幸福雑音
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☆「カンタータ」志摩燐 「アラベスク」シリーズ。番外編ifのドラマ
木音さんのリクエストで「雪男のいないときに燐の手料理を食べる志摩」その1です。何故かシリアス注意。
重くなっていく。冷たくなっていく。遠くなっていく。暗くなっていく。
死ぬのではなく、死んでいく感覚。
でも心は死ぬ気なんてさらさらなくて。それが余計に苦しくて。
燐に会いたい一心で監視から逃げ出したのに、辿り着いた先はどう考えても、燐がいるわけがない森の中だった。正確に言えば正十字学園の森林区域。二年前の候補生時代に強化合宿をした場所だった。
廉造は辺りを見回す。視界には追ってくる騎士団の祓魔師はいない。しかし味方になってくれる誰かすらいなかった。
廉造の目的がまさか奥村燐に一目会いたいというものだとは、騎士団の人間も予測してはいないようだった。たぶん人ごみに紛れてしまえるような学園都市方面に追っ手は向かっているのかもしれない。彼らの現実的な頭では、離れ離れにされた恋人恋しさに脱走してしまう心理は理解出来ないだろう。精精、見当違いな所を探し続けて欲しい。
しかしこの逃走が一人きりでやってることには変わりない。
「あの時は坊もおったし子猫さんもおったけど……」
現在、志摩廉造は遊歩道の途中、キャンプ場につく前にルートを外れて道の無い獣道をさ迷い歩いていた。彷徨い歩くというよりは、身体を隠す場所を見つけては移動して、何かの気配を察知してはまた身を隠す場所を探すという繰り返しだった。
廉造が正十字騎士団の本部の監房に収容されてから二年が経っていた。サタンの息子を孕ませた男として身体を調べる為と言われ、廉造は燐と当時出来た子どもの為にその言葉に従っていた。しかし採血しようが細胞を採取されようが、普通の人間と変わらないという結果しか出ない。しかしずるずると燐とは引き離された年月が過ぎた。
二年も何も芳しい結果が出ないまま命を長らえているのも、廉造が正十字騎士団に所属している明陀宗の僧正の志摩家の人間であったからだ。父や兄や総本家の勝呂家の訴えもあり、収監当時より廉造に対する騎士団本部の扱いは幾らかましになっていったが、それでも燐と子どもには会わせて貰えない。聞くところによれば、生まれた双子にサタンの炎の発現が見られたらしい。それが余計に親子の対面を引き伸ばしていた。
「偉いさんも殺生や。俺の口から子どもに騎士団の、しょうもないことを吹き込むなんぞ思っとんやろうか?」
赤子が大人の事情を理解できるか阿呆。廉造は吐き捨てた。
みんなが、この二年間にいろいろ自分たちの為に動いてくれていることは分かっている。そうでなければ、自分はこうして生きていないし、燐も子どもも無事で済んでいるわけがない。そのみんなというのも、明陀の身内以外にもいっぱいいる。あの悪魔落ちしてサタンを吸収した雪男を制したとされるメフィストも含まれるのが驚きだ。最高の功労者のメフィストがヴァチカン本部に掛け合い、手柄を盾に燐と廉造の身柄の安堵と、雪男の恩赦を、あの厳格にして融通の利かない騎士団上層部に認めさせた。
現在の廉造のこの脱走は全ての人たちの頑張りを裏切っている。明陀宗は現在の宗派の生命線である正十字騎士団からの所属を離脱するとまで宣言して、廉造の弁護をした。そしてメフィストフェレスは雪男によって大半破壊された身体を、三賢人以下の上層部に晒して嘆願してくれた。それでも足りないとでも言うように、かつての同級生のしえみを聖騎士に育て上げたらしい。今も悪魔落ちして世界を滅ぼしかけた罪を償い続けながらも、兄の為に奔走する雪男もいる。しかし廉造にとってはもう耐え切れなかった。
時折面会に来てはそのうち燐と子供たちと一緒に暮らせるようになると、友人たちは話してくれた。繰り返し。繰り返し。だからもう少しだけ頑張ってくれ。我慢してくれ。耐えてくれ。そう言われても、我慢しても頑張っても、その日が近づいているような実感がない。
