幸福雑音
女性向け二次創作サイト。 イベント参加情報もここに載せています。 オフは忍たま、オンでは青エク中心。
☆☆リクエスト企画「バンダースナッチ」燐雪
長らくお待たせしまってごめんなさい。最後のリクエストなばばさんから「セクシーな雪ちゃん」です。
雪男はサンマの小骨を箸で取り除きながら口に運んでいた。対面の燐はそんなまどろっこしいことはしない。骨ごとわしわしと食べている。
ふと燐は箸を止めた。
「雪男。これ一尾百円なんだぜ。」
「安いねー。」
「冷凍品だからな。」
「でも美味しいよね。」
「旬になったらこんな冷凍品じゃなくても一尾五十円くらいになるはずだ。」
「ありがたいもんだね。」
燐はほぼ頭と骨だけになったサンマを見て溜息をついている。
「だけどな、俺はもう嫌なんだよ。」
「何がだい? 兄さん。」
雪男はサンマの片身をひっくり返しながらニコニコしている。燐は無言で机をどんっと叩いた。
「俺はもう嫌だ! 幾ら安いし栄養価が高いからって、もう一週間くらいサンマ続きだよ。幾ら、幾ら……。うぅ……。食費が乏しいからって。もう飽きたんだよっ。」
雪男は心底呆れた。月初めには肉ばっかりのメニューだった癖に。計画性というものをいい加減身に着けて欲しい。
「兄さん。僕は三百六十五日サンマでも構わないけど。兄さんが焼いてくれるなら。」
「そんな言葉を嬉しがるような心境じゃねえんだよ。これを見ろ!」
燐が広げるのはつい最近まで改装中だった大型スーパーの広告だった。
「リニューアルオープン特価! ステーキ肉一枚千円!(約二百グラム)しかも黒毛和牛!」
「僕、肉はどうでもいい。」
「一般家庭のおばちゃんが参加出来る、そんな激安イベントのはずなのに。俺は舞踏会に行けないシンデレラかよっ。」
本当に言っていることがみみっちい。認めたくは無いけど上級の悪魔に「若君」だと呼ばれ、いわゆる「虚無界の王の落胤」なんて立場なんだから、もう少しそれらしい言動を取って欲しいものだった。そうすれば兄に反感を持つ人間や悪魔にも、多少なりともハッタリをかませるのにと雪男は思った。
「兄さん。おばちゃんの財布の中身は、お父さんの給料だってこと頭から抜けてるよ。」
ていうか男子高生が、おばちゃんばかりの舞踏会に参加したがるなよと雪男は呟く。燐はまた黙々と茶碗のご飯を掻き込んでいる。
「この学校、バイト禁止だしな。」
燐は雪男を上目遣いで見ている。
「雪男ちゃん。食費……」
「駄目。ちゃんと月初めに渡したよね。」
「そうだよな。」
この諦めの良さは兄弟の長年の付き合いの成せる業だった。
「せめて俺の使える金に余裕があればな。」
「それって『もしもピアノが弾けたなら』くらい物悲しいものがあるよ。それに兄さんの金はフェレス卿から支給されるのが唯一なんだから。」
「それだ!」
燐は食べ終わった食器をてきぱきと片付けだす。そして雪男にも早く食って片付けろよ愚図と暴言を吐いた。
「おい!」
なにやら思いついたような兄は、そんな雪男の浮かべた殺気にも気づかず、雪男が食べ終えた食器を横からぶんどって、雪男の手を取った。
* * *
「金をせびりにまた性懲りも無く私のところに来たわけですか。奥村ブラザーズ!」
「ブラザーズじゃないですよ。兄さん一人だけです。」
「なんだよ。ステーキ肉はちゃんと二枚買う予定で今月の小遣い二千円追加してくれって頼みに来たんじゃねえかよ。」
「ほんと僕は、肉なんてどうでもいいから。」
メフィストは息の合わない兄弟をせせら笑う。
「そうですか。年頃の男らしく肉に対する欲望のために、私に頭を下げに来たのですね。」
「フェレス卿。なんかその言い方いかがわしいです。」
「そうだよ。肉に対する欲望だよ。略して肉欲だよっ。」
「兄さんもそれ以上言わないで! ていうか、広辞苑使って今度みっちり勉強しようね!」
雪男がぜえぜえと息をついているので、燐は黙ってその背中を撫でてあげていた。
「――わかりました。今回に限り二千円追加しましょう。」
「え、こんなあっさりでいいのかよ。」
メフィストは人差し指を振る。
「一つだけ条件があります。貴方たちに、つい最近の私に欠乏しているものを要求したいと思います。」
「なんだよ。塩分か? 鉄分か? それとも脂肪分か? 食物繊維か?」
「栄養素から離れましょうよ。まあ、栄養と言えば栄養ですが。心の栄養ですね。」
雪男は息が落ち着いたのか、メフィストに淡々と言う。
「なんか嫌な予感がするんですけど、僕も参加なんですか?」
メフィストは両手を組んで魔法で愛用の椅子を出して座る。
「ちょっとだけ、目の前で私好みの『ごっこ遊び』をして欲しいだけですよ。」
メフィストは財布を開いて二千円札を燐に手渡す。燐は嬉しそうに雪男の目の前でくるくると踊っている。悪魔との交渉は既に図らずも雪男に丸投げされていた。
「それで、僕らは何ごっこをすればいいのですか?」
「ふふふふふ……。それは当日、明日の夕方あたりまでに決めておきます。」
そうですか。
今夜の雪男はそうやって返事をするしかなかった。
* * *
メフィストの言った『ごっこ遊び』の当日夕方。旧男子寮の食堂。そこには意外な面々が集まっていた。
「雪ちゃんっ。」
「しえみさん何故あなたがっ。」
しえみの横には出雲と朴も並んでいる。出雲の顔は相変わらずむすっとしているが、何故かそわそわしているような雰囲気も見られた。
「私達、理事長にお呼ばれなんだよ。」
エキストラ付の『ごっこ遊び』かよと雪男は途方に暮れた。しかも寄りによってしえみを呼ぶなと叫びたかった。それと祓魔塾にとって貴重な女子に変なモノを見せて愛想尽かされたらどうするんだと憤った。
「俺らも理事長に言われて来たんやけど。」
厨房から勝呂たちが顔を出す。
「理事長に呼ばれて野次馬なんです。それと、食堂からオムライスを出前してこいって。こういうのは、奥村君に作らしておけばええのになあ。」
厨房のカウンターの上にはラップを掛けられたオムライスが乗っている。しかし雪男はそれにケチャップがかかってないのが妙に気になった。何故だか知らないが気になってしまう。
雪男が混乱している内に厨房の外から複数の足音が近づいてくる。
「失礼しまーす。」
「失礼します。」
「失礼、する。」
続いて入ってきたのは、祓魔塾の講師陣、湯川・椿・ネイガウスだった。その後ろから燐が暢気に顔を覗かせた。
「うーっす。なんか先生らも案内して欲しいって、あいつからメールが来たんだよ。」
「ほいほい案内しないでよ!」
湯川・椿・ネイガウスもやはり女子と同じようにそわそわとした表情を浮かべている。
「こんにちは。講師をやめた私も招待してくれて、嬉しいやら恐縮やら。」
眼鏡の冴えないが穏やかそうに見えるオッサンが入ってきた。
「貴方は誰ですか!」
「初めまして。藤堂三郎太と申します。おまけで来ました。」
現役でもない講師まで呼び集められるという事実に、雪男は本日ここで行われるイベントに対して本気で怯え始める。その肩を燐はひしっと抱く。
「雪男。大丈夫だって。ただお前が俺に奉仕するだけでいいって言うシナリオらしいぞ。」
「奉仕!」
なんじゃそれ。雪男は頭を抱えて蹲る。
最後の客・藤堂が現れて一分弱。見計らったようにメフィストが愛用の椅子に座ったまま、わずかに宙を浮きながら唐突に出現した。
「紳士淑女諸君! グーテン・アーベント。今宵はうたかたの戯れか、碑に記されるべき物語か。舞台の始まりです。役者はたった二人。主演男優と主演女優のみ。まず、厳しくも心優しいご主人様・奥村燐!」
おお! と、燐はわけがわかっているのかわかってないのか、両手を振り上げて一同に向かって吼える。
「そして、瀟洒で完璧、それでありながら愛らしいドジっ子メイド・奥村雪男!」
メフィストは口上を述べながら椅子から降りて、蹲って泣きそうになっている雪男の腕を引っ張りあげる。
「アイン。ツヴァイ。ドライ。」
メフィストのマントがひらめいて一瞬、雪男の姿を隠してしまう。そして現れたのは、ふりふりの白いドレスエプロンを祓魔師のコートの上に着た雪男の姿だった。
「なんじゃこりゃあ!」
「貴方は七曲署の刑事じゃないんですから。ちなみに祓魔師は殉職しても二階級特進はしません。」
雪男はこんな姿にされてまで怯えたままではいられない。しかしふと視線を感じて振り返ると、しえみを筆頭に女子連中の目が輝いている。
「雪ちゃん。可愛い。」
出雲もつかつかと雪男に近づくと、エプロンのフリルを摘んでにやけそうになる顔を必至で押さえ込んでいる。しかしその口からは堪えきれずに「ふわふわ…」と呟かれていた。
「しえみさん。神木さん。見ないで!」
またも雪男は蹲る。そして憎憎しげにメフィストを見上げた。
「フェレス卿、貴方が企んだのは、僕を公衆の面前で晒しものにするためだったんですね。」
雪男の言い草に男連中がそれぞれの言い訳を始めた。
「いや。だから。俺はただの野次馬でええと言われて……。オムライスの配達だけのつもりでもあったし。」
「ぼ、僕もですぅ。」
勝呂と子猫丸は自分たちが本当に目的もなく来たかのように言う。本当かどうかは分からないが、この二人だけでも信じてやりたい雪男だった。
雪男は今度は講師陣(藤堂を含む)に振り返った。
「先生方は?」
「私はただの興味本位の野次馬根性で来たんじゃないんだよ。」
椿のまさかの言葉に雪男は息を呑んだ。
「私たちは営利目的のマニュアル行為でなければ夢の中でしか目の当たりに出来ない光景を、この目に焼き付けるためにここに来たんだ!」
湯川がメフィスト顔負けの口上を言った。京都組から志摩が控えめに雪男と湯川の間に入ってきた。
「何度も言うようですけど、ほんと僕ら野次馬ですから。」
なんだか本気が入った教師たちから一線を画したい一心で志摩は言っているようだった。そんな志摩の肩を掴んで後ろに避けると、ネイガウスが一歩雪男に近づく。
「私は、ちゃんと――アレだからな。あれ? そう、あれだ! 夢の中で、なんだったかな……。湯川先生。さっきのもう一回言って下さい。」
無理に言葉を繕おうとして却って墓穴を掘るネイガウスだった。湯川はそっと先ほどの言葉を耳打ちする。
「そういうことですか。とんだプロジェクトXですね。」
それは実に用意周到だった。
お約束とお約束が手を繋いで足並みを揃えている。無造作なはずのメンバーに感じた違和感。ただのイタズラ心やからかい半分でないことは理解出来る。ある意味である種の真剣さが伝わってくる。日頃そんな素振りを見せないネイガウスでさえも。この場に各々の希望を胸に集った者達は、男女を越え年齢を越え、立場を越え、メフィストの誘いに一枚噛んだ者達であることは間違いないらしい。
同じ病を共有する者たち。メフィストが発端ではあるが、今この状況は彼らが実現に漕ぎ着けた最高の舞台だった。
「そうか。やるしかないか。」
頑張って。頑張れ。頑張ってください。頑張ったらええんやない。ちょっと頑張ってよね。近いはずの声援が果てしなく遠くに聞こえる。
もう逃げも隠れも出来ない。能天気に兄は巻き込まれるままに巻き込まれて、雪男の悲壮感に気づかない。しかもその兄まで「頑張るぞ」とか言っている。
「そんなに怖がるなって。俺、少しだけメフィストからレクチャーを受けたし。ほとんどがアドリブになるだろうけどな。ほら、お前も軽い気持ちでイメージでやればいいんじゃないのかな。イメージで。」
メフィストが燐の肩を叩く。
「アドリブとはいえ失望させないで下さいよ。」
「俺と雪男が揃って、お前を失望させるわけがないだろ。」
どっから来るんだ。その自信は。しかし、かなり怯えと緊張が全身を廻りきっている雪男にとっては、それすらも心強かった。この兄とならやれるかもしれない。いや、やらなければこの場は収まらない。
「じゃあ、兄さん。いくよ――。」
「おう!」
燐は食堂のパイプ椅子に腰掛ける。その場にいたものの視線がスポットライトのように燐に集中する。その緊張感をまるで屁とも思ってないように、堂々と座っている。その所作はいつもの能天気で頭の悪いチンピラ男子高生ではなく、どこかのお屋敷のご主人様のように重々しく優雅だった。
(本当に兄さんは、悪魔の若君なんだ……)
雪男はいつもとは打って変わった兄の姿に言葉が出ない。
「雪男。食事を持ってきてくれ。」
(そんなことより、演技しないと。)
「はい。」
自分の上ずった声が嫌に恥ずかしい雪男だった。雪男は京都組が指差すオムライス(盆に載せられてスプーンが添えられている)を両手で運ぶ。
「今日のお食事はオムライスで御座います。ご主人様。」
燐の前に恭しくそれを置くと、メフィストが遠くから声を張り上げた。
「その黄色い殺風景な卵の上に、貴方の最愛のご主人様の名前を書くのです!」
子猫丸が黒子のように小さな身体をさらに小さくして雪男にケチャップを渡す。雪男はそれを受け取ると、黄色い薄焼き卵の上に名前を書き始めたが――。
とある一点で手が止まる。
(なんでフルネームで書こうとしたんだ。僕は。)
「どうしたのかな?」
ご主人様口調の燐が卵の上を覗き込む。
(兄さん。上手くフォローしてくれ。)
「も、申し訳ありません。ご主人様っ。」
覗きこむ観客の目の前。卵の上には「おくむらり」まで書かれていた。しかしもう一字「ん」を書く余裕は卵の上にはなかった。
「失敗だな。卵の上に名前さえも満足に書けないのか? お前は。」
「ご、ご主人様……。身の程を知らず全部書こうとしたら、その……しっぱい……」
(よし。上手くいきそう。)
「そんな言い訳するような悪いメイドは嫌いだ。」
(え?)
