幸福雑音
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☆ss「そして誰がいなくなるか?」勝燐前提の雪燐「UNオーエン」の数十分後
けいりんさんのリクエスト勝燐の「UNオーエン」の続きです。勝燐前提の雪燐です。あまりせつなくないですけど、よろしければどうぞ。
兄が帰ってきた。
医務室に行く前の廊下で別れてから経過した時間は三十八分五十三秒。
これは長いのか短いのか、どちらか判断がつきかねる時間だった。
医務室のドアを開けて中を覗く兄。
ベッドに伏している勝呂のところまで行って名前を呼ぶ。そして燐の声で起こされる勝呂。ベッドの上に起き上がって二言か三言とか言葉を交わして抱擁しあう。そのあとキスとか、それから――。
雪男はキーボードのエンターキーに指を力いっぱい叩きつける。
それくらいを見積もったら、ちょうど今くらいになると雪男は思った。
「勝呂君。どうだった?」
「薬が効いてなんとか頭痛は治まったらしいぞ。」
「そうかい。」
雪男は机に向かったまま背中を向けて兄と言葉を交わしている。兄は自分の背後に近づいてきて、黙って立ち止まった。
「どうしたの?」
しばらく続いた沈黙のあと、雪男のほうが先に声を発した。背後の兄がなんだか少し自分に対して怒っているような気がしたから。その怒りを胸に留めたまま兄が黙って座っている自分を見下ろしたままなんて、気になって居心地が悪い。これは昔よくやったお互いの気持ちが噛み合わないときの黙ったままの根競べみたいだ。大抵は立ち位置は逆で、我慢出来なくなるのは大抵兄だったけど。
「黙ってちゃ、わからないよ。」
「別に言うことはねえよ。」
雪男は燐のほうに向き直る。これで二連敗だ。
「じゃあ。僕のほうから訊いてもいいかな?」
「いいぜ。」
部屋着に着替えている自分に比べて、兄はまだ制服のままだ。いつも着崩している制服だけど、それに何かの痕跡が残ってないか無意識に目が探してしまう。そんな視線に兄はいつも怯んだように視線を逸らすのに、今日は雪男の目を見つめている。雪男はそんな兄に少し苛立ちながら口を開いた。
「勝呂君とキスくらいしてきたの?」
兄は溜息をつきながら「した」と言った。
「そう。」
それくらいだったらまだ雪男は、いつものことかと当てつけのように溜息を吐き返す。
「で。そのあとは?」
「本当に俺がそのあとのことを話していいのか?」
なんだか――。
兄が自分を試しているような気がする。頭の悪い兄にそんなことが出来るのかと、知らず知らずのうちに兄に対して傲慢になった雪男は「いいよ」と言ってしまった。
「勝呂とキスしたあと。勝呂に俺のこと抱きたいって言われたけど、尻尾とか隠さなくちゃいけないから断った。それで、勝呂のアレを舐めた。」
雪男は思わず椅子を倒して立ち上がった。乱暴に燐の肩を掴んで壁のところまで押しやって押さえつけた。
「勝呂君がさせたのかい?」
「いいや。俺が自分からやった。」
「へえ……。」
燐はわざとべっと舌を出した。見るからに柔らかそうな薄いピンク色で、温かくて湿っぽくて気持ちよさそうな舌だった。そして燐はすぐさま舌を自分の口の中にしまった。
「俺は馬鹿だから説明したり誤魔化したりするのは駄目だけど、ちゃんと口使ってなんとかしたさ。」
「馬鹿ならではの口の使い方だね。」
雪男は端正な顔を歪ませる。眉間に皴が寄り噛み締めた口元から犬歯が覗いた。
「アバズレ。」
燐が傷つくにはまだ足りない言葉だが、雪男にとっては精一杯の虚勢だった。
「アバズレ。アバズレ。アバズレ。」
「いい加減しつこいぞ。」
「そんなのわざわざ言わなければ、僕にこんなこと言われずに済んだのに。」
燐は自分の肩から雪男の手を外すと雪男の身体を押して自分から離れさせた。
「お前。勝呂になんか言ったろ? そうじゃなきゃ、あいつがあんな焦ったようなことするわけねえ。」
