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幸福雑音

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第七話「キャットフードその②」燐雪、燐ネイ

「雪男。俺今日他所の部屋でお泊りしてくるから。」
 雪男は兄のこめかみに銃口を押し付ける。パソコン操作をしていた右手が瞬間、キーボードから消えて、一瞬後にはそんな状態になっていた。
「どういうことかな? この前部屋から出て行くことは許さないって言ったよね?」
「出て行くつもりはねえよ。それに行き先は俺を監視するのに、お前ぐらい厳しい奴のところなんだけど。」
 
 今現在はまだアサ子(アーサー)を拾う前である。燐と雪男は相変わらずの毎日を送っている。
今日、雨の中を帰ってきたはずなのに、見慣れぬ傘を差し乾いた服を着て戻ってきた兄を雪男は不審には思っていた。それでも勝呂の時のように不愉快な匂いはさせてないので、無関心を装うことになんとか成功した。しかしその後の燐の言葉には何も言わずにはいられない。
 
「厳しい? そうだろうね。そういう条件を挙げなくちゃ、僕を説得出来ないだろうね。」
「うん。この前は俺が一人で他所の部屋に行くって言ったから、俺がだらけるって思ってたんだよな。雪男の見えないところで生活態度が乱れるのがいけなかったわけだよな。」
 少し本質からずれているが、雪男の建前はちゃんと理解しているようだった。
「よく、わかってるじゃん。」
 だけど、その理解が不自然なのだ。兄はすらすらとまるで誰かにレクチャーされたような台詞を雪男に向かって言っている。実際にも多分、誰かに入れ知恵されたのだろう。
 誰に? 兄に対して親身になってくれる人物に何人か心当たりはある。だが、監視者も兼ねることも出来る人物に該当する誰かは誰だろう?
 燐はいつものおどおどした態度ではなく、言葉も建設的で雪男を説得しようという意思が読み取れた。こういうときの兄に対して暴力で押し込むのは、雪男の性格上あまり出来かねるところがあった。兄に対して支配的ではあるが、こちらが弱みを少しでも見せるような場面があれば、今の関係はすぐに瓦解してしまうだろう。常に緊張感がなければいけない。
『兄さんの言うことだから、どこかで矛盾があるだろうし。その矛盾をついていって、キレさせればいいんだ。説得している姿勢を崩せればいい。』
 雪男はとりあえず燐のこめかみから銃口を離して、自分こそカッとなって引き金を引かないように、銃を机の中にしまった。
「さて、兄さんを泊めてくれる奇特な人って誰なんだろう? 勝呂君は品行方正だけど、同じ学生の立場だから僕は許可出来ない。フェレス卿は兄さんにいかがわしいものを提供していた事実もあるから、これも却下だ。まさか女子のしえみさんや、神木さんのところとは言わないよね? あと、そうだな。誰がいたかな?」
 雪男はさっきの燐のペースを崩すべく、燐の親しい者たちという逃げ道を塞いでいく。しかし燐は眉一つ動かさない。いつものように雪男の指摘に慌てる素振りはない。
 雪男は自分は兄の交友範囲を把握していないのかと不安になる。だって他に誰も思い付かない。講師陣の誰かという選択肢もあろうが、一番燐と接触が多い椿は確か家庭があったはずだ。いきなり自分の職場の問題児を家に招く真似はしないだろう。
「とにかくお前は心配しないでいいんだよ。雪男。」
「いや。とりあえず行き先だけは教えて?」
 雪男のほうが縋りつくような気分になっている。だって兄が誰のことを言っているのか分からないから。
「まさか僕に嘘吐いて野宿とか、ネットカフェに泊まるわけじゃないよね?」
「なんで嘘つかなくちゃいけないんだよ。」
 雪男にそこまで疑われたら、流石の燐も顔を曇らせる。いっそのこと雪男はそんな嘘を吐かれたほうがマシだった。だって、すぐにバレる嘘だから。
「だから本当に誰のとこ? そこまで自信があったら誰か言えるはずだよ。」
 燐はぽかんとした顔を雪男に向けた。
「俺、言わなかったっけ? 誰のとこか。」
「言ってないよ。大丈夫とか、心配ないとかしか聞いてないよ。」
「ごめん。すっかり言った気になってた。」
「しっかりしてよ。僕を説得する気ほんとにあるの?」
 燐はごめんごめんと雪男に平謝りしている。
「あいつのところだよ。」
「あいつって誰だよ!」
 燐は罪のない笑顔を向けて言った。
「ネイガウスのところだよ。」
 
     *   *   *
 
 ドアを開けて入ってきた男は、荷物をむき出しのまま手で抱えていた。愛用らしい枕と下着類、明日の学校の準備と制服だった。
 たいしたものはないが、カバンにくらい詰めてくればいいのにとネイガウスは思った。
「雪男を説得するのに遅くなってごめんな。」
「当然だろう。貴様の弟は賢明な男だからな。信頼されるにもそれなりの時間を費やすのも致し方あるまい。過去に因縁のある私みたいな者との関わりなど特に……。」
「いや、雪男はお前の名前出したらなんにも言わなかったぞ。」
 なんにも言えなかったの間違いじゃないかとネイガウスは思う。対応のしようがなかっただけなのかもしれない。
「まあいい。」
 ネイガウスの宿舎にお邪魔している男は、言うまでもなくサタンの愚息の奥村燐だった。
「荷物、どこに置いたらいいかな?」
 ネイガウスはベッドの脇のサイドテーブルを指定する。燐はそこにいそいそと荷物を置いた。
「あれ? ベッド一つしかないんだ?」
 狭苦しくもないがそんなに広くもない部屋に、他に寝転べるようなソファー類もない。
「泊りがけの客を呼ぶ予定が今までなかったからな。だが、これは妻が生きていた頃から使っていたベッドだから、二人分くらいのスペースがある。」
「へえ。このベッド、お前が奥さんと寝てたベッドなのか。」
 ネイガウスは無表情な燐を見て、あてつけがましい真似をしたかと自己嫌悪に陥る。
「今晩は世話になるわ。」
 燐にお泊りしに来いと誘ったのは、こともあろうにネイガウスだった。燐は二つ返事というほどには単純に同意はしなかったが、躊躇している言葉の端々を聞いていたら、ネイガウスのことが嫌で迷っているわけではなさそうだった。とにかく事情を話させていたら、ネイガウスは燐への感情を百八十度近く変えざるをえなかった。
「お前ぐらい大人で真面目な奴のところだったら、流石に雪男も許してくれたさ。」
 ネイガウスは少々気恥ずかしくなってそれを誤魔化すように提案する。
「コーヒーでも飲むか?」
 燐は部屋の中をキョロキョロと見回している。少し前に勝呂の部屋では堂々とベッドに上がりこんだ同一人物とは思えない。やはり、それなりの年齢の大人の男の部屋の雰囲気に気圧されているようだ。
 ネイガウスはコーヒーを淹れに台所にいく。後ろから燐の声が聞こえてきた。
「俺はブラックとかじゃ飲めないんだけど。砂糖とかクリープとかあるよな。」
「そんなのは分かってる。砂糖はちゃんとあるし、クリープはないが牛乳はある。」
 燐は良かったと間延びした声で答えた。ベッドの上に置かれたクッションの上に、先ほど拾った子猫が、温めたミルクで満腹になって眠っていた。
「わあ! かわいいー。」
 燐は寝ている子猫におおはしゃぎだった。
ネイガウスは淡々とコーヒーを淹れて、そのコーヒーの片方に無造作に砂糖と牛乳を入れてスプーンでかき混ぜた。そういえば昔、ブラックコーヒーが飲めない妻にもこうしてやったなと妙な感慨を覚えた。妻にしてやったことをサタンの息子にもしている事実が実に皮肉だった。
「今は寝ているんだから、騒ぐな。」
「う、うん。」
 砂糖と牛乳の入ったほうを燐に差し出す。燐はカップに口をつけた。
「どうだ?」
「うん。あまい。」
「甘すぎたか?」
 妻はこれくらいがちょうど良かったが、十六年経っても妻の好みを覚えていた自分に複雑な心境を覚える。
「俺甘いの大好き。」
 そうかとネイガウスは安堵する。コーヒーの味が分からないガキではあるが、それが悪いと言うつもりはない。妻もそんな子どものような可愛い女だった。
 燐は少しぬるくなったコーヒーがちょうどいいのか、ごくごくと一気飲みしてしまった。ほおっと息をついている悪魔に、ネイガウスは本題に入ることにした。
「あの夜のことはすまなかった。お前に私がやったことは許されることじゃないだろう。」
「え。試験のこと?」
「そのあとだ。私はさも復讐の相手がお前だと言わんばかりだっただろう?」
 燐はピンとこないの目を泳がせている。
「だって俺は、サタンの息子だし。お前に悪く思われても仕方ないとは思ったぜ?」
「悪く思われることと仇に思われることは、分けて考えたほうがいい。」
 燐は難しい話は勘弁なとネイガウスの話を流そうとしたが、ネイガウスは退く気はなかった。
「私の妻の仇は、サタンだ。」
「そうだよな。その頃俺は生まれてなかったし。」
 しかし燐はその頃母の腹の中には存在していただろう。あの奥村雪男と一緒に。
ネイガウスは燐の泳いでいる目に視線を合わせる。無意識に両手が燐の肩を掴んでいた。
「奥村雪男のお前への憎悪は、私がかつてお前に向けた感情に通じるものがある。」
 ネイガウスの言わんとすることは、つまり、奥村雪男の兄への虐待の動機に関するものだった。
燐自身ではなく、燐にその血を引き継がせたサタンへの感情が、雪男を虐待に走らせているのではないかとネイガウスは考えた。理不尽に自分たちをこの世に送り出した忌まわしい父親と、その父親に穢された母親を、兄と自分に重ねているのではないかと。
「もう一度言う。私の妻の仇はお前の父親だ。お前じゃない。」
「それはもう分かったよ。」
「でも私はお前とサタンを同一視して、お前を攻撃した。」
「だって俺は、あいつの力を継いでるし。」
 しょうがないじゃん。
燐は力なく笑う。その心理こそがことを深刻にするとネイガウスは思う。
「気にするなというのは簡単かもしれんが、どうにも解決してやれる気がしない。」
 自分の言葉は偽善だろうか? 奥村雪男という別人の名を借りているが、ほぼ自分の懺悔に始終するような気がする。言いたいことだけ言っても、この悪魔に希望的なものを与えてやれるとは思えない。しかし言わずにはいられない。せめてこれくらいは、この悪魔に伝えてやりたい。
「逃げたくなったら私のところに来い。たとえそれがひと時の避難にしか過ぎなくても、たまには誰かに甘えたほうがいいと思う。」
「雪男を苦しめている俺に、そんなのあってもいいのかな?」
「奥村雪男はお前を苦しめようとしているが、実は自分こそが苦しんでいる。お前が苦しめば苦しむほど、お前の弟は苦しんでしまう。だから――。」
 ネイガウスは燐の肩を掴んでいた手を外して、顎に添え、そっと燐を上向かせる。そして顔の間近に近づけた。
「わかった。辛くなったらお前のところに逃げてくる。……ただ、そうなると……えーっと、本当にいいのかな?」
 ネイガウスの言葉で今までの雪男との辛かった日々を思い出したのか、能天気な悪魔の目から涙が溢れ出した。ネイガウスは抱き寄せてやろうかと思ったが、思い返して止め、側にあったタオルを燐に渡した。
「う……。ありがとう。お前ほんとうに……」
「その先は言うな。」
 偽善者にはなりたくないから。あれだけ傷つけておいて、燐の心の中で大事な存在になろうと思い上がるつもりはないから。
 
