幸福雑音
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☆「ポケモンデイズ⑤後編」主♂チェレ
たまには自分から電話をかけてみたほうがいいのかもしれない。だけどとても恐れ多いことだと思って手が止まってしまう。そうこうしている内に鳴ってしまったライブキャスターに慌ててしまうトレーナーを見て呆れているジャノビ―を横目に、チェレンは電話を取った。
「も、もしもし。」
『チェレン。まだ寝てないのかのう。年寄りも夜更かしの最中じゃ。』
「アデクさん。こんばんわ。あ、あのですね。今ヒウンにいるんです。ジムは留守にしてたようなので、街をいろいろと。」
『またアーティのやつめ。いつまで人妻に片思いしとんじゃ。』
「え? 人妻?」
『ん? チェレンもそういうのに興味あるんか?』
「そ、そそ、そんな。」
ほぼ毎晩と言っていいくらいアデクはチェレンに電話を掛けてくる。最初の一回目か二回目に他に話し相手ならアデクさんにはいっぱいいるでしょうと尋ねてみたことはあった。しかしアデクは苦笑いしながらこう言った。
『儂、若いもんに説教されるジジイだから。チェレン以外には怖くて電話出来ないんじゃ。』
だからって毎日自分を狙い打たなくてもとチェレンはライブキャスターに映った情けないチャンピオンの顔を思い浮かべる度に吹き出しそうになる。
もしかしたら成人してからポケモントレーナーになったチェレンが物珍しいからかもしれない。たとえそうであったとしてもチェレンはアデクからの電話をいつのまにか楽しみにしていた。
「そのかわりにバトルカンパニーに寄ってみたんですよ。」
『社長には会ったのか?』
「はい。」
『相変わらず、あの風体なのかのう?』
「清掃員さんだと最初思っちゃいました。」
やはりの! アデクは腹を抱えて笑っていた。釣られてチェレンも笑ってしまう。
『こうやって電話で話すのもいいものだが、また直接チェレンと会って話してみたいものだな。』
「……はい。」
チェレンはアデクの次の言葉を待っていた。どこかで待ち合わせて会えるなら会いたい。アデクはその場所を言ってくれれば、その場に出来るだけ早く駆けつけるのにともチェレンは思った。
『うーん……。』
アデクは少し迷ったように髭の生えた顎を擦った。
「あの。」
『まあ、またどっかで会えるじゃろ。』
「そ、そうですね。」
少しチェレンはがっかりする。しかし前にも何か理由があってイッシュを放浪していたと聞いていたから、その関係もあるのだろう。
『ところでチェレン。チェレンの周囲でプラズマ団の噂は聞かないかのう?』
「プラズマ団ですか?」
『今リーグ内で要注意組織になりそうな連中なのじゃが。』
「僕の、同郷のトレーナーが夢の跡地でバトルになったと聞きました。」
『なんと、それで?』
「話を聞いた彼も直接は関わってなかったみたいなんですよ。彼が駆けつけたときには、直接かかわった彼女……彼女も同郷なんですけど、その人がムンナを苛めていたプラズマ団員を追い払った後だったらしいんで。」
『やはり活動範囲がカラクサから北上しておるのか。……奴らは一度撃退されれば、その町からは撤退するらしいかのう。お前さんもその頼りになる強い幼馴染とまめに連絡を取って、なるたけ近くにおったほうがいい。』
「僕だって大丈夫だと思います。」
『それはそうなのだが、チェレン。年寄りの言うことは聞くもんじゃぞ。それにチェレンからのそういう情報を少しはあてにさせて欲しいんじゃ。』
「あなたと僕とのことを幼馴染たちに言ってもいいでしょうか? その毎日電話してるとか。」
『いや。そんな内緒にすることじゃないじゃろ。チェレンは儂の大切な電話仲間じゃ。』
どんだけ人を誑し込めば済むんだろうか。このジジイは。チェレンの頭の片隅に小さな怒りが火を灯した。どうせ僕が思うほど僕のことを思ってもない癖に。そりゃあ出会ったのは一回限りで、あとのやりとりは電話だけなのだから、声高に関係がどうのと言える立場ではない。噂ではかなりなナンパジジイだとも聞く。男の自分が憧れ半分やっかみ半分でぐだぐだしてるなんて思ってないだろう。
『とにかく気を付けるんじゃぞ。チェレンは可愛いからな。』
「かっ……。」
アデクはばいばいと手を振ると電話を切ってしまった。チェレンは耐えられなくなって夜中のカフェのオシャレなテーブルに突っ伏した。幸いにもテーブルとテーブルの間には仕切りがあったので誰もチェレンの奇行を気に留めなかった。
「かわいいって、言われた……。」
どうしよう。遥かに年上の男に可愛いと言われて悶絶している現実に危機感を覚えながらも、頭の中はふわふわと幸せだった。
ジャノビ―はそんなチェレンの頭をぽんぽんと叩いている。このトレーナーは出会った最初は、眼鏡をくいっと片手で上げる仕草が似あうような秀才気取りだったのに、あっというまにジジイに絆されて他の人間に見えないところでの振る舞いが年齢不相応に幼いところを平気でポケモンに見せている。否、ポケモンの前で見栄を張る余裕を、あの赤い鬣のジジイにすっかり奪われているのかもしれない。
そしてそれは恋なのよと、おばちゃんジャノビ―は言葉が扱えるなら伝えたかった。
「君。君のジャノビーがね、君のその感情は恋なんだよって。」
チェレンとジャノビ―が顔を上げると、光のない目でNがチェレンを見下ろしていた。さも初恋に浮かれているチェレンに呆れているかのように。
「き、君は……。」
カラクサではトウヤにNと名乗っていた。あのときのNはチェレンなど眼中にないようにトウヤに全ての関心を注いでいた。今のNの興味はチェレンに向いているようだが、その目はチェレンを見ているようでいながら、興味も目もチェレンに向けられているとはチェレンには思えなかった。
「それと、ジャノビーは気づいているみたいだけど。君のその眼鏡、伊達眼鏡でしょう? 近眼用にしても遠視用にしても、眼鏡を掛けるとレンズ越しの顔の輪郭が少し歪んで見えるらしいけど」
Nは人差し指をチェレンに向けてチェレンの顔の輪郭を見えるままになぞった。
「君の顔の輪郭は綺麗なままだよ。」
悪意のある笑みを浮かべていた。チェレンは自分の視力には問題はないのに眼鏡を掛けていることがバレた驚きと、何故それをNが見破って得意そうにしているのかという困惑に、口をもごもごと動かすだけで言葉が声にならない。
「君の恋の相手はトウヤじゃないみたいだね。だけど眼鏡を外して相手を見れるような思い切りにも届いていない。」
「め、眼鏡は関係ないだろ。それになんでトウヤが……」
Nはふいっと後ろを向いてカフェから出ていく。チェレンもジャノビーを連れてその後を追うが狭い路地裏に無造作に捨ててあった雑誌で足を滑らせてしまった。
「じゃの!」
ジャノビーはチェレンが足を挫いていないか様子を見た。幸いにも捻挫は免れたがNの姿はすっかり見失ってしまった。
もやもやした気分だったが、会計を済ませていなかったのでまた店の中に戻る。路地裏のカフェの店主はチェレンを食い逃げだと疑う素振りすら見せずにチェレンから金を受け取った。
「さっきからライブキャスターが鳴ってたよ。」
「え?」
テーブルの上の置きっぱなしだったライブキャスターを見ると着信ではなくメールが一通届いていた。
「置きっぱなしだったから見張っといておいてあげたよ。」
店主はレジから目を細めてチェレンを見ていた。チェレンはぺこりと礼をしながらライブキャスターを手に取った。
チェレンの目に飛び込んできたのは、「トウヤ」「ヒウン」「ジム戦」という単語だった。その文面を始めから目を通す。
『チェレン。トウヤだよ。今からヒウンジムに挑戦する。じゃあね。』
チェレンはレジの後ろの時計を反射的に見たあと店を再び飛び出した。
「なに考えてるんだ。トウヤは!」
首から上に血が上っていくのがはっきりとわかった。時計は時刻を九時過ぎだと示していた。どんな鷹揚なジムリーダー相手であってもあまりにも失礼な時間帯である。ジムリーダーにしてもプライベートタイムを過ごしている時間だ。そこにトウヤが乗り込むなんて、あの瀟洒なサラリーマンをしていたトウヤにあるまじき行為だった。
店を出てジャノビーをボールにしまい、ジムの方向へ思わず駆け出そうとしたチェレンの片方の腕を誰かが引っ張った。
「うわっ。」
「捕まえた。」
チェレンの手を引っ張ったのはトウヤだった。トウヤはチェレンの心配事を他所ににこにこしている。
「トウヤ。メール……。いや、今からジム戦なんて絶対に非常識だからね。」
「分かってるよ。そんなこと。あー、それにしても君がこんなに慌てて出てくるとは思わなかったな。」
トウヤは少し気まずそうに外から君が見えたからと悪びれたようにイタズラの弁解をした。
「ひどいじゃないか。本気にした僕も迂闊だけど、僕はヒウンジムまで君を止めに行こうとしてたんだぞ。」
「だから冗談が過ぎたからごめんって言ってるだろ。それにしても僕が予想したより君の反応が早かったんで、こっちもびっくりさせられたって感じかな。君だったらメールを見たあと、少し考え込んで渋々仕方なしに僕を止めるメールの文面を考えるか、いやそれじゃヒウンジムで僕がジムリーダーとトラブルを起こしていた場合、僕とジムリーダーの間に入らなければならないかなと考え直してジムに向かうか、くらい程度の対応をされると思ってたからさ。」
「僕はそこまで人が悪いつもりはないよ。」
同郷者が近くで迷惑をかけたならフォローするくらいの人情はチェレンは持っている。幾ら迷惑をかけたかもしれない同郷者が年上であってもだ。
「そうやって僕が行動を起こすのを予測して観察じみた真似をするなんて、君はそんな奴だったかな?」
チェレンにしては率直な恨み言だった。トウヤはしどろもどろに振る舞いながらごめんと繰り返している。
「ごめん。本当に悪意があったわけじゃないんだ。寧ろその反対というか、君にとって僕がどれ程かな。なんて試してみたくなって。」
そんなやり方で試さなくてもとチェレンはトウヤを斜めに見る。そんな試し方をして何が分かるというのか。
「とにかく、ヒウンジムにはもっと常識的な時間に行くべきだよ。僕は朝に行ったけど留守だった。だから明日の朝以降がいいんじゃないかな?」
トウヤは気まずそうにバッジケースの蓋を開けてチェレンに見せた。
「ごめん。チェレンより先にジムリーダーに挑戦してバッジをゲットしたんだ。僕は前の日の昼にシッポウでアーティさんに会っていたから、彼が今日の昼ごろジムに戻るのをわかっていたんだ。それで昼過ぎに行ってすんなりと挑戦できたんだ。」
チェレンは一足ヒウンに到着したのが早かったせいでトウヤに出遅れてしまった。昼間のチェレンはバトルカンパニーで連戦していて、ポケモンセンターに戻ったときには既に夕方だった。なので今日はジム戦は諦めていた。完全にすれ違いである。
「もうバッジをゲットしていた癖に。人が悪いな。」
拗ねたような言い方のチェレンは、でも案外怒っていない様子だった。先にバッジをゲットしたのだから、最初のときのような対抗意識でもっと拗ねられるとトウヤは思っていたが、そういう感情はトウヤのさっきした少し悪質な嘘の反動で薄れてしまっているだけなのだろうか。
いや。感じやすすぎる感性を持ったチェレンが今までとは違う世界に揉まれて、少しだけ鷹揚に構えることを覚えたせいなのかもしれない。そしてやはりチェレンが現在トウヤに内緒にしている人間こそがキーマンだと確定できた。
トウヤなりの素人プロファイリングでは、その人物はトウヤたちみたいな駆け出しのトレーナーにとって一目置く存在だろう。その癖チェレンを呆れさせるような抜けたところも平気で他人に見せる。だから神経質なチェレンが例の人物との交流おうちに耐性をつけたんだろうと考えられる。しかしその呆れるような姿さえも様になるような存在だ。
そんな人物像に当てはまるのは、ポケモンリーグに関連したジムリーダー以上の実力を持つ、少し風変りな有名人に違いない。しかも野宿ばかりしていたチェレンとばったり出会うようなライフスタイル。もう事情通・情報通のトウヤにはほとんど特定できていた。ただし、その人物はこれだと推理するにはビッグな人物過ぎるかもしれない。
「トウヤは僕をびっくりさせたつもりだけど、僕もトウヤをびっくりさせられることがあるんだ。前言ったポケモンの年齢当てが得意な人なんだけど。」
トウヤはうんと頷いた。こんなところで立ち話もなんだからと宿のある方向へ誘導する。チェレンも通行人がまだいる道路で立ち止まって名前を明かすことは、たぶん憚れる人物だろうから。
トウヤはビジネスホテルへチェレンと歩いていきながら、やっと話してくれる気になってくれたんだねと肩を竦めた。
「その人も別に教えたって構わないって。」
「そうなのか。」
「その人は今、プラズマ団について情報を集めているらしいんだ。この前トウヤから聞かされた夢の跡地でベルがプラズマ団に遭遇したことも一応伝えておいた。僕のことが心配だから君たちとも連絡を取るようにとも忠告された。だから――。」
「チェレン。理由とかはどうでもいいんだよ。君はその人物の名前を言えば僕を驚かせると思ったんだろう? だったらその人の名前を明かしてごらんよ。」
「そ、その人の名前は……」
さっきまでトウヤと目線を合わせていたチェレンなのに、急に首ごとトウヤから背けてしまった。みるみるトウヤから見えるチェレンの耳が紅くそまっていくのが、トウヤの推理をますます核心に迫らせてしまう。
「チャンピオン。」
トウヤはえっと大声を出して驚いたように振る舞った。その言葉が出てくることは予測済みもいいところだったが、驚いてやらないとチェレンの打ち明ける決心に釣り合わない。
「チャンピオンって?」
「アデクさんって知ってるよね。」
「他の地方に比べて高齢のチャンピオンで有名なことは知ってる。このごろはイッシュを放浪しているらしいけど、たまたまチェレンが行き当たるなんてなあ。」
空々しい感想にもチェレンは誠実に受け応えしていた。
「チャンピオンなんだから。それなりの人物だと僕らだったら予測するじゃないか。だけどアデクさんはちょっとどころじゃない変わった人で、いつも何らかで僕はあの人にチャンピオンはこうであれという期待を裏切られたけど、でも、その何倍も素敵なものを持っている人だったんだ。」
「いつも? そんなにしょっちゅう会うわけじゃないのに?」
口を滑らしてしまったとチェレンは動揺していた。しかし少し間を置いて白状した。チェレンの地が擦れてなくて素直な証拠だった。
「電話番号を交換して夕方から今くらいの時間まで、そのときに一回連絡を取ってる。いっても、いつも一方的にアデクさんのほうから掛けてくるんだけど、今日は僕のほうから掛けてみようかと思った。だけど結局、アデクさんのほうから掛かってきた。」
トウヤは表情を変えずに「そう」と頷いた。
「チェレンは要領が悪いな。そんな有名人相手だったら、自分からどんどん積極的に行かなくちゃ。もしかしたらそれが後々有利に働くかもしれないよ。」
「そんなんじゃないよ。」
「……ごめん。サラリーマンだったときの悪い癖だな。ときどき人間関係を損得勘定と秤にかけてしまうのは。チェレンは損得関係なくアデクさんのことを尊敬してるんだろ。」
敢えて尊敬のところにトウヤはアクセントを置いた。
「尊敬だなんて。いつもあの人には呆れてるって。」
「呆れるところにすら尊敬を見出せる人物こそ、それこそ大人物じゃないか。」
「そうなのかな……? そんな人物云々っていうより、もっとなんというかふわふわした感じで。好きっていうのかな。」
トウヤが怪訝な顔をする。チェレンはアデクのことを話し始めてから明らかにテンションがおかしい。もしかすると事態はトウヤが予測していたより、チェレンの中では進行しているかもしれない。アデクの中ではどうか分からないが、毎日電話をしてくるというくだりからして僅かに脈があると錯覚しそうになるが、どうも習慣的になっていると言ったほうがいいだろう。アデクもチェレンに対して同じような感情を少しでも持っているのなら、自分だけが一方的に電話を掛け続けるという現実に少しでも憤りを持つはずである。それをチェレンに軽い恨み言として拗ねてみせるくらいの技術は当然持ち合わせているだろう。軟派で人を誑し込むのが得意な好々爺だという評判からして、トウヤの予測は間違いないはずだ。
「僕がこんなふうに一人で思ってるだけなんだけどね。でも、今日は可愛いって言われたし。はっきりしたことじゃないけど、また会いたいってこと言われたんだ。ねえ。トウヤ? どうしよう?」
チェレンが珍しくトウヤを頼って甘えてきた。なんだかんだでトウヤを年上と認識して信頼してくれているらしい。チェレンは世間話の延長線上の相談事と割り切っているつもりだろうが、無意識下に置いた甘え心を垣間見せた。
「チェレン、あのね。」
トウヤはやはりここで、チェレンの感情が手の届かないところまで一人歩きしないようにしなければと思った。知らず知らずのうちに足早になったトウヤにチェレンは追いすがった。
「ねえ。トウヤ。どう思う?」
トウヤは黙ってチェレンの手を取る。
「ほら。宿ついたよ。で? なんだっけ? 僕に話聞いて欲しいんだっけ? それじゃホテルの部屋でゆっくり話を聞こうかな。」
トウヤはフロントの呼び鈴を鳴らす。チェレンの手を離さないままホテルスタッフが奥から出てくる短い時間にもう片方の手でチェレンの肩を引き寄せて耳元で囁いた。
「僕も前からチェレンのことを可愛いって思ってたよ。それでね。僕はずっと前から君のことが好きだった。」
チェレンの身体が固まるのが手に取るようにわかった。奥から出てきたフロントクラークは、お部屋はどれにしましょうかと尋ねてくる。トウヤはいじわるそうにチェレンに問いかけた。
「今日はチェレンは積る話もあるみたいだし、一緒の部屋に泊まろうか。ツインかよければダブルで。」
チェレンは慌ててトウヤから身体を引き離し、焦ったようにシングル二部屋でと叫んだ。クラークはご友人同士ならツインがお得ですよと勧めてくる。それでもチェレンは譲らなかった。
「ごめん。トウヤ、話はまた今度で。頭の中を整理させて欲しい。」
トウヤは思った通りの反応を返してきたチェレンにくすくす笑いながら、じゃあ今日のところはお互い一人で泊まろうと話を締め括った。
フロントクラークから鍵を一つずつ受け取って、隣同士に配置された部屋に入ろうとする。チェレンが部屋に入ってドアをそのまま戻そうとしたとき、トウヤが押し入ってきた。
「ト、トウヤ?」
トウヤが後ろ手にドアを閉めると、オートロックがすぐさま施錠してしまった。チェレンが立ちすくんでどうしていいか分からなくなっていると、トウヤはおもむろにモンスターボールをバッグから取り出した。
「なに?」
「今たぶん寝てると思うから静かにしていてね。」
トウヤはそっとボールからミジュマルを出した。ホテルの備え付けのベッドの上にすやすやとミジュマルが眠っている。
「抱っこしてみる?」
チェレンはトウヤのほうを振り向いて「いいの?」と小声で訊きかえす。トウヤは頷いてミジュマルを抱っこしてチェレンに差出してきた。
チェレンはおずおずとミジュマルを抱っこしてみる。白い柔らかい毛がチェレンの手を擽っている。
「チェレンはそういえばミジュマルが好きだったことを思い出してね。ほら。よく読んであげたよね。チェレンがちっちゃいときにミジュマルの絵本を。伝説の白黒ポケモンの絵本より、ミジュマルのお話が好きだった。」
「そんな。昔のことじゃないか。僕はもうあのころの身体が弱くて、みんなを心配させてばかりいた僕じゃない。今更だけどポケモントレーナーになって、バッジもゲットしていってる。」
「そうだね。今のようになるまで、よく頑張ってたね。」
チェレンは腕の中のミジュマルに顔を近づけてその柔らかい毛皮に頬ずりする。やはり最初のポケモンをミジュマルに決められなかった未練が残っていたようだ。それでこそトウヤの思うつぼだったが、チェレンはわざとトウヤがミジュマルを先に選んだなどとは疑ってもいないだろう。ミジュマルも恋の駆け引きに自分を上手いこと利用されているとは気づいていない。
自分のような狡い大人にとって、目の前の子どもの純真さは罪悪感の種にもなる。だがそれをトウヤは種のままで芽吹かせることはなかった。
ミジュマルを抱っこして幸せそうにうっとりとしているチェレンに、トウヤは近づいて声をかけた。
「ねえ。さっきの僕の告白はどう思ってくれてるのかな?」
幸福感に水を差されたチェレンは少し怯えたようにごめんと呟いた。
「トウヤのことをそんなふうに見たことがなかった。」
そして少し考え込むように下を向いたあと、何かに気が付いたかのようにトウヤに質問する。
「じゃ、じゃあ……なんでベルと結婚してたわけ?」
トウヤはそうきたかと苦笑いを浮かべた。
「互いのためかな。ベルの家庭事情は近所でも有名だったし。僕は僕で社会人をしてたから、世間体のためにベルと結婚した。僕もベルもお互いじゃない相手だと、自分の望みは叶えられないとわかってたからね。」
「トウヤの望みって……?」
トウヤはチェレンに近寄ってミジュマルごとチェレンを抱きしめた。
「僕の好きな小さな男の子が大人になってポケモントレーナーになったとき、彼の側にいて支えたいって願望。」
「そ、そんな動機でトウヤは。馬鹿なのか!」
Nが怒るようなことで、やはりトウヤはチェレンに怒られた。だから自分の馬鹿さ加減は認めるしかない。
「そうだね。僕のポケモントレーナーになった動機は、あらゆることを冒涜して馬鹿にしていたようなもんだ。でもベルも自分の望みのためにそれを了承していたし、ベルも僕たちと同じように十年かかってその望みを叶えた。倫理や道徳には反しているかもしれないけど、僕たちの結婚と離婚には、僕たちの夢が掛かっていたわけだから、許してくれとは言わない。ただそういうことがあったと認めて欲しい。それでね、チェレン。」
チェレンはトウヤから離れようとしたが、ミジュマルを抱いていたせいで突き放せずにいた。
「君の夢を僕の夢にしたい。二人で同じ道を歩きたい。」
トウヤはチェレンにそう伝えた。
「も、もしもし。」
『チェレン。まだ寝てないのかのう。年寄りも夜更かしの最中じゃ。』
「アデクさん。こんばんわ。あ、あのですね。今ヒウンにいるんです。ジムは留守にしてたようなので、街をいろいろと。」
『またアーティのやつめ。いつまで人妻に片思いしとんじゃ。』
「え? 人妻?」
『ん? チェレンもそういうのに興味あるんか?』
「そ、そそ、そんな。」
ほぼ毎晩と言っていいくらいアデクはチェレンに電話を掛けてくる。最初の一回目か二回目に他に話し相手ならアデクさんにはいっぱいいるでしょうと尋ねてみたことはあった。しかしアデクは苦笑いしながらこう言った。
『儂、若いもんに説教されるジジイだから。チェレン以外には怖くて電話出来ないんじゃ。』
だからって毎日自分を狙い打たなくてもとチェレンはライブキャスターに映った情けないチャンピオンの顔を思い浮かべる度に吹き出しそうになる。
もしかしたら成人してからポケモントレーナーになったチェレンが物珍しいからかもしれない。たとえそうであったとしてもチェレンはアデクからの電話をいつのまにか楽しみにしていた。
「そのかわりにバトルカンパニーに寄ってみたんですよ。」
『社長には会ったのか?』
「はい。」
『相変わらず、あの風体なのかのう?』
「清掃員さんだと最初思っちゃいました。」
やはりの! アデクは腹を抱えて笑っていた。釣られてチェレンも笑ってしまう。
『こうやって電話で話すのもいいものだが、また直接チェレンと会って話してみたいものだな。』
「……はい。」
チェレンはアデクの次の言葉を待っていた。どこかで待ち合わせて会えるなら会いたい。アデクはその場所を言ってくれれば、その場に出来るだけ早く駆けつけるのにともチェレンは思った。
『うーん……。』
アデクは少し迷ったように髭の生えた顎を擦った。
「あの。」
『まあ、またどっかで会えるじゃろ。』
「そ、そうですね。」
少しチェレンはがっかりする。しかし前にも何か理由があってイッシュを放浪していたと聞いていたから、その関係もあるのだろう。
『ところでチェレン。チェレンの周囲でプラズマ団の噂は聞かないかのう?』
「プラズマ団ですか?」
『今リーグ内で要注意組織になりそうな連中なのじゃが。』
「僕の、同郷のトレーナーが夢の跡地でバトルになったと聞きました。」
『なんと、それで?』
「話を聞いた彼も直接は関わってなかったみたいなんですよ。彼が駆けつけたときには、直接かかわった彼女……彼女も同郷なんですけど、その人がムンナを苛めていたプラズマ団員を追い払った後だったらしいんで。」
『やはり活動範囲がカラクサから北上しておるのか。……奴らは一度撃退されれば、その町からは撤退するらしいかのう。お前さんもその頼りになる強い幼馴染とまめに連絡を取って、なるたけ近くにおったほうがいい。』
「僕だって大丈夫だと思います。」
『それはそうなのだが、チェレン。年寄りの言うことは聞くもんじゃぞ。それにチェレンからのそういう情報を少しはあてにさせて欲しいんじゃ。』
「あなたと僕とのことを幼馴染たちに言ってもいいでしょうか? その毎日電話してるとか。」
『いや。そんな内緒にすることじゃないじゃろ。チェレンは儂の大切な電話仲間じゃ。』
どんだけ人を誑し込めば済むんだろうか。このジジイは。チェレンの頭の片隅に小さな怒りが火を灯した。どうせ僕が思うほど僕のことを思ってもない癖に。そりゃあ出会ったのは一回限りで、あとのやりとりは電話だけなのだから、声高に関係がどうのと言える立場ではない。噂ではかなりなナンパジジイだとも聞く。男の自分が憧れ半分やっかみ半分でぐだぐだしてるなんて思ってないだろう。
『とにかく気を付けるんじゃぞ。チェレンは可愛いからな。』
「かっ……。」
アデクはばいばいと手を振ると電話を切ってしまった。チェレンは耐えられなくなって夜中のカフェのオシャレなテーブルに突っ伏した。幸いにもテーブルとテーブルの間には仕切りがあったので誰もチェレンの奇行を気に留めなかった。
「かわいいって、言われた……。」
どうしよう。遥かに年上の男に可愛いと言われて悶絶している現実に危機感を覚えながらも、頭の中はふわふわと幸せだった。
ジャノビ―はそんなチェレンの頭をぽんぽんと叩いている。このトレーナーは出会った最初は、眼鏡をくいっと片手で上げる仕草が似あうような秀才気取りだったのに、あっというまにジジイに絆されて他の人間に見えないところでの振る舞いが年齢不相応に幼いところを平気でポケモンに見せている。否、ポケモンの前で見栄を張る余裕を、あの赤い鬣のジジイにすっかり奪われているのかもしれない。
そしてそれは恋なのよと、おばちゃんジャノビ―は言葉が扱えるなら伝えたかった。
「君。君のジャノビーがね、君のその感情は恋なんだよって。」
チェレンとジャノビ―が顔を上げると、光のない目でNがチェレンを見下ろしていた。さも初恋に浮かれているチェレンに呆れているかのように。
「き、君は……。」
カラクサではトウヤにNと名乗っていた。あのときのNはチェレンなど眼中にないようにトウヤに全ての関心を注いでいた。今のNの興味はチェレンに向いているようだが、その目はチェレンを見ているようでいながら、興味も目もチェレンに向けられているとはチェレンには思えなかった。
「それと、ジャノビーは気づいているみたいだけど。君のその眼鏡、伊達眼鏡でしょう? 近眼用にしても遠視用にしても、眼鏡を掛けるとレンズ越しの顔の輪郭が少し歪んで見えるらしいけど」
Nは人差し指をチェレンに向けてチェレンの顔の輪郭を見えるままになぞった。
「君の顔の輪郭は綺麗なままだよ。」
悪意のある笑みを浮かべていた。チェレンは自分の視力には問題はないのに眼鏡を掛けていることがバレた驚きと、何故それをNが見破って得意そうにしているのかという困惑に、口をもごもごと動かすだけで言葉が声にならない。
「君の恋の相手はトウヤじゃないみたいだね。だけど眼鏡を外して相手を見れるような思い切りにも届いていない。」
「め、眼鏡は関係ないだろ。それになんでトウヤが……」
Nはふいっと後ろを向いてカフェから出ていく。チェレンもジャノビーを連れてその後を追うが狭い路地裏に無造作に捨ててあった雑誌で足を滑らせてしまった。
「じゃの!」
ジャノビーはチェレンが足を挫いていないか様子を見た。幸いにも捻挫は免れたがNの姿はすっかり見失ってしまった。
もやもやした気分だったが、会計を済ませていなかったのでまた店の中に戻る。路地裏のカフェの店主はチェレンを食い逃げだと疑う素振りすら見せずにチェレンから金を受け取った。
「さっきからライブキャスターが鳴ってたよ。」
「え?」
テーブルの上の置きっぱなしだったライブキャスターを見ると着信ではなくメールが一通届いていた。
「置きっぱなしだったから見張っといておいてあげたよ。」
店主はレジから目を細めてチェレンを見ていた。チェレンはぺこりと礼をしながらライブキャスターを手に取った。
チェレンの目に飛び込んできたのは、「トウヤ」「ヒウン」「ジム戦」という単語だった。その文面を始めから目を通す。
『チェレン。トウヤだよ。今からヒウンジムに挑戦する。じゃあね。』
チェレンはレジの後ろの時計を反射的に見たあと店を再び飛び出した。
「なに考えてるんだ。トウヤは!」
首から上に血が上っていくのがはっきりとわかった。時計は時刻を九時過ぎだと示していた。どんな鷹揚なジムリーダー相手であってもあまりにも失礼な時間帯である。ジムリーダーにしてもプライベートタイムを過ごしている時間だ。そこにトウヤが乗り込むなんて、あの瀟洒なサラリーマンをしていたトウヤにあるまじき行為だった。
店を出てジャノビーをボールにしまい、ジムの方向へ思わず駆け出そうとしたチェレンの片方の腕を誰かが引っ張った。
「うわっ。」
「捕まえた。」
チェレンの手を引っ張ったのはトウヤだった。トウヤはチェレンの心配事を他所ににこにこしている。
「トウヤ。メール……。いや、今からジム戦なんて絶対に非常識だからね。」
「分かってるよ。そんなこと。あー、それにしても君がこんなに慌てて出てくるとは思わなかったな。」
トウヤは少し気まずそうに外から君が見えたからと悪びれたようにイタズラの弁解をした。
「ひどいじゃないか。本気にした僕も迂闊だけど、僕はヒウンジムまで君を止めに行こうとしてたんだぞ。」
「だから冗談が過ぎたからごめんって言ってるだろ。それにしても僕が予想したより君の反応が早かったんで、こっちもびっくりさせられたって感じかな。君だったらメールを見たあと、少し考え込んで渋々仕方なしに僕を止めるメールの文面を考えるか、いやそれじゃヒウンジムで僕がジムリーダーとトラブルを起こしていた場合、僕とジムリーダーの間に入らなければならないかなと考え直してジムに向かうか、くらい程度の対応をされると思ってたからさ。」
「僕はそこまで人が悪いつもりはないよ。」
同郷者が近くで迷惑をかけたならフォローするくらいの人情はチェレンは持っている。幾ら迷惑をかけたかもしれない同郷者が年上であってもだ。
「そうやって僕が行動を起こすのを予測して観察じみた真似をするなんて、君はそんな奴だったかな?」
チェレンにしては率直な恨み言だった。トウヤはしどろもどろに振る舞いながらごめんと繰り返している。
「ごめん。本当に悪意があったわけじゃないんだ。寧ろその反対というか、君にとって僕がどれ程かな。なんて試してみたくなって。」
そんなやり方で試さなくてもとチェレンはトウヤを斜めに見る。そんな試し方をして何が分かるというのか。
「とにかく、ヒウンジムにはもっと常識的な時間に行くべきだよ。僕は朝に行ったけど留守だった。だから明日の朝以降がいいんじゃないかな?」
トウヤは気まずそうにバッジケースの蓋を開けてチェレンに見せた。
「ごめん。チェレンより先にジムリーダーに挑戦してバッジをゲットしたんだ。僕は前の日の昼にシッポウでアーティさんに会っていたから、彼が今日の昼ごろジムに戻るのをわかっていたんだ。それで昼過ぎに行ってすんなりと挑戦できたんだ。」
チェレンは一足ヒウンに到着したのが早かったせいでトウヤに出遅れてしまった。昼間のチェレンはバトルカンパニーで連戦していて、ポケモンセンターに戻ったときには既に夕方だった。なので今日はジム戦は諦めていた。完全にすれ違いである。
「もうバッジをゲットしていた癖に。人が悪いな。」
拗ねたような言い方のチェレンは、でも案外怒っていない様子だった。先にバッジをゲットしたのだから、最初のときのような対抗意識でもっと拗ねられるとトウヤは思っていたが、そういう感情はトウヤのさっきした少し悪質な嘘の反動で薄れてしまっているだけなのだろうか。
いや。感じやすすぎる感性を持ったチェレンが今までとは違う世界に揉まれて、少しだけ鷹揚に構えることを覚えたせいなのかもしれない。そしてやはりチェレンが現在トウヤに内緒にしている人間こそがキーマンだと確定できた。
トウヤなりの素人プロファイリングでは、その人物はトウヤたちみたいな駆け出しのトレーナーにとって一目置く存在だろう。その癖チェレンを呆れさせるような抜けたところも平気で他人に見せる。だから神経質なチェレンが例の人物との交流おうちに耐性をつけたんだろうと考えられる。しかしその呆れるような姿さえも様になるような存在だ。
そんな人物像に当てはまるのは、ポケモンリーグに関連したジムリーダー以上の実力を持つ、少し風変りな有名人に違いない。しかも野宿ばかりしていたチェレンとばったり出会うようなライフスタイル。もう事情通・情報通のトウヤにはほとんど特定できていた。ただし、その人物はこれだと推理するにはビッグな人物過ぎるかもしれない。
「トウヤは僕をびっくりさせたつもりだけど、僕もトウヤをびっくりさせられることがあるんだ。前言ったポケモンの年齢当てが得意な人なんだけど。」
トウヤはうんと頷いた。こんなところで立ち話もなんだからと宿のある方向へ誘導する。チェレンも通行人がまだいる道路で立ち止まって名前を明かすことは、たぶん憚れる人物だろうから。
トウヤはビジネスホテルへチェレンと歩いていきながら、やっと話してくれる気になってくれたんだねと肩を竦めた。
「その人も別に教えたって構わないって。」
「そうなのか。」
「その人は今、プラズマ団について情報を集めているらしいんだ。この前トウヤから聞かされた夢の跡地でベルがプラズマ団に遭遇したことも一応伝えておいた。僕のことが心配だから君たちとも連絡を取るようにとも忠告された。だから――。」
「チェレン。理由とかはどうでもいいんだよ。君はその人物の名前を言えば僕を驚かせると思ったんだろう? だったらその人の名前を明かしてごらんよ。」
「そ、その人の名前は……」
さっきまでトウヤと目線を合わせていたチェレンなのに、急に首ごとトウヤから背けてしまった。みるみるトウヤから見えるチェレンの耳が紅くそまっていくのが、トウヤの推理をますます核心に迫らせてしまう。
「チャンピオン。」
トウヤはえっと大声を出して驚いたように振る舞った。その言葉が出てくることは予測済みもいいところだったが、驚いてやらないとチェレンの打ち明ける決心に釣り合わない。
「チャンピオンって?」
「アデクさんって知ってるよね。」
「他の地方に比べて高齢のチャンピオンで有名なことは知ってる。このごろはイッシュを放浪しているらしいけど、たまたまチェレンが行き当たるなんてなあ。」
空々しい感想にもチェレンは誠実に受け応えしていた。
「チャンピオンなんだから。それなりの人物だと僕らだったら予測するじゃないか。だけどアデクさんはちょっとどころじゃない変わった人で、いつも何らかで僕はあの人にチャンピオンはこうであれという期待を裏切られたけど、でも、その何倍も素敵なものを持っている人だったんだ。」
「いつも? そんなにしょっちゅう会うわけじゃないのに?」
口を滑らしてしまったとチェレンは動揺していた。しかし少し間を置いて白状した。チェレンの地が擦れてなくて素直な証拠だった。
「電話番号を交換して夕方から今くらいの時間まで、そのときに一回連絡を取ってる。いっても、いつも一方的にアデクさんのほうから掛けてくるんだけど、今日は僕のほうから掛けてみようかと思った。だけど結局、アデクさんのほうから掛かってきた。」
トウヤは表情を変えずに「そう」と頷いた。
「チェレンは要領が悪いな。そんな有名人相手だったら、自分からどんどん積極的に行かなくちゃ。もしかしたらそれが後々有利に働くかもしれないよ。」
「そんなんじゃないよ。」
「……ごめん。サラリーマンだったときの悪い癖だな。ときどき人間関係を損得勘定と秤にかけてしまうのは。チェレンは損得関係なくアデクさんのことを尊敬してるんだろ。」
敢えて尊敬のところにトウヤはアクセントを置いた。
「尊敬だなんて。いつもあの人には呆れてるって。」
「呆れるところにすら尊敬を見出せる人物こそ、それこそ大人物じゃないか。」
「そうなのかな……? そんな人物云々っていうより、もっとなんというかふわふわした感じで。好きっていうのかな。」
トウヤが怪訝な顔をする。チェレンはアデクのことを話し始めてから明らかにテンションがおかしい。もしかすると事態はトウヤが予測していたより、チェレンの中では進行しているかもしれない。アデクの中ではどうか分からないが、毎日電話をしてくるというくだりからして僅かに脈があると錯覚しそうになるが、どうも習慣的になっていると言ったほうがいいだろう。アデクもチェレンに対して同じような感情を少しでも持っているのなら、自分だけが一方的に電話を掛け続けるという現実に少しでも憤りを持つはずである。それをチェレンに軽い恨み言として拗ねてみせるくらいの技術は当然持ち合わせているだろう。軟派で人を誑し込むのが得意な好々爺だという評判からして、トウヤの予測は間違いないはずだ。
「僕がこんなふうに一人で思ってるだけなんだけどね。でも、今日は可愛いって言われたし。はっきりしたことじゃないけど、また会いたいってこと言われたんだ。ねえ。トウヤ? どうしよう?」
チェレンが珍しくトウヤを頼って甘えてきた。なんだかんだでトウヤを年上と認識して信頼してくれているらしい。チェレンは世間話の延長線上の相談事と割り切っているつもりだろうが、無意識下に置いた甘え心を垣間見せた。
「チェレン、あのね。」
トウヤはやはりここで、チェレンの感情が手の届かないところまで一人歩きしないようにしなければと思った。知らず知らずのうちに足早になったトウヤにチェレンは追いすがった。
「ねえ。トウヤ。どう思う?」
トウヤは黙ってチェレンの手を取る。
「ほら。宿ついたよ。で? なんだっけ? 僕に話聞いて欲しいんだっけ? それじゃホテルの部屋でゆっくり話を聞こうかな。」
トウヤはフロントの呼び鈴を鳴らす。チェレンの手を離さないままホテルスタッフが奥から出てくる短い時間にもう片方の手でチェレンの肩を引き寄せて耳元で囁いた。
「僕も前からチェレンのことを可愛いって思ってたよ。それでね。僕はずっと前から君のことが好きだった。」
チェレンの身体が固まるのが手に取るようにわかった。奥から出てきたフロントクラークは、お部屋はどれにしましょうかと尋ねてくる。トウヤはいじわるそうにチェレンに問いかけた。
「今日はチェレンは積る話もあるみたいだし、一緒の部屋に泊まろうか。ツインかよければダブルで。」
チェレンは慌ててトウヤから身体を引き離し、焦ったようにシングル二部屋でと叫んだ。クラークはご友人同士ならツインがお得ですよと勧めてくる。それでもチェレンは譲らなかった。
「ごめん。トウヤ、話はまた今度で。頭の中を整理させて欲しい。」
トウヤは思った通りの反応を返してきたチェレンにくすくす笑いながら、じゃあ今日のところはお互い一人で泊まろうと話を締め括った。
- * *
フロントクラークから鍵を一つずつ受け取って、隣同士に配置された部屋に入ろうとする。チェレンが部屋に入ってドアをそのまま戻そうとしたとき、トウヤが押し入ってきた。
「ト、トウヤ?」
トウヤが後ろ手にドアを閉めると、オートロックがすぐさま施錠してしまった。チェレンが立ちすくんでどうしていいか分からなくなっていると、トウヤはおもむろにモンスターボールをバッグから取り出した。
「なに?」
「今たぶん寝てると思うから静かにしていてね。」
トウヤはそっとボールからミジュマルを出した。ホテルの備え付けのベッドの上にすやすやとミジュマルが眠っている。
「抱っこしてみる?」
チェレンはトウヤのほうを振り向いて「いいの?」と小声で訊きかえす。トウヤは頷いてミジュマルを抱っこしてチェレンに差出してきた。
チェレンはおずおずとミジュマルを抱っこしてみる。白い柔らかい毛がチェレンの手を擽っている。
「チェレンはそういえばミジュマルが好きだったことを思い出してね。ほら。よく読んであげたよね。チェレンがちっちゃいときにミジュマルの絵本を。伝説の白黒ポケモンの絵本より、ミジュマルのお話が好きだった。」
「そんな。昔のことじゃないか。僕はもうあのころの身体が弱くて、みんなを心配させてばかりいた僕じゃない。今更だけどポケモントレーナーになって、バッジもゲットしていってる。」
「そうだね。今のようになるまで、よく頑張ってたね。」
チェレンは腕の中のミジュマルに顔を近づけてその柔らかい毛皮に頬ずりする。やはり最初のポケモンをミジュマルに決められなかった未練が残っていたようだ。それでこそトウヤの思うつぼだったが、チェレンはわざとトウヤがミジュマルを先に選んだなどとは疑ってもいないだろう。ミジュマルも恋の駆け引きに自分を上手いこと利用されているとは気づいていない。
自分のような狡い大人にとって、目の前の子どもの純真さは罪悪感の種にもなる。だがそれをトウヤは種のままで芽吹かせることはなかった。
ミジュマルを抱っこして幸せそうにうっとりとしているチェレンに、トウヤは近づいて声をかけた。
「ねえ。さっきの僕の告白はどう思ってくれてるのかな?」
幸福感に水を差されたチェレンは少し怯えたようにごめんと呟いた。
「トウヤのことをそんなふうに見たことがなかった。」
そして少し考え込むように下を向いたあと、何かに気が付いたかのようにトウヤに質問する。
「じゃ、じゃあ……なんでベルと結婚してたわけ?」
トウヤはそうきたかと苦笑いを浮かべた。
「互いのためかな。ベルの家庭事情は近所でも有名だったし。僕は僕で社会人をしてたから、世間体のためにベルと結婚した。僕もベルもお互いじゃない相手だと、自分の望みは叶えられないとわかってたからね。」
「トウヤの望みって……?」
トウヤはチェレンに近寄ってミジュマルごとチェレンを抱きしめた。
「僕の好きな小さな男の子が大人になってポケモントレーナーになったとき、彼の側にいて支えたいって願望。」
「そ、そんな動機でトウヤは。馬鹿なのか!」
Nが怒るようなことで、やはりトウヤはチェレンに怒られた。だから自分の馬鹿さ加減は認めるしかない。
「そうだね。僕のポケモントレーナーになった動機は、あらゆることを冒涜して馬鹿にしていたようなもんだ。でもベルも自分の望みのためにそれを了承していたし、ベルも僕たちと同じように十年かかってその望みを叶えた。倫理や道徳には反しているかもしれないけど、僕たちの結婚と離婚には、僕たちの夢が掛かっていたわけだから、許してくれとは言わない。ただそういうことがあったと認めて欲しい。それでね、チェレン。」
チェレンはトウヤから離れようとしたが、ミジュマルを抱いていたせいで突き放せずにいた。
「君の夢を僕の夢にしたい。二人で同じ道を歩きたい。」
トウヤはチェレンにそう伝えた。
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☆「ポケモンデイズ⑤前編」主♂チェレ アロキダ アーティ
本日はトウコとエンブオーは町の外れの森で野宿だった。本日はというよりは本日もだった。今日も今日とてお捻りを貰ってはいるが、トウコは宿に金を使うような女ではなかった。
「エンブオー。アクロマさんみたいにカレー作ってみたよ。」
トウコはけしてメシマズではない。平均的に料理はこなせる。ちゃんとポケモン仕様に香辛料を控えたカレーを作っていた。
エンブオーはアクロマの名前を聞いてひくっと顔を引き攣らせたが、トウコにスプーンを渡されると大人しくカレーを食べ始めた。
「エンブオーは本当にお行儀よくご飯を食べるよね。私ご飯の食べ方が綺麗な男の子って好きだな。んー。そういえば、エンブオーはなんでそんなに食べるの上手なの? 普通ポケモンってよっぽどお利口さんだったり、訓練しないとスプーンなんて使えないよね。」
エンブオーは「え?」というように驚いて泣きそうな顔になった。もう七年くらい前のことだった。旅の途中でチャオブーに進化して二足歩行が出来るようになってすぐの出来事だった。
『チャオブー。これ持ってご飯食べられるようになりなさい。』
わずか十一歳の少女が母親のような口調でチャオブーに言ってきた。
『私、チャオブーと一緒にご飯食べたいの。だけど同じご飯を手掴みだったり犬食いされるのは我慢ならないの。』
チャオブーは、四足歩行のポカブだったときに直接口で食事を摂っていたことが、まさかトウコにとって不愉快な行為だったとは、このときまで思ってもみなかった。そして二足歩行になったからって即人間のようにご飯を食べる訓練をしろと命令されたことがショックだった。無性に悲しかった。
だけどチャオブーは健気にトウコに従った。トウコは別に訓練して最初の不器用そうなチャオブーに苛立ったりする様子はなかった。だがその平然とした態度が余計怖かった。腹の中ではさぞや立腹されているのではと、一人前にこぼさずに食事が出来るまで怯えて気が気ではなかった。
なのに、今のトウコはそんなことを忘れたように、どうしてエンブオーの食事の仕方が綺麗なのかと問うてくる。エンブオーがどれほどの失敗を毎日重ねながら、ここまで食事の仕方が上達するまでの過程を見てきたはずなのに、トウコは無邪気にエンブオーの心を抉ってきた。
「ブオ……」
今はお馬鹿なトウコも流石に何か悟ったらしい。
「あ……なんか私が言ったんだろうね。あ。思い出した。私そう言えばこう言ったんじゃなかったっけ? 『私の食べ方をよく見なさい。そしてそれを真似するの。これはね、倣るってことの訓練なの。』って。」
エンブオーは安心する。記憶が抜け落ちるのはよくあることだ。トウコは覚えてくれていた。でもエンブオーはトウコが言った訓練云々は、食事の仕方を改めさせられた時から何ヶ月か経ったあとに言われたんじゃなかったかなと首を捻る。その頃にはチャオブーだったエンブオーはきちんと食事が出来るようになっていた。トウコは比較的新しい記憶の言葉を口にして、忘れていたことを誤魔化しているのではと勘繰りたくもある。
だいたいあの時真似をしろと言ったのは、箸を使って何か野菜の煮物を掴んでみろという、一歩進んだ課題を遊びっ気まじりに提示してきた時だった。流石に箸はエンブオーには無理だったので、トウコはごめんごめんと言いながら、エンブオーの横から箸をスプーンかフォークに持ちかえさせていた。エンブオーも人間のような食べ方に慣れてきたせいもあったが、そのトウコの言い方に以前のようにいつまでも胃をじくじくさせるような怖さは感じなかった。
そしてそのうちトウコのほうがポケモンっぽいものの食べ方をするようになっていたような気がする。木の実をもいだそばから丸かじりにしたり、ひょいひょい投げながら遊び食いしたり、逆にお行儀の悪さをエンブオーが窘めるようになっていた。
その当時にはエンブオーの他にもポケモンがいた。
カレーを食べ終えてトウコは既に片づけもそこそこに眠り込んでいる。エンブオーは当時いた仲間を指折り数えるように指差ししながらふと違和感に気付いた。
「オ?」
ロコン。ダルマッカ。ヒトモシ。メラルバ。そして自分。いち、に、さん、よん、ご? なんだか一匹足りないような気がする。だけど誰かがいたはずだ。なのに。そいつの名前が思い出せない。
エンブオーはトウコに替わって食器を片づけながら首を捻り続ける。トウコのことだからわざと五匹だけで旅をするなんて考えづらい。しかし仲間の種別をいちいち覚えていたエンブオーなのに、どうしても六匹目の名前が思い浮かばない。トウコのことだから炎タイプの可能性が高いけれど、なんだか違う気がする。
おぼろげながらに見たような記憶は、自分の斜向かいにスプーンを使ってご飯を食べる姿だった。そいつは自分とは違って箸も使えたような気がする。それが無性に悔しくて羨ましかった。どうしてかそいつの姿は分からないのに、当時の感情だけはありありと蘇る。
「エンブオー…」
トウコが寝言を言っている。
「エンブオーは心配しすぎ……。」
夢の中でもアクロマが出てきているのだろうか。ならば自分もこんなぐだぐだしたことを考えずに、トウコの夢の中に駆けつけたほうがいいかもしれない。何せあの科学者は他人の夢の中に入る機械なども発明してそうな気がしてならないからだ。
エンブオーは目を閉じた。眠りはすぐにやってきてエンブオーを夢の中に誘ってくれたが、その中に出てきたのは誰だか分からない六匹目と向かい合わせでご飯を食べている夢だった。そしてそいつは言ってくるのだった。
『お前、メシ喰うの上手いな。』
『お前のほうが上手い。』
エンブオーは答えた。
『いやいやいや。』
そいつはエンブオーの渋い顔に悪びれることなく、ふざけたように首を振った。エンブオーは少しむっとなって、スプーンを置いた。
『上手じゃないことで褒められるのは嫌いだ。』
『あのさあ……、まあいっか。』
『なんだよ?』
『お前は頑張り屋で謙虚ないいやつってことだよ。』
『俺はただのいじけ虫だよ。』
『炎タイプのくせにっ。』
『いつもいじいじじめじめしてる。炎タイプなんだから湿ってちゃ駄目なのに。』
六匹目は意地悪そうに笑っていた。
『俺は炎ポケモンじゃねえから。天候には左右されにくいっちゃ、にくいけど。』
『お前はそう言えば――タイプだったな。』
顔も姿も思い出せない奴の「タイプ」をエンブオーは夢の中で口にした。だけど目が覚めたら忘れていた。そうかあいつは炎タイプじゃなかったんだ。だけどそれはそいつを特定する手掛かりになり得なかった。
トウヤはシッポウシティのポケモンセンター内で、手に持った木の実を見ながら苦笑いを浮かべている。その木の実はチェレンからお裾分けして貰ったオレンの実で、思わずにやけてしまうくらい嬉しい品だが素直に喜べない。
お裾分けのお裾分けだったからだ。
『貰い物なんだけど。トウヤも持っていて役に立つかもしれないし。僕が木の実を貰った人が言うには、レンジャーがトレーナーに木の実をわけてやるのは当たり前って話だし。だから……どうぞ?』
はにかみながらぶっきらぼうに、不器用可愛く木の実を差出してくるチェレンの好意を、トウヤが断るはずもなかった。
しかし。その木の実をチェレンにあげた人物は、チェレンがトウヤにその正体を秘密にしている「ポケモンの年齢当てが得意な人」と同一人物だとほぼ確信している。「木の実をチェレンにあげた人」と別人である可能性は限りなく低い。
チェレンは件の人物に人間として良い方向に毒されてきている。あの子はもっと気難しくて人見知りだったのに。あの子は幼少から病弱なせいで頑なに育ってしまったのに。何をやらかせば、旅先で見かけた知り合いに声を掛けられるようになったり、自分から木の実を分けてあげたいと言い出せるようになれるのか? チェレンにこれほどの化学変化をもたらすくらいに、その人物はどれほどのチート性能を誇っているのだろうか?
トウヤはとりあえずミジュマルに木の実を持たせてみた。ミジュマルは喜んでいる。トウヤはミジュマルが勢い余って木の実にかぶりつく前に言う。
「これはね。バトルで体力がやばいって時に食べる非常食なんだよ。」
「みじゅじゅ。」
ミジュマルは頷いている。トウヤは他のポケモンにも同じように木の実を持たせた。
木の実を持ったあとの手を嗅いでみると柑橘系の匂いが染みついていた。確かに良い匂いだし、嫌いな匂いでもない。
トウヤはミジュマル達をボールに戻すと、そのまま施設内のトイレに入って手洗い場で手を洗い始めた。普段は自分は好きでも嫌いでもなく、妻だったベルは寧ろ好んでいたからどちらかというと親しんでいた香りなのに、どうしてかその匂いが手についていると思うとイライラしてくる。石鹸も多めに手に付けて飲食店の店員かというくらい入念に手を洗った。
「よし。石鹸の匂いしかしない。」
手の匂いを嗅いでトウヤは頷いた。
この頃はトウヤは狙いすまされたように騒動に見舞われている。シッポウシティに行く途中もポケモンを盗られた女の子の為にプラズマ団のしたっぱと戦う羽目になった。
そしてつい一時間前にはジム戦に向かおうと思いきや、プラズマ団がジム兼博物館に押しいり強盗してきて、ドラゴンタイプのポケモンの頭骨を持ち出そうとした。たまたまそばにいたトウヤも駆り出された結果、なんとか無事に頭骨は奪還できた。
「厄年でもないのになあ。」
前の厄年の時はお祓いしなくても、今のような巻き込まれ事故的な状況にはならなかった。昔と違って会社という組織に守られている身ではないからかもしれないが、短期間に色々ありすぎである。
「アロエさんやアーティさんを待たせるわけにはいかないし。とりあえず行こうか。」
ポケモンセンターのガラス張りのドア越しに外を見てみるが、カラクサタウンで偶然にもNを見つけたような運命のイタズラはもう起こらなかった。それはわかっていたことだ。Nはもうとっくにシッポウシティでの目的は果たしているだろう。今頃はヒウンシティにでも向かっていてもおかしくない。
トウヤはNに関するジム戦などでの公式試合の記録は努めて見ないようにしていた。早すぎはするがもう過去のことにしていた。どうもああいう記録を見ると、自分のペースでやればいいはずのことでも不必要に焦ってしまう。地上を駆けるしかない獣が天を舞う鳥を見上げて、大地の切れ目で遠回りすることに歯噛みするのと同じくらい無意味なことだ。
「遠回り上等じゃないか。そのうち彼は僕の視界からも記憶からもなくなるさ。そしてとっくに彼の視界にも記憶にも僕はもういないんだろうし。」
トウヤは知らず知らずのうちに、Nに対しての自分の立場を弱者に置くことで精神の均衡を保っていた。いや逆にNを遥か高いところに置いてしまったのかもしれない。
博物館の中に入るとアロエの夫がいた。猫背ぎみの気弱そうな眼鏡の男はぴょこんとトウヤにお辞儀をする。名前はキダチと言っていた。
「さきほどはありがとうございます。あ、ママが待ってますからどうぞ奥に進んで下さい。今、アーティさんと一緒にお茶飲んでるはずです。どうせならあなたも、一休みしてからうちのママと戦ってみてはどうでしょう?」
かつての自分のようなサラリーマン稼業ではないこの博物館の副館長は、いかにもアットホームなのんびりとした空気を漂わせている。少々のんびりしすぎな感さえあった。しかしながらトウヤのような大人より、子どもを相手する機会のほうが多いせいなのかもしれないと思った。ジムはあくまで公共機関ではあるが市役所みたいな対応を子どもにするわけにはいくまい。
「アーティさんはうちのママと本当に仲良しで、よくジムを留守にしてこっちに来られるんですよ。要はさぼってるんですよ。アーティさんが留守にしている間に、先ばっかり急ぐトレーナーさんたちにヒウンを観光させてあげてるんだよと嘯いてるんです。確かにヒウンは大きい街ですけど。」
「そ、そうですか……。でも僕もどちらかというと観光よりジム戦を優先したいから、そうだな。僕がヒウンに行くときには手でも繋いでアーティさんも一緒に連れて帰らなくちゃですね。」
キダチはあーと声を上げながら言う。
「それは名案って言えば名案なんですけど、あのトレーナーはあなたよりさらにせっかちでしたよ。あの緑の髪の背の高いトレーナーは――。」
トウヤの肩がびくっと震える。トウヤの前を歩きながらキダチはまるで詩の文句のように滔々と、緑の髪の背の高いトレーナー=Nのことを語る。
「先を急ぎます。お願いしますと彼はアロエママとアーティさんに頭を下げました。彼があの人たちに頼んだことって、いやアーティさんに頼んだことってなんだと思いますか? このジムでアロエママに勝ったその場でアーティさんにも挑戦したんですよ。彼は。基本自由人なアーティさんも、それはそれは戸惑っていました。」
トウヤは無機質な声でキダチの言葉のあとを継ぐ。
「きちんとした手続きを踏まない、前例のないこと。そんなことを言われれば誰でも戸惑いますよ。」
キダチは首を振る。
「そんなんじゃないですよ。このイッシュの風土で手続きや決まり事なんてそんなに問題じゃないんです。彼が申告した手持ちポケモンのレベルは、アロエママのジム戦での水準には届いていたのですけど、アーティさんのジムの水準には到底無理だと。しかもアロエママとのバトルのあとすぐなんて、誰が勝てると思いますか?」
でも彼は勝ったんだろ?
トウヤは口にはしなかったが結論じみた卑屈な問いが頭に浮かんだ。
「結果彼はアーティさんを倒しました。アーティさんは先を急ぐ彼の為にジムの職員に電話して、彼がヒウンのジムについたときにすぐにバッジを渡せるように手配しました。」
「公式戦扱いにしちゃうんですか?」
流石のトウヤもその破格の扱いに驚いた。キダチはそうしなきゃ彼が頼み込んだ意味がないでしょうと苦笑を浮かべた。
「ジムリーダーに勝ったんですから。しかもかなり挑戦者に不利な条件で。」
Nならやりかねないとトウヤは思った。天才の才能だけではない。Nには明確にして強固な意志があり、それはどんな状況でさえもNに向かって吹いてくる風にできる。しかもそれは追い風だ。
「えっと……。でも、良い子でしたよ。ほんとに無理なこと言ってすみませんって、何度も何度もアロエママとアーティさんに謝ってましたから。泣きそうな顔してね。僕のような凡人には分からないことなんですけど、あの子には本当に泣くほど先を急ぐ理由があるんだなって。ほんとは喜んであげなきゃいけないのに可哀そうになっちゃいましたもん。才能があるんだから、もっと余裕こいていればいいのに。才能があるせいで自分をすり減らしてるんじゃないかと心配になっちゃうような子でしたよ。」
そうやって天才が人前で悲壮感を漂わせて切羽詰っているから、自分やキダチみたいな凡人が余計に焦る羽目になるんだと、少しNに説教をしたくなるトウヤだった。たぶんこれは説教したいというより八つ当たりに似た感情だろう。だからふつふつと獣が崖の突端から向こう岸まで跳躍してやろうという気概が湧いてきていた。
「ごめんなさい。」
キダチは何故かトウヤに謝ってきた。
「僕が彼に何かやってあげたり出来るわけじゃないのに。勝手なことをあなたに愚痴ってばかりで。」
キダチはそう言いながらアロエのオフィスまで案内してくれた。アロエとアーティはデスクで紅茶のカップを手にトウヤを見た。
「アロエさん。アーティさん。お願いがあるんです。」
アロエは口元だけ、にやっと笑ってみせた。
「もしかしてうちのダンナから聞いたのかい?」
キダチはトウヤの意図することを察して額に冷や汗が滲んだ。ただこういうトレーナーがいたと世間話のつもりだったのに、見た目冷静そうな男をひどく動揺させてしまったのだと気が付いた。
トウヤは冷静そうに見える顔のまま頷いた。
「ええ。」
アーティは「あーあ。せっかくさぼりに来たのに」と言わんばかりに肩を竦めた。
「いいよ。シッポウジム・ヒウンジムの連チャンバトル。前例作っちゃったんだから、これも公式扱いだね。」
「では。お願いします。」
トウヤは背筋を正して最敬礼より深く頭を下げた。胸の中には、やってやる、Nに追い付いてやるという気概が満たされていた。二人のジムリーダーは静かに紅茶のカップを置いて立ち上がった。
トウヤの膝は完全に折れて床についていた。キダチはあんなことをバトルの前に言うんじゃなかったと後悔するかのように唇を噛みしめている。トレーナーにとって強い存在が傍にいるということがどれほど焦燥感を煽るのか、キダチはうっかり忘れていた。
「気にすることじゃないですよ。トウヤさん。ママには勝ったじゃないですか。アーティさんにもあんなに善戦したし。タブンネでアーティさんのハハコモリにあんなに競るなんて、僕見たことなかったですもの。」
トウヤは俯いている。キダチが言ったことは正真正銘の真実だろう。でも結果は――。それでもキダチは語らずにはいられなかった。
「結果は全てですけど、結果が全てじゃないんですよ。勝った人は負けた経験が出来ないんですよ。負けた人はその経験を活かして勝つことだって出来るんですから。いいですか? 僕はアロエママのしがない夫です。アロエママにはトレーナーとして足元にも及ばない凡夫です。だけど子どもが一人前になった今でも一緒にいられるのは、アロエママに負けっぱなしでも腐らずにいられたからです。」
ポケモン勝負してたのかこの夫婦はと、トウヤはぼんやりとアロエとキダチを交互に見やった。のんびりと穏やかそうな貧弱な男がトウヤに向かって何故か熱く語っている。
「緑の髪の彼だって、勝つべくして勝ったんじゃないですよ。勝てるまで頑張ったから勝ったんですよ。彼の服には草むらを何遍も通り抜けてきたような染みがついていたし、ポケモンも彼を慕っていました。トウヤさんはこのジムを出たら、ヒウンでアーティさんに再戦して、今度こそバッジをゲットするんでしょ? ヒウンに行くまではヤグルマの森だってあります。そこでポケモンと一緒に頑張ればいいじゃないですか。草むら百ぺんはトレーナーの基本ですよ。」
「そうだね。あんたもよくヤグルマの森に行っては葉っぱくっつけて帰ってきてるよね。それにしても、あんたそんなに私に勝ちたかったの?」
「当たり前じゃないですか! 僕はあなたの旦那さんですからあ!」
アロエはその大きな胸にキダチを抱えてよしよしとあやしていた。そんな夫婦の様子を見て、アーティに負けたトウヤなのに、なんでか落ち込んでた気分がバカバカしくなってきた。
「アーティさん。ヒウンジムでまた挑戦させてもらいますね。」
「そうなると……。僕は今からジムに帰らなくちゃいけない空気だよねえ。うう……。アロエ姐さん。寂しいよお。ていうか僕のとこにもアロエ姐さんが来て欲しいな。」
「私ぁあんたみたいな自由業とは違うんだよ。あんまし都会も好きじゃないしね。」
「うう。ヒウンの芸術仲間に僕の最高のミューズだって紹介したいのに。」
「冗談言うんじゃないよ。私はミューズなんかじゃなくってママなんだから。」
あれ? トウヤは首を傾げた。どうしてかジムリーダーの表ざたにならない人間関係を垣間見たような気がする。見ればアロエの左手をしっかりとアーティが握り、右手をキダチが捕まえていた。ああそうかと合点はいく。
「それでは僕はヤグルマの森で鍛えてからヒウンに行こうと思います。アーティさん。間違いなくヒウンで待っててくださいね。」
「ああ。わかってるよお。じゃあアロエ姐さん。またそっちに行くからねえ。」
限りなく名残惜しげにアーティはジムから去っていく。出ていく間際にちらりと顔を覗かせてからキダチに向かってべーっと舌を出していた。
「あの。トウヤさん。」
キダチがアロエから手を離して、お願いがあるのですがと申し出る。
「前から思ってたことなんですけど。僕もヒウンのアーティさんのジムのジムバッジをゲットしにトウヤさんに同行していいですか? ヤグルマの森なら僕も熟知してますから、一緒に僕も特訓させてください。」
「え?」
「こんなおじさんとじゃダメですか?」
「いや僕もかなりおじさんなほうですから。かまいませんよ。」
キダチはくるっとアロエのほうを振り向いて言った。
「ママ。いいよね?」
「まあ、たまにはいいだろうね。しっかりやりなよ。」
こうしてトウヤに束の間の同行者がつくことになった。
ヤグルマの森の中で野性の虫ポケモンと戦ったり、自然に溶け込んでいるレンジャーと遭遇したりしながら、トウヤとキダチは先に進んでいた。
トウヤのミジュマルはまだまだ子どものせいか、あまり見たことのない虫ポケモンに対して少々怖がり気味だった。他の手持ちも大げさに怖がったりしないが虫ポケモンは苦手な様子だった。いきなり糸を吐かれたり毒を吐かれたりすれば、ダメージ以外の精神的あれやこれやも受けるには違いない。だからとにかく虫ポケモンの独特な攻撃に慣れさせることを先決とした。
思えば結構繊細な神経のトウヤの手持ちがアーティの虫ポケモンにボロ負けしたのは当然のように思える。そんなことも考えずにバトルをごり押しした自分は、やはり大人を気取っているがトレーナーとしては未熟なのだろう。
「ごめんね。ミジュマル。チョロネコ。シママ。タブンネ。お前たちは虫ポケモンとはアーティさんの手持ちが初めてだったんだよね。」
特にチョロネコは普段から使えない奴ではあるが、虫タイプが弱点でもあったので今回ばかりは彼女を叱れない。ミジュマルも草タイプまで持つハハコモリには対応出来ないし、タブンネも決定打を持っていない。それより何より焦りすぎたと反省する一番のポイントはシママにあった。
「ニトロチャージか。」
シママはいましがたそれを覚えたばかりだった。レベルが一つ二つ違うだけでアーティのポケモンに圧倒的に有利な技を習得出来たのである。本当に自分が焦りすぎたせいで、とんだとばっちりをポケモン達に食わせてしまったとトウヤは思った。
ヤグルマの森には他の虫以外のポケモンが飛び出てきたりするが、やはり虫が出てきた時にトウヤのポケモン達は動きがぎこちなくなる。虫ポケモンを初めて相手にしたのが、ジムリーダーの手持ちだったのが痛かったのかもしれない。
その点、キダチのポケモン達は慣れたものだった。多少の粘つく糸くらいは易々と躱すし、少々毒液を浴びてもステータス異常達しない程度はそのまま野性の虫ポケに向かっていくのだ。
トウヤとキダチは大人の男同士らしく、おてて繋いで特訓などというぬるいことはしなかった。お互いに別々の場所で自分たちのポケモンに専念している。でも同じように強くなろうとしている同類がいることはトウヤにもポケモン達にも励みになった。
トウヤにもうっすら感づいたことだが、キダチがアーティに挑戦しようと決心したのは、どうやらアーティがアロエに対して特別な想いを抱いていることが原因なようだ。
「みじゅ。」
ミジュマルはキダチのポケモンの様子と自分に纏わりついている糸をそれぞれ見て、憑き物が落ちたように悟り始めていた。べたべたの糸が絡んできても死にはしないと。きっかけがあればそこから先は楽になる。他のポケモンも段々と虫ポケモンの攻撃を気にしなくなってきた。
無機質で表情が読みにくい虫ポケモンの攻撃を最初は読めなかったトウヤだが、次第にパターンが読めてきた。毒や麻痺攻撃がどんなタイミングで来るか読めるようになった。
「みじゅ。」
最初はフシデに追いかけられて泣きべそをかいていたミジュマルも、遠隔攻撃なら楽に倒せるようになってきた。ただし自分の大切なホタチをぶつけるには少々の躊躇が見られたが。
やっぱり自分にはこういうのが向いている。積み重ねたものを根拠にして、先を読んでいくやり方こそがトウヤのスタイルなのだと。天才のNには届かないがなんやかやのコツを掴むのは得意なのだとトウヤには自負するところがあった。
Nを気にしていたら、自分は躓いてしまう。
Nを振り切るためにNを無理に越えようとするのはよそうと改めて思ったとき、トウヤの風邪熱にじくじくと浸食されていたような脳がさあっと冷めた。
もともとトレーナーになったのはチェレンのことを陰ながら見守りたいがためだったじゃないかと、チェレンと別れてから半日ほどまったくそのことに頭がいってなかったことを訝しく思った。そしてNという憑き物が落ちたことを改めて自覚した。
「トウヤさん。ポケモンに対しての指示がすごくナチュラルになってきたじゃないですか。」
「え? そうですか?」
わざとらしく謙遜してみせるがそんなことはトウヤ自身がとっくに自覚していた。
そろそろ夕闇が迫ってくる時間だった。キダチは川辺にシートを広げてトウヤを手招きした。川の水に手を突っ込んでキダチは缶ビールをトウヤに差出した。
「冷やしておいたんですよ。特訓が終ったら一緒に呑もうかと思って。」
「ありがとうございます。」
トウヤはあちゃあと小声で呟いた。トウヤにはツマミも何もそういう準備はなかったからだ。
「ママが二人分お弁当を持たせてくれましたから。」
「何から何まですみません。」
恥ずかしさで笑いが込み上げてきて小刻みに震えてしまう。しかしながらにこにことキダチが勧めてくるなら喜んでお言葉に甘えるしかない。
「キダチさんて、ビールといいお弁当といい……本当に気が回られる方ですね。」
「だって僕はアロエママの片腕ですから。あの博物館、ママが館長で僕が副館長で。何かイベントがあったときのなんやかんやの手配は僕の担当なんです。」
「僕もサラリーマン時代にはそういうことしてたはずなんだけどな。ここのところちょっと焦りが出てきたせいで、余裕なくなってたかも。缶ビールなんてすごく久しぶりな気がするし。」
互いに缶を開けて乾杯をする。トウヤもキダチも一口飲むとぷはっと息をついた。
「トウヤさん。緑の髪の彼と知り合いなんでしょ? だから負けたくなくてああいうことしたんですよね。」
「キダチさんだってアーティさんに負けたくないんですよね。」
「緑君うちのジムに入る前になんだか後ろ振り向いて何かを気にしていたみたいなんですよね。それは後からくるあなたのことを気にしてたんじゃないかと――。」
「アーティさんなんですけど、アロエさんがママ呼びをそれとなく推奨するのに、頑なに姐さんって呼びますよね。あれってあなたに対する当てつけですよね。」
「トウヤさん酔ってますか? 嫌なこと言わないで下さいよ。」
「あなたが先に言ってきたんじゃないですか。」
男二人は少量のアルコールで既にほろ酔いになっていた。キダチははにかむように笑う。
「女王様に指名されて夫になった男の気持ちってわかります?」
「なんとなくは、想像できる気はします。」
あ、なんか惚気話きたなとトウヤは思った。トウヤだってNに二人の英雄の話をされてそれとなくトウヤに対する期待を仄めかされたとき、少しの高揚感となんで自分なのだという疑念に襲われた。だからキダチの抱える思いもわかる。しかしトウヤには既に心の中にチェレンがいる。勿論何一つチェレンには伝えていないが、Nからのご指名を断るだけの動機になり得た。反対の動機でキダチはアロエに望まれたからこそ、分不相応な彼女の夫という立ち位置を誰にも譲ることなく今まで過ごしてきた。
キダチにアロエといたことによって後悔があると疑うほうが野暮なのだろう。しかしそれなりのジレンマを耐えてきたのは間違いない。
「やっぱり思われたくないんですよね。副館長だから館長と結婚出来たとかって。」
「いや。女王様はそんなこと思ってないでしょ。あなたが忠実で優秀な臣下だから駙馬にしたなんて。アロエさんはそれに自分のこと女王様なんて思ってないでしょう。あの人は自分のことはママだってアーティさんにも言い張ってましたし。」
「でもアロエママはやっぱり女王様なんですよね。」
「そうですね。本人が望もうとも望まざろうとも、あの人なら生まれながらの女王様だって誰もが納得しますもんねえ。」
キダチはそうなんですとなんだか気弱そうな笑みを浮かべたが、そこから顔を赤くして少しにやけながらトウヤに言った。
「でもね。夜は僕が王様なんですよ~。」
「キダチさん。あなた相当酔ってますよ。」
「いやいいでしょ、このくらい。大人同士なんですから。」
「いや。あなた今絶賛キャラ崩壊中だからっ。」
くそ。このリア充が。と、キダチのにやけたくすくす笑いにトウヤは苦虫を噛み潰したような笑みを返した。世間体からくる重圧や葛藤なんて、夜に仲良くいちゃいちゃすれば解消されるなんて、本当に羨ましいったらありゃあしない。
「アーティさんに嫌味言われても仕方ないですよ。それって。」
「そうですね。それくらい我慢しましょうかね。」
ああ。はやくリア充になりたい。トウヤは一つ心に秘めるものが増えた。次にチェレンに会えたら、思い切って告白するのも手かもしれない。
キダチは本当に酔ってしまったのか、こくりこくりと眠そうに身体を揺らしている。トウヤはビールの缶をキダチから取り上げてシートの上にキダチを寝かせた。
「おやすみなさい。夜の王様。」
「うむ。苦しゅうない。」
それは殿様だとトウヤは突っ込んだ。そして自分も良い心地な酔いのうちに寝てしまおうとシートの上に横になった。ビールの缶は朝片付けようとものぐさなことを思いながら。
後編に続く。
「エンブオー。アクロマさんみたいにカレー作ってみたよ。」
トウコはけしてメシマズではない。平均的に料理はこなせる。ちゃんとポケモン仕様に香辛料を控えたカレーを作っていた。
エンブオーはアクロマの名前を聞いてひくっと顔を引き攣らせたが、トウコにスプーンを渡されると大人しくカレーを食べ始めた。
「エンブオーは本当にお行儀よくご飯を食べるよね。私ご飯の食べ方が綺麗な男の子って好きだな。んー。そういえば、エンブオーはなんでそんなに食べるの上手なの? 普通ポケモンってよっぽどお利口さんだったり、訓練しないとスプーンなんて使えないよね。」
エンブオーは「え?」というように驚いて泣きそうな顔になった。もう七年くらい前のことだった。旅の途中でチャオブーに進化して二足歩行が出来るようになってすぐの出来事だった。
『チャオブー。これ持ってご飯食べられるようになりなさい。』
わずか十一歳の少女が母親のような口調でチャオブーに言ってきた。
『私、チャオブーと一緒にご飯食べたいの。だけど同じご飯を手掴みだったり犬食いされるのは我慢ならないの。』
チャオブーは、四足歩行のポカブだったときに直接口で食事を摂っていたことが、まさかトウコにとって不愉快な行為だったとは、このときまで思ってもみなかった。そして二足歩行になったからって即人間のようにご飯を食べる訓練をしろと命令されたことがショックだった。無性に悲しかった。
だけどチャオブーは健気にトウコに従った。トウコは別に訓練して最初の不器用そうなチャオブーに苛立ったりする様子はなかった。だがその平然とした態度が余計怖かった。腹の中ではさぞや立腹されているのではと、一人前にこぼさずに食事が出来るまで怯えて気が気ではなかった。
なのに、今のトウコはそんなことを忘れたように、どうしてエンブオーの食事の仕方が綺麗なのかと問うてくる。エンブオーがどれほどの失敗を毎日重ねながら、ここまで食事の仕方が上達するまでの過程を見てきたはずなのに、トウコは無邪気にエンブオーの心を抉ってきた。
「ブオ……」
今はお馬鹿なトウコも流石に何か悟ったらしい。
「あ……なんか私が言ったんだろうね。あ。思い出した。私そう言えばこう言ったんじゃなかったっけ? 『私の食べ方をよく見なさい。そしてそれを真似するの。これはね、倣るってことの訓練なの。』って。」
エンブオーは安心する。記憶が抜け落ちるのはよくあることだ。トウコは覚えてくれていた。でもエンブオーはトウコが言った訓練云々は、食事の仕方を改めさせられた時から何ヶ月か経ったあとに言われたんじゃなかったかなと首を捻る。その頃にはチャオブーだったエンブオーはきちんと食事が出来るようになっていた。トウコは比較的新しい記憶の言葉を口にして、忘れていたことを誤魔化しているのではと勘繰りたくもある。
だいたいあの時真似をしろと言ったのは、箸を使って何か野菜の煮物を掴んでみろという、一歩進んだ課題を遊びっ気まじりに提示してきた時だった。流石に箸はエンブオーには無理だったので、トウコはごめんごめんと言いながら、エンブオーの横から箸をスプーンかフォークに持ちかえさせていた。エンブオーも人間のような食べ方に慣れてきたせいもあったが、そのトウコの言い方に以前のようにいつまでも胃をじくじくさせるような怖さは感じなかった。
そしてそのうちトウコのほうがポケモンっぽいものの食べ方をするようになっていたような気がする。木の実をもいだそばから丸かじりにしたり、ひょいひょい投げながら遊び食いしたり、逆にお行儀の悪さをエンブオーが窘めるようになっていた。
その当時にはエンブオーの他にもポケモンがいた。
カレーを食べ終えてトウコは既に片づけもそこそこに眠り込んでいる。エンブオーは当時いた仲間を指折り数えるように指差ししながらふと違和感に気付いた。
「オ?」
ロコン。ダルマッカ。ヒトモシ。メラルバ。そして自分。いち、に、さん、よん、ご? なんだか一匹足りないような気がする。だけど誰かがいたはずだ。なのに。そいつの名前が思い出せない。
エンブオーはトウコに替わって食器を片づけながら首を捻り続ける。トウコのことだからわざと五匹だけで旅をするなんて考えづらい。しかし仲間の種別をいちいち覚えていたエンブオーなのに、どうしても六匹目の名前が思い浮かばない。トウコのことだから炎タイプの可能性が高いけれど、なんだか違う気がする。
おぼろげながらに見たような記憶は、自分の斜向かいにスプーンを使ってご飯を食べる姿だった。そいつは自分とは違って箸も使えたような気がする。それが無性に悔しくて羨ましかった。どうしてかそいつの姿は分からないのに、当時の感情だけはありありと蘇る。
「エンブオー…」
トウコが寝言を言っている。
「エンブオーは心配しすぎ……。」
夢の中でもアクロマが出てきているのだろうか。ならば自分もこんなぐだぐだしたことを考えずに、トウコの夢の中に駆けつけたほうがいいかもしれない。何せあの科学者は他人の夢の中に入る機械なども発明してそうな気がしてならないからだ。
エンブオーは目を閉じた。眠りはすぐにやってきてエンブオーを夢の中に誘ってくれたが、その中に出てきたのは誰だか分からない六匹目と向かい合わせでご飯を食べている夢だった。そしてそいつは言ってくるのだった。
『お前、メシ喰うの上手いな。』
『お前のほうが上手い。』
エンブオーは答えた。
『いやいやいや。』
そいつはエンブオーの渋い顔に悪びれることなく、ふざけたように首を振った。エンブオーは少しむっとなって、スプーンを置いた。
『上手じゃないことで褒められるのは嫌いだ。』
『あのさあ……、まあいっか。』
『なんだよ?』
『お前は頑張り屋で謙虚ないいやつってことだよ。』
『俺はただのいじけ虫だよ。』
『炎タイプのくせにっ。』
『いつもいじいじじめじめしてる。炎タイプなんだから湿ってちゃ駄目なのに。』
六匹目は意地悪そうに笑っていた。
『俺は炎ポケモンじゃねえから。天候には左右されにくいっちゃ、にくいけど。』
『お前はそう言えば――タイプだったな。』
顔も姿も思い出せない奴の「タイプ」をエンブオーは夢の中で口にした。だけど目が覚めたら忘れていた。そうかあいつは炎タイプじゃなかったんだ。だけどそれはそいつを特定する手掛かりになり得なかった。
- * *
トウヤはシッポウシティのポケモンセンター内で、手に持った木の実を見ながら苦笑いを浮かべている。その木の実はチェレンからお裾分けして貰ったオレンの実で、思わずにやけてしまうくらい嬉しい品だが素直に喜べない。
お裾分けのお裾分けだったからだ。
『貰い物なんだけど。トウヤも持っていて役に立つかもしれないし。僕が木の実を貰った人が言うには、レンジャーがトレーナーに木の実をわけてやるのは当たり前って話だし。だから……どうぞ?』
はにかみながらぶっきらぼうに、不器用可愛く木の実を差出してくるチェレンの好意を、トウヤが断るはずもなかった。
しかし。その木の実をチェレンにあげた人物は、チェレンがトウヤにその正体を秘密にしている「ポケモンの年齢当てが得意な人」と同一人物だとほぼ確信している。「木の実をチェレンにあげた人」と別人である可能性は限りなく低い。
チェレンは件の人物に人間として良い方向に毒されてきている。あの子はもっと気難しくて人見知りだったのに。あの子は幼少から病弱なせいで頑なに育ってしまったのに。何をやらかせば、旅先で見かけた知り合いに声を掛けられるようになったり、自分から木の実を分けてあげたいと言い出せるようになれるのか? チェレンにこれほどの化学変化をもたらすくらいに、その人物はどれほどのチート性能を誇っているのだろうか?
