幸福雑音
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☆ss「エメロードアナザールート」① 雪男とアマイモン
新聞の読者投稿欄の悩み相談が雪男の目に止まる。
「……くだら、いや。」
口が滑った。雪男はいやいやと首を振ってまた文面を追う。
何処の誰かは知らないけれど、たぶん自分とそう歳の変わらない学生からの投稿だった。どうやら相談者は親と友達関係と進路のことで揉めているらしい。自分の夢と友達づきあいを優先したい相談者に対し、親は勉強と将来の安定に身を入れて欲しいから、安易な約束事と進路決定をするなとうるさいそうな。
「悩み相談で投稿するなんて――。まあ、ある意味前向きなのかな?」
回答者はその相談者に対し、今の状態は明らかに互いの考えの押し付け合いの一方通行になっているから、本当の意味で腰を据えて話し合えと言っている。結論はそれなのだが、その前置きに相談者の気持ちは本当に良く分かると重ね重ね書いてあった。人を説得する常套句だなと雪男は思った。そしてわが身を振り返る。
「僕って普通の悩みって、ないよな。」
進路はほぼ確定しているし、不本意な形であっても干渉してくる親もいない。しかし逆に社会的にも生命的にも綱渡り状態の双子の兄がいて、胡散臭い上司はいる。明らかに普通の十五歳が置かれている状態じゃなかった。
それを特別に苦に思ったことはない。ただいつから自分はこんなになってしまったんだろうとは思う。それにも答えは出ている。義父に兄の将来がやばいと聞かされた時から始まっていると。
『雪男。兄さんを守りたくないか?』
その言葉は雪男の運命を変えた。
まだ幼かった雪男は兄の受難を先回り出来ると考え、必死になって勉強して祓魔師になった。そしてその結果が今である。いつも自分に対して自分のことはよく分かっていると言い聞かせ、そして自分自身に折り合いを付けてここまできた。悩むより前に何もかも自分で解決した。
ところで現在この部屋に兄はいない。
「あのすっとこどっこいが……」
金曜日の夜から土曜日の昼まで寝続けたと思えば、日付が変わる頃にふらっと出て行ったまま帰ってこない。それには頭が痛くなるが部屋に帰ってきたところで説教をして、来週から拘束を強めればいいことだ。また自分で解決案を出してしまった。
兄は化け猫のクロを連れているらしい。部屋が妙に広々としている。そうだ。落ち着かないから新聞なんか読んでいたんだ。そしていつもは見ないような読者欄なんか見ていたんだ。それで自分と世間のズレを認識するなんて。なんて遣る瀬無いんだ。
新聞はやめて兄の読み捨てた雑誌を拾い読みする。雑誌の記事は日曜のデートやレジャースポットとか、食い物屋や遊び場の記事が続いていた。
「僕が最後に外食したのは、仕事の営業の時だったような……」
この雑誌に載っているような、恋人同士や家族同士で食事を楽しむような雰囲気じゃなかった。唯一の家族である燐とも、この一年間を振り返っても、一緒に休みの日に外出したり外食なんかしたことない。でもついこの間、燐は一緒に任務に出かけていた時の通称・ロケ弁と呼ばれるものを雪男の隣で美味しそうに食べていた。
「いやっ。それは外食と違うだろ!」
それを思い出すと、今すぐにでも外に出て兄を探したくなる。それからたまには二人で外で朝ごはんを食べようという、狸の皮算用みたいな計画も頭に浮かんでくる。しかし今は深夜だ。そして兄は帰ってくるかどうか分からない。
雪男は頭を掻き毟る。ろくでなしで甲斐性無しであんぽんたんな兄でも、この雪男にとっては誰よりも可愛いのだ。
「よく考えれば、僕と出かける約束でも取り付けておけば、兄さんは案外、ここにいてくれたかもしれないじゃないか。ついでにしえみさんも誘えば確実じゃないか。どうしてそれが思いつかなかったんだ。」
慣れない学校生活と塾の授業に兄を馴染ませることに神経をすり減らしていて、少しは余裕が出てきた今日のこの頃だったのに。気持ちは今も最初の緊張を孕んだ毎日に引きずられていた所為だ。兄のほうはそんな雪男の気持ちも知らず、悪魔友達のクロと夜遊びしてやがる。
