幸福雑音
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☆ss「ピグメイリオンの末裔」燐雪(中学時代注意)+藤本
奥村燐は中学生になった。
それは奥村燐とその弟の雪男の生活の変化を告げるものだった。
暗くなった窓の外を見ながら雪男と藤本と修道士達は顔を見合わせていた。兄は今日も帰りが遅い。典型的な不良の生活リズムになりつつある。
「この前あいつの担任が顔青くしてやってきたよな。」
それは地元の地方紙に小さく記事になった事件だった。燐はその当時、近所に騒音と迷惑と危険を振りまいていた某暴走族グループを、たった一人で壊滅せしめたのだった。しかし学校側としてはそんなハチャメチャな英雄は望むところではなかったらしい。だから担任が厳重注意の為の家庭訪問に来てしまったのだった。
「あの時、燐が大人しくしていてくれたら……」
当の燐は自分のしたことが、どれほど他人を恐れさせるか分かっていなかった。燐の帰り際に集団で危険走行をした上に、通りかかったカップルに脅迫に近いレベルのかつあげまがいをしているチンピラどもがいた。それにぶちぎれて燐は、暴走族に喧嘩を売ったのだった。そして見事に勝った。
その事情は南十字教会に後日やってきた燐の担任から、事実を大幅に歪曲された苦情として藤本のもとに届いた。教師は警察沙汰になったということが学校側にとって由々しき問題だと決めつけ、燐に対する評価をあっというまに地に落とした。そしてそれを孤児で教会育ちという家庭環境のせいにした。それにまた燐がきれて教師に掴みかかり、結果、教師の中の燐の評価を悪化させ誤解が解けないままでいる。
「兄さん特有の要領の悪さなんだから、気にしたってしょうがないですよ。」
雪男は淡々と言う。雪男にしても中学に入って、以前のように兄に庇われたり世話を焼かれることがなくなったせいで、なんとなくその口調は拗ねたように聞こえる。しかし感情を隠すような淡々とした声は、修道士たちには放任しておけばいいというような意味で伝わってしまった。
「雪男。お前なあ、暴走族は今までのいじめっ子とは違うんだぞ。小学校から中学に上がったと同時に、燐が喧嘩する相手もグレードアップしたんだぞ。」
「中学入ってすぐに暴走族だぞ。そのうちヤクザや変質者に関わらないとも限らないぜ。そしたら俺らや藤本先生でさえもどうしようもなくなるぞ。」
雪男は溜息をつく。自分の言葉がそんな風に取られてしまったとは。それに冷静に考えてみれば、大の大人がそうそう中学生一人を狙いうつはずがないのにとも。
「だから。兄さんには規則正しい生活をさせるべきなんだってば。ちゃんと授業を受けさせて決まった時刻に帰宅させれば、そんなやばそうな物件にそうそう引っかかるもんじゃないよ。」
しかし冷静な中学生より、大の大人のほうがこの場面に限っては想像力を膨らませてしまう。雪男が自ら「僕が引っ張ってでも連れて行きます。」と言う前に、それは無理だと制される。
「あのな。お前、それはすげえ希望的な観測だぞ。それが出来れば俺らや、あの先生も苦労しねえぞ。」
何故か燐は昔からトラブルに巻き込まれやすい子どもだった。そしてその面倒ごとを、毎回、馬鹿力による暴力でで解決してしまう。それを見た観測者達からは、とんでもない化物として敬遠されていた。
燐にはどうしてもそうなってしまいがちな理由はある。その事情を知ってしまえば納得はいくが、そうそう言いふらすわけにはいかない事情だった。
「今の燐の精神状態で、ちゃんと学校行けとか家帰って来いは逆効果かもしれない。」
「あのですね。学校行くのは兄さんだけじゃないですし。言っちゃなんですけど、僕のクラスにいる素行の悪い連中のほうが、よほど出席率だけはいいですよ。」
「そいつらはつるんでいるだろ? 友達に会えるから学校にぶつくさ言いながら行ってたって、結局は楽しいんだよ。学校が。だけど燐は一人だから。」
「だからなんですか? 学校は人とつるむために行くところですか。違うでしょう。」
「そうだ。雪男の言うとおりだ。でも考えてみろよ。学生にとって何が自分の自信になるかってこと。周りにいる人間が自分を好きでいてくれるかどうかは、お前くらいの年頃の連中だと、かなり深刻なことじゃないのか?」
修道士の言葉に奥の席の藤本は頷く。雪男はまだ納得のいかないような顔をしていた。
「だからって! 兄さんを甘やかすつもりですか?」
確かに雪男の言うことは正論だ。学校に無理して行かなくていいというのは一つの親心の形だろうが、それはけして正しくない。だが――。
「雪男。お前だって分かってるだろ? 燐はもともとはいい子だ。学校の言ういい子に当て嵌まらない、そんな良い子だ。普通だったら暴走族に絡まれてる奴がいたとしても、それを看過するのが常識だ。やっても警察にこっそり通報するくらいが精々だ。それくらいでいいんだよ。善意ってのは。でもあいつは」
やっと口を開いた藤本の言葉だったが、雪男は睨みつけて奥歯をかみ締める。義父が言う警察に通報する程度の善意というのは、結局は正しいし一番スマートな方法だが――。
「わかってます。兄さんは善意以上のことをした。でもそのせいで! あの場は阿鼻叫喚の大惨事の現場になったし! 兄さんは先生から凶悪な暴力生徒というレッテルを貼られた! ……僕はそれが我慢ならないんだ。兄さんがほんの少し善意の気持ちを引っ込めてくれたり、適切な対処の仕方さえしてくれれば、今回のことは絶対なかったんだ。」
