幸福雑音
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☆ss『蟷螂の歌』 (伊作×雑渡)
伊作×雑渡。甘めのちしょっぱめ。
蟷螂の歌
きりぎりすが恋の歌を歌っている。
「誰を呼んでいるんだろうね。あの蟷螂は。」
雑渡のわざとかどうか分からないボケに、伊作は前のめりになってひっくり返った。
「え? 蟷螂って鳴かなかったっけ?」
「鳴きませんよ……。」
雑渡は包帯の間から眼をぱちくりさせながら、こけている伊作を見ている。どうやらボケではなく本気で思い込んでいたらしい。
しかし伊作は、三十六歳の男に言い聞かせるように言う。
「いいですか? 蟷螂は鳴きません。雌の出す特殊な匂いに惹かれて、雄が雌を見つけるんです。鳴く虫は雄が雌を呼ぶために鳴くんですよ。」
「へえ。そうなの?」
「そうなんですよ。」
「いやあ。おじさんは知識が偏ってるから。」
小さな子どもでも知っているようなことを、このいい大人は知らないという。呆れる前に、怖気が立った。伊作からすればいつ誰から教えて貰ったなど、とうの昔に忘れて当然なほどの、知識以前のものなのに。
想像出来ることは、隣でずっと蟷螂が鳴くと思い込んでいた大人は、あまりまっとうな幼少時代を過ごしていないのかもしれない、ということだった。
「いや。僕はどの虫が鳴くのか知らないから、虫の鳴き声が聞こえてきたら、蟷螂で想像してたんだけど。あの頑丈な顎見てるとさあ……。良い音しそうだよね。でも鳴かないかな? 蟷螂。鳴いたら面白そうだけどなあ。」
「三十六になるまで、その思い込みを誰にも正して貰えなかったんですね。というか、虫は顎で鳴きません。」
「本当に伊作君はなんでも知ってるねえ。」
この程度の薀蓄で褒められるほうが、なんとなく辛くなってくる。しかし伊作は気を取り直そうと思った。だって、本当に久しぶりに、雑渡といちゃつけると思っていたのだし。それは今、実現しているのだから。
伊作は縁側に座っている雑渡の側に移動して、その隣に座る。そして腰に手を回すと、雑渡は伊作の肩に凭れかかってきた。
「この家も大分、人が住めるようになってきましたね。最初来た時はなーんにもなくって、殺風景を通り越して殺伐としてましたから。」
雑渡は思い出していた。自分の家のはずなのに、帰ってきても安らげる場所じゃなかった。帰るべき時に帰らなかったから、家の中に必要なものは増えず、それで余計に帰らなくなるという悪循環を繰り返していた。ただ自分の身分として、一戸建ての屋敷がなければ体裁が取れなかったので、必要はないけれど所有していただけの家だった。まるで愛着のない場所だった。
「家具なんかも増えましたよね。結構趣味がいいものばかりで。」
「今まで使わなかったお金を使ったからね。あと、小頭にコーディネートしてもらったり。」
元々は庶民クラスのいい加減な建て方をした家ではなく、それなりの職人の手による屋敷なので、それなりの調度品を配せば、それなり以上に趣のある佇まいにはなった。流石に荒れ放題だった庭も草を刈って、庭木を剪定すれば、庭園と呼んでも可笑しくないくらいには、その本来のあるべき姿に回復した。
雑渡はその庭を眺めながら何気ないふうを装い、雑渡の尻を撫でている伊作の手を抓る。
「あいたっ。」
伊作はそれで手を引っ込めることはなかったが、その独特な動作は止めた。
今は夜半過ぎ。忍術学園の学生である伊作が、タソガレドキにある雑渡の家にお泊り然としていられる場合ではない。
しかし、忍術学園は今、農繁期の秋休みなので自主的に学園に残る生徒以外は、家に帰っている期間だった。当然授業は無いし、農家の家ではない善法寺家は、伊作がこの時期に帰ってきてもお呼びではない。しかも伊作自身も家に寄り付かないのが常で、例年ならば友達の家を泊まり歩くとか、学園で薬を煎じる日々だった。
