で稼げるわけじゃないし。任務でも勝手な行動ばっかりしてたし。多少の結果オーライはあってもとどのつまりは不安要素の塊でしかないしっ。ヴァチカン上層部への根回しはフェレス卿頼みだし。ああもうっ。」
雪男は絶望に打ちひしがれて四つんばいで床を叩く。
「それなのに何暢気に鍋なんかやろうとしてんだよ! 最後の晩餐かよ! 馬鹿? 馬鹿なの? 兄さんは。どうして祓魔師になろうって四月に言い出したんだよ。神父さんに渡された鍵の行き先で隠遁生活してたほうが、よっぽど平穏で、安全で、長生き出来たようなもんなのに。」
燐は四つんばいの雪男に手を差し伸べようとする。雪男はその手首を力いっぱいつかんで燐を引き倒した。
「いってぇ……。」
雪男に押し倒されて燐は苦々しく笑っていた。
「隠遁生活なんかしてたら、お前とは一緒にいられなかったかもしれないじゃないか。この八ヶ月間。」
「八ヶ月って……。僕の記憶は夏休みに入ってのところで止まってるんだよ。覚えてないんだよ!」
燐は雪男の怒り狂った言葉に言い返すことなく穏やかに受け止めた。
「俺は覚えてる。お前はだんだんとイライラすることが増えて、喧嘩したり言い争うことも多くなっていったさ。俺は勉強も修行もお前から見れば不十分の準備不足な状態だった。それでも、出たとこ勝負でなんとかなると俺はお前に大口を叩いた。そうだよ。俺は死んでもともとだと思って、死ぬことを前提にお前の言うことを聞かずに、試験で受かろうと努力してこなかった。そういうことだよな?」
兄にしてはしおらしい言葉だった。
「死ぬかもしれないから、もう九割がた死ぬことが確定していたから。俺はお前の言うことも聞かずに任務でも出しゃばってやりたい放題だった。なあ、雪男。中学までの俺は誰にも認められない一人きりだったから、悪魔を倒して皆を守れる青い炎の力に溺れていたようにお前には見えたんだろうな。」
兄は手を伸ばして雪男の頬に触れる。まだかみ締めた口元が引きつっていた。それを解かそうとでもするように兄の手が雪男の頬を滑る。
「そうだよ。兄さんは自己満足の自己中野郎だよ。」
「そうだよな。どうせ死ぬんだったら出来ることは全部して死にたいと、思わなかったとは言わない。お前の気持ちも知らずに。俺は目先の希望に浮かれてたんだ。」
燐は泣き笑いだった。今更自分の愚かさを知ったところで、弟の本音を聞いたところで今までの過去はどうにもならない。
「俺はお前に嫌われて、いや、見捨てられても可笑しくない兄ちゃんで」
「またそういう自己満足な結論を出す!」
そんなことを言いながら、ただ単に燐が自分の思い通りにならなかったことに腹を立て続けた自分のことも雪男は分かっていた。
「死んだら全部終わりなの? そうじゃないだろっ。兄さんが死にたくないなら僕だって兄さんのために動くよ。」
「それって、お前が今まで頑張ってきたことを全部駄目にしちゃいかねないだろ? お前の居場所をなくしちゃうかもしれなかっただろ。」
「だから時間が欲しかったんだよ。半年が駄目なら一年に。」
燐は先ほどの穏やかさとは裏腹の表情を見せた。
「雪男。それって……」
燐に肩をを掴まれて雪男は押し黙る。燐の顔から少し血の気が引いていた。雪男はそんな燐に告げる。
「なんでもない。」
「なんでもないこと、ないだろ。お前は賢いけどメフィストみたいなズルが出来るやつじゃない。」
「それは分かってる。出来なかった結果が今、なんだから。」
現在十二月四週目。雪男はその日付を恨んだ。夏を過ぎたころから雪男は頭の中から日々の日付を消し去りたくて仕方なかった。日本という土地でひしひしと感じる季節の移り変わりでさえも呪った。
雪男は燐の頬に触れて額をくっつけ合う。燐の表情はまたも穏やかになった。
「雪男。俺は最後にお前に謝りたかったのかもしれない。決定的な結果が出る前に。」
「え? まだ試験受けてないの?」
雪男は驚きながらも嬉しさが隠せないように安堵の溜息をついた。
「弟のお前が大変なことになってるからな。試験はその後だ。」
「僕がどう大変だって?」
そう言いながら雪男は自分に降りかかった奇妙な体験を思い出す。
「もしかして、僕が今は夏だって思い込んでたことと関係ある?」
「雪男。お前は今、ある悪魔の魔障に罹ってる。それでお前は夢の中っていうのかな、そういう所に閉じ込められている。」
燐は誰かからの受け売りの言葉をそのままトレースしたかのように雪男に説明を始めた。
「お前が閉じ込められたのはお前の精神世界ってやつかな。そこに入り込めたのが志摩としえみ、それに俺だ。お前に魔障をかけた悪魔を日本本部の祓魔師たちが捕獲して、その力をお前を現実世界にサルベージする為に遣っている。魔法円やら詠唱やら医工騎士の処置とか俺にはよく分からないけど、そんなシステムを利用して入り込めた人間がある程度自由に動けるように設定されてる。その手助けでなんとかお前の夢の中に俺が入り込めた。どうやらあまり真っ当な神経の人間は他人の夢の中には入れないらしいんだ。だから、勝呂や子猫丸は表層で弾かれた。結局入り込めたのは俺たち三人だけだったんだ。」
雪男は頭を抱えて声を出して笑っている。
「は、ははは……。それならそうだと言ってよ。兄さんの説明の割には分かりやすいほうだったし。色々と合点がいくよ。今までの夢中夢もどきの世界が。」
「す、すまん。」
「志摩君もキスさせろとか、しえみさんだって水着で色仕掛けなんて、わけわかんないことしなくたって良かったんだ。そんなことしなくたって、僕は……いや、意外と意固地になって夢の中に立て篭もったかもしれないな。」
雪男は燐に聞こえないように「僕も大概困った弟だな」と呟いて立ち上がる。
「兄さん。帰ろうか。」
「雪男。その前に、」
燐は雪男の後を追うように立ち上がると雪男の前に立つ。
「説明し忘れたんだけど、現実世界に戻る手続きでお前にしなきゃいけないことがあるんだ。」
「それって……えーと……。」
今までの体験から雪男はそれが予測出来た。
「兄さんにだったら、いいよ。」
燐は背伸びをして雪男の唇にキスをした。
中編につづく
☆ss「Esperanza after-青と金-」金造&青
志摩家と宝生家の確執。
その実態は、実は世間に囁かれているほど深刻ではなかった。
代々続く当主間のライバル意識が蚊帳の外の他人にそう見せているだけで、代々本家の勝呂家大好き体質は共通だったし、どちらとも甲乙つけがたいナンバーツー争いもその実態を大袈裟に見せていただけだ。余談だが自発的にナンバースリーの位置にいた、三輪家の人数的衰退が抑制力にならなかったせいもある。
つまり平たく言えば、それなりに仲は悪かったかもしれないけれど、基盤は仲間意識があって根本的には仲良しという前提があってこその対立だったと言える。それを実証するように、仏の道を守りながらも戦闘集団である明陀の僧正両家で一代のうちに常に一組共闘関係になる者がいた。親兄弟の思惑さえ飛び越えたように強く結びつく友情があった。
青い夜以降、しかしやはり志摩家と宝生家は対立関係にあるというのが、新しく明陀に関わった正十字騎士団での認識だった。志摩家宝生家、両方の子弟をを預かり教育した正十字学園でも、かの次期当主同士は、その当時の祓魔塾の一番手二番手を常に争っていた。
しかし学園にとって意外だったのは、その次世代というかぶっちゃけ志摩金造と宝生青の奇妙な関係に他ならなかった。
京都出張所には二人体制の夜勤というものがある。青はリュックサックに夜勤の準備を入れてそれを背負っていた。
出張所の夜勤は夏の日が翳りだそうとする十八時から始まる。申し送りがなければ定時までの人間と言葉を交わすことはほとんどない。
「おはようございまーす。」
詰め所に顔を出すとパイプ椅子に背中を丸めて座っていた金造が顔を上げた。
「よお……親友。」
「おう。きたで相棒。」
青はリュックを机の上に下ろして金造の向かい側のパイプ椅子に座った。家で昼寝はしてきたし夜勤の途中で交代で仮眠も取るが、来た早々は手持ち無沙汰になるのはいつものことだった。青はリュックから趣味のミリタリー関係の雑誌を取り出す。先に来た金造は音楽関係の雑誌を読みふけっていたようだ。
しばらくするとぷしゅっと音がする。青がふと金造のほうを見ると、金造は缶を開けていた。缶飲料は缶飲料でも、ビールだった。
あんまりあっていいことではないが、夜勤という名目の当直ではよくアルコール類を持ち込む祓魔師もいた。祓魔師の出張所という名目上、二十四時間体制なので当直は当然のように置かれているが、正十字騎士団に所属してからは強力な結界を施されているので、悪魔の侵入などほとんどない。というか京都という街の構造そのものが大きな結界になっているので、夜勤がしゃかりきに一晩中働くという事態にはならない。
それは不浄王がまだ封印されていたときからそうだった。不浄王自体が公には左右の目を残して消滅していたことになっていたので、そこまで厳戒体制がとられていなかった。夜勤が夜勤らしく機能していたのは、不浄王事件の前ぐらいだった。
夜勤での唯一の義務・モニター確認も不要のものになっている。夜勤・当直はぶっちゃけお泊りになっていた。
しかし勘違いしてはいけない。夜勤・当直を真面目に見回りまでして真面目にこなしていた者もいる。騎士団から除名になった宝生蝮だったり、志摩柔造だ。
長々と続いたが、京都出張所にとって夜勤というのはたいしたことはないという前提を書き連ねただけだ。そうしないとこれから起こることで、金造と青が非難されかねないからだ。
金造と青はよく夜勤がかぶる。そして二人の夜勤での勤務態度は前述したような、平均的な勤務態度だった。青はごくごくとビールを煽る金造を特に気にすることなく、リュックの中を漁っていた。二本目のぷしゅっという音が静かな部屋に溶け込む中、青はほれと両手で二つの袋を金造に掲げて見せていた。
「なんや。ポテチか……。それがどないしたん?」
「どないしたんて。ポテチは油で揚げた芋やろ。アルコール摂取するときはな、油もんで胃にコーティングしてアルコール吸収を穏やかにするほうがええんで。」
「そんなアホな俺でも知っとる豆知識わざわざありがとな。」
「ツマミにどうぞ。のりとコンソメどっちがええ?」
「ほんなら、のり。」
金造が手を伸ばすと青がのりしお味を持っていた手をふいっと引っ込める。
「ほんまにのりでええんか? のりはな、気がつかんうちに歯にひっつくことがあるんで。」
「ほんなら、コンソメでええわ!」
ほんとはお前がのりしお味を食いたかっただけやろとツッコミながら金造はコンソメ味をひったくった。高校時代から青が二種類食い物を用意して金造に選ばせて食わせるというのが恒例になっていた。しかし高確率で金造は青の本命を選んでそれで辞退してもう片方を食うということまで恒例になっていた。金造は若者らしくないちびりちびりと言った感じでポテチを摘んでいる。その姿が鬱屈した内面を窺わせる。青は金造の近況の、とりあえず今一番気になるところを問いかけた。
「金造。姉様とうまいことやれとる?」
ん? と金造はコンソメ味を食べながら青を見る。
志摩柔造と宝生蝮が結婚してからひと月弱が過ぎていた。蝮はほぼ一日中志摩家で本人いわく仮初の主婦業に従事しているのだが、家が近所なので青と顔を合わせることはある。改めて金造にそんな話を振らなくても、姉の様子は姉本人から聞かされているはずだ。
だから青が心に掛けているのは、金造のことだった。
青は金造が小学生の頃から金造の兄に対する片思いの聞き役だった。その片思いが当然のように失恋に終わり、しかも自分の姉がきっかけの終焉だったので、申し訳ないとは思わないがその後の金造が心配だった。
青と金造は志摩家宝生家の上部同士の確執とは関係ないところで、幼馴染で親友という関係にあった。だから青は敢えて金造の込み入って複雑なところに簡単に踏み入れられる。親友同士であり、祓魔師になってからは数々の作戦をチームを組んで戦ってきた。明陀の「青と金」はある意味名物コンビだったのだった。
「青と金」の金のほうは少し俯きながら呟く。
「ちゃんとうまいことやっとるよ。一緒にご飯作ったり、洗いもんしたり、お布団ひいたり、お風呂はいったり。」
「お風呂入っとるんか。姉様と。」
あの人は男兄弟おらんからそういうころ麻痺しとるんかと青はぼーっと思った。
そういう自分も志摩家の兄弟とは普通に風呂も入ったこともある仲だった。しかし男子を含めた他人と一緒に風呂に入っても何の抵抗もないのは、宝生家三人姉妹のうち指揮官気質の蝮と兵卒体質の青で、真ん中の参謀かたぎの錦は潔癖症な性格なので、金造の話したこのことを聞けば引きつけを起こして寝込みかねないと、青は二番目の姉には内緒にしておこうと固く心に誓った。要するに青は世間の女子が思うよりも、金造の話すことはそんなドン引きして深刻には捉えていなかった。兵隊に男も女もあるかというのが青の信条だった。
当たり障りない話というか、当たって触っているだけの話を切り出した青は、まあ大丈夫かと少し安堵した。
しかし間髪いれずに金造が嗚咽を漏らし声を詰まらせ始めた。
「う、ううう……。」
「……やっぱりしんどかったん?」
金造はめそめそ泣きながらビールを啜りポテチを摘む。青はのりしお味を開けながらやってもうたと反省した。
「元気出せや金造。なんなら私の乳揉むか?」
「そんなもんで元気になる思うんか! でも、ええわ。揉ましてもらうわ。」
青は身を乗り出して胸を張る。その胸に無造作に金造は手を伸ばし鷲摑みにする。
「お前姉ちゃんより乳でかいんが取り柄やなあ。」
「私の乳は筋肉やから。私は宝生家唯一の武闘派やからな。」
ぼそっと青は自慢げに呟く。姉二人といるときはテンションが高くなるが、青は基本的な性格は淡々として朴訥なところがある。
そしてその馬鹿さは半端ない。志摩家随一の馬鹿・金造と甲乙つけがたく、切磋琢磨するレベルの馬鹿だった。そして己の骨肉に対する思いも二人とも大自然や宇宙に例えられる規模だった。
だから大好きな姉が志摩家に嫁入りして当たり前の幸せを掴んだことは、正直嬉しい反面、その幸せは親友の失恋というか兄への思いの挫折を礎に築かれたのが、青にとっては金造に少し申し訳ないところだった。
金造は思い出したように言う。
「俺ばっかりめそめそしてあれやけど……、お前の姉ちゃん横取りしたようなもんやな。志摩家が……。」
青はえっ? というように首を傾げた。
「私は気にしとらんよ。」
「ええっ。でもお前の大好きな姉ちゃんやないんか?」
「あのなあ……。」
青は金造に乳を揉まれ続けながら金造に呆れていた。自分の兄に失恋した金造は、青のことも同類項だと思い込んでいるのだろうか。
「あの姉様にそんな性的なこと、恐れ多くて思うなんてこと出来へんやろうが。お前と一緒にすな。いうか。姉様に乳揉ませて言うたら、もの凄く怖い顔させたことあるし。寝込みを襲うて揉んだら、無茶苦茶どつかれたし。」
「どつかれるわ。そら……。つか思いまくりやろ。性的なこと。」
「えー……。でも私は普通に姉様が結婚して良かった思うし。裏やとえげつないって噂の騎士団から、除名よりきつい罰貰わんですんだし。あとは金造が姉様が義理の姉弟として上手いこといけば、私にとっちゃ言うことないんやけど。」
「青。お前……。」
今の状態の金造にとっては心に染み入るような言葉だった。だから不覚にもまた涙が毀れる。一朝一夕の親友関係ではない。死線すら乗り越えての戦友でもある。
二人の通り名、明陀の「青と金」は、金造の中で柔造の存在と同等なくらいに大切なものだった。悪魔との戦闘において神がかるような戦闘を繰り広げ、騎士団の中で新参者だった明陀の地位を確固たるものにしたのが、僧正家の命令系統に従って戦う下っ端の存在だった。青も金造も自らのことを「鉄砲玉」と揶揄しあいながら、敵の中に切り込む祓魔師同士だった。
「なんや。金造。まだ泣いとんか? ほら、元気出せや。パンツ見せたるから。」
「どうせたいしたパンツ履いとらんくせに……。ええわ。見せてもらうわ。」
青は躊躇なく隊服の裾をまくって金造にパンツを見せた。その年頃の娘にしては少し地味すぎるベージュの無地だった。
「すまんなあ。こんなことなら紐パン履いてくりゃあ良かったなあ。」
「お前紐パンもっとったんか!」
「持ってなかったような気がするわあ。」
「フィクションかいっ。ええわ。今度俺が買うたるわ。」
「おおきに。エロいのにしてな。」
青は裾を下ろさないまま金造と話していた。金造がいいというまでパンツを見せていようという心遣いも窺えそうだが、この状況ではただのコントのツッコミ待ちだった。
「やっぱ赤か黒が基本かなあ? 名前にちなんで青にしてもらいたいところなんやけど。」
「何が?」
「パンツ。」
金造は裾をまくったままの青を目の前にして腕を組んで考えこんでいる。音楽家やからなこいつと青はやはりパンツを見せびらかす格好のまま金造を眺めていた。なんかイマジネーションでも頭の中でこねくり回してるのかと、人が見たらシュールな格好のままぼーっと考えてみた。
「なあ金造。ええ加減元気になって? そうせんと裾も下ろせんわあ。」
「裾くらい勝手に下ろしてくれてもええから。」
「じゃあそうするわ。」
青は裾から手を放した。パンツはあっけなく裾の長い隊服の下に隠れた。
「恥ずかしい真似させてすまん。」
「いや。別に。」
ふと青は気がついた。二缶目を飲み干したはずなのに、金造は三缶目を開けない。
「金造。もうビールあらへんの?」
「うん。」
「まだ飲みたいんやない?」
「飲みたいけど……。」
青が言いたいことは大体見当はつく。失恋して落ち込んでいる金造に今日はとことん付き合ってやるつもりらしいので、このあと近くのコンビニでも行ってビールの買い足しに行くと言いたいらしい。
「ほな。行って、こようか?」
出て行こうとする青の袖を金造は握った。
「なんや。一人にするんか俺のこと。」
「すぐ帰ってくるやん。」
「あおぉ……。嫌や。ひとりにせんといて~。」
なんだかわけのわからんスイッチの入った金造だった。泣きじゃくるように青に縋ってべそべそと泣いている。青はよしよしとその金髪頭を撫でてやる。
「しょうがないなあ。ほら。」
青は再び隊服をまくってパンツに手を掛け、それをするすると自分の両足から抜き取った。
「これを私やと思って。」
生温かいパンツを金造の手に握らせる。
「……」
唖然としている金造を尻目に青は部屋を出て行った。それを少しぼやけた視界で見送りながら金造は一人呟いた。
「青。お前言うやつはほんま……。」
手の中の青のパンツを鼻元に近づける。
「青の匂いがするわあ。」
当たり前である。
いつも馬鹿な自分と一緒になって他人から笑われてくれた。
「青と金」。所詮、仇花の意味で付けられた束の間になりかねない二つ名。
お互いだけがお互いの理解者だった。
いつ「青」や「金」だけになるかもわからない。
それでも青はみっともない「金」に優しくしてくれた。
辛いときには乳を揉ませてくれた。
悲しいときにはパンツを見せてくれた。
かけがえの無い大切な親友。
それが金造にとっての青だった。
金造はその友情にひとしきり涙を流し枯れ果てて我に返ると、とんでもない事実に頭が過ぎった。
「青のパンツ、びしょびしょにしてしもうた。」
ただ濡れているだけではない。鼻水もかんだ覚えもあるので、なんだかにゅるにゅるのパンツになっていた。友情のパンツの成れの果ては、友情に感極まって出てきた液体によって、なんだか如何わしいパンツになってしまった。
どうしようと対策を思いつく間も無く、青が帰ってきた。
「ただいま……。」
「すまん青。お前のパンツ、えらいことにしてしもうた。」
青は恐る恐る金造が差し出す自らのパンツを見る。
「さ、寂しいから泣いたんやないんやで。その、お前がおらんでも……お前のこと考えたらほっこりとしたから泣けてきたんや。」
「ほうか。パンツ役に立って良かったわ。洗えばどうにかなるから、そないな気まずそうな顔せんといてな。」
青はビールとツマミと入れ替わりに自分のパンツを入れて口を縛った。パンツをぐちゃぐちゃにした自分を咎めないなんて、なんて漢らしいんだろうと金造にはこみ上げてくるものがある。
「お前、家に帰るまでパンツ履かんで大丈夫なんか?」
「いやあ。ノーパンをそこらの連中に自己申告せなあかんわけでもないし。」
そうやろうなあ。戦闘時のこいつの隙の無い体捌きを思い返せば、なんかの拍子に服がまくれて丸見えどころかチラ見えもありえんやろうと金造は思ったが、備え付けの冷蔵庫(家庭用よりかなり小さめ)に一緒に買ってきたペットボトルのお茶とビールを入れようと金造に背を向けて上体を屈めた青を見て、金造はいきなりわあと声を上げた。
「なんや金造。いきなり吠えなや。」
「やて、そんな格好したら見えるやんか!」
「お前。こんだけ長い服着とんやから見えるわけないやんか。」
「そやかてお前ノーパンやんっ。」
「お前そんなこと意識しとんか? 中学生やないし、姉様と風呂はいっとるってさっき言うとったやんか。」
青はあかん靴紐解けとったわと呟きながら足を上げてパイプ椅子に座りだした。
「うわああ!」
「うるさいなあ。」
「お前が、俺の繊細な神経を、レイプしとんや!」
青は困り果てたような顔をしてパイプ椅子にきっちり足を揃えて座る。
「どや。こうしとったら大丈夫やろ? ほんま手が掛かる子やな。」
青は腕だけ伸ばして金造の頭をよしよしと撫でる。金造は顔を赤くして青の顔を見返す。
青は金造の潤んだ目元を指先で拭ってくれた。金造の胸がきゅうんと締め付けられる。青のあまりものに動じない薄情そうな目が、まるで自分を見守ってくれているようだ。
「なあ、青……。」
「なんや? 金造?」
金造はもじもじと恥ずかしそうにそれを口にした。
「俺、パンツだけ履いてない女と一緒に同じ部屋におるのは初めてなんや。」
「ふうん。そうなん?」
青はやはり動じない。自分がノーパンになった原因の張本人の口にする無神経っぽい言葉にも。金造としては自分が恥ずかしい思いをしていることや、青が恥ずかしいことになっとるんやでということを伝えたつもりが、彼女にとってはただ状況を言っただけに過ぎなかったようだ。
まるで青々とした森の中でひっそりと葉陰に温度も感じさせず瞼のない目で虚空を見ている青い蛇のようだった。
「俺……俺なあ……。」
「うん。」
「俺、お前のことな……」
「うん。」
何が言いたいのか自分でもさっぱり分からない。だけど青は延々と相槌を打ってくれる。親友だから。相棒だから。
「青。ずっと俺と一緒におってな。」
「ええよ。」
まだまだ明陀の「青と金」の絆は切れることはないらしい。
金造と青は親友です。
その実態は、実は世間に囁かれているほど深刻ではなかった。
代々続く当主間のライバル意識が蚊帳の外の他人にそう見せているだけで、代々本家の勝呂家大好き体質は共通だったし、どちらとも甲乙つけがたいナンバーツー争いもその実態を大袈裟に見せていただけだ。余談だが自発的にナンバースリーの位置にいた、三輪家の人数的衰退が抑制力にならなかったせいもある。
つまり平たく言えば、それなりに仲は悪かったかもしれないけれど、基盤は仲間意識があって根本的には仲良しという前提があってこその対立だったと言える。それを実証するように、仏の道を守りながらも戦闘集団である明陀の僧正両家で一代のうちに常に一組共闘関係になる者がいた。親兄弟の思惑さえ飛び越えたように強く結びつく友情があった。
青い夜以降、しかしやはり志摩家と宝生家は対立関係にあるというのが、新しく明陀に関わった正十字騎士団での認識だった。志摩家宝生家、両方の子弟をを預かり教育した正十字学園でも、かの次期当主同士は、その当時の祓魔塾の一番手二番手を常に争っていた。
しかし学園にとって意外だったのは、その次世代というかぶっちゃけ志摩金造と宝生青の奇妙な関係に他ならなかった。
京都出張所には二人体制の夜勤というものがある。青はリュックサックに夜勤の準備を入れてそれを背負っていた。
出張所の夜勤は夏の日が翳りだそうとする十八時から始まる。申し送りがなければ定時までの人間と言葉を交わすことはほとんどない。
「おはようございまーす。」
詰め所に顔を出すとパイプ椅子に背中を丸めて座っていた金造が顔を上げた。
「よお……親友。」
「おう。きたで相棒。」
青はリュックを机の上に下ろして金造の向かい側のパイプ椅子に座った。家で昼寝はしてきたし夜勤の途中で交代で仮眠も取るが、来た早々は手持ち無沙汰になるのはいつものことだった。青はリュックから趣味のミリタリー関係の雑誌を取り出す。先に来た金造は音楽関係の雑誌を読みふけっていたようだ。
しばらくするとぷしゅっと音がする。青がふと金造のほうを見ると、金造は缶を開けていた。缶飲料は缶飲料でも、ビールだった。
あんまりあっていいことではないが、夜勤という名目の当直ではよくアルコール類を持ち込む祓魔師もいた。祓魔師の出張所という名目上、二十四時間体制なので当直は当然のように置かれているが、正十字騎士団に所属してからは強力な結界を施されているので、悪魔の侵入などほとんどない。というか京都という街の構造そのものが大きな結界になっているので、夜勤がしゃかりきに一晩中働くという事態にはならない。
それは不浄王がまだ封印されていたときからそうだった。不浄王自体が公には左右の目を残して消滅していたことになっていたので、そこまで厳戒体制がとられていなかった。夜勤が夜勤らしく機能していたのは、不浄王事件の前ぐらいだった。
夜勤での唯一の義務・モニター確認も不要のものになっている。夜勤・当直はぶっちゃけお泊りになっていた。
しかし勘違いしてはいけない。夜勤・当直を真面目に見回りまでして真面目にこなしていた者もいる。騎士団から除名になった宝生蝮だったり、志摩柔造だ。
長々と続いたが、京都出張所にとって夜勤というのはたいしたことはないという前提を書き連ねただけだ。そうしないとこれから起こることで、金造と青が非難されかねないからだ。
金造と青はよく夜勤がかぶる。そして二人の夜勤での勤務態度は前述したような、平均的な勤務態度だった。青はごくごくとビールを煽る金造を特に気にすることなく、リュックの中を漁っていた。二本目のぷしゅっという音が静かな部屋に溶け込む中、青はほれと両手で二つの袋を金造に掲げて見せていた。
「なんや。ポテチか……。それがどないしたん?」
「どないしたんて。ポテチは油で揚げた芋やろ。アルコール摂取するときはな、油もんで胃にコーティングしてアルコール吸収を穏やかにするほうがええんで。」
「そんなアホな俺でも知っとる豆知識わざわざありがとな。」
「ツマミにどうぞ。のりとコンソメどっちがええ?」
「ほんなら、のり。」
金造が手を伸ばすと青がのりしお味を持っていた手をふいっと引っ込める。
「ほんまにのりでええんか? のりはな、気がつかんうちに歯にひっつくことがあるんで。」
「ほんなら、コンソメでええわ!」
ほんとはお前がのりしお味を食いたかっただけやろとツッコミながら金造はコンソメ味をひったくった。高校時代から青が二種類食い物を用意して金造に選ばせて食わせるというのが恒例になっていた。しかし高確率で金造は青の本命を選んでそれで辞退してもう片方を食うということまで恒例になっていた。金造は若者らしくないちびりちびりと言った感じでポテチを摘んでいる。その姿が鬱屈した内面を窺わせる。青は金造の近況の、とりあえず今一番気になるところを問いかけた。
「金造。姉様とうまいことやれとる?」
ん? と金造はコンソメ味を食べながら青を見る。
志摩柔造と宝生蝮が結婚してからひと月弱が過ぎていた。蝮はほぼ一日中志摩家で本人いわく仮初の主婦業に従事しているのだが、家が近所なので青と顔を合わせることはある。改めて金造にそんな話を振らなくても、姉の様子は姉本人から聞かされているはずだ。
だから青が心に掛けているのは、金造のことだった。
青は金造が小学生の頃から金造の兄に対する片思いの聞き役だった。その片思いが当然のように失恋に終わり、しかも自分の姉がきっかけの終焉だったので、申し訳ないとは思わないがその後の金造が心配だった。
青と金造は志摩家宝生家の上部同士の確執とは関係ないところで、幼馴染で親友という関係にあった。だから青は敢えて金造の込み入って複雑なところに簡単に踏み入れられる。親友同士であり、祓魔師になってからは数々の作戦をチームを組んで戦ってきた。明陀の「青と金」はある意味名物コンビだったのだった。
「青と金」の金のほうは少し俯きながら呟く。
「ちゃんとうまいことやっとるよ。一緒にご飯作ったり、洗いもんしたり、お布団ひいたり、お風呂はいったり。」
「お風呂入っとるんか。姉様と。」
あの人は男兄弟おらんからそういうころ麻痺しとるんかと青はぼーっと思った。
そういう自分も志摩家の兄弟とは普通に風呂も入ったこともある仲だった。しかし男子を含めた他人と一緒に風呂に入っても何の抵抗もないのは、宝生家三人姉妹のうち指揮官気質の蝮と兵卒体質の青で、真ん中の参謀かたぎの錦は潔癖症な性格なので、金造の話したこのことを聞けば引きつけを起こして寝込みかねないと、青は二番目の姉には内緒にしておこうと固く心に誓った。要するに青は世間の女子が思うよりも、金造の話すことはそんなドン引きして深刻には捉えていなかった。兵隊に男も女もあるかというのが青の信条だった。
当たり障りない話というか、当たって触っているだけの話を切り出した青は、まあ大丈夫かと少し安堵した。
しかし間髪いれずに金造が嗚咽を漏らし声を詰まらせ始めた。
「う、ううう……。」
「……やっぱりしんどかったん?」
金造はめそめそ泣きながらビールを啜りポテチを摘む。青はのりしお味を開けながらやってもうたと反省した。
「元気出せや金造。なんなら私の乳揉むか?」
「そんなもんで元気になる思うんか! でも、ええわ。揉ましてもらうわ。」
青は身を乗り出して胸を張る。その胸に無造作に金造は手を伸ばし鷲摑みにする。
「お前姉ちゃんより乳でかいんが取り柄やなあ。」
「私の乳は筋肉やから。私は宝生家唯一の武闘派やからな。」
ぼそっと青は自慢げに呟く。姉二人といるときはテンションが高くなるが、青は基本的な性格は淡々として朴訥なところがある。
そしてその馬鹿さは半端ない。志摩家随一の馬鹿・金造と甲乙つけがたく、切磋琢磨するレベルの馬鹿だった。そして己の骨肉に対する思いも二人とも大自然や宇宙に例えられる規模だった。
だから大好きな姉が志摩家に嫁入りして当たり前の幸せを掴んだことは、正直嬉しい反面、その幸せは親友の失恋というか兄への思いの挫折を礎に築かれたのが、青にとっては金造に少し申し訳ないところだった。
金造は思い出したように言う。
「俺ばっかりめそめそしてあれやけど……、お前の姉ちゃん横取りしたようなもんやな。志摩家が……。」
青はえっ? というように首を傾げた。
「私は気にしとらんよ。」
「ええっ。でもお前の大好きな姉ちゃんやないんか?」
「あのなあ……。」
青は金造に乳を揉まれ続けながら金造に呆れていた。自分の兄に失恋した金造は、青のことも同類項だと思い込んでいるのだろうか。
「あの姉様にそんな性的なこと、恐れ多くて思うなんてこと出来へんやろうが。お前と一緒にすな。いうか。姉様に乳揉ませて言うたら、もの凄く怖い顔させたことあるし。寝込みを襲うて揉んだら、無茶苦茶どつかれたし。」
「どつかれるわ。そら……。つか思いまくりやろ。性的なこと。」
「えー……。でも私は普通に姉様が結婚して良かった思うし。裏やとえげつないって噂の騎士団から、除名よりきつい罰貰わんですんだし。あとは金造が姉様が義理の姉弟として上手いこといけば、私にとっちゃ言うことないんやけど。」
「青。お前……。」
今の状態の金造にとっては心に染み入るような言葉だった。だから不覚にもまた涙が毀れる。一朝一夕の親友関係ではない。死線すら乗り越えての戦友でもある。
二人の通り名、明陀の「青と金」は、金造の中で柔造の存在と同等なくらいに大切なものだった。悪魔との戦闘において神がかるような戦闘を繰り広げ、騎士団の中で新参者だった明陀の地位を確固たるものにしたのが、僧正家の命令系統に従って戦う下っ端の存在だった。青も金造も自らのことを「鉄砲玉」と揶揄しあいながら、敵の中に切り込む祓魔師同士だった。
「なんや。金造。まだ泣いとんか? ほら、元気出せや。パンツ見せたるから。」
「どうせたいしたパンツ履いとらんくせに……。ええわ。見せてもらうわ。」
青は躊躇なく隊服の裾をまくって金造にパンツを見せた。その年頃の娘にしては少し地味すぎるベージュの無地だった。
「すまんなあ。こんなことなら紐パン履いてくりゃあ良かったなあ。」
「お前紐パンもっとったんか!」
「持ってなかったような気がするわあ。」
「フィクションかいっ。ええわ。今度俺が買うたるわ。」
「おおきに。エロいのにしてな。」
青は裾を下ろさないまま金造と話していた。金造がいいというまでパンツを見せていようという心遣いも窺えそうだが、この状況ではただのコントのツッコミ待ちだった。
「やっぱ赤か黒が基本かなあ? 名前にちなんで青にしてもらいたいところなんやけど。」
「何が?」
「パンツ。」
金造は裾をまくったままの青を目の前にして腕を組んで考えこんでいる。音楽家やからなこいつと青はやはりパンツを見せびらかす格好のまま金造を眺めていた。なんかイマジネーションでも頭の中でこねくり回してるのかと、人が見たらシュールな格好のままぼーっと考えてみた。
「なあ金造。ええ加減元気になって? そうせんと裾も下ろせんわあ。」
「裾くらい勝手に下ろしてくれてもええから。」
「じゃあそうするわ。」
青は裾から手を放した。パンツはあっけなく裾の長い隊服の下に隠れた。
「恥ずかしい真似させてすまん。」
「いや。別に。」
ふと青は気がついた。二缶目を飲み干したはずなのに、金造は三缶目を開けない。
「金造。もうビールあらへんの?」
「うん。」
「まだ飲みたいんやない?」
「飲みたいけど……。」
青が言いたいことは大体見当はつく。失恋して落ち込んでいる金造に今日はとことん付き合ってやるつもりらしいので、このあと近くのコンビニでも行ってビールの買い足しに行くと言いたいらしい。
「ほな。行って、こようか?」
出て行こうとする青の袖を金造は握った。
「なんや。一人にするんか俺のこと。」
「すぐ帰ってくるやん。」
「あおぉ……。嫌や。ひとりにせんといて~。」
なんだかわけのわからんスイッチの入った金造だった。泣きじゃくるように青に縋ってべそべそと泣いている。青はよしよしとその金髪頭を撫でてやる。
「しょうがないなあ。ほら。」
青は再び隊服をまくってパンツに手を掛け、それをするすると自分の両足から抜き取った。
「これを私やと思って。」
生温かいパンツを金造の手に握らせる。
「……」
唖然としている金造を尻目に青は部屋を出て行った。それを少しぼやけた視界で見送りながら金造は一人呟いた。
「青。お前言うやつはほんま……。」
手の中の青のパンツを鼻元に近づける。
「青の匂いがするわあ。」
当たり前である。
いつも馬鹿な自分と一緒になって他人から笑われてくれた。
「青と金」。所詮、仇花の意味で付けられた束の間になりかねない二つ名。
お互いだけがお互いの理解者だった。
いつ「青」や「金」だけになるかもわからない。
それでも青はみっともない「金」に優しくしてくれた。
辛いときには乳を揉ませてくれた。
悲しいときにはパンツを見せてくれた。
かけがえの無い大切な親友。
それが金造にとっての青だった。
金造はその友情にひとしきり涙を流し枯れ果てて我に返ると、とんでもない事実に頭が過ぎった。
「青のパンツ、びしょびしょにしてしもうた。」
ただ濡れているだけではない。鼻水もかんだ覚えもあるので、なんだかにゅるにゅるのパンツになっていた。友情のパンツの成れの果ては、友情に感極まって出てきた液体によって、なんだか如何わしいパンツになってしまった。
どうしようと対策を思いつく間も無く、青が帰ってきた。
「ただいま……。」
「すまん青。お前のパンツ、えらいことにしてしもうた。」
青は恐る恐る金造が差し出す自らのパンツを見る。
「さ、寂しいから泣いたんやないんやで。その、お前がおらんでも……お前のこと考えたらほっこりとしたから泣けてきたんや。」
「ほうか。パンツ役に立って良かったわ。洗えばどうにかなるから、そないな気まずそうな顔せんといてな。」
青はビールとツマミと入れ替わりに自分のパンツを入れて口を縛った。パンツをぐちゃぐちゃにした自分を咎めないなんて、なんて漢らしいんだろうと金造にはこみ上げてくるものがある。
「お前、家に帰るまでパンツ履かんで大丈夫なんか?」
「いやあ。ノーパンをそこらの連中に自己申告せなあかんわけでもないし。」
そうやろうなあ。戦闘時のこいつの隙の無い体捌きを思い返せば、なんかの拍子に服がまくれて丸見えどころかチラ見えもありえんやろうと金造は思ったが、備え付けの冷蔵庫(家庭用よりかなり小さめ)に一緒に買ってきたペットボトルのお茶とビールを入れようと金造に背を向けて上体を屈めた青を見て、金造はいきなりわあと声を上げた。
「なんや金造。いきなり吠えなや。」
「やて、そんな格好したら見えるやんか!」
「お前。こんだけ長い服着とんやから見えるわけないやんか。」
「そやかてお前ノーパンやんっ。」
「お前そんなこと意識しとんか? 中学生やないし、姉様と風呂はいっとるってさっき言うとったやんか。」
青はあかん靴紐解けとったわと呟きながら足を上げてパイプ椅子に座りだした。
「うわああ!」
「うるさいなあ。」
「お前が、俺の繊細な神経を、レイプしとんや!」
青は困り果てたような顔をしてパイプ椅子にきっちり足を揃えて座る。
「どや。こうしとったら大丈夫やろ? ほんま手が掛かる子やな。」
青は腕だけ伸ばして金造の頭をよしよしと撫でる。金造は顔を赤くして青の顔を見返す。
青は金造の潤んだ目元を指先で拭ってくれた。金造の胸がきゅうんと締め付けられる。青のあまりものに動じない薄情そうな目が、まるで自分を見守ってくれているようだ。
「なあ、青……。」
「なんや? 金造?」
金造はもじもじと恥ずかしそうにそれを口にした。
「俺、パンツだけ履いてない女と一緒に同じ部屋におるのは初めてなんや。」
「ふうん。そうなん?」
青はやはり動じない。自分がノーパンになった原因の張本人の口にする無神経っぽい言葉にも。金造としては自分が恥ずかしい思いをしていることや、青が恥ずかしいことになっとるんやでということを伝えたつもりが、彼女にとってはただ状況を言っただけに過ぎなかったようだ。
まるで青々とした森の中でひっそりと葉陰に温度も感じさせず瞼のない目で虚空を見ている青い蛇のようだった。
「俺……俺なあ……。」
「うん。」
「俺、お前のことな……」
「うん。」
何が言いたいのか自分でもさっぱり分からない。だけど青は延々と相槌を打ってくれる。親友だから。相棒だから。
「青。ずっと俺と一緒におってな。」
「ええよ。」
まだまだ明陀の「青と金」の絆は切れることはないらしい。
金造と青は親友です。
☆ss「茜色が燃える時」燐雪 R18
密閉されて篭った屋内の熱気を逃がすように窓を開けようとした。短い間留守にしていた部屋の空気はやはり少し違和感のある匂いがする。手をかけた窓の桟にうっすらと積もった埃にも溜息が漏れる。
「疲れてるし掃除は明日でいっか。」
燐は床に荷物を下ろして呟く。数日前までいた和室の畳敷きとはまるで趣の違う無機質で雑然とした部屋に雪男は余計に疲れた気分になってしまった。またここでの生活が待っているのかと。
兄といるのは嫌なわけじゃないが、他者を交えない二人きりというのは濃密な気配から時々逃げ出したくなる。今までは頭の中で誤魔化して麻痺させて平気を装っていたが、京都でのあの悪魔落ちの男との接触によってその誤魔化しが今は無効になってしまっている。
今、雪男の頭の中は受容する全ての刺激に対して無防備だった。全てがストレートに脳に届いて、全てを情報として脳が処理し、それにいちいち細かい感想なり感傷が頭の中を巡っている。
なにもかもあの残酷なことをへらへらと笑いながら言った男のせいだった。あの男の言葉に追い詰められて踊らされていた自分が情けない。そのあとに魔菌の王を焼き払った兄に対して手を上げてしまった。それを引きずってか少し兄弟関係がぎくしゃくしてしまっていた。
「兄さんごめん。あのとき、殴ったりして。」
今更というような謝罪だったが雪男はそれを口にせずにはいられなかった。
「あー……。」
燐は自分の頬を撫でながら間の抜けた声を出した。雪男はそんな暢気な態度の燐に近づいてそっと燐の手の平と頬の間に自分の手を滑らせた。
「雪男……。」
雪男の手の甲に燐の手が重ねられる。
不意に雪男の手が捻られるように取られた。
「兄さん? 何をするんだい。……痛いんだけど……。」
振りほどこうとしたが燐は雪男の手を放そうとしない。捻られた腕を痛みから逃れるために動けばそれは兄に引き寄せられるようになってしまう。
「……。」
唐突な真似をする兄の表情が気になってくる。窓から入ってくる翳った日の光の加減でそれを確認するには目を凝らしてみるしかない。そしてなおも兄に引き寄せられる。
兄は――。
いやらしいくらいに笑っていた。強引な力を行使しているのが嘘なくらいに、まるで悪気がないとでも言うように、その表情は柔らかすぎた。
「雪男。」
声までも弾んでいる。疲れて沈みがちになっている雪男とは正反対に兄の高揚したような表情と声が部屋の中では異様に映った。
「なんだよ。なんか嬉しいことでもあったわけ?」
雪男はなんとなく異様な兄に問いかけてみる。その間にも燐は雪男の腕を離さない。
「嬉しいこと?」
雪男の問いにますます燐の顔がこれ以上ないというくらいに歓喜の表情を浮かべる。
「嬉しいに決まってるだろ。だって俺は――。」
燐は雪男の腕を取っているのとは反対の手を翳して手の平に青い炎を灯らせる。
「ほら。」
それを雪男に見せる。腐病を撒き散らす悪魔を焼き払ったが人間を害することはなかった青い悪魔の炎。それの意味するところは燐が口にせずとも雪男は理解した。
「兄さん。気持ちは分かるよ。でも……。」
炎のコントロールはマスターした。燐が雪男に言いたいことはそれに尽きるだろう。しかし燐にとって大変なのはこれからだということを雪男は燐本人以上に知っている。燐は手の平の上の炎をうっとりと見ているけれど、雪男はそんな暢気な兄の姿に眉を顰めた。
「この炎が俺の思い通りになるってことは、俺はもう危険対象じゃねえってのと同じだよな。」
燐はそれを認めてもいい。塾の仲間も周りの祓魔師もそれを容認するだろう。だからというわけではないが、雪男の口から自然と毀れてきたのは、そんな兄や周囲を批判するような言葉だった。
「あのねえ、それを最終的に決めるのはヴァチカン本部だよ。暫定的には兄さんの意見には同意だけど、本決まりで安全認定されるのは認定試験に受かってからだから。」
兄は弟の言葉を聞いているのか聞いていないのか、相変わらず炎を見つめたままだった。雪男は次第に兄に苛立ってきていた。
「雪男。お前だって嬉しいだろ。」
雪男は兄の主観的過ぎる言葉に何かが切れた。
「兄さん? さっきの僕が言ったこと聞いてた? 試験受からなきゃ、一番納得させなきゃいけない相手に認めさせられないんだよ? 兄さんは、ぶっちゃけ言うけどこれからのほうが大変なんだよ。」
「なんだよ。雪男。喜んでくれねえのかよ?」
途端に兄が悲しそうな顔をする。雪男ははっとなって「ごめん」と口走った。
「別に嬉しくないわけじゃないよ。兄さんが浮かれているように見えたから、また教師面して釘を刺しただけだから。」
「じゃあ。雪男も喜んでくれる?」
それには素直に頷けない雪男だった。雪男としては兄にそんな最終兵器的な能力ばかり精度を上げられても困惑のほうが先に立ってしまう。それが兄の一番の売りだとしても。無益で無害なただの馬鹿でいてくれるほうが、雪男にとっては素直に喜べた。しかしながら兄なりに喜ばしいことを、唯一の身内の雪男がしかめっ面で見ている光景というのも、兄に気の毒な話だった。
「なんだかんだで危ない橋も渡ったけど、良かったとは思ってる。」
雪男は歯切れの悪い同意しか示せなかった。腹の中ではやはりそんな兄に同調できない自分がいた。しかし口だけでも動いてくれたのが助かった。たぶん兄はそんな自分のことを疑ったりはしないだろうと、これまでの兄を見てきた雪男はその信頼にこの場だけでも胡坐を掻かせてもらうことにした。
「兄さん。お腹空かない? せっかくだし、何処かに夕食を食べに行く? 今からご飯作るのもしんどいだろうし。僕からのお祝いもかねて奢るから。」
兄は手の平の上の炎を握り潰す。それは何の名残も残さず消え失せた。目の前でただ青く揺らめいただけ。兄の意思がなければ何ものも燃やすことのない炎だった。
兄は弟の顔を見上げて首を傾げた。弟は何も気づいていないような兄に向かって言う。
「ねえ。この手を放してくれる? もうさっきから少し痺れてきてるし。」
燐に握られたままの腕は手先がの血が少し失せて体温が低くなってきている。そして燐に告げたとおり感覚も鈍くなってきていた。それでも燐は雪男から手を放さない。その代わり何かを小声で呟いた。
「……いって……。」
「なに?」
「お祝いって、メシじゃないといけないの?」
手を放すより先にお祝いに食らいついた燐を見ながら雪男は少し逡巡する。
「今すぐだったら夕ご飯奢るくらいしか思いつかないな。何か欲しいものあるなら教えて。近日中にはどうにかできるから。」
「欲しいもんでいいんだな。お前にもらえるもんだったら。」
「そうだね。僕があげられるものだったら。」
雪男は部屋に帰ってきてから、まったく兄に警戒を緩めなかった。ところがこの瞬間だけは不用意に兄の言葉に頷いた。
「何が欲しいの? 兄さん。」
兄は口の端を上げる。その回答を聞いて弟は兄の悪魔的な本性を垣間見た。
* * *
兄の言葉で真空化した頭に徐々に血の気が戻ってきた。そして記憶が過去へと逆流する。
始まりは小学校中学年ごろの夏だった。教会からさほど離れていない用水路が増水して、そこで子どもが一人溺れた。それを兄が助けた。普通なら一緒に流されて兄こそ二次災害の被害者になるところだったが、兄は見事にその子どもを助け当時燐を誤解していた周囲の大人を一時見直させることになった。
雪男は内心冷や冷やしていた。そんなことが出来たのは兄の悪魔の能力ゆえと分かっていて、傍らの義父の顔を窺っていた記憶はある。それでも兄を認め頭を撫でる大人と嬉しそうな兄を見ているとその心配も薄れていた。
その喧騒のあと、兄におめでとうと言った。兄はぱっと顔を輝かせた。
「雪男! 兄ちゃんすごい?」
「うん。」
「なら……」
兄は自分の額を髪を掻き揚げて見せて「ちゅうしてくれ」と要求してきた。
「えー……」
「駄目なのかよ……」
だってと兄は雪男にその場で思いついたような理由を話し出した。
兄の言葉の根拠は御伽噺の天使から善行に報いて祝福のキスを受ける善人ということらしかったが、雪男には意味の分からない理屈だった。雪男は天使ではないのだし、兄にとって何の有難みがあるのだろうと怪訝に思った。
