幸福雑音
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☆ss「エメロードアナザールート」② 雪男とアマイモン+シュラ
ちゅんちゅんと雀が鳴いている。二人は街中のオフィス街の片隅にあるお稲荷さんの前に横たわっていた。お稲荷さんの扉は開いている。対になった狐の石像に二人は見下ろされていた。
「午前五時?」
逃げていた時間を考えれば三十分ほど遅い時間のような気がする。とりあえず鍵穴が合ったというだけで、それは正規の鍵ではないのは承知していた。その所為で移動する時にタイムラグが生じたのだろう。
「いてて。」
大の男二人がお稲荷さんの社の狭い扉から飛び出してきたのだ。身体が痛むのは当然だ。
それにしてもと思う。
「逃げ切れた……」
まだその奇跡を実感出来ない。あのシュラの追跡からまさか逃げられるとは。しかも鍵が一発で開くなんて。ここで運を使い果たしてなければいいなと、合理的な雪男には珍しく成り行き任せなことを考えていた。
「う、うーん――。」
アマイモンがふらつきながら起き上がろうとする。しかし(精神的な)疲れと空腹のためか両手を前に突き出して、また倒れた。
「アマイモンさん。もう大丈夫です。」
抱き起こすと閉じられていた瞼が震えて、固く閉じた口は開いた途端に、か細い「ありがとうございます」を零れ落とす。
「あとはあなたに何か食べさせてあげれば、僕はお役御免ですね。」
雪男は財布を取り出して中身を確認する。アマイモンが大食いでも、ファミレスや二十四時間営業の牛丼屋なら大丈夫そうだ。この時間帯にはそこしか開いてないのだから仕方ない。
標識を見てみると、案外正十字学園町からは出てないらしい。しかしあまり土地勘がない場所だった。
「これからご飯を食べにいきますけど、このへんはよく知らないんで、ちょっと探して歩かなくてはいけません。」
アマイモンの目が見開かれる。そしてその目から透明なしずくがぽろっと零れる。
「なんで泣いてるんですかっ。僕が泣かしたんですかっ。」
「探さないとご飯が食べられないんですか?」
これだけ命の危機にさらされてやっと逃げて来たから気持ちはわかる。気持ちは分かるが、こればかりは雪男はどうしてやりようもない。アマイモンは抑揚の無い声でしくしくと泣いている。雪男はアマイモンの肩を支えてやった。アマイモンがいきなり雪男の肩に抱きついてきた。
「うわっ。」
よほど心細いらしい。がたいは自分と変わりないのに、なんだかすごく頼りなげに見える。中身は凶悪な悪魔なのにギャップにくらくらする。
言うまでもなく雪男はこういうのにも弱い。兄とか。兄とか。兄の燐がそうだ。
抱きつかれたまま町を歩く。アマイモンはしゃくりあげながらも健気に足は動かしてくれた。その様子にまたもきゅんとなる。しかし傍から見ての姿が姿なので、今が早朝なのは幸いだった。べそをかいている男にしがみつかれている男は誰も見たくないだろう。
しかしそれを目撃してしまう不幸な部外者がいた。勝呂竜士だった。
勝呂は日曜の今日にいつもより早く起きてしまったので、普段は通らないコースもジョギングしてみようと思った。それがとんでもない既知との遭遇になろうとは。
しかし勝呂はそれを見なかったことにした。すだれのような前髪を、髪を整える振りをして垂らす。しかし勝呂のそんな思いとは裏腹に、雪男は勝呂を見つけ声をかけてくる。
「勝呂君。ちょうど良かった。このへんに何か早朝もやっている飲食店はなかったかな?」
学園の寮からここまでジョギングしてきたのなら、そのような店を一つか二つか見ているはずだと雪男は判断したから、勝呂にそう尋ねた。勝呂は仕方なく足を止め、その角を曲がったところによし牛がありますと言うと、何事もなかったようにまた前方を向いて走り出した。
関わり合いになりたくない態度があからさまだったが、雪男は雪男でそれのほうが有り難かった。
「次の角か。意外と近くで済みそうですよ。頑張って下さい。」
アマイモンは小さく頷く。
勝呂が言ったとおり、その角を曲がれば吉野家はあった。二人を見た店員は一瞬ぎょっとした。何処のサバイバルから生還して来た奴らなのだと。あっちこっちに木の葉や木の枝をくっつけている、互いに肩を借りあっている二人の男に底知れない畏怖を感じたのだろうが、吉野家は世界に羽ばたかなければならないので、この二人組は試練の一つだと彼は思ったか思わないか。
いらっしゃいませ。マニュアルどおりに言ってみた。喫煙席と禁煙席どちらがよろしいでしょうかと訊けば、眼鏡のほうが禁煙でと言った。
二人は席に座って注文を言う。雪男は牛丼の並を頼んだ。
「僕は、お兄さんと一緒のを五つお願いします。」
またぎょっとする店員。しかし眼鏡のほうが顔色も変えずに続ける。
「それだけじゃ足りないでしょう? すみません。あと定食二つと、サイドメニューのコールスローとお新香と温泉卵もお願いします。」
はい。かしこまりました。マニュアルばかり敬語のはずが、本当の意味で敬意混じりになってきた。