『雪男を怒らせちゃって。『雪男を苦しめてるのかな?『俺は『雪男が好きなのを『やめたほうがいいのかな?『それでも『俺は雪男が好き『好きだけど『怒らせちゃって『あいつに『撃たれちゃって『時々『撃たれたら痛い『抱きしめると『痛い目にあう『でも『大好きなんだ『離れたくないんだよ『でも『近くにいたら『雪男が。『俺が『全部悪いんだけど『だから『これは全部『しょうがないこと『他の奴にやられたことの『他の奴が『雪男に変わっただけ『だから『逃げたら『駄目『だと思う『でも『ちょっとこのごろ『しんどい『そう思う資格なんて『まったく『無いんだろうけど『好きになることすら『間違いだった『かもしれない『だけど』
 
『俺は雪男が好きなんだよ。』
 
 ベッドの上で口を開けて仰向けで眠っている燐をネイガウスは見下ろしていた。あんなに苦しそうに弟への思いを言っていたのに、今は辛さの欠片も無いような顔で寝ている。ぐっすりと、多分、夢も見ずに。
 
 駐車場から部屋に帰ったあと、バスタオルを頭から被って髪を乾かしていた悪魔は、何を思ったのか自分を殺そうとしていた男に、堰を切ったように話し出した。雨で濡れた身体に厚めのバスタオルの生地が心地よくて安心したのかもしれない。変なスイッチが入ったようにネイガウスが先を促しもしないのに延々と語ってくれた。
 だから言った。
『とりあえず弟と距離を置いてみろ。』
 その口実になってやると。最低な身の上の悪魔なんだから、自分が干渉することによって、これ以上悪いことにはならないだろう。良くなるとも思えないが。
 
 よくよく考えてみればこの悪魔は自分の息子と言ってもいいような子供、そして自分は父親と言っても通るような歳だろう。
 そういうことにして、今日はこの男の側で眠ればいいんだとネイガウスは思った。





欝話ごめんなさい。メランコリー? ははは。笑っちゃうぜ。その③で終わりだぜ。雪ちゃんで〆ちゃう予定だぜ。たまにはシリアスも書くんだぜ。でも慣れてないからしんどかったぜ。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第七話「キャットフードその①」燐雪前提燐ネイ

 候補生昇格試験の仕込みに託けて、ネイガウスは奥村燐を殺害しようと企てたが、今一歩力が及ばず、目的を完遂することはならず、しかも休職処分になった。
 そして皮肉な気分で無為で無意味な時間を過ごすことになった。
「私の誘いに乗ってくれて感謝しています。」
「いえ。私のほうこそ有難う御座います。」
 ネイガウスとメフィストは学園内にあるカフェのテラスでアフタヌーンティーと洒落込んでいた。ネイガウスはメフィストにありがとうとは告げてはいたが苦々しく続ける。
「奥村雪男の機転がなければ、私があの悪魔を仕留めていたのに。」
「仕留められても困るんですよ。」
 巨大コンパスの針で刺したぐらいでは、あの悪魔は死なない。しかし、悪魔の肉に針が刺さる感触をこの手で感じたかった。皮肉なことに、あの悪魔のわき腹を裂いたのは自分が呼び出した悪魔だった。
「休職中はどうされるんですか?」
「今までと何も変わらない。貴様が休職を解いてくれるまで大人しく待つつもりだ。」
 メフィストはネイガウスが着いた頃からテーブルの下で何かを弄んでいた。その手をテーブルの上に置く。
「上司としては休職中の部下に何か配慮するべきでしょうから。このようなものを用意してみました。手を出して下さい。」
 ネイガウスはどうでもよかったがとりあえず手を出した。その手にメフィストの手が重ねられ、何かが置かれた。
「これは?」
 鍵は鍵でも車のキーだった。
「貴方に差し上げたい車があるんです。」
 メフィストは席を立つと、テラスの外れまで歩いてネイガウスを手招きする。ドイツ語でいちにのさんと唱え、傘を振りかざすと一台の軽自動車が出現した。
「免許はお持ちでしたよね?」
「持ってはいるが、私は歩くほうが性にあっている。」
 メフィストはまあ遠慮なさらずにとネイガウスの腕を掴んで車のほうに引き寄せた。
「スバルの軽……。ステラ。」
 いかにも実用向きな黒の軽自動車だった。どうせくれるなら普通は普通車だろうと思っていたが、休職になるようなことをやらかした手前、車を貰えること自体が贅沢だとも思った。
「貴方はこの学園に来てから、私が知るところによると、ほぼ学園の敷地内に篭っていらっしゃったでしょう。」
「任務の時には各地に行くことはありました。」
「それはいわゆる点から点の移動でしかありません。それに貴方の欲する目的のための移動でもなかったでしょう。時間は有限ながらたくさんあるのです。足があれば正十字の町並みを見て回るのも一興でしょう。」
 ネイガウスは、なんかいらない世話を焼かれているような気がした。この押し付けがましさの裏に何かある気がするが、悪意では無さそうなのが救いだろう。メフィストはネイガウスの気持ちなど知ったことではないというように、滔々と喋りだした。
「私がこのステラを購入した時。私の担当のディーラーは、スバルは軽から撤退すると言ってたんです。(私はそのとき物悲しい気持ちになりました。)それがどうですか。相変わらずスバルは軽の新車を生産しているようですね。しかもステラは新車仕様がこの黒の購入した数ヵ月後に販売されました。(私は詐欺じゃないかと思いました。しかも新車には色々な特典がついているようでした。)だから思うんです。あの時、私がこのステラを買ったことによって、スバルは自信を取り戻したのではないでしょうか? 私だけというのはおこがましいですが、私のようにスバルの最後の軽自動車を買うという行動に出た人達のその惜しむ気持ちが、メーカーが軽の生産を継続させようという気になったとは思いませんか?」
 そんな裏話がこのステラにあったのかと、ネイガウスはまじまじと黒い軽自動車を見た。
「ですからこのステラはそんな起死回生、捲土重来を象徴する車だと思うのです。まさに休職を解かれるのを待つ、貴方の心に寄り添うのに相応しい存在です。貴方のいいパートナーになると思います。」
 そこまで言われたら「要らない」と口が裂けても言えない。
 ネイガウスが車に近づくとロックが解除される。車の中を見るとシートにはビニールが被せられたままだった。ひょっとしなくても一度も乗られることはなかったらしい。今まで散々メフィストはいいことを言っていたが、要は衝動買いした車を誰かに押し付けたかっただけかもしれない。いや、そうに違いない。
 ネイガウスは無造作にビニールを破って、助手席の床に押し込んだ。座席に座ってそろそろこの場を立ち去ろうとメフィストに礼をいう。
「ありがとう。大切に使わせてもらう。」
「そうですか。良かったです。」
 ネイガウスはドアを閉めようとしたが、最後にとメフィストは引き止める。
「奥村燐を敵だと思い込み続けていると、とても疲れますよ。」
 その言葉にネイガウスは言い返そうとしたが、何も言えなかった。車を発進させてバックミラーでメフィストの姿を見ようとしたが、その時には既にメフィストの姿は消えていた。
 