「そうだよ。兄さんのほうから誘ってくれても……。」
この際だからあの兄にも責任転嫁してみよう。しかし雪男ははっとなる。
よくよく考えれば、自分は兄にとっては近寄りにくい存在になっていることに気付いた。塾の講師であることしかり。同室の監視者であることしかり。雪男にとっては必要があって、なんやかんや干渉して兄にとって数々の嫌なことを言ったけど、それが兄弟の溝になっているのか。
「僕が、僕が悪いのか? 自業自得なの?」
雪男は慌ててスマートフォンで兄の携帯に電話を掛ける。部屋の中の兄のベッドから着信音が聞こえてきた。
「あの野郎。携帯置いていきやがった! 馬鹿だろあいつ。馬鹿。馬鹿。意味ねえっ。」
何を今更という感じだが、何気に雪男は夜の零時過ぎからずっとこの部屋で兄を待ちぼうけしていた。知らず知らずの内にストレスが溜まっていたようだ。そして誰にも観測されない密室だから、雪男は行き場のないストレスを吐き出している。
しかし観測者がいないイコール、それを受け止めて聞いてくれる人もいないということである。雪男の中では部屋の中でぶち切れる以外の選択肢しかなかった。
壁に掛けていた時計が三時を指す。そろそろ待ちぼうけも限界だった。
「ふふふ。いいだろう。そろそろ僕自ら出るときがきたようだな。」
雪男は少年向けテレビアニメの悪役のような台詞を呟くと、寮の部屋から抜け出す。つい癖で上着は祓魔師のコートで、二丁拳銃も装備済みだった。兄を迎えに行く割には完全装備で物騒である。
兄のことだからどうせクロと特訓と称したちゃんばらをしているに違いない。それならばあの炎だって全開だろう。とういことは、人目につかない、しかも学園内にいるはずだ。見事な三段論法に雪男は笑む。しかしいかんせん該当する場所は正十字学園には数箇所ある。雪男は燐と双子である自分の勘が当たりますようにと願いながら、とある場所を目指した。
* * *
さながら要塞のような正十字学園の敷地は、メフィストフェレスの屋敷を頂点に、無秩序に無差別に建物を土台にそのまた建物が積み重なっているような威容を見せていた。基本が学校関係者と祓魔師の関係者、そして聖職者が集められている割には、巨大すぎて何がなにやら分からなくなっている。つまり無駄な建物や打ち捨てられた場所も多いことだろうと雪男は思っていた。
そんなエアースポットの一つで雪男はとんでもないものに遭遇した。
「待てやくぉらあああああ!」
背後に迫る影。途切れ途切れの自分の息。それが死を実感させる。
「ちっ。見失った。」
まるで紅い死神のようだと雪男は思った。自分は悪魔の手を引いている。しかしその悪魔は兄じゃない。あの死神が赤で、兄が青とするならば、その悪魔は緑だ。
学園の最下層に近い尖塔の側。
「お兄さん。助けてくれてありがとうございます。」
雪男の汗ばんだ手は、その抑揚の無い声にふさわしいひんやりした手を握っていた。自分のほうにそれを引き寄せて緑色の頭を抱え込む。その悪魔は驚いたように目を見開いた。
「とりあえず、あの人は撒けたようだ。失礼。息が切れてしまって。少し休みましょう。」
「分かりました。改めましてありがとうございます。」
抑揚の無い声で感謝の言葉を吐く悪魔。虚無界八候王の一人で地の王・アマイモンだった。振り向いて影から様子を見ると、シュラは一旦他の場所を探しに行ったらしい。
なんでこんなことになっているかというと――。最初に駆けつけた場所が大外れだったから。兄はいなくて、助けを求めるアマイモンと、その背中を追う紅い死神こと霧隠シュラがいた。シュラは名前からして、もうそのまま死神と読ませてもいいんじゃないと思わせるような字面の名前の女だった。しかも名前どおりの死神のスペックを持った女である。つまり存在そのものが死神と言っていい。
「ですがアマイモンさん。」
「いやっ。アマイモンって呼んで!」
反応したら負けだと思った。昼メロじゃねえんだよと雪男は表情には出さないように毒づくが、今の自分とアマイモンの状況を考えてみると、まるで追っ手から逃げる駆け落ちカップルみたい思えてきて、ちょっとげんなりしてきた。しかし、自分の片手はアマイモンの手首を握っているし、もう片方の手はアマイモンの腰に回ってその身体を支えている。そしてアマイモンは体重を完全に雪男に委ねていた。
