幸福雑音
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☆ss「ロンド」長編① 勝燐 雪燐 燐女体化
雪男はびしょびしょになった冷たい胸元から姉の身体を引き剥がす。言いようの無い罪悪感から目を逸らしてもう一度言った。
「夏休み明けには、網走の教会に赴任する辞令が出たから。」
「約束と違うじゃねえか!」
姉の顔は涙に濡れて鼻の下や目元が痛々しいくらい赤くなっている。
「姉さん。」
雪男は崩れ落ちそうな姉の身体を抱きとめる。そして脇に手を掛けて姉の身体を浮かす。目線を同じにして雪男は言う。
「姉さん。姉さんにとって辛い真実だろうけど、聞いてくれるかい?」
「なんだよ……。約束破るほど重要なことかよ。」
雪男は「そうなんだ」と言いたげに頷いた。
「フェレス卿と神父さんが姉さんを隠匿して育てたことが、どうしようもなく騎士団の上層部にとって心証が悪かったんだ。」
藤本の死後、雪男はメフィストフェレスとは別にヴァチカンに繋がりを持っていた。そして姉と自分の身の上も進んで申告していた。勿論姉が自分がサタンの落胤であることを知らなかった事情は、重ねて弁明した。その原因がまるで義父やメフィストであることも。
雪男としてもメフィストはともかく、義父を裏切っているような気分にならなかったわけじゃない。しかしもういない人を宛てに出来ないのだからと言い訳を重ねていた。雪男の自分でも気づいていない奥深い感情から来る、姉を挟んでの父・藤本への対抗心もそれを後押ししていた。父と娘、雪男から見ても甘酸っぱいような関係だった。抱きついてくる娘に満面の笑みを見せる父親。その光景が羨ましかった。そんな言葉ではぬるいような嫉妬心も思春期前には芽生えていて、それが姉への思いも自覚するきっかけにもなった。
案の定姉は義父の死を自分のせいだと責め、せめて亡き義父の遺志を継ごうとするように祓魔師になることを決めた。雪男はそんな世界から姉を遠ざけたかったのに、姉は頑なにそれを拒んだ。今でも義父を慕っているが故に。
義父は姉に甘かった。甘やかしというわけではないけれど、姉の行動を抑制するような教育は最低限のものだった。自分の死後、姉がどんな運命を辿るか分かっていただろうに。雪男が孤独な姉を見て哀れむたびに、見透かしたように呟いていた。
『あいつはあれでいいんだよ。誰の思惑からも外れているほうが。』
雪男はそれをただ義父が姉を甘やかす口実に言っていたと思い込もうとしている。雪男にしてみれば姉にもっと厳しく勉強させたり、世間の渡り方を教えたほうが、よほど姉にとって有用だったのではないかと。
姉の良いところは雪男だって認めているが、それを少しくらいは押しつぶしたり歪めたりしても、姉にとって有利に働くのは予想は容易い。
姉は言葉を詰まらせながら、亡き義父を弁護している。
「だ、だけどさ……俺って、知られた途端に殺されて当然だったかもしれねえだろ。メフィストもそう言ってたし。あいつもそういう今すぐ自殺するか、騎士団に殺されるか選べって言われたし。」
雪男はそれもメフィストが燐を試す為に言ったのだと言いたかったが言葉を飲み込んだ。下手をしたらメフィストへの心証を上げてしまう可能性があったからだ。
「神父さんが死んだから、自分だけで姉さんのことを背負うのは話が違うって言いたかったんじゃないの?」
「何言ってんだ! お前、あいつは胡散臭いやつだけど、そんなに卑屈で臆病な奴じゃないだろ。」
急に姉が激昂する。雪男は地雷を踏んでしまったと唇を噛んだ。
「ごめん。僕にはフェレス卿の思惑はよく分からないことがあるから。疑心暗鬼になっていたかもしれない。でもさっきの姉さんの一言で目が覚めたよ。あの人は友人だった神父さんの遺志をないがしろにするほど、最悪の悪魔じゃない。」
姉を宥めるために雪男は心にもない言葉を吐く。雪男にとってメフィストも、姉が心を許している時点であまり味方とは思えない。姉の近くからは排除したい対象だった。
「そんなフェレス卿には感謝している。でもね姉さん。そんな人にだからこそ、迷惑かけたくないって思わないかい?」
「う……。迷惑……。」