     *   *   *
 
 たいして使わないだろうと思っていた車は、たった一週間足らずで必需品になっていた。何よりナビがついていたのが決め手だった。検索を掛ければ目的に対応する場所を教えてくれる。
 ネイガウスは十六年前に妻を亡くしてからずっと、プライベートは引きこもりがちで、必要最低限のものを必要最低限な手段で入手するというのが常だった。だから休職中の身でありながらガソリン代や諸経費が苦にならない程度の貯金はあった。そんなものは微々たる支出だった。
 そしてネイガウスは便利さに対して卑屈になる人間じゃなかった。これは人間を堕落させる悪魔の罠だと勘繰ることもなかった。要は快適に自家用車のある生活に溶け込んでいたのだった。
 今では暗い性根になってしまってはいるが、ネイガウスという男は元来、素直でお人よしなのだった。
そんなネイガウスは今日もステラと一緒だった。食事は学園敷地内の食堂で済ませているが、部屋の中で飲むコーヒーやお茶請けは、やはり町にでて買いに行っている。
 その帰りにネイガウスは奥村燐の後ろ姿を見つけた。
 咄嗟に自分の運転するステラで突っ込んでやろうかと思ったが、ここは公道だ。他の車両や歩行者(この時間帯には特に見当たらないが)を巻き込むわけにはいかなかった。復讐と無謀運転の区別がついているのも、ネイガウスという男の持つくそ真面目さだった。そして思った。今日このときは事を起こさず通り過ぎるべきだと。
 前方の悪魔は暢気そうにほけほけと歩道と車道の境を歩いている。聞くところに寄ると、燐は自分は悪魔であるということを周囲にバラしてしまっているらしい。しかし大本のサタンの息子であるということは、まだ発覚していないらしい。そしてその中途半端な真実を大抵の人間は受け入れている。本人も周りもどういう神経かとネイガウスは思った。(周りの人間は奥村雪男の燐に対する虐待のほうが、よりインパクトがある物件だからだ。ネイガウスは逆に虐待のことは知らない。)
 悪魔は自分の尻尾を隠そうともせず、ご機嫌に振り回していた。
『奥村燐を敵だと思っていると疲れますよ。』
 確かに疲れるかもしれない。それでもこの復讐心は忘れてはいけないとネイガウスは改めて誓う。悪魔がボロを出し邪悪な本性を現すまで、この暢気な姿に騙されてはいけない。自分の思いを確認し、しかしこの場では手を下せないもどかしさに溜息をつきながら、ネイガウスは燐のすぐ後ろまで迫っていた。
 そのとき。
「雨か……」
 フロントガラスに水滴が舞い降りた。ネイガウスは出掛ける前にも天気が悪いなと思っていたが、屋根のある移動手段だったので特に気にはしなかった。しかし歩行中だった悪魔は違う。空を見上げたあと、いきなり走り出した。
 元からの身体能力に悪魔の力が加わった速度は信じがたいものだった。ほぼ先ほどの距離が縮まらないまま、ネイガウスはやはり燐の後ろから車を走らせる格好になっていた。
「時速四十キロか。やるな、サタンの息子。」
 百メートル走に直したらどうなるんだろうと思った。しかしネイガウスは暗算はあまり得意ではないので、それは思うだけにした。中年らしい横着さだった。
 前方の燐は雨の中走っている。少しでも早く自分の住処に駆け戻るつもりなのだろう。燐から視線を車道に移すと、はるか前方に白い何かが見える。それは捨てられたビニール袋らしかった。いわゆるコンビニの袋のようだった。特に気にするようなものではない。
 再び燐のほうを向く。車道のコンビニ袋と平行に燐が並んだと思ったら、燐は何故か真横に飛んで車道に飛び込んできた。
 ネイガウスは慌てて急ブレーキを踏み込む。不愉快な音を立てながらステラは急停止した。ネイガウスは後続車を確認してから路肩に車を停める。そして何故か知らないがコンビニ袋を庇うように横たわっている燐の腕を掴むと、路肩に避難させた。
「危ないじゃないか。」
 燐は自分の腕を掴んだ男を驚いたように見ていたが、「お久しぶり」とトンチンカンなことを言った。すると燐の抱えた小さな袋の中から猫の鳴く声が聞こえてきた。遅れてコンビニ袋の色に紛れてしまいそうな真っ白な子猫が顔を覗かせる。
「とりあえず。乗れ。」
 ネイガウスは車の助手席を指して燐に言う。燐はすまないと言いながら助手席に乗った。ネイガウスも乗り込んで車を発進させる。
「大体の事情は察した。車の前に飛び込んできた理由はな。」
「時々いるんだよな。小さい犬や猫を袋に詰め込んで、走ってる車に轢かせようっていう悪趣味な奴が。轢かれる猫や知らずに轢かされる車も災難だよな。」
 燐は袋の中から子猫を出してやる。子猫は五体満足に暢気ににゃあと鳴いている。もしネイガウスの走らせている車の側に燐がいなかったら、ネイガウスは知らない間にこの小さな子猫の命を奪うことになっていただろう。
「まあ俺もこうやって、あんたに迷惑かけちまったけどな。」
 燐はネイガウスの目顔を見て誤魔化すように笑った。ネイガウスはむすっとして燐と目を合わさない。
「あれからあんた休職になったよな。身体のほうは大丈夫か? 血をいっぱい出してたから、大丈夫かなと思ってたけど。」
「……」
 ネイガウスは黙ったままだった。燐は気まずいのか手の中の子猫を暖めるように撫でている。
「その猫、どうするつもりだ?」
 その気もないのに何故か話しかけてしまった。燐は困ったように言う。
「寮じゃ飼えないよな。」
 そうこうしている内に車は学園敷地前のゲートにさしかかった。
「もう学園に着くぞ。飼う予定も無いなら、私がその猫を引き取ろうか。」
 ええ? 燐は頓狂な声を出す。そして怪訝そうな顔をネイガウスに向けてきた。
「まさかお前、飼えないからって元の場所に返しに行くつもりじゃ……」
「そんなことしねえよ!」
 
 そうだな。
 
 雨の日に子猫を拾う不良というお決まりのシチュエーションを裏切るなんて、そんな悪魔みたいなこと、この悪魔がするはずもない。
この子猫を車道に置き去りにしたのは心無い人間だ。それを助けたのは横にいる悪魔。
 
「あんた。この猫飼いたい?」
「是非とも、そうしたい。」
じゃあと燐は子猫をネイガウスのほうに差し出す。
「私は運転中だ。部屋の前に着くまでお前が抱いていろ。」
「あんたの家って、どこらへんなんだ?」
「教職員の宿舎だ。」
 ネイガウスはぶっきらぼうに答える。
「それってどこらへんだっけ?」
 燐は首を捻っている。もどかしくなったネイガウスは少し声を張り上げた。
「だからお前を横に乗せているのだろうが。場所が分かっていればお前も様子を見に来れる。」
「そっか。」
 ゲートから教職員の宿舎まで十分足らずの距離がある。駐車場に着くとネイガウスはアレだと前方の建物を指差した。燐は頷いて再び子猫をネイガウスに差し出す。ネイガウスはぶすっとして自分の両手に持たれた買い物袋を燐に示した。
「私は荷物を持っている。私の部屋までその猫を連れてくるんだな。」
 外の雨もやみかけている。二人は揃って車から出た。
「あんたって本当は」
 ネイガウスは燐を睨んでその言葉の続きを封じる。多少なりとも燐を見直した自分を戒めるためでもあった。
「部屋に入ったら、その濡れた服を脱げ。服が乾くまで私の部屋にいろ。」
「ありがと……。お前、いい奴だな。」
 さっき封じた聞きたくなかった言葉を、結局悪魔は言ってしまった。
 ほぼ無人ともいえるエントランスとエレベーターと廊下を通り抜けて、ネイガウスは悪魔を部屋の前に連れてきた。
「ようこそ。永久に悪魔を呪い続ける男の部屋へ。」
 燐の頬が一瞬だけ引きつった。その表情にネイガウスはなんだか、十六年来忘れていた楽しい気分に少しだけなった。