状況からして、先のアマイモンの台詞はその場にぴったりだった。嫌な感じに。
「ところでアマイモンさんは、シュラさんなんか敵でもないでしょうに。どうして逃げ惑っていたのですか?」
今は正十字学園にある公園跡地のような場所の、ちょうどいい土管の中。よくもまあこんな場所にちょうどよくそんなものが転がっているものだ。しかも四方は伸びっぱなしの木の枝に覆われている。アマイモンは息を切らすこともなく、それでもなんだか大義そうに雪男の肩先に凭れかかった。
「僕いま、おなかすいてるんです。」
「あらら。力が出ないんですね。」
寝不足になった時の兄を見ていればよくわかる。悪魔はどれだけ上級で強くても、空腹や眠気で簡単に弱体化しやすいのかもしれない。
アマイモンは頭からすっぽり雪男のコートを被せられている。悪魔特有の瘴気とも言える何かを少しでも隠すためだった。
「お兄さん、優しいですね。僕を追っかけまわしているお姉さんは怖いのに。」
「あれは僕の上司ですよ。それに昔からの馴染みでもあるんです。」
「じゃあ、なんで?」
助けてくれたんですか? 目がそう訴えている。雪男は深い溜息をつきながら言った。
「成り行きですよ。あなたを倒せという任務もありませんし。あなた自身は、理事長から呼びつけられてるらしいとの噂もありますし。」
「僕は確かに兄上に呼ばれて物質界にいます。」
アマイモンはそのとき、少しだけ俯いたように見えた。雪男は「あれっ?」と思う。しかし自分にしても成り行き上の付き合いはこれまでだと考えて、コートをアマイモンから取り上げて言った。
「ここでじっとしていなさい。シュラさんは僕がなんとか足止めしておきます。またあなたはあの人に追われるかもしれませんが、今回だけは僕が丸く収めます。」
ここまで言ったところで雪男のスマートフォンが鳴る。
「誰だよ。」
電話にでんわとは言ってられないので仕方なく出る。
「はい。奥村です。」
『グーテンアーベント。メフィストフェレスです。今私が見ているモニターにあなたたちが映っているのですが――。』
雪男は辺りを見回した。もしかしたら監視カメラでも設置されているのか。こんなところに意味が無いと雪男は呆れる。それなのに人の心を読んだようにメフィストは言葉を続ける。
『そういう人気のないところは、時々カップルがいちゃつくんですよ。私のちょうどいい悪魔らしい娯楽のためですかね。』
「ああそうですか。」
投げやりに返事をする。さて本題なのですがとメフィストは言った。雪男の胸中に不吉な予感が過ぎる。
電話を切る。
このまま会話を続ける。
前者の選択肢を採りたいところだが、相手は上司だ。しかも後見人だ。アマイモンが側にいるから、どうせ言われることは予想がついている。
『全てを諦めたような顔をしないで下さい。私はただ弟をそのまま無事に、学園の外まで護衛して欲しいだけなのですよ。』
「弟君はお腹が空いているそうです。そっちのほうの対処はどうすればよろしいのですか?」
『何かご馳走して頂ければ助かります。』
なんでと雪男は叫びそうになったが、なんとか堪えた。当然予想できる答えだった。こんなところで心拍数や血圧を上げるのは不毛だ。そう言い聞かせて善処してみますと言った。
『それではグーテンナハト。』
電話が切られる。それと同時にアマイモンが後ろから抱き着いてきた。
「兄上は僕を追い返すつもりなのですか?」
「追い返すというより、ここでは一旦外に逃げて欲しいみたいですね。」
「そうですか。」
悲しそうな様子はない。ひたすら無表情で感情の起伏の窺えない声を聞かされる。
「アマイモンさんはお腹が空いているそうですが、金品は持っていないのですか?」
「僕のためのキャッシュカードは持たされてます。でもお金がないから僕は兄上のところに来たのです。」
金をせびりにかいっ。
雪男は心の中でつっこんだ。つまり有り金を使い果たしたから、現金を貰いに来たのだろうな。というか昼間のうちに金を下ろしとけとも思った。