それでもその当時は兄のしょぼくれた顔を見たくなかったので、結局雪男は燐の額にキスをした。
二回目は中学二年の体育祭だった。燐のクラスの当時の体育会系の人気者にトラブルがあった。体育祭のヒーローが体育祭前日に足を捻挫してしまったのだ。
その生徒に代わって燐がリレーのアンカーを務めることになった。そしてこれまた悪魔の身体能力によって、リレーは燐のクラスが首位になってしまった。そのときの雪男のクラスのアンカーは、まさしく雪男その人で、図らずとも兄弟対決となってしまったのだ。
ラストの走者まで燐のクラスは絶望的最下位だった。それを燐がごぼう抜きして最後に雪男を追い抜いてゴールした。振り向いてクラスメイトより先に雪男に笑いかけた燐に、雪男は苦笑いで言った。
「おめでとう……。兄さん。」
燐のクラスは歓喜で半狂乱だった。誰も期待していなかった登校拒否の不良の活躍に、本来のヒーロー不在の絶望的不利を塗り替えられた事実に沸いた。雪男はそんなクラスメイトに賞賛される兄を、やはり皮肉げな気持ちで見送った。兄の活躍もやはり無自覚な悪魔の力ありきであったからだ。
教会に帰ってから燐はもじもじと雪男に前のようにご褒美を強請ってもいいかと尋ねてきた。
「兄さんの活躍で僕のクラスは勝てなかったんだけど。そんな僕からご褒美を強請るわけ?」
「え? ええ? いいじゃねえかよ。俺せっかく皆に褒められたし。雪男だって俺におめでとうって言ったじゃねえか。」
よっぽど嬉しいんだろうなと納得したし、また燐の額にキスでもすればいいのだろうと雪男は軽い気持ちで「いいよ」と投げ捨てるように言った。
「じゃあ……してもいいか? いいよな?」
「だから何を。」
兄は顔を赤くして部屋を見回す。ドアのところまで歩いてそのドアを開けて外を窺うほどの用心深さだった。
「よし。誰も来ねえ。」
燐は雪男のほうを振り向いたあと、驚くほどの素早さで雪男を二段ベッドの下の段、雪男の寝床に雪男を押し倒した。
「兄さん?」
そこから先は何が起こったのかわからなくなったと言いたくなるくらいに曖昧な記憶だった。
しかしそれは現在になって再び想起される。
「俺本当は知ってたんだ。俺が他人に褒められるようなことをしたとき、お前だけはいつもあまり嬉しそうじゃなかったこと。」
そんなことはないと組み伏せられたベッドの上で雪男は言おうとしたが、燐は異様なほど優しげな微笑を見せて首を横に振った。掴まれた腕はまだ掴まれたままだった。もう感覚なんか無いに等しい。
「そうだよな。今になって分かったんだけど、俺が悪魔だって知ってたお前にとっちゃあ、俺の説明不能な火事場の馬鹿力が元で周りから褒められたって、嬉しいわけないよな。だってそれは、お前の嫌いな悪魔の力だもんな。そんなもん目の前で見せられて嫌だったんだろ? 京都でも熱海でもそうだったんだよな。」
あの日兄は押し倒してきたそのあと、雪男にキスさせてくれと言い放った。そしてやはり胸にもやもやを秘めたまま、雪男はその要求を飲んだ。
毅然と拒絶すればどうなるというわけでもない。これが兄の「初めて」の要求ならば。現在の雪男は既に燐という悪魔の要求を「二回も」叶えてしまっている。最初の甘くてくすぐったい要求から息苦しくて直接的な要求にエスカレートしている。三回目の要求を拒絶は出来ないと雪男は自然と確信してしまった。
この部屋は。と、雪男は見慣れたようで馴染めない部屋の天井を、兄の顔ごしに見上げて眼を瞑った。ドアの外を見なくても誰も来ないことは分かっている。
四月のあの日、兄の監視を含めて雪男は自分ごと兄を隔離した。この旧寮こそ、誰も寄せ付けることのない兄にとって好都合な城砦だった。兄の自分への執着は薄々という言葉では足りないくらいに感じていたくせに、敢えて自分は事が起こった時に誰にも助けを求められない場所に兄と二人きりになることを選んでしまった。
「兄さんは卑屈で滑稽で愚直だ。」
決定的なことを先延ばしにしていたのは雪男ではない。兄本人だった。その気になればいつだって手を伸ばせたはずなのに、それをしなかった。自分も雪男も納得する理由、ご褒美という名目がなければ、この悪魔は雪男に手を出せないのだった。これは人間と悪魔の契約そのものだなと雪男は実感した。
「雪男は俺にとってのご褒美だから。」
なんだそれと心の中で呟いて雪男は笑いたくなった。お互いがお互いを生身の人間だと認めていないのを許容しあっているような、そんな歪な関係なのか。
ああ。もうどうにでもなれと思うには、雪男はまだまだ往生際がよくなかった。
* * *
幼い頃は病弱だったが鍛えた身体の頑強さには多少の自信はあった。精神的なず太さには恵まれなかったが、その分用心深い性分で補っていた。
何を今更なようだが頭の中で自分のスペックを雪男は確認する。その中で男との性交に必要な部分を抽出していた。
今自分が置かれている状況に自分が耐えられるかどうか、自分自身を値踏みする。今回はどうにか耐えられそうだと雪男は踏んだ。
服は自分で脱ぐからと言ったのに兄はそれを受け入れてくれなかった。服を脱がすところから兄にとってはご褒美のようだ。もっと勿体ぶった言い方をすれば戦利品か。確かに兄が勝ち取ったのだからそう思われてもしょうがないのかもしれない。だんだん晒される肌に兄が愛おしそうに手を這わせる。
このままただ横たわっているだけで目を瞑っていればいいのかもしれない。そんなマグロ状態でも兄はそれなりに楽しめるかもと、雪男はこれから起こることに対して逃げ道を残した。
医学を多少齧っている雪男は男の身体の構造の単純さ加減を熟知していた。同性を受け入れる入り口は本来そんな目的で存在するものではない。それを含めて考え得る痛みや傷や出血への恐れなんぞは想定内としか言いようがない。もしもと、少し怖く思うのは感染症だがそれも後の処置でどうとでもなる。
「雪男……。」
兄の上ずった声が耳元を掠める。平気な振りをしようとしたが、目を開けて見た兄の表情は弟の様子を心配そうに窺うものだった。
「兄さん。」
「怖いか? 雪男? ごめんな。」
怖い? 僕が? 雪男は兄の言葉をいぶかしく思う。怖がらせていると思うなら最初からするなよとは言わないが、悪魔らしくない思いやりを感じさせる言い方に声が少し尖る。
「僕が兄さんを怖がるとでも?」
「だってお前、身体がちがちじゃねえか。」
雪男は自分の身体を省みる。冷静さを装っている内心とは異なり僅かに緊張しているらしいことは見て取れた。
「慣れてないからね……。ていうか、経験皆無だからね。」
雪男は言い訳をするように兄に吐き捨てる。
「皆無ってなんだよ。」
「一度もしたことないってこと。」
「えっ、ごめん。」
「なんで謝る!」
雪男は思わず兄を怒鳴った。兄は気弱そうにびくっと背中を震わせる。
「いいから早く済ませて。……お願いだから。僕になんやかんや考えさせないで……。」
冷たい言い方だと自分でも思う。燐は分かったと頷きながら雪男の乳首に舌を這わせた。済まなそうにしていてもそれでもやることはやるんだと、雪男は自分と同じ男というものにに幻滅に似た感情を覚えた。自分が欲情する対象に対して、欲望を隠さないところとか。敢えて中断して今回はやめてやろうという心の余裕がないところとか。そもそも雪男が行為に対して同意したとはいえ、本意ではないというくらい分かっているだろうにとか。
それについては色々と雪男にも思うところがある。同じ男に、同じ血を分けた兄弟に無理やり陵辱されるような屈辱は回避したい。それについては兄の中の手前勝手なマイルールには感謝している。一つは雪男や周囲が納得する功績を挙げていること。もう一つはその功績に対しての褒賞となる雪男その人から許可を貰うこと。雪男は兄にしては兄のマイルールは意外と理にかなっているなと妙に感心した。
「雪男は本当は俺と、こういうことしたくないんだよな?」
燐は雪男の鎖骨に唇を寄せながら寂しそうに言った。
「したくないけど。兄さんだから許してあげる。」
「今は……それでもいい。雪男……。」
雪男は兄の頭を撫でてあげた。兄の愚昧さを許すことで雪男の中の鬱憤が少し軽くなったような気がした。
全ては雪男の勝手な推測でしかないのだが、これからのことを思うと色々と都合が良かった。監視者とその対象が変に馴れ合わなくてもいいこと。相変わらず精神的な優位に立てること。兄からの身体の要求のタイミングが雪男にも測れること。兄にとってのその機会は限りなく限定されているし頻度も少ないだろうと、前もって分かっていること。
兄が泣き笑いのような表情を浮かべる。
雪男の心には何も響かない。何も湧き上がってこない。それでも爪の先ほどこの悪魔を可愛いと思えてしまう感性だけは残っているようだ。雪男は無意識に頬を緩ませて燐に微笑みかけていた。
「雪男……。」
その甘い表情に兄の意識は融けているのだろう。
「しょうがないな兄さんは……。」
早く済ませて貰うにはそれなりのことをしなければならないのだと悟った雪男は、ずらしたジャージからはみ出している兄の一物に手を伸ばすがさっと身を引かれてしまった。
「駄目だ。雪男はそんなことしない……。」
「なに決め付けてるんだよ?」
「そんな……。不良なこと……。」
ふうんと頷きながらも雪男は身体を起こして、うろたえる兄を尻目に兄自身を手で包んだ。
「あうっ……」
けしておざなりな行為だと取られないように両手で丁寧に扱いてやる。
「こんなにしちゃって。僕にスケベ行為したかったくせに三ヶ月……もうそろそろ四ヶ月か……よくやせ我慢したもんだね。」
先端からにじみ出るものを指に絡ませてぬるぬるとした感触に任せて指を滑らせる。そのたびに兄が声にならない声を上げて泣きそうになるものだから、雪男はそれが愉快でしょうがない。
「雪男ぉ……。……あぅ……。」
「え? 兄さん?」
突然兄が抱きついてきたと思えば、再び雪男を押し倒して乱雑に重なっている敷布団や掛け布団に埋めてくる。雪男の足に半端に絡まっていたスラックスと下着を完全に足から抜いて、ふーふーと荒い息を吐き、雪男の膝を両手で割り開いた。
興奮させすぎたと雪男は臍を噛んだが、燐の意識は軽く飛んでいるようで目が焦点を合わせきれていないなどと観察じみた目を燐に向けていた。
腰が持ち上げられ布団との間に兄の膝が入り込んでくる。
「……いやっ……」
いきなり後ろに指を突き入れられる。勿論すんなり入るわけがない。兄は焦ったように指を引き抜くと自分の口に持っていき、その指を舐めて再び同じところに突き入れた。
「痛っ……。」
今までどこか冷静さを残していた雪男だったが、その冷静さは兄の獣じみた行為で一瞬で崩れ去ろうとしている。
「痛……い、から……。」
雪男が声を上げるたび燐は自分の指を舐めその部分に抜き差しを繰り返している。幸いにも出血はしていないが、それは燐が我に返る機会が訪れそうにないことを同時に示していた。
「雪男? まだ痛い? 兄ちゃんも初めてだから、よく、わかんねえから。」
わかって堪るもんかと雪男は心の中で兄に毒づく。屈辱感を回避しようとしてきたのに、その為に冷静さを固辞したり、兄を先導するような真似をしたのに。もうそんなことが何の功も奏さなくなっている。それどころか冷静さを固辞した故に後から迫ってきた屈辱感の色が濃く雪男を取り巻いて、そこには何の逃げ場もないことを自覚させられた。
たかだか痛みぐらいだと高を括っていた。ギブ&テイクの行為だと思っていた。そうではないのだと今この瞬間に思い知らされる。相手が悪魔だという以前に、同性に陵辱されるという意味を雪男は履き違えて軽く考えていた。それは自分のことを強い人間だと思い込もうとしていた自分を否定されるような恐怖すら覚える。自分の自信など、今自分の身体や自分の感覚を犯している相手には何も関係がないのだと気づかされる。
それでも諦め悪く雪男は兄に責め続けられている部分から意識を逸らそうとした。その為に必要な言葉を吐こうと口を開く。
「何? 雪男?」
「……。キスして。」
燐は動きを止めて固まっていた。まさか雪男の口からそんな要求が飛び出してくるとは思わなかったのだ。
「え? いいの?」
雪男は声が出なかったので無言で頷く。薄く開いた雪男の口に燐がむしゃぶりついてくる。燐の手は雪男のそこから離れて、雪男をきつく抱きしめた。
『んー……。』
燐が夢中で雪男の口内を蹂躙している間に、雪男は燐の一物を握って自分のアナルに押し当て一気にそれを押し込んだ。まるで自分の身体にナイフを突き立てるように。
「んっ……。んんっ。」
思わぬ刺激にぷはっと燐は息を吐くと、お互いの下半身の状況に目を剥いた。驚いている兄を睨み付けて雪男は脅すように言う。
「早く、終わらせてって……最初に言ったでしょ?」
燐にとっては不意を突かれたというか騙し打ちみたいなやり方というか、やられ方だった。それでも雪男がとてつもなく怒っている様子に何の文句も言えなかった。
「兄さん……。さっさと動いてよ。中途半端にしか入ってないんだから、外れたら僕もう、二度と入れさせてやんないんだからね!」
脅しをかけてくる雪男に燐はこくこくと頷くばかりで行動に移す様子がない。雪男は半ば涙ぐみながら燐に訴えかける。
「う……うう…、もう痛いの限界……。」
雪男は自らの心持は泣いた振りのつもりでいたが、燐から見える表情は振りと本気の区別がつかないくらいだった。
「あ。ああ……あー……。ごめん。マジごめん……。」
雪男は相変わらず痛さに呻いていたが、いずれは終わりがくる痛みだと思えば耐えられると思った。燐のほうも欲望が勝ってなのか頭がパニックから立ち直れないためか、雪男の中から出て行ってやるという選択肢が思いつかないらしい。雪男の言うとおりにせっせと動いて出来るだけ早く欲望を吐き出そうと苦心していた。
自分のほうに前かがみになっている兄の首に雪男は腕を巻きつかせる。少しでも痛みの感覚を逃すためなのだが、それはどう見ても好きな男に熱烈に抱きついている恋人にしか見えない。
「ゆ……雪男っ。」
「あ…あっ……兄さん。」
ベッドが揺れるたびに夕暮れの残滓に埃が舞うのがはっきりと見える。眼鏡を掛けていないのに感覚がおかしくなったのかと雪男は舞う埃をおぼろげに見た。
凹凸を埋めあってお互いに密着した腰を揺すりながら、こんなに近くにいる相手にあまり頭がいっていない雪男だった。痛みはかなりもう薄れ掛けている。圧迫感と遅れてきた僅かな快感らしきものに意識を向けて、なにかを誤魔化していた。
「雪男っ。もうちょっとでイくからっ……。」
「う、うん……。」
やっと終わる。雪男は思わず終わる前なのに安堵してしまった。その安堵のあとに燐の上半身が雪男に倒れこんできた。
「終わったの? 兄さん?」
「……。」
燐はこくりと頷いた。その肩甲骨あたりを雪男はぽんぽんと叩く。
「ありがと……。ごめんね。急かしてばっかであまりよくなかったでしょ?」
「いや……。俺こそ途中からよく分かってなくて。痛い思いさせたし。」
お互いに男だから自分の至らなさが分かるぶん、最悪とは言わないがそう言っても差し支えないくらいの性行為だった。
「次は頑張るから。」
「次があるといいね。」
「次があるように頑張るからっ。」
「頑張らなくてもいいよ。」
殺生で情け容赦のない言葉だったが、多分この兄は挫けないと雪男は思った。
兄さんはまさに「い・ま・に♪」でした。タイトルは某ガンアクションアニメのエンディングより。まさにこれはひどい。
「疲れてるし掃除は明日でいっか。」
燐は床に荷物を下ろして呟く。数日前までいた和室の畳敷きとはまるで趣の違う無機質で雑然とした部屋に雪男は余計に疲れた気分になってしまった。またここでの生活が待っているのかと。
兄といるのは嫌なわけじゃないが、他者を交えない二人きりというのは濃密な気配から時々逃げ出したくなる。今までは頭の中で誤魔化して麻痺させて平気を装っていたが、京都でのあの悪魔落ちの男との接触によってその誤魔化しが今は無効になってしまっている。
今、雪男の頭の中は受容する全ての刺激に対して無防備だった。全てがストレートに脳に届いて、全てを情報として脳が処理し、それにいちいち細かい感想なり感傷が頭の中を巡っている。
なにもかもあの残酷なことをへらへらと笑いながら言った男のせいだった。あの男の言葉に追い詰められて踊らされていた自分が情けない。そのあとに魔菌の王を焼き払った兄に対して手を上げてしまった。それを引きずってか少し兄弟関係がぎくしゃくしてしまっていた。
「兄さんごめん。あのとき、殴ったりして。」
今更というような謝罪だったが雪男はそれを口にせずにはいられなかった。
「あー……。」
燐は自分の頬を撫でながら間の抜けた声を出した。雪男はそんな暢気な態度の燐に近づいてそっと燐の手の平と頬の間に自分の手を滑らせた。
「雪男……。」
雪男の手の甲に燐の手が重ねられる。
不意に雪男の手が捻られるように取られた。
「兄さん? 何をするんだい。……痛いんだけど……。」
振りほどこうとしたが燐は雪男の手を放そうとしない。捻られた腕を痛みから逃れるために動けばそれは兄に引き寄せられるようになってしまう。
「……。」
唐突な真似をする兄の表情が気になってくる。窓から入ってくる翳った日の光の加減でそれを確認するには目を凝らしてみるしかない。そしてなおも兄に引き寄せられる。
兄は――。
いやらしいくらいに笑っていた。強引な力を行使しているのが嘘なくらいに、まるで悪気がないとでも言うように、その表情は柔らかすぎた。
「雪男。」
声までも弾んでいる。疲れて沈みがちになっている雪男とは正反対に兄の高揚したような表情と声が部屋の中では異様に映った。
「なんだよ。なんか嬉しいことでもあったわけ?」
雪男はなんとなく異様な兄に問いかけてみる。その間にも燐は雪男の腕を離さない。
「嬉しいこと?」
雪男の問いにますます燐の顔がこれ以上ないというくらいに歓喜の表情を浮かべる。
「嬉しいに決まってるだろ。だって俺は――。」
燐は雪男の腕を取っているのとは反対の手を翳して手の平に青い炎を灯らせる。
「ほら。」
それを雪男に見せる。腐病を撒き散らす悪魔を焼き払ったが人間を害することはなかった青い悪魔の炎。それの意味するところは燐が口にせずとも雪男は理解した。
「兄さん。気持ちは分かるよ。でも……。」
炎のコントロールはマスターした。燐が雪男に言いたいことはそれに尽きるだろう。しかし燐にとって大変なのはこれからだということを雪男は燐本人以上に知っている。燐は手の平の上の炎をうっとりと見ているけれど、雪男はそんな暢気な兄の姿に眉を顰めた。
「この炎が俺の思い通りになるってことは、俺はもう危険対象じゃねえってのと同じだよな。」
燐はそれを認めてもいい。塾の仲間も周りの祓魔師もそれを容認するだろう。だからというわけではないが、雪男の口から自然と毀れてきたのは、そんな兄や周囲を批判するような言葉だった。
「あのねえ、それを最終的に決めるのはヴァチカン本部だよ。暫定的には兄さんの意見には同意だけど、本決まりで安全認定されるのは認定試験に受かってからだから。」
兄は弟の言葉を聞いているのか聞いていないのか、相変わらず炎を見つめたままだった。雪男は次第に兄に苛立ってきていた。
「雪男。お前だって嬉しいだろ。」
雪男は兄の主観的過ぎる言葉に何かが切れた。
「兄さん? さっきの僕が言ったこと聞いてた? 試験受からなきゃ、一番納得させなきゃいけない相手に認めさせられないんだよ? 兄さんは、ぶっちゃけ言うけどこれからのほうが大変なんだよ。」
「なんだよ。雪男。喜んでくれねえのかよ?」
途端に兄が悲しそうな顔をする。雪男ははっとなって「ごめん」と口走った。
「別に嬉しくないわけじゃないよ。兄さんが浮かれているように見えたから、また教師面して釘を刺しただけだから。」
「じゃあ。雪男も喜んでくれる?」
それには素直に頷けない雪男だった。雪男としては兄にそんな最終兵器的な能力ばかり精度を上げられても困惑のほうが先に立ってしまう。それが兄の一番の売りだとしても。無益で無害なただの馬鹿でいてくれるほうが、雪男にとっては素直に喜べた。しかしながら兄なりに喜ばしいことを、唯一の身内の雪男がしかめっ面で見ている光景というのも、兄に気の毒な話だった。
「なんだかんだで危ない橋も渡ったけど、良かったとは思ってる。」
雪男は歯切れの悪い同意しか示せなかった。腹の中ではやはりそんな兄に同調できない自分がいた。しかし口だけでも動いてくれたのが助かった。たぶん兄はそんな自分のことを疑ったりはしないだろうと、これまでの兄を見てきた雪男はその信頼にこの場だけでも胡坐を掻かせてもらうことにした。
「兄さん。お腹空かない? せっかくだし、何処かに夕食を食べに行く? 今からご飯作るのもしんどいだろうし。僕からのお祝いもかねて奢るから。」
兄は手の平の上の炎を握り潰す。それは何の名残も残さず消え失せた。目の前でただ青く揺らめいただけ。兄の意思がなければ何ものも燃やすことのない炎だった。
兄は弟の顔を見上げて首を傾げた。弟は何も気づいていないような兄に向かって言う。
「ねえ。この手を放してくれる? もうさっきから少し痺れてきてるし。」
燐に握られたままの腕は手先がの血が少し失せて体温が低くなってきている。そして燐に告げたとおり感覚も鈍くなってきていた。それでも燐は雪男から手を放さない。その代わり何かを小声で呟いた。
「……いって……。」
「なに?」
「お祝いって、メシじゃないといけないの?」
手を放すより先にお祝いに食らいついた燐を見ながら雪男は少し逡巡する。
「今すぐだったら夕ご飯奢るくらいしか思いつかないな。何か欲しいものあるなら教えて。近日中にはどうにかできるから。」
「欲しいもんでいいんだな。お前にもらえるもんだったら。」
「そうだね。僕があげられるものだったら。」
雪男は部屋に帰ってきてから、まったく兄に警戒を緩めなかった。ところがこの瞬間だけは不用意に兄の言葉に頷いた。
「何が欲しいの? 兄さん。」
兄は口の端を上げる。その回答を聞いて弟は兄の悪魔的な本性を垣間見た。
* * *
兄の言葉で真空化した頭に徐々に血の気が戻ってきた。そして記憶が過去へと逆流する。
始まりは小学校中学年ごろの夏だった。教会からさほど離れていない用水路が増水して、そこで子どもが一人溺れた。それを兄が助けた。普通なら一緒に流されて兄こそ二次災害の被害者になるところだったが、兄は見事にその子どもを助け当時燐を誤解していた周囲の大人を一時見直させることになった。
雪男は内心冷や冷やしていた。そんなことが出来たのは兄の悪魔の能力ゆえと分かっていて、傍らの義父の顔を窺っていた記憶はある。それでも兄を認め頭を撫でる大人と嬉しそうな兄を見ているとその心配も薄れていた。
その喧騒のあと、兄におめでとうと言った。兄はぱっと顔を輝かせた。
「雪男! 兄ちゃんすごい?」
「うん。」
「なら……」
兄は自分の額を髪を掻き揚げて見せて「ちゅうしてくれ」と要求してきた。
「えー……」
「駄目なのかよ……」
だってと兄は雪男にその場で思いついたような理由を話し出した。
兄の言葉の根拠は御伽噺の天使から善行に報いて祝福のキスを受ける善人ということらしかったが、雪男には意味の分からない理屈だった。雪男は天使ではないのだし、兄にとって何の有難みがあるのだろうと怪訝に思った。
それでもその当時は兄のしょぼくれた顔を見たくなかったので、結局雪男は燐の額にキスをした。
二回目は中学二年の体育祭だった。燐のクラスの当時の体育会系の人気者にトラブルがあった。体育祭のヒーローが体育祭前日に足を捻挫してしまったのだ。
その生徒に代わって燐がリレーのアンカーを務めることになった。そしてこれまた悪魔の身体能力によって、リレーは燐のクラスが首位になってしまった。そのときの雪男のクラスのアンカーは、まさしく雪男その人で、図らずとも兄弟対決となってしまったのだ。
ラストの走者まで燐のクラスは絶望的最下位だった。それを燐がごぼう抜きして最後に雪男を追い抜いてゴールした。振り向いてクラスメイトより先に雪男に笑いかけた燐に、雪男は苦笑いで言った。
「おめでとう……。兄さん。」
燐のクラスは歓喜で半狂乱だった。誰も期待していなかった登校拒否の不良の活躍に、本来のヒーロー不在の絶望的不利を塗り替えられた事実に沸いた。雪男はそんなクラスメイトに賞賛される兄を、やはり皮肉げな気持ちで見送った。兄の活躍もやはり無自覚な悪魔の力ありきであったからだ。
教会に帰ってから燐はもじもじと雪男に前のようにご褒美を強請ってもいいかと尋ねてきた。
「兄さんの活躍で僕のクラスは勝てなかったんだけど。そんな僕からご褒美を強請るわけ?」
「え? ええ? いいじゃねえかよ。俺せっかく皆に褒められたし。雪男だって俺におめでとうって言ったじゃねえか。」
よっぽど嬉しいんだろうなと納得したし、また燐の額にキスでもすればいいのだろうと雪男は軽い気持ちで「いいよ」と投げ捨てるように言った。
「じゃあ……してもいいか? いいよな?」
「だから何を。」
兄は顔を赤くして部屋を見回す。ドアのところまで歩いてそのドアを開けて外を窺うほどの用心深さだった。
「よし。誰も来ねえ。」
燐は雪男のほうを振り向いたあと、驚くほどの素早さで雪男を二段ベッドの下の段、雪男の寝床に雪男を押し倒した。
「兄さん?」
そこから先は何が起こったのかわからなくなったと言いたくなるくらいに曖昧な記憶だった。
しかしそれは現在になって再び想起される。
- * *
「俺本当は知ってたんだ。俺が他人に褒められるようなことをしたとき、お前だけはいつもあまり嬉しそうじゃなかったこと。」
そんなことはないと組み伏せられたベッドの上で雪男は言おうとしたが、燐は異様なほど優しげな微笑を見せて首を横に振った。掴まれた腕はまだ掴まれたままだった。もう感覚なんか無いに等しい。
「そうだよな。今になって分かったんだけど、俺が悪魔だって知ってたお前にとっちゃあ、俺の説明不能な火事場の馬鹿力が元で周りから褒められたって、嬉しいわけないよな。だってそれは、お前の嫌いな悪魔の力だもんな。そんなもん目の前で見せられて嫌だったんだろ? 京都でも熱海でもそうだったんだよな。」
あの日兄は押し倒してきたそのあと、雪男にキスさせてくれと言い放った。そしてやはり胸にもやもやを秘めたまま、雪男はその要求を飲んだ。
毅然と拒絶すればどうなるというわけでもない。これが兄の「初めて」の要求ならば。現在の雪男は既に燐という悪魔の要求を「二回も」叶えてしまっている。最初の甘くてくすぐったい要求から息苦しくて直接的な要求にエスカレートしている。三回目の要求を拒絶は出来ないと雪男は自然と確信してしまった。
この部屋は。と、雪男は見慣れたようで馴染めない部屋の天井を、兄の顔ごしに見上げて眼を瞑った。ドアの外を見なくても誰も来ないことは分かっている。
四月のあの日、兄の監視を含めて雪男は自分ごと兄を隔離した。この旧寮こそ、誰も寄せ付けることのない兄にとって好都合な城砦だった。兄の自分への執着は薄々という言葉では足りないくらいに感じていたくせに、敢えて自分は事が起こった時に誰にも助けを求められない場所に兄と二人きりになることを選んでしまった。
「兄さんは卑屈で滑稽で愚直だ。」
決定的なことを先延ばしにしていたのは雪男ではない。兄本人だった。その気になればいつだって手を伸ばせたはずなのに、それをしなかった。自分も雪男も納得する理由、ご褒美という名目がなければ、この悪魔は雪男に手を出せないのだった。これは人間と悪魔の契約そのものだなと雪男は実感した。
「雪男は俺にとってのご褒美だから。」
なんだそれと心の中で呟いて雪男は笑いたくなった。お互いがお互いを生身の人間だと認めていないのを許容しあっているような、そんな歪な関係なのか。
ああ。もうどうにでもなれと思うには、雪男はまだまだ往生際がよくなかった。
* * *
幼い頃は病弱だったが鍛えた身体の頑強さには多少の自信はあった。精神的なず太さには恵まれなかったが、その分用心深い性分で補っていた。
何を今更なようだが頭の中で自分のスペックを雪男は確認する。その中で男との性交に必要な部分を抽出していた。
今自分が置かれている状況に自分が耐えられるかどうか、自分自身を値踏みする。今回はどうにか耐えられそうだと雪男は踏んだ。
服は自分で脱ぐからと言ったのに兄はそれを受け入れてくれなかった。服を脱がすところから兄にとってはご褒美のようだ。もっと勿体ぶった言い方をすれば戦利品か。確かに兄が勝ち取ったのだからそう思われてもしょうがないのかもしれない。だんだん晒される肌に兄が愛おしそうに手を這わせる。
このままただ横たわっているだけで目を瞑っていればいいのかもしれない。そんなマグロ状態でも兄はそれなりに楽しめるかもと、雪男はこれから起こることに対して逃げ道を残した。
医学を多少齧っている雪男は男の身体の構造の単純さ加減を熟知していた。同性を受け入れる入り口は本来そんな目的で存在するものではない。それを含めて考え得る痛みや傷や出血への恐れなんぞは想定内としか言いようがない。もしもと、少し怖く思うのは感染症だがそれも後の処置でどうとでもなる。
「雪男……。」
兄の上ずった声が耳元を掠める。平気な振りをしようとしたが、目を開けて見た兄の表情は弟の様子を心配そうに窺うものだった。
「兄さん。」
「怖いか? 雪男? ごめんな。」
怖い? 僕が? 雪男は兄の言葉をいぶかしく思う。怖がらせていると思うなら最初からするなよとは言わないが、悪魔らしくない思いやりを感じさせる言い方に声が少し尖る。
「僕が兄さんを怖がるとでも?」
「だってお前、身体がちがちじゃねえか。」
雪男は自分の身体を省みる。冷静さを装っている内心とは異なり僅かに緊張しているらしいことは見て取れた。
「慣れてないからね……。ていうか、経験皆無だからね。」
雪男は言い訳をするように兄に吐き捨てる。
「皆無ってなんだよ。」
「一度もしたことないってこと。」
「えっ、ごめん。」
「なんで謝る!」
雪男は思わず兄を怒鳴った。兄は気弱そうにびくっと背中を震わせる。
「いいから早く済ませて。……お願いだから。僕になんやかんや考えさせないで……。」
冷たい言い方だと自分でも思う。燐は分かったと頷きながら雪男の乳首に舌を這わせた。済まなそうにしていてもそれでもやることはやるんだと、雪男は自分と同じ男というものにに幻滅に似た感情を覚えた。自分が欲情する対象に対して、欲望を隠さないところとか。敢えて中断して今回はやめてやろうという心の余裕がないところとか。そもそも雪男が行為に対して同意したとはいえ、本意ではないというくらい分かっているだろうにとか。
それについては色々と雪男にも思うところがある。同じ男に、同じ血を分けた兄弟に無理やり陵辱されるような屈辱は回避したい。それについては兄の中の手前勝手なマイルールには感謝している。一つは雪男や周囲が納得する功績を挙げていること。もう一つはその功績に対しての褒賞となる雪男その人から許可を貰うこと。雪男は兄にしては兄のマイルールは意外と理にかなっているなと妙に感心した。
「雪男は本当は俺と、こういうことしたくないんだよな?」
燐は雪男の鎖骨に唇を寄せながら寂しそうに言った。
「したくないけど。兄さんだから許してあげる。」
「今は……それでもいい。雪男……。」
雪男は兄の頭を撫でてあげた。兄の愚昧さを許すことで雪男の中の鬱憤が少し軽くなったような気がした。
全ては雪男の勝手な推測でしかないのだが、これからのことを思うと色々と都合が良かった。監視者とその対象が変に馴れ合わなくてもいいこと。相変わらず精神的な優位に立てること。兄からの身体の要求のタイミングが雪男にも測れること。兄にとってのその機会は限りなく限定されているし頻度も少ないだろうと、前もって分かっていること。
兄が泣き笑いのような表情を浮かべる。
雪男の心には何も響かない。何も湧き上がってこない。それでも爪の先ほどこの悪魔を可愛いと思えてしまう感性だけは残っているようだ。雪男は無意識に頬を緩ませて燐に微笑みかけていた。
「雪男……。」
その甘い表情に兄の意識は融けているのだろう。
「しょうがないな兄さんは……。」
早く済ませて貰うにはそれなりのことをしなければならないのだと悟った雪男は、ずらしたジャージからはみ出している兄の一物に手を伸ばすがさっと身を引かれてしまった。
「駄目だ。雪男はそんなことしない……。」
「なに決め付けてるんだよ?」
「そんな……。不良なこと……。」
ふうんと頷きながらも雪男は身体を起こして、うろたえる兄を尻目に兄自身を手で包んだ。
「あうっ……」
けしておざなりな行為だと取られないように両手で丁寧に扱いてやる。
「こんなにしちゃって。僕にスケベ行為したかったくせに三ヶ月……もうそろそろ四ヶ月か……よくやせ我慢したもんだね。」
先端からにじみ出るものを指に絡ませてぬるぬるとした感触に任せて指を滑らせる。そのたびに兄が声にならない声を上げて泣きそうになるものだから、雪男はそれが愉快でしょうがない。
「雪男ぉ……。……あぅ……。」
「え? 兄さん?」
突然兄が抱きついてきたと思えば、再び雪男を押し倒して乱雑に重なっている敷布団や掛け布団に埋めてくる。雪男の足に半端に絡まっていたスラックスと下着を完全に足から抜いて、ふーふーと荒い息を吐き、雪男の膝を両手で割り開いた。
興奮させすぎたと雪男は臍を噛んだが、燐の意識は軽く飛んでいるようで目が焦点を合わせきれていないなどと観察じみた目を燐に向けていた。
腰が持ち上げられ布団との間に兄の膝が入り込んでくる。
「……いやっ……」
いきなり後ろに指を突き入れられる。勿論すんなり入るわけがない。兄は焦ったように指を引き抜くと自分の口に持っていき、その指を舐めて再び同じところに突き入れた。
「痛っ……。」
今までどこか冷静さを残していた雪男だったが、その冷静さは兄の獣じみた行為で一瞬で崩れ去ろうとしている。
「痛……い、から……。」
雪男が声を上げるたび燐は自分の指を舐めその部分に抜き差しを繰り返している。幸いにも出血はしていないが、それは燐が我に返る機会が訪れそうにないことを同時に示していた。
「雪男? まだ痛い? 兄ちゃんも初めてだから、よく、わかんねえから。」
わかって堪るもんかと雪男は心の中で兄に毒づく。屈辱感を回避しようとしてきたのに、その為に冷静さを固辞したり、兄を先導するような真似をしたのに。もうそんなことが何の功も奏さなくなっている。それどころか冷静さを固辞した故に後から迫ってきた屈辱感の色が濃く雪男を取り巻いて、そこには何の逃げ場もないことを自覚させられた。
たかだか痛みぐらいだと高を括っていた。ギブ&テイクの行為だと思っていた。そうではないのだと今この瞬間に思い知らされる。相手が悪魔だという以前に、同性に陵辱されるという意味を雪男は履き違えて軽く考えていた。それは自分のことを強い人間だと思い込もうとしていた自分を否定されるような恐怖すら覚える。自分の自信など、今自分の身体や自分の感覚を犯している相手には何も関係がないのだと気づかされる。
それでも諦め悪く雪男は兄に責め続けられている部分から意識を逸らそうとした。その為に必要な言葉を吐こうと口を開く。
「何? 雪男?」
「……。キスして。」
燐は動きを止めて固まっていた。まさか雪男の口からそんな要求が飛び出してくるとは思わなかったのだ。
「え? いいの?」
雪男は声が出なかったので無言で頷く。薄く開いた雪男の口に燐がむしゃぶりついてくる。燐の手は雪男のそこから離れて、雪男をきつく抱きしめた。
『んー……。』
燐が夢中で雪男の口内を蹂躙している間に、雪男は燐の一物を握って自分のアナルに押し当て一気にそれを押し込んだ。まるで自分の身体にナイフを突き立てるように。
「んっ……。んんっ。」
思わぬ刺激にぷはっと燐は息を吐くと、お互いの下半身の状況に目を剥いた。驚いている兄を睨み付けて雪男は脅すように言う。
「早く、終わらせてって……最初に言ったでしょ?」
燐にとっては不意を突かれたというか騙し打ちみたいなやり方というか、やられ方だった。それでも雪男がとてつもなく怒っている様子に何の文句も言えなかった。
「兄さん……。さっさと動いてよ。中途半端にしか入ってないんだから、外れたら僕もう、二度と入れさせてやんないんだからね!」
脅しをかけてくる雪男に燐はこくこくと頷くばかりで行動に移す様子がない。雪男は半ば涙ぐみながら燐に訴えかける。
「う……うう…、もう痛いの限界……。」
雪男は自らの心持は泣いた振りのつもりでいたが、燐から見える表情は振りと本気の区別がつかないくらいだった。
「あ。ああ……あー……。ごめん。マジごめん……。」
雪男は相変わらず痛さに呻いていたが、いずれは終わりがくる痛みだと思えば耐えられると思った。燐のほうも欲望が勝ってなのか頭がパニックから立ち直れないためか、雪男の中から出て行ってやるという選択肢が思いつかないらしい。雪男の言うとおりにせっせと動いて出来るだけ早く欲望を吐き出そうと苦心していた。
自分のほうに前かがみになっている兄の首に雪男は腕を巻きつかせる。少しでも痛みの感覚を逃すためなのだが、それはどう見ても好きな男に熱烈に抱きついている恋人にしか見えない。
「ゆ……雪男っ。」
「あ…あっ……兄さん。」
ベッドが揺れるたびに夕暮れの残滓に埃が舞うのがはっきりと見える。眼鏡を掛けていないのに感覚がおかしくなったのかと雪男は舞う埃をおぼろげに見た。
凹凸を埋めあってお互いに密着した腰を揺すりながら、こんなに近くにいる相手にあまり頭がいっていない雪男だった。痛みはかなりもう薄れ掛けている。圧迫感と遅れてきた僅かな快感らしきものに意識を向けて、なにかを誤魔化していた。
「雪男っ。もうちょっとでイくからっ……。」
「う、うん……。」
やっと終わる。雪男は思わず終わる前なのに安堵してしまった。その安堵のあとに燐の上半身が雪男に倒れこんできた。
「終わったの? 兄さん?」
「……。」
燐はこくりと頷いた。その肩甲骨あたりを雪男はぽんぽんと叩く。
「ありがと……。ごめんね。急かしてばっかであまりよくなかったでしょ?」
「いや……。俺こそ途中からよく分かってなくて。痛い思いさせたし。」
お互いに男だから自分の至らなさが分かるぶん、最悪とは言わないがそう言っても差し支えないくらいの性行為だった。
「次は頑張るから。」
「次があるといいね。」
「次があるように頑張るからっ。」
「頑張らなくてもいいよ。」
殺生で情け容赦のない言葉だったが、多分この兄は挫けないと雪男は思った。
兄さんはまさに「い・ま・に♪」でした。タイトルは某ガンアクションアニメのエンディングより。まさにこれはひどい。
☆ss「高砂番外編」柔蝮
「高砂6」の帰り道。僧正家設定に捏造あり。
宝生蝮は男運の悪い女だった
その始まりは生まれたときから始まった。
蝮が生まれたとき、志摩家には蝮より年長の男児が既に二人いた。長男の矛造と次男の柔造だった。当時の座主だった竜士の祖父は明陀の結束を強めるために宝生家と志摩家に声をかけ、両家の長男と長女に将来婚姻関係を結ばせようとした。分かりやすく政略結婚だった。一人息子が旅館の娘なんぞと結婚したので、身内同士で僧正家を結びつけたかったのかもしれない。息子への当て付けの意味も込めて。
両家は勝呂家に敬して暫定的に志摩家長男の矛造と志摩家長女の蝮を許嫁とした。あくまで勝呂家に対する恭順の意を表すためだった。
『蝮は将来、矛造さんのお嫁さんになるんやで。』
当たり前のように蟒から刷り込まれた擬似恋愛みたいな言葉は、幼い蝮の心に深く染み渡っていった。実際に歳がいっこ上の柔造は蝮の目から見てもガキっぽく見えていたが、それよりさらに数年年長の長男矛造はたかが数年とはいえ、蝮にとっては随分と大人に見えてしまった。将来自分を保護し守ってくれる男として、幼女ながらに胸をときめかせたものだった。矛造も将来のまだ幼い花嫁に優しく接してくれた。
なのに蝮が十歳を迎える前に矛造は勝呂竜士と志摩廉造を守って非業の死を遂げてしまった。
蝮は勿論その現実を悲しんだ。しかし蝮はたかだか八歳の幼女でしかなく、しかしその歳にしては現実的な考え方をしていた。運が悪ければ宝生家でも似たような死人が出ていたかもしれないという仮定のもとに、なんとか悲しみに引きずられそうな自分を叱咤した。そして八歳にして今度は宝生家次期当主としての生き方を受け入れようと決意した。
そんな幼女の悲痛な決意とは裏腹に、裏話を言えば蝮は次期当主繰り下げによる影響で柔造の許嫁にさかけていた。喪の明けたある日のこと、八百造と蟒の間でそのことについて話し合いがあったのだ。そこで当然のように八百造は前述のような話を蟒に持ちかけた。
しかし見た目は冷血な蛇に見える父親の蟒は、割と世間でいうところのスタンダードな父親で、矛造と娘の婚約は勝呂家に対する義理を通したに過ぎなかったと八百造に告げた。
『八百造。矛造さんの次は柔造さんってのは、流石に蝮が可哀想すぎると思うんや。』
冷静な蟒から「可哀想」という主観的過ぎる言葉を聞いて八百造は面食らった。
『ええ? 可哀想って。柔造と結婚するの嫌とか蝮ちゃんがそう言うたんか? うちの柔造は蝮ちゃんによう絡むけど、本当は蝮ちゃんのこと好きなんやで。どうにか柔造の嫁に貰えんかな?』
他人の家の娘を粗品みたいに言うなと蟒は綺麗なスキンヘッドに静脈を浮かせながら昔からの親友に言う。
『それについて蝮に聞いたんやけどな、ガキっぽい申はどうでもええと言うとったわ。』
『ひど!』
先代の勝呂家の和尚様も青い夜の犠牲になって既に死んでいる。もう志摩家・宝生家に課せられた婚姻関係の履行義務はほぼない。現当主になった達磨が再び命令すれば違うだろうが、達磨は先代ほど明陀の僧正家に対して高圧的な人物ではなかった。それを知って敢えて蟒は蝮の父親の立場として八百造に告げる。
『こう言ってはなんやけど、柔造さんは矛造さんに比べてちょっとなあ。あのかっとしやすいところとか。好きな子に対してちょっかい出すとことかなあ。そういうとこも含めて蝮の言った手前もあるし、もうちょい明陀も柔造さんも落ち着くときまで、その話は置いておいて欲しいんや。八百造。』
『そうか。わかったわ。つまり柔造と蝮ちゃんはあんまり見込みがないということやな。すまんな。オブラートに包んで言うてくれたんやな。蝮ちゃんの言ったことはせめて柔造には内緒にしとこ。すまん、蟒。』
しかし父親二人が話し合っている外で柔造はその話を立ち聞きしていた。兄の矛造のことは勿論ショックだったが、将来の夫を幼くして亡くした蝮のことも背負おうと心密かに誓っていた柔造に追い討ちを掛けてしまった迂闊な父親たちだった。
そして年月が経って蝮は高校生になった。真面目な蝮は家族から離れて上京した先の正十字学園でも一生懸命勉強した。当然、そこらへんの同年代の男になんぞ目もくれなかった。もしかしたら心に残った幼女時代の自分が死んだ矛造に変に義理立てしていたのかもしれない。しかし勉強家の蝮が唯一身内以外で言葉を交わすことが多かった男がいた。
祓魔塾講師・藤堂三郎太である。
後に蝮の人生を良くも悪くも狂わせ二度目の災難に遭わせた男だった。
* * *
とらやから帰る車の中で柔造は助手席に座って無口になっている嫁に声をかけづらかった。しかし黙っているのも気まずいので、他愛のないことから話そうと必死に考え口を開いた。
「びっくりしたなアレ。」
「アレ言うて、なんやねん。眼鏡の狸か?」
「眼鏡の狸がおったのもびっくりしたけど。お前がもしかしたら、間髪入れずあの狸殺すかもしれんと思うてあのときは冷や冷やした。それをきっと止めへんやろうなと冷静に思ったりした俺も、俺自身が怖かったわ。」
蝮は柔造を一瞥する。
「……。せやな。なんで私はあいつ殺せへえかったんやろ?」
柔造なりの軽いブラックジョークを蝮は本気で受け取ってしまった。そしてある意味柔造は地雷を踏んだ。
「お前昔っから落ち着いた大人っぽい男が好みやったからな。」
蝮は黙って視線を逸らした。柔造は前方を向いて運転しながらぽつりと呟く。
「しかもあいつは優しげな奴やったし。」
いきなり蝮が左手を伸ばしてハンドルを握っている柔造の手を掴んできた。
「危ないやろ。」
「変なこと言うんやったら、このままそこらへんのガードレールに突っ込んで心中したろか?」
そんなことをされては困るので柔造は蝮を宥めながらハンドルを取られないように車を走らせる。そして路肩に車を止めた。
「柔造お前、私があの男に未練があるとか勘繰っとんのか?」
「お前が娘時代に個体識別出来とった数少ない男の一人やったからな。一応根拠はあるっちゅーことで。」
「根拠があったら勘繰ってええんか? 昔のことごちゃごちゃと……。」
あーあ、と柔造は心の中で思う。こんなふうなやり取りの時には蝮は頑固というか、一方的に非がこっちにあるように持って行こうとする。別にそれはいい。好いた女に八つ当たりされるくらいは柔造はなんとも思わなかった。しかし今日しか出来ないような話を今日しない理由はない。
「お前。あの狸に騙されたんは、ほんで騙され続けとったんは、やっぱりあいつのこと好きやったからやないん? ほんで今日あいつのこと許したんも、まだあいつのこと恨み切れないとこがあったんやないん?」
「女の腐ったような詮索すんなや。私があの狸のことうっかり信じ抜いてとんでもないことになったんは、あいつの言うてたことが途中まで本当に真実やったからや。」
「ほんでも俺やったら信じんけどな。」
蝮は痛いところを突かれたというようにぎくりと肩を震えさせる。
「ゆ、許したんはな……、あの……。そや。心の新陳代謝というやつや。いつまでも古い記憶に縛られとったらあかん。心が垢だらけになってまう。」
「ふーん。」
柔造は再び車を発車させた。
「ほんならもう、ええんやないか?」
「何がや。」
柔造は京都の街の碁盤の目を軽快に走る。
「騎士団復帰。再認定試験の受験資格まだ貰えてへんし。」
蝮は水面下に多方面に騎士団復帰の根回しをしていた。しかし不浄王事件そのものの知名度と予測された被害の大きさ故に、蝮の堅実な努力の結果は芳しくなかった。それはつまり堅実であっても空回りでしかなかった。柔造としてもそろそろ、そんな妻の空回りを見守るのも辛くなってきていた。
蝮は再び柔造に噛み付いた。
「妻のキャリアアップへの努力が不満なんか!」
「いや……だからな、キャリアアップなら家で他の職種でやればええやん。それに俺もうそろそろ子ども欲しいんやけど。お嫁さんからおかあはんにキャリアアップ、ええやんか。」
この男はと蝮は歯噛みする。妻の他の男への気持ちを咎めはしないが、やはり自分が特別だと思いたいところがひしひしと伝わってくるし、それの裏に隠した妙な思いやりが背中を痒くさせる。
柔造は大事なことなのか、もう一度同じことを口にする。
「子ども、欲しいわあ。結婚三年目やし。もう坊もサタンの息子を嫁にしとんやで。時が経つんは早いわ。だからこそ親父に孫の顔見せたいし。弟やら妹やらに甥っ子姪っ子の顔見せたいし。お前のおとうはんや妹らもそれを楽しみにしとるやろうし。」
それを言われたら耳が痛い蝮だった。
「考えとくわ。前向きに。」
「頼む。前向きに。」
旧姓・宝生蝮は男運の悪い女だった。