『嫌い』という言葉にひどく雪男は動揺した。
「そんな……。雪男を、嫌いにならないで下さい……。ご主人さまぁ。」
ただのお芝居のつもりなのに、何故か妙な熱が篭ってくるのを感じる。本当に燐が自分のご主人様のような錯覚を覚えてくる。何故ならいつも浮ついている燐の目が、ただひたすら雪男を見ているからだ。支配的に。
ざわざわとギャラリーがざわめく。
奥村燐。この男はただの優しいご主人様を演じるつもりはないらしい。もう一ランク上、メイドの全てを支配し、調教しようとする絶対君主になっている。今まさに奥村燐は可愛い自分のメイドであり弟の雪男を、自分色に染め上げようと敢えて、叱責し羞恥を煽り、雪男の全てを支配し所有し、あられもなく懇願させ、その媚態を眉一つ動かすまでもなく淡々とした態度で、ことも無げに従わせる絶対的なご主人様っぷりを見せていた。
「雪男は、ご主人様のオムライスに粗相を……」
雪男もなんだか入り込んでしまっている。だって今日の兄さんはいつもの兄さんと違うから。
「哀れっぽく振舞えば許してもらえると思っているのか? 馬鹿なやつ。」
「あぁ……。申し訳ありません。雪男は駄目で、馬鹿なメイドなんです。だから……」
(自分で、自分のこと、馬鹿って言っちゃった……)
燐の雪男を見る目はどこか冷たさすらも感じる。
「どうした。おねだりか? 何をして欲しい?」
意地悪く問いかける燐は、とても付け焼刃の演技とは思えない。よほどメフィストのレクチャーが完璧だったのか? それとも、もっと違う要因がこの舞台に隠されているのか?
『もしかしてこれがこの男の本性か?』
メフィストは今までの自分の認識を改めざるをえなかった。
燐と雪男のやり取りはまだ続く。
「ご主人様。雪男を叱って下さい。お仕置き……してください。」
「そうだな。」
燐は顎をしゃくり上げる。
「このオムライスをスプーンを使わずに食べろ。」
「お箸を、使うのですか?」
「馬鹿か。お前のような駄目メイドは犬のように直に食うがいいわ。」
(ええええええええええ!)
流石の雪男も怖気づいてしまう。哀れみを乞うように兄に情けない眼差しを向けてしまうけど、兄は瞬きもせず、そんな雪男を目で拒否した。
燐は椅子から立ち上がると、途中までしか名前の書かれていないオムライスの皿を雪男の前にどんと置く。ケチャップが飛び散って雪男の頬やエプロンに付いた。周りが「酷い」と呟いている。しかしその声は何気に興奮を覚えているようだった。
雪男は机の端に手をかけて中腰になる。燐は淡々と弟に指示を出した。
「まずそのケチャップを舐めて貰おうかな? 書き損じとはいえど俺の名前だ。心を込めて舐め取るんだな。」
雪男は舌先を出して薄焼き卵の表面に舌を這わせる。
「あ……。トマトの味が。」
「ケチャップだから当たり前だろうが。いちいち反応しているんじゃない。本当に恥ずかしいやつ。」
「はいっ。」
雪男の痴態を見ている誰かの生唾が飲み込まれる音が微かにした。しばらく見ているうちに雪男は薄焼き卵を口に銜えて引っ張り始める。
「雪男!」
「はいぃ?」
(僕、なんか変なことした?)
びくりと雪男は薄焼き卵から口を離した。完全に兄に怯えている。燐はオムライスを指差しながら言う。
「薄焼き卵とケチャップライスを別々に食べるのは邪道だ。ちゃんと一緒に食べるんだ。」
厳しめな口調で指示を出す。そうなれば端から齧っていくしかない。そんな雪男の様子を燐はじっと見つめていた。
何の感情も無い目で見つめられていると思うと、情けないないような嬉しいような、恥ずかしいような、切ないような、何もかも綯い交ぜにしたような感情で頭の中が痺れてくる。
犬のようにはしたない姿をご主人様の兄が見守っている。メイドがちゃんと罰を実行しているか見張っているだけだろう。それを嬉しいなんて思う神経がどうかしているけれど、とめどなく溢れてくるものは止められない。もっと辱めて欲しいなんて、自分はなんだかおかしくなってきているんじゃないかと思った。ご主人様だけじゃない。他の人も見ているのに。でもこれは兄さんに言いつけられた、お仕置きだから。ちゃんと終わらせなくちゃ。
燐はさておき、雪男はすっかり調教されているドジっ子メイドになりきっていた。半分ほど食べ終えたところで、燐が雪男の口元を指差す。
「口の周りがケチャップで汚れているな。」
雪男の口の周りはケチャップとケチャップに染められたライスに塗れている。犬食いしているのだから当たり前だ。しかも雪男は指摘してきた燐に言われてやっているだけだったのに。雪男は恥らうように口元を手で隠そうとしている。
「だ、だって。お皿から直接食べて……」
「また言い訳をする。」
燐は溜息をつくと雪男から視線を逸らす。雪男はそれにさらに動揺した。
「ごめんなさい……。ごめんなさいっ。」
「さっさと食べてしまいなさい。周りの人達も居た堪れないよ。」
雪男はさらに皿の上のオムライスをはぐはぐと恥ずかしい格好で食べ進めている。燐の冷たい声がまた雪男に降る。
「お前。本当はそんな恥ずかしい姿を、みんなに見られて却って悦んでいるんじゃないのか?」
雪男は言葉が出なかった。否定しても、この兄には否定に取って貰えないだろう。しかし無言の回答は、そのまま肯定と受け取られた。
「お仕置きの追加だ。お前は恥ずかしいところを見られて悦ぶような、恥知らずのメイドだと言え。」
「そ……。そんなこと――。」
急に顔が引き上げられる。眼前に燐の顔が迫っていた。
「さあ。言うんだ。その可愛い口で。大きな声で。お前のその恥ずかしい姿を御覧になっている皆様にも、ちゃんと聞こえるようにな。」
兄とメフィストに付き合わされるお芝居なのに、自動人形である雪男は、ついに意思を持ったように口を開いて、言葉を迸らせた。
「ゆ……。雪男は悦んで、い……います。皆様に見られて、……とても気持ちいいです。でも、ご主人様に見られるのが、一番、……いちばん気持ちいいです。雪男はそんな、恥ずかしくて、はしたない……駄目なメイドです。」
燐に強く命令された途端、口をついて頭になかった言葉が一挙に口からすらすらと出てきてしまった。瞳を潤ませ、声を震わせ、雪男は燐を見上げた。
「よし。よく出来た。ここまでお前が正直になるとは思わなかったぞ。今日はこれでよしとしてやろう。さあ、ご褒美だ。」
「ごほうび、ですか。そんな……」
「ご主人様の厚意を無下にするのも悪いメイドだぞ。雪男。お前はひたすら俺を喜ばせていればいい。」
燐は取り上げていたスプーンを手に取りオムライスを掬うと、雪男の口元に突きつけた。
「ほら。あーん。」
「はい。」
雪男は燐の差し出すオムライスをおずおずと口に入れる。燐の表情は無機質な無表情から、慈愛に満ちた微笑に変わっていた。
甘ったるいやり取りが続いて、オムライスは最後の一口になった。
「ご主人様。私がご主人様のお食事を食べてしまっているのですがっ。」
燐は頬をカリカリと掻きながら、素知らぬふうに言う。
「そうか。気づかなかったな。」
「どうしよう。どうしましょう。」
また先ほどの恥ずかしい思いを繰り返すのかと、雪男は不安になる。しかし燐はしょうがないと呟いた。
「こればかりは俺のうっかりだ。ドジなメイドに構うのが楽しすぎるのがいけない。」
「ご主人様。喜んで頂けたのですか?」
「楽しかった――。」
うおぉー! ご主人様がでれた!
誰かが叫ぶ。散々サディスティックな振る舞いを見せた癖に、いきなり甘くなる。これほどの卑怯技はない。周囲は一斉に立ち上がった。とんでもない素晴らしいものを見せてもらったと。
「ここからは皆様に見せるわけにはいかないな。雪男。六○二号室で続きをしようか。」
「え?」
雪男の身体が宙に浮く。燐にお姫様抱っこされていたのだ。
「ご主人、様?」
どぎまぎしている雪男に燐は囁く。
「このまま、ばっくれるぞ。」
雪男はそこでやっと正気に戻った。
「う、うん。兄さん……」
「それでは皆の衆! アデュー。アリデベルチ。アウフヴィーダーゼーエン。グッドラック!」
出任せに外国語を口走って二人は食堂を出る。誰も後を追わない。すっかり毒気を抜かれたらしい。あのメフィストでさえも。
「凄かったな。アレ。」
「なんだかんだで奥村雪男があの奥村燐を、兄さん扱いし続けるはずだよ。」
「もうメイド喫茶程度で夢を見られないよ。」
「ご主人様になれへんわ。俺ら。」
逢魔が時の幻想は覚めてしまえば、夢を見ていた傍観者たちが騒ぐだけだった。
本当に隣のスペースだからとリクを強請ってしまった結果がこれです。セクシーというよりは、M属性雪ちゃんになってしまいました。志摩雪でも書きかけていたのですが、ある好きなサイトさんのssにキーワードが同じ作品があったので、没ってしまいました。志摩雪を待っていらっしゃいましたら本当にすみません。
楽しんでいただけたら幸いです。リクエストありがとうございました!