燐に迫ってきた勝呂は、何かに焦れて追い詰められているような表情を浮かべていた。それは勝呂の口から何も語られてはいなかったけれど、いつもの勝呂じゃないことはすぐに分かった。それと同時に、勝呂が雪男と二人で昨夜話していたこともなんとなく腑に落ちることだった。
雪男は悪びれることなく言う。
「勝呂君のそういうとこは察してあげられるようになったんだ。」
「そりゃ褒めてんのかよ。貶してんのかよ。」
どっちだろと雪男は勿体ぶってみる。
「勝呂君のことはともかく、僕に関して言うなら――。兄さんと勝呂君があまりに人目を気にせずにいちゃついてるから、拗ねてるのかもね。」
「それはお前らしくねえよ。」
「じゃあお互いに、兄さんも僕のことを見誤ってるってことだね。」
お互いの認識に齟齬があったということか。雪男は苦笑いを浮かべる。
以前にだって燐と勝呂の仲を嫉妬して兄に掴みかかったことがあった。そのときに自分は兄に愛していると伝えたはずだった。しかし兄の勝呂への恋心はやんでくれない。
雪男は勝呂に深入りすることは兄の正体を晒すことになると兄に訴えてそれを抑制するために色んな干渉をしてきた。
それでも兄は雪男の思惑に沿ってくれなかった。
いじらしくいつも勝呂を庇い、雪男の叱責を受けながらも、勝呂と逢い続け、雪男は燐のそんな頑なな感情を、自分に対して強情になっていると判断した。燐も雪男の吐露した言葉を、切羽詰った脅し文句と捉えていたのだった。
お互いがお互いの気持ちを伝え合っていると思い込んでいた。だけど肝心なところは何一つ伝わってなかった。やはりお互いが自分のことだけで手一杯だったせいだろう。ならばこの膠着状態はどうすれば抜け出せるのか?
「兄さんは僕のことが嫌いなの?」
縋り付けばいいのか?
「そう思うのか?」
突き放せばいいのか?
「だって今日のことといい、前々からといい、僕の言うこと全然聞いてくれないから。兄さんのことを思ってのことなのに。」
「お前がそんなに俺のことを背負う必要なんかないのに。」
自分本位のワガママを言えばいいのか? 真摯な善意を主張すればいいのか? 当たり前な正論を吐けばいいのか?
「兄さん。」
前々から胸に燻っていた呪詛の言葉をこの場で兄にぶつけたくなった。
兄がこれを聞いてなおも今までのように、ほけほけと「勝呂が好き」と言えるわけがないと思ったから。
「兄さんは勝呂君のことを好きだと思い込んでいるようだけど、神父さんが死んでから代わりに自分に構ってくれる人間が欲しいだけじゃないの? 兄さんの傍で兄さんを心配する僕は相変わらずそのままいるけど、神父さんはもういないから、それを埋める誰かが欲しいだけだよね? それって恋とは違うよね?」
『――兄さんが本当に好きだったのは。』
燐は雪男の言葉にあまり反応を見せない。夢の中にでもいるようなぼんやりとした目で弟を見ている。雪男はそんな兄になおも言葉を突きつける。
「なんか嫌な感じに勝呂君に同情的な言葉になっちゃうけど、神父さんの身代わりに選ばれたのをずっと気の毒には思っていたんだよ。」
燐は勝呂に対して唐突に同情的になった弟にも突っ込まない。雪男は知らばっくれられていると思って、なおも言葉を続ける。
「彼は神父さんと違って、兄さんのとんでもない事情を知らないからさ。彼自身にも学園に来なくちゃならない事情があったのに、会って間もない兄さんのワガママに振り回されて。何も知らないのに。だから言ってあげたんだよ。もし兄さんが勝呂君の手に負えなくなったら、いつでも離れていいって。どうだい? 僕は間違っているかい?」
「お前、そういうことを言ったのか。あいつに。」
雪男はそうだよと告げる。
「うん、わかった。」
何がわかったのだろう――。
前半の義父に対する燐の気持ちのくだりの反論が無いところも、自分の言葉をちゃんと聞いているのかどうか判断しかねるところだった。仕方が無いので雪男はもう一度燐に問い返す。
「何でそこで神父さんのことが出てくるのかとか、言い返したいこととかないわけ?」
「雪男が見たら俺って、そう見えるのかって思っただけ。そうか。勝呂をジジイの身代わりにしたっぽいのが、気に食わなかったのか。」