そして三度目の正直によって、結局蝮は志摩家の花嫁になった。幼かった自分の思い描いていたものとは全然違う。幼い自分が今の自分を見たらきっと何に妥協しとるんやお前と説教を食らう羽目になるだろう。しかし、そんな無垢だった頃の自分に蝮は言い返すだろう。
『私は妥協したわけでも諦めたわけでもない。』
隣の柔造がちらっちらっとこちらを余所見してくる。危ないやんかと言いながら柔造の横腹をつつく。柔造はへらへらと笑いながらごめんと言った。ほんま頼りない男やわと思いながらシートに身体を沈めた。
心の中の幼い自分はまだ怪訝な顔をしている。その自分に蝮は語りかける。
『私も柔造も失敗しながら大人になっただけや。私はとんでもない狸に騙されて大人っぽい男に夢見がちな幼女やなくなって、柔造は好きな子にちょっかい出してガキ扱いされるような申やなくなった。そんな柔造に私が遅ればせながらに気づいて、好きになった。そういうことや。』
幼女な蝮はしかめっ面を浮かべながら頷いてくれた。所詮は蝮が心の中で思い浮かべただけの自問自答の相手でしかないかもしれないが、ここまですんなりと納得してくれたのには驚きが隠せなかった。
なんか最近柔蝮率が高いような気がします。esperanzaとは違うはずなので、蝮と金造の嫁小姑戦争は無いものと考えてください(現時点)
宝生蝮は男運の悪い女だった
その始まりは生まれたときから始まった。
蝮が生まれたとき、志摩家には蝮より年長の男児が既に二人いた。長男の矛造と次男の柔造だった。当時の座主だった竜士の祖父は明陀の結束を強めるために宝生家と志摩家に声をかけ、両家の長男と長女に将来婚姻関係を結ばせようとした。分かりやすく政略結婚だった。一人息子が旅館の娘なんぞと結婚したので、身内同士で僧正家を結びつけたかったのかもしれない。息子への当て付けの意味も込めて。
両家は勝呂家に敬して暫定的に志摩家長男の矛造と志摩家長女の蝮を許嫁とした。あくまで勝呂家に対する恭順の意を表すためだった。
『蝮は将来、矛造さんのお嫁さんになるんやで。』
当たり前のように蟒から刷り込まれた擬似恋愛みたいな言葉は、幼い蝮の心に深く染み渡っていった。実際に歳がいっこ上の柔造は蝮の目から見てもガキっぽく見えていたが、それよりさらに数年年長の長男矛造はたかが数年とはいえ、蝮にとっては随分と大人に見えてしまった。将来自分を保護し守ってくれる男として、幼女ながらに胸をときめかせたものだった。矛造も将来のまだ幼い花嫁に優しく接してくれた。
なのに蝮が十歳を迎える前に矛造は勝呂竜士と志摩廉造を守って非業の死を遂げてしまった。
蝮は勿論その現実を悲しんだ。しかし蝮はたかだか八歳の幼女でしかなく、しかしその歳にしては現実的な考え方をしていた。運が悪ければ宝生家でも似たような死人が出ていたかもしれないという仮定のもとに、なんとか悲しみに引きずられそうな自分を叱咤した。そして八歳にして今度は宝生家次期当主としての生き方を受け入れようと決意した。
そんな幼女の悲痛な決意とは裏腹に、裏話を言えば蝮は次期当主繰り下げによる影響で柔造の許嫁にさかけていた。喪の明けたある日のこと、八百造と蟒の間でそのことについて話し合いがあったのだ。そこで当然のように八百造は前述のような話を蟒に持ちかけた。
しかし見た目は冷血な蛇に見える父親の蟒は、割と世間でいうところのスタンダードな父親で、矛造と娘の婚約は勝呂家に対する義理を通したに過ぎなかったと八百造に告げた。
『八百造。矛造さんの次は柔造さんってのは、流石に蝮が可哀想すぎると思うんや。』
冷静な蟒から「可哀想」という主観的過ぎる言葉を聞いて八百造は面食らった。
『ええ? 可哀想って。柔造と結婚するの嫌とか蝮ちゃんがそう言うたんか? うちの柔造は蝮ちゃんによう絡むけど、本当は蝮ちゃんのこと好きなんやで。どうにか柔造の嫁に貰えんかな?』
他人の家の娘を粗品みたいに言うなと蟒は綺麗なスキンヘッドに静脈を浮かせながら昔からの親友に言う。
『それについて蝮に聞いたんやけどな、ガキっぽい申はどうでもええと言うとったわ。』
『ひど!』
先代の勝呂家の和尚様も青い夜の犠牲になって既に死んでいる。もう志摩家・宝生家に課せられた婚姻関係の履行義務はほぼない。現当主になった達磨が再び命令すれば違うだろうが、達磨は先代ほど明陀の僧正家に対して高圧的な人物ではなかった。それを知って敢えて蟒は蝮の父親の立場として八百造に告げる。
『こう言ってはなんやけど、柔造さんは矛造さんに比べてちょっとなあ。あのかっとしやすいところとか。好きな子に対してちょっかい出すとことかなあ。そういうとこも含めて蝮の言った手前もあるし、もうちょい明陀も柔造さんも落ち着くときまで、その話は置いておいて欲しいんや。八百造。』
『そうか。わかったわ。つまり柔造と蝮ちゃんはあんまり見込みがないということやな。すまんな。オブラートに包んで言うてくれたんやな。蝮ちゃんの言ったことはせめて柔造には内緒にしとこ。すまん、蟒。』
しかし父親二人が話し合っている外で柔造はその話を立ち聞きしていた。兄の矛造のことは勿論ショックだったが、将来の夫を幼くして亡くした蝮のことも背負おうと心密かに誓っていた柔造に追い討ちを掛けてしまった迂闊な父親たちだった。
そして年月が経って蝮は高校生になった。真面目な蝮は家族から離れて上京した先の正十字学園でも一生懸命勉強した。当然、そこらへんの同年代の男になんぞ目もくれなかった。もしかしたら心に残った幼女時代の自分が死んだ矛造に変に義理立てしていたのかもしれない。しかし勉強家の蝮が唯一身内以外で言葉を交わすことが多かった男がいた。
祓魔塾講師・藤堂三郎太である。
後に蝮の人生を良くも悪くも狂わせ二度目の災難に遭わせた男だった。
* * *
とらやから帰る車の中で柔造は助手席に座って無口になっている嫁に声をかけづらかった。しかし黙っているのも気まずいので、他愛のないことから話そうと必死に考え口を開いた。
「びっくりしたなアレ。」
「アレ言うて、なんやねん。眼鏡の狸か?」
「眼鏡の狸がおったのもびっくりしたけど。お前がもしかしたら、間髪入れずあの狸殺すかもしれんと思うてあのときは冷や冷やした。それをきっと止めへんやろうなと冷静に思ったりした俺も、俺自身が怖かったわ。」
蝮は柔造を一瞥する。
「……。せやな。なんで私はあいつ殺せへえかったんやろ?」
柔造なりの軽いブラックジョークを蝮は本気で受け取ってしまった。そしてある意味柔造は地雷を踏んだ。
「お前昔っから落ち着いた大人っぽい男が好みやったからな。」
蝮は黙って視線を逸らした。柔造は前方を向いて運転しながらぽつりと呟く。
「しかもあいつは優しげな奴やったし。」
いきなり蝮が左手を伸ばしてハンドルを握っている柔造の手を掴んできた。
「危ないやろ。」
「変なこと言うんやったら、このままそこらへんのガードレールに突っ込んで心中したろか?」
そんなことをされては困るので柔造は蝮を宥めながらハンドルを取られないように車を走らせる。そして路肩に車を止めた。
「柔造お前、私があの男に未練があるとか勘繰っとんのか?」
「お前が娘時代に個体識別出来とった数少ない男の一人やったからな。一応根拠はあるっちゅーことで。」
「根拠があったら勘繰ってええんか? 昔のことごちゃごちゃと……。」
あーあ、と柔造は心の中で思う。こんなふうなやり取りの時には蝮は頑固というか、一方的に非がこっちにあるように持って行こうとする。別にそれはいい。好いた女に八つ当たりされるくらいは柔造はなんとも思わなかった。しかし今日しか出来ないような話を今日しない理由はない。
「お前。あの狸に騙されたんは、ほんで騙され続けとったんは、やっぱりあいつのこと好きやったからやないん? ほんで今日あいつのこと許したんも、まだあいつのこと恨み切れないとこがあったんやないん?」
「女の腐ったような詮索すんなや。私があの狸のことうっかり信じ抜いてとんでもないことになったんは、あいつの言うてたことが途中まで本当に真実やったからや。」
「ほんでも俺やったら信じんけどな。」
蝮は痛いところを突かれたというようにぎくりと肩を震えさせる。
「ゆ、許したんはな……、あの……。そや。心の新陳代謝というやつや。いつまでも古い記憶に縛られとったらあかん。心が垢だらけになってまう。」
「ふーん。」
柔造は再び車を発車させた。
「ほんならもう、ええんやないか?」
「何がや。」
柔造は京都の街の碁盤の目を軽快に走る。
「騎士団復帰。再認定試験の受験資格まだ貰えてへんし。」
蝮は水面下に多方面に騎士団復帰の根回しをしていた。しかし不浄王事件そのものの知名度と予測された被害の大きさ故に、蝮の堅実な努力の結果は芳しくなかった。それはつまり堅実であっても空回りでしかなかった。柔造としてもそろそろ、そんな妻の空回りを見守るのも辛くなってきていた。
蝮は再び柔造に噛み付いた。
「妻のキャリアアップへの努力が不満なんか!」
「いや……だからな、キャリアアップなら家で他の職種でやればええやん。それに俺もうそろそろ子ども欲しいんやけど。お嫁さんからおかあはんにキャリアアップ、ええやんか。」
この男はと蝮は歯噛みする。妻の他の男への気持ちを咎めはしないが、やはり自分が特別だと思いたいところがひしひしと伝わってくるし、それの裏に隠した妙な思いやりが背中を痒くさせる。
柔造は大事なことなのか、もう一度同じことを口にする。
「子ども、欲しいわあ。結婚三年目やし。もう坊もサタンの息子を嫁にしとんやで。時が経つんは早いわ。だからこそ親父に孫の顔見せたいし。弟やら妹やらに甥っ子姪っ子の顔見せたいし。お前のおとうはんや妹らもそれを楽しみにしとるやろうし。」
それを言われたら耳が痛い蝮だった。
「考えとくわ。前向きに。」
「頼む。前向きに。」
旧姓・宝生蝮は男運の悪い女だった。
そして三度目の正直によって、結局蝮は志摩家の花嫁になった。幼かった自分の思い描いていたものとは全然違う。幼い自分が今の自分を見たらきっと何に妥協しとるんやお前と説教を食らう羽目になるだろう。しかし、そんな無垢だった頃の自分に蝮は言い返すだろう。
『私は妥協したわけでも諦めたわけでもない。』
隣の柔造がちらっちらっとこちらを余所見してくる。危ないやんかと言いながら柔造の横腹をつつく。柔造はへらへらと笑いながらごめんと言った。ほんま頼りない男やわと思いながらシートに身体を沈めた。
心の中の幼い自分はまだ怪訝な顔をしている。その自分に蝮は語りかける。
『私も柔造も失敗しながら大人になっただけや。私はとんでもない狸に騙されて大人っぽい男に夢見がちな幼女やなくなって、柔造は好きな子にちょっかい出してガキ扱いされるような申やなくなった。そんな柔造に私が遅ればせながらに気づいて、好きになった。そういうことや。』
幼女な蝮はしかめっ面を浮かべながら頷いてくれた。所詮は蝮が心の中で思い浮かべただけの自問自答の相手でしかないかもしれないが、ここまですんなりと納得してくれたのには驚きが隠せなかった。
なんか最近柔蝮率が高いような気がします。esperanzaとは違うはずなので、蝮と金造の嫁小姑戦争は無いものと考えてください(現時点)
☆ss「高砂6」勝燐+柔蝮+雪&藤堂 ギャグ
ちゃっかり人間と仲良くしている悪魔もいる。その代表選手が猫叉だった。
雪男は任務あとの埃で汚れた眼鏡を拭きながらぼんやりとした視界の中、一人と一匹の影を見つけた。「ああ。おかあはんとクロか。」とぼんやり思いながら、なかなか落ちない汚れにイラついてきていた。眼鏡は雪男の身体の一部といえるので、自らの身体に磨きをかけるが如くに愛おしそうに息を吹きかけ、念入りにレンズを拭く。その無機物は雪男にされるがままで何も応えてくれない。
クロはとらやの厨房の勝手口外でちょこんと可愛らしく座っていた。そこへ虎子が通りかかったらしい。雪男の耳に会話らしき声が聞こえてくる。
「あらクロちゃん。お行儀ええわあ。ええもんあげようか?」
『やったあ。おかあはん好き。』
「うちもクロちゃんのこと好きやで。ほら。」
虎子は着物の袂から饅頭を取り出してクロの口元に持っていくと、クロははぐはぐと饅頭にかじりついた。それを見て雪男は饅頭を猫にやるなんて傍から見れば非常識だよなと思った。人間の食べるものは猫の消化器官に負担をかけるかもしれないのにとか。しかしクロは獣医学とは無縁の猫なので、それは単に雪男の中の常識が悲鳴を上げているだけだった。
饅頭を食べた後も虎子とクロはまるで会話をしているような応酬を続けている。当然クロはにゃあにゃあとしか言っていないわけだが、虎子とクロは気持ちが通じ合っているように見えた。
「ふうん。クロちゃんは消費税増税に反対なんやね。うちもなんよ。TTPも反対やな。」
「にゃあ。にゃあ。にゃあ。」
あんたらお互いに適当なこと言っているんだろうとツッコミを入れたくなる。しかし雪男は一人と一匹に声をかけないまま通り過ぎる。今日はクロはとらやに来て間もないのにすっかりここの住人に好かれている。数年間過ごした正十字学園の日々をすっかり忘れたように、とらやの女将、番頭、仲居、板前、その他明陀宗の面々と仲良くしていた。
「悔しくなんか、ないんだからね。」
雪男は一人呟く。三年前、雪男はクロを普通の猫として意図せず半ば侮辱紛いに扱ってしまったため、未だにクロに打ち解けてもらえてなかった。
「使い魔って言ったって、クロは神父さんが飼ってたときから別に祓魔に関わっていたわけじゃないし。人間の言葉が話せたりするわけじゃないし。ほとんどペット扱いだったじゃないか。それに猫叉は一般人からすれば普通の猫と遜色ないわけだし。形だけでもトイレとかペットフード用意しないと世間に示しがつかなかったわけだし。僕がやってきたことはけして間違ってない。そういうことに兄さんが気を回さなくて対等な友達感覚だったからしょうがないじゃん。なのにクロから悪者扱いとはいかないけど、分からず屋みたいに思われるのは釈然としない。」
兄が勝呂と結婚して京都に一緒に移り住んでからは多少は丸くなった雪男ではあったが、新規の交流関係で自分の既存のわだかまりを解決出来るわけではなかった。その一番些細なところがクロとの関係だった。クロと兄の燐は自分の分からないところで意思を通じ合っている。要は雪男がクロに対して姑根性を表に出してしまうのは、そういうやっかみ的な意味もあった。そういう感情も込みだとすれば、クロが外で粗相をすれば兄が恥を掻くんだぞという根暗な脅し的な意味を、雪男の用意したペット用品に込めてしまったということも否定出来ない。
「僕はそんなんだから動物に好かれないんだろうな。」
ふとまた勝手口に目を向けると、一人と一匹は雪男を見つけて「あら」「にゃあ」と声をかけてきた。
「雪ちゃん帰っとったん。」
「にゃあ。」
雪男は気まずそうにごにょごにょと「ただいま」と言った。そして気まずさから口を滑らせる。
「帰ってきたところですけど、ちょっと散歩行ってきます。」
「そうなん? 散歩? まあええけどな。遅うならんようにな。雪ちゃん可愛えから、変なおっさんに絡まれたら大変なんやから。」
「にゃあ。」
雪男は軽く手を振ってまたとらやの敷地から出る。暮れなずむ京都の町が雪男には侘しく見えた。そして時折見かける仲の良い飼い主と犬の散歩を見ると、幼少の頃受けた心の傷が抉られる。
「ムササビ……。」
茶色の荒い毛並みの、短い間しか触れられなかった温かさが恋しくなる。
とらやの周りには同じような旅館が並んでいて、流石は観光地・京都と言わんばかりだった。まだ京都に移り住んでまだ日が経ってない雪男にとって、碁盤の目のような京都の地理で把握しているのはとらやから明陀本家の寺が見える範囲までだった。
「碁盤の目を完璧に覚えられたら凄く便利なんだろうけどな。」
ありきたりな感想を言ってとりあえず迷子にならないように自分の見知った道を歩く。古都を売りにしているとはいえ自販機はあった。そこでミネラルウオーターを買おうと小銭を入れようとした。
「え?」
しかしいきなり視界に入ってきたものにぎょっとする。自販機横のゴミ箱の横。何かが蹲っていた。それは不法投棄された粗大ゴミの類ではなかった。ゴミと言えばゴミかもしれないが、その風体は意外と整っていて、大人しくお行儀よく穏やかに鎮座していた。
* * *
雪男がそれと遭遇してから数日が経った。
「おかあさん。雪男を二三日見ないんだけど? あいつ任務に行くって言ってた?」
「いや。雪ちゃんはちゃんと毎日旅館には帰っとるよ。」
「でもあいつ、俺たちの部屋には帰ってきてないんだけど。」
雪男は新婚の兄夫婦の五十畳敷きの元・宴会場に一緒に寝ていた。竜士はそれに辟易していたが、嫁の燐は別にそれを気にすることなく、寧ろ部屋に帰ってこない弟を心配する始末だった。竜士は不安そうな嫁の燐に「あの人のことやから本部から回ってきた野暮用でも引き受けたんやなかろうか。」とそれとなく言っていた。竜士の気持ちは燐には伝わらず、燐はわざわざ虎子に弟の所在を尋ねに行ってしまった。
そして今、竜士は嫁の横で頭を掻いていた。夫婦の部屋で燐は虎子から聞いてきたことを夫に凭れながら話していた。
「おかんがそう言ってたんやな。あの構いたがりのおかんがほっといとるということは、そうや、大した理由はないわけや。大方一人で寝たいから他所の部屋で寝とるだけやろ。」
「そうかなあ。でも飯時でさえも会わないし。おかあさんがほっといてるから、俺が心配しても野暮ってことだよな。でもなんか変なんだよな。」
「いや。変なことはあらへん。あの人はしっかりしとる人やから。義理の兄に対して大人げなかったとか、もうそろそろ兄にべったりをどうにかしようとか、今まで自分は兄夫婦に対して義兄のおかんに同調してまで干渉しすぎたとか、色々思うところはあったんやないん?」
それは全て竜士の願望じみた推測だった。燐はそれを否定することはない。
「それでも。いきなり距離を取るってのはねえよ。」
「いや。ある。あの人は高校時代から意外と口下手やったやん。」
「ええ! 雪男って口下手だったんだっけ? え? 口下手で講師だとか……。ちょっと……。」
「いや。そういう意味の口下手やなくて。なんちゅうかな。アレや。シャイボーイいうか、そんな感じ。」
「シャイボーイ。……ああ! って、シャイボーイってなに?」
死語の世界を理解しない嫁は真っ直ぐな目で首を傾げていた。相変わらずトンチンカンな嫁ではあるが、冒頭の弟に関する懸念からは意識が逸れたようなので竜士は苦笑しながらもほくそ笑んだ。
そのとき、障子の向こうに影が通り過ぎた。その影の背の高さからしてさっきまでの話題の人物を彷彿とさせた。動くものに対して悉く野生的に反応する嫁は、竜士が誤魔化す間も無く「雪男だ」と叫んで腰を浮かせる。
「雪男!」
止める間も無く嫁は立ち上がって雪男を追う。仕方ないので嫁を竜士は追う。
雪男は奥にある布団部屋の戸に手を掛けて燐のほうを振り返った。
「兄さん、久しぶりだね。」
「久しぶりって簡単に言うなよ。心配してたんだぞ。お前がこのところ部屋に帰ってこないから。なあ、勝呂。」
燐は振り向いて竜士に問いかける。いかにも竜士と自分が同じ考えだということを疑いもしないような、断定っぷりだった。
雪男はどうしようといった感じに布団部屋のほうに視線を投げていた。それがいかにもわけありそうで、自分達夫婦の仲に対して傍若無人に振舞っていた兄婿いびりの弟とは思えなかった。
「心配かけたんだね。ごめん兄さん。勝呂君。」
しおらしかった。そのしおらしさが竜士には怖かった。ひょっとしたらこれは新たな災いの前兆ではないのだろうかという懸念が竜士の脳裏に暗く過ぎる。そして、無性に布団部屋の中が気になった。
「先生。今手に持っているもんは、どうするつもりですのん?」
雪男の手にはお膳が抱えられていて、竜士がその上に見たのは笊に盛られた蕎麦と薬味とつゆ、そっして徳利とお猪口も乗せられていた。
「先生。そこで蕎麦食ったり酒飲むつもりやったんですか?」
「いやこれは……。」
雪男はなんとなくそわそわとした様子で竜士から視線を逸らす。竜士はこれは追及しなければと思い雪男にさらに問いかける。
「蕎麦はともかく、日本酒は先生が嗜まれるとか聞いたことありまへん。」
「そうだよ。雪男が酒飲むって俺も知らないしって、雪男お前、十八だろ。未成年じゃん。学校行ってたとき散々俺に教師風吹かしといて、自分はそれかよ。」
「燐。ツッコミどころはそこやない。少し黙ってくれんか?」
「うー……。黙る。」
雪男は相変わらず口ごもったまま、しかし時々布団部屋を気にしている。こっちに目を向けたとき何かを迷っている気配を漂わせていた。
「先生。飲酒そのもんは俺は咎めようとは思いません。先生のように管理職に就かれていては何かとストレスも溜まるでしょう。上からの圧力だとか、下からの突き上げだとか。家に帰れば義理の家族の関係だとか。自分のおとんの実家(虚無界)の連中のやんちゃとか。なんもかんも上手くいかん。これも兄ちゃんがサタンの落胤やからとか。若気の至りで思うこともあったやろうな。」
「えっ。雪男そんなこと思ってんの! 俺ってやっぱり。」
「違うから兄さん!」
雪男は激しく首をぶんぶんと振る。
「なんだよ勝呂。雪男そんなこと思ってねえって言ってるよ。」
「やからな燐。先生はシャイボーイなんや。本音を言おうとしたら壊れてしまう、そんなガラスハートや。」
雪男はひたすら首を振っていた。竜士は確信していた。もうすぐ今まで鉄壁だった難攻不落の城が攻略出来ると。今までのやり取りで外堀はすでに埋めた。雪男は防戦一方で、今になっては無言で首を横に振り続けているだけだ。雪男の態度はいかにもわけありそうで、そこに、付け込めば今までの家族関係におけるパワーバランスを自分のほうに傾けることが出来ると思った。名実共に燐を独占できると、勝利宣言は間近だった。
「先生。俺ら家族ですやん。変に隠し事したらあかんのやないですか? 燐もこうやって心配しとるし。そういえば先生は今、布団部屋に入ろうとしてましたね? 先生はそこに何か隠しとる。違いますか?」
「か、隠してるっていうか……。置かせてもらってるだけだよ。おかあはんにはちゃんと許可は取ってるし。」
おかんが! と竜士は背筋に黄色い電気ネズミの電撃を食らったように衝撃を受けた。
『おかあさんは雪男はちゃんと旅館に帰ってるって言ってたし。』『おかあさんがほっといてるから、俺が心配するのは野暮ってことだよな。』
しまった。ど忘れていた。雪男の隠し事には自分のおかんが関わっている。
過去の数々のパターンからして、今までの有利が一挙に崩れ去るような気がした。落城寸前の城には思わぬ援軍がいたようだ。というか竜士は丸分かりの援軍を、嫁の言葉から推察出来なかったということだ。このままでは城からの攻撃と援軍からの攻撃の挟み撃ちになるかもしれない。しかしこの流れは止められない。
雪男はじゃあと言うと布団部屋の戸を開ける。そこには思いも寄らないものがにこにことこちらを見上げていた。
「紹介するね。兄さん。これは藤堂三郎太っていう魔が差して堕落したオッサン……」
「略してマ○オか!」
「そう。」
雪男は藤堂の前に酒と蕎麦を乗せた膳を置くと、その頭を撫でていた。
「おかあはんが飼ってもええって言ってくれたから、ここで飼ってるんだ。まだ家に来て日にちが経ってないから僕も一緒にこの部屋に寝てたんだよ。」
「はじめまして。お兄さんと、そのお婿さん。僕はマ○オの藤堂と申します。この度は雪男君にはお世話になることになりました。今後よろしくおねがいします。」
「いやいやいやいや!」
竜士は叫びながら雪男の両肩を掴む。
「何考えとんですか!」
「そうだぞ雪男! 餌なら酒と蕎麦じゃなくて、普通のもん食わせろよ。栄養偏るだろうが。」
「いや! 燐、そういう問題やない。」
奥村兄弟にとっても明陀宗にとっても因縁の人物・藤堂三郎太が、よりにも寄って自分の実家と呼べる旅館に隠匿されていた。義理の弟で上司の雪男なんて、三年前の夏と言えばその藤堂が天敵とも呼べる存在だったのに。
しかし藤堂はあの事件以来、なんか鳴かず飛ばずだったらしい。藤堂にとって利用出来るネタが不浄王しかなかったのかもしれない。明陀にとっての最大の厄ネタ不浄王は消滅しているし、それは藤堂が企んだことの結果としては明陀にとって重畳だったと言うしかない。滅多に蒸し返されない話にはなっている。事実、この三年経って大分忘れられた感があった。
本能寺の変後、逆賊として討伐されたという明智光秀が僧天海として徳川幕府に尽力したとか、源義経が大陸に渡ってジンギスカンになったとかいう、仇花とも呼べる英雄に倣うというのが藤堂=マ○オという展開なのだろうか。
「いや! 何がオッサンがジンギスカンや天海やねん! 旅館の布団部屋で復活してくる英雄なんかありえへんやん! それになあ、奥村先生とかおかんやおとんや俺がこいつを許したとしても。志摩蝮(旧姓・宝生)のことはどうするねん! あいつ一度はこいつに関わったせいで除籍されたけど、騎士団に復帰しようと狙っとるんやぞ。簡単に想像つくやろ? まだお前のこと恨んどるんや。そうや。そうに違いないんや。座主のうちがそんな宗派の仇みたいなの匿えるわけないやろ。というか今回は見逃したるから、はよう京都から出て行き。」
「「えー……。」」
燐と雪男が声を揃えて竜士を見る。
「先生。燐。分かってください。このままこいつを置いとったら、近いうちに蝮や柔造にもばれるんやで? せっかく先生が拾ったマ○オやけど、ここは心を鬼にして……。」
捲くし立てる竜士の肩をぽんっと藤堂は叩いた。
「君の心配は分かるよ。京都にも雪男君にも未練があるけど。」
藤堂は笑っていた。だけどその悲しげな言葉に涙腺の緩い燐が早くも目を潤ませていた。そして雪男も幼少の頃のようにマ○オとの別れを惜しんでいる。
「す……勝呂君。この餌、食べ終えるまではいいだろ。」
雪男の震える声に竜士は気まずさのあまり小さく頷いた。藤堂は箸を取ると美味そうに蕎麦を啜り、お猪口に酒を注いでぐっと飲み干した。
「ありがとう。」
お猪口を掲げた藤堂の姿をその場にいたみんなは忘れないだろう。そんな光景だった。
「柔造君。蝮ちゃん。雪ちゃんがなマ○オいう悪魔を拾って飼ってるんやで。こっちや。こっち来てみい。」
全員に戦慄が走る。廊下に三人分の軽やかな足音が近づいてくる。あまりのことに誰もその場で行動できる者はいなかった。とうの藤堂も隠れる余裕はなく、蕎麦を啜る格好のまま、蝮を待ち構える形になってしまった。
「ほら雪ちゃん。志摩さんが雪ちゃんのマ○オ見たいって。」
「お邪魔しまーす。……」
部屋の正面に立ったとき、虎子以外の全ての人間はその動きを止めた。藤堂は残りの蕎麦を啜りきった。一瞬のあと、静寂は蝮の「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」という声で破られた。
「藤堂三郎太! きさまあ、生きとったんか!」
藤堂は「うん」と頷いた。蝮は怒りのあまり震えている。
「宝生君。あ、今は志摩君か。しばらく会わないうちに、」
「会わないうちになんや! 結婚して綺麗になったとか女らしくなったとか、人妻の色気が凄いとか、十年前に手を出しておけば良かったとか、利用して捨てるんやなかったとか、惜しい惜しい思うてももう遅いで! 私はもう柔造のもんやからな! へんっ。ざまあみい。この負け犬が!」
それは聞かされる男からすれば悔し紛れの聞こえよがしや負け惜しみに聞こえるような言葉の数々だった。藤堂は困ったように首をかしげて「ごめん」と呟いた。
「幸せそうだね。良かったよ。」
「そうやあ。私はなあ、人生の勝ち組なんや。お前みたいなマ○オとは違うんや。なあ柔……いや、ダーリン。」
「蝮お前、キャラ違う……。でもダーリン呼ばれるのは嬉しいで。蝮。」
「嫌やわあ。ハニーやろ。あんたあっ。」
「ハニー♪」
「ダーリン♪」
三年ぶりに変なものに再会したショックのせいか、柔造と蝮は変な小芝居を始めた。藤堂はそんな二人の様子を頭を掻きながら眺めていたが、蝮と柔造が手を繋いでくるくると踊ったあとにパチパチと拍手をしたあと、おもむろに口を開いた。
「いやあ。蝮君は全然変わらないな。」
「貴様。さっきさも年月で私が変わったのを感心したような言い回ししたやんか。そうやろオッサン!」
「僕が言いたかったのは」
「言いたかったってなんやねん!」
「それ。」
藤堂が指差したのは蝮の眼帯で覆われた右目だった。
「これが……どないしたんな。」
「しばらく見ないうちに立派な独眼竜キャラになったよね。蝮君。」
蝮はぐっと詰まると藤堂を睨み付けた。
「私は竜やない。蛇や!」
「蝮! ツッコミどころはそこか!」
竜士は思わず年上の女性の頭をはたいてしまった。蝮は後頭部を撫でながら雪男に告げる。
「奥村上一級祓魔師殿。」
雪男は身構える。もう三年前の共犯者兼被害者が現在の藤堂と対峙してしまったのだ。すっとぼけて逃がしてやったり、このまま隠れて飼ってやることも出来そうにない。先生と竜士に促されて、雪男は何を言われても構わないという覚悟を決めた。
蝮は口を開く。
「藤堂。いや、オッサン。いや違った。マ○オやったな。そのマ○オ、ちゃんと世話してやってな。」
「え?」
雪男が呆けていると蝮はくるっと踵を返す。
「魔が差して堕落したオッサンやからな。ちゃんと一から躾けたり。」
そう言ってずんずんと廊下を引き返していく。慌てて柔造が後追う。そして虎子はうんうんと頷いていた。奥村兄弟はマ○オこと藤堂に飛びついて「良かった」と嬉しがっている。
その中で一人、竜士はわなわなと震えていた。
「ほんま良かったわあ。志摩さんに了解取れて。」
竜士の心を逆撫でするように虎子は言う。ほんまになんでもええ話にしてしまえばええんかこの腐主婦はと竜士は奥歯をぎしっと鳴らす。
「布団部屋だと狭いし埃っぽくて健康に悪いから、僕と一緒にマ○オも兄さん達の部屋に来てもいいよね?」
「当たり前だろ。マ○オ拾ったなら真っ先にソレを相談してくれよ。」
「雪男君のお兄さんは懐が深いなあ。お兄さんのお婿さんも僕と志摩君たちの橋渡しをしてくれたし。」
そんなことはしていないと竜士は言いたい。しかもまた常駐する邪魔者が一人増えてしまった。夫婦二人きりの夜はまた遠くなってしまった。
(明陀の)なにもかもがキャラ崩壊する高砂シリーズでした。
雪男は任務あとの埃で汚れた眼鏡を拭きながらぼんやりとした視界の中、一人と一匹の影を見つけた。「ああ。おかあはんとクロか。」とぼんやり思いながら、なかなか落ちない汚れにイラついてきていた。眼鏡は雪男の身体の一部といえるので、自らの身体に磨きをかけるが如くに愛おしそうに息を吹きかけ、念入りにレンズを拭く。その無機物は雪男にされるがままで何も応えてくれない。
クロはとらやの厨房の勝手口外でちょこんと可愛らしく座っていた。そこへ虎子が通りかかったらしい。雪男の耳に会話らしき声が聞こえてくる。
「あらクロちゃん。お行儀ええわあ。ええもんあげようか?」
『やったあ。おかあはん好き。』
「うちもクロちゃんのこと好きやで。ほら。」
虎子は着物の袂から饅頭を取り出してクロの口元に持っていくと、クロははぐはぐと饅頭にかじりついた。それを見て雪男は饅頭を猫にやるなんて傍から見れば非常識だよなと思った。人間の食べるものは猫の消化器官に負担をかけるかもしれないのにとか。しかしクロは獣医学とは無縁の猫なので、それは単に雪男の中の常識が悲鳴を上げているだけだった。
饅頭を食べた後も虎子とクロはまるで会話をしているような応酬を続けている。当然クロはにゃあにゃあとしか言っていないわけだが、虎子とクロは気持ちが通じ合っているように見えた。
「ふうん。クロちゃんは消費税増税に反対なんやね。うちもなんよ。TTPも反対やな。」
「にゃあ。にゃあ。にゃあ。」
あんたらお互いに適当なこと言っているんだろうとツッコミを入れたくなる。しかし雪男は一人と一匹に声をかけないまま通り過ぎる。今日はクロはとらやに来て間もないのにすっかりここの住人に好かれている。数年間過ごした正十字学園の日々をすっかり忘れたように、とらやの女将、番頭、仲居、板前、その他明陀宗の面々と仲良くしていた。
「悔しくなんか、ないんだからね。」
雪男は一人呟く。三年前、雪男はクロを普通の猫として意図せず半ば侮辱紛いに扱ってしまったため、未だにクロに打ち解けてもらえてなかった。
「使い魔って言ったって、クロは神父さんが飼ってたときから別に祓魔に関わっていたわけじゃないし。人間の言葉が話せたりするわけじゃないし。ほとんどペット扱いだったじゃないか。それに猫叉は一般人からすれば普通の猫と遜色ないわけだし。形だけでもトイレとかペットフード用意しないと世間に示しがつかなかったわけだし。僕がやってきたことはけして間違ってない。そういうことに兄さんが気を回さなくて対等な友達感覚だったからしょうがないじゃん。なのにクロから悪者扱いとはいかないけど、分からず屋みたいに思われるのは釈然としない。」
兄が勝呂と結婚して京都に一緒に移り住んでからは多少は丸くなった雪男ではあったが、新規の交流関係で自分の既存のわだかまりを解決出来るわけではなかった。その一番些細なところがクロとの関係だった。クロと兄の燐は自分の分からないところで意思を通じ合っている。要は雪男がクロに対して姑根性を表に出してしまうのは、そういうやっかみ的な意味もあった。そういう感情も込みだとすれば、クロが外で粗相をすれば兄が恥を掻くんだぞという根暗な脅し的な意味を、雪男の用意したペット用品に込めてしまったということも否定出来ない。
「僕はそんなんだから動物に好かれないんだろうな。」
ふとまた勝手口に目を向けると、一人と一匹は雪男を見つけて「あら」「にゃあ」と声をかけてきた。
「雪ちゃん帰っとったん。」
「にゃあ。」
雪男は気まずそうにごにょごにょと「ただいま」と言った。そして気まずさから口を滑らせる。
「帰ってきたところですけど、ちょっと散歩行ってきます。」
「そうなん? 散歩? まあええけどな。遅うならんようにな。雪ちゃん可愛えから、変なおっさんに絡まれたら大変なんやから。」
「にゃあ。」
雪男は軽く手を振ってまたとらやの敷地から出る。暮れなずむ京都の町が雪男には侘しく見えた。そして時折見かける仲の良い飼い主と犬の散歩を見ると、幼少の頃受けた心の傷が抉られる。
「ムササビ……。」
茶色の荒い毛並みの、短い間しか触れられなかった温かさが恋しくなる。
とらやの周りには同じような旅館が並んでいて、流石は観光地・京都と言わんばかりだった。まだ京都に移り住んでまだ日が経ってない雪男にとって、碁盤の目のような京都の地理で把握しているのはとらやから明陀本家の寺が見える範囲までだった。
「碁盤の目を完璧に覚えられたら凄く便利なんだろうけどな。」
ありきたりな感想を言ってとりあえず迷子にならないように自分の見知った道を歩く。古都を売りにしているとはいえ自販機はあった。そこでミネラルウオーターを買おうと小銭を入れようとした。
「え?」
しかしいきなり視界に入ってきたものにぎょっとする。自販機横のゴミ箱の横。何かが蹲っていた。それは不法投棄された粗大ゴミの類ではなかった。ゴミと言えばゴミかもしれないが、その風体は意外と整っていて、大人しくお行儀よく穏やかに鎮座していた。
* * *
雪男がそれと遭遇してから数日が経った。
「おかあさん。雪男を二三日見ないんだけど? あいつ任務に行くって言ってた?」
「いや。雪ちゃんはちゃんと毎日旅館には帰っとるよ。」
「でもあいつ、俺たちの部屋には帰ってきてないんだけど。」
雪男は新婚の兄夫婦の五十畳敷きの元・宴会場に一緒に寝ていた。竜士はそれに辟易していたが、嫁の燐は別にそれを気にすることなく、寧ろ部屋に帰ってこない弟を心配する始末だった。竜士は不安そうな嫁の燐に「あの人のことやから本部から回ってきた野暮用でも引き受けたんやなかろうか。」とそれとなく言っていた。竜士の気持ちは燐には伝わらず、燐はわざわざ虎子に弟の所在を尋ねに行ってしまった。
そして今、竜士は嫁の横で頭を掻いていた。夫婦の部屋で燐は虎子から聞いてきたことを夫に凭れながら話していた。
「おかんがそう言ってたんやな。あの構いたがりのおかんがほっといとるということは、そうや、大した理由はないわけや。大方一人で寝たいから他所の部屋で寝とるだけやろ。」
「そうかなあ。でも飯時でさえも会わないし。おかあさんがほっといてるから、俺が心配しても野暮ってことだよな。でもなんか変なんだよな。」
「いや。変なことはあらへん。あの人はしっかりしとる人やから。義理の兄に対して大人げなかったとか、もうそろそろ兄にべったりをどうにかしようとか、今まで自分は兄夫婦に対して義兄のおかんに同調してまで干渉しすぎたとか、色々思うところはあったんやないん?」
それは全て竜士の願望じみた推測だった。燐はそれを否定することはない。
「それでも。いきなり距離を取るってのはねえよ。」
「いや。ある。あの人は高校時代から意外と口下手やったやん。」
「ええ! 雪男って口下手だったんだっけ? え? 口下手で講師だとか……。ちょっと……。」
「いや。そういう意味の口下手やなくて。なんちゅうかな。アレや。シャイボーイいうか、そんな感じ。」
「シャイボーイ。……ああ! って、シャイボーイってなに?」
死語の世界を理解しない嫁は真っ直ぐな目で首を傾げていた。相変わらずトンチンカンな嫁ではあるが、冒頭の弟に関する懸念からは意識が逸れたようなので竜士は苦笑しながらもほくそ笑んだ。
そのとき、障子の向こうに影が通り過ぎた。その影の背の高さからしてさっきまでの話題の人物を彷彿とさせた。動くものに対して悉く野生的に反応する嫁は、竜士が誤魔化す間も無く「雪男だ」と叫んで腰を浮かせる。
「雪男!」
止める間も無く嫁は立ち上がって雪男を追う。仕方ないので嫁を竜士は追う。
雪男は奥にある布団部屋の戸に手を掛けて燐のほうを振り返った。
「兄さん、久しぶりだね。」
「久しぶりって簡単に言うなよ。心配してたんだぞ。お前がこのところ部屋に帰ってこないから。なあ、勝呂。」
燐は振り向いて竜士に問いかける。いかにも竜士と自分が同じ考えだということを疑いもしないような、断定っぷりだった。
雪男はどうしようといった感じに布団部屋のほうに視線を投げていた。それがいかにもわけありそうで、自分達夫婦の仲に対して傍若無人に振舞っていた兄婿いびりの弟とは思えなかった。
「心配かけたんだね。ごめん兄さん。勝呂君。」
しおらしかった。そのしおらしさが竜士には怖かった。ひょっとしたらこれは新たな災いの前兆ではないのだろうかという懸念が竜士の脳裏に暗く過ぎる。そして、無性に布団部屋の中が気になった。
「先生。今手に持っているもんは、どうするつもりですのん?」
雪男の手にはお膳が抱えられていて、竜士がその上に見たのは笊に盛られた蕎麦と薬味とつゆ、そっして徳利とお猪口も乗せられていた。
「先生。そこで蕎麦食ったり酒飲むつもりやったんですか?」
「いやこれは……。」
雪男はなんとなくそわそわとした様子で竜士から視線を逸らす。竜士はこれは追及しなければと思い雪男にさらに問いかける。
「蕎麦はともかく、日本酒は先生が嗜まれるとか聞いたことありまへん。」
「そうだよ。雪男が酒飲むって俺も知らないしって、雪男お前、十八だろ。未成年じゃん。学校行ってたとき散々俺に教師風吹かしといて、自分はそれかよ。」
「燐。ツッコミどころはそこやない。少し黙ってくれんか?」
「うー……。黙る。」
雪男は相変わらず口ごもったまま、しかし時々布団部屋を気にしている。こっちに目を向けたとき何かを迷っている気配を漂わせていた。
「先生。飲酒そのもんは俺は咎めようとは思いません。先生のように管理職に就かれていては何かとストレスも溜まるでしょう。上からの圧力だとか、下からの突き上げだとか。家に帰れば義理の家族の関係だとか。自分のおとんの実家(虚無界)の連中のやんちゃとか。なんもかんも上手くいかん。これも兄ちゃんがサタンの落胤やからとか。若気の至りで思うこともあったやろうな。」
「えっ。雪男そんなこと思ってんの! 俺ってやっぱり。」
「違うから兄さん!」
雪男は激しく首をぶんぶんと振る。
「なんだよ勝呂。雪男そんなこと思ってねえって言ってるよ。」
「やからな燐。先生はシャイボーイなんや。本音を言おうとしたら壊れてしまう、そんなガラスハートや。」
雪男はひたすら首を振っていた。竜士は確信していた。もうすぐ今まで鉄壁だった難攻不落の城が攻略出来ると。今までのやり取りで外堀はすでに埋めた。雪男は防戦一方で、今になっては無言で首を横に振り続けているだけだ。雪男の態度はいかにもわけありそうで、そこに、付け込めば今までの家族関係におけるパワーバランスを自分のほうに傾けることが出来ると思った。名実共に燐を独占できると、勝利宣言は間近だった。
「先生。俺ら家族ですやん。変に隠し事したらあかんのやないですか? 燐もこうやって心配しとるし。そういえば先生は今、布団部屋に入ろうとしてましたね? 先生はそこに何か隠しとる。違いますか?」
「か、隠してるっていうか……。置かせてもらってるだけだよ。おかあはんにはちゃんと許可は取ってるし。」
おかんが! と竜士は背筋に黄色い電気ネズミの電撃を食らったように衝撃を受けた。
『おかあさんは雪男はちゃんと旅館に帰ってるって言ってたし。』『おかあさんがほっといてるから、俺が心配するのは野暮ってことだよな。』
しまった。ど忘れていた。雪男の隠し事には自分のおかんが関わっている。
過去の数々のパターンからして、今までの有利が一挙に崩れ去るような気がした。落城寸前の城には思わぬ援軍がいたようだ。というか竜士は丸分かりの援軍を、嫁の言葉から推察出来なかったということだ。このままでは城からの攻撃と援軍からの攻撃の挟み撃ちになるかもしれない。しかしこの流れは止められない。
雪男はじゃあと言うと布団部屋の戸を開ける。そこには思いも寄らないものがにこにことこちらを見上げていた。
「紹介するね。兄さん。これは藤堂三郎太っていう魔が差して堕落したオッサン……」
「略してマ○オか!」
「そう。」
雪男は藤堂の前に酒と蕎麦を乗せた膳を置くと、その頭を撫でていた。
「おかあはんが飼ってもええって言ってくれたから、ここで飼ってるんだ。まだ家に来て日にちが経ってないから僕も一緒にこの部屋に寝てたんだよ。」
「はじめまして。お兄さんと、そのお婿さん。僕はマ○オの藤堂と申します。この度は雪男君にはお世話になることになりました。今後よろしくおねがいします。」
「いやいやいやいや!」
竜士は叫びながら雪男の両肩を掴む。
「何考えとんですか!」
「そうだぞ雪男! 餌なら酒と蕎麦じゃなくて、普通のもん食わせろよ。栄養偏るだろうが。」
「いや! 燐、そういう問題やない。」
奥村兄弟にとっても明陀宗にとっても因縁の人物・藤堂三郎太が、よりにも寄って自分の実家と呼べる旅館に隠匿されていた。義理の弟で上司の雪男なんて、三年前の夏と言えばその藤堂が天敵とも呼べる存在だったのに。
しかし藤堂はあの事件以来、なんか鳴かず飛ばずだったらしい。藤堂にとって利用出来るネタが不浄王しかなかったのかもしれない。明陀にとっての最大の厄ネタ不浄王は消滅しているし、それは藤堂が企んだことの結果としては明陀にとって重畳だったと言うしかない。滅多に蒸し返されない話にはなっている。事実、この三年経って大分忘れられた感があった。
本能寺の変後、逆賊として討伐されたという明智光秀が僧天海として徳川幕府に尽力したとか、源義経が大陸に渡ってジンギスカンになったとかいう、仇花とも呼べる英雄に倣うというのが藤堂=マ○オという展開なのだろうか。
「いや! 何がオッサンがジンギスカンや天海やねん! 旅館の布団部屋で復活してくる英雄なんかありえへんやん! それになあ、奥村先生とかおかんやおとんや俺がこいつを許したとしても。志摩蝮(旧姓・宝生)のことはどうするねん! あいつ一度はこいつに関わったせいで除籍されたけど、騎士団に復帰しようと狙っとるんやぞ。簡単に想像つくやろ? まだお前のこと恨んどるんや。そうや。そうに違いないんや。座主のうちがそんな宗派の仇みたいなの匿えるわけないやろ。というか今回は見逃したるから、はよう京都から出て行き。」
「「えー……。」」
燐と雪男が声を揃えて竜士を見る。
「先生。燐。分かってください。このままこいつを置いとったら、近いうちに蝮や柔造にもばれるんやで? せっかく先生が拾ったマ○オやけど、ここは心を鬼にして……。」
捲くし立てる竜士の肩をぽんっと藤堂は叩いた。
「君の心配は分かるよ。京都にも雪男君にも未練があるけど。」
藤堂は笑っていた。だけどその悲しげな言葉に涙腺の緩い燐が早くも目を潤ませていた。そして雪男も幼少の頃のようにマ○オとの別れを惜しんでいる。
「す……勝呂君。この餌、食べ終えるまではいいだろ。」
雪男の震える声に竜士は気まずさのあまり小さく頷いた。藤堂は箸を取ると美味そうに蕎麦を啜り、お猪口に酒を注いでぐっと飲み干した。
「ありがとう。」
お猪口を掲げた藤堂の姿をその場にいたみんなは忘れないだろう。そんな光景だった。
「柔造君。蝮ちゃん。雪ちゃんがなマ○オいう悪魔を拾って飼ってるんやで。こっちや。こっち来てみい。」
全員に戦慄が走る。廊下に三人分の軽やかな足音が近づいてくる。あまりのことに誰もその場で行動できる者はいなかった。とうの藤堂も隠れる余裕はなく、蕎麦を啜る格好のまま、蝮を待ち構える形になってしまった。
「ほら雪ちゃん。志摩さんが雪ちゃんのマ○オ見たいって。」
「お邪魔しまーす。……」
部屋の正面に立ったとき、虎子以外の全ての人間はその動きを止めた。藤堂は残りの蕎麦を啜りきった。一瞬のあと、静寂は蝮の「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」という声で破られた。
「藤堂三郎太! きさまあ、生きとったんか!」
藤堂は「うん」と頷いた。蝮は怒りのあまり震えている。
「宝生君。あ、今は志摩君か。しばらく会わないうちに、」
「会わないうちになんや! 結婚して綺麗になったとか女らしくなったとか、人妻の色気が凄いとか、十年前に手を出しておけば良かったとか、利用して捨てるんやなかったとか、惜しい惜しい思うてももう遅いで! 私はもう柔造のもんやからな! へんっ。ざまあみい。この負け犬が!」
それは聞かされる男からすれば悔し紛れの聞こえよがしや負け惜しみに聞こえるような言葉の数々だった。藤堂は困ったように首をかしげて「ごめん」と呟いた。
「幸せそうだね。良かったよ。」
「そうやあ。私はなあ、人生の勝ち組なんや。お前みたいなマ○オとは違うんや。なあ柔……いや、ダーリン。」
「蝮お前、キャラ違う……。でもダーリン呼ばれるのは嬉しいで。蝮。」
「嫌やわあ。ハニーやろ。あんたあっ。」
「ハニー♪」
「ダーリン♪」
三年ぶりに変なものに再会したショックのせいか、柔造と蝮は変な小芝居を始めた。藤堂はそんな二人の様子を頭を掻きながら眺めていたが、蝮と柔造が手を繋いでくるくると踊ったあとにパチパチと拍手をしたあと、おもむろに口を開いた。