「悪魔の~」シリーズ初の雪ちゃん不在の分割編です。





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☆ss「アフターバンダースナッチ」燐雪

 六○二号室のドアを燐が開ける。雪男は兄にお姫様抱っこされたままだった。どこに持っていけばいいのか分からなかった両腕は兄の首に回されている。走る兄から伝わる振動をそうしなければ和らげられなかったからだ。
 逃げてる兄弟を追う誰かがいなくて本当に良かったと思う。部屋の中まできて立ち止まった燐は雪男に向かって言った。
「おい。もうしがみつかなくても大丈夫だぞ。それよりもあそこじゃ余裕なくて拭いてやれなかったけど。」
 燐はそっと雪男をベッドに腰掛けさせる。そして自分のスペースからタオルを持ってきて雪男の口を拭いだした。
「あーあ。べたべただな。」
 雪男の口の周りは、ケチャップだとか米粒だとか刻んだ野菜だとかでひどい有様になっている。小さな子どもでもそこまで汚さないだろうという状態だった。
「じ、自分でやるよ。」
 雪男は燐の手からタオルを取ろうとしたが、燐はタオルを手放してくれない。
「だーめ。俺がやるの。」
「いつまで優しいご主人様のつもりでいるんだい?」
「は? もうアホ芝居は終わってるだろ。」
 アホ芝居。
 雪男の頬にかぁっと血が上る。そして心臓が今更のように激しく脈打った。自分の意思を裏切る身体がぶるぶると震える。目の前の景色が霞む。
「雪男?」
「兄さん。僕のあの姿、アホみたいって、思って、たの?」
 顔が赤くなるは、悔しさと恥ずかしさのせいだった。
「え。そんな……」
「馬鹿みたいな冗談だと思って、あんなことやそんなことを、僕にさせてたの!」
 雪男はぼろぼろと涙を零している。燐はおろおろと雪男を宥めようと言葉を続けようとした。しかし雪男の癇癪は止まらない。
「も、もういいよっ。済んだことだし。当の兄さんが本気に取ってないなら、みんなも本気に取ってないよね。あー。よかったよ。それで。」
「ゆ、雪男。いや、馬鹿とか冗談だとは思ってねえよ。お前、凄く可愛かったし。ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないけど。お前が素直に言うこと聞いてくれるから。つい。」
 雪男はきっと涙が滲んだ目で燐を睨んだ。
「いつまで優しいご主人様やってんだよ!」
「元からご主人様なんてやってねえよ!」
「じゃああれは、兄さんの素だって言うのかい! あんな兄さん。僕は今までひとっつも見たことなかったんだから。信じられるもんか!」
 雪男が今まで兄だと信じていた姿は、今日のあのお芝居で裏切られたということか。なんて馬鹿馬鹿しい。自分の見ていたものの薄っぺらさが憎らしい。でもそんな兄に気圧されて、それに半ば悦んで従っていた自分が一番忌々しい。まるでそんな兄をずっと待ち焦がれていたみたいで、自らの身体と心が汚らわしい。
 あんなふうに兄に支配されたいと思っていたのが自分の本性なのか。
 兄に責められていたときに感じた恍惚感の心地よさを、まだ覚えている自分の身体が、頭の中が、なにもかもが腹立たしい。そして今すぐにでも死んでしまって、そんな身体も頭もなかったことにしてしまいたい。
「落ち着けよ。雪男――。」
 また燐は普段みたいに笑って弟を宥めようとする。じゃあ自分も普段どおりに戻ってしまえばいいのに。雪男は涙を止めようとしたが、そうすればするほど、せりあがってくる感情が胸を圧迫する。
「お、お前がそんなに嫌がるとは思わなかったけど。俺は………、かなり嬉しかったんだぜ。そりゃあ少しはいじめちゃったのかもしれないけど。」
「少し? あれが? 公衆の面前でオムライス犬食いさせて、いじめられるのが気持ちいい恥ずかしいメイドですって言わせておいて。」
「アレくらいは罰ゲームくらいのレベルだろ?」
「兄さんみたいな不良のチンピラにはね。誰も笑ってなかったでしょ。誰も笑えなかったんだよ。」
 雪男はそれどころではなくて気がついてなかったが、あの時一同くすりともが笑っていなかったのは、あまりのあの舞台の兄弟の容赦ない壮絶さのせいで、感動して何も言えなかったのだ。しかし雪男の主観ではそうではないので、その真実は雪男の頭に入る余地が無い。
「いや。そうじゃないと思うけどな。」
 雪男を説得するために軽く罰ゲームと言ってしまったが、燐にとっては思いもよらぬ日頃からの欲求を実現させてしまったことへの罪悪感もある。いつのまにか手の届かないところに弟が上り詰めていたと知ったときから、本当にわずかずつ肥大していった欲求。そして今この場で泣きじゃくる弟の姿さえもが、燐にとっては堪らない。
 それを誤魔化そうとすればするほど雪男の怒りを買ってしまうなら、いっそ全てを吐き出した上で怒りを被るほうがマシに思えてきた。
「雪男。きっかけはメフィストに金をせびるための引き換えだったけど、俺、本当は、雪男にああいうことしてみたいって思ってたのかもしれない。でも芝居をしていくうちに止まらなくなって。それなのに雪男が気持ちよさそうな顔するから、調子に乗ってああいうことまで言わせちまった。――ほんとに、ごめん。」
 雪男は俯いて膝の上で拳を握る。
「雪男が恥ずかしがったり、涙目になったりして、すっげえ興奮した。声なんかずっと震えてたし。でも、お前からすれば迷惑だっただろうし。勘弁してほしかっただろうな。」
 雪男はすんと鼻を啜る。長い睫の影だけが一度震えた。
「雪男。ほんとに可愛かった。それに恥ずかしがってるところが凄く、やらしかったし。みんなの前じゃなかったら、ああいうふう俺は終わらせなかったと思う。何やらかすか分からなかった。お前が必至に好き勝手やる俺のフォローをしてくれたのに、アホ芝居なんて言って茶化してすまない。俺、本当に……お前のこと好きだし、また機会があったら、あんなふうにしたいなって思ってるんだ。だけど迷惑だよな。もう二度としたくないに決まってるよな。」
「本当に、言ってることが一方的だよね。」
 燐は肩を竦めて縮こまっている。殴られても仕方ないと思っていた。雪男が顔を上げると燐は気まずそうに顔を伏せた。
 雪男は口を開く。
「本当に兄さんは自分のために弟巻き込んで、優しくしたいだとか、恥ずかしがらせたいとか、みんなの面前じゃなかったら何するか分からなかったとか。本当に勝手すぎるよね。それ聞かされる弟の身になってよ。」
 燐は胸に手を当ててしばらく考えている。そのうちに苦しそうに呻きだした。本気で弟の身になってみようと、脳内でシュミレーションしているらしい。しかしその脳内シュミュレーションには足りない感情が幾つもあるだろう。何故なら雪男も、兄に辱められたり優しくされたことが嬉しかったのだから。
 雪男は燐の鼻を摘む。
「馬鹿兄っ。なんでそんなに苦しそうなんだよ。」
「お前が嫌がってたのが、すごく、わかったから。」
「僕が分かって欲しかったのは嫌がってたことじゃない。兄さんも言葉の端々で言ってただろ? あのときの僕はどういうふうに見えてた? さっきの兄さんみたいに苦しそうに呻いてた?」
 燐はまた宙に視線を泳がせる。
「いや。なんかお前は、夢みてるような顔してたよな。でもあのときはお芝居だと思ってたし。」
「僕がそんなに芝居ッ気のある人間だと思う?」
 燐は黙り込む。しかし決定的なことを言ってこないので、雪男は痺れを切らせた。
「本当にメイドに恥ずかしいことを言わせたいご主人様だね。兄さんは。お望みどおり気の利かないご主人様の前で言ってやるよ。耳をかっぽじってよく聞けよ。ご主人様。」
 雪男はすうっと息を大きく吸って、真っ赤な顔で燐に告白する。
「兄さんのあの言葉や態度が、お芝居じゃないって聞いて嬉しい。は、恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。……僕は……その、兄さんのことが、……。」
 最初だけは威勢が良かったが、雪男の言葉は次第に弱気が表に出てきていた。それが余計に雪男の羞恥を煽る。
「兄さんのことが、なんだ? 雪男。最後まで聞いてるから。」
「聞かなくていいから、察してよ。」
「いや。やっぱり言え。」
「命令かよ!」
 なんて傲岸な男なんだろう。憎らしい。でも、――。
 
「……そんな兄さんが、好き、なんだよ。」
 
 再び俯いて顔を両手で隠した雪男の頭を燐は撫でる。
「よく素直に言ったな。雪男。」
「だからご主人様じゃないんだろ!」
「当たり前だ。俺はお前の兄貴だ。」
 雪男がひたすら恥らっている様を燐は満足そうに見ている。
「良かった。嫌われたんじゃなくて。」
 反省はしているが、全然態度は変わっていない。
 雪男も思い知った。自分たちが見せていたのは、お芝居じゃなくて、今まで隠れていた自分たちの本性だと。だから演劇の素人であるはず自分たちが、観客に笑われることなく迫真の舞台を見せることが出来たのだと。願わくば。観客たちにはそれに気づいて欲しくない。ずっと永遠にあれは見事な虚実だったと思って欲しかった。
「兄さん。今度僕のあんな姿を見たいと思ったら、どうか、誰もいない二人きりのときにして。」
「えー。あれはあれで、俺としては燃えるんだけど。」
 公衆の面前でいちゃつくカップルでもやりたいのかと雪男はげんなりする。恥ずかしかったのが気持ちよかったけど、自分はまだそこまで常識から外れた気持ちよさは身に余る。それを思うと、お互いの気持ちを知る前に、非常識な気持ちよさを図らずも教えてしまったメフィストを恨めしく思う。
 それならば――。
「兄さん。あのときみんながいなかったら、僕をどうしたいって思ってた?」
 次の瞬間、雪男は思い切り後ろに押し倒されていた。自分の上にはあはあと息を荒げた兄が覆いかぶさっている。
「ご主人様を煽るなんて悪いメイドだ。」
「ご主人様じゃないでしょ。」
「じゃあ、兄貴を煽るなんて悪い弟だ。」
 その兄の言い草には言い返せない弟だった。それを肯定と受け取った燐は雪男のコートのボタンを外していく。
「誰か来るかもしれないよ。」
「そんな物好きがこの部屋に来たら、次のお芝居の練習だって誤魔化しゃあいいよ。」
 次のお芝居があるのかよと雪男は溜息が出る。
「やっぱ肉欲だな。」
「意味知ってたんだ。」
 不良がやりがちな、辞書でいやらしい言葉にだけラインを引くという習慣を雪男は知らない。不良は思わぬような卑猥な言葉だけは熟知しているものなのだ。
燐の口走った言葉と圧し掛かってくる兄の体重に顔を赤くした雪男は、大人しくベッドの上で目を瞑った。





リクエストの続編を書いてしまいました。いっぺんにやれよという話ですね。ここから先はもうお芝居でもなんでもないので一旦終了。暗転です。もとからお芝居じゃないんですけど。燐雪で殺伐ではなく、あまあまを書いてみたかったのは私の隠れた本音だったのでしょうか?