雪男の言葉に藤本は手慰みのエアタバコをもみ消す仕草をする。話の合間には吸ったつもりで息を吐いていたのを雪男は見ていた。本当にこの人はと、雪男のこめかみがひくつく。
雪男のジレンマを宥めるように、ひどく穏やかな顔をする藤本は言い切った。
「そんな燐なら、俺は大嫌いだな。お前は違うか?」
その問いに雪男は答えられない。
「それを、はっきり言えないなら諦めろ。それが一番あいつにとっても、お前にとっても最良だ。」
「なら兄さんのことは、一旦は現状維持。それしかない、ということですね。」
藤本は食卓に着いている雪男の手元を一瞥する。
今は帰りの遅い燐を残しての修道院の一同が夕食をとっている最中だった。そのときに燐についての会議めいたものが始まった。そしてそれが今終わって、再び夕食を食べ始める。
「いや。そのうち燐のほうからちゃんと帰らずにはいられなくなるぜ。だって雪男、弟のお前が心配になるだろうしな。」
「心配してるのは僕のほうだよ。」
雪男以外の一同は雪男の席をちらっと見て苦笑いを浮かべていた。こっそりと雪男に気づかれないように目を逸らす。何言か言おうかと、何かを口のなかで咀嚼する者もいた。しかし藤本はそれを目顔で制している。それを口にするのはお前の仕事じゃないと言わんばかりに。
燐不在の食卓がかれこれ半年続いていた。そしてその場は半年前と微妙に違ってきていた。燐がいないというだけでなく、燐が不在なことである変化がその弟に訪れていた。
「俺が保証する。明日必ず燐を夕食に参加させる。それ以降は、燐は門限の夕食時には帰ってくるようになるさ。ほれ雪男。こっち向け。」
「さっきから何こっちばかり撮ってるのかと思えば。何の悪ふざけなんだか。」
藤本は家庭用のビデオカメラを構えて雪男を映している。燐のことについて話題が出る前、つまり夕食が始まった時点から藤本は撮影を始めていた。雪男はそれは燐を心配する修道院の人々を撮影して、兄に対する里心を引き出そうという算段かと、ほんの少し義父に呆れていた。
「さっき諦めたほうが良いなんて言ったのは、逆効果なんじゃないですか。」
「いや。大丈夫。俺が何年あいつとお前の親代わりやってると思ってんだ。このビデオを見れば必ずあいつは、夕食までに帰ってこずにはいられなくなる。」
藤本はそう言うと雪男に向かってカメラを向けた。雪男は煩そうにそれに視線を向ける。しかし何も言わない。
「お前は気づかないだろうな。燐にとっちゃあ、これは衝撃映像なんだぜ。」
藤本の言葉に首を傾げながらも雪男は残りの夕食を黙々と片付け始めた。
* * *
「ただいま……」
「おかえり。」
「げ……。なんだよ。起きてたのかよ。」
燐は藤本に対しては主義なのか知らないが無抵抗っぽいところがある。
こっそりと真夜中に教会の裏口から入ってきたところを藤本に出迎えられてしまった。一応はごめんなさいと言ったのだが、それで済まされないことは知っている。だけどごめんなさいを言う以外に、燐に出来ることはなかった。そして懺悔室行きのお説教が始まると思った燐は気だるそうに歩を進めた。
藤本が連れて来たのは懺悔室ではなく居間だった。そこには夕食が用意されていた。
「さあ。お坊ちゃま。ビデオでも鑑賞されながら遅い夕食でもいかがですかね。」
門限破りの馬鹿息子への相応しい待遇とは反対の、甘すぎる対応だった。そこで一筋縄でいかないのが自分の義父であることを燐は知っている。
「………なんだよ。ついに俺のことなんか諦めたのかよ。」
燐は食欲はないが、淡々と夕食を食べ始める。今日も嫌なことがあったんだなと藤本はその様子から察していた。しかし燐は食べ物に当たる様子もなく、食事を拒否することもなく、綺麗な箸使いで食べていた。
藤本はそれに目を細めてしみじみと指摘する。
「――それにしても。お前は食事の仕方だけは上品だな。やっぱり料理作るやつってのは、作る者の心理が分かるぶんだけ、作られたものに敬意を払うべきだということが分かっている。だから食事は綺麗に食べるのが普通だと思っている。お前はそういう何気ない気遣いが出来るやつだ。」
「なんだよ。褒めるところがそれしかないからって、それでか……懐石されると思ってるのかよ。」
「それを言うなら懐柔だろ。」
燐の泣き言を藤本は一笑する。そしてビデオをセットすると居間のテレビでそれを再生し始めた。
「これは今日の夕食の時に撮ったやつだ。お前の席だけ空席だ。虚しいだろ。」
「べつに。」
「お前が食ってるこれは、あのテーブルに並んでいたアレを温め直した。」
それがどうしたんだと燐は藤本に目を向ける。それは藤本が見ても陰惨な目だった。燐だって本当はあの輪に入りたいけれど、自分のやらかした事件で掛けた迷惑の大きさを後の祭りの形で知ってしまっただけに、あの輪に入るのを遠慮しているのが見て取れた。だから修道院の人々が寝静まったころに、帰ってくるしかないと思い込んでしまっている。しかし画面の会話はそんな燐を案じている人々の会話が飛び交っている。
「なんだよ。こんなもん見せたからって、俺が反省すると思ってるのかよ。」
「そうだよな。余計なお世話かもしれないな。」
「どうせ俺は人と違って上手くやれねえよ。馬鹿だし。頭悪いし。」
「それ全部重複してんだよ。やっぱ馬鹿だな。お前。でもな、お前は見るとこ違ってるぞ。みんなが話してることが耳に痛くて聞きたくなくても、画面から目を逸らすな。ちゃんと画面を見ろ。」