だから逃げ出してしまった。覚悟という言葉と縁の無かった十五年を過ごしてきた自分がした、初めての覚悟が二年前のあの時だった。その自分の覚悟も裏切った。一目だけでも燐に会いたい。そしたらどうなってもいい。
「そういや、燐の手料理初めて食ったの。ここでやったな――。」
女子に混じってカレーを作っている燐の姿が瞼に蘇る。最初見たときは、どんな豪快かつ粗雑な男の料理が飛び出して来るんだと戦々恐々としていた。でも口に入ってきたのは、とても美味しくて、温かい家庭の味がするカレーだった。
「会うだけやと駄目かもしれん。もう一度くらい食っときたいな。」
カレーじゃなくてもいい。なんでもいい。燐が作ってくれたものだったら、最後にそれが食べられたら。たぶん自分は死んでもいい。
廉造は苔の生えた地面の上に崩れ落ちた。そうでなくても幽閉期間中に気を病んで消耗した身体は、日中の日差しと久方ぶりのマラソンに耐えられるはずがない。言われるまでも無く、身体はとうに飢えて渇いている。ちゃんと計画を立てて体力を温存してから逃げ出すべきだったのに、本当に衝動的に飛び出してきてしまった。だから燐の手料理を食べたいなんていう夢想に襲われるんだろう。
案外自分もこんな状況なのに、能天気なもんだ。ある意味切実なのかもしれないけど。
廉造は辺りを見回した。周囲は元々が暗い森の中なので定かではないが、もう時間的に日が暮れた頃だろう。夜になったら学園まで引き返して建物の中にいる燐を探しに行こう。渇いた喉を少しでも潤す為に唾を飲み込む。そして自分の足元を見る。破れたスラックスの破れ目の間から、肉の抉れた傷口が覗いていた。今まで山道を当ても無く歩いていたが、すっかり傷を庇うことを忘れていた。というかこんな酷い傷なのに。
閉じ込められている間に疑心暗鬼に陥った自分は、発作的に脱走したわけだが、それ故かその時にかなりの深い傷を足に負ったにも関わらず、今の今までその傷の痛みに気付かなかった。たぶん建物の裏から森に降りるときに、割った窓ガラスと一緒に滑り落ちた所為だろう。手当てされていない傷からはかなりの血が流れて、靴の中はびしょびしょというか、固まりかけた血液でぬるぬると気持ち悪かった。
「あはは……。グロっ。」
靴の中の血液だけでもなんとかしたかったけど、億劫だった。出血の所為かもしれないが、さっきまともに傷口を見てしまったので気が遠くなりかけている。
「あかん。こんなんなったら燐探しにいけへん。」
視界が掠れる。その視界の中に余計に気が遠くなりそうな物体が廉造に迫る。
「――でかい虫さんや。」
再び思い出す二年前のこと。この森は夜になれば下級悪魔の巣窟になる。結界を張っていないと、蛾の悪魔が遠慮無しに襲い掛かってくる。廉造の目の前にいるのもその類だった。
「なんや俺、もう死ぬんかな?」
キリクもない。霞んだ頭では詠唱も覚束ない。逃げようにも痛覚を取り戻した頭と、怪我をした足ではどうしようもない。森の中はすっかり真っ暗になっている。もし運よく目の前の悪魔をどうにかできても、視界の利かない中、学園まで戻るのは困難だろう。そんなことも思いつかず思い出せず、逃げてきた自分に笑える。後悔しているのではない。だってもう耐え切れなかったんだから。後悔するべきところは、燐の夫がこんな情けない考え無しなことも、その無様な死に様も、燐に知られてしまうことだった。燐はきっと、子どもの顔を見る度にそんな父親の情けない面を思い出してしまうんだろう。だけど燐は廉造を罵ったりはしない。なんとなくそれは予感できるだけに辛かった。
「ごめん。ごめんな。燐――。」
なら性根入れて戦うなり逃げるなりしろよ、と叫ぶ自分もいないわけじゃない。でも身体が動かない。
「廉造!」
諦めたように瞑ってしまった目を恐る恐る開く。