トウヤはとりあえずミジュマルに木の実を持たせてみた。ミジュマルは喜んでいる。トウヤはミジュマルが勢い余って木の実にかぶりつく前に言う。
「これはね。バトルで体力がやばいって時に食べる非常食なんだよ。」
「みじゅじゅ。」
ミジュマルは頷いている。トウヤは他のポケモンにも同じように木の実を持たせた。
木の実を持ったあとの手を嗅いでみると柑橘系の匂いが染みついていた。確かに良い匂いだし、嫌いな匂いでもない。
トウヤはミジュマル達をボールに戻すと、そのまま施設内のトイレに入って手洗い場で手を洗い始めた。普段は自分は好きでも嫌いでもなく、妻だったベルは寧ろ好んでいたからどちらかというと親しんでいた香りなのに、どうしてかその匂いが手についていると思うとイライラしてくる。石鹸も多めに手に付けて飲食店の店員かというくらい入念に手を洗った。
「よし。石鹸の匂いしかしない。」
手の匂いを嗅いでトウヤは頷いた。
この頃はトウヤは狙いすまされたように騒動に見舞われている。シッポウシティに行く途中もポケモンを盗られた女の子の為にプラズマ団のしたっぱと戦う羽目になった。
そしてつい一時間前にはジム戦に向かおうと思いきや、プラズマ団がジム兼博物館に押しいり強盗してきて、ドラゴンタイプのポケモンの頭骨を持ち出そうとした。たまたまそばにいたトウヤも駆り出された結果、なんとか無事に頭骨は奪還できた。
「厄年でもないのになあ。」
前の厄年の時はお祓いしなくても、今のような巻き込まれ事故的な状況にはならなかった。昔と違って会社という組織に守られている身ではないからかもしれないが、短期間に色々ありすぎである。
「アロエさんやアーティさんを待たせるわけにはいかないし。とりあえず行こうか。」
ポケモンセンターのガラス張りのドア越しに外を見てみるが、カラクサタウンで偶然にもNを見つけたような運命のイタズラはもう起こらなかった。それはわかっていたことだ。Nはもうとっくにシッポウシティでの目的は果たしているだろう。今頃はヒウンシティにでも向かっていてもおかしくない。
トウヤはNに関するジム戦などでの公式試合の記録は努めて見ないようにしていた。早すぎはするがもう過去のことにしていた。どうもああいう記録を見ると、自分のペースでやればいいはずのことでも不必要に焦ってしまう。地上を駆けるしかない獣が天を舞う鳥を見上げて、大地の切れ目で遠回りすることに歯噛みするのと同じくらい無意味なことだ。
「遠回り上等じゃないか。そのうち彼は僕の視界からも記憶からもなくなるさ。そしてとっくに彼の視界にも記憶にも僕はもういないんだろうし。」
トウヤは知らず知らずのうちに、Nに対しての自分の立場を弱者に置くことで精神の均衡を保っていた。いや逆にNを遥か高いところに置いてしまったのかもしれない。
博物館の中に入るとアロエの夫がいた。猫背ぎみの気弱そうな眼鏡の男はぴょこんとトウヤにお辞儀をする。名前はキダチと言っていた。
「さきほどはありがとうございます。あ、ママが待ってますからどうぞ奥に進んで下さい。今、アーティさんと一緒にお茶飲んでるはずです。どうせならあなたも、一休みしてからうちのママと戦ってみてはどうでしょう?」
かつての自分のようなサラリーマン稼業ではないこの博物館の副館長は、いかにもアットホームなのんびりとした空気を漂わせている。少々のんびりしすぎな感さえあった。しかしながらトウヤのような大人より、子どもを相手する機会のほうが多いせいなのかもしれないと思った。ジムはあくまで公共機関ではあるが市役所みたいな対応を子どもにするわけにはいくまい。
「アーティさんはうちのママと本当に仲良しで、よくジムを留守にしてこっちに来られるんですよ。要はさぼってるんですよ。アーティさんが留守にしている間に、先ばっかり急ぐトレーナーさんたちにヒウンを観光させてあげてるんだよと嘯いてるんです。確かにヒウンは大きい街ですけど。」
「そ、そうですか……。でも僕もどちらかというと観光よりジム戦を優先したいから、そうだな。僕がヒウンに行くときには手でも繋いでアーティさんも一緒に連れて帰らなくちゃですね。」
キダチはあーと声を上げながら言う。
「それは名案って言えば名案なんですけど、あのトレーナーはあなたよりさらにせっかちでしたよ。あの緑の髪の背の高いトレーナーは――。」
トウヤの肩がびくっと震える。トウヤの前を歩きながらキダチはまるで詩の文句のように滔々と、緑の髪の背の高いトレーナー=Nのことを語る。
「先を急ぎます。お願いしますと彼はアロエママとアーティさんに頭を下げました。彼があの人たちに頼んだことって、いやアーティさんに頼んだことってなんだと思いますか? このジムでアロエママに勝ったその場でアーティさんにも挑戦したんですよ。彼は。基本自由人なアーティさんも、それはそれは戸惑っていました。」
トウヤは無機質な声でキダチの言葉のあとを継ぐ。
「きちんとした手続きを踏まない、前例のないこと。そんなことを言われれば誰でも戸惑いますよ。」
キダチは首を振る。
「そんなんじゃないですよ。このイッシュの風土で手続きや決まり事なんてそんなに問題じゃないんです。彼が申告した手持ちポケモンのレベルは、アロエママのジム戦での水準には届いていたのですけど、アーティさんのジムの水準には到底無理だと。しかもアロエママとのバトルのあとすぐなんて、誰が勝てると思いますか?」
でも彼は勝ったんだろ?
トウヤは口にはしなかったが結論じみた卑屈な問いが頭に浮かんだ。
「結果彼はアーティさんを倒しました。アーティさんは先を急ぐ彼の為にジムの職員に電話して、彼がヒウンのジムについたときにすぐにバッジを渡せるように手配しました。」
「公式戦扱いにしちゃうんですか?」
流石のトウヤもその破格の扱いに驚いた。キダチはそうしなきゃ彼が頼み込んだ意味がないでしょうと苦笑を浮かべた。
「ジムリーダーに勝ったんですから。しかもかなり挑戦者に不利な条件で。」
Nならやりかねないとトウヤは思った。天才の才能だけではない。Nには明確にして強固な意志があり、それはどんな状況でさえもNに向かって吹いてくる風にできる。しかもそれは追い風だ。
「えっと……。でも、良い子でしたよ。ほんとに無理なこと言ってすみませんって、何度も何度もアロエママとアーティさんに謝ってましたから。泣きそうな顔してね。僕のような凡人には分からないことなんですけど、あの子には本当に泣くほど先を急ぐ理由があるんだなって。ほんとは喜んであげなきゃいけないのに可哀そうになっちゃいましたもん。才能があるんだから、もっと余裕こいていればいいのに。才能があるせいで自分をすり減らしてるんじゃないかと心配になっちゃうような子でしたよ。」
そうやって天才が人前で悲壮感を漂わせて切羽詰っているから、自分やキダチみたいな凡人が余計に焦る羽目になるんだと、少しNに説教をしたくなるトウヤだった。たぶんこれは説教したいというより八つ当たりに似た感情だろう。だからふつふつと獣が崖の突端から向こう岸まで跳躍してやろうという気概が湧いてきていた。
「ごめんなさい。」
キダチは何故かトウヤに謝ってきた。
「僕が彼に何かやってあげたり出来るわけじゃないのに。勝手なことをあなたに愚痴ってばかりで。」
キダチはそう言いながらアロエのオフィスまで案内してくれた。アロエとアーティはデスクで紅茶のカップを手にトウヤを見た。
「アロエさん。アーティさん。お願いがあるんです。」
アロエは口元だけ、にやっと笑ってみせた。
「もしかしてうちのダンナから聞いたのかい?」
キダチはトウヤの意図することを察して額に冷や汗が滲んだ。ただこういうトレーナーがいたと世間話のつもりだったのに、見た目冷静そうな男をひどく動揺させてしまったのだと気が付いた。
トウヤは冷静そうに見える顔のまま頷いた。
「ええ。」
アーティは「あーあ。せっかくさぼりに来たのに」と言わんばかりに肩を竦めた。
「いいよ。シッポウジム・ヒウンジムの連チャンバトル。前例作っちゃったんだから、これも公式扱いだね。」
「では。お願いします。」
トウヤは背筋を正して最敬礼より深く頭を下げた。胸の中には、やってやる、Nに追い付いてやるという気概が満たされていた。二人のジムリーダーは静かに紅茶のカップを置いて立ち上がった。
- * *
トウヤの膝は完全に折れて床についていた。キダチはあんなことをバトルの前に言うんじゃなかったと後悔するかのように唇を噛みしめている。トレーナーにとって強い存在が傍にいるということがどれほど焦燥感を煽るのか、キダチはうっかり忘れていた。
「気にすることじゃないですよ。トウヤさん。ママには勝ったじゃないですか。アーティさんにもあんなに善戦したし。タブンネでアーティさんのハハコモリにあんなに競るなんて、僕見たことなかったですもの。」
トウヤは俯いている。キダチが言ったことは正真正銘の真実だろう。でも結果は――。それでもキダチは語らずにはいられなかった。
「結果は全てですけど、結果が全てじゃないんですよ。勝った人は負けた経験が出来ないんですよ。負けた人はその経験を活かして勝つことだって出来るんですから。いいですか? 僕はアロエママのしがない夫です。アロエママにはトレーナーとして足元にも及ばない凡夫です。だけど子どもが一人前になった今でも一緒にいられるのは、アロエママに負けっぱなしでも腐らずにいられたからです。」
ポケモン勝負してたのかこの夫婦はと、トウヤはぼんやりとアロエとキダチを交互に見やった。のんびりと穏やかそうな貧弱な男がトウヤに向かって何故か熱く語っている。
「緑の髪の彼だって、勝つべくして勝ったんじゃないですよ。勝てるまで頑張ったから勝ったんですよ。彼の服には草むらを何遍も通り抜けてきたような染みがついていたし、ポケモンも彼を慕っていました。トウヤさんはこのジムを出たら、ヒウンでアーティさんに再戦して、今度こそバッジをゲットするんでしょ? ヒウンに行くまではヤグルマの森だってあります。そこでポケモンと一緒に頑張ればいいじゃないですか。草むら百ぺんはトレーナーの基本ですよ。」
「そうだね。あんたもよくヤグルマの森に行っては葉っぱくっつけて帰ってきてるよね。それにしても、あんたそんなに私に勝ちたかったの?」
「当たり前じゃないですか! 僕はあなたの旦那さんですからあ!」
アロエはその大きな胸にキダチを抱えてよしよしとあやしていた。そんな夫婦の様子を見て、アーティに負けたトウヤなのに、なんでか落ち込んでた気分がバカバカしくなってきた。
「アーティさん。ヒウンジムでまた挑戦させてもらいますね。」
「そうなると……。僕は今からジムに帰らなくちゃいけない空気だよねえ。うう……。アロエ姐さん。寂しいよお。ていうか僕のとこにもアロエ姐さんが来て欲しいな。」
「私ぁあんたみたいな自由業とは違うんだよ。あんまし都会も好きじゃないしね。」
「うう。ヒウンの芸術仲間に僕の最高のミューズだって紹介したいのに。」
「冗談言うんじゃないよ。私はミューズなんかじゃなくってママなんだから。」
あれ? トウヤは首を傾げた。どうしてかジムリーダーの表ざたにならない人間関係を垣間見たような気がする。見ればアロエの左手をしっかりとアーティが握り、右手をキダチが捕まえていた。ああそうかと合点はいく。
「それでは僕はヤグルマの森で鍛えてからヒウンに行こうと思います。アーティさん。間違いなくヒウンで待っててくださいね。」
「ああ。わかってるよお。じゃあアロエ姐さん。またそっちに行くからねえ。」
限りなく名残惜しげにアーティはジムから去っていく。出ていく間際にちらりと顔を覗かせてからキダチに向かってべーっと舌を出していた。
「あの。トウヤさん。」
キダチがアロエから手を離して、お願いがあるのですがと申し出る。
「前から思ってたことなんですけど。僕もヒウンのアーティさんのジムのジムバッジをゲットしにトウヤさんに同行していいですか? ヤグルマの森なら僕も熟知してますから、一緒に僕も特訓させてください。」
「え?」
「こんなおじさんとじゃダメですか?」
「いや僕もかなりおじさんなほうですから。かまいませんよ。」
キダチはくるっとアロエのほうを振り向いて言った。
「ママ。いいよね?」
「まあ、たまにはいいだろうね。しっかりやりなよ。」
こうしてトウヤに束の間の同行者がつくことになった。
- * *
ヤグルマの森の中で野性の虫ポケモンと戦ったり、自然に溶け込んでいるレンジャーと遭遇したりしながら、トウヤとキダチは先に進んでいた。
トウヤのミジュマルはまだまだ子どものせいか、あまり見たことのない虫ポケモンに対して少々怖がり気味だった。他の手持ちも大げさに怖がったりしないが虫ポケモンは苦手な様子だった。いきなり糸を吐かれたり毒を吐かれたりすれば、ダメージ以外の精神的あれやこれやも受けるには違いない。だからとにかく虫ポケモンの独特な攻撃に慣れさせることを先決とした。
思えば結構繊細な神経のトウヤの手持ちがアーティの虫ポケモンにボロ負けしたのは当然のように思える。そんなことも考えずにバトルをごり押しした自分は、やはり大人を気取っているがトレーナーとしては未熟なのだろう。
「ごめんね。ミジュマル。チョロネコ。シママ。タブンネ。お前たちは虫ポケモンとはアーティさんの手持ちが初めてだったんだよね。」
特にチョロネコは普段から使えない奴ではあるが、虫タイプが弱点でもあったので今回ばかりは彼女を叱れない。ミジュマルも草タイプまで持つハハコモリには対応出来ないし、タブンネも決定打を持っていない。それより何より焦りすぎたと反省する一番のポイントはシママにあった。
「ニトロチャージか。」
シママはいましがたそれを覚えたばかりだった。レベルが一つ二つ違うだけでアーティのポケモンに圧倒的に有利な技を習得出来たのである。本当に自分が焦りすぎたせいで、とんだとばっちりをポケモン達に食わせてしまったとトウヤは思った。
ヤグルマの森には他の虫以外のポケモンが飛び出てきたりするが、やはり虫が出てきた時にトウヤのポケモン達は動きがぎこちなくなる。虫ポケモンを初めて相手にしたのが、ジムリーダーの手持ちだったのが痛かったのかもしれない。
その点、キダチのポケモン達は慣れたものだった。多少の粘つく糸くらいは易々と躱すし、少々毒液を浴びてもステータス異常達しない程度はそのまま野性の虫ポケに向かっていくのだ。
トウヤとキダチは大人の男同士らしく、おてて繋いで特訓などというぬるいことはしなかった。お互いに別々の場所で自分たちのポケモンに専念している。でも同じように強くなろうとしている同類がいることはトウヤにもポケモン達にも励みになった。
トウヤにもうっすら感づいたことだが、キダチがアーティに挑戦しようと決心したのは、どうやらアーティがアロエに対して特別な想いを抱いていることが原因なようだ。
「みじゅ。」
ミジュマルはキダチのポケモンの様子と自分に纏わりついている糸をそれぞれ見て、憑き物が落ちたように悟り始めていた。べたべたの糸が絡んできても死にはしないと。きっかけがあればそこから先は楽になる。他のポケモンも段々と虫ポケモンの攻撃を気にしなくなってきた。
無機質で表情が読みにくい虫ポケモンの攻撃を最初は読めなかったトウヤだが、次第にパターンが読めてきた。毒や麻痺攻撃がどんなタイミングで来るか読めるようになった。
「みじゅ。」
最初はフシデに追いかけられて泣きべそをかいていたミジュマルも、遠隔攻撃なら楽に倒せるようになってきた。ただし自分の大切なホタチをぶつけるには少々の躊躇が見られたが。
やっぱり自分にはこういうのが向いている。積み重ねたものを根拠にして、先を読んでいくやり方こそがトウヤのスタイルなのだと。天才のNには届かないがなんやかやのコツを掴むのは得意なのだとトウヤには自負するところがあった。
Nを気にしていたら、自分は躓いてしまう。
Nを振り切るためにNを無理に越えようとするのはよそうと改めて思ったとき、トウヤの風邪熱にじくじくと浸食されていたような脳がさあっと冷めた。
もともとトレーナーになったのはチェレンのことを陰ながら見守りたいがためだったじゃないかと、チェレンと別れてから半日ほどまったくそのことに頭がいってなかったことを訝しく思った。そしてNという憑き物が落ちたことを改めて自覚した。
「トウヤさん。ポケモンに対しての指示がすごくナチュラルになってきたじゃないですか。」
「え? そうですか?」
わざとらしく謙遜してみせるがそんなことはトウヤ自身がとっくに自覚していた。
そろそろ夕闇が迫ってくる時間だった。キダチは川辺にシートを広げてトウヤを手招きした。川の水に手を突っ込んでキダチは缶ビールをトウヤに差出した。
「冷やしておいたんですよ。特訓が終ったら一緒に呑もうかと思って。」
「ありがとうございます。」
トウヤはあちゃあと小声で呟いた。トウヤにはツマミも何もそういう準備はなかったからだ。
「ママが二人分お弁当を持たせてくれましたから。」
「何から何まですみません。」
恥ずかしさで笑いが込み上げてきて小刻みに震えてしまう。しかしながらにこにことキダチが勧めてくるなら喜んでお言葉に甘えるしかない。
「キダチさんて、ビールといいお弁当といい……本当に気が回られる方ですね。」
「だって僕はアロエママの片腕ですから。あの博物館、ママが館長で僕が副館長で。何かイベントがあったときのなんやかんやの手配は僕の担当なんです。」
「僕もサラリーマン時代にはそういうことしてたはずなんだけどな。ここのところちょっと焦りが出てきたせいで、余裕なくなってたかも。缶ビールなんてすごく久しぶりな気がするし。」
互いに缶を開けて乾杯をする。トウヤもキダチも一口飲むとぷはっと息をついた。
「トウヤさん。緑の髪の彼と知り合いなんでしょ? だから負けたくなくてああいうことしたんですよね。」
「キダチさんだってアーティさんに負けたくないんですよね。」
「緑君うちのジムに入る前になんだか後ろ振り向いて何かを気にしていたみたいなんですよね。それは後からくるあなたのことを気にしてたんじゃないかと――。」
「アーティさんなんですけど、アロエさんがママ呼びをそれとなく推奨するのに、頑なに姐さんって呼びますよね。あれってあなたに対する当てつけですよね。」
「トウヤさん酔ってますか? 嫌なこと言わないで下さいよ。」
「あなたが先に言ってきたんじゃないですか。」
男二人は少量のアルコールで既にほろ酔いになっていた。キダチははにかむように笑う。
「女王様に指名されて夫になった男の気持ちってわかります?」
「なんとなくは、想像できる気はします。」
あ、なんか惚気話きたなとトウヤは思った。トウヤだってNに二人の英雄の話をされてそれとなくトウヤに対する期待を仄めかされたとき、少しの高揚感となんで自分なのだという疑念に襲われた。だからキダチの抱える思いもわかる。しかしトウヤには既に心の中にチェレンがいる。勿論何一つチェレンには伝えていないが、Nからのご指名を断るだけの動機になり得た。反対の動機でキダチはアロエに望まれたからこそ、分不相応な彼女の夫という立ち位置を誰にも譲ることなく今まで過ごしてきた。
キダチにアロエといたことによって後悔があると疑うほうが野暮なのだろう。しかしそれなりのジレンマを耐えてきたのは間違いない。
「やっぱり思われたくないんですよね。副館長だから館長と結婚出来たとかって。」
「いや。女王様はそんなこと思ってないでしょ。あなたが忠実で優秀な臣下だから駙馬にしたなんて。アロエさんはそれに自分のこと女王様なんて思ってないでしょう。あの人は自分のことはママだってアーティさんにも言い張ってましたし。」
「でもアロエママはやっぱり女王様なんですよね。」
「そうですね。本人が望もうとも望まざろうとも、あの人なら生まれながらの女王様だって誰もが納得しますもんねえ。」
キダチはそうなんですとなんだか気弱そうな笑みを浮かべたが、そこから顔を赤くして少しにやけながらトウヤに言った。
「でもね。夜は僕が王様なんですよ~。」
「キダチさん。あなた相当酔ってますよ。」
「いやいいでしょ、このくらい。大人同士なんですから。」
「いや。あなた今絶賛キャラ崩壊中だからっ。」
くそ。このリア充が。と、キダチのにやけたくすくす笑いにトウヤは苦虫を噛み潰したような笑みを返した。世間体からくる重圧や葛藤なんて、夜に仲良くいちゃいちゃすれば解消されるなんて、本当に羨ましいったらありゃあしない。
「アーティさんに嫌味言われても仕方ないですよ。それって。」
「そうですね。それくらい我慢しましょうかね。」
ああ。はやくリア充になりたい。トウヤは一つ心に秘めるものが増えた。次にチェレンに会えたら、思い切って告白するのも手かもしれない。
キダチは本当に酔ってしまったのか、こくりこくりと眠そうに身体を揺らしている。トウヤはビールの缶をキダチから取り上げてシートの上にキダチを寝かせた。
「おやすみなさい。夜の王様。」
「うむ。苦しゅうない。」
それは殿様だとトウヤは突っ込んだ。そして自分も良い心地な酔いのうちに寝てしまおうとシートの上に横になった。ビールの缶は朝片付けようとものぐさなことを思いながら。
後編に続く。
☆「ポケモンデイズ④」主♂N トウコ アクロマ
シチューの礼だとアデクは朝になって目が覚めて二人で朝食を摂ってから言った。チェレンは遥か上にある木の枝まで登ったアデクをぽかんと口を開けながら見上げていた。
「ほれ。オレンの実じゃ。」
アデクは青い皮のオレンの実を一つ取った。
「それは知ってますけど。」
ポケモンに持たせておけばその実を食べて体力を回復できる。ポケモンリーグの公式試合でも公認されている。
「まだいっぱいあるからのう。何個かチェレンにわけてやろうかと思ったわけじゃ。下に落とすから受け止めるか拾ってくれんかの?」
「いいですよ。」
チェレンの返答の一瞬後に木の実が落ちてきた。チェレンはそれを手でキャッチする。もぎたての木の実は新鮮な柑橘系の強い香りを放っていた。
「ああ……。」
自然とその香りに嘆息する。野生で生えている木の実はこんなに芳香が強いのかと。
「チェレン。ほれ。」
二個三個と木の実が降ってくる。チェレンはそれを受け止めて腕に抱えていく。アデクは何個か木の実をもいだあと、これくらいかと呟いて木から降りてきた。
「オレンの実は割と日持ちするからのう。多めに持っていても困らんじゃろ。」
「え…あの……。ありがとうございます。」
「そんなに畏まらなくてよい。木の実をわけてやるのはレンジャー連中も当たり前のようによくやることじゃ。」
「そうなんですか。」
まだチェレンはレンジャーには出会っていない。アデクはわしわしとチェレンの頭を掴むように大きな手で撫でた。
「成人しとる割には世間知らずじゃのっ。」
「悪かったですね。」
アデクの大きな手からもチェレンが抱えている木の実と同じ香りがする。木の実をもいだ時に香りが移ってしまったのだろう。
「これでシチューの礼も済んだことじゃし。」
「アデクさんはこれからどちらに。」
「……。まあ、適当じゃ。」
一瞬だけ気になる間があったが、アデクの口から適当と聞かされれば意外とその間は気にならないものだった。
「また会えたらよいな。」
「ですね。」
チェレンは森の奥に入っていくアデクの背中が見えなくなるまで見送った。
「僕も、行こうか。」
チェレンは木の実をバッグに仕舞い一歩を踏み出す。なんだかいつもより気分も足取りも軽く思える。バッグの中からもあのオレンの実の香りが感じられるようだ。あの大きな手のひらに移った香りが。なんだか隣に今でもアデクがいてくれているような気がする。離れていても、いつでも近くにいるような。
チェレンとはまったく別の空間で窓からの朝日を受けてNとトウヤは乱れたベッドの上で向き合っていた。
Nが寝ている間にトウヤは初挑戦するジム戦に向けて、公式のデータをインターネットで見ていた。そこにはNと対戦したジムリーダーであるコーンの試合の成績があった。それを見たトウヤの背筋に冷たいものが走ったあと、なんだか分からない電流が身体を貫いてトウヤを動けなくさせた。
トウヤの隣で寝返りを打ったあと、おはようと言ってトウヤを見上げたNにトウヤはぎこちなく笑った。昨日までのようにトウヤはNに偉そうに大人面が出来なくなっていた。
「結局泊りがけになっちゃったね。」
Nは手櫛で髪を梳きながら、トウヤの言葉に気にすることはないだろと何気なさそうに言った。
「そんなことでやきもきする人が、二人ともいるわけじゃないでしょ。」
「それはそうだけど。」
やはりチェレンのことが後ろめたいのかとNはトウヤを怪訝そうに見る。トウヤはトウヤでどういうわけか、荷物をまとめてそそくさと立ち去るつもりな雰囲気を漂わせている。
「トウヤ。僕とのことは別に気にしなくてもいいからね。その……昨日のことは、君は最初は本当に僕のことを助けようとしてくれたんだし。」
トウヤはノートパソコンの電源を切りながら安堵したように溜息をついた。
「そう言ってもらえると少し気分は楽になるね。欲望に憑りつかれた頭が覚めて、一番に思ったのは未成年である君に手を出して、なんだか捌け口に使ってしまったような罪悪感をどうしようかってことだった。」
それよりもっと大きな理由はあるのだが、それこそNにとってなんでもないような顔をされると思い話すのは避けた。
「……。そういうこと口に出さなくてもいいのに。」
トウヤはNにとって困った子どもであることはNも自覚していたが、その困ったところを容認するしかなくされている。
「今日こそはジムリーダーに挑戦しないとなあ。」
なんでも入念にじっくり取り組むトウヤにしてはなんだか焦りが混じったように早口で言った。
「うん。トウヤ、頑張ってね。僕は次の町にいくよ。」
「そうか。君は既にバッジをゲットしてたよね。」
Nは無言で頷いた。これからNは次の町に行くのだろう。それでチョロネコの他にポケモンをゲットしてNらしい最強のチームを作っていくだろう。Nと一度やりあったトウヤだったが、用心のためにかなり鍛えていたミジュマルがいたからこそ、Nのチョロネコに勝てた。しかし後日、Nはジムリーダーにチョロネコ一匹で勝利した。トウヤがやっとバオップがいて勝てるかなと考えている相手にだ。
たぶんNが育てたチョロネコは強くなっている。トウヤはそう確信している。Nならあらゆるポケモンの潜在能力を引き出せる。ただこつこつとレベルを上げていくことだけが取り柄の自分とは違う。Nならどんどん自分をおいていくように駆け足とびでチャンピオンに挑戦して勝つだろう。
その頃自分はまだまだ旅の途中で、幾つかのジムでバッジは獲得しているかもしれないが、Nに追い付くわけがない。
「N。チェレンのことは別にして、僕は僕なりに結構ポケモントレーナーという自分にのめり込めそうな気がしてきたよ。君みたいな天賦の才を目の当たりにして、僕みたいな地を這う者がこうやって対等みたいに喋る機会はもう、そうないだろうね。」
Nは不機嫌そうに眉根を寄せる。
「そんなこと言わないでよ。僕は君のこと」
トウヤは首を振る。
「君は普通の人とは違う。特別な才能に恵まれた人間だ。僕が十くらい若ければ、それでも君と対等に付き合っていけるのかもしれないけど。もう僕は他のトレーナーと比べてもスタートが出遅れているし、何ら突出したところのない平凡な脱サラ人間だ。だから、精々君が僕に憤っていたことは、おいおい改めようと思う。本当にあのときは大人げないことを言ってすまなかった。この機会を逃したら君にこうやって面と向かって謝ることも出来ないと思う。」
Nはトウヤが言い終わるのを見届けてトウヤに背中を向けた。どうしてもトウヤに察して欲しい自分の考えを伝えるために。
「トウヤはイッシュの伝説は知ってるよね。」
いきなりNが突拍子のないことを言いだす。
「絵本かなんかで読んだことはあるよ。そういえばちっちゃかったチェレンにも読み聞かせたことはある。白黒ドラゴンポケモンと人間の英雄の話だったっけ? 僕が知ってるのは子ども版だったから君が話してる伝説と違って脚色されてるかもしれないけど。」
「その英雄伝説もポケモンもニンゲンの英雄も一匹と一人じゃなかっただろ。その伝説は相対する双子の英雄と、白と黒の対になるポケモンの世界を救った物語だったはずだ。このイッシュには必ず対になった二人の英雄が必要だと暗示してないかい? 僕はある意味探してるのかもしれない。僕の成し遂げたいことを叶えたいために、そのもう一人を。」
「N。君はお伽噺を信じる歳でもないだろうに。それはあくまで架空の話だろ。この現実の世界でもし何か異変が起きたときに世界を救えるのは、そんな一人か二人の英雄か伝説のポケモンじゃないと思うよ。」
Nはトウヤを振り向いた。なんだか哀しそうな顔をトウヤは向けられた気がするが、すぐに謝ってその気のせいを振り切った。
「いや。伝説っていうのは歴史も含まれるところもあるし。たまたま異変を解決したのが、そういう目立った人物が二人で示し合わせたようにポケモンを連れていたってことも考えられるし。だからって今から世界を救うとしても、そんな伝説を踏襲しなくちゃいけないっていうのはないんだよ。」
Nは反論する。
「だけど誰かがしなくちゃいけないことだよね。能力があるなら尚更、その責務は負うべきだろ。」
トウヤはNの目の色が変わったことにNへの危惧を感じる。そして少し前の集会を開いていた壮年の男の演説を思い出す。世界はまた何かに向かって動き始めている。Nはもしかしたらその当事者に組み込まれているかもしれない。
「もし世界にそんな危機が訪れたら、そんなその場にいるだけのたった一人が背負いこまなくちゃいけないって言い分は間違っている。たとえその人物でしか世界を救えないと言われたとしても。その人にも拒否したり他に助けを求める手段があったって構わないと僕は思う。とにかく独断で暴走するのは、どんな場合でも避けたほうがいい。君と同類の特殊な能力と天才的な頭脳をもってしてもだ。」
世界の各地方で時々きな臭い事件は起こる。しかもある程度勢力のある組織が関与しているときもある。その組織の類まれなる頭脳を持つトップは、時に世界を救いたいという善意からの動機に駆られていた。だがそうした組織のトップの失敗に共通したところがある。
それは太古のポケモンの伝説を踏襲しようとしたところだ。つまりは昔々の人間離れした英雄の復興という真似事だ。
その結果、日照りと洪水が同時に起こった地方のニュースをトウヤは聞いたことがある。時空が歪んだというファンタジーめいた騒動も聞いたことがある。後者では組織の代表が行方不明になって、未だに発見されていないらしい。
歴史を学んでそれを活かすのは効果的な方法かもしれない。歴史上の英雄の活躍が蘇れば、人々はひれ伏すかのような感動を植えつけられるかもしれない。しかし歴史の踏襲は今の時代に合致しない可能性もあるし、当時に起こった同じ災厄を招きかねない。
「N。一つ訊きたいんだ。チャンピオンに勝ってから叶えたい君の目標は、ひょっとしたら世界を救うことなのか?」
「世界を救うことがトモダチを救うことになれば、たしかにそれが僕の願いにはなるね。」
Nの意志は頑強だ。幾ら大人だと自負するトウヤといえども今はどうしようもない。だから縋るようにトウヤはNにお願いをした。
「N。無茶はしないでおくれよ。その……君は僕より出来たやつなんだから。それにそんな壮大な目標以前に、君には一個人として幸せになって欲しいんだ。出来るなら不特定多数の人間とセックスして別れる関係じゃなくて、本当に好きな人と出会って欲しい。じゃなきゃ、今の君にはあり得ないことと思うかもしれないけど、目標に挫折してしまった時が心配だ。その時に僕は君の友人として駆けつけてやれる距離にいないかもしれない。」
「友人?」
「そう、友人。」
Nはそれじゃと言って部屋から出た。完全に決別を告げられたような気分にトウヤはなる。
「他にどう言えばいいんだよ。」
Nを心配する人間はいるんだよ。とか。才能があるからってNが全てを背負う必要はない。とか。NにはNらしく幸せになって欲しい。とか。言えるだけ言ったつもりなのに。
「これじゃあ、ちょっと……。」
たぶん半分も伝わっていない。旅先のごく最初に出会ったいつまた出会えるか分からない友人の行く末に、もやもやを募らせるトウヤだった。
Nは振り切るように町を出て草むらを歩いている。Nにとっては普通のこと、外の世界にはポケモンの声があふれていた。他愛のない彼らの平和そうな生活は、ある日突然トレーナーによって奪われる。その先は本当にトレーナー次第だ。
優しくされるのも。辛い目に合わされるのも。鍛えられるのも。着飾らされるのも。甘やかされるのも。こき使われるのも。
「チョロネコ。数日間本当にお疲れ様。」
Nがモンスターボールに話しかけるとチョロネコをボールから出した。チョロネコはNのズボンに自分の頬を擦りつけている。
「にゃあ。」
「こんなものの中に閉じ込めててごめんね。君は君の本来あるべき日常に戻るんだ。」
「にゃ……。」
チョロネコは頭を垂れている。自由になれるのにどうしてそんな寂しげにしているのだろう。
「僕は君にあるべき姿で生きていて欲しいんだ。」
「にゃ、にゃあ……。」
Nの言葉を受け入れたようにチョロネコは草むらにすっと姿を消した。まるで自分のトレーナーだった人はそういう人だから、その人の考えを踏みにじらないようにしたいという気遣いが見えるようだった。本当に自分がどうしたいかにそぐわなくても。
Nは思わずチョロネコが消えた草むらに呼びかけた。ずっと傍にいたかったのにという消え入りそうな思いが聞こえたからだ。
「ありがとう。ごめん。また会えたらその時は――。」
そんな悲しそうな顔をしなくてもいい世界に変えてみせるから、と。
空になったモンスターボールは本当に情けないほど軽く感じる。しかしこの中にトモダチを繋ぎとめることはどれだけ傲慢なことなのかは、誰よりもNが知っている。だからNはトモダチの為に英雄になる道を選ぶほかない。たぶんずっと一人で。
ポケモンの声がのどかに聞こえる。ニンゲンの傍らにいることを知らないトモダチの声だ。Nにとって心を支えてくれるトモダチの声だった。この声が世界の全ての場所で聞こえる世界。その世界のためならNはなんでも出来た。
「それが僕の幸せなんだよ。トウヤ。だけど少しトウヤの言葉につられそうだったなあ。好きな人と幸せになんて、残酷すぎること言わないでよ。」
叶えてくれないくせに。
それが絶たれたらNには他に考えられる選択肢などなくなってしまっていた。たぶんどころではない確信で、自分はもう戻れないところまでトウヤを好きになってしまった。
狡くて理屈屋で下世話で偽善者の小男。それでいながら変なところで律儀で優しくて苦労性なところを見せる、大きな手のひらの大人。
もう一度、あの低くて渋い声が聞いてみたい気がするけど、あの余韻に浸っていたいけれど、それだとトモダチを救う決心が鈍ってしまう。
だから今は離れるのだ。
「でも今度会うとき、トウヤの隣にチェレンがいたら……」
それを思うと胸が潰れそうなNだった。
シッポウシティの手前にある小さな町でチェレンは見知った顔を見つけた。声を掛けるか掛けないか迷って少し息が詰まる。
『せっかく旅に出てるんじゃから――』
アデクが屈託なく笑って言った言葉を思い出す。
少しでも自分から声を掛けてみよう。そう思ったらぎこちないながらも自然と彼の方に足が向いて声が出た。
「トウヤっ。」
トウヤは目を丸くして驚いていた。驚きのあまり声が出ないようで口元をしきりに覆っている。
「チェレン……。」
「え、え、あのっ。驚かせて……。ごめん。」
顔に熱が帯びてくる。たぶん恥ずかしさで顔が赤くなってきているのかもしれない。トウヤも挙動不審にキョロキョロと辺りを見渡していた。
「そ、んなこと、ないよ。いやあ。また会えるなんてなあ。」
そこらへんに座らない? トウヤが指差す方向には噴水のそばのベンチがあった。
「うん。」
チェレンは頷いた。トウヤは不自然に口の端を上げて、半ば肩をぷるぷると震わせている。
「チェレンから声を掛けてくるなんて珍しいね。」
「そ、そうかな?」
対人関係では消極的なほうだという自覚はチェレンにはあったが、まさか声を掛けただけでトウヤがこんなに動揺するとは思わなかった。
「知ってる人とか旅に出てからあんまり見ないから。」
「そっか。」
トウヤは落ち着いてきたのか、チェレンの知っている瀟洒な男の顔に戻りつつあった。
二人は横に並んでベンチに座る。腰を据えて話す予定じゃなかったチェレンは、少し何から話そうかと迷った。
「あのさ、トウヤはバッジどれくらい取れた。」
トウヤはチェレンの無理に出した質問に、さらりと一つと言った。Nと別れた後、意気込んだように飛び込んだジムで自分でも思いがけなく楽勝したのがトウヤの自信を回復させていた。
「僕も一つなんだ。君はミジュマルを選んだから、相手はデントさんだったんだろ? 僕はポッドさんに当たって少し苦戦したかな。だけどね、ヒヤップやチョロネコがいてくれて助かったよ。」
「チョロネコ……。」
トウヤは中空を見上げて、そして気のせいだろうか少し疲れたような顔をして溜息をついた。トウヤのチョロネコはやはりジム戦ではやはり役に立たなかった。
「チェレンのチョロネコも頼りになるんだね……」
どうしたのとチェレンが顔を覗き込むとトウヤはあのねと話し始めた。
「僕もチョロネコ捕まえたって言ったよね。そのチョロネコがさ、あんまり頼りにならないんだよ。のんびりやでマイペースというか、悪く言えばぐーたら。ちょっと彼女をどうしていいか。」
「トウヤに困ってしまうことってあったんだ。」
チェレンにとっては目から鱗だった。何事もそつなくこなすエリートなのに、人間の部下の扱いもいいと聞いていたのに、たった一匹のチョロネコでこんなに悩んでしまうのか。
「僕もこんなことは初めてだからね。君にはとんだ愚痴を聞かせてしまって申し訳ないというか。」
トウヤの悩み事を聞くという万に一つともない事態にチェレンは動揺している。
「そんなことないよ。僕もたいしたアドバイスは出来ないけど。」
チェレンは自分のチョロネコを顧みても、どうしてトウヤがこんなに困っている状況になっているか分からない。トウヤと自分のチョロネコの違い。多少の個体差もあるのだろうがと考えたところでチェレンは閃いた。
「ああっ。」
チェレンはその思いつきを口に出してみる。
「僕が会ったポケモンの年齢当てが得意っていう人が言ってたんだけど、僕のチョロネコって他のトレーナーが連れているチョロネコより年齢が高いらしいんだ。もしかしたら逆にトウヤのチョロネコは僕のチョロネコとは反対に、限りなく若い個体なのかもしれないよ。野生での経験値も少ないからかもしれない。本当にもしかしたらだけど。」
チェレンはトウヤを慰めるように言う。
しかしトウヤはそんな気休めは絶対あり得ないことは分かっていた。幾ら人間とポケモンといえど分かるものは分かる。トウヤのチョロネコは本当にやる気がない。自分の同僚や上司に甘えるだけ甘えるつもりでいる。そして上辺は従順な振りをしてうまーく乗り切るつもりだろう。
だけどそんな確証はチェレンには言えない。チェレンのポケモンに対する夢はぶち壊せない。そんな人間とポケモンの間に目も当てられない駆け引きが常に展開されていることなど。
トウヤのチョロネコはトウヤの性格にさえも付け込んでいる。一旦自分がゲットしたポケモンが使えないからと言って放逐してしまうなんて、完璧な大人を自負するトウヤには到底出来ない。人情的なものよりトウヤのプライドがそれを許さない。
「いや。こうなれば僕にも意地がある。嫌が応にも彼女を使えるようにしてみせる。」
「が、頑張るんだね。」
ここでこの話は打ち切ろう。トウヤはそれとは別件の、チェレンにも関係する話を持ち出すことにした。
「それで、このごろさ――。あのカラクサで演説してた連中いただろ。あいつらがついに非合法活動に手を出してきたんだ。そんで、ベルがね」
「ベルに何か危険なことがあったのっ?」
チェレンが身を乗り出して本気で心配している。
「夢の跡地でその、あいつら……プラズマ団って言ったかな。そいつらとやりあったらしいんだ。ムンナっていう珍しい能力を持つポケモンをある目的のために苛めてたんだって。それをベルが助けたらしいんだよ。僕もその場面に遅れて出くわしたわけなんだけど。」
「それで。ベルとムンナは無事だったの? トウヤは助けたんだよね。ベルとその子を。」
「いや。助ける以前の問題だった。あいつらさあ、ベルが童顔なのをいいことに言っちゃいけないことを言ったんだよ。」
「言っちゃいけないことって?」
不思議そうに首を傾げるチェレンに、トウヤは脳裏に浮かぶその時ベルが叫んだ言葉を反芻していた。
『ごるあああ! ガキども! わりゃあ誰に向かってカワイイとかおじょうちゃんとかぬかしとんじゃあ! わしゃこれでも三十来とんじゃあ! 舐め腐っとるとケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯がたがた言わすずお!』
怒りのあまりトウヤの元妻は普段は高めで甘い声が割れ、彼女の過保護な父親が訊いたら卒倒するような言葉を吐きながら、プラズマ団の若造たちを撃退していた。ベルは自分が可愛くて童顔だということで世間知らずのお嬢ちゃんというレッテルを父親に張られ、必要以上に過保護にされてきた。だから年配の者にならいざ知らず、プラズマ団のまだ二十歳そこそこの若造に可愛いお嬢ちゃん呼ばわりされてしまっては、切れるしかなかったのだろう。
『わしゃあお前らが鼻垂らしてポケモンのポの字も知らんかったそのへんの糞ガキやってたころから、親に内緒でバーチャルポケモンバトルやっとったんじゃ! バーチャルやいうてもなあ、廃人と凌ぎを削ってきたんじゃ! 卵厳選、努力値振りの、ドーピングアイテムを駆使した奴らに勝つにはなあ! 先の先の百手先読んでやっとなんじゃ! 年季が違うんじゃお前らと!』
そしてベルはムンナに向かって叫ぶ。
『おい! こんな糞ボケカス連中に負けとる場合違うやろ! おばちゃんが手伝ったるから、一緒にいてこましたろうで!』
最終的にはベルはプラズマ団を撃退した。プラズマ団の下っ端は悪夢でも見たように撤退した。
「チェレンも気を付けてね。」
「プラズマ団に? それともベルに対しての接し方にかな?」
「どっちもということにして。それでね、ベルを落ち着かせたあと、不穏な奴もいなくなったからそのへん探索したんだ。そしてすごい逸材をゲットしたんだよ。」
「逸材? やっぱりあのへんだとムンナかな。」
トウヤはボールからポケモンを出した。
「え?」
チェレンは自分の目を疑っていた。
「タブンネだよ。」
トウヤはポケモンセンターでナースポケモンをやっていることで知られているタブンネを、トレーナーが経験値稼ぎのためにゲットせずに戦って瀕死に追い込み続けて罪悪感ばかりを募らせるタブンネを、まさか捕まえてパーティにいれていたとは。
「この子、いや彼女はね、ミジュマルやチョロネコにはない耐久力を持っているんだ。」
「タブンネ。」
「タブンネじゃないよ。タブンネ。君は素晴らしいよ。」
「タブンネ?」
チェレンは曖昧に頷いている。タブンネを手持ちにするトレーナーは珍しい。その珍しいトレーナーが目の前にいる現実にひたすら驚いている。
それにしても、さっきから見た目は愛くるしいタブンネが発しているなんだか禍々しいオーラは気のせいなのだろうか。時代劇でいうところの人斬り侍の持つ殺気というのだろうか。それをタブンネから感じる。
「いやあ。彼女ちょっとご機嫌斜めみたいなんだ。僕が技を指示するだろ。彼女はメロメロを覚えているから、まずそれをオス相手には使うだろ。その度に舌うちされるんだよね。でもそのあと無防備なオスポケに対するおうふくビンタの凄まじさは目も当てられないよ。」
「トウヤ。たぶんタブンネはメロメロを使いたくないんだよ。オスに媚を売るようで嫌なんじゃないのかな? 早くメロメロは忘れさせてあげたほうがいいんじゃない?」
タブンネはチェレンの言葉に頷いている。
トウヤのゲットしたタブンネはその見かけとは裏腹に、硬派というか武闘派な性格だった。トウヤにゲットされたのも更なる強さを極めたいという意志で、だった。しかしながら自らの特性が災いしているのが現状だった。その一つが自分の手持ち技であるメロメロだった。こんな女の武器で相手を無力化させる技などタブンネにとっては屈辱以外の何物でもない。しかしトレーナーにとっては王道の戦略なのだ。
「タブンネ。」
タブンネはチェレンの腰あたりを叩いた。気づいてくれてありがとうと言っているつもりなのだろうか。
「好戦的なタブンネなんだね。だけどしばらく別の技を覚えるまではメロメロは有効に使わせてもらうよ。」
タブンネがまた舌打ちをした。早く別の技を覚えてとっしんだのすてみタックルをかましたいと心に誓うのだった。彼女の願いは肉弾戦ポケモンを極めること。なんの小細工もない純粋な強さを極めることが、彼女にとってのトウヤの側にいる動機なのだから。
「トウヤのポケモンってちょっと変わってるね。」
ボールに戻ったタブンネを見てチェレンは呟いた。
「まあ彼女はミジュマルの姉貴分としても頼りがいがあるからね。バオップを育て屋さんに預けたあと、沈みがちなミジュマルに喝を入れてくれて大分助かってるんだ。」
「そうか。トウヤの手持ちはなんだかんだでチームとして成り立っているんだね。」
チェレンが感慨深くなっていると近くをでかいリュックを背負った男が通りかかった。
「お兄さんがた。さっきの話からするとトレーナー? どちらかと勝負してみたいんだけど。」
「じゃあ僕と勝負しようか。」
トウヤが立ち上がって男と対峙する。チェレンは出遅れてしまった。
「あ……。トウヤ、頑張って。」
トウヤは満面の笑みで頷いた。
「じゃあ、タブンネ頼んだよ。」
男はドッコラーを繰り出した。
トウヤはタブンネに指示を出す。
「タブンネ。メロメロ。」
タブンネは「え?」と言うように聞き返した。ドッコラーが攻撃をしているが自前の耐久性でタブンネは耐えた。
「タブンネ。はやくメロメロ。」
タブンネは振り返ってトウヤを睨みつけたあと、ぺっと地面に唾を吐いて、しょうがないと言わんばかりにメロメロを繰り出した。
チェレンはその光景を見て、トレーナーとポケモンの関係って画一的じゃないんだなと学んだ。目の前ではタブンネに手を出せないドッコラーがタブンネのおうふくビンタの餌食になっていた。
バトルはトウヤの勝利に終わった。タブンネで削ったドッコラーを引き継ぎミジュマルとチョロネコを次々と出してトウヤは獲得した経験値をきちんと三分していた。実にバランスの取れた育て方をすると思うと同時に、すこし遠回りなバトルの仕方をしているなというのがチェレンの感想だった。
「すごかったな。お前のタブンネ。俺もゲットして育ててみてもいいかもな。」
男はそう言って去って行った。新たなるタブンネ使いが生まれようとする前兆めいて見えた。
トウヤは嘆息してベンチに再び座る。ベンチの背もたれに身体を預けチェレンと呼んだ。
「さっきさあ、ポケモンの年齢当てが得意っていう人に出会ったって言ってたけど、どんな人なのかな?」
チョロネコやタブンネの話題にかまけていたが、実はトウヤが気になっていたのはチェレンが口を滑らせて言った人間の話だった。その人物がいつどこでチェレンと会って、どのような関わりを持ったのかを聞いてみたかったのだ。ポケモンの話題の途中でいきなりその話題に切り替えるのもわざとらしかったので、タブンネの話題が終ったところで切り出そうと待っていたのだった。
その人物のことを気にする理由はある。少し前のチェレンと打って変わって今回のチェレンは自らトウヤに声を掛けてきた。予想できるのはその人物の影響をチェレンが受けたということだ。しかも接触したのは短期間だとしか考えられないから、世間的に見ても余程の人物であるか、それともチェレンにとって深く心を傾ける対象になった人物だと考えられる。
「君ちょっと印象変わったし、その人の影響を受けてるのかなって思って。だからどんな人なのかなって興味が湧いたんだ。」
チェレンは困ったように笑った。
「野宿した時に一緒に食事をした人なんだ。」
トウヤがぴくりと反応する。
「君、ずっと野宿してるんだろ。ずっと思ってたんだけど身体は大丈夫なのか?」
「あ、少し風邪引いたからもう今日からは控えるつもりでいるんだ。その人にも無理するなって言われたから。」
トウヤはまたぴくっとこめかみが動く。
「僕も前から無茶はするなって言ってたのに、君は初対面の人の言うことは聞くんだね。」
トウヤが旅の当初からチェレンを気にかけていることは、チェレン自身もわかっていた。だけどチェレンはトウヤに対して少しばかりの対抗心も持っていたので、僕の好きなようにさせて欲しいと強情を張っていた。
「か、風邪引いて咳が出て介抱されたとき、トウヤと同じこと言われたからっ。痛い目にあって初めて反省したってやつかな。今じゃトウヤの言ったことは正しいってわかってるし。トウヤの言うことを少しでも聞いておけば良かったって思ってるし。」
「そういうタイミングだっただけなんだね。」
トウヤの声が低くなる。
「トウヤの言葉、無視するようなことしてごめん。」
「いや、いいんだ。」
チェレンの言葉を受け入れたように頷いたトウヤだったが、内心はチェレンが出会った人物に対しての嫉妬未満の疑惑で渦巻いていた。あの強情なチェレンがこんなに素直に謝ってくるとは思えない。どんな人間が魔法じみた手管でチェレンを変えたのかが気になる。
「誰なのかな? 君をそんなに素直にしたのは。」
チェレンはふるふると首を振る。
「あんまり公に名前を言い触らせない事情のある人なんだ。ていうか、その人との出会いが僕にとっても宝物みたいに思ってるから。も……もう少しだけそれを僕だけのものにしておきたいんだ。トウヤに絶対にその人のこと教えないってわけじゃないから。今だけ内緒にしてていいよね?」
トウヤはチェレンからの好感度とチェレンの周囲の人間関係の把握を両天秤にかけている。チェレンからは考えられないような夢見がちな言葉を聞いて、トウヤはこの状況に少しばかり恐怖を覚えた。だがしつこく追及すれば、チェレンは二度とトウヤにチェレン自身の近況なりを打ち明けてくれることは皆無になりかねない。ならば泣く泣くその不可解な人物の正体については目を瞑るしかないだろう。まだトウヤの追及が好奇心からと受け取られているであろううちに。
「宝物ねえ。ロマンチックな言葉だね。ならもう少し君だけのものにしていいよ。だけど、近いうちには僕にも紹介して欲しい。その素敵な年齢当ての達人さんを。」
「……うん。わかった。トウヤにも紹介するから。」
トウヤとチェレンはぎこちないながらも微笑みあう。いつも頬を引き締めていたチェレンの白い顔が、少し紅くなっていた。何かが自分がチェレンから離れていた間に進行しつつある。世界の裏の部分でも、トウヤにとって身近で見知った人間にも。
トウヤにはおぼろげながらにそれが怖かった。
ゲーチスは組織の専用車でとある研究所に赴いていた。そこでは彼がスカウトした科学者がある動力機関とそれを制御する装置を開発している。
ゲーチスがそこに下っ端に声をかけ扉を開けてもらうと、顔は知っているが招いた覚えのない女研究者が気安く声を上げた。
「はーい。ヘル・ゲーチス。」
「貴女は……アララギ博士ですか。」
ゲーチスはアララギの傍にいた金髪碧眼のメガネで白衣のお抱え科学者アクロマにどういうことかと視線を送る。
「ご心配ありません。ラギさんにはご協力頂いてるだけなんです。」
横でアララギがうんうんと頷いている。実に罪のない微笑みを浮かべながら。しかしここは非合法な組織の最重要な開発を行っている場所だ。彼女のように日向の場所で大手を振っている存在がこの場にいることは少し都合が悪い。いや実に都合が悪い。
彼女が個人研究者としてプラズマ団にいるならば、それはまだ許せる。だが彼女の場合は父親も高名な学者という、二世研究者だ。父親もプラズマ団に協力する気があるというご都合主義は存在しないだろう。というかプラズマ団の前提をことごとく覆すようなことを企んでいる可能性のほうが高い。
「ドクターアクロマ。困りますなあ。外部の者を招くなど。」
「えー。だって……貴方が融通してくれた団員さんたちより、ラギさんのサポートのほうが断然頼りになるんですもん。」
「ドクターアクロマ。彼女はあのアララギ博士のご息女ですよ。我々の考えと同調するわけがありません。それは水と油が混じることがないと言うほど明らかではありませんか。」
「えー? 私はロマっちが面白い研究してるから来ないかって言われて来ただけだけど。ねえ、ロマっち。」
「そうですよ。」
ゲーチスは科学者には守秘義務とかは丸無視かいと頭が痛くなる。
「しかしながら、私はアララギ博士のお父上の見解なども知っているわけで。反対論者の派閥関係者はやはり歓迎しかねますねえ。アララギ博士。」
「あらら。私と父さんが同じ意見だと思ってゲーチスさんは心配してるわけえ? せっかくカノコから手伝いに来たのに? ロマっち悲しいよね。そんな言い方。」
「ラギさん。ラギさんは一人で団員百人分くらいの頭脳はあるんですよ。いいじゃないですかゲーチス様。」
ゲーチスはアララギとアクロマの後ろに鎮座している開発途中の装置に目をやる。明らかに先日見た状態より進歩している。専門家でない団員では間に合わないのはゲーチスだって理解している。
「アララギ博士。私としては貴女がいることで助かるのは存じています。その反面で心穏やかではなくなっています。貴女がお父上やその派閥にいる研究者に情報を漏洩させることが恐ろしいのです。」
「あら。じゃあ私のことをここに拘束するつもりなのかな? いや、それ困るし。荷物も最低限しか持ってきてないし。」
「言われるまでもなく、それが不可能なことは理解しています。それこそ高名な学者の失踪事件だと大騒ぎになってしまいますから。」
アクロマは焦れたように半ば子どものような言い分でゲーチスに言う。
「ラギさんは別にプラズマ団のことを探りにここに来たわけじゃないんですよ。さっきから聞いていましたら、なんでラギさんのお父さんの話が出てくるんですか? わかりませんねえ。」
「ドクター・アクロマよ。親と子はあくまで別の個人とされているが、それを大方の人間は切り離して考えられないものなのです。どうしても私には、父親のほうのアララギ博士の影がこのアララギ博士の後ろにちらついてしまうのです。」
ゲーチスのなんとも言えない表情にアララギは開き直ったようにしょうがないと呟いた。
「みんな父さんのことを気にするのよね。ロマっちが庇ってくれるのは嬉しいよ。だけど昔からそうなんだよね。ヘル・ゲーチスもそうなのよ。」
ゲーチスはアララギの言い草に眉根を寄せる。
「それを理解して貰えるのは有難いことです。貴女は経験からそれを承知した上でここに来たわけですね。」
そこまでのことは言っていない言うようにアララギはあーと掠れた声を出す。
「いや。ロマっちが面白いことをしてるって、それだけだけどね。それと特別に報酬貰うって約束だから。」
「報酬ですか。それは現時点でプラズマ団としても保証せねばなりませんね。」
報酬というよりも口止め料としての意味が強いがとゲーチスは心の中で呟いた。
結局アララギはゲーチスを悩ませる天才どもの一人でしかないのだろう。アクロマしかり。Nしかり。それと関わるには信頼とか契約とかけじめは役に立たない。自由にやらせられるところだけ自由にやらせるしかない。
「アララギ博士。このことが外部に流出した場合、貴女の身柄や身の安全は保証しませんがよろしいですかね。」
「承知するも何も。あり得ないことだと私は思うよ。」
そうですか。ゲーチスは諦めるように空いた椅子に腰を下ろした。
再び扉が開けられる。
「こんにちは! アクロマさん、カレー食べに来たけど住所ここで良かったよね?」
ゲーチスが持ち前の巨体をぎくりと震わせる。また部外者が来たと。
「トウコちゃん。何年ぶりだろ。」
「あら。アララギ博士。エンブオー、博士だよ! わあ! そんな外で団員さんに謝ってないで、こっちこよ!」
ゲーチスは首から下を硬直させたまま、首だけアクロマの方を向き無表情で言った。
「ドクター・アクロマ。説明して欲しいのだが。」
「彼女はトウコさんと言います。私のその……」
「お友達だよっ。」
珍しくもじもじしているアクロマの様子がおかしいが、トウコの屈託のなさにゲーチスはもう何も発言したくもなくなってきた。
「トウコさん。ここで見たことはご内密にお願いできますか?」
ゲーチスは自分の背後にある巨大な装置を指してトウコに問いかけた。
「うん。私カレー食べにきただけだから。」
「ロマっちのカレー美味しいからね。そうかトウコちゃんもカレーに釣られてきたのね。」
もしかして先のアララギの言った特別な報酬というのは、カレーのことだったのかと、ゲーチスは麻痺した半身に血の気が蘇ったような怒りによる錯覚を覚える。
「それではゲーチス様。私はカレーを作りに行ってきます。」
アクロマは嬉々として部屋から出た。
ゲーチスはもう突っ込むのも疲れてきた。天井裏に何故かいるダークトリニティに目配せをする。
ダークトリニティは無言で頷いた。たぶん彼らがアララギとトウコの監視を担ってくれるだろう。それだけがゲーチスにとっての救いと呼べるものだった。
横を見るとトウコのらしいエンブオーが「あのう、すみませんでした」とばかりに待機している。ゲーチスは小声で気にしなくてもいいですよと言った。
「ご婦人二人もその身が健やかであり続けたいのなら、この老体の忠告を誠実に受け止めて欲しいものですね。」
優しい口調とは裏腹の脅し文句を二人に告げてゲーチスは出て行った。
「アララギ博士。」
トウコの呼びかけにアララギは手にしていた工具を床に置いた。
「アララギ博士じゃないでしょ。トウコちゃん。もう五年以上も連絡一つすら寄越さないで。しかもこんな悪の組織の最重要拠点に入り込むだなんて。」
「アクロマさんに招待されたんです。」
「トウコちゃん。いつからそんなに軽はずみな子になったの? 旅に出る前のあなたは思慮の塊のような子だったのに。私もさっきは老人の警戒心を削ぐために、あなたがもとから少し頭が軽い子のように扱っちゃったけど、私としてもあなたのキャラの変わりようにビックリしたわよ。噂では聞いていたけど目の当たりにすると少し怖くなるわ。」
もしかして馬鹿っぽい子の演技してるの? アララギの声が微かに無機質な室内に反響した。トウコはきょとんと首を傾げている。
「演技って言われても……昔も今も私変わってないつもりなんだけど。」
「あなたからしてみれば、そうかもね。じゃあ言わせてもらうわ。あなたのエンブオーが無茶苦茶高いレベルなのに、ヨーテリーに勝ててないのは一体なぜ? シッポウシティでのこと、ロマっちに聞いたわよ。」
「えー。でも負けちゃったんだから仕方ないじゃないですか。」
トウコは本当に困ったような顔をしている。
「負けたら負けたで昔のあなたはそれをきちんと分析して次のバトルに活かせる子だったよね。あなた、負けたことにも全然気にしてないでしょ。それとエンブオー以外のポケモンはどうしたの?」
「えっと…逃げちゃいました。たぶん私を見限って。」
「それにも全然危機感を持っていない。」
「はい。確かに。」
「自分の身に起こったことなのに、なんか他人事のように思ってない?」
「私がポケモンに対して真剣じゃないって言うんですか?」
トウコはおろおろしている。アララギは溜息をついた。エンブオーがふるふると首を振っている。ポケモンが鳴き声や攻撃行動ではなく、わずかな仕草でトレーナーを庇っている。自分の前で進行している会話を理解しているかのように。かなりレベルだけではなく知能も高いエンブオーのようだ。
「わかってる。トウコちゃんは本当にポケモンが大好きなのよね。」
「はい。大好きです。バ、バトルだってそのうち勝てたらいいなって。」
アララギはそれ以上はトウコを責める気にはなれなかった。科学的に分析出来る問題じゃないと明らかにわかるからだ。これはポケモンに関わる学者とトレーナーがお互いに一線を引いた上でのやり取りなのだから仕方ない。
トウコが本当にお馬鹿になってしまったにしろ、演技しているにしろ、それをアララギに正直に言っているとは限らない。どちらにでも取れるようにそれらしく受け応えしている。しかし演技でも自然の変化しろ、トウコの変化の結果は自分の同業者であるアクロマの興味を惹いてしまっている。
アクロマの研究はポケモンの潜在能力を引き出すこと。トウコはその反対の現象を起こしている稀有なトレーナーだから、アクロマのアンテナに引っかかったのだろう。
トウコは昔は才媛と呼ばれるような優秀な少女だったという過去も十分、アクロマにとっては興味の対象になったのだろう。彼女の変わりようの転機は遡れば、ポケモンを手にしたことだ。その因果関係にアクロマが目を付けるのは当たり前だ。アララギだってその因果関係の是非を確かめたいに決まっている。
取りつく島のないトウコにアララギは手を変えてみようと思った。そして声を若干甘くしてトウコ肩に腕を回し引き寄せ顔を近づける。
「トウコちゃん。トウコちゃんは昔、私にすごく懐いててくれたよね。大きくなったら博士みたいにポケモンの研究したいなって言ってくれたよね? でも、大きくなったらなったで、若くて優しくて優秀な男の人のほうがいいのかな?」
「博士? どゆこと?」
アララギはトウコのポニーテールにした髪を掬い上げる。それを指に絡ませながら熱っぽくトウコを見た。
「やきもち妬いているのかもしれないわね。こっちは何年も連絡寄越してくれなかったのに、初対面のロマっちのとこにほいほい来ちゃったから。」
「そ、そういうつもりなかったんです。博士に連絡しちゃうと、親が嗅ぎつけたときに博士に迷惑かけちゃうかなって。」
「そうね。そうなりかねなかったけど。悲しいな。私にとって可愛いトウコちゃんがいざという時頼ってくれないなんて。私もっとトウコちゃんに頼られたかったな。」
「博士……。ごめんなさい。」
トウコは俯いてしゅんとしている。でもトウコより背の高いアララギにはトウコの表情は読み取れない。ここまで情に訴えかけてもトウコは一向にアララギになびいてきたり、感情的に反論することもない。本当に世間で言うところの可愛らしい女の子の範囲を守って、それらしい反応をしてくれている。逆に単なる考える頭のない素直なだけの女の子には出来ない芸当だろう。
まあいいかとアララギはトウコの肩をぽんと叩いた。今日のところは会話のシーソーゲームを続けるより、旧知の仲同士、アクロマの振る舞う甘口カレーに舌つづみを打つことにしよう。
年頃の娘はこれだから扱いにくい。自分が男ならもう少しやりようがあったのだが、自分は女だ。それでも大人の女の魅力でたらし込むには昔のトウコを知っているだけにリスクを警戒してしまう。今は何の下心のない地元の恩師というポジションから離れないようにしておこう。
「ロマっちのカレーがそろそろ出来上がるころだとは思うわよ。」
「あ。じゃあ私、持ってくるの手伝います。キッチンこっちですよね。エンブオー。エンブオーも手伝おうよ。」
「ブオっ。」
「じゃあエンブオー行くよ。」
アララギは笑顔で手を振った。あのエンブオーがトウコに張り付いている限りは、アクロマも研究者ではない男としてのアプローチもままならないだろう。
「それと、」
誰に言うでもなくアララギは呟く。天井にいる監視者はアララギの何気ない目に息を潜めた。アクロマのほうに行ったトウコより、アララギを監視しようという判断らしい。
「ふっ。」
アララギは笑った。そしてまたモニター画面と睨めっこをしながらトウコ達が運んでくるカレーを待つことにした。
トウコはキッチンに続く通路を歩く。
「ねえ。エンブオー。あの部屋すっごい機械がいっぱいあったね。」
「ブオ。」
トウコがここの施設に来て初めてここについての感想を口にした。今までそれを気にもなっていなかったような態度から、施設の大部分を占める制作中の機械に言及したトウコにエンブオーはわずかに反応が遅れて生返事をしてしまった。
「ブ、ブオっ」
「あれ壊すのエンブオーだけじゃちょっと無理っぽいよね。逃げちゃったあの子達帰ってきてくれるかな?」
「……。」
何気にトウコは逃げて行った他の手持ちを気にしていたのかとエンブオーは絶句した。しかもトウコはあいつらが戻ってくる可能性があるかのように言っている。
「エンブオー。プラズマ団の演説聞いたこと覚えてる?」
エンブオーは頷く。
「ポケモンの解放って言っていながら、あの機械はものすごく矛盾してるよ。」
「……オ?」
トウコはあの機械の塊の正体が分かっているのだろうか。
「本で見たことあるんだ。電気ポケモンの電気エネルギーを動力にしている車の写真。あれ結局、ポケモン倫理に背くからって開発中止になっちゃったんだよね。そうだよね。電気ポケモンに命令しないと車動かないってことだよね。ポケモンも長い走行距離を走ってる間に疲れちゃうかもしれないのに。」
よくある発明品の失敗談だった。車と言うからにはつい数年前の話だと考えられる。トウコは続けた。
「開発しちゃった人はじゃあ何匹かで交代とか、充電式にしようとか言ってたけど、どっちにしたってポケモン可哀そうだよ。道具や燃料扱いするなんてひどいよね。で、アクロマさんが作ってたあの機械だけど、どうやらポケモンを道具にしようという設計みたい。」
そういえば大型のポケモンが入れるくらいのケージが付属していたとエンブオーは思い出した。トウコはエンブオーの反応に頷いた。
「あの優しくて純粋そうな人が作ったものとは信じたくないけど。だけど頼まれちゃったんだろうね。たぶん。アクロマさんは優しいから純粋だから断れなかったんだよ。そういうことにしておこう。これを使ってポケモンを解放させれば、その時一回きりだけだから、必要な行為だからしょうがないとかかな。まあ私が壊しちゃってもアクロマさんは怒らないよね。だってアクロマさんは私のこと好きみたいだし。」
トウコは長いセリフをまるで歌うように言った。エンブオーはその逐一の意味を読み取るたびに、だんだんと今までのトウコが遠くなるような気がした。トウコの手を掴んで言葉を止めさせたいけど、その手が何故だか掴めない。
「エンブオー、大丈夫。何も怖くない。アクロマさんも、博士も、ゲーチスのおじいちゃんも、この中にいるプラズマ団員さんたちも。私のことだって。エンブオーが怖がって怯えることはないんだよ。だって世界は混沌として優しいんだもん。」
トウコのほほえみには絶対の自信が潜んでいる。本当に何も怖くないかのように。
もう少し奥に進むとカレーの匂いが漂ってきていた。
「あ。トウコさん。カレーちょうど出来上がったところなんですよ。」
嬉しそうな笑顔のアクロマはエプロン姿でトウコを迎え入れた。
トウコがエンブオーに語った企みなど、何も知ろうはずもないアクロマだった。彼は彼女に自分の開発したものを壊されたとしたら、彼はいったい彼女にどんな表情を見せ、何を言ってしまうだろうか。自分の良かれ悪かれ努力の結晶をぶち壊されても、このような笑顔を向けられるとは思えない。それとも万能の科学者の本領を発揮して、壊れない機械とやらに仕上げているのだろうか。
誰も彼もの胸も内を互いに分からないまま、プラズマ団の研究室は今日も稼働し続けていた。
「ほれ。オレンの実じゃ。」
アデクは青い皮のオレンの実を一つ取った。
「それは知ってますけど。」
ポケモンに持たせておけばその実を食べて体力を回復できる。ポケモンリーグの公式試合でも公認されている。
「まだいっぱいあるからのう。何個かチェレンにわけてやろうかと思ったわけじゃ。下に落とすから受け止めるか拾ってくれんかの?」
「いいですよ。」
チェレンの返答の一瞬後に木の実が落ちてきた。チェレンはそれを手でキャッチする。もぎたての木の実は新鮮な柑橘系の強い香りを放っていた。
「ああ……。」
自然とその香りに嘆息する。野生で生えている木の実はこんなに芳香が強いのかと。
「チェレン。ほれ。」
二個三個と木の実が降ってくる。チェレンはそれを受け止めて腕に抱えていく。アデクは何個か木の実をもいだあと、これくらいかと呟いて木から降りてきた。
「オレンの実は割と日持ちするからのう。多めに持っていても困らんじゃろ。」
「え…あの……。ありがとうございます。」
「そんなに畏まらなくてよい。木の実をわけてやるのはレンジャー連中も当たり前のようによくやることじゃ。」
「そうなんですか。」
まだチェレンはレンジャーには出会っていない。アデクはわしわしとチェレンの頭を掴むように大きな手で撫でた。
「成人しとる割には世間知らずじゃのっ。」
「悪かったですね。」
アデクの大きな手からもチェレンが抱えている木の実と同じ香りがする。木の実をもいだ時に香りが移ってしまったのだろう。
「これでシチューの礼も済んだことじゃし。」
「アデクさんはこれからどちらに。」
「……。まあ、適当じゃ。」
一瞬だけ気になる間があったが、アデクの口から適当と聞かされれば意外とその間は気にならないものだった。
「また会えたらよいな。」
「ですね。」
チェレンは森の奥に入っていくアデクの背中が見えなくなるまで見送った。
「僕も、行こうか。」
チェレンは木の実をバッグに仕舞い一歩を踏み出す。なんだかいつもより気分も足取りも軽く思える。バッグの中からもあのオレンの実の香りが感じられるようだ。あの大きな手のひらに移った香りが。なんだか隣に今でもアデクがいてくれているような気がする。離れていても、いつでも近くにいるような。
- * *
チェレンとはまったく別の空間で窓からの朝日を受けてNとトウヤは乱れたベッドの上で向き合っていた。
Nが寝ている間にトウヤは初挑戦するジム戦に向けて、公式のデータをインターネットで見ていた。そこにはNと対戦したジムリーダーであるコーンの試合の成績があった。それを見たトウヤの背筋に冷たいものが走ったあと、なんだか分からない電流が身体を貫いてトウヤを動けなくさせた。
トウヤの隣で寝返りを打ったあと、おはようと言ってトウヤを見上げたNにトウヤはぎこちなく笑った。昨日までのようにトウヤはNに偉そうに大人面が出来なくなっていた。
「結局泊りがけになっちゃったね。」
Nは手櫛で髪を梳きながら、トウヤの言葉に気にすることはないだろと何気なさそうに言った。
「そんなことでやきもきする人が、二人ともいるわけじゃないでしょ。」
「それはそうだけど。」
やはりチェレンのことが後ろめたいのかとNはトウヤを怪訝そうに見る。トウヤはトウヤでどういうわけか、荷物をまとめてそそくさと立ち去るつもりな雰囲気を漂わせている。
「トウヤ。僕とのことは別に気にしなくてもいいからね。その……昨日のことは、君は最初は本当に僕のことを助けようとしてくれたんだし。」
トウヤはノートパソコンの電源を切りながら安堵したように溜息をついた。
「そう言ってもらえると少し気分は楽になるね。欲望に憑りつかれた頭が覚めて、一番に思ったのは未成年である君に手を出して、なんだか捌け口に使ってしまったような罪悪感をどうしようかってことだった。」
それよりもっと大きな理由はあるのだが、それこそNにとってなんでもないような顔をされると思い話すのは避けた。
「……。そういうこと口に出さなくてもいいのに。」
トウヤはNにとって困った子どもであることはNも自覚していたが、その困ったところを容認するしかなくされている。
「今日こそはジムリーダーに挑戦しないとなあ。」
なんでも入念にじっくり取り組むトウヤにしてはなんだか焦りが混じったように早口で言った。
「うん。トウヤ、頑張ってね。僕は次の町にいくよ。」
「そうか。君は既にバッジをゲットしてたよね。」
Nは無言で頷いた。これからNは次の町に行くのだろう。それでチョロネコの他にポケモンをゲットしてNらしい最強のチームを作っていくだろう。Nと一度やりあったトウヤだったが、用心のためにかなり鍛えていたミジュマルがいたからこそ、Nのチョロネコに勝てた。しかし後日、Nはジムリーダーにチョロネコ一匹で勝利した。トウヤがやっとバオップがいて勝てるかなと考えている相手にだ。
たぶんNが育てたチョロネコは強くなっている。トウヤはそう確信している。Nならあらゆるポケモンの潜在能力を引き出せる。ただこつこつとレベルを上げていくことだけが取り柄の自分とは違う。Nならどんどん自分をおいていくように駆け足とびでチャンピオンに挑戦して勝つだろう。
その頃自分はまだまだ旅の途中で、幾つかのジムでバッジは獲得しているかもしれないが、Nに追い付くわけがない。
「N。チェレンのことは別にして、僕は僕なりに結構ポケモントレーナーという自分にのめり込めそうな気がしてきたよ。君みたいな天賦の才を目の当たりにして、僕みたいな地を這う者がこうやって対等みたいに喋る機会はもう、そうないだろうね。」
Nは不機嫌そうに眉根を寄せる。
「そんなこと言わないでよ。僕は君のこと」
トウヤは首を振る。
「君は普通の人とは違う。特別な才能に恵まれた人間だ。僕が十くらい若ければ、それでも君と対等に付き合っていけるのかもしれないけど。もう僕は他のトレーナーと比べてもスタートが出遅れているし、何ら突出したところのない平凡な脱サラ人間だ。だから、精々君が僕に憤っていたことは、おいおい改めようと思う。本当にあのときは大人げないことを言ってすまなかった。この機会を逃したら君にこうやって面と向かって謝ることも出来ないと思う。」