燐は意地になって画面を凝視する。何気ない燐の視線に、ズームされた雪男の姿が大写しになる。藤本が意図的に撮った場面だった。
「おい。ジジイ。なんだよこれ。」
燐は綺麗に持っていた箸を取り落とし、呆然と画面の弟を食い入るように見つめていた。
「こ、こ、こ、こんなのって……。」
「なんだよ? なんかおかしいことあるか?」
「いや。ジジイ。分かるだろ? こんなことがあって、良いと思ってのんかよ!」
「なにが? 人にとっては、それはそれでありだろ?」
テレビにはしかめっ面をして食事を摂る雪男がいた。ただ、食事を摂っているだけ。燐がその姿を見て驚愕しているとは少しも思っていないように、自然な動作で箸を口に運んでいる。
「嘘だあああああああああああああああああああ!」
ついに燐の口から悲鳴が迸った。
「ジジイ。なんか、俺、ごめん……。」
「謝ることないんだぜ。これからお前がちゃんと夕食に参加してくれたら、俺はなんにも言うことはねえ。」
「わかった。わかったから。ちゃんと明日から夕食までには帰る。」
藤本は燐の頭をぽんと叩くと、黙って居間から出ていく。
「俺の、俺の雪男が。ごめん。ごめんなさい。」
燐はぶつぶつと呟きながら、画面の弟に縋りつく。相変わらず画面の中の雪男は黙々と夕食を食べていた。
* * *
「ほんとに兄さん帰ってきた!」
「よお。今まで俺が悪かった。……みんな、今まで心配掛けてごめんなさい。」
昨夜の義父の言葉を半信半疑どころか全然信じていなかった雪男は、夕食時きっかり食堂に現れた兄を見て、思わず身体を竦ませていた。
「だーから。言ったろ。あの映像には帰ってこざる得ない魔法がかかってた。」
「そこまでは言ってなかったでしょ。でもいいよ。兄さん、本当はちゃんと学校も行っておくべきだろうけど……。ちゃんと決まった時刻に帰宅するところから始めてで、いいよ。今日はこれ以上、説教みたいなことは控えるから。」
辛辣なことを言いながら、雪男の口調の端々に甘さのようなものが窺えた。
「ああ。これからはちゃんと帰宅してお前と一緒にメシを食うからな、兄ちゃん。」
燐の言葉にも弟を慈しむような気配が滲んでいる。その様子を藤本は何回も頷きながら奥の席から見ていた。
じゃあ、いただきますと雪男は手を合わせて箸を取る。雪男の隣で燐はそれを横目でちらっと見た。雪男は久しぶりに兄と一緒なのが嬉しいのか、昨日のビデオのようなしかめっ面は浮かべていない。心から嬉しそうにしている。
五分が経過した。すっと燐が席を立ち、雪男の真後ろに回る。
「雪男。箸はこっちな。」
燐は雪男の左手から箸を取り上げて右手に持ち替えさせる。
「それから、こっちの左手は、ちゃんとお茶碗持って。」
燐は方肘をついていた雪男の左手に茶碗を持たせる。」
「あと、箸は握るんじゃなくて、こう持つ。」
「ああ。そうだったね。」
雪男の箸の先には唐揚げが齧りかけで突き刺さっていた。
「フォークじゃないんだから。箸で食べ物を突き刺さない。握らずに正しい持ち方をすれば挟めるだろ。兄ちゃんはちゃんと雪男に教えたよな。」
「あ。ああ。ああ。半年前までは覚えてたんだけど。兄さんがいなかったから忘れてたよ。」
燐は雪男の言葉に少し泣きそうな顔をしたあと、皿や茶碗の間に広げられていたテキストやノートを閉じて食卓から追いやる。食堂に雪男が持ってきて、食事をしながら読んでいたものだった。
それは半年ほど続いた、ながら勉強のながら食いの習慣そのものだった。
「ご飯を食べるときに本を読むのはお行儀が悪いって、兄ちゃん、教えたよ……な?」
「ああ。そうだったかな。兄さんが半年間いなかったから、意識したことなかった。」
雪男は何気なく兄を振り向く。兄は目頭を押さえていた。
「兄さん! 泣いているの? なんで?」
「いや。いいんだ。雪男、それとな。椅子の上で胡坐かくのやめような。」
「兄さんが言うなら、やめるよ。楽だったんだけどな。」
うんうんと燐は繰り返している。双子の様子を藤本はにやにやと笑いながら見ている。修道士たちは昨日とは別の意味で苦笑いを浮かべていた。
「先生は燐の弱点知り尽くしてるよな。」
「俺らは思いも寄らなかったけど。考えてみれば下手な説得や説教より効くじゃねえか。」
「雪男は燐にとって生きた芸術品っぽいとこあったからな。」
「まさかわずか半年放置で、ああなるとは思わなかっただけに。」
ひそひそ声で囁きあい思い知ったというように顔を見合わせる修道士たち。その間にも燐は雪男に一つ一つ修整を加えていく。
「雪男。ふりかけをかけたご飯をしつこくかき混ぜるもんじゃねえぜ。ご飯がねばっちまう。キャベツを、……ぼろぼろ落とすな。ちゃんと口の許容範囲で摘んで食えばいいんだ。ああああ! コップもちゃんと持ち替えてから水飲めよ。テーブルに置いたまま口つけるんじゃねえよ……。ああああ……。俺の雪男が。俺の完璧だった雪男が……。」
燐は泣きながら雪男の後ろで雪男の食事を矯正していく。今日の雪男は兄が久しぶりに夕食に参加して、なおかつ自分に泣くほど構ってくれるので、小言を言われながらも上機嫌だった。
* * *
「ほら見ろ。お前の弟は半年放置しただけでこのザマだ。簡単に色んなこと放り投げるもんじゃねえことは、身に染みて分かったろう。」
食堂から憔悴して出てきた燐に声をかけた藤本に、燐は恨めしそうに上目遣いに睨みつける。