店員はキッチンに注文を言いに行く。しばらくして注文していたメニューが大量にきた。アマイモンはそれにがっつく。雪男は持ち前のお行儀の良さで、綺麗な箸遣いを見せながら牛丼を食べている。ふと行方の分からない兄のことが、雪男の脳裏に掠めた。
「アマイモンさん。シュラさんに終われる前に、兄を見たりしませんでしたか?」
「いいえ。というか、あのお姉さんに追われる前の記憶はかなり吹っ飛んでますので。」
「そうですか。あまり期待していたわけじゃないんですけど、やっぱり知らないですよね。」
「奥村燐はどこかに行って帰ってこないんですか?」
雪男は箸を止め、カウンターに肘をついて項垂れる。
「兄は僕との共同生活に疲れたのかもしれない。」
嫌な結論を真っ先に出してくる雪男にアマイモンは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「どうしてそう思うのです?」
「なんとなく、ですよ。」
あの投稿欄の相談者の両親のように、兄にとって自分は煙たいのだろうか? 兄の進路も夢も認めているが、兄より先にそれに到達してしまった自分は、自分の足跡と兄の様子を見比べてばかりで、兄なりの頑張りを認めてやれず、兄を差し置いて口出しが多かったように思う。今更思うことだけど。
「なんとなくで思ってばっかりですね。お兄さんは。」
「でも僕は兄を愛しているんです。だから心配で不安で仕方ないんです。」
「そんな弟はお兄さんだけじゃないですよ。僕だって兄上が大好きなんです。」
そこでアマイモンは、手に持った味噌汁の椀をじっと見つめる。味噌が沈殿して透明な上澄みがアマイモンの顔を映している。
「だけど兄上は奥村燐のことばっかり。奥村燐に父上が期待していることは知ってます。そんな父上を口八丁で言いくるめながら、兄上は二百年前から物質界にいて、騎士団に協力しているのも知っています。兄上は二百年も実家に帰ってきてくれません。でも兄上は今になってボクを物質界に呼んでくれました。それは嬉しかったです。」
雪男はアマイモンの話に共感を覚える。父親に言われた言葉を思い出した。
「僕だって兄を守れるんだって思えた時は嬉しかったんですよ。兄さんに頼って貰えると思うと、不謹慎ながらわくわくもしました。でも現実は、兄は僕以外の誰かを心の拠り所にしてるし、以前より僕に対する態度が喧嘩腰だし。」
アマイモンは再び箸を動かしながら合間に言った。
「それは、奥村燐がお兄さんに嫉妬してるんですよ。コンプレックスですよ。」
「コンプレックスってもっと、どろどろしたものでしょう。」
伊達に世間しているわけじゃない。男の嫉妬の陰湿さは身をもって知っている。それにアマイモンは反論する。
「それは大人の男ならです。奥村燐はがきんちょですから。だからどろどろせずに、お兄さんに堂々と喧嘩腰なんです。」
意外と奥村兄弟の関係をアマイモンは観察してるようだ。妙に腑に落ちた言葉だった。
「奥村燐はお兄さんに無関心じゃありません。興味津々の意識バリバリです。」
「それを僕に悟られたくないから、僕と距離をとっているって言うのですか?」
雪男はなんだか笑えてくる。アマイモンはポツリと言う。
「あ。やっぱり違うかも。」
「どっちなんだい!」
「わかりません。」
雪男はカウンターに突っ伏した。
「君だって君のお兄様に、随分とおざなりにされてるじゃんか。」
「兄上はドSですから。こんなことを言うのは負け惜しみです。」
雪男のささやかな反撃は、あまりアマイモンに効いていないようだった。もしかしたら悪魔はドSで、兄弟に対して薄情なのが標準なのだろうか。そうだとしたら兄の態度も幾分かは理解出来るような気がした。大体血液型がA型の癖にどうしてあんなにやりたい放題なんだ。
アマイモンはこれも負け惜しみですがと前置きして言う。
「だって兄上はボク以外にも弟や妹を沢山抱えてますから。ボクが一人駄々こねても仕方ないですもん。」
「強がってまあ。」
逃げている最中のアマイモンを思い出してみれば分かった。
アマイモンは多分、メフィストに助けに来て欲しかったのだろう。自分達が今しているように、一緒にご飯を食べたかったに違いない。キャッシュコーナーでお金を下ろせなかったのも、ひょっとしたらわざとだったかもしれない。
せっかく物質界に呼ばれたから、物質界にいるときに存分に可愛がって貰いたかった。兄が自分を追い越さないうちに、沢山頼って貰いたかった雪男に通じるところがあった。
早朝なのにまた吉野家のドアが開く。二人はまるで気にしていない。しかしその影は嬉々として二人に近づいていた。
「にゃは。見つけた。」
カウンターに置かれた手に二人はびくりと震える。
「勝呂君に途中で会ってさあ、雪男ちゃんが見知らぬ男と肩を組んでいるところを目撃したって聞いたから。」
雪男はすぐに立ち上がろうとしたが、アマイモンはそんな雪男を見上げると諦めましょうと一言呟いた。そして回転椅子でシュラのほうへ向き直る。
「これ全部食べるまで、待ってもらえませんか? せっかくお兄さんが注文してくれたので。」
「いいけど。私も腹減ってるし。おじさーん、豚丼の並にトン汁付けてー。」
シュラは雪男の隣に座る。まるで格闘ゲーのキャラのような女がカウンターに増えたことで、余計に店員はびびっている。かしこまりましたとしか言えない。