雪男はサンマの小骨を箸で取り除きながら口に運んでいた。対面の燐はそんなまどろっこしいことはしない。骨ごとわしわしと食べている。
ふと燐は箸を止めた。
「雪男。これ一尾百円なんだぜ。」
「安いねー。」
「冷凍品だからな。」
「でも美味しいよね。」
「旬になったらこんな冷凍品じゃなくても一尾五十円くらいになるはずだ。」
「ありがたいもんだね。」
燐はほぼ頭と骨だけになったサンマを見て溜息をついている。
「だけどな、俺はもう嫌なんだよ。」
「何がだい? 兄さん。」
雪男はサンマの片身をひっくり返しながらニコニコしている。燐は無言で机をどんっと叩いた。
「俺はもう嫌だ! 幾ら安いし栄養価が高いからって、もう一週間くらいサンマ続きだよ。幾ら、幾ら……。うぅ……。食費が乏しいからって。もう飽きたんだよっ。」
雪男は心底呆れた。月初めには肉ばっかりのメニューだった癖に。計画性というものをいい加減身に着けて欲しい。
「兄さん。僕は三百六十五日サンマでも構わないけど。兄さんが焼いてくれるなら。」
「そんな言葉を嬉しがるような心境じゃねえんだよ。これを見ろ!」
燐が広げるのはつい最近まで改装中だった大型スーパーの広告だった。
「リニューアルオープン特価! ステーキ肉一枚千円!(約二百グラム)しかも黒毛和牛!」
「僕、肉はどうでもいい。」
「一般家庭のおばちゃんが参加出来る、そんな激安イベントのはずなのに。俺は舞踏会に行けないシンデレラかよっ。」
本当に言っていることがみみっちい。認めたくは無いけど上級の悪魔に「若君」だと呼ばれ、いわゆる「虚無界の王の落胤」なんて立場なんだから、もう少しそれらしい言動を取って欲しいものだった。そうすれば兄に反感を持つ人間や悪魔にも、多少なりともハッタリをかませるのにと雪男は思った。
「兄さん。おばちゃんの財布の中身は、お父さんの給料だってこと頭から抜けてるよ。」
ていうか男子高生が、おばちゃんばかりの舞踏会に参加したがるなよと雪男は呟く。燐はまた黙々と茶碗のご飯を掻き込んでいる。
「この学校、バイト禁止だしな。」
燐は雪男を上目遣いで見ている。
「雪男ちゃん。食費……」
「駄目。ちゃんと月初めに渡したよね。」
「そうだよな。」
この諦めの良さは兄弟の長年の付き合いの成せる業だった。
「せめて俺の使える金に余裕があればな。」
「それって『もしもピアノが弾けたなら』くらい物悲しいものがあるよ。それに兄さんの金はフェレス卿から支給されるのが唯一なんだから。」
「それだ!」
燐は食べ終わった食器をてきぱきと片付けだす。そして雪男にも早く食って片付けろよ愚図と暴言を吐いた。
「おい!」
なにやら思いついたような兄は、そんな雪男の浮かべた殺気にも気づかず、雪男が食べ終えた食器を横からぶんどって、雪男の手を取った。
* * *
「金をせびりにまた性懲りも無く私のところに来たわけですか。奥村ブラザーズ!」
「ブラザーズじゃないですよ。兄さん一人だけです。」
「なんだよ。ステーキ肉はちゃんと二枚買う予定で今月の小遣い二千円追加してくれって頼みに来たんじゃねえかよ。」
「ほんと僕は、肉なんてどうでもいいから。」
メフィストは息の合わない兄弟をせせら笑う。
「そうですか。年頃の男らしく肉に対する欲望のために、私に頭を下げに来たのですね。」
「フェレス卿。なんかその言い方いかがわしいです。」
「そうだよ。肉に対する欲望だよ。略して肉欲だよっ。」
「兄さんもそれ以上言わないで! ていうか、広辞苑使って今度みっちり勉強しようね!」
雪男がぜえぜえと息をついているので、燐は黙ってその背中を撫でてあげていた。
「――わかりました。今回に限り二千円追加しましょう。」
「え、こんなあっさりでいいのかよ。」
メフィストは人差し指を振る。
「一つだけ条件があります。貴方たちに、つい最近の私に欠乏しているものを要求したいと思います。」
「なんだよ。塩分か? 鉄分か? それとも脂肪分か? 食物繊維か?」
「栄養素から離れましょうよ。まあ、栄養と言えば栄養ですが。心の栄養ですね。」
雪男は息が落ち着いたのか、メフィストに淡々と言う。
「なんか嫌な予感がするんですけど、僕も参加なんですか?」
メフィストは両手を組んで魔法で愛用の椅子を出して座る。
「ちょっとだけ、目の前で私好みの『ごっこ遊び』をして欲しいだけですよ。」
メフィストは財布を開いて二千円札を燐に手渡す。燐は嬉しそうに雪男の目の前でくるくると踊っている。悪魔との交渉は既に図らずも雪男に丸投げされていた。
「それで、僕らは何ごっこをすればいいのですか?」
「ふふふふふ……。それは当日、明日の夕方あたりまでに決めておきます。」
そうですか。
今夜の雪男はそうやって返事をするしかなかった。
* * *
メフィストの言った『ごっこ遊び』の当日夕方。旧男子寮の食堂。そこには意外な面々が集まっていた。
「雪ちゃんっ。」
「しえみさん何故あなたがっ。」
しえみの横には出雲と朴も並んでいる。出雲の顔は相変わらずむすっとしているが、何故かそわそわしているような雰囲気も見られた。
「私達、理事長にお呼ばれなんだよ。」
エキストラ付の『ごっこ遊び』かよと雪男は途方に暮れた。しかも寄りによってしえみを呼ぶなと叫びたかった。それと祓魔塾にとって貴重な女子に変なモノを見せて愛想尽かされたらどうするんだと憤った。
「俺らも理事長に言われて来たんやけど。」
厨房から勝呂たちが顔を出す。
「理事長に呼ばれて野次馬なんです。それと、食堂からオムライスを出前してこいって。こういうのは、奥村君に作らしておけばええのになあ。」
厨房のカウンターの上にはラップを掛けられたオムライスが乗っている。しかし雪男はそれにケチャップがかかってないのが妙に気になった。何故だか知らないが気になってしまう。
雪男が混乱している内に厨房の外から複数の足音が近づいてくる。
「失礼しまーす。」
「失礼します。」
「失礼、する。」
続いて入ってきたのは、祓魔塾の講師陣、湯川・椿・ネイガウスだった。その後ろから燐が暢気に顔を覗かせた。
「うーっす。なんか先生らも案内して欲しいって、あいつからメールが来たんだよ。」
「ほいほい案内しないでよ!」
湯川・椿・ネイガウスもやはり女子と同じようにそわそわとした表情を浮かべている。
「こんにちは。講師をやめた私も招待してくれて、嬉しいやら恐縮やら。」
眼鏡の冴えないが穏やかそうに見えるオッサンが入ってきた。
「貴方は誰ですか!」
「初めまして。藤堂三郎太と申します。おまけで来ました。」
現役でもない講師まで呼び集められるという事実に、雪男は本日ここで行われるイベントに対して本気で怯え始める。その肩を燐はひしっと抱く。
「雪男。大丈夫だって。ただお前が俺に奉仕するだけでいいって言うシナリオらしいぞ。」
「奉仕!」
なんじゃそれ。雪男は頭を抱えて蹲る。
最後の客・藤堂が現れて一分弱。見計らったようにメフィストが愛用の椅子に座ったまま、わずかに宙を浮きながら唐突に出現した。
「紳士淑女諸君! グーテン・アーベント。今宵はうたかたの戯れか、碑に記されるべき物語か。舞台の始まりです。役者はたった二人。主演男優と主演女優のみ。まず、厳しくも心優しいご主人様・奥村燐!」
おお! と、燐はわけがわかっているのかわかってないのか、両手を振り上げて一同に向かって吼える。
「そして、瀟洒で完璧、それでありながら愛らしいドジっ子メイド・奥村雪男!」
メフィストは口上を述べながら椅子から降りて、蹲って泣きそうになっている雪男の腕を引っ張りあげる。
「アイン。ツヴァイ。ドライ。」
メフィストのマントがひらめいて一瞬、雪男の姿を隠してしまう。そして現れたのは、ふりふりの白いドレスエプロンを祓魔師のコートの上に着た雪男の姿だった。
「なんじゃこりゃあ!」
「貴方は七曲署の刑事じゃないんですから。ちなみに祓魔師は殉職しても二階級特進はしません。」
雪男はこんな姿にされてまで怯えたままではいられない。しかしふと視線を感じて振り返ると、しえみを筆頭に女子連中の目が輝いている。
「雪ちゃん。可愛い。」
出雲もつかつかと雪男に近づくと、エプロンのフリルを摘んでにやけそうになる顔を必至で押さえ込んでいる。しかしその口からは堪えきれずに「ふわふわ…」と呟かれていた。
「しえみさん。神木さん。見ないで!」
またも雪男は蹲る。そして憎憎しげにメフィストを見上げた。
「フェレス卿、貴方が企んだのは、僕を公衆の面前で晒しものにするためだったんですね。」
雪男の言い草に男連中がそれぞれの言い訳を始めた。
「いや。だから。俺はただの野次馬でええと言われて……。オムライスの配達だけのつもりでもあったし。」
「ぼ、僕もですぅ。」
勝呂と子猫丸は自分たちが本当に目的もなく来たかのように言う。本当かどうかは分からないが、この二人だけでも信じてやりたい雪男だった。
雪男は今度は講師陣(藤堂を含む)に振り返った。
「先生方は?」
「私はただの興味本位の野次馬根性で来たんじゃないんだよ。」
椿のまさかの言葉に雪男は息を呑んだ。
「私たちは営利目的のマニュアル行為でなければ夢の中でしか目の当たりに出来ない光景を、この目に焼き付けるためにここに来たんだ!」
湯川がメフィスト顔負けの口上を言った。京都組から志摩が控えめに雪男と湯川の間に入ってきた。
「何度も言うようですけど、ほんと僕ら野次馬ですから。」
なんだか本気が入った教師たちから一線を画したい一心で志摩は言っているようだった。そんな志摩の肩を掴んで後ろに避けると、ネイガウスが一歩雪男に近づく。
「私は、ちゃんと――アレだからな。あれ? そう、あれだ! 夢の中で、なんだったかな……。湯川先生。さっきのもう一回言って下さい。」
無理に言葉を繕おうとして却って墓穴を掘るネイガウスだった。湯川はそっと先ほどの言葉を耳打ちする。
「そういうことですか。とんだプロジェクトXですね。」
それは実に用意周到だった。
お約束とお約束が手を繋いで足並みを揃えている。無造作なはずのメンバーに感じた違和感。ただのイタズラ心やからかい半分でないことは理解出来る。ある意味である種の真剣さが伝わってくる。日頃そんな素振りを見せないネイガウスでさえも。この場に各々の希望を胸に集った者達は、男女を越え年齢を越え、立場を越え、メフィストの誘いに一枚噛んだ者達であることは間違いないらしい。
同じ病を共有する者たち。メフィストが発端ではあるが、今この状況は彼らが実現に漕ぎ着けた最高の舞台だった。
「そうか。やるしかないか。」
頑張って。頑張れ。頑張ってください。頑張ったらええんやない。ちょっと頑張ってよね。近いはずの声援が果てしなく遠くに聞こえる。
もう逃げも隠れも出来ない。能天気に兄は巻き込まれるままに巻き込まれて、雪男の悲壮感に気づかない。しかもその兄まで「頑張るぞ」とか言っている。
「そんなに怖がるなって。俺、少しだけメフィストからレクチャーを受けたし。ほとんどがアドリブになるだろうけどな。ほら、お前も軽い気持ちでイメージでやればいいんじゃないのかな。イメージで。」
メフィストが燐の肩を叩く。
「アドリブとはいえ失望させないで下さいよ。」
「俺と雪男が揃って、お前を失望させるわけがないだろ。」
どっから来るんだ。その自信は。しかし、かなり怯えと緊張が全身を廻りきっている雪男にとっては、それすらも心強かった。この兄とならやれるかもしれない。いや、やらなければこの場は収まらない。
「じゃあ、兄さん。いくよ――。」
「おう!」
燐は食堂のパイプ椅子に腰掛ける。その場にいたものの視線がスポットライトのように燐に集中する。その緊張感をまるで屁とも思ってないように、堂々と座っている。その所作はいつもの能天気で頭の悪いチンピラ男子高生ではなく、どこかのお屋敷のご主人様のように重々しく優雅だった。
(本当に兄さんは、悪魔の若君なんだ……)
雪男はいつもとは打って変わった兄の姿に言葉が出ない。
「雪男。食事を持ってきてくれ。」
(そんなことより、演技しないと。)
「はい。」
自分の上ずった声が嫌に恥ずかしい雪男だった。雪男は京都組が指差すオムライス(盆に載せられてスプーンが添えられている)を両手で運ぶ。
「今日のお食事はオムライスで御座います。ご主人様。」
燐の前に恭しくそれを置くと、メフィストが遠くから声を張り上げた。
「その黄色い殺風景な卵の上に、貴方の最愛のご主人様の名前を書くのです!」
子猫丸が黒子のように小さな身体をさらに小さくして雪男にケチャップを渡す。雪男はそれを受け取ると、黄色い薄焼き卵の上に名前を書き始めたが――。
とある一点で手が止まる。
(なんでフルネームで書こうとしたんだ。僕は。)
「どうしたのかな?」
ご主人様口調の燐が卵の上を覗き込む。
(兄さん。上手くフォローしてくれ。)
「も、申し訳ありません。ご主人様っ。」
覗きこむ観客の目の前。卵の上には「おくむらり」まで書かれていた。しかしもう一字「ん」を書く余裕は卵の上にはなかった。
「失敗だな。卵の上に名前さえも満足に書けないのか? お前は。」
「ご、ご主人様……。身の程を知らず全部書こうとしたら、その……しっぱい……」
(よし。上手くいきそう。)
「そんな言い訳するような悪いメイドは嫌いだ。」
(え?)
『嫌い』という言葉にひどく雪男は動揺した。
「そんな……。雪男を、嫌いにならないで下さい……。ご主人さまぁ。」
ただのお芝居のつもりなのに、何故か妙な熱が篭ってくるのを感じる。本当に燐が自分のご主人様のような錯覚を覚えてくる。何故ならいつも浮ついている燐の目が、ただひたすら雪男を見ているからだ。支配的に。
ざわざわとギャラリーがざわめく。
奥村燐。この男はただの優しいご主人様を演じるつもりはないらしい。もう一ランク上、メイドの全てを支配し、調教しようとする絶対君主になっている。今まさに奥村燐は可愛い自分のメイドであり弟の雪男を、自分色に染め上げようと敢えて、叱責し羞恥を煽り、雪男の全てを支配し所有し、あられもなく懇願させ、その媚態を眉一つ動かすまでもなく淡々とした態度で、ことも無げに従わせる絶対的なご主人様っぷりを見せていた。
「雪男は、ご主人様のオムライスに粗相を……」
雪男もなんだか入り込んでしまっている。だって今日の兄さんはいつもの兄さんと違うから。
「哀れっぽく振舞えば許してもらえると思っているのか? 馬鹿なやつ。」
「あぁ……。申し訳ありません。雪男は駄目で、馬鹿なメイドなんです。だから……」
(自分で、自分のこと、馬鹿って言っちゃった……)
燐の雪男を見る目はどこか冷たさすらも感じる。
「どうした。おねだりか? 何をして欲しい?」
意地悪く問いかける燐は、とても付け焼刃の演技とは思えない。よほどメフィストのレクチャーが完璧だったのか? それとも、もっと違う要因がこの舞台に隠されているのか?
『もしかしてこれがこの男の本性か?』
メフィストは今までの自分の認識を改めざるをえなかった。
燐と雪男のやり取りはまだ続く。
「ご主人様。雪男を叱って下さい。お仕置き……してください。」
「そうだな。」
燐は顎をしゃくり上げる。
「このオムライスをスプーンを使わずに食べろ。」
「お箸を、使うのですか?」
「馬鹿か。お前のような駄目メイドは犬のように直に食うがいいわ。」
(ええええええええええ!)
流石の雪男も怖気づいてしまう。哀れみを乞うように兄に情けない眼差しを向けてしまうけど、兄は瞬きもせず、そんな雪男を目で拒否した。
燐は椅子から立ち上がると、途中までしか名前の書かれていないオムライスの皿を雪男の前にどんと置く。ケチャップが飛び散って雪男の頬やエプロンに付いた。周りが「酷い」と呟いている。しかしその声は何気に興奮を覚えているようだった。
雪男は机の端に手をかけて中腰になる。燐は淡々と弟に指示を出した。
「まずそのケチャップを舐めて貰おうかな? 書き損じとはいえど俺の名前だ。心を込めて舐め取るんだな。」
雪男は舌先を出して薄焼き卵の表面に舌を這わせる。
「あ……。トマトの味が。」
「ケチャップだから当たり前だろうが。いちいち反応しているんじゃない。本当に恥ずかしいやつ。」
「はいっ。」
雪男の痴態を見ている誰かの生唾が飲み込まれる音が微かにした。しばらく見ているうちに雪男は薄焼き卵を口に銜えて引っ張り始める。
「雪男!」
「はいぃ?」
(僕、なんか変なことした?)