「雪男はもともと食事に関しちゃあ、あまり関心のないガキだったからな。それを一つ一つ矯正して、完璧なテーブルマナーを仕込んだのはお前だったはずだ。ガキの癖に凝り性で、男の癖に料理が上手くて、男兄弟相手にヒギンズ教授を気取っていた、そんなお前。そんなつもりなかったと言わせやしねえぞ。お前は雪男を完璧な、お行儀が良くて、可愛くて、頭がいい、そんな存在に仕立て上げて悦に入っていた。そしてそれが半ば生きがいの一つだった。雪男はお前にとって完全なマイ・フェア・レディ! 空想や仮想でしか在り得ない淑女。弟相手にそれを達成したお前はすごい! 同じ男として俺はお前を賞賛する。」
燐が作り上げたかったのは、御伽噺の中でしか在り得ないお姫様。ガラスケースの中の綺麗なお人形。藤本は十年以上、そんな兄の性癖を看過し続けていた。
「そうだよ。雪男は俺の自慢の弟だ! その昔、メシの食い方がなってなかったあいつを、俺が手取り足取り教えた。俺が兄ちゃんらしいことが出来る数少ないことだったんだ。俺はそのために専門書まで読み漁り、なのに……」
燐は泣きそうな顔をして首を振る。藤本は、お前は馬鹿の癖にそんなとこばかり凝り性だったよなと相槌を打つ。燐は叫ぶ。
「半年間放っておいただけでああなった。完璧じゃねえよ! 普通だったら箸の持ち方とか食事の仕方は、幼い頃からの習慣がそのままなはずだ! だから小さいうちに箸の持ち方はしつこく躾けられるだろうが。中一の春と夏。たったそれだけの間に……にぎり箸、刺し箸とかが当たり前になるなんて、あり得ねえ!」
「でもそうなっちまったんだから、しょうがねえじゃん。」
「しょうがないなんて言うな! ジジイだってあのメシの食い方がおかしいって、気づいてただろ。注意出来ただろ。」
「いや。最初の頃は注意はしてたんだけどよ。俺相手だと一瞬ももたなかったな。」
雪男は兄が側にいないと、箸を握って持ち、食べ物をそれで突き刺しかじり、茶碗をテーブルに置いたまま、本を片手に、椅子の上で胡坐を掻いて、……。それが約半年間。燐には、自分がいない間にそんな光景が普通になっていたことが恐ろしくて仕方が無い。
「燐。半年前の雪男はお前が作り上げた芸術品だった。でも雪男は生きた芸術品だ。放っておくとそりゃあ劣化する。お前は芸術家気質とは別に、愛情を込めて雪男を理想の弟に作り上げたんだろ? その愛が欠如した芸術品は製作者に放っておかれれば、何かを見失ったように壊れていくもんさ。」
藤本はいいことを言っているが、中学生になって、燐には内緒の雪男の祓魔師認定試験に向けた特訓や勉強が激烈になっていて、雪男にしてもかなり時間的体力的にきついことになっていた。食事など片手間になっていても仕方ないくらいに。食事に神経を使う時間があれば、そのぶん悪魔薬学のテキストを読んでおくべきだと藤本は考えていた。
雪男の中では兄を守るという大義名分のもと、インプットされた使命故に、兄が教えた大事なことを簡単に投げ出した。そして半年、やっと雪男の祓魔師修行も一段落した。しかし大事な兄の為に投げ出したものは元に戻らなかった。
藤本はそれを口実に燐を更正させるネタにした。
言うなれば全て藤本のせい。
燐が中学に上がってますます周りと上手くいかなくなっても、雪男の認定試験を優先させたために放置せざるをえなかった。結果、燐は半年間門限を破り続け、その間にも雪男の劣化は進んでいた。目に見えて顕著なのは食事なのだが、燐の目から見ればもっと壊れて放置されたままの雪男の「ひどいこと」は見つかるかもしれない。
全ては藤本の「見ざる・言わざる・聞かざる」が原因なのだが、当の藤本はそんなことは屁とも思っていない。藤本は親がやるべき精一杯以上はやったのだ。精一杯以上故にいろんな不具合が出ただけ。ただそれだけ。そんなのはどこの家庭の子どもにも出てくる問題だ。気にしていても仕方が無い。藤本の切捨て御免の思考は後に波紋を呼ぶだろうが、それはまだ先のことだ。それこそ今よりも成長した息子達が乗り越えるべき試練だと、神の身でもないくせに考えた。
しかし藤本だって胸が痛まないわけじゃない。それだけはこの二人の息子達に分かって欲しいと思ってしまう。藤本の最善が、けして最高でないことは知っていて欲しい。
燐は雪男に最善を尽くした。しかしそれは最高の結果を生まなかった。放っておけば簡単に壊れてしまう、そんなガラス細工を作っただけだった。
「まあな。雪男は寂しかったんだろうな。」
そんな雪男の感情にも知らぬ存ぜぬを決め込んだ藤本だった。お陰で雪男はもう一歩で最年少祓魔師という称号を手にするだろう。何もかもが報われないわけじゃない。そしてそれが確実になったからこそ、藤本は今更になって燐を雪男のもとに呼び戻した。大いに嘆かせ大いに後悔させ、連れ戻した。なにもかもが行き当たりばったりのスマートじゃない最悪なやり方だった、だろうことは身に染みて分かっている。だが後悔はない。
「俺は、お前らを信じていたからな。」
「じ、ジジイ……。」
燐は堪えきれずに藤本に縋って泣きじゃくり始める。最高峰祓魔師聖騎士・藤本獅郎。彼はここではただの困った父親でしかなかった。
雪ちゃんが壊れててすみません。兄ちゃんがフェチでごめんなさい。藤本がマナーに関してネグレクトでごめんなさい。高校に入ってからの続編はもしかしたら書くかも。雪ちゃんは果たして兄さんの人形姫から抜け出せるか?