シュラは店員の反応を気にせずに言う。
「あ。大丈夫だから。もうその子いじめる気ないから。」
「本当ですか?」
「ほんとほんと。」
軽く言ってくれる。じゃあ先刻までの死神っぷりは一体何だったと雪男はぎりぎりと奥歯を鳴らしている。引き際が綺麗といわず無責任な女だった。シュラは言い訳がましくもない言い訳を始める。
「ちょっと話があって引き止めたつもりなのに、この子が派手に抵抗するからさあ。こっちも引くに引けなくなっちゃたんだよ。相手は地の王だと思うと余計にねえ。」
「あんたねえ。そういうのは管理職が思うようなことじゃないんですよ。下っ端のペーペーの血の気の多い若者のお約束でしょうに。」
雪男は心底呆れている。シュラは運ばれてきた豚丼に手を付け始める。
「アマイモンがあなたの尋問に応じるかどうか、僕はもう関与しませんからね。ここの勘定を払えば、僕はもうあなた達を置いて学園に帰りますから。」
雪男は残りの牛丼を掻き込むと伝票を持って立ち上がろうとしたが、両方から手が伸びてきて阻止された。
「「駄目!」」
「なんでですか!」
当然の反論なのに、両方から雪男の腕を抱える二人の視線は責めるようだった。
「ガキの頃から散々世話してやったろ?」
「僕を抱き締めてくれた、あの優しさは嘘だったのですか!」
すごく身に覚えのないことばかり言われている。ガキの頃はいじめられたし、抱き締めたんじゃなくて支えてやったんだ。店員が目を丸くしている。この眼鏡を中心とする三角関係にすっかり慄いてしまっている。平和な日曜日早朝の暇なシフトだったはずなのに、緊張しっぱなしのようだった。
雪男は回転椅子に諦めたように腰掛ける。ひょっとしたら今頃、兄は自分たちの部屋に帰ってきてるかもしれないのに、今度は雪男こそが連絡がつかない行方不明状態になっている。
ああ。でも、ひょっとしたら心配して僕のスマフォに連絡があるかも――。しかしだらだら食事を取るアマイモンとシュラが箸を置くまで四十分、スマフォは沈黙したままだった。
* * *
とりあえずあの店員の三人に対するびびりようからして、吉野家は一旦出ようという話になった。
「ごちそうさまー」
「ありがとう、ございましたっ。」
店員が涙目になっている。雪男は五千円札を出してお釣りは取っておいて下さいと言おうと思ったが、それは逆効果とも思い普通にお釣りはもらった。
今は午前七時過ぎ。シュラはこれからアマイモンに尋問するつもりらしいが、どこで尋問するかは決めていなかったらしい。だらだらと朝の町を三人は歩く。
「ところで、シュラさん。このまま歩き続けていても埒が明かないと思うんです。どこかの扉から学園に戻ったほうがいいんじゃないですか?」
「鍵使ってもいいんだろうけど。今日日曜日じゃーん。このまま学校に直帰してもつまんないし。」
その物言いに雪男はかちんときた。
「アマイモンを尋問するのは、あなた自らしゃしゃり出た任務じゃないんですかっ。フェレス卿の動向調査に付随する手段の一つでしょうが。」
「いや。私の個人的な興味だけど。」
「興味?」
「いやあ。私も昔は人間兵器になりかけた部類の女だからさあ。」
なんだか嫌な感じの言葉だった。兵器という言葉は雪男の知己の一人の人間を連想させる。
雪男はなおも食い下がろうとしたが、シュラは気に留める様子はない。アマイモンにどっか行きたいとこはないかと尋ねている。アマイモンはシュラの申し出に遠慮がちになっている。まだ追いかけられた時のことが脳裏に引っ掛かっているらしい。黙ってぎゅっと雪男の腕にしがみつく。雪男はそれを見かねてシュラに言った。
「学園関係者の目につかないほうがアマイモンにとっては良いですよね。」
シュラは怪訝な顔で、やけにアマイモンの肩を持つ雪男に首を傾げていたが、とりあえずは肯定してやった。
「そうだな。こいつ面が割れてるしな。店が開くまでまだ間があるし。」
「あんたまた食い物屋に入ろうという魂胆ですか。」
雪男は財布の中身に思いを馳せながら反論するが、シュラはまるで動じることなく切り返す。
「時間を潰すのにホテルにでも入るか。いや。えっちぃほうのホテルじゃないぞ。普通のホテルだ。」
「あんた! 勘定払うの僕なんでしょっ。」
食い物屋だけならともかく、ホテル代まで出せるかと雪男は叫ぶ。当たり前だ。自分はまだなんだかんだ言っても十五歳の高校生だ。甲斐性にも限度がある。
「いや。雪男ちゃん。大人はこんなスマートなものを持ってるのよ。」
シュラはクレジットカードを見せびらかす。幾ら雪男が甲斐性があると言ってもまだ、そのアイテムは手に入らない。
「そうですか。そうきますか。」
アマイモンはそれを横から見ている。
「そうか。キャッシュカードじゃなくて、そういうカードを兄上から貰えば良かったのか。」
「でもこれは駄菓子屋とかたこ焼き屋とか、あなたの好きそうな店では使えませんから。」
「それなら駄目ですね。」
三人はオフィス街を進んでいく。シュラは携帯電話でホテルに電話を掛けていた。電話を切ったあと、よしと言って雪男とアマイモンに呼びかける。