「いやあ。蝮君は全然変わらないな。」
「貴様。さっきさも年月で私が変わったのを感心したような言い回ししたやんか。そうやろオッサン!」
「僕が言いたかったのは」
「言いたかったってなんやねん!」
「それ。」
藤堂が指差したのは蝮の眼帯で覆われた右目だった。
「これが……どないしたんな。」
「しばらく見ないうちに立派な独眼竜キャラになったよね。蝮君。」
蝮はぐっと詰まると藤堂を睨み付けた。
「私は竜やない。蛇や!」
「蝮! ツッコミどころはそこか!」
竜士は思わず年上の女性の頭をはたいてしまった。蝮は後頭部を撫でながら雪男に告げる。
「奥村上一級祓魔師殿。」
雪男は身構える。もう三年前の共犯者兼被害者が現在の藤堂と対峙してしまったのだ。すっとぼけて逃がしてやったり、このまま隠れて飼ってやることも出来そうにない。先生と竜士に促されて、雪男は何を言われても構わないという覚悟を決めた。
蝮は口を開く。
「藤堂。いや、オッサン。いや違った。マ○オやったな。そのマ○オ、ちゃんと世話してやってな。」
「え?」
雪男が呆けていると蝮はくるっと踵を返す。
「魔が差して堕落したオッサンやからな。ちゃんと一から躾けたり。」
そう言ってずんずんと廊下を引き返していく。慌てて柔造が後追う。そして虎子はうんうんと頷いていた。奥村兄弟はマ○オこと藤堂に飛びついて「良かった」と嬉しがっている。
その中で一人、竜士はわなわなと震えていた。
「ほんま良かったわあ。志摩さんに了解取れて。」
竜士の心を逆撫でするように虎子は言う。ほんまになんでもええ話にしてしまえばええんかこの腐主婦はと竜士は奥歯をぎしっと鳴らす。
「布団部屋だと狭いし埃っぽくて健康に悪いから、僕と一緒にマ○オも兄さん達の部屋に来てもいいよね?」
「当たり前だろ。マ○オ拾ったなら真っ先にソレを相談してくれよ。」
「雪男君のお兄さんは懐が深いなあ。お兄さんのお婿さんも僕と志摩君たちの橋渡しをしてくれたし。」
そんなことはしていないと竜士は言いたい。しかもまた常駐する邪魔者が一人増えてしまった。夫婦二人きりの夜はまた遠くなってしまった。
(明陀の)なにもかもがキャラ崩壊する高砂シリーズでした。
☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第十一話「ハルトマンの囮中年」燐雪、暴力注意
いってきますという言葉と共にアサ子はリュックサックを背負ってドアから出て行った。その姿を幼稚園児の保護者宜しく燐は手を振って見送っていた。
アサ子がメフィストのところに話をつけに行った日から、アサ子はたびたびヨハン・ファウスト邸にお泊りに行くようになった。
「すっかりあいつと仲良くなっちまったな。アサ子。」
「こんなことならもとから理事長のところに預ければよかったんだよ。」
雪男がわざとらしく溜息をつく。アサ子がメフィストのところにお出かけするたびに、燐がかなり気合の入った弁当をアサ子にせがまれて作っているが、そんなことはアサ子が四六時中いたときのストレスに比べれば些細なことに思える。要するに雪男は兄がベタベタに可愛がっていた居候の存在が目障りだったのだ。
「アサ子そのうち、自分のもといたところに帰るのかな?」
「そうだね。アサ子さんの所属していたところの人も心配しているだろうし。」
雪男を含めた正十字騎士団日本本部の職員は、アサ子が燐のところに転がり込んだ由々しき原因を知っていた。アサ子の正体さえも。だから雪男はメフィストのところに入り浸るアサ子の行動を、アーサーがヴァチカンに戻るための算段に取り掛かったと解釈した。そのために燐への処遇をどうするかという話し合いもしているのだろうと。
しかし雪男の予想はばっさりと裏切られているわけだが。
アーサーはもう雪男やその他の祓魔師が知っているアーサーではなくなっている。神の教えを第一に悪魔に容赦なく剣を振るう聖者は、正十字騎士団日本支部での日々の移ろいの中、とある人にとっては腑抜けてしまったと思われかねない心変わりに今少し戸惑っていた。
アーサーはヴァチカンからの要請に逆らっている状態だった。中学生の反抗期のようなヒステリーぎみの痛々しい反逆ではなかったが、消極的にはヴァチカンの利益に反することをしている。しかもそれをしている根拠は自分の私的な感情からだった。
自分に優しく接してくれた奥村燐を殺せない。とんでもなくシンプルで誰も納得しない甘々な理由だった。
だからこそ。メフィストはともかくアーサーは、燐がこのままカソリックの僻地である島国の悪魔のお膝元に身を隠し、普通の祓魔師として生きて欲しいと思っている。日本の信仰の拠点にも悪魔が封じられていたり、たまにヴァチカン側の攻撃の対象になったりしているが、燐はその時には匿名で祓魔に携わればいいと、メフィストとアーサーは考えを同じくして示し合わせることにしている。燐は青の炎もどうやらコントロール出来ているらしい。だから燐は危険対象じゃないとアーサーは判断していた。その根拠は約一ヶ月一緒に過ごした燐の人柄や、突発的に発動される炎の頻度が著しく低かったお陰でもあった。
そして周りに悪魔だということをばらしていても、結構受け入れられている現実もある。というか悪魔であることを明るみにしたお陰で、勝呂及び塾生の頭の中で渦巻いていた様々な疑問なり疑惑に説明がついたからでもある。
でもぶっちゃけて説得力がある理由というのは、燐が実の弟に殺意を持たれているというわけあり物件なせいだった。燐は弟の虐待に対してよく耐え、周りがどんびきするほど無抵抗主義というか、やられっぱなしだった。
そして今日も弟に付けられた傷を弟に手当されているのだった。
「アサ子が言ってたけど、雪男見てると人間のほうが悪魔より怖いと思うって。」
「どうして?」
雪男はピンセットで挟んだアルコール綿をぐりぐりと傷口に押し込むように当てて燐に悲鳴を上げさせている。
「痛い! ゆきおいだい!」
「兄さんがアサ子さんの意見に同調しようとするからだよ。兄さんは本気でそんなこと思ってるの?」
「お、思ってねえけど。」
「うそ。思ってるでしょ?」
雪男は燐に顔を近づけてじっと目を覗き込む。眼鏡のレンズごしの緑がかった青い目は、西洋でいう緑の目に込められた意味を殊更に強調するように燐を射抜いていた。それは魔性の嫉妬の炎のようだった。
「他人から同情されるようになったからっていい気になってるんじゃないよ。それは兄さんを受け入れてくれたことにならないからね。兄さんは見た目馬鹿っぽく見えるから、彼らには兄さんの本質が分かってないだけだよ。」
「俺が馬鹿なのは俺が一番よく分かってるし。お前のいう俺の本質って……。」
雪男は包帯を巻き終えると、燐の額を小突いた。
「弟にスケベ心を持っている悪魔らしい性欲のことだよ。」
燐は反論はしない。
「俺は我慢してるだろ。」
「我慢が必要な時点で何かおかしいと思わないかな。」
「そんなこと言ったって。」
弟の青い目が燐の劣情を嘲笑っている。雪男の言葉に燐は対抗しようがないからだ。
雪男の言っていることは人間の社会の中では正しくて、燐が抱えている思いのほうが間違っている。だからそれなりに報復は受けて当たり前。燐が嫌というほど自覚している事実だった。そしてそれをアーサーが留守の今日、雪男は改めて燐に思い知らせてやろうと思っていた。
「あれだけアサ子さんにべたべただったのは、それは僕から気を逸らすためだったんだよね。」
「アサ子は記憶喪失なんだから、ほっとけないのが当たり前だろ。」
「僕との共同生活が膠着状態のときに、ほんと都合よくそんな人が現れて良かったよね。」
「お前は、何が言いたい。」
雪男は凍りついた目で燐を凝視していた。
「それ以外にも。勝呂君から部屋に来てと誘われたり、ネイガウス先生のところに泊まりにいったり、僕と距離を置こうとしてたよね。彼らもそれを推奨していたわけだけど。それでも兄さんは、彼らに救いを求めて情欲の捌け口に出来ないんだよね。僕に兄さんの思いが否定されても、僕が駄目なら勝呂君、なんて器用な真似は兄さんは出来ない。そうだよね。アサ子さんにしても。最初は綺麗だから世話を焼いていた。アサ子さんは僕と違って、可愛くて素直で兄さんにとって恋の相手になってもおかしくなかったけど、手を出す前にその気持ちは保護欲に変わってこれも駄目。だったら結局、兄さんの好きな人は僕のままってことで理解していいかな?」
事情を知らない誰かが聞いたら自意識過剰極まりない推測でしかない言葉だった。しかし悲しいかな。燐はそんな推測の全てを否定出来ないのだ。否定しても嘘になるし、肯定して白状して許してくれるわけもない。だから燐は黙るしかない。
雪男は燐が自分が望む通り存分に傷ついていることを認識したが、それだけでは足りなくなった。もっと目に見える形で兄の苦しみや悲しみを目の当たりにしたい。
「他人から同情されていい気になってんじゃないよ。兄さんは知らないだろうけど、僕にだって僕の気持ちに寄り添ってくれる人もいる。」
「誰なんだそいつ。」
燐の目に心なしか怒りの気配が見える。雪男が見たかったものが少しだけ見えた気がした。
「兄さんが知らない人。僕は兄さんの作った人間関係のほぼ全てが分かってるけど、僕の人間関係を兄さんがどれだけ分かってるかな? 兄さんの人間関係なんて所詮、僕からの虐待がきっかけの同情心からなのがほぼ全てじゃないか。悪者の僕がいるから、彼らは被害者の兄さんに惹かれるんだ。でも僕には兄さんに対して加害者だとしても、それでも味方してくれようとしている誰かが存在する。彼は僕が兄さんを虐待せずにはいられない僕の言う理由を受け入れてくれた。」
雪男の口からは燐が聞くに堪えない言葉が溢れていた。燐はそれに耳も塞げずに呆然と弟を見上げている。
「お前はそいつのことが好きなのか?」
「好きじゃないよ。でも彼が僕の存在を全て肯定してくれる言葉をくれるんだ。そういうところは身に染みて感謝してるよ。」
雪男は今まで鼻も引っ掛けてなかった藤堂のことを話しだす。燐の顔が悔しさやら嫉妬やらで歪む。兄は弟の言葉を正面から忠実に受け止めてしまっているから、雪男の話していることと、雪男と藤堂の現実の関係のズレにも気がつかない。弟の日頃の同僚達への態度を見ていれば分かってもいいはずだ。しかし燐は馬鹿正直に弟の口から齎される情報を鵜呑みにして心を嵐の海のように揺らしている。
虚言でさえも自分は兄の心を波立たせることが出来る。それはとんでもないくらいの優越感を与えてくれている。
「雪男。お前そいつのこと好きじゃないとか言ってたけど。」
「それが何?」
雪男は苦し紛れな兄の態度に身体が軽くなったような気がした。そして夢うつつのように相槌を打つ。何か言われたら、どう言い返して、どんな苦しみを与えてやろうかと。
燐は一回だけ唇を噛んで、血を滲ませた。そして言う。
「本当は、そいつのこと好きなんじゃね?」
雪男にとって心地良い空間に亀裂が走る。兄が言ったのは、弟の虚言を正面から受け止めたが故に理解した解答だった。雪男が兄を突き放すことを許容した言葉。そして兄が雪男を突き放した言葉。雪男の言葉を認めたからこと出てきた真摯で辛辣な推測。
「馬鹿が! そんなことしか考えられないのかお前は!」
雪男はそう叫ぶと燐の顎を蹴り上げる。垂直に振り上げた足が綺麗に燐の顎を捉え、部屋の壁に吹き飛ばした。燐は背中から壁にぶつかって「ぐうっ」と唸ったあとに唾液と血を呼吸と共に飛ばした。
壁際で咳き込んでいる燐にゆっくり雪男は近づく。
「や、やめろ……。雪男……。俺、なんか。気に障るようなこと、言った?」
「言っただろう。僕が誰にでも心を許すような、ふしだらな男だって言っただろ。その口で。」
「だって……。俺なんかより、そいつのほうがよっぽど……雪ちゃんの味方っぽいじゃん。」
「それがなんだよ! 味方してくれる人間、みんな好きにならなきゃいけないのかよ! 僕はお前と違ってそんなのことに逃げたりしないっ。他の男に縋ったりしない!」
雪男は矛盾したことを兄に言っている。雪男のほうから藤堂のことを兄に打ち明けて、兄を焦らしてへこませたかった癖に、それを兄に肯定されるとそれは違うと言う。
そこにもし他に観測者がいれば誰もが叫ぶだろう。『お前は何をして欲しいんだ!』と。
燐だってその叫びを口に出したかった。それを言葉に出来れば、何かのきっかけにはなったかもしれない。だけど燐は弟からの暴力の嵐から身を守るのに精一杯だった。反撃はまかり間違ってもしてはいけない。弟が十の暴力で与える傷を、自分は一の暴力で事足りるかもしれないからだ。なら燐は当然のように無抵抗を選ぶ。雪男が疲れてくれるまでやり過ごす。
「この。ろくでなし。」
雪男は汚物を吐き捨てるように言うとはあはあと肩で息をつきながら自分の机の椅子に座る。そこからぐったりした燐を眺めていた。
「ねえ、兄さん。僕のことを好きだって言い寄っている男は、兄さんと同じ悪魔だよ。元人間のドロップアウトした、いい大人。そんな奴、好きになるわけないじゃないか。」
燐は腫れ上がった顔を雪男に向ける。雪男はその顔を見て顔を顰める。
「手当てしてあげたいけど。兄さんを殴りすぎて僕の手も痛いよ。」
燐は回復し始めた身体を起こして床に座り込む。
「それを先に言ってもらえたら、兄ちゃんは勘違いしなくて済んだかもな。」
「僕も正直同感だよ。今までじゃ考えられない馬鹿馬鹿しい理由で兄さん殴っちゃったね。」
雪男はよろめきながら兄に近づく。
「だけど今日は本気で怒ったからね。兄さんだって、僕から本当は勝呂君が好きだろとか、ネイガウス先生が本命だったりしないとか、言われたらショックでしょ。」
燐は考え込む。雪男のこめかみに青筋が浮かぶ。
「どうなんだよ? 好きな相手にそんな勘違いされるの? まさか勘違いさせた相手が悪いかもとか考えてたりしない?」
「お……思ってません。」
雪男は燐の血がこびりついた唇にキスをしてやる。
「雪男……。」
燐の手が肩を抱いて腰に回ったが、雪男はその手を振り払わなかった。
「雪男。俺にキスしたかったの?」
「自意識過剰なこと言わないで。仕方なくだよ。」
そう言いながらも。今まで兄にキスした時には自分からしたかったのだと、雪男は今更ながら思った。
久しぶりに二人きりだと思えばこんなんです。
アサ子がメフィストのところに話をつけに行った日から、アサ子はたびたびヨハン・ファウスト邸にお泊りに行くようになった。
「すっかりあいつと仲良くなっちまったな。アサ子。」
「こんなことならもとから理事長のところに預ければよかったんだよ。」
雪男がわざとらしく溜息をつく。アサ子がメフィストのところにお出かけするたびに、燐がかなり気合の入った弁当をアサ子にせがまれて作っているが、そんなことはアサ子が四六時中いたときのストレスに比べれば些細なことに思える。要するに雪男は兄がベタベタに可愛がっていた居候の存在が目障りだったのだ。
「アサ子そのうち、自分のもといたところに帰るのかな?」
「そうだね。アサ子さんの所属していたところの人も心配しているだろうし。」
雪男を含めた正十字騎士団日本本部の職員は、アサ子が燐のところに転がり込んだ由々しき原因を知っていた。アサ子の正体さえも。だから雪男はメフィストのところに入り浸るアサ子の行動を、アーサーがヴァチカンに戻るための算段に取り掛かったと解釈した。そのために燐への処遇をどうするかという話し合いもしているのだろうと。
しかし雪男の予想はばっさりと裏切られているわけだが。
アーサーはもう雪男やその他の祓魔師が知っているアーサーではなくなっている。神の教えを第一に悪魔に容赦なく剣を振るう聖者は、正十字騎士団日本支部での日々の移ろいの中、とある人にとっては腑抜けてしまったと思われかねない心変わりに今少し戸惑っていた。
アーサーはヴァチカンからの要請に逆らっている状態だった。中学生の反抗期のようなヒステリーぎみの痛々しい反逆ではなかったが、消極的にはヴァチカンの利益に反することをしている。しかもそれをしている根拠は自分の私的な感情からだった。
自分に優しく接してくれた奥村燐を殺せない。とんでもなくシンプルで誰も納得しない甘々な理由だった。
だからこそ。メフィストはともかくアーサーは、燐がこのままカソリックの僻地である島国の悪魔のお膝元に身を隠し、普通の祓魔師として生きて欲しいと思っている。日本の信仰の拠点にも悪魔が封じられていたり、たまにヴァチカン側の攻撃の対象になったりしているが、燐はその時には匿名で祓魔に携わればいいと、メフィストとアーサーは考えを同じくして示し合わせることにしている。燐は青の炎もどうやらコントロール出来ているらしい。だから燐は危険対象じゃないとアーサーは判断していた。その根拠は約一ヶ月一緒に過ごした燐の人柄や、突発的に発動される炎の頻度が著しく低かったお陰でもあった。
そして周りに悪魔だということをばらしていても、結構受け入れられている現実もある。というか悪魔であることを明るみにしたお陰で、勝呂及び塾生の頭の中で渦巻いていた様々な疑問なり疑惑に説明がついたからでもある。
でもぶっちゃけて説得力がある理由というのは、燐が実の弟に殺意を持たれているというわけあり物件なせいだった。燐は弟の虐待に対してよく耐え、周りがどんびきするほど無抵抗主義というか、やられっぱなしだった。
そして今日も弟に付けられた傷を弟に手当されているのだった。
「アサ子が言ってたけど、雪男見てると人間のほうが悪魔より怖いと思うって。」
「どうして?」
雪男はピンセットで挟んだアルコール綿をぐりぐりと傷口に押し込むように当てて燐に悲鳴を上げさせている。
「痛い! ゆきおいだい!」
「兄さんがアサ子さんの意見に同調しようとするからだよ。兄さんは本気でそんなこと思ってるの?」
「お、思ってねえけど。」
「うそ。思ってるでしょ?」
雪男は燐に顔を近づけてじっと目を覗き込む。眼鏡のレンズごしの緑がかった青い目は、西洋でいう緑の目に込められた意味を殊更に強調するように燐を射抜いていた。それは魔性の嫉妬の炎のようだった。
「他人から同情されるようになったからっていい気になってるんじゃないよ。それは兄さんを受け入れてくれたことにならないからね。兄さんは見た目馬鹿っぽく見えるから、彼らには兄さんの本質が分かってないだけだよ。」
「俺が馬鹿なのは俺が一番よく分かってるし。お前のいう俺の本質って……。」
雪男は包帯を巻き終えると、燐の額を小突いた。
「弟にスケベ心を持っている悪魔らしい性欲のことだよ。」
燐は反論はしない。
「俺は我慢してるだろ。」
「我慢が必要な時点で何かおかしいと思わないかな。」
「そんなこと言ったって。」
弟の青い目が燐の劣情を嘲笑っている。雪男の言葉に燐は対抗しようがないからだ。
雪男の言っていることは人間の社会の中では正しくて、燐が抱えている思いのほうが間違っている。だからそれなりに報復は受けて当たり前。燐が嫌というほど自覚している事実だった。そしてそれをアーサーが留守の今日、雪男は改めて燐に思い知らせてやろうと思っていた。
「あれだけアサ子さんにべたべただったのは、それは僕から気を逸らすためだったんだよね。」
「アサ子は記憶喪失なんだから、ほっとけないのが当たり前だろ。」
「僕との共同生活が膠着状態のときに、ほんと都合よくそんな人が現れて良かったよね。」
「お前は、何が言いたい。」
雪男は凍りついた目で燐を凝視していた。
「それ以外にも。勝呂君から部屋に来てと誘われたり、ネイガウス先生のところに泊まりにいったり、僕と距離を置こうとしてたよね。彼らもそれを推奨していたわけだけど。それでも兄さんは、彼らに救いを求めて情欲の捌け口に出来ないんだよね。僕に兄さんの思いが否定されても、僕が駄目なら勝呂君、なんて器用な真似は兄さんは出来ない。そうだよね。アサ子さんにしても。最初は綺麗だから世話を焼いていた。アサ子さんは僕と違って、可愛くて素直で兄さんにとって恋の相手になってもおかしくなかったけど、手を出す前にその気持ちは保護欲に変わってこれも駄目。だったら結局、兄さんの好きな人は僕のままってことで理解していいかな?」
事情を知らない誰かが聞いたら自意識過剰極まりない推測でしかない言葉だった。しかし悲しいかな。燐はそんな推測の全てを否定出来ないのだ。否定しても嘘になるし、肯定して白状して許してくれるわけもない。だから燐は黙るしかない。
雪男は燐が自分が望む通り存分に傷ついていることを認識したが、それだけでは足りなくなった。もっと目に見える形で兄の苦しみや悲しみを目の当たりにしたい。
「他人から同情されていい気になってんじゃないよ。兄さんは知らないだろうけど、僕にだって僕の気持ちに寄り添ってくれる人もいる。」
「誰なんだそいつ。」
燐の目に心なしか怒りの気配が見える。雪男が見たかったものが少しだけ見えた気がした。
「兄さんが知らない人。僕は兄さんの作った人間関係のほぼ全てが分かってるけど、僕の人間関係を兄さんがどれだけ分かってるかな? 兄さんの人間関係なんて所詮、僕からの虐待がきっかけの同情心からなのがほぼ全てじゃないか。悪者の僕がいるから、彼らは被害者の兄さんに惹かれるんだ。でも僕には兄さんに対して加害者だとしても、それでも味方してくれようとしている誰かが存在する。彼は僕が兄さんを虐待せずにはいられない僕の言う理由を受け入れてくれた。」
雪男の口からは燐が聞くに堪えない言葉が溢れていた。燐はそれに耳も塞げずに呆然と弟を見上げている。
「お前はそいつのことが好きなのか?」
「好きじゃないよ。でも彼が僕の存在を全て肯定してくれる言葉をくれるんだ。そういうところは身に染みて感謝してるよ。」
雪男は今まで鼻も引っ掛けてなかった藤堂のことを話しだす。燐の顔が悔しさやら嫉妬やらで歪む。兄は弟の言葉を正面から忠実に受け止めてしまっているから、雪男の話していることと、雪男と藤堂の現実の関係のズレにも気がつかない。弟の日頃の同僚達への態度を見ていれば分かってもいいはずだ。しかし燐は馬鹿正直に弟の口から齎される情報を鵜呑みにして心を嵐の海のように揺らしている。
虚言でさえも自分は兄の心を波立たせることが出来る。それはとんでもないくらいの優越感を与えてくれている。
「雪男。お前そいつのこと好きじゃないとか言ってたけど。」
「それが何?」
雪男は苦し紛れな兄の態度に身体が軽くなったような気がした。そして夢うつつのように相槌を打つ。何か言われたら、どう言い返して、どんな苦しみを与えてやろうかと。
燐は一回だけ唇を噛んで、血を滲ませた。そして言う。
「本当は、そいつのこと好きなんじゃね?」
雪男にとって心地良い空間に亀裂が走る。兄が言ったのは、弟の虚言を正面から受け止めたが故に理解した解答だった。雪男が兄を突き放すことを許容した言葉。そして兄が雪男を突き放した言葉。雪男の言葉を認めたからこと出てきた真摯で辛辣な推測。
「馬鹿が! そんなことしか考えられないのかお前は!」
雪男はそう叫ぶと燐の顎を蹴り上げる。垂直に振り上げた足が綺麗に燐の顎を捉え、部屋の壁に吹き飛ばした。燐は背中から壁にぶつかって「ぐうっ」と唸ったあとに唾液と血を呼吸と共に飛ばした。
壁際で咳き込んでいる燐にゆっくり雪男は近づく。
「や、やめろ……。雪男……。俺、なんか。気に障るようなこと、言った?」
「言っただろう。僕が誰にでも心を許すような、ふしだらな男だって言っただろ。その口で。」
「だって……。俺なんかより、そいつのほうがよっぽど……雪ちゃんの味方っぽいじゃん。」
「それがなんだよ! 味方してくれる人間、みんな好きにならなきゃいけないのかよ! 僕はお前と違ってそんなのことに逃げたりしないっ。他の男に縋ったりしない!」
雪男は矛盾したことを兄に言っている。雪男のほうから藤堂のことを兄に打ち明けて、兄を焦らしてへこませたかった癖に、それを兄に肯定されるとそれは違うと言う。
そこにもし他に観測者がいれば誰もが叫ぶだろう。『お前は何をして欲しいんだ!』と。
燐だってその叫びを口に出したかった。それを言葉に出来れば、何かのきっかけにはなったかもしれない。だけど燐は弟からの暴力の嵐から身を守るのに精一杯だった。反撃はまかり間違ってもしてはいけない。弟が十の暴力で与える傷を、自分は一の暴力で事足りるかもしれないからだ。なら燐は当然のように無抵抗を選ぶ。雪男が疲れてくれるまでやり過ごす。
「この。ろくでなし。」
雪男は汚物を吐き捨てるように言うとはあはあと肩で息をつきながら自分の机の椅子に座る。そこからぐったりした燐を眺めていた。
「ねえ、兄さん。僕のことを好きだって言い寄っている男は、兄さんと同じ悪魔だよ。元人間のドロップアウトした、いい大人。そんな奴、好きになるわけないじゃないか。」
燐は腫れ上がった顔を雪男に向ける。雪男はその顔を見て顔を顰める。
「手当てしてあげたいけど。兄さんを殴りすぎて僕の手も痛いよ。」
燐は回復し始めた身体を起こして床に座り込む。
「それを先に言ってもらえたら、兄ちゃんは勘違いしなくて済んだかもな。」
「僕も正直同感だよ。今までじゃ考えられない馬鹿馬鹿しい理由で兄さん殴っちゃったね。」
雪男はよろめきながら兄に近づく。
「だけど今日は本気で怒ったからね。兄さんだって、僕から本当は勝呂君が好きだろとか、ネイガウス先生が本命だったりしないとか、言われたらショックでしょ。」
燐は考え込む。雪男のこめかみに青筋が浮かぶ。
「どうなんだよ? 好きな相手にそんな勘違いされるの? まさか勘違いさせた相手が悪いかもとか考えてたりしない?」
「お……思ってません。」
雪男は燐の血がこびりついた唇にキスをしてやる。
「雪男……。」
燐の手が肩を抱いて腰に回ったが、雪男はその手を振り払わなかった。
「雪男。俺にキスしたかったの?」
「自意識過剰なこと言わないで。仕方なくだよ。」
そう言いながらも。今まで兄にキスした時には自分からしたかったのだと、雪男は今更ながら思った。
久しぶりに二人きりだと思えばこんなんです。
☆ss「青と黒」燐と朴
自分のほうに笑顔で近づいてくる少女。ショートヘアーの中背、温和そうな細目の。
その姿を見て燐は少し身構えてしまった。
「あら。燐君。隣いいかな?」
燐は中庭のベンチに座って横に参考書やら塾でメフィストから貰った本を積み上げていた。手にはその中の一冊が広げられている。それらをまとめて膝に移動させて声を掛けてきた人物のために隣のスペースを空けた。
「朴朔子……。」
「そんなに警戒しないでよ。」
朴はおっとりとした口調で言うと、燐の隣に腰掛けた。上体と腕を背もたれに預け、足を組んでどう見てもだれけたオヤジのような格好で空を仰ぎ見る。そしてこれまたオヤジのようにはあなどと声を上げた。
「朴。夏バテか?」
あまりにも気だるげな格好に燐は呆れたように言う。とうの燐といえば揃えた膝の上に本を置いているので、両手でちょこんと押さえた格好は、まるで文学少年を思わせるようだった。
「夏バテというかー。へへへ……へへへへ……。」
「気味悪いな!」
朴は燐の言うとおり気味の悪い笑い声を上げている。以前はそれほど気にならなかったのだが朴の本質を思い知ってからというもの、その笑顔の裏のどす黒いものを疑わずにはいられない燐だった。
朴は薄ら笑いを浮かべながら言う。
「出雲ちゃんが……。」
「神木がどうかしたのかよ。」
朴がらみの神木出雲という名前にもあまりいい気がしない燐だった。何かといえば「セクハラ」という四文字に纏わる記憶が蘇る。
「あのね。出雲ちゃんが……飽和状態っていうかバブルっていうか。うふふ……。」
「意味わからんけど! そのやらしい笑いだけはやめろっ。気持ち悪い通り越して怖い。」
まだ残暑が残っているような時候だったが、燐の背中は極寒地帯だった。
「うふふ……。ふふふ……。君には、ありがとうと言うべきかな。君のケツにちょっかい出したせいで、出雲ちゃんがね、物凄くヤキモチやいてくれてね。今私達すっごいいちゃラブ状態なの。」
そうですかとしか燐は返せそうにない。
「会話の中に君の名前をちょこーっと出すだけでね。『だめーっ』とか『朴は私の!』とか『あの泥棒猫殺す!』とか、可愛いでしょ? わざとなんだけどね。燐君の名前を聞くと対抗心をくすぐられるらしくて。」
「いい加減にしろよてめえ! 他人のことネタにするんじゃねえよ。ていうか殺すなんて言わせるほど名前出すんじゃねえよ! 俺はかませ犬かよ!」
神木出雲は塾では燐にそういう感情を極力出してなかっただけに、燐は自分の知らないところで身近な他人に何を思われているか分からないという恐怖に戦慄した。
「いやそこはちゃんと、アレはただのつまみ食いだって言っているから。腹の足しにならないって言ってるから。私にとってのフルコースは出雲ちゃんだって言ってるから。」
「神木は、そのつまみ食いが許せねえんじゃねえのか。ていうか、人をつまみ食い扱いするなよ! 俺だって勝呂にしてみればフルコースだからな!」
ふふんと朴が鼻で笑う。足を組み替えて燐のほうを向きにやりと笑った。その顔はごはん味噌汁メザシ沢庵のフルコースごときが何を言っているという、ある意味挑発的な表情だった。何を言われたわけでもないの燐は目を逸らしたくなる。
「まあ。たまにも粗食もいいかなって思っただけだし。」
「粗食!」
やはり燐の脳内を過ぎったものは気のせいではなかったらしい。
「ま、いいけど。さっきから私に、なんかつっかかってるよね君。生意気。」
「お前が先にからんで来たんだろ。」
「あれ? そんなこと言っていいのかな? サタンの息子が。」
おいと燐は言おうとした。京都での「サタンの息子」いじりが元塾生の朴にまで広がっている。
「勝呂君と奥村先生に二股かけてるサタンの息子に言われたくないなあ。あ。しえみちゃん入れたら三股か――。」
「だれがいつ二股かけた。っつーか、しえみには一生友達宣言受けたし。」
「あらお気の毒。」
朴は燐が積み上げているテキストの背表紙を覗き込んで、少しだけ驚いたような表情を見せ言う。
「それにしても。燐君って勉強熱心なほうじゃないはずだよね。どうしたの。そのテキストの山。」
燐は朴からの指摘に頬を赤らめる。他人に言われるとわけもなく気まずいと思ってしまった。
「えーと。お前に言ってもしょうがねえんだけど。」
「ああ。ひょっとして祓魔師認定試験に受からないと処刑されるってやつ?」
「おい。そんな込み入った事情、神木がぺらぺら喋ったのか?」
「いや。理事長。」
思わず腰を浮かせた燐は膝から参考書をばたばたと落とした。それを拾いながら燐は溜息をつく。
「何喋ってんだよ。あいつ。」
「ほんと。何喋ってんだ、だよね。あの理事長。でもさ、」
燐が参考書を拾い集めているのを手伝わずに眺めながら朴は言葉を続けた。
「理事長も自分の胸になにもかも仕舞い込めなかったから、私に言ったんじゃないかな。」
「俺の事情だろ。なんであいつが。」
「燐君の後見人さんじゃん。同じ悪魔だし。だからああ見えても、あの人にとっては燐君は身内みたいなもんだし。一蓮托生な気分なんじゃないの。」
それもそうかなと燐は合点しかけた。それでも喉に小骨が刺さったように、すんなりと飲み込めない。しかし言葉に出来ないから燐はこの場では一応朴に頷いてみせた。
「私は燐君には、なんの力にもなってあげられないんだけどね。所詮は一般人の脇役だから。モブだから。ヒーローにもヒロインにもなれないからね。」
「いやその割には、お前は破壊力がすごいんだけど。」
朴は笑って誤魔化した。そして朴は次の言葉を瞬時に燐に告げる。
「君は死なないように頑張ろうね。」
燐は今度はその朴の言葉に素直に頷けた。
「ああ。……俺だって生き残って二年生になりてえからな。出来れば、その……勝呂と同じクラスになりたいし。」
「ああ。だから参考書なんか見てたわけ。認定試験と同じくらいの時期に進路やコース変え希望の調査もあったよね。確か。ふーん。そうなんだ。……燐君にしては努力し始めたというか、ちょっと欲張りになってきたような感じだね。」
「欲張った覚えはねえぞ。」
「分不相応なこと思ってるのは欲張りって言うんだよ。聖十字学園で普通科下位の生徒が特進科に鞍替えはどう考えても無茶だよ。あー。でも数ヶ月先の認定試験に受かるのと難易度はどっこいか。とりあえず君は生き残れば、あらゆる可能性が出てくるってことだよね。」
「お前さっきから血も涙もないような、励ましているようで貶してるようなことばっかり言ってるんだけど。前に俺のこと気になってたとか言ってなかったっけ?」
「人の興味関心の仕方なんてそんなもんだよ。同情したって現実は変わらないし。」
でもと朴は燐の髪に自分の細い指を絡ませた。
「君が死んだら出雲ちゃんにアピるネタがなくなるから、頑張って生き延びてね。」
そう言って朴は燐の額に唇を寄せてきた。柔らかくて優しい感触が燐の額に触れる。
「でこちゅー。」
それは一瞬の出来事で、燐は口をぽかんと開けて再び地面に参考書を落としてしまった。今度は朴は自らその参考書を拾ってやる。
「はい。」
「お、おう……。」
周りの景色が金色に霞んでどこからか金木犀の香りがする。もう夏の終わりで秋の始まりなんだと燐は思った。その淡い光が朴の優しげな表情によく似合う。
「頑張れ。サタンの息子。」
「またそんなことを言う。」
照れくさくなって朴から目を逸らしたその視線の先に、見つけてはいけない人影を見つける。長い髪。釣り上がった目は、彼女にとってあってはいけない光景への怒りに余計に釣り上がっていた。
朴はこともなげに燐に告げる。
「あ。このベンチね。出雲ちゃんとの待ち合わせ場所だったんだ。」
「おい……。」
「さっきの見られたね。たぶん。」
燐はそそくさとベンチから立ち上がって参考書を抱えて小走りに立ち去ろうとする。
「この泥棒猫!」
出雲は走ってベンチに駆け寄り逃げ去る燐に向かって叫んだ。そのまま朴を追い越して逃げていく燐を追っている。
朴はその風景を見送りながら、意味深に真顔になった。
「本気で頑張って欲しいな。燐君。君が死んじゃったら、物質界だって無事じゃ済まなくなるもん。」
君は対サタンの最大の対抗策なのだからと朴は呟いた。
今回はちょっと短めでした。
その姿を見て燐は少し身構えてしまった。
「あら。燐君。隣いいかな?」
燐は中庭のベンチに座って横に参考書やら塾でメフィストから貰った本を積み上げていた。手にはその中の一冊が広げられている。それらをまとめて膝に移動させて声を掛けてきた人物のために隣のスペースを空けた。
「朴朔子……。」
「そんなに警戒しないでよ。」
朴はおっとりとした口調で言うと、燐の隣に腰掛けた。上体と腕を背もたれに預け、足を組んでどう見てもだれけたオヤジのような格好で空を仰ぎ見る。そしてこれまたオヤジのようにはあなどと声を上げた。
「朴。夏バテか?」
あまりにも気だるげな格好に燐は呆れたように言う。とうの燐といえば揃えた膝の上に本を置いているので、両手でちょこんと押さえた格好は、まるで文学少年を思わせるようだった。
「夏バテというかー。へへへ……へへへへ……。」
「気味悪いな!」
朴は燐の言うとおり気味の悪い笑い声を上げている。以前はそれほど気にならなかったのだが朴の本質を思い知ってからというもの、その笑顔の裏のどす黒いものを疑わずにはいられない燐だった。
朴は薄ら笑いを浮かべながら言う。
「出雲ちゃんが……。」
「神木がどうかしたのかよ。」
朴がらみの神木出雲という名前にもあまりいい気がしない燐だった。何かといえば「セクハラ」という四文字に纏わる記憶が蘇る。
「あのね。出雲ちゃんが……飽和状態っていうかバブルっていうか。うふふ……。」
「意味わからんけど! そのやらしい笑いだけはやめろっ。気持ち悪い通り越して怖い。」
まだ残暑が残っているような時候だったが、燐の背中は極寒地帯だった。
「うふふ……。ふふふ……。君には、ありがとうと言うべきかな。君のケツにちょっかい出したせいで、出雲ちゃんがね、物凄くヤキモチやいてくれてね。今私達すっごいいちゃラブ状態なの。」
そうですかとしか燐は返せそうにない。
「会話の中に君の名前をちょこーっと出すだけでね。『だめーっ』とか『朴は私の!』とか『あの泥棒猫殺す!』とか、可愛いでしょ? わざとなんだけどね。燐君の名前を聞くと対抗心をくすぐられるらしくて。」
「いい加減にしろよてめえ! 他人のことネタにするんじゃねえよ。ていうか殺すなんて言わせるほど名前出すんじゃねえよ! 俺はかませ犬かよ!」
神木出雲は塾では燐にそういう感情を極力出してなかっただけに、燐は自分の知らないところで身近な他人に何を思われているか分からないという恐怖に戦慄した。
「いやそこはちゃんと、アレはただのつまみ食いだって言っているから。腹の足しにならないって言ってるから。私にとってのフルコースは出雲ちゃんだって言ってるから。」
「神木は、そのつまみ食いが許せねえんじゃねえのか。ていうか、人をつまみ食い扱いするなよ! 俺だって勝呂にしてみればフルコースだからな!」
ふふんと朴が鼻で笑う。足を組み替えて燐のほうを向きにやりと笑った。その顔はごはん味噌汁メザシ沢庵のフルコースごときが何を言っているという、ある意味挑発的な表情だった。何を言われたわけでもないの燐は目を逸らしたくなる。
「まあ。たまにも粗食もいいかなって思っただけだし。」
「粗食!」
やはり燐の脳内を過ぎったものは気のせいではなかったらしい。
「ま、いいけど。さっきから私に、なんかつっかかってるよね君。生意気。」
「お前が先にからんで来たんだろ。」
「あれ? そんなこと言っていいのかな? サタンの息子が。」
おいと燐は言おうとした。京都での「サタンの息子」いじりが元塾生の朴にまで広がっている。
「勝呂君と奥村先生に二股かけてるサタンの息子に言われたくないなあ。あ。しえみちゃん入れたら三股か――。」
「だれがいつ二股かけた。っつーか、しえみには一生友達宣言受けたし。」
「あらお気の毒。」
朴は燐が積み上げているテキストの背表紙を覗き込んで、少しだけ驚いたような表情を見せ言う。
「それにしても。燐君って勉強熱心なほうじゃないはずだよね。どうしたの。そのテキストの山。」
燐は朴からの指摘に頬を赤らめる。他人に言われるとわけもなく気まずいと思ってしまった。
「えーと。お前に言ってもしょうがねえんだけど。」
「ああ。ひょっとして祓魔師認定試験に受からないと処刑されるってやつ?」
「おい。そんな込み入った事情、神木がぺらぺら喋ったのか?」
「いや。理事長。」
思わず腰を浮かせた燐は膝から参考書をばたばたと落とした。それを拾いながら燐は溜息をつく。
「何喋ってんだよ。あいつ。」
「ほんと。何喋ってんだ、だよね。あの理事長。でもさ、」
燐が参考書を拾い集めているのを手伝わずに眺めながら朴は言葉を続けた。
「理事長も自分の胸になにもかも仕舞い込めなかったから、私に言ったんじゃないかな。」
「俺の事情だろ。なんであいつが。」
「燐君の後見人さんじゃん。同じ悪魔だし。だからああ見えても、あの人にとっては燐君は身内みたいなもんだし。一蓮托生な気分なんじゃないの。」
それもそうかなと燐は合点しかけた。それでも喉に小骨が刺さったように、すんなりと飲み込めない。しかし言葉に出来ないから燐はこの場では一応朴に頷いてみせた。
「私は燐君には、なんの力にもなってあげられないんだけどね。所詮は一般人の脇役だから。モブだから。ヒーローにもヒロインにもなれないからね。」
「いやその割には、お前は破壊力がすごいんだけど。」
朴は笑って誤魔化した。そして朴は次の言葉を瞬時に燐に告げる。
「君は死なないように頑張ろうね。」
燐は今度はその朴の言葉に素直に頷けた。
「ああ。……俺だって生き残って二年生になりてえからな。出来れば、その……勝呂と同じクラスになりたいし。」
「ああ。だから参考書なんか見てたわけ。認定試験と同じくらいの時期に進路やコース変え希望の調査もあったよね。確か。ふーん。そうなんだ。……燐君にしては努力し始めたというか、ちょっと欲張りになってきたような感じだね。」
「欲張った覚えはねえぞ。」
「分不相応なこと思ってるのは欲張りって言うんだよ。聖十字学園で普通科下位の生徒が特進科に鞍替えはどう考えても無茶だよ。あー。でも数ヶ月先の認定試験に受かるのと難易度はどっこいか。とりあえず君は生き残れば、あらゆる可能性が出てくるってことだよね。」
「お前さっきから血も涙もないような、励ましているようで貶してるようなことばっかり言ってるんだけど。前に俺のこと気になってたとか言ってなかったっけ?」
「人の興味関心の仕方なんてそんなもんだよ。同情したって現実は変わらないし。」
でもと朴は燐の髪に自分の細い指を絡ませた。
「君が死んだら出雲ちゃんにアピるネタがなくなるから、頑張って生き延びてね。」
そう言って朴は燐の額に唇を寄せてきた。柔らかくて優しい感触が燐の額に触れる。
「でこちゅー。」
それは一瞬の出来事で、燐は口をぽかんと開けて再び地面に参考書を落としてしまった。今度は朴は自らその参考書を拾ってやる。
「はい。」
「お、おう……。」
周りの景色が金色に霞んでどこからか金木犀の香りがする。もう夏の終わりで秋の始まりなんだと燐は思った。その淡い光が朴の優しげな表情によく似合う。
「頑張れ。サタンの息子。」
「またそんなことを言う。」
照れくさくなって朴から目を逸らしたその視線の先に、見つけてはいけない人影を見つける。長い髪。釣り上がった目は、彼女にとってあってはいけない光景への怒りに余計に釣り上がっていた。
朴はこともなげに燐に告げる。
「あ。このベンチね。出雲ちゃんとの待ち合わせ場所だったんだ。」
「おい……。」
「さっきの見られたね。たぶん。」
燐はそそくさとベンチから立ち上がって参考書を抱えて小走りに立ち去ろうとする。
「この泥棒猫!」
出雲は走ってベンチに駆け寄り逃げ去る燐に向かって叫んだ。そのまま朴を追い越して逃げていく燐を追っている。
朴はその風景を見送りながら、意味深に真顔になった。
「本気で頑張って欲しいな。燐君。君が死んじゃったら、物質界だって無事じゃ済まなくなるもん。」
君は対サタンの最大の対抗策なのだからと朴は呟いた。
今回はちょっと短めでした。
☆ss「Esperanza特別編―まむしメデューサ―」蝮柔金
俺は生まれつき馬鹿やった。だから賢そうな奴が苦手やった。単純に勉強が出来る同級の優等生しかり。
親戚筋のいつも取り澄ました冷血女しかり。
俺は馬鹿やったから、そんな苦手な相手を回避するという楽なやり方が出来へんかった。苦手な相手に馬鹿正直に対抗意識を持ち、自らつっかかって、喧嘩ふっかけて自滅してきた。そんな俺に頭だけでなく性格もよう出来た兄ちゃんは、叱らずに不貞腐れそうになった俺を慰めてくれた。ほんでいつも言ってくれたんや。
「馬鹿でも金造のことが好きやで。」
だから俺は馬鹿がひとっつも直らんかった。
さて。
俺こと志摩金造は、実のところ不浄王騒ぎの最初から終わりまでを、全てが終わってから、おとんや兄貴に含むように噛み締めるように言われてやっと理解したクチだった。
馬鹿なんだから仕方ない。周りの騒ぎと指示に浮かされてギャーギャー騒いどっただけの俺は、その騒ぎの裏や前兆すら気づかずに、ただ突っ走っとった。
そして俺にとって宿敵とも言える女が、十年近くも、俺が馬鹿正直に信じてきた全てを疑っていたことも知らなかった。だいたい。人間が十年も同じことを疑い続け、周りを欺き、そして疑いが確信になる証拠らしきものを掴んでしまうやなんて、想像も出来なかった。俺は俺の周りを取り巻く全ての、ふと感じる違和感すらなかったのやから。
一部の人間はあの女を「馬鹿」と囁く。だって、昔の恩師、今ではもう悪意ある元騎士団の人間に騙されたのだからと。
俺はあの女は嫌いやけど、「馬鹿言うなボケ!」と、あの女を馬鹿と蔑む連中に叫び返してしまうと思う。
能天気に「明陀のため」とか「柔兄を支えるんや」とか、ただ単純に従っていた俺自身が恥ずかしいという、そんな裏返しの意味で。
要するに俺は。あの女を嫌っていながら敵視していながら、あいつの一途さや健気さにある種の感動を覚えてしまったアホということを思い知ったというわけや。
俺に事件の全体を教えてくれた柔兄が最後に締めくくるように言った言葉やけど、曰く。
『蝮が一人で抱え込まんで俺を巻き込んでくれたら良かったんや。やけど、そんときの俺ってあいつにとって頼りなかったんやから、仕方なかったかもしれへんな。』
ほんまにそうやと思う。
あの女は柔兄が自分のこと好いてると知っとったんやから。それを敢えて知らん振りしとったんやから。
利用したら良かったんやなかろうか。あいつを騙した恩師は、柔兄にとっても恩師やった。今でこそ落ち着いてあの女が騙されとると判断できる柔兄やけど、昔はかなり血気盛んな男やったから。あの女に身内絡みの深刻な相談をされたら、きっと情にほだされて道連れにされとったのかもしれん。それはそれで明陀にとっては、とくに和尚さまにとっては大打撃を食らっとったかもしれんけど、二人やったらなんかの拍子に軌道修正が出来たんやなかろうか。
どう考えても、あの女は一人で暴走して自爆したようなもんや。
十年近く俺らを騙してきたそんな狡賢さをもうちょい上手く使ってくれりゃあ、痛い目に合わずに済んだのに。たぶん元恩師とやらに一人で暴走するように誘導されたに違いないんやろうけど――。
ほんでもそれもアリやということも俺はわかっとる。あの偏屈で頑なな女は、自分だけが裏切り者になって明陀を救おうとした。ただそのきっかけが悪意ある部外者の言葉やったというのが、全てのあの女の不運の始まりやったというわけや。
なんや。
あの女あの女いうたら、俺もあの女非難しとるみたいやから、ここははっきり言ってみようと思う。
「蝮。お前はほんまにアホや。柔兄に助けられたから良かったけどなあ。落ちぶれまくって今まで袖にしとった男に貰われるしかないなんて、無様やなあ。」
蝮はか細い声で言う。
「それを含めて私への罰なんやろうが。」
蝮は俺に向かって凍るような笑顔を向けてきた。
「あんたからは嫁いびりの罰が下るんやろうな。柔造との結婚そのもんより、そっちの罰のほうがきついかもしれへんな。なんせ、柔造は私のこと好いとるから、罰やいいながら私を幸せにしようとするやろうし。ほんま罰にならへん。」
「ほたえな。このあま。あんた自身も結婚は罰にならん言うたその口で。」
ほんまふてぶてしい口ぶりやな。柔兄の結婚宣言の時のノリで照れてくれりゃあ俺も少しは大人しくしようと思うのに。いや。根が気丈なこの女やから、この後の騎士団からの厳罰に備えて構えとるんやろう。
厳罰……。俺は無い頭で想像してみる。
まずは騎士団から除名されるわなあ。それは蟒が言っとった。そんで二度と祓魔師としての仕事は出来んわ。不可抗力やろうけど、右目は再起不能らしい。しかも女やから顔に残った傷は、ほんまに男じゃ想像出来んくらい世間の風当たりは強いんやろうな。あの裏はえげつないらしい騎士団のことやから、除名したからいうて、それで終わりやないやろう。要注意人物に特定され、なんやかんや干渉されるに決まっとる。まだ蝮の恩師というか、騙した相手はとっ捕まってないらしいし。