Nはトウヤが言い終わるのを見届けてトウヤに背中を向けた。どうしてもトウヤに察して欲しい自分の考えを伝えるために。
「トウヤはイッシュの伝説は知ってるよね。」
いきなりNが突拍子のないことを言いだす。
「絵本かなんかで読んだことはあるよ。そういえばちっちゃかったチェレンにも読み聞かせたことはある。白黒ドラゴンポケモンと人間の英雄の話だったっけ? 僕が知ってるのは子ども版だったから君が話してる伝説と違って脚色されてるかもしれないけど。」
「その英雄伝説もポケモンもニンゲンの英雄も一匹と一人じゃなかっただろ。その伝説は相対する双子の英雄と、白と黒の対になるポケモンの世界を救った物語だったはずだ。このイッシュには必ず対になった二人の英雄が必要だと暗示してないかい? 僕はある意味探してるのかもしれない。僕の成し遂げたいことを叶えたいために、そのもう一人を。」
「N。君はお伽噺を信じる歳でもないだろうに。それはあくまで架空の話だろ。この現実の世界でもし何か異変が起きたときに世界を救えるのは、そんな一人か二人の英雄か伝説のポケモンじゃないと思うよ。」
Nはトウヤを振り向いた。なんだか哀しそうな顔をトウヤは向けられた気がするが、すぐに謝ってその気のせいを振り切った。
「いや。伝説っていうのは歴史も含まれるところもあるし。たまたま異変を解決したのが、そういう目立った人物が二人で示し合わせたようにポケモンを連れていたってことも考えられるし。だからって今から世界を救うとしても、そんな伝説を踏襲しなくちゃいけないっていうのはないんだよ。」
Nは反論する。
「だけど誰かがしなくちゃいけないことだよね。能力があるなら尚更、その責務は負うべきだろ。」
トウヤはNの目の色が変わったことにNへの危惧を感じる。そして少し前の集会を開いていた壮年の男の演説を思い出す。世界はまた何かに向かって動き始めている。Nはもしかしたらその当事者に組み込まれているかもしれない。
「もし世界にそんな危機が訪れたら、そんなその場にいるだけのたった一人が背負いこまなくちゃいけないって言い分は間違っている。たとえその人物でしか世界を救えないと言われたとしても。その人にも拒否したり他に助けを求める手段があったって構わないと僕は思う。とにかく独断で暴走するのは、どんな場合でも避けたほうがいい。君と同類の特殊な能力と天才的な頭脳をもってしてもだ。」
世界の各地方で時々きな臭い事件は起こる。しかもある程度勢力のある組織が関与しているときもある。その組織の類まれなる頭脳を持つトップは、時に世界を救いたいという善意からの動機に駆られていた。だがそうした組織のトップの失敗に共通したところがある。
それは太古のポケモンの伝説を踏襲しようとしたところだ。つまりは昔々の人間離れした英雄の復興という真似事だ。
その結果、日照りと洪水が同時に起こった地方のニュースをトウヤは聞いたことがある。時空が歪んだというファンタジーめいた騒動も聞いたことがある。後者では組織の代表が行方不明になって、未だに発見されていないらしい。
歴史を学んでそれを活かすのは効果的な方法かもしれない。歴史上の英雄の活躍が蘇れば、人々はひれ伏すかのような感動を植えつけられるかもしれない。しかし歴史の踏襲は今の時代に合致しない可能性もあるし、当時に起こった同じ災厄を招きかねない。
「N。一つ訊きたいんだ。チャンピオンに勝ってから叶えたい君の目標は、ひょっとしたら世界を救うことなのか?」
「世界を救うことがトモダチを救うことになれば、たしかにそれが僕の願いにはなるね。」
Nの意志は頑強だ。幾ら大人だと自負するトウヤといえども今はどうしようもない。だから縋るようにトウヤはNにお願いをした。
「N。無茶はしないでおくれよ。その……君は僕より出来たやつなんだから。それにそんな壮大な目標以前に、君には一個人として幸せになって欲しいんだ。出来るなら不特定多数の人間とセックスして別れる関係じゃなくて、本当に好きな人と出会って欲しい。じゃなきゃ、今の君にはあり得ないことと思うかもしれないけど、目標に挫折してしまった時が心配だ。その時に僕は君の友人として駆けつけてやれる距離にいないかもしれない。」
「友人?」
「そう、友人。」
Nはそれじゃと言って部屋から出た。完全に決別を告げられたような気分にトウヤはなる。
「他にどう言えばいいんだよ。」
Nを心配する人間はいるんだよ。とか。才能があるからってNが全てを背負う必要はない。とか。NにはNらしく幸せになって欲しい。とか。言えるだけ言ったつもりなのに。
「これじゃあ、ちょっと……。」
たぶん半分も伝わっていない。旅先のごく最初に出会ったいつまた出会えるか分からない友人の行く末に、もやもやを募らせるトウヤだった。
Nは振り切るように町を出て草むらを歩いている。Nにとっては普通のこと、外の世界にはポケモンの声があふれていた。他愛のない彼らの平和そうな生活は、ある日突然トレーナーによって奪われる。その先は本当にトレーナー次第だ。
優しくされるのも。辛い目に合わされるのも。鍛えられるのも。着飾らされるのも。甘やかされるのも。こき使われるのも。
「チョロネコ。数日間本当にお疲れ様。」
Nがモンスターボールに話しかけるとチョロネコをボールから出した。チョロネコはNのズボンに自分の頬を擦りつけている。
「にゃあ。」
「こんなものの中に閉じ込めててごめんね。君は君の本来あるべき日常に戻るんだ。」
「にゃ……。」
チョロネコは頭を垂れている。自由になれるのにどうしてそんな寂しげにしているのだろう。
「僕は君にあるべき姿で生きていて欲しいんだ。」
「にゃ、にゃあ……。」
Nの言葉を受け入れたようにチョロネコは草むらにすっと姿を消した。まるで自分のトレーナーだった人はそういう人だから、その人の考えを踏みにじらないようにしたいという気遣いが見えるようだった。本当に自分がどうしたいかにそぐわなくても。
Nは思わずチョロネコが消えた草むらに呼びかけた。ずっと傍にいたかったのにという消え入りそうな思いが聞こえたからだ。
「ありがとう。ごめん。また会えたらその時は――。」
そんな悲しそうな顔をしなくてもいい世界に変えてみせるから、と。
空になったモンスターボールは本当に情けないほど軽く感じる。しかしこの中にトモダチを繋ぎとめることはどれだけ傲慢なことなのかは、誰よりもNが知っている。だからNはトモダチの為に英雄になる道を選ぶほかない。たぶんずっと一人で。
ポケモンの声がのどかに聞こえる。ニンゲンの傍らにいることを知らないトモダチの声だ。Nにとって心を支えてくれるトモダチの声だった。この声が世界の全ての場所で聞こえる世界。その世界のためならNはなんでも出来た。
「それが僕の幸せなんだよ。トウヤ。だけど少しトウヤの言葉につられそうだったなあ。好きな人と幸せになんて、残酷すぎること言わないでよ。」
叶えてくれないくせに。
それが絶たれたらNには他に考えられる選択肢などなくなってしまっていた。たぶんどころではない確信で、自分はもう戻れないところまでトウヤを好きになってしまった。
狡くて理屈屋で下世話で偽善者の小男。それでいながら変なところで律儀で優しくて苦労性なところを見せる、大きな手のひらの大人。
もう一度、あの低くて渋い声が聞いてみたい気がするけど、あの余韻に浸っていたいけれど、それだとトモダチを救う決心が鈍ってしまう。
だから今は離れるのだ。
「でも今度会うとき、トウヤの隣にチェレンがいたら……」
それを思うと胸が潰れそうなNだった。
- * *
シッポウシティの手前にある小さな町でチェレンは見知った顔を見つけた。声を掛けるか掛けないか迷って少し息が詰まる。
『せっかく旅に出てるんじゃから――』
アデクが屈託なく笑って言った言葉を思い出す。
少しでも自分から声を掛けてみよう。そう思ったらぎこちないながらも自然と彼の方に足が向いて声が出た。
「トウヤっ。」
トウヤは目を丸くして驚いていた。驚きのあまり声が出ないようで口元をしきりに覆っている。
「チェレン……。」
「え、え、あのっ。驚かせて……。ごめん。」
顔に熱が帯びてくる。たぶん恥ずかしさで顔が赤くなってきているのかもしれない。トウヤも挙動不審にキョロキョロと辺りを見渡していた。
「そ、んなこと、ないよ。いやあ。また会えるなんてなあ。」
そこらへんに座らない? トウヤが指差す方向には噴水のそばのベンチがあった。
「うん。」
チェレンは頷いた。トウヤは不自然に口の端を上げて、半ば肩をぷるぷると震わせている。
「チェレンから声を掛けてくるなんて珍しいね。」
「そ、そうかな?」
対人関係では消極的なほうだという自覚はチェレンにはあったが、まさか声を掛けただけでトウヤがこんなに動揺するとは思わなかった。
「知ってる人とか旅に出てからあんまり見ないから。」
「そっか。」
トウヤは落ち着いてきたのか、チェレンの知っている瀟洒な男の顔に戻りつつあった。
二人は横に並んでベンチに座る。腰を据えて話す予定じゃなかったチェレンは、少し何から話そうかと迷った。
「あのさ、トウヤはバッジどれくらい取れた。」
トウヤはチェレンの無理に出した質問に、さらりと一つと言った。Nと別れた後、意気込んだように飛び込んだジムで自分でも思いがけなく楽勝したのがトウヤの自信を回復させていた。
「僕も一つなんだ。君はミジュマルを選んだから、相手はデントさんだったんだろ? 僕はポッドさんに当たって少し苦戦したかな。だけどね、ヒヤップやチョロネコがいてくれて助かったよ。」
「チョロネコ……。」
トウヤは中空を見上げて、そして気のせいだろうか少し疲れたような顔をして溜息をついた。トウヤのチョロネコはやはりジム戦ではやはり役に立たなかった。
「チェレンのチョロネコも頼りになるんだね……」
どうしたのとチェレンが顔を覗き込むとトウヤはあのねと話し始めた。
「僕もチョロネコ捕まえたって言ったよね。そのチョロネコがさ、あんまり頼りにならないんだよ。のんびりやでマイペースというか、悪く言えばぐーたら。ちょっと彼女をどうしていいか。」
「トウヤに困ってしまうことってあったんだ。」
チェレンにとっては目から鱗だった。何事もそつなくこなすエリートなのに、人間の部下の扱いもいいと聞いていたのに、たった一匹のチョロネコでこんなに悩んでしまうのか。
「僕もこんなことは初めてだからね。君にはとんだ愚痴を聞かせてしまって申し訳ないというか。」
トウヤの悩み事を聞くという万に一つともない事態にチェレンは動揺している。
「そんなことないよ。僕もたいしたアドバイスは出来ないけど。」
チェレンは自分のチョロネコを顧みても、どうしてトウヤがこんなに困っている状況になっているか分からない。トウヤと自分のチョロネコの違い。多少の個体差もあるのだろうがと考えたところでチェレンは閃いた。
「ああっ。」
チェレンはその思いつきを口に出してみる。
「僕が会ったポケモンの年齢当てが得意っていう人が言ってたんだけど、僕のチョロネコって他のトレーナーが連れているチョロネコより年齢が高いらしいんだ。もしかしたら逆にトウヤのチョロネコは僕のチョロネコとは反対に、限りなく若い個体なのかもしれないよ。野生での経験値も少ないからかもしれない。本当にもしかしたらだけど。」
チェレンはトウヤを慰めるように言う。
しかしトウヤはそんな気休めは絶対あり得ないことは分かっていた。幾ら人間とポケモンといえど分かるものは分かる。トウヤのチョロネコは本当にやる気がない。自分の同僚や上司に甘えるだけ甘えるつもりでいる。そして上辺は従順な振りをしてうまーく乗り切るつもりだろう。
だけどそんな確証はチェレンには言えない。チェレンのポケモンに対する夢はぶち壊せない。そんな人間とポケモンの間に目も当てられない駆け引きが常に展開されていることなど。
トウヤのチョロネコはトウヤの性格にさえも付け込んでいる。一旦自分がゲットしたポケモンが使えないからと言って放逐してしまうなんて、完璧な大人を自負するトウヤには到底出来ない。人情的なものよりトウヤのプライドがそれを許さない。
「いや。こうなれば僕にも意地がある。嫌が応にも彼女を使えるようにしてみせる。」
「が、頑張るんだね。」
ここでこの話は打ち切ろう。トウヤはそれとは別件の、チェレンにも関係する話を持ち出すことにした。
「それで、このごろさ――。あのカラクサで演説してた連中いただろ。あいつらがついに非合法活動に手を出してきたんだ。そんで、ベルがね」
「ベルに何か危険なことがあったのっ?」
チェレンが身を乗り出して本気で心配している。
「夢の跡地でその、あいつら……プラズマ団って言ったかな。そいつらとやりあったらしいんだ。ムンナっていう珍しい能力を持つポケモンをある目的のために苛めてたんだって。それをベルが助けたらしいんだよ。僕もその場面に遅れて出くわしたわけなんだけど。」
「それで。ベルとムンナは無事だったの? トウヤは助けたんだよね。ベルとその子を。」
「いや。助ける以前の問題だった。あいつらさあ、ベルが童顔なのをいいことに言っちゃいけないことを言ったんだよ。」
「言っちゃいけないことって?」
不思議そうに首を傾げるチェレンに、トウヤは脳裏に浮かぶその時ベルが叫んだ言葉を反芻していた。
『ごるあああ! ガキども! わりゃあ誰に向かってカワイイとかおじょうちゃんとかぬかしとんじゃあ! わしゃこれでも三十来とんじゃあ! 舐め腐っとるとケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯がたがた言わすずお!』
怒りのあまりトウヤの元妻は普段は高めで甘い声が割れ、彼女の過保護な父親が訊いたら卒倒するような言葉を吐きながら、プラズマ団の若造たちを撃退していた。ベルは自分が可愛くて童顔だということで世間知らずのお嬢ちゃんというレッテルを父親に張られ、必要以上に過保護にされてきた。だから年配の者にならいざ知らず、プラズマ団のまだ二十歳そこそこの若造に可愛いお嬢ちゃん呼ばわりされてしまっては、切れるしかなかったのだろう。
『わしゃあお前らが鼻垂らしてポケモンのポの字も知らんかったそのへんの糞ガキやってたころから、親に内緒でバーチャルポケモンバトルやっとったんじゃ! バーチャルやいうてもなあ、廃人と凌ぎを削ってきたんじゃ! 卵厳選、努力値振りの、ドーピングアイテムを駆使した奴らに勝つにはなあ! 先の先の百手先読んでやっとなんじゃ! 年季が違うんじゃお前らと!』
そしてベルはムンナに向かって叫ぶ。
『おい! こんな糞ボケカス連中に負けとる場合違うやろ! おばちゃんが手伝ったるから、一緒にいてこましたろうで!』
最終的にはベルはプラズマ団を撃退した。プラズマ団の下っ端は悪夢でも見たように撤退した。
「チェレンも気を付けてね。」
「プラズマ団に? それともベルに対しての接し方にかな?」
「どっちもということにして。それでね、ベルを落ち着かせたあと、不穏な奴もいなくなったからそのへん探索したんだ。そしてすごい逸材をゲットしたんだよ。」
「逸材? やっぱりあのへんだとムンナかな。」
トウヤはボールからポケモンを出した。
「え?」
チェレンは自分の目を疑っていた。
「タブンネだよ。」
トウヤはポケモンセンターでナースポケモンをやっていることで知られているタブンネを、トレーナーが経験値稼ぎのためにゲットせずに戦って瀕死に追い込み続けて罪悪感ばかりを募らせるタブンネを、まさか捕まえてパーティにいれていたとは。
「この子、いや彼女はね、ミジュマルやチョロネコにはない耐久力を持っているんだ。」
「タブンネ。」
「タブンネじゃないよ。タブンネ。君は素晴らしいよ。」
「タブンネ?」
チェレンは曖昧に頷いている。タブンネを手持ちにするトレーナーは珍しい。その珍しいトレーナーが目の前にいる現実にひたすら驚いている。
それにしても、さっきから見た目は愛くるしいタブンネが発しているなんだか禍々しいオーラは気のせいなのだろうか。時代劇でいうところの人斬り侍の持つ殺気というのだろうか。それをタブンネから感じる。
「いやあ。彼女ちょっとご機嫌斜めみたいなんだ。僕が技を指示するだろ。彼女はメロメロを覚えているから、まずそれをオス相手には使うだろ。その度に舌うちされるんだよね。でもそのあと無防備なオスポケに対するおうふくビンタの凄まじさは目も当てられないよ。」
「トウヤ。たぶんタブンネはメロメロを使いたくないんだよ。オスに媚を売るようで嫌なんじゃないのかな? 早くメロメロは忘れさせてあげたほうがいいんじゃない?」
タブンネはチェレンの言葉に頷いている。
トウヤのゲットしたタブンネはその見かけとは裏腹に、硬派というか武闘派な性格だった。トウヤにゲットされたのも更なる強さを極めたいという意志で、だった。しかしながら自らの特性が災いしているのが現状だった。その一つが自分の手持ち技であるメロメロだった。こんな女の武器で相手を無力化させる技などタブンネにとっては屈辱以外の何物でもない。しかしトレーナーにとっては王道の戦略なのだ。
「タブンネ。」
タブンネはチェレンの腰あたりを叩いた。気づいてくれてありがとうと言っているつもりなのだろうか。
「好戦的なタブンネなんだね。だけどしばらく別の技を覚えるまではメロメロは有効に使わせてもらうよ。」
タブンネがまた舌打ちをした。早く別の技を覚えてとっしんだのすてみタックルをかましたいと心に誓うのだった。彼女の願いは肉弾戦ポケモンを極めること。なんの小細工もない純粋な強さを極めることが、彼女にとってのトウヤの側にいる動機なのだから。
「トウヤのポケモンってちょっと変わってるね。」
ボールに戻ったタブンネを見てチェレンは呟いた。
「まあ彼女はミジュマルの姉貴分としても頼りがいがあるからね。バオップを育て屋さんに預けたあと、沈みがちなミジュマルに喝を入れてくれて大分助かってるんだ。」
「そうか。トウヤの手持ちはなんだかんだでチームとして成り立っているんだね。」
チェレンが感慨深くなっていると近くをでかいリュックを背負った男が通りかかった。
「お兄さんがた。さっきの話からするとトレーナー? どちらかと勝負してみたいんだけど。」
「じゃあ僕と勝負しようか。」
トウヤが立ち上がって男と対峙する。チェレンは出遅れてしまった。
「あ……。トウヤ、頑張って。」
トウヤは満面の笑みで頷いた。
「じゃあ、タブンネ頼んだよ。」
男はドッコラーを繰り出した。
トウヤはタブンネに指示を出す。
「タブンネ。メロメロ。」
タブンネは「え?」と言うように聞き返した。ドッコラーが攻撃をしているが自前の耐久性でタブンネは耐えた。
「タブンネ。はやくメロメロ。」
タブンネは振り返ってトウヤを睨みつけたあと、ぺっと地面に唾を吐いて、しょうがないと言わんばかりにメロメロを繰り出した。
チェレンはその光景を見て、トレーナーとポケモンの関係って画一的じゃないんだなと学んだ。目の前ではタブンネに手を出せないドッコラーがタブンネのおうふくビンタの餌食になっていた。
バトルはトウヤの勝利に終わった。タブンネで削ったドッコラーを引き継ぎミジュマルとチョロネコを次々と出してトウヤは獲得した経験値をきちんと三分していた。実にバランスの取れた育て方をすると思うと同時に、すこし遠回りなバトルの仕方をしているなというのがチェレンの感想だった。
「すごかったな。お前のタブンネ。俺もゲットして育ててみてもいいかもな。」
男はそう言って去って行った。新たなるタブンネ使いが生まれようとする前兆めいて見えた。
トウヤは嘆息してベンチに再び座る。ベンチの背もたれに身体を預けチェレンと呼んだ。
「さっきさあ、ポケモンの年齢当てが得意っていう人に出会ったって言ってたけど、どんな人なのかな?」
チョロネコやタブンネの話題にかまけていたが、実はトウヤが気になっていたのはチェレンが口を滑らせて言った人間の話だった。その人物がいつどこでチェレンと会って、どのような関わりを持ったのかを聞いてみたかったのだ。ポケモンの話題の途中でいきなりその話題に切り替えるのもわざとらしかったので、タブンネの話題が終ったところで切り出そうと待っていたのだった。
その人物のことを気にする理由はある。少し前のチェレンと打って変わって今回のチェレンは自らトウヤに声を掛けてきた。予想できるのはその人物の影響をチェレンが受けたということだ。しかも接触したのは短期間だとしか考えられないから、世間的に見ても余程の人物であるか、それともチェレンにとって深く心を傾ける対象になった人物だと考えられる。
「君ちょっと印象変わったし、その人の影響を受けてるのかなって思って。だからどんな人なのかなって興味が湧いたんだ。」
チェレンは困ったように笑った。
「野宿した時に一緒に食事をした人なんだ。」
トウヤがぴくりと反応する。
「君、ずっと野宿してるんだろ。ずっと思ってたんだけど身体は大丈夫なのか?」
「あ、少し風邪引いたからもう今日からは控えるつもりでいるんだ。その人にも無理するなって言われたから。」
トウヤはまたぴくっとこめかみが動く。
「僕も前から無茶はするなって言ってたのに、君は初対面の人の言うことは聞くんだね。」
トウヤが旅の当初からチェレンを気にかけていることは、チェレン自身もわかっていた。だけどチェレンはトウヤに対して少しばかりの対抗心も持っていたので、僕の好きなようにさせて欲しいと強情を張っていた。
「か、風邪引いて咳が出て介抱されたとき、トウヤと同じこと言われたからっ。痛い目にあって初めて反省したってやつかな。今じゃトウヤの言ったことは正しいってわかってるし。トウヤの言うことを少しでも聞いておけば良かったって思ってるし。」
「そういうタイミングだっただけなんだね。」
トウヤの声が低くなる。
「トウヤの言葉、無視するようなことしてごめん。」
「いや、いいんだ。」
チェレンの言葉を受け入れたように頷いたトウヤだったが、内心はチェレンが出会った人物に対しての嫉妬未満の疑惑で渦巻いていた。あの強情なチェレンがこんなに素直に謝ってくるとは思えない。どんな人間が魔法じみた手管でチェレンを変えたのかが気になる。
「誰なのかな? 君をそんなに素直にしたのは。」
チェレンはふるふると首を振る。
「あんまり公に名前を言い触らせない事情のある人なんだ。ていうか、その人との出会いが僕にとっても宝物みたいに思ってるから。も……もう少しだけそれを僕だけのものにしておきたいんだ。トウヤに絶対にその人のこと教えないってわけじゃないから。今だけ内緒にしてていいよね?」
トウヤはチェレンからの好感度とチェレンの周囲の人間関係の把握を両天秤にかけている。チェレンからは考えられないような夢見がちな言葉を聞いて、トウヤはこの状況に少しばかり恐怖を覚えた。だがしつこく追及すれば、チェレンは二度とトウヤにチェレン自身の近況なりを打ち明けてくれることは皆無になりかねない。ならば泣く泣くその不可解な人物の正体については目を瞑るしかないだろう。まだトウヤの追及が好奇心からと受け取られているであろううちに。
「宝物ねえ。ロマンチックな言葉だね。ならもう少し君だけのものにしていいよ。だけど、近いうちには僕にも紹介して欲しい。その素敵な年齢当ての達人さんを。」
「……うん。わかった。トウヤにも紹介するから。」
トウヤとチェレンはぎこちないながらも微笑みあう。いつも頬を引き締めていたチェレンの白い顔が、少し紅くなっていた。何かが自分がチェレンから離れていた間に進行しつつある。世界の裏の部分でも、トウヤにとって身近で見知った人間にも。
トウヤにはおぼろげながらにそれが怖かった。
- * *
ゲーチスは組織の専用車でとある研究所に赴いていた。そこでは彼がスカウトした科学者がある動力機関とそれを制御する装置を開発している。
ゲーチスがそこに下っ端に声をかけ扉を開けてもらうと、顔は知っているが招いた覚えのない女研究者が気安く声を上げた。
「はーい。ヘル・ゲーチス。」
「貴女は……アララギ博士ですか。」
ゲーチスはアララギの傍にいた金髪碧眼のメガネで白衣のお抱え科学者アクロマにどういうことかと視線を送る。
「ご心配ありません。ラギさんにはご協力頂いてるだけなんです。」
横でアララギがうんうんと頷いている。実に罪のない微笑みを浮かべながら。しかしここは非合法な組織の最重要な開発を行っている場所だ。彼女のように日向の場所で大手を振っている存在がこの場にいることは少し都合が悪い。いや実に都合が悪い。
彼女が個人研究者としてプラズマ団にいるならば、それはまだ許せる。だが彼女の場合は父親も高名な学者という、二世研究者だ。父親もプラズマ団に協力する気があるというご都合主義は存在しないだろう。というかプラズマ団の前提をことごとく覆すようなことを企んでいる可能性のほうが高い。
「ドクターアクロマ。困りますなあ。外部の者を招くなど。」
「えー。だって……貴方が融通してくれた団員さんたちより、ラギさんのサポートのほうが断然頼りになるんですもん。」
「ドクターアクロマ。彼女はあのアララギ博士のご息女ですよ。我々の考えと同調するわけがありません。それは水と油が混じることがないと言うほど明らかではありませんか。」
「えー? 私はロマっちが面白い研究してるから来ないかって言われて来ただけだけど。ねえ、ロマっち。」
「そうですよ。」
ゲーチスは科学者には守秘義務とかは丸無視かいと頭が痛くなる。
「しかしながら、私はアララギ博士のお父上の見解なども知っているわけで。反対論者の派閥関係者はやはり歓迎しかねますねえ。アララギ博士。」
「あらら。私と父さんが同じ意見だと思ってゲーチスさんは心配してるわけえ? せっかくカノコから手伝いに来たのに? ロマっち悲しいよね。そんな言い方。」
「ラギさん。ラギさんは一人で団員百人分くらいの頭脳はあるんですよ。いいじゃないですかゲーチス様。」
ゲーチスはアララギとアクロマの後ろに鎮座している開発途中の装置に目をやる。明らかに先日見た状態より進歩している。専門家でない団員では間に合わないのはゲーチスだって理解している。
「アララギ博士。私としては貴女がいることで助かるのは存じています。その反面で心穏やかではなくなっています。貴女がお父上やその派閥にいる研究者に情報を漏洩させることが恐ろしいのです。」
「あら。じゃあ私のことをここに拘束するつもりなのかな? いや、それ困るし。荷物も最低限しか持ってきてないし。」
「言われるまでもなく、それが不可能なことは理解しています。それこそ高名な学者の失踪事件だと大騒ぎになってしまいますから。」
アクロマは焦れたように半ば子どものような言い分でゲーチスに言う。
「ラギさんは別にプラズマ団のことを探りにここに来たわけじゃないんですよ。さっきから聞いていましたら、なんでラギさんのお父さんの話が出てくるんですか? わかりませんねえ。」
「ドクター・アクロマよ。親と子はあくまで別の個人とされているが、それを大方の人間は切り離して考えられないものなのです。どうしても私には、父親のほうのアララギ博士の影がこのアララギ博士の後ろにちらついてしまうのです。」
ゲーチスのなんとも言えない表情にアララギは開き直ったようにしょうがないと呟いた。
「みんな父さんのことを気にするのよね。ロマっちが庇ってくれるのは嬉しいよ。だけど昔からそうなんだよね。ヘル・ゲーチスもそうなのよ。」
ゲーチスはアララギの言い草に眉根を寄せる。
「それを理解して貰えるのは有難いことです。貴女は経験からそれを承知した上でここに来たわけですね。」
そこまでのことは言っていない言うようにアララギはあーと掠れた声を出す。
「いや。ロマっちが面白いことをしてるって、それだけだけどね。それと特別に報酬貰うって約束だから。」
「報酬ですか。それは現時点でプラズマ団としても保証せねばなりませんね。」
報酬というよりも口止め料としての意味が強いがとゲーチスは心の中で呟いた。
結局アララギはゲーチスを悩ませる天才どもの一人でしかないのだろう。アクロマしかり。Nしかり。それと関わるには信頼とか契約とかけじめは役に立たない。自由にやらせられるところだけ自由にやらせるしかない。
「アララギ博士。このことが外部に流出した場合、貴女の身柄や身の安全は保証しませんがよろしいですかね。」
「承知するも何も。あり得ないことだと私は思うよ。」
そうですか。ゲーチスは諦めるように空いた椅子に腰を下ろした。
再び扉が開けられる。
「こんにちは! アクロマさん、カレー食べに来たけど住所ここで良かったよね?」
ゲーチスが持ち前の巨体をぎくりと震わせる。また部外者が来たと。
「トウコちゃん。何年ぶりだろ。」
「あら。アララギ博士。エンブオー、博士だよ! わあ! そんな外で団員さんに謝ってないで、こっちこよ!」
ゲーチスは首から下を硬直させたまま、首だけアクロマの方を向き無表情で言った。
「ドクター・アクロマ。説明して欲しいのだが。」
「彼女はトウコさんと言います。私のその……」
「お友達だよっ。」
珍しくもじもじしているアクロマの様子がおかしいが、トウコの屈託のなさにゲーチスはもう何も発言したくもなくなってきた。
「トウコさん。ここで見たことはご内密にお願いできますか?」
ゲーチスは自分の背後にある巨大な装置を指してトウコに問いかけた。
「うん。私カレー食べにきただけだから。」
「ロマっちのカレー美味しいからね。そうかトウコちゃんもカレーに釣られてきたのね。」
もしかして先のアララギの言った特別な報酬というのは、カレーのことだったのかと、ゲーチスは麻痺した半身に血の気が蘇ったような怒りによる錯覚を覚える。
「それではゲーチス様。私はカレーを作りに行ってきます。」
アクロマは嬉々として部屋から出た。
ゲーチスはもう突っ込むのも疲れてきた。天井裏に何故かいるダークトリニティに目配せをする。
ダークトリニティは無言で頷いた。たぶん彼らがアララギとトウコの監視を担ってくれるだろう。それだけがゲーチスにとっての救いと呼べるものだった。
横を見るとトウコのらしいエンブオーが「あのう、すみませんでした」とばかりに待機している。ゲーチスは小声で気にしなくてもいいですよと言った。
「ご婦人二人もその身が健やかであり続けたいのなら、この老体の忠告を誠実に受け止めて欲しいものですね。」
優しい口調とは裏腹の脅し文句を二人に告げてゲーチスは出て行った。
「アララギ博士。」
トウコの呼びかけにアララギは手にしていた工具を床に置いた。
「アララギ博士じゃないでしょ。トウコちゃん。もう五年以上も連絡一つすら寄越さないで。しかもこんな悪の組織の最重要拠点に入り込むだなんて。」
「アクロマさんに招待されたんです。」
「トウコちゃん。いつからそんなに軽はずみな子になったの? 旅に出る前のあなたは思慮の塊のような子だったのに。私もさっきは老人の警戒心を削ぐために、あなたがもとから少し頭が軽い子のように扱っちゃったけど、私としてもあなたのキャラの変わりようにビックリしたわよ。噂では聞いていたけど目の当たりにすると少し怖くなるわ。」
もしかして馬鹿っぽい子の演技してるの? アララギの声が微かに無機質な室内に反響した。トウコはきょとんと首を傾げている。
「演技って言われても……昔も今も私変わってないつもりなんだけど。」
「あなたからしてみれば、そうかもね。じゃあ言わせてもらうわ。あなたのエンブオーが無茶苦茶高いレベルなのに、ヨーテリーに勝ててないのは一体なぜ? シッポウシティでのこと、ロマっちに聞いたわよ。」
「えー。でも負けちゃったんだから仕方ないじゃないですか。」
トウコは本当に困ったような顔をしている。
「負けたら負けたで昔のあなたはそれをきちんと分析して次のバトルに活かせる子だったよね。あなた、負けたことにも全然気にしてないでしょ。それとエンブオー以外のポケモンはどうしたの?」
「えっと…逃げちゃいました。たぶん私を見限って。」
「それにも全然危機感を持っていない。」
「はい。確かに。」
「自分の身に起こったことなのに、なんか他人事のように思ってない?」
「私がポケモンに対して真剣じゃないって言うんですか?」
トウコはおろおろしている。アララギは溜息をついた。エンブオーがふるふると首を振っている。ポケモンが鳴き声や攻撃行動ではなく、わずかな仕草でトレーナーを庇っている。自分の前で進行している会話を理解しているかのように。かなりレベルだけではなく知能も高いエンブオーのようだ。
「わかってる。トウコちゃんは本当にポケモンが大好きなのよね。」
「はい。大好きです。バ、バトルだってそのうち勝てたらいいなって。」
アララギはそれ以上はトウコを責める気にはなれなかった。科学的に分析出来る問題じゃないと明らかにわかるからだ。これはポケモンに関わる学者とトレーナーがお互いに一線を引いた上でのやり取りなのだから仕方ない。
トウコが本当にお馬鹿になってしまったにしろ、演技しているにしろ、それをアララギに正直に言っているとは限らない。どちらにでも取れるようにそれらしく受け応えしている。しかし演技でも自然の変化しろ、トウコの変化の結果は自分の同業者であるアクロマの興味を惹いてしまっている。
アクロマの研究はポケモンの潜在能力を引き出すこと。トウコはその反対の現象を起こしている稀有なトレーナーだから、アクロマのアンテナに引っかかったのだろう。
トウコは昔は才媛と呼ばれるような優秀な少女だったという過去も十分、アクロマにとっては興味の対象になったのだろう。彼女の変わりようの転機は遡れば、ポケモンを手にしたことだ。その因果関係にアクロマが目を付けるのは当たり前だ。アララギだってその因果関係の是非を確かめたいに決まっている。
取りつく島のないトウコにアララギは手を変えてみようと思った。そして声を若干甘くしてトウコ肩に腕を回し引き寄せ顔を近づける。
「トウコちゃん。トウコちゃんは昔、私にすごく懐いててくれたよね。大きくなったら博士みたいにポケモンの研究したいなって言ってくれたよね? でも、大きくなったらなったで、若くて優しくて優秀な男の人のほうがいいのかな?」
「博士? どゆこと?」
アララギはトウコのポニーテールにした髪を掬い上げる。それを指に絡ませながら熱っぽくトウコを見た。
「やきもち妬いているのかもしれないわね。こっちは何年も連絡寄越してくれなかったのに、初対面のロマっちのとこにほいほい来ちゃったから。」
「そ、そういうつもりなかったんです。博士に連絡しちゃうと、親が嗅ぎつけたときに博士に迷惑かけちゃうかなって。」
「そうね。そうなりかねなかったけど。悲しいな。私にとって可愛いトウコちゃんがいざという時頼ってくれないなんて。私もっとトウコちゃんに頼られたかったな。」
「博士……。ごめんなさい。」
トウコは俯いてしゅんとしている。でもトウコより背の高いアララギにはトウコの表情は読み取れない。ここまで情に訴えかけてもトウコは一向にアララギになびいてきたり、感情的に反論することもない。本当に世間で言うところの可愛らしい女の子の範囲を守って、それらしい反応をしてくれている。逆に単なる考える頭のない素直なだけの女の子には出来ない芸当だろう。
まあいいかとアララギはトウコの肩をぽんと叩いた。今日のところは会話のシーソーゲームを続けるより、旧知の仲同士、アクロマの振る舞う甘口カレーに舌つづみを打つことにしよう。
年頃の娘はこれだから扱いにくい。自分が男ならもう少しやりようがあったのだが、自分は女だ。それでも大人の女の魅力でたらし込むには昔のトウコを知っているだけにリスクを警戒してしまう。今は何の下心のない地元の恩師というポジションから離れないようにしておこう。
「ロマっちのカレーがそろそろ出来上がるころだとは思うわよ。」
「あ。じゃあ私、持ってくるの手伝います。キッチンこっちですよね。エンブオー。エンブオーも手伝おうよ。」
「ブオっ。」
「じゃあエンブオー行くよ。」
アララギは笑顔で手を振った。あのエンブオーがトウコに張り付いている限りは、アクロマも研究者ではない男としてのアプローチもままならないだろう。
「それと、」
誰に言うでもなくアララギは呟く。天井にいる監視者はアララギの何気ない目に息を潜めた。アクロマのほうに行ったトウコより、アララギを監視しようという判断らしい。
「ふっ。」
アララギは笑った。そしてまたモニター画面と睨めっこをしながらトウコ達が運んでくるカレーを待つことにした。
トウコはキッチンに続く通路を歩く。
「ねえ。エンブオー。あの部屋すっごい機械がいっぱいあったね。」
「ブオ。」
トウコがここの施設に来て初めてここについての感想を口にした。今までそれを気にもなっていなかったような態度から、施設の大部分を占める制作中の機械に言及したトウコにエンブオーはわずかに反応が遅れて生返事をしてしまった。
「ブ、ブオっ」
「あれ壊すのエンブオーだけじゃちょっと無理っぽいよね。逃げちゃったあの子達帰ってきてくれるかな?」
「……。」
何気にトウコは逃げて行った他の手持ちを気にしていたのかとエンブオーは絶句した。しかもトウコはあいつらが戻ってくる可能性があるかのように言っている。
「エンブオー。プラズマ団の演説聞いたこと覚えてる?」
エンブオーは頷く。
「ポケモンの解放って言っていながら、あの機械はものすごく矛盾してるよ。」
「……オ?」
トウコはあの機械の塊の正体が分かっているのだろうか。
「本で見たことあるんだ。電気ポケモンの電気エネルギーを動力にしている車の写真。あれ結局、ポケモン倫理に背くからって開発中止になっちゃったんだよね。そうだよね。電気ポケモンに命令しないと車動かないってことだよね。ポケモンも長い走行距離を走ってる間に疲れちゃうかもしれないのに。」
よくある発明品の失敗談だった。車と言うからにはつい数年前の話だと考えられる。トウコは続けた。
「開発しちゃった人はじゃあ何匹かで交代とか、充電式にしようとか言ってたけど、どっちにしたってポケモン可哀そうだよ。道具や燃料扱いするなんてひどいよね。で、アクロマさんが作ってたあの機械だけど、どうやらポケモンを道具にしようという設計みたい。」
そういえば大型のポケモンが入れるくらいのケージが付属していたとエンブオーは思い出した。トウコはエンブオーの反応に頷いた。
「あの優しくて純粋そうな人が作ったものとは信じたくないけど。だけど頼まれちゃったんだろうね。たぶん。アクロマさんは優しいから純粋だから断れなかったんだよ。そういうことにしておこう。これを使ってポケモンを解放させれば、その時一回きりだけだから、必要な行為だからしょうがないとかかな。まあ私が壊しちゃってもアクロマさんは怒らないよね。だってアクロマさんは私のこと好きみたいだし。」
トウコは長いセリフをまるで歌うように言った。エンブオーはその逐一の意味を読み取るたびに、だんだんと今までのトウコが遠くなるような気がした。トウコの手を掴んで言葉を止めさせたいけど、その手が何故だか掴めない。
「エンブオー、大丈夫。何も怖くない。アクロマさんも、博士も、ゲーチスのおじいちゃんも、この中にいるプラズマ団員さんたちも。私のことだって。エンブオーが怖がって怯えることはないんだよ。だって世界は混沌として優しいんだもん。」
トウコのほほえみには絶対の自信が潜んでいる。本当に何も怖くないかのように。
もう少し奥に進むとカレーの匂いが漂ってきていた。
「あ。トウコさん。カレーちょうど出来上がったところなんですよ。」
嬉しそうな笑顔のアクロマはエプロン姿でトウコを迎え入れた。
トウコがエンブオーに語った企みなど、何も知ろうはずもないアクロマだった。彼は彼女に自分の開発したものを壊されたとしたら、彼はいったい彼女にどんな表情を見せ、何を言ってしまうだろうか。自分の良かれ悪かれ努力の結晶をぶち壊されても、このような笑顔を向けられるとは思えない。それとも万能の科学者の本領を発揮して、壊れない機械とやらに仕上げているのだろうか。
誰も彼もの胸も内を互いに分からないまま、プラズマ団の研究室は今日も稼働し続けていた。
☆「電気鼠のなくころに」「拝啓、ベアトリーチェ様」ヒビレ、グリレ
夜が明けるまでまだ時間がある。ヒビキがその山の麓に立ったとき。
あの人は僕を待っているわけじゃないけど、僕のような存在を待っていたと信じたい。じゃないとこの険しい山を登っている意味がない。まだ見ぬあの人のことを理解しているだなんて言うのは、なんとまあ傲慢なことだけど、これまでの道筋にあの人が落としてきた思いを僕は逐一拾い集めてきた。あの人の心の欠片を僕は集めてあの人に返そうと思う。もうすぐすべてのピースが組み合わさる。それこそが彼だと思う。
ヒビキはここに彼の人がいるのかとため息が出る。三年前にポケモントレーナーの世界に忽然と現れ、悪の組織を壊滅せしめて、チャンピオンの座についたと思いきや、それから先はこの山に閉じこもってしまった少年。
「三年前が今の僕と同い年だったから、生きていれば十四歳だよな。見た目も僕が知ってる感じじゃないかも。」
とはいえ、せっかくバッジを集めて会いに行くのだ。というか、会いに行く権利を手に入れるためにバッジを集めたのだ。
「だけどなあ。あの人に会ったっていう人たちの感想なりなんなりあるはずなんだけどね。この山って人間は立ち入り禁止ってわけじゃないし、三年間の間にも僕みたいなやつもいるだろうし。」
考えられるのは、その彼に会った誰も彼もが彼のことを語ろうとしないという可能性だろうか。
ヒビキも胸に秘めていることだが、レッドに会えたらまず一番に尊敬していることを伝え、対戦を申し込むだろう。勝っても負けてもそのあとに出る行動は決まっている。彼に地上に戻って欲しいと説得することだ。もし説得に失敗しても地上にいる顔馴染のトレーナーや彼の母親に彼の無事を伝えるべきであろう。
だが誰もそれをせずにいる。最悪を考えれば誰も口を噤んでしまうだろうが、それはあまりにも無責任というべきであろう。その最悪の事態があったとしても、少なくとも彼を連れ戻すことは出来るのだ。
「だから僕はあの人は生きていると考える。」
あの人のもとにはあの人が愛したピカチュウがいるはずだ。シロガネ山にて野性で生息していないはずのピカチュウが。そんな愛ポケを自分の道連れにすることは考え辛い。
そう考えている間にもヒビキは息をするように野性のポケモンを手持ちポケモンで追い払って山を登っていく。
息が白くなっていく。思うよりここは寒かった。氷の欠片が舞っていてどこか幻想的だが、人間が生きていくにはあまりにも寂しい世界が目の前にあった。何故こんなところに閉じこもってしまったのだろう。ヒビキは知っている限りのレッドを頭の中でこねくりまわしている。
無口で静かな少年。切れ長な目が時々帽子のつばで隠れている。そのくせバトルは強くて、悪しき大人を次々と返り討ちにしてきた。その時も一切無言だったという。白熱したバトルの最中にその澄んだ声はポケモンに指示を出すときのみ発せられ、勝利してもやはり無言だったという。
「あ。思った以上に排他的っぽいなあ。」
普通ならもっと血の気が多そうな情報もありそうなのに。むしろヒビキのイメージの中の彼はひたすらクールだ。
さてヒビキがこうやってイメージの中のレッドを膨らまして膨張させ続けているのは、憧れと尊敬もある。それと同時にまだ出会わない彼に恋心めいたものも感じていた。
常識的に考えて、妄想約九十パーセントそれでいて男に恋するなど、ヒビキ本人からしてみても自分が痛すぎる。だからヒビキはその痛々しい恋情になんらかの結論を出したかったのかもしれない。幼い頃の純粋な尊敬と憧れに立ち返りたかった。妄想過ぎて恋に陥ったのなら、現実を直視して目を覚ますしかない。
「だけど現物を見て決定的になったら、僕どうしよう。」
彼との状況を想像してみるに一対一のタイマンである。さらなる現実に直面するために告白はしたほうがいいのかもしれない。
『ずっとまだ見ぬあなたに憧れていました。そして、逢いまみえた今、僕の気持ちは決定的になりました。レッドさん。僕はあなたのことが好きです。レッドさんは僕より三つ年上。年上の人に憧れるのは男の通る道です。今あなたの目に映っている僕は、さぞや青臭くて子供っぽいくせに、やけに熱っぽい目をしているなあとお思いでしょう。それこそが僕の気持ちなのです。あなたを思うあまりに故郷を飛び出し、その地方のバッジを集めチャンピオンになり、あなたの君臨するこのカント―の地にまで訪れました。そこでもここに来るためにジムリーダーと勝負し続けてきました。そしてやっとここまで来ることが出来たのです。今から勝負をして下さい。あなたへの思いをこのバトルに全て捧げます。万に一つでもあなたに勝てたなら、あなたのその涼しい目を僕に向けて下さい。そして処女雪のようなその手を僕に差し伸べて「君みたいな人を待っていた」と言って下されば、とてつもない至福です。出来ることならこの寒々しいところから僕が地上に連れ出して差し上げたいです。僕の故郷はあなたの故郷であるマサラタウン同様、ど田舎の辺境ですが、負けず劣らずいいところでもあります。一緒に来てくれませんか? 僕のその……お嫁さんとして。』
一通り妄想を終えた後、こんなんだから妄想の相手に恋してしまうのだと自己嫌悪になってしまった。
ふと目の前が明るくなる。太陽がかなりくっきりと丸く見える。粒の細かい氷が舞っているせいであまり太陽が眩しく感じない。
掘立小屋が見える。窓からは明かりが漏れていた。曇っているガラスの向こうで何かの影が揺らいでいる。ヒビキの胸が高鳴った。 ヒビキはその小屋が廃墟でないと確信した。迷わず近づいてその小屋のドアを開けた。
「ごめんください! レッドさん。あなたのヒビキが会いにきました。」
ばんと音を立てられて開けられたドア。小屋の中にはヒビキの想像通りの年上の少年がいた。黒髪の切れ長の目。見るからに静かな佇まい。ヒビキを見る目は予定外の客を見る目で冷やかだった。
「……。なに?」
すべてが想像通りだった。しかしたった一つ想像外だったその少年は、ヒビキに対して澄んだ声で「なに?」と問いかけてくるが、それに対するヒビキの応酬は――。
「うわああああああああ!」
ヒビキの目の前のレッドは全裸で部屋の中に立っていた。小屋の中には本当にかすかな照明が灯っていた。反射的にヒビキはドアを閉めて全体重を全てドアにかけてへたれた。
「あ、あ、あ、あ、……はあ……はあ……服着てください!」
「いやだ。」
ドアの向こうで冷たい声が答えた。
「このままじゃ僕は小屋の中に入れません。お願いですから、服着て下さい。」
「入れないなら帰ればいいじゃないか。俺がお前を呼んだわけじゃないし。」
「それはそうですけど。」
予想以上に喋ってはくれたが発せられた言葉は拒絶ばかりで可愛げがない。せっかく可愛い声をしているのに勿体ないと思う。
「レッドさんで、いいんですよね。」
「ああ。俺がレッドだ。」
ドア越しに二人は会話を続ける。
「生きてたんですね。」
「勝手に殺すんじゃねえよ。」
「だってあなたに会ったっていう人の噂とか聞かないですもん。」
「あー…。前に何人か来たな。女の子は俺のこの姿見て失礼なことを口走りながら逃げて行ったし。野郎は全裸の俺とバトルしたあと肩を落としながら帰って行ったよ。ったく。自分の家で裸でいて何が悪いんだよ。」
「別の意味で噂にならなくて良かったですね。」
「別に噂になろうがなるまいが俺には関係ねえよ。」
澄んで綺麗な声が驚くほどの不躾で乱暴な言葉を紡ぎ続けている。ヒビキは意を決してもう一度ドアを開けた。
「なんだよ? 結局入ってくんじゃんかよ。」
「す、すみません。そうしないと全てが始まらないんです。それでもう一度お願いします。どうか、服を着て下さい。」
レッドの肌色が目に眩しすぎる。そしてあらぬところに目が行ってしまう。
「おい早く家の中に入るなら入るでドア閉めろよ。さみいじゃねえかよ。」
さみいじゃねえかよじゃねえんだよと、ヒビキはドアに手をやったまま閉めようとしない。
「服を着て下さらないと、ここは閉めません。寒いのは僕も一緒です。さあ、どこまで頑張りますかね。このままだとここの温度は外気と入れ替わってどんどん下がりますよ。
「ちっ。リザードンを出せる広さなら、こんなちんけな奴の脅しには屈さねえのに。わかったよ。着たらいいんだろ着たら。」
「ありがとうございます。」
それでもヒビキはレッドが服に手を伸ばすまでドアを閉めなかった。レッドはそのしなやかな肢体をやっと服で隠してくれた。サービスのつもりかトレードマークのキャップまで被り、設定どおりの姿になった。
「この山に来てから俺に服を着せたのはお前が初めてだぜ。」
「普通は逆の行為のことで言う言葉ですよね。」
「こんな環境だから茶すら出さねえけど、そこ座れ。そんで人の家に文字通り土足で踏み込んだんだから、要件ぐらいとっとと話せ。」
ヒビキは言われた通りレッドが指差した床に正座する。
「僕はジョウトから来ましたヒビキと言います。カント―まで来たのは、その……あなたに憧れて。会いにきたわけです。あなたがずっとシロガネ山に閉じこもっていると聞いたので。」
「ふーん。じゃあそれなりにバトルは強いわけだな。そんで会いに来た目的はやっぱりバトルか?」
「それもあります。」
レッドは興味なさそうに床に布を敷いただけのところに横向きに寝そべった。
「俺のピカチュウとかに勝てるつもりかよ。」
「勝つ自信があるとは言ってません。」
「そんならお前のポケモンが可哀そうになるからやめとけ。」
実もふたもない言葉だった。想像を裏切ってかなりエキセントリックかつ浮世離れした性格らしい。身にまとった哀愁だと思っていた憂いの姿は、ただのふてぶてしさに変わっていた。
「あのさあ、お前は勘違いしてるみたいだけど。お前のポケモンが弱いから可哀そうなんじゃなくて、勝つ確信もない癖にあわよくば勝てたらいいなあっていう心づもりで、強敵だとわかってるやつと戦わす根性が駄目なわけ。トレーナーに勝てるって見込みがない戦いに自分の手持ちを巻き込むな。馬鹿。」
「いや。それは精神論でしょ。何のデータもない相手に確実に勝つなんて出来るわけないでしょ。」
「データがないなら、データを無視しても勝てるように育てとけ。」
「それまで待ちきれなかったから、先に来てしまったんですよ。」
「待ちきれなかった? なんだそれ?」
ヒビキにしてみればあわよくば勝つとは別に、あわよくば嫁にして故郷に帰るという妄想が前提の邂逅だった。
「僕はあなたに逢うために、血がにじむような思いをしてきたんです。」
「血がにじむような思いをしてきてまで弱かったら、それこそ俺の中でヒビキっていうトレーナーはビッグマウスの情けない奴と永遠に記憶されるぞ。」
「永遠に記憶されちゃうんですか! 忘れてくれないんですか!」
「ああ。俺は負かせた奴のことは全部覚えてるから。寝る前にそいつらのことを思い返すとよく眠れるんだ。」
過去の敗者の数はこのチャンピオンにとっては羊と同じらしい。
「なあ? それは嫌だろう。ていうか俺に会いに来たんならあるよな?」
「なにかって?」
レッドは焦れたように手をヒビキの前に出した。
「こんなとこに籠ってんだから、飢えてるにきまってるだろ。タンパク質とか炭水化物とか脂質に。」
「え? え?」
ヒビキは慌てて背負ったリュックを下し中を物色する。
「あ、あの。こんなもので良かったら。」
「焼き鳥とあんドーナツか。」
「麓のコンビニで買ってたものなんです。駄目ですか。」
レッドは不遜な態度のままあんドーナツの袋を開け、一口かぶりついた。
「お前これセブンで買ってきただろ。俺はローソン派なんだ。」
「僕どうしてもセブンのそれが好きで、見かけると買ってしまうんですよ。」
「まあいいけど。」
クールな言葉は変わらないが目は明らかに嬉しそうだった。ヒビキの胸がきゅんとする。
頬を膨らませてレッドはあんドーナツにむしゃぶりついている。唇についた粉砂糖もピンクの舌が舐めとっている。
ドーナツを食べたあとに焼き鳥に食いつくレッドを見てヒビキは、しまったフランクフルトかアメリカンドッグにするべきだったと後悔した。
「うまいなあ。久しぶりの肉と菓子パンだったぜ。」
「シロガネ山ってなんだかんだで地元にも近いんですから、一回くらいは降りてきても。お母さんや博士、グリーンさんも心配してましたよ。」
指についたタレを舐めていたレッドがぴくっと身体を震わせる。
「お前が言った最後のやつ、逢ったことあるのかよ。」
「けっこう絡まれました。今じゃジムリーダーやってて、勝負したこともあります。」
顧みたレッドの串を持つ手がわずかに震えている。
「どうかしましたか?」
「なんでもねえよ!」
レッドは竹の串を石の床に突き立てた。真っ直ぐつき立っているそれをヒビキは呆然と眺める。
グリーンという名前にやけに反応するレッドに嫌な予感が胸をよぎる。シロガネ山はチャンピオンロードに近い位置にある。それはグリーンがジムリーダーを担っているトキワシティにも近いということだ。グリーンは三年間レッドの顔を見ていないという。不自然過ぎる状況は、二人が拮抗した実力者同士というある種のファンタジーで塗り隠されていた。ただのライバル同士ならばそこまで疎遠になる理由はないと思われる。ただのライバルでないなら、何故、そんな近くて遠い距離を維持してきたのだろう。原因は主にレッドにあるような気がする。それを増長させてしまったのがグリーンだとどうしてか想像してしまうヒビキだった。
ヒビキはグリーンとの対戦を思い出す。本当におぼろげながら思い出す。
彼は確かに強かった。ジムリーダーとしては異例の、タイプを定めていないスタイルであることを差し引いても、かなり苦戦させられた。
しかしそれはヒビキのジムリーダー戦においてはいつものことで、バトルの終盤相手が既に勝ったと、どや顔を浮かべる寸前に豹変するのがヒビキだった。それまで蹂躙される処女のごとくだったバトル展開が、ある一点を境に劇的に流れが変わる。手持ちのポケモンの体力は真っ赤っか。相手のポケモンはここぞとばかりに勝負を決めにかかってくる。そのときヒビキの指示がポケモンに飛ぶのである。
『――。――。――!』
バトルの記憶が曖昧になりやすいヒビキだが、ある種のトランス状態になってから勝つのでしょうがないと自分でも思っていた。だからあれだけ追い付きたいと願っていたレッドにも、勝てる自信があるなんて最初から言えないのだ。
そして気が付けば何故か勝っている。それを毎回繰り返しているから、勝てる見込みよりも先にレッドに会いに来てしまった。レッドにはしおらしくデータ云々と反論したが、まるでデータを必要としないで勝利してきたのがヒビキだった。何物かの見えざる力がけしてヒビキを負けさせてくれない。
負けてしまう悪夢は何度も見たことがある。だけど正夢になりえる悪夢はけして現実になることはなかった。
確かにレッドの言うようにポケモンが可哀そうになるような話だ。それ以上に勝ってきた相手にも失礼千万もいいところである。ましてやこのような告白は、寝る前に一人一人のトレーナー達を思い出しているようなレッドにはけして話せない。
全てを記憶しているレッドと、全てを忘却しているヒビキ。どちらが人としてまっとうなのかは、言うまでもない。
グリーンはと言えば、相手によっては忘れてしまっても、大事なことは忘れない人間だった。とにかくライバルだと思ってたレッドのことは逐一覚えていた。だからヒビキはグリーンの口頭での情報を自分の妄想のレッドに組み込んだ。
『あいつが俺がチャンピオンになったそばから勝ち逃げしていきやがってよお。』
『俺に勝って泣いてたよな。よっぽど嬉しかったんだろうぜ。まあ、それが俺とあいつの決着だよ。』
ヒビキはその言葉を聞いたとき、グリーンに勝ったときレッドが流した涙の意味は、喜びだったのかと首を捻っていた。
正直グリーンに嫉妬したことは覚えてる。グリーンにとってレッドは妄想でも幻想でも伝説でもなく、れっきとした現実だった。
でも嫉妬してもしょうがないことだった。
「レッドさん。」
「いいよな。お前は。グリーンに構ってもらってさ。お前みたいに見た目素直そうで年下の色々世話を焼きたくなる奴には、少し甘いのかな。どうせどうせ俺は、見た目暗いし、口下手だし。変に博士に気に入られて余計に対抗心ばかり燃やさせただけだし。いつもタイミング悪いんだよ。なんで博士があいつのお祝いに来る直前に、なんであいつに勝ったんだろ? いや。勝つ気なんてなかった。もうほんとにこれ以上あいつに疎まれるくらいなら、負ける気でいたんだ。」
やはりレッドはグリーン勝って嬉しいなど微塵も思っていなかった。却って悲しくて泣いていたのだ。
「レッドさん! あなたわざと負けようとしたんですか? それこそグリーンさんを侮辱してますよ。」
月並みだがヒビキは自分の想像のレッドとは思えない一言に、窘めるような口を挟んでしまった。レッドはグリーンに勝った日に浮かべたであろう表情をヒビキに見せている。
「だって……だって……。」
レッドは俯いて声を震わせる。
「レッドさん……」
口が滑ったあとにヒビキは気が付いた。この人もある意味、ヒビキと同様に運命的に負けが許されない人だったのかもしれないと。勝たなければ時間が進まない、自分の意志を超越したところで、そういうルールで動かされてきたのではないかと。
「負けようとしたのに、負けられなかったんですね。レッドさんは。」
「俺は呪われているんだ。夢の中では俺が負けていたんだ。だけど結局俺はあいつに勝ってしまって、俺はその呪いと共にここに閉じこもることにした。そしたら三年前のあの日とは逆に、グリーンが俺を倒しに来てくれるかなって思ったんだけど。」
しかし三年間の現実は二人は隔てられたまま。グリーンはレッドがシロガネ山に閉じこもったことを、孤高で崇高な意志だと勘違いし続けている。レッドのことをわかったような顔をして、あいつは頂点の座に驕ることのない奴だと、皮肉で隠して賞賛していた。こんなにもグリーンを待ち侘びるレッドの気持ちも知らずに。
「あなたの期待どおりにはならなかった。皮肉なことにグリーンさんは、グリーンさん以外の人があなたに逢うための通行証の裁定者に定められてしまった。いや自らがそうなったんでしょう。彼はもうあなたに負けているから、これ以上あなたとバトルする気はない。そして三年前のあなた同様、グリーンさんを負かせた者があなたとバトルするに相応しいと、そういう役目を勝手にあなたの意志を無視して決めた。」
「やっぱり俺の顔なんか見たくないんだ。」
レッドは遠い目をしていた。ヒビキは慰めのつもりも含めて否定する。
「いや。そうじゃないでしょ。あなたのことを認めているからこそ、彼はその役目を自分に課したんでしょ。」
「そんなの俺頼んでないし!」
レッドが駄々をこね始める。ヒビキはこのシチュエーションといい、自分が望んでいた姿を、この現状に照らし合わせてあるたとえ話が頭に浮かんだ。
「本当はあの人こそダンテにならなくちゃいけないんですよね。」
ヒビキにとっての自己投影がその物語の主人公だった。残念ながらレッドにとってのその役はヒビキじゃない。
「ダンテってなにそれ?」
「えっと…」
ヒビキは噛み砕いて説明した。
「ふうん。じゃあ俺はベアトリーチェっていう、初恋の相手にして煉獄の山の頂上にいるヒロインなんだな。ちょうど俺も山にいるのが皮肉だぜ。」
ヒビキは心の中で、だから僕は自分をダンテになぞらえてここまで来たんですと言いたかった。そしていつも恋焦がれていたベアトリーチェはあなたなんですと告白したかった。
「そうか。ダンテっていうのは、ベアトリーチェを倒す刺客を送ってくる奴のことか。」
自分の立場とベアトリーチェが合致していることをいいことに、レッドはとんでもないところでも彼女と重ね合わせようとしていた。
「違います。今の僕の立場がダンテなんです。ここではっきりさせときましょうよ。グリーンさんの意図がどうであれ、僕がグリーンさんを倒したのはあなたに逢いにいくためだったんです。グリーンさんはその単純さゆえに、あなたとバトルをするに相応しい人間イコールダンテをあなたのもとに送り込んで、三年間ずっとあなたをあのグリーンさんとのバトルに立ち返らせ続けた。それは彼のあなたへのまだ続いている好意の証明になるのではないかと僕は思うのです。」
しかしながらヒビキの想像は、グリーンが本当の意味で何の気無しでやっていたのなら、空しいもいいところである。しかしレッドを元気づける仮説は、ヒビキには今これしかない。
「つまり俺はあいつなりの気持ちを無下にし続けたようなもんだと? ……あいつがダンテになってくれりゃあ、それですぐに解決したのに!」
「だからあ、もう既にあの人はあなたに負けているから。」
「ああもう! これだからあいつはっ。」
レッドは存外ピーキーだった。それでもネガティブに落ち込み続けるよりはマシな状況になったと思う。普段が無口なせいなのと、三年間の鬱憤で感情を爆発させるしかなかったのだろう。ヒビキが来て、たとえ話で気持ちを整理してやっと吐き出せた気持ちなのだろう。
「レッドさん。僕もあなたと勝負しないわけにもいかないんです。僕の気持ちとしても。」
ヒビキがこの小屋のドアをくぐって一時間あまりの時間は経っていた。まだお互いを分かり合うには短すぎる時間。それ以前の問題だろうという時間である。しかしヒビキの言葉は何故かレッドの心を揺さぶっていた。まるでディグダのじしん攻撃のように。
「ふっ。ちょっと考えてみたら今日いきなり飛び込んできたお前の言葉に、なんで俺はこんなに乗せられているんだろうな。だけどこの動揺は収まらないんだ。」
「僕も最早あなたのことを他人だと思えません。」
「それは言い過ぎだ。俺とお前は赤の他人だ。だけどバトルだけはしてやるぜ。」
外に出ろと言われてヒビキはレッドに伴われるままに外に出た。レッドのことを他人だと思えないという言葉をきっぱりと否定されたヒビキだったが、このバトルでいい勝負をすれば(勝つだなんて恐れ多くて言えない)、レッドの心の少しの領域でも自分が浸食出来ると考えてみた。そしてその領域を拠点にグリーンに囚われているレッドの心の領域を侵してやろうと心に決めた。
「俺はピカチュウ一体で勝負してやる。」
「では僕は戦闘不能になったポケモンは入れ替えということで。」
頼むよと言ってヒビキはポケモンを繰り出す。対面のレッドもモンスターボールを取り出し、全国最強と言われているピカチュウを繰り出した。
「さあ。楽しい時間にしようじゃないか。」
レッドは今になって最強で伝説に相応しい不敵な笑みを浮かべた。
太陽がもうそろそろ登ろうとする時、グリーンは麓のコンビニにいた。月曜日の朝早くにその日発売される漫画週刊誌を立ち読みするのが常だった。そのついでに朝食のパンなりを買うのだ。店員は二人。とりとめのない話をしている。
「昨日の晩来た男の子、山に登って行ったんですよ。」
「えー? またあの伝説って噂のあの子に会いたいってくちかな。」
「あ。」
店員の片方がグリーンの存在に気付く。
「グリーン君。そんなとこでジャンプ読んでないでちょっと来てよ。」
「なんだよ。レッドのとこに挑戦者が行くのは今に始まったことじゃねえだろ。その直前に俺んとこに挑戦しにきたって順番になっているだけだし。」
店員はグリーンのあっさりした言葉にかなり鼻白んだ顔を見せた。
「冷たいなあ。同郷の幼馴染だろ?」
「あのなあ。俺は一地方のジムリーダーで、あいつはそれより上のチャンピオンなんだよ。」
店員はそのグリーンの言う差のせいでグリーンがレッドに対して少し僻み根性を見せているのではないかと勘繰った。
「だけどな。あいつはみんなのものであるチャンピオンなのかもしれねえが、俺にとっちゃ可愛い幼馴染でライバルなんだよ。」
「え? 可愛い?」
店員はグリーンの口から出た思わぬ言葉ににやにや仕出す。
「え? 可愛いだろ? あんたらも写真くらいは見たことあるだろ。」
「うん。確かに可愛いとは思う。」
グリーンは調子づいたようにへへんと笑う。それはライバル心からくる卑屈さの欠片ひとつ見当たらなかった。
「ちっさい頃は弟分みたいなもんでさ。あいつ無口で引っ込み思案だったから俺の後ろに隠れてたりしてさ。」
店員はこれは話が長くなると思い強制的に話を切り替えた。
「グリーン君。その可愛い君の幼馴染のとこに、今挑戦者が行っているはずなんだよ。」
「もしかしてジョウト出身のヒビキって奴かもな。慇懃無礼っていうくらい言葉使いが丁寧だったりしなかったか? ていうか、俺のとこに来た最新のトレーナーがそいつだったから特定出来ちまうんだけどよ。」
「うん。多分その子。そんでねグリーン君。ちょっと山に登ってどうなったか見に行ってくれないかな? 礼儀正しくて感じの良い子だったから気になるんだよ。」
「どうせコンビニはここしかないから、あいつここに寄ると思うぜ。そん時訊けよ。」
「反対側に降りられたらどうするんだよ!」
反対側に降りたらチャンピオンロードだろうがとグリーンは突っ込んだ。というか伝説との勝負に意気込んでいるヒビキに横やりを入れる真似はしたくなかった。
でもとグリーンは考え込む。三年前、自分を倒して幼馴染にちゃんとおめでとうと言っていなかったような気がする。あの当時はひたすら悔しかったり惨めだったりするマイナスな気持ちが先だって、きちんとライバルらしいことをしてやれなかった。
「あいつもしかして、山に引き籠ってるのって、俺のことで拗ねてるのかもしれない。っていうことはないよな。ないはずだよな。だけどあいつなかなか自分の気持ち出さずに溜め込むとこあるかなら。」
当たってはいないが遠からずなことを、三年経ってやっとグリーンは思い立った。それまでは本当にレッドは武者修行で強いトレーナーを待ち構えているものだと信じ込んでいた。そう思えばあの時見せた泣き顔の意味も、自分が思い込んでいたものと違うのかもしれない。
しかしなかなか足が動かない。
「グリーン君。ほら揚げたてのから揚げがあるから、これをレッド君に持って行ってあげなよ。ほら。ヒビキ君のもあるよ。」
早朝なのに店員はグリーンを急かすために普段はしないフライヤー作業を行っていた。
「けっ。どうせ頂上につくまでに冷めるもんだろうが。だけどあんたらの気持ちは届けねえとな。」
はーい。から揚げ二個パック五百円ですと店員は言う。なんと商売上手なことだ。グリーンはバッグにそれを詰める。
「そんじゃ行ってくるぜ。」
「ありがとうございました。またのお越しはレッド君やヒビキ君と一緒でお願いします。」
そうなるかはグリーン自身でもわからない。しかしなんだか自分が誘えばレッドは山を降りてきそうなかなと、鈍いくせに核心をついたことをグリーンはぼんやりと思った。
もうそろそろ時間は少し遅めの朝食か、早目の昼食かのブランチの時間になっていた。かと言ってレッドとヒビキが一緒にご飯を食べようと言っている場合ではなかった。
早朝から続いたバトルはまだ延々と続いていた。少しでもレッドと同じ空間にいたいというヒビキの願いは、五体のポケモンの回避技の技ポイントぎりぎりまで出させ、技ポイントが尽きた時点でピカチュウに止めを刺されるという繰り返しだった。五体目のポケモンが倒れ、あとはバクフーンを残すのみだった。
「お前、しぶとすぎるじゃねえか。こんな長丁場でバトルしたの俺初めてだぞ。」
「そっか。よかった。これであなたの記憶に敗者として残ったとしても恥ずかしくないですね。」
「恥ずかしいわ! 最低の往生際の悪い奴として記憶してやる。」
しかしながらバクフーンは回避技はほとんど覚えさせていない。
「レッドさん。ちょっと休憩して、僕この技マシンをこのバクフーンに……」
「見苦しいわっ。最後の一匹くらいちゃんと戦え。そして負けろ。」
レッドの言葉同様、レッドのピカチュウも相当頭にきているようだった。多分そのせいで攻撃力が何割か増しになっているかなとヒビキは思った。
「くっ。あなをほるを覚えさせておけばよかった。」
ヒビキははっとする。あなをほる。なんだかすごく卑猥に聞こえる。ヒビキはその考えに首を振った。
こんなことを考えている場合ではない。もう既に九割九分死んでいるのだ。
「バクフーン。僕はたぶん負ける。僕に乗り移っていた得体のしれない勝負運は通用しない。そして僕が負けることにより、レッドさんに掛かった呪いは、さらに彼をここに縛り付けてしまう。」
バクフーンはそんなの知らねえよと言わんばかりに背中の炎を燃やす。バクフーンはヒビキと違って目の前の敵を倒すこと以外に興味がなかった。それがカント―最強のピカチュウとなれば尚更だった。変に夢見がちな主人とは異なって、バクフーンは炎系の癖にクールだ。それ故に主人より真っ直ぐだった。ただ今まで主人の変な勝負運に助けられて勝ってきたのも確かだった。
だからもうそろそろそれを卒業しよう。勝っても負けてもそれは達成される。バクフーンにとってもこの一戦は所謂転機だった。
「バクフーン。かんえんほうしゃ。」
「ピカチュウ。殺れ。ボルテッカー。」
「あ……」
ヒビキの手が思わずバクフーンに伸びる。今までこんなことはなかった。こんなバトルに出て指示を出した自分の手持ちを引き止めたくなる衝動なんて。ああこれが負ける感覚なのかとヒビキは実感する。なんて心地いいんだろう。場違いな感情だが気持ちは軽かった。足元も地面の感触がなくなったようだ。
地面に倒れるバクフーン。しかしまだ勝負はついていない。バクフーンは地面に転がったがすぐに立ち上がる。それを見てピカチュウが笑った気がした。こいつなかなかやると。先の五匹のポケモンの茶番劇のあとだから余計に痛快なのかもしれない。
だけど次できっと終わる。ポケモン勝負に引き分けはない。自爆技に巻き込まない限りは。そしてレッドもヒビキも自爆技であわよくば巻き込んでしまおうというトレーナーではなかった。
「!」
ところがヒビキは思わずレッドから視線を逸らしてしまった。否、レッドの背後の彼方に目を奪われてしまった。
「おーい。レッド来たぞ。」
呑気に山の斜面を駆け上ってくるのは、この山に登ってくることはないだろうとレッドもヒビキも諦めきった人間だった。レッドは振り返って目を見張る。
「グリーン……」
人間もポケモンも目を奪われた。いつも二人の人間が三年間対峙し続けたこのシロガネ山に、三人目の人間が登ってきてしまった。
グリーンはきょとんとしている。
「あ。バトルの途中だったか。悪ぃ。」
レッドは呆然と立ったあと、ヒビキを見た。ヒビキは何も言わずに頷いた。レッドはグリーンに振り返る。もうこれでは勝負をするのも野暮だった。
やっとダンテが来てくれたのだ。
グリーンの下げているバッグから、コンビニのから揚げの匂いが漂っている。
「おい。ヒビキも腹減ってるんじゃないか?」
コンビニ袋を掲げてグリーンはなんてこともないように言う。まるで三年間会っていない事実がなかったかのように。普通の幼馴染が普通に遊びにきたように。
ヒビキは見た。レッドの切れ長の目から涙が零れ落ちているのを。なんて綺麗なんだと見惚れてしまった。そしてヒビキはバトルの土壇場でいつも自分がポケモン達に言っていたであろう言葉を思い出した。そしてそれをレッドに言った。
「大丈夫だよ。きっとなんとかなるから。」
レッドは頷く。そしてグリーンのほうに駆けだした。
「おい。レッド……。泣くほどじゃねえだろ。」
レッドの身体を受け止めてグリーンは困ったように笑う。自分を受け止めてくれたグリーンに安心したようにレッドはグリーンの背中に腕を回していた。
「まだ勝負ついてないんだったら、言えねえじゃねえか。タイトル防衛おめでとうって。まあいいか。あのな、俺もあのときは今でもだけどガキだったから、ちゃんとけじめつけられなくて、ごめん。」
「グリーンは悪くないっ……」
「いや。チャンピオンおめでとう。」
グリーンもレッドの背中に腕を回して優しく言った。
バクフーンは残念だったな言わんばかりにピカチュウに視線を送る。ピカチュウは発し続けていた殺気を引っ込めて愛らしく首を傾げる。バクフーンはやれやれとヒビキのもとに戻る。
ヒビキの耳にレッドの声が届く。でもそれはヒビキに送っているものではなかった。
「ずっと待ってた。」
あーあとヒビキは山を下っていく。グリーンはどうせヒビキの分のから揚げを買っているのだろうが、レッドと二人で食っていればいい。どうせレッドというベアトリーチェにとってのダンテはグリーンなのだから。ヒビキじゃないのだから。
「あーあ。半ば嫌な予感がしてたけど、やっぱりそうなるか。」
グリーンの出現により、とにかく勝つことを運命づけられた二人のトレーナーの勝負は宙に浮いてしまった。もうレッドを縛る呪いもその効力がなくなっているだろう。
ヒビキが下っている道は勿論チャンピオンロードに続いている道だった。レッドに勝ちはしなかったが、これから行く道は決まっている。
「さあバクフーン。ポケモンリーグをもう一回制覇したあと、今度はどこに行こうかな。世界にはまだ僕を待っているベアトリーチェがいるはずなんだから。」
ホウエンチャンピオンを放棄したダイゴ。
シンオウの異次元に囚われたアカギ。
イッシュの彷徨えるポケモンの子N。
なんだそれとバクフーンは目を丸くしているが、ベアトリーチェ幻想がこのトレーナーのモチベーションなら仕方ない。
「とりあえずまずホウエンだ。ダイゴさん待っててください。あなたのヒビキが今行きますから。」
いつか運命のトレーナーと一緒に故郷に帰る日は来るのだろうか?