「二部屋どうにか取れたぞ。今から行って私は朝寝するから、お前らも休みたいなら休んでおけよ。」
早朝でもチェックイン出来るんだなと、雪男は妙に感心するのだった。
シュラは十二時になったら起こしに来いよと言って、隣の部屋に消えていった。雪男とアマイモンは二人きりで取り残される。
「とりあえず、入りましょうか。」
「僕こういうの初めてですから、ご教授お願いします。」
ならばこの地の王は、普段は何処で寝ているんだろうと雪男は疑問に思った。
やらしい意味でのホテルではないので、ベッドは当然二つある。そのベッドの上にアマイモンはダイブした。
「わあ! なかなかのクッションです。」
ごろごろと寝転がっている。雪男はその隣のベッドに腰掛けた。自分のスマフォを見る。メフィストにこの状況を知らせたほうがいいと思いついてダイヤルしようとしたが、そのスマフォは横から掻っ攫われた。アマイモンの仕業だった。
「駄目です。兄上に連絡なんかしちゃ。どうせボクのこと心配なんかしてないんですから。」
「心配しているから連絡するんじゃないよ。僕は君のことを頼まれたんだから、どうなったかくらい報告しないと無責任になる。」
「お兄さんにボクのこと丸投げした無責任な兄上に対して、お兄さんが責任を持ってやってやる必要は無いんです。」
よし牛ではうっすらとメフィストを弁護するようなことを言っていたのに、やはり少しは拗ねているようだ。雪男はこういうふうな屈折したいい子ぶりっ子にも弱かった。
例えるなら、誰になるんだろう? これはなんだか自分を見るようだった。見ていられないとも言える。
「でも、無事だということくらい伝えないと。」
それに結局はシュラに確保されたのだ。メフィストの弱みについてアマイモンが尋問されないとも限らない。
「フェレス卿の弱みを証言するのは、あなたの望むところじゃないでしょうに。」
「それならそれでもいいです。兄上は僕が知る限りで一番の大嘘つきですから。僕が知っているような弱みは、とんだダミーっていうこともあります。」
アマイモンはスマフォを指で摘んでひらひらと雪男の前で振ってみせる。
メフィストに連絡を入れないという確約が取れるまで、アマイモンはスマフォを雪男に返してくれないだろう。雪男はしょうがなく、分かったよと頷いた。アマイモンは両手で雪男のほうへスマフォを差し出した。雪男はそれを受け取る。
「僕のほうも兄さんへの連絡はどうしよう。」
兄のベッドの上で鳴り続けている携帯を想像する。一旦は部屋に帰っているだろうが、そこからずっと部屋にいるとは限らない兄だ。もし部屋にいるとしても、それは多分寝ている確率が高い。 電話にでんわを確実に実行される。それが嫌で雪男はメールという選択肢を取った。
しかしそのメールの内容をどうしよう。
『今、シュラさんとアマイモンと一緒にホテルにいます。夕方には帰れると思いますので、心配しないで下さい。』
駄目だ。駄目過ぎる。心配どころの騒ぎじゃない。自分と遊園地で戦闘騒ぎを起こしたアマイモンと雪男が与したかと、兄が大暴れしてしまう。ちゃんと文面は考えないと。普通なら「友達と遊びに行っています」とでも嘘でも打つべきだ。しかし手が動かない。
「やっぱり僕も兄さんに対して拗ねてるのかな。」
メールを打つのをやめた雪男を、アマイモンは頷きながら見ていた。雪男はそれに笑顔で返す。共犯がいる悪いことはなんとなく気持ちよかった。
「さあ。どうやって時間を潰しましょうか?」
アマイモンの問いかけに雪男は口を滑らせる。
「エッチなホテルだったら、色んな暇つぶしの道具はあるらしいですけど。ここには精精風呂場しかないですね。」
アマイモンは一瞬黙って、じゃあお風呂に入りませんかと提案してきた。唐突そうに見えて巧妙に雪男から振ったような具合になってしまった。雪男は仕方なくバスルームに向かう。
この手のホテルのバスルームは大抵はユニットバスと相場が決まっている。しかし雪男はうっかり忘れていた。
「シュラさんって、ユニットバス嫌いだったなあ……」
案の定、独立したバスルームになっていた。つまり湯をためることの出来るバスタブがあり、遠慮なくそこで身体を洗い倒せる洗い場もついていた。その隣には独立したトイレと洗面所もある。観光ホテル並みの設備だった。
「くそう…。とことんあの人って、何をするにも、どんなときでも物見遊山なんだから。」
これでは一人ずつ入りましょうのフラグがへし折られるような気がした。大の男が他人と風呂に入るのが恥ずかしいですなんて言えない。別に雪男の歳なら素直に恥ずかしいですと言えばいいのだが、妙な見栄が邪魔をする。振り向いた雪男の後ろでは既にアマイモンが全裸待機していた。
「あ。直ぐに僕も脱ぎますから、先に入ってお湯を溜めといて下さい。」
「はーい。」
アマイモンは良い子な返事をして浴室に入っていく。雪男も仕方なく装備一式を解除せざるをえない。その装備もアマイモンに見つからない場所に押しやっておく。とりあえずパンツまで脱いで部屋の中の姿見で、日頃はあまり見ない自分の全裸を確認してみた。黒子が多いこと意外は見られて困る所は無さそうだ。どこからどう見ても他人と遜色のない身体だと思う。そう自惚れてもいいだろう。