雪男の顔がカッと赤くなる。墓穴を掘ったっぽいことを言った羞恥と、それを平然と返された怒りによるものだった。しかし数秒後にはその激情も過ぎ去った。
「もういいよ。兄さんのような人を好きになった僕のほうが余程、大馬鹿だって分かったから。ここまで言っても兄さんは、勝呂君が誰の代替品なのか、はっきりとした自覚はないみたいだし。そうだね。もう兄さんは勝呂君に、サタンの息子だってことを隠しとおせるだけ隠しとおすしかないと思うよ。」
駄目出しのように付け加える。
「僕としてはね。バレたらその時は知らないけどね。」
どうせ燐の正体だってずっと隠しとおせるものではないだろう。兄が兄である限り。勝呂に捨てられたあとに必要になる人間はどうせ自分一人しかいない。いつまでも勝呂に義父の影を押し付けて甘えられるものか。
雪男は痩せ我慢のように笑ってみせた。それを見てどういうわけか燐も笑う。どちらも本心からの笑顔ではないが、この場を収めるのに相応しかった。
「やっぱ厳しいこと言ってくるけど、お前は俺のこと好きなんだな。」
「兄さんは僕のことが鬱陶しいんだろ?」
「いや。俺もお前のこと好きだし。」
雪男の心臓が一つドクンと高鳴った。
「だから俺は、お前も勝呂も手放すつもりないし。」
馬鹿な兄の口からとんでもない言葉が出てきた。込めている意味は違うのだろうが、あの勝呂と同じ思いを、兄が自分に向けているなんて思ってもいなかったので、雪男は面食らったまま立ち尽くしていた。
「じゃあ兄さん。」
ここでそのまま素直になれないのも雪男の困った性分だった。
「僕が勝呂君みたいに兄さんに迫ったらどうするの?」
「やってみりゃいいじゃねえか。」
兄の捩れた笑みがまるで誘っているようだった。不良の特性の売り言葉に買い言葉かと雪男は思った。
「くっ。馬鹿。」
兄も自分も男なのだから仕方ない。前置きみたいに「どうするの?」と言った時点で、何かが決まりきっている。そしてこのようなやり取りの常套は、男同士なのだから怯んだほうが負けなのだ。
「今はやらないよ。ほいほいそんな言葉に乗る僕だと思う?」
「そうだな。お前は身持ちが固いからな。」
それは違うと雪男は言いたかった。
兄が帰ってきてから十八分十四秒。これくらいでお開きにしておかないとお互いに明日に差し支える。
「雪男ぉ。」
いきなり兄がくらっと雪男のほうに倒れこんできて腕にすがり付いてくる。
「急になんだよ?」
燐は雪男の胸元に顔を埋めて掠れた声で言った。
「すまねえがお前、俺の代わりに晩飯作ってくれねえか?」
「へぇっ? 僕が料理駄目なの知ってるでしょ?」
燐は雪男の胸に突っ伏したまま言う。
「サバ缶開けてくれるだけでもいいんだよ。あとなんかあるもんでいいから。」
「どうしたんだよ兄さん。」
燐は顔を上げると弱々しげな笑顔を見せる。
「わかんねえのかよ。手とか足とか震えてんだよ。勝呂誤魔化すのにすっげえ神経使って今頃それが身体にきたんだよ。」
「はあ?」
見れば兄の膝ががくぶると笑っている。勝呂との修羅場を乗り切った反動が遅れてきたということか。脳の伝達速度が遅い割には、確実にそのダメージが来るのがこの兄らしい。そんなダメージを食らっている兄を支えるのは、どうやら弟だけの特権らしい。
「仕方ないな。」
雪男は兄をベッドまで連れて行って、ぽんっとその上に放り投げた。
「ちょっと! もっと丁寧に扱ってよね!」
燐がベッドの上でじたばたしている。雪男はそれを鼻で笑って返した。
「はいはい。今お食事を用意して差し上げますから、大人しくしていてくださいね。」
雪男は部屋を出て廊下をずんずんと歩く。
「何がサバ缶を開けてくれるだけで良い、なんだ。待ってろよ。すごいの作ってくるから。」
不敵に笑う雪男。兄が観測できない場所で高笑いを上げている。
なんだ。結局僕のところに帰ってくるしかないじゃないかと。
勝呂にとってのオーエンは雪男だった。燐にとってのオーエンは義父だった。
UNオーエンが誰かわかったところで、誰もいなくなることはなかった。