ヒビキの旅はまだまだ続く。続くったら続くのだった。
なんかシリーズっぽくなりそうですが未定です。
あの人は僕を待っているわけじゃないけど、僕のような存在を待っていたと信じたい。じゃないとこの険しい山を登っている意味がない。まだ見ぬあの人のことを理解しているだなんて言うのは、なんとまあ傲慢なことだけど、これまでの道筋にあの人が落としてきた思いを僕は逐一拾い集めてきた。あの人の心の欠片を僕は集めてあの人に返そうと思う。もうすぐすべてのピースが組み合わさる。それこそが彼だと思う。
ヒビキはここに彼の人がいるのかとため息が出る。三年前にポケモントレーナーの世界に忽然と現れ、悪の組織を壊滅せしめて、チャンピオンの座についたと思いきや、それから先はこの山に閉じこもってしまった少年。
「三年前が今の僕と同い年だったから、生きていれば十四歳だよな。見た目も僕が知ってる感じじゃないかも。」
とはいえ、せっかくバッジを集めて会いに行くのだ。というか、会いに行く権利を手に入れるためにバッジを集めたのだ。
「だけどなあ。あの人に会ったっていう人たちの感想なりなんなりあるはずなんだけどね。この山って人間は立ち入り禁止ってわけじゃないし、三年間の間にも僕みたいなやつもいるだろうし。」
考えられるのは、その彼に会った誰も彼もが彼のことを語ろうとしないという可能性だろうか。
ヒビキも胸に秘めていることだが、レッドに会えたらまず一番に尊敬していることを伝え、対戦を申し込むだろう。勝っても負けてもそのあとに出る行動は決まっている。彼に地上に戻って欲しいと説得することだ。もし説得に失敗しても地上にいる顔馴染のトレーナーや彼の母親に彼の無事を伝えるべきであろう。
だが誰もそれをせずにいる。最悪を考えれば誰も口を噤んでしまうだろうが、それはあまりにも無責任というべきであろう。その最悪の事態があったとしても、少なくとも彼を連れ戻すことは出来るのだ。
「だから僕はあの人は生きていると考える。」
あの人のもとにはあの人が愛したピカチュウがいるはずだ。シロガネ山にて野性で生息していないはずのピカチュウが。そんな愛ポケを自分の道連れにすることは考え辛い。
そう考えている間にもヒビキは息をするように野性のポケモンを手持ちポケモンで追い払って山を登っていく。
息が白くなっていく。思うよりここは寒かった。氷の欠片が舞っていてどこか幻想的だが、人間が生きていくにはあまりにも寂しい世界が目の前にあった。何故こんなところに閉じこもってしまったのだろう。ヒビキは知っている限りのレッドを頭の中でこねくりまわしている。
無口で静かな少年。切れ長な目が時々帽子のつばで隠れている。そのくせバトルは強くて、悪しき大人を次々と返り討ちにしてきた。その時も一切無言だったという。白熱したバトルの最中にその澄んだ声はポケモンに指示を出すときのみ発せられ、勝利してもやはり無言だったという。
「あ。思った以上に排他的っぽいなあ。」
普通ならもっと血の気が多そうな情報もありそうなのに。むしろヒビキのイメージの中の彼はひたすらクールだ。
さてヒビキがこうやってイメージの中のレッドを膨らまして膨張させ続けているのは、憧れと尊敬もある。それと同時にまだ出会わない彼に恋心めいたものも感じていた。
常識的に考えて、妄想約九十パーセントそれでいて男に恋するなど、ヒビキ本人からしてみても自分が痛すぎる。だからヒビキはその痛々しい恋情になんらかの結論を出したかったのかもしれない。幼い頃の純粋な尊敬と憧れに立ち返りたかった。妄想過ぎて恋に陥ったのなら、現実を直視して目を覚ますしかない。
「だけど現物を見て決定的になったら、僕どうしよう。」
彼との状況を想像してみるに一対一のタイマンである。さらなる現実に直面するために告白はしたほうがいいのかもしれない。
『ずっとまだ見ぬあなたに憧れていました。そして、逢いまみえた今、僕の気持ちは決定的になりました。レッドさん。僕はあなたのことが好きです。レッドさんは僕より三つ年上。年上の人に憧れるのは男の通る道です。今あなたの目に映っている僕は、さぞや青臭くて子供っぽいくせに、やけに熱っぽい目をしているなあとお思いでしょう。それこそが僕の気持ちなのです。あなたを思うあまりに故郷を飛び出し、その地方のバッジを集めチャンピオンになり、あなたの君臨するこのカント―の地にまで訪れました。そこでもここに来るためにジムリーダーと勝負し続けてきました。そしてやっとここまで来ることが出来たのです。今から勝負をして下さい。あなたへの思いをこのバトルに全て捧げます。万に一つでもあなたに勝てたなら、あなたのその涼しい目を僕に向けて下さい。そして処女雪のようなその手を僕に差し伸べて「君みたいな人を待っていた」と言って下されば、とてつもない至福です。出来ることならこの寒々しいところから僕が地上に連れ出して差し上げたいです。僕の故郷はあなたの故郷であるマサラタウン同様、ど田舎の辺境ですが、負けず劣らずいいところでもあります。一緒に来てくれませんか? 僕のその……お嫁さんとして。』
一通り妄想を終えた後、こんなんだから妄想の相手に恋してしまうのだと自己嫌悪になってしまった。
ふと目の前が明るくなる。太陽がかなりくっきりと丸く見える。粒の細かい氷が舞っているせいであまり太陽が眩しく感じない。
掘立小屋が見える。窓からは明かりが漏れていた。曇っているガラスの向こうで何かの影が揺らいでいる。ヒビキの胸が高鳴った。 ヒビキはその小屋が廃墟でないと確信した。迷わず近づいてその小屋のドアを開けた。
「ごめんください! レッドさん。あなたのヒビキが会いにきました。」
ばんと音を立てられて開けられたドア。小屋の中にはヒビキの想像通りの年上の少年がいた。黒髪の切れ長の目。見るからに静かな佇まい。ヒビキを見る目は予定外の客を見る目で冷やかだった。
「……。なに?」
すべてが想像通りだった。しかしたった一つ想像外だったその少年は、ヒビキに対して澄んだ声で「なに?」と問いかけてくるが、それに対するヒビキの応酬は――。
「うわああああああああ!」
ヒビキの目の前のレッドは全裸で部屋の中に立っていた。小屋の中には本当にかすかな照明が灯っていた。反射的にヒビキはドアを閉めて全体重を全てドアにかけてへたれた。
「あ、あ、あ、あ、……はあ……はあ……服着てください!」
「いやだ。」
ドアの向こうで冷たい声が答えた。
「このままじゃ僕は小屋の中に入れません。お願いですから、服着て下さい。」
「入れないなら帰ればいいじゃないか。俺がお前を呼んだわけじゃないし。」
「それはそうですけど。」
予想以上に喋ってはくれたが発せられた言葉は拒絶ばかりで可愛げがない。せっかく可愛い声をしているのに勿体ないと思う。
「レッドさんで、いいんですよね。」
「ああ。俺がレッドだ。」
ドア越しに二人は会話を続ける。
「生きてたんですね。」
「勝手に殺すんじゃねえよ。」
「だってあなたに会ったっていう人の噂とか聞かないですもん。」
「あー…。前に何人か来たな。女の子は俺のこの姿見て失礼なことを口走りながら逃げて行ったし。野郎は全裸の俺とバトルしたあと肩を落としながら帰って行ったよ。ったく。自分の家で裸でいて何が悪いんだよ。」
「別の意味で噂にならなくて良かったですね。」
「別に噂になろうがなるまいが俺には関係ねえよ。」
澄んで綺麗な声が驚くほどの不躾で乱暴な言葉を紡ぎ続けている。ヒビキは意を決してもう一度ドアを開けた。
「なんだよ? 結局入ってくんじゃんかよ。」
「す、すみません。そうしないと全てが始まらないんです。それでもう一度お願いします。どうか、服を着て下さい。」
レッドの肌色が目に眩しすぎる。そしてあらぬところに目が行ってしまう。
「おい早く家の中に入るなら入るでドア閉めろよ。さみいじゃねえかよ。」
さみいじゃねえかよじゃねえんだよと、ヒビキはドアに手をやったまま閉めようとしない。
「服を着て下さらないと、ここは閉めません。寒いのは僕も一緒です。さあ、どこまで頑張りますかね。このままだとここの温度は外気と入れ替わってどんどん下がりますよ。
「ちっ。リザードンを出せる広さなら、こんなちんけな奴の脅しには屈さねえのに。わかったよ。着たらいいんだろ着たら。」
「ありがとうございます。」
それでもヒビキはレッドが服に手を伸ばすまでドアを閉めなかった。レッドはそのしなやかな肢体をやっと服で隠してくれた。サービスのつもりかトレードマークのキャップまで被り、設定どおりの姿になった。
「この山に来てから俺に服を着せたのはお前が初めてだぜ。」
「普通は逆の行為のことで言う言葉ですよね。」
「こんな環境だから茶すら出さねえけど、そこ座れ。そんで人の家に文字通り土足で踏み込んだんだから、要件ぐらいとっとと話せ。」
ヒビキは言われた通りレッドが指差した床に正座する。
「僕はジョウトから来ましたヒビキと言います。カント―まで来たのは、その……あなたに憧れて。会いにきたわけです。あなたがずっとシロガネ山に閉じこもっていると聞いたので。」
「ふーん。じゃあそれなりにバトルは強いわけだな。そんで会いに来た目的はやっぱりバトルか?」
「それもあります。」
レッドは興味なさそうに床に布を敷いただけのところに横向きに寝そべった。
「俺のピカチュウとかに勝てるつもりかよ。」
「勝つ自信があるとは言ってません。」
「そんならお前のポケモンが可哀そうになるからやめとけ。」
実もふたもない言葉だった。想像を裏切ってかなりエキセントリックかつ浮世離れした性格らしい。身にまとった哀愁だと思っていた憂いの姿は、ただのふてぶてしさに変わっていた。
「あのさあ、お前は勘違いしてるみたいだけど。お前のポケモンが弱いから可哀そうなんじゃなくて、勝つ確信もない癖にあわよくば勝てたらいいなあっていう心づもりで、強敵だとわかってるやつと戦わす根性が駄目なわけ。トレーナーに勝てるって見込みがない戦いに自分の手持ちを巻き込むな。馬鹿。」
「いや。それは精神論でしょ。何のデータもない相手に確実に勝つなんて出来るわけないでしょ。」
「データがないなら、データを無視しても勝てるように育てとけ。」
「それまで待ちきれなかったから、先に来てしまったんですよ。」
「待ちきれなかった? なんだそれ?」
ヒビキにしてみればあわよくば勝つとは別に、あわよくば嫁にして故郷に帰るという妄想が前提の邂逅だった。
「僕はあなたに逢うために、血がにじむような思いをしてきたんです。」
「血がにじむような思いをしてきてまで弱かったら、それこそ俺の中でヒビキっていうトレーナーはビッグマウスの情けない奴と永遠に記憶されるぞ。」
「永遠に記憶されちゃうんですか! 忘れてくれないんですか!」
「ああ。俺は負かせた奴のことは全部覚えてるから。寝る前にそいつらのことを思い返すとよく眠れるんだ。」
過去の敗者の数はこのチャンピオンにとっては羊と同じらしい。
「なあ? それは嫌だろう。ていうか俺に会いに来たんならあるよな?」
「なにかって?」
レッドは焦れたように手をヒビキの前に出した。
「こんなとこに籠ってんだから、飢えてるにきまってるだろ。タンパク質とか炭水化物とか脂質に。」
「え? え?」
ヒビキは慌てて背負ったリュックを下し中を物色する。
「あ、あの。こんなもので良かったら。」
「焼き鳥とあんドーナツか。」
「麓のコンビニで買ってたものなんです。駄目ですか。」
レッドは不遜な態度のままあんドーナツの袋を開け、一口かぶりついた。
「お前これセブンで買ってきただろ。俺はローソン派なんだ。」
「僕どうしてもセブンのそれが好きで、見かけると買ってしまうんですよ。」
「まあいいけど。」
クールな言葉は変わらないが目は明らかに嬉しそうだった。ヒビキの胸がきゅんとする。
頬を膨らませてレッドはあんドーナツにむしゃぶりついている。唇についた粉砂糖もピンクの舌が舐めとっている。
ドーナツを食べたあとに焼き鳥に食いつくレッドを見てヒビキは、しまったフランクフルトかアメリカンドッグにするべきだったと後悔した。
「うまいなあ。久しぶりの肉と菓子パンだったぜ。」
「シロガネ山ってなんだかんだで地元にも近いんですから、一回くらいは降りてきても。お母さんや博士、グリーンさんも心配してましたよ。」
指についたタレを舐めていたレッドがぴくっと身体を震わせる。
「お前が言った最後のやつ、逢ったことあるのかよ。」
「けっこう絡まれました。今じゃジムリーダーやってて、勝負したこともあります。」
顧みたレッドの串を持つ手がわずかに震えている。
「どうかしましたか?」
「なんでもねえよ!」
レッドは竹の串を石の床に突き立てた。真っ直ぐつき立っているそれをヒビキは呆然と眺める。
グリーンという名前にやけに反応するレッドに嫌な予感が胸をよぎる。シロガネ山はチャンピオンロードに近い位置にある。それはグリーンがジムリーダーを担っているトキワシティにも近いということだ。グリーンは三年間レッドの顔を見ていないという。不自然過ぎる状況は、二人が拮抗した実力者同士というある種のファンタジーで塗り隠されていた。ただのライバル同士ならばそこまで疎遠になる理由はないと思われる。ただのライバルでないなら、何故、そんな近くて遠い距離を維持してきたのだろう。原因は主にレッドにあるような気がする。それを増長させてしまったのがグリーンだとどうしてか想像してしまうヒビキだった。
ヒビキはグリーンとの対戦を思い出す。本当におぼろげながら思い出す。
彼は確かに強かった。ジムリーダーとしては異例の、タイプを定めていないスタイルであることを差し引いても、かなり苦戦させられた。
しかしそれはヒビキのジムリーダー戦においてはいつものことで、バトルの終盤相手が既に勝ったと、どや顔を浮かべる寸前に豹変するのがヒビキだった。それまで蹂躙される処女のごとくだったバトル展開が、ある一点を境に劇的に流れが変わる。手持ちのポケモンの体力は真っ赤っか。相手のポケモンはここぞとばかりに勝負を決めにかかってくる。そのときヒビキの指示がポケモンに飛ぶのである。
『――。――。――!』
バトルの記憶が曖昧になりやすいヒビキだが、ある種のトランス状態になってから勝つのでしょうがないと自分でも思っていた。だからあれだけ追い付きたいと願っていたレッドにも、勝てる自信があるなんて最初から言えないのだ。
そして気が付けば何故か勝っている。それを毎回繰り返しているから、勝てる見込みよりも先にレッドに会いに来てしまった。レッドにはしおらしくデータ云々と反論したが、まるでデータを必要としないで勝利してきたのがヒビキだった。何物かの見えざる力がけしてヒビキを負けさせてくれない。
負けてしまう悪夢は何度も見たことがある。だけど正夢になりえる悪夢はけして現実になることはなかった。
確かにレッドの言うようにポケモンが可哀そうになるような話だ。それ以上に勝ってきた相手にも失礼千万もいいところである。ましてやこのような告白は、寝る前に一人一人のトレーナー達を思い出しているようなレッドにはけして話せない。
全てを記憶しているレッドと、全てを忘却しているヒビキ。どちらが人としてまっとうなのかは、言うまでもない。
グリーンはと言えば、相手によっては忘れてしまっても、大事なことは忘れない人間だった。とにかくライバルだと思ってたレッドのことは逐一覚えていた。だからヒビキはグリーンの口頭での情報を自分の妄想のレッドに組み込んだ。
『あいつが俺がチャンピオンになったそばから勝ち逃げしていきやがってよお。』
『俺に勝って泣いてたよな。よっぽど嬉しかったんだろうぜ。まあ、それが俺とあいつの決着だよ。』
ヒビキはその言葉を聞いたとき、グリーンに勝ったときレッドが流した涙の意味は、喜びだったのかと首を捻っていた。
正直グリーンに嫉妬したことは覚えてる。グリーンにとってレッドは妄想でも幻想でも伝説でもなく、れっきとした現実だった。
でも嫉妬してもしょうがないことだった。
「レッドさん。」
「いいよな。お前は。グリーンに構ってもらってさ。お前みたいに見た目素直そうで年下の色々世話を焼きたくなる奴には、少し甘いのかな。どうせどうせ俺は、見た目暗いし、口下手だし。変に博士に気に入られて余計に対抗心ばかり燃やさせただけだし。いつもタイミング悪いんだよ。なんで博士があいつのお祝いに来る直前に、なんであいつに勝ったんだろ? いや。勝つ気なんてなかった。もうほんとにこれ以上あいつに疎まれるくらいなら、負ける気でいたんだ。」
やはりレッドはグリーン勝って嬉しいなど微塵も思っていなかった。却って悲しくて泣いていたのだ。
「レッドさん! あなたわざと負けようとしたんですか? それこそグリーンさんを侮辱してますよ。」
月並みだがヒビキは自分の想像のレッドとは思えない一言に、窘めるような口を挟んでしまった。レッドはグリーンに勝った日に浮かべたであろう表情をヒビキに見せている。
「だって……だって……。」
レッドは俯いて声を震わせる。
「レッドさん……」
口が滑ったあとにヒビキは気が付いた。この人もある意味、ヒビキと同様に運命的に負けが許されない人だったのかもしれないと。勝たなければ時間が進まない、自分の意志を超越したところで、そういうルールで動かされてきたのではないかと。
「負けようとしたのに、負けられなかったんですね。レッドさんは。」
「俺は呪われているんだ。夢の中では俺が負けていたんだ。だけど結局俺はあいつに勝ってしまって、俺はその呪いと共にここに閉じこもることにした。そしたら三年前のあの日とは逆に、グリーンが俺を倒しに来てくれるかなって思ったんだけど。」
しかし三年間の現実は二人は隔てられたまま。グリーンはレッドがシロガネ山に閉じこもったことを、孤高で崇高な意志だと勘違いし続けている。レッドのことをわかったような顔をして、あいつは頂点の座に驕ることのない奴だと、皮肉で隠して賞賛していた。こんなにもグリーンを待ち侘びるレッドの気持ちも知らずに。
「あなたの期待どおりにはならなかった。皮肉なことにグリーンさんは、グリーンさん以外の人があなたに逢うための通行証の裁定者に定められてしまった。いや自らがそうなったんでしょう。彼はもうあなたに負けているから、これ以上あなたとバトルする気はない。そして三年前のあなた同様、グリーンさんを負かせた者があなたとバトルするに相応しいと、そういう役目を勝手にあなたの意志を無視して決めた。」
「やっぱり俺の顔なんか見たくないんだ。」
レッドは遠い目をしていた。ヒビキは慰めのつもりも含めて否定する。
「いや。そうじゃないでしょ。あなたのことを認めているからこそ、彼はその役目を自分に課したんでしょ。」
「そんなの俺頼んでないし!」
レッドが駄々をこね始める。ヒビキはこのシチュエーションといい、自分が望んでいた姿を、この現状に照らし合わせてあるたとえ話が頭に浮かんだ。
「本当はあの人こそダンテにならなくちゃいけないんですよね。」
ヒビキにとっての自己投影がその物語の主人公だった。残念ながらレッドにとってのその役はヒビキじゃない。
「ダンテってなにそれ?」
「えっと…」
ヒビキは噛み砕いて説明した。
「ふうん。じゃあ俺はベアトリーチェっていう、初恋の相手にして煉獄の山の頂上にいるヒロインなんだな。ちょうど俺も山にいるのが皮肉だぜ。」
ヒビキは心の中で、だから僕は自分をダンテになぞらえてここまで来たんですと言いたかった。そしていつも恋焦がれていたベアトリーチェはあなたなんですと告白したかった。
「そうか。ダンテっていうのは、ベアトリーチェを倒す刺客を送ってくる奴のことか。」
自分の立場とベアトリーチェが合致していることをいいことに、レッドはとんでもないところでも彼女と重ね合わせようとしていた。
「違います。今の僕の立場がダンテなんです。ここではっきりさせときましょうよ。グリーンさんの意図がどうであれ、僕がグリーンさんを倒したのはあなたに逢いにいくためだったんです。グリーンさんはその単純さゆえに、あなたとバトルをするに相応しい人間イコールダンテをあなたのもとに送り込んで、三年間ずっとあなたをあのグリーンさんとのバトルに立ち返らせ続けた。それは彼のあなたへのまだ続いている好意の証明になるのではないかと僕は思うのです。」
しかしながらヒビキの想像は、グリーンが本当の意味で何の気無しでやっていたのなら、空しいもいいところである。しかしレッドを元気づける仮説は、ヒビキには今これしかない。
「つまり俺はあいつなりの気持ちを無下にし続けたようなもんだと? ……あいつがダンテになってくれりゃあ、それですぐに解決したのに!」
「だからあ、もう既にあの人はあなたに負けているから。」
「ああもう! これだからあいつはっ。」
レッドは存外ピーキーだった。それでもネガティブに落ち込み続けるよりはマシな状況になったと思う。普段が無口なせいなのと、三年間の鬱憤で感情を爆発させるしかなかったのだろう。ヒビキが来て、たとえ話で気持ちを整理してやっと吐き出せた気持ちなのだろう。
「レッドさん。僕もあなたと勝負しないわけにもいかないんです。僕の気持ちとしても。」
ヒビキがこの小屋のドアをくぐって一時間あまりの時間は経っていた。まだお互いを分かり合うには短すぎる時間。それ以前の問題だろうという時間である。しかしヒビキの言葉は何故かレッドの心を揺さぶっていた。まるでディグダのじしん攻撃のように。
「ふっ。ちょっと考えてみたら今日いきなり飛び込んできたお前の言葉に、なんで俺はこんなに乗せられているんだろうな。だけどこの動揺は収まらないんだ。」
「僕も最早あなたのことを他人だと思えません。」
「それは言い過ぎだ。俺とお前は赤の他人だ。だけどバトルだけはしてやるぜ。」
外に出ろと言われてヒビキはレッドに伴われるままに外に出た。レッドのことを他人だと思えないという言葉をきっぱりと否定されたヒビキだったが、このバトルでいい勝負をすれば(勝つだなんて恐れ多くて言えない)、レッドの心の少しの領域でも自分が浸食出来ると考えてみた。そしてその領域を拠点にグリーンに囚われているレッドの心の領域を侵してやろうと心に決めた。
「俺はピカチュウ一体で勝負してやる。」
「では僕は戦闘不能になったポケモンは入れ替えということで。」
頼むよと言ってヒビキはポケモンを繰り出す。対面のレッドもモンスターボールを取り出し、全国最強と言われているピカチュウを繰り出した。
「さあ。楽しい時間にしようじゃないか。」
レッドは今になって最強で伝説に相応しい不敵な笑みを浮かべた。
- * *
太陽がもうそろそろ登ろうとする時、グリーンは麓のコンビニにいた。月曜日の朝早くにその日発売される漫画週刊誌を立ち読みするのが常だった。そのついでに朝食のパンなりを買うのだ。店員は二人。とりとめのない話をしている。
「昨日の晩来た男の子、山に登って行ったんですよ。」
「えー? またあの伝説って噂のあの子に会いたいってくちかな。」
「あ。」
店員の片方がグリーンの存在に気付く。
「グリーン君。そんなとこでジャンプ読んでないでちょっと来てよ。」
「なんだよ。レッドのとこに挑戦者が行くのは今に始まったことじゃねえだろ。その直前に俺んとこに挑戦しにきたって順番になっているだけだし。」
店員はグリーンのあっさりした言葉にかなり鼻白んだ顔を見せた。
「冷たいなあ。同郷の幼馴染だろ?」
「あのなあ。俺は一地方のジムリーダーで、あいつはそれより上のチャンピオンなんだよ。」
店員はそのグリーンの言う差のせいでグリーンがレッドに対して少し僻み根性を見せているのではないかと勘繰った。
「だけどな。あいつはみんなのものであるチャンピオンなのかもしれねえが、俺にとっちゃ可愛い幼馴染でライバルなんだよ。」
「え? 可愛い?」
店員はグリーンの口から出た思わぬ言葉ににやにや仕出す。
「え? 可愛いだろ? あんたらも写真くらいは見たことあるだろ。」
「うん。確かに可愛いとは思う。」
グリーンは調子づいたようにへへんと笑う。それはライバル心からくる卑屈さの欠片ひとつ見当たらなかった。
「ちっさい頃は弟分みたいなもんでさ。あいつ無口で引っ込み思案だったから俺の後ろに隠れてたりしてさ。」
店員はこれは話が長くなると思い強制的に話を切り替えた。
「グリーン君。その可愛い君の幼馴染のとこに、今挑戦者が行っているはずなんだよ。」
「もしかしてジョウト出身のヒビキって奴かもな。慇懃無礼っていうくらい言葉使いが丁寧だったりしなかったか? ていうか、俺のとこに来た最新のトレーナーがそいつだったから特定出来ちまうんだけどよ。」
「うん。多分その子。そんでねグリーン君。ちょっと山に登ってどうなったか見に行ってくれないかな? 礼儀正しくて感じの良い子だったから気になるんだよ。」
「どうせコンビニはここしかないから、あいつここに寄ると思うぜ。そん時訊けよ。」
「反対側に降りられたらどうするんだよ!」
反対側に降りたらチャンピオンロードだろうがとグリーンは突っ込んだ。というか伝説との勝負に意気込んでいるヒビキに横やりを入れる真似はしたくなかった。
でもとグリーンは考え込む。三年前、自分を倒して幼馴染にちゃんとおめでとうと言っていなかったような気がする。あの当時はひたすら悔しかったり惨めだったりするマイナスな気持ちが先だって、きちんとライバルらしいことをしてやれなかった。
「あいつもしかして、山に引き籠ってるのって、俺のことで拗ねてるのかもしれない。っていうことはないよな。ないはずだよな。だけどあいつなかなか自分の気持ち出さずに溜め込むとこあるかなら。」
当たってはいないが遠からずなことを、三年経ってやっとグリーンは思い立った。それまでは本当にレッドは武者修行で強いトレーナーを待ち構えているものだと信じ込んでいた。そう思えばあの時見せた泣き顔の意味も、自分が思い込んでいたものと違うのかもしれない。
しかしなかなか足が動かない。
「グリーン君。ほら揚げたてのから揚げがあるから、これをレッド君に持って行ってあげなよ。ほら。ヒビキ君のもあるよ。」
早朝なのに店員はグリーンを急かすために普段はしないフライヤー作業を行っていた。
「けっ。どうせ頂上につくまでに冷めるもんだろうが。だけどあんたらの気持ちは届けねえとな。」
はーい。から揚げ二個パック五百円ですと店員は言う。なんと商売上手なことだ。グリーンはバッグにそれを詰める。
「そんじゃ行ってくるぜ。」
「ありがとうございました。またのお越しはレッド君やヒビキ君と一緒でお願いします。」
そうなるかはグリーン自身でもわからない。しかしなんだか自分が誘えばレッドは山を降りてきそうなかなと、鈍いくせに核心をついたことをグリーンはぼんやりと思った。
- * *
もうそろそろ時間は少し遅めの朝食か、早目の昼食かのブランチの時間になっていた。かと言ってレッドとヒビキが一緒にご飯を食べようと言っている場合ではなかった。
早朝から続いたバトルはまだ延々と続いていた。少しでもレッドと同じ空間にいたいというヒビキの願いは、五体のポケモンの回避技の技ポイントぎりぎりまで出させ、技ポイントが尽きた時点でピカチュウに止めを刺されるという繰り返しだった。五体目のポケモンが倒れ、あとはバクフーンを残すのみだった。
「お前、しぶとすぎるじゃねえか。こんな長丁場でバトルしたの俺初めてだぞ。」
「そっか。よかった。これであなたの記憶に敗者として残ったとしても恥ずかしくないですね。」
「恥ずかしいわ! 最低の往生際の悪い奴として記憶してやる。」
しかしながらバクフーンは回避技はほとんど覚えさせていない。
「レッドさん。ちょっと休憩して、僕この技マシンをこのバクフーンに……」
「見苦しいわっ。最後の一匹くらいちゃんと戦え。そして負けろ。」
レッドの言葉同様、レッドのピカチュウも相当頭にきているようだった。多分そのせいで攻撃力が何割か増しになっているかなとヒビキは思った。
「くっ。あなをほるを覚えさせておけばよかった。」
ヒビキははっとする。あなをほる。なんだかすごく卑猥に聞こえる。ヒビキはその考えに首を振った。
こんなことを考えている場合ではない。もう既に九割九分死んでいるのだ。
「バクフーン。僕はたぶん負ける。僕に乗り移っていた得体のしれない勝負運は通用しない。そして僕が負けることにより、レッドさんに掛かった呪いは、さらに彼をここに縛り付けてしまう。」
バクフーンはそんなの知らねえよと言わんばかりに背中の炎を燃やす。バクフーンはヒビキと違って目の前の敵を倒すこと以外に興味がなかった。それがカント―最強のピカチュウとなれば尚更だった。変に夢見がちな主人とは異なって、バクフーンは炎系の癖にクールだ。それ故に主人より真っ直ぐだった。ただ今まで主人の変な勝負運に助けられて勝ってきたのも確かだった。
だからもうそろそろそれを卒業しよう。勝っても負けてもそれは達成される。バクフーンにとってもこの一戦は所謂転機だった。
「バクフーン。かんえんほうしゃ。」
「ピカチュウ。殺れ。ボルテッカー。」
「あ……」
ヒビキの手が思わずバクフーンに伸びる。今までこんなことはなかった。こんなバトルに出て指示を出した自分の手持ちを引き止めたくなる衝動なんて。ああこれが負ける感覚なのかとヒビキは実感する。なんて心地いいんだろう。場違いな感情だが気持ちは軽かった。足元も地面の感触がなくなったようだ。
地面に倒れるバクフーン。しかしまだ勝負はついていない。バクフーンは地面に転がったがすぐに立ち上がる。それを見てピカチュウが笑った気がした。こいつなかなかやると。先の五匹のポケモンの茶番劇のあとだから余計に痛快なのかもしれない。
だけど次できっと終わる。ポケモン勝負に引き分けはない。自爆技に巻き込まない限りは。そしてレッドもヒビキも自爆技であわよくば巻き込んでしまおうというトレーナーではなかった。
「!」
ところがヒビキは思わずレッドから視線を逸らしてしまった。否、レッドの背後の彼方に目を奪われてしまった。
「おーい。レッド来たぞ。」
呑気に山の斜面を駆け上ってくるのは、この山に登ってくることはないだろうとレッドもヒビキも諦めきった人間だった。レッドは振り返って目を見張る。
「グリーン……」
人間もポケモンも目を奪われた。いつも二人の人間が三年間対峙し続けたこのシロガネ山に、三人目の人間が登ってきてしまった。
グリーンはきょとんとしている。
「あ。バトルの途中だったか。悪ぃ。」
レッドは呆然と立ったあと、ヒビキを見た。ヒビキは何も言わずに頷いた。レッドはグリーンに振り返る。もうこれでは勝負をするのも野暮だった。
やっとダンテが来てくれたのだ。
グリーンの下げているバッグから、コンビニのから揚げの匂いが漂っている。
「おい。ヒビキも腹減ってるんじゃないか?」
コンビニ袋を掲げてグリーンはなんてこともないように言う。まるで三年間会っていない事実がなかったかのように。普通の幼馴染が普通に遊びにきたように。
ヒビキは見た。レッドの切れ長の目から涙が零れ落ちているのを。なんて綺麗なんだと見惚れてしまった。そしてヒビキはバトルの土壇場でいつも自分がポケモン達に言っていたであろう言葉を思い出した。そしてそれをレッドに言った。
「大丈夫だよ。きっとなんとかなるから。」
レッドは頷く。そしてグリーンのほうに駆けだした。
「おい。レッド……。泣くほどじゃねえだろ。」
レッドの身体を受け止めてグリーンは困ったように笑う。自分を受け止めてくれたグリーンに安心したようにレッドはグリーンの背中に腕を回していた。
「まだ勝負ついてないんだったら、言えねえじゃねえか。タイトル防衛おめでとうって。まあいいか。あのな、俺もあのときは今でもだけどガキだったから、ちゃんとけじめつけられなくて、ごめん。」
「グリーンは悪くないっ……」
「いや。チャンピオンおめでとう。」
グリーンもレッドの背中に腕を回して優しく言った。
バクフーンは残念だったな言わんばかりにピカチュウに視線を送る。ピカチュウは発し続けていた殺気を引っ込めて愛らしく首を傾げる。バクフーンはやれやれとヒビキのもとに戻る。
ヒビキの耳にレッドの声が届く。でもそれはヒビキに送っているものではなかった。
「ずっと待ってた。」
あーあとヒビキは山を下っていく。グリーンはどうせヒビキの分のから揚げを買っているのだろうが、レッドと二人で食っていればいい。どうせレッドというベアトリーチェにとってのダンテはグリーンなのだから。ヒビキじゃないのだから。
「あーあ。半ば嫌な予感がしてたけど、やっぱりそうなるか。」
グリーンの出現により、とにかく勝つことを運命づけられた二人のトレーナーの勝負は宙に浮いてしまった。もうレッドを縛る呪いもその効力がなくなっているだろう。
ヒビキが下っている道は勿論チャンピオンロードに続いている道だった。レッドに勝ちはしなかったが、これから行く道は決まっている。
「さあバクフーン。ポケモンリーグをもう一回制覇したあと、今度はどこに行こうかな。世界にはまだ僕を待っているベアトリーチェがいるはずなんだから。」
ホウエンチャンピオンを放棄したダイゴ。
シンオウの異次元に囚われたアカギ。
イッシュの彷徨えるポケモンの子N。
なんだそれとバクフーンは目を丸くしているが、ベアトリーチェ幻想がこのトレーナーのモチベーションなら仕方ない。
「とりあえずまずホウエンだ。ダイゴさん待っててください。あなたのヒビキが今行きますから。」
いつか運命のトレーナーと一緒に故郷に帰る日は来るのだろうか?
ヒビキの旅はまだまだ続く。続くったら続くのだった。
なんかシリーズっぽくなりそうですが未定です。
☆「ポケモンデイズ③」後編 主♂N
シッポウシティのメインストリート。金髪碧眼、メガネの白衣がアタッシュケースを片手に歩いていた。何か考え事をしながら歩いているようだが、それを裏付けるようににたにたと笑ったり反対に眉間に皺を寄せたりしている。街をいく通行人のほとんどが今を起点にして少し前のこととか少し未来のことを考えているというのに、その男は途方もない未来のことを考えていた。そんな途方のない男は名前をアクロマと言った。
「情報によればこの辺りでしょう。」
男は今考えていることを中止して、彼にとっては比較的近い未来の為の行動に戻ることにした。メインストリートの真ん中に黒山の人だかりが出来ている。中央には何かが行われているはずなのに、アクロマはゆっくりと近づいて人だかりの最後尾で聞こえてくる音だけをキャッチしていた。
「ねえちゃん。ぼくのとっておきいくよ。」
「負けないわよ。」
幼すぎる幼稚園児の声とキンと響く若い娘の声が聞こえてくる。そしてギャラリーの歓声が響いた。
「エンブオーかえんほうしゃ!」
アクロマの前の観客が呟く。
「園児のポケモン相手にかえんほうしゃかよ。容赦ねえ。っぱねえ。」
アクロマも同じような感想を抱く。どうやらここでかなり年齢差のある二人がポケモンバトルでいい勝負をしているらしい。
「ああ! 外れたあ!」
ギャルの悲鳴が起こると同時に呆れたような観客の嘆息が聞こえてくる。
「あー、やっぱり外れたな。」
「まあ。いつものことだよ。元才媛テイストのトウコちゃんのお約束だよね。」
アクロマはふむと頷く。元才媛テイストとマッドサイエンティストはなんとなく語感が似ていると。
そして園児の声が響く。
「ヨーテリーたいあたり!」
ポケモンの気合いを入れた雄叫びと悲鳴のような声が交錯する。
「急所にいったあ!」
トウコのポケモンは後ろに引っくり返りなかなか起き上がれそうにない。そしてまだ勝負がついていない。
「エンブオー、えっと……」
「ヨーテリーたいあたりもう一回!」
「また急所に当たった? みがわりで耐えてっ。ああ!」
「上手く決まらなかったぞ!」
ああこりゃトウコは幼稚園児に負けるとアクロマは悟る。さっきからの音声情報でここで行われているポケモンバトル(女子トレーナートウコVS幼稚園児)は、トウコは幼稚園児に負けてしまったらしい。最後の最後で決め技が全て外れ、回避技はうまく決まらず、敵の攻撃は全て急所に当たってしまったようだ。
「トウコ! エンブオー! また次があるぞ!」
トウコは泣きながらストリートの土を袋に詰めていた。
「また帰ってくるからここに! みんなあ。待っててねっ。」
うおおおおお!
観客は叫ぶ。称えられるのは敗者だった。
アクロマは上空を見上げるとティッシュに包まれた何かがトウコに向かって飛んでいく。
「ポケモンバトルでおひねりですか。他では見られないんでしょうね。」
アクロマはおひねりは投げない。代わりにアタッシュケースの中から何かの包みを取り出した。
トウコはにこにこしながらおひねりをかき集め去っていく観客たちに手を振っている。そしてその半分を幼稚園児に渡した。
「ねえちゃん。ぼろいしょうばいしてるね。」
「商売じゃないわよ。みんなの善意よ。駄目な子ほど可愛いっていうでしょ。」
園児もそうだねと言いながらトウコが差出した賞金をトウコに返した。
「おれもねえちゃんをおうえんするぜ。」
「ありがとう。」
互いに手を振りながら去っていく園児を見届けたあとトウコはエンブオーに駆け寄る。
「今日もダメだったね。」
「ブオ。」
本当はわざと負けているんじゃないかと思われる負け方を毎回しているのだが、トウコとエンブオーはあくまで本気のバトルだった。いいところまでいくのに最後の最後で全て技を外し、敵の攻撃は急所に当たってしまう。いくらエンブオーがレベルが高いとはいっても、技が決まらなければ意味がない。そして急所に決まったダメージは確実に大幅に体力を削ってしまう。ヨーテリーの初歩的な技である体当たりですらだ。
「エンブオー。それでも応援してもらえるのはいいよね。」
「……」
エンブオーはそれには頷けなかった。へぼでもいつも本気で頑張っているからトウコは応援の上にお捻りさえももらえる。みんないつかトウコに勝って欲しいと思っている。明日に希望を持って生きているのが人間だから。それを目の前で見せてくれるトウコに、お捻りの形で投資してくれているのだろう。トウコが今までトレーナーを続けられたのは、そんな行きずりの人々の支援があったからなのだ。
だからエンブオーは思うのだ。自分が勝てるポケモンであれば、自分がそれをトウコにあげられる。勝利を成しえない自分が嫌いだ。何故かわからないけれど、バトルのある瞬間から身体にどろどろに溶けた鉛が身体じゅうに流れ込んで冷えて固まって動けなくなるような感覚に襲われてしまうのだ。そんな感覚を誰にも、トウコにさえも伝えられずに自分はトレーナー戦では毎回負けてしまう。
今、トウコの手持ちのポケモンはエンブオーたった一匹だ。定期的にトウコも炎タイプに偏るけれどポケモンをゲットするのだが、そのほのポケたちは自分からトウコやエンブオーの前から去ってしまうのだ。今までのエンブオーを除くポケモンたち全部がいなくなってしまった。
エンブオーは空を見てあいつらはどうしているのかと物思いに耽る。ロコン。ダルマッカ。ヒトモシ。メラルバ。お前らがいてくれたら、もしかしたら勝ててるかもしれない。みんな後ろめたいようにトウコやエンブオーに何も告げず出て行ってしまった。トウコのことは好きなのにやはり色々と不遇な状況が我慢出来なかったのだろうか。
トウコはどっこらしょとエンブオーに肩を貸してポケモンセンターに行こうねと声を掛ける。こんなふうに気楽に構えているトレーナーは他にはいないだろう。大抵モンスターボールにすぐに戻してそのあとポケモンセンターに連れて行くのが常識なのだから。でもトウコはいつもエンブオーに肩を貸すのだった。
「ちょっと待ちなさい。」
トウコとエンブオーの行く手に金髪碧眼眼鏡で白衣のアタッシュケース持ちの男が立ちはだかった。
「先ほどのポケモンバトル、十分堪能させて頂きましたよ。そしてこれがその私の感謝の気持ちの手作り弁当です。」
あらと言うようなトウコとは裏腹にエンブオーは激しくひいていた。この男とは当然ながら初対面である。お捻りを投げてくるようなトウコファンは幾らでもいるが、弁当を持参してきたのはこの男が始めてだ。白衣姿と手作り弁当のミスマッチさ加減がエンブオーに自分の主を連れて今すぐ逃げろと告げているようだった。
「ありがとうございます!」
しかしトウコは平然とその弁当を受け取った。
「ブオー!」
ファンを装った近頃よく聞く悪の組織だったりしたらどうするつもりかとエンブオーはトウコに抗議をしている。しかしトウコはいそいそと弁当箱を開け、アクロマが差出す箸を渡されるままに弁当をはぐはぐと喰った。
「お口に合いますか?」
アクロマがいじらしいことを言ってきた。エンブオーは薬か何かを盛られてないかと心配しながら、トウコに何か起こったとき対処できる構えでいる。
「美味だわ。このお弁当には人の情けという特別な味付けがされている。原子レベルまで噛みしめれば噛みしめるほど、それまでに起こった化学反応に感動してしまうわ。食によって人は享楽する。そしてそれは作る喜び、食べる喜び、そして食べさせてあげる喜び。私はその喜びごと頂いているのだわ。」
アクロマは嬉しそうにしていた。
「貴女の噂を聞き、貴女に一目会うために私は貴女の行方を捜していたのです。三日前からこの弁当を携えて。」
三日前と聞いてエンブオーは思わずトウコから弁当を取り上げた。
「心配しないでください。この弁当箱は科学の粋を集めた、中身が絶対に腐らない弁当箱なのですから。ちなみに私が開発しました。」
「魔法の弁当箱なのね。」
「いえ科学の弁当箱なのです。」
そんなことあり得るかとエンブオーは地団駄を踏んでいる。しかしトウコは気にせず食べようとしている。本当になんともないらしい。
「貴女のエンブオーは少し考えすぎるきらいがありますね。科学は万能なんですよ。科学者は魔法使いとは違うんです。」
「でも私にとってはどちらも凄い人だけど。」
「一緒くたにされてもいいんです。貴女に認めて貰えるのなら。」
エンブオーは話についていけないのだが、トウコはひたすら弁当を喰っている。
弁当箱が空になったところでエンブオーはこれ以上関わり合いになりたくなくて、トウコの両肩を持って回れ右させる。
「おべんとありがとー。」
トウコも食べるだけ食べるとあっさりとエンブオーとその場を立ち去ろうとしたが、後ろからまたアクロマが声をかけたきた。
「この次は私の手作りカレーを食べてみませんか?」
「ブオーっ。」
手作り弁当でさえうざいのに、この次には押しかけてカレーを作る気になっているらしい。旅をしているトウコにどうやってどこに押しかける気なのかは分からないが、アクロマの言い方では出来たてを食べさせる気満々は雰囲気が漂っている。
「カレー食べさせてくれるの?」
エンブオーはいけませんと子どもを諌める母親のように声を荒げた。
「ブオ。ブオっ。」
エンブオーに引きずられるままのトウコを見ながら、アクロマはアタッシュケースから明らかに既製品ではないライブキャスターを取り出すと、それをおもむろに操作し始める。間髪入れずに電池を補充したばかりのトウコのライブキャスターの着信音が鳴った。
「もしもし。」
「はーい。アクロマです。」
数メートル後ろのアクロマが画面に映っていた。エンブオーの顔色が蒼くなる。これはかなり粘着質なストーカーなのではないのかと怖気が立つ。トウコは実物のアクロマと画面のアクロマを交互に見てから画面のアクロマに話しかけた。
「番号交換してたっけ?」
「してませんよ。私のライブキャスターは特別製で、貴女のライブキャスターをハッキングさせてもらいました。」
「すっごーい。」
二人がライブキャスターで話している間にも、エンブオーはトウコを抱えて全力でヤグルマの森に向かって走っていた。
「トウコさん。トウコさん。」
揺れる画面に向かってトウコがどうしたのと尋ねている。
「私は自称も他称もマッドサイエンティストなんです。だから元才媛テイストの異名を持つ貴女に是非とも会ってみたかったんです。これからもご縁があればいいですね。ていうか強制的にご縁を作らせていただきました。貴女のタウンマップに私が現在身を寄せているある組織の所在地を追加させて頂きました。言うまでもなくハッキングです。是非ともそちらにも遊びにきてください。是非私の手作りカレーを貴女に振る舞いたいんです。ちなみにコーン入りの甘口です。」
通信はヤグルマの森に入って電波が極端に悪くなったところで途切れた。エンブオーはトウコのバッグからタウンマップを取り出すとある地点に見覚えのないマーカーを見つけた。そのマーカーの場所に近寄ってはいけないと記憶する。
「エンブオー。ポケモンセンターに寄らずにそんなに走ったら駄目だよ。すごいしんどいんじゃない?」
ポケモンなのに肩で息をしているエンブオーの腕を取って、元来た入口を指差すトウコに対してエンブオーは首を横に振った。今戻ってはまたあのストーカー紛いに出会うか、ライブキャスターでまた通話されかねない。
「エンブオー。私のこと心配してるんだよね。だけどたぶんアクロマさんは大丈夫。普通な人じゃないけど、危ない人じゃなさそうだよ。」
それはエンブオーにも薄々わかっていた。あの男は多分、他人との適切な距離感を維持するのが下手だけなのかもしれないと。ただ悪意を感じないことと、それを受け入れられるかは別問題だ。トウコは受け入れられるかもしれないが、エンブオーには少し無理な話だった。だってアクロマがトウコを見る目は、自分と似通っている。アクロマはそれを真っ直ぐやりすぎとはいえ表現しているのに対し、エンブオーはそれから目を逸らすことに必死になっている。きっとエンブオーの抵抗はやっかみがほとんどなのかもしれない。
「エンブオー。エンブオーはほいほい初対面の男に釣られてる私を見て、危なっかしいなと思ったと思う。でも私にも何にも考えがないわけじゃないんだよ。あの人はたぶん私たちにとって有益な存在になるんじゃないかな。とにかく能力だけはやけに高そうだったし。」
エンブオーはトウコの言葉を聞いてぎょっとする。トウコらしくない人を値踏みするような言い方。かつて初対面の自分に対しても色々と能力を推し量るようなことを呟かれたような記憶がある。昔々の少女とポカブの出会い。無機質な言葉は冷たく凍えそうに灰色だった。それを怖いと思ったのだ。
エンブオーはもう小さかったポカブではない。なのにこの場のトウコを見ていると背筋が寒い。おバカなトウコが急に前触れもなく才媛のトウコに入れ替わってしまったようだ。自分でも意識してないのに体毛が逆立ってそれらが擦れてざわざわと音を立てる。
「なーんちゃって。いざとなったらさっきのようにエンブオーが私抱えて逃げてくれるもん。」
エンブオーはほっとしてうんうんと頷いた。
「だからね、エンブオーが頼りだからポケモンセンターには回復しに戻ろ。」
トウコはカレー楽しみだなとそれでもアクロマに対して未練たっぷりに呟きながら、エンブオーの腕を引っ張って、シッポウシティへ戻らせるのだった。
きっちり着込んでいたNの服をトウヤはまた律儀に脱がせていた。一回目よりは冷静さが窺えた。それに少しNは安堵していた。
ベッドの上で立膝になって対面した格好で上半身を裸にされ、ベルトを外したままだったズボンにトウヤの手がかかる。
「いいよ。僕自分で脱ぐから。」
ズボンを足から引き抜くのは他人に任せるより、自分から脱ぐ方が簡単だとNはトウヤに言ったが、トウヤは大丈夫だと言ってひょいとNの上半身を片手で抱きかかえ、膝を浮かせたNからするするとズボンと下着を脱がせてしまった。
見た目より力が強いし、器用なトウヤの所作にNはそのままトウヤの肩に顔を埋める。鎖骨の窪みがNの額をちょうどよく受け止めてくれた。
「トウヤ。僕は重たいかな?」
明らかに面積も体積も小さい相手が明らかに大きな相手を抱きかかえている構図に、Nには少し不可思議な感覚だった。
「特に重くはないよ。ていうか君は見た目より軽いな。」
「そう。だったら……」
Nはトウヤの身体に体重をかけて完全に抱き着く態勢になった。
トウヤは立膝から腰をベッドに下し、やはりNを抱きかかえる。まるで恋人同士が抱擁しあうようだった。
「トウヤ。正常位だとなんだか押さえつけられて犯されてるみたいだから、今度は僕が動けるようなやり方がいいんだけど。」
トウヤは目を泳がせている。
「二回目でそれはちょっと慎みが無いんじゃないのかいN?」
「慎みってなんだよ。君が僕を二回目に誘った時点で君こそ慎みが無いよ。」
そう言われては立つ瀬がないトウヤなのだった。慎みは受け身に押し付けるものではないのだろうけど、シチュエーション的には主導権を握りたいのがトウヤでもある。
でもNは構わずトウヤに対して光のない目で不敵に笑った。
「一回目で僕もかなり学習したよ。君にまかせっきりにするのは危険だって。」
「危険って……。優しくしただろ。」
「うん。優しくはしてくれた。だけど動いていたのは君だけだったし、それが僕には惜しいと思った。体勢を変えれば僕も君も好きなように動けるんじゃないかな?」
流石にNは頭が回ると感心すると同時に、早くもこなれてきている態度に開いた口が塞がらなかった。天才肌の男はどんなことにおいても早熟で時々大人を辟易させるとはこのことだと痛感する。
「ま、まあ……いいけど。経験の少ない君に、ていうか二度目の君がそんなにうまい具合に動けるとは思えないけどな。」
「そのときはそのときでトウヤの好きにしていい。とりあえず君の膝の上に乗る許可をくれよ。」
そこまで言われてはトウヤも頷くしかない。Nというのは自分で実践しなければ気が済まないたちなのだろう。
「で、どうするんだ? 前向き? 後ろ向き? どっちにくるんだい? どっちにしたって僕じゃなくて君主体で中に入れるようになるから、一回目より大変だと思うよ。」
Nは少し逡巡する。少し考えてみてからどうにかしてみると呟いて、じゃあ前向きで君と向き合いながらと言った。
「あの例の……なんて言うんだったっけ。」
「ローションかな。なんだったらゼリーもあるけど。」
「じゃあ。さっき使ったローションでいいよ。ゼリーはチェレンのためにとっといてあげれば。」
トウヤが少しむっとしたような顔をした。二人の間に気まずい緊張がわずかに生まれる。
Nはローションのキャップを取って中の液体を手に取った。
「これで内側と外側を濡らして滑りやすくすればいいんだよね。そして、ある程度指で馴らしてから君の上に乗ればいいんだよね。」
「自分で出来るのかい?」
トウヤの意地の悪い笑顔にNも意地悪そうな笑みを返す。
「君こそペニスが硬くないと挿入出来ないんだから、それは大丈夫かな? 大丈夫ならゴムを付けて待機してくれよ。」
トウヤはいそいそとサイドテーブルを漁ってゴムを準備している。Nもトウヤに言い切った手前覚悟を決めて自分の中に指を入れてみた。
「んっ……。」
違和感が半端なく襲う。だが一回目にトウヤに入れられていたのだから、ちゃんと広がるはずだとNはローションを継ぎ足してもう一度指を入れて今度は動かしてみた。
「くっ……ん……」
どうやっても自分のその入り口は硬い感触がなかなか緩んでくれない。トウヤはどうやったんだと思い出そうとしてみる。トウヤはNに対して正面からそういうふうにしてくれた。今、Nは恥ずかしさもあって後ろ手で自分のそこを広げようとしている。
「N。手伝おうか?」
Nは思わずトウヤを睨みつけた。
「自分でするから……いい。」
なおも指を濡らしながら自分のそこを弄ってみる。トウヤはそれにほんの少し顔を赤らめながらにやにやしていた。それが余計にNの癪に障った。
なんとか指の抜き差しが楽になったので、指の本数を増やしてみる。無理矢理その二本の指で中をかき回して、痛さよりもトウヤに対する意地でNは自分の入り口をほぐしていた。半ば涙目になってトウヤの目を結果的に喜ばせる羽目になったとしても。それでもトウヤに対して対等なセックスがしたかった。
「も……もう大丈夫だと思う。その、君のに触れていいよね。」
「どうぞ。随分頑張ってたみたいだね。可愛いよN。」
Nはトウヤににじり寄ってトウヤの一物をぎゅっと握った。
「触れるなんてもんじゃないな。お手柔らかに頼むよ。」
もっと優しく扱えと暗に言われた。Nはトウヤのペニスを握って自分の入り口にぴったりと固定する。そしてゆっくりと腰を落とす。
トウヤもNの不安定な腰つきを両手で支えていた。先端がNの中に入っていくのを見守りながら息が詰まりそうな表情のNに声をかけた。
「N。息を殺しちゃってるよ。ゆっくり吐いて。そう。先っぽは入ったから、あとは体重をかけるだけでいいから。」
Nははあはあと呼吸を繰り返しながら、トウヤを自分の中に受け入れた。トウヤの首にしがみついて、涙を頬に伝わらせても負けん気が強いような表情を出来るだけ作っている。
「どう、かな? 十分出来てるでしょ?」
「ふっ。ほんとにやっちゃったね。君はほんとにすごいよ。」
「それほどでも。で、動いていいのかな?」
「うん。好きなように動いてみてよ。」
初めてを終えて二回目なので、Nは相当無理をしているのは誰が見たとしても明らかである。でも今更怖いから動けませんなんて言い訳をNはするわけにはいかないとトウヤのペニスを銜え込んだまま腰を揺らし始めた。中に塗り広げたローションがちゃんとその役目を果たしてくれているのか、揺するごとに粘着質な音を立ててくれる。
「トウヤ。気持ちいい?」
「自分が動くのとちょっと勝手が違うからな。でも…あ……うん。」
気の無い振りをしているがちゃんとトウヤを反応させられることにNは言い様のない満足感を覚え始める。
「たった二回目の僕相手にそんな反応しちゃっていいのかい?」
「こ、こんなの。まだ、まだだよ。」
「そう? じゃあ、もっと頑張る。」
「え? 無理すんな。」
トウヤの制止にNは聞く耳を持たない。動きを激しくしてあげればトウヤは面食らったような表情を浮かべて狼狽えるのが愉快でしょうがない。
「そんなに動きまくればいいってもんじゃ。あっ……あ…」
トウヤはNの実践が二回目だということで高を括っていた。Nはこれまで完遂は出来なかったが、何人もの男をセックス目的に誘っていたという一般人から逸脱した積極性を持つ男だ。しかも学習能力が高い。対象の反応も読み取るのも容易にやってみようと思えばやってしまえる。しかも羞恥心や世間体からくる抵抗感は驚くほど少ないようだ。
「N! N! わかった。わかったから! 僕にも少しは動ける余裕くれよ。」
Nはにぃっと笑うといいよと動きを止める。
トウヤはNの腰を引き寄せた。
「僕につかまってろ。」
「うん。今度はトウヤに任せるね。」
「最初から任せてほしかったよ。」
入り口を解すところから根を上げると思っていたのに。本当に意地っ張りで実行力のある相手だとこうなってしまうのかと、トウヤはどっと疲れたような気分になったが、反してNの中に入っている自身は元気だった。
トウヤはNを膝に乗せて突き上げるように腰を使った。
「あっ……いやっ。トウ……ヤ。」
最初の正常位の時より当然ながら深いところまで擦られるせいか、トウヤに主導権を譲った途端に今度はNがトウヤに翻弄される。漏れ出る甘い声にトウヤはお返しとばかりにNがしなかった動きを混ぜてより一層喘がせようとした。
「……やだっあっ。そこは……」
「ここがいいのかい?」
ある一点に当てるようにトウヤはそこを狙って律動を繰り返す。逃げようとしたNの腰をがっちりと押さえつけた。
Nの絶壁の胸に口で吸いついて赤い痕を残してみる。色白の肌にその赤みが映えて綺麗だった。
「な、なんで君はっ。すぐに噛むのかな!」
まだ減らず口が叩けたのかとトウヤは呆れ通り越して感心する。
「噛んでないんだけど。」
「歯が当たった……」
「へえ……。本当に噛むっていうのは。」
今度は肩の肉が比較的ついたところにトウヤはあからさまに歯をむき出しにして歯を当て、少し強めにかぶりついた。
「いっ……たあ……」
Nは堪えきれずに眉間に皺を寄せる。その表情を確かめるとトウヤはさっき噛んだ場所を舌でぺろぺろと舐めた。Nは痛さから一転した刺激に何かを感じて身をよじらせた。
「君のトモダチは、君への親しみを表すのに噛んだりするんじゃないのかい? 勿論本気じゃないんだろうけど。彼らには君に差出す手はないから、代わりに口とか舌を使ってくるんじゃない。」
「君はポケモン並みなのかい?」
「ポケモンと人間に境がないと言っていた君が言うとすごく奇妙だね。」
「ああいえば…こういう……」
「なごり惜しいけど、そろそろ終わりにしなくちゃ。」
トウヤはNの腰を掴んでいた手をNの背中に回し、Nの入り口と自分の性器の間に隙間を作る。
「あっ……あっ…」
Nに首を抱かれながらトウヤはNを後ろに押し倒した。
「やっぱりフィニッシュはこの体勢でいかせてもらうよ。」
「卑怯者っ。」
「なんとでも。途中で満足して僕に主導権を渡すからだよ。」
「君はひどい男だっ。」
Nは悔しそうにトウヤの下で喘ぐしかない。
「ごめんな。大人は卑怯で、可愛い子を押さえつけて喘がせるのが好きなんだ。最高に可愛いよ。N。」
Nは諦めたようにトウヤの下で大人しくなる。悔しい気持ちはあったが、一回目とは違って自分を通り越してこの場にいない誰かの名前を胸中で叫んだりはしなかった。ずっとN、N、と呼びかけてくれた。
「トウヤ……す…」
「なんだい? N。」
「……なんでもない。早くイッて。」
Nが言うまでもなくトウヤはNの中で果てている。Nもトウヤの腹に自分の精液を吐き出した。
「はあ……。」
「同時にイクなんてすごいシンクロ率だね。」
「トウヤ。そんな風に茶化すように言わなければもっと良かったのにね。」
トウヤのモノがNから引きずり出される。
「さっき、何言いかけたんだい?」
Nは無意識に言おうとしたことを呑み込んでいる。これを言ってしまえばどうなるかは分かっている。卑怯な大人なんかにわざわざそんなことを告げたくはなかった。
「なんでもないよ。」
「そうか。」
トウヤは淡泊に答えると今度は一緒にシャワーを浴びようよと、また懲りずに甘い言葉をNに投げかけるのだった。
「情報によればこの辺りでしょう。」
男は今考えていることを中止して、彼にとっては比較的近い未来の為の行動に戻ることにした。メインストリートの真ん中に黒山の人だかりが出来ている。中央には何かが行われているはずなのに、アクロマはゆっくりと近づいて人だかりの最後尾で聞こえてくる音だけをキャッチしていた。
「ねえちゃん。ぼくのとっておきいくよ。」
「負けないわよ。」
幼すぎる幼稚園児の声とキンと響く若い娘の声が聞こえてくる。そしてギャラリーの歓声が響いた。
「エンブオーかえんほうしゃ!」
アクロマの前の観客が呟く。
「園児のポケモン相手にかえんほうしゃかよ。容赦ねえ。っぱねえ。」
アクロマも同じような感想を抱く。どうやらここでかなり年齢差のある二人がポケモンバトルでいい勝負をしているらしい。
「ああ! 外れたあ!」
ギャルの悲鳴が起こると同時に呆れたような観客の嘆息が聞こえてくる。
「あー、やっぱり外れたな。」
「まあ。いつものことだよ。元才媛テイストのトウコちゃんのお約束だよね。」
アクロマはふむと頷く。元才媛テイストとマッドサイエンティストはなんとなく語感が似ていると。
そして園児の声が響く。
「ヨーテリーたいあたり!」
ポケモンの気合いを入れた雄叫びと悲鳴のような声が交錯する。
「急所にいったあ!」
トウコのポケモンは後ろに引っくり返りなかなか起き上がれそうにない。そしてまだ勝負がついていない。
「エンブオー、えっと……」
「ヨーテリーたいあたりもう一回!」
「また急所に当たった? みがわりで耐えてっ。ああ!」
「上手く決まらなかったぞ!」
ああこりゃトウコは幼稚園児に負けるとアクロマは悟る。さっきからの音声情報でここで行われているポケモンバトル(女子トレーナートウコVS幼稚園児)は、トウコは幼稚園児に負けてしまったらしい。最後の最後で決め技が全て外れ、回避技はうまく決まらず、敵の攻撃は全て急所に当たってしまったようだ。
「トウコ! エンブオー! また次があるぞ!」
トウコは泣きながらストリートの土を袋に詰めていた。
「また帰ってくるからここに! みんなあ。待っててねっ。」
うおおおおお!