雪男は意を決して眼鏡を外した。
他人と風呂に入るときの雪ちゃん必死だな! 弟vs弟のミニマムバトルが始まります。
「午前五時?」
逃げていた時間を考えれば三十分ほど遅い時間のような気がする。とりあえず鍵穴が合ったというだけで、それは正規の鍵ではないのは承知していた。その所為で移動する時にタイムラグが生じたのだろう。
「いてて。」
大の男二人がお稲荷さんの社の狭い扉から飛び出してきたのだ。身体が痛むのは当然だ。
それにしてもと思う。
「逃げ切れた……」
まだその奇跡を実感出来ない。あのシュラの追跡からまさか逃げられるとは。しかも鍵が一発で開くなんて。ここで運を使い果たしてなければいいなと、合理的な雪男には珍しく成り行き任せなことを考えていた。
「う、うーん――。」
アマイモンがふらつきながら起き上がろうとする。しかし(精神的な)疲れと空腹のためか両手を前に突き出して、また倒れた。
「アマイモンさん。もう大丈夫です。」
抱き起こすと閉じられていた瞼が震えて、固く閉じた口は開いた途端に、か細い「ありがとうございます」を零れ落とす。
「あとはあなたに何か食べさせてあげれば、僕はお役御免ですね。」
雪男は財布を取り出して中身を確認する。アマイモンが大食いでも、ファミレスや二十四時間営業の牛丼屋なら大丈夫そうだ。この時間帯にはそこしか開いてないのだから仕方ない。
標識を見てみると、案外正十字学園町からは出てないらしい。しかしあまり土地勘がない場所だった。
「これからご飯を食べにいきますけど、このへんはよく知らないんで、ちょっと探して歩かなくてはいけません。」
アマイモンの目が見開かれる。そしてその目から透明なしずくがぽろっと零れる。
「なんで泣いてるんですかっ。僕が泣かしたんですかっ。」
「探さないとご飯が食べられないんですか?」
これだけ命の危機にさらされてやっと逃げて来たから気持ちはわかる。気持ちは分かるが、こればかりは雪男はどうしてやりようもない。アマイモンは抑揚の無い声でしくしくと泣いている。雪男はアマイモンの肩を支えてやった。アマイモンがいきなり雪男の肩に抱きついてきた。
「うわっ。」
よほど心細いらしい。がたいは自分と変わりないのに、なんだかすごく頼りなげに見える。中身は凶悪な悪魔なのにギャップにくらくらする。
言うまでもなく雪男はこういうのにも弱い。兄とか。兄とか。兄の燐がそうだ。
抱きつかれたまま町を歩く。アマイモンはしゃくりあげながらも健気に足は動かしてくれた。その様子にまたもきゅんとなる。しかし傍から見ての姿が姿なので、今が早朝なのは幸いだった。べそをかいている男にしがみつかれている男は誰も見たくないだろう。
しかしそれを目撃してしまう不幸な部外者がいた。勝呂竜士だった。
勝呂は日曜の今日にいつもより早く起きてしまったので、普段は通らないコースもジョギングしてみようと思った。それがとんでもない既知との遭遇になろうとは。
しかし勝呂はそれを見なかったことにした。すだれのような前髪を、髪を整える振りをして垂らす。しかし勝呂のそんな思いとは裏腹に、雪男は勝呂を見つけ声をかけてくる。
「勝呂君。ちょうど良かった。このへんに何か早朝もやっている飲食店はなかったかな?」
学園の寮からここまでジョギングしてきたのなら、そのような店を一つか二つか見ているはずだと雪男は判断したから、勝呂にそう尋ねた。勝呂は仕方なく足を止め、その角を曲がったところによし牛がありますと言うと、何事もなかったようにまた前方を向いて走り出した。
関わり合いになりたくない態度があからさまだったが、雪男は雪男でそれのほうが有り難かった。
「次の角か。意外と近くで済みそうですよ。頑張って下さい。」
アマイモンは小さく頷く。
勝呂が言ったとおり、その角を曲がれば吉野家はあった。二人を見た店員は一瞬ぎょっとした。何処のサバイバルから生還して来た奴らなのだと。あっちこっちに木の葉や木の枝をくっつけている、互いに肩を借りあっている二人の男に底知れない畏怖を感じたのだろうが、吉野家は世界に羽ばたかなければならないので、この二人組は試練の一つだと彼は思ったか思わないか。
いらっしゃいませ。マニュアルどおりに言ってみた。喫煙席と禁煙席どちらがよろしいでしょうかと訊けば、眼鏡のほうが禁煙でと言った。
二人は席に座って注文を言う。雪男は牛丼の並を頼んだ。
「僕は、お兄さんと一緒のを五つお願いします。」
またぎょっとする店員。しかし眼鏡のほうが顔色も変えずに続ける。
「それだけじゃ足りないでしょう? すみません。あと定食二つと、サイドメニューのコールスローとお新香と温泉卵もお願いします。」
はい。かしこまりました。マニュアルばかり敬語のはずが、本当の意味で敬意混じりになってきた。
店員はキッチンに注文を言いに行く。しばらくして注文していたメニューが大量にきた。アマイモンはそれにがっつく。雪男は持ち前のお行儀の良さで、綺麗な箸遣いを見せながら牛丼を食べている。ふと行方の分からない兄のことが、雪男の脳裏に掠めた。
「アマイモンさん。シュラさんに終われる前に、兄を見たりしませんでしたか?」