先のこと言うたら、能天気に軽く結婚エンドやと揶揄する連中は俺の周りにもおることにはおるけど、十分生き地獄な生活やと思う。まあ。あの優しい柔兄と結婚できるんやから、ええこと悪いこと、とんとんいうてもええんやろうけど。
いや。やっぱり悪いことのほうが多そうやな。
「ほんまアホやお前。」
気の毒に思うのも失礼だと思って、俺はさらに蝮をけなしてもうた。蝮は開き直ったように頷いた。
「私がアホなのは今回で身に染みた。私には柔造も妹も父様も、和尚さまも、明陀のみんなが私の側にいたはずなのに。ほんまボケカスやったわ。」
「ボケカスまでは言うとらへんやろ。お前もしゃあない事情があったんやろうが。それ考慮してやってもはみ出るアホなとこが残っとったから、はみ出た部分だけアホ言うただけや。」
「ええんや。私も自覚しとるんや。私は独りよがりのアホで、騙されるようなボケで、人を信じられんカスやったんや。そんで、藤堂先生いや……藤堂のクソのような悪意ある奴を信じ続けた馬鹿女でもあったんや……。せやけど、そんな救いようがない私のこと柔造は」
「やめんかあ! この色ボケがあ!」
俺はぜえぜえと息をつきながら周りを見回した。
「なあ! 何で誰も俺ら止めへんのん?」
俺はその場にいる全員に呼びかけた。
みんな料理に箸をつけながら歓談していた。ここはとらやの大広間。蝮の処分が決まる前に簡単な結婚祝いとして、とらやの板前さんとか仲居さんが張り切ってくれた結果だけがそこにあった。俺と蝮の言い合い以外は。
柔兄と蝮を中心に勝呂家、志摩家、宝生家、三輪家の主だった現在京都にいる家族らが集まっている。総勢三十人ほどが一つの部屋にいるというのに、花嫁と花婿の弟が言い争うのを止めんとはどういう神経やと。
柔兄はグラスに注がれたビール片手にほろ酔い加減で、近い将来嫁になる女をにこにこと見ているし、俺の親父と蝮のおとうはんは、やっと更正してとらやの女将はんのとこに帰ってきた和尚さまをでれでれと構い倒している。女将はんがひいとるのに気づく様子もない。やっと自分達のとこに帰ってきた友人が余程嬉しかったらしい。坊含めた年下連中は固まって話しとるし。なんかちょっと耳に入ってきたのは、夏休みの宿題がどうのこうのやった。
つまり俺と蝮の喧嘩は、宴会のまったりした空気に溶け込んどったということなんか。いや。青と錦が部屋の隅で背中合わせに立って、ぎっこんばったんなんかやっとるし。大方おとうはんとおかあはんから、この場で騒ぎを起こさんように言いつけられとるんやろ。
そうか。
そんなに問題起こしとうないんかい。姉様のために。今までの幼馴染感覚込みの両家の確執を完全にチャラにするつもりやなこいつら。俺はお前らの大好きな姉様を公衆の面前で貶しとるんやぞ。聞こえとらんのかこら。
しかしその肝心な貶している相手は、素知らぬ顔で俺の言葉を受け止めていた。
「金造。あんたが言うような非難は、他所のもんからも言われると思う。もっと口汚い言葉でな。予行演習にちょうどえかった。」
「いや。あんたはもうすぐうちの身内になる女やから。何も知らん他所もんに指一本指させんわ。」
蝮は最初は声にならずに無音で口を動かすだけやった。その唇が二度三度動くたびになんか言葉らしくなってきて。
「おおきに。」
最後にははっきり俺への感謝の言葉になった。
「……。」
なんか妙に浮き足立った俺がいた。なんか大騒ぎしたい子どもじみた俺が。
俺は深呼吸する。
なんや俺。よう考えたらさっきから他力本願やんか。一人で喧嘩することも、自分で落ち着くことも出来んのかい。常に誰か巻き込みたいんかい。今までのこいつらとの喧嘩みたいに。青や錦が加わって。俺が柔兄をけしかけて。そんで皆でおとんや蟒に怒られて。そんなずっとやってきた繰り返しを。
だけどもうそれも出来んのんかもしれん。
もうただの幼馴染の腐れ縁やない。柔兄とこいつは夫婦になるんやし、こいつは俺にとって新しいお姉ちゃんになってまう。
「なあ申。」
蝮が俺への今になっては悪口になりようもない呼び方で呼ぶ。大人になるいうのはこんなことかなと思った俺は、ひどく穏やかな気持ちだった。
「なんやねん。」
「柔造取ってもうて悪かったな。」
「「「「「「「「「「はっ。」」」」」」」」」」
今まで散々俺らを無視してきた周りの奴らが、ピクリとこっちに注目した。俺はその集中的な視線に怖気が立った。
「……。」
なんやこいつら。
これが地雷やったんかい。俺が爆弾やったんか。今夜はそれをおくびに出さず普通の結婚する兄がいる弟を演じたもんやから、ほっといてもええと思うとったんやろ。
蝮がⅤサインしてウインクしてきた。俺は蝮らしくないその仕草に引きつった笑みを見せながら頷いた。
まさか先に恋敵の兄嫁がこの不自然極まりない空気の原因を察してくれたとは、とんだ笑い話や。しかも兄嫁、いや、新しいお姉ちゃんからネタ振りしてくるとは思わんかった。
「悪かった思うんなら……。今から返してくれても構わんのやで?」
親父と蟒と和尚さまが必死でやめろと身振り手振りで俺に合図しとる。柔兄も蝮の後ろで蝮の肩に手を置いた。蝮はそっけなくその手を振り払う。いつもより優しげな仕草で。
「返さん。」
「返せや。」
俺と蝮は立ち上がって対峙する。周りがざわざわとざわめいて、ほとんどのもんが腰を浮かしていたが、いち早く冷静になった女将はんが、俺らが睨み合っている間にみんなと料理や酒を部屋の隅に避難させていた。
そして部屋の中央には俺と蝮が残された。
「ほんなら、実力で貰おうか? あんたの大好きな兄ちゃん。それなら文句ないやろ。」
「じゃあお前の罰一発目は、俺が勝って結婚式は延期やな。俺の気が済むまで。」
「負けんで申。」
「わかっとるわ蛇女。」
俺は隠し持っていた組み立て式の錫杖の先を蝮に向ける。
「柔造。私の髪の毛解いてんか?」
「こうか?」
「そんで。解いたら一目散に後ろに逃げえ。」
柔兄は蝮の髪の毛を解く。そして後ろの壁に逃げた。
柔兄が逃げるのに後ろを向いていた数秒の間にも、蝮に変化があった。
蝮の髪の毛の一本一本が真っ白い蛇になっていて、蝮の髪の長さをまるで無視して俺に向かって鎌首をもたげていた。
「今まで誰にも見せたことはあらへんけどな。これが私の本気や。」
何万匹の蛇と契約交わしたんや。しかも今までそれを隠しとった。俺なんか最初から問題にならんくらい強いちゅうことかい。
錫杖一本で勝てる気がせえへん。もう笑うしかない。
「あははははは!」
俺は盛大に笑ってアホみたいに蛇の群れに突っ込んだ。そして馬鹿みたいに新しい姉ちゃんに負けるのだった。
新しい姉ちゃんを家族に迎えても、俺の馬鹿は直らない。
SQで柔蝮結婚が決まっても、うちの金造は変わりません。柔兄大好きで柔造狙いのまま蝮を姉に迎えます。Esperanzaは一旦ここで完結かな。まさかこんな終わりになるとは思いませんでした。
親戚筋のいつも取り澄ました冷血女しかり。
俺は馬鹿やったから、そんな苦手な相手を回避するという楽なやり方が出来へんかった。苦手な相手に馬鹿正直に対抗意識を持ち、自らつっかかって、喧嘩ふっかけて自滅してきた。そんな俺に頭だけでなく性格もよう出来た兄ちゃんは、叱らずに不貞腐れそうになった俺を慰めてくれた。ほんでいつも言ってくれたんや。
「馬鹿でも金造のことが好きやで。」
だから俺は馬鹿がひとっつも直らんかった。
さて。
俺こと志摩金造は、実のところ不浄王騒ぎの最初から終わりまでを、全てが終わってから、おとんや兄貴に含むように噛み締めるように言われてやっと理解したクチだった。
馬鹿なんだから仕方ない。周りの騒ぎと指示に浮かされてギャーギャー騒いどっただけの俺は、その騒ぎの裏や前兆すら気づかずに、ただ突っ走っとった。
そして俺にとって宿敵とも言える女が、十年近くも、俺が馬鹿正直に信じてきた全てを疑っていたことも知らなかった。だいたい。人間が十年も同じことを疑い続け、周りを欺き、そして疑いが確信になる証拠らしきものを掴んでしまうやなんて、想像も出来なかった。俺は俺の周りを取り巻く全ての、ふと感じる違和感すらなかったのやから。
一部の人間はあの女を「馬鹿」と囁く。だって、昔の恩師、今ではもう悪意ある元騎士団の人間に騙されたのだからと。
俺はあの女は嫌いやけど、「馬鹿言うなボケ!」と、あの女を馬鹿と蔑む連中に叫び返してしまうと思う。
能天気に「明陀のため」とか「柔兄を支えるんや」とか、ただ単純に従っていた俺自身が恥ずかしいという、そんな裏返しの意味で。
要するに俺は。あの女を嫌っていながら敵視していながら、あいつの一途さや健気さにある種の感動を覚えてしまったアホということを思い知ったというわけや。
俺に事件の全体を教えてくれた柔兄が最後に締めくくるように言った言葉やけど、曰く。
『蝮が一人で抱え込まんで俺を巻き込んでくれたら良かったんや。やけど、そんときの俺ってあいつにとって頼りなかったんやから、仕方なかったかもしれへんな。』
ほんまにそうやと思う。
あの女は柔兄が自分のこと好いてると知っとったんやから。それを敢えて知らん振りしとったんやから。
利用したら良かったんやなかろうか。あいつを騙した恩師は、柔兄にとっても恩師やった。今でこそ落ち着いてあの女が騙されとると判断できる柔兄やけど、昔はかなり血気盛んな男やったから。あの女に身内絡みの深刻な相談をされたら、きっと情にほだされて道連れにされとったのかもしれん。それはそれで明陀にとっては、とくに和尚さまにとっては大打撃を食らっとったかもしれんけど、二人やったらなんかの拍子に軌道修正が出来たんやなかろうか。
どう考えても、あの女は一人で暴走して自爆したようなもんや。
十年近く俺らを騙してきたそんな狡賢さをもうちょい上手く使ってくれりゃあ、痛い目に合わずに済んだのに。たぶん元恩師とやらに一人で暴走するように誘導されたに違いないんやろうけど――。
ほんでもそれもアリやということも俺はわかっとる。あの偏屈で頑なな女は、自分だけが裏切り者になって明陀を救おうとした。ただそのきっかけが悪意ある部外者の言葉やったというのが、全てのあの女の不運の始まりやったというわけや。
なんや。
あの女あの女いうたら、俺もあの女非難しとるみたいやから、ここははっきり言ってみようと思う。
「蝮。お前はほんまにアホや。柔兄に助けられたから良かったけどなあ。落ちぶれまくって今まで袖にしとった男に貰われるしかないなんて、無様やなあ。」
蝮はか細い声で言う。
「それを含めて私への罰なんやろうが。」
蝮は俺に向かって凍るような笑顔を向けてきた。
「あんたからは嫁いびりの罰が下るんやろうな。柔造との結婚そのもんより、そっちの罰のほうがきついかもしれへんな。なんせ、柔造は私のこと好いとるから、罰やいいながら私を幸せにしようとするやろうし。ほんま罰にならへん。」
「ほたえな。このあま。あんた自身も結婚は罰にならん言うたその口で。」
ほんまふてぶてしい口ぶりやな。柔兄の結婚宣言の時のノリで照れてくれりゃあ俺も少しは大人しくしようと思うのに。いや。根が気丈なこの女やから、この後の騎士団からの厳罰に備えて構えとるんやろう。
厳罰……。俺は無い頭で想像してみる。
まずは騎士団から除名されるわなあ。それは蟒が言っとった。そんで二度と祓魔師としての仕事は出来んわ。不可抗力やろうけど、右目は再起不能らしい。しかも女やから顔に残った傷は、ほんまに男じゃ想像出来んくらい世間の風当たりは強いんやろうな。あの裏はえげつないらしい騎士団のことやから、除名したからいうて、それで終わりやないやろう。要注意人物に特定され、なんやかんや干渉されるに決まっとる。まだ蝮の恩師というか、騙した相手はとっ捕まってないらしいし。
先のこと言うたら、能天気に軽く結婚エンドやと揶揄する連中は俺の周りにもおることにはおるけど、十分生き地獄な生活やと思う。まあ。あの優しい柔兄と結婚できるんやから、ええこと悪いこと、とんとんいうてもええんやろうけど。
いや。やっぱり悪いことのほうが多そうやな。
「ほんまアホやお前。」
気の毒に思うのも失礼だと思って、俺はさらに蝮をけなしてもうた。蝮は開き直ったように頷いた。
「私がアホなのは今回で身に染みた。私には柔造も妹も父様も、和尚さまも、明陀のみんなが私の側にいたはずなのに。ほんまボケカスやったわ。」
「ボケカスまでは言うとらへんやろ。お前もしゃあない事情があったんやろうが。それ考慮してやってもはみ出るアホなとこが残っとったから、はみ出た部分だけアホ言うただけや。」
「ええんや。私も自覚しとるんや。私は独りよがりのアホで、騙されるようなボケで、人を信じられんカスやったんや。そんで、藤堂先生いや……藤堂のクソのような悪意ある奴を信じ続けた馬鹿女でもあったんや……。せやけど、そんな救いようがない私のこと柔造は」
「やめんかあ! この色ボケがあ!」
俺はぜえぜえと息をつきながら周りを見回した。
「なあ! 何で誰も俺ら止めへんのん?」
俺はその場にいる全員に呼びかけた。
みんな料理に箸をつけながら歓談していた。ここはとらやの大広間。蝮の処分が決まる前に簡単な結婚祝いとして、とらやの板前さんとか仲居さんが張り切ってくれた結果だけがそこにあった。俺と蝮の言い合い以外は。
柔兄と蝮を中心に勝呂家、志摩家、宝生家、三輪家の主だった現在京都にいる家族らが集まっている。総勢三十人ほどが一つの部屋にいるというのに、花嫁と花婿の弟が言い争うのを止めんとはどういう神経やと。
柔兄はグラスに注がれたビール片手にほろ酔い加減で、近い将来嫁になる女をにこにこと見ているし、俺の親父と蝮のおとうはんは、やっと更正してとらやの女将はんのとこに帰ってきた和尚さまをでれでれと構い倒している。女将はんがひいとるのに気づく様子もない。やっと自分達のとこに帰ってきた友人が余程嬉しかったらしい。坊含めた年下連中は固まって話しとるし。なんかちょっと耳に入ってきたのは、夏休みの宿題がどうのこうのやった。
つまり俺と蝮の喧嘩は、宴会のまったりした空気に溶け込んどったということなんか。いや。青と錦が部屋の隅で背中合わせに立って、ぎっこんばったんなんかやっとるし。大方おとうはんとおかあはんから、この場で騒ぎを起こさんように言いつけられとるんやろ。
そうか。
そんなに問題起こしとうないんかい。姉様のために。今までの幼馴染感覚込みの両家の確執を完全にチャラにするつもりやなこいつら。俺はお前らの大好きな姉様を公衆の面前で貶しとるんやぞ。聞こえとらんのかこら。
しかしその肝心な貶している相手は、素知らぬ顔で俺の言葉を受け止めていた。
「金造。あんたが言うような非難は、他所のもんからも言われると思う。もっと口汚い言葉でな。予行演習にちょうどえかった。」
「いや。あんたはもうすぐうちの身内になる女やから。何も知らん他所もんに指一本指させんわ。」
蝮は最初は声にならずに無音で口を動かすだけやった。その唇が二度三度動くたびになんか言葉らしくなってきて。
「おおきに。」
最後にははっきり俺への感謝の言葉になった。
「……。」
なんか妙に浮き足立った俺がいた。なんか大騒ぎしたい子どもじみた俺が。
俺は深呼吸する。
なんや俺。よう考えたらさっきから他力本願やんか。一人で喧嘩することも、自分で落ち着くことも出来んのかい。常に誰か巻き込みたいんかい。今までのこいつらとの喧嘩みたいに。青や錦が加わって。俺が柔兄をけしかけて。そんで皆でおとんや蟒に怒られて。そんなずっとやってきた繰り返しを。
だけどもうそれも出来んのんかもしれん。
もうただの幼馴染の腐れ縁やない。柔兄とこいつは夫婦になるんやし、こいつは俺にとって新しいお姉ちゃんになってまう。
「なあ申。」
蝮が俺への今になっては悪口になりようもない呼び方で呼ぶ。大人になるいうのはこんなことかなと思った俺は、ひどく穏やかな気持ちだった。
「なんやねん。」
「柔造取ってもうて悪かったな。」
「「「「「「「「「「はっ。」」」」」」」」」」
今まで散々俺らを無視してきた周りの奴らが、ピクリとこっちに注目した。俺はその集中的な視線に怖気が立った。
「……。」
なんやこいつら。
これが地雷やったんかい。俺が爆弾やったんか。今夜はそれをおくびに出さず普通の結婚する兄がいる弟を演じたもんやから、ほっといてもええと思うとったんやろ。
蝮がⅤサインしてウインクしてきた。俺は蝮らしくないその仕草に引きつった笑みを見せながら頷いた。
まさか先に恋敵の兄嫁がこの不自然極まりない空気の原因を察してくれたとは、とんだ笑い話や。しかも兄嫁、いや、新しいお姉ちゃんからネタ振りしてくるとは思わんかった。
「悪かった思うんなら……。今から返してくれても構わんのやで?」
親父と蟒と和尚さまが必死でやめろと身振り手振りで俺に合図しとる。柔兄も蝮の後ろで蝮の肩に手を置いた。蝮はそっけなくその手を振り払う。いつもより優しげな仕草で。
「返さん。」
「返せや。」
俺と蝮は立ち上がって対峙する。周りがざわざわとざわめいて、ほとんどのもんが腰を浮かしていたが、いち早く冷静になった女将はんが、俺らが睨み合っている間にみんなと料理や酒を部屋の隅に避難させていた。
そして部屋の中央には俺と蝮が残された。
「ほんなら、実力で貰おうか? あんたの大好きな兄ちゃん。それなら文句ないやろ。」
「じゃあお前の罰一発目は、俺が勝って結婚式は延期やな。俺の気が済むまで。」
「負けんで申。」
「わかっとるわ蛇女。」
俺は隠し持っていた組み立て式の錫杖の先を蝮に向ける。
「柔造。私の髪の毛解いてんか?」
「こうか?」
「そんで。解いたら一目散に後ろに逃げえ。」
柔兄は蝮の髪の毛を解く。そして後ろの壁に逃げた。
柔兄が逃げるのに後ろを向いていた数秒の間にも、蝮に変化があった。
蝮の髪の毛の一本一本が真っ白い蛇になっていて、蝮の髪の長さをまるで無視して俺に向かって鎌首をもたげていた。
「今まで誰にも見せたことはあらへんけどな。これが私の本気や。」
何万匹の蛇と契約交わしたんや。しかも今までそれを隠しとった。俺なんか最初から問題にならんくらい強いちゅうことかい。
錫杖一本で勝てる気がせえへん。もう笑うしかない。
「あははははは!」
俺は盛大に笑ってアホみたいに蛇の群れに突っ込んだ。そして馬鹿みたいに新しい姉ちゃんに負けるのだった。
新しい姉ちゃんを家族に迎えても、俺の馬鹿は直らない。
SQで柔蝮結婚が決まっても、うちの金造は変わりません。柔兄大好きで柔造狙いのまま蝮を姉に迎えます。Esperanzaは一旦ここで完結かな。まさかこんな終わりになるとは思いませんでした。
☆ss「夏の任務はお疲れサマー」燐雪
サタンの落胤隠匿発覚、その後ヴァチカンに召喚され審問、それから数日経たないうちの京都出張所での不浄王事件。間に日本支部にて悪魔落ちした上級生祓魔師が謀反ともいえる騎士団離脱があった。
青い夜以来の未曾有の事件だった。
しかしそれは悪魔の息子の忌むべきはずの炎によって、被害は最小限に抑えられた。
メフィストは一人きりの部屋で背もたれに体重を預けている。その長身を包んでなおあまりある荘重な椅子だった。
「やっとひと段落つきました。」
誰に言うでもない一言。
「おい。ひと段落って……。」
「いえ。あれ……いたのですか?」
「お前が呼び出したんだろ。」
メフィストは開けておいたドアの前に立っている燐に目を細めた。
「そうでした。でも貴方を呼んだのは二時間前ですよ。いつまでも来ないのですっぽかされたと思いましたよ。」
燐は少し口をへの字にした後、雪男が帰ってくるのを待ってたんだよと言い訳した。京都から正十字学園に戻ったあと、雪男は作成した報告書を提出するために日本支部の事務部に向かった。燐はすることも勿論なかったので、仲間と別れたあとに旧寮の自室に帰り雪男が戻ってくるのを待っていた。そこにメフィストからのメールが届いたのだが、携帯を鞄に入れっぱなしの上にメールを頻繁に確認する癖のない燐は、メフィストの呼び出しに気づかないという間抜けなことになった。
「で。奥村先生は帰ってきたんですか?」
「四時間待っても帰ってこねえし、ひょっとしたらお前のとこに隠れているんじゃねえかと思ったけど、いねえし。」
「奥村先生がここに来てると邪推しなかったら、来るつもりはなかったんですね?」
燐はぎくりと顔をこわばらせたが、頬を膨らませてそっぽを向く。
「なんかお前。京都の件では、ろくでもないこと企んでただろ。ほんでそれって、俺がらみだったんだろ?」
メフィストは深く溜息をつく。
「いいじゃないですか。あのことがあったからこそ、貴方は仲間と自然な形で打ち解けられた。炎のコントロールもマスターした。処刑も回避できるほどの活躍も認定試験を受ける前に成し遂げた。いいことずくめじゃないですか。」
「良かったことは今度の件で誰も傷つかなくて済んだってことだよ。そうじゃなけりゃ俺は、……。」
「私が企んだことって分かってるのなら。そういう貴方にマイナスに働くものの可能性は潰しているに決まっているでしょう? ん? 違いますか?」
燐は上目遣いにメフィストを見上げている。
「他にも気に食わなかったことがある。」
「なんですか?」
「……雪男だ。お前は俺とあいつをわざと引き離してただろう。」
「あー……。そこですか。そこは弁明させてもらうと、右目を強奪した悪魔落ちした祓魔師である犯人と、あの時接触したのが奥村先生でしたから。」
「俺もだっただろ。あのオッサンと接触があったのって。」
「ああ。そうでしたね。しかし貴方の立場では犯人の目撃者程度でしかない。少人数で動く奪還部隊に入れるには足手まといのお荷物になってしまう。」
「確かにあの時の俺は、お荷物だっただろうけど。俺、任務の時には雪男と一緒だとちゃんとやってたじゃねえか。一緒にいたってたぶん大丈夫だったよ。」
「それが本音ですか。要は奥村先生と一緒にいたかったわけですね。」
メフィストは呆れたように燐を指差す。燐はその手を握って下に下ろさせた。
「シュラを増援部隊の隊長にするんだったら、雪男だってこっちに入れときゃ良かったじゃん。あのオッサンの追っ手には元部署の奴らでも良かったはずだろ。一回こっきりしか会ってない雪男よりは、そいつらに任せておいたほうが良いに決まってんだろ。要は俺たちに対する嫌がらせだったんだろうが!」
「はい。貴方達兄弟を離したほうが、面白いことになると思って。とはいえ、そんなこと考えなくても、貴方は弟と一時的に離れて正解だったようですね。」
燐は「は?」と大声を上げる。メフィストは説明するのも疲れるとばかりに気だるげに語り始める。
「あんたら兄弟はべたべたし過ぎなんです。」
「えええ! 俺、この学校に来てから、あいつに余所余所しくされた覚えしかねえんだけど。ていうか、教会にいたときはあんなに兄さん兄さん言ってくれた雪男が、手の平を返したように冷たくなったし。俺のことクソ呼ばわりするし。」
「それは教会にいた時から貴方のことをそう思っていたが、それを今までおくびにも出さなかったせいでしょう。貴方に隠すことが無くなったから、それを今全開にしているだけで。私からすれば未だに目を覆いたくなるほどの、べったべたあまあまな兄弟関係を築いています。」
「覚えがなさ過ぎて、どういうことか説明して欲しいです。フェレス卿ぉー。」
弟の物真似をして悪態をつくチンピラ悪魔に対して、悪魔はこめかみが疼くのを耐えていた。
「あれだけおモテになるのに浮いた話のひとつもなく、中学時代から交友のある娘さんとは未だに友達同士。その癖兄とは寝食を共にして、放課後になれば塾や寮で飽きるほどに顔を合わせている。あんたらに自覚は無いんでしょうけどね、周りの大人から見ればね、互いに意識しまくってんのがモロ分かりなんですよ。」
燐は未だに納得していない。メフィストはもう何も言う気はなかった。
「まあ貴方の中の兄弟関係の考察は横に置いて。」
「いや置けねえそれはっ。こりゃ勘だけどよ、俺の側にいなかったときに雪男になんか起こってた気がしてしょうがねえ。」
「確かに起こってましたけど。ちゃんと救助されてましたよ。」
「そんなんじゃなくて。あいつの中で俺に対するなんかが……動いちまったというか。変わっちまったというか。今更ながらに覚醒したというか。」
「へえ。頭の内容がお粗末な割には、そういうことは考えつくんですね。」
でもそれは私が貴方たちを引き離したお陰で感じたことなのでしょうとメフィストは腹の中で思って、口には出さなかった。
「思いついてもそれが具体的にわかんねえから。あいつ俺のこと殴ったくせに、またいつもどおりに戻ってるし。京都タワーで写真撮ったときも普通にいたし。」
「貴方も弟に殴られる前、どや顔でしてやったりだったでしょう。だからむかつかれただけでしょうが。」
燐はいきなり動揺したようにメフィストに掴みかかった。
「ひょっとして、俺はあいつに嫌われてんの?」
メフィストは長い腕で燐の首根っこを掴むと、そのまま吊るし上げてソファに投げ飛ばす。
「嫌われるような見に覚えでもあるんですか? 貴方のことだから虚勢じみた兄貴風は吹かしていたでしょうけど。」
燐はソファの上でもんどりうっていた。
「そうか。ひょっとしたら、お前は雪男に頼まれて俺と別行動にさせたのか。そして持ち前の悪魔的な振る舞いで、その真実を隠してたのか。ひでえ……。ひでえよ……。ありえねえ。そんなひでえ話があってたまるか……。」
メフィストはお前の勘はただの被害妄想かとつっこんだ。メフィストが想像するに、弟があの事件で頼みごとをするとしたら、『兄の暴走のストッパーに一緒に行動を共にさせて欲しい。』という、これまたべたべたしたものだと想像する。それでは面白くないからメフィストは奪還部隊にまず雪男を指名してから、候補生の増援部隊への参加を決定したのに。
しかしながらここで誤解を解かないと、雪男がとんでもない悪役になってしまう。いや。燐に対して帰ってから雪男に直接真偽を正せというべきだろうが、被害妄想で疑心暗鬼なこの悪魔の息子が再三騙されている弟の言うことを信じるわけがない。
「俺は、俺は……ずっとあいつが、雪男が可愛くて。可愛くて。なのに……。やっぱ思春期の弟って難しいよお!」
「あんただって思春期のめんどくさい兄でしょうが! 私は貴方の弟にそんなこと頼まれてません。ていうか、赤の他人の私に、そんな弟への生々しい思いを吐き出さないで下さい。」
「うう……。じゃあ、京都での俺とあいつを分断したのは、お前の裁量だけだったのか?」
「はいそうです。もう……。なんで意外なところでめんどくさくなるんですか。」
燐は幾分かほっとしたようにソファに突っ伏していた。
「よかった……。これで雪男が帰ってきても大丈夫だ。」
何が大丈夫なのだろうとメフィストは首を捻る。
「兄弟仲良くするのは別にいいですけど。それなりの距離はあったほうがいいですよ。軽い隠し事の一つや二つ出来る程度の。」
燐が顔を上げるとメフィストはその眼前に顔を近づけた。
「燐。ようやく用件が言えるんですけど、これ。」
メフィストはの顔の上に封筒を置く。燐はそれを手にとって中身を検めると、短く叫んだ。
「小遣い日ってまだだったよな。」
「小遣い日にはちゃんとあげます。これは臨時のボーナスです。」
燐は封筒から取り出した二千円札を広げてソファから降りる。
「それでたまには貴方がSQでも買ってあげて、ミネラルウオーターでも奢ってあげなさい。」
「ありがと!」
燐は頭を下げて手を振りながらメフィストの部屋を去る。メフィストは再び豪奢な椅子に腰掛けた。
「あの弟にメロメロ。それ故の疑心暗鬼か。」
割と鋭いところを突いてきたと思ったら、それが全ての真相だった。メフィストはやってらんねえよと悪態をついた。
京都編終了で少し安心したので書いてみました。
青い夜以来の未曾有の事件だった。
しかしそれは悪魔の息子の忌むべきはずの炎によって、被害は最小限に抑えられた。
メフィストは一人きりの部屋で背もたれに体重を預けている。その長身を包んでなおあまりある荘重な椅子だった。
「やっとひと段落つきました。」
誰に言うでもない一言。
「おい。ひと段落って……。」
「いえ。あれ……いたのですか?」
「お前が呼び出したんだろ。」
メフィストは開けておいたドアの前に立っている燐に目を細めた。
「そうでした。でも貴方を呼んだのは二時間前ですよ。いつまでも来ないのですっぽかされたと思いましたよ。」
燐は少し口をへの字にした後、雪男が帰ってくるのを待ってたんだよと言い訳した。京都から正十字学園に戻ったあと、雪男は作成した報告書を提出するために日本支部の事務部に向かった。燐はすることも勿論なかったので、仲間と別れたあとに旧寮の自室に帰り雪男が戻ってくるのを待っていた。そこにメフィストからのメールが届いたのだが、携帯を鞄に入れっぱなしの上にメールを頻繁に確認する癖のない燐は、メフィストの呼び出しに気づかないという間抜けなことになった。
「で。奥村先生は帰ってきたんですか?」
「四時間待っても帰ってこねえし、ひょっとしたらお前のとこに隠れているんじゃねえかと思ったけど、いねえし。」
「奥村先生がここに来てると邪推しなかったら、来るつもりはなかったんですね?」
燐はぎくりと顔をこわばらせたが、頬を膨らませてそっぽを向く。
「なんかお前。京都の件では、ろくでもないこと企んでただろ。ほんでそれって、俺がらみだったんだろ?」
メフィストは深く溜息をつく。
「いいじゃないですか。あのことがあったからこそ、貴方は仲間と自然な形で打ち解けられた。炎のコントロールもマスターした。処刑も回避できるほどの活躍も認定試験を受ける前に成し遂げた。いいことずくめじゃないですか。」
「良かったことは今度の件で誰も傷つかなくて済んだってことだよ。そうじゃなけりゃ俺は、……。」
「私が企んだことって分かってるのなら。そういう貴方にマイナスに働くものの可能性は潰しているに決まっているでしょう? ん? 違いますか?」
燐は上目遣いにメフィストを見上げている。
「他にも気に食わなかったことがある。」
「なんですか?」
「……雪男だ。お前は俺とあいつをわざと引き離してただろう。」
「あー……。そこですか。そこは弁明させてもらうと、右目を強奪した悪魔落ちした祓魔師である犯人と、あの時接触したのが奥村先生でしたから。」
「俺もだっただろ。あのオッサンと接触があったのって。」
「ああ。そうでしたね。しかし貴方の立場では犯人の目撃者程度でしかない。少人数で動く奪還部隊に入れるには足手まといのお荷物になってしまう。」
「確かにあの時の俺は、お荷物だっただろうけど。俺、任務の時には雪男と一緒だとちゃんとやってたじゃねえか。一緒にいたってたぶん大丈夫だったよ。」
「それが本音ですか。要は奥村先生と一緒にいたかったわけですね。」
メフィストは呆れたように燐を指差す。燐はその手を握って下に下ろさせた。
「シュラを増援部隊の隊長にするんだったら、雪男だってこっちに入れときゃ良かったじゃん。あのオッサンの追っ手には元部署の奴らでも良かったはずだろ。一回こっきりしか会ってない雪男よりは、そいつらに任せておいたほうが良いに決まってんだろ。要は俺たちに対する嫌がらせだったんだろうが!」
「はい。貴方達兄弟を離したほうが、面白いことになると思って。とはいえ、そんなこと考えなくても、貴方は弟と一時的に離れて正解だったようですね。」
燐は「は?」と大声を上げる。メフィストは説明するのも疲れるとばかりに気だるげに語り始める。
「あんたら兄弟はべたべたし過ぎなんです。」
「えええ! 俺、この学校に来てから、あいつに余所余所しくされた覚えしかねえんだけど。ていうか、教会にいたときはあんなに兄さん兄さん言ってくれた雪男が、手の平を返したように冷たくなったし。俺のことクソ呼ばわりするし。」
「それは教会にいた時から貴方のことをそう思っていたが、それを今までおくびにも出さなかったせいでしょう。貴方に隠すことが無くなったから、それを今全開にしているだけで。私からすれば未だに目を覆いたくなるほどの、べったべたあまあまな兄弟関係を築いています。」
「覚えがなさ過ぎて、どういうことか説明して欲しいです。フェレス卿ぉー。」
弟の物真似をして悪態をつくチンピラ悪魔に対して、悪魔はこめかみが疼くのを耐えていた。
「あれだけおモテになるのに浮いた話のひとつもなく、中学時代から交友のある娘さんとは未だに友達同士。その癖兄とは寝食を共にして、放課後になれば塾や寮で飽きるほどに顔を合わせている。あんたらに自覚は無いんでしょうけどね、周りの大人から見ればね、互いに意識しまくってんのがモロ分かりなんですよ。」
燐は未だに納得していない。メフィストはもう何も言う気はなかった。
「まあ貴方の中の兄弟関係の考察は横に置いて。」
「いや置けねえそれはっ。こりゃ勘だけどよ、俺の側にいなかったときに雪男になんか起こってた気がしてしょうがねえ。」
「確かに起こってましたけど。ちゃんと救助されてましたよ。」
「そんなんじゃなくて。あいつの中で俺に対するなんかが……動いちまったというか。変わっちまったというか。今更ながらに覚醒したというか。」
「へえ。頭の内容がお粗末な割には、そういうことは考えつくんですね。」
でもそれは私が貴方たちを引き離したお陰で感じたことなのでしょうとメフィストは腹の中で思って、口には出さなかった。
「思いついてもそれが具体的にわかんねえから。あいつ俺のこと殴ったくせに、またいつもどおりに戻ってるし。京都タワーで写真撮ったときも普通にいたし。」
「貴方も弟に殴られる前、どや顔でしてやったりだったでしょう。だからむかつかれただけでしょうが。」
燐はいきなり動揺したようにメフィストに掴みかかった。
「ひょっとして、俺はあいつに嫌われてんの?」
メフィストは長い腕で燐の首根っこを掴むと、そのまま吊るし上げてソファに投げ飛ばす。
「嫌われるような見に覚えでもあるんですか? 貴方のことだから虚勢じみた兄貴風は吹かしていたでしょうけど。」
燐はソファの上でもんどりうっていた。
「そうか。ひょっとしたら、お前は雪男に頼まれて俺と別行動にさせたのか。そして持ち前の悪魔的な振る舞いで、その真実を隠してたのか。ひでえ……。ひでえよ……。ありえねえ。そんなひでえ話があってたまるか……。」
メフィストはお前の勘はただの被害妄想かとつっこんだ。メフィストが想像するに、弟があの事件で頼みごとをするとしたら、『兄の暴走のストッパーに一緒に行動を共にさせて欲しい。』という、これまたべたべたしたものだと想像する。それでは面白くないからメフィストは奪還部隊にまず雪男を指名してから、候補生の増援部隊への参加を決定したのに。
しかしながらここで誤解を解かないと、雪男がとんでもない悪役になってしまう。いや。燐に対して帰ってから雪男に直接真偽を正せというべきだろうが、被害妄想で疑心暗鬼なこの悪魔の息子が再三騙されている弟の言うことを信じるわけがない。
「俺は、俺は……ずっとあいつが、雪男が可愛くて。可愛くて。なのに……。やっぱ思春期の弟って難しいよお!」
「あんただって思春期のめんどくさい兄でしょうが! 私は貴方の弟にそんなこと頼まれてません。ていうか、赤の他人の私に、そんな弟への生々しい思いを吐き出さないで下さい。」
「うう……。じゃあ、京都での俺とあいつを分断したのは、お前の裁量だけだったのか?」
「はいそうです。もう……。なんで意外なところでめんどくさくなるんですか。」
燐は幾分かほっとしたようにソファに突っ伏していた。
「よかった……。これで雪男が帰ってきても大丈夫だ。」
何が大丈夫なのだろうとメフィストは首を捻る。
「兄弟仲良くするのは別にいいですけど。それなりの距離はあったほうがいいですよ。軽い隠し事の一つや二つ出来る程度の。」
燐が顔を上げるとメフィストはその眼前に顔を近づけた。
「燐。ようやく用件が言えるんですけど、これ。」
メフィストはの顔の上に封筒を置く。燐はそれを手にとって中身を検めると、短く叫んだ。
「小遣い日ってまだだったよな。」
「小遣い日にはちゃんとあげます。これは臨時のボーナスです。」
燐は封筒から取り出した二千円札を広げてソファから降りる。
「それでたまには貴方がSQでも買ってあげて、ミネラルウオーターでも奢ってあげなさい。」
「ありがと!」
燐は頭を下げて手を振りながらメフィストの部屋を去る。メフィストは再び豪奢な椅子に腰掛けた。
「あの弟にメロメロ。それ故の疑心暗鬼か。」
割と鋭いところを突いてきたと思ったら、それが全ての真相だった。メフィストはやってらんねえよと悪態をついた。
京都編終了で少し安心したので書いてみました。
☆ss「白と黒」勝燐前提の雪燐、朴出「廃獄ラブソング」からの微妙な続き
その夜、帰ってきた兄は弟と眼を合わせようとしなかった。いや、単に燐が雪男を注視する理由がなかったための、何の気なしの行動でしかなかったのかもしれない。ただ兄は何度か自分を振り返ってくる弟の視線に気がつくと、顔を逸らすまではいかないが、その都度表情を誤魔化そうとして不自然に笑っていた。
「今日ちょっと遅かったね。兄さん。」
「あー……。すまん。」
あっさり謝るところも怪しいと雪男は思う。兄は笑い話のように今日あったことの前半部分だけ語り始める。
「前に朴に尻触られただろ。俺。」
「知ってるよ。聞いたよ。兄さんから。」
「それを神木にやっかまれてさ――。しえみまで抱き込んで塾が終わったあと、俺に仕返ししてきたんだよ。」
数日前に燐は通り魔的に女子にセクハラされた。元・塾生の朴朔子から。朴は女好きの癖に男子の燐に興味を持ち、男子なら多少のお下劣行為もどうということはないだろうという凄く手間勝手な理屈で、燐に無体な真似をした。幸いにも燐は、女相手に本気で屈辱とか被害者意識を感じないタイプだったので、行き過ぎた冗談程度にしか思っていなかった。あっさり許せたのは、事後に朴に気になっていたと告白されたせいもあったのかもしれない。
しかしそこをなあなあで済ませられないのが、朴のヤキモチ焼きな連れ合いである神木出雲だった。女好きな朴が男に興味を持った上、手まで出したことで神木出雲は燐を報復すべき恋敵と見做したようだ。
その結果が今夜である。
「神木としえみに乳とか尻とか揉まれてよー。後から朴まで来て……。ごめんなさいで済まされたぜ。済むわけねえって。」
「じゃあ兄さんは、今回は流石にごめんなさいで済ませないつもり?」
「そうは言ってねえだろ。」
燐が雪男に一歩詰め寄ったときに、雪男の鼻を掠める嫌な匂いがあった。
「兄さん。汗臭い。」
「あー。俺ちょっと暴れたから……。」
歯切れ悪そうに燐は言うと、自分のスペースに行こうとした。雪男が後ろから手首を掴む。
「違う。兄さんの汗の匂いじゃないよ。これは。」
「か……神木かな? ……それか、しえみかな?」
「女子の汗とは違うだろ。」
燐は目線を泳がせながらも雪男と距離を取ろうとするが、雪男はそれを許さなかった。
「大体状況は読めたよ。女子三人だけじゃなくて、勝呂君もいたんだろ。」
燐は気まずそうに頷いた。
「……俺が騒いだから、駆けつけてはくれたぜ。でもあいつはすぐに、朴に返り討ちにあってさ! 結局……俺を助けるどころか、一緒に被害者になったかな。」
「一緒に被害者になったあとは?」
燐は目を逸らすが雪男は燐の頭を捕まえて無理やり自分のほうに向けさせた。
「なんだよ。言わなきゃいけねえのかよ。」
「兄さんがわざとらしく言わないようにしようとしてるからだろ。僕がこうやって詰問しなかったら、言わずに済めばいいよなって思ってるよね。」
「雪男……。」
燐が五月から勝呂と付き合っているという事実を鑑みれば、雪男は問いかけることさえ無駄な言わずもがななことを言っていると自分でも自覚している。燐がこの詰問に正直に答えたとしても、雪男が問いかける前に燐からの申告があろうとも、雪男が示す反応は一つしかない。燐が頑固に口を閉ざしたとしても、雪男の感情は決まりきっていた。
「キスぐらいじゃ、そんなふうに汗の匂いなんか移らないよね。」
雪男は低い声で諦めたように呟いて、燐の身体を離した。
「雪男。」
今度は燐のほうから雪男に迫る。
「俺と勝呂がその……そういうことするのって、そんなに駄目なことかよ。」
雪男は苦々しく顔を歪めた。一体この兄は何を言っているんだろう。月並みなことを今更思われているのだろうか。
「僕は兄さんのことが好きだって言ったろう。だったら僕の勝呂君に対する嫉妬も察して欲しいもんだね。だいたい兄さんは、僕のことも好きだって言ったよね。以前。手放す気がないとか。その癖、勝呂君と僕は、しっかり恋人と弟として区別して扱ってるよね。まあ、分かってたけど。結局兄さんは僕のことを弟以上に思ってないってことだろ。あの時はそういう風にしか言えなかったから、あんなこと言っただけなんだよね。」
「違う!」
燐は雪男にさらに詰め寄る。
「兄さ……。」
「お前がそういう勘違いして、俺を信じないなら。俺は行動で示すしかないよな?」
行動で示す? いつもそれを兄は信条にしているらしいが、今回ばかりは生半可な行動では雪男の嫉妬を止めることは出来ないだろう。だいたい勝呂に対する、兄の甘くて手放しの態度は、十五年間燐の側にいた雪男を腹立たせる姿だった。自分達が育った教会の外の人間からは悉く疎まれていた燐は、他人に媚びる術を知らないはずだった。そういうものだと雪男は理解していたつもりだった。
雪男の目から見る燐の勝呂への態度は、そんな過去の積み重ねで雪男が理解した兄を全否定するようなものであり、雪男自身がそんな燐に対して何の心の支えにもなっていなかったことを垣間見せる光景だった。
兄は自分にごくたまに弱音くらいは吐いてくれたけれど、甘えてはくれなかった。逆に兄としての姿勢に固執させてしまった。
『こんなはずじゃなかった。兄さんは僕が守るはずだったのに。』
いつかは雪男だけを頼ってくれるはずだった。自分だけが燐を抱きしめるはずだった。そして燐は自分の辛かったことを全部自分に吐き出してくれると思っていた。今までずっとお前に縋りたかったんだよと。そう言ってくれると思っていた。
目の前の兄は妙に顔を赤くしている。
「どうやって証明してくれるんだい?」
多少の小細工では雪男は揺れないと気持ちを固める。燐はその意思を読み取ったように、雪男に呼びかける。
「こっち。もっと俺のほうに寄れよ。」
「こうかい?」
雪男は燐に近寄る。燐は少し背伸びをして言った。
「ほっぺと口、どっちがいい?」
雪男はぽかんと口を開いた。
「なんだい、それ?」
燐はさらに顔に血を上らせながら言う。
「だから、キスするんだったら、どっちにされたいんだ?」
「……呆れた。」
雪男は燐から離れて自分のベッドに腰を下ろした。
「キスしてくれるって言うんだったら、してもらおうかな。もちろん口のほうで。だけど。」
まずは風呂に入ってくれ。
雪男は裏返った声で口早に言った。それが恥ずかしくて雪男まで紅くなる。
「風呂?」
「まずはその汗臭さをどうにかしてくれってことだよ。他の男の匂いをさせたままキスだなんて、やっぱり兄さんはふしだらでアバズレなんだろうね。」
燐は自分のスペースに行って着替えやらタオルやらを引っ張り出し始めた。
「そりゃあ済まねえな。確かにお前に言われるのも当たり前か。俺は頭悪くて、色ボケしてるせいで、お前が俺にむかついているのにも気づいてやれねえ。」
「色ボケっ、じ、自体には別に、別に、む……むかちゅいてないにょっ。」
空回る舌を宥めながら言ったつもりが、とても恥ずかしい噛み方をしてしまった。
「へえへえ。そんじゃ行ってくる。」
燐は雪男の噛み噛みの台詞を聞かなかったように、風呂道具を抱えて部屋を出て行った。雪男はその姿を確認してから胸を押さえる。そしてベッドから崩れ落ちた。手の平にはどくどくという心臓の鼓動を感じる。
「あんの、クソ兄。僕をどうしようって思っているんだ。」
とにかくあの兄は雪男を黙らせてしまった。しかも台詞を噛ませてしまうほどの威力を見せた。雪男はもっと言いたいことがあったはずなのに、それが全て吹き飛んでいた。
「キスぐらいで。この僕を懐柔できると思ってるのか。あのアバズレ!」
布団に八つ当たりするも現実は兄に懐柔されているようなもの。あんな頭が弱くて行き当たりばったりな提案で、それでも自分はここまで動揺している。
「僕と兄さんがキス……。」
夢には見ていた。それが現実になる。しかし何故だ。この憤り。この敗北感。あのクソ兄はキスなんかそれこそ勝呂と日常的にしているんだろうが、雪男にとっては今日が初めてなのだ。
「なんで断らなかったんだ。僕も。悪魔に誘惑されるなんて、祓魔師として愚の骨頂だろ。アレを断れたら、兄さんのペースにならなかったのに。」
兄のふしだらさを糾弾するにしても、自分が同じようなことをしてしまえば、その糾弾に効力がなくなる。それが狙いなのかと雪男は絶望する。
しかしそれを風呂上りの燐を目の前にして断るだけの心の強さは雪男にはなかった。雪男はなんだかんだ言って、その燐の提案は僥倖であったし、跳ね除けてしまう意思の強さもなかった。
「はあ……。ん?」
雪男のポケットのスマフォが振動している。雪男がそれに手を伸ばしてみると電話の着信のようだ。雪男は電話に出る。
「もしもし……奥村ですが。」
『朴です。奥村先生、聞いて聞いて。』
はしゃいだ朴の声を聞いて、何をだと雪男は首を傾げる。朴は元塾生だから雪男への連絡用に番号は知っている。しかし今こうやって掛けてくる理由が分からない。
『あのね。今日は出雲ちゃんがね~。』
「ああ。随分と女子三人で羽目を外されたそうですね。兄から聞きました。」
雪男は普通の声で当たり障りなく返した。朴は電話の向こうでふふふとか笑っている。
『あらら。燐君弟にも言いつけちゃうんだ。ほんと子どもっぽいな。』
その子どもっぽい兄に散々振り回されている自分は何だと雪男は呆然とする。しかし朴の容赦ない批評に多少カチンとくるものがあった。
「兄も僕に言いつけたくて言いつけたわけじゃないと思いますよ。」
『もしかして、先生のほうから聞く形だったの?』
「様子が不審でしたからね。」
雪男はまた平坦に返したが、朴は「そっか」と返す。
「あまり女子が男子に対して度を越した行為はしないほうがいいと思います。感情的になることもなるべく抑えるべきだと思います。貴方のようにそれを煽るなんてことは、論外だと。」
『ふーん……。』
雪男の提言に朴は淡白だった。その引き伸ばされた語尾からは上辺だけの教師面に対する皮肉も窺えた。自分達のような十代そこそこの子どもとも大人ともつかないような時期に、そんな人間同士の感情の機微になにも感じずにいろなんて、なんて不自然な話だろう。それに動揺したり流されたりするのが普通だと、朴は言外に含んでいる。
「すみません。説教じみたことを。兄も特に怒ってるとか引きずっている様子はありませんし。僕が少々過敏になっていたのかもしれません。」
『うん。そんなことだと思ってた。それより聞いて。出雲ちゃんがね、今私の横でね。うふふ、うふふ……。』
なんだか電話の向こうが変な雰囲気だった。いつもうすら笑いの朴だったが、今夜は本気でにやついている。全開にした禍々しいまでの幸福感が伝わってくるようだ。
『出雲ちゃん。かあいい。かあいいよ。』
「神木さん。横にいるんですね。」
『うん。そうだよ。私のベッドで寝てる。』
雪男の耳には出雲の寝息なんぞは聞こえない。
「はあ。」