それは奥村燐とその弟の雪男の生活の変化を告げるものだった。
暗くなった窓の外を見ながら雪男と藤本と修道士達は顔を見合わせていた。兄は今日も帰りが遅い。典型的な不良の生活リズムになりつつある。
「この前あいつの担任が顔青くしてやってきたよな。」
それは地元の地方紙に小さく記事になった事件だった。燐はその当時、近所に騒音と迷惑と危険を振りまいていた某暴走族グループを、たった一人で壊滅せしめたのだった。しかし学校側としてはそんなハチャメチャな英雄は望むところではなかったらしい。だから担任が厳重注意の為の家庭訪問に来てしまったのだった。
「あの時、燐が大人しくしていてくれたら……」
当の燐は自分のしたことが、どれほど他人を恐れさせるか分かっていなかった。燐の帰り際に集団で危険走行をした上に、通りかかったカップルに脅迫に近いレベルのかつあげまがいをしているチンピラどもがいた。それにぶちぎれて燐は、暴走族に喧嘩を売ったのだった。そして見事に勝った。
その事情は南十字教会に後日やってきた燐の担任から、事実を大幅に歪曲された苦情として藤本のもとに届いた。教師は警察沙汰になったということが学校側にとって由々しき問題だと決めつけ、燐に対する評価をあっというまに地に落とした。そしてそれを孤児で教会育ちという家庭環境のせいにした。それにまた燐がきれて教師に掴みかかり、結果、教師の中の燐の評価を悪化させ誤解が解けないままでいる。
「兄さん特有の要領の悪さなんだから、気にしたってしょうがないですよ。」
雪男は淡々と言う。雪男にしても中学に入って、以前のように兄に庇われたり世話を焼かれることがなくなったせいで、なんとなくその口調は拗ねたように聞こえる。しかし感情を隠すような淡々とした声は、修道士たちには放任しておけばいいというような意味で伝わってしまった。
「雪男。お前なあ、暴走族は今までのいじめっ子とは違うんだぞ。小学校から中学に上がったと同時に、燐が喧嘩する相手もグレードアップしたんだぞ。」
「中学入ってすぐに暴走族だぞ。そのうちヤクザや変質者に関わらないとも限らないぜ。そしたら俺らや藤本先生でさえもどうしようもなくなるぞ。」
雪男は溜息をつく。自分の言葉がそんな風に取られてしまったとは。それに冷静に考えてみれば、大の大人がそうそう中学生一人を狙いうつはずがないのにとも。
「だから。兄さんには規則正しい生活をさせるべきなんだってば。ちゃんと授業を受けさせて決まった時刻に帰宅させれば、そんなやばそうな物件にそうそう引っかかるもんじゃないよ。」
しかし冷静な中学生より、大の大人のほうがこの場面に限っては想像力を膨らませてしまう。雪男が自ら「僕が引っ張ってでも連れて行きます。」と言う前に、それは無理だと制される。
「あのな。お前、それはすげえ希望的な観測だぞ。それが出来れば俺らや、あの先生も苦労しねえぞ。」
何故か燐は昔からトラブルに巻き込まれやすい子どもだった。そしてその面倒ごとを、毎回、馬鹿力による暴力でで解決してしまう。それを見た観測者達からは、とんでもない化物として敬遠されていた。
燐にはどうしてもそうなってしまいがちな理由はある。その事情を知ってしまえば納得はいくが、そうそう言いふらすわけにはいかない事情だった。
「今の燐の精神状態で、ちゃんと学校行けとか家帰って来いは逆効果かもしれない。」
「あのですね。学校行くのは兄さんだけじゃないですし。言っちゃなんですけど、僕のクラスにいる素行の悪い連中のほうが、よほど出席率だけはいいですよ。」
「そいつらはつるんでいるだろ? 友達に会えるから学校にぶつくさ言いながら行ってたって、結局は楽しいんだよ。学校が。だけど燐は一人だから。」
「だからなんですか? 学校は人とつるむために行くところですか。違うでしょう。」
「そうだ。雪男の言うとおりだ。でも考えてみろよ。学生にとって何が自分の自信になるかってこと。周りにいる人間が自分を好きでいてくれるかどうかは、お前くらいの年頃の連中だと、かなり深刻なことじゃないのか?」
修道士の言葉に奥の席の藤本は頷く。雪男はまだ納得のいかないような顔をしていた。
「だからって! 兄さんを甘やかすつもりですか?」
確かに雪男の言うことは正論だ。学校に無理して行かなくていいというのは一つの親心の形だろうが、それはけして正しくない。だが――。
「雪男。お前だって分かってるだろ? 燐はもともとはいい子だ。学校の言ういい子に当て嵌まらない、そんな良い子だ。普通だったら暴走族に絡まれてる奴がいたとしても、それを看過するのが常識だ。やっても警察にこっそり通報するくらいが精々だ。それくらいでいいんだよ。善意ってのは。でもあいつは」
やっと口を開いた藤本の言葉だったが、雪男は睨みつけて奥歯をかみ締める。義父が言う警察に通報する程度の善意というのは、結局は正しいし一番スマートな方法だが――。
「わかってます。兄さんは善意以上のことをした。でもそのせいで! あの場は阿鼻叫喚の大惨事の現場になったし! 兄さんは先生から凶悪な暴力生徒というレッテルを貼られた! ……僕はそれが我慢ならないんだ。兄さんがほんの少し善意の気持ちを引っ込めてくれたり、適切な対処の仕方さえしてくれれば、今回のことは絶対なかったんだ。」
雪男の言葉に藤本は手慰みのエアタバコをもみ消す仕草をする。話の合間には吸ったつもりで息を吐いていたのを雪男は見ていた。本当にこの人はと、雪男のこめかみがひくつく。