「迷惑とは言いすぎだけど。姉さんが進んで騎士団の意志に沿うということは、フェレス卿にとって騎士団への忠誠が誤魔化しでないという証明になるんだ。神父さんの名誉も回復出来るかもしれない。ある意味、この網走行きが早まったのは僕らを試すためかもしれない。約束が違うと反抗したとなれば、フェレス卿を悪く思う連中にそれみたことかと餌を与えてしまうことになる。」
燐は俯いて肩を震わせている。姉はもう落ちたも同然だった。
「姉さん。」
促すように姉を呼ぶと、姉は俯いたままこくりと頷いた。
* * *
勝呂竜士は空席になった祓魔塾の教卓のすぐ前の席を見ながら回想していた。
サタンの娘は十八歳の四月一日から網走にて一生を過ごす。
これを聞いた当初、勝呂はこの運命を惨いと思った。それでも心の片隅では納得してしまった。これはサタンの娘に対する当然の対策だと。
自分は出雲に言わせれば恥ずかしげもなく「サタンを倒す」なんて言った男だ。多少急ぎ気味にはなるが、三年間も時間があれば、どうにか出来ないことはないと思った。どうにか出来ると思えなければ、あの日、あの少女――、奥村燐を抱き締められなかった臆病な自分が情けなくて、気持ちで負けてしまいそうだったから。
三年生の三月までにサタンをどうにかすると言う事は、もしかしたら奥村燐の網走行きを阻止出来るかもしれないということだ。奥村雪男から燐がサタンの娘である真実を聞かされて、燐と距離を置いてしまって、数日丸々過ごして考えた青臭くて無謀な結論だった。
勝呂がここまで燐に入れ込む理由ははっきり言って、無いに等しい。真実を聞かされた当初は、燐と関わらなければ良かったとか、まだまだ引き返せるとか考えていた。でも燐を今更ほうって置くことが出来なかった。
やっと決心がついたところで、燐にこの自分らしくない思いつきを話してみた。すると燐は目を輝かせて言った。
『あのサタンを倒せば、俺は網走に行かなくて済むんだよなっ。どうして思いつかなかったんだろ。サタン倒せたら、勝呂と離れなくてもいいし。雪男巻き込んで網走に引きこもる必要も無いじゃん。』
『ただの思いつきや……。自分でも無茶なことは分かってる。』
何せ勝呂が他人の前でうっかり口に出す度に笑われていた目標だったから、なおさら自信がなかった。そのうえ、燐は義父に憑依したサタンをその目で見ていたらしいから、受け入れてもらえるかどうか余計に不安になっていたのもあった。なのに燐はあっさりその言葉に食いついてきた。散々な身の上の少女が見つけた希望にしては頼りなくて無茶苦茶だと勝呂は思ったりするが、燐にとっては思いのほか
『でも、ありがとうな! 勝呂が思いついてくれなかったら……ううん。とにかく、ありがとう!』
出会った当初の頭が悪くて無愛想な少女はそこにはいなかった。ましてやサタンの娘という運命に翻弄される孤独な少女なんていなかった。そこには新しい希望を見つけた前向きな少女がいる。その希望を与えたのは他ならぬ自分だったようだ。
もしかしたら、ぬか喜びに終わる変な希望だったのかもしれない。それを無責任に口に出してしまって、後から後悔させるかもしれない。でも、この彼女の笑顔は、当時の勝呂にはかけがえのない真実だった。
* * *
「やあ。奥村先生。網走に赴任されたとはいえ、こうしょっちゅう顔を合わせていると、未だに貴方が私の学校の教え子のように思えてきますね。」
「そうですね。理事長。」
雪男はにこやかに返事をしたが、心中ではそれならそう何度も呼び出さないで欲しいと思った。祓魔師にとって、鍵を使った移動は常識中の常識だ。
「今日もお姉さんはお留守番ですか。」
「はい。」
短く答えて、少し愛想が無かったかなと雪男は気になったが、メフィストに対して恨み言はあるのでまあいいかと流すことにした。あまり姉である燐から目を離したくないのに、この悪魔はしょっちゅう自分を呼びつけては姉の様子を聞きたがる。この悪魔曰く――。
「末の妹の様子は気になりますよ。」
だそうだ。雪男はそれに異議を唱えたい。彼女はお前の妹じゃない、僕の姉だと。メフィストにしてみれば何桁いるか分からない兄弟姉妹のうちの一人だ。だけど雪男にとっては「唯一の姉」だ。分母の小ささが勝ちを決めるわけじゃないが、思いの密度を同じにされては不愉快だ。
そんな雪男の思いを知ってか知らずかメフィストは軽口を叩く。