しかし今年は違う。ひと月半前、委員会の後輩とその彼氏に纏わる面倒ごとのため、このタソガレドキを訪れた。その際に衝撃的に激動的に、伊作と雑渡の関係における転換期が降って沸いてしまった。そして結論的には、伊作は一夜を雑渡と、今この伊作が滞在している家で明かした。先の伊作の回想は、その時の雑渡の家の様子を今と較べているものだった。
「あれから結構、頑張って色々集めてみたんだよ。ちゃんと今は住んでますよっていう体裁にしたし、ここでご飯作って食べてるし。」
「職場であるお城と自宅が近いんですから、前々からそうすれば良かったでしょうに。」
「だって一人暮らしだから、めんどくさかったんだもん。お城でも詰め所でも食べ物や寝る所はあったし。わざわざ出勤しなくても良かったし。それに、月の半分くらいは戦場だしね。僕の場合。」
「でもやっぱり、人間らしい暮らしは必要だと思いますよ。僕としては。」
伊作は今度は、凭れかかっている雑渡の無防備な首筋に、口元を寄せて、わざとらしく自分の息が当たるように言葉を吐く。
「だから、僕の為にこんなふうに家を整えてくれたんですね?」
「うーん。誰かを招くことがなかったら、ずっと幽霊屋敷だっただろうね、この家は。」
恥ずかしがったり照れくさがったりするわけでもなく、淡々と話す雑渡に、伊作はちょっと当てが外れたように眼を伏せる。
自分のためとは言わないが、自分と付き合って変わったという事実に、雑渡はあまり感動を覚えてないようなので、これも大人力の成せる業かと肩を落とした。自分が変わったことが劇的なことだと思わず、ただの成り行きだと思っていそうな所が、伊作のような青臭い十代にとっては、かなりやり辛い。
しかしこうなれば伊作は意地になってくる。少しぐらいは雑渡が良い意味で動揺する姿を見なければ、気がすまなくなっていた。
「雑渡さん。」
腰に手を回したままで空いた手を肩にかけて、誘導するように雑渡にこちらを向かせる。向き合って顔を近づけると、雑渡は素直に瞼を閉じる。
素直すぎる。物足りないのではないが、伊作が欲しいのは雑渡の動揺という手ごたえである。こう、打てば響くような。
動きを止めた伊作を奇妙に思ったのか、雑渡は眼を開けると小首をかしげてみせた。
「どうしたの?」
伊作はじっと雑渡を見ている。元々瞬きの少ない眼が、少しも揺れることなく伊作を凝視している。雑渡の心を少しぐらいは揺さぶろうとして肩を引き寄せた割には、なんだか自分の心のほうが波打っているような気がする。これが二十年の世代の差なのだろうか。
「雑渡さんは……、あんまり動じない人なんですね。」
「職業病だと思うよ。」
そう受け答える間も、雑渡の片目は伊作を射抜かんばかりだ。思わず視線をずらしてしまう。負けている。完全に負けている。
「ま、まあ雑渡さんはあまり動揺しちゃうと、前みたいに身体機能がぐだぐだで、危険なことになっちゃいますからね。」
雑渡の目がかすかに曇る。一ヵ月半前のことを思い出しているのだろうか。なんだか悪いことでも言ってしまったのかと、伊作は頭の中で軽い後悔を覚えた。
とはいえ、わずかながらでも雑渡の心の動きを捉えた気がして、伊作は言葉を続ける。
「身体機能を改造してまで延命しているのが、貴方なんですよね。でもそれに不可欠なのは、いつも冷静で沈着でなければならないことなんですよね。少しの動揺で、貴方がどんなことになるか、あのときまでちっとも思い当たりませんでした。」
伊作はそれをただ知っているだけだ。そんな危険な状態になった雑渡を、目の当たりにはしていない。過日の記憶に言及したところで雑渡が唐突に口を開いた。
「そういえば、彼はどうしてるのかな?」
「彼?」
伊作は目を剥く。しかし伊作の右側に座っている雑渡にはそれが見えていない。なお淡々と続ける。
「君についてきた後輩の子で、尾浜勘右衛門君。」