雪男のジレンマを宥めるように、ひどく穏やかな顔をする藤本は言い切った。
「そんな燐なら、俺は大嫌いだな。お前は違うか?」
その問いに雪男は答えられない。
「それを、はっきり言えないなら諦めろ。それが一番あいつにとっても、お前にとっても最良だ。」
「なら兄さんのことは、一旦は現状維持。それしかない、ということですね。」
藤本は食卓に着いている雪男の手元を一瞥する。
今は帰りの遅い燐を残しての修道院の一同が夕食をとっている最中だった。そのときに燐についての会議めいたものが始まった。そしてそれが今終わって、再び夕食を食べ始める。
「いや。そのうち燐のほうからちゃんと帰らずにはいられなくなるぜ。だって雪男、弟のお前が心配になるだろうしな。」
「心配してるのは僕のほうだよ。」
雪男以外の一同は雪男の席をちらっと見て苦笑いを浮かべていた。こっそりと雪男に気づかれないように目を逸らす。何言か言おうかと、何かを口のなかで咀嚼する者もいた。しかし藤本はそれを目顔で制している。それを口にするのはお前の仕事じゃないと言わんばかりに。
燐不在の食卓がかれこれ半年続いていた。そしてその場は半年前と微妙に違ってきていた。燐がいないというだけでなく、燐が不在なことである変化がその弟に訪れていた。
「俺が保証する。明日必ず燐を夕食に参加させる。それ以降は、燐は門限の夕食時には帰ってくるようになるさ。ほれ雪男。こっち向け。」
「さっきから何こっちばかり撮ってるのかと思えば。何の悪ふざけなんだか。」
藤本は家庭用のビデオカメラを構えて雪男を映している。燐のことについて話題が出る前、つまり夕食が始まった時点から藤本は撮影を始めていた。雪男はそれは燐を心配する修道院の人々を撮影して、兄に対する里心を引き出そうという算段かと、ほんの少し義父に呆れていた。
「さっき諦めたほうが良いなんて言ったのは、逆効果なんじゃないですか。」
「いや。大丈夫。俺が何年あいつとお前の親代わりやってると思ってんだ。このビデオを見れば必ずあいつは、夕食までに帰ってこずにはいられなくなる。」
藤本はそう言うと雪男に向かってカメラを向けた。雪男は煩そうにそれに視線を向ける。しかし何も言わない。
「お前は気づかないだろうな。燐にとっちゃあ、これは衝撃映像なんだぜ。」
藤本の言葉に首を傾げながらも雪男は残りの夕食を黙々と片付け始めた。
* * *
「ただいま……」
「おかえり。」
「げ……。なんだよ。起きてたのかよ。」
燐は藤本に対しては主義なのか知らないが無抵抗っぽいところがある。
こっそりと真夜中に教会の裏口から入ってきたところを藤本に出迎えられてしまった。一応はごめんなさいと言ったのだが、それで済まされないことは知っている。だけどごめんなさいを言う以外に、燐に出来ることはなかった。そして懺悔室行きのお説教が始まると思った燐は気だるそうに歩を進めた。
藤本が連れて来たのは懺悔室ではなく居間だった。そこには夕食が用意されていた。
「さあ。お坊ちゃま。ビデオでも鑑賞されながら遅い夕食でもいかがですかね。」
門限破りの馬鹿息子への相応しい待遇とは反対の、甘すぎる対応だった。そこで一筋縄でいかないのが自分の義父であることを燐は知っている。
「………なんだよ。ついに俺のことなんか諦めたのかよ。」
燐は食欲はないが、淡々と夕食を食べ始める。今日も嫌なことがあったんだなと藤本はその様子から察していた。しかし燐は食べ物に当たる様子もなく、食事を拒否することもなく、綺麗な箸使いで食べていた。
藤本はそれに目を細めてしみじみと指摘する。
「――それにしても。お前は食事の仕方だけは上品だな。やっぱり料理作るやつってのは、作る者の心理が分かるぶんだけ、作られたものに敬意を払うべきだということが分かっている。だから食事は綺麗に食べるのが普通だと思っている。お前はそういう何気ない気遣いが出来るやつだ。」
「なんだよ。褒めるところがそれしかないからって、それでか……懐石されると思ってるのかよ。」
「それを言うなら懐柔だろ。」
燐の泣き言を藤本は一笑する。そしてビデオをセットすると居間のテレビでそれを再生し始めた。
「これは今日の夕食の時に撮ったやつだ。お前の席だけ空席だ。虚しいだろ。」
「べつに。」
「お前が食ってるこれは、あのテーブルに並んでいたアレを温め直した。」
それがどうしたんだと燐は藤本に目を向ける。それは藤本が見ても陰惨な目だった。燐だって本当はあの輪に入りたいけれど、自分のやらかした事件で掛けた迷惑の大きさを後の祭りの形で知ってしまっただけに、あの輪に入るのを遠慮しているのが見て取れた。だから修道院の人々が寝静まったころに、帰ってくるしかないと思い込んでしまっている。しかし画面の会話はそんな燐を案じている人々の会話が飛び交っている。
「なんだよ。こんなもん見せたからって、俺が反省すると思ってるのかよ。」
「そうだよな。余計なお世話かもしれないな。」
「どうせ俺は人と違って上手くやれねえよ。馬鹿だし。頭悪いし。」
「それ全部重複してんだよ。やっぱ馬鹿だな。お前。でもな、お前は見るとこ違ってるぞ。みんなが話してることが耳に痛くて聞きたくなくても、画面から目を逸らすな。ちゃんと画面を見ろ。」
燐は意地になって画面を凝視する。何気ない燐の視線に、ズームされた雪男の姿が大写しになる。藤本が意図的に撮った場面だった。