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☆ss「24-②」雪燐

「で、どこ行く? 何する?」
 食器を片付け終わったあと、燐は雪男に問いかける。雪男はその問いに気まずそうに答えた。
「考えてなかったよ。」
「えー。なんだそりゃ。あれだけ人を全力で起こしといて、何の宛てもなかったのかよ。」
「いろいろ考えてないわけじゃないよ。ご飯食べている間も買い物とか、遊園地とか、考えてたんだけど。どれもイマイチかなって。」
「どれもイマイチってお前、遊園地とか買い物、いいじゃないかよそれ。」
 雪男は頭をぶんぶんと振る。
「なんかイメージと違うんだよっ。」
 今度は燐が首を傾げる。
「イメージ? どんな?」
「なんというか。身内の触れ合いっていうかな。二人して盛大に遊んでやるっていうノリじゃないんだよ。こう、ほんわかと兄さんと過ごしたいっていうか。肩に力が入らないのがいい。遊園地とか買い物だと、どうしても全力で遊ぶって感じになるじゃん。」
「よくわかんねえなあ。」
 買い物だったらダラダラ歩くだけでもいいのにと燐はぼやいている。しかし雪男としては、小学校のときから溜めに溜め込んだ、かつての兄に対する甘えを全開にしたい気分だった。しかし外面のいい優等生でもある雪男は、あまりそんな甘えた姿を外の人間に見られたくないという感情もある。思春期らしいジレンマだった。
雪男がふと気がつけば、燐は会話をしながらも、カウンターの向こうの厨房でごそごそと何かをしていた。
「何してるの?」
「とりあえず外には行くだろ? 家で一日中篭ってるつもりはないんだろ。」
「そりゃそうだけど。」
「だからお前が悩んでる間に、俺が弁当作ってるわけだよ。どこ行くにしても食料確保しとけば燃料切れで動けないってことないし。」
 アウトドアの可能性もあるしな。燐はにかっと笑う。雪男は何故かむすっとして頬杖をついた。
『悩んでる僕が時間を無駄にしてるみたいじゃないか。』
 本当に自分は遊びだとか余暇の使い方が下手なことをこの場で再び思い知らされる。それに比べて兄は、とりあえず外に出る準備を進めてくれている。まるで兄が弟の作ったロスタイムを埋めてくれているみたいじゃないか。
 時々思うことだが、日常的なことに対する対応は意外と燐のほうが上手だ。なんら賞賛されることはないが、生活に対するちょっとした気遣いが行き届いている。本当に気づかれないところだから、雪男に対してかしましい女子に評価されることはないし、雪男にも今日みたいなことがなければ気づかれない。普段はどうみてもがさつな馬鹿のイメージしかないわけで。本人もその普段のイメージを否定しないわけで。
 雪男はかなり悔しくなってきた。
「兄さんは良いお母さんになれるタイプだよね。」
「なんだそりゃ。悪口?」
「一応、褒めてるよ。」
 そんなことより、行き先を決めないと。雪男は行き先の候補を指折り数えながらまた悩む。
『こうなれば苦し紛れだけど、学園内でもいいかもしれない。』
 正十字学園はとにかく広い。三年間在籍した卒業生もその全容を把握していないという、驚くべき事実もある。祓魔師を目指していなければまず、祓魔塾やフツマヤの存在すら知らずに三年間を過ごす生徒のほうが大半を占める。しかしながら生徒が近寄らないとはいえ、そこは関係者以外立ち入り禁止の場所とは限らない。
『今まで黙ってたけど、兄さんに対して最大の隠し玉を使う機会かも。』
 雪男は「あのね」と大きな声を出して燐を振り向かせた。
「兄さん。……学園内でも探検してみる?」
「お?」
 よし。雪男は燐が興味を示してくれたので、こっそりと机の下で拳を握る。
「この学校ってかなり広いから、探検し甲斐があると思ったんだけど。それに、神父さんがここの講師をしていた頃に、何か宝物を隠していたらしいって話も聞いたことある。」
「ジジイの宝物か?」
「高確率でエロ本だと思うけど。まあ神父さんのデスクとか片付けられているし。僕らが卒業したあとに、別の誰かがそんなものが見つけても恥ずかしいだけだしね。出来たら僕らで処分してあげたいかな。」
「いいな、それ。ジジイのお宝、いや、恥ずかしい遺品を息子としては処分してあげるのも親孝行だしな。」
 行き先と目的は決まった。正十字学園祓魔塾、未侵入エリア。目的は故・藤本獅郎の遺したお宝の回収。
 
     *   *   *
 
 休みの日の塾には誰もいない。しかもいつでも人手不足だから、人の入らないところは掃除が行き届いてないので、中は廃墟じみている。
 雪男はメフィストの部屋に行く際には祓魔師の服装をしていたが、朝食後に動きやすいラフな格好に着替えた。燐も雪男と同じような姿をしている。そして作った弁当をリュックに入れて背負っていた。ちょっと気軽な探検隊(隊員二人)の出で立ちだった。
 いつも見慣れたパターンの模様が続く廊下の床。普段使う教室を通り過ぎて奥へ進む。印章術の実習教室とか、剣術や体育の実習教室も抜けて、物置じみた場所に辿りつく。
 燐は背負ってきたリュックを降ろした。わずかに埃が床の上を舞った。
「ようっし。このガラクタの山からジジイのお宝を探すか。」
 目の前には大小様々な道具が下から上まで積みあがっている。整理されているようでされていない。あからさまに、何かが紛れ込んでいる様子が窺える。
「兄さん、ガラクタって言わないでよ。これでも実習で使ったりしてきたものなんだから。」
 雪男は細々としたものをどけていく。燐は大きな道具を持ち上げていた。が――。
 