裏設定垂れ流しっぽくなって、内心ひやひやしております。「マスカレード」から始まった雪燐・勝燐の総まとめ的なはなしになりました。
兄が帰ってきた。
医務室に行く前の廊下で別れてから経過した時間は三十八分五十三秒。
これは長いのか短いのか、どちらか判断がつきかねる時間だった。
医務室のドアを開けて中を覗く兄。
ベッドに伏している勝呂のところまで行って名前を呼ぶ。そして燐の声で起こされる勝呂。ベッドの上に起き上がって二言か三言とか言葉を交わして抱擁しあう。そのあとキスとか、それから――。
雪男はキーボードのエンターキーに指を力いっぱい叩きつける。
それくらいを見積もったら、ちょうど今くらいになると雪男は思った。
「勝呂君。どうだった?」
「薬が効いてなんとか頭痛は治まったらしいぞ。」
「そうかい。」
雪男は机に向かったまま背中を向けて兄と言葉を交わしている。兄は自分の背後に近づいてきて、黙って立ち止まった。
「どうしたの?」
しばらく続いた沈黙のあと、雪男のほうが先に声を発した。背後の兄がなんだか少し自分に対して怒っているような気がしたから。その怒りを胸に留めたまま兄が黙って座っている自分を見下ろしたままなんて、気になって居心地が悪い。これは昔よくやったお互いの気持ちが噛み合わないときの黙ったままの根競べみたいだ。大抵は立ち位置は逆で、我慢出来なくなるのは大抵兄だったけど。
「黙ってちゃ、わからないよ。」
「別に言うことはねえよ。」
雪男は燐のほうに向き直る。これで二連敗だ。
「じゃあ。僕のほうから訊いてもいいかな?」
「いいぜ。」
部屋着に着替えている自分に比べて、兄はまだ制服のままだ。いつも着崩している制服だけど、それに何かの痕跡が残ってないか無意識に目が探してしまう。そんな視線に兄はいつも怯んだように視線を逸らすのに、今日は雪男の目を見つめている。雪男はそんな兄に少し苛立ちながら口を開いた。
「勝呂君とキスくらいしてきたの?」
兄は溜息をつきながら「した」と言った。
「そう。」
それくらいだったらまだ雪男は、いつものことかと当てつけのように溜息を吐き返す。
「で。そのあとは?」
「本当に俺がそのあとのことを話していいのか?」
なんだか――。
兄が自分を試しているような気がする。頭の悪い兄にそんなことが出来るのかと、知らず知らずのうちに兄に対して傲慢になった雪男は「いいよ」と言ってしまった。
「勝呂とキスしたあと。勝呂に俺のこと抱きたいって言われたけど、尻尾とか隠さなくちゃいけないから断った。それで、勝呂のアレを舐めた。」
雪男は思わず椅子を倒して立ち上がった。乱暴に燐の肩を掴んで壁のところまで押しやって押さえつけた。
「勝呂君がさせたのかい?」
「いいや。俺が自分からやった。」
「へえ……。」
燐はわざとべっと舌を出した。見るからに柔らかそうな薄いピンク色で、温かくて湿っぽくて気持ちよさそうな舌だった。そして燐はすぐさま舌を自分の口の中にしまった。
「俺は馬鹿だから説明したり誤魔化したりするのは駄目だけど、ちゃんと口使ってなんとかしたさ。」
「馬鹿ならではの口の使い方だね。」
雪男は端正な顔を歪ませる。眉間に皴が寄り噛み締めた口元から犬歯が覗いた。
「アバズレ。」
燐が傷つくにはまだ足りない言葉だが、雪男にとっては精一杯の虚勢だった。
「アバズレ。アバズレ。アバズレ。」
「いい加減しつこいぞ。」
「そんなのわざわざ言わなければ、僕にこんなこと言われずに済んだのに。」
燐は自分の肩から雪男の手を外すと雪男の身体を押して自分から離れさせた。
「お前。勝呂になんか言ったろ? そうじゃなきゃ、あいつがあんな焦ったようなことするわけねえ。」
燐に迫ってきた勝呂は、何かに焦れて追い詰められているような表情を浮かべていた。それは勝呂の口から何も語られてはいなかったけれど、いつもの勝呂じゃないことはすぐに分かった。それと同時に、勝呂が雪男と二人で昨夜話していたこともなんとなく腑に落ちることだった。
雪男は悪びれることなく言う。
「勝呂君のそういうとこは察してあげられるようになったんだ。」