「おい。ジジイ。なんだよこれ。」
燐は綺麗に持っていた箸を取り落とし、呆然と画面の弟を食い入るように見つめていた。
「こ、こ、こ、こんなのって……。」
「なんだよ? なんかおかしいことあるか?」
「いや。ジジイ。分かるだろ? こんなことがあって、良いと思ってのんかよ!」
「なにが? 人にとっては、それはそれでありだろ?」
テレビにはしかめっ面をして食事を摂る雪男がいた。ただ、食事を摂っているだけ。燐がその姿を見て驚愕しているとは少しも思っていないように、自然な動作で箸を口に運んでいる。
「嘘だあああああああああああああああああああ!」
ついに燐の口から悲鳴が迸った。
「ジジイ。なんか、俺、ごめん……。」
「謝ることないんだぜ。これからお前がちゃんと夕食に参加してくれたら、俺はなんにも言うことはねえ。」
「わかった。わかったから。ちゃんと明日から夕食までには帰る。」
藤本は燐の頭をぽんと叩くと、黙って居間から出ていく。
「俺の、俺の雪男が。ごめん。ごめんなさい。」
燐はぶつぶつと呟きながら、画面の弟に縋りつく。相変わらず画面の中の雪男は黙々と夕食を食べていた。
* * *
「ほんとに兄さん帰ってきた!」
「よお。今まで俺が悪かった。……みんな、今まで心配掛けてごめんなさい。」
昨夜の義父の言葉を半信半疑どころか全然信じていなかった雪男は、夕食時きっかり食堂に現れた兄を見て、思わず身体を竦ませていた。
「だーから。言ったろ。あの映像には帰ってこざる得ない魔法がかかってた。」
「そこまでは言ってなかったでしょ。でもいいよ。兄さん、本当はちゃんと学校も行っておくべきだろうけど……。ちゃんと決まった時刻に帰宅するところから始めてで、いいよ。今日はこれ以上、説教みたいなことは控えるから。」
辛辣なことを言いながら、雪男の口調の端々に甘さのようなものが窺えた。
「ああ。これからはちゃんと帰宅してお前と一緒にメシを食うからな、兄ちゃん。」
燐の言葉にも弟を慈しむような気配が滲んでいる。その様子を藤本は何回も頷きながら奥の席から見ていた。
じゃあ、いただきますと雪男は手を合わせて箸を取る。雪男の隣で燐はそれを横目でちらっと見た。雪男は久しぶりに兄と一緒なのが嬉しいのか、昨日のビデオのようなしかめっ面は浮かべていない。心から嬉しそうにしている。
五分が経過した。すっと燐が席を立ち、雪男の真後ろに回る。
「雪男。箸はこっちな。」
燐は雪男の左手から箸を取り上げて右手に持ち替えさせる。
「それから、こっちの左手は、ちゃんとお茶碗持って。」
燐は方肘をついていた雪男の左手に茶碗を持たせる。」
「あと、箸は握るんじゃなくて、こう持つ。」
「ああ。そうだったね。」
雪男の箸の先には唐揚げが齧りかけで突き刺さっていた。
「フォークじゃないんだから。箸で食べ物を突き刺さない。握らずに正しい持ち方をすれば挟めるだろ。兄ちゃんはちゃんと雪男に教えたよな。」
「あ。ああ。ああ。半年前までは覚えてたんだけど。兄さんがいなかったから忘れてたよ。」
燐は雪男の言葉に少し泣きそうな顔をしたあと、皿や茶碗の間に広げられていたテキストやノートを閉じて食卓から追いやる。食堂に雪男が持ってきて、食事をしながら読んでいたものだった。
それは半年ほど続いた、ながら勉強のながら食いの習慣そのものだった。
「ご飯を食べるときに本を読むのはお行儀が悪いって、兄ちゃん、教えたよ……な?」
「ああ。そうだったかな。兄さんが半年間いなかったから、意識したことなかった。」
雪男は何気なく兄を振り向く。兄は目頭を押さえていた。
「兄さん! 泣いているの? なんで?」
「いや。いいんだ。雪男、それとな。椅子の上で胡坐かくのやめような。」
「兄さんが言うなら、やめるよ。楽だったんだけどな。」
うんうんと燐は繰り返している。双子の様子を藤本はにやにやと笑いながら見ている。修道士たちは昨日とは別の意味で苦笑いを浮かべていた。
「先生は燐の弱点知り尽くしてるよな。」
「俺らは思いも寄らなかったけど。考えてみれば下手な説得や説教より効くじゃねえか。」
「雪男は燐にとって生きた芸術品っぽいとこあったからな。」
「まさかわずか半年放置で、ああなるとは思わなかっただけに。」
ひそひそ声で囁きあい思い知ったというように顔を見合わせる修道士たち。その間にも燐は雪男に一つ一つ修整を加えていく。
「雪男。ふりかけをかけたご飯をしつこくかき混ぜるもんじゃねえぜ。ご飯がねばっちまう。キャベツを、……ぼろぼろ落とすな。ちゃんと口の許容範囲で摘んで食えばいいんだ。ああああ! コップもちゃんと持ち替えてから水飲めよ。テーブルに置いたまま口つけるんじゃねえよ……。ああああ……。俺の雪男が。俺の完璧だった雪男が……。」
燐は泣きながら雪男の後ろで雪男の食事を矯正していく。今日の雪男は兄が久しぶりに夕食に参加して、なおかつ自分に泣くほど構ってくれるので、小言を言われながらも上機嫌だった。
* * *
「ほら見ろ。お前の弟は半年放置しただけでこのザマだ。簡単に色んなこと放り投げるもんじゃねえことは、身に染みて分かったろう。」
食堂から憔悴して出てきた燐に声をかけた藤本に、燐は恨めしそうに上目遣いに睨みつける。