観客は叫ぶ。称えられるのは敗者だった。
アクロマは上空を見上げるとティッシュに包まれた何かがトウコに向かって飛んでいく。
「ポケモンバトルでおひねりですか。他では見られないんでしょうね。」
アクロマはおひねりは投げない。代わりにアタッシュケースの中から何かの包みを取り出した。
トウコはにこにこしながらおひねりをかき集め去っていく観客たちに手を振っている。そしてその半分を幼稚園児に渡した。
「ねえちゃん。ぼろいしょうばいしてるね。」
「商売じゃないわよ。みんなの善意よ。駄目な子ほど可愛いっていうでしょ。」
園児もそうだねと言いながらトウコが差出した賞金をトウコに返した。
「おれもねえちゃんをおうえんするぜ。」
「ありがとう。」
互いに手を振りながら去っていく園児を見届けたあとトウコはエンブオーに駆け寄る。
「今日もダメだったね。」
「ブオ。」
本当はわざと負けているんじゃないかと思われる負け方を毎回しているのだが、トウコとエンブオーはあくまで本気のバトルだった。いいところまでいくのに最後の最後で全て技を外し、敵の攻撃は急所に当たってしまう。いくらエンブオーがレベルが高いとはいっても、技が決まらなければ意味がない。そして急所に決まったダメージは確実に大幅に体力を削ってしまう。ヨーテリーの初歩的な技である体当たりですらだ。
「エンブオー。それでも応援してもらえるのはいいよね。」
「……」
エンブオーはそれには頷けなかった。へぼでもいつも本気で頑張っているからトウコは応援の上にお捻りさえももらえる。みんないつかトウコに勝って欲しいと思っている。明日に希望を持って生きているのが人間だから。それを目の前で見せてくれるトウコに、お捻りの形で投資してくれているのだろう。トウコが今までトレーナーを続けられたのは、そんな行きずりの人々の支援があったからなのだ。
だからエンブオーは思うのだ。自分が勝てるポケモンであれば、自分がそれをトウコにあげられる。勝利を成しえない自分が嫌いだ。何故かわからないけれど、バトルのある瞬間から身体にどろどろに溶けた鉛が身体じゅうに流れ込んで冷えて固まって動けなくなるような感覚に襲われてしまうのだ。そんな感覚を誰にも、トウコにさえも伝えられずに自分はトレーナー戦では毎回負けてしまう。
今、トウコの手持ちのポケモンはエンブオーたった一匹だ。定期的にトウコも炎タイプに偏るけれどポケモンをゲットするのだが、そのほのポケたちは自分からトウコやエンブオーの前から去ってしまうのだ。今までのエンブオーを除くポケモンたち全部がいなくなってしまった。
エンブオーは空を見てあいつらはどうしているのかと物思いに耽る。ロコン。ダルマッカ。ヒトモシ。メラルバ。お前らがいてくれたら、もしかしたら勝ててるかもしれない。みんな後ろめたいようにトウコやエンブオーに何も告げず出て行ってしまった。トウコのことは好きなのにやはり色々と不遇な状況が我慢出来なかったのだろうか。
トウコはどっこらしょとエンブオーに肩を貸してポケモンセンターに行こうねと声を掛ける。こんなふうに気楽に構えているトレーナーは他にはいないだろう。大抵モンスターボールにすぐに戻してそのあとポケモンセンターに連れて行くのが常識なのだから。でもトウコはいつもエンブオーに肩を貸すのだった。
「ちょっと待ちなさい。」
トウコとエンブオーの行く手に金髪碧眼眼鏡で白衣のアタッシュケース持ちの男が立ちはだかった。
「先ほどのポケモンバトル、十分堪能させて頂きましたよ。そしてこれがその私の感謝の気持ちの手作り弁当です。」
あらと言うようなトウコとは裏腹にエンブオーは激しくひいていた。この男とは当然ながら初対面である。お捻りを投げてくるようなトウコファンは幾らでもいるが、弁当を持参してきたのはこの男が始めてだ。白衣姿と手作り弁当のミスマッチさ加減がエンブオーに自分の主を連れて今すぐ逃げろと告げているようだった。
「ありがとうございます!」
しかしトウコは平然とその弁当を受け取った。
「ブオー!」
ファンを装った近頃よく聞く悪の組織だったりしたらどうするつもりかとエンブオーはトウコに抗議をしている。しかしトウコはいそいそと弁当箱を開け、アクロマが差出す箸を渡されるままに弁当をはぐはぐと喰った。
「お口に合いますか?」
アクロマがいじらしいことを言ってきた。エンブオーは薬か何かを盛られてないかと心配しながら、トウコに何か起こったとき対処できる構えでいる。
「美味だわ。このお弁当には人の情けという特別な味付けがされている。原子レベルまで噛みしめれば噛みしめるほど、それまでに起こった化学反応に感動してしまうわ。食によって人は享楽する。そしてそれは作る喜び、食べる喜び、そして食べさせてあげる喜び。私はその喜びごと頂いているのだわ。」
アクロマは嬉しそうにしていた。
「貴女の噂を聞き、貴女に一目会うために私は貴女の行方を捜していたのです。三日前からこの弁当を携えて。」
三日前と聞いてエンブオーは思わずトウコから弁当を取り上げた。
「心配しないでください。この弁当箱は科学の粋を集めた、中身が絶対に腐らない弁当箱なのですから。ちなみに私が開発しました。」
「魔法の弁当箱なのね。」
「いえ科学の弁当箱なのです。」
そんなことあり得るかとエンブオーは地団駄を踏んでいる。しかしトウコは気にせず食べようとしている。本当になんともないらしい。
「貴女のエンブオーは少し考えすぎるきらいがありますね。科学は万能なんですよ。科学者は魔法使いとは違うんです。」
「でも私にとってはどちらも凄い人だけど。」
「一緒くたにされてもいいんです。貴女に認めて貰えるのなら。」
エンブオーは話についていけないのだが、トウコはひたすら弁当を喰っている。
弁当箱が空になったところでエンブオーはこれ以上関わり合いになりたくなくて、トウコの両肩を持って回れ右させる。
「おべんとありがとー。」
トウコも食べるだけ食べるとあっさりとエンブオーとその場を立ち去ろうとしたが、後ろからまたアクロマが声をかけたきた。
「この次は私の手作りカレーを食べてみませんか?」
「ブオーっ。」
手作り弁当でさえうざいのに、この次には押しかけてカレーを作る気になっているらしい。旅をしているトウコにどうやってどこに押しかける気なのかは分からないが、アクロマの言い方では出来たてを食べさせる気満々は雰囲気が漂っている。
「カレー食べさせてくれるの?」
エンブオーはいけませんと子どもを諌める母親のように声を荒げた。
「ブオ。ブオっ。」
エンブオーに引きずられるままのトウコを見ながら、アクロマはアタッシュケースから明らかに既製品ではないライブキャスターを取り出すと、それをおもむろに操作し始める。間髪入れずに電池を補充したばかりのトウコのライブキャスターの着信音が鳴った。
「もしもし。」
「はーい。アクロマです。」
数メートル後ろのアクロマが画面に映っていた。エンブオーの顔色が蒼くなる。これはかなり粘着質なストーカーなのではないのかと怖気が立つ。トウコは実物のアクロマと画面のアクロマを交互に見てから画面のアクロマに話しかけた。
「番号交換してたっけ?」
「してませんよ。私のライブキャスターは特別製で、貴女のライブキャスターをハッキングさせてもらいました。」
「すっごーい。」
二人がライブキャスターで話している間にも、エンブオーはトウコを抱えて全力でヤグルマの森に向かって走っていた。
「トウコさん。トウコさん。」
揺れる画面に向かってトウコがどうしたのと尋ねている。
「私は自称も他称もマッドサイエンティストなんです。だから元才媛テイストの異名を持つ貴女に是非とも会ってみたかったんです。これからもご縁があればいいですね。ていうか強制的にご縁を作らせていただきました。貴女のタウンマップに私が現在身を寄せているある組織の所在地を追加させて頂きました。言うまでもなくハッキングです。是非ともそちらにも遊びにきてください。是非私の手作りカレーを貴女に振る舞いたいんです。ちなみにコーン入りの甘口です。」
通信はヤグルマの森に入って電波が極端に悪くなったところで途切れた。エンブオーはトウコのバッグからタウンマップを取り出すとある地点に見覚えのないマーカーを見つけた。そのマーカーの場所に近寄ってはいけないと記憶する。
「エンブオー。ポケモンセンターに寄らずにそんなに走ったら駄目だよ。すごいしんどいんじゃない?」
ポケモンなのに肩で息をしているエンブオーの腕を取って、元来た入口を指差すトウコに対してエンブオーは首を横に振った。今戻ってはまたあのストーカー紛いに出会うか、ライブキャスターでまた通話されかねない。
「エンブオー。私のこと心配してるんだよね。だけどたぶんアクロマさんは大丈夫。普通な人じゃないけど、危ない人じゃなさそうだよ。」
それはエンブオーにも薄々わかっていた。あの男は多分、他人との適切な距離感を維持するのが下手だけなのかもしれないと。ただ悪意を感じないことと、それを受け入れられるかは別問題だ。トウコは受け入れられるかもしれないが、エンブオーには少し無理な話だった。だってアクロマがトウコを見る目は、自分と似通っている。アクロマはそれを真っ直ぐやりすぎとはいえ表現しているのに対し、エンブオーはそれから目を逸らすことに必死になっている。きっとエンブオーの抵抗はやっかみがほとんどなのかもしれない。
「エンブオー。エンブオーはほいほい初対面の男に釣られてる私を見て、危なっかしいなと思ったと思う。でも私にも何にも考えがないわけじゃないんだよ。あの人はたぶん私たちにとって有益な存在になるんじゃないかな。とにかく能力だけはやけに高そうだったし。」
エンブオーはトウコの言葉を聞いてぎょっとする。トウコらしくない人を値踏みするような言い方。かつて初対面の自分に対しても色々と能力を推し量るようなことを呟かれたような記憶がある。昔々の少女とポカブの出会い。無機質な言葉は冷たく凍えそうに灰色だった。それを怖いと思ったのだ。
エンブオーはもう小さかったポカブではない。なのにこの場のトウコを見ていると背筋が寒い。おバカなトウコが急に前触れもなく才媛のトウコに入れ替わってしまったようだ。自分でも意識してないのに体毛が逆立ってそれらが擦れてざわざわと音を立てる。
「なーんちゃって。いざとなったらさっきのようにエンブオーが私抱えて逃げてくれるもん。」
エンブオーはほっとしてうんうんと頷いた。
「だからね、エンブオーが頼りだからポケモンセンターには回復しに戻ろ。」
トウコはカレー楽しみだなとそれでもアクロマに対して未練たっぷりに呟きながら、エンブオーの腕を引っ張って、シッポウシティへ戻らせるのだった。
- * *
きっちり着込んでいたNの服をトウヤはまた律儀に脱がせていた。一回目よりは冷静さが窺えた。それに少しNは安堵していた。
ベッドの上で立膝になって対面した格好で上半身を裸にされ、ベルトを外したままだったズボンにトウヤの手がかかる。
「いいよ。僕自分で脱ぐから。」
ズボンを足から引き抜くのは他人に任せるより、自分から脱ぐ方が簡単だとNはトウヤに言ったが、トウヤは大丈夫だと言ってひょいとNの上半身を片手で抱きかかえ、膝を浮かせたNからするするとズボンと下着を脱がせてしまった。
見た目より力が強いし、器用なトウヤの所作にNはそのままトウヤの肩に顔を埋める。鎖骨の窪みがNの額をちょうどよく受け止めてくれた。
「トウヤ。僕は重たいかな?」
明らかに面積も体積も小さい相手が明らかに大きな相手を抱きかかえている構図に、Nには少し不可思議な感覚だった。
「特に重くはないよ。ていうか君は見た目より軽いな。」
「そう。だったら……」
Nはトウヤの身体に体重をかけて完全に抱き着く態勢になった。
トウヤは立膝から腰をベッドに下し、やはりNを抱きかかえる。まるで恋人同士が抱擁しあうようだった。
「トウヤ。正常位だとなんだか押さえつけられて犯されてるみたいだから、今度は僕が動けるようなやり方がいいんだけど。」
トウヤは目を泳がせている。
「二回目でそれはちょっと慎みが無いんじゃないのかいN?」
「慎みってなんだよ。君が僕を二回目に誘った時点で君こそ慎みが無いよ。」
そう言われては立つ瀬がないトウヤなのだった。慎みは受け身に押し付けるものではないのだろうけど、シチュエーション的には主導権を握りたいのがトウヤでもある。
でもNは構わずトウヤに対して光のない目で不敵に笑った。
「一回目で僕もかなり学習したよ。君にまかせっきりにするのは危険だって。」
「危険って……。優しくしただろ。」
「うん。優しくはしてくれた。だけど動いていたのは君だけだったし、それが僕には惜しいと思った。体勢を変えれば僕も君も好きなように動けるんじゃないかな?」
流石にNは頭が回ると感心すると同時に、早くもこなれてきている態度に開いた口が塞がらなかった。天才肌の男はどんなことにおいても早熟で時々大人を辟易させるとはこのことだと痛感する。
「ま、まあ……いいけど。経験の少ない君に、ていうか二度目の君がそんなにうまい具合に動けるとは思えないけどな。」
「そのときはそのときでトウヤの好きにしていい。とりあえず君の膝の上に乗る許可をくれよ。」
そこまで言われてはトウヤも頷くしかない。Nというのは自分で実践しなければ気が済まないたちなのだろう。
「で、どうするんだ? 前向き? 後ろ向き? どっちにくるんだい? どっちにしたって僕じゃなくて君主体で中に入れるようになるから、一回目より大変だと思うよ。」
Nは少し逡巡する。少し考えてみてからどうにかしてみると呟いて、じゃあ前向きで君と向き合いながらと言った。
「あの例の……なんて言うんだったっけ。」
「ローションかな。なんだったらゼリーもあるけど。」
「じゃあ。さっき使ったローションでいいよ。ゼリーはチェレンのためにとっといてあげれば。」
トウヤが少しむっとしたような顔をした。二人の間に気まずい緊張がわずかに生まれる。
Nはローションのキャップを取って中の液体を手に取った。
「これで内側と外側を濡らして滑りやすくすればいいんだよね。そして、ある程度指で馴らしてから君の上に乗ればいいんだよね。」
「自分で出来るのかい?」
トウヤの意地の悪い笑顔にNも意地悪そうな笑みを返す。
「君こそペニスが硬くないと挿入出来ないんだから、それは大丈夫かな? 大丈夫ならゴムを付けて待機してくれよ。」
トウヤはいそいそとサイドテーブルを漁ってゴムを準備している。Nもトウヤに言い切った手前覚悟を決めて自分の中に指を入れてみた。
「んっ……。」
違和感が半端なく襲う。だが一回目にトウヤに入れられていたのだから、ちゃんと広がるはずだとNはローションを継ぎ足してもう一度指を入れて今度は動かしてみた。
「くっ……ん……」
どうやっても自分のその入り口は硬い感触がなかなか緩んでくれない。トウヤはどうやったんだと思い出そうとしてみる。トウヤはNに対して正面からそういうふうにしてくれた。今、Nは恥ずかしさもあって後ろ手で自分のそこを広げようとしている。
「N。手伝おうか?」
Nは思わずトウヤを睨みつけた。
「自分でするから……いい。」
なおも指を濡らしながら自分のそこを弄ってみる。トウヤはそれにほんの少し顔を赤らめながらにやにやしていた。それが余計にNの癪に障った。
なんとか指の抜き差しが楽になったので、指の本数を増やしてみる。無理矢理その二本の指で中をかき回して、痛さよりもトウヤに対する意地でNは自分の入り口をほぐしていた。半ば涙目になってトウヤの目を結果的に喜ばせる羽目になったとしても。それでもトウヤに対して対等なセックスがしたかった。
「も……もう大丈夫だと思う。その、君のに触れていいよね。」
「どうぞ。随分頑張ってたみたいだね。可愛いよN。」
Nはトウヤににじり寄ってトウヤの一物をぎゅっと握った。
「触れるなんてもんじゃないな。お手柔らかに頼むよ。」
もっと優しく扱えと暗に言われた。Nはトウヤのペニスを握って自分の入り口にぴったりと固定する。そしてゆっくりと腰を落とす。
トウヤもNの不安定な腰つきを両手で支えていた。先端がNの中に入っていくのを見守りながら息が詰まりそうな表情のNに声をかけた。
「N。息を殺しちゃってるよ。ゆっくり吐いて。そう。先っぽは入ったから、あとは体重をかけるだけでいいから。」
Nははあはあと呼吸を繰り返しながら、トウヤを自分の中に受け入れた。トウヤの首にしがみついて、涙を頬に伝わらせても負けん気が強いような表情を出来るだけ作っている。
「どう、かな? 十分出来てるでしょ?」
「ふっ。ほんとにやっちゃったね。君はほんとにすごいよ。」
「それほどでも。で、動いていいのかな?」
「うん。好きなように動いてみてよ。」
初めてを終えて二回目なので、Nは相当無理をしているのは誰が見たとしても明らかである。でも今更怖いから動けませんなんて言い訳をNはするわけにはいかないとトウヤのペニスを銜え込んだまま腰を揺らし始めた。中に塗り広げたローションがちゃんとその役目を果たしてくれているのか、揺するごとに粘着質な音を立ててくれる。
「トウヤ。気持ちいい?」
「自分が動くのとちょっと勝手が違うからな。でも…あ……うん。」
気の無い振りをしているがちゃんとトウヤを反応させられることにNは言い様のない満足感を覚え始める。
「たった二回目の僕相手にそんな反応しちゃっていいのかい?」
「こ、こんなの。まだ、まだだよ。」
「そう? じゃあ、もっと頑張る。」
「え? 無理すんな。」
トウヤの制止にNは聞く耳を持たない。動きを激しくしてあげればトウヤは面食らったような表情を浮かべて狼狽えるのが愉快でしょうがない。
「そんなに動きまくればいいってもんじゃ。あっ……あ…」
トウヤはNの実践が二回目だということで高を括っていた。Nはこれまで完遂は出来なかったが、何人もの男をセックス目的に誘っていたという一般人から逸脱した積極性を持つ男だ。しかも学習能力が高い。対象の反応も読み取るのも容易にやってみようと思えばやってしまえる。しかも羞恥心や世間体からくる抵抗感は驚くほど少ないようだ。
「N! N! わかった。わかったから! 僕にも少しは動ける余裕くれよ。」
Nはにぃっと笑うといいよと動きを止める。
トウヤはNの腰を引き寄せた。
「僕につかまってろ。」
「うん。今度はトウヤに任せるね。」
「最初から任せてほしかったよ。」
入り口を解すところから根を上げると思っていたのに。本当に意地っ張りで実行力のある相手だとこうなってしまうのかと、トウヤはどっと疲れたような気分になったが、反してNの中に入っている自身は元気だった。
トウヤはNを膝に乗せて突き上げるように腰を使った。
「あっ……いやっ。トウ……ヤ。」
最初の正常位の時より当然ながら深いところまで擦られるせいか、トウヤに主導権を譲った途端に今度はNがトウヤに翻弄される。漏れ出る甘い声にトウヤはお返しとばかりにNがしなかった動きを混ぜてより一層喘がせようとした。
「……やだっあっ。そこは……」
「ここがいいのかい?」
ある一点に当てるようにトウヤはそこを狙って律動を繰り返す。逃げようとしたNの腰をがっちりと押さえつけた。
Nの絶壁の胸に口で吸いついて赤い痕を残してみる。色白の肌にその赤みが映えて綺麗だった。
「な、なんで君はっ。すぐに噛むのかな!」
まだ減らず口が叩けたのかとトウヤは呆れ通り越して感心する。
「噛んでないんだけど。」
「歯が当たった……」
「へえ……。本当に噛むっていうのは。」
今度は肩の肉が比較的ついたところにトウヤはあからさまに歯をむき出しにして歯を当て、少し強めにかぶりついた。
「いっ……たあ……」
Nは堪えきれずに眉間に皺を寄せる。その表情を確かめるとトウヤはさっき噛んだ場所を舌でぺろぺろと舐めた。Nは痛さから一転した刺激に何かを感じて身をよじらせた。
「君のトモダチは、君への親しみを表すのに噛んだりするんじゃないのかい? 勿論本気じゃないんだろうけど。彼らには君に差出す手はないから、代わりに口とか舌を使ってくるんじゃない。」
「君はポケモン並みなのかい?」
「ポケモンと人間に境がないと言っていた君が言うとすごく奇妙だね。」
「ああいえば…こういう……」
「なごり惜しいけど、そろそろ終わりにしなくちゃ。」
トウヤはNの腰を掴んでいた手をNの背中に回し、Nの入り口と自分の性器の間に隙間を作る。
「あっ……あっ…」
Nに首を抱かれながらトウヤはNを後ろに押し倒した。
「やっぱりフィニッシュはこの体勢でいかせてもらうよ。」
「卑怯者っ。」
「なんとでも。途中で満足して僕に主導権を渡すからだよ。」
「君はひどい男だっ。」
Nは悔しそうにトウヤの下で喘ぐしかない。
「ごめんな。大人は卑怯で、可愛い子を押さえつけて喘がせるのが好きなんだ。最高に可愛いよ。N。」
Nは諦めたようにトウヤの下で大人しくなる。悔しい気持ちはあったが、一回目とは違って自分を通り越してこの場にいない誰かの名前を胸中で叫んだりはしなかった。ずっとN、N、と呼びかけてくれた。
「トウヤ……す…」
「なんだい? N。」
「……なんでもない。早くイッて。」
Nが言うまでもなくトウヤはNの中で果てている。Nもトウヤの腹に自分の精液を吐き出した。
「はあ……。」
「同時にイクなんてすごいシンクロ率だね。」
「トウヤ。そんな風に茶化すように言わなければもっと良かったのにね。」
トウヤのモノがNから引きずり出される。
「さっき、何言いかけたんだい?」
Nは無意識に言おうとしたことを呑み込んでいる。これを言ってしまえばどうなるかは分かっている。卑怯な大人なんかにわざわざそんなことを告げたくはなかった。
「なんでもないよ。」
「そうか。」
トウヤは淡泊に答えると今度は一緒にシャワーを浴びようよと、また懲りずに甘い言葉をNに投げかけるのだった。
☆「ポケモンデイズ③」前篇 R18 主♂N
NがまだNと呼ばれる前のこと。
Nは一度だけ人間に嘘をついたことがある。森でポケモンと生活していたところを彼に保護という名の確保された、その日のことだった。彼はNが物語るまでもなく、Nの能力をNよりも理解していた大人だった。それを踏まえた上で彼はNに問うてきた。
『君はポケモンの心の声が聞こえるらしいが、人間の心の声は聞こえるのかな。』
まだ男はNに現在ほど恭しくはなかった。無機質な声だったが出来る限り優しく話そうとしているような不器用さが窺えた。繋がれた手は大人特有の乾いた感触だった。溶け込めない意識と皮膚による隔絶を実感させた。だがゲーチスは幼い子どもに出来る限りの歩み寄りを見せていた。
なのにNは、その不器用な優しい問いかけに誠実には答えなかった。
『ぼくがきこえるのは、トモダチの声だけ。ぼくがニンゲンと話せるのはことばだけ。』
『そうなのか。』
それは都合がいい。
言外の言葉が聞こえた。やはりNは正直に話さなくて良かったと思った。遠い未来で思えば却って悪かったかもしれない。だが、幼かったNは、その時はポケモンの心の声が分かると同時に、同じように心を持っている人間の心の声もわずかに探知できることは、この彼、のちの義父であるゲーチスには永遠に隠すことになった。利用されることが嫌だったわけではない。だがNはゲーチスの手に引かれるままあの城の中に入った。
ゲーチスの本当の思惑をNは知っている。だけど彼の表向きの目的を、自分ならゲーチスが率いるプラズマ団の真の目的に引っ繰り返せるかもしれないと考えるから、Nは彼ことゲーチスの傀儡に敢えてなった。まるで古の戯曲で語られたとある国の王子ように、自らの目的とは反対の世界に留まり続けている。
『N様。ポケモンの解放、五匹ほど成功しました。』
「ありがとう。」
Nはライブキャスターごしの相手に小声で感謝して微笑みかける。同じ服を身に着けていながら、プラズマ団は密かに真っ二つに割れていた。彼女はN側の人間だった。
トウヤは今、Nのあとからシャワーを浴びている最中だった。その隙にNは同志の一人である人間とゲーチスには秘密の会話をしていた。
『本当なら全部解放したいのですが』
「僕も気持ちは同じだ。だけど今それをしたら反動が大きいからね。彼らが見過ごす程度の成果で今は満足しておこう。」
『いつか引っ繰り返せるんですかね? 戯曲を元にしたゲームのような戦略で、全て白に塗りかえるか。それとも黒にしてしまえるか。』
「君の言葉の喩えは相変わらず美しいな。」
『私はN様とは違って数学が苦手なんですけどね。』
大昔の古典の知識をライブキャスターごしの団員が教えてくれたことがある。優れた文学はNが好む数学と並んで美しいとNは思った。計算され尽くした描写や物語の展開は、いつまで経っても褪せない普遍を思わせた。
ただし美しさは感じてもNがやり遂げなければならないのは、もっと現実的なことだ。正しさは勝利せねばならない。破滅の美は無意味である。
「君はこのまま次の彼らの隙を待つんだ。いいね。絶対に無理をしちゃいけない。」
『はい。私が手解きしたN様が、このように頼もしいことを言って下さる日が来るとは。』
Nにオペレーターとしての手解きをしたのは、画面越しの彼女だった。Nは呼ぶことは少ないが彼女は名前をハッサクと言った。頭に炊事用の手拭いを被った中年の小母さんで、プラズマ団の中では団員の生活部分の指揮者である。プラズマ団は外部からの雇用者を呼べない集団なので内部で生活部分も団員に分担させている。家事のエキスパートの彼女はそんなプラズマ団の食堂のおばちゃんでもあり、生活部分の責任者でもあった。一見家庭的で見た目はプラズマ団とは思えないが、彼女は古典の戯曲を諳んじ、様々な経歴を持つ優秀なオペレーターでもあった。
Nは彼女に色んなことを教えてもらい、そのお蔭でプラズマ団内の様子を知ることが出来た。だからNも彼女に彼女がずっと探している人物の情報を提示する。
「君の探している女子高時代の友人は、ライモンのアンダーグラウンドでポケモンバトルをしているらしい。君への土産話としてはどうかなと思うけど、君の目的の一つはこれで達成できると思うんだ。」
『……アマナツが。相変わらず馬鹿なやつだよ。』
「どうする? 今すぐ彼女のところに行ってみるかい?」
ハッサクは首を振る。
『それはまたいつかの機会にしたいと思います。それではN様も良き旅を。』
ライブキャスターの画像と音声はそこで途切れた。Nはけだるい身体を再びベッドに横たえる。水音が止み物音を立てながらトウヤがシャワールームから出てきた。
「N。調子は……まだ戻ってなさそうだな。」
Nは半ば気まずそうな素振りを見せるトウヤに対してベッドに顔を伏せたまま返事をする。
「君があんな滅茶苦茶するとは思わなかった。」
「ごめんよう。」
済まなそうな声とは裏腹に顔はすっきりしているんだろうとNは思った。Nは相変わらず人間の心の声もうっすらと読み取ることが出来た。トウヤが最中に何を考えていたのかもわかってしまう。トウヤの一部がNの中に入っていたのだから、余計にいつもの感応力が強化されていたような気がする。
『もともとのトウヤの執念が強いのもあるんだろうけど。目の前の相手通り越してチェレンのことしか考えてないんだから。』
肉声のようにはっきりとNの脳に響いてきたのは、トウヤがここにはいないチェレンを呼ぶ悲鳴とも思えるような声だった。
チェレンが本命なことは、それはあらかじめ提示されている事実だったからしょうがないかとNは思い直して顔をあげた。
「N。さっきの間に君だけ服を着てるなんて随分と薄情なんだな。」
ライブキャスターは実際の画像も相手に送ってしまうので、まさかの裸姿を晒すわけにはいかなかった。Nはしまったと少し焦る。
「こういうのは薄情に思われるのか。そうか。」
Nはわざと無神経な世間知らずを装った。なんだかこの男と出会ってから嘘をつくまではいかないが、なにかと誤魔化す癖が出来つつある。少し悪い兆候かなとNは思った。
トウヤはまだ少し滴の残った髪の毛のままベッドに座った。
「君こそ服着ないのかい? 風邪ひくよ。」
腰にバスタオルを巻いているだけのトウヤにNは言う。トウヤはまだ暑いからと軽く流した。トウヤの身体はいかにも思春期から未発達といった加減を絵に描いたような身体だった。はっきり言って貧弱の一歩手前。痩せぎすで節々だけがごつく見える。背もNより低い。三十代の成熟した肉体とは呼べない気がする。
「なんだい?」
「トウヤって少しやせ過ぎなのかなって。」
「あのねえ、男の真価は体格の良さじゃないんだぜ。過去の英雄でも小男が天下を取ったという事実はごまんとある。」
「だけどそういう人って小狡いというか、頭で伸し上がった人たちだから。」
そういう英雄の裏話は、英雄らしい英雄だった男たちに比べて多かったようにNの記憶には残っている。だからトウヤに反論してしまった。
「だけどその反面、彼らはロマンチストな側面を持っていた。いつも恋をしていた。」
「沈着と情熱は彼らの内側では両極端ではないんだね。往々にしてそれは融合し彼らはその思念とも感覚ともつかぬものに突き動かされていたということか。だけど、彼らのその恋は大抵叶っていないような気がするんだけど。」
「そうかな? まあ器のキャパシティは体格に比例しないってことだよ。」
トウヤは自分の矮躯を弁護したいようだが、どうしようもない空しさを伴っているような気がするのは、Nがその裏を掻きすぎなのだろうか。Nは情事の余韻とは別にやはり好奇心が優先する人間であることを、自分自身で再確認した。そして今もっともそぐわないことをトウヤに問いかける。
「ねえトウヤ。君はジムに挑戦するつもりなんだろ。」
トウヤはさも当たり前のように頷いた。頭の切り替えの早さは身に着けた事務的な処世術のようだった。抱いた抱かれたの関係から、また一対一の男同士の関係に戻ってしまった。
「そりゃそうだろう。君もだろ。ポケモントレーナーなら。ちなみに君はチョロネコで挑むつもりなんだろうね。わかるよ。苦労しているのは。」
「え? チョロネコは頼りになるよ。」
「え?」
トウヤがNに身を乗り出してきた。
「その……君のチョロネコ。彼はちゃんと使えるのかい?」
「使えるって言い方やめてくれない。」
「いや会社員時代の癖で、人間に対しても使ってたから。じゃあ、レベルかなり上げているんだね。それならなんとかなるよね。」
「あのね。君はどうしてチョロネコが頼りにならないとか弱いとかという前提で話を進めているんだい?」
Nが本格的に怒りそうなのでトウヤは質問攻めを一旦やめた。
「ごめん。やっぱり彼女が使えないのは僕の努力不足っぽいな。」
トウヤはこれでチェレンのチョロネコも使えると聞いた日には、本当の意味で落ち込んでしまいそうな顔色をNの前で晒す。
「トウヤ。最初の話にもどるけど。僕もサンヨウのジムに挑戦するんだ。そして勝ってジムバッジが取れれば、また次の町のジムに行く。そしてまた町を移ってジムバッジを集めるよ。」
「熱心なことだね。」
「最終的にはポケモンリーグに挑戦したいから。それでチャンピオンに到達したいから。」
「僕が知ってる君にしては好戦的な目標だね。」
「やらなくちゃいけないことだから。」
「やりたいことじゃないわけだね。」
「やりたいことに必要なことだから。」
トウヤは溜息をつく。やらなくちゃいけないこと。このイッシュの頂点に立つチャンピオンに勝つことも相当な目標なのに、その上にやりたいこととはいったいどれほどの壮大な目的なのか。トウヤには皆目見当がつかない。
「まあ君はまだ若いからね。いくらでもやれる歳だから。」
「君こそトレーナーになりたてなのに、どうしてそんな他人事なんだ。」
「その理由を言ったらまた君が怒る。」
そうかとNは食いついてこなかった。なんだか嫌に察してもらえてしまったようだとトウヤは苦笑する。トウヤが行く先々のジムに挑戦するのは、チェレンと同じ場所にいたいという動機が一番だ。そのような動機でジムに挑戦するなんて、不純だとまたNに怒られてしまうのは必至だった。だから今回は前回の反省として、お互いにそれ以上はそのことには踏み込まなかった。
「ちょっと僕らしくないこと言うけどいいかな?」
「なにかな。」
トウヤはふっと目を閉じて手のひらを何かを包み込むような形で胸の前に翳す。Nはその仕草がモンスターボールを握っている感じだな眉を顰めた。
「ただの入れ物のこれが、日に日に僕の中で存在感を増していく。彼らが強くなっていくのが僕の強さだと錯覚するくらいに。」
「それは単に君に彼らの能力に対して指揮権が保証されているが故じゃないの?」
トウヤは目を閉じたまま首を振った。
「違うよ。そんなんじゃない。わかるんだ。僕が強くなければ彼らは強くなれない。」
Nはその言葉だけには反発はしなかった。なぜかは自分でも釈然としないが、その言葉を否定すれば自分の考えた理想郷が一瞬の間に虚構に落ちると察したためだ。トウヤの言葉が核心を突く前にトウヤの神掛かった言葉を現実に引き戻そうとした。
「君はこの先もしチェレンとそれなりの関係になれたとしたら、君は君の旅をどうするつもりなんだい。」
「チェレン次第だな。彼にとって僕が必要なら僕はずっとポケモンと旅をするよ。たぶんそうなる可能性は高い。彼は子供のときに身体が弱かったんだ。トレーナーになることだけが病気と戦うモチベーションを保っていたようなものだった。やっと念願が叶ったし、彼なりに身体も鍛えているけど、やっぱり昔から彼を見てきた僕には彼の身体のことが心配なんだ。本当に傍にいて、僕が彼を支えられたらいいなと思ってる。」
Nはトウヤの言葉を聞いて色んな意味で合点がいった。男が男に入れ込むトウヤの現状には、チェレンの肉体の脆弱さが強く関わっていた。保護欲が所有欲になり性欲も加わっているとなれば、この男はどれだけ貪欲になれるか、Nはその身を以て先ほど知ったばかりだった。
トウヤのけして逞しくはないが強かな身体が、自分に絡みついてきた感触をNは自分の腕で自分の身体を掻き抱くことで反芻していた。身体は少年のようなのに節くれだった指は、大人のそれそのものだった。自分の内部を穿ってきたそれも大人そのもので、少しNを混乱させる。Nはトウヤをまるで同世代みたいに呼んだり接しているところがあるが、要所要所で相手が大人だという事実を突きつけられる。
だいたいトウヤは童顔のくせに声は異様に低く渋い。普段明るくしていれば明るくしているほど、真剣な言葉は真剣な声に相まって心に刺さる。もしかしたら自分はその声音が与えてくる言葉のストレスに振り回されているだけなんじゃないかとNは分析紛いのことを考えた。そうすれば楽に考えられるかもと思ったから。
トウヤはちらっとNを見てぶきらぼうに気が済んだかなと問いかけてくる。
「え?」
ふいを突かれたNは何を尋ねられているのかと首を捻った。
「その…セックスして性欲解消したかったっていうの。」
「あ、ああ……。なんだかんだでスッキリしたし。」
「そう。良かったよ。」
Nがトウヤを巻き込んだ形だったとはいえ、トウヤの言葉の歯切れが悪い。
「トウヤ?」
トウヤはいきなりNのほうに身体を傾けてきたと同時に、Nを巻き込んでベッドの上に倒れこんできた。
「N。恥を忍んで頼むんだが、もう一回してもいいかな?」
「え? え?」
トウヤの腰のバスタオルが不自然に浮き上がっているのがNにはわかった。
「と、トウヤ。勃起して……るの?」
「ほんとに何て君に謝ればいいかわかんないんだけど。まだ収まらないんだ。一回だけって言ったのに……一回だけじゃ済まないみたいなんだ僕、年甲斐がないって軽蔑してくれてもこの際いいよ。僕も僕自身が情けない。こんな歯止めの利かない男が僕だなんて僕が認めたくないよ。」
情けなさに泣きそうなトウヤの頭をNは衝動的に撫でた。
「だ、大丈夫だよ。」
「助けてくれるかい? N?」
涙が滲んでいるトウヤの背中をぽんぽんと叩きながら、Nは今この男を助けてやれるのは自分しかいないと、男の癖に母性的な感情が生まれつつあった。
「だから泣かないでね。しょうがないよね。それがオスの生理だからね。ポケモンもニンゲンも同じことだよね。」
トウヤはNの言葉を聞きながらNの足に硬くなった自分自身を押し付けた。
チェレンが佇んでいる場所は屋根も壁もない森の中だった。日はもう暮れなずんでいるし、街が近い森なのにこんなところで、この時間に好き好んで留まっているのはチェレンくらいのものだろう。街から街の移動の際に野宿をするというのはポケモントレーナーにとっては日常なのだが、街で泊まれるポケモンセンターや宿があれば当然彼らは自分の身のためにそこに宿泊する。ポケモンもボールに入っているのだから特にトレーナーの寝泊りする場所について気にする者はいない。人間の住居に慣れているポケモンならボールに入っていなくてもトレーナーと一緒ならその場所に馴染める。
だがチェレンは己が考えすぎる性分故に極端な選択肢を取ってしまった。
チェレンはポケモンセンターに泊まったことがない。この旅に出てから他の宿泊施設を利用したこともない。いつも街の外れのポケモン達が落ち着くであろう森の中や草原で野宿をしていた。
理由は単純だった。子どもの頃から自分のポケモンを手にすることを夢見ていたチェレンは、ポケモンをモンスターボールに閉じ込めっぱなしにするのは避けたいと思った。というかそんなことをするのが惜しいくらいにポケモンと触れ合いたかったのだった。チェレンにゲットされたポケモンはまだ人間がいる場所に慣れていないだろうとチェレンは思っている。宿の中でモンスターボールから出せば彼らは落ち着かないだろうと思ったし、ポケモンセンターだと他のトレーナーもうじゃうじゃいる。人見知りする癖のあるチェレンは自分でそこからあぶれてしまうことにした。
「ツタージャ。薪ありがとう。」
野外の炊事には慣れてきていた。ツタージャはチョロネコやヒヤップをよくまとめてくれているし、新しく入ってきたマメパトも早々に馴染もうとしている。
癒されるという言葉では筆舌に尽くしがたいほど、チェレンは目の前のポケモン達の姿に胸の内を熱くしていた。だけどそんな幸せを顔に出してしまったらトレーナーとしては三流であることをチェレンは知っていた。ポケモンにはあくまで頼れるトレーナーでなくてはいけない。だからチェレンは笑顔を押し殺してツタージャの頭を撫でた。
「けほっ。」
チェレンは自分の咳に慌てて口を押えた。ツタージャを恐る恐る見るがツタージャはその咳に気づいていないように火の中に薪を入れている。他のポケモン達も気づいていない。チェレンは胸を撫で下ろす。ポケモン達をモンスターボールから出して一緒にいられるように野宿を続けているが、元々が身体が丈夫でないチェレンにとって野外で夜を明かすのは普通のトレーナーより身体に負担がかかっていた。ただ弱かった頃の自分を晒したくないチェレンは、ふいに出てきた軽い咳一つにも動揺してしまう。身体的に弱いトレーナーだとポケモン達に思われたら、心配をかけてしまう。そんなことは避けなければならない。トレーナーの優秀さは頭脳が明晰なだけでは駄目だ。ポケモン達が最終的に頼らざるをえないのはトレーナーなのだから。自分がしっかりしなければ。
「少年。シチューが焦げるぞ。」
後ろから声を掛けられる。慌ててチェレンは声に釣られて鍋をかき混ぜようと身体を起こしたが、その拍子に連続した咳がチェレンを襲った。
「よいよい。儂が代わりにやってやる。」
チェレンの前に現れた偉丈夫とも呼べる赤毛の男は片手でおたまを持って鍋をかき回し、もう片手でチェレンの背中を摩った。服の上からでも感じるごつくて温かい手のひら。チェレンは憧憬を覚えると同時に自分と遥かに違いすぎる男の造作に軽い反発心を持った。
咳を収めてチェレンは男の手からおたまを引っ手繰る。
「いいです。自分でやります。」
「そうか。」
チェレンは改めてその男を一瞥する。気さくそうな好々爺の二歩か三歩か手前の年齢っぽく見える。人が好さそうなのに、どこか人を喰ったかのような印象を覚える。どうしてチェレンに声を掛けてきたかは分からないが、そのまま男はチェレンの横に座り立ち去る気配がない。
「なんなん、ですか。」
「いや。風邪をこじらせているなら街に泊まれば良いのではないかと思ってな。」
さっきの咳でなんだか色々推測されたようだとチェレンは眉間に皺を寄せる。男が言った通りチェレンは少し風邪をひいていた。そしてそれは野宿続きの毎日で完治が長引いていた。薬を飲んで症状は抑えているが、どうしても軽い咳は出てしまう。
「少年よ。トレーナーも生身だからな。あんまり無理はせんほうがよい。身体が資本じゃからな。」
「余計なお世話です。僕は無理なんてしてない。勝手に僕のことを推測して口を出さないでください。」
男は困ったように眉を下げた。
「少年……」
「ちなみに!」
チェレンは声を荒げる。
「トレーナー初心者だと思ってあなたは僕を少年と呼びますが、僕はこう見えても年齢的には成人してるんです。だからその呼び方ははっきり言って不快です。」
「なら名前を教えてくれんか? ちなみに儂はアデクという。」
何処かで聞いた名前だなとチェレンは思ったが唐突に思い出した。しかしチェレンが知っているアデクならこんなところにいるはずがない。なら彼と同名の別人の可能性のほうが高い。チェレンはぶっきらぼうに言う。
「先に名乗って頂いてありがとうございます。僕はチェレンって言います。見ての通りのトレーナーですが。」
「儂もトレーナーじゃ。ていうか知らんかのう。アデクと言えばイッシュのチャンピオンなのじゃが。」
「はあ。チャンピオンのアデクさんと同じ名前なんですね。」
「本人なのだがなあ。」
チェレンはえっと身が竦んでしまった。
「し、失礼しました……。バッチ一つやっと取れた僕が、まさかチャンピオンに会えるとは思わなかったから。」
語尾がだんだんと掠れて小さくなっていくチェレンにアデクは笑顔を見せた。
「そこまで畏まることはない。儂もうん十年前にはバッチ一つがやっとの身じゃったからな。みんなそこから始まるんじゃ。」
でもチャンピオンになれるのはただ一人だろうと、少し卑屈な気分で心の中で呟いた。よく見ればアデクはチャンピオンという肩書に相応しい男に見える。逞しい身体や包容力のある気質を窺わせる笑顔やオーラ。チェレンにはまだ無いものだった。この先も手に入れられるかどうか定かではない憧憬するものだった。
「チャンピオン。ほんとにさっきは失礼しました。」
「しらん人間から後ろから声かけられれば警戒するじゃろ。ニンゲンに慣れてないポケモンと一緒じゃ。」
「それはそうですけど。」
「ところでそれはそうと、その鍋のシチューをご相伴させてもらっていいかな? 儂は実は腹が減っていたんじゃ。」
シチューの匂いに釣られたんだなとチェレンは呆れながら納得した。スプーンはともかく皿は余分に無いので自分の大き目のマグカップにシチューをよそってやる。本来なら次の朝食のつもりで二人前以上は作っていたのだが、欲しいというならしょうがない。
チェレンはポケモンたちのためにフードを用意したあと、やっと自分の分のシチューをよそう。アデクはチェレンを待っていたかのようにいただきますと言って食べ始めた。
「お口に合いますか?」
「儂のようなジジイに染み入る言葉じゃな。腹が減っているときにはなんでも美味いというが、このシチューは絶品じゃ。世の男はこんなシチューを毎日食べたいと思うんじゃろうな。疲れて帰った家にこんなシチューが待っておったら、ああ明日も頑張ろうなと思うじゃろう。そしてそのシチューを喰っている様子をニコニコと笑って見てくれる作り手がおったら、まさに至福とか桃源郷という言葉がぴったりじゃろう。」
「僕みたいな男が作ってごめんなさいね。」
「ほれまたそんな眉間に皺寄せて捻くれた受け答えをする。儂は素直に美味しいと言っておるじゃろ。年寄りの数少ない褒め言葉を引き出したのじゃから素直に得意になっていればよい。」
いやあんたはこんな風に誰にでも褒め言葉を連ねるんだろうと、チェレンはあくまで無表情で受け流していた。少し嬉しいと思うのが癪だった。誰かに手料理を振る舞うなんて初めてだったから。
そういえば旅に出て人間と喋ったのは、カラクサタウンでトウヤと話したきりだったと思い返す。他はポケモンに話しかけるだけだったり、ジムリーダーと一言二言何か言ったような言われたような記憶しかない。
「せっかく旅に出てるんじゃから、ポケモンばかりだと息が詰まるぞ。ポケモンだって自分のトレーナー以外の人間に会わんといつまでたっても人間に慣れっこない。」
チェレンも思い返せばポケモンを強くするということにしか頭が回ってなかったように思う。二十四年間ほぼ閉じられた世界の中で過ごした自分と同じような境遇に、ポケモン達を置こうとしていたかもしれないという現実に気が付いて、チェレンはスプーンを持つ手を止めて呆然としてしまった。
「今日ここであなたと出会わなかったら僕は……」
「いや。そんなたいしたことじゃないじゃろ。儂は森の中では珍しいシチューの匂いに釣られただけじゃ。まあ明日からは風邪が治るまではちゃんとした宿に泊まることじゃ。今は気づかれないようにしても、お前さんが無理をしていることはそのうちポケモンも気づく。いや、既に気づかれているのかもしれん。お前さんがゲットしたポケモンは、進化はしていないが年季が入っていそうな気がする。」
「わかるんですか。そんなこと。ツタージャは研究所で貰ったばかりだし、他のポケモンもそこまでレベルが高くないですよ。」
「年季というのは言い間違いかもしれん。単に歳を喰ってるだけじゃ。こやつら見かけは幼くて可愛くて、レベルも低いが、レベルが低いまま歳を喰って、弱いまま老獪になってるからのう。そんな奴らをお前さんがたまたまゲットしたんじゃろう。ツタージャもなんらかの事情で歳を喰ったのがお前さんに巡りあったんじゃろう。ちなみに儂の特技はポケモンの歳を当てることじゃ。今まで約七割五分の確率で的中させてきたわ。」
それはかなり微妙じゃないかとチェレンは思ったが、思い当たる節はあった。さっき咳をした時もツタージャに気づかれていないと思ったが、実は気づいていない振りをしていたのかもしれないと思った。咳とは思わなくても変な音がした方向を向いてしまうのは人間も変わらない。しかしツタージャは単なる音でさえも悟った様子もなかった。それは人間の咳の音だと分かっていながら、それでもその人間に駆け寄らなかったのは、チェレンの性格と裏に隠れた事情を察して何も聞こえなかった振りを自然としていた可能性がある。アデクの言うように見かけの可愛らしさに騙されていたが、本当にポケモンとしては歳を重ねた個体なのかもしれない。
「おじいちゃんおばあちゃんぐらいでしょうか。」
「いや。まだおじさんおばさんぐらいじゃろう。まだまだやれる歳じゃ。儂のようにな。少しくらい無理させたほうが身体のためじゃし、こういうポケモンのほうがバトルで勝負強くなる。若い個体ほどパワーはないかもしれんが、その分粘り強く細かい芸が出来るようにもなるしな。」
「ポケモンのおじさん達は気難しいということはないでしょうか?」
「お前さんの性格のほうが余程気難しいと思うぞ。」
チェレンは一本取られてしまった。それにしてもアデクという壮年の男は、精神が捻くれることなく真っ直ぐに歳を重ねた理想の年寄りの姿っぽいなとチェレンに思わせた。他の地方ではもっと若いチャンピオンがいると聞く。やはり実力と最強の象徴たるトレーナーとしては若いほうがイメージの通りがいいのかもしれない。だけどやはり重ねた年輪の深さや厚さを目の当たりにすると圧巻されてしまう。
例え口数が多くて、距離なしで、通りがかりに若者のメシをたかるという現実があったとしても。
今日この時に会っていなかったら、自分は自分のポケモンたちの真実の姿を知ることなく、意固地な思い込みの世界に閉じこもっていたのかもしれない。
「ちゃ……アデクさんも今夜は野宿ですか?」
チェレンは自分でも驚くほど他人に立ち入ったような問いかけをした。ただの一言だったがチェレンにとってはもの凄く勇気が必要なことだった。
「うん。そうじゃよ。」
なんてことないようにアデクは答えた。その、と口籠るチェレンを先越してアデクは今日はお前さんと、お前さんのおじさんおばさんポケモンと一緒に寝るかのうと誘ってきた。
「え。ええ! ぼ…僕がちゃ、アデクさんと。初めて会ったばかりじゃないですかっ。」
「同じ釜の飯を食ったじゃろう。あ。ついでに儂、ライブキャスターを最近買ったのじゃ。番号交換せんかのう。」
「えええええ?」
チェレンは混乱しながらも浮足立ったように大急ぎで自分のバッグからライブキャスターを取り出した。断る理由はなかった。天の上の人間が自分のような駆け出しと交流しようと言ってくるのは、どんな棚から牡丹餅だ。もう二度とない機会に衝動的に飛びついてしまった。
「えーと…これをこうして、赤外線は出来るんかの?」
「か、貸してください。やります。」
「そうじゃのう。機械は若いもんに任せたほうがいい。」
最新テクノロジーの前では普通の可愛いじいちゃんになってしまうチャンピオンだった。
チェレンが互いに登録し終えるとおずおずとアデクにライブキャスターを返した。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
世代を越えた微笑ましいトレーナー同士の交流を見ていたのは、見た目とは裏腹のおじちゃんおばちゃんポケモン達だった。その静かな目線は自分より幼いトレーナーが一皮剥けた瞬間を祝福しているようだった。
後半に続く
Nは一度だけ人間に嘘をついたことがある。森でポケモンと生活していたところを彼に保護という名の確保された、その日のことだった。彼はNが物語るまでもなく、Nの能力をNよりも理解していた大人だった。それを踏まえた上で彼はNに問うてきた。
『君はポケモンの心の声が聞こえるらしいが、人間の心の声は聞こえるのかな。』
まだ男はNに現在ほど恭しくはなかった。無機質な声だったが出来る限り優しく話そうとしているような不器用さが窺えた。繋がれた手は大人特有の乾いた感触だった。溶け込めない意識と皮膚による隔絶を実感させた。だがゲーチスは幼い子どもに出来る限りの歩み寄りを見せていた。
なのにNは、その不器用な優しい問いかけに誠実には答えなかった。
『ぼくがきこえるのは、トモダチの声だけ。ぼくがニンゲンと話せるのはことばだけ。』
『そうなのか。』
それは都合がいい。
言外の言葉が聞こえた。やはりNは正直に話さなくて良かったと思った。遠い未来で思えば却って悪かったかもしれない。だが、幼かったNは、その時はポケモンの心の声が分かると同時に、同じように心を持っている人間の心の声もわずかに探知できることは、この彼、のちの義父であるゲーチスには永遠に隠すことになった。利用されることが嫌だったわけではない。だがNはゲーチスの手に引かれるままあの城の中に入った。
ゲーチスの本当の思惑をNは知っている。だけど彼の表向きの目的を、自分ならゲーチスが率いるプラズマ団の真の目的に引っ繰り返せるかもしれないと考えるから、Nは彼ことゲーチスの傀儡に敢えてなった。まるで古の戯曲で語られたとある国の王子ように、自らの目的とは反対の世界に留まり続けている。
『N様。ポケモンの解放、五匹ほど成功しました。』
「ありがとう。」
Nはライブキャスターごしの相手に小声で感謝して微笑みかける。同じ服を身に着けていながら、プラズマ団は密かに真っ二つに割れていた。彼女はN側の人間だった。
トウヤは今、Nのあとからシャワーを浴びている最中だった。その隙にNは同志の一人である人間とゲーチスには秘密の会話をしていた。
『本当なら全部解放したいのですが』
「僕も気持ちは同じだ。だけど今それをしたら反動が大きいからね。彼らが見過ごす程度の成果で今は満足しておこう。」
『いつか引っ繰り返せるんですかね? 戯曲を元にしたゲームのような戦略で、全て白に塗りかえるか。それとも黒にしてしまえるか。』
「君の言葉の喩えは相変わらず美しいな。」
『私はN様とは違って数学が苦手なんですけどね。』
大昔の古典の知識をライブキャスターごしの団員が教えてくれたことがある。優れた文学はNが好む数学と並んで美しいとNは思った。計算され尽くした描写や物語の展開は、いつまで経っても褪せない普遍を思わせた。
ただし美しさは感じてもNがやり遂げなければならないのは、もっと現実的なことだ。正しさは勝利せねばならない。破滅の美は無意味である。
「君はこのまま次の彼らの隙を待つんだ。いいね。絶対に無理をしちゃいけない。」
『はい。私が手解きしたN様が、このように頼もしいことを言って下さる日が来るとは。』
Nにオペレーターとしての手解きをしたのは、画面越しの彼女だった。Nは呼ぶことは少ないが彼女は名前をハッサクと言った。頭に炊事用の手拭いを被った中年の小母さんで、プラズマ団の中では団員の生活部分の指揮者である。プラズマ団は外部からの雇用者を呼べない集団なので内部で生活部分も団員に分担させている。家事のエキスパートの彼女はそんなプラズマ団の食堂のおばちゃんでもあり、生活部分の責任者でもあった。一見家庭的で見た目はプラズマ団とは思えないが、彼女は古典の戯曲を諳んじ、様々な経歴を持つ優秀なオペレーターでもあった。
Nは彼女に色んなことを教えてもらい、そのお蔭でプラズマ団内の様子を知ることが出来た。だからNも彼女に彼女がずっと探している人物の情報を提示する。
「君の探している女子高時代の友人は、ライモンのアンダーグラウンドでポケモンバトルをしているらしい。君への土産話としてはどうかなと思うけど、君の目的の一つはこれで達成できると思うんだ。」
『……アマナツが。相変わらず馬鹿なやつだよ。』
「どうする? 今すぐ彼女のところに行ってみるかい?」
ハッサクは首を振る。
『それはまたいつかの機会にしたいと思います。それではN様も良き旅を。』
ライブキャスターの画像と音声はそこで途切れた。Nはけだるい身体を再びベッドに横たえる。水音が止み物音を立てながらトウヤがシャワールームから出てきた。
「N。調子は……まだ戻ってなさそうだな。」
Nは半ば気まずそうな素振りを見せるトウヤに対してベッドに顔を伏せたまま返事をする。
「君があんな滅茶苦茶するとは思わなかった。」
「ごめんよう。」
済まなそうな声とは裏腹に顔はすっきりしているんだろうとNは思った。Nは相変わらず人間の心の声もうっすらと読み取ることが出来た。トウヤが最中に何を考えていたのかもわかってしまう。トウヤの一部がNの中に入っていたのだから、余計にいつもの感応力が強化されていたような気がする。
『もともとのトウヤの執念が強いのもあるんだろうけど。目の前の相手通り越してチェレンのことしか考えてないんだから。』
肉声のようにはっきりとNの脳に響いてきたのは、トウヤがここにはいないチェレンを呼ぶ悲鳴とも思えるような声だった。
チェレンが本命なことは、それはあらかじめ提示されている事実だったからしょうがないかとNは思い直して顔をあげた。
「N。さっきの間に君だけ服を着てるなんて随分と薄情なんだな。」
ライブキャスターは実際の画像も相手に送ってしまうので、まさかの裸姿を晒すわけにはいかなかった。Nはしまったと少し焦る。
「こういうのは薄情に思われるのか。そうか。」
Nはわざと無神経な世間知らずを装った。なんだかこの男と出会ってから嘘をつくまではいかないが、なにかと誤魔化す癖が出来つつある。少し悪い兆候かなとNは思った。
トウヤはまだ少し滴の残った髪の毛のままベッドに座った。
「君こそ服着ないのかい? 風邪ひくよ。」
腰にバスタオルを巻いているだけのトウヤにNは言う。トウヤはまだ暑いからと軽く流した。トウヤの身体はいかにも思春期から未発達といった加減を絵に描いたような身体だった。はっきり言って貧弱の一歩手前。痩せぎすで節々だけがごつく見える。背もNより低い。三十代の成熟した肉体とは呼べない気がする。
「なんだい?」
「トウヤって少しやせ過ぎなのかなって。」
「あのねえ、男の真価は体格の良さじゃないんだぜ。過去の英雄でも小男が天下を取ったという事実はごまんとある。」
「だけどそういう人って小狡いというか、頭で伸し上がった人たちだから。」
そういう英雄の裏話は、英雄らしい英雄だった男たちに比べて多かったようにNの記憶には残っている。だからトウヤに反論してしまった。
「だけどその反面、彼らはロマンチストな側面を持っていた。いつも恋をしていた。」
「沈着と情熱は彼らの内側では両極端ではないんだね。往々にしてそれは融合し彼らはその思念とも感覚ともつかぬものに突き動かされていたということか。だけど、彼らのその恋は大抵叶っていないような気がするんだけど。」
「そうかな? まあ器のキャパシティは体格に比例しないってことだよ。」
トウヤは自分の矮躯を弁護したいようだが、どうしようもない空しさを伴っているような気がするのは、Nがその裏を掻きすぎなのだろうか。Nは情事の余韻とは別にやはり好奇心が優先する人間であることを、自分自身で再確認した。そして今もっともそぐわないことをトウヤに問いかける。
「ねえトウヤ。君はジムに挑戦するつもりなんだろ。」
トウヤはさも当たり前のように頷いた。頭の切り替えの早さは身に着けた事務的な処世術のようだった。抱いた抱かれたの関係から、また一対一の男同士の関係に戻ってしまった。
「そりゃそうだろう。君もだろ。ポケモントレーナーなら。ちなみに君はチョロネコで挑むつもりなんだろうね。わかるよ。苦労しているのは。」
「え? チョロネコは頼りになるよ。」
「え?」
トウヤがNに身を乗り出してきた。
「その……君のチョロネコ。彼はちゃんと使えるのかい?」
「使えるって言い方やめてくれない。」
「いや会社員時代の癖で、人間に対しても使ってたから。じゃあ、レベルかなり上げているんだね。それならなんとかなるよね。」
「あのね。君はどうしてチョロネコが頼りにならないとか弱いとかという前提で話を進めているんだい?」
Nが本格的に怒りそうなのでトウヤは質問攻めを一旦やめた。
「ごめん。やっぱり彼女が使えないのは僕の努力不足っぽいな。」
トウヤはこれでチェレンのチョロネコも使えると聞いた日には、本当の意味で落ち込んでしまいそうな顔色をNの前で晒す。
「トウヤ。最初の話にもどるけど。僕もサンヨウのジムに挑戦するんだ。そして勝ってジムバッジが取れれば、また次の町のジムに行く。そしてまた町を移ってジムバッジを集めるよ。」
「熱心なことだね。」
「最終的にはポケモンリーグに挑戦したいから。それでチャンピオンに到達したいから。」
「僕が知ってる君にしては好戦的な目標だね。」
「やらなくちゃいけないことだから。」
「やりたいことじゃないわけだね。」
「やりたいことに必要なことだから。」
トウヤは溜息をつく。やらなくちゃいけないこと。このイッシュの頂点に立つチャンピオンに勝つことも相当な目標なのに、その上にやりたいこととはいったいどれほどの壮大な目的なのか。トウヤには皆目見当がつかない。
「まあ君はまだ若いからね。いくらでもやれる歳だから。」
「君こそトレーナーになりたてなのに、どうしてそんな他人事なんだ。」
「その理由を言ったらまた君が怒る。」
そうかとNは食いついてこなかった。なんだか嫌に察してもらえてしまったようだとトウヤは苦笑する。トウヤが行く先々のジムに挑戦するのは、チェレンと同じ場所にいたいという動機が一番だ。そのような動機でジムに挑戦するなんて、不純だとまたNに怒られてしまうのは必至だった。だから今回は前回の反省として、お互いにそれ以上はそのことには踏み込まなかった。
「ちょっと僕らしくないこと言うけどいいかな?」
「なにかな。」
トウヤはふっと目を閉じて手のひらを何かを包み込むような形で胸の前に翳す。Nはその仕草がモンスターボールを握っている感じだな眉を顰めた。
「ただの入れ物のこれが、日に日に僕の中で存在感を増していく。彼らが強くなっていくのが僕の強さだと錯覚するくらいに。」
「それは単に君に彼らの能力に対して指揮権が保証されているが故じゃないの?」
トウヤは目を閉じたまま首を振った。
「違うよ。そんなんじゃない。わかるんだ。僕が強くなければ彼らは強くなれない。」
Nはその言葉だけには反発はしなかった。なぜかは自分でも釈然としないが、その言葉を否定すれば自分の考えた理想郷が一瞬の間に虚構に落ちると察したためだ。トウヤの言葉が核心を突く前にトウヤの神掛かった言葉を現実に引き戻そうとした。
「君はこの先もしチェレンとそれなりの関係になれたとしたら、君は君の旅をどうするつもりなんだい。」
「チェレン次第だな。彼にとって僕が必要なら僕はずっとポケモンと旅をするよ。たぶんそうなる可能性は高い。彼は子供のときに身体が弱かったんだ。トレーナーになることだけが病気と戦うモチベーションを保っていたようなものだった。やっと念願が叶ったし、彼なりに身体も鍛えているけど、やっぱり昔から彼を見てきた僕には彼の身体のことが心配なんだ。本当に傍にいて、僕が彼を支えられたらいいなと思ってる。」
Nはトウヤの言葉を聞いて色んな意味で合点がいった。男が男に入れ込むトウヤの現状には、チェレンの肉体の脆弱さが強く関わっていた。保護欲が所有欲になり性欲も加わっているとなれば、この男はどれだけ貪欲になれるか、Nはその身を以て先ほど知ったばかりだった。
トウヤのけして逞しくはないが強かな身体が、自分に絡みついてきた感触をNは自分の腕で自分の身体を掻き抱くことで反芻していた。身体は少年のようなのに節くれだった指は、大人のそれそのものだった。自分の内部を穿ってきたそれも大人そのもので、少しNを混乱させる。Nはトウヤをまるで同世代みたいに呼んだり接しているところがあるが、要所要所で相手が大人だという事実を突きつけられる。
だいたいトウヤは童顔のくせに声は異様に低く渋い。普段明るくしていれば明るくしているほど、真剣な言葉は真剣な声に相まって心に刺さる。もしかしたら自分はその声音が与えてくる言葉のストレスに振り回されているだけなんじゃないかとNは分析紛いのことを考えた。そうすれば楽に考えられるかもと思ったから。
トウヤはちらっとNを見てぶきらぼうに気が済んだかなと問いかけてくる。
「え?」
ふいを突かれたNは何を尋ねられているのかと首を捻った。
「その…セックスして性欲解消したかったっていうの。」
「あ、ああ……。なんだかんだでスッキリしたし。」
「そう。良かったよ。」
Nがトウヤを巻き込んだ形だったとはいえ、トウヤの言葉の歯切れが悪い。
「トウヤ?」
トウヤはいきなりNのほうに身体を傾けてきたと同時に、Nを巻き込んでベッドの上に倒れこんできた。
「N。恥を忍んで頼むんだが、もう一回してもいいかな?」
「え? え?」
トウヤの腰のバスタオルが不自然に浮き上がっているのがNにはわかった。
「と、トウヤ。勃起して……るの?」
「ほんとに何て君に謝ればいいかわかんないんだけど。まだ収まらないんだ。一回だけって言ったのに……一回だけじゃ済まないみたいなんだ僕、年甲斐がないって軽蔑してくれてもこの際いいよ。僕も僕自身が情けない。こんな歯止めの利かない男が僕だなんて僕が認めたくないよ。」
情けなさに泣きそうなトウヤの頭をNは衝動的に撫でた。
「だ、大丈夫だよ。」
「助けてくれるかい? N?」
涙が滲んでいるトウヤの背中をぽんぽんと叩きながら、Nは今この男を助けてやれるのは自分しかいないと、男の癖に母性的な感情が生まれつつあった。
「だから泣かないでね。しょうがないよね。それがオスの生理だからね。ポケモンもニンゲンも同じことだよね。」
トウヤはNの言葉を聞きながらNの足に硬くなった自分自身を押し付けた。
- * *
チェレンが佇んでいる場所は屋根も壁もない森の中だった。日はもう暮れなずんでいるし、街が近い森なのにこんなところで、この時間に好き好んで留まっているのはチェレンくらいのものだろう。街から街の移動の際に野宿をするというのはポケモントレーナーにとっては日常なのだが、街で泊まれるポケモンセンターや宿があれば当然彼らは自分の身のためにそこに宿泊する。ポケモンもボールに入っているのだから特にトレーナーの寝泊りする場所について気にする者はいない。人間の住居に慣れているポケモンならボールに入っていなくてもトレーナーと一緒ならその場所に馴染める。
だがチェレンは己が考えすぎる性分故に極端な選択肢を取ってしまった。
チェレンはポケモンセンターに泊まったことがない。この旅に出てから他の宿泊施設を利用したこともない。いつも街の外れのポケモン達が落ち着くであろう森の中や草原で野宿をしていた。
理由は単純だった。子どもの頃から自分のポケモンを手にすることを夢見ていたチェレンは、ポケモンをモンスターボールに閉じ込めっぱなしにするのは避けたいと思った。というかそんなことをするのが惜しいくらいにポケモンと触れ合いたかったのだった。チェレンにゲットされたポケモンはまだ人間がいる場所に慣れていないだろうとチェレンは思っている。宿の中でモンスターボールから出せば彼らは落ち着かないだろうと思ったし、ポケモンセンターだと他のトレーナーもうじゃうじゃいる。人見知りする癖のあるチェレンは自分でそこからあぶれてしまうことにした。
「ツタージャ。薪ありがとう。」
野外の炊事には慣れてきていた。ツタージャはチョロネコやヒヤップをよくまとめてくれているし、新しく入ってきたマメパトも早々に馴染もうとしている。
癒されるという言葉では筆舌に尽くしがたいほど、チェレンは目の前のポケモン達の姿に胸の内を熱くしていた。だけどそんな幸せを顔に出してしまったらトレーナーとしては三流であることをチェレンは知っていた。ポケモンにはあくまで頼れるトレーナーでなくてはいけない。だからチェレンは笑顔を押し殺してツタージャの頭を撫でた。
「けほっ。」
チェレンは自分の咳に慌てて口を押えた。ツタージャを恐る恐る見るがツタージャはその咳に気づいていないように火の中に薪を入れている。他のポケモン達も気づいていない。チェレンは胸を撫で下ろす。ポケモン達をモンスターボールから出して一緒にいられるように野宿を続けているが、元々が身体が丈夫でないチェレンにとって野外で夜を明かすのは普通のトレーナーより身体に負担がかかっていた。ただ弱かった頃の自分を晒したくないチェレンは、ふいに出てきた軽い咳一つにも動揺してしまう。身体的に弱いトレーナーだとポケモン達に思われたら、心配をかけてしまう。そんなことは避けなければならない。トレーナーの優秀さは頭脳が明晰なだけでは駄目だ。ポケモン達が最終的に頼らざるをえないのはトレーナーなのだから。自分がしっかりしなければ。
「少年。シチューが焦げるぞ。」
後ろから声を掛けられる。慌ててチェレンは声に釣られて鍋をかき混ぜようと身体を起こしたが、その拍子に連続した咳がチェレンを襲った。
「よいよい。儂が代わりにやってやる。」
チェレンの前に現れた偉丈夫とも呼べる赤毛の男は片手でおたまを持って鍋をかき回し、もう片手でチェレンの背中を摩った。服の上からでも感じるごつくて温かい手のひら。チェレンは憧憬を覚えると同時に自分と遥かに違いすぎる男の造作に軽い反発心を持った。
咳を収めてチェレンは男の手からおたまを引っ手繰る。
「いいです。自分でやります。」
「そうか。」
チェレンは改めてその男を一瞥する。気さくそうな好々爺の二歩か三歩か手前の年齢っぽく見える。人が好さそうなのに、どこか人を喰ったかのような印象を覚える。どうしてチェレンに声を掛けてきたかは分からないが、そのまま男はチェレンの横に座り立ち去る気配がない。
「なんなん、ですか。」
「いや。風邪をこじらせているなら街に泊まれば良いのではないかと思ってな。」
さっきの咳でなんだか色々推測されたようだとチェレンは眉間に皺を寄せる。男が言った通りチェレンは少し風邪をひいていた。そしてそれは野宿続きの毎日で完治が長引いていた。薬を飲んで症状は抑えているが、どうしても軽い咳は出てしまう。
「少年よ。トレーナーも生身だからな。あんまり無理はせんほうがよい。身体が資本じゃからな。」
「余計なお世話です。僕は無理なんてしてない。勝手に僕のことを推測して口を出さないでください。」