「あいつが、あの野郎がどうかしたのですか?」
今まで滑らかだった伊作の舌に引っかかりを感じて、雑渡は伊作を見た。
「僕が死に掛けたとき彼が僕の口を塞いでくれたお陰で、制御不能に陥っていた僕の身体は、コントロールを取りもどした。寸でのところで命拾いしたんだよね。」
伊作は一瞬だけそんなことかと納得しかけたが、そこで思わぬものを見つけてしまい、唾を飲み込んだ。あの雑渡がうっすらと目元を染めている。包帯と包帯の隙間、そのわずかな間に見つけてしまった。どうして、あの後輩を思い出して頬を染めているのだ? この忍者隊組頭は。
雑渡の先ほどの台詞を反芻する。
「………。……口を塞ぐって、どうやって塞いだんですか?」
「あのとき僕は、君が彼と真昼間から淫らな行為をしたと告げられて、すごくショックで、後先考えてなかったんだ。走り回って体温を調節することさえ忘れて。そこに尾浜君が通りかかったもんだから、ますます僕は激情で忘我の状態になって。身体が熱に侵されるまま、彼を詰った。そんなふうに心を波立てることが、さらに僕の身体を蝕んでいるのに、僕にはそれを止める気さえなかった。」
滔々と語る雑渡の言葉は、あまり伊作の耳に入っていない。
「それで、あの野郎は貴方に何をしたんですかあ?」
あくまで本題を踏み外さないように、伊作は執拗に雑渡に尋ねる。雑渡は伊作の苛立ったような口調に気付かない。
「だから熱で死にそうな僕を助けて――」
「それは分かっています。その手段を聞きたいんです。」
一ヶ月前に、雑渡の精神を追い詰めて殺しかねない言動を取った男が、そんなことは全て高い棚の上にあげている。
伊作の知らない空白の時間。あの後輩は、この現恋人に何をしたか、追及することだけが伊作の頭を占めている。
一ヶ月前のあの日まで、どちらかというと雑渡を疎み気味だった癖に。自分のものになったと確定した時から、傍で見れば見苦しく恥ずかしい独占欲を、これでもかとばかりに雑渡本人に見せつけていた。
しかしそれは常に雑渡に軽く流されていた。悲しい年の差と実力の差だった。
「あのとき僕は相当弱っていたからねえ。まあ、それが結果的には良かったんだけど。尾浜君の手を振り払うことも出来なかったから、彼が僕を落ち着かせようとしてした行為を、我ながらあっさりと受け入れたんだよ。」
「だからどうやって――。く、口を塞いだんですよね?」
雑渡はかりかりと頭を掻いている。
「マウス・トゥ・マウスっていうか、彼は両手で僕の身体を押さえてたから、口を塞ぐ手段として、僕にキスしてきたんだよ。」
伊作はすぐさま反応できなかった。しかしそれは呆然としていたのではなく、大技を決めるための「溜め」みたいなものだった。
「………。あの野郎、殺す。」
溜めに溜めた怒りは、凝縮された言葉で吐き出された。
「殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。」
不穏な言葉を呟き続ける伊作を、雑渡はやはりあまり動じてないように見ている。まるで虫の鳴き声を聞いているように、その不吉な呪いの言葉を子守唄代わりにしているように、目を細めて聞いていた。
「ははっ。伊作君が恋の歌を歌ってるみたいだ。」
命の恩人の命の危機を予感させる言葉の反復を、雑渡は持ち前の夢見がちな思考回路で、見事に甘ったるいものに変換してしまっている。
「殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。」
伊作の口からは、ずーっと勘右衛門を呪う言葉が紡がれ続けている。雑渡はそれを止めようとしない。
鳴かないはずの蟷螂が鳴いたら、こんな風に鳴くのかもしれないと、雑渡はいつまでもその響きに心地良さげに耳を傾けていた。
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