「いいえ。というか、あのお姉さんに追われる前の記憶はかなり吹っ飛んでますので。」
「そうですか。あまり期待していたわけじゃないんですけど、やっぱり知らないですよね。」
「奥村燐はどこかに行って帰ってこないんですか?」
雪男は箸を止め、カウンターに肘をついて項垂れる。
「兄は僕との共同生活に疲れたのかもしれない。」
嫌な結論を真っ先に出してくる雪男にアマイモンは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「どうしてそう思うのです?」
「なんとなく、ですよ。」
あの投稿欄の相談者の両親のように、兄にとって自分は煙たいのだろうか? 兄の進路も夢も認めているが、兄より先にそれに到達してしまった自分は、自分の足跡と兄の様子を見比べてばかりで、兄なりの頑張りを認めてやれず、兄を差し置いて口出しが多かったように思う。今更思うことだけど。
「なんとなくで思ってばっかりですね。お兄さんは。」
「でも僕は兄を愛しているんです。だから心配で不安で仕方ないんです。」
「そんな弟はお兄さんだけじゃないですよ。僕だって兄上が大好きなんです。」
そこでアマイモンは、手に持った味噌汁の椀をじっと見つめる。味噌が沈殿して透明な上澄みがアマイモンの顔を映している。
「だけど兄上は奥村燐のことばっかり。奥村燐に父上が期待していることは知ってます。そんな父上を口八丁で言いくるめながら、兄上は二百年前から物質界にいて、騎士団に協力しているのも知っています。兄上は二百年も実家に帰ってきてくれません。でも兄上は今になってボクを物質界に呼んでくれました。それは嬉しかったです。」
雪男はアマイモンの話に共感を覚える。父親に言われた言葉を思い出した。
「僕だって兄を守れるんだって思えた時は嬉しかったんですよ。兄さんに頼って貰えると思うと、不謹慎ながらわくわくもしました。でも現実は、兄は僕以外の誰かを心の拠り所にしてるし、以前より僕に対する態度が喧嘩腰だし。」
アマイモンは再び箸を動かしながら合間に言った。
「それは、奥村燐がお兄さんに嫉妬してるんですよ。コンプレックスですよ。」
「コンプレックスってもっと、どろどろしたものでしょう。」
伊達に世間しているわけじゃない。男の嫉妬の陰湿さは身をもって知っている。それにアマイモンは反論する。
「それは大人の男ならです。奥村燐はがきんちょですから。だからどろどろせずに、お兄さんに堂々と喧嘩腰なんです。」
意外と奥村兄弟の関係をアマイモンは観察してるようだ。妙に腑に落ちた言葉だった。
「奥村燐はお兄さんに無関心じゃありません。興味津々の意識バリバリです。」
「それを僕に悟られたくないから、僕と距離をとっているって言うのですか?」
雪男はなんだか笑えてくる。アマイモンはポツリと言う。
「あ。やっぱり違うかも。」
「どっちなんだい!」
「わかりません。」
雪男はカウンターに突っ伏した。
「君だって君のお兄様に、随分とおざなりにされてるじゃんか。」
「兄上はドSですから。こんなことを言うのは負け惜しみです。」
雪男のささやかな反撃は、あまりアマイモンに効いていないようだった。もしかしたら悪魔はドSで、兄弟に対して薄情なのが標準なのだろうか。そうだとしたら兄の態度も幾分かは理解出来るような気がした。大体血液型がA型の癖にどうしてあんなにやりたい放題なんだ。
アマイモンはこれも負け惜しみですがと前置きして言う。
「だって兄上はボク以外にも弟や妹を沢山抱えてますから。ボクが一人駄々こねても仕方ないですもん。」
「強がってまあ。」
逃げている最中のアマイモンを思い出してみれば分かった。
アマイモンは多分、メフィストに助けに来て欲しかったのだろう。自分達が今しているように、一緒にご飯を食べたかったに違いない。キャッシュコーナーでお金を下ろせなかったのも、ひょっとしたらわざとだったかもしれない。
せっかく物質界に呼ばれたから、物質界にいるときに存分に可愛がって貰いたかった。兄が自分を追い越さないうちに、沢山頼って貰いたかった雪男に通じるところがあった。
早朝なのにまた吉野家のドアが開く。二人はまるで気にしていない。しかしその影は嬉々として二人に近づいていた。
「にゃは。見つけた。」
カウンターに置かれた手に二人はびくりと震える。
「勝呂君に途中で会ってさあ、雪男ちゃんが見知らぬ男と肩を組んでいるところを目撃したって聞いたから。」
雪男はすぐに立ち上がろうとしたが、アマイモンはそんな雪男を見上げると諦めましょうと一言呟いた。そして回転椅子でシュラのほうへ向き直る。
「これ全部食べるまで、待ってもらえませんか? せっかくお兄さんが注文してくれたので。」
「いいけど。私も腹減ってるし。おじさーん、豚丼の並にトン汁付けてー。」
シュラは雪男の隣に座る。まるで格闘ゲーのキャラのような女がカウンターに増えたことで、余計に店員はびびっている。かしこまりましたとしか言えない。
シュラは店員の反応を気にせずに言う。
「あ。大丈夫だから。もうその子いじめる気ないから。」
「本当ですか?」
「ほんとほんと。」