びくりと雪男は薄焼き卵から口を離した。完全に兄に怯えている。燐はオムライスを指差しながら言う。
「薄焼き卵とケチャップライスを別々に食べるのは邪道だ。ちゃんと一緒に食べるんだ。」
厳しめな口調で指示を出す。そうなれば端から齧っていくしかない。そんな雪男の様子を燐はじっと見つめていた。
何の感情も無い目で見つめられていると思うと、情けないないような嬉しいような、恥ずかしいような、切ないような、何もかも綯い交ぜにしたような感情で頭の中が痺れてくる。
犬のようにはしたない姿をご主人様の兄が見守っている。メイドがちゃんと罰を実行しているか見張っているだけだろう。それを嬉しいなんて思う神経がどうかしているけれど、とめどなく溢れてくるものは止められない。もっと辱めて欲しいなんて、自分はなんだかおかしくなってきているんじゃないかと思った。ご主人様だけじゃない。他の人も見ているのに。でもこれは兄さんに言いつけられた、お仕置きだから。ちゃんと終わらせなくちゃ。
燐はさておき、雪男はすっかり調教されているドジっ子メイドになりきっていた。半分ほど食べ終えたところで、燐が雪男の口元を指差す。
「口の周りがケチャップで汚れているな。」
雪男の口の周りはケチャップとケチャップに染められたライスに塗れている。犬食いしているのだから当たり前だ。しかも雪男は指摘してきた燐に言われてやっているだけだったのに。雪男は恥らうように口元を手で隠そうとしている。
「だ、だって。お皿から直接食べて……」
「また言い訳をする。」
燐は溜息をつくと雪男から視線を逸らす。雪男はそれにさらに動揺した。
「ごめんなさい……。ごめんなさいっ。」
「さっさと食べてしまいなさい。周りの人達も居た堪れないよ。」
雪男はさらに皿の上のオムライスをはぐはぐと恥ずかしい格好で食べ進めている。燐の冷たい声がまた雪男に降る。
「お前。本当はそんな恥ずかしい姿を、みんなに見られて却って悦んでいるんじゃないのか?」
雪男は言葉が出なかった。否定しても、この兄には否定に取って貰えないだろう。しかし無言の回答は、そのまま肯定と受け取られた。
「お仕置きの追加だ。お前は恥ずかしいところを見られて悦ぶような、恥知らずのメイドだと言え。」
「そ……。そんなこと――。」
急に顔が引き上げられる。眼前に燐の顔が迫っていた。
「さあ。言うんだ。その可愛い口で。大きな声で。お前のその恥ずかしい姿を御覧になっている皆様にも、ちゃんと聞こえるようにな。」
兄とメフィストに付き合わされるお芝居なのに、自動人形である雪男は、ついに意思を持ったように口を開いて、言葉を迸らせた。
「ゆ……。雪男は悦んで、い……います。皆様に見られて、……とても気持ちいいです。でも、ご主人様に見られるのが、一番、……いちばん気持ちいいです。雪男はそんな、恥ずかしくて、はしたない……駄目なメイドです。」
燐に強く命令された途端、口をついて頭になかった言葉が一挙に口からすらすらと出てきてしまった。瞳を潤ませ、声を震わせ、雪男は燐を見上げた。
「よし。よく出来た。ここまでお前が正直になるとは思わなかったぞ。今日はこれでよしとしてやろう。さあ、ご褒美だ。」
「ごほうび、ですか。そんな……」
「ご主人様の厚意を無下にするのも悪いメイドだぞ。雪男。お前はひたすら俺を喜ばせていればいい。」
燐は取り上げていたスプーンを手に取りオムライスを掬うと、雪男の口元に突きつけた。
「ほら。あーん。」
「はい。」
雪男は燐の差し出すオムライスをおずおずと口に入れる。燐の表情は無機質な無表情から、慈愛に満ちた微笑に変わっていた。
甘ったるいやり取りが続いて、オムライスは最後の一口になった。
「ご主人様。私がご主人様のお食事を食べてしまっているのですがっ。」
燐は頬をカリカリと掻きながら、素知らぬふうに言う。
「そうか。気づかなかったな。」
「どうしよう。どうしましょう。」
また先ほどの恥ずかしい思いを繰り返すのかと、雪男は不安になる。しかし燐はしょうがないと呟いた。
「こればかりは俺のうっかりだ。ドジなメイドに構うのが楽しすぎるのがいけない。」
「ご主人様。喜んで頂けたのですか?」
「楽しかった――。」
うおぉー! ご主人様がでれた!
誰かが叫ぶ。散々サディスティックな振る舞いを見せた癖に、いきなり甘くなる。これほどの卑怯技はない。周囲は一斉に立ち上がった。とんでもない素晴らしいものを見せてもらったと。
「ここからは皆様に見せるわけにはいかないな。雪男。六○二号室で続きをしようか。」
「え?」
雪男の身体が宙に浮く。燐にお姫様抱っこされていたのだ。
「ご主人、様?」
どぎまぎしている雪男に燐は囁く。
「このまま、ばっくれるぞ。」
雪男はそこでやっと正気に戻った。
「う、うん。兄さん……」
「それでは皆の衆! アデュー。アリデベルチ。アウフヴィーダーゼーエン。グッドラック!」
出任せに外国語を口走って二人は食堂を出る。誰も後を追わない。すっかり毒気を抜かれたらしい。あのメフィストでさえも。
「凄かったな。アレ。」
「なんだかんだで奥村雪男があの奥村燐を、兄さん扱いし続けるはずだよ。」
「もうメイド喫茶程度で夢を見られないよ。」
「ご主人様になれへんわ。俺ら。」
逢魔が時の幻想は覚めてしまえば、夢を見ていた傍観者たちが騒ぐだけだった。
本当に隣のスペースだからとリクを強請ってしまった結果がこれです。セクシーというよりは、M属性雪ちゃんになってしまいました。志摩雪でも書きかけていたのですが、ある好きなサイトさんのssにキーワードが同じ作品があったので、没ってしまいました。志摩雪を待っていらっしゃいましたら本当にすみません。
楽しんでいただけたら幸いです。リクエストありがとうございました!
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☆☆リクエスト企画「ロミオとジュリエット」 志摩燐
木音さんのリクエストで 「ジャンル:青エクCP:一周して志摩燐志摩と燐がお互い食べているアイスを交換するシチュ」です。時間が掛かって本当にすみませんでした。しかもかなり変則的なお話です。
『舞台は唐突に中世イタリアのベローナだにゃ。そこには同じような声望を享受していた二つの名門があったんだにゃあ。片や南十字教会。藤本獅郎がまとめる修道院だ。片や明王陀羅尼宗(明陀)。気のいい和尚さんを頂点に家族ぐるみでやっている寺だ。昔からの両家の確執は平和な市民の血を流す酷い暴力沙汰と相成ってたんだにゃ。こともあろうにいがみ合う両家に、生まれし二人の男たちが出会い、やがて運命の結末を迎えるにゃあ。』
明陀の志摩家の五男坊・廉造は南十字教会に忍び込んでいた。もし見つかれば袋叩きにされても仕方が無い。しかもその目的たるや、万死に値するといってもいい。何せ南十字教会が抱え込んでいる秘密の子ども、サタンの落胤に逢瀬を仕掛けているのだから。
「本当に、コンビニでゴリゴリ君を取り合ったお前とこんなふうに出来ちまうなんて、俺はなんてふしだらで尻の軽い男なんだ。」
言葉とは裏腹に燐は一途な男だった。
「ほんまやなあ。一個しか残ってないゴリゴリ君を取り合ったのはええけど、お前は財布持ってくるのを忘れてて。仕方なく俺と半分にしたんやなあ。」
あの時はどうしてもゴリゴリ君が食べたくてコンビニに走ったものだったが、実はそのときから燐との運命を感じていたのかもしれない。教会の片隅で寄り添いあう二人を闇夜が優しく隠してくれていた。
「明陀と俺んちが敵同士だなんて。しかも俺はサタンの息子だし。なあ、どうしてお前は志摩なんだ? その名前を俺の為に捨ててくれないか? 出来なかったらせめて俺だけを愛してると言ってくれ。」
「おっしゃるとおりにしたるわい。いますぐにでも志摩の名前を捨てて別の人間になったる。」
燐は嬉しいと志摩に抱きついた。志摩も燐を抱きしめ返す。
「俺、ほんとにゴリゴリ君半分くれたとき嬉しかった。」
「お前はゴリゴリ君やったら誰でもええわけやないよな?」
燐は少し考えこんで、そんなわけないと答えた。志摩は溜息をつく。ひょっとしたら自分はゴリゴリ君のついでに好きになられたのではと、ちょっとだけ疑った。しかし燐も十五歳なのだから、そんな馬鹿なことはないと自分に言い聞かせる。それに今夜、この教会に忍んでついさっきまで、あーんなことや、こーんなことまでやっていたのだ。燐は俺初めてなんだと頬を染めて言っていた。それはどうやら本当らしい。ゴリゴリ君半分の見返りにしては嬉しすぎる。たとえ敵の家の息子でも、その単純さとか無邪気さが心底愛おしかった。
まだ噂でしか聞いていない話だが、どうやら燐には結婚話が持ち上がっているらしい。燐はわけありの子どもなので、任せられる相手は限られている。南十字教会よりも上の家柄の息子・アーサー・О・エンジェル。金ぴか頭の将来有望で非の打ち所の無い騎士。明陀の僧正とはいえ末端の五男坊の冷や飯食いが争っても勝てそうにない相手。
そんな男が物好きにも燐を見初めてしまったらしい。そりゃあちょっと凶暴なところはあるけど、可愛い顔立ちだし料理上手だし、お行儀が悪いところはあるけど素直ないいこだ。それは志摩が身をもって知っている。
「燐。お前に結婚の話があるらしいんやけど、ほんとなんか?」
あー。と燐はどうでも良さそうに頷いている。
「うちさあ、弟の雪男がさ、俺にべったりで親父がいろいろと心配してるんだよ。だから変なことが怒らないうちに俺をどっかの家に嫁がせたいらしくて。」
いかにも親が言ったことをそのまま鸚鵡返しに言っているようだった。たぶん深い意味は絶対に分かっていないのだろうと志摩は思った。
『結婚話そのものよりも、結婚話の原因になったっちゅー弟のほうが厄介やな。』
燐は暢気に志摩に言う。
「大丈夫だって。お前どうせ明陀の中でも立場が低いんだから。俺がアーサーとの結婚を断って、お前が明陀出てくれば一緒になれるって。て、いうか。お前手ぇ出してきたんだから、ちゃんと責任取ってくれよ。」
脅迫する言葉までも可愛らしかった。
「わかった、燐。俺は家も親も捨てるわ。そして責任は取る。」
燐は嬉しそうに頷く。
「でも、しょうもない問題だけは起こすなよ。例えばコンビニでエロ本万引きとかな。」
「なんでそないなことせんとあかんのんや。」
* * *
「お客さん。カバンの中にエロ本しまって金も払わんと出ていかれたら困りますぅ。」
しかし今現在、志摩ははコンビニの店長に詰め寄られている最中だった。
燐との逢瀬の一日後。奇しくも燐と出会ったコンビニで、燐の最大の危惧が現実になっていた。勿論志摩には身に覚えがない。しかし何故かカバンの中に今日発売のエロ本が勝手に忍び込んでいた。
「罠や!」
「罠とちゃいます。言わせてもろうたら、お客さんのほうが罠や。わしらコンビニの店員にとっては、万引きほど憎むべき犯罪はありまへん。どう考えてもお客さんのカバンから出てきたんやから、お客さんが犯人と違いますん?」
「そうは言うても、俺は手に取っただけや。カバンの中には入れとらへん。」
「なんや! 素直にごめんなさい言うたら初回やから許したろう思うたけど、わけのわからん言い訳した時点でアウトや。」
「わあ! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「ごめんなさいで済んだら警察はいらんのとちゃいます?」
「さっきと言ってること違う!」
「お客さん。失礼やけど何歳? 身分証見せてもらいますか?」
志摩は学生証を渋々見せる。
「十五歳? エロ本買える歳やあらへんやろ? そやから黙ってカバン中に入れたとちゃいますん?」
「あうう……」
志摩はエロ本を立ち読みしていた時の状況を思い出そうとしていた。
店員が行列の出来たレジを捌いていた頃だった。雑誌コーナーには自分と同じようにジャンプスクエアを立ち読みする、長身で黒コート眼鏡で黒子が目立つ端正な男が立っていた。何かの拍子に目があったとき、男はスッと自分の横から立ち去った。そのとき肩がぶつかる感触を覚えた。「失礼」と言ってその男はレジにスクエアを差し出して会計をしてもらっていた。そのあと男は店から出たのにこちらを窺うように暫く店の外に佇んでいたと思う。
『もしかして……』
志摩が何かを思いついても、もう遅い。
「このことは親御さんに連絡させて貰いますぅ。あんた名家の明陀の息子やろ? 語領主様にも一応言うとかんとなあ。犯罪の目は一つずつ摘んでおくに限るわあ。」