男は困ったように眉を下げた。
「少年……」
「ちなみに!」
チェレンは声を荒げる。
「トレーナー初心者だと思ってあなたは僕を少年と呼びますが、僕はこう見えても年齢的には成人してるんです。だからその呼び方ははっきり言って不快です。」
「なら名前を教えてくれんか? ちなみに儂はアデクという。」
何処かで聞いた名前だなとチェレンは思ったが唐突に思い出した。しかしチェレンが知っているアデクならこんなところにいるはずがない。なら彼と同名の別人の可能性のほうが高い。チェレンはぶっきらぼうに言う。
「先に名乗って頂いてありがとうございます。僕はチェレンって言います。見ての通りのトレーナーですが。」
「儂もトレーナーじゃ。ていうか知らんかのう。アデクと言えばイッシュのチャンピオンなのじゃが。」
「はあ。チャンピオンのアデクさんと同じ名前なんですね。」
「本人なのだがなあ。」
チェレンはえっと身が竦んでしまった。
「し、失礼しました……。バッチ一つやっと取れた僕が、まさかチャンピオンに会えるとは思わなかったから。」
語尾がだんだんと掠れて小さくなっていくチェレンにアデクは笑顔を見せた。
「そこまで畏まることはない。儂もうん十年前にはバッチ一つがやっとの身じゃったからな。みんなそこから始まるんじゃ。」
でもチャンピオンになれるのはただ一人だろうと、少し卑屈な気分で心の中で呟いた。よく見ればアデクはチャンピオンという肩書に相応しい男に見える。逞しい身体や包容力のある気質を窺わせる笑顔やオーラ。チェレンにはまだ無いものだった。この先も手に入れられるかどうか定かではない憧憬するものだった。
「チャンピオン。ほんとにさっきは失礼しました。」
「しらん人間から後ろから声かけられれば警戒するじゃろ。ニンゲンに慣れてないポケモンと一緒じゃ。」
「それはそうですけど。」
「ところでそれはそうと、その鍋のシチューをご相伴させてもらっていいかな? 儂は実は腹が減っていたんじゃ。」
シチューの匂いに釣られたんだなとチェレンは呆れながら納得した。スプーンはともかく皿は余分に無いので自分の大き目のマグカップにシチューをよそってやる。本来なら次の朝食のつもりで二人前以上は作っていたのだが、欲しいというならしょうがない。
チェレンはポケモンたちのためにフードを用意したあと、やっと自分の分のシチューをよそう。アデクはチェレンを待っていたかのようにいただきますと言って食べ始めた。
「お口に合いますか?」
「儂のようなジジイに染み入る言葉じゃな。腹が減っているときにはなんでも美味いというが、このシチューは絶品じゃ。世の男はこんなシチューを毎日食べたいと思うんじゃろうな。疲れて帰った家にこんなシチューが待っておったら、ああ明日も頑張ろうなと思うじゃろう。そしてそのシチューを喰っている様子をニコニコと笑って見てくれる作り手がおったら、まさに至福とか桃源郷という言葉がぴったりじゃろう。」
「僕みたいな男が作ってごめんなさいね。」
「ほれまたそんな眉間に皺寄せて捻くれた受け答えをする。儂は素直に美味しいと言っておるじゃろ。年寄りの数少ない褒め言葉を引き出したのじゃから素直に得意になっていればよい。」
いやあんたはこんな風に誰にでも褒め言葉を連ねるんだろうと、チェレンはあくまで無表情で受け流していた。少し嬉しいと思うのが癪だった。誰かに手料理を振る舞うなんて初めてだったから。
そういえば旅に出て人間と喋ったのは、カラクサタウンでトウヤと話したきりだったと思い返す。他はポケモンに話しかけるだけだったり、ジムリーダーと一言二言何か言ったような言われたような記憶しかない。
「せっかく旅に出てるんじゃから、ポケモンばかりだと息が詰まるぞ。ポケモンだって自分のトレーナー以外の人間に会わんといつまでたっても人間に慣れっこない。」
チェレンも思い返せばポケモンを強くするということにしか頭が回ってなかったように思う。二十四年間ほぼ閉じられた世界の中で過ごした自分と同じような境遇に、ポケモン達を置こうとしていたかもしれないという現実に気が付いて、チェレンはスプーンを持つ手を止めて呆然としてしまった。
「今日ここであなたと出会わなかったら僕は……」
「いや。そんなたいしたことじゃないじゃろ。儂は森の中では珍しいシチューの匂いに釣られただけじゃ。まあ明日からは風邪が治るまではちゃんとした宿に泊まることじゃ。今は気づかれないようにしても、お前さんが無理をしていることはそのうちポケモンも気づく。いや、既に気づかれているのかもしれん。お前さんがゲットしたポケモンは、進化はしていないが年季が入っていそうな気がする。」
「わかるんですか。そんなこと。ツタージャは研究所で貰ったばかりだし、他のポケモンもそこまでレベルが高くないですよ。」
「年季というのは言い間違いかもしれん。単に歳を喰ってるだけじゃ。こやつら見かけは幼くて可愛くて、レベルも低いが、レベルが低いまま歳を喰って、弱いまま老獪になってるからのう。そんな奴らをお前さんがたまたまゲットしたんじゃろう。ツタージャもなんらかの事情で歳を喰ったのがお前さんに巡りあったんじゃろう。ちなみに儂の特技はポケモンの歳を当てることじゃ。今まで約七割五分の確率で的中させてきたわ。」
それはかなり微妙じゃないかとチェレンは思ったが、思い当たる節はあった。さっき咳をした時もツタージャに気づかれていないと思ったが、実は気づいていない振りをしていたのかもしれないと思った。咳とは思わなくても変な音がした方向を向いてしまうのは人間も変わらない。しかしツタージャは単なる音でさえも悟った様子もなかった。それは人間の咳の音だと分かっていながら、それでもその人間に駆け寄らなかったのは、チェレンの性格と裏に隠れた事情を察して何も聞こえなかった振りを自然としていた可能性がある。アデクの言うように見かけの可愛らしさに騙されていたが、本当にポケモンとしては歳を重ねた個体なのかもしれない。
「おじいちゃんおばあちゃんぐらいでしょうか。」
「いや。まだおじさんおばさんぐらいじゃろう。まだまだやれる歳じゃ。儂のようにな。少しくらい無理させたほうが身体のためじゃし、こういうポケモンのほうがバトルで勝負強くなる。若い個体ほどパワーはないかもしれんが、その分粘り強く細かい芸が出来るようにもなるしな。」
「ポケモンのおじさん達は気難しいということはないでしょうか?」
「お前さんの性格のほうが余程気難しいと思うぞ。」
チェレンは一本取られてしまった。それにしてもアデクという壮年の男は、精神が捻くれることなく真っ直ぐに歳を重ねた理想の年寄りの姿っぽいなとチェレンに思わせた。他の地方ではもっと若いチャンピオンがいると聞く。やはり実力と最強の象徴たるトレーナーとしては若いほうがイメージの通りがいいのかもしれない。だけどやはり重ねた年輪の深さや厚さを目の当たりにすると圧巻されてしまう。
例え口数が多くて、距離なしで、通りがかりに若者のメシをたかるという現実があったとしても。
今日この時に会っていなかったら、自分は自分のポケモンたちの真実の姿を知ることなく、意固地な思い込みの世界に閉じこもっていたのかもしれない。
「ちゃ……アデクさんも今夜は野宿ですか?」
チェレンは自分でも驚くほど他人に立ち入ったような問いかけをした。ただの一言だったがチェレンにとってはもの凄く勇気が必要なことだった。
「うん。そうじゃよ。」
なんてことないようにアデクは答えた。その、と口籠るチェレンを先越してアデクは今日はお前さんと、お前さんのおじさんおばさんポケモンと一緒に寝るかのうと誘ってきた。
「え。ええ! ぼ…僕がちゃ、アデクさんと。初めて会ったばかりじゃないですかっ。」
「同じ釜の飯を食ったじゃろう。あ。ついでに儂、ライブキャスターを最近買ったのじゃ。番号交換せんかのう。」
「えええええ?」
チェレンは混乱しながらも浮足立ったように大急ぎで自分のバッグからライブキャスターを取り出した。断る理由はなかった。天の上の人間が自分のような駆け出しと交流しようと言ってくるのは、どんな棚から牡丹餅だ。もう二度とない機会に衝動的に飛びついてしまった。
「えーと…これをこうして、赤外線は出来るんかの?」
「か、貸してください。やります。」
「そうじゃのう。機械は若いもんに任せたほうがいい。」
最新テクノロジーの前では普通の可愛いじいちゃんになってしまうチャンピオンだった。
チェレンが互いに登録し終えるとおずおずとアデクにライブキャスターを返した。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
世代を越えた微笑ましいトレーナー同士の交流を見ていたのは、見た目とは裏腹のおじちゃんおばちゃんポケモン達だった。その静かな目線は自分より幼いトレーナーが一皮剥けた瞬間を祝福しているようだった。
後半に続く
ポケモンデイズ エピソードNアダルトサイド第二話「七つの大罪を二倍くらいに増やせる男と太陽の冠を戴く男」R18 主♂N
サンヨウシティ。
ポケモントレーナーの初心者の大部分が最初に挑戦するジムのある街。
トウヤの手元にはボールが三つ。一つはミジュマル。一つはチョロネコ。もう一つはバオップだった。
バオップは夢の跡地の近くにいた親切というかお節介焼きの女性から、押し付けられるように譲られたポケモンだった。
今はポケモンたちをボールから出して公園で遊ばせていた。見るからにミジュマルとバオップはすぐ仲良しになった。水と炎で相性が悪いはずなのに、トウヤの胸がほっこりするほどほのぼのと遊んでいる。チョロネコはひなたぼっこをしながら欠伸をしていた。とんだぐーたらだった。
「どうしようかな。」
トウヤにとって今のところのパーティの予定では、単悪のチョロネコと同じく、炎ポケモンを入れるつもりもなかった。ミジュマルにしろチョロネコにしろ、打撃系の技に弱いポケモンの組み合わせになった上、バオップもたいして耐久力には期待できそうにない。しかしミジュマルが物理系の攻撃を次々に覚えてくれたのでパーティの攻撃力は申し分ない。なのにチョロネコはいつまでたっても如何せん、はっきり言えば使えない。性格が災いしているのか大器晩成なのか、即戦力になっていないのが現状だった。
トウヤの頭を悩ますのはこの町のジムの特異な性質もあった。最初に選んだポケモンの苦手タイプを使う三つ子のうちの一人が対戦相手になるのだ。だからミジュマルの攻撃力の高い技でごり押すのも難しいと予想出来る。控えのポケモンが頼りになるのが一番だが、チョロネコは期待できない。ならば新しく入ったバオップを当てにするしかない。
「まあいいか。」
大人特有の割りきりでトウヤは考えを打ち切った。そして三匹に声をかける。
「お前たち今から特訓だよ。とにかく相手のジムのポケモンよりレベルが高ければ高いほど、力押しで勝てると思うんだ。」
ポケモン達はワンマン上司から厳しいノルマを押し付けられた新人会社員のような動揺はしていたが、ある意味覚悟を決めた顔でトウヤを見上げた。
「大丈夫だよ。君たちならやれる。ねえ、チョロネコ。」
チョロネコはうんうんと頷いている。でもそれはただの形だけなのはトウヤもわかっている。伊達に会社員時代に毎年現れる新人社員を見てきたわけじゃない。時々いるのだ。どうしてこいつが面接で受かったんだというタイプの人間が。
しかし今回はトウヤが自分の私情で彼女を採用したのだから仕方ない。とにかくパーティのレベルを上げ、彼女にはそれに倣ってついてきて貰わなければならない。しかし大変なのは彼女ではない。お荷物な後輩や先輩を持つ、ミジュマルやバオップなのだ。
だがここを凌げれば鍛え癖や勝負強さが身について弾みになるはずだ。上級のポケモンに引っ張られたならダメネコだって、並みにはなるはずだ。トウヤの元企業の九割くらいの使えない子達も一年以内には形にはなった。あとの駄目なままの一割は彼女ではないはずだ。
「ミジュマル。君はチームのリーダーだからね。頑張ろうね。バオップ、ミジュマルとチョロネコを助けてあげようね。」
子どものやる気を引き出す。自分はどんな保父さんかと呆れてしまうが、やる気を出した子どもを見るのは気分がいい。ただやはりチョロネコは本心から頑張ろうとは思っていないんだろうなと伝わってくる。とりあえず、ミジュマル達が彼女がやる気のないことを悟って失望しないようにフォローするしかない。
「……」
はあとトウヤは溜息をつく。
案の定先頭にチョロネコをセットして野性のポケモンに特訓をしてみたが、彼女はすぐに戦闘不能になってしまい、それを引き継いだミジュマルとバオップのレベルは着々と上がっていった。
仕方がないのでミジュマルとバオップで削った野性のポケモンをチョロネコに倒させ、なんとか経験値の体裁を整えた。それでも有効な技をチョロネコは覚えなかった。本当に旅をかなり進めてからやっと使えるようになるのかなと、希望と絶望が混じりあった気持ちになった。
Nに最悪呼ばわりされたトウヤだったが、ポケモンに対する義務感から現れる愛情は人一倍だった。義務と言えば言葉は悪いが、自分が出来る限りのことをしてやろうという意志は誰よりも強固だ。しかも感情的になることなく、自分の苛立ちやストレスの原因をけしてポケモンに転嫁して八つ当たりしない。これも自分に課したトウヤの信念だった。
「うん。きっとチェレンも同じ苦労をしてるよね。だって彼のパーティにもチョロネコはいるから。」
中を開けてみれば、そんな立派な義務感も好きな子に対する同化願望から発生する信念だった。それこそがトウヤの人格の唯一残念なところだった。
優秀でありながらスイーツ。冷徹でありながらドリーマー。瀟洒でありながらデレデレ。
もしかしたらチョロネコのぐーたらは、彼のそんな残念な人格を見破っているからかもしれない。
とにかく努力することも工夫することもたいして苦にならないし、それに使役する労力も少なくて済むのが、この童顔の三十代の強みだった。チョロネコごときお荷物はトウヤにとっては屁でもなかった。
そこでトウヤは自分を見つめる誰かの視線に気づいた。ポケモン達を速やかに呼び寄せボールに避難させる。
「あー。やっぱり。しっかり監視されてるんだな。」
これから展開される物語が終ったあとに自らの存在を著しく消していたNだったが、今物語が動いている内は、その存在をトウヤにしっかり主張していたのであった。Nが直接姿を見せなくても、そこいらの野性のポケモンの目はすなわちNの目の代わりになっている。全部のポケモンの目がそうだとは言わないが、三匹に一匹はNからのスパイと考えたほうが変に疑心暗鬼にならずに済む。
「本当に律儀というか真面目というか。」
「それ誰のこと?」
後ろから声を掛けられる。スパイを寄越しているくせにわざわざNはトウヤに近づいてくるのだ。トウヤは仕方なさそうに振り向くとそこにはお昼の高く上った太陽を逆光にしてシルエットのようになった姿のNが憮然と立っていた。頭のところに太陽があるせいで王冠を戴いているような風情さえある。トウヤはその感覚を錯覚だと一人で決めつけた。
Nはすっと腰を屈めると現実的な姿になってトウヤの真ん前で視線を合わせてきた。
「トモダチが教えてくれたから。ちょっと顔を見に来た。」
ぶっきらぼうというか、半ば刺々しい口調でNは告げる。
「へえ。君からの差し金じゃないんだ。」
皮肉気に言うとNは言い返してくる。
「嫌いな奴を見張ってくれなんて、大事なトモダチに頼むことじゃないだろ。考えてみなくてもわかるだろ。」
「でも君の考えを察して君に僕のことを教えてくれるトモダチはいるわけなんだよね。それで君はトモダチの好意を無下に出来ずにわざわざ嫌いな奴に会いに来てくれたんだ。」
Nはトウヤの言葉に噛みついてくると思いきや、俯いて別にと呟く。
「彼らから悪い話は聞かなかったから。それと、あのとき僕が君に最悪だって言ったこと、よく考えれば言い過ぎだったと思う。いや、君の動機が不純で釈然としないっていうのは変わらないけど、でもあまりにも君とチェレンの個人的な関係に入れ込み過ぎていたようにも思う。君とチェレンの関係にも納得してないけど。だけど」
「いいんだよ。自分でもあんまり内容的に綺麗じゃなくて、君のような初対面の相手にずけずけ話すようなことじゃないとは少し反省したよ。」
しかし普通なら呆れはしても聞き流す程度の話だったとトウヤは思っている。もし少ない可能性でキレられたとしても、そこから二度と顔を見ないという選択肢を取られてしまうのが普通じゃないだろうか。だがNはポケモン達からの情報を整理して再びトウヤまで辿りついて、今こうして早口で、でもでもだってを織り交ぜながらも不器用に謝ってきた。ここは大人としては上手い具合に切り上げるのが定石だった。
「それはそうと、あのとき君はなんで夜にふらふらと歩いていたわけ?」
「え?」
Nはふいを突かれたように顔を上げてトウヤの問いへの回答に迷っていた。トウヤの悪い癖だった。切り上げなければならない場面で、またどつぼに嵌りそうなことを言ってしまう。無意識的ではなく意識的に。
「え、えっと……」
「あら。そんなに言いにくいことだったかな。」
Nという青年は嘘をつけないどころか誤魔化すことすら出来ないようだ。そして物凄く言いにくそうにしていたが、あの時の行動の理由をトウヤに告げた。
「僕と、一つ部屋に泊まって性交してくれる相手を探してたんだ。」
二人の間にしばしの沈黙が流れた。
「N。ちょっとそこで腰を据えて話そうか。」
トウヤはNを手招きしながら服を引っ張って近くの木陰に座らせた。大人としての教育的指導モードにトウヤは入る。
「うん。君が変な嘘をつかなくて良かったとは思っている。だけど正直に言ってくれたとしても、はいそうですかって納得できることじゃないからね。」
「えー。でもポケモンだって発情すれば交尾するだろ?」
「ポケモンと人間は違います。」
「一緒だよ。」
「違います!」
Nは納得できないように眉間に皺を寄せている。それでもトウヤの言葉の響きに少し怯えていた。
「だって人間も性交するくせに。ポケモンには抑制剤を使用して、ポケモンの生理を歪めてるじゃないか。」
「君には理性がないのかい? 本能や感情だけじゃないだろう。君はかなり理性的を装った感情的な人間なんだろうけど。」
「え? なんだい僕は君にお説教されているのか? 君と歳はあまり変わらないのに。というか君のほうが年下だろ。」
そんな勘違いはトウヤにとって想定内もいいところだった。自分の見た目は確かにNより幼いのかもしれないが、あらゆることがそれが間違いだと証明してくれる。
「N。君はいくつだい?」
「確か、十八。」
「はっ。」
トウヤは大人気取りの未成年の発言を笑い飛ばす。
「生憎だが僕はね、君より十二は年上なんだよ。それに最近まで結婚もしてた。もう失効されてるけど、この保険証が証拠だよ。」
トウヤが突きつけたカードにNは目を丸くした。トウヤは保険証とトウヤを見比べるNに溜息をついた。
「僕は君より大人だし、ちゃんと家庭も持ってて規制された枠内でセックスをしてきた。今までね。人間は確かに他人から薬で性欲をコントロールされてないのかもしれない。だけどね。人間はね、薬を使わずにあらゆる決まり事と理性を使ってで性欲をコントロールしなきゃいけない生き物なんだよ。薬とどっちが強制的なのかは横に置いておくとして、それなりに人間もきつい制限は受けているんだ。」
「う、うん……」
わかってくれたんだなとトウヤは肩を竦めた。
「で、君はどれだけの女の子を相手してきたんだい? そしてなんのためかな?」
Nは違うと大声で叫んだ。
「お、女の子とは交渉はしてない。僕が交渉したのは男ばっかりだった。」
「男ばっかり誘ってたわけだね。なんか経済的に困っていることでもあったのかい。だけどそういうのは金輪際やめるべきだよ。」
「お金なんて取ってないよ。」
「そうかい。それなら良かった。君は十八だからもう相手が捕まる歳じゃないけど。君は全く危なっかしいな。ホントに。」
トウヤは明らかに苛立ってカリカリしている。Nには規制内のセックスをしていたと言っていたが、トウヤは結婚してから本当にベルとはセックスレスだったし、あの田舎町の風俗店に入ろうものならある意味井戸端会議の話のネタになってしまう。よっぽど遠方の出張に単独で行かない限り、トウヤはセックスとはほぼ無縁の生活を送っていた。
「N。これ以上大人を呆れさせないでくれ。」
過去の禁欲的な十年間の鬱憤も相まって、トウヤはNに少しきつく言った。Nはトウヤの言い様に完全にしょぼくれてしまっている。ただでさえハイライトの存在しない目が暗くなる。
「だけどマスターベーションじゃあんまり気持ちよくないんだ。だからセックスしようとして男と交渉してみたんだけど、うまくいかないんだ。」
「君はどういう基準で男を選んでるんだ。」
Nの口調からしてセックスが上手くいかないというのは、どうやら行為を重ねても快感を得られないことではなく、セックスという目的そのものが完遂出来ていないような響きがある。互いにセックス目当てで近づいたのに上手くいかない理由がトウヤには分からない。
「トモダチに優しい男がいると、そういう人に惹かれちゃうんだ。それで僕から声をかけて了承を得るわけなんだけど。僕に挿入行為をする前にちょっと話をするだろ。その時に僕が失望して怒ってしまって結局セックスそのものが台無しになったのが一人目。あとポケモンが好きすぎて奥さんとのセックスがうまくいかなくなって離婚したっていう話を聞かされて、勿論僕とも上手くいかなかったのが二人目。あと、ポケモンの世話が忙しすぎて疲れからEDになっちゃったのが三人目。それから――。」
「わかったよ! 君に男を見る目がないんだろっ。ポケモン基準に男選ぶんだからそうなるわけだろ。二人目で気づけよ。」
「ごめんなさい……。」
たった一言のあの夜の回想から思いついた質問が、とんでもないNのブラックボックスを開けてしまったようだ。トウヤは頭がくらくらしていた。
「つまり君はセックス自体はしたことないってことだね。まあ不幸中の幸いだよ。」
「よくないよ。僕は気持ちいいセックスをしたいんだ。」
「君の男のタイプってアレだよね。ポケモンに優しい一択だよね。」
トウヤは考え込む。ある意味ではNは被害者かもしれない。しかしかなり加害者の側面が強い被害者だ。手当たり次第ポケモンに優しい男たちが、この青年の言葉に踊らされて要らない恥を掻くのは忍びない。絶対この先もNは失敗し続けると踏んだトウヤは、自分でも禁断だと思う決断をした。
「N。僕はポケモンに優しい男かな?」
「ミジュマルを選んだ動機以外は、優しいと思う。トモダチも保証してくれた。」
トウヤはNに手を伸ばす。触れたとき少し震えたNの指先の緊張した振動に目を瞑った。
「一度ちゃんとしたセックスすれば気が済むって言うなら、僕が相手になってもいい。ただし僕には君じゃない好きな子がいて、僕はその子に操を立てているし、君もこれから先きっとちゃんと好きな人が出来ると思う。だから互いに回数には入れずに、一回だけ。」
Nは戸惑っていた。自分がはた迷惑な奴だという自覚さえなかった人間だとトウヤに知られたのに、トウヤはそのはた迷惑を請け負おうとしてくれている。それは有難いことだけど、素直に首を縦に振れない。
「だって僕はチェレンとは、全然見た目からして似てないし。トウヤに僕は酷いこと言ったし、呆れられるようなことしてきたわけだし。」
トウヤはNを引き寄せて耳元で囁いた。
「セックスしたくて気が狂いそうになる気持ちは僕にも経験があるからね。それで君は相手を選ぶのがとことん下手くそで、今まで他人に迷惑をかけてきたんだろ。聞かされたからには、それを見過ごせないだけだよ。」
「大丈夫なの。僕で。」
トウヤはまだ日が高いうちなのに、Nを再び引っ張って町に入っていく。
「まず薬局に行って買わなくちゃいけないものがある。」
「それって……。あの、避妊具とかそんな感じのもの?」
「使用目的は違うけど、それもある。」
「そ、そうなんだ。」
性交の為の準備を整えなければという四角四面なトウヤの態度に、Nは性欲に浮かされた頭とは裏腹に少し怖気づいた。
「君は初めてだからね。そのままじゃたぶん挿入無理。」
「え、え?」
「痛い思いしたくないよね。気持ちよくなりたいんだよね。」
今までの失敗談とは違う展開にNは大事になったと慌ててしまう。
「そ、そういうところには……そういうの置いてあった気がするんだけど。」
「新品を買ったほうが確実だし、基本ああいうところは男女で来ることを想定しているから、男同士だと足りないくらいなんだ。」
「あ。そういう……。そうなんだ。」
トウヤはNに待っててと店の前で手を翳してNを止めた。
Nは買い物中のご主人を待つリードで繋がれたヨーテリーの横で待つことにした。モンスターボールではないとはいえ、リードで繋がれたヨーテリーもなんとなく拘束されているように見えて痛々しい気分になる。
「君。首輪されて繋がれてつらくない?」
Nはヨーテリーに話しかけた。ヨーテリーはきょとんとしていた。
「いや。ごめん。ネガティブなこと訊いて。君はすごく幸せそうに見えるよ。」
Nはぎこちないながらも笑顔を作った。
「ご主人はちゃんと買い物して帰ってくるから。そうなんだ。」
ちゃんと帰ってきてくれると分かっているから辛くない。Nはそういう気持ちをヨーテリーと共有出来るのかと首を捻る。そして手持ちぶさたから、もとは結婚していたというトウヤの過去をなんとなく想像してみた。
「駄目だ。やっぱり想像出来ない。」
普通の家庭で育っていないNには、夫婦という概念すらない。ただ男女が番って生活している感覚だ。知識で言えばある種の契約だというのは理解している。契約を無効にするのに離婚という新たな契約をするのも知っている。だけどNがすれ違ってきた二人組の男女を見ても、そういう契約の縛られた堅苦しさは全く感じなかった。
自分とは異質だがなんだか、羨ましく思えるようなこそばゆさを感じた。そして自分を説教してきたトウヤのことを思い返す。まるで知識だけで詰め込んできた父親のイメージそのものだった。そして自分はあのとき、確かに叱られている子どもだった。
「あれ? でも、子どもにセックスしようなんていう父親いるのかな? それこそトウヤの言う規制された枠を超えてるよね。ゲーチスだって僕にセックスしようなんて一度も言ってこなかったし。じゃあ、トウヤにとって僕は何のつもりであんなこと言ったんだろ?」
Nはまた分からなくなる。そして素直にトウヤについてきた自分も。
「ごめん。遅くなった。」
物思いに耽っているとトウヤは店から出てきた。隣にいたヨーテリーはもうとっくにいなくなっていた。結構時間が経っていたのだとNは気づく。
「店員の説明を聞いていたから遅くなったんだ。ごめんね。」
「トウヤ。普通そういうものはさっと指差してさっと買ってさっと店から出るもんなんじゃない?」
トウヤはむっとしたようにNにぐちぐち言い始める。
「ほんとにこの子はそういうことばかりは分かったような口を利くんだから。」
「僕だって感覚的に分かるものは分かるよ。」
「君の為に最善を尽くそうとする僕に、そういう言いぐさはないと思うよ。」
「……ごめんなさい……」
「君の為にこの店で恥ずかしい思いをしてきた僕にいうべき言葉とはそぐうようで、少し違うよ。」
「な、なんて言えば……」
「せめて、ありがとうだろ。あとお疲れ様とか。」
それもなんか違うと思いながらも、この瀟洒な男が薬局で店員の説明を長々と質問を交えながら聞いていた事実を労うのに、この男が要求してきたのなら、その言葉こそが順当だとも思える。たぶん他に客もいただろうから、本当に恥ずかしい思いもしたんだろう。根が真面目な男だというのはトモダチから多く聞かされているから、その真面目さを精一杯自分に傾けてくれたのは分かる。
だからNはトウヤに伝える。
「お疲れ様。ありがとう。」
Nはトウヤに要求された通りにしか言葉を言えなかったが、その二言には全てを注ぎ込んだ。
「じゃあ、行こうか。」
「うん。」
これからの目的とは裏腹にNはとても温かいものを胸にトウヤの後ろについて行く。
「トウヤはやけに男同士の性行為について詳しいし慎重だけど」
「だけど、なんだい?」
Nは言おうか言うまいか迷ったが口に自然と出てしまった。
「それって、チェレンのため?」
「本当の予定ならそうなってたね。」
トウヤは自分の目の前にある空を見上げて、Nを振り向かない。
「だからってチェレンを気にして、あらゆる意味で困った君になんとかしてやらないのも何か違うんじゃないか?」
その理屈はよく分からない。Nはまた質問を重ねる。
「だったら、僕の知ってる君ならもっと上手いこと別の方法を使って誤魔化せたと思う。そもそも君自身が僕と性交渉しなくても、君がこれだという人を紹介してくれるっていう手もあったと思う。」
「さっきのチェレンへの慮りもそうだけど、君は頭が回りすぎるのが欠点なんだ。だから男とも上手くいかない。だからそれをちゃんと理解している僕が最適なんだ。他の人を紹介して、その人に君がどういう人物かを説明しても、君はきっと僕が紹介した相手だとしても上手くいかない。」
「上手く、いかない……」
なんだか悲しいことを言われたような気がする。だけど何人も失敗してきたのだ。たぶん相手よりもN自身の過失が大きいことも今のNには少し理解出来ていた。
「だけど君が僕と上手くいくの?」
「さあ?」
本当に真面目なのか不真面目なのかわからない。トウヤの足が向いたところには、Nの言うそんな目的のための建物が見えてきた。
草原の中を一人の十八歳の女子が歩く。髪はポニーテールに結い上げ帽子を被り、服装も近頃の女子らしく露出度が高く活発そうだ。
しかし彼女ことトウコは一歩前に進むたび地面を食い入るように見ていた。
「ちいさなきのこ、みっけ。」
彼女はほくほくとそれを袋に入れる。傍で歩いていたエンブオーは彼女の頭をぽんぽんと叩いた。彼女はかれこれ二時間くらいこうして地面を見て換金出来そうなものを探しているので、そろそろ休憩を入れたらどうかと提案しているようだ。
「えー? きんのたままだ見つかってないよ。きんのたま見つけないと心もとないし。ごめん。もう少しきんのたま探させて……あうっ。」
年頃の娘がきんのたまを連呼するのを見かねてエンブオーは無理矢理にトウコを木陰に連れて行く。エンブオーはトウコを座らせてモモンのみをトウコに押し付けた。
「食べろって? 勿体ないってば。毒消しにも使えるのに。」
エンブオーは首を横に振り、トウコの口にきのみを押し付ける。ポケモン馬鹿の癖にトレーナーとして食っていけるほど強くもない自分のトレーナーは、かつかつの財布を見ては食事を疎かにする。それなのにポケモンの分のごはんはきっちりしようとするもんだから、始末におけない。
トウコの年齢と実力を鑑みれば、世間ではそろそろトレーナーの辞め時である。もう七年以上もトレーナーをしているのに目立った功績を上げられていないからだ。それに女の子なら結婚している人間もちらほら見え始めてる。
エンブオーもなんだかんだとポケモンの身で考えるのだが、なんだかんだでこうやって駄目トレーナーについて行っている。
「エンブオー。エンブオーさえいればハチクさんには勝てるよね。」
「ブオ。」
そう。本当なら勝てるはずなんだ。それでも負けてしまうのがトウコなんだとエンブオーは言えなかった。
旅に出た最初、トウコはどんな子どもより期待された女の子だった。町一番の才媛だと言われ、ポカブだったころのエンブオーはいいトレーナーに巡り合えて良かったねと研究所の大人に笑顔で言われた。
しかしトウコはポケモンに熱中し入れ込むことで、才媛だった自分をあっというまにやめてしまった。ただの馬鹿になってしまった。なぜ勝てないのかをエンブオーが理解したのは、ライブキャスターごしにトウコをサポートし、ポカブに向かってトウコ指して言っていた大人の「サイエン」という言葉を漢字の「才媛」と理解し、意味を悟ったと同時だった。
才媛だったトウコのことをポカブだったエンブオーは最初、怖いと思った記憶がある。それがいつしか怖くなくなっていき呆れるようになった理由は、単なる慣れだと思っていた。だけど実はトウコが自ら才媛の自分をやめたということに気付いたのはつい最近だ。人間の言葉を使えるなら、どうして才媛をやめたのか、是非問うてみたい。
たぶん、才媛だったころのトウコに戻れたなら、きっとバトルだって勝てる。お金にも困らないし、お腹を空かせてこんな地面を這いずりまわるような生活を送らなくて済む。
今の生活でエンブオーが辛いのではない。トウコが一番辛いだろうからだ。
もしポカブだったエンブオーが才媛だったトウコを怖がっていたことを知ってトウコが才媛をやめてしまったのなら、エンブオーはとにかく謝りたい。だから無理して嫌われないためだけに馬鹿を続けなくてもいいんだよと伝えたい。みんなから褒め称えられた彼女に戻って欲しいわけじゃない。馬鹿を一生懸命続ける彼女といるのはなんだかんだで楽しい。だけどそのきっかけが拙かったころの自分のせいなら痛々しくて耐えられない。
エンブオーはそれを伝えようと鳴き声を連呼するのだが、トウコはにこにこと笑いながら「お腹すいたー」とまた地面を食い入るようにきんのたまを探すのだった。
エンブオーはポケモンの神様に祈るような気持だった。この状況をなんとか変えて下さいと。
「あれ。トウコちゃん。」
ふいに声を掛けられてトウコは硬直する。自分の素性を知っている人間が今目の前に現れた。それはトウコにとって色々と都合が悪く複雑だった。
「だ、誰かな?」
「トウコちゃん。従兄のお嫁さんをわすれちゃ駄目でしょ。」
「従兄のお嫁さんって、ひょっとしてベルちゃん?」
トウコの目の前にエンブオーが知らない人間が知り合いとして立っている。エンブオーも思わず近づいて人間の真似事みたいにお辞儀をした。
「あら。立派なエンブオー。すごいわトウコちゃん。こんな立派なエンブオー、そうそう他にはいないんじゃない? かなり大きいし、初対面の人間に自分から挨拶するくらいに賢いし。顔もハンサムさんだわ。」
「え? え? そうかな。それほどでも、あるけど。」
満更ではないトウコはトレーナーにあるまじきポケモンの前でのデレ顔を晒した。
「それはそうとトウコちゃん。」
「いやそれはそうとと言えば、ベルちゃん。なんでこんなとこに?」
ベルはじゃーんと言ってポケモン図鑑をトウコに見せびらかした。
「え? なんで? どうして?」
トウコにとっては晴天の霹靂だった。従兄の嫁と言えば自分にとっては親戚である。その親戚筋の女にこんな旅の彼方で出会うとは思わなかったし、まさかその親戚のかなりの年上の女がポケモン図鑑を携えて旅をしている途中だなんてさらに思えなかった。
「トウコちゃん。私、トウヤと離婚して旅に出ることになったの。」
「えー! あんな優秀で将来有望なサラリーマンのトウヤ兄と離婚しちゃったの! もったいない!」
昔は自分も優秀で将来有望じゃなかったのかとエンブオーはトウコにつっこみたい。
「いやトウヤもサラリーマンやめてトレーナーになってるから。」
「トウヤ兄が!」
ドロップアウトが定番なのかこの一族はとエンブオーは感慨深かった。ベルは続ける。
「それでね、さっき言いかけたことなんだけどね。旅に出るとき、トウコちゃんのお父さんやお母さんや他の家族や親戚の人たちが、トウヤの家に一斉に押しかけてね、連絡の取れないトウコちゃんを見つけ出して実家に一旦連れ戻してって頼みにきたんだよ。で、トウヤはそれを了承したわけ。」
「私のライブキャスター……。電池切れして久しいから。」
「そうだね。だけど年単位はやりすぎだよ。」
「お、お金がなくて。」
ベルはカノコタウンにもうっすらと聞こえてきたトウコのトレーナーとしての評判は本当だったのかと肩を竦めた。
「トウコちゃん。やっぱり家に帰るべきじゃない? 私も言える立場じゃないだろうけど、実家には一旦帰ろうよ。トウヤにも迷惑かけちゃわないうちにさ。」
トウコはごそごそと靴ひもを結び直し、荷物を手繰り寄せてエンブオーの手を引っ張る。
「こら、逃げない!」
ベルはトウコにタックルしてトウコを転ばせた。
「いやあ! 逃がしてえ! 見逃してえ!」
「私が連れて帰るわけじゃないから。実家に閉じ込められるのが嫌だって気持ちは私にも分かるから。」
トウコはとりあえずじたばたするのはやめた。
「私、ほんとにポケモンが好きだから。そりゃあ、へぼで目が出ない万年駄目トレーナーだってことは分かってるけど、でもそれでもポケモンが好きだから!」
涙目で語るトウコに、そんなんだから家族がこぞってトウヤに連れ戻せって頼みに来るんだろうと、ベルは呆れ果てていた。
「うん。だけどね、連れ戻さなかったらね、トウヤがねえ、まあいっか。トウヤね、もし私が先に出会って連れ戻せなかったらの為にね、準備してくれたものがあるんだよ。」
「トウヤ兄が?」
「トウヤがポケモンバトルで稼いだものなんだけどね。」
ベルがはいとバッグから出した巾着袋をトウコに渡す。トウコはものすごい勢いで結び目を解いて中を見た。
「な、なにこれっ。トウヤ兄こんなに稼いだわけ! すごい。すごいよ。」
「連れ戻せなかったからって、トウコちゃんの当座の生活をどうにかしなくていいわけでもないでしょ。」
「お金、お金ぇ。エンブオーぉ。良かったよお。」
持つべきものは記憶に薄い従兄殿だった。それにしてもとトウコは自分の親指の爪を噛み始める。
「トウヤ兄。トレーナー始めてまだ日数単位だよね。こんなに稼いでるなんてどんだけ。」
「あっ。換金グッズには手を付けてないって言ってたよ。あとで、もしもの時ににって。」
「余裕があんじゃないの。くそう。エリートめえ。」
お前とは全然違うんじゃないかと、エンブオーは敢えてトウコをカノコの実家に連れ戻すのに協力しようかと迷う。
「当座のお金はそれでいいとして、お金にまた困ったらそれこそトウヤに会ったほうがいいよ。」
トウコは首をぷるぷると振る。
「だけどトウヤ兄は私を実家に連れ戻すつもりなんだよね?」
「そこはちゃんとトウヤと交渉しなさい。それともトウコちゃんは何か他にお金を入手出来るあてがあるの? ――まさか。」
ベルはやけに露出度の高いトウコの格好に最悪の事態を想像する。
「いや。ベルちゃん、怖い顔しないで。あのね、カノコのトウコはね、心は売っても身体は売らない主義なの。」
「心も売っちゃいけないよ、トウコちゃん。」
「はい……。」
流石年上の人間だとエンブオーはベルに感心する。あのポケモンの熱に浮かされたようなトウコが、ほんの少しの間だろうが常識的な世界に戻ってきた。
「とにかく、トウコちゃんからはトウヤのいる場所が分かるようにするから。ライブキャスター貸してよ。」
もう既に無抵抗になったトウコは大人しくライブキャスターをベルに渡した。ベルはトウコのために購入していた電池に入れ替え、トウヤのデータをトウコのライブキャスターに送信する。
「困ったときにはトウヤに連絡して落ち合うのよ。」
「はい……。」
じゃあねとベルは手を振ろうとしたがトウコがまた何か言いたげにしているので声を掛ける。
「わかってるわよ。当分の間はおうちの人にはトウコちゃんに会ったことは言わないから。」
「ありがとうございます!」
今度こそじゃあねと言ってベルは次の町に向かった。残されたトウコは人の情けをしみじみと噛みしめてずっと巾着袋を握っていた。
「エンブオー。」
「ブオっ。」
「わざマシン買いに行こうか!」
やめろと叫ばんばかりにエンブオーはトウコの後ろ頭を思い切り殴った。今買うべきは次のバトルに備えての装備だし、トウコ自身の食事もだし、何が悲しくて渡された金のほとんどを一個で使い切るようなわざマシンを買わねばならぬのかと。ポケモンにさえわかるような理屈を何故この元才媛の馬鹿はわからないのかと、エンブオーは改めて頭が痛くなった。そのしかめた顔を見てトウコはエンブオーそれ頭痛?エスパータイプの技を覚えたのねとわけのわからんはしゃぎかたをしていた。
だからこの女は駄目なんだとエンブオーは、自分もろともトウコと実家に帰ることも視野に入れるのだった。
* * *
ホテルの部屋に入ってからトウヤはきょろきょろと辺りを見回し、挙句の果てには部屋の中を見て回り始めた。
「よし。」
「何が良しなんだい?」
「変なカメラやマイクが無いかなって確認してたわけ。」
「そんなもの普通ないだろ。」
「あー。君はそういう特殊な趣味の人たちを知らないから。」
そんなことをさも常識と言わんばかりに言っているが、どう考えても考えすぎだし変な筋からの情報を鵜呑みにしているなとNは思った。これがサラリーマンというニンゲンなのかと、それでも興味深かった。今までNが関わってきたトレーナーという人種はここまで用心深いやつはいなかった。
Nはトウヤが一通り納得いくまで確認している間は、ベッドに腰掛けて大人しく待っている。ちらっと薬局の紙袋を見てまた自然と顔が引き攣ってきて、自分でも変な笑みが浮かんでいるとわかった。
「中身確認する勇気はないな……」
どうせトウヤに何もかも任せればいいんだろうと、Nは今までにないくらいに楽観視している。最初会って最悪と叫んでしまった時にはそんなふうに思えなかったのに。安心している信用しているとはNはさらさら思っていない。なんとなく大丈夫うまくいくという楽観があった。
「ねえ、トウヤ。」
十以上も歳が上と知ってもこんな呼び方でいいのかと、言葉を発すると同時に躊躇した。
「なんだい。」
しかしトウヤはNからの呼ばれ方なんて気にしていない様子だった。ならこれからもこれでいいかなとNはまた楽観してしまう。
これからのことをどう切り出していいかわからないNは、苦し紛れに薬局の紙袋を手に取ってトウヤに差出す。
「あー。」
トウヤはNから紙袋を受け取ったが、中身を見るでもなくまたベッドの横に置き直した。
「その中のもの、使うんじゃないの?」
「いや。その前にまずキスくらいはするだろ。」
「そうだった。そういう手順はあった。」
知ったかぶりっこしていたがNは、誘ってきた男達とキスすらしたことはなかった。Nに釣られた男は常にまず身体に触るのが当たり前だったから。うまくいかなかった理由がそれこそである。だけどNはまだそれを理解出来ない。成功体験がないからだ。
「N。知らないことは知らないって言ってよ。」
見破られた。Nはぎこちなく自分の唇に触れた。
「キス、したことない。だけど知識はある。」
トウヤはそういうふうにきちんと正直に言いなさいと言いたげに二回ほど頷いた。
「じゃあ。今からするから。」
Nはトウヤがどう出るかトウヤの顔を凝視する。
「興味深々だな。だけどこういう時は目を瞑るのが礼儀だよ。」
そうは言われても視覚を手放すのがNにはあと一歩のところで耐えられなかった。
「きょ、今日はいいだろ。慣れるまで目を開けてても。」
「N。今言っとくけど僕は正直、君が慣れるまで歩幅を合わせてやれるか自信がない。それでも待ってくれなんて君は言うのかい?」
Nは黙っている。これから起こることへの好奇心の前では妥協が出来ないのかと、トウヤは今度は目で問いかけてくる。Nというのは相手が年上でも明らかに自分が未熟でも、譲らないのは性格か、それともこれからする行為の特性故なのか。
「ちょっと待って。」
Nは一回目を瞑ってすぐに開いた。そして目をまた瞑る。トウヤが顔を近づけた気配を悟ったのか、また目を開いてしまった。目を閉じているトウヤの顔が眼前に迫っている。
『驚いて叫ばなくて良かった。』
Nが目を閉じてくれたからトウヤも目を閉じてくれたのに、Nが目を開けたことを悟られてしまったとしたら、また怒られるとNは思った。Nは再び目を閉じる。
トウヤの柔らかい唇がNの唇に触れてくる。
『うわっ。』
叫びたいのに口を塞がれているので叫べない。感覚が触覚に全て持っていかれて自分の体に触れてくる全てに関心がいってしまう。是非とも目を開けて確認してしまいたいが、トウヤはそれをマナー違反と言っていたので我慢していた。
しばらくするとトウヤの唇が薄く開かれたのが分かった。
『え?』
トウヤの舌先がNの唇をこじ開けようとしているように思える。こじ開けようとしていると思っているのはNなのだが、その解釈が正しいかどうか判別がつかないNは、自分の解釈に従ってトウヤを真似するように自分の口を開いてみる。
唇にトウヤの歯が当たる。上唇を少し噛まれたのでNは首を後ろに逸らしてしまった。
「か、噛むのっ。」
「落ち着いてよN。ただの甘噛みじゃないか。」
トウヤがくすくすと笑う。トウヤは目を閉じて再びNの唇に触れようとした。
「ぼ、僕もう目を開けてるからね。何されるの分からないと怖いから。」
「最初を我慢してくれたんだから別にいいけど。」
大丈夫? その呟きにNは釈然としない。
「唇くっつけあうだけがキスじゃないんだよ。」
そう言ってトウヤはNの口の横や下に唇を押しつけてさっきのように軽く歯を当てたり吸ったりしていた。Nにはそれがこそばゆい。上唇も下唇も丹念に吸われて甘噛みされていく。そういうことをやっているトウヤの平然とした目を瞑った顔を至近距離で見つめざるえないNは、目を瞑らないと言った割には目の前の光景から目を背けたくなっている。
いきなりトウヤがNの少し開いた唇にぴったりと唇を当て、Nの口の中に舌を差し込んできた。舌先がNの舌に絡まって背中が震える。ニンゲンの舌だと分かっているのに、なんだかわけのわからない生き物が侵入してきたような気分だった。
まってと言いたいが言葉を発しようとしたら、自分の舌もトウヤの舌も噛み切りかねない。
気持ちいいのとは明らかに違うだろうというあまりにも変な感覚。どう考えても気持ち悪いというほうが正しいように思える。それなのにトウヤは執拗に口の中に舌を差し込んではNの舌に絡んでくる。そんな質量にNの口腔のキャパシティが限界になって息苦しい。なんとか逃れようとトウヤの身体を両手で押すが、トウヤはNに掛けた手を離してくれない上にさっきまでより強くNを抱きしめてくる。
「ちょっ…トウヤ!」
トウヤの口から気づかぬ間に唸り声のような息が漏れている。
「息、苦しいの?」
トウヤはひたすらその言葉に首を横に振った。普段のトウヤならジェスチャーではなく言葉が先に出るはずなのに。それに息苦しくないのに息が荒いというのも変だ。
『ひょっとして、トウヤは興奮しているのかも。』
やっとNは気が付いた。
ポケモンが発情すると大変だとのたまっていた男がいた。今自分を捕まえているのは発情したニンゲン。ならば自分が見てきたニンゲンたちの発情具合とは、とんだままごとの発情ごっこにすら思えてくる。
「いやっ。ちょっとまって。トウヤほんとに怖い!」
今まで自分を窘めていた人間が、いきなりケダモノのような本性を現した。あの発情したポケモンを見て困ったと言っていた男は、こんなになったポケモンの姿を見たというのか。なら今のNにはその話を笑って頷きながら同情しながら聞いてあげることができる。あなたも大変なあいましたね。と言いながら。
トウヤは相変わらずふーふーと息を漏らしている。
「ご、ごめん。N。なんか…僕余裕なくなって……」
「トウヤ。落ち着こう。さあ、深呼吸して。」
どれほど言葉を交わせるニンゲンというのが有難いか、Nは強く実感する。
「無理。」
少し正気になってくれたと思っていたが、トウヤは今度はNの服をむしり取るように脱がせ始めた。
「ごめん。なんか思ったより興奮してるよ僕。」
「わかってるならどうにかしてよ。」
「ごめん。どうにもならない。」
言葉は交わせても無意味だった。
「と、とにかくっ。痛くないようにはどうにかするから、君も協力してくれ。」
しないわけにはいかないだろうとNも流石は理解できる。もともとは自分が蒔いた種なのだ。その結果がこのトウヤなのだ。
それにしてもさっきまでとの落差が激しすぎる。この元サラリーマンは経験豊富だから、自分に対してあんなふうに穏やかにだけど厳しく窘めていたのではないのか。これでは十二年下の自分よりさらにがっついた性欲とは言えないか。三十なんだからもう少し枯れろとは言わない。だけどもう少しなんとかならないのか。
Nはせめて、興奮しきって恐ろしいことになっているトウヤから目を背けるために目を瞑った。荒い息遣いは聞こえてくるけれど、見えないことがどれだけ心安らかにさせてくれるのかを、Nはこの瞬間知った。
ズボンを毟り取られたところでトウヤが足開いてと要求してきた。Nは恐る恐る足を開くとキャップの蓋を開ける音が聞こえて、次に冷たい液体の感触が局部に触れた。
「つめたっ。ぬるぬるする。」
「あ。ごめん。これローションだから別に変なもんじゃないから。」
ごめんごめんと謝っている割には本当に誠意を感じない。ローションは冷たいがそれを塗り広げるようなトウヤの手は熱い。トウヤは焦っているわりには出来る限り丁寧にNの受け入れ口にローションを塗りたくり、その滑りを借りて指を侵入させてきた。
「大丈夫だろ? 大丈夫だよな?」
お前が大丈夫なのかと逆にNは問いたい。具合を確かめているのだろうが、自分の体に起きていることより、相手の精神状態が気にかかってひたすら翻弄される。
今まで感じなかった男の体臭が鼻を掠める。鼻をつくというわけではないが、今この男に起こっている現象を主張しているようだった。体温が上がって盛んに呼吸を繰り返して、いろんな感覚が敏感になっているのだろう。
これが発情したオス。今まで見てきた男はあくまで人間の男性だった。ニンゲンのオスには今までNは出会っていたつもりになっていただけだと宣告されたようなものだった。
紙の箱が破かれるような音がする。
「……。」
Nが薄目を開けるとトウヤが怒張した性器に避妊具を被せている最中だった。Nと目が合うとトウヤは苦笑いを浮かべている。
「君はまだ未成年だけど体格がいいからね……たぶん大丈夫だよ。…そんなに挿入に無理はないと思うんだ。」
そんなことないとNは首を振る。だけど途端に泣き笑いのような顔をしてくるものだから拒めない。
「ゆっくりするから。それに出来るだけ優しくするから。」
Nの口元が動く。どう言葉にしていいか分からないが、これだけは伝えてやらないと、この大人があまりにも可哀そうな存在に成り果ててしまう。
「う、うん。」
Nの肯定の言葉を聞いたあと、トウヤはもう少し足開いてとNにとって残酷で恥ずかしい言葉を吐いた。Nはトウヤに言われる通りに限界まで足を開いてトウヤの出方を待つ。
トウヤは再びNのアナルに指を押し当てもう一度確認するかのように挿入している。そしてぐるぐると抉るようにかき回してきた。
「痛くないよね?」
「痛くないよ。恥ずかしいけど。」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしいのが可愛いって言ってきた人がいたけど。」
「そうだね。可愛いよ。」
トウヤは目の前のNという対象物を嬉しそうに見ていた。
「いくよ。」
開かれた片足に手が添えて、Nの局部にトウヤは押し入った。
「あっ……」
異物感にNは声を漏らす。
「力抜いて。」
「息吐けばいいのかな……」
「楽になれる方法ならなんでもいいから。」
無責任なことを言ってくれるものだが、思ったより本来そんなことに使用する箇所ではない癖に、逆からの侵入は想像していたよりも死にそうなほどではなかった。
「上手だよ。N。」
Nはなんだかその言葉に反発したくなった。
「君だって、……男の……中に入れるなんて初めてだろ。その割にはスムーズなんじゃないか?」
「憎まれ口叩かなきゃもっといいよ。……というか、男は初めてってバレちゃったな。」
「バレないと思ってたのかい?」
Nは自分自身でも信じられないくらいにトウヤに狎れた口を利いていた。初めての相手なのに、何度もしてきたような雰囲気になっている。
でも行為自体は本当に驚かされることばかりだった。マスターベーションの時に手で与える刺激は、セックスでは腰を使って相手の体の中に自身を使って与える刺激になる。そして入れられた方もそうやって擦られるのが気持ちいい。日常の生活では得られない感覚を二人だから共有できる。排泄行為にしか使っていなかった場所が、こんなふうに感じる場所だとは思わなかった。
確かに今回のことは気持ちいいと手放しで言えるものじゃない。だが確かに言えることは、今回はNにとって失敗ではなかったということだった。
今回からサブタイトルをつけてみました。登場人物はそれなりに増えるつもりです。
ポケモントレーナーの初心者の大部分が最初に挑戦するジムのある街。
トウヤの手元にはボールが三つ。一つはミジュマル。一つはチョロネコ。もう一つはバオップだった。
バオップは夢の跡地の近くにいた親切というかお節介焼きの女性から、押し付けられるように譲られたポケモンだった。
今はポケモンたちをボールから出して公園で遊ばせていた。見るからにミジュマルとバオップはすぐ仲良しになった。水と炎で相性が悪いはずなのに、トウヤの胸がほっこりするほどほのぼのと遊んでいる。チョロネコはひなたぼっこをしながら欠伸をしていた。とんだぐーたらだった。
「どうしようかな。」
トウヤにとって今のところのパーティの予定では、単悪のチョロネコと同じく、炎ポケモンを入れるつもりもなかった。ミジュマルにしろチョロネコにしろ、打撃系の技に弱いポケモンの組み合わせになった上、バオップもたいして耐久力には期待できそうにない。しかしミジュマルが物理系の攻撃を次々に覚えてくれたのでパーティの攻撃力は申し分ない。なのにチョロネコはいつまでたっても如何せん、はっきり言えば使えない。性格が災いしているのか大器晩成なのか、即戦力になっていないのが現状だった。
トウヤの頭を悩ますのはこの町のジムの特異な性質もあった。最初に選んだポケモンの苦手タイプを使う三つ子のうちの一人が対戦相手になるのだ。だからミジュマルの攻撃力の高い技でごり押すのも難しいと予想出来る。控えのポケモンが頼りになるのが一番だが、チョロネコは期待できない。ならば新しく入ったバオップを当てにするしかない。
「まあいいか。」
大人特有の割りきりでトウヤは考えを打ち切った。そして三匹に声をかける。
「お前たち今から特訓だよ。とにかく相手のジムのポケモンよりレベルが高ければ高いほど、力押しで勝てると思うんだ。」
ポケモン達はワンマン上司から厳しいノルマを押し付けられた新人会社員のような動揺はしていたが、ある意味覚悟を決めた顔でトウヤを見上げた。
「大丈夫だよ。君たちならやれる。ねえ、チョロネコ。」
チョロネコはうんうんと頷いている。でもそれはただの形だけなのはトウヤもわかっている。伊達に会社員時代に毎年現れる新人社員を見てきたわけじゃない。時々いるのだ。どうしてこいつが面接で受かったんだというタイプの人間が。
しかし今回はトウヤが自分の私情で彼女を採用したのだから仕方ない。とにかくパーティのレベルを上げ、彼女にはそれに倣ってついてきて貰わなければならない。しかし大変なのは彼女ではない。お荷物な後輩や先輩を持つ、ミジュマルやバオップなのだ。
だがここを凌げれば鍛え癖や勝負強さが身について弾みになるはずだ。上級のポケモンに引っ張られたならダメネコだって、並みにはなるはずだ。トウヤの元企業の九割くらいの使えない子達も一年以内には形にはなった。あとの駄目なままの一割は彼女ではないはずだ。
「ミジュマル。君はチームのリーダーだからね。頑張ろうね。バオップ、ミジュマルとチョロネコを助けてあげようね。」
子どものやる気を引き出す。自分はどんな保父さんかと呆れてしまうが、やる気を出した子どもを見るのは気分がいい。ただやはりチョロネコは本心から頑張ろうとは思っていないんだろうなと伝わってくる。とりあえず、ミジュマル達が彼女がやる気のないことを悟って失望しないようにフォローするしかない。
「……」
はあとトウヤは溜息をつく。
案の定先頭にチョロネコをセットして野性のポケモンに特訓をしてみたが、彼女はすぐに戦闘不能になってしまい、それを引き継いだミジュマルとバオップのレベルは着々と上がっていった。
仕方がないのでミジュマルとバオップで削った野性のポケモンをチョロネコに倒させ、なんとか経験値の体裁を整えた。それでも有効な技をチョロネコは覚えなかった。本当に旅をかなり進めてからやっと使えるようになるのかなと、希望と絶望が混じりあった気持ちになった。
Nに最悪呼ばわりされたトウヤだったが、ポケモンに対する義務感から現れる愛情は人一倍だった。義務と言えば言葉は悪いが、自分が出来る限りのことをしてやろうという意志は誰よりも強固だ。しかも感情的になることなく、自分の苛立ちやストレスの原因をけしてポケモンに転嫁して八つ当たりしない。これも自分に課したトウヤの信念だった。
「うん。きっとチェレンも同じ苦労をしてるよね。だって彼のパーティにもチョロネコはいるから。」
中を開けてみれば、そんな立派な義務感も好きな子に対する同化願望から発生する信念だった。それこそがトウヤの人格の唯一残念なところだった。
優秀でありながらスイーツ。冷徹でありながらドリーマー。瀟洒でありながらデレデレ。
もしかしたらチョロネコのぐーたらは、彼のそんな残念な人格を見破っているからかもしれない。
とにかく努力することも工夫することもたいして苦にならないし、それに使役する労力も少なくて済むのが、この童顔の三十代の強みだった。チョロネコごときお荷物はトウヤにとっては屁でもなかった。
そこでトウヤは自分を見つめる誰かの視線に気づいた。ポケモン達を速やかに呼び寄せボールに避難させる。
「あー。やっぱり。しっかり監視されてるんだな。」
これから展開される物語が終ったあとに自らの存在を著しく消していたNだったが、今物語が動いている内は、その存在をトウヤにしっかり主張していたのであった。Nが直接姿を見せなくても、そこいらの野性のポケモンの目はすなわちNの目の代わりになっている。全部のポケモンの目がそうだとは言わないが、三匹に一匹はNからのスパイと考えたほうが変に疑心暗鬼にならずに済む。
「本当に律儀というか真面目というか。」
「それ誰のこと?」
後ろから声を掛けられる。スパイを寄越しているくせにわざわざNはトウヤに近づいてくるのだ。トウヤは仕方なさそうに振り向くとそこにはお昼の高く上った太陽を逆光にしてシルエットのようになった姿のNが憮然と立っていた。頭のところに太陽があるせいで王冠を戴いているような風情さえある。トウヤはその感覚を錯覚だと一人で決めつけた。
Nはすっと腰を屈めると現実的な姿になってトウヤの真ん前で視線を合わせてきた。
「トモダチが教えてくれたから。ちょっと顔を見に来た。」
ぶっきらぼうというか、半ば刺々しい口調でNは告げる。
「へえ。君からの差し金じゃないんだ。」
皮肉気に言うとNは言い返してくる。
「嫌いな奴を見張ってくれなんて、大事なトモダチに頼むことじゃないだろ。考えてみなくてもわかるだろ。」
「でも君の考えを察して君に僕のことを教えてくれるトモダチはいるわけなんだよね。それで君はトモダチの好意を無下に出来ずにわざわざ嫌いな奴に会いに来てくれたんだ。」
Nはトウヤの言葉に噛みついてくると思いきや、俯いて別にと呟く。
「彼らから悪い話は聞かなかったから。それと、あのとき僕が君に最悪だって言ったこと、よく考えれば言い過ぎだったと思う。いや、君の動機が不純で釈然としないっていうのは変わらないけど、でもあまりにも君とチェレンの個人的な関係に入れ込み過ぎていたようにも思う。君とチェレンの関係にも納得してないけど。だけど」
「いいんだよ。自分でもあんまり内容的に綺麗じゃなくて、君のような初対面の相手にずけずけ話すようなことじゃないとは少し反省したよ。」
しかし普通なら呆れはしても聞き流す程度の話だったとトウヤは思っている。もし少ない可能性でキレられたとしても、そこから二度と顔を見ないという選択肢を取られてしまうのが普通じゃないだろうか。だがNはポケモン達からの情報を整理して再びトウヤまで辿りついて、今こうして早口で、でもでもだってを織り交ぜながらも不器用に謝ってきた。ここは大人としては上手い具合に切り上げるのが定石だった。
「それはそうと、あのとき君はなんで夜にふらふらと歩いていたわけ?」
「え?」
Nはふいを突かれたように顔を上げてトウヤの問いへの回答に迷っていた。トウヤの悪い癖だった。切り上げなければならない場面で、またどつぼに嵌りそうなことを言ってしまう。無意識的ではなく意識的に。
「え、えっと……」
「あら。そんなに言いにくいことだったかな。」
Nという青年は嘘をつけないどころか誤魔化すことすら出来ないようだ。そして物凄く言いにくそうにしていたが、あの時の行動の理由をトウヤに告げた。
「僕と、一つ部屋に泊まって性交してくれる相手を探してたんだ。」
二人の間にしばしの沈黙が流れた。
「N。ちょっとそこで腰を据えて話そうか。」
トウヤはNを手招きしながら服を引っ張って近くの木陰に座らせた。大人としての教育的指導モードにトウヤは入る。
「うん。君が変な嘘をつかなくて良かったとは思っている。だけど正直に言ってくれたとしても、はいそうですかって納得できることじゃないからね。」
「えー。でもポケモンだって発情すれば交尾するだろ?」
「ポケモンと人間は違います。」
「一緒だよ。」
「違います!」
Nは納得できないように眉間に皺を寄せている。それでもトウヤの言葉の響きに少し怯えていた。
「だって人間も性交するくせに。ポケモンには抑制剤を使用して、ポケモンの生理を歪めてるじゃないか。」
「君には理性がないのかい? 本能や感情だけじゃないだろう。君はかなり理性的を装った感情的な人間なんだろうけど。」
「え? なんだい僕は君にお説教されているのか? 君と歳はあまり変わらないのに。というか君のほうが年下だろ。」
そんな勘違いはトウヤにとって想定内もいいところだった。自分の見た目は確かにNより幼いのかもしれないが、あらゆることがそれが間違いだと証明してくれる。
「N。君はいくつだい?」
「確か、十八。」
「はっ。」
トウヤは大人気取りの未成年の発言を笑い飛ばす。
「生憎だが僕はね、君より十二は年上なんだよ。それに最近まで結婚もしてた。もう失効されてるけど、この保険証が証拠だよ。」
トウヤが突きつけたカードにNは目を丸くした。トウヤは保険証とトウヤを見比べるNに溜息をついた。
「僕は君より大人だし、ちゃんと家庭も持ってて規制された枠内でセックスをしてきた。今までね。人間は確かに他人から薬で性欲をコントロールされてないのかもしれない。だけどね。人間はね、薬を使わずにあらゆる決まり事と理性を使ってで性欲をコントロールしなきゃいけない生き物なんだよ。薬とどっちが強制的なのかは横に置いておくとして、それなりに人間もきつい制限は受けているんだ。」
「う、うん……」
わかってくれたんだなとトウヤは肩を竦めた。
「で、君はどれだけの女の子を相手してきたんだい? そしてなんのためかな?」
Nは違うと大声で叫んだ。
「お、女の子とは交渉はしてない。僕が交渉したのは男ばっかりだった。」
「男ばっかり誘ってたわけだね。なんか経済的に困っていることでもあったのかい。だけどそういうのは金輪際やめるべきだよ。」
「お金なんて取ってないよ。」
「そうかい。それなら良かった。君は十八だからもう相手が捕まる歳じゃないけど。君は全く危なっかしいな。ホントに。」
トウヤは明らかに苛立ってカリカリしている。Nには規制内のセックスをしていたと言っていたが、トウヤは結婚してから本当にベルとはセックスレスだったし、あの田舎町の風俗店に入ろうものならある意味井戸端会議の話のネタになってしまう。よっぽど遠方の出張に単独で行かない限り、トウヤはセックスとはほぼ無縁の生活を送っていた。
「N。これ以上大人を呆れさせないでくれ。」
過去の禁欲的な十年間の鬱憤も相まって、トウヤはNに少しきつく言った。Nはトウヤの言い様に完全にしょぼくれてしまっている。ただでさえハイライトの存在しない目が暗くなる。
「だけどマスターベーションじゃあんまり気持ちよくないんだ。だからセックスしようとして男と交渉してみたんだけど、うまくいかないんだ。」
「君はどういう基準で男を選んでるんだ。」
Nの口調からしてセックスが上手くいかないというのは、どうやら行為を重ねても快感を得られないことではなく、セックスという目的そのものが完遂出来ていないような響きがある。互いにセックス目当てで近づいたのに上手くいかない理由がトウヤには分からない。
「トモダチに優しい男がいると、そういう人に惹かれちゃうんだ。それで僕から声をかけて了承を得るわけなんだけど。僕に挿入行為をする前にちょっと話をするだろ。その時に僕が失望して怒ってしまって結局セックスそのものが台無しになったのが一人目。あとポケモンが好きすぎて奥さんとのセックスがうまくいかなくなって離婚したっていう話を聞かされて、勿論僕とも上手くいかなかったのが二人目。あと、ポケモンの世話が忙しすぎて疲れからEDになっちゃったのが三人目。それから――。」
「わかったよ! 君に男を見る目がないんだろっ。ポケモン基準に男選ぶんだからそうなるわけだろ。二人目で気づけよ。」
「ごめんなさい……。」
たった一言のあの夜の回想から思いついた質問が、とんでもないNのブラックボックスを開けてしまったようだ。トウヤは頭がくらくらしていた。
「つまり君はセックス自体はしたことないってことだね。まあ不幸中の幸いだよ。」
「よくないよ。僕は気持ちいいセックスをしたいんだ。」
「君の男のタイプってアレだよね。ポケモンに優しい一択だよね。」
トウヤは考え込む。ある意味ではNは被害者かもしれない。しかしかなり加害者の側面が強い被害者だ。手当たり次第ポケモンに優しい男たちが、この青年の言葉に踊らされて要らない恥を掻くのは忍びない。絶対この先もNは失敗し続けると踏んだトウヤは、自分でも禁断だと思う決断をした。
「N。僕はポケモンに優しい男かな?」
「ミジュマルを選んだ動機以外は、優しいと思う。トモダチも保証してくれた。」
トウヤはNに手を伸ばす。触れたとき少し震えたNの指先の緊張した振動に目を瞑った。
「一度ちゃんとしたセックスすれば気が済むって言うなら、僕が相手になってもいい。ただし僕には君じゃない好きな子がいて、僕はその子に操を立てているし、君もこれから先きっとちゃんと好きな人が出来ると思う。だから互いに回数には入れずに、一回だけ。」
Nは戸惑っていた。自分がはた迷惑な奴だという自覚さえなかった人間だとトウヤに知られたのに、トウヤはそのはた迷惑を請け負おうとしてくれている。それは有難いことだけど、素直に首を縦に振れない。
「だって僕はチェレンとは、全然見た目からして似てないし。トウヤに僕は酷いこと言ったし、呆れられるようなことしてきたわけだし。」
トウヤはNを引き寄せて耳元で囁いた。
「セックスしたくて気が狂いそうになる気持ちは僕にも経験があるからね。それで君は相手を選ぶのがとことん下手くそで、今まで他人に迷惑をかけてきたんだろ。聞かされたからには、それを見過ごせないだけだよ。」
「大丈夫なの。僕で。」
トウヤはまだ日が高いうちなのに、Nを再び引っ張って町に入っていく。
「まず薬局に行って買わなくちゃいけないものがある。」
「それって……。あの、避妊具とかそんな感じのもの?」
「使用目的は違うけど、それもある。」
「そ、そうなんだ。」
性交の為の準備を整えなければという四角四面なトウヤの態度に、Nは性欲に浮かされた頭とは裏腹に少し怖気づいた。
「君は初めてだからね。そのままじゃたぶん挿入無理。」
「え、え?」
「痛い思いしたくないよね。気持ちよくなりたいんだよね。」
今までの失敗談とは違う展開にNは大事になったと慌ててしまう。
「そ、そういうところには……そういうの置いてあった気がするんだけど。」
「新品を買ったほうが確実だし、基本ああいうところは男女で来ることを想定しているから、男同士だと足りないくらいなんだ。」
「あ。そういう……。そうなんだ。」