「深夜ではコンビニのえーてぃーえむも使えないこと、知らなかったんです。」
「それは、しょうがないな。」
それだけは教えてやらなかったメフィストが悪い。しかし悪魔の癖に、律儀に非合法活動に手を出さずに兄弟を頼るところには好感が持てた。
少し前の燐とアマイモンの確執がなければ、今雪男の背中で大人しくしているアマイモンは、行儀のいい世間知らずのお坊ちゃんに見えた。
雪男は案外こういうのに弱い。しえみとか。しえみとか。しえみなんかがそうだ。
「わかりました。それでは僕と一緒に学校の外に出ましょう。」
その時、土管の前方からとてつもない殺気とも狂気ともつかない気配が吹き込んできた。
「どーこーへーいくのかなー?」
さかさまになったシュラの顔が覗く。
「みーつけたあっ。」
「アマイモンさんっ。」
声を掛けると同時に土管は雪男のすぐ目の前で輪切りにされた。後ろを狙われていると判断した雪男はアマイモンの手を引き、思い切ってその前方の切り口から飛び出す。
「なにやってんですか。シュラさん!」
「あれ? 雪男じゃん。よく見たら。つか、何やんってんの?」
「だから、なにやってんの? は貴女でしょうが!」
「あ。その言い方。私に敵対する気満々ってこと? っていうか、見たら分かるし。あんたその子猫ちゃん連れて逃げるってことかい。」
雪男は舌打ちする。こんな時だけはやけに察しがいい女だった。
目の前は緩やかな傾斜。深い藪の向こうに町が見える。雪男が思っていたよりも町に近い地点だったようだ。
「アマイモンさん。突っ切ります。町に出ればシュラさんの能力は目立つので、彼女に不利に働きます。」
町まではあまり実用的ではない石段をひたすら駆け下り、主要道路まで走るしかない。しかし、それではアマイモンの体力が持つかどうか分からない。たぶん持つだろうけど、空腹による無気力がどう影響するか分からない。
分からないことと言えば、どうしてアマイモンはシュラに追われているんだろう。シュラは普段の言動から軽い性格だと思われがちだが、意外と聡明な部分はある。それなのに任務でもないのに地の王を討伐するなんて考えにくい。となれば、彼女は必ずしもアマイモンを害する気はない。
「そういえば――。」
走りながら考えてみる。町に出る前に遣われていない祈祷所のようなところがあったはずだ。そこのドアの鍵穴を使って外に出られないものだろうか。鍵は教会や神社、寺関係とさまざまなところに通じている。土地勘のある南十字教会付近で出られれば、シュラの脅威を避けられる。
ただし雪男の持っている鍵は大量にある。しかしそれらを全部試してみる必要はない。常日頃から自分なりに分類してそれを記憶しておいたことが功を奏した。さすが雪男は伊達に頭がいいわけじゃない。その祈祷所の鍵穴に合う鍵がどれか、だいたいの見当はついている。よほど祈祷所の鍵穴が特殊でなければ、見当がついている三つの鍵の一つぐらい当たってくれるだろう。
曖昧な記憶ではあったが、予測していた通りの場所にそれはあった。
シュラはあまり急いできていないようだ。身内である雪男が絡んできたことで、躊躇でもあるのだろうか。そんなことは、とりあえずあり得ない。大方遊び半分に、巻き込まれた雪男まで鬼ごっこの対象にしようとしているのだろう。だからゆっくり来るつもりなんだろう。ハンデでもくれてやったつもりだろうか。よりゲームを面白くするために。
紅い髪が遠くで揺らめくのが見える。彼女は徒歩だった。それでも足取りは速い。彼女のハンデをつけたスピードが勝つか、雪男の鍵の予想が勝つか。
三つの見当を付けた鍵がある。アマイモンがまずこれと横から鍵を奪ってきた。雪男はあっと声を出すが、揉めている暇があったらアマイモンに鍵を回させたほうが早いと判断して、アマイモンに対して頷いた。
カチっ。
なんと一発で当たりを引いた。扉の中に二人は飛び込んだ。
最初から大ピンチなのでした。ここから雪男とアマイモンの秘密の逃避行開始です。
「……くだら、いや。」
口が滑った。雪男はいやいやと首を振ってまた文面を追う。