軽く言ってくれる。じゃあ先刻までの死神っぷりは一体何だったと雪男はぎりぎりと奥歯を鳴らしている。引き際が綺麗といわず無責任な女だった。シュラは言い訳がましくもない言い訳を始める。
「ちょっと話があって引き止めたつもりなのに、この子が派手に抵抗するからさあ。こっちも引くに引けなくなっちゃたんだよ。相手は地の王だと思うと余計にねえ。」
「あんたねえ。そういうのは管理職が思うようなことじゃないんですよ。下っ端のペーペーの血の気の多い若者のお約束でしょうに。」
雪男は心底呆れている。シュラは運ばれてきた豚丼に手を付け始める。
「アマイモンがあなたの尋問に応じるかどうか、僕はもう関与しませんからね。ここの勘定を払えば、僕はもうあなた達を置いて学園に帰りますから。」
雪男は残りの牛丼を掻き込むと伝票を持って立ち上がろうとしたが、両方から手が伸びてきて阻止された。
「「駄目!」」
「なんでですか!」
当然の反論なのに、両方から雪男の腕を抱える二人の視線は責めるようだった。
「ガキの頃から散々世話してやったろ?」
「僕を抱き締めてくれた、あの優しさは嘘だったのですか!」
すごく身に覚えのないことばかり言われている。ガキの頃はいじめられたし、抱き締めたんじゃなくて支えてやったんだ。店員が目を丸くしている。この眼鏡を中心とする三角関係にすっかり慄いてしまっている。平和な日曜日早朝の暇なシフトだったはずなのに、緊張しっぱなしのようだった。
雪男は回転椅子に諦めたように腰掛ける。ひょっとしたら今頃、兄は自分たちの部屋に帰ってきてるかもしれないのに、今度は雪男こそが連絡がつかない行方不明状態になっている。
ああ。でも、ひょっとしたら心配して僕のスマフォに連絡があるかも――。しかしだらだら食事を取るアマイモンとシュラが箸を置くまで四十分、スマフォは沈黙したままだった。
* * *
とりあえずあの店員の三人に対するびびりようからして、吉野家は一旦出ようという話になった。
「ごちそうさまー」
「ありがとう、ございましたっ。」
店員が涙目になっている。雪男は五千円札を出してお釣りは取っておいて下さいと言おうと思ったが、それは逆効果とも思い普通にお釣りはもらった。
今は午前七時過ぎ。シュラはこれからアマイモンに尋問するつもりらしいが、どこで尋問するかは決めていなかったらしい。だらだらと朝の町を三人は歩く。
「ところで、シュラさん。このまま歩き続けていても埒が明かないと思うんです。どこかの扉から学園に戻ったほうがいいんじゃないですか?」
「鍵使ってもいいんだろうけど。今日日曜日じゃーん。このまま学校に直帰してもつまんないし。」
その物言いに雪男はかちんときた。
「アマイモンを尋問するのは、あなた自らしゃしゃり出た任務じゃないんですかっ。フェレス卿の動向調査に付随する手段の一つでしょうが。」
「いや。私の個人的な興味だけど。」
「興味?」
「いやあ。私も昔は人間兵器になりかけた部類の女だからさあ。」
なんだか嫌な感じの言葉だった。兵器という言葉は雪男の知己の一人の人間を連想させる。
雪男はなおも食い下がろうとしたが、シュラは気に留める様子はない。アマイモンにどっか行きたいとこはないかと尋ねている。アマイモンはシュラの申し出に遠慮がちになっている。まだ追いかけられた時のことが脳裏に引っ掛かっているらしい。黙ってぎゅっと雪男の腕にしがみつく。雪男はそれを見かねてシュラに言った。
「学園関係者の目につかないほうがアマイモンにとっては良いですよね。」
シュラは怪訝な顔で、やけにアマイモンの肩を持つ雪男に首を傾げていたが、とりあえずは肯定してやった。
「そうだな。こいつ面が割れてるしな。店が開くまでまだ間があるし。」
「あんたまた食い物屋に入ろうという魂胆ですか。」
雪男は財布の中身に思いを馳せながら反論するが、シュラはまるで動じることなく切り返す。
「時間を潰すのにホテルにでも入るか。いや。えっちぃほうのホテルじゃないぞ。普通のホテルだ。」
「あんた! 勘定払うの僕なんでしょっ。」
食い物屋だけならともかく、ホテル代まで出せるかと雪男は叫ぶ。当たり前だ。自分はまだなんだかんだ言っても十五歳の高校生だ。甲斐性にも限度がある。
「いや。雪男ちゃん。大人はこんなスマートなものを持ってるのよ。」
シュラはクレジットカードを見せびらかす。幾ら雪男が甲斐性があると言ってもまだ、そのアイテムは手に入らない。
「そうですか。そうきますか。」
アマイモンはそれを横から見ている。
「そうか。キャッシュカードじゃなくて、そういうカードを兄上から貰えば良かったのか。」
「でもこれは駄菓子屋とかたこ焼き屋とか、あなたの好きそうな店では使えませんから。」
「それなら駄目ですね。」
三人はオフィス街を進んでいく。シュラは携帯電話でホテルに電話を掛けていた。電話を切ったあと、よしと言って雪男とアマイモンに呼びかける。
「二部屋どうにか取れたぞ。今から行って私は朝寝するから、お前らも休みたいなら休んでおけよ。」
早朝でもチェックイン出来るんだなと、雪男は妙に感心するのだった。
シュラは十二時になったら起こしに来いよと言って、隣の部屋に消えていった。雪男とアマイモンは二人きりで取り残される。