「そりゃ褒めてんのかよ。貶してんのかよ。」
どっちだろと雪男は勿体ぶってみる。
「勝呂君のことはともかく、僕に関して言うなら――。兄さんと勝呂君があまりに人目を気にせずにいちゃついてるから、拗ねてるのかもね。」
「それはお前らしくねえよ。」
「じゃあお互いに、兄さんも僕のことを見誤ってるってことだね。」
お互いの認識に齟齬があったということか。雪男は苦笑いを浮かべる。
以前にだって燐と勝呂の仲を嫉妬して兄に掴みかかったことがあった。そのときに自分は兄に愛していると伝えたはずだった。しかし兄の勝呂への恋心はやんでくれない。
雪男は勝呂に深入りすることは兄の正体を晒すことになると兄に訴えてそれを抑制するために色んな干渉をしてきた。
それでも兄は雪男の思惑に沿ってくれなかった。
いじらしくいつも勝呂を庇い、雪男の叱責を受けながらも、勝呂と逢い続け、雪男は燐のそんな頑なな感情を、自分に対して強情になっていると判断した。燐も雪男の吐露した言葉を、切羽詰った脅し文句と捉えていたのだった。
お互いがお互いの気持ちを伝え合っていると思い込んでいた。だけど肝心なところは何一つ伝わってなかった。やはりお互いが自分のことだけで手一杯だったせいだろう。ならばこの膠着状態はどうすれば抜け出せるのか?
「兄さんは僕のことが嫌いなの?」
縋り付けばいいのか?
「そう思うのか?」
突き放せばいいのか?
「だって今日のことといい、前々からといい、僕の言うこと全然聞いてくれないから。兄さんのことを思ってのことなのに。」
「お前がそんなに俺のことを背負う必要なんかないのに。」
自分本位のワガママを言えばいいのか? 真摯な善意を主張すればいいのか? 当たり前な正論を吐けばいいのか?
「兄さん。」
前々から胸に燻っていた呪詛の言葉をこの場で兄にぶつけたくなった。
兄がこれを聞いてなおも今までのように、ほけほけと「勝呂が好き」と言えるわけがないと思ったから。
「兄さんは勝呂君のことを好きだと思い込んでいるようだけど、神父さんが死んでから代わりに自分に構ってくれる人間が欲しいだけじゃないの? 兄さんの傍で兄さんを心配する僕は相変わらずそのままいるけど、神父さんはもういないから、それを埋める誰かが欲しいだけだよね? それって恋とは違うよね?」
『――兄さんが本当に好きだったのは。』
燐は雪男の言葉にあまり反応を見せない。夢の中にでもいるようなぼんやりとした目で弟を見ている。雪男はそんな兄になおも言葉を突きつける。
「なんか嫌な感じに勝呂君に同情的な言葉になっちゃうけど、神父さんの身代わりに選ばれたのをずっと気の毒には思っていたんだよ。」
燐は勝呂に対して唐突に同情的になった弟にも突っ込まない。雪男は知らばっくれられていると思って、なおも言葉を続ける。
「彼は神父さんと違って、兄さんのとんでもない事情を知らないからさ。彼自身にも学園に来なくちゃならない事情があったのに、会って間もない兄さんのワガママに振り回されて。何も知らないのに。だから言ってあげたんだよ。もし兄さんが勝呂君の手に負えなくなったら、いつでも離れていいって。どうだい? 僕は間違っているかい?」
「お前、そういうことを言ったのか。あいつに。」
雪男はそうだよと告げる。
「うん、わかった。」
何がわかったのだろう――。
前半の義父に対する燐の気持ちのくだりの反論が無いところも、自分の言葉をちゃんと聞いているのかどうか判断しかねるところだった。仕方が無いので雪男はもう一度燐に問い返す。
「何でそこで神父さんのことが出てくるのかとか、言い返したいこととかないわけ?」
「雪男が見たら俺って、そう見えるのかって思っただけ。そうか。勝呂をジジイの身代わりにしたっぽいのが、気に食わなかったのか。」
雪男の顔がカッと赤くなる。墓穴を掘ったっぽいことを言った羞恥と、それを平然と返された怒りによるものだった。しかし数秒後にはその激情も過ぎ去った。