志摩が家を追い出された知らせは燐にも届いた。そしてその傍らには燐を慰める弟の雪男がいた。
「志摩が……。嘘だろ。あんなに約束したのに。信じてたのに。」
「兄さんがあの志摩君の万引きになんでそんなに動揺しているのかは、この場では訊かないことにするから。」
雪男は燐の嘆きをさらっと流そうとしたが、燐にはそうはいかなかった。
「いや、訊いてくれよ! じゃないと。この気持ちをどうしていいか分からないんだよ。」
「えー……。」
弟をなんだかんだで信頼してくれているのは嬉しいが、その信頼を今こんな形で示されるのは微妙に嫌過ぎた。物心ついてからずっと兄を、兄以上の存在と思っていた雪男だった。そしてその思いを隠そうともせずオープンに露骨に周りが退くほどに示してきたが、兄からすればそれが弟の自然体だと思い込んでしまったので、まるで一ミリも伝わっていなかった。
弟の気も知らないで、あろうことか敵の明陀の僧正家の五男坊に手を出されて、燐に対して理不尽な怒りを覚えなかったと言えば、穏便過ぎる言い方だろう。煮えくり返った腸と頭を冷やして憎んでも憎み足りない曲者の外道を葬ることにした。
しかしそれを実行して残ったのは、ひたすら志摩を心配して志摩への思いをよりによって自分に訴えている燐の姿だった。
誤算だった。ゴリゴリ君が引き寄せた、夏風邪のような、すぐに醒める白昼夢のような恋愛ごっこな恋だと思い込んでしまったのが雪男の誤算だった。
「う……。うぅ……。志摩のやつ、そんなに欲求不満が溜まってたんだな。俺がどうにか出来たはずなのに。」
「そうだよ! 志摩君は酷いやつだよ! 兄さんという人がありながら、エロ本でさらに解消しようだなんて。甘いものは別腹っていう女の子じゃあるまいし。本当に最低な行為だよね。今回捕まって良かったよ。」
燐は何故か赤い顔で何か思い返しているようだった。
「捕まるようなことをさせたのは、俺かもしれない。志摩が俺のゴリゴリ君を舐めてくれって言ったとき断らなきゃ良かったんだ。志摩は初心やなって褒めてくれたのを鵜呑みにしたのが悪かったんだ。俺、志摩のパピ子ならちゅーちゅーしたかったのに。」
「兄さん!」
とんでもない方向に兄が動揺し始めている。エロ本の万引きは本当に露骨過ぎたかもしれない。
「……落ち着いて。ていうか、ゴリゴリ君とパピ子って大きさに随分と違いがあるよね? 本当のところはどっち寄りなの? 志摩君のって。」
弟のほうがよほど動揺していた。燐は言わないでいいことを、何も考えずに口にする。
「ゴリゴリ君って言ったら、その、……語感からして痛そうだろ。俺としては可愛くパピ子って言っておきたかっただけなんだ。」
「じゃあやっぱりゴリゴリ君くらい!」
くそう。明陀の息子の癖に。
生意気にそんな逸品を隠し持っているだなんて。しかもそれを僕の大事な兄さんに舐めさせようとしていたなんて。
しかし雪男とて居村屋の小豆バーくらいのものは装備しているつもりだ。ゴリゴリ君には勝てないかもしれないが、大きければいいというものでもない。あのまったりとして飽きさせない味がいいのだ。
「兄さん。本当に落ち着こう。兄さんには結婚の話もあるんだから。」
雪男としてはその結婚話にも納得していないが、この場はこうでも言わないと兄を窘められないので敢えて言う。
「なにー。あのアーサーとか言うやつか? くそう。あんなところに嫁に行ったら、ゴリゴリ君なんて庶民的なもんは食えなくなるかもしんねえ。」
「ゴリゴリ君から離れようよ。」
「お高くとまったハーゲンダッツとか、レディーボーデンなんかしか食えなくなるのかよ。」
「ある意味幸せじゃない。それ。」
「俺はゴリゴリ君がいいんだよ!」
燐は雪男の胸に顔を埋めるとべそべそと泣き始めた。雪男はそんな燐を優しく抱きしめながら、次の標的の抹殺に思いを馳せていた。
* * *
「にゃははは! 同じ手を何度も使おうなんて、策士の雪男君らしくないんだにゃ。」
手を後ろにねじり上げられ、雪男はその綺麗な形の眉を歪めた。雪男の手には一冊のエロ本があった。雪男が謎の人物に手を取られているのは、本屋の雑誌のコーナーの片隅の成人向け雑誌のコーナーだった。雪男の視線の先には書店をあとにするアーサーがいる。雪男の目が悔しそうにそれを凝視していた。
「志摩君から、あんたと似たやつと直前に接触したって聞いて、ちょっと嫌な予感はしたけど、まさかそのままあんただとは思わなかったよ。」
「あなたは、何でも屋のシュラ。」
「あんたとは修行時代の好だから、今すぐ店員には突き出すつもりはない。でもあの店長さんと志摩君と燐には、きちんと謝って釈明しろよ。」
「なんの証拠があって……」
「私は何でも屋だからにゃあ。志摩廉造に頼まれて、真実を見つけ出して欲しいって依頼されたんだよ。」
「そして僕を破滅に追い込めとも?」
シュラはその厚い唇で苦々しい笑みを浮かべる。
「あんたの破滅までが志摩廉造の依頼なら、すでにあんたは本屋の事務所にいるはずだよ。店長を目の前にしてね。志摩は自分の無実を晴らして燐のもとに帰れればいいんだ。あの黒コートで眼鏡で黒子の目立つ男を、一言だって奥村雪男だって言ってなかったよ。」
「くそっ。敵に情けを掛けられるなんて。」
シュラは雪男の肩に馴れ馴れしく腕を回してきた。
「ほんで、こっからは提案なんだけどよ。今回のことは燐にだけは内緒にしといてやるから、お前はこれ以上、志摩と燐の関係を妨害するのはやめろ。アーサーとの結婚のことは、もともとお前が燐に行き過ぎた感情を隠そうとしないのを、藤本が心配して組んだ縁談なんだから。あんたに何も心配することがなければ、なかったことになっても大丈夫なんだよ。」
「僕が一人だけ我慢するんですかっ!」
シュラはぽりぽり頭を掻きながら、「それで丸く収まるし」とぼやいている。
「燐に接触する男が出てくる度に、お前がそいつらのカバンにエロ本を突っ込み続けるなんて悲しいどころの話じゃねえぞ。少しは藤本と姉弟子の気持ちも汲んでくれよ。」
今度は肩をぽんぽんと叩く。
「嫌だと言ったら?」
「志摩君と同じ思いをして貰おうかな。バックルームで店長クラスにいびられるのは辛いもんなんだよ。優等生の雪男君に耐えられるかな?」
雪男は手に持っていたエロ本を元のところに返す。そして脱力して気の抜けた笑みを見せた。
「わかりました。兄さんに僕の悪事がばれるのは、勘弁して欲しいですからね。」
「よっし。交渉成立。同時に藤本と明陀の和尚様の依頼も完了。」
雪男はぎょっと目を剥いた。
「父さんと、達磨和尚?」
「そんなことはどうでもいいんだよ。お姉さんと一緒にこれから方々に謝りにいくぞ。」
雪男はシュラに手を引かれて本屋を出る。自分の罪を雪ぎに行くのだった。
* * *
エピローグというか。その後の結末。
「志摩。あーん。」
志摩が持っているゴリゴリ君の味違いを燐は差し出してくる。志摩はもともと垂れていた目を余計に垂れさせながらかぶりついた。
二人がいるのは真夜中の教会。志摩の万引き冤罪騒動を機に関係修復した両家なのに、二人は隠れるような密会を続けている。妙な習性だった。
「志摩が帰ってきて本当によかった。お前のカバンにエロ本を突っ込んだのは誰かのイタズラだったみたいだし。」
「ほんま。手の込んだことをやってくれるわ。」
燐はその犯人が弟だということを知らない。志摩とシュラと両家の当主と、結果として巻き込まれたコンビニの店長しか知らない事実だった。
次は志摩がゴリゴリ君を差し出す。燐も同じようにかぶりついた。
「アーサーさんいう人があっさり縁談をなしにしてくれたのは助かったわ。そのせいで俺らの関係もみんなにばれてしもうたけど。」
しかし両家の反応はそれほど殺伐としなかった。両家とも構成員は過激な思想を持っていないことを今回で証明したというわけだ。ダ○ーズとか、黄○族とは違うのだ。
「それよりも、燐。」
「あ……。うん。」
燐のせつなそうな声に調子に乗っていく志摩。
志摩の後頭部に硬い感触があたる。
「それで君と兄さんの関係もなかったことになれば良かったんだけどね。」
「若先生。冗談はよしや。」
「ははは。僕は冗談は嫌いだね。」
「雪男! やきもち妬くなよっ。お前にもやるから。」
燐は自分のゴリゴリ君を弟に差し出す。雪男は嫌そうに言う。
「嫌だよ。志摩君と間接キスだなんて。」
志摩と燐は顔を見合わせる。雪男は結婚するまでは僕に内緒でエッチなことはしないでよと言うと、礼拝堂を出て行った。
「言われてもなあ。それは聞けんなあ。」
燐のシャツの中に志摩の手が這い登っていく。燐はきゃあっと言いながらも振り払う素振りは見せなかった。雪男が礼拝堂の入り口からひょこっと顔を見せる。
「約束破ったら、君のお父さんと坊と和尚様に逐一報告するから。」
志摩は慌てて燐から離れる。和尚様ならともかく、坊と父親の説教は怖かった。しかし弟の冗談じゃない冗談を聞いて吹き出す燐は可愛かった。
色々と矛盾する世界の奇妙な物語はこれでお終い。めでたし、めでたし。かな?
タイトルをそのまま借りたくせにストーリーを踏襲してないわ、死んでるはずの人は生きてるわ、アーサーは名前と後姿しかでないわ、雪男はこすいわ、燐は馬鹿だわでごめんなさい。ツッコミどころしかない話として笑って読んでいただければ助かります。
リクエストありがとうございました!
『舞台は唐突に中世イタリアのベローナだにゃ。そこには同じような声望を享受していた二つの名門があったんだにゃあ。片や南十字教会。藤本獅郎がまとめる修道院だ。片や明王陀羅尼宗(明陀)。気のいい和尚さんを頂点に家族ぐるみでやっている寺だ。昔からの両家の確執は平和な市民の血を流す酷い暴力沙汰と相成ってたんだにゃ。こともあろうにいがみ合う両家に、生まれし二人の男たちが出会い、やがて運命の結末を迎えるにゃあ。』
明陀の志摩家の五男坊・廉造は南十字教会に忍び込んでいた。もし見つかれば袋叩きにされても仕方が無い。しかもその目的たるや、万死に値するといってもいい。何せ南十字教会が抱え込んでいる秘密の子ども、サタンの落胤に逢瀬を仕掛けているのだから。
「本当に、コンビニでゴリゴリ君を取り合ったお前とこんなふうに出来ちまうなんて、俺はなんてふしだらで尻の軽い男なんだ。」
言葉とは裏腹に燐は一途な男だった。
「ほんまやなあ。一個しか残ってないゴリゴリ君を取り合ったのはええけど、お前は財布持ってくるのを忘れてて。仕方なく俺と半分にしたんやなあ。」
あの時はどうしてもゴリゴリ君が食べたくてコンビニに走ったものだったが、実はそのときから燐との運命を感じていたのかもしれない。教会の片隅で寄り添いあう二人を闇夜が優しく隠してくれていた。
「明陀と俺んちが敵同士だなんて。しかも俺はサタンの息子だし。なあ、どうしてお前は志摩なんだ? その名前を俺の為に捨ててくれないか? 出来なかったらせめて俺だけを愛してると言ってくれ。」
「おっしゃるとおりにしたるわい。いますぐにでも志摩の名前を捨てて別の人間になったる。」
燐は嬉しいと志摩に抱きついた。志摩も燐を抱きしめ返す。
「俺、ほんとにゴリゴリ君半分くれたとき嬉しかった。」
「お前はゴリゴリ君やったら誰でもええわけやないよな?」
燐は少し考えこんで、そんなわけないと答えた。志摩は溜息をつく。ひょっとしたら自分はゴリゴリ君のついでに好きになられたのではと、ちょっとだけ疑った。しかし燐も十五歳なのだから、そんな馬鹿なことはないと自分に言い聞かせる。それに今夜、この教会に忍んでついさっきまで、あーんなことや、こーんなことまでやっていたのだ。燐は俺初めてなんだと頬を染めて言っていた。それはどうやら本当らしい。ゴリゴリ君半分の見返りにしては嬉しすぎる。たとえ敵の家の息子でも、その単純さとか無邪気さが心底愛おしかった。
まだ噂でしか聞いていない話だが、どうやら燐には結婚話が持ち上がっているらしい。燐はわけありの子どもなので、任せられる相手は限られている。南十字教会よりも上の家柄の息子・アーサー・О・エンジェル。金ぴか頭の将来有望で非の打ち所の無い騎士。明陀の僧正とはいえ末端の五男坊の冷や飯食いが争っても勝てそうにない相手。
そんな男が物好きにも燐を見初めてしまったらしい。そりゃあちょっと凶暴なところはあるけど、可愛い顔立ちだし料理上手だし、お行儀が悪いところはあるけど素直ないいこだ。それは志摩が身をもって知っている。
「燐。お前に結婚の話があるらしいんやけど、ほんとなんか?」
あー。と燐はどうでも良さそうに頷いている。