「いや。考えてみたら、ここには無さそうだな。」
 
 燐は三つ目の大道具を持ち上げたところでいきなり、水を差すようなことを言った。
「まだ始めたばっかでしょ。そんなのわかるの?」
 この物置の探索を始めて三分も経っていない。燐は頭の良い雪男を説得しようと自分なりの理屈を語る。
「ジジイならもっとハッタリをかますような所に隠すはずだぜ。ここだと隠し場所としては意外性無さすぎるんだよ。それにここは物が多すぎて、肝心のお宝を自分で掘り出すにも時間がかかりすぎる。」
 兄の言う理屈に納得したくなさそうだが、雪男はしばらく考えてから頷いた。
「つまりいつでも取り出せる、もっと手軽で大胆なところに、堂々と隠してる可能性があるってことかい。」
「具体的に言えばそういうことだな。」
 兄の野生の勘が働いたらしい。時々こういう神懸かったところがあるから雪男としては兄は怖い。
「じゃあ。例えば、どこが怪しいと思う?」
「塾の建物の中は雪男のほうが詳しいだろ。」
「でも、漠然としすぎて特定出来ないよ。」
 それもそうだな。燐は拙いながらに提案してみる。
「隠し場所のイメージだけは浮かぶんだよな。俺のイメージを言うから。それに当てはまる場所を特定してくれ。」
 雪男はあるのかなそんなところと首を傾げる。燐は腕を胸の前で組んで目を瞑って、自分のイメージを言い始める。
「こう……だだっぴろいところだな。そんなにここのようにごちゃごちゃ物は置いてない。人通りはある程度あるとこだ。でも人はあまり近づかない。」
「人っていうのは、生徒だけじゃなく僕ら講師陣もってことかい?」
「周辺までは誰でも行くけど、部屋の中には入らないってとこだ。入りづらいっていうのかな? そういうところだ。」
 雪男は兄の言葉を簡潔にまとめてみる。
「無意識に避けたくなるところかな?」
「それだ! それが言いたかったんだよ!」
 雪男は少し頭を捻る。そして限りなく言いにくそうに口を開いた。
「この塾の創始者の肖像画が飾ってある部屋があるんだ。兄さんの言うとおり、ある程度広い部屋だし、人通りも多い場所にあるけど、あまり中に入ろうっていう人はいないだろうな。心理的な圧迫感を感じる部屋だから。」
「圧迫感?」
「行ってみればわかるよ。」
 ついてきてと雪男は言う。雪男と燐はさらに奥へ奥へと廊下を進む。
「建物の主要部分から外れたところになるけど、応接室とか講師控え室とかがある一角なんだよ。」
「へえ……この塾の建物の奥ってそんなのがあったんだ。」
 自分がイメージした部屋の癖に、実際にあるとは思っていなかったらしい。当てずっぽうがここまで的を射るところが、偶然では済まされないところか。
 雪男はそのドアの前にきた途端、深く溜息をついた。
「この部屋に入る羽目になるなんて。兄さん。お宝が無かったら恨むよ。」
「そこまで言われるような部屋かよっ。」
「入ってみれば分かるよ。」
 雪男はドアを開ける。燐は自分の目に飛び込んできた映像に対して「のわっ」と叫んでしまった。
「なんじゃ、こりゃ。」
「この塾の創始者、ヨハン・ファウスト・一世から現在の五世までの肖像画だよ。」
「でも。これって……全部メフィストだよな。」
 その時々の時代の風景や衣装の違いはあれど、どの肖像画もメフィスト本人の顔だった。頭の先から爪先までの全身像の等身大の肖像画が五枚あった。それが部屋の壁に飾られている。五人のメフィストに見られていると思うと、なんだか気がおかしくなりそうだった。実物のメフィストにしても、余程精神力の確かな人間でなければ接しているうちに精神を失調する者も時にいると噂されているのに。長い時間肖像画の複数の視線に晒されて、正気でいられる者はいるのだろうか。
「ここには肖像画とそれ用の照明しかないから。隠せる場所は限られている。」
「大抵、こういうのって絵の裏側だよな。いわくつきの旅館のお札とかそうらしいもんな。」
 燐は現在のメフィストの肖像画の前に立つ。トレードマークの白いシルクハットにマント、かぼちゃ型の半ズボンの下に派手な柄のタイツ。そしてブーツ。何から何まで再現しなくてもいいのにというレベルだった。両手を組み合わせて聖人よろしく十字架を背負って天を仰いでいる絵だった。悪魔がそのような構図を好むとは思えないが、それは画家の抱いたヨハン・ファウスト五世のイメージなのだから、メフィストになんら責任はないはずだ。しかし神を冒涜するような図柄であった。
 燐は両手でその肖像画を抱えると持ち上げて、掛け金から外すと横にずれた。
「雪男。裏に何かないか?」
「はめ込んだような戸棚がある。」
「ビンゴだな。」
「でも鍵穴がある。しかも開かない。」
 雪男は項垂れる。この鍵穴に合う鍵は所在がしれないからだ。
「僕は神父さんから、なにかしら鍵はもらった覚えないし……」
 肖像画を抱えながら燐は叫ぶ。
「俺はジジイから一つだけ貰ってる!」
「ええ! ……でも合うかな?」
「物を隠すときの鍵って言ってたから。」
「なんか適当じゃないそれ。」
「つべこべ言わずに。鍵は首にかけてるから取ってくれ。メフィストの肖像画だけど落とすわけにもいかないしよ。」
 雪男は渋々と燐の首に掛けられた紐を手繰って、塾の鍵ではないほうの金の鍵を手に取った。それを鍵穴に差し込む。かちゃりと軽い音がして鍵が開いた。
「何があるんだ?」
「今から戸棚を開けるから。……ちょっと固いんだよ。」
 雪男が戸棚を開けて中にあるものを取り出す。雪男は拍子抜けしたようにそれの正体を口にした。
「女の人の写真だよ。しかもたくさん。」
「えー。」
「でもなんか普通のスナップ写真っぽい。」
 雪男に燐は写真を見せられる。ごく普通の服を着た歳若い女性がにこにこと笑ってピースしたりしている写真だった。数枚は銀縁眼鏡のにやけた男が横にいて肩を抱いている写真もあった。
「これ、男のほうはヒゲと皴をつけたら神父さんじゃないか?」
 燐は目を細めてその写真を凝視する。
「……。……あ!」
 これでお宝の正体は、はっきりした。藤本獅郎のお宝とは、若かかりし日の藤本の歴代彼女の写真だった。
「何枚あるんだ。これ。」
「ざっと三十枚くらいあるよね。全部が全部彼女とは限らないのが、あの人の怖いところだけど。でも、この人たち全員一般人っぽいよね。女優さんやモデルさんじゃなさそうだし。神父さんが昔好きになった女の子達であることは間違いないよね。すごく気が多い人だったんだね。あれ?」
 写真を見ているうちに、ある一枚で雪男の手が止まる。
「この女の人、どこかで見たような……。」
「この着物着てる女の人か? 誰なんだ?」
 雪男は確かにその写真の女に見覚えがある。でもそのことを燐に言おうか言うまいかしばし迷った。
「なんだよ。なんか心当たりあるだろ。」
「心当たりは凄くあるんだけど。この人、しえみさんのお母さんだよ。フツマヤの女将さんだよ。」
「あのお母さん? 嘘だろ。」
 雪男はぶんぶんと首を振る。
「しえみさんの小さい頃の写真を見せて貰ったんだ。その写真にこの人が写ってたんだ。彼女だったのかな。」
 写真を穴が開くほど覗きこんでいる兄を他所に雪男は一人夢想していた。写真の中のフツマヤの女将はしえみに見せられた写真より、まだあどけなく、しえみによく似たほんわかした笑顔を向けている。フツマヤの女将になる前の、看板娘だった頃の彼女だろう。
 写真の中の女将の横には他の写真と違って、緊張した面持ちの藤本が立っていた。まだ学生といった感じで、昔の正十字の制服を着ている。学生の藤本は、他の写真の女性に対するほど若かった頃の女将と親密な距離を取れないでいるような、見ている者のほうがもどかしくなってくるような構図だった。
「なんかこれってさあ。」
 雪男は言葉を途切れさせた。みなまで言わないほうがいいに決まっている。しかし今現在の兄や自分がしえみに向ける思いを重ね合わせてみれば――。
「たぶん片思いだったんじゃない? っていうか、片思い以前だよね。この感じだと。」
「あのジジイがか? 惚れっぽくて、手、早そうなのに。」
「だってここで既に恋愛だったら、しえみさんのお父さんは、神父さんになっちゃってるところだよ。たぶんそれなりに淡い思いはあっただろうけど、打ち明けられないままだったんじゃなかったのかな。」
 二人は黙り込む。エロ本だったら燃やすなり廃品回収に出すなり処分出来るけれど、義父の思い人たちが写った写真を燃やすことなんて出来そうにない。
「このままここに置いておこうか。兄さん。」
「そう、しよっか。」
 雪男は戸棚の中に写真を全部戻して鍵を閉ざす。燐は元通りに肖像画を壁に掛けた。
「雪男。なんか急に、しえみのところ行きたくなったんだけど。」
 それは雪男も同じ思いだった。兄と二人で過ごすと決めた休日だけど、その休日に誰か一人招いてもいいかもしれない。しえみだったら、なおさらそう思った。
「じゃあ、行こうか。兄さん。」
 兄弟二人はそっと部屋をあとにした。
 
 
「歴代の私の肖像と、歴代の愛した人の肖像ですか。獅郎も粋な言葉遊びを思いつきますよね。」
 若い頃の獅郎も今の兄弟たちのように、淡い恋をすることもあった。それを楽しんだり苦しんだり、壁にぶつかったりしながら、結局は誰とも結ばれることはなかった。メフィストは燐の持っていた肖像画から姿を現した。
「兄弟の一大イベントにしては地味な過ごし方だと思ってましたけど。ふむ……。これはこれで味わい深い。」
 悪魔は満足そうに肖像画に背中を凭れかけさせた。





何も考えてなかったのは雪男だけじゃありません。私もでした。次の行き先はしえみの家です。いつになったら雪男は兄の記憶に残って欲しくない恥ずかしいことをするんだろう?

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第六話「あの犬よりはマシ」 燐雪

「僕は狡い人間だ。」
 
 
 六○二号室を出たドアの外で雪男は呟いた。廊下の突き当たりの階段を駆け上る兄が見える。上に逃げたって屋上で追い詰められてしまうのに。相変わらず馬鹿な兄だとせせら笑いたくなった。笑いをかみ殺して雪男はその背中を追う。
 雪男は特に急ぐ素振りも見せず、ただ愛用のハンドガンを構えて階段を上がる。
 
 ことの発端は休日の昼下がり、ほんの少し仮眠を取っていたら誰かの手の感触で目が覚めた。それでも瞼がまだ重かったので薄暗い視界に浸って横臥の姿勢のままじっとしていると、その手は眼鏡を外された自分の瞼を指で撫でている。起きかけた自分をまた寝かしつけようとしているかのように。しかし妙に心地よくてまた眠ってしまいそうだった。
「雪男。」
 その手の主が悪魔な兄だと確信するまでは。
 
 本当に油断も隙もない。完全に覚めてしまった視界の中で大写しな兄がいた。振り上げようとした右手は、しかし上手く上がってくれなかった。見れば兄の左手が指を絡めて繋がれている。
「兄さん。何してるの?」
「寝顔が可愛くて、一人眠り姫ごっこ……」
 黙って力いっぱい、圧し掛かっている兄の腹を蹴る。指が絡まったままなので雪男の身体も燐に引き寄せられてベッドに起き上がる姿勢になった。
「雪男、ごめん。」
 燐は手を放して床に這いつくばると雪男に見下ろされながら土下座した。
「いつもいつも謝る割には、全然懲りてないようだね?」
 雪男はベッドの側に脱いであった靴を履くと、燐の頭を踏みつける。
「この身持ちの悪い悪魔が――」
 テンポ良く何回も床に燐の頭が打ちつけられる。
「許してくれよ。雪男……」
 懇願する兄には頓着せず雪男はベッドから離れると、作り付けの机の前まで行き引き出しを開け、ハンドガンを取り出した。
「さあ。逃げなよ。兄さん。いつもどおりに無様にさ。」
 
 そして一方的な追いかけっこが始まった。雪男はわざと燐の身体を掠めるように弾丸を放っている。動く的はその掠める痛みに反応している暇は無いらしく、吹き出た血や裂けた服を後方に撒き散らしながら上へ上へと逃げて、逃げて、逃げて――。
屋上に行き着いた。
「雪男……」
 手を上げて無抵抗だということを主張する燐。近づいている雪男に向かって微かな笑いを浮かべながら首を振っている。
「ほんの、冗談だろ? 本気で撃ったりしねえよな? な?」
「さあ、どうだろ?」
 一歩ずつ前進する弟と、半歩ずつ後退する兄。誰もこんな幽霊屋敷の屋上の出来事なんか観測していない。何が起こっても、何が起こったか当事者同士以外には分からない。
「僕に許して欲しいんだね。兄さんは。」
「そうだよ。ちょっとした出来心の過ちは、許されるのが普通だろ。そして悔い改めるチャンスをくれるのが神の道だろ。」
「普通に悪魔が神の道に縋るのはやめなよ。」
 雪男は銃口を向けたままずんずんと燐に近寄る。
「だって、だって……。兄ちゃんだって日頃から散々我慢してたのに、雪男ちゃんが無防備に寝ちゃうから、つい、兄ちゃん、魔が差しちゃったんだよ。さっき思ったことなんだけど、なんかこの頃、雪男おかしいよ。ひどいことする割には、そのあと甘えてきたり優しくしてくれたり。だから兄ちゃん、雪男が兄ちゃんと同じ気持ちなのかなって期待しちゃうじゃんか。」
 兄の泣き言を聞いて雪男は自分の狡さを実感する。
『兄さんにも、そう思われてたんだ。』
 