何処の誰かは知らないけれど、たぶん自分とそう歳の変わらない学生からの投稿だった。どうやら相談者は親と友達関係と進路のことで揉めているらしい。自分の夢と友達づきあいを優先したい相談者に対し、親は勉強と将来の安定に身を入れて欲しいから、安易な約束事と進路決定をするなとうるさいそうな。
「悩み相談で投稿するなんて――。まあ、ある意味前向きなのかな?」
回答者はその相談者に対し、今の状態は明らかに互いの考えの押し付け合いの一方通行になっているから、本当の意味で腰を据えて話し合えと言っている。結論はそれなのだが、その前置きに相談者の気持ちは本当に良く分かると重ね重ね書いてあった。人を説得する常套句だなと雪男は思った。そしてわが身を振り返る。
「僕って普通の悩みって、ないよな。」
進路はほぼ確定しているし、不本意な形であっても干渉してくる親もいない。しかし逆に社会的にも生命的にも綱渡り状態の双子の兄がいて、胡散臭い上司はいる。明らかに普通の十五歳が置かれている状態じゃなかった。
それを特別に苦に思ったことはない。ただいつから自分はこんなになってしまったんだろうとは思う。それにも答えは出ている。義父に兄の将来がやばいと聞かされた時から始まっていると。
『雪男。兄さんを守りたくないか?』
その言葉は雪男の運命を変えた。
まだ幼かった雪男は兄の受難を先回り出来ると考え、必死になって勉強して祓魔師になった。そしてその結果が今である。いつも自分に対して自分のことはよく分かっていると言い聞かせ、そして自分自身に折り合いを付けてここまできた。悩むより前に何もかも自分で解決した。
ところで現在この部屋に兄はいない。
「あのすっとこどっこいが……」
金曜日の夜から土曜日の昼まで寝続けたと思えば、日付が変わる頃にふらっと出て行ったまま帰ってこない。それには頭が痛くなるが部屋に帰ってきたところで説教をして、来週から拘束を強めればいいことだ。また自分で解決案を出してしまった。
兄は化け猫のクロを連れているらしい。部屋が妙に広々としている。そうだ。落ち着かないから新聞なんか読んでいたんだ。そしていつもは見ないような読者欄なんか見ていたんだ。それで自分と世間のズレを認識するなんて。なんて遣る瀬無いんだ。
新聞はやめて兄の読み捨てた雑誌を拾い読みする。雑誌の記事は日曜のデートやレジャースポットとか、食い物屋や遊び場の記事が続いていた。
「僕が最後に外食したのは、仕事の営業の時だったような……」
この雑誌に載っているような、恋人同士や家族同士で食事を楽しむような雰囲気じゃなかった。唯一の家族である燐とも、この一年間を振り返っても、一緒に休みの日に外出したり外食なんかしたことない。でもついこの間、燐は一緒に任務に出かけていた時の通称・ロケ弁と呼ばれるものを雪男の隣で美味しそうに食べていた。
「いやっ。それは外食と違うだろ!」
それを思い出すと、今すぐにでも外に出て兄を探したくなる。それからたまには二人で外で朝ごはんを食べようという、狸の皮算用みたいな計画も頭に浮かんでくる。しかし今は深夜だ。そして兄は帰ってくるかどうか分からない。
雪男は頭を掻き毟る。ろくでなしで甲斐性無しであんぽんたんな兄でも、この雪男にとっては誰よりも可愛いのだ。
「よく考えれば、僕と出かける約束でも取り付けておけば、兄さんは案外、ここにいてくれたかもしれないじゃないか。ついでにしえみさんも誘えば確実じゃないか。どうしてそれが思いつかなかったんだ。」
慣れない学校生活と塾の授業に兄を馴染ませることに神経をすり減らしていて、少しは余裕が出てきた今日のこの頃だったのに。気持ちは今も最初の緊張を孕んだ毎日に引きずられていた所為だ。兄のほうはそんな雪男の気持ちも知らず、悪魔友達のクロと夜遊びしてやがる。
「そうだよ。兄さんのほうから誘ってくれても……。」
この際だからあの兄にも責任転嫁してみよう。しかし雪男ははっとなる。
よくよく考えれば、自分は兄にとっては近寄りにくい存在になっていることに気付いた。塾の講師であることしかり。同室の監視者であることしかり。雪男にとっては必要があって、なんやかんや干渉して兄にとって数々の嫌なことを言ったけど、それが兄弟の溝になっているのか。