「うちさあ、弟の雪男がさ、俺にべったりで親父がいろいろと心配してるんだよ。だから変なことが怒らないうちに俺をどっかの家に嫁がせたいらしくて。」
いかにも親が言ったことをそのまま鸚鵡返しに言っているようだった。たぶん深い意味は絶対に分かっていないのだろうと志摩は思った。
『結婚話そのものよりも、結婚話の原因になったっちゅー弟のほうが厄介やな。』
燐は暢気に志摩に言う。
「大丈夫だって。お前どうせ明陀の中でも立場が低いんだから。俺がアーサーとの結婚を断って、お前が明陀出てくれば一緒になれるって。て、いうか。お前手ぇ出してきたんだから、ちゃんと責任取ってくれよ。」
脅迫する言葉までも可愛らしかった。
「わかった、燐。俺は家も親も捨てるわ。そして責任は取る。」
燐は嬉しそうに頷く。
「でも、しょうもない問題だけは起こすなよ。例えばコンビニでエロ本万引きとかな。」
「なんでそないなことせんとあかんのんや。」
* * *
「お客さん。カバンの中にエロ本しまって金も払わんと出ていかれたら困りますぅ。」
しかし今現在、志摩ははコンビニの店長に詰め寄られている最中だった。
燐との逢瀬の一日後。奇しくも燐と出会ったコンビニで、燐の最大の危惧が現実になっていた。勿論志摩には身に覚えがない。しかし何故かカバンの中に今日発売のエロ本が勝手に忍び込んでいた。
「罠や!」
「罠とちゃいます。言わせてもろうたら、お客さんのほうが罠や。わしらコンビニの店員にとっては、万引きほど憎むべき犯罪はありまへん。どう考えてもお客さんのカバンから出てきたんやから、お客さんが犯人と違いますん?」
「そうは言うても、俺は手に取っただけや。カバンの中には入れとらへん。」
「なんや! 素直にごめんなさい言うたら初回やから許したろう思うたけど、わけのわからん言い訳した時点でアウトや。」
「わあ! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「ごめんなさいで済んだら警察はいらんのとちゃいます?」
「さっきと言ってること違う!」
「お客さん。失礼やけど何歳? 身分証見せてもらいますか?」
志摩は学生証を渋々見せる。
「十五歳? エロ本買える歳やあらへんやろ? そやから黙ってカバン中に入れたとちゃいますん?」
「あうう……」
志摩はエロ本を立ち読みしていた時の状況を思い出そうとしていた。
店員が行列の出来たレジを捌いていた頃だった。雑誌コーナーには自分と同じようにジャンプスクエアを立ち読みする、長身で黒コート眼鏡で黒子が目立つ端正な男が立っていた。何かの拍子に目があったとき、男はスッと自分の横から立ち去った。そのとき肩がぶつかる感触を覚えた。「失礼」と言ってその男はレジにスクエアを差し出して会計をしてもらっていた。そのあと男は店から出たのにこちらを窺うように暫く店の外に佇んでいたと思う。
『もしかして……』
志摩が何かを思いついても、もう遅い。
「このことは親御さんに連絡させて貰いますぅ。あんた名家の明陀の息子やろ? 語領主様にも一応言うとかんとなあ。犯罪の目は一つずつ摘んでおくに限るわあ。」
志摩が家を追い出された知らせは燐にも届いた。そしてその傍らには燐を慰める弟の雪男がいた。
「志摩が……。嘘だろ。あんなに約束したのに。信じてたのに。」
「兄さんがあの志摩君の万引きになんでそんなに動揺しているのかは、この場では訊かないことにするから。」
雪男は燐の嘆きをさらっと流そうとしたが、燐にはそうはいかなかった。
「いや、訊いてくれよ! じゃないと。この気持ちをどうしていいか分からないんだよ。」
「えー……。」
弟をなんだかんだで信頼してくれているのは嬉しいが、その信頼を今こんな形で示されるのは微妙に嫌過ぎた。物心ついてからずっと兄を、兄以上の存在と思っていた雪男だった。そしてその思いを隠そうともせずオープンに露骨に周りが退くほどに示してきたが、兄からすればそれが弟の自然体だと思い込んでしまったので、まるで一ミリも伝わっていなかった。
弟の気も知らないで、あろうことか敵の明陀の僧正家の五男坊に手を出されて、燐に対して理不尽な怒りを覚えなかったと言えば、穏便過ぎる言い方だろう。煮えくり返った腸と頭を冷やして憎んでも憎み足りない曲者の外道を葬ることにした。
しかしそれを実行して残ったのは、ひたすら志摩を心配して志摩への思いをよりによって自分に訴えている燐の姿だった。
誤算だった。ゴリゴリ君が引き寄せた、夏風邪のような、すぐに醒める白昼夢のような恋愛ごっこな恋だと思い込んでしまったのが雪男の誤算だった。
「う……。うぅ……。志摩のやつ、そんなに欲求不満が溜まってたんだな。俺がどうにか出来たはずなのに。」
「そうだよ! 志摩君は酷いやつだよ! 兄さんという人がありながら、エロ本でさらに解消しようだなんて。甘いものは別腹っていう女の子じゃあるまいし。本当に最低な行為だよね。今回捕まって良かったよ。」
燐は何故か赤い顔で何か思い返しているようだった。
「捕まるようなことをさせたのは、俺かもしれない。志摩が俺のゴリゴリ君を舐めてくれって言ったとき断らなきゃ良かったんだ。志摩は初心やなって褒めてくれたのを鵜呑みにしたのが悪かったんだ。俺、志摩のパピ子ならちゅーちゅーしたかったのに。」
「兄さん!」
とんでもない方向に兄が動揺し始めている。エロ本の万引きは本当に露骨過ぎたかもしれない。
「……落ち着いて。ていうか、ゴリゴリ君とパピ子って大きさに随分と違いがあるよね? 本当のところはどっち寄りなの? 志摩君のって。」
弟のほうがよほど動揺していた。燐は言わないでいいことを、何も考えずに口にする。
「ゴリゴリ君って言ったら、その、……語感からして痛そうだろ。俺としては可愛くパピ子って言っておきたかっただけなんだ。」
「じゃあやっぱりゴリゴリ君くらい!」
くそう。明陀の息子の癖に。
生意気にそんな逸品を隠し持っているだなんて。しかもそれを僕の大事な兄さんに舐めさせようとしていたなんて。
しかし雪男とて居村屋の小豆バーくらいのものは装備しているつもりだ。ゴリゴリ君には勝てないかもしれないが、大きければいいというものでもない。あのまったりとして飽きさせない味がいいのだ。
「兄さん。本当に落ち着こう。兄さんには結婚の話もあるんだから。」
雪男としてはその結婚話にも納得していないが、この場はこうでも言わないと兄を窘められないので敢えて言う。
「なにー。あのアーサーとか言うやつか? くそう。あんなところに嫁に行ったら、ゴリゴリ君なんて庶民的なもんは食えなくなるかもしんねえ。」
「ゴリゴリ君から離れようよ。」
「お高くとまったハーゲンダッツとか、レディーボーデンなんかしか食えなくなるのかよ。」
「ある意味幸せじゃない。それ。」
「俺はゴリゴリ君がいいんだよ!」
燐は雪男の胸に顔を埋めるとべそべそと泣き始めた。雪男はそんな燐を優しく抱きしめながら、次の標的の抹殺に思いを馳せていた。
* * *
「にゃははは! 同じ手を何度も使おうなんて、策士の雪男君らしくないんだにゃ。」
手を後ろにねじり上げられ、雪男はその綺麗な形の眉を歪めた。雪男の手には一冊のエロ本があった。雪男が謎の人物に手を取られているのは、本屋の雑誌のコーナーの片隅の成人向け雑誌のコーナーだった。雪男の視線の先には書店をあとにするアーサーがいる。雪男の目が悔しそうにそれを凝視していた。
「志摩君から、あんたと似たやつと直前に接触したって聞いて、ちょっと嫌な予感はしたけど、まさかそのままあんただとは思わなかったよ。」
「あなたは、何でも屋のシュラ。」
「あんたとは修行時代の好だから、今すぐ店員には突き出すつもりはない。でもあの店長さんと志摩君と燐には、きちんと謝って釈明しろよ。」
「なんの証拠があって……」
「私は何でも屋だからにゃあ。志摩廉造に頼まれて、真実を見つけ出して欲しいって依頼されたんだよ。」
「そして僕を破滅に追い込めとも?」
シュラはその厚い唇で苦々しい笑みを浮かべる。
「あんたの破滅までが志摩廉造の依頼なら、すでにあんたは本屋の事務所にいるはずだよ。店長を目の前にしてね。志摩は自分の無実を晴らして燐のもとに帰れればいいんだ。あの黒コートで眼鏡で黒子の目立つ男を、一言だって奥村雪男だって言ってなかったよ。」
「くそっ。敵に情けを掛けられるなんて。」
シュラは雪男の肩に馴れ馴れしく腕を回してきた。
「ほんで、こっからは提案なんだけどよ。今回のことは燐にだけは内緒にしといてやるから、お前はこれ以上、志摩と燐の関係を妨害するのはやめろ。アーサーとの結婚のことは、もともとお前が燐に行き過ぎた感情を隠そうとしないのを、藤本が心配して組んだ縁談なんだから。あんたに何も心配することがなければ、なかったことになっても大丈夫なんだよ。」
「僕が一人だけ我慢するんですかっ!」
シュラはぽりぽり頭を掻きながら、「それで丸く収まるし」とぼやいている。
「燐に接触する男が出てくる度に、お前がそいつらのカバンにエロ本を突っ込み続けるなんて悲しいどころの話じゃねえぞ。少しは藤本と姉弟子の気持ちも汲んでくれよ。」
今度は肩をぽんぽんと叩く。
「嫌だと言ったら?」
「志摩君と同じ思いをして貰おうかな。バックルームで店長クラスにいびられるのは辛いもんなんだよ。優等生の雪男君に耐えられるかな?」
雪男は手に持っていたエロ本を元のところに返す。そして脱力して気の抜けた笑みを見せた。
「わかりました。兄さんに僕の悪事がばれるのは、勘弁して欲しいですからね。」
「よっし。交渉成立。同時に藤本と明陀の和尚様の依頼も完了。」
雪男はぎょっと目を剥いた。
「父さんと、達磨和尚?」
「そんなことはどうでもいいんだよ。お姉さんと一緒にこれから方々に謝りにいくぞ。」
雪男はシュラに手を引かれて本屋を出る。自分の罪を雪ぎに行くのだった。
* * *
エピローグというか。その後の結末。
「志摩。あーん。」
志摩が持っているゴリゴリ君の味違いを燐は差し出してくる。志摩はもともと垂れていた目を余計に垂れさせながらかぶりついた。
二人がいるのは真夜中の教会。志摩の万引き冤罪騒動を機に関係修復した両家なのに、二人は隠れるような密会を続けている。妙な習性だった。
「志摩が帰ってきて本当によかった。お前のカバンにエロ本を突っ込んだのは誰かのイタズラだったみたいだし。」
「ほんま。手の込んだことをやってくれるわ。」
燐はその犯人が弟だということを知らない。志摩とシュラと両家の当主と、結果として巻き込まれたコンビニの店長しか知らない事実だった。
次は志摩がゴリゴリ君を差し出す。燐も同じようにかぶりついた。
「アーサーさんいう人があっさり縁談をなしにしてくれたのは助かったわ。そのせいで俺らの関係もみんなにばれてしもうたけど。」
しかし両家の反応はそれほど殺伐としなかった。両家とも構成員は過激な思想を持っていないことを今回で証明したというわけだ。ダ○ーズとか、黄○族とは違うのだ。
「それよりも、燐。」
「あ……。うん。」
燐のせつなそうな声に調子に乗っていく志摩。
志摩の後頭部に硬い感触があたる。
「それで君と兄さんの関係もなかったことになれば良かったんだけどね。」
「若先生。冗談はよしや。」
「ははは。僕は冗談は嫌いだね。」
「雪男! やきもち妬くなよっ。お前にもやるから。」
燐は自分のゴリゴリ君を弟に差し出す。雪男は嫌そうに言う。
「嫌だよ。志摩君と間接キスだなんて。」
志摩と燐は顔を見合わせる。雪男は結婚するまでは僕に内緒でエッチなことはしないでよと言うと、礼拝堂を出て行った。
「言われてもなあ。それは聞けんなあ。」
燐のシャツの中に志摩の手が這い登っていく。燐はきゃあっと言いながらも振り払う素振りは見せなかった。雪男が礼拝堂の入り口からひょこっと顔を見せる。
「約束破ったら、君のお父さんと坊と和尚様に逐一報告するから。」
志摩は慌てて燐から離れる。和尚様ならともかく、坊と父親の説教は怖かった。しかし弟の冗談じゃない冗談を聞いて吹き出す燐は可愛かった。
色々と矛盾する世界の奇妙な物語はこれでお終い。めでたし、めでたし。かな?
タイトルをそのまま借りたくせにストーリーを踏襲してないわ、死んでるはずの人は生きてるわ、アーサーは名前と後姿しかでないわ、雪男はこすいわ、燐は馬鹿だわでごめんなさい。ツッコミどころしかない話として笑って読んでいただければ助かります。
リクエストありがとうございました!