「もういいよ。兄さんのような人を好きになった僕のほうが余程、大馬鹿だって分かったから。ここまで言っても兄さんは、勝呂君が誰の代替品なのか、はっきりとした自覚はないみたいだし。そうだね。もう兄さんは勝呂君に、サタンの息子だってことを隠しとおせるだけ隠しとおすしかないと思うよ。」
駄目出しのように付け加える。
「僕としてはね。バレたらその時は知らないけどね。」
どうせ燐の正体だってずっと隠しとおせるものではないだろう。兄が兄である限り。勝呂に捨てられたあとに必要になる人間はどうせ自分一人しかいない。いつまでも勝呂に義父の影を押し付けて甘えられるものか。
雪男は痩せ我慢のように笑ってみせた。それを見てどういうわけか燐も笑う。どちらも本心からの笑顔ではないが、この場を収めるのに相応しかった。
「やっぱ厳しいこと言ってくるけど、お前は俺のこと好きなんだな。」
「兄さんは僕のことが鬱陶しいんだろ?」
「いや。俺もお前のこと好きだし。」
雪男の心臓が一つドクンと高鳴った。
「だから俺は、お前も勝呂も手放すつもりないし。」
馬鹿な兄の口からとんでもない言葉が出てきた。込めている意味は違うのだろうが、あの勝呂と同じ思いを、兄が自分に向けているなんて思ってもいなかったので、雪男は面食らったまま立ち尽くしていた。
「じゃあ兄さん。」
ここでそのまま素直になれないのも雪男の困った性分だった。
「僕が勝呂君みたいに兄さんに迫ったらどうするの?」
「やってみりゃいいじゃねえか。」
兄の捩れた笑みがまるで誘っているようだった。不良の特性の売り言葉に買い言葉かと雪男は思った。
「くっ。馬鹿。」
兄も自分も男なのだから仕方ない。前置きみたいに「どうするの?」と言った時点で、何かが決まりきっている。そしてこのようなやり取りの常套は、男同士なのだから怯んだほうが負けなのだ。
「今はやらないよ。ほいほいそんな言葉に乗る僕だと思う?」
「そうだな。お前は身持ちが固いからな。」
それは違うと雪男は言いたかった。
兄が帰ってきてから十八分十四秒。これくらいでお開きにしておかないとお互いに明日に差し支える。
「雪男ぉ。」
いきなり兄がくらっと雪男のほうに倒れこんできて腕にすがり付いてくる。
「急になんだよ?」
燐は雪男の胸元に顔を埋めて掠れた声で言った。
「すまねえがお前、俺の代わりに晩飯作ってくれねえか?」
「へぇっ? 僕が料理駄目なの知ってるでしょ?」
燐は雪男の胸に突っ伏したまま言う。
「サバ缶開けてくれるだけでもいいんだよ。あとなんかあるもんでいいから。」
「どうしたんだよ兄さん。」
燐は顔を上げると弱々しげな笑顔を見せる。
「わかんねえのかよ。手とか足とか震えてんだよ。勝呂誤魔化すのにすっげえ神経使って今頃それが身体にきたんだよ。」
「はあ?」
見れば兄の膝ががくぶると笑っている。勝呂との修羅場を乗り切った反動が遅れてきたということか。脳の伝達速度が遅い割には、確実にそのダメージが来るのがこの兄らしい。そんなダメージを食らっている兄を支えるのは、どうやら弟だけの特権らしい。
「仕方ないな。」
雪男は兄をベッドまで連れて行って、ぽんっとその上に放り投げた。
「ちょっと! もっと丁寧に扱ってよね!」
燐がベッドの上でじたばたしている。雪男はそれを鼻で笑って返した。
「はいはい。今お食事を用意して差し上げますから、大人しくしていてくださいね。」
雪男は部屋を出て廊下をずんずんと歩く。
「何がサバ缶を開けてくれるだけで良い、なんだ。待ってろよ。すごいの作ってくるから。」
不敵に笑う雪男。兄が観測できない場所で高笑いを上げている。
なんだ。結局僕のところに帰ってくるしかないじゃないかと。
勝呂にとってのオーエンは雪男だった。燐にとってのオーエンは義父だった。
UNオーエンが誰かわかったところで、誰もいなくなることはなかった。
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会社員
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