「たまには連れて来てくれればいいものを。なんだかんだで、燐にとってもここは母校なんですから。」
義父が死んでこの学校に移ってきた当時、燐が例外的に威嚇しない男の一人にメフィストがいた。つっかかりながらも、燐とメフィストの関係は良好とも言えるものだった。死んだ義父のように燐をからかいながらも甘やかさず、放任しているようで、さりげなく気を配っているのが雪男には気に食わなかった。自分の役所を掻っ攫われたような気分だったから。
「姉の処遇は貴方を越えてヴァチカンから下されたものです。幾ら貴方に請われても無理なものは無理です。」
それは半分近くが嘘だった。なんだかんだで成人するまではメフィストが後見人になっている。ヴァチカンの権限という制限が科されようが、メフィストには燐の顔を見たり様子を窺う権利がある。メフィストはそれを見透かしているのだろうが、雪男の言い分には反対も賛成もしていない。
「そうですか。」
「それでは失礼してよろしいでしょうか?」
「いいですよ。」
雪男はメフィストが指差すドアの鍵穴に魔法鍵を差し込んで回した。扉の向こうは網走の教会の礼拝堂だった。
「雪男? そんな懺悔室の隅で何してんだ?」
短時間の用事の時には、特に姉に行き先を伝えていない。あちらこちらの正十字騎士団の教会を手伝っていると日頃から言っているので、本部に呼び出されているということは燐には黙っていた。燐も訊かないのだから、姉の能天気さにはある意味感謝している。
自分がしょっちゅうメフィストに会っていると知られれば、姉は間違いなくついていこうとするだろう。そのついでに学園で出来た友人とも再会しようとするだろう。
今のところ、上手く姉を幽閉している状態を納得させている。この生活を雪男は末永く続けたいと願った。
* * *
勝呂は現在二年生の二学期を迎えていた。現在所有している称号は詠唱騎士と竜騎士。元々取ろうと狙っていた称号は獲得していた。塾の同期はそれぞれ素質のある称号をみんなが得ている。ただ志摩は詠唱騎士を目指していたのに、それは未だ取得出来ず、先に騎士の称号を取るという事態になったが。
燐は騎士の称号を獲得したらしい。「らしい」と曖昧な言い方になってしまったのには理由がある。燐はもう、正十字学園にいないからだ。燐は今、網走にいる。
姉が網走に行ったら半年しない内に自分も網走に行くと言った奥村雪男も、既にいない。姉と一緒に網走に行ったからだ。特待生で成績も主席の雪男の突然の転校(公の記録によれば)は、主に女生徒の間で騒然の話題になった。二年生に上がるまでには騒ぎは沈静化したが、その間、姉の退学については祓魔塾に通っていない生徒の間では、ほとんど話題に上らなかった。
三年あったはずの時間が、実際には一年もなかった。悠長に構えていたつもりはない。でも間に合わなかった。
学生の身分の勝呂では網走までなかなか行けない。今の勝呂と燐の交流は手紙に限られている。
『勝呂。結局去年は冬休みにジジイの墓参りにしか行けなかったんだ。どうしてもみんなに会うのには、まだ時間が取りにくいってさ。』
「ほう。そうなんか。」
燐の手紙の書き方が実際に喋っているようだから、独り言になってでも相槌を打つ自分がいる。
『そっちは九月になっても暑いのか?』
「こっちは残暑が厳しいで。」
『こっちは夏はそこまで暑くならないけど、去年の雪は凄くて大変だったんだぜ。』
「知っとる。知っとる。お前に言われんでも想像つくわ。」
『俺このごろクッキー作って、それでちょっと稼いでるんだ。』
「お前は料理が上手かったからなあ。」
手紙を読んで相槌を打ちながら返事を書く。一人きりの寂しい会話だった。
意外と燐は筆まめだった。悪筆でもあったけれど。
手紙は頻繁に送られてくる。自分の近況を書いたあとに勝呂の近況を訊き返す形の手紙だった。本人は手紙で暴露していないが、全ての手紙の内容を雪男に把握されているに違いない。悪い意味で言えば、燐も勝呂も当たり障りのない内容しか書けていないのかもしれない。
『その売りもんにしてるクッキー。一度食べてみたいんやけど。良ければこっちに宅配便か何かで送ってもらえんか? 志摩が、お前の手料理をまた食べたい言うてごねとるから。』
なんか無性に笑みが零れる。
自分の恋に気付いたのはそんなに最近じゃない。でもずっと決心が付かなかったから、何も告げられずに今に至っていた。