「雪男はもともと食事に関しちゃあ、あまり関心のないガキだったからな。それを一つ一つ矯正して、完璧なテーブルマナーを仕込んだのはお前だったはずだ。ガキの癖に凝り性で、男の癖に料理が上手くて、男兄弟相手にヒギンズ教授を気取っていた、そんなお前。そんなつもりなかったと言わせやしねえぞ。お前は雪男を完璧な、お行儀が良くて、可愛くて、頭がいい、そんな存在に仕立て上げて悦に入っていた。そしてそれが半ば生きがいの一つだった。雪男はお前にとって完全なマイ・フェア・レディ! 空想や仮想でしか在り得ない淑女。弟相手にそれを達成したお前はすごい! 同じ男として俺はお前を賞賛する。」
燐が作り上げたかったのは、御伽噺の中でしか在り得ないお姫様。ガラスケースの中の綺麗なお人形。藤本は十年以上、そんな兄の性癖を看過し続けていた。
「そうだよ。雪男は俺の自慢の弟だ! その昔、メシの食い方がなってなかったあいつを、俺が手取り足取り教えた。俺が兄ちゃんらしいことが出来る数少ないことだったんだ。俺はそのために専門書まで読み漁り、なのに……」
燐は泣きそうな顔をして首を振る。藤本は、お前は馬鹿の癖にそんなとこばかり凝り性だったよなと相槌を打つ。燐は叫ぶ。
「半年間放っておいただけでああなった。完璧じゃねえよ! 普通だったら箸の持ち方とか食事の仕方は、幼い頃からの習慣がそのままなはずだ! だから小さいうちに箸の持ち方はしつこく躾けられるだろうが。中一の春と夏。たったそれだけの間に……にぎり箸、刺し箸とかが当たり前になるなんて、あり得ねえ!」
「でもそうなっちまったんだから、しょうがねえじゃん。」
「しょうがないなんて言うな! ジジイだってあのメシの食い方がおかしいって、気づいてただろ。注意出来ただろ。」
「いや。最初の頃は注意はしてたんだけどよ。俺相手だと一瞬ももたなかったな。」
雪男は兄が側にいないと、箸を握って持ち、食べ物をそれで突き刺しかじり、茶碗をテーブルに置いたまま、本を片手に、椅子の上で胡坐を掻いて、……。それが約半年間。燐には、自分がいない間にそんな光景が普通になっていたことが恐ろしくて仕方が無い。
「燐。半年前の雪男はお前が作り上げた芸術品だった。でも雪男は生きた芸術品だ。放っておくとそりゃあ劣化する。お前は芸術家気質とは別に、愛情を込めて雪男を理想の弟に作り上げたんだろ? その愛が欠如した芸術品は製作者に放っておかれれば、何かを見失ったように壊れていくもんさ。」
藤本はいいことを言っているが、中学生になって、燐には内緒の雪男の祓魔師認定試験に向けた特訓や勉強が激烈になっていて、雪男にしてもかなり時間的体力的にきついことになっていた。食事など片手間になっていても仕方ないくらいに。食事に神経を使う時間があれば、そのぶん悪魔薬学のテキストを読んでおくべきだと藤本は考えていた。
雪男の中では兄を守るという大義名分のもと、インプットされた使命故に、兄が教えた大事なことを簡単に投げ出した。そして半年、やっと雪男の祓魔師修行も一段落した。しかし大事な兄の為に投げ出したものは元に戻らなかった。
藤本はそれを口実に燐を更正させるネタにした。
言うなれば全て藤本のせい。
燐が中学に上がってますます周りと上手くいかなくなっても、雪男の認定試験を優先させたために放置せざるをえなかった。結果、燐は半年間門限を破り続け、その間にも雪男の劣化は進んでいた。目に見えて顕著なのは食事なのだが、燐の目から見ればもっと壊れて放置されたままの雪男の「ひどいこと」は見つかるかもしれない。
全ては藤本の「見ざる・言わざる・聞かざる」が原因なのだが、当の藤本はそんなことは屁とも思っていない。藤本は親がやるべき精一杯以上はやったのだ。精一杯以上故にいろんな不具合が出ただけ。ただそれだけ。そんなのはどこの家庭の子どもにも出てくる問題だ。気にしていても仕方が無い。藤本の切捨て御免の思考は後に波紋を呼ぶだろうが、それはまだ先のことだ。それこそ今よりも成長した息子達が乗り越えるべき試練だと、神の身でもないくせに考えた。
しかし藤本だって胸が痛まないわけじゃない。それだけはこの二人の息子達に分かって欲しいと思ってしまう。藤本の最善が、けして最高でないことは知っていて欲しい。
燐は雪男に最善を尽くした。しかしそれは最高の結果を生まなかった。放っておけば簡単に壊れてしまう、そんなガラス細工を作っただけだった。
「まあな。雪男は寂しかったんだろうな。」
そんな雪男の感情にも知らぬ存ぜぬを決め込んだ藤本だった。お陰で雪男はもう一歩で最年少祓魔師という称号を手にするだろう。何もかもが報われないわけじゃない。そしてそれが確実になったからこそ、藤本は今更になって燐を雪男のもとに呼び戻した。大いに嘆かせ大いに後悔させ、連れ戻した。なにもかもが行き当たりばったりのスマートじゃない最悪なやり方だった、だろうことは身に染みて分かっている。だが後悔はない。
「俺は、お前らを信じていたからな。」
「じ、ジジイ……。」
燐は堪えきれずに藤本に縋って泣きじゃくり始める。最高峰祓魔師聖騎士・藤本獅郎。彼はここではただの困った父親でしかなかった。
雪ちゃんが壊れててすみません。兄ちゃんがフェチでごめんなさい。藤本がマナーに関してネグレクトでごめんなさい。高校に入ってからの続編はもしかしたら書くかも。雪ちゃんは果たして兄さんの人形姫から抜け出せるか?
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