なんだか早目に電話を切ったほうが良さそうな気がする。
「朴さんもベッドの中にいらっしゃるのなら、これで電話を切ったほうがいいでしょう。では、おやすみなさい。」
『待って! 今出雲ちゃんの声聞かせてあげるから!』
はしゃいだような声に引き止められたあと、電話の向こうでは「出雲ちゃーん」と呼ぶ朴の声が遠くに聞こえた。ややごそごそしたような物音がしたあと、いきなり聞いたことのない出雲の声が雪男の耳に飛び込んできた。
『いやあ!』
続けてくすくす笑う朴の声と一緒に、出雲の甘いような掠れた声が聞こえてくる。寝言や寝息にはどうしても聞こえない。雪男はあまりのことに硬直して何も対処出来なかった。しばらくて、はあはあと息を弾ませた朴が『どうだった?』と問いかけてくる。
「……。」
雪男は無言だった。しかしどうにか立ち直って朴に告げる。
「何のテロですか。」
『出雲ちゃんの寝込みを襲うテロ~。出雲ちゃんは今私の携帯を取り上げようとしているけど、うふふふ……。あんまり力入ってないよ。出雲ちゃん。』
電話の向こうの出雲は、きゃんきゃん吠えながら朴から携帯を取り上げようと暴れているらしく、争うような物音が聞こえてくる。事情を知らなければ警察を呼んでしまいそうだった。事情を知っていたとしても呼んでしまいそうだ。出雲の泣き声ともつかないような声がやけに遠くに聞こえる。雪男の五感が精神より先に現実逃避を始めているようだった。
『朴いいかげんにしなさいよ! きゃあ!』
雪男は居た堪れなくなっている。
『先生ぇ。出雲ちゃんの上に馬乗りになっちゃた。出雲ちゃん。先生に何か一言おねがい。』
『うわあん……。朴のばかあ!』
『だって。せんせ。じゃあ、実況・朴朔子、解説・朴朔子でお送りしました。』
出雲のさらに高くなった声を掻き消すように、朴は雪男にそれだけを告げて電話は切った。雪男はスマフォをベッドの上に叩きつける。故障とかそんなのは気にしてられなかった。
「快楽主義者が!」
勢いよく立ち上がったが頭がくらっとして床に尻餅をつく。
「兄さんから勝呂君の匂いが移るなんてのは、まだマシなほうだったんだな。」
生々しい実況を聞かされるよりは。雪男は勝呂や燐がなんだかんだで常識の範囲でいちゃついて、さりげなく雪男に配慮してくれていたことを不本意ながら思い知る。それにしても朴という女はなんて節度が無いんだ。それに付き合う出雲が気の毒な気もするが、それも違うような気もする。
「神木さんが朴さんのベッドにいたってのは、そういうことだよね。」
そして、それをわざわざ雪男のような人間に言ってくる朴の露悪趣味も、出雲に対する思いの裏返しなのだろう。
「どうした。雪男。そんなとこで座り込んで。」
自室のドアが開いて、兄が湯上りで髪を濡らしたまま入ってくる。
「ああ。ちょっと性質の悪いイタズラ電話が掛かってきて。少し疲れただけ。」
燐は雪男の顔を心配そうに覗きこんで大丈夫かと問いかけてくる。
「大丈夫だと思う。」
そうかと言って燐は顔を寄せてきた。目を閉じて雪男の唇にキスをする。そしてすぐに離された。
「……。なんかあっさりしてるような。」
雪男はそのさりげなさに不満を口にした。心外だとばかりに燐は口を尖らす。
「そうか? こんなもんだけどな。」
何と比べてるんだと雪男は思ったが、多分勝呂とのキスなのだろうと納得した。
「そんなもんで済んでるんだ。ある意味びっくり。」
「まあな。って、そんなもんって言うな。結構恥ずかしいんだからな。」
雪男は手の平で目を覆う。
「あっそう。」
雪男は笑いたくなった。自分がアバズレ呼ばわりした男がやけに初心に見えてしまった。
「兄さん。もう一回して。さっきのイタズラ電話で、かなりショックで消耗してたんだ。……お願い。もう一回で復活出来そうなんだ。」
「えー……。」
そう言いながらも憔悴したような顔の弟を放っておけない兄は、もう一回だけ弟にキスしてやった。
とばっちりの雪男でした。しかし何気にラッキーでもあります。
「今日ちょっと遅かったね。兄さん。」
「あー……。すまん。」
あっさり謝るところも怪しいと雪男は思う。兄は笑い話のように今日あったことの前半部分だけ語り始める。
「前に朴に尻触られただろ。俺。」
「知ってるよ。聞いたよ。兄さんから。」
「それを神木にやっかまれてさ――。しえみまで抱き込んで塾が終わったあと、俺に仕返ししてきたんだよ。」
数日前に燐は通り魔的に女子にセクハラされた。元・塾生の朴朔子から。朴は女好きの癖に男子の燐に興味を持ち、男子なら多少のお下劣行為もどうということはないだろうという凄く手間勝手な理屈で、燐に無体な真似をした。幸いにも燐は、女相手に本気で屈辱とか被害者意識を感じないタイプだったので、行き過ぎた冗談程度にしか思っていなかった。あっさり許せたのは、事後に朴に気になっていたと告白されたせいもあったのかもしれない。
しかしそこをなあなあで済ませられないのが、朴のヤキモチ焼きな連れ合いである神木出雲だった。女好きな朴が男に興味を持った上、手まで出したことで神木出雲は燐を報復すべき恋敵と見做したようだ。
その結果が今夜である。
「神木としえみに乳とか尻とか揉まれてよー。後から朴まで来て……。ごめんなさいで済まされたぜ。済むわけねえって。」
「じゃあ兄さんは、今回は流石にごめんなさいで済ませないつもり?」
「そうは言ってねえだろ。」
燐が雪男に一歩詰め寄ったときに、雪男の鼻を掠める嫌な匂いがあった。
「兄さん。汗臭い。」
「あー。俺ちょっと暴れたから……。」
歯切れ悪そうに燐は言うと、自分のスペースに行こうとした。雪男が後ろから手首を掴む。
「違う。兄さんの汗の匂いじゃないよ。これは。」
「か……神木かな? ……それか、しえみかな?」
「女子の汗とは違うだろ。」
燐は目線を泳がせながらも雪男と距離を取ろうとするが、雪男はそれを許さなかった。
「大体状況は読めたよ。女子三人だけじゃなくて、勝呂君もいたんだろ。」
燐は気まずそうに頷いた。
「……俺が騒いだから、駆けつけてはくれたぜ。でもあいつはすぐに、朴に返り討ちにあってさ! 結局……俺を助けるどころか、一緒に被害者になったかな。」
「一緒に被害者になったあとは?」
燐は目を逸らすが雪男は燐の頭を捕まえて無理やり自分のほうに向けさせた。
「なんだよ。言わなきゃいけねえのかよ。」
「兄さんがわざとらしく言わないようにしようとしてるからだろ。僕がこうやって詰問しなかったら、言わずに済めばいいよなって思ってるよね。」
「雪男……。」
燐が五月から勝呂と付き合っているという事実を鑑みれば、雪男は問いかけることさえ無駄な言わずもがななことを言っていると自分でも自覚している。燐がこの詰問に正直に答えたとしても、雪男が問いかける前に燐からの申告があろうとも、雪男が示す反応は一つしかない。燐が頑固に口を閉ざしたとしても、雪男の感情は決まりきっていた。
「キスぐらいじゃ、そんなふうに汗の匂いなんか移らないよね。」
雪男は低い声で諦めたように呟いて、燐の身体を離した。
「雪男。」
今度は燐のほうから雪男に迫る。
「俺と勝呂がその……そういうことするのって、そんなに駄目なことかよ。」
雪男は苦々しく顔を歪めた。一体この兄は何を言っているんだろう。月並みなことを今更思われているのだろうか。
「僕は兄さんのことが好きだって言ったろう。だったら僕の勝呂君に対する嫉妬も察して欲しいもんだね。だいたい兄さんは、僕のことも好きだって言ったよね。以前。手放す気がないとか。その癖、勝呂君と僕は、しっかり恋人と弟として区別して扱ってるよね。まあ、分かってたけど。結局兄さんは僕のことを弟以上に思ってないってことだろ。あの時はそういう風にしか言えなかったから、あんなこと言っただけなんだよね。」
「違う!」
燐は雪男にさらに詰め寄る。
「兄さ……。」
「お前がそういう勘違いして、俺を信じないなら。俺は行動で示すしかないよな?」
行動で示す? いつもそれを兄は信条にしているらしいが、今回ばかりは生半可な行動では雪男の嫉妬を止めることは出来ないだろう。だいたい勝呂に対する、兄の甘くて手放しの態度は、十五年間燐の側にいた雪男を腹立たせる姿だった。自分達が育った教会の外の人間からは悉く疎まれていた燐は、他人に媚びる術を知らないはずだった。そういうものだと雪男は理解していたつもりだった。
雪男の目から見る燐の勝呂への態度は、そんな過去の積み重ねで雪男が理解した兄を全否定するようなものであり、雪男自身がそんな燐に対して何の心の支えにもなっていなかったことを垣間見せる光景だった。
兄は自分にごくたまに弱音くらいは吐いてくれたけれど、甘えてはくれなかった。逆に兄としての姿勢に固執させてしまった。
『こんなはずじゃなかった。兄さんは僕が守るはずだったのに。』
いつかは雪男だけを頼ってくれるはずだった。自分だけが燐を抱きしめるはずだった。そして燐は自分の辛かったことを全部自分に吐き出してくれると思っていた。今までずっとお前に縋りたかったんだよと。そう言ってくれると思っていた。
目の前の兄は妙に顔を赤くしている。
「どうやって証明してくれるんだい?」
多少の小細工では雪男は揺れないと気持ちを固める。燐はその意思を読み取ったように、雪男に呼びかける。
「こっち。もっと俺のほうに寄れよ。」
「こうかい?」
雪男は燐に近寄る。燐は少し背伸びをして言った。
「ほっぺと口、どっちがいい?」
雪男はぽかんと口を開いた。
「なんだい、それ?」
燐はさらに顔に血を上らせながら言う。
「だから、キスするんだったら、どっちにされたいんだ?」
「……呆れた。」
雪男は燐から離れて自分のベッドに腰を下ろした。
「キスしてくれるって言うんだったら、してもらおうかな。もちろん口のほうで。だけど。」
まずは風呂に入ってくれ。
雪男は裏返った声で口早に言った。それが恥ずかしくて雪男まで紅くなる。
「風呂?」
「まずはその汗臭さをどうにかしてくれってことだよ。他の男の匂いをさせたままキスだなんて、やっぱり兄さんはふしだらでアバズレなんだろうね。」
燐は自分のスペースに行って着替えやらタオルやらを引っ張り出し始めた。
「そりゃあ済まねえな。確かにお前に言われるのも当たり前か。俺は頭悪くて、色ボケしてるせいで、お前が俺にむかついているのにも気づいてやれねえ。」
「色ボケっ、じ、自体には別に、別に、む……むかちゅいてないにょっ。」
空回る舌を宥めながら言ったつもりが、とても恥ずかしい噛み方をしてしまった。
「へえへえ。そんじゃ行ってくる。」
燐は雪男の噛み噛みの台詞を聞かなかったように、風呂道具を抱えて部屋を出て行った。雪男はその姿を確認してから胸を押さえる。そしてベッドから崩れ落ちた。手の平にはどくどくという心臓の鼓動を感じる。
「あんの、クソ兄。僕をどうしようって思っているんだ。」
とにかくあの兄は雪男を黙らせてしまった。しかも台詞を噛ませてしまうほどの威力を見せた。雪男はもっと言いたいことがあったはずなのに、それが全て吹き飛んでいた。
「キスぐらいで。この僕を懐柔できると思ってるのか。あのアバズレ!」
布団に八つ当たりするも現実は兄に懐柔されているようなもの。あんな頭が弱くて行き当たりばったりな提案で、それでも自分はここまで動揺している。
「僕と兄さんがキス……。」
夢には見ていた。それが現実になる。しかし何故だ。この憤り。この敗北感。あのクソ兄はキスなんかそれこそ勝呂と日常的にしているんだろうが、雪男にとっては今日が初めてなのだ。
「なんで断らなかったんだ。僕も。悪魔に誘惑されるなんて、祓魔師として愚の骨頂だろ。アレを断れたら、兄さんのペースにならなかったのに。」
兄のふしだらさを糾弾するにしても、自分が同じようなことをしてしまえば、その糾弾に効力がなくなる。それが狙いなのかと雪男は絶望する。
しかしそれを風呂上りの燐を目の前にして断るだけの心の強さは雪男にはなかった。雪男はなんだかんだ言って、その燐の提案は僥倖であったし、跳ね除けてしまう意思の強さもなかった。
「はあ……。ん?」
雪男のポケットのスマフォが振動している。雪男がそれに手を伸ばしてみると電話の着信のようだ。雪男は電話に出る。
「もしもし……奥村ですが。」
『朴です。奥村先生、聞いて聞いて。』
はしゃいだ朴の声を聞いて、何をだと雪男は首を傾げる。朴は元塾生だから雪男への連絡用に番号は知っている。しかし今こうやって掛けてくる理由が分からない。
『あのね。今日は出雲ちゃんがね~。』
「ああ。随分と女子三人で羽目を外されたそうですね。兄から聞きました。」
雪男は普通の声で当たり障りなく返した。朴は電話の向こうでふふふとか笑っている。
『あらら。燐君弟にも言いつけちゃうんだ。ほんと子どもっぽいな。』
その子どもっぽい兄に散々振り回されている自分は何だと雪男は呆然とする。しかし朴の容赦ない批評に多少カチンとくるものがあった。
「兄も僕に言いつけたくて言いつけたわけじゃないと思いますよ。」
『もしかして、先生のほうから聞く形だったの?』
「様子が不審でしたからね。」
雪男はまた平坦に返したが、朴は「そっか」と返す。
「あまり女子が男子に対して度を越した行為はしないほうがいいと思います。感情的になることもなるべく抑えるべきだと思います。貴方のようにそれを煽るなんてことは、論外だと。」
『ふーん……。』
雪男の提言に朴は淡白だった。その引き伸ばされた語尾からは上辺だけの教師面に対する皮肉も窺えた。自分達のような十代そこそこの子どもとも大人ともつかないような時期に、そんな人間同士の感情の機微になにも感じずにいろなんて、なんて不自然な話だろう。それに動揺したり流されたりするのが普通だと、朴は言外に含んでいる。
「すみません。説教じみたことを。兄も特に怒ってるとか引きずっている様子はありませんし。僕が少々過敏になっていたのかもしれません。」
『うん。そんなことだと思ってた。それより聞いて。出雲ちゃんがね、今私の横でね。うふふ、うふふ……。』
なんだか電話の向こうが変な雰囲気だった。いつもうすら笑いの朴だったが、今夜は本気でにやついている。全開にした禍々しいまでの幸福感が伝わってくるようだ。
『出雲ちゃん。かあいい。かあいいよ。』
「神木さん。横にいるんですね。」
『うん。そうだよ。私のベッドで寝てる。』
雪男の耳には出雲の寝息なんぞは聞こえない。
「はあ。」
なんだか早目に電話を切ったほうが良さそうな気がする。
「朴さんもベッドの中にいらっしゃるのなら、これで電話を切ったほうがいいでしょう。では、おやすみなさい。」
『待って! 今出雲ちゃんの声聞かせてあげるから!』
はしゃいだような声に引き止められたあと、電話の向こうでは「出雲ちゃーん」と呼ぶ朴の声が遠くに聞こえた。ややごそごそしたような物音がしたあと、いきなり聞いたことのない出雲の声が雪男の耳に飛び込んできた。
『いやあ!』
続けてくすくす笑う朴の声と一緒に、出雲の甘いような掠れた声が聞こえてくる。寝言や寝息にはどうしても聞こえない。雪男はあまりのことに硬直して何も対処出来なかった。しばらくて、はあはあと息を弾ませた朴が『どうだった?』と問いかけてくる。
「……。」
雪男は無言だった。しかしどうにか立ち直って朴に告げる。
「何のテロですか。」
『出雲ちゃんの寝込みを襲うテロ~。出雲ちゃんは今私の携帯を取り上げようとしているけど、うふふふ……。あんまり力入ってないよ。出雲ちゃん。』
電話の向こうの出雲は、きゃんきゃん吠えながら朴から携帯を取り上げようと暴れているらしく、争うような物音が聞こえてくる。事情を知らなければ警察を呼んでしまいそうだった。事情を知っていたとしても呼んでしまいそうだ。出雲の泣き声ともつかないような声がやけに遠くに聞こえる。雪男の五感が精神より先に現実逃避を始めているようだった。
『朴いいかげんにしなさいよ! きゃあ!』
雪男は居た堪れなくなっている。
『先生ぇ。出雲ちゃんの上に馬乗りになっちゃた。出雲ちゃん。先生に何か一言おねがい。』
『うわあん……。朴のばかあ!』
『だって。せんせ。じゃあ、実況・朴朔子、解説・朴朔子でお送りしました。』
出雲のさらに高くなった声を掻き消すように、朴は雪男にそれだけを告げて電話は切った。雪男はスマフォをベッドの上に叩きつける。故障とかそんなのは気にしてられなかった。
「快楽主義者が!」
勢いよく立ち上がったが頭がくらっとして床に尻餅をつく。
「兄さんから勝呂君の匂いが移るなんてのは、まだマシなほうだったんだな。」
生々しい実況を聞かされるよりは。雪男は勝呂や燐がなんだかんだで常識の範囲でいちゃついて、さりげなく雪男に配慮してくれていたことを不本意ながら思い知る。それにしても朴という女はなんて節度が無いんだ。それに付き合う出雲が気の毒な気もするが、それも違うような気もする。
「神木さんが朴さんのベッドにいたってのは、そういうことだよね。」
そして、それをわざわざ雪男のような人間に言ってくる朴の露悪趣味も、出雲に対する思いの裏返しなのだろう。
「どうした。雪男。そんなとこで座り込んで。」
自室のドアが開いて、兄が湯上りで髪を濡らしたまま入ってくる。
「ああ。ちょっと性質の悪いイタズラ電話が掛かってきて。少し疲れただけ。」
燐は雪男の顔を心配そうに覗きこんで大丈夫かと問いかけてくる。
「大丈夫だと思う。」
そうかと言って燐は顔を寄せてきた。目を閉じて雪男の唇にキスをする。そしてすぐに離された。
「……。なんかあっさりしてるような。」
雪男はそのさりげなさに不満を口にした。心外だとばかりに燐は口を尖らす。
「そうか? こんなもんだけどな。」
何と比べてるんだと雪男は思ったが、多分勝呂とのキスなのだろうと納得した。
「そんなもんで済んでるんだ。ある意味びっくり。」
「まあな。って、そんなもんって言うな。結構恥ずかしいんだからな。」
雪男は手の平で目を覆う。
「あっそう。」
雪男は笑いたくなった。自分がアバズレ呼ばわりした男がやけに初心に見えてしまった。
「兄さん。もう一回して。さっきのイタズラ電話で、かなりショックで消耗してたんだ。……お願い。もう一回で復活出来そうなんだ。」
「えー……。」
そう言いながらも憔悴したような顔の弟を放っておけない兄は、もう一回だけ弟にキスしてやった。
とばっちりの雪男でした。しかし何気にラッキーでもあります。
☆ss「三匹が……!」雪朴雪、志摩雪志摩、志摩朴志摩、ギャグ風味
食べ物表現注意。
「放課後になるまでは僕のことを部下扱いはやめて頂けませんか。フェレス卿。」
雪男は対面の長身痩躯の男に告げる。しかし男は雪男をにやにやと笑うだけだった。
「今日は貴方のお兄さんは任務で不在だ。だから貴方はお昼ご飯にこちらに来ると思って張ってました。」
雪男は窓の外を見る振りをしてちっと舌打ちをする。
「兄に学食に来たことは内緒ですよ。」
「分かってます。」
ついでに一介の生徒と同席して昼飯を食おうなんて理事長のすることではないと窘めていたのが雪男だった。それを貴方は私の部下なんですからと押し切って、メフィストが雪男にそのまま同行したのが、正十字学園名物・超高級学食だった。そのようなものを名物にしていいのかとつっこみたくなる、若い者には贅沢は敵だという建前を無視した場所だった。
しかし当たり前のようにこの学園の食堂を利用する生徒は、実のところ一定数以上存在する。そしてそれに与れない者は購買部や手製の弁当で食いつなぐ。こんなところでこれから出て行く社会の縮図を垣間見せる、とんでもない場所でもあった。
雪男は食に関する関心が薄い。故に購買部での生存競争に負けて、しかも今日任務が入っている兄は弁当を作ってくれなかった。燐は任務先で出るロケ弁で頭がいっぱいで、雪男の弁当のことなど忘れ去っていたのだ。以前から燐は任務時に供されるそれを羨ましがっていたし、今日のところは兄のうっかりを許してやろうと雪男は思っていた。食事単価の面から慮れば、今日くらいは兄と自分の二人分の費用を外食に当てても罰は当たるまいと考えていた。
そしてわずかな差であれ、安価とも呼べるメニューが存在するのは複数のメニューを扱う飲食店の法則である。雪男は迷わず一番安価なものを選んだ。そして上司はというと、値段を気にせず選んだようだ。
「おや。私のメニューの一つが貴方のメニューと被りましたね。」
メフィストは値段どころか量も気にしていないようで複数のメニューを頼んでいた。その一つが雪男の頼んだメニューのちょっと豪華版と呼べるものだった。
「奥村先生知っていますか?」
「何をですか。」
気まぐれな悪魔は一人でメシを食うのが嫌いらしい。やり手な癖に一人でメシを食えないとは。なんて男子力のない男なんだと雪男は思った。雪男は飲食店でも一人でメシを食うことが出来る。ただしカウンター席だけはNGだった。そういえば兄も一人でメシを食うのが苦手だったような気がする。ただし雪男と違って複数の人間と連れ立っていても、カウンターでメシを食いたがっていたような気がする。あの少し高くて、店員が動き回るのを間近で見られる席がかっこいいと思っていたのだろう。いわゆる一つの中二病臭かった。
そんなことよりメフィストの問いかけだった。雪男の上の空に気づいたらしいメフィストが待っている。
「やれやれ。奥村先生は教科書通りのことは完璧なのに、目の前に展開されている事象については観察眼が明らかにお留守だ。ほら。」
メフィストはさっき雪男に指摘した共通のメニューを指差す。そしてこの二つの皿の上のものの違いが分かりますかと問いかけてきた。
「貴方のそれには豪華なトッピングが付いていますね。」
雪男は淡白に答えた。
「いいえ。それは敢えて無視してください。失礼。トッピングがあればこその違いですが、もう一つ貴方に質問します。貴方と私のこの料理の金額の差は幾らでしたかね?」
「普通の店でも三百円ですからね。ここだと確か四百円から五百円ってところでしょうか。」
「そうです。この料理の価格の四割近くを占めています。そうなってくると、料理の主役はトッピングということになりますよね。主客の逆転です。見事な。」
「何が言いたいんですか?」
メフィストはほかほかと湯気が立っている料理の数々を眺めて目を細めている。本当に食い意地の張った悪魔だ。
「アマイモン相手だと食べながら講釈を垂れるという、私にとっての愉悦がいまいち満たされないんですよね。だから貴方が弁当を持ってこなくて幸いでした。あっそうです。燐ともたまに一緒に昼食を食べているのですが――。」
雪男のこめかみがひくっと疼く。
「あの子はがさつで貧乏性な割りには、食に関しては博識で饒舌だ。この高校を卒業したなら、是非とも紹介したい専門学校があるくらいには。」
「それは服部栄養専門学校ですか。それとも辻料理学園ですか。それとも星岡茶寮ですか。」
「候補としてはそんな感じですかね。」
馴れ馴れしさにも程があると雪男は思った。まさか祓魔師以外の進路の目星を付けられているとは。しかもそれを兄との親密さを根拠にして雪男に当てつけている。
「燐は話し甲斐のある子ですよ。藤本からはとんだ不良のどチンピラと聞かされていたもので。たぶん私と共通の話題を探すのも一苦労かなと心配していたのですが。食に関してはあの子の知識はそこいらのプロに匹敵するんじゃないですか。頭だけの知識だけじゃありません。あの子の料理に関するセンスは天性のものです。選ばれた者にしか齎されないような。」
「はあ。褒めて戴いて僕としても嬉しいのですが。フェレス卿――。」
メフィストはまるで自分の言葉に酔っているかのように宙に目を彷徨わせ熱い吐息を吐く。
「食欲というのは人間悪魔も問わず、究極の欲です。どんな悲惨なことがあっても、生命を維持する根源であるそれが満たされれば、否応なく元気になれるものです。そしてそんな欲を満たしてくれる存在が傍らにいればどうでしょう? 燐は私のお嫁さんになるべきだと思いませんか?」
「思いません。」
雪男は机をばんっと叩く。「おや」とメフィストは間抜けな声を出した。
「あの子は料理の上達と将来の為に、私の今の提案を呑みそうなものですが。それに、私ならあの子の情熱を分かってあげられる。」
「あの子あの子って馴れ馴れしいんですよ。そんな不毛なことは今後一切聞きたくありません。兄に対する気遣いは無用です。兄には精神的な施しより、物質的な援助のみをお願いします。兄の身内である弟の僕の希望、聞いていただけますよね?」
メフィストは眉を下げて見かけだけの弱気を見せる。そんなものに油断させられてたまるかと、雪男はもう一度念を押す。
「いただけますよね?」
「わかりました。奥村先生。とりあえず、当座はこの話は保留とさせてもらいましょう。三年間あるんですから。高校生活は。」
また聞き捨てならないことを言われたが、雪男はもうこの件に関しては取り合わないことにした。それより燐がうんぬんかんぬんという前のクイズめいた問いに答えは出ていなかった。
「フェレス卿。もうタイム・アップということにしてください。貴方は僕に何を言いたかったのですか?」
「うーん。貴方の頼んだものはカレーライス。私は特製カツカレー。」
ずっと件のメニューについてはぼかされていたが、ついにそれがはっきりとした。雪男がオーダーしたのは学食最安値のカレーライス。他のメニューとは異なり大量調理が可能な故の比較的良心的な価格だった。そしてメフィストがオーダーしたのはそれに分厚いトンカツが乗っているカツカレーだった。勿論市価より何割か値の張る価格設定だった。悪魔はその経済力を見せ付けるように、改めて言う。
「その価格差は貴方の言うとおり五百円です。これを貴方はトッピングの差だと言いました。」
「違うのですか? というか貴方は他にもから揚げ定食、天丼をオーダーしているじゃないですか。あぶらもんばっかりどんだけ~っと思うんですけど。」
「まだまだ育ち盛りですからね。私。」
百九十センチ越えの身長をまだ伸ばすつもりかと雪男は眉間に皴が寄った。
「だ・か・ら。貴方のあぶらもん満載のメニューの一つと、僕の頼んだ素カレーの差がどうだって言うのですか。」
「言ったでしょう。奥村先生、差額五百円はカツの値段で間違いはないでしょう。でもこのカツカレーはそれだけではないのです。」
「他に何が……」
メフィストはちっちと指を振る。
「カツカレーとは、ただ単にご飯の上にカツを乗せてカレールゥを掛けたものだと思っているでしょう? そしてそのカレールゥは普通の単品のカレーと同一であると。貴方はとんでもない誤解をしている。普通の飲食店では、もしかしたらそうなのかもしれませんが、この食堂では違うのです。この食堂では素カレーのルゥと、カツカレーのルゥは別物なんです。」
「なんでいちいちそんなことをするんですか。めんどくさい。」
「それが食に関するこだわりです。貴方のお兄さんなら分かって貰えるでしょうし、私の言う理屈にも耳を傾けてくれるでしょう。そして私に同意してくれるはずです。」
また兄かよと雪男は奥歯をかみ締める。そんなに僕に喧嘩を売りたいのかよこのクソ悪魔と上司に向かってあるまじきことを雪男は思った。
「カツカレーの主役は貴方も納得したとおりカツ。では、脇役に追いやられたカレーはそれを引き立てなくてはなりません。そのために我が正十字学園学食のカツカレーは、特別にルゥを別に作っているのです。あっ。ちなみにカレーうどんのルゥは貴方が食べている素カレーのものと同一です。私はカレーうどんは食べないものなので。」
「つまり貴方は、カレーはカツカレーばかり頼むものだから、理事長の権限でカレーを別に作らせているわけですね。食へのこだわりという理屈で。」
「そうです。その素材、そして手間暇は、素カレーのそれとは比べ物になりません。カツの存在を殺さないように、そして引き立てるように工夫して作られているのです。貴方が単なるトッピングの差だと思っていた五百円以上の価値があるのです。つまりカツカレーをオーダーすることにより、私は貴方より得をしているのです。」
「あ……そう。……一言言っていいですか?」
「なんです?」
「くだらねえ。」
流石の悪魔もテーブルに突っ伏した。雪男は淡々とスプーンに巻きつけてあった紙ナプキンを取ると散々メフィストの長話のせいでおあずけを食らったカレーに向き合った。そしてメフィストに告げる。
「僕だって安いだけでこのカレーを頼んだわけじゃありません。カツカレーだと僕のとある欲求は満たされないのです。」
「なんですかそれ。」
メフィストは理解しがたいというように首を捻っていた。どう考えてもカツカレーのほうが量・質共に素カレーよりは上だろう。雪男のように育ち盛りでデカイがたいを維持するには、カツカレーのほうが適している。
メフィストは雪男の所作を観察していた。
「奥村先生。ネタばらしはなしですか? 放置プレーなんですか? 悪魔に対して気になるようなことを言っておいて、このままやり逃げなんですか? やり逃げは男の甲斐性ですか?」
「フェレス卿。僕は自分の楽しみは自分だけのものにしておきたい主義なんです。他人と共有するのは嫌なんです。貴方はさっきまで自分の楽しみを押し付けて、僕の時間を奪っていた。僕には自分の楽しみのために貴方に対して沈黙を貫く権利だってあるはずです。」
なんという閉鎖的な人格だろうとメフィストは自分の背中に震えが走った。この弟にしてあの馬鹿兄あり。正反対なのはもとから分かっていたが、雪男のその口ぶりは兄ですら踏み込むのを拒むような気配があった。
雪男はふと視線をカレーから逸らした。その視線の先には女子のきゃんきゃんした甲高い声が上がっている。
「ちょっと朴! やめてぇ!」
「出雲ちゃん。いい加減慣れてよ?」
塾生と元塾生の神木出雲と朴朔子が斜め横の席に座っていた。雪男がやけにその二人の痴話喧嘩を食い入るように見つめているので、メフィストは気になって雪男に尋ねる。どうかしたのですかと。
雪男は上の空でああと声を上げ、メフィストのほうに向き直るとくすくすと笑った。
「朴さんとは気が合いそうかなと思っただけです。」
メフィストにはわけが分からない。
「僕には個人的なことで兄さんにも幾ら言っても分かって貰えなかったことがあるんですけど。今度彼女に打ち明けてみようかな。ひょっとしたら僕達、分かり合えるんじゃないかな。世界には僕は一人じゃないって彼女ならそう言ってくれるような気がする。」
「変な電波受信してるんですか? それとも朴さんと付き合いたい願望ですか? もういいです。さっさと食事にしましょう。」
スプーンでカレーを掬ってメフィストはふてたように頬を膨らませる。雪男はいただきますと言ってカレーにスプーンを向けた。
こころなしか嬉しそうにスプーンを動かす雪男をちらちらとメフィストは観察しながらメフィストはカツカレーを食べていたが、次第にその表情に変化が訪れていた。
「ちょっとやめくださいよ。奥村先生……。」
雪男は涼しい顔でカレーを食べている。
「ああ。貴方もそういう部類の方でしたか。兄のような。しかし僕と同席しようと絡んできたのは貴方なんですから。」
「そりゃあそうかもしれませんが……。ですが――。」
斜め横の席では相変わらず出雲が朴に対して抗議の声を上げているが、反して朴はおっとりとその声を受け流していた。
「こうやったほうが美味しいんだよ。出雲ちゃん。」
メフィストは朴のその言葉にぴくりと反応する。さっきまではちら見だったのだが、改めて出雲たちの席のテーブルを観察して、そこでメフィストは神木出雲の嘆く原因をなんとなく悟った。雪男に向き直ると雪男はうんうんと頷いて嬉しそうにカレーを食べていた。
「確かに貴方と彼女は心の親友になれるかもしれませんね。」
メフィストはもう何も雪男に言うつもりはなかった。そして雪男のほうを見ないようにしながら黙々と自分のオーダーしたメニューを食することにした。
* * *
とあるファミレスにて雪男と朴は待ち合わせしていた。
「まさか先生が私を誘ってくれるなんて思ってもいませんでした。」
「前々から貴方のことは気になっていたんです。」
「貴方だなんて。君でいいですよ。」
「じゃあ君も僕のこと先生じゃなくて奥村君って呼んで欲しいかな。」
「じゃあ、奥村君。」
二人はほんわかとしたオーラを出しながら店員に席に案内される。席についてお冷が運ばれてきたところで割り込むようにもう一人が同じテーブルに走ってきた。ピンクっぽい茶髪の同級生、エロ魔人似非紳士の志摩廉造だった。
「わあ。」
雪男は淡白に驚く。
「志摩君……。朴さんから話は聞いてますよ。」
「遅れてすまんわあ。」
志摩は雪男と朴を交互に見る。そしてニコニコ笑っている朴に笑いかけたが、朴はやはりニコニコと笑い返すだけで微動だにしなかった。雪男が身体をずらして志摩の分の席を開けると渋々というように志摩は雪男の隣に座った。
「先生。さっきから聞いとったけど、女子に対する要求がいまいち甘いわあ。奥村君やのうて、雪男君やろ?」
「え? そうなの? そうなんですか朴さん?」
「えー……。新密度で言えば志摩君が言った要求がきそうかなって思ってたけど。まあそこは奥村君ということで。」
席につくや否や変な突っ込みを入れてくる志摩に呆れたが、朴からも雪男は世間とずれていると言われてしまった。雪男は渋々その現実を受け入れる。
「学年随一の奥村先生と、裏人気の高い朴さんが密会なんて、ゴシップのネタにはええやろうけど。そこは筋書き通りにいかんいうとこが現実やね。」
「そうだね。君も来たもんね。」
男二人の会話に朴が割り込む。
「いや。もとからそんな疚しい会合でもないでしょ。私は出雲ちゃんの手前もあるし。ところで私は志摩君にも声を掛けちゃったけど、奥村君はお兄さんとか誘えばよかったのに。」
雪男は明らかにぎくりと表情を強張らせて言いにくそうに口を動かしている。
「兄は……芸がないというか。僕達みたいな人種を理解してないというか、対極の思想で動いているというか。この場で行われることを目の当たりにすれば、その……。」
「先生。無理に言わんでええわ。俺も予想がつくし。」
「そうなの。志摩君? 燐君だったら私達より独創的なことをしでかすような気がしてたんだけど。」
朴は燐の特性をあまり解っていない。しかし男連中の間ではある事柄に関する燐のこだわりは知られていた。
「兄さんは、『あっち側』の人間だから。」
「そうなの?」
「兄さんみたいな人種がいなければ、僕達がこうやってこっそり会う必要はないでしょう。」
「そうかあ。燐君はアレなんだ。出雲ちゃんと一緒なんだ。残念。残念。そうだね。私も出雲ちゃんに内緒で奥村君と会うことになっちゃったもんね。」
「あんたら俺のことも忘れとらへん?」
「いや。君の事情は僕はわかってないから。言及出来なかったんだ。」
「そんなこと言うて。朴さん独り占めしよう思うてもあかんで。」
「独り占めなんて。そういう意味で彼女に声掛けたわけじゃない。」
三人は意味深な会話をしながらメニューを開いて見ていた。
「僕はカレーライス。志摩君は確か、ラーメンでしたよね。そして朴さんは定食類で……良かったんですよね。」
「うーん。今日はトンカツ定食にしよ。」
雪男は店員を呼ぶボタンを押す。すぐさま近寄ってきた店員にスラスラと注文を言うと店員は調理場に消えていった。
「朴さんさっきから奥村先生のことばっかり見とらしまへんか?」
「しつこいね。志摩君。君にここに来るように声掛けたの私じゃない。」
「そうだよ。志摩君は女子を意識しすぎてるよ。ていうか僕達が集まったのは、身内にさえも理解されないという苦悩を抱えてのことだよね。僕は君も朴さんも同じくらい受け入れたいと思っている。男女の差なんか関係ない。君も朴さんも僕にとっては……」
「いや。はっきり言うて欲しいんやけど。そこで『……』はあらへん。俺がさっきまで先生に絡んどったのは、そこをはっきりさせときかったんや。先生も俺と同じ気持ちでええんやな?」
「うん。」
「ほんで。朴さんもやろ。」
「そうだよ。君達は私にとって特別な男子達だよ。」
志摩は安心したようにテーブルの背もたれに体重を預けた。
「志摩君は変に勘繰りすぎ。奥村君。ちゃんと志摩君に言ってあげようよ。」
「そうだね。志摩君、君は僕にとって大事な存在だよ。」
「おおきに先生。こう見えても俺は臆病やから。ちゃんと言葉にして貰えんと不安やったんや。俺も先生のこと、大好きやで。」
感極まった志摩の声が震えている。二人はその震えの意味を理解していた。それは誰からも理解を得られなかった者が、やっとその孤独感・疎外感・孤立感・罪悪感から解放されたが故のものだったから。
お互いの気持ちを言葉にしあった三人にもう言葉は要らなかった。と言いたいところだが、まだ頼んだメニューが来なかったので、三人は暫くは雑談に興じることにした。
「いいですね。学園に帰ったら、僕達はまた仮初の関係を他者の前で演じなければならない。僕達の関係は誰にも秘密です。」
「分かった。これからもこの関係続ける為や。」
うんうんと頷く朴が近づいてくる店員に気づいて二人に呼びかけた。
「きたよ。ごはん。」
店員は何も気づかずマニュアル通りに宣言する。
「カレーライスとラーメン、それにトンカツ定食です。以上でよろしかったでしょうか。」
「はい。大丈夫です。」
注文した料理がそれぞれの前に並ぶ。
「では。」
朴が音頭を取ると三人は手を合わせた。
「いただきます。」
そこから異様な光景が始まった。
雪男はスプーンを構えるとカレーのルゥと白飯をかき混ぜ始める。それは完全に二者が混ざり一体となるまで続けられた。丹念に混ぜ合わせられたそれは、彼の中でわずかに残っていた幼児性を思わせる。
それを微笑ましそうに見ていた朴は、次に自分の目の前の定食の膳に手を伸ばす。定食にはつき物の味噌汁の入った椀を持ち上げると、白飯の上に具ごとぶっかけた。大人しそうで控えめそうに見える彼女の隠れた大胆さが窺える所業だった。朴はその味噌汁がけご飯の上にトンカツの一切れと漬物を乗せると、それを一気にかきこんだ。
「うーん。なんでもかんでも乗っけて一緒に食べると美味しいよね。」
その頃志摩は、ラーメンのどんぶりに突き立てた箸を揃えて握り、ぐるぐると回して麺を巻きつけていた。その巻きついた麺は黄色い毛糸玉のように丸まり、それを見てほくそ笑んだ後、志摩はその麺の塊を口に運んだ。
「ああ……ええわ。誰にも怒られず好きに食えるのは。」
雪男は一口食べて無意識なのか再びカレーライスをかき混ぜている。
「兄さんの前でやったら怒られるから、いつも不本意な食べ方をしてたんだ。カレーは好きだけど、カレーの日は僕にとっては欲求の満たされない辛い食事を強いられる日でもあったんだ。僕は兄さんのことを愛しているけど、兄さんの料理人として矜持による押し付けは憎らしかったんだ。」
「お兄さんのこと、嫌いで好きってそういうことだったの?」
朴は原作がらみの見当違いな突っ込みを入れる。
「兄さんは僕に美味しい料理を作ってくれる。でも分かってくれないんだ。僕にとっての美味しい食べ方はあたまから認めてくれない。お行儀が悪いだの、見た目が悪いだの、作ってくれた人に失礼だの。」
朴は雪男の愚痴を聞きながら「出雲ちゃんはね」と呟く。
「なんだかんだで私の駄目なところを叱りながらも好きでいてくれるんだ。だけど駄目なところは叱らずにはいられないみたいで。私のほうが間違ってるのはわかってる。慣れて黙って欲しいって思うほうが筋違いってことも。だけど、ごめん。出雲ちゃん。それでもやめられないよ。奥村君や志摩君みたいな理解者と知り合えたらすぐに、こうやって内緒で会ってしまうくらいに。」
志摩はその間も箸をくるくるどんぶりの中で回している。
「最初に怒られたのが三歳のころ。おとんと柔兄からやったわ。それから先は金兄とか姉ちゃんとか、子猫さんからもフルボッコや。なあ? なんが悪いんやろうな? パスタはフォークに巻きつけるのが正しい食べ方やん。ラーメンでやったらあかん言うことはないやろ。坊かて昔は俺と同じ食べ方しとった癖に、そんなのは幼稚園入る前に卒業したわって、冷たいわあ!」
それぞれが自分の悲しみを吐露しながら思い思いの食事をしている。それは確かに目を覆うような光景だったが、この場では誰も自分を非難する者がいないという満ち足りた空気が三人を和ませていた。
「今日は本当に楽しかった。」
「ほんと、こんな楽しい食事久しぶり。」
「いや。初めてかもしれへん。」
志摩が大袈裟に言うが、雪男も朴も案外同意してしまうような言葉だった。
ファミレスから出た三人は、手を繋いで学園までの帰路につこうとしている。
この『マナー違反だがそれが一番美味しい食べ方同盟』の初回のオフ会はつつがなく大成功に終わった。
* * *
しかしこの同盟が成ったと同時に別の同盟が産声を上げようとしていた。
「本当か。メフィスト。雪男が俺の留守にカレーぐちゃぐちゃに混ぜて食べてたって。」
メフィストは苦々しく頷く。
「私も貴方にそれを話すべきか迷ったのですが。」
「何を迷う必要があるんだよ。あいつ……。」
「しかも、朴さんという同類に目をつけたらしいですよ。今後彼らは地下に潜り活動することでしょう。つまり学園のそとで接触するということです。」
「外でアレをやらかすつもりか!」
燐は理事長室を飛び出る。
「こうなったら神木と組んで奴らを矯正するしかねえ! そういや勝呂も志摩の食い方で悩んでるって言ってたよな。」
同時に生まれようとする同盟。それは、『マナーを守ってこそ美味しい食事同盟』。
相反する食事同盟が同日生まれた。この二つの同盟がぶつかりあう日は近い。かもしれない。
雪男、朴、志摩のくんずほぐれつでした。表現が少し汚くてごめんなさい。でも私も似たようなことやってるという人は結構いるんじゃないでしょうか。
「放課後になるまでは僕のことを部下扱いはやめて頂けませんか。フェレス卿。」
雪男は対面の長身痩躯の男に告げる。しかし男は雪男をにやにやと笑うだけだった。
「今日は貴方のお兄さんは任務で不在だ。だから貴方はお昼ご飯にこちらに来ると思って張ってました。」
雪男は窓の外を見る振りをしてちっと舌打ちをする。
「兄に学食に来たことは内緒ですよ。」
「分かってます。」
ついでに一介の生徒と同席して昼飯を食おうなんて理事長のすることではないと窘めていたのが雪男だった。それを貴方は私の部下なんですからと押し切って、メフィストが雪男にそのまま同行したのが、正十字学園名物・超高級学食だった。そのようなものを名物にしていいのかとつっこみたくなる、若い者には贅沢は敵だという建前を無視した場所だった。
しかし当たり前のようにこの学園の食堂を利用する生徒は、実のところ一定数以上存在する。そしてそれに与れない者は購買部や手製の弁当で食いつなぐ。こんなところでこれから出て行く社会の縮図を垣間見せる、とんでもない場所でもあった。
雪男は食に関する関心が薄い。故に購買部での生存競争に負けて、しかも今日任務が入っている兄は弁当を作ってくれなかった。燐は任務先で出るロケ弁で頭がいっぱいで、雪男の弁当のことなど忘れ去っていたのだ。以前から燐は任務時に供されるそれを羨ましがっていたし、今日のところは兄のうっかりを許してやろうと雪男は思っていた。食事単価の面から慮れば、今日くらいは兄と自分の二人分の費用を外食に当てても罰は当たるまいと考えていた。
そしてわずかな差であれ、安価とも呼べるメニューが存在するのは複数のメニューを扱う飲食店の法則である。雪男は迷わず一番安価なものを選んだ。そして上司はというと、値段を気にせず選んだようだ。
「おや。私のメニューの一つが貴方のメニューと被りましたね。」
メフィストは値段どころか量も気にしていないようで複数のメニューを頼んでいた。その一つが雪男の頼んだメニューのちょっと豪華版と呼べるものだった。
「奥村先生知っていますか?」
「何をですか。」
気まぐれな悪魔は一人でメシを食うのが嫌いらしい。やり手な癖に一人でメシを食えないとは。なんて男子力のない男なんだと雪男は思った。雪男は飲食店でも一人でメシを食うことが出来る。ただしカウンター席だけはNGだった。そういえば兄も一人でメシを食うのが苦手だったような気がする。ただし雪男と違って複数の人間と連れ立っていても、カウンターでメシを食いたがっていたような気がする。あの少し高くて、店員が動き回るのを間近で見られる席がかっこいいと思っていたのだろう。いわゆる一つの中二病臭かった。
そんなことよりメフィストの問いかけだった。雪男の上の空に気づいたらしいメフィストが待っている。
「やれやれ。奥村先生は教科書通りのことは完璧なのに、目の前に展開されている事象については観察眼が明らかにお留守だ。ほら。」
メフィストはさっき雪男に指摘した共通のメニューを指差す。そしてこの二つの皿の上のものの違いが分かりますかと問いかけてきた。
「貴方のそれには豪華なトッピングが付いていますね。」
雪男は淡白に答えた。
「いいえ。それは敢えて無視してください。失礼。トッピングがあればこその違いですが、もう一つ貴方に質問します。貴方と私のこの料理の金額の差は幾らでしたかね?」
「普通の店でも三百円ですからね。ここだと確か四百円から五百円ってところでしょうか。」
「そうです。この料理の価格の四割近くを占めています。そうなってくると、料理の主役はトッピングということになりますよね。主客の逆転です。見事な。」
「何が言いたいんですか?」
メフィストはほかほかと湯気が立っている料理の数々を眺めて目を細めている。本当に食い意地の張った悪魔だ。
「アマイモン相手だと食べながら講釈を垂れるという、私にとっての愉悦がいまいち満たされないんですよね。だから貴方が弁当を持ってこなくて幸いでした。あっそうです。燐ともたまに一緒に昼食を食べているのですが――。」
雪男のこめかみがひくっと疼く。
「あの子はがさつで貧乏性な割りには、食に関しては博識で饒舌だ。この高校を卒業したなら、是非とも紹介したい専門学校があるくらいには。」
「それは服部栄養専門学校ですか。それとも辻料理学園ですか。それとも星岡茶寮ですか。」
「候補としてはそんな感じですかね。」
馴れ馴れしさにも程があると雪男は思った。まさか祓魔師以外の進路の目星を付けられているとは。しかもそれを兄との親密さを根拠にして雪男に当てつけている。
「燐は話し甲斐のある子ですよ。藤本からはとんだ不良のどチンピラと聞かされていたもので。たぶん私と共通の話題を探すのも一苦労かなと心配していたのですが。食に関してはあの子の知識はそこいらのプロに匹敵するんじゃないですか。頭だけの知識だけじゃありません。あの子の料理に関するセンスは天性のものです。選ばれた者にしか齎されないような。」
「はあ。褒めて戴いて僕としても嬉しいのですが。フェレス卿――。」
メフィストはまるで自分の言葉に酔っているかのように宙に目を彷徨わせ熱い吐息を吐く。
「食欲というのは人間悪魔も問わず、究極の欲です。どんな悲惨なことがあっても、生命を維持する根源であるそれが満たされれば、否応なく元気になれるものです。そしてそんな欲を満たしてくれる存在が傍らにいればどうでしょう? 燐は私のお嫁さんになるべきだと思いませんか?」
「思いません。」
雪男は机をばんっと叩く。「おや」とメフィストは間抜けな声を出した。