暗がりに白いシャツが透けて見えた。
ゆらゆらとした青い炎に浮かび上がった顔は、夢にまで見た燐の顔だった。
燐は剣の切っ先を悪魔に向けている。悪魔は単純な脳みそしか無さそうな虫の風貌をしているが、その炎を見るなり臆しているように見えた。しかし次の瞬間、容赦なく燐の降魔剣に焼かれて消滅する。
二度、三度、燐は剣を振りかざす。燐を中心にその気配を潜ませていた悪魔たちは消滅するか退散した。辺りはあっけないほど空気が軽くなった。
廉造はそれをぼーっと見ていた。まるで阿呆のような自分を自覚することなく、燐が廉造に駆け寄るのを他人事のように見ていた。
「廉造。大丈夫か?」
燐の心配そうな声音と表情にはっとなる。
「あ。ああ……。怪我したとこは痛いけど。平気や。」
「早朝に廉造がいなくなったって聞いて。それで暗くなるのを待って抜け出してきたんだ。」
暗くて表情はよく見えないけど、声は震えていた。燐の顔が近づいてきて、廉造の肩口に顔を埋める。背中に回った手がシャツをぎゅっと握り締めている。
「堪忍な……。俺はとんでもないアホや。」
こんなに心配させて。騎士団本部を危険覚悟で抜け出させて。結局助けさせて。こんなに情けない男を、ぎゅっと抱き締めてくれる燐に目頭が熱くなった。二年経っても燐は最後に抱き締めた時のように、あたたかくて力強くて、可愛かった。
二年も経ったんだと廉造は改めて感じる。
「廉造。痩せた?」
燐の問いかけに廉造は答える。
「あー。身も細るような検査の毎日やったからな。」
そして燐をまじまじと見る。
「お前変わっとらへんな。子ども産んだんやから、もうちょい大人っぽくなったかなと期待しとったのに。」
「俺だって産んだばっかりの時は今と違ってたよ。」
泣き笑いで燐が二年前と変わらない強がりを言った。
ふっと廉造から離れて燐はおもむろにウエストポーチから小さめの弁当箱を取り出す。
「朝から逃げ通しで腹が減っただろ? 少ないかもしれないけど、ほら。」
差し出されたのは、おにぎりだった。
「お前が作ったん?」
「他に誰が作るんだよ。」
「ありがとお。」
廉造はそれにかぶりつく。久しぶりの燐の手料理は美味しかった。廉造が握り飯を頬張るのを燐は嬉しそうに見ている。生きてて良かったと思える瞬間だった。
だけど――。あっと言う間に弁当箱は空になる。空の弁当箱を見つめて廉造は呟いた。
「燐。このまま俺と逃げてくれへんか?」
燐は黙っている。
「こんな状況に持っていった俺がほんまにアホやったけど、お前が追っかけてきてくれたんやから。」
燐は悲しそうに笑うと、立ち上がって学園都市の明かりが瞬いている方向を向いて「帰ろう」と廉造に手を差し出す。
「なんでや? 帰ったらまたお前と離れ離れやん。」
燐に手を伸ばすが、その手を燐は掴まない。
「駄目なんだ。もうすぐここには、お前を捜索しに人が来る。」
人並みはずれた身体能力と知覚を持つ燐は、廉造の姿を察知し、騎士団の追っ手を振り切って一番に駆けつけたのだろう。そして今、近づいてくる追っ手の気配も察知している。
「やけどっ。まだ逃げ切れるかもしれへんやん。」
「俺、子ども置いてきたんだよ! だからお前と二人で逃げられない。」
廉造は頭を殴られたような衝撃を受けた。燐に言われる前に気付くべきだった。
「俺。俺はほんとうに……。なんちゅうアホやったんや………。」
廉造は泣き崩れる。渇いた身体からそれでも涙が溢れてくる。身体中の水気を絞っても足りないくらいに、掠れた声と一緒に滂沱の涙が流れていく。
燐は地面に蹲った廉造を再び優しく抱き締めた。
「廉造。俺、お前がそんなに辛いんだったら、チビたちのこと諦めても――。」
「あかんっ。俺が我慢できひんだけやっ。お前あんだけ子ども出来てよろこんどったんやんか。お前からそれ取り上げるなんて、それこそできへん。」
本当に二年前の覚悟は裏切るべきじゃなかった。その覚悟の意味をきっかけを思い出して、尚更強く思った。