☆リクエスト企画ss「ロンド3」 「ロンド2」の翌朝
kuroさんのリクエストで「ロンド」の続編です。でもオフで長編あげているので今回も番外編です。
雪男に勝呂から引き離された次の日は、幸か不幸か学校の無い土曜日だった。
「姉さん、起きた?」
「今起きた。」
雪男は既に普段着に着替えている。燐はもぞもぞとベッドの上で着替え始めていた。雪男は椅子に座って背を向けている。後ろの気配を探りながら姉が全て着替え終えたところを見計らって振り向く。
「姉さん。ゆうべはお風呂に入ってないだろ。」
「えー。別にいいじゃん一日くらい。」
昨晩のしおらしさがまるでない。いつまでも引きずられるのは雪男にとっても都合が悪いが、邪な想いを肯定するならば、泣いている姉は雪男には堪らないものがあったのに。寝たら元通りなのには少々苦笑いを浮かべざるをえない。でもそうやってくるくる変わる姉の表情を見るのは悪くない。しかし風呂に入らなくても平気な姉というのは、男にとって受け入れがたい、率直に言うと幻滅の対象だった。
「つべこべ言わず入ってきて。折角姉さんの為に沸かしてきたばっかりなのに。」
この寮は実質上、奥村姉弟の家といっても差し支えない場所だ。雪男が塾の講師という立場であるので、管理人も兼ねて大丈夫という変な状況がまかり通っていた。燐は勿体ねえよなとぶつぶつ言いながらタオルと下着を準備している。
「手鏡も持っていきなよ。いつも頭の後ろぼさぼさにしがちなんだから。」
姉の抱える入浴セットの上に雪男は手鏡を置いた。
「別にお前だけなんだから。誰が見るってわけでもないじゃん。」
「少しは弟の前でも身奇麗にして欲しいんだけど。」
恋の相手に、身内だからという理由で、無造作なところばかり見せられるのは正直辛かった。所詮は勝手な男の幻想だけど。燐にとっては自分は男のうちに入っていなんだろうけど。少しでも弟でも男なんだとわかって欲しい。
雪男は燐の背中を押して部屋から追い出した。背中をドアに凭れ掛からせて廊下の気配が消えるのを待った。
「網走に行ってもこんな調子じゃ困るな。」
二人きりの生活に夢を馳せていたものだが、ちょっと現実を振り返ってみたら途方に暮れてしまった。
* * *
燐は脱衣所につくと籠に着替えを置いた。雪男に手渡された手鏡もそこに置く。着ているものをぽんぽんと脱ぎ捨てると、家庭用の風呂よりは多少は大きい湯船に漬かった。
「なんか起きたあとの風呂って、目が冴え過ぎて好きじゃねえんだよ。雪男のやつがうるさく言うから。」
雪男は朝風呂の目が覚める感じが好きだと言う。そんな弟の好みが反映されているのか、湯の温度は少し熱めだった。なので燐は長いこと入っていられずに、すぐに洗い場に出て身体を洗うことにした。
「なんだかんだ言って、あいつって世話焼きだもんな。その好意は姉ちゃんとして無視出来ないし。でもやっぱ、勿体ねえよな。俺一人が入るのにこんなたっぷり湯を張ってくれても。そうだ。あいつも一緒に入ればいいじゃねえか。あー、今更呼びにいけねえ。」
今度唐突に風呂に入って来いと言われたら、忘れなかったら一緒に入ろうと誘ってやると燐は的外れな決意を胸に秘めた。ただの勿体ない根性だった。
燐は身体をかなりいい加減に洗い終わると、背を向けた熱めの湯船を憂鬱そうに見た。勿体ないので水でぬるめにするのは遠慮したいが、雪男の温度接待は燐には熱すぎる。その証拠に湯に漬かった燐の肌はピンクを通り越して、真っ赤に染まっていた。
「あーもう。やっぱりいいや!」
風呂場に着てから十分も経たないうちに燐は脱衣所に出た。すると奇妙な現象を目にした。雪男に渡された手鏡から青い炎が立ち上っている。燐の持ってきた服やらタオルやらを燃やしながら。
『お久しぶりだな。お前のパパだぞ!』
「あー。またお前かよ。」
雪男のいないときに燐の所持品を駄目にしながらサタンがプチ降臨してくることは何回もあったが、娘が全裸のときに降臨したのは今回が初めてだった。燐は決まりきった文句を今回も口にする。
「お前のことを父親だなんて思ってねえよ!」
『でもお前は周りの人間とか弟にとっては、『オレの娘』なんだぜ。』
サタンが嬉しそうに言うと、手鏡の表面にひびが走る。
「だからそのうち、てめえをぶっ飛ばす。俺を娘に持ったことを後悔させてやる。」
『あーあ。勝呂君がいらん知恵を娘につけるから。』
「お前さえどうにかすれば、俺は自由になれるんだよ。」
『純粋だねえ。健気だねえ。本当にオレ、だけ、どうにかすれば、お前は自由なのかな?』
燐は首を傾げてサタンの言うことを煩そうに聞いている。サタンはそんな娘の表情に含み笑いの声を漏らした。
『それにしてもお前、だんだん女っぽくなってきたじゃねえか。』
「俺は元から女だよ。」
『その無自覚なところをどうにかすればそれこそ、お前の好き勝手に生きられるんだけどな。ちょっと自覚的になってくれよ。悪魔の娘なんだから。』
燐は開いた口が塞がらない。サタンは畳み掛ける。
『お前の弟がなんで、お前が懐いている男に突っかかるか分かってねえだろ。』
「それは俺が迂闊だったから。網走行きは決まっているのに、必要以上に仲良くなってるのを心配してくれてるから。」
『お前は本当に馬鹿だな。どうしてそもそもお前の網走行きに弟までついてくるんだ? お前の弟は自分の得になりそうもないのに人生をお前に投げ打っても構わない、そんな阿呆なお人よしなのか?』
「雪男を巻き込んじまったのは、本当にすまないって思ってる。だから、俺は強くなってお前をぶっ飛ばしてやる。そうすれば俺も自由だし、雪男だって俺に巻き込まれずに済むんだ。」
燐の剣幕にサタンは声を詰まらせる。しかしその詰まった声は哄笑として脱衣所を満たす。
『ははは、あははっはははは! おめでたいとは違う。健気過ぎて見てられねえ! お前の弟はとんだ果報者だ。それを知らずにあの弟はこそこそひそひそ、せせこましいみみっちい真似ばかり考え付くから始末におけねえ。』
燐は脱衣所の隅に置いてあったボンベを取ってくると、ノズルを鏡に向けた。
『あ。お前それ聖水だろ。』
「雪男を、馬鹿にするな。雪男はせせこましくないし、みみっちくない。」
『もう少し喋らせろよ。お前の弟の悪口言ったことは謝るから。ほんとごめん。』
燐はノズルを構えたまま鏡のサタンに対峙している。次また燐の知り合いの悪口を言ったら遠慮なく聖水を浴びせる気満々だった。
サタンは語る。
『お前、悪魔の娘なんだからさ。純潔でいる必要なんて無いじゃねえか。お前がその気になれば、お前の大好きな勝呂君ももっとお前に優しくしてくれるし、お前の弟だってお前の言うことを聞かせられるんだぜ。人間の女だって平気でやってることなんだぞ。お前が遠慮なんかしてどうする。』
「俺がどうその気になりゃあ、そうなるって言うんだ?」
『お? 少しは耳を貸してくれるのか?』
サタンの言うことに耳を貸すのは燐は嫌だったが、勝呂と雪男の間のなんだかわからないわだかまりが解決出来るヒントになるならと、燐はサタンの言葉に興味を持ってしまった。
「てめえの言うことなんか聞くか。」
そう言いながらも燐は一向に手鏡に聖水を浴びせようとしない。サタンはその燐の気持ちを見透かしたように、優しげな声で娘に言う。
『お前は自分が女だって知っていながら、女だっていう事実を何一つ生かしていない。女ってお前が思うより得出来る生き物なんだぜ。男は好きな女次第でなんとでも操られる哀しい生き物なんだ。』
「俺は別にあいつらを操るつもりなんてない。俺はあいつらが少しでも仲良くなれるならと思ったりするだけで。」
『他人のことより自分のことだろ。お前が自分の好きなように物事運べたら、それで解決するんだよ。さっきも言ったろ。お前がその気になりゃあ、どんな男でもお前の思い通りになる。甘い声で掻き口説けばいい。優しくて、私の望みを叶えて、私を自由にして。それで、そのやあっこくてでかい胸を押し付けて、身体を男に委ねればいい。たったそれだけで、お前は今の惨めな境遇から抜け出せるんだぜ。お前を縛り付けている偉そうな聖職者どもも、一皮剥けばただの男なんだ。どんな綺麗ごとを並べて、強がって高潔に生きると決めても、悦楽だとか快楽だとかに逆らえない。精神よりも肉の誘惑のほうが勝るように頭ん中が出来てるんだよ。お前の真面目で姉思いな弟や、お前を気遣う勝呂君も同様だよ。本当はお前の身体にむしゃぶりつきたいのに、お前が、そんなんだから必死に我慢して堪えてくれてやせ我慢してるんだよ。そんな馬鹿で阿呆で律儀過ぎるほど痩せ我慢強い男どもに、ささやかな気持ちばかりのご褒美をあげてやる感覚でいいんだ。いつもありがとう。これは私の気持ちだから。だから受け取って欲しいの。言うことは、たったそれだけでいい。一度でもお前を、その腕に抱いた男はその日からお前の思うがまま。つまらん人間関係を気にして苦しむこともなくなる。なあ、燐――。パパはお前にはすごい素質があると思うんだ。お前がそれを知らずに不遇な十五年を過ごしたことは、本気で悲しいことだと思ってる。お前の今までは本当はお前が置かれるべき立場じゃなかったんだよ。その才能を今後も生かせないで、しんどい人生を送る羽目になってる姿を見るのは、オレは苦しくてしょうがないんだ。お前は網走にあるという雪国の教会に閉じ込められる必要なんてないんだ。パパは虚無界に来てくれなんて言わない。盛大に物質界で面白おかしく暮らしてくれよ。そうだ善は急げだ。そのあられもない格好でお前の弟のところに行って、俺のことを好きにしていいって言ってみろよ。あの堅物の弟が、ケダモノに変わる様は面白いに決まってるぞ。それに! あいつは散々お前のために十年近く頑張ってたんだから、お前がその身を以って報いてやれ。二人きりの休日を淫靡に背徳的に弟と過ごすのも悪くないぞ。勝呂君にはどうしようか? 目の前でスカートを捲り上げて制服のリボンをほどきながら、放課後の教室で、その足の間のお宝で昇天させてやるのも良いよな。坊主っていう人間は、お前が思うよりスケベな生き物なんだ。たがが外れりゃ、本性はそこらへんの男よりえげつないんだぜ。なんせあいつらは人間の本質について普通の人間より詳しいんだからな。ああそうだ。お前は頭が良くないから、弟と勝呂君との秘密の二重生活は無理があると思うから、どっちかに関係がばれたら、いっそ三人で仲良くくんずほぐれつすればいい! そしたら雪男君と勝呂君の仲をお前が取り成したことにもなる。ああ! パパなんだかドキドキしてきたぞ! 燐! 燐! お前は物質界も虚無界に変えてしまうくらいの可能性を――』
「すまん。お前の話全然わからんわ。」
燐の手がボンベの栓を抜く。
『ぎゃあああ!』
手鏡に宿る程度の青い炎は聖水によって消された。燐は溜息をつく。
「服。どうしよ。」
聖水ボンベを使ったから緊急の警報が鳴っている。雪男が銃を構えながら脱衣所に駆け込んできた。
「姉さん! どうかしたの! って、何。」
「雪男。パンツもブラも燃えちゃったんだ。サタンのやつが来た。」
燐はとことこと雪男の前に歩いてくる。雪男は背中を見せながら慌ててシャツを脱いで後ろ手で姉に渡した。
「早く部屋に帰ってパンツとブラを着てよ!」
「なんだよ。怒らなくてもいいじゃねえか。」
「怒ってるんじゃないよ。パニックになってるから大声になってるだけだから。何が起こったかは部屋に帰ってから聞くから。僕は理事長に報告しに行ってくるから、ちゃんと部屋に帰ったら着替えてて!」
雪男のシャツは燐には大きいので、きわどいところは全て隠れてくれた。燐はじろじろと雪男の顔を見ながら脱衣所を出て行く。
「はあ……。もう、姉さんってば。」
雪男の携帯が鳴る。表示される名前はメフィストからだった。
「もしもし。」
『今回は父上が差し出がましい真似をして、誠に申し訳ありませんでした。』
「サタンが出現したと分かった時点で、さっさとこちらに来て対処して欲しかったですよ。」
『私はどっちつかずですからね。堂々と父上と対峙するわけにもいかないんですよ。それに今回の父上の干渉は本当に馬鹿馬鹿しくて。お姉さんに事情を聞いたら、貴方も呆れると思います。』
本当にそれで済むのかよと雪男は眉間に皴が寄った。
一方、燐は部屋に帰って下着を付けながら一人ごちていた。
「なんだよ。雪男のやつ、俺のすっぽんぽん見ても全然嬉しそうじゃなかったじゃねえかよ。いつものように叱られたぞ。サタンの言うことは当てになんねえよな。」
しかし燐の口元には笑みがあった。サタンの言ったことが真実じゃなくて良かったと。たぶんそれは勝呂にも当てはまる。燐はサタンの言うことがわけがわからなかった割に、その言葉の不快な部分を感じ取ってはいた。
「俺は人を好き勝手に利用して、他人の力で自由になりたくねえよ。」
疲れたようなノックが聞こえてくる。
「姉さん。もう着替えたよね。」
「あとシャツを着るだけだから。」
「早く着替えてよ!」
雪男がドアの向こうで声を張り上げる。燐はくすくす笑いながら、わざとのんびりとベッドの上に置いたシャツに手を伸ばした。
「姉さんまだ?」
「まーだー。」
雪男は知らない。男として意識されない幸せを。
しかしそれは知らないからこそ幸せなことなのかもしれない。
今回は雪男メインで行こうと思ったら、サタン様大暴れ回でした。pixivで魔王様とタグで呼ばれた雪男君ですが、本物の魔王様と比べたらまだまだ青いということです。
リクエスト企画参加ありがとうございました。
「ロンド」は本編を続き物でオフで書いているので、オンのほうでは番外編のみになります。よろしければまたリクエストください。
雪男に勝呂から引き離された次の日は、幸か不幸か学校の無い土曜日だった。
「姉さん、起きた?」
「今起きた。」
雪男は既に普段着に着替えている。燐はもぞもぞとベッドの上で着替え始めていた。雪男は椅子に座って背を向けている。後ろの気配を探りながら姉が全て着替え終えたところを見計らって振り向く。
「姉さん。ゆうべはお風呂に入ってないだろ。」