「あの子は料理の上達と将来の為に、私の今の提案を呑みそうなものですが。それに、私ならあの子の情熱を分かってあげられる。」
「あの子あの子って馴れ馴れしいんですよ。そんな不毛なことは今後一切聞きたくありません。兄に対する気遣いは無用です。兄には精神的な施しより、物質的な援助のみをお願いします。兄の身内である弟の僕の希望、聞いていただけますよね?」
メフィストは眉を下げて見かけだけの弱気を見せる。そんなものに油断させられてたまるかと、雪男はもう一度念を押す。
「いただけますよね?」
「わかりました。奥村先生。とりあえず、当座はこの話は保留とさせてもらいましょう。三年間あるんですから。高校生活は。」
また聞き捨てならないことを言われたが、雪男はもうこの件に関しては取り合わないことにした。それより燐がうんぬんかんぬんという前のクイズめいた問いに答えは出ていなかった。
「フェレス卿。もうタイム・アップということにしてください。貴方は僕に何を言いたかったのですか?」
「うーん。貴方の頼んだものはカレーライス。私は特製カツカレー。」
ずっと件のメニューについてはぼかされていたが、ついにそれがはっきりとした。雪男がオーダーしたのは学食最安値のカレーライス。他のメニューとは異なり大量調理が可能な故の比較的良心的な価格だった。そしてメフィストがオーダーしたのはそれに分厚いトンカツが乗っているカツカレーだった。勿論市価より何割か値の張る価格設定だった。悪魔はその経済力を見せ付けるように、改めて言う。
「その価格差は貴方の言うとおり五百円です。これを貴方はトッピングの差だと言いました。」
「違うのですか? というか貴方は他にもから揚げ定食、天丼をオーダーしているじゃないですか。あぶらもんばっかりどんだけ~っと思うんですけど。」
「まだまだ育ち盛りですからね。私。」
百九十センチ越えの身長をまだ伸ばすつもりかと雪男は眉間に皴が寄った。
「だ・か・ら。貴方のあぶらもん満載のメニューの一つと、僕の頼んだ素カレーの差がどうだって言うのですか。」
「言ったでしょう。奥村先生、差額五百円はカツの値段で間違いはないでしょう。でもこのカツカレーはそれだけではないのです。」
「他に何が……」
メフィストはちっちと指を振る。
「カツカレーとは、ただ単にご飯の上にカツを乗せてカレールゥを掛けたものだと思っているでしょう? そしてそのカレールゥは普通の単品のカレーと同一であると。貴方はとんでもない誤解をしている。普通の飲食店では、もしかしたらそうなのかもしれませんが、この食堂では違うのです。この食堂では素カレーのルゥと、カツカレーのルゥは別物なんです。」
「なんでいちいちそんなことをするんですか。めんどくさい。」
「それが食に関するこだわりです。貴方のお兄さんなら分かって貰えるでしょうし、私の言う理屈にも耳を傾けてくれるでしょう。そして私に同意してくれるはずです。」
また兄かよと雪男は奥歯をかみ締める。そんなに僕に喧嘩を売りたいのかよこのクソ悪魔と上司に向かってあるまじきことを雪男は思った。
「カツカレーの主役は貴方も納得したとおりカツ。では、脇役に追いやられたカレーはそれを引き立てなくてはなりません。そのために我が正十字学園学食のカツカレーは、特別にルゥを別に作っているのです。あっ。ちなみにカレーうどんのルゥは貴方が食べている素カレーのものと同一です。私はカレーうどんは食べないものなので。」
「つまり貴方は、カレーはカツカレーばかり頼むものだから、理事長の権限でカレーを別に作らせているわけですね。食へのこだわりという理屈で。」
「そうです。その素材、そして手間暇は、素カレーのそれとは比べ物になりません。カツの存在を殺さないように、そして引き立てるように工夫して作られているのです。貴方が単なるトッピングの差だと思っていた五百円以上の価値があるのです。つまりカツカレーをオーダーすることにより、私は貴方より得をしているのです。」
「あ……そう。……一言言っていいですか?」
「なんです?」
「くだらねえ。」
流石の悪魔もテーブルに突っ伏した。雪男は淡々とスプーンに巻きつけてあった紙ナプキンを取ると散々メフィストの長話のせいでおあずけを食らったカレーに向き合った。そしてメフィストに告げる。
「僕だって安いだけでこのカレーを頼んだわけじゃありません。カツカレーだと僕のとある欲求は満たされないのです。」
「なんですかそれ。」
メフィストは理解しがたいというように首を捻っていた。どう考えてもカツカレーのほうが量・質共に素カレーよりは上だろう。雪男のように育ち盛りでデカイがたいを維持するには、カツカレーのほうが適している。
メフィストは雪男の所作を観察していた。
「奥村先生。ネタばらしはなしですか? 放置プレーなんですか? 悪魔に対して気になるようなことを言っておいて、このままやり逃げなんですか? やり逃げは男の甲斐性ですか?」
「フェレス卿。僕は自分の楽しみは自分だけのものにしておきたい主義なんです。他人と共有するのは嫌なんです。貴方はさっきまで自分の楽しみを押し付けて、僕の時間を奪っていた。僕には自分の楽しみのために貴方に対して沈黙を貫く権利だってあるはずです。」
なんという閉鎖的な人格だろうとメフィストは自分の背中に震えが走った。この弟にしてあの馬鹿兄あり。正反対なのはもとから分かっていたが、雪男のその口ぶりは兄ですら踏み込むのを拒むような気配があった。
雪男はふと視線をカレーから逸らした。その視線の先には女子のきゃんきゃんした甲高い声が上がっている。
「ちょっと朴! やめてぇ!」
「出雲ちゃん。いい加減慣れてよ?」
塾生と元塾生の神木出雲と朴朔子が斜め横の席に座っていた。雪男がやけにその二人の痴話喧嘩を食い入るように見つめているので、メフィストは気になって雪男に尋ねる。どうかしたのですかと。
雪男は上の空でああと声を上げ、メフィストのほうに向き直るとくすくすと笑った。
「朴さんとは気が合いそうかなと思っただけです。」
メフィストにはわけが分からない。
「僕には個人的なことで兄さんにも幾ら言っても分かって貰えなかったことがあるんですけど。今度彼女に打ち明けてみようかな。ひょっとしたら僕達、分かり合えるんじゃないかな。世界には僕は一人じゃないって彼女ならそう言ってくれるような気がする。」
「変な電波受信してるんですか? それとも朴さんと付き合いたい願望ですか? もういいです。さっさと食事にしましょう。」
スプーンでカレーを掬ってメフィストはふてたように頬を膨らませる。雪男はいただきますと言ってカレーにスプーンを向けた。
こころなしか嬉しそうにスプーンを動かす雪男をちらちらとメフィストは観察しながらメフィストはカツカレーを食べていたが、次第にその表情に変化が訪れていた。
「ちょっとやめくださいよ。奥村先生……。」
雪男は涼しい顔でカレーを食べている。
「ああ。貴方もそういう部類の方でしたか。兄のような。しかし僕と同席しようと絡んできたのは貴方なんですから。」
「そりゃあそうかもしれませんが……。ですが――。」
斜め横の席では相変わらず出雲が朴に対して抗議の声を上げているが、反して朴はおっとりとその声を受け流していた。
「こうやったほうが美味しいんだよ。出雲ちゃん。」
メフィストは朴のその言葉にぴくりと反応する。さっきまではちら見だったのだが、改めて出雲たちの席のテーブルを観察して、そこでメフィストは神木出雲の嘆く原因をなんとなく悟った。雪男に向き直ると雪男はうんうんと頷いて嬉しそうにカレーを食べていた。
「確かに貴方と彼女は心の親友になれるかもしれませんね。」
メフィストはもう何も雪男に言うつもりはなかった。そして雪男のほうを見ないようにしながら黙々と自分のオーダーしたメニューを食することにした。
* * *
とあるファミレスにて雪男と朴は待ち合わせしていた。
「まさか先生が私を誘ってくれるなんて思ってもいませんでした。」
「前々から貴方のことは気になっていたんです。」
「貴方だなんて。君でいいですよ。」
「じゃあ君も僕のこと先生じゃなくて奥村君って呼んで欲しいかな。」
「じゃあ、奥村君。」
二人はほんわかとしたオーラを出しながら店員に席に案内される。席についてお冷が運ばれてきたところで割り込むようにもう一人が同じテーブルに走ってきた。ピンクっぽい茶髪の同級生、エロ魔人似非紳士の志摩廉造だった。
「わあ。」
雪男は淡白に驚く。
「志摩君……。朴さんから話は聞いてますよ。」
「遅れてすまんわあ。」
志摩は雪男と朴を交互に見る。そしてニコニコ笑っている朴に笑いかけたが、朴はやはりニコニコと笑い返すだけで微動だにしなかった。雪男が身体をずらして志摩の分の席を開けると渋々というように志摩は雪男の隣に座った。
「先生。さっきから聞いとったけど、女子に対する要求がいまいち甘いわあ。奥村君やのうて、雪男君やろ?」
「え? そうなの? そうなんですか朴さん?」
「えー……。新密度で言えば志摩君が言った要求がきそうかなって思ってたけど。まあそこは奥村君ということで。」
席につくや否や変な突っ込みを入れてくる志摩に呆れたが、朴からも雪男は世間とずれていると言われてしまった。雪男は渋々その現実を受け入れる。
「学年随一の奥村先生と、裏人気の高い朴さんが密会なんて、ゴシップのネタにはええやろうけど。そこは筋書き通りにいかんいうとこが現実やね。」
「そうだね。君も来たもんね。」
男二人の会話に朴が割り込む。
「いや。もとからそんな疚しい会合でもないでしょ。私は出雲ちゃんの手前もあるし。ところで私は志摩君にも声を掛けちゃったけど、奥村君はお兄さんとか誘えばよかったのに。」
雪男は明らかにぎくりと表情を強張らせて言いにくそうに口を動かしている。
「兄は……芸がないというか。僕達みたいな人種を理解してないというか、対極の思想で動いているというか。この場で行われることを目の当たりにすれば、その……。」
「先生。無理に言わんでええわ。俺も予想がつくし。」
「そうなの。志摩君? 燐君だったら私達より独創的なことをしでかすような気がしてたんだけど。」
朴は燐の特性をあまり解っていない。しかし男連中の間ではある事柄に関する燐のこだわりは知られていた。
「兄さんは、『あっち側』の人間だから。」
「そうなの?」
「兄さんみたいな人種がいなければ、僕達がこうやってこっそり会う必要はないでしょう。」
「そうかあ。燐君はアレなんだ。出雲ちゃんと一緒なんだ。残念。残念。そうだね。私も出雲ちゃんに内緒で奥村君と会うことになっちゃったもんね。」
「あんたら俺のことも忘れとらへん?」
「いや。君の事情は僕はわかってないから。言及出来なかったんだ。」
「そんなこと言うて。朴さん独り占めしよう思うてもあかんで。」
「独り占めなんて。そういう意味で彼女に声掛けたわけじゃない。」
三人は意味深な会話をしながらメニューを開いて見ていた。
「僕はカレーライス。志摩君は確か、ラーメンでしたよね。そして朴さんは定食類で……良かったんですよね。」
「うーん。今日はトンカツ定食にしよ。」
雪男は店員を呼ぶボタンを押す。すぐさま近寄ってきた店員にスラスラと注文を言うと店員は調理場に消えていった。
「朴さんさっきから奥村先生のことばっかり見とらしまへんか?」
「しつこいね。志摩君。君にここに来るように声掛けたの私じゃない。」
「そうだよ。志摩君は女子を意識しすぎてるよ。ていうか僕達が集まったのは、身内にさえも理解されないという苦悩を抱えてのことだよね。僕は君も朴さんも同じくらい受け入れたいと思っている。男女の差なんか関係ない。君も朴さんも僕にとっては……」
「いや。はっきり言うて欲しいんやけど。そこで『……』はあらへん。俺がさっきまで先生に絡んどったのは、そこをはっきりさせときかったんや。先生も俺と同じ気持ちでええんやな?」
「うん。」
「ほんで。朴さんもやろ。」
「そうだよ。君達は私にとって特別な男子達だよ。」
志摩は安心したようにテーブルの背もたれに体重を預けた。
「志摩君は変に勘繰りすぎ。奥村君。ちゃんと志摩君に言ってあげようよ。」
「そうだね。志摩君、君は僕にとって大事な存在だよ。」
「おおきに先生。こう見えても俺は臆病やから。ちゃんと言葉にして貰えんと不安やったんや。俺も先生のこと、大好きやで。」
感極まった志摩の声が震えている。二人はその震えの意味を理解していた。それは誰からも理解を得られなかった者が、やっとその孤独感・疎外感・孤立感・罪悪感から解放されたが故のものだったから。
お互いの気持ちを言葉にしあった三人にもう言葉は要らなかった。と言いたいところだが、まだ頼んだメニューが来なかったので、三人は暫くは雑談に興じることにした。
「いいですね。学園に帰ったら、僕達はまた仮初の関係を他者の前で演じなければならない。僕達の関係は誰にも秘密です。」
「分かった。これからもこの関係続ける為や。」
うんうんと頷く朴が近づいてくる店員に気づいて二人に呼びかけた。
「きたよ。ごはん。」
店員は何も気づかずマニュアル通りに宣言する。
「カレーライスとラーメン、それにトンカツ定食です。以上でよろしかったでしょうか。」
「はい。大丈夫です。」
注文した料理がそれぞれの前に並ぶ。
「では。」
朴が音頭を取ると三人は手を合わせた。
「いただきます。」
そこから異様な光景が始まった。
雪男はスプーンを構えるとカレーのルゥと白飯をかき混ぜ始める。それは完全に二者が混ざり一体となるまで続けられた。丹念に混ぜ合わせられたそれは、彼の中でわずかに残っていた幼児性を思わせる。
それを微笑ましそうに見ていた朴は、次に自分の目の前の定食の膳に手を伸ばす。定食にはつき物の味噌汁の入った椀を持ち上げると、白飯の上に具ごとぶっかけた。大人しそうで控えめそうに見える彼女の隠れた大胆さが窺える所業だった。朴はその味噌汁がけご飯の上にトンカツの一切れと漬物を乗せると、それを一気にかきこんだ。
「うーん。なんでもかんでも乗っけて一緒に食べると美味しいよね。」
その頃志摩は、ラーメンのどんぶりに突き立てた箸を揃えて握り、ぐるぐると回して麺を巻きつけていた。その巻きついた麺は黄色い毛糸玉のように丸まり、それを見てほくそ笑んだ後、志摩はその麺の塊を口に運んだ。
「ああ……ええわ。誰にも怒られず好きに食えるのは。」
雪男は一口食べて無意識なのか再びカレーライスをかき混ぜている。
「兄さんの前でやったら怒られるから、いつも不本意な食べ方をしてたんだ。カレーは好きだけど、カレーの日は僕にとっては欲求の満たされない辛い食事を強いられる日でもあったんだ。僕は兄さんのことを愛しているけど、兄さんの料理人として矜持による押し付けは憎らしかったんだ。」
「お兄さんのこと、嫌いで好きってそういうことだったの?」
朴は原作がらみの見当違いな突っ込みを入れる。
「兄さんは僕に美味しい料理を作ってくれる。でも分かってくれないんだ。僕にとっての美味しい食べ方はあたまから認めてくれない。お行儀が悪いだの、見た目が悪いだの、作ってくれた人に失礼だの。」
朴は雪男の愚痴を聞きながら「出雲ちゃんはね」と呟く。
「なんだかんだで私の駄目なところを叱りながらも好きでいてくれるんだ。だけど駄目なところは叱らずにはいられないみたいで。私のほうが間違ってるのはわかってる。慣れて黙って欲しいって思うほうが筋違いってことも。だけど、ごめん。出雲ちゃん。それでもやめられないよ。奥村君や志摩君みたいな理解者と知り合えたらすぐに、こうやって内緒で会ってしまうくらいに。」
志摩はその間も箸をくるくるどんぶりの中で回している。
「最初に怒られたのが三歳のころ。おとんと柔兄からやったわ。それから先は金兄とか姉ちゃんとか、子猫さんからもフルボッコや。なあ? なんが悪いんやろうな? パスタはフォークに巻きつけるのが正しい食べ方やん。ラーメンでやったらあかん言うことはないやろ。坊かて昔は俺と同じ食べ方しとった癖に、そんなのは幼稚園入る前に卒業したわって、冷たいわあ!」
それぞれが自分の悲しみを吐露しながら思い思いの食事をしている。それは確かに目を覆うような光景だったが、この場では誰も自分を非難する者がいないという満ち足りた空気が三人を和ませていた。
「今日は本当に楽しかった。」
「ほんと、こんな楽しい食事久しぶり。」
「いや。初めてかもしれへん。」
志摩が大袈裟に言うが、雪男も朴も案外同意してしまうような言葉だった。
ファミレスから出た三人は、手を繋いで学園までの帰路につこうとしている。
この『マナー違反だがそれが一番美味しい食べ方同盟』の初回のオフ会はつつがなく大成功に終わった。
* * *
しかしこの同盟が成ったと同時に別の同盟が産声を上げようとしていた。
「本当か。メフィスト。雪男が俺の留守にカレーぐちゃぐちゃに混ぜて食べてたって。」
メフィストは苦々しく頷く。
「私も貴方にそれを話すべきか迷ったのですが。」
「何を迷う必要があるんだよ。あいつ……。」
「しかも、朴さんという同類に目をつけたらしいですよ。今後彼らは地下に潜り活動することでしょう。つまり学園のそとで接触するということです。」
「外でアレをやらかすつもりか!」
燐は理事長室を飛び出る。
「こうなったら神木と組んで奴らを矯正するしかねえ! そういや勝呂も志摩の食い方で悩んでるって言ってたよな。」
同時に生まれようとする同盟。それは、『マナーを守ってこそ美味しい食事同盟』。
相反する食事同盟が同日生まれた。この二つの同盟がぶつかりあう日は近い。かもしれない。
雪男、朴、志摩のくんずほぐれつでした。表現が少し汚くてごめんなさい。でも私も似たようなことやってるという人は結構いるんじゃないでしょうか。
☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第十話「境界ネクロ」燐雪、燐アサ、燐メフィ
「ほう。白山羊さんからお手紙ですか。黒山羊さんとしては読まずに食べたいところですが、読むしかないでしょうね。」
二十時半に自室兼理事長室に帰ってきたメフィストは、よく女子中学生が多用するような細工じみた折り方をした便箋を執務用のデスクの上で見つけた。広げてみるとキャラクターものの便箋に平仮名多めの丸っこい書体でメッセージが綴られていた。
『りじ長へ。今日はリンが早くむかえにきたから、このままかえってあげます。一つおねがいがあるんだけど。明日はちゃんとおまえはへやにいろ。かしこ。アサ子より。ついしん。ちゃんといたらいいことあるかも。ついき。たのしみにしてろ。ついでに。このチャンスをのがしたら、つぎはないと思え。あ、ごめん。思ってね。』
メフィストは腕を組んで考え込む振りをする。この追記だらけの手紙の要求に応えてやるのは簡単なのだが、さあどうしよう。
メフィストはこの部屋に燐から頼まれて現・聖騎士を燐が学校と塾に行っている間だけ懐に預かっている状態だった。メフィストは直接的接触を避けるため、変則的な出張を口実にアーサーの前に出てくることはなかった。
「あの聖騎士と私は以心伝心というか、前世の因縁じみた確執がありますからね。なるべく顔を合わせたくなかったんですが。」
どちらかがツンデレしてて嫌い嫌い言い合っているような仲はない。純粋に嫌いあっているような関係だ。メフィストがアーサーのあることないことをどこやかしこに吹き回ってアーサーを窮地に陥れれば、アーサーは馬鹿正直に道路標識やコンビニのゴミ箱を武器に対抗してきたものだった。その律儀さと執拗さはまさに聖戦と呼んでもよかろう。アーサーは聖職者の癖に「殺す」などという通報ワードを口にしたりもした。
メフィストは昔の思い出に苦笑しながら部屋を検分し始める。
「おやつ類はほとんど壊滅ですね。紅茶も勝手に淹れたあとがあります。最近の書類は一応もとあったように戻してありますが、内容は見られていると思っていいでしょう。ふむ……。学園生徒や教員の個人資料には手をつけていないようですね。馬鹿正直に『さわってない』とメモがありました。本当に馬鹿がつくほどの純粋培養。」
メフィストはメモを指で弾き飛ばしながら「アホですね」と呟く。
「この中にサタンの息子――、燐の資料があるのは確実なのに。いや。ヴァチカンが下しそうな命令を考えれば、資料なんて必要ないか。」
良くてヴァチカンに連れて来い。悪ければ。
「殺せってことでしょうから。」
断然、後者の確率が高いとメフィストは踏んでいる。
アーサーが燐と接触を図ってからかなりの日数が過ぎている。それでも仇敵は本来の目的(?)を遂げようとしない。しかし記憶喪失を装い憎悪する悪魔の牙城の本陣に堂々と乗り込んできた。お菓子を食べ散らかし、お茶を飲みまくり、勝手に仕事の書類を覗き見した。たぶんベッドルームで昼寝なんかもしていたのだろう。
「考えられることと言えば、燐を成敗する前に私のヴァチカンに対する落ち度や失点を漁るつもりだったのでしょうか。でもそれなら、変な芝居なんかせずに聖騎士の権限を振りかざせばいいものを。」
メフィストは部屋の検分を続けている。用心するべきところは全て確認した。というか。アーサーはほとんど上っ面だけしかこの部屋を見ていないらしいことがなんとなく分かった。見られていた書類にしたって、ひょっとしたら退屈しのぎにしかなっていなかったのかもしれない。(書類は二年生の修学旅行のしおりの元原稿だった。メフィストのおすすめスポットマップ付の。)
「まあ、とりあえず。黒山羊さんから返事を出しときましょうかね。」
メフィストは指を振ってどこからともなく現れた万年筆を取り、羊皮紙に返事をしたためる。署名までしたあと封筒に入れて封ろうまで丁寧にした。
「まだ起きてますかね彼らは。」
メフィストは自室のドア歩いて鍵を取り出すと鍵穴に差す。そしてその鍵の魔法で旧男子寮の六○二号室のドアを開いた。
「こんばんは。」
「お?」
出迎えたのは燐だった。後ろで雪男があからさまに嫌そうな顔をしている。まるで旦那の愛人が訪ねてきた本妻のように気丈にはしていたが、目は鋭く威嚇している。
「今日アサ子さんから手紙を頂きましてね。夜分に失礼かと思いましたが、お返事に上がりました。ところで、アサ子さんは?」
「寝てるけど。」
燐は部屋の突き当たりの自分のベッドを振り返って指差す。
「起こそうか?」
「いいえ。起きたらこの手紙を渡して下さいね。」
「おう……。明日になっても大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思いますよ。それでは失礼しました。」
きょとんとする燐をほっといて、メフィストは再び自室に戻る。
「さあて。どうしましょうかね。」
睡眠時間が一時間のメフィストにとって、夜というのは退屈で長い。大抵は深夜アニメだのレコーダーに溜め込んだ昼間のアニメやドラマを見るのが日課だが、今夜はそういう気分になれない。それにおやつを食べつくされたので、夜食もない。
「久しぶりにコンビニにでも行きましょうか。」
メフィストはいそいそとコンビニに行く準備をし始めた。
夜道に降り立ったメフィストはシャッターが下りた商店街を通り抜け、昼も夜も無い店に入っていった。
* * *
次の日のアーサーは珍しく燐に起こされる前に自分から起きて身支度していた。エプロン姿の燐が六○二号室に入ってくると「読んだか?」と尋ねてきた。アサ子は「読んだ。」と短く答えた。昨夜メフィストから渡された手紙は寝ていたアーサーの枕元に燐が置いておいたのだった。朝起きたアーサーが一番に気づくように。
「頼まれた弁当は作ったぞ。二人分。」
「ありがとう。燐。今日は一日中理事長が俺の相手をしてくれる、お呼ばれだから。弁当持参したら喜ぶんじゃないかなと思って。」
「アサ子は本当に気が利く良い子だな。俺頑張って美味しいお弁当作ってやったから、理事長と仲良く食べるんだぞ。」
アサ子のこともメフィストのことも一ミリも疑っていない燐はアサ子の頭を撫でている。雪男は頭痛を催したように溜息をついた。昨夜のメフィストの訪問と手紙の翌朝のアサ子の行動に何か思ったのか、珍しく雪男からアサ子に話しかける。
「アサ子さん。さっきの口ぶりだとずっと今日は理事長があの部屋にいるようなことを言ってたけど。これからのことを相談するつもりなのですか? 記憶喪失のアサ子さんがこの先もこの学園に留まるかどうかとか。」
アサ子は少し迷う。
「理事長次第だと思うぞ。んー……。もしかしたら、その話し合いだったとしたらお泊りになるかも。ひょっとしたら何日かお世話になるかもしれない。理事長次第だけどね。」
「そう……。」
雪男は無表情のまま呟く。アサ子から見たその横顔は何かを予感しているように見えた。そして同時にやはり自分はなるべく早く帰るべきだと思った。でも雪男の目はそれとは反対のことを期待している。アサ子はそれに気づかない振りをして燐を急かす。
「それじゃ行ってきます。」
「鍵開けるから待てって。」
アーサーは燐が寄越した弁当の包みをよっこらしょと抱えた。雪男の側を通り過ぎるとき、雪男が何かを呟いた。それをアサ子は聞かなかったことにした。雪男の声は「もう帰ってこないで」と唱えていた。
燐は何も疑わずにドアを開ける。アサ子は何も疑っていないようにドアの外に向かう。
「燐。」
「なんだ?」
「俺が帰ってこなかったら寂しいか?」
「寂しいに決まってるだろ。」
アサ子は満面の笑みを浮かべて理事長室に乗り込んだ。
* * *
燐が背後で名残惜しいようにゆっくりドアを閉める。ぱたんと音がしたと同時に、アーサーはアサ子をやめた。
「出て来い。甘言の悪魔。この聖騎士が直々に出てきてやったぞ。」
ベッドルームのドアが開いて、ナイトキャップにパジャマ姿のメフィストが姿を見せた。
「ああ……。おはようございます。」
メフィストはかったるそうにコーヒーメーカーをセットしながら執務室の椅子にパジャマのまま座る。
「手紙読んでくれましたか?」
「読んだ。奥村燐はサタンの息子で、生前の前・聖騎士藤本獅郎から、お前は彼の死後に燐を譲渡されることになっていたから、あのサタンの息子はこの学園でお前の下にいると書いてあったな。まるで死人に全ての責任を負わせているような言い草が実に鼻につく。」
メフィストはカップにコーヒーを注ぎながら口元を緩ませていた。
「死人に口なし。ではありますが、藤本獅郎は死後の自分の名誉なんか特に気にするような男ではないので、私は好きなだけ彼の罪状を騙れるわけです。」
「この天邪鬼が。奴の死後の名誉を汚すことで、奴の願いも叶えてやっているようなものだろう。」
「さあて。どうでしょうかね。言えることは、まだまだ私はヴァチカンでの名誉騎士としての地位から落とされたくないだけです。」
それともう一つ。アーサーはメフィストを非難するべき点を口にする。
「『譲渡だ』なんて、まるで燐がモノみたいな言い方じゃないか。」
「それこそ貴方の後ろにいるヴァチカンの有力者は、まるで燐を『害虫』のように駆除対象にしていたでしょう。十六年前に、まだ自分の意思ではなんの行動も出来ない赤子に真っ先に抹殺命令を出したのはそっちです。」
「だから再びその赤子が十五歳になった今、抹殺命令が降りたところだ。」
「いいでしょう。抹殺したいなら抹殺すれば。」
メフィストの言葉が終わるか終わらないかの内にメフィストが手にしていたコーヒーのカップが真っ二つになる。メフィストは熱いコーヒーを手に浴びたが微動だにせず、アーサーを睨みつける。
「私に八つ当たりしないで下さい。ちょっと記憶喪失ぶって悪魔と馴れ合った結果情が移って殺せなくなったからって。」
メフィストは手に残っていたカップの半分をアーサーに向かって投げつける。カップはアーサーの背後のドアにぶつかって割れた。
「あちい!」
メフィストは今更のようにキッチンに走って冷水で火傷を洗い始める。
「わざとらしいな。悪魔の回復力があればそんなのどうってことないだろ。」
「煩いですね。憑依体は人間なんですから痛覚だってあります。」
メフィストは水を流し続ける。アーサーは背後から覗き込むと、メフィストの白い手が痛々しく赤くなっていて、アーサーはわずかに身を乗り出した。メフィストはそれを追い払おうと片手を振った。
「私の背後に立たないで下さい!」
「なんだよ。痛いって言うから心配してやってんのに。もうちょっと水出したほうがいいんじゃないのか?」
アーサーは伸び上がって蛇口に手を伸ばす。
「身体押し付けないで下さいよ。気持ち悪いな。」
「好きでやってるわけじゃない!」
アーサーはじゃばじゃばと流される水音に掻き消されない大声で叫ぶ。メフィストはそれに顔を顰めていた。
「あっそう。じゃあ、割れたカップ片付けといて下さいよ。そっちのほうが助かります。ちゃんと掃除機もかけてください。」
アーサーはぶつくさ言いながら手近なペーパータオルに破片を集める。ややあってから掃除機の音がしてきた。メフィストは蛇口を閉めて赤みの少なくなってきた手を布巾で拭いてアーサーのほうを振り返った。
「ちゃんと片付けてやったからな。」
「貴方が割ったんだから当たり前です。」
アーサーが燐たちの部屋を出たのは八時くらいだった。今は時計はもう九時を過ぎている。アーサーは無駄な時間を過ごしたと舌打ちをした。
「とりあえずそのふざけたパジャマ姿をどうにかしろ。俺はそっちのソファーで待ってるから。」
はいはいとメフィストはのろのろと寝室に入る。
しばらくして室内なのにシルクハットも被った正装でメフィストは現れた。アーサーはというと、燐が祓魔塾から持って帰ってきた講師のお古の祓魔師のコートを羽織っている。それが普段着の代わりだろうか。金髪に黒いコートが婀娜っぽい。まるで喪服の未亡人だなとメフィストは思った。
「メフィストフェレス。俺の向かいに座れ。」
「言われなくても貴方の隣になんか座りませんよ。」
メフィストはアーサーの向かい側のソファーに座る。不愉快そうにわざと音を立てがっしりとしたソファーを占領するように足を広げて。
「で? 用件をさっくりさくさく話してください。」
「お前にヴァチカンに要請して貰いたいことがあるんだ。」
「なにを?」
メフィストは用件を聞くだけ聞いて手酷く拒絶するつもりでいた。アーサーはそれを読み取っておきながら眉間に皴を寄せながらふてぶてしく言う。
「俺を正十字騎士団日本本部の臨時職員にしてくれ。日本本部支部長殿。」
それを聞いたメフィストはぽかんと口を開けた。アーサーは畳み掛けに入って付属のテーブルに手をついて身を乗り出した。
「は?」
「そういう口実だけが欲しい。つまり実質、俺は今までどおり燐と共に生活する。」
虚を突かれたメフィストは次に呆れたように顔を歪めてアーサーを指差す。
「そんな虫の好い条件は飲めませんよ。貴方はいわば私や燐にとっては暗殺者とか刺客と呼んでもいい存在。そんな貴方を燐の側にずっと置くわけにはいきません。」
「そんな卑怯なことはしない。」
「そうだとしても私には何のメリットもないじゃないですか。」
「なら。この部屋に預けられているときは、この部屋の掃除もしてやっていい。」
「それでもまだ虫の好い話ですよ。」
アーサーは眉間に皴を寄せながら自分の側に置いてあった包みを広げる。
「燐がお前と俺に仲良く食えって作ってくれた弁当だ。」
「それが何か?」
「俺が頼めば、燐はお前の分の弁当も作ってくれると思う。これからも。」
メフィストはまだ合点がいかないように人差し指でテーブルを忙しなく叩いている。
「貴方がそこまで私に対して下手に出る理由を話してください。」
「さっき火傷させちゃったから。」
「うそつけ!」
アーサーはメフィストから目を逸らしつつもじもじと身体を揺らしている。
「メフィスト。実は俺は……」
「なんです?」
「燐のところにいる間ずっと、有給休暇を使ってたんだ。」
「はあ?」
「そんで今日でそれが切れる。有給がゼロになったんだ。明日からヴァチカンに顔を出さないといけない。ここで俺が日本支部の臨時職員にするとヴァチカンに申請してくれれば、俺はまだここに留まれる。」
メフィストはぶっと噴出す。
「くふふふふ……。腹が捩れそうですよ。聖騎士ともあろう者が、サタンの息子から離れたくなくて、憎き悪魔の下で掃除や皿洗いの身分に落ちても構わないと言う。」
「別に俺は掃除や皿洗いは好きだし、全然苦にならないし。お前には交換条件に弁当も持ってきたし。」
「ところがどっこい。そこで貴方と私が同等になるわけではない。どうしても貴方は私のお情けに縋ってしまう形になる。」
メフィストはソファーに横になって痙攣する身体を落ち着けようとするが小刻みに震えている。
「……。そんなに燐が好きになりましたか? 貴方の一番はキリちゃんだったんじゃないんですか?」
「サタン抹殺の任務が下されたのがキリちゃん……いやシュラなんだ。だけどシュラはいつまでたっても帰ってこない。だからここにいる目的は、シュラ探しも兼ねてるんだ。」
「そりゃあ、彼女は帰ってこないでしょう。サタンの息子があのザマじゃ、殺して帰るほうが目覚めが悪い。というわけで、彼女は任務が果たせないからヴァチカンに帰れないんじゃないですか。」
「そうか。やっぱりシュラも俺と同じように、あのサタンの息子に何か感じてるのか。」
「知りませんよそんなこと。サタンの息子たる彼は色んな意味で有名人で、あらゆる意味で沢山の人の注目と同情を集めて止まないですから。」
メフィストの言葉にアーサーは考え込んでいる。
「そんなんじゃないんだけど。お前は俺の記憶喪失を「振り」なんて言ったが、一日目だけは本当に記憶喪失だったんだ。燐はわけのわかってない見知らぬ俺に晩御飯を食べさせてくれて、お風呂に入れてくれて、自分のベッドを譲って寝かせてくれて。」
アーサーは弁当の箱を開けながら語る。
「何も心配することないからと、俺のことをぎゅっと抱いて頭撫でてくれたんだ。」
「それは貴方が綺麗だからですよ。」
「次の日の朝には俺は自分の本当の名前とやるべきことを思い出した。優しくしてくれた恩人がサタンの息子だってことも。今までの俺だったら優しくされても悪魔の甘言だって思い直して、きっと燐を躊躇なく殺してただろう。」
それにはメフィストも同意する。アーサーが寝泊りしていた間に燐に何の危険もなかったのが奇跡だと思うくらいに。
アーサーはそういうふうに祓魔師として清く正しく育てられてきた。いや違う。そういうふうに生まれついた。そんなアーサーを知っているだけに、メフィストはアーサーの語ることに違和感を感じる。俗に言う「キャラがぶれている」と呼ばれる現象だった。
「そうですね。燐を貴方は殺してない。何故ですか?」
「作ってくれたご飯が美味しかったんだよ。」
アーサーは泣き笑いのような顔をしてメフィストに同意を求めるように言った。しかしメフィストはその言い分を認めない。それはアーサーの理由として不十分だからだ。
「それでも貴方は燐を殺すはずだ。」
「髪の毛だってとかしてくれたんだ。」
なんだそれ。メフィストは首を傾げる。またそれを却下する。
「それでも貴方は燐を殺す。」
「俺にベッドを譲ったから、燐はずっとダンボールを積み重ねてベッド代わりにしてるんだ。」
「殺さない理由になってない。」
「雪男も塾の人たちも薄々俺のこと疑ってるのに、燐だけはこんなバレバレの嘘も信じてくれた。俺のこと、いつもいい子だって信じてくれている。」
「それでも貴方は燐を殺すに決まってる。っていうか、どんだけ甘やかされてんですか、あんたは! 聖騎士の癖に年下の悪魔に……。ばっかじゃないの!」
メフィストはぜえぜえと息切れを起こしている。どれだけアーサーがそれらしいことを言おうとも誰もそれを「アーサーが燐を殺さない理由」だと認めてくれるはずがない。しかしメフィストは理解し始めていた。アーサー自身の口から聞ける理由はこんなくだらないことの寄せ集めでしかないことを。自分達が納得するためには、自分達こそがそれらしい理由を頭の中で捏造するしかないということを。
「サタンの息子の存在を知らぬ存ぜぬということにして、貴方はヴァチカンに帰るという筋書きじゃ駄目なんですか?」
「それは……えーと…」
メフィストはそりゃそうだと受け止めるしかない。要するにアーサーはまだ燐と離れたくないのだろう。聖騎士であるということを隠して、燐と一緒にいたいらしい。
「分かりました。ただし貴方が私を騙そうとしている可能性もあるわけですから。」
アーサーは弁当箱の包みの中から割り箸を一膳取るとメフィストに渡した。
「だからベタなことをしてみようと思った。」
テーブルの真ん中に弁当の箱を並べる。いかにも食欲をそそるおかずとおにぎりが詰まった弁当だった。
「はあ。だし巻き卵にキッシュにオムレツですか。ゆで卵もある。なんか卵ばっかですね。」
「色んなおかず出してどれもお前の好みじゃなかったら困るからな。卵一点で攻めればどれか当たりだろうって思ったんだ。」
「ていうか、あんたの好きなもんばっかでしょうが。ったく……。」
メフィストはぱちんと箸を割って弁当のおかずを取る。アーサーはそれを見て安堵したように笑った。
「同じ釜の飯を食うですか。確かにベタですね。」
「初めて出会ったとき握手もしてくれなかった相手だからな。なんかもっと人情に訴えるもんじゃないと駄目だと思って。」
「貴方はそんな昔のこと根に持ってたんですか。まあ今回は及第点ということにしておきましょう。貴方から手紙を貰ったことと、腹を割って自らの恥を晒してくれたことと、この手土産で。」
アーサーはその言葉を待ってたと言わんばかりに弁当に箸を付ける。
「そういえばメフィストは卵料理で何が好きなんだ?」
「茶碗蒸しですかね。」
「……。」
「燐の作る茶碗蒸しなら美味しいでしょうね。ですが。弁当向きではないですから、ここで食べられないでしょうね。」
ぐぬぬとアーサーは唸る。それを見て悪魔は若造聖騎士に皮肉交じりの笑みを見せるのだった。
燐雪のターンを書きたかったけど掛けませんでした。次回はこれの裏の燐雪展開になると思います。
二十時半に自室兼理事長室に帰ってきたメフィストは、よく女子中学生が多用するような細工じみた折り方をした便箋を執務用のデスクの上で見つけた。広げてみるとキャラクターものの便箋に平仮名多めの丸っこい書体でメッセージが綴られていた。
『りじ長へ。今日はリンが早くむかえにきたから、このままかえってあげます。一つおねがいがあるんだけど。明日はちゃんとおまえはへやにいろ。かしこ。アサ子より。ついしん。ちゃんといたらいいことあるかも。ついき。たのしみにしてろ。ついでに。このチャンスをのがしたら、つぎはないと思え。あ、ごめん。思ってね。』
メフィストは腕を組んで考え込む振りをする。この追記だらけの手紙の要求に応えてやるのは簡単なのだが、さあどうしよう。
メフィストはこの部屋に燐から頼まれて現・聖騎士を燐が学校と塾に行っている間だけ懐に預かっている状態だった。メフィストは直接的接触を避けるため、変則的な出張を口実にアーサーの前に出てくることはなかった。
「あの聖騎士と私は以心伝心というか、前世の因縁じみた確執がありますからね。なるべく顔を合わせたくなかったんですが。」
どちらかがツンデレしてて嫌い嫌い言い合っているような仲はない。純粋に嫌いあっているような関係だ。メフィストがアーサーのあることないことをどこやかしこに吹き回ってアーサーを窮地に陥れれば、アーサーは馬鹿正直に道路標識やコンビニのゴミ箱を武器に対抗してきたものだった。その律儀さと執拗さはまさに聖戦と呼んでもよかろう。アーサーは聖職者の癖に「殺す」などという通報ワードを口にしたりもした。
メフィストは昔の思い出に苦笑しながら部屋を検分し始める。
「おやつ類はほとんど壊滅ですね。紅茶も勝手に淹れたあとがあります。最近の書類は一応もとあったように戻してありますが、内容は見られていると思っていいでしょう。ふむ……。学園生徒や教員の個人資料には手をつけていないようですね。馬鹿正直に『さわってない』とメモがありました。本当に馬鹿がつくほどの純粋培養。」
メフィストはメモを指で弾き飛ばしながら「アホですね」と呟く。
「この中にサタンの息子――、燐の資料があるのは確実なのに。いや。ヴァチカンが下しそうな命令を考えれば、資料なんて必要ないか。」
良くてヴァチカンに連れて来い。悪ければ。
「殺せってことでしょうから。」
断然、後者の確率が高いとメフィストは踏んでいる。
アーサーが燐と接触を図ってからかなりの日数が過ぎている。それでも仇敵は本来の目的(?)を遂げようとしない。しかし記憶喪失を装い憎悪する悪魔の牙城の本陣に堂々と乗り込んできた。お菓子を食べ散らかし、お茶を飲みまくり、勝手に仕事の書類を覗き見した。たぶんベッドルームで昼寝なんかもしていたのだろう。
「考えられることと言えば、燐を成敗する前に私のヴァチカンに対する落ち度や失点を漁るつもりだったのでしょうか。でもそれなら、変な芝居なんかせずに聖騎士の権限を振りかざせばいいものを。」
メフィストは部屋の検分を続けている。用心するべきところは全て確認した。というか。アーサーはほとんど上っ面だけしかこの部屋を見ていないらしいことがなんとなく分かった。見られていた書類にしたって、ひょっとしたら退屈しのぎにしかなっていなかったのかもしれない。(書類は二年生の修学旅行のしおりの元原稿だった。メフィストのおすすめスポットマップ付の。)
「まあ、とりあえず。黒山羊さんから返事を出しときましょうかね。」
メフィストは指を振ってどこからともなく現れた万年筆を取り、羊皮紙に返事をしたためる。署名までしたあと封筒に入れて封ろうまで丁寧にした。
「まだ起きてますかね彼らは。」
メフィストは自室のドア歩いて鍵を取り出すと鍵穴に差す。そしてその鍵の魔法で旧男子寮の六○二号室のドアを開いた。
「こんばんは。」
「お?」
出迎えたのは燐だった。後ろで雪男があからさまに嫌そうな顔をしている。まるで旦那の愛人が訪ねてきた本妻のように気丈にはしていたが、目は鋭く威嚇している。
「今日アサ子さんから手紙を頂きましてね。夜分に失礼かと思いましたが、お返事に上がりました。ところで、アサ子さんは?」
「寝てるけど。」
燐は部屋の突き当たりの自分のベッドを振り返って指差す。
「起こそうか?」
「いいえ。起きたらこの手紙を渡して下さいね。」
「おう……。明日になっても大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思いますよ。それでは失礼しました。」
きょとんとする燐をほっといて、メフィストは再び自室に戻る。
「さあて。どうしましょうかね。」
睡眠時間が一時間のメフィストにとって、夜というのは退屈で長い。大抵は深夜アニメだのレコーダーに溜め込んだ昼間のアニメやドラマを見るのが日課だが、今夜はそういう気分になれない。それにおやつを食べつくされたので、夜食もない。
「久しぶりにコンビニにでも行きましょうか。」
メフィストはいそいそとコンビニに行く準備をし始めた。
夜道に降り立ったメフィストはシャッターが下りた商店街を通り抜け、昼も夜も無い店に入っていった。
* * *
次の日のアーサーは珍しく燐に起こされる前に自分から起きて身支度していた。エプロン姿の燐が六○二号室に入ってくると「読んだか?」と尋ねてきた。アサ子は「読んだ。」と短く答えた。昨夜メフィストから渡された手紙は寝ていたアーサーの枕元に燐が置いておいたのだった。朝起きたアーサーが一番に気づくように。
「頼まれた弁当は作ったぞ。二人分。」
「ありがとう。燐。今日は一日中理事長が俺の相手をしてくれる、お呼ばれだから。弁当持参したら喜ぶんじゃないかなと思って。」
「アサ子は本当に気が利く良い子だな。俺頑張って美味しいお弁当作ってやったから、理事長と仲良く食べるんだぞ。」
アサ子のこともメフィストのことも一ミリも疑っていない燐はアサ子の頭を撫でている。雪男は頭痛を催したように溜息をついた。昨夜のメフィストの訪問と手紙の翌朝のアサ子の行動に何か思ったのか、珍しく雪男からアサ子に話しかける。
「アサ子さん。さっきの口ぶりだとずっと今日は理事長があの部屋にいるようなことを言ってたけど。これからのことを相談するつもりなのですか? 記憶喪失のアサ子さんがこの先もこの学園に留まるかどうかとか。」
アサ子は少し迷う。
「理事長次第だと思うぞ。んー……。もしかしたら、その話し合いだったとしたらお泊りになるかも。ひょっとしたら何日かお世話になるかもしれない。理事長次第だけどね。」
「そう……。」
雪男は無表情のまま呟く。アサ子から見たその横顔は何かを予感しているように見えた。そして同時にやはり自分はなるべく早く帰るべきだと思った。でも雪男の目はそれとは反対のことを期待している。アサ子はそれに気づかない振りをして燐を急かす。
「それじゃ行ってきます。」
「鍵開けるから待てって。」
アーサーは燐が寄越した弁当の包みをよっこらしょと抱えた。雪男の側を通り過ぎるとき、雪男が何かを呟いた。それをアサ子は聞かなかったことにした。雪男の声は「もう帰ってこないで」と唱えていた。
燐は何も疑わずにドアを開ける。アサ子は何も疑っていないようにドアの外に向かう。
「燐。」
「なんだ?」
「俺が帰ってこなかったら寂しいか?」
「寂しいに決まってるだろ。」
アサ子は満面の笑みを浮かべて理事長室に乗り込んだ。
* * *
燐が背後で名残惜しいようにゆっくりドアを閉める。ぱたんと音がしたと同時に、アーサーはアサ子をやめた。
「出て来い。甘言の悪魔。この聖騎士が直々に出てきてやったぞ。」
ベッドルームのドアが開いて、ナイトキャップにパジャマ姿のメフィストが姿を見せた。
「ああ……。おはようございます。」
メフィストはかったるそうにコーヒーメーカーをセットしながら執務室の椅子にパジャマのまま座る。
「手紙読んでくれましたか?」
「読んだ。奥村燐はサタンの息子で、生前の前・聖騎士藤本獅郎から、お前は彼の死後に燐を譲渡されることになっていたから、あのサタンの息子はこの学園でお前の下にいると書いてあったな。まるで死人に全ての責任を負わせているような言い草が実に鼻につく。」
メフィストはカップにコーヒーを注ぎながら口元を緩ませていた。
「死人に口なし。ではありますが、藤本獅郎は死後の自分の名誉なんか特に気にするような男ではないので、私は好きなだけ彼の罪状を騙れるわけです。」
「この天邪鬼が。奴の死後の名誉を汚すことで、奴の願いも叶えてやっているようなものだろう。」
「さあて。どうでしょうかね。言えることは、まだまだ私はヴァチカンでの名誉騎士としての地位から落とされたくないだけです。」
それともう一つ。アーサーはメフィストを非難するべき点を口にする。
「『譲渡だ』なんて、まるで燐がモノみたいな言い方じゃないか。」
「それこそ貴方の後ろにいるヴァチカンの有力者は、まるで燐を『害虫』のように駆除対象にしていたでしょう。十六年前に、まだ自分の意思ではなんの行動も出来ない赤子に真っ先に抹殺命令を出したのはそっちです。」
「だから再びその赤子が十五歳になった今、抹殺命令が降りたところだ。」
「いいでしょう。抹殺したいなら抹殺すれば。」
メフィストの言葉が終わるか終わらないかの内にメフィストが手にしていたコーヒーのカップが真っ二つになる。メフィストは熱いコーヒーを手に浴びたが微動だにせず、アーサーを睨みつける。