だからもっと頑張ろうと思った。
* * *
「アホだね。最低だね。」
「重々承知しとるわ。」
ガラス越しの雪男との面会。二人とも手錠付である。
「あと何日かで君たちは再び会えるところだったんだよ。子ども二人が風邪を引いて熱を出しててね。それが治ってからってことだったのに。あんなに勝呂君たちも励ましてくれたのにね。君は幼馴染の親友の言葉を何だと思ってるんだい? 君の所為で兄さんまでも外に出られるのが、また数ヶ月伸びちゃったよ。君が逃げたあの日は、そのちょうど前日だったんだよ。どうしてあと一日の我慢が出来ないんだろうね。」
雪男は廉造を責めながら、いい気味と言わんばかりの黒い笑みを向けている。本当にこの弟は、悪魔落ちしてからいい性格になったと廉造は思う。
「兄さんが君に絆されることも予測して、兄さんを監視していた人間に、兄さんの作ったおにぎりに睡眠薬を仕込んでおいてと頼んだんだけど。」
廉造は苦笑いを浮かべた。燐と学園本部に帰る途中、急に意識が遠くなった。極限の疲れのせいかと思っていたが、どうやらこの弟の仕込みだったらしい。
「先生。燐には顔を合わさん癖に、よう手ぇ回すわな?」
「君が不幸になるのはいいけど、兄さんを不幸にはしたくないんだ。」
返事になっとらへんと廉造は雪男を睨む。雪男は悪魔落ちする前の容貌にすっかり戻っている。しかし目覚めた悪魔の側面はそう簡単には隠せないと思っているらしい。だからそれを燐に見せてしまう可能性を恐れて、燐に敢えて会おうとしないのか。
廉造はしょうもないことだが、「勝った」と思えて笑みが零れた。
「いつかは燐に会うたってな。先生。」
「君の指図は受けないよ。」
雪男はそう言うと立ち上がって面会室をあとにしようとする。その背中に廉造は声を掛ける。
「言うの遅れたけど、俺のこと弁明してくれて有難うっ。」
雪男は振り向かない。
廉造の脱走は、二年間の長期に及ぶ度重なる検査のストレスと、薬による副作用の為の錯乱とされている。実験動物並みに扱われていたのだから、それを疑われるのは当然だし、今更ながら人道的に解釈された結果だった。そのため騎士団の対応の責任はあるが、廉造には脱走ついての責任は無いということになる。雪男がそのように工作したからだ。
奥村雪男が密かに手を回して志摩廉造の脱走事件を解決した、と上層部に伝えられている。多少曲解がある公式文書ではそういうことになっていた。
廉造は脱走の責を問われないし、雪男だって一度地に落とした評判をまた拾い上げるきっかけにはなった。
「俺はあんたになんぼでも恨まれても構わへんよ。」
「あ。っそう。」
「なんぼでも恨んでおくれやす。」
燐の不幸が大嫌いで、燐の幸せを願っとる弟は俺になんも言わん。
俺なんかより燐のことずっと考えとる。
俺も精精、あんたの思いも背負って頑張らせて貰いますわ。
頑張って、我慢して、耐え切って。
生きて。
そんでいつか――。
廉造はゆっくり立ち上がると、ガラスで仕切られた部屋の雪男の後姿が消えた反対のドアから出て行った。
極限状態での手料理を振舞うをやりたくて魔が差しました。うちの志摩燐シリーズ「アラベスク」番外編です。燐の料理があまりにもお粗末なので、別バージョンを書きました。そっちの燐の料理も結構しょぼいです。
これに懲りずにまたお付き合いいただけたら幸いです。
極限状態での手料理を振舞うをやりたくて魔が差しました。うちの志摩燐シリーズ「アラベスク」番外編です。燐の料理があまりにもお粗末なので、別バージョンを書きました。そっちの燐の料理も結構しょぼいです。
これに懲りずにまたお付き合いいただけたら幸いです。
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☆ss「ハンプティダンプティ」志摩燐
木音さんのリクエストで書きました。その2です。「雪男のいない時に燐の手料理を食べる志摩」です。