前にあげたサンプルに加筆して載せました。これから少しずつアップしていこうと思います。
「夏休み明けには、網走の教会に赴任する辞令が出たから。」
「約束と違うじゃねえか!」
姉の顔は涙に濡れて鼻の下や目元が痛々しいくらい赤くなっている。
「姉さん。」
雪男は崩れ落ちそうな姉の身体を抱きとめる。そして脇に手を掛けて姉の身体を浮かす。目線を同じにして雪男は言う。
「姉さん。姉さんにとって辛い真実だろうけど、聞いてくれるかい?」
「なんだよ……。約束破るほど重要なことかよ。」
雪男は「そうなんだ」と言いたげに頷いた。
「フェレス卿と神父さんが姉さんを隠匿して育てたことが、どうしようもなく騎士団の上層部にとって心証が悪かったんだ。」
藤本の死後、雪男はメフィストフェレスとは別にヴァチカンに繋がりを持っていた。そして姉と自分の身の上も進んで申告していた。勿論姉が自分がサタンの落胤であることを知らなかった事情は、重ねて弁明した。その原因がまるで義父やメフィストであることも。
雪男としてもメフィストはともかく、義父を裏切っているような気分にならなかったわけじゃない。しかしもういない人を宛てに出来ないのだからと言い訳を重ねていた。雪男の自分でも気づいていない奥深い感情から来る、姉を挟んでの父・藤本への対抗心もそれを後押ししていた。父と娘、雪男から見ても甘酸っぱいような関係だった。抱きついてくる娘に満面の笑みを見せる父親。その光景が羨ましかった。そんな言葉ではぬるいような嫉妬心も思春期前には芽生えていて、それが姉への思いも自覚するきっかけにもなった。
案の定姉は義父の死を自分のせいだと責め、せめて亡き義父の遺志を継ごうとするように祓魔師になることを決めた。雪男はそんな世界から姉を遠ざけたかったのに、姉は頑なにそれを拒んだ。今でも義父を慕っているが故に。
義父は姉に甘かった。甘やかしというわけではないけれど、姉の行動を抑制するような教育は最低限のものだった。自分の死後、姉がどんな運命を辿るか分かっていただろうに。雪男が孤独な姉を見て哀れむたびに、見透かしたように呟いていた。
『あいつはあれでいいんだよ。誰の思惑からも外れているほうが。』
雪男はそれをただ義父が姉を甘やかす口実に言っていたと思い込もうとしている。雪男にしてみれば姉にもっと厳しく勉強させたり、世間の渡り方を教えたほうが、よほど姉にとって有用だったのではないかと。
姉の良いところは雪男だって認めているが、それを少しくらいは押しつぶしたり歪めたりしても、姉にとって有利に働くのは予想は容易い。
姉は言葉を詰まらせながら、亡き義父を弁護している。
「だ、だけどさ……俺って、知られた途端に殺されて当然だったかもしれねえだろ。メフィストもそう言ってたし。あいつもそういう今すぐ自殺するか、騎士団に殺されるか選べって言われたし。」
雪男はそれもメフィストが燐を試す為に言ったのだと言いたかったが言葉を飲み込んだ。下手をしたらメフィストへの心証を上げてしまう可能性があったからだ。
「神父さんが死んだから、自分だけで姉さんのことを背負うのは話が違うって言いたかったんじゃないの?」
「何言ってんだ! お前、あいつは胡散臭いやつだけど、そんなに卑屈で臆病な奴じゃないだろ。」
急に姉が激昂する。雪男は地雷を踏んでしまったと唇を噛んだ。
「ごめん。僕にはフェレス卿の思惑はよく分からないことがあるから。疑心暗鬼になっていたかもしれない。でもさっきの姉さんの一言で目が覚めたよ。あの人は友人だった神父さんの遺志をないがしろにするほど、最悪の悪魔じゃない。」
姉を宥めるために雪男は心にもない言葉を吐く。雪男にとってメフィストも、姉が心を許している時点であまり味方とは思えない。姉の近くからは排除したい対象だった。
「そんなフェレス卿には感謝している。でもね姉さん。そんな人にだからこそ、迷惑かけたくないって思わないかい?」
「う……。迷惑……。」
「迷惑とは言いすぎだけど。姉さんが進んで騎士団の意志に沿うということは、フェレス卿にとって騎士団への忠誠が誤魔化しでないという証明になるんだ。神父さんの名誉も回復出来るかもしれない。ある意味、この網走行きが早まったのは僕らを試すためかもしれない。約束が違うと反抗したとなれば、フェレス卿を悪く思う連中にそれみたことかと餌を与えてしまうことになる。」