トウヤはNに待っててと店の前で手を翳してNを止めた。
Nは買い物中のご主人を待つリードで繋がれたヨーテリーの横で待つことにした。モンスターボールではないとはいえ、リードで繋がれたヨーテリーもなんとなく拘束されているように見えて痛々しい気分になる。
「君。首輪されて繋がれてつらくない?」
Nはヨーテリーに話しかけた。ヨーテリーはきょとんとしていた。
「いや。ごめん。ネガティブなこと訊いて。君はすごく幸せそうに見えるよ。」
Nはぎこちないながらも笑顔を作った。
「ご主人はちゃんと買い物して帰ってくるから。そうなんだ。」
ちゃんと帰ってきてくれると分かっているから辛くない。Nはそういう気持ちをヨーテリーと共有出来るのかと首を捻る。そして手持ちぶさたから、もとは結婚していたというトウヤの過去をなんとなく想像してみた。
「駄目だ。やっぱり想像出来ない。」
普通の家庭で育っていないNには、夫婦という概念すらない。ただ男女が番って生活している感覚だ。知識で言えばある種の契約だというのは理解している。契約を無効にするのに離婚という新たな契約をするのも知っている。だけどNがすれ違ってきた二人組の男女を見ても、そういう契約の縛られた堅苦しさは全く感じなかった。
自分とは異質だがなんだか、羨ましく思えるようなこそばゆさを感じた。そして自分を説教してきたトウヤのことを思い返す。まるで知識だけで詰め込んできた父親のイメージそのものだった。そして自分はあのとき、確かに叱られている子どもだった。
「あれ? でも、子どもにセックスしようなんていう父親いるのかな? それこそトウヤの言う規制された枠を超えてるよね。ゲーチスだって僕にセックスしようなんて一度も言ってこなかったし。じゃあ、トウヤにとって僕は何のつもりであんなこと言ったんだろ?」
Nはまた分からなくなる。そして素直にトウヤについてきた自分も。
「ごめん。遅くなった。」
物思いに耽っているとトウヤは店から出てきた。隣にいたヨーテリーはもうとっくにいなくなっていた。結構時間が経っていたのだとNは気づく。
「店員の説明を聞いていたから遅くなったんだ。ごめんね。」
「トウヤ。普通そういうものはさっと指差してさっと買ってさっと店から出るもんなんじゃない?」
トウヤはむっとしたようにNにぐちぐち言い始める。
「ほんとにこの子はそういうことばかりは分かったような口を利くんだから。」
「僕だって感覚的に分かるものは分かるよ。」
「君の為に最善を尽くそうとする僕に、そういう言いぐさはないと思うよ。」
「……ごめんなさい……」
「君の為にこの店で恥ずかしい思いをしてきた僕にいうべき言葉とはそぐうようで、少し違うよ。」
「な、なんて言えば……」
「せめて、ありがとうだろ。あとお疲れ様とか。」
それもなんか違うと思いながらも、この瀟洒な男が薬局で店員の説明を長々と質問を交えながら聞いていた事実を労うのに、この男が要求してきたのなら、その言葉こそが順当だとも思える。たぶん他に客もいただろうから、本当に恥ずかしい思いもしたんだろう。根が真面目な男だというのはトモダチから多く聞かされているから、その真面目さを精一杯自分に傾けてくれたのは分かる。
だからNはトウヤに伝える。
「お疲れ様。ありがとう。」
Nはトウヤに要求された通りにしか言葉を言えなかったが、その二言には全てを注ぎ込んだ。
「じゃあ、行こうか。」
「うん。」
これからの目的とは裏腹にNはとても温かいものを胸にトウヤの後ろについて行く。
「トウヤはやけに男同士の性行為について詳しいし慎重だけど」
「だけど、なんだい?」
Nは言おうか言うまいか迷ったが口に自然と出てしまった。
「それって、チェレンのため?」
「本当の予定ならそうなってたね。」
トウヤは自分の目の前にある空を見上げて、Nを振り向かない。
「だからってチェレンを気にして、あらゆる意味で困った君になんとかしてやらないのも何か違うんじゃないか?」
その理屈はよく分からない。Nはまた質問を重ねる。
「だったら、僕の知ってる君ならもっと上手いこと別の方法を使って誤魔化せたと思う。そもそも君自身が僕と性交渉しなくても、君がこれだという人を紹介してくれるっていう手もあったと思う。」
「さっきのチェレンへの慮りもそうだけど、君は頭が回りすぎるのが欠点なんだ。だから男とも上手くいかない。だからそれをちゃんと理解している僕が最適なんだ。他の人を紹介して、その人に君がどういう人物かを説明しても、君はきっと僕が紹介した相手だとしても上手くいかない。」
「上手く、いかない……」
なんだか悲しいことを言われたような気がする。だけど何人も失敗してきたのだ。たぶん相手よりもN自身の過失が大きいことも今のNには少し理解出来ていた。
「だけど君が僕と上手くいくの?」
「さあ?」
本当に真面目なのか不真面目なのかわからない。トウヤの足が向いたところには、Nの言うそんな目的のための建物が見えてきた。
- * *
草原の中を一人の十八歳の女子が歩く。髪はポニーテールに結い上げ帽子を被り、服装も近頃の女子らしく露出度が高く活発そうだ。
しかし彼女ことトウコは一歩前に進むたび地面を食い入るように見ていた。
「ちいさなきのこ、みっけ。」
彼女はほくほくとそれを袋に入れる。傍で歩いていたエンブオーは彼女の頭をぽんぽんと叩いた。彼女はかれこれ二時間くらいこうして地面を見て換金出来そうなものを探しているので、そろそろ休憩を入れたらどうかと提案しているようだ。
「えー? きんのたままだ見つかってないよ。きんのたま見つけないと心もとないし。ごめん。もう少しきんのたま探させて……あうっ。」
年頃の娘がきんのたまを連呼するのを見かねてエンブオーは無理矢理にトウコを木陰に連れて行く。エンブオーはトウコを座らせてモモンのみをトウコに押し付けた。
「食べろって? 勿体ないってば。毒消しにも使えるのに。」
エンブオーは首を横に振り、トウコの口にきのみを押し付ける。ポケモン馬鹿の癖にトレーナーとして食っていけるほど強くもない自分のトレーナーは、かつかつの財布を見ては食事を疎かにする。それなのにポケモンの分のごはんはきっちりしようとするもんだから、始末におけない。
トウコの年齢と実力を鑑みれば、世間ではそろそろトレーナーの辞め時である。もう七年以上もトレーナーをしているのに目立った功績を上げられていないからだ。それに女の子なら結婚している人間もちらほら見え始めてる。
エンブオーもなんだかんだとポケモンの身で考えるのだが、なんだかんだでこうやって駄目トレーナーについて行っている。
「エンブオー。エンブオーさえいればハチクさんには勝てるよね。」
「ブオ。」
そう。本当なら勝てるはずなんだ。それでも負けてしまうのがトウコなんだとエンブオーは言えなかった。
旅に出た最初、トウコはどんな子どもより期待された女の子だった。町一番の才媛だと言われ、ポカブだったころのエンブオーはいいトレーナーに巡り合えて良かったねと研究所の大人に笑顔で言われた。
しかしトウコはポケモンに熱中し入れ込むことで、才媛だった自分をあっというまにやめてしまった。ただの馬鹿になってしまった。なぜ勝てないのかをエンブオーが理解したのは、ライブキャスターごしにトウコをサポートし、ポカブに向かってトウコ指して言っていた大人の「サイエン」という言葉を漢字の「才媛」と理解し、意味を悟ったと同時だった。
才媛だったトウコのことをポカブだったエンブオーは最初、怖いと思った記憶がある。それがいつしか怖くなくなっていき呆れるようになった理由は、単なる慣れだと思っていた。だけど実はトウコが自ら才媛の自分をやめたということに気付いたのはつい最近だ。人間の言葉を使えるなら、どうして才媛をやめたのか、是非問うてみたい。
たぶん、才媛だったころのトウコに戻れたなら、きっとバトルだって勝てる。お金にも困らないし、お腹を空かせてこんな地面を這いずりまわるような生活を送らなくて済む。
今の生活でエンブオーが辛いのではない。トウコが一番辛いだろうからだ。
もしポカブだったエンブオーが才媛だったトウコを怖がっていたことを知ってトウコが才媛をやめてしまったのなら、エンブオーはとにかく謝りたい。だから無理して嫌われないためだけに馬鹿を続けなくてもいいんだよと伝えたい。みんなから褒め称えられた彼女に戻って欲しいわけじゃない。馬鹿を一生懸命続ける彼女といるのはなんだかんだで楽しい。だけどそのきっかけが拙かったころの自分のせいなら痛々しくて耐えられない。
エンブオーはそれを伝えようと鳴き声を連呼するのだが、トウコはにこにこと笑いながら「お腹すいたー」とまた地面を食い入るようにきんのたまを探すのだった。
エンブオーはポケモンの神様に祈るような気持だった。この状況をなんとか変えて下さいと。
「あれ。トウコちゃん。」
ふいに声を掛けられてトウコは硬直する。自分の素性を知っている人間が今目の前に現れた。それはトウコにとって色々と都合が悪く複雑だった。
「だ、誰かな?」
「トウコちゃん。従兄のお嫁さんをわすれちゃ駄目でしょ。」
「従兄のお嫁さんって、ひょっとしてベルちゃん?」
トウコの目の前にエンブオーが知らない人間が知り合いとして立っている。エンブオーも思わず近づいて人間の真似事みたいにお辞儀をした。
「あら。立派なエンブオー。すごいわトウコちゃん。こんな立派なエンブオー、そうそう他にはいないんじゃない? かなり大きいし、初対面の人間に自分から挨拶するくらいに賢いし。顔もハンサムさんだわ。」
「え? え? そうかな。それほどでも、あるけど。」
満更ではないトウコはトレーナーにあるまじきポケモンの前でのデレ顔を晒した。
「それはそうとトウコちゃん。」
「いやそれはそうとと言えば、ベルちゃん。なんでこんなとこに?」
ベルはじゃーんと言ってポケモン図鑑をトウコに見せびらかした。
「え? なんで? どうして?」
トウコにとっては晴天の霹靂だった。従兄の嫁と言えば自分にとっては親戚である。その親戚筋の女にこんな旅の彼方で出会うとは思わなかったし、まさかその親戚のかなりの年上の女がポケモン図鑑を携えて旅をしている途中だなんてさらに思えなかった。
「トウコちゃん。私、トウヤと離婚して旅に出ることになったの。」
「えー! あんな優秀で将来有望なサラリーマンのトウヤ兄と離婚しちゃったの! もったいない!」
昔は自分も優秀で将来有望じゃなかったのかとエンブオーはトウコにつっこみたい。
「いやトウヤもサラリーマンやめてトレーナーになってるから。」
「トウヤ兄が!」
ドロップアウトが定番なのかこの一族はとエンブオーは感慨深かった。ベルは続ける。
「それでね、さっき言いかけたことなんだけどね。旅に出るとき、トウコちゃんのお父さんやお母さんや他の家族や親戚の人たちが、トウヤの家に一斉に押しかけてね、連絡の取れないトウコちゃんを見つけ出して実家に一旦連れ戻してって頼みにきたんだよ。で、トウヤはそれを了承したわけ。」
「私のライブキャスター……。電池切れして久しいから。」
「そうだね。だけど年単位はやりすぎだよ。」
「お、お金がなくて。」
ベルはカノコタウンにもうっすらと聞こえてきたトウコのトレーナーとしての評判は本当だったのかと肩を竦めた。
「トウコちゃん。やっぱり家に帰るべきじゃない? 私も言える立場じゃないだろうけど、実家には一旦帰ろうよ。トウヤにも迷惑かけちゃわないうちにさ。」
トウコはごそごそと靴ひもを結び直し、荷物を手繰り寄せてエンブオーの手を引っ張る。
「こら、逃げない!」
ベルはトウコにタックルしてトウコを転ばせた。
「いやあ! 逃がしてえ! 見逃してえ!」
「私が連れて帰るわけじゃないから。実家に閉じ込められるのが嫌だって気持ちは私にも分かるから。」
トウコはとりあえずじたばたするのはやめた。
「私、ほんとにポケモンが好きだから。そりゃあ、へぼで目が出ない万年駄目トレーナーだってことは分かってるけど、でもそれでもポケモンが好きだから!」
涙目で語るトウコに、そんなんだから家族がこぞってトウヤに連れ戻せって頼みに来るんだろうと、ベルは呆れ果てていた。
「うん。だけどね、連れ戻さなかったらね、トウヤがねえ、まあいっか。トウヤね、もし私が先に出会って連れ戻せなかったらの為にね、準備してくれたものがあるんだよ。」
「トウヤ兄が?」
「トウヤがポケモンバトルで稼いだものなんだけどね。」
ベルがはいとバッグから出した巾着袋をトウコに渡す。トウコはものすごい勢いで結び目を解いて中を見た。
「な、なにこれっ。トウヤ兄こんなに稼いだわけ! すごい。すごいよ。」
「連れ戻せなかったからって、トウコちゃんの当座の生活をどうにかしなくていいわけでもないでしょ。」
「お金、お金ぇ。エンブオーぉ。良かったよお。」
持つべきものは記憶に薄い従兄殿だった。それにしてもとトウコは自分の親指の爪を噛み始める。
「トウヤ兄。トレーナー始めてまだ日数単位だよね。こんなに稼いでるなんてどんだけ。」
「あっ。換金グッズには手を付けてないって言ってたよ。あとで、もしもの時ににって。」
「余裕があんじゃないの。くそう。エリートめえ。」
お前とは全然違うんじゃないかと、エンブオーは敢えてトウコをカノコの実家に連れ戻すのに協力しようかと迷う。
「当座のお金はそれでいいとして、お金にまた困ったらそれこそトウヤに会ったほうがいいよ。」
トウコは首をぷるぷると振る。
「だけどトウヤ兄は私を実家に連れ戻すつもりなんだよね?」
「そこはちゃんとトウヤと交渉しなさい。それともトウコちゃんは何か他にお金を入手出来るあてがあるの? ――まさか。」
ベルはやけに露出度の高いトウコの格好に最悪の事態を想像する。
「いや。ベルちゃん、怖い顔しないで。あのね、カノコのトウコはね、心は売っても身体は売らない主義なの。」
「心も売っちゃいけないよ、トウコちゃん。」
「はい……。」
流石年上の人間だとエンブオーはベルに感心する。あのポケモンの熱に浮かされたようなトウコが、ほんの少しの間だろうが常識的な世界に戻ってきた。
「とにかく、トウコちゃんからはトウヤのいる場所が分かるようにするから。ライブキャスター貸してよ。」
もう既に無抵抗になったトウコは大人しくライブキャスターをベルに渡した。ベルはトウコのために購入していた電池に入れ替え、トウヤのデータをトウコのライブキャスターに送信する。
「困ったときにはトウヤに連絡して落ち合うのよ。」
「はい……。」
じゃあねとベルは手を振ろうとしたがトウコがまた何か言いたげにしているので声を掛ける。
「わかってるわよ。当分の間はおうちの人にはトウコちゃんに会ったことは言わないから。」
「ありがとうございます!」
今度こそじゃあねと言ってベルは次の町に向かった。残されたトウコは人の情けをしみじみと噛みしめてずっと巾着袋を握っていた。
「エンブオー。」
「ブオっ。」
「わざマシン買いに行こうか!」
やめろと叫ばんばかりにエンブオーはトウコの後ろ頭を思い切り殴った。今買うべきは次のバトルに備えての装備だし、トウコ自身の食事もだし、何が悲しくて渡された金のほとんどを一個で使い切るようなわざマシンを買わねばならぬのかと。ポケモンにさえわかるような理屈を何故この元才媛の馬鹿はわからないのかと、エンブオーは改めて頭が痛くなった。そのしかめた顔を見てトウコはエンブオーそれ頭痛?エスパータイプの技を覚えたのねとわけのわからんはしゃぎかたをしていた。
だからこの女は駄目なんだとエンブオーは、自分もろともトウコと実家に帰ることも視野に入れるのだった。
* * *
ホテルの部屋に入ってからトウヤはきょろきょろと辺りを見回し、挙句の果てには部屋の中を見て回り始めた。
「よし。」
「何が良しなんだい?」
「変なカメラやマイクが無いかなって確認してたわけ。」
「そんなもの普通ないだろ。」
「あー。君はそういう特殊な趣味の人たちを知らないから。」
そんなことをさも常識と言わんばかりに言っているが、どう考えても考えすぎだし変な筋からの情報を鵜呑みにしているなとNは思った。これがサラリーマンというニンゲンなのかと、それでも興味深かった。今までNが関わってきたトレーナーという人種はここまで用心深いやつはいなかった。
Nはトウヤが一通り納得いくまで確認している間は、ベッドに腰掛けて大人しく待っている。ちらっと薬局の紙袋を見てまた自然と顔が引き攣ってきて、自分でも変な笑みが浮かんでいるとわかった。
「中身確認する勇気はないな……」
どうせトウヤに何もかも任せればいいんだろうと、Nは今までにないくらいに楽観視している。最初会って最悪と叫んでしまった時にはそんなふうに思えなかったのに。安心している信用しているとはNはさらさら思っていない。なんとなく大丈夫うまくいくという楽観があった。
「ねえ、トウヤ。」
十以上も歳が上と知ってもこんな呼び方でいいのかと、言葉を発すると同時に躊躇した。
「なんだい。」
しかしトウヤはNからの呼ばれ方なんて気にしていない様子だった。ならこれからもこれでいいかなとNはまた楽観してしまう。
これからのことをどう切り出していいかわからないNは、苦し紛れに薬局の紙袋を手に取ってトウヤに差出す。
「あー。」
トウヤはNから紙袋を受け取ったが、中身を見るでもなくまたベッドの横に置き直した。
「その中のもの、使うんじゃないの?」
「いや。その前にまずキスくらいはするだろ。」
「そうだった。そういう手順はあった。」
知ったかぶりっこしていたがNは、誘ってきた男達とキスすらしたことはなかった。Nに釣られた男は常にまず身体に触るのが当たり前だったから。うまくいかなかった理由がそれこそである。だけどNはまだそれを理解出来ない。成功体験がないからだ。
「N。知らないことは知らないって言ってよ。」
見破られた。Nはぎこちなく自分の唇に触れた。
「キス、したことない。だけど知識はある。」
トウヤはそういうふうにきちんと正直に言いなさいと言いたげに二回ほど頷いた。
「じゃあ。今からするから。」
Nはトウヤがどう出るかトウヤの顔を凝視する。
「興味深々だな。だけどこういう時は目を瞑るのが礼儀だよ。」
そうは言われても視覚を手放すのがNにはあと一歩のところで耐えられなかった。
「きょ、今日はいいだろ。慣れるまで目を開けてても。」
「N。今言っとくけど僕は正直、君が慣れるまで歩幅を合わせてやれるか自信がない。それでも待ってくれなんて君は言うのかい?」
Nは黙っている。これから起こることへの好奇心の前では妥協が出来ないのかと、トウヤは今度は目で問いかけてくる。Nというのは相手が年上でも明らかに自分が未熟でも、譲らないのは性格か、それともこれからする行為の特性故なのか。
「ちょっと待って。」
Nは一回目を瞑ってすぐに開いた。そして目をまた瞑る。トウヤが顔を近づけた気配を悟ったのか、また目を開いてしまった。目を閉じているトウヤの顔が眼前に迫っている。
『驚いて叫ばなくて良かった。』
Nが目を閉じてくれたからトウヤも目を閉じてくれたのに、Nが目を開けたことを悟られてしまったとしたら、また怒られるとNは思った。Nは再び目を閉じる。
トウヤの柔らかい唇がNの唇に触れてくる。
『うわっ。』
叫びたいのに口を塞がれているので叫べない。感覚が触覚に全て持っていかれて自分の体に触れてくる全てに関心がいってしまう。是非とも目を開けて確認してしまいたいが、トウヤはそれをマナー違反と言っていたので我慢していた。
しばらくするとトウヤの唇が薄く開かれたのが分かった。
『え?』
トウヤの舌先がNの唇をこじ開けようとしているように思える。こじ開けようとしていると思っているのはNなのだが、その解釈が正しいかどうか判別がつかないNは、自分の解釈に従ってトウヤを真似するように自分の口を開いてみる。
唇にトウヤの歯が当たる。上唇を少し噛まれたのでNは首を後ろに逸らしてしまった。
「か、噛むのっ。」
「落ち着いてよN。ただの甘噛みじゃないか。」
トウヤがくすくすと笑う。トウヤは目を閉じて再びNの唇に触れようとした。
「ぼ、僕もう目を開けてるからね。何されるの分からないと怖いから。」
「最初を我慢してくれたんだから別にいいけど。」
大丈夫? その呟きにNは釈然としない。
「唇くっつけあうだけがキスじゃないんだよ。」
そう言ってトウヤはNの口の横や下に唇を押しつけてさっきのように軽く歯を当てたり吸ったりしていた。Nにはそれがこそばゆい。上唇も下唇も丹念に吸われて甘噛みされていく。そういうことをやっているトウヤの平然とした目を瞑った顔を至近距離で見つめざるえないNは、目を瞑らないと言った割には目の前の光景から目を背けたくなっている。
いきなりトウヤがNの少し開いた唇にぴったりと唇を当て、Nの口の中に舌を差し込んできた。舌先がNの舌に絡まって背中が震える。ニンゲンの舌だと分かっているのに、なんだかわけのわからない生き物が侵入してきたような気分だった。
まってと言いたいが言葉を発しようとしたら、自分の舌もトウヤの舌も噛み切りかねない。
気持ちいいのとは明らかに違うだろうというあまりにも変な感覚。どう考えても気持ち悪いというほうが正しいように思える。それなのにトウヤは執拗に口の中に舌を差し込んではNの舌に絡んでくる。そんな質量にNの口腔のキャパシティが限界になって息苦しい。なんとか逃れようとトウヤの身体を両手で押すが、トウヤはNに掛けた手を離してくれない上にさっきまでより強くNを抱きしめてくる。
「ちょっ…トウヤ!」
トウヤの口から気づかぬ間に唸り声のような息が漏れている。
「息、苦しいの?」
トウヤはひたすらその言葉に首を横に振った。普段のトウヤならジェスチャーではなく言葉が先に出るはずなのに。それに息苦しくないのに息が荒いというのも変だ。
『ひょっとして、トウヤは興奮しているのかも。』
やっとNは気が付いた。
ポケモンが発情すると大変だとのたまっていた男がいた。今自分を捕まえているのは発情したニンゲン。ならば自分が見てきたニンゲンたちの発情具合とは、とんだままごとの発情ごっこにすら思えてくる。
「いやっ。ちょっとまって。トウヤほんとに怖い!」
今まで自分を窘めていた人間が、いきなりケダモノのような本性を現した。あの発情したポケモンを見て困ったと言っていた男は、こんなになったポケモンの姿を見たというのか。なら今のNにはその話を笑って頷きながら同情しながら聞いてあげることができる。あなたも大変なあいましたね。と言いながら。
トウヤは相変わらずふーふーと息を漏らしている。
「ご、ごめん。N。なんか…僕余裕なくなって……」
「トウヤ。落ち着こう。さあ、深呼吸して。」
どれほど言葉を交わせるニンゲンというのが有難いか、Nは強く実感する。
「無理。」
少し正気になってくれたと思っていたが、トウヤは今度はNの服をむしり取るように脱がせ始めた。
「ごめん。なんか思ったより興奮してるよ僕。」
「わかってるならどうにかしてよ。」
「ごめん。どうにもならない。」
言葉は交わせても無意味だった。
「と、とにかくっ。痛くないようにはどうにかするから、君も協力してくれ。」
しないわけにはいかないだろうとNも流石は理解できる。もともとは自分が蒔いた種なのだ。その結果がこのトウヤなのだ。
それにしてもさっきまでとの落差が激しすぎる。この元サラリーマンは経験豊富だから、自分に対してあんなふうに穏やかにだけど厳しく窘めていたのではないのか。これでは十二年下の自分よりさらにがっついた性欲とは言えないか。三十なんだからもう少し枯れろとは言わない。だけどもう少しなんとかならないのか。
Nはせめて、興奮しきって恐ろしいことになっているトウヤから目を背けるために目を瞑った。荒い息遣いは聞こえてくるけれど、見えないことがどれだけ心安らかにさせてくれるのかを、Nはこの瞬間知った。
ズボンを毟り取られたところでトウヤが足開いてと要求してきた。Nは恐る恐る足を開くとキャップの蓋を開ける音が聞こえて、次に冷たい液体の感触が局部に触れた。
「つめたっ。ぬるぬるする。」
「あ。ごめん。これローションだから別に変なもんじゃないから。」
ごめんごめんと謝っている割には本当に誠意を感じない。ローションは冷たいがそれを塗り広げるようなトウヤの手は熱い。トウヤは焦っているわりには出来る限り丁寧にNの受け入れ口にローションを塗りたくり、その滑りを借りて指を侵入させてきた。
「大丈夫だろ? 大丈夫だよな?」
お前が大丈夫なのかと逆にNは問いたい。具合を確かめているのだろうが、自分の体に起きていることより、相手の精神状態が気にかかってひたすら翻弄される。
今まで感じなかった男の体臭が鼻を掠める。鼻をつくというわけではないが、今この男に起こっている現象を主張しているようだった。体温が上がって盛んに呼吸を繰り返して、いろんな感覚が敏感になっているのだろう。
これが発情したオス。今まで見てきた男はあくまで人間の男性だった。ニンゲンのオスには今までNは出会っていたつもりになっていただけだと宣告されたようなものだった。
紙の箱が破かれるような音がする。
「……。」
Nが薄目を開けるとトウヤが怒張した性器に避妊具を被せている最中だった。Nと目が合うとトウヤは苦笑いを浮かべている。
「君はまだ未成年だけど体格がいいからね……たぶん大丈夫だよ。…そんなに挿入に無理はないと思うんだ。」
そんなことないとNは首を振る。だけど途端に泣き笑いのような顔をしてくるものだから拒めない。
「ゆっくりするから。それに出来るだけ優しくするから。」
Nの口元が動く。どう言葉にしていいか分からないが、これだけは伝えてやらないと、この大人があまりにも可哀そうな存在に成り果ててしまう。
「う、うん。」
Nの肯定の言葉を聞いたあと、トウヤはもう少し足開いてとNにとって残酷で恥ずかしい言葉を吐いた。Nはトウヤに言われる通りに限界まで足を開いてトウヤの出方を待つ。
トウヤは再びNのアナルに指を押し当てもう一度確認するかのように挿入している。そしてぐるぐると抉るようにかき回してきた。
「痛くないよね?」
「痛くないよ。恥ずかしいけど。」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしいのが可愛いって言ってきた人がいたけど。」
「そうだね。可愛いよ。」
トウヤは目の前のNという対象物を嬉しそうに見ていた。
「いくよ。」
開かれた片足に手が添えて、Nの局部にトウヤは押し入った。
「あっ……」
異物感にNは声を漏らす。
「力抜いて。」
「息吐けばいいのかな……」
「楽になれる方法ならなんでもいいから。」
無責任なことを言ってくれるものだが、思ったより本来そんなことに使用する箇所ではない癖に、逆からの侵入は想像していたよりも死にそうなほどではなかった。
「上手だよ。N。」
Nはなんだかその言葉に反発したくなった。
「君だって、……男の……中に入れるなんて初めてだろ。その割にはスムーズなんじゃないか?」
「憎まれ口叩かなきゃもっといいよ。……というか、男は初めてってバレちゃったな。」
「バレないと思ってたのかい?」
Nは自分自身でも信じられないくらいにトウヤに狎れた口を利いていた。初めての相手なのに、何度もしてきたような雰囲気になっている。
でも行為自体は本当に驚かされることばかりだった。マスターベーションの時に手で与える刺激は、セックスでは腰を使って相手の体の中に自身を使って与える刺激になる。そして入れられた方もそうやって擦られるのが気持ちいい。日常の生活では得られない感覚を二人だから共有できる。排泄行為にしか使っていなかった場所が、こんなふうに感じる場所だとは思わなかった。
確かに今回のことは気持ちいいと手放しで言えるものじゃない。だが確かに言えることは、今回はNにとって失敗ではなかったということだった。
今回からサブタイトルをつけてみました。登場人物はそれなりに増えるつもりです。
☆「ポケモンデイズ①」 主♂チェレ、主♂N
トウヤは一人草原を歩いていた。その足取りはまっすぐで正確で、そして足元にいる小さいパートナーにさりげなく合わせていた。目線は前を向いていたが足元のミジュマルの気配はきちんと読み取っている。つまりその若い風貌とは反対に熟練された大人の所作をトウヤはしていた。
「みじゅみじゅ。」
当然、ミジュマルのつぶらな瞳が見上げてくれば、それを迷わず見返してしまうくらいに一人と一匹はわずかな時間の間に親密になっていた。
「どうしたんだい? ミジュマル。」
ミジュマルは草むらのほうにすっと視線を落とす。
「そろそろ仲間が欲しいのかい?」
トウヤは首を傾げてみせる。トウヤはミジュマルを鍛えるために飛び出してくるポケモンをほぼ全てミジュマルに倒させてきた。ミジュマルはトウヤにとって記念すべき『最初のポケモン』なのだ。他のポケモンとはわけが違うのだ。この先に作るパーティの要にしたいと思っている。だから当然、この先出会うポケモンよりレベルを上げておかないといけないと考えていた。
しかしミジュマルは「自分だけ」が強くなりたいとは思っていなかったようだ。
さてとトウヤは考える。なるべく六匹の編成をしょっちゅう変える羽目にはなりたくないと思っているトウヤにとって、あまりにも旅の初期に二匹目三匹目を捕まえるのは、正直言って抵抗がある。まだまだミジュマルでも凌げるレベルのポケモンにしか遭遇していない現状で、あまりポケモンゲットを先走る気にはなれない。
トウヤは困ったことに、パソコンの預かりシステムに不要になったポケモンを預けっぱなしにも抵抗を持っていた。ポケモン図鑑を託されてポケモンを沢山捕まえる大義名分もあるというのに。渡されたモンスターボールはまだ一つも使われていなかった。
それは大人特有の頭の固さだった。
「ミジュマル。お前のお友達はこの先いっぱいできると思うんだ。それまで僕と二人きりじゃ駄目かい?」
「みじゅ……」
ミジュマルは戦えるとは言っても中身は幼い子どもと一緒である。十歳の子どものトレーナーとミジュマルなら、次々とポケモンをゲットしていき、六匹どころじゃ済まない数になっているだろう。しかしトウヤは大人になってもう既に十年以上経っている。子どものように軽はずみに自分の手持ちを増やして要らない手間をかけさせられることを考えれば、今はミジュマル一匹を大事に育てたいと考えている。
しかし寂しそうなミジュマルに心動かされないほど、トウヤは冷淡で計算だけで動く男じゃない。
「そうだね。ミジュマルにも弟分を作ってやらなきゃね。」
あくまでミジュマルを立ててやるのも瀟洒な大人のやることだった。
「でも。ちょうどいいこが見つからなかったら、今回は諦めようね。」
そうやって逃げ道を作るのもずるい大人の手腕だった。でも嬉しそうに頷くミジュマルはそんなトウヤを疑いもしない。
「じゃあ、いくよ。」
トウヤはこのまま町に行ってしまおうと草むらに一歩を踏み出したとき、一匹のチョロネコがトウヤのズボンに噛みついてきた。
「……」
これを倒して経験値にしたりスル―するのは不味いとトウヤは直感する。
『チョロネコは悪タイプだよね。使えるようになるまで時間かかりそう。』
だけどミジュマルに今さっき言った手前、約束を反故出来ない。
しかたがない、こういうこともあるかと、トウヤはミジュマルに呼びかける。
「ミジュマル。体当たり。」
このチョロネコだったら、ミジュマルのまだ覚束ない体当たりなら避けると半ば確信していたのだが、なんだか目つきがやけにしぶとそうなチョロネコだった。
チョロネコは攻撃力だけやけに高いミジュマルの体当たりを受けてひっくり返った。
「え? なんで?」
もう一撃でチョロネコは逃げ出すか、ミジュマルの経験値になるはずだ。しかしチョロネコは逃げない。
トウヤはミジュマルの背後でミジュマルに気づかれないように手を振って早く逃げろと伝えるが、チョロネコはトウヤを見たまま何かを待っているように腹を見せてひっくり返ったままだ。
「こいつ。当たり屋か?」
ポケモンの世界にもそんなのがいるとは思えなかったが、現実のチョロネコはいかにもゲットしてくれと言わんばかりに無抵抗に身構えている。
トウヤは、はあっと溜息をつくとバッグからボールを取り出した。
『悪タイプならエスパーやゴーストに対抗できるはずだし。』
トウヤは本当に仕方なさそうにボールを投げた。ボールは形だけのような振動に震えたあと止まった。チョロネコは既にその中に納まっている。
ミジュマルが嬉しそうに手を叩いていた。
「チョロネコ。ゲットだ。」
「みじゅ!」
ミジュマルははしゃいでいた。その純粋な喜びっぷりだけでプラマイゼロかなとトウヤは思った。
「ミジュマルもチョロネコも回復させとかないとね。」
トウヤはミジュマルをボールに入れて、近くにいたのにスル―し続けたカラクサタウンに向かった。初心者ながらに大人のトウヤは誰に説明されるまでもなく赤い屋根のポケモンセンターの中に入った。
ポケモンを回復させて同じ施設内にあるショップで装備を揃えに行こうとしたら、備え付けの椅子に座っているチェレンとツタージャがいた。
「チェレン。君も来ていたんだね。」
「僕はポケモンを回復させに来ただけだし。」
つっけんどんに言うチェレンの横にトウヤは座り、チェレンと同じようにミジュマルを出して膝に乗せた。
チェレンはミジュマルの姿を見ると反射的に首をそむけた。しかしこころなしか、ちらちらミジュマルを見るような気配が窺える。
「結構、すぐに懐いてるね。ミジュマル。」
「そうみえる? なら嬉しいな。君もツタージャと仲良さそうじゃないか。」
「そ、そうかな。……ところでベルとどれだけポケモンを捕まえたかって比べあいになったんだけどさ。トウヤはどれくらい捕まえた?」
トウヤはチョロネコのボールを手に取った。不本意さ加減を悟られないように精一杯の笑顔を見せる。
「……チョロネコなんだけど。」
チェレンは口元を手で覆って驚いていた。
「僕も捕まえたのチョロネコなんだ。」
見ようによっては頬を染めて恥ずかしそうにしている仕草にトウヤは衝動的に可愛いと思ってしまうが、顔には出さないように努めた。
「ま、まだそんなに種類を見てきてないから、たまたまなんだけどねっ。」
二十四歳とは思えない拙さ溢れる照れ隠しだった。それがますます可愛くてトウヤは自然と顔がにやけてしまう。
チェレンがいろいろと誤魔化そうとしていたら、町の住人が中にいるトレーナーに呼びかけるように声を上げた。
「なんか広場で始まるらしいぞ!」
どちらかと言えばカノコとどっこいな田舎町であるせいか、突然のイベントにセンター内のトレーナー達はこぞって外に出ていく。
「なんだろうね。」
「僕たちも行ってみようか。」
トウヤが先に立ってチェレンに手を差し伸べる。チェレンはトウヤの手を一瞥したがその手を握り返さずに立ち上がった。トウヤは握り返されることは期待していなかったので、別に何も気にすることはなかった。
ミジュマルとツタージャをボールから出したまま抱きかかえて二人がセンターから出ると、広場のある場所だけが黒山の人だかりを作っていた。トウヤ達は最後に出てきたようなものなので、いわゆるステージの上の人物の姿はちらちらとしか見えないが、そのけったいと言うか場違いさだけは理解出来た。
『皆様にお集まり頂き、深く感謝いたします。』
拡声器越しの輪郭がぼやけた声と、きんっという機械音が聞こえてくる。拡声器から聞こえてくる声はトウヤより十か二十年上の男の声だった。
「選挙かな?」
トウヤの推測にチェレンは首を傾げる。トウヤも同感だった。選挙の演説なら車を使ってすることも多いし、今演説している集団の他にも同じような集団や車両が近くに見えているはずだ。
もちろん、演説の内容は選挙で票を求めるものではなかった。ギャラリーがざわつく。その理由は明らかだ。この場に集まった聴衆のほとんどがポケモントレーナーで、演説の主旨が己の存在を真っ向から否定するものだったからだ。
「ポケモンの解放だって……そんなことできるわけないだろ。」
胸元でボールを抱きしめるトレーナーがいた。愛情を持って接している相手に、こき使って実は自分を嫌がっているなどと一方的に言われる筋合いはない。それはトレーナーになったばかりのトウヤだって同感だ。
「選挙じゃなくて新興宗教だったわけか。」
「みじゅみゅみじゅ」
しかしトウヤは淡々と聞いていた。そして心配することはないと伝えるようにミジュマルの頭を撫でる。隣のチェレンもツタージャを抱きしめて、周りの聴衆に引きずられないように、トウヤを真似するように表情を変えないよう努力していた。
演者はプラズマ団のゲーチスと名乗っていた。トウヤは覚えておいて変な団体に気を付けておこうと思った。
「にしてもゲーチスか……。」
どこかで聞いたことのあるような名前だったが、どこで聞いたのかあまり思い出せないし、演者のゲーチスとトウヤのおぼろげな記憶のゲーチスと同一人物とは限らない。
考え込んでいるトウヤをチェレンは怪訝そうに見ていた。
ゲーチスの演説が終わり、散り散りに聴衆も散っていく。広場に誰もいなくなっても、ゲーチスが聴衆に焚き付けた動揺の名残が漂っていた。
「口が上手いな。あのオッサン。」
チェレンの吐き捨てるような言葉にトウヤは振り向いた。チェレンはゲーチスが話していた方向を向いているはずなのに、トウヤは何故か自分が睨まれているような錯覚を覚える。
「チェレン……気にしないほうがいいよ。関わらなければ問題ないことだし。」
「それは僕が今君に言おうとしたことだ。トウヤ。」
「そうかい。ありがと、チェレン。」
「……」
トウヤが何やらチェレンに話しかけようとしたが見知らぬ人物によってそれが阻まれる。
「君のポケモン、今話してたよね。」
振り返ると緑色の髪も、背も、身体のあらゆるパーツが長い青年が、光のない目でトウヤとチェレンを見ていた。
「随分と早口なんだな。」
チェレンの怪訝そうな声を無視するかのように青年は喋る。まるでチェレンの発言を受け取っていない、自分の言いたいことを喋っているだけという異常な事態だった。
誰もが感じるはずの違和感を覚えていないのは青年だけで、青年は好き勝手語っていた。
青年の言うこともさっき聞いたゲーチスの演説そのものだった。トウヤはこの服装だけは普通の青年を、プラズマ団の一般信者かなと当て推量してみる。
「トウヤって言ったね。」
トウヤは青年とチェレンが話しているものかと思っていたので、警戒はしていながらも半ば上の空だった。
「もっと! キミのポケモンの声を聞かせてくれ!」
青年の肩からチョロネコが降りてきた。唐突に青年とトウヤがバトルするということになっている。
「えー……ミジュマル。頼んだよ。」
トウヤは成り行きのバトルを早く終わらせたくて、ミジュマルにごめんと呟きながらミジュマルをチョロネコの前に送り出した。
「みじゅ!」
ミジュマルは張り切っている。青年はミジュマルを見咎めると何やら驚いたような顔を見せた。トウヤはそんな不審者の挙動は気にしいてられずミジュマルに告げた。
「体当たりだ!」
「そんな、そんなことって!」
勝負はトウヤの勝ちだった。青年は驚愕の顔をして、目に光を宿さないまま奇妙なことを口走って去って行った。
別れ際にチェレンは気にすることはないと言ってくれたが、トウヤはチェレンに言われるまでもなく気にしていなかった。Nなんて明らかに匿名で名乗ってくれたものだが、そうそうあんな人間に会うわけがない。
ミジュマルとチョロネコはボールの中にいる。ミジュマルの入ったボールを指先で転がしながらトウヤは優しげな微笑みを浮かべていた。そのあと、チョロネコのボールを見て途方に暮れた。
「どうしようか。」
ポケモンセンターのパソコンに向かって振り返る。チョロネコを預けてしまうならミジュマルの見ていない今のうちだ。ミジュマルに目撃されなければ理由づけは幾らでもある。
しかしトウヤはパソコンのキーを押せない。指も震えるし心も震えるのだ。
「チェレンとおそろ……」
初恋を覚えてから間もない子どものように、パソコンの乗った机に両肘をついて頭を抱えて悶絶する。捕まえたポケモンがヨーテリーだったなら、すかさずボックスに預けてしまえたのに。旅で初めて捕まえたポケモンが、好きな子と偶然同じだったというドラマ性に完全にトウヤは踊らされていた。
それに後に苦労させられることはトウヤはまだ知らない。
それでもトウヤは煩悶せずにはいられなかった。
トウヤはライブキャスターを手に取り、ある番号に電話を掛けることにした。
「もしもし? トウヤどうしたの? こんな時間に。」
ライブキャスターにどこかで野宿することに決めたらしいベルの眠たそうな顔が映る。トウヤはベルにあることを尋ねたかった。
「ポケモンゲットした?」
「したよー。ヨーテリー、可愛いでしょ。」
ベルはヨーテリーを抱き上げて画面の外のトウヤに見せた。トウヤは落胆してしまう。
「三人おそろかもしれないと思ったのに。」
「なんのことなの? ……あ。もしかして?」
「うん。成り行きでチョロネコを捕まえてしまったんだけど、諸事情あってパソコンの預かりシステムで預かってもらうのも気が咎めるんだ。」
「諸事情もなんとなく予想がつくわよ。いいんじゃない。そのまま連れてったって。チョロネコ可愛いじゃない。」
「そうかな。悪タイプを連れていくつもりはなかったから、置いていきたいのはやまやまなんだけど。」
「置いていきたいなら、トウヤなら速攻でパソコンにぶっこんでるわよ。それってつまり置いていきたい理由よりも、連れていきたい理由のほうが大きいわけでしょ。」
連れて行きたい理由もチェレンありきのトウヤにとって、ベルの単純明快な意見は少々引っかかる。しかしたぶん、ベルは分かって言っている。
「途中でどうしてもチョロネコが合わなかったら、その時こそ預けちゃえばいいのよ。」
「身もふたもないよ、ベル。」
「嫌々連れ歩かれるよりはマシだと思うよ。開き直ればいいんじゃない?」
「そう言われればそうだ。ごめんね。大の大人がしょうもない理由で電話して。」
ライブキャスターの画面の中のベルは肩を竦めた。
「あんたのうだうだに、チョロネコが付き合わされるほうがよっぽど可哀そうよ。私に相談までしたんだから、いい関係を作ってやりなさいな。」
「ありがとう。それじゃ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
トウヤは画面に向かって元妻に手を振って電話を切った。
トウヤの中でとりあえずはチョロネコを連れていく方向で踏ん切りがついた。トウヤ的にはパソコンに預けたあとのミジュマルへの言い訳は幾らでも思いつくのだが、こんな初っ端から言い訳しなければならない事態も困るものだった。
トウヤはポケモンセンターの窓ガラス越しに街灯に照らされた薄緑色の影を見た。さっき知り合った匿名希望の怪しい若造だった。夜になってまで一人でふらふらと夢遊病患者のように歩いているなあ、と思っていたところまではトウヤは覚えている。次に我に帰ったときにはトウヤはポケモンセンターから飛び出して若造のあとを追っていた。そして関わり合いになりたくないと思っていた癖に、自分から彼を呼び止めた。
「えぬぅ!」
若造は驚いたように光のない目を見開き、トウヤを振り返った。
「なにか用かな?」
相変わらずの軸の定まらない早口で、絡まりそうな舌を噛まずにNは言った。
「えーと、その……ちょっとそこのベンチに座ろうか?」
言うなりトウヤはNの手を引いて街灯の下に設置してあるベンチに座らせる。いろいろとこの状況や自分の気持ちを誤魔化すように「だって仕方ないじゃないかあ!」と心で唱えた。ここは異郷の地で誰にも今のこの胸のドキドキを打ち明けられないし、変に常識を持ってそうな相手だとドン引きされるからだ。そしてちょうどよく見つけた相手が電波っぽいし、後腐れがなさそうなのでトウヤはNをある種のサンドバックに選んだ。つまりトウヤは誰かにチェレンとの出来事を語りたくてしょうがなかったのだ。
「ちょっと君と話がしたくてね。だけど一方的に聞いてもらうことになっちゃうかも。」
Nは無表情でいいよと頷いた。
「僕を負かせた君の声ももっと聴きたいと思ってたからね。」
トウヤはまず軽めのジャブのつもりでNに問いかける。
「夕方ごろ僕と一緒にいた眼鏡の世間慣れしていないような可愛い男の子、チェレンって言うんだけど、同じ町の出身で同じ研究所でポケモンを貰った同期なんだ。そんで、自分で初めてゲットしたポケモンが彼と一緒だったものだから嬉しくてさあ。誰かに言わずにはいられなかったわけ。で、君を呼び止めたわけ。ところで、僕と彼って君から見てどう見えたかな?」
Nは怪訝そうに舞い上がっているトウヤを見ていた。
「二人ともポケモンじゃないって思った。僕にとっては世界はポケモンとポケモンじゃない奴の大まかに二種類だけなんだ。もう少し細かくわけるとすれば、美しい数式に従うものと、数式をまるで無視した理不尽な存在かな。」
やっぱりピントがずれた回答をしてくれる。しかしトウヤにはそれはどうでも良かった。
「つまり君にとってポケモンじゃない二人の生き物が君の目に止まってくれて、バトルまで仕掛けたということは、僕たちがそこいらの他のポケモンじゃないやつらとは何か様子が違うわけだよね。例えばすごく親密そうに見えたとか。将来的に信頼し合える関係に到達するんじゃないかと思わせるような、サムシングエルスが発生してるように見えたとか。」
電波相手に話すのなら電波っぽい口調を真似るのも元優秀なサラリーマンだったトウヤには簡単だった。Nはより一層トウヤに怪訝そうな顔を向ける。
「なんだか君は僕以上に難解な数式を頑張って僕に解かせようとしているみたいだね。だけど既に解答を用意されているような。君が用意している導き出せない数式を解答どおりに解けと要求されている気分だよ。」
Nは溜息をつく。Nはこの世界では自分が異端だということを誰よりも自覚している。その異端の正しさを分かってもらうには時間をかけなければいけないのだが、この男はその距離も時間もすっ飛ばしてただ頷くだけを要求してくる。それがNには腹立たしかった。だからNはこの時だけは大多数に阿ることに決めた。
「僕だって一般的なことを言えないわけじゃないよ。つまり君は彼と君は仲良しのトモダチ同士だと、そんな風に見えなかったのかと僕に問うているみたいだね。僕は君からの問いに率直に答えさせてもらっていいかな。彼は君を少し疎んでいると感じたよ。」
辛辣な言葉だった。しかしトウヤはそれにもにやにやと笑っている。
「疎んでるだなんて。もう少し歯に衣着せて欲しかったな。くくくくっ。」
Nはその底の知れない嫌らしい笑みからも逃げず言葉をつづけた。
「外見から判断したことだけど。君は彼より器用に効率よく何でも出来たりしないかい。疎むというより同種の生き物のオス同士のうちのどちらかというと劣っているほうが、自分より優位にあるオスを避けようとしているようだった。」
「オスとはまた生々しいこと言うなあ。」
トウヤは何かを思うように身を屈めて腕を胸元で組んでいる。
「彼を見る君の表情はオスそのものだったじゃないか。しかも君は彼が君を避けようとする理由を、一つか二つ君自身がわざと仕組んだんじゃないのか?」
トウヤは自宅に送られた三つのボールの顛末を思い出す。チェレンが先に譲ってくれたから、トウヤは一通りポケモンを見ると「僕はこの子にするよ」とミジュマルを選んだ。その時のチェレンの顔は何かを言いたそうにしていたが、チェレンはその言葉を必死に呑み込んでしまった。
「君がそういう言い方をするから、僕がしたあらゆることが彼にとって嫌がらせみたいに聞こえるじゃないか。ポケモン一匹選ぶのさえびくびくしなくちゃいけなくなっちゃう。」
トウヤの投げやりで適当な言いぐさにもNは真剣に返した。
「むやみやたらと如才のなさを振りまいて無神経を気取っているけれど、ちゃんと君は計算ずくで彼の反応を予測して、予測されたとおりの反応を返してくれる彼のことを、ますます生々しい目で見ているんだろう。」
「うーん。僕はそんなにあこぎな大人じゃないよ。チェレンが僕を苦手にしてるというのは、僕も薄々感づいてはいるけど、それでも僕を気にせずにいられないように僕は仕向けただけだよ。」
そうやって簡単に認めてしまうところも図太さを感じさせた。Nは意外と忍耐強いのか不快そうな顔を極力抑えて理性的な言葉を選んでいたつもりだ。しかしそれは真摯にトウヤに感情に訴えて批判するものだった。
「君に好かれた彼が可哀そうだ。嫌々ボールに閉じ込められるトモダチ以上かもしれない。僕が推理するに彼が君を気にせずにはいられなくさせる原因は、もしかして……君が一番初めに手にしたトモダチだと導き出せるような気がする。」
「そうだね。君にのろけたかったのは、僕と彼の二番目のポケモンが一緒だったんでそれを誰かに聞いて欲しかったんだけど。君からすればチェレンは僕を嫌がっているように見える。たまたま捕まえたポケモンが同じだったことは嫌がる理由になりそうにない。だから彼と僕とのわだかまりは、たぶん最初のポケモンだと君は推理したわけだね。」
そしてトウヤはひゅうっと嫌な気持ちにさせるような口笛を吹いた。こいつ意外と鋭いなと思うと同時に、元妻のベル以上の理解者に出会えたかもしれないという感動にトウヤは包み込まれる。惚気話を聞かせるつもりでいた自分だったが、懺悔も聞かせてあげなければNという最高の聞き手に失礼だと思った。匿名希望の後腐れない電波ではない。ひょっとしたらベル同様、これから共犯関係になってくれるかもしれない。
「なんか君さっき、ゲーチスみたいなこと思わなかった?」
ゲーチスみたいなことと言われてもピンとこないことだが、それはスル―することにした。そのトウヤのご都合主義な脳内に感づいたのかNは溜息をつく。
「ねえ、君。君のトモダチのミジュマルはすぐ側にいるの?」
「いや。モンスターボールの中にいるよ。その中で夢でも見ているだろうね。君のポケモンと戦って疲れているだろうし。」
Nは少し思案する。
「僕が考えていることは単なる僕の当て推量でしかないのだろうか。」
それはトウヤ当人のことを考えているというより、この場にいない無邪気なトモダチに配慮しているような仕草だった。
「ミジュマルのニンゲンのトモダチが何を考えて、どんな理由をもってしてミジュマルのトモダチになったかを導き出すのは残酷なことなんだろうか。僕が予想するにミジュマルのトモダチがとんでもないニンゲンかもしれないことを早めに知らせてあげて、逃げさせるチャンスを与えてやるのが救いなような気がする。だけどたぶんミジュマルは僕より、この男のことを信じるだろう。」
「君。思ってることが全部声に出てるよ。」
「そうだね。僕が出来ることは、この男を出来る限り悔い改めさせ、良くて解放、悪くても不純な動機に見合うぐらい、この男にミジュマルに対して尽くさせるよう監視すること。」
「君に監視されなくても、僕はミジュマルに尽くしてるよ。」
「それは知ってる。ミジュマルが教えてくれた。」
「そう。」
トウヤはご満悦そうににやにや笑いが止まらない。性根がどうであれ、ポケモンにとっても幼馴染にとってもトウヤは良いやつであることは真実だった。まるで腐った土を養分に咲かせる綺麗な花のようだった。
「トウヤ。これは僕が一人で結論を出してしまったことなんだけど、僕の考えたことが正解ならばミジュマルが可哀そうだと思ったり心が痛まないかい。君は僕が思うにミジュマルをトモダチだと思ってない。君にとってはミジュマルは、たまたま何かの条件に当てはまっていただけだろ。その条件に当てはまれば、ツタージャだったりポカブだったりしても君にとっては何も変わらない。」
「条件? そうね。あってたよ。ミジュマルは僕の好きな子が、欲しいと思っていたポケモンなんだ。」
Nは眉をひそめた。トウヤにとっての理由が予想していた以上に最悪だった。
「僕はポケモンは人間に使われるべきでないと思うし、モンスターボールなんてこの世からなくなれば、トモダチにとってまともで優しい世界になると考えているんだ。」
「じゃあ僕は君と反対の考えだね。モンスターボールにポケモンを連れ歩けるから、そしてそれは僕のポケモンだから、好きな子は僕を気にしてくれる。」
「最悪だ!」
Nはここに来て初めて激高した。
「君は君の好きな子から、本来の運命ならトモダチになるはずの相手を横取りしたわけだね。」
「僕のほうがトモダチになるのが早かったんだよ。ただそれだけのことさ。チェレンのほうこそ年下なんだから、その場に一緒にいたんだから、ミジュマルとトモダチになるのは僕だって言ってくれれば良かったのにね。自分の年齢だけ鑑みて、無理に大人ぶっちゃうんだから。」
「そんな彼の性分が分かっていながら、君はしゃあしゃあと本来のトモダチ同士を引き裂いたことには変わりないよ。しかも彼がミジュマルを欲しがっていたのを知らない振りして。」
「でもミジュマルは僕のことが好きなんだろ? キミには聞こえたんだろ?」
Nは悔しそうに唇を噛みしめている。ミジュマルは嘘をつけない無邪気なトモダチだ。本心からの言葉を聞けてしまうNは、そのトモダチのトモダチの、裏の思惑を告げてあげることすら出来ない。
「そのうち罰が下るよ。」
Nは忌々しそうにトウヤに予言のように告げる。トウヤは飄々としたままくすりと笑った。
「美しい数式にとやらに拘ってそうな君が、そんな曖昧なそのうちなんて言っちゃっていいの?」
「君はミジュマルの理想のトモダチじゃない。君の真実はとんだ不誠実だ。なら、その数式から導き出せるのは、確固たる自業自得の因果応報だと決まっている。」
Nはベンチから立ち上がる。そして光の無い目は涙を浮かべて、その水面に街灯からの光の反射を湛えていた。
「この数式は僕が証明しきって、君に解を突きつけてやる。これからも君に関わり続けてやる。僕は君なんか」
「なんだい?」
トウヤは子どもをあやすように優しく首を傾げて聞いている。よほどチェレンというあの子のことで頭がとろけているのだろうか。ホットケーキの上で蜂蜜とバターが美味しそうに皿に毀れているかのような。そんな甘ったるくも極悪な大人に、Nは自分が久しくなくしていた感情の爆発を、今この瞬間蘇らせた。
それは確かな因縁だった。トモダチが関わっていなければNにとってはまるで関心のない他人のドロドロの恋物語。
ニンゲンの恋のダシに幼くて無垢なトモダチが知らず知らずに利用されているならば、自分は断固として見届けて戦わねばならない。
「僕は君が、大嫌いだ!」
トウヤはNの叫びが小気味良かった。たぶんチェレンもトウヤに似たり寄ったりなことは思っているのだろう。Nが言った言葉はチェレンに言われたとしてもたぶん気持ちいいのかもしれない。
自分に向けられる強い気持ちが、歪んだ大人には心地いい。これがチェレンだったらとも思う。
腐った思いを抱いてトウヤは、チェレンに向けるようにNに優しげな微笑みを浮かべた。
トウヤは微妙なところを狙うせこい大人というおはなし。基本ゲームベースで進みます。
青エク休んで少しずつためこんだものを吐き出してみました。
「みじゅみじゅ。」
当然、ミジュマルのつぶらな瞳が見上げてくれば、それを迷わず見返してしまうくらいに一人と一匹はわずかな時間の間に親密になっていた。
「どうしたんだい? ミジュマル。」
ミジュマルは草むらのほうにすっと視線を落とす。
「そろそろ仲間が欲しいのかい?」
トウヤは首を傾げてみせる。トウヤはミジュマルを鍛えるために飛び出してくるポケモンをほぼ全てミジュマルに倒させてきた。ミジュマルはトウヤにとって記念すべき『最初のポケモン』なのだ。他のポケモンとはわけが違うのだ。この先に作るパーティの要にしたいと思っている。だから当然、この先出会うポケモンよりレベルを上げておかないといけないと考えていた。
しかしミジュマルは「自分だけ」が強くなりたいとは思っていなかったようだ。
さてとトウヤは考える。なるべく六匹の編成をしょっちゅう変える羽目にはなりたくないと思っているトウヤにとって、あまりにも旅の初期に二匹目三匹目を捕まえるのは、正直言って抵抗がある。まだまだミジュマルでも凌げるレベルのポケモンにしか遭遇していない現状で、あまりポケモンゲットを先走る気にはなれない。
トウヤは困ったことに、パソコンの預かりシステムに不要になったポケモンを預けっぱなしにも抵抗を持っていた。ポケモン図鑑を託されてポケモンを沢山捕まえる大義名分もあるというのに。渡されたモンスターボールはまだ一つも使われていなかった。
それは大人特有の頭の固さだった。
「ミジュマル。お前のお友達はこの先いっぱいできると思うんだ。それまで僕と二人きりじゃ駄目かい?」
「みじゅ……」
ミジュマルは戦えるとは言っても中身は幼い子どもと一緒である。十歳の子どものトレーナーとミジュマルなら、次々とポケモンをゲットしていき、六匹どころじゃ済まない数になっているだろう。しかしトウヤは大人になってもう既に十年以上経っている。子どものように軽はずみに自分の手持ちを増やして要らない手間をかけさせられることを考えれば、今はミジュマル一匹を大事に育てたいと考えている。
しかし寂しそうなミジュマルに心動かされないほど、トウヤは冷淡で計算だけで動く男じゃない。
「そうだね。ミジュマルにも弟分を作ってやらなきゃね。」
あくまでミジュマルを立ててやるのも瀟洒な大人のやることだった。
「でも。ちょうどいいこが見つからなかったら、今回は諦めようね。」
そうやって逃げ道を作るのもずるい大人の手腕だった。でも嬉しそうに頷くミジュマルはそんなトウヤを疑いもしない。
「じゃあ、いくよ。」
トウヤはこのまま町に行ってしまおうと草むらに一歩を踏み出したとき、一匹のチョロネコがトウヤのズボンに噛みついてきた。
「……」
これを倒して経験値にしたりスル―するのは不味いとトウヤは直感する。
『チョロネコは悪タイプだよね。使えるようになるまで時間かかりそう。』
だけどミジュマルに今さっき言った手前、約束を反故出来ない。
しかたがない、こういうこともあるかと、トウヤはミジュマルに呼びかける。
「ミジュマル。体当たり。」
このチョロネコだったら、ミジュマルのまだ覚束ない体当たりなら避けると半ば確信していたのだが、なんだか目つきがやけにしぶとそうなチョロネコだった。
チョロネコは攻撃力だけやけに高いミジュマルの体当たりを受けてひっくり返った。
「え? なんで?」
もう一撃でチョロネコは逃げ出すか、ミジュマルの経験値になるはずだ。しかしチョロネコは逃げない。
トウヤはミジュマルの背後でミジュマルに気づかれないように手を振って早く逃げろと伝えるが、チョロネコはトウヤを見たまま何かを待っているように腹を見せてひっくり返ったままだ。
「こいつ。当たり屋か?」
ポケモンの世界にもそんなのがいるとは思えなかったが、現実のチョロネコはいかにもゲットしてくれと言わんばかりに無抵抗に身構えている。
トウヤは、はあっと溜息をつくとバッグからボールを取り出した。
『悪タイプならエスパーやゴーストに対抗できるはずだし。』
トウヤは本当に仕方なさそうにボールを投げた。ボールは形だけのような振動に震えたあと止まった。チョロネコは既にその中に納まっている。
ミジュマルが嬉しそうに手を叩いていた。
「チョロネコ。ゲットだ。」
「みじゅ!」
ミジュマルははしゃいでいた。その純粋な喜びっぷりだけでプラマイゼロかなとトウヤは思った。
「ミジュマルもチョロネコも回復させとかないとね。」
トウヤはミジュマルをボールに入れて、近くにいたのにスル―し続けたカラクサタウンに向かった。初心者ながらに大人のトウヤは誰に説明されるまでもなく赤い屋根のポケモンセンターの中に入った。
ポケモンを回復させて同じ施設内にあるショップで装備を揃えに行こうとしたら、備え付けの椅子に座っているチェレンとツタージャがいた。
「チェレン。君も来ていたんだね。」
「僕はポケモンを回復させに来ただけだし。」
つっけんどんに言うチェレンの横にトウヤは座り、チェレンと同じようにミジュマルを出して膝に乗せた。
チェレンはミジュマルの姿を見ると反射的に首をそむけた。しかしこころなしか、ちらちらミジュマルを見るような気配が窺える。
「結構、すぐに懐いてるね。ミジュマル。」
「そうみえる? なら嬉しいな。君もツタージャと仲良さそうじゃないか。」
「そ、そうかな。……ところでベルとどれだけポケモンを捕まえたかって比べあいになったんだけどさ。トウヤはどれくらい捕まえた?」
トウヤはチョロネコのボールを手に取った。不本意さ加減を悟られないように精一杯の笑顔を見せる。
「……チョロネコなんだけど。」
チェレンは口元を手で覆って驚いていた。
「僕も捕まえたのチョロネコなんだ。」
見ようによっては頬を染めて恥ずかしそうにしている仕草にトウヤは衝動的に可愛いと思ってしまうが、顔には出さないように努めた。
「ま、まだそんなに種類を見てきてないから、たまたまなんだけどねっ。」
二十四歳とは思えない拙さ溢れる照れ隠しだった。それがますます可愛くてトウヤは自然と顔がにやけてしまう。
チェレンがいろいろと誤魔化そうとしていたら、町の住人が中にいるトレーナーに呼びかけるように声を上げた。
「なんか広場で始まるらしいぞ!」
どちらかと言えばカノコとどっこいな田舎町であるせいか、突然のイベントにセンター内のトレーナー達はこぞって外に出ていく。
「なんだろうね。」
「僕たちも行ってみようか。」
トウヤが先に立ってチェレンに手を差し伸べる。チェレンはトウヤの手を一瞥したがその手を握り返さずに立ち上がった。トウヤは握り返されることは期待していなかったので、別に何も気にすることはなかった。
ミジュマルとツタージャをボールから出したまま抱きかかえて二人がセンターから出ると、広場のある場所だけが黒山の人だかりを作っていた。トウヤ達は最後に出てきたようなものなので、いわゆるステージの上の人物の姿はちらちらとしか見えないが、そのけったいと言うか場違いさだけは理解出来た。
『皆様にお集まり頂き、深く感謝いたします。』
拡声器越しの輪郭がぼやけた声と、きんっという機械音が聞こえてくる。拡声器から聞こえてくる声はトウヤより十か二十年上の男の声だった。
「選挙かな?」
トウヤの推測にチェレンは首を傾げる。トウヤも同感だった。選挙の演説なら車を使ってすることも多いし、今演説している集団の他にも同じような集団や車両が近くに見えているはずだ。
もちろん、演説の内容は選挙で票を求めるものではなかった。ギャラリーがざわつく。その理由は明らかだ。この場に集まった聴衆のほとんどがポケモントレーナーで、演説の主旨が己の存在を真っ向から否定するものだったからだ。
「ポケモンの解放だって……そんなことできるわけないだろ。」
胸元でボールを抱きしめるトレーナーがいた。愛情を持って接している相手に、こき使って実は自分を嫌がっているなどと一方的に言われる筋合いはない。それはトレーナーになったばかりのトウヤだって同感だ。
「選挙じゃなくて新興宗教だったわけか。」
「みじゅみゅみじゅ」
しかしトウヤは淡々と聞いていた。そして心配することはないと伝えるようにミジュマルの頭を撫でる。隣のチェレンもツタージャを抱きしめて、周りの聴衆に引きずられないように、トウヤを真似するように表情を変えないよう努力していた。
演者はプラズマ団のゲーチスと名乗っていた。トウヤは覚えておいて変な団体に気を付けておこうと思った。
「にしてもゲーチスか……。」
どこかで聞いたことのあるような名前だったが、どこで聞いたのかあまり思い出せないし、演者のゲーチスとトウヤのおぼろげな記憶のゲーチスと同一人物とは限らない。
考え込んでいるトウヤをチェレンは怪訝そうに見ていた。
ゲーチスの演説が終わり、散り散りに聴衆も散っていく。広場に誰もいなくなっても、ゲーチスが聴衆に焚き付けた動揺の名残が漂っていた。
「口が上手いな。あのオッサン。」
チェレンの吐き捨てるような言葉にトウヤは振り向いた。チェレンはゲーチスが話していた方向を向いているはずなのに、トウヤは何故か自分が睨まれているような錯覚を覚える。
「チェレン……気にしないほうがいいよ。関わらなければ問題ないことだし。」
「それは僕が今君に言おうとしたことだ。トウヤ。」
「そうかい。ありがと、チェレン。」
「……」
トウヤが何やらチェレンに話しかけようとしたが見知らぬ人物によってそれが阻まれる。
「君のポケモン、今話してたよね。」
振り返ると緑色の髪も、背も、身体のあらゆるパーツが長い青年が、光のない目でトウヤとチェレンを見ていた。
「随分と早口なんだな。」
チェレンの怪訝そうな声を無視するかのように青年は喋る。まるでチェレンの発言を受け取っていない、自分の言いたいことを喋っているだけという異常な事態だった。
誰もが感じるはずの違和感を覚えていないのは青年だけで、青年は好き勝手語っていた。
青年の言うこともさっき聞いたゲーチスの演説そのものだった。トウヤはこの服装だけは普通の青年を、プラズマ団の一般信者かなと当て推量してみる。
「トウヤって言ったね。」
トウヤは青年とチェレンが話しているものかと思っていたので、警戒はしていながらも半ば上の空だった。
「もっと! キミのポケモンの声を聞かせてくれ!」
青年の肩からチョロネコが降りてきた。唐突に青年とトウヤがバトルするということになっている。
「えー……ミジュマル。頼んだよ。」
トウヤは成り行きのバトルを早く終わらせたくて、ミジュマルにごめんと呟きながらミジュマルをチョロネコの前に送り出した。
「みじゅ!」
ミジュマルは張り切っている。青年はミジュマルを見咎めると何やら驚いたような顔を見せた。トウヤはそんな不審者の挙動は気にしいてられずミジュマルに告げた。
「体当たりだ!」
- * *
「そんな、そんなことって!」
勝負はトウヤの勝ちだった。青年は驚愕の顔をして、目に光を宿さないまま奇妙なことを口走って去って行った。
別れ際にチェレンは気にすることはないと言ってくれたが、トウヤはチェレンに言われるまでもなく気にしていなかった。Nなんて明らかに匿名で名乗ってくれたものだが、そうそうあんな人間に会うわけがない。
ミジュマルとチョロネコはボールの中にいる。ミジュマルの入ったボールを指先で転がしながらトウヤは優しげな微笑みを浮かべていた。そのあと、チョロネコのボールを見て途方に暮れた。
「どうしようか。」
ポケモンセンターのパソコンに向かって振り返る。チョロネコを預けてしまうならミジュマルの見ていない今のうちだ。ミジュマルに目撃されなければ理由づけは幾らでもある。
しかしトウヤはパソコンのキーを押せない。指も震えるし心も震えるのだ。
「チェレンとおそろ……」
初恋を覚えてから間もない子どものように、パソコンの乗った机に両肘をついて頭を抱えて悶絶する。捕まえたポケモンがヨーテリーだったなら、すかさずボックスに預けてしまえたのに。旅で初めて捕まえたポケモンが、好きな子と偶然同じだったというドラマ性に完全にトウヤは踊らされていた。
それに後に苦労させられることはトウヤはまだ知らない。
それでもトウヤは煩悶せずにはいられなかった。
トウヤはライブキャスターを手に取り、ある番号に電話を掛けることにした。
「もしもし? トウヤどうしたの? こんな時間に。」
ライブキャスターにどこかで野宿することに決めたらしいベルの眠たそうな顔が映る。トウヤはベルにあることを尋ねたかった。
「ポケモンゲットした?」
「したよー。ヨーテリー、可愛いでしょ。」
ベルはヨーテリーを抱き上げて画面の外のトウヤに見せた。トウヤは落胆してしまう。
「三人おそろかもしれないと思ったのに。」
「なんのことなの? ……あ。もしかして?」
「うん。成り行きでチョロネコを捕まえてしまったんだけど、諸事情あってパソコンの預かりシステムで預かってもらうのも気が咎めるんだ。」
「諸事情もなんとなく予想がつくわよ。いいんじゃない。そのまま連れてったって。チョロネコ可愛いじゃない。」
「そうかな。悪タイプを連れていくつもりはなかったから、置いていきたいのはやまやまなんだけど。」