「僕が、僕が悪いのか? 自業自得なの?」
雪男は慌ててスマートフォンで兄の携帯に電話を掛ける。部屋の中の兄のベッドから着信音が聞こえてきた。
「あの野郎。携帯置いていきやがった! 馬鹿だろあいつ。馬鹿。馬鹿。意味ねえっ。」
何を今更という感じだが、何気に雪男は夜の零時過ぎからずっとこの部屋で兄を待ちぼうけしていた。知らず知らずの内にストレスが溜まっていたようだ。そして誰にも観測されない密室だから、雪男は行き場のないストレスを吐き出している。
しかし観測者がいないイコール、それを受け止めて聞いてくれる人もいないということである。雪男の中では部屋の中でぶち切れる以外の選択肢しかなかった。
壁に掛けていた時計が三時を指す。そろそろ待ちぼうけも限界だった。
「ふふふ。いいだろう。そろそろ僕自ら出るときがきたようだな。」
雪男は少年向けテレビアニメの悪役のような台詞を呟くと、寮の部屋から抜け出す。つい癖で上着は祓魔師のコートで、二丁拳銃も装備済みだった。兄を迎えに行く割には完全装備で物騒である。
兄のことだからどうせクロと特訓と称したちゃんばらをしているに違いない。それならばあの炎だって全開だろう。とういことは、人目につかない、しかも学園内にいるはずだ。見事な三段論法に雪男は笑む。しかしいかんせん該当する場所は正十字学園には数箇所ある。雪男は燐と双子である自分の勘が当たりますようにと願いながら、とある場所を目指した。
* * *
さながら要塞のような正十字学園の敷地は、メフィストフェレスの屋敷を頂点に、無秩序に無差別に建物を土台にそのまた建物が積み重なっているような威容を見せていた。基本が学校関係者と祓魔師の関係者、そして聖職者が集められている割には、巨大すぎて何がなにやら分からなくなっている。つまり無駄な建物や打ち捨てられた場所も多いことだろうと雪男は思っていた。
そんなエアースポットの一つで雪男はとんでもないものに遭遇した。
「待てやくぉらあああああ!」
背後に迫る影。途切れ途切れの自分の息。それが死を実感させる。
「ちっ。見失った。」
まるで紅い死神のようだと雪男は思った。自分は悪魔の手を引いている。しかしその悪魔は兄じゃない。あの死神が赤で、兄が青とするならば、その悪魔は緑だ。
学園の最下層に近い尖塔の側。
「お兄さん。助けてくれてありがとうございます。」
雪男の汗ばんだ手は、その抑揚の無い声にふさわしいひんやりした手を握っていた。自分のほうにそれを引き寄せて緑色の頭を抱え込む。その悪魔は驚いたように目を見開いた。
「とりあえず、あの人は撒けたようだ。失礼。息が切れてしまって。少し休みましょう。」
「分かりました。改めましてありがとうございます。」
抑揚の無い声で感謝の言葉を吐く悪魔。虚無界八候王の一人で地の王・アマイモンだった。振り向いて影から様子を見ると、シュラは一旦他の場所を探しに行ったらしい。
なんでこんなことになっているかというと――。最初に駆けつけた場所が大外れだったから。兄はいなくて、助けを求めるアマイモンと、その背中を追う紅い死神こと霧隠シュラがいた。シュラは名前からして、もうそのまま死神と読ませてもいいんじゃないと思わせるような字面の名前の女だった。しかも名前どおりの死神のスペックを持った女である。つまり存在そのものが死神と言っていい。
「ですがアマイモンさん。」
「いやっ。アマイモンって呼んで!」
反応したら負けだと思った。昼メロじゃねえんだよと雪男は表情には出さないように毒づくが、今の自分とアマイモンの状況を考えてみると、まるで追っ手から逃げる駆け落ちカップルみたい思えてきて、ちょっとげんなりしてきた。しかし、自分の片手はアマイモンの手首を握っているし、もう片方の手はアマイモンの腰に回ってその身体を支えている。そしてアマイモンは体重を完全に雪男に委ねていた。
状況からして、先のアマイモンの台詞はその場にぴったりだった。嫌な感じに。
「ところでアマイモンさんは、シュラさんなんか敵でもないでしょうに。どうして逃げ惑っていたのですか?」