燐は俯いて肩を震わせている。姉はもう落ちたも同然だった。
「姉さん。」
促すように姉を呼ぶと、姉は俯いたままこくりと頷いた。
* * *
勝呂竜士は空席になった祓魔塾の教卓のすぐ前の席を見ながら回想していた。
サタンの娘は十八歳の四月一日から網走にて一生を過ごす。
これを聞いた当初、勝呂はこの運命を惨いと思った。それでも心の片隅では納得してしまった。これはサタンの娘に対する当然の対策だと。
自分は出雲に言わせれば恥ずかしげもなく「サタンを倒す」なんて言った男だ。多少急ぎ気味にはなるが、三年間も時間があれば、どうにか出来ないことはないと思った。どうにか出来ると思えなければ、あの日、あの少女――、奥村燐を抱き締められなかった臆病な自分が情けなくて、気持ちで負けてしまいそうだったから。
三年生の三月までにサタンをどうにかすると言う事は、もしかしたら奥村燐の網走行きを阻止出来るかもしれないということだ。奥村雪男から燐がサタンの娘である真実を聞かされて、燐と距離を置いてしまって、数日丸々過ごして考えた青臭くて無謀な結論だった。
勝呂がここまで燐に入れ込む理由ははっきり言って、無いに等しい。真実を聞かされた当初は、燐と関わらなければ良かったとか、まだまだ引き返せるとか考えていた。でも燐を今更ほうって置くことが出来なかった。
やっと決心がついたところで、燐にこの自分らしくない思いつきを話してみた。すると燐は目を輝かせて言った。
『あのサタンを倒せば、俺は網走に行かなくて済むんだよなっ。どうして思いつかなかったんだろ。サタン倒せたら、勝呂と離れなくてもいいし。雪男巻き込んで網走に引きこもる必要も無いじゃん。』
『ただの思いつきや……。自分でも無茶なことは分かってる。』
何せ勝呂が他人の前でうっかり口に出す度に笑われていた目標だったから、なおさら自信がなかった。そのうえ、燐は義父に憑依したサタンをその目で見ていたらしいから、受け入れてもらえるかどうか余計に不安になっていたのもあった。なのに燐はあっさりその言葉に食いついてきた。散々な身の上の少女が見つけた希望にしては頼りなくて無茶苦茶だと勝呂は思ったりするが、燐にとっては思いのほか
『でも、ありがとうな! 勝呂が思いついてくれなかったら……ううん。とにかく、ありがとう!』
出会った当初の頭が悪くて無愛想な少女はそこにはいなかった。ましてやサタンの娘という運命に翻弄される孤独な少女なんていなかった。そこには新しい希望を見つけた前向きな少女がいる。その希望を与えたのは他ならぬ自分だったようだ。
もしかしたら、ぬか喜びに終わる変な希望だったのかもしれない。それを無責任に口に出してしまって、後から後悔させるかもしれない。でも、この彼女の笑顔は、当時の勝呂にはかけがえのない真実だった。
* * *
「やあ。奥村先生。網走に赴任されたとはいえ、こうしょっちゅう顔を合わせていると、未だに貴方が私の学校の教え子のように思えてきますね。」
「そうですね。理事長。」
雪男はにこやかに返事をしたが、心中ではそれならそう何度も呼び出さないで欲しいと思った。祓魔師にとって、鍵を使った移動は常識中の常識だ。
「今日もお姉さんはお留守番ですか。」
「はい。」
短く答えて、少し愛想が無かったかなと雪男は気になったが、メフィストに対して恨み言はあるのでまあいいかと流すことにした。あまり姉である燐から目を離したくないのに、この悪魔はしょっちゅう自分を呼びつけては姉の様子を聞きたがる。この悪魔曰く――。
「末の妹の様子は気になりますよ。」
だそうだ。雪男はそれに異議を唱えたい。彼女はお前の妹じゃない、僕の姉だと。メフィストにしてみれば何桁いるか分からない兄弟姉妹のうちの一人だ。だけど雪男にとっては「唯一の姉」だ。分母の小ささが勝ちを決めるわけじゃないが、思いの密度を同じにされては不愉快だ。
そんな雪男の思いを知ってか知らずかメフィストは軽口を叩く。
「たまには連れて来てくれればいいものを。なんだかんだで、燐にとってもここは母校なんですから。」