「奥村君。俺から頼みがあるんや。」
天下のちゃらんぽらん・志摩廉造が真剣な目で燐に頭を下げている。
「なんだよ。気持ち悪いな。」
「気持ち悪いかてっ。失礼やろ!」
流石はカッコいいランキング選外へのあしらい方である。これが勝呂相手だったらもっと歓迎されただろうに。
「まあいい。聞いてやる。」
「偉そうっ。まあええわ。奥村君料理得意って聞いたんやけど、ちょっと一品作ってくれへん?」
「とりあえず、何を作って欲しいんだ?」
まだ了解はしていないが、料理のことについては燐も食いついてきた。志摩は一言、卵焼きと答える。燐は首を捻った。
「え? 卵焼きって言ったら、三日にいっぺんは朝飯に出てきてるじゃん。」
志摩はぶんぶんと首を振る。
「アレは出汁まき卵やろうが。俺が食べたいのはなあ、砂糖と塩だけのシンプルなあまーい卵焼きなんや。」
正十字学園はいわゆる地元一の金持ち校である。どうしても食事も手の込んだ傾向に行きがちだ。寮の朝食の卵焼き一つ取っても、寮の調理士さん達は迷わず出汁まき卵の高級でスシネタになりそうな代物をつくってくる。燐もかねがね、高校生相手にやりすぎじゃねーかこれと疑問に思っていた。(ウコバクはレシピを提示されてそれ通りに作っているから罪はない。あくまでそれを作り手に要求する学園側の特に理事長のメフィストのモチベーションだろう。)そしてそのささやかな疑問の賛同者が目の前にいる。
「まあ別にいいぜ。今日雪男は任務で留守だから、そんな暇あったら勉強しろとか言われないし。作って明日持って行くか?」
「作って貰えるとなると待ちきれまへん。お邪魔して食べに行かさせて貰います。」
志摩はたれ目を余計に垂れさせながら、おおきにと言った。
「んじゃ。塾終わったら来いよな。」
燐は努めてそっけない口調で言う。しかし内心は嬉しかった。
* * *
放課後、旧寮の厨房で燐と志摩は二人きりだった。ウコバクは隅っこに避難している。というか、男のしかも、食べる専門の燐の客にウコバクは用がなかった。
「甘さは控えめのほうがいいか?」
「いや。卵の味を殺さん程度にあまーいほうがいいです。」
お? と燐は志摩の言葉に反応する。意外とこいつは料理のこと分かってるんじゃねえか?
弟の雪男はとりあえず薄味ならなんでもいい野郎なので、燐は常々手ごたえがなくてつまらない奴だと思っていた。雪男自身が食べることに頓着しないので余計に思ってしまう。雪男にしてみれば文句言ってるわけじゃないんだから、別にいいだろうという考え方だが、作る側としてはそれで納得出来るわけがない。燐は注文を付けられれば、はりきるタイプの料理人だった。
「さて。」
燐は片手で卵を割る。志摩がほーっと横で声を上げている。なんだか凄くいい気分だった。修道院にいたころは小さな頃からいたせいか、誰も燐の一挙手一投足に反応することはなかった。作った料理をいつもどおりに美味しいと食べてくれるのだが、その作る過程に注目されることはなかった。彼らの日常に燐の料理をする姿が溶け込みすぎた所為だろう。
だから志摩のリアクションに笑みがこぼれる。出来た料理を頬張ってくれる姿を見るのも楽しいけど、作ってるところを後ろから覗かれて感心されるのも悪くない。小さい子を持つ母親がこんな気分なんだろうか。
菜箸で卵をかき混ぜ砂糖と塩を加える。さらにかき混ぜて四角い卵焼きのフライパンをコンロにかける。
「ここでいい具合にフライパンをあっためとかないと、上手く焼けないんだ。」
「そうなんや。」
頃合を見て卵を注ぐ。じゅーっと卵が焼けながら広がっていく。それを手早く巻いていく。片側に寄せてもう一度油を引き、さらに残った卵を流し込む。そしてまた焼く。ベテランの料理人としては焦げの一つも作りたくないところだった。
完璧な色形、焼き具合を目指した渾身の卵焼きだった。
「切らんでもええよ。」
「わかった。」
燐は皿の上に出来たての卵焼きを載せる。志摩はいそいそとテーブルについた。