「置いていきたいなら、トウヤなら速攻でパソコンにぶっこんでるわよ。それってつまり置いていきたい理由よりも、連れていきたい理由のほうが大きいわけでしょ。」
連れて行きたい理由もチェレンありきのトウヤにとって、ベルの単純明快な意見は少々引っかかる。しかしたぶん、ベルは分かって言っている。
「途中でどうしてもチョロネコが合わなかったら、その時こそ預けちゃえばいいのよ。」
「身もふたもないよ、ベル。」
「嫌々連れ歩かれるよりはマシだと思うよ。開き直ればいいんじゃない?」
「そう言われればそうだ。ごめんね。大の大人がしょうもない理由で電話して。」
ライブキャスターの画面の中のベルは肩を竦めた。
「あんたのうだうだに、チョロネコが付き合わされるほうがよっぽど可哀そうよ。私に相談までしたんだから、いい関係を作ってやりなさいな。」
「ありがとう。それじゃ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
トウヤは画面に向かって元妻に手を振って電話を切った。
トウヤの中でとりあえずはチョロネコを連れていく方向で踏ん切りがついた。トウヤ的にはパソコンに預けたあとのミジュマルへの言い訳は幾らでも思いつくのだが、こんな初っ端から言い訳しなければならない事態も困るものだった。
トウヤはポケモンセンターの窓ガラス越しに街灯に照らされた薄緑色の影を見た。さっき知り合った匿名希望の怪しい若造だった。夜になってまで一人でふらふらと夢遊病患者のように歩いているなあ、と思っていたところまではトウヤは覚えている。次に我に帰ったときにはトウヤはポケモンセンターから飛び出して若造のあとを追っていた。そして関わり合いになりたくないと思っていた癖に、自分から彼を呼び止めた。
「えぬぅ!」
若造は驚いたように光のない目を見開き、トウヤを振り返った。
「なにか用かな?」
相変わらずの軸の定まらない早口で、絡まりそうな舌を噛まずにNは言った。
「えーと、その……ちょっとそこのベンチに座ろうか?」
言うなりトウヤはNの手を引いて街灯の下に設置してあるベンチに座らせる。いろいろとこの状況や自分の気持ちを誤魔化すように「だって仕方ないじゃないかあ!」と心で唱えた。ここは異郷の地で誰にも今のこの胸のドキドキを打ち明けられないし、変に常識を持ってそうな相手だとドン引きされるからだ。そしてちょうどよく見つけた相手が電波っぽいし、後腐れがなさそうなのでトウヤはNをある種のサンドバックに選んだ。つまりトウヤは誰かにチェレンとの出来事を語りたくてしょうがなかったのだ。
「ちょっと君と話がしたくてね。だけど一方的に聞いてもらうことになっちゃうかも。」
Nは無表情でいいよと頷いた。
「僕を負かせた君の声ももっと聴きたいと思ってたからね。」
トウヤはまず軽めのジャブのつもりでNに問いかける。
「夕方ごろ僕と一緒にいた眼鏡の世間慣れしていないような可愛い男の子、チェレンって言うんだけど、同じ町の出身で同じ研究所でポケモンを貰った同期なんだ。そんで、自分で初めてゲットしたポケモンが彼と一緒だったものだから嬉しくてさあ。誰かに言わずにはいられなかったわけ。で、君を呼び止めたわけ。ところで、僕と彼って君から見てどう見えたかな?」
Nは怪訝そうに舞い上がっているトウヤを見ていた。
「二人ともポケモンじゃないって思った。僕にとっては世界はポケモンとポケモンじゃない奴の大まかに二種類だけなんだ。もう少し細かくわけるとすれば、美しい数式に従うものと、数式をまるで無視した理不尽な存在かな。」
やっぱりピントがずれた回答をしてくれる。しかしトウヤにはそれはどうでも良かった。
「つまり君にとってポケモンじゃない二人の生き物が君の目に止まってくれて、バトルまで仕掛けたということは、僕たちがそこいらの他のポケモンじゃないやつらとは何か様子が違うわけだよね。例えばすごく親密そうに見えたとか。将来的に信頼し合える関係に到達するんじゃないかと思わせるような、サムシングエルスが発生してるように見えたとか。」
電波相手に話すのなら電波っぽい口調を真似るのも元優秀なサラリーマンだったトウヤには簡単だった。Nはより一層トウヤに怪訝そうな顔を向ける。
「なんだか君は僕以上に難解な数式を頑張って僕に解かせようとしているみたいだね。だけど既に解答を用意されているような。君が用意している導き出せない数式を解答どおりに解けと要求されている気分だよ。」
Nは溜息をつく。Nはこの世界では自分が異端だということを誰よりも自覚している。その異端の正しさを分かってもらうには時間をかけなければいけないのだが、この男はその距離も時間もすっ飛ばしてただ頷くだけを要求してくる。それがNには腹立たしかった。だからNはこの時だけは大多数に阿ることに決めた。
「僕だって一般的なことを言えないわけじゃないよ。つまり君は彼と君は仲良しのトモダチ同士だと、そんな風に見えなかったのかと僕に問うているみたいだね。僕は君からの問いに率直に答えさせてもらっていいかな。彼は君を少し疎んでいると感じたよ。」
辛辣な言葉だった。しかしトウヤはそれにもにやにやと笑っている。
「疎んでるだなんて。もう少し歯に衣着せて欲しかったな。くくくくっ。」
Nはその底の知れない嫌らしい笑みからも逃げず言葉をつづけた。
「外見から判断したことだけど。君は彼より器用に効率よく何でも出来たりしないかい。疎むというより同種の生き物のオス同士のうちのどちらかというと劣っているほうが、自分より優位にあるオスを避けようとしているようだった。」
「オスとはまた生々しいこと言うなあ。」
トウヤは何かを思うように身を屈めて腕を胸元で組んでいる。
「彼を見る君の表情はオスそのものだったじゃないか。しかも君は彼が君を避けようとする理由を、一つか二つ君自身がわざと仕組んだんじゃないのか?」
トウヤは自宅に送られた三つのボールの顛末を思い出す。チェレンが先に譲ってくれたから、トウヤは一通りポケモンを見ると「僕はこの子にするよ」とミジュマルを選んだ。その時のチェレンの顔は何かを言いたそうにしていたが、チェレンはその言葉を必死に呑み込んでしまった。
「君がそういう言い方をするから、僕がしたあらゆることが彼にとって嫌がらせみたいに聞こえるじゃないか。ポケモン一匹選ぶのさえびくびくしなくちゃいけなくなっちゃう。」
トウヤの投げやりで適当な言いぐさにもNは真剣に返した。
「むやみやたらと如才のなさを振りまいて無神経を気取っているけれど、ちゃんと君は計算ずくで彼の反応を予測して、予測されたとおりの反応を返してくれる彼のことを、ますます生々しい目で見ているんだろう。」
「うーん。僕はそんなにあこぎな大人じゃないよ。チェレンが僕を苦手にしてるというのは、僕も薄々感づいてはいるけど、それでも僕を気にせずにいられないように僕は仕向けただけだよ。」
そうやって簡単に認めてしまうところも図太さを感じさせた。Nは意外と忍耐強いのか不快そうな顔を極力抑えて理性的な言葉を選んでいたつもりだ。しかしそれは真摯にトウヤに感情に訴えて批判するものだった。
「君に好かれた彼が可哀そうだ。嫌々ボールに閉じ込められるトモダチ以上かもしれない。僕が推理するに彼が君を気にせずにはいられなくさせる原因は、もしかして……君が一番初めに手にしたトモダチだと導き出せるような気がする。」
「そうだね。君にのろけたかったのは、僕と彼の二番目のポケモンが一緒だったんでそれを誰かに聞いて欲しかったんだけど。君からすればチェレンは僕を嫌がっているように見える。たまたま捕まえたポケモンが同じだったことは嫌がる理由になりそうにない。だから彼と僕とのわだかまりは、たぶん最初のポケモンだと君は推理したわけだね。」
そしてトウヤはひゅうっと嫌な気持ちにさせるような口笛を吹いた。こいつ意外と鋭いなと思うと同時に、元妻のベル以上の理解者に出会えたかもしれないという感動にトウヤは包み込まれる。惚気話を聞かせるつもりでいた自分だったが、懺悔も聞かせてあげなければNという最高の聞き手に失礼だと思った。匿名希望の後腐れない電波ではない。ひょっとしたらベル同様、これから共犯関係になってくれるかもしれない。
「なんか君さっき、ゲーチスみたいなこと思わなかった?」
ゲーチスみたいなことと言われてもピンとこないことだが、それはスル―することにした。そのトウヤのご都合主義な脳内に感づいたのかNは溜息をつく。
「ねえ、君。君のトモダチのミジュマルはすぐ側にいるの?」
「いや。モンスターボールの中にいるよ。その中で夢でも見ているだろうね。君のポケモンと戦って疲れているだろうし。」
Nは少し思案する。
「僕が考えていることは単なる僕の当て推量でしかないのだろうか。」
それはトウヤ当人のことを考えているというより、この場にいない無邪気なトモダチに配慮しているような仕草だった。
「ミジュマルのニンゲンのトモダチが何を考えて、どんな理由をもってしてミジュマルのトモダチになったかを導き出すのは残酷なことなんだろうか。僕が予想するにミジュマルのトモダチがとんでもないニンゲンかもしれないことを早めに知らせてあげて、逃げさせるチャンスを与えてやるのが救いなような気がする。だけどたぶんミジュマルは僕より、この男のことを信じるだろう。」
「君。思ってることが全部声に出てるよ。」
「そうだね。僕が出来ることは、この男を出来る限り悔い改めさせ、良くて解放、悪くても不純な動機に見合うぐらい、この男にミジュマルに対して尽くさせるよう監視すること。」
「君に監視されなくても、僕はミジュマルに尽くしてるよ。」
「それは知ってる。ミジュマルが教えてくれた。」
「そう。」
トウヤはご満悦そうににやにや笑いが止まらない。性根がどうであれ、ポケモンにとっても幼馴染にとってもトウヤは良いやつであることは真実だった。まるで腐った土を養分に咲かせる綺麗な花のようだった。
「トウヤ。これは僕が一人で結論を出してしまったことなんだけど、僕の考えたことが正解ならばミジュマルが可哀そうだと思ったり心が痛まないかい。君は僕が思うにミジュマルをトモダチだと思ってない。君にとってはミジュマルは、たまたま何かの条件に当てはまっていただけだろ。その条件に当てはまれば、ツタージャだったりポカブだったりしても君にとっては何も変わらない。」
「条件? そうね。あってたよ。ミジュマルは僕の好きな子が、欲しいと思っていたポケモンなんだ。」
Nは眉をひそめた。トウヤにとっての理由が予想していた以上に最悪だった。
「僕はポケモンは人間に使われるべきでないと思うし、モンスターボールなんてこの世からなくなれば、トモダチにとってまともで優しい世界になると考えているんだ。」
「じゃあ僕は君と反対の考えだね。モンスターボールにポケモンを連れ歩けるから、そしてそれは僕のポケモンだから、好きな子は僕を気にしてくれる。」
「最悪だ!」
Nはここに来て初めて激高した。
「君は君の好きな子から、本来の運命ならトモダチになるはずの相手を横取りしたわけだね。」
「僕のほうがトモダチになるのが早かったんだよ。ただそれだけのことさ。チェレンのほうこそ年下なんだから、その場に一緒にいたんだから、ミジュマルとトモダチになるのは僕だって言ってくれれば良かったのにね。自分の年齢だけ鑑みて、無理に大人ぶっちゃうんだから。」
「そんな彼の性分が分かっていながら、君はしゃあしゃあと本来のトモダチ同士を引き裂いたことには変わりないよ。しかも彼がミジュマルを欲しがっていたのを知らない振りして。」
「でもミジュマルは僕のことが好きなんだろ? キミには聞こえたんだろ?」
Nは悔しそうに唇を噛みしめている。ミジュマルは嘘をつけない無邪気なトモダチだ。本心からの言葉を聞けてしまうNは、そのトモダチのトモダチの、裏の思惑を告げてあげることすら出来ない。
「そのうち罰が下るよ。」
Nは忌々しそうにトウヤに予言のように告げる。トウヤは飄々としたままくすりと笑った。
「美しい数式にとやらに拘ってそうな君が、そんな曖昧なそのうちなんて言っちゃっていいの?」
「君はミジュマルの理想のトモダチじゃない。君の真実はとんだ不誠実だ。なら、その数式から導き出せるのは、確固たる自業自得の因果応報だと決まっている。」
Nはベンチから立ち上がる。そして光の無い目は涙を浮かべて、その水面に街灯からの光の反射を湛えていた。
「この数式は僕が証明しきって、君に解を突きつけてやる。これからも君に関わり続けてやる。僕は君なんか」
「なんだい?」
トウヤは子どもをあやすように優しく首を傾げて聞いている。よほどチェレンというあの子のことで頭がとろけているのだろうか。ホットケーキの上で蜂蜜とバターが美味しそうに皿に毀れているかのような。そんな甘ったるくも極悪な大人に、Nは自分が久しくなくしていた感情の爆発を、今この瞬間蘇らせた。
それは確かな因縁だった。トモダチが関わっていなければNにとってはまるで関心のない他人のドロドロの恋物語。
ニンゲンの恋のダシに幼くて無垢なトモダチが知らず知らずに利用されているならば、自分は断固として見届けて戦わねばならない。
「僕は君が、大嫌いだ!」
トウヤはNの叫びが小気味良かった。たぶんチェレンもトウヤに似たり寄ったりなことは思っているのだろう。Nが言った言葉はチェレンに言われたとしてもたぶん気持ちいいのかもしれない。
自分に向けられる強い気持ちが、歪んだ大人には心地いい。これがチェレンだったらとも思う。
腐った思いを抱いてトウヤは、チェレンに向けるようにNに優しげな微笑みを浮かべた。
トウヤは微妙なところを狙うせこい大人というおはなし。基本ゲームベースで進みます。
青エク休んで少しずつためこんだものを吐き出してみました。
☆「ポケモンデイズ 前日談」 主チェレ、主♂N、R18
注意事項
・かなり捏造設定(大人のポケモンです)
・トウヤ含めほとんどの登場人物が成人済み(公式通りの年齢はプラズマ団サイドのみ)
・今回にみモブNあり
・ポケモンの発情期についてオリ設定あり
これらが大丈夫なかたはスクロールどうぞ
君が大人になる日を待っていた。
カノコタウンは海沿いの田舎町だった。イッシュ地方においてそんなに過疎ってるわけではなかったが、数年ほどポケモントレーナーの旅に出るこの町出身の子どもはしばらくいなかった。
しかし今年、アララギ博士の研究所には数年ぶりに「初めての」ポケモン三匹が送り込まれたらしい。それは小さな町の小さなニュースだった。
呼び鈴が鳴ってチェレンが誰かと思いドアを開けると、見知らぬ少年が立っていた。
「誰でしょうか?」
「トウヤだよ。トウヤ。君のご近所の顔見知りのトウヤだよ。」
なんてことないように言う少年とは反対にチェレンは玄関先で驚いて目を丸くする。目の前の外跳ね茶髪の帽子を被った少年は、チェレンの知っているトウヤではないからだ。
「からかってるのかい? 僕の知っているトウヤは三十歳の会社員で、普段からスーツ姿で七三分けのメガネをかけた、町のみんなが感心するような真面目な男なんだ。僕は君なんか知らない。」
チェレンは失礼とか言い方とか考える暇もなく目の前の少年を拒絶している。トウヤと名乗る少年は力なく笑う。怒っているのでもなく悲しむでもなく。
「チェレンは十年以上もそんな僕を見てたから、しょうがないか。」
少年は待ってと言って一方的にドアを閉める。チェレンがきょとんとしていると再びドアが開き、さっきまでの少年と同じ服装の、チェレンが慣れ親しんだトウヤの顔がそこにあった。チェレンが言ったような端正な顔の真面目そうな青年の顔なのに、カジュアルでそこらの旅の子どもがするような服装が不自然過ぎる。
「トウヤ……!」
「これからメガネを取って、七三を崩せば、ほら。」
みるみるうちにメガネの会社員の顔から、チェレンがトウヤではないと拒絶した童顔の少年の顔にトウヤは変わっていく。
「……」
チェレンは唖然としていた。サラリーマンな近所のお兄さんの素顔が、パッと見可愛らしくも見える少年の顔だと思わなかった。背はかなり高いが、サバを読んで十五歳と名乗っても誰もが納得するだろう。
「でも……トウヤが僕にそんな素顔を見せてくれても、わけわかんないんだけど。」
でも何か僕に用があるんだろとチェレンは目顔でトウヤに問いかける。そしてそれを短い言葉で「どうしたの?」と吐き出した。
トウヤはチェレンの問いかけを待っていたかのように嬉しそうに口を開いた。
「今日、会社を辞めてきた。」
「え?」
チェレンは、トウヤはご近所の噂で部下や同僚から非常に信頼されている優秀な会社員だと聞いていた。自分とは全く逆の前途有望な近所のお兄さん。そんな彼が何を思って突然に職場を辞したのか、そしてそれを何故歳も違っている自分に嬉しそうに告げに来たのかわけがわからない。そしてその次の言葉にチェレンはますます驚愕するのだった。
「チェレンと一緒に僕は一週間後にポケモンを貰うんだ。せっかくだから一緒にトレーナーデビューするのを報告しにきた。」
チェレンは、それはデビューというよりドロップアウトなのではないかと自分の立場を忘れて本気で心配になってしまう。しかし所詮それは他人ごとだ。本人は喜んでいるのだし、彼は既に自分のことを一緒にデビューする仲間だと認識している。
「お……おめでとう。」
チェレンの戸惑い溢れる祝福にトウヤは本当に嬉しそうに破顔一笑した。
「うん。僕もチェレンもおめでとうだね。」
チェレンは信じられなかった。この屈託なくおめでとうと自分に告げた大人が。
この十代前半そこらでポケモンを貰って旅を始めるのが当たり前な世の中で、その風潮に逆らい中学高校に通いポケモンを持たないまま社会人になったトウヤが、まさか三十歳の今になってトレーナーを目指すとは誰も考えなかっただろう。ついさっきまでのチェレンもそうだった。
普通の少年少女とは明らかに別の道を歩んでいたトウヤは、それでいながら今までの半生を振り返れば、一般的な道を進んできたポケモントレーナー達と比較すると結果として成功者と言えた。きちんとした高等教育を受け、就職し結婚し、一家を構え親にも孝養を尽くしていながら、その頭の中には自由な旅の権利を保留してしまったという後悔でもあったのだろうか。今更そんな思春期の感傷が彼に芽生えたというべきなのか。
でもチェレンは当たり障りのない言葉で、自分の正直な気持ちを仄めかしてみた。
「僕てっきり、トウヤは今までポケモンはいらなかったのかと。」
そんなことなかったよとトウヤは自分のこめかみあたりを掻いた。トウヤ本人もチェレンに思われているようなことは他人に思われていると自覚があったようだった。
「まとまった貯金も出来たからね。良いころあいだと思ったんだ。」
そういえばトウヤは母子家庭だったとチェレンはとりあえず納得する。たった一人の母親を残して旅をするトウヤというのも不自然だと、チェレンは自分なりに筋が通るように理由をつけた。
「ベルも旅に出るからそれも伝えとこうと思って。」
「夫婦で旅か。いいんじゃない?」
「いや。ベルとはもう離婚してる。」
チェレンは絶句する。トウヤとベルがお似合いの夫婦だと思っていただけに、離婚の事実が衝撃的だった。
「チェレン。そんな顔しないで。ベルのことは嫌いになったわけじゃない。二人が自由に動けるための離婚なんだから。」
チェレンはベルの家庭事情についても思い出した。ベルの父親は近所でも時々話の種にされるほど、娘に対して病的なほどの過保護で、正規の年齢で旅に出ることも許さず、二十歳になった当時にご近所で仲の良かったトウヤと、半ば無理矢理に仲人をして結婚させてしまったのだ。
「離婚したことはベルの親父さんには内緒だよ。」
区役所の人にも固く言ってるんだからと、トウヤはチェレンに念を押した。チェレンも近所の優しいお姉さんの為に何回も強く頷くしかなかった。
「急に押しかけてきて、こんな話ばかりでごめんね。」
チェレンはトウヤが来てから、トウヤの姿や話に驚いたり怪訝な顔ばかりしていた。しかし数分の間に、かなりこの童顔な元エリート会社員のお兄さんの、異様におめでたい雰囲気に慣れつつあった。
「いや。……でも嬉しいよ。トウヤとベルと同じスタートでトレーナーになれるなんて。」
チェレンの口は嬉しいと言っているのに、顔はどこか俯いてしまってトウヤと違ってその嬉しさが傍からは感じられない。どこか後ろめたそうな気配すらも漂っている。
トウヤは後ろめたそうに何かに迷っているようなチェレンの顔を覗き込みながら言う。
「チェレンは僕らの事情なんか気にしないで。僕がここに来て言いたいのはたった一つだけなんだから。チェレン。トレーナーデビューおめでとう。」
「ありがとう…」
その一言だけは本心から言えた。
じゃあと言ってトウヤは出て行った。そのドアが閉ざされるとチェレンはけたたましい足音を立てて、二階にある自室に駆け込んでベッドに飛び込んだ。布団をぎゅっと抱きしめトウヤの言葉を反芻する。
『おめでとう。』
ずっと昔に聞くはずだったその言葉は、チェレンの乾ききった薄い胸の内に染み透る。
チェレンは今現在二十四歳。トウヤと同じく、トレーナーデビューするにしては遅い年齢である。
しかもトウヤと違って自発的にそうなったのではなく、幼いころから身体が弱く長患いによるものだった。
本人が幾ら望もうとも本来の年齢で旅に出ることは不可能で、その結果残された選択肢で中学や高校に進んでも、入院を理由に休学を繰り返しながらなんとか卒業した身だ。
それ故にチェレンのなかの他の同世代に対する嫉妬や劣等感は根深かった。しかしそのポケモントレーナーになった同世代も、この田舎町に帰ることは少なかった。帰ってきてはいても一緒に遊ぶ機会も少なく、友達とも言えないチェレンに顔を合わせる義理がないだけだったかもしれない。
さっきトウヤからチェレンに告げられた祝福の言葉で、二十四歳の身でトレーナーデビューをする居心地の悪さからチェレンは少し救われた。なんと言っても自分にとっては長年の夢だった反面、大人になってから旅に出ることに一番後ろめたさを感じていたのがチェレン自身だったから。
トウヤはけしてチェレンを慮ってトレーナーデビューするわけではないし、祝福の言葉だってチェレンがトウヤに告げた形ばかりのおめでとうのお返しだろう。それでも本当にタイミング良く、普通から遥かに遅れてトレーナーになる仲間がいて良かったと、チェレンは涙ぐみながらトウヤに感謝していた。
「……ありがと……」
チェレンは布団をますますぎゅっと抱きしめた。
トウヤはチェレンに告げた通りベルとはもう夫婦ではないが、ベルの父親の目を誤魔化すために、ぎりぎりまでベルと夫婦をしていた。
「トウヤの家にいる限りお父さんは安心してくれているからって、今までごめんね。」
ベルの軽い感謝にトウヤは首だけ後ろを向く。
「いいよ。僕もベルと結婚してなきゃ会社でも色んなこと言われそうだったし。ツーカーのベルとじゃなきゃ、他の女の子相手だとトレーナーになりたいからって脱サラも離婚もさせて貰えないだろうし。」
トウヤとベルの間に性交渉はほとんどなかった。友達感覚のルームシェア感覚でこの二人は夫婦をやっていた。それを近所の人間は誰も知らない。
けらけらとベルは笑う。
「トウヤの場合、自分がトレーナーになるって言うより、好きな子がトレーナーになるからでしょ。」
夫婦共通のベッドの上で寝転んでゲームをしながらベルはトウヤを揶揄した。トウヤはテレビを消してベルに近づいてベッドに腰掛ける。
「うん。チェレンのトレーナーデビューを狙ったね。」
「先輩トレーナーのほうがかっこつくのに?」
トウヤは安直なベルの言葉にやれやれと肩を竦める。
トウヤが本来の年齢でトレーナーデビューする年に、当時はトレーナーになること前提だったトウヤは何の用事で言ったか忘れたがチェレンの家で、彼の両親の内緒話を聞いた。
それはチェレンの身体が弱すぎて、十歳の誕生日を迎えてもその年齢では旅は始められないことが確定しているような会話だった。近所のトウヤがポケモンを貰う年齢に達したので、わが子とトウヤを比べての行く末を悲観するような思いがチェレンの両親には感じられた。六歳下のチェレンはまだ幼児だったので、もしかしたら寿命すらも危ぶまれたのかもしれない。
『おかあさん。ぼく、トレーナーなるのやめる。』
チェレンの家からチェレンの両親に盗み聞きを悟られないように帰ったトウヤは、母親にまずそのことを告げた。母親はうちはベルちゃんのおうちのように反対してないよとボケたことを言っていたが、トウヤは頑なに行かないと言い張った。そしてトウヤが行かないことを主張してしまったが為に、とばっちりのようにベルの父親の過保護は増長されてしまった。それはまあ、関係のないことだが、ベルの父親はよく吹聴していたらしい。
『あのしっかりしたトウヤ君が行かないって言うなら、うちの娘なんかますます旅に出させられないなあ。』
と、鬼の首級を取ったような言いぐさだったという。数年間ベルにも恨めしそうな目で見られた。だから結婚したというわけではないが、ベルはトウヤのチェレンに対する健気さには同意してくれたのか、よく今まであの父親から家出同然に逃げ出さず、自分と夫婦をやって協力してくれたものである。
「まあ。私も三十だし、可愛い盛りは全部お父さんにあげちゃったわけだし。頑張ったよね、私。」
「ベルはよく頑張ったよ。ついでに年下の男の子が大好きな僕と仮面夫婦もしてくれてありがとう。」
「いやー。その仮面夫婦って言い方ものすごくファンタスティック。でも田舎でやることないのにね。」
「僕たちってほら、変り者だっていう自覚半端ないし。」
「そうだね。二十年間も親と世間を騙せるなんて、ほんと私たち変わりもんだよね。でも嘘つきでも無責任でもないよね。」
「うん。でも長かったな。」
「ほんと長かったよね。トウヤ。成長したあの子、トレーナーになって幸せになれたらいいね。」
トウヤは無言で頷いた。そしてもしチェレンが不幸になりそうだったら全力で助けたいと思った。
昔からチェレンが可愛かったトウヤは、チェレンのために自分のトレーナー人生を先送りにして、先に社会人になることを決めた。
トウヤは今日のこの時をもって、先送りにした選択を良かったと満足していたのだった。
それはまだ物語の登場人物の主人公とライバルの二人が接点を持っていない場所でのことだった。
トウヤとN。まだ見知らぬ同士の二人はしかし同時期に旅を始めたのだった。
Nは一人で旅を始めてから行きずりのポケモンと話をして、これから自分が変えていく世界の在り様を模索していた。そして現在、Nはやはり行きずりの男と一つの部屋に一緒にいた。理由は年相応の性欲を発散させるためもあったが、Nは父親代わりの男の言葉も思い出す。
『N様はポケモンの痛みは誰よりも理解しておられますが、ポケモンを傷つける人間の生態には不可抗力ながら疎くなってしまったように私には思えます。人間は意識的にも無意識的にも、ポケモンを傷つけてしまう生き物で御座います。その意識と無意識を学ぶためにこのゲーチスは、N様は外の世界の人間のどうしようもない生態を見て頂きたいのです。N様にとっては吐き気を催すような唾棄すべき体験を強いることですが、正しいもの綺麗なものただ虐げられるだけのものを見ていたのでは、貴方の素晴らしい器をもってしても足りないこともあるのです。』
まあようするにしばらくは組織から離れていて欲しいというのが暗に垣間見えるような進言だった。あくまで王様の手足を自負するようなゲーチスだから、何らかの都合や事情があるんだろうとNは思った。そして組織から離れ身分を隠し、各地のポケモンに少し「手伝ってもらい」ながら、Nは自分の出来る限りを見つけ出そうとしていた。
Nと一緒に宿の部屋に入った男は、ベッドに腰掛けるNの横に座ってその頭を引き寄せ耳元で甘い声で囁く。Nがくすぐったそうに笑うとちゅっと音を立ててNの頬に唇を当てた。
昼間、男が自分のポケモンにもそういう風にキスしていたのをNは見ていた。モンスターボールに、この男はトレーナーの常識に従いポケモンを閉じ込めてはいるけれど、あくまでそれはこの世界の常識が間違っているだけだろう。ボールをもってしなくてもポケモンとの絆を繋ぎとめられるとNが説き伏せられれば、この男ならば理解出来るかもしれないとほんの少しだけ考えた。そしてこの交渉がそのきっかけになればいいかと淡い期待も持っていた。
「初めて、じゃないよな?」
Nから少し目を逸らした男は何気ない風を装ってNに露骨な質問をする。
「ん? 初めてだけど。」
さらりとあっけなく言われた回答に男は驚いたようにNを見た。
「その割には大胆じゃないか。初めて出会った男に僕と性交しませんか、なんて。」
「そういうものなのかな。今までは自分で処理してきたんだけど、ポケモン以外の生き物の本能的な行動が知りたくてあなたに声をかけたんだ。」
Nはの早口をかろうじて理解した男は笑うか呆れるか迷っているような笑みを見せながらNの腰を引き寄せる。
「なんか身もふたもないことを言うね。でも可愛いよ。しかも初めてだなんて、なんてラッキーなんだ俺は。」
Nの全てが無意識という態度も演技なんだろうと男はそう踏んだ。こういう少し浮世離れを装った人間は意外と好きものじゃないのかという男の期待は、どぎついエロ本の内容そのものだった。もう頭の中では取り澄ました顔をしているNが乱れに乱れていた。
しかしNはにこにこ笑ったまま男の出方を待っている。男はさっきの思惑とは反対にとんだマグロかもと思案した。しかし初めて特有の勘違いというか変な思い込みによる余裕かもしれない。そうであれば、こちらがリードしてやればそれなりに楽しめそうだとも踏める。
「ノッポのお嬢ちゃん。ちょっと立ってくれる?」
「お嬢ちゃん? 僕は男なんだけど。」
Nは正論を当たり前のように男にぶつけた。男は苦笑する。
「君は可愛いし、いわゆる雰囲気づくりのつもりだから、細かいことは気にしないで。」
「そういうものなんだ……。」
ゲーチスにいつだったかさわりだけ教えてもらった、ユーモアというものかもしれない。Nは頭の中にある記憶と今の男の言い草に重なるそれを反芻したが、男はそんなNを待ってはくれず焦れたように言った。
「まあいいから、言うとおりにしてみてよ。」
Nは腰掛けていたベッドから立ち上がってどうするのと目顔で男に問いかける。男は言葉ではなく、手をNの身体にかけNをベッドのほうへ向かせると、そのまま体重をかけて覆いかぶさるようにNをベッドに腹ばいに寝かせにかかる。Nは上半身だけベッドに俯せにされた。ちょうど腰のところで折り曲げられて足は床についたままの、男が腰回りに十分手が届くような態勢だった。
「お嬢ちゃんは背が高いから、こういう格好のほうがおじさんとしてはやりやすいんだよね。それに正面から見られるよりも恥ずかしくないでしょ。」
「恥ずかしいって、なに?」
「今からわかるから。」
初心な無防備さに男は内心で舌なめずりをする。男はNのズボンのベルトのバックルに手を伸ばして外した。Nはかちゃかちゃという金属同士がぶつかる音にびくりと身体を震わせる。男はもうなんやかんや囁くのさえ面倒になったのか、性急にNの股間に手を這わせて、尻から前に掌を前後させる。
Nは声を堪えるように両手で口を塞いでいるが、どうしても吐息が漏れ出てしまう。
「く……ぅ……」
いい尻だと思ったのか男は執拗にNの尻を撫でている。
「お嬢ちゃん。いきなり突っ込まれるのはやっぱり怖いよね?」
Nはうんうんと何回もわけがわからないまま頷いている。男はさっきまでの取り澄ましたようなNとの対比に興が乗り始めたのか、ズボンと下着を膝あたりまでずらして、手慣れたように性器に指を絡めてきた。
「あっ……。」
「他人に触られるのは初めてだよね。」
「うん……。」
片手でNの先端を弄びながらもう片手はシャツの中に侵入して脇腹から胸を刺激する。Nは自己申告を偽ってなかったらしく、初めてらしい怯えが混じった表情を男に向けた。
「一回おじさんがイかせてあげるからそのあと、ね? ね?」
「…う、……うん。」
シャツの背中側も捲り上げられ、Nの色白な肌も男の目に晒される。緑色の長い髪が男の指に梳かれる度に、Nは怯えが消えないままだけども、少しの安心感が芽生えたように身体を弛緩させた。
「あなた昼間、ポケモンにも優しく触れてたよね。」
「ポケモンにはこういうエッチなことはしないよ。」
「それはあたりまえのことだけど、そういう意味じゃないんだけどな。僕はニンゲンという自分と……ポケモンとの境が結構曖昧なんだ。……あ!」
男はNの御託を遮るようにNの性器を強めに握った。
「僕にとってはポケモンは……トモダチで、あなたにとっては……ポケモンはトモダチなのかなっていうのも……問いかけてみたくて……。ねえ、あなたにとっては……あなたが昼間にキスしてあげて抱きしめてた……ミジュマルはどういう存在?」
「え? おじさん今そういうこと答えられないよ。だって君がほら、こんなに気持ちよさそうにしているのに。」
男は目の前のNに没頭したいのに、Nは昼間自分が見かけた男のポケモンに接する姿に思いを馳せていた。Nが男に声を掛けるきっかけはそれだったが、今している行為には何の関係もない。少なくとも男にとっては人間とポケモンは別物だった。でもNはそんなことは理解することなく男に、ポケモンと人間は同じ世界を分かち合っている対等な存在であることを前提に話をしていた。
「お嬢ちゃん。それはあとでゆっくり話そう。今はおじさんと楽しむことだけ考えて。いいだろ?」
「……わかった……」
Nは男がトモダチのことを片手間では語れないと読み取って男の成すままに今はいようと思った。そう思うまででもなく長身ではあるが華奢なNの身体は、旅で鍛えられた男の腕に抱きすくめられ、大きな手のひらで擦られ扱かれすっかり翻弄されていた。
「あっ……いやっ……。」
「気持ちいい? 気持ちいい? お嬢ちゃんもっとかな。」
「う、うう……。」
「ほら。いってごらん。」
「も、もっと……。」
Nは股間で勃ち上がったものに全ての意識というか感覚が持って行かれるような錯覚を覚える。腰が床にずれ落ちそうになるのを男は無理矢理ベッドの上に押しやり、Nをベッドの上に四つん這いにさせた。
「すごく、可愛いよ。」
「か、かわいい……? や…これは恥ずかしいって言うべきなんじゃないのかい?」
「恥ずかしいのが可愛いんだよ。君の恥ずかしいところが丸見えで、このひくひくしてるとこなんか自分の意志でそうなってるんじゃないってわかるよね? 気持ちいいとね、こんなふうに身体が勝手にひくひくしちゃうんだよ。」
Nはそれに小さく頷いた。こういうことは本を読んでもわからなかったことだ。自分で慰めているときは手の刺激だけで達していたせいで、その最中に何も思い浮かべることもなく機械的な作業になっていた。今男としていることは、いつものルーチンワーク的な作業ではなく、お互いの身体で相手を意識しあいながら行っている未知の実践だった。
「しゃ、射精しちゃう!」
「そういうときはね、イクっていうんだよ。」
「い、イク……。はあ……はあ……」
男の追い上げはNの心拍数を上げ呼吸を乱れさせる。ついにはNは男の手のひらに白くてどろどろした液体を吐き出した。男は満足そうにNの背中に精液で濡れていないほうの手を這わせる。そして覆いかぶさってまたNの頬にキスをした。
「ねえ、続きしてみないかい? 今度は手で擦るだけじゃなくて、君の中に気持ちいいもの入れてあげるから。」
「…待って…息が…」
Nは仰向けになろうと身体をよじる。男は察したように身体をNの横にどけた。男の目に射精したばかりで顔に赤みを帯びて、目も虚ろに潤ませているNの扇情的な姿が映る。
「良かったかな。」
「うん。……良かった。」
「お嬢ちゃんは自分が人間とポケモンの境が曖昧って言ってたけど、どんな発情して手の焼けるポケモンよりやらしくって可愛かったよ。」
Nは上半身を浮かせて男に問いかける。
「発情したポケモンを見たことあるのかい?」
男はNの息が整うまでピロートーク代わりにNの奇妙な会話に付き合ってやることにした。
「初めて進化させたポケモンのとき、一回限りだったな。ポケモンは進化するとすぐに発情期がくるんだよ。人間で言うと大人になるっていうことだからな。」
「そうなのか……、それで?」
Nの雰囲気が熱に浮かされたものから、裁定者らしき冷静な雰囲気に変わる。男はそれを気だるげな態度と間違って受け取ってしまった。
「旅で連れているときに、しかもそれがトレーナーとしての仕事の旅だったりするとき、発情されちゃうといろいろと困るんだよね。バトルのときも言うこと聞いてもらえなくなるし。だからその子はブリーダーのところに連れて行ってそのままブリーダー用に預けた。その当時のおじさんはあの子をきのみだけで育ててたからなあ。」
「きのみだけで育てるとどうして駄目なことになるんだい?」
男は事情通ぶってNに語る。
「市販のポケモンフードや傷薬の中には、ごく少量ずつ発情を抑える成分が入っているんだ。まあそれでも足りない子にはそれを抑制する専用の薬もある。人間の傍にいるポケモンには、人間のほうがどうにかしてあげなきゃいけないわけだからね。」
男はそう言いながらNの肩を抱こうとしたが、Nは鋭い目を男に向けて男から露骨に距離を取った。
「薬漬けにして自然な生理も歪めて、それがトモダチの為になるって?」
「どうしたんだい? 急に?」
いきなり初心な可愛らしい青年が、自分が少し目を離して話しかけていた間に豹変していた。
「あなたはそうやってトモダチにキスして愛情を注いでいる振りをしながら、食べるものや傷を癒すものに混ざっているトモダチを歪めるものを与え続けた。」
「いや。進化しなければそういう問題はないわけだから。薬とか使ってないから。進化キャンセルでどうにかなってるから。ね?」
「進化させないのも自分の都合ってわけだね。」
「いやポケモンは進化させないでいたほうが長生きするって、君は知らないよね。野生でよく進化しない状態でやたら強いやついるじゃん。あれは進化キャンセルし続けられたポケモンをトレーナーが逃がしたものなんだよ。」
「逃がすか……。言い方変えれば捨ててるんだよね。まあ、僕らの掲げているのは「ポケモンの解放」だから、そのへんの解釈はおいおいする必要はありそうだ。だけどポケモンの為じゃなくて、自分の都合でしたことが、運よくポケモンの為になったってあなたは言いたいだけなんだよね。そこにポケモンの意志なんてないじゃないか。」
Nは早口で捲し立てる。もう男の耳はNの言葉についていけなかった。
「ご、ごめん。なんに怒ってるかよくわからないけど、ごめん。お詫びにおじさんすごく気持ちよくさせてあげるから。」
Nは男を見下げ果てたように冷たい眼差しを向ける。男はすがりつくようにNを抱きしめて、Nが逃げないようにNが痛いと思うほど強い力で拘束する。押し付けられた身体の中心の硬さをNに知らしめるように。
「あなたのそういう状態を、発情してるって言わないかい? あなたもその抑制剤とやらでコントロールしてやればいいじゃないか。僕が発情した姿を見せたときは可愛いって褒めてくれたのに、トモダチが発情すると面倒臭がるのは何故?」
「だって、ポケモンと人間は違うじゃないか。君だって、ポケモントレーナーだからわかるだろ!」
ポケモントレーナーというNの現在の身分を男は振りかざす。同じ立場にいるからわかるはずだと決めつけていた。
ところが男はあらゆる事実を見落としていた。ベッドサイドのテーブルには男のモンスターボールが荷物と一緒に置かれている。転がっているモンスターボールの中にNのものはない。
それの意味するところは。
「僕は確かに今、ポケモントレーナーと名乗っている。だから僕をあなたと同じ立場のニンゲンだと思ってくれているのかもしれない。だけど僕はあなたにけして共感できる立場じゃないんだ。」
Nのポケモンはどこにいる? 答えは簡単だった。
「近くにいるなら来ておくれ!」
花火のような音と共に宿の大きな窓ガラスが四散する。窓ガラスの破片が薄くNの頬を切るがNはそんなことを気にせず、窓から飛んできたポケモンに微笑みかけた。
「か、カビゴン!」
男は目を見開いてその巨体に腰を抜かした。その隙にNはベッドから降りて身なりを整える。最後にトレードマークのキャップを被るとカビゴンをねぎらった。
「眠たいのに来てくれてありがとう。」
カビゴンは頷いている。
「心配してくれたんだ。うん。」
カビゴンはNを抱きかかえる。そして口を大きく開き、その中でオレンジ色の光弾が膨らんでいく。
「は、はかいこうせんっ。ウソだろっ。」
男は慌ててベッドの反対側に降りた。荷物やらモンスターボールに構っていられなかった。
ベッドを盾に身を隠したあと、そのすぐ上をはかいこうせんが通過し、壁を文字通り破壊した。恐る恐るベッドから男が顔を出すともうそこにNとカビゴンはいなくなっていた。
「こ、こえー。ポケモン怖えー。」
男が久しく忘れていた感覚が蘇った夜だった。
この事件はこの町でニュースになるのだが、その後世の中を震撼させるプラズマ団のその王様が起こした事件なのに、この事件はのちの未来にもプラズマ団に結び付けられることなく埋もれてしまった。
・かなり捏造設定(大人のポケモンです)
・トウヤ含めほとんどの登場人物が成人済み(公式通りの年齢はプラズマ団サイドのみ)
・今回にみモブNあり
・ポケモンの発情期についてオリ設定あり
これらが大丈夫なかたはスクロールどうぞ
君が大人になる日を待っていた。
カノコタウンは海沿いの田舎町だった。イッシュ地方においてそんなに過疎ってるわけではなかったが、数年ほどポケモントレーナーの旅に出るこの町出身の子どもはしばらくいなかった。
しかし今年、アララギ博士の研究所には数年ぶりに「初めての」ポケモン三匹が送り込まれたらしい。それは小さな町の小さなニュースだった。
呼び鈴が鳴ってチェレンが誰かと思いドアを開けると、見知らぬ少年が立っていた。
「誰でしょうか?」
「トウヤだよ。トウヤ。君のご近所の顔見知りのトウヤだよ。」
なんてことないように言う少年とは反対にチェレンは玄関先で驚いて目を丸くする。目の前の外跳ね茶髪の帽子を被った少年は、チェレンの知っているトウヤではないからだ。
「からかってるのかい? 僕の知っているトウヤは三十歳の会社員で、普段からスーツ姿で七三分けのメガネをかけた、町のみんなが感心するような真面目な男なんだ。僕は君なんか知らない。」
チェレンは失礼とか言い方とか考える暇もなく目の前の少年を拒絶している。トウヤと名乗る少年は力なく笑う。怒っているのでもなく悲しむでもなく。
「チェレンは十年以上もそんな僕を見てたから、しょうがないか。」
少年は待ってと言って一方的にドアを閉める。チェレンがきょとんとしていると再びドアが開き、さっきまでの少年と同じ服装の、チェレンが慣れ親しんだトウヤの顔がそこにあった。チェレンが言ったような端正な顔の真面目そうな青年の顔なのに、カジュアルでそこらの旅の子どもがするような服装が不自然過ぎる。
「トウヤ……!」
「これからメガネを取って、七三を崩せば、ほら。」
みるみるうちにメガネの会社員の顔から、チェレンがトウヤではないと拒絶した童顔の少年の顔にトウヤは変わっていく。
「……」
チェレンは唖然としていた。サラリーマンな近所のお兄さんの素顔が、パッと見可愛らしくも見える少年の顔だと思わなかった。背はかなり高いが、サバを読んで十五歳と名乗っても誰もが納得するだろう。
「でも……トウヤが僕にそんな素顔を見せてくれても、わけわかんないんだけど。」
でも何か僕に用があるんだろとチェレンは目顔でトウヤに問いかける。そしてそれを短い言葉で「どうしたの?」と吐き出した。
トウヤはチェレンの問いかけを待っていたかのように嬉しそうに口を開いた。
「今日、会社を辞めてきた。」
「え?」
チェレンは、トウヤはご近所の噂で部下や同僚から非常に信頼されている優秀な会社員だと聞いていた。自分とは全く逆の前途有望な近所のお兄さん。そんな彼が何を思って突然に職場を辞したのか、そしてそれを何故歳も違っている自分に嬉しそうに告げに来たのかわけがわからない。そしてその次の言葉にチェレンはますます驚愕するのだった。
「チェレンと一緒に僕は一週間後にポケモンを貰うんだ。せっかくだから一緒にトレーナーデビューするのを報告しにきた。」
チェレンは、それはデビューというよりドロップアウトなのではないかと自分の立場を忘れて本気で心配になってしまう。しかし所詮それは他人ごとだ。本人は喜んでいるのだし、彼は既に自分のことを一緒にデビューする仲間だと認識している。
「お……おめでとう。」
チェレンの戸惑い溢れる祝福にトウヤは本当に嬉しそうに破顔一笑した。
「うん。僕もチェレンもおめでとうだね。」
チェレンは信じられなかった。この屈託なくおめでとうと自分に告げた大人が。
この十代前半そこらでポケモンを貰って旅を始めるのが当たり前な世の中で、その風潮に逆らい中学高校に通いポケモンを持たないまま社会人になったトウヤが、まさか三十歳の今になってトレーナーを目指すとは誰も考えなかっただろう。ついさっきまでのチェレンもそうだった。
普通の少年少女とは明らかに別の道を歩んでいたトウヤは、それでいながら今までの半生を振り返れば、一般的な道を進んできたポケモントレーナー達と比較すると結果として成功者と言えた。きちんとした高等教育を受け、就職し結婚し、一家を構え親にも孝養を尽くしていながら、その頭の中には自由な旅の権利を保留してしまったという後悔でもあったのだろうか。今更そんな思春期の感傷が彼に芽生えたというべきなのか。
でもチェレンは当たり障りのない言葉で、自分の正直な気持ちを仄めかしてみた。
「僕てっきり、トウヤは今までポケモンはいらなかったのかと。」
そんなことなかったよとトウヤは自分のこめかみあたりを掻いた。トウヤ本人もチェレンに思われているようなことは他人に思われていると自覚があったようだった。
「まとまった貯金も出来たからね。良いころあいだと思ったんだ。」
そういえばトウヤは母子家庭だったとチェレンはとりあえず納得する。たった一人の母親を残して旅をするトウヤというのも不自然だと、チェレンは自分なりに筋が通るように理由をつけた。
「ベルも旅に出るからそれも伝えとこうと思って。」
「夫婦で旅か。いいんじゃない?」
「いや。ベルとはもう離婚してる。」
チェレンは絶句する。トウヤとベルがお似合いの夫婦だと思っていただけに、離婚の事実が衝撃的だった。
「チェレン。そんな顔しないで。ベルのことは嫌いになったわけじゃない。二人が自由に動けるための離婚なんだから。」
チェレンはベルの家庭事情についても思い出した。ベルの父親は近所でも時々話の種にされるほど、娘に対して病的なほどの過保護で、正規の年齢で旅に出ることも許さず、二十歳になった当時にご近所で仲の良かったトウヤと、半ば無理矢理に仲人をして結婚させてしまったのだ。
「離婚したことはベルの親父さんには内緒だよ。」
区役所の人にも固く言ってるんだからと、トウヤはチェレンに念を押した。チェレンも近所の優しいお姉さんの為に何回も強く頷くしかなかった。
「急に押しかけてきて、こんな話ばかりでごめんね。」
チェレンはトウヤが来てから、トウヤの姿や話に驚いたり怪訝な顔ばかりしていた。しかし数分の間に、かなりこの童顔な元エリート会社員のお兄さんの、異様におめでたい雰囲気に慣れつつあった。
「いや。……でも嬉しいよ。トウヤとベルと同じスタートでトレーナーになれるなんて。」
チェレンの口は嬉しいと言っているのに、顔はどこか俯いてしまってトウヤと違ってその嬉しさが傍からは感じられない。どこか後ろめたそうな気配すらも漂っている。
トウヤは後ろめたそうに何かに迷っているようなチェレンの顔を覗き込みながら言う。
「チェレンは僕らの事情なんか気にしないで。僕がここに来て言いたいのはたった一つだけなんだから。チェレン。トレーナーデビューおめでとう。」
「ありがとう…」
その一言だけは本心から言えた。
じゃあと言ってトウヤは出て行った。そのドアが閉ざされるとチェレンはけたたましい足音を立てて、二階にある自室に駆け込んでベッドに飛び込んだ。布団をぎゅっと抱きしめトウヤの言葉を反芻する。
『おめでとう。』
ずっと昔に聞くはずだったその言葉は、チェレンの乾ききった薄い胸の内に染み透る。
チェレンは今現在二十四歳。トウヤと同じく、トレーナーデビューするにしては遅い年齢である。
しかもトウヤと違って自発的にそうなったのではなく、幼いころから身体が弱く長患いによるものだった。
本人が幾ら望もうとも本来の年齢で旅に出ることは不可能で、その結果残された選択肢で中学や高校に進んでも、入院を理由に休学を繰り返しながらなんとか卒業した身だ。
それ故にチェレンのなかの他の同世代に対する嫉妬や劣等感は根深かった。しかしそのポケモントレーナーになった同世代も、この田舎町に帰ることは少なかった。帰ってきてはいても一緒に遊ぶ機会も少なく、友達とも言えないチェレンに顔を合わせる義理がないだけだったかもしれない。
さっきトウヤからチェレンに告げられた祝福の言葉で、二十四歳の身でトレーナーデビューをする居心地の悪さからチェレンは少し救われた。なんと言っても自分にとっては長年の夢だった反面、大人になってから旅に出ることに一番後ろめたさを感じていたのがチェレン自身だったから。
トウヤはけしてチェレンを慮ってトレーナーデビューするわけではないし、祝福の言葉だってチェレンがトウヤに告げた形ばかりのおめでとうのお返しだろう。それでも本当にタイミング良く、普通から遥かに遅れてトレーナーになる仲間がいて良かったと、チェレンは涙ぐみながらトウヤに感謝していた。
「……ありがと……」
チェレンは布団をますますぎゅっと抱きしめた。
- * *
トウヤはチェレンに告げた通りベルとはもう夫婦ではないが、ベルの父親の目を誤魔化すために、ぎりぎりまでベルと夫婦をしていた。
「トウヤの家にいる限りお父さんは安心してくれているからって、今までごめんね。」
ベルの軽い感謝にトウヤは首だけ後ろを向く。
「いいよ。僕もベルと結婚してなきゃ会社でも色んなこと言われそうだったし。ツーカーのベルとじゃなきゃ、他の女の子相手だとトレーナーになりたいからって脱サラも離婚もさせて貰えないだろうし。」
トウヤとベルの間に性交渉はほとんどなかった。友達感覚のルームシェア感覚でこの二人は夫婦をやっていた。それを近所の人間は誰も知らない。
けらけらとベルは笑う。
「トウヤの場合、自分がトレーナーになるって言うより、好きな子がトレーナーになるからでしょ。」
夫婦共通のベッドの上で寝転んでゲームをしながらベルはトウヤを揶揄した。トウヤはテレビを消してベルに近づいてベッドに腰掛ける。
「うん。チェレンのトレーナーデビューを狙ったね。」
「先輩トレーナーのほうがかっこつくのに?」
トウヤは安直なベルの言葉にやれやれと肩を竦める。
トウヤが本来の年齢でトレーナーデビューする年に、当時はトレーナーになること前提だったトウヤは何の用事で言ったか忘れたがチェレンの家で、彼の両親の内緒話を聞いた。
それはチェレンの身体が弱すぎて、十歳の誕生日を迎えてもその年齢では旅は始められないことが確定しているような会話だった。近所のトウヤがポケモンを貰う年齢に達したので、わが子とトウヤを比べての行く末を悲観するような思いがチェレンの両親には感じられた。六歳下のチェレンはまだ幼児だったので、もしかしたら寿命すらも危ぶまれたのかもしれない。
『おかあさん。ぼく、トレーナーなるのやめる。』
チェレンの家からチェレンの両親に盗み聞きを悟られないように帰ったトウヤは、母親にまずそのことを告げた。母親はうちはベルちゃんのおうちのように反対してないよとボケたことを言っていたが、トウヤは頑なに行かないと言い張った。そしてトウヤが行かないことを主張してしまったが為に、とばっちりのようにベルの父親の過保護は増長されてしまった。それはまあ、関係のないことだが、ベルの父親はよく吹聴していたらしい。
『あのしっかりしたトウヤ君が行かないって言うなら、うちの娘なんかますます旅に出させられないなあ。』
と、鬼の首級を取ったような言いぐさだったという。数年間ベルにも恨めしそうな目で見られた。だから結婚したというわけではないが、ベルはトウヤのチェレンに対する健気さには同意してくれたのか、よく今まであの父親から家出同然に逃げ出さず、自分と夫婦をやって協力してくれたものである。
「まあ。私も三十だし、可愛い盛りは全部お父さんにあげちゃったわけだし。頑張ったよね、私。」
「ベルはよく頑張ったよ。ついでに年下の男の子が大好きな僕と仮面夫婦もしてくれてありがとう。」
「いやー。その仮面夫婦って言い方ものすごくファンタスティック。でも田舎でやることないのにね。」
「僕たちってほら、変り者だっていう自覚半端ないし。」
「そうだね。二十年間も親と世間を騙せるなんて、ほんと私たち変わりもんだよね。でも嘘つきでも無責任でもないよね。」
「うん。でも長かったな。」
「ほんと長かったよね。トウヤ。成長したあの子、トレーナーになって幸せになれたらいいね。」
トウヤは無言で頷いた。そしてもしチェレンが不幸になりそうだったら全力で助けたいと思った。
昔からチェレンが可愛かったトウヤは、チェレンのために自分のトレーナー人生を先送りにして、先に社会人になることを決めた。
トウヤは今日のこの時をもって、先送りにした選択を良かったと満足していたのだった。
- * *
それはまだ物語の登場人物の主人公とライバルの二人が接点を持っていない場所でのことだった。
トウヤとN。まだ見知らぬ同士の二人はしかし同時期に旅を始めたのだった。
Nは一人で旅を始めてから行きずりのポケモンと話をして、これから自分が変えていく世界の在り様を模索していた。そして現在、Nはやはり行きずりの男と一つの部屋に一緒にいた。理由は年相応の性欲を発散させるためもあったが、Nは父親代わりの男の言葉も思い出す。
『N様はポケモンの痛みは誰よりも理解しておられますが、ポケモンを傷つける人間の生態には不可抗力ながら疎くなってしまったように私には思えます。人間は意識的にも無意識的にも、ポケモンを傷つけてしまう生き物で御座います。その意識と無意識を学ぶためにこのゲーチスは、N様は外の世界の人間のどうしようもない生態を見て頂きたいのです。N様にとっては吐き気を催すような唾棄すべき体験を強いることですが、正しいもの綺麗なものただ虐げられるだけのものを見ていたのでは、貴方の素晴らしい器をもってしても足りないこともあるのです。』
まあようするにしばらくは組織から離れていて欲しいというのが暗に垣間見えるような進言だった。あくまで王様の手足を自負するようなゲーチスだから、何らかの都合や事情があるんだろうとNは思った。そして組織から離れ身分を隠し、各地のポケモンに少し「手伝ってもらい」ながら、Nは自分の出来る限りを見つけ出そうとしていた。
Nと一緒に宿の部屋に入った男は、ベッドに腰掛けるNの横に座ってその頭を引き寄せ耳元で甘い声で囁く。Nがくすぐったそうに笑うとちゅっと音を立ててNの頬に唇を当てた。
昼間、男が自分のポケモンにもそういう風にキスしていたのをNは見ていた。モンスターボールに、この男はトレーナーの常識に従いポケモンを閉じ込めてはいるけれど、あくまでそれはこの世界の常識が間違っているだけだろう。ボールをもってしなくてもポケモンとの絆を繋ぎとめられるとNが説き伏せられれば、この男ならば理解出来るかもしれないとほんの少しだけ考えた。そしてこの交渉がそのきっかけになればいいかと淡い期待も持っていた。
「初めて、じゃないよな?」
Nから少し目を逸らした男は何気ない風を装ってNに露骨な質問をする。
「ん? 初めてだけど。」
さらりとあっけなく言われた回答に男は驚いたようにNを見た。
「その割には大胆じゃないか。初めて出会った男に僕と性交しませんか、なんて。」
「そういうものなのかな。今までは自分で処理してきたんだけど、ポケモン以外の生き物の本能的な行動が知りたくてあなたに声をかけたんだ。」
Nはの早口をかろうじて理解した男は笑うか呆れるか迷っているような笑みを見せながらNの腰を引き寄せる。
「なんか身もふたもないことを言うね。でも可愛いよ。しかも初めてだなんて、なんてラッキーなんだ俺は。」
Nの全てが無意識という態度も演技なんだろうと男はそう踏んだ。こういう少し浮世離れを装った人間は意外と好きものじゃないのかという男の期待は、どぎついエロ本の内容そのものだった。もう頭の中では取り澄ました顔をしているNが乱れに乱れていた。
しかしNはにこにこ笑ったまま男の出方を待っている。男はさっきの思惑とは反対にとんだマグロかもと思案した。しかし初めて特有の勘違いというか変な思い込みによる余裕かもしれない。そうであれば、こちらがリードしてやればそれなりに楽しめそうだとも踏める。
「ノッポのお嬢ちゃん。ちょっと立ってくれる?」
「お嬢ちゃん? 僕は男なんだけど。」
Nは正論を当たり前のように男にぶつけた。男は苦笑する。
「君は可愛いし、いわゆる雰囲気づくりのつもりだから、細かいことは気にしないで。」
「そういうものなんだ……。」
ゲーチスにいつだったかさわりだけ教えてもらった、ユーモアというものかもしれない。Nは頭の中にある記憶と今の男の言い草に重なるそれを反芻したが、男はそんなNを待ってはくれず焦れたように言った。
「まあいいから、言うとおりにしてみてよ。」
Nは腰掛けていたベッドから立ち上がってどうするのと目顔で男に問いかける。男は言葉ではなく、手をNの身体にかけNをベッドのほうへ向かせると、そのまま体重をかけて覆いかぶさるようにNをベッドに腹ばいに寝かせにかかる。Nは上半身だけベッドに俯せにされた。ちょうど腰のところで折り曲げられて足は床についたままの、男が腰回りに十分手が届くような態勢だった。
「お嬢ちゃんは背が高いから、こういう格好のほうがおじさんとしてはやりやすいんだよね。それに正面から見られるよりも恥ずかしくないでしょ。」
「恥ずかしいって、なに?」
「今からわかるから。」
初心な無防備さに男は内心で舌なめずりをする。男はNのズボンのベルトのバックルに手を伸ばして外した。Nはかちゃかちゃという金属同士がぶつかる音にびくりと身体を震わせる。男はもうなんやかんや囁くのさえ面倒になったのか、性急にNの股間に手を這わせて、尻から前に掌を前後させる。
Nは声を堪えるように両手で口を塞いでいるが、どうしても吐息が漏れ出てしまう。
「く……ぅ……」
いい尻だと思ったのか男は執拗にNの尻を撫でている。
「お嬢ちゃん。いきなり突っ込まれるのはやっぱり怖いよね?」
Nはうんうんと何回もわけがわからないまま頷いている。男はさっきまでの取り澄ましたようなNとの対比に興が乗り始めたのか、ズボンと下着を膝あたりまでずらして、手慣れたように性器に指を絡めてきた。
「あっ……。」
「他人に触られるのは初めてだよね。」
「うん……。」
片手でNの先端を弄びながらもう片手はシャツの中に侵入して脇腹から胸を刺激する。Nは自己申告を偽ってなかったらしく、初めてらしい怯えが混じった表情を男に向けた。
「一回おじさんがイかせてあげるからそのあと、ね? ね?」
「…う、……うん。」
シャツの背中側も捲り上げられ、Nの色白な肌も男の目に晒される。緑色の長い髪が男の指に梳かれる度に、Nは怯えが消えないままだけども、少しの安心感が芽生えたように身体を弛緩させた。
「あなた昼間、ポケモンにも優しく触れてたよね。」
「ポケモンにはこういうエッチなことはしないよ。」
「それはあたりまえのことだけど、そういう意味じゃないんだけどな。僕はニンゲンという自分と……ポケモンとの境が結構曖昧なんだ。……あ!」
男はNの御託を遮るようにNの性器を強めに握った。
「僕にとってはポケモンは……トモダチで、あなたにとっては……ポケモンはトモダチなのかなっていうのも……問いかけてみたくて……。ねえ、あなたにとっては……あなたが昼間にキスしてあげて抱きしめてた……ミジュマルはどういう存在?」
「え? おじさん今そういうこと答えられないよ。だって君がほら、こんなに気持ちよさそうにしているのに。」
男は目の前のNに没頭したいのに、Nは昼間自分が見かけた男のポケモンに接する姿に思いを馳せていた。Nが男に声を掛けるきっかけはそれだったが、今している行為には何の関係もない。少なくとも男にとっては人間とポケモンは別物だった。でもNはそんなことは理解することなく男に、ポケモンと人間は同じ世界を分かち合っている対等な存在であることを前提に話をしていた。
「お嬢ちゃん。それはあとでゆっくり話そう。今はおじさんと楽しむことだけ考えて。いいだろ?」
「……わかった……」
Nは男がトモダチのことを片手間では語れないと読み取って男の成すままに今はいようと思った。そう思うまででもなく長身ではあるが華奢なNの身体は、旅で鍛えられた男の腕に抱きすくめられ、大きな手のひらで擦られ扱かれすっかり翻弄されていた。
「あっ……いやっ……。」
「気持ちいい? 気持ちいい? お嬢ちゃんもっとかな。」
「う、うう……。」
「ほら。いってごらん。」
「も、もっと……。」
Nは股間で勃ち上がったものに全ての意識というか感覚が持って行かれるような錯覚を覚える。腰が床にずれ落ちそうになるのを男は無理矢理ベッドの上に押しやり、Nをベッドの上に四つん這いにさせた。
「すごく、可愛いよ。」
「か、かわいい……? や…これは恥ずかしいって言うべきなんじゃないのかい?」
「恥ずかしいのが可愛いんだよ。君の恥ずかしいところが丸見えで、このひくひくしてるとこなんか自分の意志でそうなってるんじゃないってわかるよね? 気持ちいいとね、こんなふうに身体が勝手にひくひくしちゃうんだよ。」
Nはそれに小さく頷いた。こういうことは本を読んでもわからなかったことだ。自分で慰めているときは手の刺激だけで達していたせいで、その最中に何も思い浮かべることもなく機械的な作業になっていた。今男としていることは、いつものルーチンワーク的な作業ではなく、お互いの身体で相手を意識しあいながら行っている未知の実践だった。
「しゃ、射精しちゃう!」
「そういうときはね、イクっていうんだよ。」
「い、イク……。はあ……はあ……」
男の追い上げはNの心拍数を上げ呼吸を乱れさせる。ついにはNは男の手のひらに白くてどろどろした液体を吐き出した。男は満足そうにNの背中に精液で濡れていないほうの手を這わせる。そして覆いかぶさってまたNの頬にキスをした。
「ねえ、続きしてみないかい? 今度は手で擦るだけじゃなくて、君の中に気持ちいいもの入れてあげるから。」
「…待って…息が…」
Nは仰向けになろうと身体をよじる。男は察したように身体をNの横にどけた。男の目に射精したばかりで顔に赤みを帯びて、目も虚ろに潤ませているNの扇情的な姿が映る。
「良かったかな。」
「うん。……良かった。」
「お嬢ちゃんは自分が人間とポケモンの境が曖昧って言ってたけど、どんな発情して手の焼けるポケモンよりやらしくって可愛かったよ。」
Nは上半身を浮かせて男に問いかける。
「発情したポケモンを見たことあるのかい?」
男はNの息が整うまでピロートーク代わりにNの奇妙な会話に付き合ってやることにした。
「初めて進化させたポケモンのとき、一回限りだったな。ポケモンは進化するとすぐに発情期がくるんだよ。人間で言うと大人になるっていうことだからな。」
「そうなのか……、それで?」
Nの雰囲気が熱に浮かされたものから、裁定者らしき冷静な雰囲気に変わる。男はそれを気だるげな態度と間違って受け取ってしまった。
「旅で連れているときに、しかもそれがトレーナーとしての仕事の旅だったりするとき、発情されちゃうといろいろと困るんだよね。バトルのときも言うこと聞いてもらえなくなるし。だからその子はブリーダーのところに連れて行ってそのままブリーダー用に預けた。その当時のおじさんはあの子をきのみだけで育ててたからなあ。」
「きのみだけで育てるとどうして駄目なことになるんだい?」
男は事情通ぶってNに語る。
「市販のポケモンフードや傷薬の中には、ごく少量ずつ発情を抑える成分が入っているんだ。まあそれでも足りない子にはそれを抑制する専用の薬もある。人間の傍にいるポケモンには、人間のほうがどうにかしてあげなきゃいけないわけだからね。」
男はそう言いながらNの肩を抱こうとしたが、Nは鋭い目を男に向けて男から露骨に距離を取った。
「薬漬けにして自然な生理も歪めて、それがトモダチの為になるって?」
「どうしたんだい? 急に?」
いきなり初心な可愛らしい青年が、自分が少し目を離して話しかけていた間に豹変していた。
「あなたはそうやってトモダチにキスして愛情を注いでいる振りをしながら、食べるものや傷を癒すものに混ざっているトモダチを歪めるものを与え続けた。」
「いや。進化しなければそういう問題はないわけだから。薬とか使ってないから。進化キャンセルでどうにかなってるから。ね?」
「進化させないのも自分の都合ってわけだね。」
「いやポケモンは進化させないでいたほうが長生きするって、君は知らないよね。野生でよく進化しない状態でやたら強いやついるじゃん。あれは進化キャンセルし続けられたポケモンをトレーナーが逃がしたものなんだよ。」
「逃がすか……。言い方変えれば捨ててるんだよね。まあ、僕らの掲げているのは「ポケモンの解放」だから、そのへんの解釈はおいおいする必要はありそうだ。だけどポケモンの為じゃなくて、自分の都合でしたことが、運よくポケモンの為になったってあなたは言いたいだけなんだよね。そこにポケモンの意志なんてないじゃないか。」
Nは早口で捲し立てる。もう男の耳はNの言葉についていけなかった。
「ご、ごめん。なんに怒ってるかよくわからないけど、ごめん。お詫びにおじさんすごく気持ちよくさせてあげるから。」
Nは男を見下げ果てたように冷たい眼差しを向ける。男はすがりつくようにNを抱きしめて、Nが逃げないようにNが痛いと思うほど強い力で拘束する。押し付けられた身体の中心の硬さをNに知らしめるように。
「あなたのそういう状態を、発情してるって言わないかい? あなたもその抑制剤とやらでコントロールしてやればいいじゃないか。僕が発情した姿を見せたときは可愛いって褒めてくれたのに、トモダチが発情すると面倒臭がるのは何故?」
「だって、ポケモンと人間は違うじゃないか。君だって、ポケモントレーナーだからわかるだろ!」
ポケモントレーナーというNの現在の身分を男は振りかざす。同じ立場にいるからわかるはずだと決めつけていた。
ところが男はあらゆる事実を見落としていた。ベッドサイドのテーブルには男のモンスターボールが荷物と一緒に置かれている。転がっているモンスターボールの中にNのものはない。
それの意味するところは。
「僕は確かに今、ポケモントレーナーと名乗っている。だから僕をあなたと同じ立場のニンゲンだと思ってくれているのかもしれない。だけど僕はあなたにけして共感できる立場じゃないんだ。」
Nのポケモンはどこにいる? 答えは簡単だった。
「近くにいるなら来ておくれ!」
花火のような音と共に宿の大きな窓ガラスが四散する。窓ガラスの破片が薄くNの頬を切るがNはそんなことを気にせず、窓から飛んできたポケモンに微笑みかけた。
「か、カビゴン!」
男は目を見開いてその巨体に腰を抜かした。その隙にNはベッドから降りて身なりを整える。最後にトレードマークのキャップを被るとカビゴンをねぎらった。
「眠たいのに来てくれてありがとう。」
カビゴンは頷いている。
「心配してくれたんだ。うん。」
カビゴンはNを抱きかかえる。そして口を大きく開き、その中でオレンジ色の光弾が膨らんでいく。
「は、はかいこうせんっ。ウソだろっ。」
男は慌ててベッドの反対側に降りた。荷物やらモンスターボールに構っていられなかった。
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