今は正十字学園にある公園跡地のような場所の、ちょうどいい土管の中。よくもまあこんな場所にちょうどよくそんなものが転がっているものだ。しかも四方は伸びっぱなしの木の枝に覆われている。アマイモンは息を切らすこともなく、それでもなんだか大義そうに雪男の肩先に凭れかかった。
「僕いま、おなかすいてるんです。」
「あらら。力が出ないんですね。」
寝不足になった時の兄を見ていればよくわかる。悪魔はどれだけ上級で強くても、空腹や眠気で簡単に弱体化しやすいのかもしれない。
アマイモンは頭からすっぽり雪男のコートを被せられている。悪魔特有の瘴気とも言える何かを少しでも隠すためだった。
「お兄さん、優しいですね。僕を追っかけまわしているお姉さんは怖いのに。」
「あれは僕の上司ですよ。それに昔からの馴染みでもあるんです。」
「じゃあ、なんで?」
助けてくれたんですか? 目がそう訴えている。雪男は深い溜息をつきながら言った。
「成り行きですよ。あなたを倒せという任務もありませんし。あなた自身は、理事長から呼びつけられてるらしいとの噂もありますし。」
「僕は確かに兄上に呼ばれて物質界にいます。」
アマイモンはそのとき、少しだけ俯いたように見えた。雪男は「あれっ?」と思う。しかし自分にしても成り行き上の付き合いはこれまでだと考えて、コートをアマイモンから取り上げて言った。
「ここでじっとしていなさい。シュラさんは僕がなんとか足止めしておきます。またあなたはあの人に追われるかもしれませんが、今回だけは僕が丸く収めます。」
ここまで言ったところで雪男のスマートフォンが鳴る。
「誰だよ。」
電話にでんわとは言ってられないので仕方なく出る。
「はい。奥村です。」
『グーテンアーベント。メフィストフェレスです。今私が見ているモニターにあなたたちが映っているのですが――。』
雪男は辺りを見回した。もしかしたら監視カメラでも設置されているのか。こんなところに意味が無いと雪男は呆れる。それなのに人の心を読んだようにメフィストは言葉を続ける。
『そういう人気のないところは、時々カップルがいちゃつくんですよ。私のちょうどいい悪魔らしい娯楽のためですかね。』
「ああそうですか。」
投げやりに返事をする。さて本題なのですがとメフィストは言った。雪男の胸中に不吉な予感が過ぎる。
電話を切る。
このまま会話を続ける。
前者の選択肢を採りたいところだが、相手は上司だ。しかも後見人だ。アマイモンが側にいるから、どうせ言われることは予想がついている。
『全てを諦めたような顔をしないで下さい。私はただ弟をそのまま無事に、学園の外まで護衛して欲しいだけなのですよ。』
「弟君はお腹が空いているそうです。そっちのほうの対処はどうすればよろしいのですか?」
『何かご馳走して頂ければ助かります。』
なんでと雪男は叫びそうになったが、なんとか堪えた。当然予想できる答えだった。こんなところで心拍数や血圧を上げるのは不毛だ。そう言い聞かせて善処してみますと言った。
『それではグーテンナハト。』
電話が切られる。それと同時にアマイモンが後ろから抱き着いてきた。
「兄上は僕を追い返すつもりなのですか?」
「追い返すというより、ここでは一旦外に逃げて欲しいみたいですね。」
「そうですか。」
悲しそうな様子はない。ひたすら無表情で感情の起伏の窺えない声を聞かされる。
「アマイモンさんはお腹が空いているそうですが、金品は持っていないのですか?」
「僕のためのキャッシュカードは持たされてます。でもお金がないから僕は兄上のところに来たのです。」
金をせびりにかいっ。
雪男は心の中でつっこんだ。つまり有り金を使い果たしたから、現金を貰いに来たのだろうな。というか昼間のうちに金を下ろしとけとも思った。
「深夜ではコンビニのえーてぃーえむも使えないこと、知らなかったんです。」
「それは、しょうがないな。」
それだけは教えてやらなかったメフィストが悪い。しかし悪魔の癖に、律儀に非合法活動に手を出さずに兄弟を頼るところには好感が持てた。
少し前の燐とアマイモンの確執がなければ、今雪男の背中で大人しくしているアマイモンは、行儀のいい世間知らずのお坊ちゃんに見えた。