「雪男ちゃんが思わせぶりだから!」
 
 兄の泣き言は実にみっともないが、雪男の耳には心地よかった。己が一途に心をささげている対象に蔑まれて傷つけられる痛みにのた打ち回る姿は、痛めつける側としては存分に安堵出来る光景だった。兄が本当に素直な馬鹿で良かったと思う。簡単に罠に嵌って、墓穴を掘ってくれる。
言うまでもなく、雪男はわざと兄に無防備な姿を見せていた。そして自分に手を伸ばしてきたところを狙って、それを口実に虐待を繰り返しては兄に死ぬような思いをさせて、精神的な優位を得ていた。本当に狡猾で陰湿な弟だと雪男自身でも思う。
『だって、そうしないと。』
 兄は自分では自覚していないだろうが、いつのまにか兄に同情的というか、兄に味方するような相手が出来た。
メフィストしかり、勝呂しかり。
そんな献身的な相手に兄が靡かないとは限らない。ちょっと手綱を緩めれば、そんな優しい人達の懐に逃げ込みかねない。
 なんだかんだで雪男は兄以上に、兄がいなければ生きていられない人間だった。あんなに殺したいと思う忌まわしい悪魔なのに、自分の側にいて自分にだけ目を向けてくれなければ嫌だと思う。自分の側で自分を思いながら、苦しんでいて欲しい。なんて身勝手な願いなんだろう。
 
 燐はついに屋上の端に追い詰められる。雪男は最初から決めていた。いつもどおり、ここで兄が謝ったら、兄を許して、今日の折檻は終わりにしようと。
「兄さん。僕に許して欲しいんだよね?」
 燐はうんうんと頷いている。その目はわずかな希望を捕らえたかのように、白い光が宿っていた。
「僕に許して欲しいなら」
 燐の胸の前に雪男は右手を置いた。
「そこから飛び降りてね?」
 ぽんと前に燐の胸を押す。燐は両腕をわずかに振りながら後ろに消えた。雪男は静かに踵を返す。
「さあて。兄さんを手当てしなくちゃ。」
 
     *   *   *
 
 アーサー・О・エンジェルはサタンの落胤が隔離されているという、正十字騎士団日本本部正十字学園旧男子寮の前に立っていた。
「ふふふ。いつまでもオレが待っているなんて思うなよ。シュラ。」
 魔剣を携えてずんずんと近づく。
「何の口実かは知らないが、サタンの落胤に関することに時間を掛けすぎだ。その分オレはほっとかれっぱなしじゃないか。優秀な部下が側にいないとオレは魔剣持ちの騎士でしかないのは、シュラにも分かっているだろう。こうなったらサタンの息子のことは、俺が手を下してやる。そしてシュラは元通りヴァチカンでオレに構ってればいいんだ。」
 ここにも、誰かがいないとまともに生きられない困ったちゃんがいた。
今現在、祓魔塾に通う謎のパーカー男の山田というのは、ヴァチカンが放ったスパイ・霧隠シュラで、このアーサーの部下を(嫌々)やっていた。サタンの息子を発見しだい殺せというのがシュラの任務なのだが、当の対象が実の弟に虐待され命の危機に常に晒されているのを目の前にして、自分からは手を下しづらいことになっていた。
もう既に悪魔の正体を塾のメンバーにも(視覚的に強制的に)知られているし、その弟との関係のせいで周囲から同情も惹いているので(しえみには誤解されているが)、余計にヴァチカン側のシュラが手を出しづらくなっていた。
そんなのはアーサーの知ったことじゃない。天然構ってちゃんの新任聖騎士は、そんな部下を迎えに、部下の代わりにサタンの息子を殺しにきた。まるで母を訪ねて三千里な息子のような健気さと傍迷惑さだった。
アーサーは中の様子を窺うように上を向く。位置的にはちょうど建物の間際までせまっていた。その目の前には入り口が見えていて、ちょうどそれを蹴破ろうかと思った矢先。
「あれは、なんだ?」
 自分に向かって迫ってくるものがある。
「ああああああああああああ!」
 そして頭上から絹を裂くような男の悲鳴が降ってきた。
アーサーの顔の上で影を作ったのは、一瞬のことだった。アーサーの視界はあっけなく暗転する。人間一人(六十三キロ/1G)が落ちてくる衝撃に人間が耐えられるわけがなかった。
 
 兄が屋上から地面に落ちてきた衝撃音を雪男は聞いていた。あの分なら死なないまでも重症だろうから、しばらくは寮の外で動けなくなっているだろうと考えた。手当てをしてやらなければと思っていた割には、救急箱の中身がほとんど在庫切れなのを思い出してフツマヤに暢気に買出しに行っていた。そこでしえみにハーブティーをご馳走になり、日頃の緊張をほぐすようにお喋りに興じ、しえみお手製の(唯一まともに作れる)ハーブクッキーをご馳走され、気がつけば二時間くらい兄を放置していた。
 
 雪男はそれを心底後悔する羽目になる。
鍵を使って帰ってきたら、燐と親しそうに話す金髪長髪の整った顔の見知らぬ男がいた。重症かと思われていた兄は、(状況を推察すれば)その男が下にいたお陰で事なきを得たようだ。しかもその男は。
「記憶喪失らしいんだよ。」
 男は困ったように言う。
「なんにも覚えてないんだ。ただ渾名がアサ子だったこと以外。なんでここにいるのか、アサ子は今まで何をしていたのか、全然思い出せないんだ。」
 アサ子というのはシュラが駄目上司のことを「駄目っ子アーサー」と常に罵っていたのを、圧縮と変換を加えた結果生まれた渾名である。(そんなことはとうの昔にアーサーは忘れているが。)当のアーサーは自分に対してキリキリしているシュラのことを、苗字をもじって「きりちゃん」と呼んでいた。
 燐は拝むように雪男に頼み込んでいる。
「俺を下で受け止めてこうなっちゃったみたいだから、なんとか俺らで世話してやれないかな?」
「なんで僕が?」
 雪男は胡散臭そうにアーサーの金髪と服装を見ている。
「よく見たら正十字騎士団のバッジを付けてるじゃないか。騎士団縁の人なんだから、兄さんはあまり係わり合いにならないほうがいいよ。」
 さっさとメフィストなりに引き渡すべきだと雪男は思った。見知った顔ではないので、たぶん他の正十字騎士団の男なのだろう。この日本本部では燐のことは公然の秘密だが、こうやって外部からこの寮まで出向いてくる外部の人間がいるというのは芳しくない事態だった。
「でもこいつ、自分が騎士団の誰っていうのも思い出せないんだぜ。いきなりメフィストに引き渡して、もしメフィストに都合の悪い人間だったりしたら、なんかされちゃうんじゃないかな?」
 メフィストにとって都合の悪いということは、燐にとっても都合の悪い人間だということに気がつかないのか、この馬鹿兄と弟は内心で毒づいた。アサ子ことアーサーは燐と雪男のやり取りを聞きながら、自分を庇ってくれる燐のシャツの裾をぎゅっと握り締めている。その姿が雪男は気に入らない。記憶喪失だとしても、大の大人が十五歳に庇って貰うなと思うと眉間に皴が寄ってしまう。嫉妬以前の問題だった。
「とにかくいきなり引き渡すのは可哀想だと思うんだ。なあ、雪男。俺がちゃんと世話するから。なあ、こいつ俺たちの部屋に置いてやってもいいだろ?」
「駄目。学園の外に捨ててくるんだ。」
 アサ子はひしっと燐にしがみつく。
「雪男がそんなこと言うから、アサ子が怖がってるじゃないか!」
 雪男の口元が歪む。アサ子は今まで黙っていた口をおずおずと開く。
「ちょっと思い出したんだけど、アサ子たぶん誰かを探しにここに来たんだと思う。」
「へえ? アサ子さんはここに誰か探しに来たんだ? だけど僕たちは全然そんな人に心当たりないから、他所に行ったほうがいいと思いますよ。僕も兄さんもアサ子さんと初対面ですし。」
 相変わらず雪男は淡々と言っている。燐はアサ子を庇うように肩を抱くと、雪男を睨みつける。そんな兄の表情を雪男は初めて見た。一瞬だけ胸が竦んだ。
「なんだい、その目は。僕は常識でものを言ってるんだけど。」
「どうしてそこまでアサ子を追い出したいみたいに言うんだ。」
「どうしてそこまで兄さんは、アサ子さんを庇うのかな?」
 さっきから目の前でちらついている、自分とは正反対のアサ子の長い金髪。甘ったるい目元。何から何まで気に障る。兄の真下にたまたまいて下敷きになったのも、それで記憶喪失になって兄の同情を惹いているのも、兄がそんな男に保護欲をそそられているのも、全部気に入らない。
 しかし雪男は冷静さを取り戻した。
「まあ、部屋もいっぱいあることだしね。」
「いいのか。雪男なら分かってくれると思ったよ。」
 燐はアサ子の手を引く。
「アサ子もう大丈夫だからな。アサ子の記憶が戻って、アサ子の探してる人が見つかるまで、俺がお前の面倒を見てやるからな。」
「ありがとう。えーと、君は名前は……」
「奥村燐。こいつは、弟の雪男。」
「ありがとう。燐。それと、雪男もありがとう。」
 雪男は無愛想にアサ子に背中を向ける。抱えていたフツマヤの紙袋を二人から隠すように。
「アサ子。早速飯食わせてやるからな。そのあとは一緒に風呂に入って洗ってやるから。そんで今日は俺のベッドで一緒に寝ようぜ。」
 まるで大型犬でも手なづけたような燐だったが、アサ子はアサ子でそんな燐に犬よろしく懐いている。とても不倶戴天の敵同士のサタンの息子と聖騎士な二人には見えなかった。
 