「私に八つ当たりしないで下さい。ちょっと記憶喪失ぶって悪魔と馴れ合った結果情が移って殺せなくなったからって。」
メフィストは手に残っていたカップの半分をアーサーに向かって投げつける。カップはアーサーの背後のドアにぶつかって割れた。
「あちい!」
メフィストは今更のようにキッチンに走って冷水で火傷を洗い始める。
「わざとらしいな。悪魔の回復力があればそんなのどうってことないだろ。」
「煩いですね。憑依体は人間なんですから痛覚だってあります。」
メフィストは水を流し続ける。アーサーは背後から覗き込むと、メフィストの白い手が痛々しく赤くなっていて、アーサーはわずかに身を乗り出した。メフィストはそれを追い払おうと片手を振った。
「私の背後に立たないで下さい!」
「なんだよ。痛いって言うから心配してやってんのに。もうちょっと水出したほうがいいんじゃないのか?」
アーサーは伸び上がって蛇口に手を伸ばす。
「身体押し付けないで下さいよ。気持ち悪いな。」
「好きでやってるわけじゃない!」
アーサーはじゃばじゃばと流される水音に掻き消されない大声で叫ぶ。メフィストはそれに顔を顰めていた。
「あっそう。じゃあ、割れたカップ片付けといて下さいよ。そっちのほうが助かります。ちゃんと掃除機もかけてください。」
アーサーはぶつくさ言いながら手近なペーパータオルに破片を集める。ややあってから掃除機の音がしてきた。メフィストは蛇口を閉めて赤みの少なくなってきた手を布巾で拭いてアーサーのほうを振り返った。
「ちゃんと片付けてやったからな。」
「貴方が割ったんだから当たり前です。」
アーサーが燐たちの部屋を出たのは八時くらいだった。今は時計はもう九時を過ぎている。アーサーは無駄な時間を過ごしたと舌打ちをした。
「とりあえずそのふざけたパジャマ姿をどうにかしろ。俺はそっちのソファーで待ってるから。」
はいはいとメフィストはのろのろと寝室に入る。
しばらくして室内なのにシルクハットも被った正装でメフィストは現れた。アーサーはというと、燐が祓魔塾から持って帰ってきた講師のお古の祓魔師のコートを羽織っている。それが普段着の代わりだろうか。金髪に黒いコートが婀娜っぽい。まるで喪服の未亡人だなとメフィストは思った。
「メフィストフェレス。俺の向かいに座れ。」
「言われなくても貴方の隣になんか座りませんよ。」
メフィストはアーサーの向かい側のソファーに座る。不愉快そうにわざと音を立てがっしりとしたソファーを占領するように足を広げて。
「で? 用件をさっくりさくさく話してください。」
「お前にヴァチカンに要請して貰いたいことがあるんだ。」
「なにを?」
メフィストは用件を聞くだけ聞いて手酷く拒絶するつもりでいた。アーサーはそれを読み取っておきながら眉間に皴を寄せながらふてぶてしく言う。
「俺を正十字騎士団日本本部の臨時職員にしてくれ。日本本部支部長殿。」
それを聞いたメフィストはぽかんと口を開けた。アーサーは畳み掛けに入って付属のテーブルに手をついて身を乗り出した。
「は?」
「そういう口実だけが欲しい。つまり実質、俺は今までどおり燐と共に生活する。」
虚を突かれたメフィストは次に呆れたように顔を歪めてアーサーを指差す。
「そんな虫の好い条件は飲めませんよ。貴方はいわば私や燐にとっては暗殺者とか刺客と呼んでもいい存在。そんな貴方を燐の側にずっと置くわけにはいきません。」
「そんな卑怯なことはしない。」
「そうだとしても私には何のメリットもないじゃないですか。」
「なら。この部屋に預けられているときは、この部屋の掃除もしてやっていい。」
「それでもまだ虫の好い話ですよ。」
アーサーは眉間に皴を寄せながら自分の側に置いてあった包みを広げる。
「燐がお前と俺に仲良く食えって作ってくれた弁当だ。」
「それが何か?」
「俺が頼めば、燐はお前の分の弁当も作ってくれると思う。これからも。」
メフィストはまだ合点がいかないように人差し指でテーブルを忙しなく叩いている。
「貴方がそこまで私に対して下手に出る理由を話してください。」
「さっき火傷させちゃったから。」
「うそつけ!」
アーサーはメフィストから目を逸らしつつもじもじと身体を揺らしている。
「メフィスト。実は俺は……」
「なんです?」
「燐のところにいる間ずっと、有給休暇を使ってたんだ。」
「はあ?」
「そんで今日でそれが切れる。有給がゼロになったんだ。明日からヴァチカンに顔を出さないといけない。ここで俺が日本支部の臨時職員にするとヴァチカンに申請してくれれば、俺はまだここに留まれる。」
メフィストはぶっと噴出す。
「くふふふふ……。腹が捩れそうですよ。聖騎士ともあろう者が、サタンの息子から離れたくなくて、憎き悪魔の下で掃除や皿洗いの身分に落ちても構わないと言う。」
「別に俺は掃除や皿洗いは好きだし、全然苦にならないし。お前には交換条件に弁当も持ってきたし。」
「ところがどっこい。そこで貴方と私が同等になるわけではない。どうしても貴方は私のお情けに縋ってしまう形になる。」
メフィストはソファーに横になって痙攣する身体を落ち着けようとするが小刻みに震えている。
「……。そんなに燐が好きになりましたか? 貴方の一番はキリちゃんだったんじゃないんですか?」
「サタン抹殺の任務が下されたのがキリちゃん……いやシュラなんだ。だけどシュラはいつまでたっても帰ってこない。だからここにいる目的は、シュラ探しも兼ねてるんだ。」
「そりゃあ、彼女は帰ってこないでしょう。サタンの息子があのザマじゃ、殺して帰るほうが目覚めが悪い。というわけで、彼女は任務が果たせないからヴァチカンに帰れないんじゃないですか。」
「そうか。やっぱりシュラも俺と同じように、あのサタンの息子に何か感じてるのか。」
「知りませんよそんなこと。サタンの息子たる彼は色んな意味で有名人で、あらゆる意味で沢山の人の注目と同情を集めて止まないですから。」
メフィストの言葉にアーサーは考え込んでいる。
「そんなんじゃないんだけど。お前は俺の記憶喪失を「振り」なんて言ったが、一日目だけは本当に記憶喪失だったんだ。燐はわけのわかってない見知らぬ俺に晩御飯を食べさせてくれて、お風呂に入れてくれて、自分のベッドを譲って寝かせてくれて。」
アーサーは弁当の箱を開けながら語る。
「何も心配することないからと、俺のことをぎゅっと抱いて頭撫でてくれたんだ。」
「それは貴方が綺麗だからですよ。」
「次の日の朝には俺は自分の本当の名前とやるべきことを思い出した。優しくしてくれた恩人がサタンの息子だってことも。今までの俺だったら優しくされても悪魔の甘言だって思い直して、きっと燐を躊躇なく殺してただろう。」
それにはメフィストも同意する。アーサーが寝泊りしていた間に燐に何の危険もなかったのが奇跡だと思うくらいに。
アーサーはそういうふうに祓魔師として清く正しく育てられてきた。いや違う。そういうふうに生まれついた。そんなアーサーを知っているだけに、メフィストはアーサーの語ることに違和感を感じる。俗に言う「キャラがぶれている」と呼ばれる現象だった。
「そうですね。燐を貴方は殺してない。何故ですか?」
「作ってくれたご飯が美味しかったんだよ。」
アーサーは泣き笑いのような顔をしてメフィストに同意を求めるように言った。しかしメフィストはその言い分を認めない。それはアーサーの理由として不十分だからだ。
「それでも貴方は燐を殺すはずだ。」
「髪の毛だってとかしてくれたんだ。」
なんだそれ。メフィストは首を傾げる。またそれを却下する。
「それでも貴方は燐を殺す。」
「俺にベッドを譲ったから、燐はずっとダンボールを積み重ねてベッド代わりにしてるんだ。」
「殺さない理由になってない。」
「雪男も塾の人たちも薄々俺のこと疑ってるのに、燐だけはこんなバレバレの嘘も信じてくれた。俺のこと、いつもいい子だって信じてくれている。」
「それでも貴方は燐を殺すに決まってる。っていうか、どんだけ甘やかされてんですか、あんたは! 聖騎士の癖に年下の悪魔に……。ばっかじゃないの!」
メフィストはぜえぜえと息切れを起こしている。どれだけアーサーがそれらしいことを言おうとも誰もそれを「アーサーが燐を殺さない理由」だと認めてくれるはずがない。しかしメフィストは理解し始めていた。アーサー自身の口から聞ける理由はこんなくだらないことの寄せ集めでしかないことを。自分達が納得するためには、自分達こそがそれらしい理由を頭の中で捏造するしかないということを。
「サタンの息子の存在を知らぬ存ぜぬということにして、貴方はヴァチカンに帰るという筋書きじゃ駄目なんですか?」
「それは……えーと…」
メフィストはそりゃそうだと受け止めるしかない。要するにアーサーはまだ燐と離れたくないのだろう。聖騎士であるということを隠して、燐と一緒にいたいらしい。
「分かりました。ただし貴方が私を騙そうとしている可能性もあるわけですから。」
アーサーは弁当箱の包みの中から割り箸を一膳取るとメフィストに渡した。
「だからベタなことをしてみようと思った。」
テーブルの真ん中に弁当の箱を並べる。いかにも食欲をそそるおかずとおにぎりが詰まった弁当だった。
「はあ。だし巻き卵にキッシュにオムレツですか。ゆで卵もある。なんか卵ばっかですね。」
「色んなおかず出してどれもお前の好みじゃなかったら困るからな。卵一点で攻めればどれか当たりだろうって思ったんだ。」
「ていうか、あんたの好きなもんばっかでしょうが。ったく……。」
メフィストはぱちんと箸を割って弁当のおかずを取る。アーサーはそれを見て安堵したように笑った。
「同じ釜の飯を食うですか。確かにベタですね。」
「初めて出会ったとき握手もしてくれなかった相手だからな。なんかもっと人情に訴えるもんじゃないと駄目だと思って。」
「貴方はそんな昔のこと根に持ってたんですか。まあ今回は及第点ということにしておきましょう。貴方から手紙を貰ったことと、腹を割って自らの恥を晒してくれたことと、この手土産で。」
アーサーはその言葉を待ってたと言わんばかりに弁当に箸を付ける。
「そういえばメフィストは卵料理で何が好きなんだ?」
「茶碗蒸しですかね。」
「……。」
「燐の作る茶碗蒸しなら美味しいでしょうね。ですが。弁当向きではないですから、ここで食べられないでしょうね。」
ぐぬぬとアーサーは唸る。それを見て悪魔は若造聖騎士に皮肉交じりの笑みを見せるのだった。
燐雪のターンを書きたかったけど掛けませんでした。次回はこれの裏の燐雪展開になると思います。
☆ss「ロリ弟ゆきお☆マギカ」燐雪
「あーっ。ほんとに美味しかった。」
「だろ。」
ほのかに漂う甘い香りに包まれて燐としえみはご満悦だった。しえみはたまたま配達に来ていて、たまたま旧男子寮でお菓子を作っていた燐と雪男に招かれて、お菓子付のお茶会によばれた。燐はバースデーケーキの一件以来お菓子作りにも凝りだしたらしく、こうやって時々何か作っている。
「いやあ。いい材料が手に入ったもんでよ。タダだったからけちけちせずに済んだし。」
「兄さんは本当にタダが好きだよね。」
「素人の菓子作りって凝り出すと材料費バカになんねえからな。量産出来ねえ時点で単価なんか買うより高くなるのもざらだし。プロの技術料のほうが安価なんて皮肉な話だよな。」
「大丈夫だよ。燐ならプロに負けないよ。」
しえみの言葉に雪男が続く。
「そうだよ。兄さんの技術とそれなりの高級な素材さえ揃えば兄さんは無敵さ。」
しえみと燐が顔を見合わせ合う。こんなにあっけらかんと兄を褒める弟は珍しかった。
「どうしたの? 雪ちゃん?」
しえみが雪男の顔を見つめて驚いたように言った。雪男ははにかんだように笑みを見せる。
「お菓子とても美味しかったから……。」
雪男は紅茶に口を付けて一口啜ると口元を緩ませてにこにこしている。美味しいものを食べて気が緩んでいるのかとしえみも燐も思った。
「じゃあ俺のも食えよ。雪男が食い物に関心持つなんて滅多にねえからな。ほら。」
燐は自分の前の皿を雪男に差し出す。弟にお菓子を分けてあげる兄らしい姿だった。それを見たしえみが「あっ」と声を漏らした。
「実は私も……もうちょっと欲しかったかも。」
「なら。雪男と半分こにしろよ。俺は試作品を結構食ったしな。」
「ありがとう。」
しえみは言われると直ぐに燐の皿を自分の方に引き寄せ、皿の上の焼き菓子をフォークで半分こにした。そしてどちらが大きいかじっくりと吟味したあと、納得がいったほうを自分が取った。甘いお菓子の前だと恋する女の子もただの食い意地の張った子どもでしかなかった。
「じゃあ。いただきます。兄さんありがと。」
雪男もゆっくりと焼き菓子を口に運ぶ。目を細めて、ハムスターのようにお菓子を頬張る二人の姿に燐は満足げだった。
『雪男もなんだかんだ言ってまだガキだな。』
しえみも一緒だからなのだろうが、いつもの妙に大人ぶっている弟が歳相応の、否、遥かに幼げになっている雪男が、昔の無邪気に自分の後をついてきた弟に重なる。そういえば泣き虫だった弟に自分の分のお菓子をあげて泣き止ませた覚えもある。本当に雪男はお菓子が好きだったんだなと実感する。
こんな歳になって好物は魚料理だと若者らしくない嗜好を人前では言って、飲み物はミネラルウォーターを愛飲する弟だが、根っこにはこんな子どもっぽい一面が潜んでいたのか。ただしそれは本当にお菓子だけに限定されてしまうかもしれないが。
「お菓子好きの雪男。誰かにバラしてやりたい気もする。」
「なんか言った。兄さん?」
「いや。なんにも。」
しえみには褒められたし、久しぶりにこんな可愛い弟も見られたし。燐は頭の中に浮かんだある人物に密かに感謝した。
しえみは燐の分のお菓子を食べ終え、紅茶をおかわりしたあとに帰って行った。去り際に「次に作ったときもまた呼んでね。絶対だよ。」と言い残した。意外と欲望に忠実な少女なのがしえみだった。
男子寮の玄関のドアのところまでしえみを送ったあと、燐は厨房に戻る。そういえば雪男は珍しくついて来なかったなと首を傾げた。いつもしえみが帰る時には見送る弟なのだが、今日は椅子の上でぼーっとしていたような気がする。
「そんなときもあるか。」
燐は一人納得する。今日の雪男は少し気が緩んでたから、うっかりしていたのだろう。それにそのうっかりを指摘して、雪男に意固地になられてほんわかした時間が台無しになるのは燐の望むところではなかった。
「ゆーきーおー。」
今日のところは菓子作りでかなり満足した感がある燐だったので、今日の夕飯はストックしてある煮物でいいかと雪男に尋ねようと、厨房から食堂へ入るドアを開けた。
「雪男?」
雪男は椅子からずり落ちんばかりに、だらんと身体を背もたれに預けていた。
「だ……。」
大丈夫かと雪男に駆け寄ったら、うっすらと青い瞳は開いていた。呼びかける燐にやはりぼんやりと「何?」と返す雪男。燐は雪男の顔色がほんのり赤いことに気づいた。
「調子悪いのか?」
燐は雪男の身体を支えて椅子から落ちないように座らせてやる。燐は少し焦っていた。弟はお茶会の間はいつもの整然とした態度とは違って、ぼんやりした様子が多かった。本当に体調が悪かったらと考えると、燐は兄として迂闊だったと頭を抱えたくなる。
「いや。でも……食欲はあったよな? 俺の分まで焼き菓子食ってたし。」
雪男は熱があった時には極端に食欲が落ちるタイプだ。バターをふんだんに使った焼き菓子など喉を通るわけなどない。試しに額に手を添えてみても顔色の割には熱はない。
「兄さん……なんか頭ふわふわする……。」
「頭ふわふわ? なんだそれ?」
「お腹がちょっとあつぅい……」
口調がなんだか舌足らずだった。雪男は視線を泳がせたあと、ふうっと息を吐いた。その息が燐の顔にかかる。雪男の息は洋酒の香りを帯びていた。
「あ……あー……。ああ! そっか。そういうことか。」
燐は自分が菓子に入れたブランデーに思い当たった。しかもそのブランデーは紅茶にも入っていた。
「いや……、あ、あれか。メフィストからかっぱらったカミュのナポレオンⅩO!」
燐はさながら秘密兵器の名前のように、その酒の名前を叫んだ。
* * *
燐は理事長室のキッチンでなにやら物色していた。メフィストは高級な保存の利く食材を放置しがちなので、こうやって燐が時々発掘しては男子寮に持ち帰ることがあった。
今日発掘したブランデーの瓶を見てメフィストはそういえばと口を開く。
『大分昔にもらったものなんですが。私ブランデーは苦手なんですよね。』
『そうだな。お前みたいな親父は焼酎飲んでるのがお似合いだよな。』
『失礼な。ワインとかは好きなんですよ。』
『ふーん。』
『その顔は味なんかわからねえだろお前って思ってますね。貴方こそ味が分かるって言い出したら、今すぐにも警察に突き出しますよ。』
『いやそう言いたいわけじゃねえけど。料理とか菓子作りにブランデー使うことあるから香りや風味づけには。』
目の前のブランデーの瓶はかなり古く未開封だった。年代ものであることは一目瞭然だった。そしてそれが上質で値打ちが張るものだと気づいていた。知識や情報量以前の料理人の勘だった。
それを使って料理を作ってみたいと思った。目の前のどう見てもこの瓶の中身の価値が分かっていない悪魔には勿体なさ過ぎる。
『なあ。これ貰っていい?』
『さっき警察に突き出すって言ったでしょうが。』
『いや。俺さっき言ったよな。料理に使いたいんだけど。』
『……作ったら、ご馳走してくださいよ。』
燐は渋い顔をする。悪魔は当然のように要求を突きつける。
『お菓子なんかいいですね。私はお菓子に使われた洋酒なら大丈夫ですから。ちなみに私は焼き菓子でしたらドライフルーツをたくさん使ったものが大好きですね。』
畳み掛けるようにリクエストをする悪魔だった。訊いてねえよと燐は言いたかったが、ブランデーの対価にしては安い要求だったので、そのうち作ってやると要求を飲んだ。
* * *
「そんなことより雪男だよ。」
まさか自分の弟が酒に弱いなんて気づかなかった。何せお菓子に入れたブランデーのアルコールは焼く過程で抜けているはずだし、紅茶に入れたブランデーにしたって微々たるものでしかない。しかも雪男とほぼ同じだけ菓子を食べて、紅茶をお代わりまでしたしえみが平気な顔をして帰って行ったので、すっかり失念していた。
「しっかりしろよ。雪男。しえみが帰るまでなんともなかったじゃねえか。」
「えーと。しえみさんと話してる間も、ちょっとぼーっとしてて。」
そうだろうなと燐は数分前の雪男の、やけに自分を褒める姿を思い出す。ぼーっとしていたのも、兄を不自然に褒めたのも、実は酒の力だったのか。
「なんか変だと思ったら。なあ、雪男。すぐ言ってくれよ兄ちゃんに。」
「れも……頭ふわふわするらけらし……」
「呂律回ってねえし。お前実は、椅子から立てねえだろ?」
雪男は緩やかに首を横に振って立ち上がろうとする。しかしあらぬほうに傾いて慌てて燐が身体を支えてやった。
「やらっ。なんか部屋がゆれてる……。」
「はいはい。」
「やあっ……。にいさんなんか、こわいっ。」
雪男はあられもなく燐に抱きつく。燐は雪男を支えながら自分達の部屋にとりあえず運ぶことにした。とにかく雪男を横にさせてやらないと危なっかしくって仕方がない。
「にいっひゃん……」
燐にしなだれかかっている雪男は、いつもの凛とした態度とは裏腹に兄に甘えることに抵抗がないのか、その長い手足を燐に絡みつかせながら至近距離に顔も寄せてきている。
「にいひゃん。らっこ……。らっこしてぇ?」
「しゃあねえな雪男。兄ちゃんの首に掴まってろ。」
「うーん……。にいひゃん……ぎゅうー。」
雪男は素直に燐にしがみついた。足元が危なっかしいので燐は雪男を縦抱きにして地面から足を離してやる。雪男は上半身を完全に燐に委ねて首に掴まった。燐の耳元で嬉しそうにうふふだとかくすくすとか笑っている。完全な酔っ払いだった。
「もう少しで部屋だからな。」
部屋の前まできて燐ははたと足を止めた。このままドアを通過したら、絶対雪男の上背が引っかかる。燐の足腰なら腰を屈めて通過するのもアリだろうが。
「いやそんなリンボーダンスみたいな入り方はアホみたいだろ。」
自分で自分に突っ込む。じゃあと燐は今度は雪男を横抱きに抱いてやる。雪男は少し身じろいだが大人しく燐の腕の中に納まった。勿論腕は燐の首を抱いたままだ。
燐は横向きになってドアの枠に雪男をぶつけないように気をつけながらドアを通過する。あとは雪男をベッドに下ろしてやるだけだった。
「雪男。手ぇ離していいぞ。」
「やら。まだ部屋ゆれてるもん。」
「揺れてんのは、お前の頭ん中だろ。」
「やあ! そんなこと言っちゃやだなんだから。」
雪男は長い足をばたつかせながら燐をベッドの中に引きずり込もうとする。
「おい! 狭いんだから暴れてんじゃねえよ!」
しかし雪男はぎゅうぎゅうと燐に抱きついたまま離れる様子はない。
「ああもうっ。大人しくしろっ。」
「でーきーまーせーんー。」
本当に俺の弟はどうしてしまったんだろうと燐は狼狽えた。実のところを言うと、困るよりも可愛いと思ってしまう。ここまで甘えてくるならと、燐は雪男を見下ろしてその髪を撫でてみた。
「んっ。」
短くて細い猫ッ毛に指が通ると雪男は目を瞑って身体を震わせた。
「兄ちゃん困らせて楽しい?」
意地悪な質問をしてやる。雪男の全ての行動に悪気はまったく無いだけに、雪男はぽかんと口を開けて沈黙している。
「ゆきお。わるいこなのお兄ちゃん?」
「おにいちゃん?! ですと!」
燐は慄いた。「お兄ちゃん」と最後に呼ばれたのは幼稚園に入る前くらいだったので、ずっとそう呼ばれるを諦め続けていた。歳の掛ける二くらいしっかりした弟は同い年の兄に対して当然のように兄扱いはしても、その中に甘えの感情を見せてくれたのはごくわずかな幼い頃の記憶の中にしかない。
「おにいちゃん?」
「……なあ、雪男。兄ちゃんに触られるの、気持ちいい?」
雪男はあっけらかんという言葉が似合うくらいにすぐ頷いた。
「気持ちいいよぉ。お兄ちゃん、もっとぉ……。」
今日は盆と正月とクリスマスとハロウィンと潅仏会が一緒に来たのかというような気分だった。しかしそれだけに後が怖い。何せ雪男は今、幼児化した酔っ払いなのだ。このまま自分が何かこの弟にやらかして、その時のことを弟が覚えていたら、潔癖症の弟のことだからこの先十年くらい会話すらもしてもらえない可能性もある。それはまずい。しかし――。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
この誘惑には逆らえそうにない。雪男に抱きつかれたまま、雪男の酔いが覚めるまでこの状態をキープしていればいいのだろうか?
「生殺しだろうがそれ!」
燐は雪男のベッドに上がりこんだ。誰に言っているか分からないが、燐はその言葉と同時に雪男のシャツをたくし上げた。しかしそこではたと手が止まる。
「いや。まずちゅーだろ。」
キスで嫌がられたら、そこで止めることも出来る。燐は雪男と顔を見合わせた。青に緑がかかった目がとろけそうに自分を見ている。薄く開けられた口の中でピンクの舌が見え隠れしていた。
「雪男。兄ちゃんのこと好き?」
「うん。すき……。」
「兄ちゃん。これからかなりエロいことするけど、いい?」
「エロいこと?」
「ちゅーしたり。色んなとこ舐めたり。触ったり。………。」
雪男の息は紅茶とケーキの甘い匂いとブランデーの香りが混ざり合っている。なんて甘くて美味しそうなんだろう。白い頬はまるでクリームみたいだし、唇は苺みたいに赤い。それを舐めたりしたらきっと美味しいだろうなと想像出来る。
「雪男。お菓子みたいに美味しそうだから、兄ちゃんが食べちゃっていい?」
「……。いいよぉ。」
燐は脳内で叫んでのた打ち回った。そして無我夢中に雪男の唇にむしゃぶりつく。
「んー! んー……。」
雪男の唇はふんわりした砂糖菓子で、舌は柔らかいマシュマロのようだった。唾液は甘いシロップのように絡み付いてくる。
「はあっ……。お兄ちゃんっ。気持ちいい……。」
雪男は嫌がらない。だから燐は止まれない。気持ちいいが免罪符になるわけがないが、なんだか雪男が許してくれたような気分になる。
少し力の抜けた雪男の腕を燐は自分の首から引き離した。そして少し上体を起こすと、先ほどたくし上げた雪男の服の下がはっきりと見えた。明らかに自分より鍛えられて端正な大人の体つきをしている。でも肌の滑らかさは歳相応だった。あんな丈の長い服ばっかり着ていたんだから、その肌は日に焼けていないのは当然だろう。紫外線に晒されて荒れて硬い自分の肌とは全く違う。
「そんなに。見ないで……。白くて恥ずかしいから……。」
どうやら燐を魅了する肌は、弟にとってはコンプレックスらしかった。こんなに綺麗なのにと燐は溜息を吐きながら凝視をやめない。
「やだっ。ほんとに恥ずかしいから……。」
「いや綺麗だから。雪男は。ほんとに。」
「嘘。嘘だよ……。」
燐は雪男の肌に指を滑らしていく。
「嘘じゃねえよ。綺麗だから雪男は。だから、だから兄ちゃんは――。」
「あんっ……。」
首までたくし上げた服の下の鎖骨に舌を這わせると雪男は甘い声を上げた。
「うう……。」
燐の舌は次第に下に下りていく。胸の中央の窪みを擽っていると、燐の下半身に当たる雪男の足が小刻みに震えていた。ちょうど燐を挟むようにしていた両足は膝丈のズボンから伸びた脹脛の白さにも燐は生唾を飲んだ。燐は胸と脚を見比べて少し迷ったあと、後ずさった。
「お兄ちゃん?」
雪男は怪訝そうに尋ねてくる。燐は雪男の靴下を脱がせて、晒された足の指を舐め始めた。同時に指を脛に這わせてみた。
「おにい……ちゃ……。」
思いも寄らなかった気持ちよさに雪男は口元を押さえた。ズボンの裾の隙間から手を入れて、さらに上も触られてしまう。
「く……。」
膝の裏が敏感なのか雪男の震えは大きくなる。燐は雪男の足先を唾液でべたべたにしながら悦に入っていた。
膝の裏からさらに上を目指した燐の手だったが、雪男のストイックに細くて固いズボンの生地に阻まれてそこから先に進めない。これからは雪男にはジャージしか履かせないと燐が思ったか分からないが、燐は残念そうな顔をして裾から手を抜いた。
「ちぇっ……。」
そして横たわっている弟に目を向ける。きっちりと雪男の腰を包んでいるズボンのウエスト部分を一瞥して手を掛けようとしたが、そこでまた燐はまた止まった。
「いやまずいだろ。流石に……。」
雪男ははっきり言えば酔っ払っていてわけが分かっていない。兄に何をされているのか、頭が追いついていないのが正しかった。ここで雪男のズボンを下ろして、燐にとっては雪男の身体の本命部分を見てみたいという欲求はある。何せ小学校の低学年以来、雪男のそこを見た記憶はないのだ。しかしそこで誘惑に負けてしまえば、腐れ外道に落ちてしまう。いや元々サタンの息子という時点で腐れ外道なのだが。そう。自分はナチュラルボーン腐れ外道。
しかし自分が腐れ外道であることと、弟を腐れ外道の餌食にしてしまうことは別問題。燐はそっと雪男から離れる。
「兄さん?」
雪男は身体を起こして兄の前に座り込む。だんだん酔いも覚めてきたらしく、とろけた目にいつもの知性と冷静さを取り戻しつつある。微々たる量しかアルコールを摂取していないのだから、当然の結果だった。
「雪男。エロくて痛いことしていい?」
雪男の今の体勢からして期待はしていない。しかし、燐は雪男から返事を聞かないと自分の都合のいいように動いてしまいかねなかった。雪男は燐を見つめている。なんだかその目は真剣な感情を秘めているように見える。頭のいい弟なのだから、さっきまでの酔っている間のこともある程度記憶しているだろう。だから敢えて言葉にして尋ねてみた。
「兄さん。」
雪男の手が燐の肩にかかった。
「ゆ、雪男……。俺、お前のことが。だから……。」
雪男は自分から燐に引き寄せられるように膝立ちになって燐の耳に唇を寄せてくる。はあっと吐き出される息のあと、雪男の言葉が続いた。
「やだ。」
燐は泣きそうな顔をして猫背になっていく。至極当然な反応に哀しみを隠せない。
「あー。やっと頭はっきりしたよ。」
無常な弟の声が燐の耳を打つ。雪男はすたすたとベッドを離れて部屋を出て行こうとしていた。去り際に雪男は兄をわずかに見ていたが、すぐにドアの外に消えた。
弟が去った部屋に置き去りになった兄は、はっと息を吐いて弟のベッドの上で大の字になって自分の悲しみを笑い飛ばした。
「やっぱそうなるよな!」
廊下にまで響く兄の声を聞きながら弟は「馬鹿」と一言呟いた。
すみません。魔法少女ではございませんでした。クールな雪ちゃんを破壊してすみません。そして兄さんはコネクト寸止め。
「だろ。」
ほのかに漂う甘い香りに包まれて燐としえみはご満悦だった。しえみはたまたま配達に来ていて、たまたま旧男子寮でお菓子を作っていた燐と雪男に招かれて、お菓子付のお茶会によばれた。燐はバースデーケーキの一件以来お菓子作りにも凝りだしたらしく、こうやって時々何か作っている。
「いやあ。いい材料が手に入ったもんでよ。タダだったからけちけちせずに済んだし。」
「兄さんは本当にタダが好きだよね。」
「素人の菓子作りって凝り出すと材料費バカになんねえからな。量産出来ねえ時点で単価なんか買うより高くなるのもざらだし。プロの技術料のほうが安価なんて皮肉な話だよな。」
「大丈夫だよ。燐ならプロに負けないよ。」
しえみの言葉に雪男が続く。
「そうだよ。兄さんの技術とそれなりの高級な素材さえ揃えば兄さんは無敵さ。」
しえみと燐が顔を見合わせ合う。こんなにあっけらかんと兄を褒める弟は珍しかった。
「どうしたの? 雪ちゃん?」
しえみが雪男の顔を見つめて驚いたように言った。雪男ははにかんだように笑みを見せる。
「お菓子とても美味しかったから……。」
雪男は紅茶に口を付けて一口啜ると口元を緩ませてにこにこしている。美味しいものを食べて気が緩んでいるのかとしえみも燐も思った。
「じゃあ俺のも食えよ。雪男が食い物に関心持つなんて滅多にねえからな。ほら。」
燐は自分の前の皿を雪男に差し出す。弟にお菓子を分けてあげる兄らしい姿だった。それを見たしえみが「あっ」と声を漏らした。
「実は私も……もうちょっと欲しかったかも。」
「なら。雪男と半分こにしろよ。俺は試作品を結構食ったしな。」
「ありがとう。」
しえみは言われると直ぐに燐の皿を自分の方に引き寄せ、皿の上の焼き菓子をフォークで半分こにした。そしてどちらが大きいかじっくりと吟味したあと、納得がいったほうを自分が取った。甘いお菓子の前だと恋する女の子もただの食い意地の張った子どもでしかなかった。
「じゃあ。いただきます。兄さんありがと。」
雪男もゆっくりと焼き菓子を口に運ぶ。目を細めて、ハムスターのようにお菓子を頬張る二人の姿に燐は満足げだった。
『雪男もなんだかんだ言ってまだガキだな。』
しえみも一緒だからなのだろうが、いつもの妙に大人ぶっている弟が歳相応の、否、遥かに幼げになっている雪男が、昔の無邪気に自分の後をついてきた弟に重なる。そういえば泣き虫だった弟に自分の分のお菓子をあげて泣き止ませた覚えもある。本当に雪男はお菓子が好きだったんだなと実感する。
こんな歳になって好物は魚料理だと若者らしくない嗜好を人前では言って、飲み物はミネラルウォーターを愛飲する弟だが、根っこにはこんな子どもっぽい一面が潜んでいたのか。ただしそれは本当にお菓子だけに限定されてしまうかもしれないが。
「お菓子好きの雪男。誰かにバラしてやりたい気もする。」
「なんか言った。兄さん?」
「いや。なんにも。」
しえみには褒められたし、久しぶりにこんな可愛い弟も見られたし。燐は頭の中に浮かんだある人物に密かに感謝した。
しえみは燐の分のお菓子を食べ終え、紅茶をおかわりしたあとに帰って行った。去り際に「次に作ったときもまた呼んでね。絶対だよ。」と言い残した。意外と欲望に忠実な少女なのがしえみだった。
男子寮の玄関のドアのところまでしえみを送ったあと、燐は厨房に戻る。そういえば雪男は珍しくついて来なかったなと首を傾げた。いつもしえみが帰る時には見送る弟なのだが、今日は椅子の上でぼーっとしていたような気がする。
「そんなときもあるか。」
燐は一人納得する。今日の雪男は少し気が緩んでたから、うっかりしていたのだろう。それにそのうっかりを指摘して、雪男に意固地になられてほんわかした時間が台無しになるのは燐の望むところではなかった。
「ゆーきーおー。」
今日のところは菓子作りでかなり満足した感がある燐だったので、今日の夕飯はストックしてある煮物でいいかと雪男に尋ねようと、厨房から食堂へ入るドアを開けた。
「雪男?」
雪男は椅子からずり落ちんばかりに、だらんと身体を背もたれに預けていた。
「だ……。」
大丈夫かと雪男に駆け寄ったら、うっすらと青い瞳は開いていた。呼びかける燐にやはりぼんやりと「何?」と返す雪男。燐は雪男の顔色がほんのり赤いことに気づいた。
「調子悪いのか?」
燐は雪男の身体を支えて椅子から落ちないように座らせてやる。燐は少し焦っていた。弟はお茶会の間はいつもの整然とした態度とは違って、ぼんやりした様子が多かった。本当に体調が悪かったらと考えると、燐は兄として迂闊だったと頭を抱えたくなる。
「いや。でも……食欲はあったよな? 俺の分まで焼き菓子食ってたし。」
雪男は熱があった時には極端に食欲が落ちるタイプだ。バターをふんだんに使った焼き菓子など喉を通るわけなどない。試しに額に手を添えてみても顔色の割には熱はない。
「兄さん……なんか頭ふわふわする……。」
「頭ふわふわ? なんだそれ?」
「お腹がちょっとあつぅい……」
口調がなんだか舌足らずだった。雪男は視線を泳がせたあと、ふうっと息を吐いた。その息が燐の顔にかかる。雪男の息は洋酒の香りを帯びていた。
「あ……あー……。ああ! そっか。そういうことか。」
燐は自分が菓子に入れたブランデーに思い当たった。しかもそのブランデーは紅茶にも入っていた。
「いや……、あ、あれか。メフィストからかっぱらったカミュのナポレオンⅩO!」
燐はさながら秘密兵器の名前のように、その酒の名前を叫んだ。
* * *
燐は理事長室のキッチンでなにやら物色していた。メフィストは高級な保存の利く食材を放置しがちなので、こうやって燐が時々発掘しては男子寮に持ち帰ることがあった。
今日発掘したブランデーの瓶を見てメフィストはそういえばと口を開く。
『大分昔にもらったものなんですが。私ブランデーは苦手なんですよね。』
『そうだな。お前みたいな親父は焼酎飲んでるのがお似合いだよな。』
『失礼な。ワインとかは好きなんですよ。』
『ふーん。』
『その顔は味なんかわからねえだろお前って思ってますね。貴方こそ味が分かるって言い出したら、今すぐにも警察に突き出しますよ。』
『いやそう言いたいわけじゃねえけど。料理とか菓子作りにブランデー使うことあるから香りや風味づけには。』
目の前のブランデーの瓶はかなり古く未開封だった。年代ものであることは一目瞭然だった。そしてそれが上質で値打ちが張るものだと気づいていた。知識や情報量以前の料理人の勘だった。
それを使って料理を作ってみたいと思った。目の前のどう見てもこの瓶の中身の価値が分かっていない悪魔には勿体なさ過ぎる。
『なあ。これ貰っていい?』
『さっき警察に突き出すって言ったでしょうが。』
『いや。俺さっき言ったよな。料理に使いたいんだけど。』
『……作ったら、ご馳走してくださいよ。』
燐は渋い顔をする。悪魔は当然のように要求を突きつける。
『お菓子なんかいいですね。私はお菓子に使われた洋酒なら大丈夫ですから。ちなみに私は焼き菓子でしたらドライフルーツをたくさん使ったものが大好きですね。』
畳み掛けるようにリクエストをする悪魔だった。訊いてねえよと燐は言いたかったが、ブランデーの対価にしては安い要求だったので、そのうち作ってやると要求を飲んだ。
* * *
「そんなことより雪男だよ。」
まさか自分の弟が酒に弱いなんて気づかなかった。何せお菓子に入れたブランデーのアルコールは焼く過程で抜けているはずだし、紅茶に入れたブランデーにしたって微々たるものでしかない。しかも雪男とほぼ同じだけ菓子を食べて、紅茶をお代わりまでしたしえみが平気な顔をして帰って行ったので、すっかり失念していた。
「しっかりしろよ。雪男。しえみが帰るまでなんともなかったじゃねえか。」
「えーと。しえみさんと話してる間も、ちょっとぼーっとしてて。」
そうだろうなと燐は数分前の雪男の、やけに自分を褒める姿を思い出す。ぼーっとしていたのも、兄を不自然に褒めたのも、実は酒の力だったのか。
「なんか変だと思ったら。なあ、雪男。すぐ言ってくれよ兄ちゃんに。」
「れも……頭ふわふわするらけらし……」
「呂律回ってねえし。お前実は、椅子から立てねえだろ?」
雪男は緩やかに首を横に振って立ち上がろうとする。しかしあらぬほうに傾いて慌てて燐が身体を支えてやった。
「やらっ。なんか部屋がゆれてる……。」
「はいはい。」
「やあっ……。にいさんなんか、こわいっ。」
雪男はあられもなく燐に抱きつく。燐は雪男を支えながら自分達の部屋にとりあえず運ぶことにした。とにかく雪男を横にさせてやらないと危なっかしくって仕方がない。
「にいっひゃん……」
燐にしなだれかかっている雪男は、いつもの凛とした態度とは裏腹に兄に甘えることに抵抗がないのか、その長い手足を燐に絡みつかせながら至近距離に顔も寄せてきている。
「にいひゃん。らっこ……。らっこしてぇ?」
「しゃあねえな雪男。兄ちゃんの首に掴まってろ。」
「うーん……。にいひゃん……ぎゅうー。」
雪男は素直に燐にしがみついた。足元が危なっかしいので燐は雪男を縦抱きにして地面から足を離してやる。雪男は上半身を完全に燐に委ねて首に掴まった。燐の耳元で嬉しそうにうふふだとかくすくすとか笑っている。完全な酔っ払いだった。
「もう少しで部屋だからな。」
部屋の前まできて燐ははたと足を止めた。このままドアを通過したら、絶対雪男の上背が引っかかる。燐の足腰なら腰を屈めて通過するのもアリだろうが。
「いやそんなリンボーダンスみたいな入り方はアホみたいだろ。」
自分で自分に突っ込む。じゃあと燐は今度は雪男を横抱きに抱いてやる。雪男は少し身じろいだが大人しく燐の腕の中に納まった。勿論腕は燐の首を抱いたままだ。
燐は横向きになってドアの枠に雪男をぶつけないように気をつけながらドアを通過する。あとは雪男をベッドに下ろしてやるだけだった。
「雪男。手ぇ離していいぞ。」
「やら。まだ部屋ゆれてるもん。」
「揺れてんのは、お前の頭ん中だろ。」
「やあ! そんなこと言っちゃやだなんだから。」
雪男は長い足をばたつかせながら燐をベッドの中に引きずり込もうとする。
「おい! 狭いんだから暴れてんじゃねえよ!」
しかし雪男はぎゅうぎゅうと燐に抱きついたまま離れる様子はない。
「ああもうっ。大人しくしろっ。」
「でーきーまーせーんー。」
本当に俺の弟はどうしてしまったんだろうと燐は狼狽えた。実のところを言うと、困るよりも可愛いと思ってしまう。ここまで甘えてくるならと、燐は雪男を見下ろしてその髪を撫でてみた。
「んっ。」
短くて細い猫ッ毛に指が通ると雪男は目を瞑って身体を震わせた。
「兄ちゃん困らせて楽しい?」
意地悪な質問をしてやる。雪男の全ての行動に悪気はまったく無いだけに、雪男はぽかんと口を開けて沈黙している。
「ゆきお。わるいこなのお兄ちゃん?」
「おにいちゃん?! ですと!」
燐は慄いた。「お兄ちゃん」と最後に呼ばれたのは幼稚園に入る前くらいだったので、ずっとそう呼ばれるを諦め続けていた。歳の掛ける二くらいしっかりした弟は同い年の兄に対して当然のように兄扱いはしても、その中に甘えの感情を見せてくれたのはごくわずかな幼い頃の記憶の中にしかない。
「おにいちゃん?」
「……なあ、雪男。兄ちゃんに触られるの、気持ちいい?」
雪男はあっけらかんという言葉が似合うくらいにすぐ頷いた。
「気持ちいいよぉ。お兄ちゃん、もっとぉ……。」
今日は盆と正月とクリスマスとハロウィンと潅仏会が一緒に来たのかというような気分だった。しかしそれだけに後が怖い。何せ雪男は今、幼児化した酔っ払いなのだ。このまま自分が何かこの弟にやらかして、その時のことを弟が覚えていたら、潔癖症の弟のことだからこの先十年くらい会話すらもしてもらえない可能性もある。それはまずい。しかし――。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
この誘惑には逆らえそうにない。雪男に抱きつかれたまま、雪男の酔いが覚めるまでこの状態をキープしていればいいのだろうか?
「生殺しだろうがそれ!」
燐は雪男のベッドに上がりこんだ。誰に言っているか分からないが、燐はその言葉と同時に雪男のシャツをたくし上げた。しかしそこではたと手が止まる。
「いや。まずちゅーだろ。」
キスで嫌がられたら、そこで止めることも出来る。燐は雪男と顔を見合わせた。青に緑がかかった目がとろけそうに自分を見ている。薄く開けられた口の中でピンクの舌が見え隠れしていた。
「雪男。兄ちゃんのこと好き?」
「うん。すき……。」
「兄ちゃん。これからかなりエロいことするけど、いい?」
「エロいこと?」
「ちゅーしたり。色んなとこ舐めたり。触ったり。………。」
雪男の息は紅茶とケーキの甘い匂いとブランデーの香りが混ざり合っている。なんて甘くて美味しそうなんだろう。白い頬はまるでクリームみたいだし、唇は苺みたいに赤い。それを舐めたりしたらきっと美味しいだろうなと想像出来る。
「雪男。お菓子みたいに美味しそうだから、兄ちゃんが食べちゃっていい?」
「……。いいよぉ。」
燐は脳内で叫んでのた打ち回った。そして無我夢中に雪男の唇にむしゃぶりつく。
「んー! んー……。」
雪男の唇はふんわりした砂糖菓子で、舌は柔らかいマシュマロのようだった。唾液は甘いシロップのように絡み付いてくる。
「はあっ……。お兄ちゃんっ。気持ちいい……。」
雪男は嫌がらない。だから燐は止まれない。気持ちいいが免罪符になるわけがないが、なんだか雪男が許してくれたような気分になる。
少し力の抜けた雪男の腕を燐は自分の首から引き離した。そして少し上体を起こすと、先ほどたくし上げた雪男の服の下がはっきりと見えた。明らかに自分より鍛えられて端正な大人の体つきをしている。でも肌の滑らかさは歳相応だった。あんな丈の長い服ばっかり着ていたんだから、その肌は日に焼けていないのは当然だろう。紫外線に晒されて荒れて硬い自分の肌とは全く違う。
「そんなに。見ないで……。白くて恥ずかしいから……。」
どうやら燐を魅了する肌は、弟にとってはコンプレックスらしかった。こんなに綺麗なのにと燐は溜息を吐きながら凝視をやめない。
「やだっ。ほんとに恥ずかしいから……。」
「いや綺麗だから。雪男は。ほんとに。」
「嘘。嘘だよ……。」
燐は雪男の肌に指を滑らしていく。
「嘘じゃねえよ。綺麗だから雪男は。だから、だから兄ちゃんは――。」
「あんっ……。」
首までたくし上げた服の下の鎖骨に舌を這わせると雪男は甘い声を上げた。
「うう……。」
燐の舌は次第に下に下りていく。胸の中央の窪みを擽っていると、燐の下半身に当たる雪男の足が小刻みに震えていた。ちょうど燐を挟むようにしていた両足は膝丈のズボンから伸びた脹脛の白さにも燐は生唾を飲んだ。燐は胸と脚を見比べて少し迷ったあと、後ずさった。
「お兄ちゃん?」
雪男は怪訝そうに尋ねてくる。燐は雪男の靴下を脱がせて、晒された足の指を舐め始めた。同時に指を脛に這わせてみた。
「おにい……ちゃ……。」
思いも寄らなかった気持ちよさに雪男は口元を押さえた。ズボンの裾の隙間から手を入れて、さらに上も触られてしまう。
「く……。」
膝の裏が敏感なのか雪男の震えは大きくなる。燐は雪男の足先を唾液でべたべたにしながら悦に入っていた。
膝の裏からさらに上を目指した燐の手だったが、雪男のストイックに細くて固いズボンの生地に阻まれてそこから先に進めない。これからは雪男にはジャージしか履かせないと燐が思ったか分からないが、燐は残念そうな顔をして裾から手を抜いた。
「ちぇっ……。」
そして横たわっている弟に目を向ける。きっちりと雪男の腰を包んでいるズボンのウエスト部分を一瞥して手を掛けようとしたが、そこでまた燐はまた止まった。
「いやまずいだろ。流石に……。」
雪男ははっきり言えば酔っ払っていてわけが分かっていない。兄に何をされているのか、頭が追いついていないのが正しかった。ここで雪男のズボンを下ろして、燐にとっては雪男の身体の本命部分を見てみたいという欲求はある。何せ小学校の低学年以来、雪男のそこを見た記憶はないのだ。しかしそこで誘惑に負けてしまえば、腐れ外道に落ちてしまう。いや元々サタンの息子という時点で腐れ外道なのだが。そう。自分はナチュラルボーン腐れ外道。
しかし自分が腐れ外道であることと、弟を腐れ外道の餌食にしてしまうことは別問題。燐はそっと雪男から離れる。
「兄さん?」
雪男は身体を起こして兄の前に座り込む。だんだん酔いも覚めてきたらしく、とろけた目にいつもの知性と冷静さを取り戻しつつある。微々たる量しかアルコールを摂取していないのだから、当然の結果だった。
「雪男。エロくて痛いことしていい?」
雪男の今の体勢からして期待はしていない。しかし、燐は雪男から返事を聞かないと自分の都合のいいように動いてしまいかねなかった。雪男は燐を見つめている。なんだかその目は真剣な感情を秘めているように見える。頭のいい弟なのだから、さっきまでの酔っている間のこともある程度記憶しているだろう。だから敢えて言葉にして尋ねてみた。
「兄さん。」
雪男の手が燐の肩にかかった。
「ゆ、雪男……。俺、お前のことが。だから……。」
雪男は自分から燐に引き寄せられるように膝立ちになって燐の耳に唇を寄せてくる。はあっと吐き出される息のあと、雪男の言葉が続いた。
「やだ。」
燐は泣きそうな顔をして猫背になっていく。至極当然な反応に哀しみを隠せない。
「あー。やっと頭はっきりしたよ。」
無常な弟の声が燐の耳を打つ。雪男はすたすたとベッドを離れて部屋を出て行こうとしていた。去り際に雪男は兄をわずかに見ていたが、すぐにドアの外に消えた。
弟が去った部屋に置き去りになった兄は、はっと息を吐いて弟のベッドの上で大の字になって自分の悲しみを笑い飛ばした。
「やっぱそうなるよな!」
廊下にまで響く兄の声を聞きながら弟は「馬鹿」と一言呟いた。
すみません。魔法少女ではございませんでした。クールな雪ちゃんを破壊してすみません。そして兄さんはコネクト寸止め。
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読書、二次創作
自己紹介:
忍たまで「幸福雑音」というサークルで、大阪のイベントに出没しています。
絵描きの竹さんと字書きの柴の二人サークルです。
柴はツイッターもしています。http://twitter.com/#!/hitsugi12
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