雪男は案外こういうのに弱い。しえみとか。しえみとか。しえみなんかがそうだ。
「わかりました。それでは僕と一緒に学校の外に出ましょう。」
その時、土管の前方からとてつもない殺気とも狂気ともつかない気配が吹き込んできた。
「どーこーへーいくのかなー?」
さかさまになったシュラの顔が覗く。
「みーつけたあっ。」
「アマイモンさんっ。」
声を掛けると同時に土管は雪男のすぐ目の前で輪切りにされた。後ろを狙われていると判断した雪男はアマイモンの手を引き、思い切ってその前方の切り口から飛び出す。
「なにやってんですか。シュラさん!」
「あれ? 雪男じゃん。よく見たら。つか、何やんってんの?」
「だから、なにやってんの? は貴女でしょうが!」
「あ。その言い方。私に敵対する気満々ってこと? っていうか、見たら分かるし。あんたその子猫ちゃん連れて逃げるってことかい。」
雪男は舌打ちする。こんな時だけはやけに察しがいい女だった。
目の前は緩やかな傾斜。深い藪の向こうに町が見える。雪男が思っていたよりも町に近い地点だったようだ。
「アマイモンさん。突っ切ります。町に出ればシュラさんの能力は目立つので、彼女に不利に働きます。」
町まではあまり実用的ではない石段をひたすら駆け下り、主要道路まで走るしかない。しかし、それではアマイモンの体力が持つかどうか分からない。たぶん持つだろうけど、空腹による無気力がどう影響するか分からない。
分からないことと言えば、どうしてアマイモンはシュラに追われているんだろう。シュラは普段の言動から軽い性格だと思われがちだが、意外と聡明な部分はある。それなのに任務でもないのに地の王を討伐するなんて考えにくい。となれば、彼女は必ずしもアマイモンを害する気はない。
「そういえば――。」
走りながら考えてみる。町に出る前に遣われていない祈祷所のようなところがあったはずだ。そこのドアの鍵穴を使って外に出られないものだろうか。鍵は教会や神社、寺関係とさまざまなところに通じている。土地勘のある南十字教会付近で出られれば、シュラの脅威を避けられる。
ただし雪男の持っている鍵は大量にある。しかしそれらを全部試してみる必要はない。常日頃から自分なりに分類してそれを記憶しておいたことが功を奏した。さすが雪男は伊達に頭がいいわけじゃない。その祈祷所の鍵穴に合う鍵がどれか、だいたいの見当はついている。よほど祈祷所の鍵穴が特殊でなければ、見当がついている三つの鍵の一つぐらい当たってくれるだろう。
曖昧な記憶ではあったが、予測していた通りの場所にそれはあった。
シュラはあまり急いできていないようだ。身内である雪男が絡んできたことで、躊躇でもあるのだろうか。そんなことは、とりあえずあり得ない。大方遊び半分に、巻き込まれた雪男まで鬼ごっこの対象にしようとしているのだろう。だからゆっくり来るつもりなんだろう。ハンデでもくれてやったつもりだろうか。よりゲームを面白くするために。
紅い髪が遠くで揺らめくのが見える。彼女は徒歩だった。それでも足取りは速い。彼女のハンデをつけたスピードが勝つか、雪男の鍵の予想が勝つか。
三つの見当を付けた鍵がある。アマイモンがまずこれと横から鍵を奪ってきた。雪男はあっと声を出すが、揉めている暇があったらアマイモンに鍵を回させたほうが早いと判断して、アマイモンに対して頷いた。
カチっ。
なんと一発で当たりを引いた。扉の中に二人は飛び込んだ。
最初から大ピンチなのでした。ここから雪男とアマイモンの秘密の逃避行開始です。
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プロフィール
HN:
柴仲達
性別:
女性
職業:
会社員
趣味:
読書、二次創作
自己紹介:
忍たまで「幸福雑音」というサークルで、大阪のイベントに出没しています。
絵描きの竹さんと字書きの柴の二人サークルです。
柴はツイッターもしています。http://twitter.com/#!/hitsugi12
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