「はあっ。夢にまで見た卵焼きやわ。」
「そうかそうか。」
燐は久しぶりに新鮮な喜びに包まれていた。まさか志摩相手にこんな気持ちになるなんて。ひょっとしたら、こいつは自分が思うより魅力的な人間なのかもしれない。好物を目の前にして素直に喜ぶ姿に微笑ましくなる。目の前の志摩がキラキラしている。卵焼き一つでとんでもないフィルターである。
しかも燐の料理人生で卵焼きとは原点だった。
『父さんに最初に作ったのも卵焼きだっけ。』
初めて作った故の激マズさ加減にむせながらも、食べた後は笑顔を見せてくれた。でもそれは、不味いものを食べさせたという現実も殊更に感じさせて悔しかった。だからこそ美味しいものを食べさせたいという思いを絶対のものにさせてくれた。思いだけでなく、実際に才能もあったのだろう。燐の食事当番のときは、かすかではあるが楽しみにするみんなの気配を感じ取れるほどになった。
「美味しいか?」
「うまあ……。絶品やわ。」
燐は志摩の向かい側で頬杖をつく。なんだか卵焼きを食べる志摩が眩しく見える。かっこよさの片鱗は見えないのに、どうしてか魅力的だ。あまりにも自分の心の変動に動揺した燐は志摩から視線を外すと、俯いて赤くなる。
『俺、どうしたんだろ。』
胸までドキドキと高鳴る。志摩の声が聞こえる。
「ほんま奥村君って男にしとくのが勿体無いわあ。嫁にしたーい。」
そうかと頭を上げた燐は眉をしかめる。
「おい。」
声まで低くなる。燐の視線は志摩の左手に握っていたものに向けられていた。紅い蓋に黄色いボトル。世間でいうマヨネーズだった。ボトルから搾り出された黄色い物体が、渾身の卵焼きを覆うような勢いでかけられている。黄色が黄色を侵食する異様な光景が皿の上で繰り広げられている。
「お前卵焼きになんてもん掛けてやがるんだ!」
「え? マヨネーズやけど?」
志摩はひたすら不思議そうな顔をしている。それもそのはず。燐と志摩の間には決定的に交わることの無い平行線があるのだった。
燐はびしっと志摩を指差す。しかし怒りのあまりにその指は震えていた。
「俺はそういう、マヨラーとかケチャッラーとか、惰性でとりあえず料理にはソレをなんでもかけるって奴が、大っ嫌いなんだよお!」
えええええええっ。と志摩は燐の剣幕に悪魔が聖水をぶつけられたような悲鳴を上げる。
「そ、そやかて。若もんならマヨネーズくらいかけるのが普通ちゃう?」
しかし燐には通用しない。まさしく逆鱗に触れるである。
「うるせえっ。ちょっとだけいいなと思ったお前は、俺のとんでもない勘違いだったよ! やっぱりお前はランク外だ!」
「うわあ! 燐ちゃん怒らんといてえ。」
「燐ちゃん言うなっ。」
青い炎は出さなかったが、その場は修羅場と化していた。そして二人をほくそ笑みながら見ている誰かがいた。任務が早く済んで帰ってきた雪男である。
志摩君。とんだ墓穴を掘ったね。
思い出すよ。父さんが鳥のから揚げにマヨネーズをかけた時の兄さんのキレっぷりを。
やっぱり兄さんを理解してるのは僕なんだ。残念だったね。志摩君。
出来たら次は勝呂君あたりが、野菜炒めに醤油掛けて今日のようになればいいんだ。
しかし雪男は知らない。食べることに頓着しない姿勢(注文は付けないが食べることに関心が薄い)で、自分が兄の中のポイントを日々じわじわ下げている事実に。
ちなみに勝呂は料理に何も足さない派、であることは雪男は知らない。
その1がどうも殺伐とした状況で書いてしまったので、普通の状況バージョンも書いてみました。あまり甘くなくてすみません。そしてこの話に限っては「アラベスク」関係ありません。
その1がどうも殺伐とした状況で書いてしまったので、普通の状況バージョンも書いてみました。あまり甘くなくてすみません。そしてこの話に限っては「アラベスク」関係ありません。
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