「とりあえず、入りましょうか。」
「僕こういうの初めてですから、ご教授お願いします。」
ならばこの地の王は、普段は何処で寝ているんだろうと雪男は疑問に思った。
やらしい意味でのホテルではないので、ベッドは当然二つある。そのベッドの上にアマイモンはダイブした。
「わあ! なかなかのクッションです。」
ごろごろと寝転がっている。雪男はその隣のベッドに腰掛けた。自分のスマフォを見る。メフィストにこの状況を知らせたほうがいいと思いついてダイヤルしようとしたが、そのスマフォは横から掻っ攫われた。アマイモンの仕業だった。
「駄目です。兄上に連絡なんかしちゃ。どうせボクのこと心配なんかしてないんですから。」
「心配しているから連絡するんじゃないよ。僕は君のことを頼まれたんだから、どうなったかくらい報告しないと無責任になる。」
「お兄さんにボクのこと丸投げした無責任な兄上に対して、お兄さんが責任を持ってやってやる必要は無いんです。」
よし牛ではうっすらとメフィストを弁護するようなことを言っていたのに、やはり少しは拗ねているようだ。雪男はこういうふうな屈折したいい子ぶりっ子にも弱かった。
例えるなら、誰になるんだろう? これはなんだか自分を見るようだった。見ていられないとも言える。
「でも、無事だということくらい伝えないと。」
それに結局はシュラに確保されたのだ。メフィストの弱みについてアマイモンが尋問されないとも限らない。
「フェレス卿の弱みを証言するのは、あなたの望むところじゃないでしょうに。」
「それならそれでもいいです。兄上は僕が知る限りで一番の大嘘つきですから。僕が知っているような弱みは、とんだダミーっていうこともあります。」
アマイモンはスマフォを指で摘んでひらひらと雪男の前で振ってみせる。
メフィストに連絡を入れないという確約が取れるまで、アマイモンはスマフォを雪男に返してくれないだろう。雪男はしょうがなく、分かったよと頷いた。アマイモンは両手で雪男のほうへスマフォを差し出した。雪男はそれを受け取る。
「僕のほうも兄さんへの連絡はどうしよう。」
兄のベッドの上で鳴り続けている携帯を想像する。一旦は部屋に帰っているだろうが、そこからずっと部屋にいるとは限らない兄だ。もし部屋にいるとしても、それは多分寝ている確率が高い。 電話にでんわを確実に実行される。それが嫌で雪男はメールという選択肢を取った。
しかしそのメールの内容をどうしよう。
『今、シュラさんとアマイモンと一緒にホテルにいます。夕方には帰れると思いますので、心配しないで下さい。』
駄目だ。駄目過ぎる。心配どころの騒ぎじゃない。自分と遊園地で戦闘騒ぎを起こしたアマイモンと雪男が与したかと、兄が大暴れしてしまう。ちゃんと文面は考えないと。普通なら「友達と遊びに行っています」とでも嘘でも打つべきだ。しかし手が動かない。
「やっぱり僕も兄さんに対して拗ねてるのかな。」
メールを打つのをやめた雪男を、アマイモンは頷きながら見ていた。雪男はそれに笑顔で返す。共犯がいる悪いことはなんとなく気持ちよかった。
「さあ。どうやって時間を潰しましょうか?」
アマイモンの問いかけに雪男は口を滑らせる。
「エッチなホテルだったら、色んな暇つぶしの道具はあるらしいですけど。ここには精精風呂場しかないですね。」
アマイモンは一瞬黙って、じゃあお風呂に入りませんかと提案してきた。唐突そうに見えて巧妙に雪男から振ったような具合になってしまった。雪男は仕方なくバスルームに向かう。
この手のホテルのバスルームは大抵はユニットバスと相場が決まっている。しかし雪男はうっかり忘れていた。
「シュラさんって、ユニットバス嫌いだったなあ……」
案の定、独立したバスルームになっていた。つまり湯をためることの出来るバスタブがあり、遠慮なくそこで身体を洗い倒せる洗い場もついていた。その隣には独立したトイレと洗面所もある。観光ホテル並みの設備だった。
「くそう…。とことんあの人って、何をするにも、どんなときでも物見遊山なんだから。」
これでは一人ずつ入りましょうのフラグがへし折られるような気がした。大の男が他人と風呂に入るのが恥ずかしいですなんて言えない。別に雪男の歳なら素直に恥ずかしいですと言えばいいのだが、妙な見栄が邪魔をする。振り向いた雪男の後ろでは既にアマイモンが全裸待機していた。
「あ。直ぐに僕も脱ぎますから、先に入ってお湯を溜めといて下さい。」
「はーい。」
アマイモンは良い子な返事をして浴室に入っていく。雪男も仕方なく装備一式を解除せざるをえない。その装備もアマイモンに見つからない場所に押しやっておく。とりあえずパンツまで脱いで部屋の中の姿見で、日頃はあまり見ない自分の全裸を確認してみた。黒子が多いこと意外は見られて困る所は無さそうだ。どこからどう見ても他人と遜色のない身体だと思う。そう自惚れてもいいだろう。
雪男は意を決して眼鏡を外した。
他人と風呂に入るときの雪ちゃん必死だな! 弟vs弟のミニマムバトルが始まります。
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