「えー。別にいいじゃん一日くらい。」
昨晩のしおらしさがまるでない。いつまでも引きずられるのは雪男にとっても都合が悪いが、邪な想いを肯定するならば、泣いている姉は雪男には堪らないものがあったのに。寝たら元通りなのには少々苦笑いを浮かべざるをえない。でもそうやってくるくる変わる姉の表情を見るのは悪くない。しかし風呂に入らなくても平気な姉というのは、男にとって受け入れがたい、率直に言うと幻滅の対象だった。
「つべこべ言わず入ってきて。折角姉さんの為に沸かしてきたばっかりなのに。」
この寮は実質上、奥村姉弟の家といっても差し支えない場所だ。雪男が塾の講師という立場であるので、管理人も兼ねて大丈夫という変な状況がまかり通っていた。燐は勿体ねえよなとぶつぶつ言いながらタオルと下着を準備している。
「手鏡も持っていきなよ。いつも頭の後ろぼさぼさにしがちなんだから。」
姉の抱える入浴セットの上に雪男は手鏡を置いた。
「別にお前だけなんだから。誰が見るってわけでもないじゃん。」
「少しは弟の前でも身奇麗にして欲しいんだけど。」
恋の相手に、身内だからという理由で、無造作なところばかり見せられるのは正直辛かった。所詮は勝手な男の幻想だけど。燐にとっては自分は男のうちに入っていなんだろうけど。少しでも弟でも男なんだとわかって欲しい。
雪男は燐の背中を押して部屋から追い出した。背中をドアに凭れ掛からせて廊下の気配が消えるのを待った。
「網走に行ってもこんな調子じゃ困るな。」
二人きりの生活に夢を馳せていたものだが、ちょっと現実を振り返ってみたら途方に暮れてしまった。
* * *
燐は脱衣所につくと籠に着替えを置いた。雪男に手渡された手鏡もそこに置く。着ているものをぽんぽんと脱ぎ捨てると、家庭用の風呂よりは多少は大きい湯船に漬かった。
「なんか起きたあとの風呂って、目が冴え過ぎて好きじゃねえんだよ。雪男のやつがうるさく言うから。」
雪男は朝風呂の目が覚める感じが好きだと言う。そんな弟の好みが反映されているのか、湯の温度は少し熱めだった。なので燐は長いこと入っていられずに、すぐに洗い場に出て身体を洗うことにした。
「なんだかんだ言って、あいつって世話焼きだもんな。その好意は姉ちゃんとして無視出来ないし。でもやっぱ、勿体ねえよな。俺一人が入るのにこんなたっぷり湯を張ってくれても。そうだ。あいつも一緒に入ればいいじゃねえか。あー、今更呼びにいけねえ。」
今度唐突に風呂に入って来いと言われたら、忘れなかったら一緒に入ろうと誘ってやると燐は的外れな決意を胸に秘めた。ただの勿体ない根性だった。
燐は身体をかなりいい加減に洗い終わると、背を向けた熱めの湯船を憂鬱そうに見た。勿体ないので水でぬるめにするのは遠慮したいが、雪男の温度接待は燐には熱すぎる。その証拠に湯に漬かった燐の肌はピンクを通り越して、真っ赤に染まっていた。
「あーもう。やっぱりいいや!」
風呂場に着てから十分も経たないうちに燐は脱衣所に出た。すると奇妙な現象を目にした。雪男に渡された手鏡から青い炎が立ち上っている。燐の持ってきた服やらタオルやらを燃やしながら。
『お久しぶりだな。お前のパパだぞ!』
「あー。またお前かよ。」
雪男のいないときに燐の所持品を駄目にしながらサタンがプチ降臨してくることは何回もあったが、娘が全裸のときに降臨したのは今回が初めてだった。燐は決まりきった文句を今回も口にする。
「お前のことを父親だなんて思ってねえよ!」
『でもお前は周りの人間とか弟にとっては、『オレの娘』なんだぜ。』
サタンが嬉しそうに言うと、手鏡の表面にひびが走る。
「だからそのうち、てめえをぶっ飛ばす。俺を娘に持ったことを後悔させてやる。」
『あーあ。勝呂君がいらん知恵を娘につけるから。』
「お前さえどうにかすれば、俺は自由になれるんだよ。」
『純粋だねえ。健気だねえ。本当にオレ、だけ、どうにかすれば、お前は自由なのかな?』
燐は首を傾げてサタンの言うことを煩そうに聞いている。サタンはそんな娘の表情に含み笑いの声を漏らした。
『それにしてもお前、だんだん女っぽくなってきたじゃねえか。』
「俺は元から女だよ。」
『その無自覚なところをどうにかすればそれこそ、お前の好き勝手に生きられるんだけどな。ちょっと自覚的になってくれよ。悪魔の娘なんだから。』
燐は開いた口が塞がらない。サタンは畳み掛ける。
『お前の弟がなんで、お前が懐いている男に突っかかるか分かってねえだろ。』
「それは俺が迂闊だったから。網走行きは決まっているのに、必要以上に仲良くなってるのを心配してくれてるから。」
『お前は本当に馬鹿だな。どうしてそもそもお前の網走行きに弟までついてくるんだ? お前の弟は自分の得になりそうもないのに人生をお前に投げ打っても構わない、そんな阿呆なお人よしなのか?』
「雪男を巻き込んじまったのは、本当にすまないって思ってる。だから、俺は強くなってお前をぶっ飛ばしてやる。そうすれば俺も自由だし、雪男だって俺に巻き込まれずに済むんだ。」
燐の剣幕にサタンは声を詰まらせる。しかしその詰まった声は哄笑として脱衣所を満たす。
『ははは、あははっはははは! おめでたいとは違う。健気過ぎて見てられねえ! お前の弟はとんだ果報者だ。それを知らずにあの弟はこそこそひそひそ、せせこましいみみっちい真似ばかり考え付くから始末におけねえ。』
燐は脱衣所の隅に置いてあったボンベを取ってくると、ノズルを鏡に向けた。
『あ。お前それ聖水だろ。』
「雪男を、馬鹿にするな。雪男はせせこましくないし、みみっちくない。」
『もう少し喋らせろよ。お前の弟の悪口言ったことは謝るから。ほんとごめん。』
燐はノズルを構えたまま鏡のサタンに対峙している。次また燐の知り合いの悪口を言ったら遠慮なく聖水を浴びせる気満々だった。
サタンは語る。
『お前、悪魔の娘なんだからさ。純潔でいる必要なんて無いじゃねえか。お前がその気になれば、お前の大好きな勝呂君ももっとお前に優しくしてくれるし、お前の弟だってお前の言うことを聞かせられるんだぜ。人間の女だって平気でやってることなんだぞ。お前が遠慮なんかしてどうする。』
「俺がどうその気になりゃあ、そうなるって言うんだ?」
『お? 少しは耳を貸してくれるのか?』
サタンの言うことに耳を貸すのは燐は嫌だったが、勝呂と雪男の間のなんだかわからないわだかまりが解決出来るヒントになるならと、燐はサタンの言葉に興味を持ってしまった。
「てめえの言うことなんか聞くか。」
そう言いながらも燐は一向に手鏡に聖水を浴びせようとしない。サタンはその燐の気持ちを見透かしたように、優しげな声で娘に言う。
『お前は自分が女だって知っていながら、女だっていう事実を何一つ生かしていない。女ってお前が思うより得出来る生き物なんだぜ。男は好きな女次第でなんとでも操られる哀しい生き物なんだ。』
「俺は別にあいつらを操るつもりなんてない。俺はあいつらが少しでも仲良くなれるならと思ったりするだけで。」
『他人のことより自分のことだろ。お前が自分の好きなように物事運べたら、それで解決するんだよ。さっきも言ったろ。お前がその気になりゃあ、どんな男でもお前の思い通りになる。甘い声で掻き口説けばいい。優しくて、私の望みを叶えて、私を自由にして。それで、そのやあっこくてでかい胸を押し付けて、身体を男に委ねればいい。たったそれだけで、お前は今の惨めな境遇から抜け出せるんだぜ。お前を縛り付けている偉そうな聖職者どもも、一皮剥けばただの男なんだ。どんな綺麗ごとを並べて、強がって高潔に生きると決めても、悦楽だとか快楽だとかに逆らえない。精神よりも肉の誘惑のほうが勝るように頭ん中が出来てるんだよ。お前の真面目で姉思いな弟や、お前を気遣う勝呂君も同様だよ。本当はお前の身体にむしゃぶりつきたいのに、お前が、そんなんだから必死に我慢して堪えてくれてやせ我慢してるんだよ。そんな馬鹿で阿呆で律儀過ぎるほど痩せ我慢強い男どもに、ささやかな気持ちばかりのご褒美をあげてやる感覚でいいんだ。いつもありがとう。これは私の気持ちだから。だから受け取って欲しいの。言うことは、たったそれだけでいい。一度でもお前を、その腕に抱いた男はその日からお前の思うがまま。つまらん人間関係を気にして苦しむこともなくなる。なあ、燐――。パパはお前にはすごい素質があると思うんだ。お前がそれを知らずに不遇な十五年を過ごしたことは、本気で悲しいことだと思ってる。お前の今までは本当はお前が置かれるべき立場じゃなかったんだよ。その才能を今後も生かせないで、しんどい人生を送る羽目になってる姿を見るのは、オレは苦しくてしょうがないんだ。お前は網走にあるという雪国の教会に閉じ込められる必要なんてないんだ。パパは虚無界に来てくれなんて言わない。盛大に物質界で面白おかしく暮らしてくれよ。そうだ善は急げだ。そのあられもない格好でお前の弟のところに行って、俺のことを好きにしていいって言ってみろよ。あの堅物の弟が、ケダモノに変わる様は面白いに決まってるぞ。それに! あいつは散々お前のために十年近く頑張ってたんだから、お前がその身を以って報いてやれ。二人きりの休日を淫靡に背徳的に弟と過ごすのも悪くないぞ。勝呂君にはどうしようか? 目の前でスカートを捲り上げて制服のリボンをほどきながら、放課後の教室で、その足の間のお宝で昇天させてやるのも良いよな。坊主っていう人間は、お前が思うよりスケベな生き物なんだ。たがが外れりゃ、本性はそこらへんの男よりえげつないんだぜ。なんせあいつらは人間の本質について普通の人間より詳しいんだからな。ああそうだ。お前は頭が良くないから、弟と勝呂君との秘密の二重生活は無理があると思うから、どっちかに関係がばれたら、いっそ三人で仲良くくんずほぐれつすればいい! そしたら雪男君と勝呂君の仲をお前が取り成したことにもなる。ああ! パパなんだかドキドキしてきたぞ! 燐! 燐! お前は物質界も虚無界に変えてしまうくらいの可能性を――』
「すまん。お前の話全然わからんわ。」
燐の手がボンベの栓を抜く。
『ぎゃあああ!』
手鏡に宿る程度の青い炎は聖水によって消された。燐は溜息をつく。
「服。どうしよ。」
聖水ボンベを使ったから緊急の警報が鳴っている。雪男が銃を構えながら脱衣所に駆け込んできた。
「姉さん! どうかしたの! って、何。」
「雪男。パンツもブラも燃えちゃったんだ。サタンのやつが来た。」
燐はとことこと雪男の前に歩いてくる。雪男は背中を見せながら慌ててシャツを脱いで後ろ手で姉に渡した。
「早く部屋に帰ってパンツとブラを着てよ!」
「なんだよ。怒らなくてもいいじゃねえか。」
「怒ってるんじゃないよ。パニックになってるから大声になってるだけだから。何が起こったかは部屋に帰ってから聞くから。僕は理事長に報告しに行ってくるから、ちゃんと部屋に帰ったら着替えてて!」
雪男のシャツは燐には大きいので、きわどいところは全て隠れてくれた。燐はじろじろと雪男の顔を見ながら脱衣所を出て行く。
「はあ……。もう、姉さんってば。」
雪男の携帯が鳴る。表示される名前はメフィストからだった。
「もしもし。」
『今回は父上が差し出がましい真似をして、誠に申し訳ありませんでした。』
「サタンが出現したと分かった時点で、さっさとこちらに来て対処して欲しかったですよ。」
『私はどっちつかずですからね。堂々と父上と対峙するわけにもいかないんですよ。それに今回の父上の干渉は本当に馬鹿馬鹿しくて。お姉さんに事情を聞いたら、貴方も呆れると思います。』
本当にそれで済むのかよと雪男は眉間に皴が寄った。
一方、燐は部屋に帰って下着を付けながら一人ごちていた。
「なんだよ。雪男のやつ、俺のすっぽんぽん見ても全然嬉しそうじゃなかったじゃねえかよ。いつものように叱られたぞ。サタンの言うことは当てになんねえよな。」
しかし燐の口元には笑みがあった。サタンの言ったことが真実じゃなくて良かったと。たぶんそれは勝呂にも当てはまる。燐はサタンの言うことがわけがわからなかった割に、その言葉の不快な部分を感じ取ってはいた。
「俺は人を好き勝手に利用して、他人の力で自由になりたくねえよ。」
疲れたようなノックが聞こえてくる。
「姉さん。もう着替えたよね。」
「あとシャツを着るだけだから。」
「早く着替えてよ!」
雪男がドアの向こうで声を張り上げる。燐はくすくす笑いながら、わざとのんびりとベッドの上に置いたシャツに手を伸ばした。
「姉さんまだ?」
「まーだー。」
雪男は知らない。男として意識されない幸せを。
しかしそれは知らないからこそ幸せなことなのかもしれない。
今回は雪男メインで行こうと思ったら、サタン様大暴れ回でした。pixivで魔王様とタグで呼ばれた雪男君ですが、本物の魔王様と比べたらまだまだ青いということです。
リクエスト企画参加ありがとうございました。
「ロンド」は本編を続き物でオフで書いているので、オンのほうでは番外編のみになります。よろしければまたリクエストください。
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おかげさまでこのサイトも30000hit達成することが出来ました。
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リクエスト募集期間
9月11日17時~9月18日24時まで、18日のインテにて直接のリクエストも受け付けております。
募集要項
忍たま・青エクのどちらかのジャンルで、カップリングやキャラクターを指定して、シチュエーションも沿えてご応募ください。簡単なあらすじでも構いません。
連絡先はメールフォームか、この記事のコメントか拍手でお願いします。
へたれサイトに華を添えていただければ幸いで御座います。
皆様からのリクエストお持ちしております。
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