義父が死んでこの学校に移ってきた当時、燐が例外的に威嚇しない男の一人にメフィストがいた。つっかかりながらも、燐とメフィストの関係は良好とも言えるものだった。死んだ義父のように燐をからかいながらも甘やかさず、放任しているようで、さりげなく気を配っているのが雪男には気に食わなかった。自分の役所を掻っ攫われたような気分だったから。
「姉の処遇は貴方を越えてヴァチカンから下されたものです。幾ら貴方に請われても無理なものは無理です。」
それは半分近くが嘘だった。なんだかんだで成人するまではメフィストが後見人になっている。ヴァチカンの権限という制限が科されようが、メフィストには燐の顔を見たり様子を窺う権利がある。メフィストはそれを見透かしているのだろうが、雪男の言い分には反対も賛成もしていない。
「そうですか。」
「それでは失礼してよろしいでしょうか?」
「いいですよ。」
雪男はメフィストが指差すドアの鍵穴に魔法鍵を差し込んで回した。扉の向こうは網走の教会の礼拝堂だった。
「雪男? そんな懺悔室の隅で何してんだ?」
短時間の用事の時には、特に姉に行き先を伝えていない。あちらこちらの正十字騎士団の教会を手伝っていると日頃から言っているので、本部に呼び出されているということは燐には黙っていた。燐も訊かないのだから、姉の能天気さにはある意味感謝している。
自分がしょっちゅうメフィストに会っていると知られれば、姉は間違いなくついていこうとするだろう。そのついでに学園で出来た友人とも再会しようとするだろう。
今のところ、上手く姉を幽閉している状態を納得させている。この生活を雪男は末永く続けたいと願った。
* * *
勝呂は現在二年生の二学期を迎えていた。現在所有している称号は詠唱騎士と竜騎士。元々取ろうと狙っていた称号は獲得していた。塾の同期はそれぞれ素質のある称号をみんなが得ている。ただ志摩は詠唱騎士を目指していたのに、それは未だ取得出来ず、先に騎士の称号を取るという事態になったが。
燐は騎士の称号を獲得したらしい。「らしい」と曖昧な言い方になってしまったのには理由がある。燐はもう、正十字学園にいないからだ。燐は今、網走にいる。
姉が網走に行ったら半年しない内に自分も網走に行くと言った奥村雪男も、既にいない。姉と一緒に網走に行ったからだ。特待生で成績も主席の雪男の突然の転校(公の記録によれば)は、主に女生徒の間で騒然の話題になった。二年生に上がるまでには騒ぎは沈静化したが、その間、姉の退学については祓魔塾に通っていない生徒の間では、ほとんど話題に上らなかった。
三年あったはずの時間が、実際には一年もなかった。悠長に構えていたつもりはない。でも間に合わなかった。
学生の身分の勝呂では網走までなかなか行けない。今の勝呂と燐の交流は手紙に限られている。
『勝呂。結局去年は冬休みにジジイの墓参りにしか行けなかったんだ。どうしてもみんなに会うのには、まだ時間が取りにくいってさ。』
「ほう。そうなんか。」
燐の手紙の書き方が実際に喋っているようだから、独り言になってでも相槌を打つ自分がいる。
『そっちは九月になっても暑いのか?』
「こっちは残暑が厳しいで。」
『こっちは夏はそこまで暑くならないけど、去年の雪は凄くて大変だったんだぜ。』
「知っとる。知っとる。お前に言われんでも想像つくわ。」
『俺このごろクッキー作って、それでちょっと稼いでるんだ。』
「お前は料理が上手かったからなあ。」
手紙を読んで相槌を打ちながら返事を書く。一人きりの寂しい会話だった。
意外と燐は筆まめだった。悪筆でもあったけれど。
手紙は頻繁に送られてくる。自分の近況を書いたあとに勝呂の近況を訊き返す形の手紙だった。本人は手紙で暴露していないが、全ての手紙の内容を雪男に把握されているに違いない。悪い意味で言えば、燐も勝呂も当たり障りのない内容しか書けていないのかもしれない。
『その売りもんにしてるクッキー。一度食べてみたいんやけど。良ければこっちに宅配便か何かで送ってもらえんか? 志摩が、お前の手料理をまた食べたい言うてごねとるから。』
なんか無性に笑みが零れる。
自分の恋に気付いたのはそんなに最近じゃない。でもずっと決心が付かなかったから、何も告げられずに今に至っていた。
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