     *   *   *
 
 植え込みの影から三人を見ている影があった。
「ヴァチカンも遅いんだよ。知らせるのが。」
 アーサーが日本本部に向かったとシュラに知らせてきたのは、アーサーが旧男子寮に姿を現してから三十分ほど経過したあとだった。駆けつけた時には既に時遅しで、屋上から突き落とされたらしい燐と、その真下に都合よくいたアーサーが接触完了していた。しかも遠目から観察している限りでは、二人がお互いの存在を認めたあと、いきなり切った張ったになると思いきや、アーサーの記憶喪失のせいで逆方向にシフトしてしまったらしい。
「あのビビリメガネがキレないかと心配だったけど、この場はなんとかなったみたいだな。」
 なんとかならないほうが良かったのかもしれない。シュラは雪男の燐に対する虐待の事実は認識しているが、燐への歪んだ思いは知ろう由も無い。しかしなんとなく予感めいたものを思ったのは、魔剣と共に在る、呪われた(あるいは祝された)身の成せる業なのかもしれない。
「なあ、雪男。お前どうしちまったんだよ。」
 昔はにかんだように「兄さんが好き」と言っていた、健気な弟はどこに行ってしまったんだと魔剣の女は溜息をついた。





話をややこしくするトリックスター・アーサーの登場です。「アラベスク」シリーズが「嘘だ!」と叫びたくなるような仲良しなふたり。しばらく雪ちゃんのヤキモチとヤンデレと、他ヒロイン強化シナリオに移行します。(2~3話ほど)

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☆ss「ユーフォリア」 「アラベスク」シリーズ現在編、メフィスト。オリキャラ注意。

 メフィストフェレスが松葉杖を手放せなくなったのは二年前からだった。その前の二年間は車椅子で、そのまた前の一年間はベッドに縛りつけられていた。
そんな日々も今は懐かしい。再び日の下で埃臭い空気を吸えるなんて五年前では考えられなかった。そして今、自分の横で自分の足にしがみついているのは、末弟の燐の子どもだった。
「おじちゃんになるという経験は初めてですね。」
 それは正確な言葉ではない。自分たちの父親・サタンには多くの子どもたちがいて、その子どもたち、つまりメフィストにとっての兄弟姉妹にも子どもはいるだろう。しかしこうやって伯父さんと甥だと紹介したりされたのは、るんとらんが初めてだった。
「虚無界か――。」
 メフィストはずっと離れている自分の生まれ故郷を思った。宗教も倫理も道徳もない世界で、血縁だとか家族だとかいう感覚は到底なかった。極端を言えば親子兄弟で恋愛も有り、そんな情さえなくて肉体関係を持つことも普通だった。それに参加しないメフィストが異端呼ばわりされるくらいだった。
 本当に侘び寂びのない世界だった。一方的に弱いものが蹂躙される世界。
「ゲヘナはおじちゃんのじっかだよね。おれもいってみたい。」
 メフィストがちょうど虚無界を思っていたのを口に出してしまったのか、小さな甥っ子が興味津々になっている。
 メフィストは平静を装っているが、内心では慌てふためいて、るんの言葉を否定する。
「いかないほうがいいですよ。あんなとこ。」
 今まで思い返していたことを総合すれば、この純粋な子どもなど格好の餌食にしかならない。メフィストは大袈裟に言う。
「わたしが二百年も帰らない、これからだって帰りたいとは思わないところです。」
 異常さが普通で、異常、惨酷、殺伐、ただそれだけの世界。だからサタンは物質界が羨ましかった。だからサタンは物質界も虚無界とおんなじにしたがった。
「私は、燐やるんやらん達と、ずーっとのんびり平和にここで過ごしたいですよ。」
 ぎゅうっと、るんを抱きしめてやる。るんは何か言いたいらしいが、メフィストがぎゅっとしてくれているので、ここはもう何も言うつもりはないらしい。おれが一人称でらんより活発そうに見える割には、控えめな子だった。
「メフィストおじちゃんがいるなら、おれもここにいる。」
 そして少し恥ずかしそうに小さな声で続けた。
「おれ、メフィストおじちゃんがすき。」
 それにメフィストはいつも答えてやらない。でも悪魔の心臓が少しだけ高鳴った。
『お母さん似なのが災いですね。』
 勿論、燐を末の弟と言い張っているのだから、燐に対して恋愛感情はない。どこぞの弟じゃないのだから。
『この子も将来は別の人に好きっていう日が来ます。その時まで嬉しがりながらも、受け流しておけばいいんです。』
 それが人間の家族の作法だと人間から学んだ。悪魔のように節操無く欲望の対象にしてはいけない。大事に汚さないように、守っていかなければ。あの末の弟にやってやったように。
『そう考えると、雪男君には悪いことしちゃいましたね。』
 五年前の雪男のことを考えると、少しだけ悪魔にはあるはずもない良心が痛むような気がするが、そうしなければ収拾がつかなくなっていたとも思う。
 自らの父親のサタンに燐を向かわせることだけは避けておきたかった。元々が平凡な心を持った燐がささやかな願いを胸に隠していることは、悪魔の嗅覚で読み取っていた。最善をつくしたつもりが、片方の弟を最悪の淵まで追い詰めてしまったことだけは、悔やんでしまう。
でも字面にすれば「悔やんじゃいますぅ♪」なテンションのつもりだけど。悪魔なんだから罪悪感など抱かないはずだ。あくまでちょっと成功するには足りない、失敗しちゃいました的なやっちゃった感ばりばりの後悔だ。  でもこの悪魔には悪魔なりにセンチメンタルになったりすることもある。甘酸っぱい感傷は悪魔にとっては大好物だからだ。
 しかしそんな心情は悟られてはならない。それは悪魔の処世術だった。
「るん。そんなに簡単に悪魔に好きって言っちゃいけませんよ。付け込まれて頭から食べられてしまいますよ。」
 その言葉にるんは目を輝かせる。
「おじちゃん、おれのことたべるの? たべて!」
 食いつかれてしまった。るんは嬉しそうに歌うように話し続ける。
「おじちゃんがおれをたべたら、おじちゃんがねてるあいだに、らんがおじちゃんのおなかをきって――。」
 おいおい。燐が寝る前に読んでやる絵本の赤頭巾か七匹の子山羊が、この子どもの頭の中では展開されている。現実でそんなことが起こったら凄い惨劇だろう。
「で、おれはおじちゃんのおなかからでてきたら、おじちゃんのおなかをおかあさんにぬってもらうんだ。」
「どちらかというとそれは、あの――」
 と、メフィストは目顔で遠くのベンチに座っている雪男にるんの目がいくように仕向ける。
「雪男おじちゃんのほうが、おなかを縫うのは上手だと思います。」
 雪男に自分の身体を任せたら、石を大量に詰められるのは必至だろう。それを燐に阻止して欲しいメフィストだった。
「うん。そうだな。メフィストおじちゃんのおなかのなかにはいってみたかったけど、おはなしのおわりにおじちゃんしんじゃうもんな。それはいやだな。」
 子どもの想像はどこまでも惨酷だった。るんは考えこみながら、うんうんと頷いている。
「さいごにけっこんできるおはなしがいいな。」
「結婚ですか?」
「さいごに、まほうつかいとけっこんできるはなし。」
 仮にるんがお姫様か王子様だとしても、自分の役回りは、子どものるんが考えても魔法使いだろう。だからそんな発言が出てくるのだ。姫や王子と、魔法使いが結婚する話なんか、御伽噺には存在しない。魔法使いはいつも都合のいい便利屋か、許しがたい敵役と相場が決まっている。
「るんは意外と御伽噺は詳しいですね。」
 るんは褒められて嬉しいのか、自分の知っている限り御伽噺の題名を言い続ける。その中で自分とメフィストに当てはまる物語を探しているようだ。
「しらゆきひめも違うし、シンデレラみたいにおれはこきつかわれてないし、ねむりひめもちがうし。かぐやひめはけっこんしないし。いっすんぼうしもちがうし。」
 どこまで結婚願望の強い幼児なんだとメフィストは怖気だった。あの奥村燐の結婚願望が確実に遺伝している。
「おれが、そんなおはなしをしらないだけなのかな。ちっともおもいだせない。」
 だから子供向けでそんな話は無いんだよとメフィストは言いたくなる。しかしぐっと堪える。
「そうかもしれませんね。大人になったらいろいろ本を読んでみてください。」
「そうしてみる。」
 そしてるんはメフィストを滑り台の降りたところに座るように手招きする。メフィストが腰を下ろすとその細長い足の間によじ登って、るんは落ちないようにメフィストの浴衣にしがみついた。子猫のような仕草で子猫のように愛らしく。
「眠くなったのか。」
 柔らかい肌を摺り寄せて、るんは寝息ともつかない声を上げている。今日はいろいろとるんなりに一生懸命考えていたせいだろう。
 
「私がこんな杖がいらなくなった頃には、どうなってるんでしょうね。獅郎。」
 
 あの男は杖がいるようになるまで生きていられなくて、孫には会えなかったけど、この孫たちを愛おしく思ってくれているだろう。
 それが人間の感情の、当たり前だった。
 自分には絶対に手に入れることが出来ないと思い込んでいたものを手に入れた男の、持て余す限りの感傷だった。





最後に藤本さんにいきつきました。双子の兄編です。

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☆ss「リコリス・ラジアータ」 「アラベスクシリーズ」現在編、雪男。オリキャラ注意

「『俺を助けて』か……」
 
 夜通し兄と自分の回想を重ね合わせていたので、雪男の頭の中はかなり疲れていた。
「確かに兄さんは僕に助けを求めてきた。でもそれを僕が受け入れなかったから、志摩君に行ってしまった。うん。自業自得だ。」
 この真実に志摩廉造は気づいているのだろうか。何が圧倒的に廉造に味方したかと言えば、あのメフィストフェレスの手引きがあったからだ。燐が信頼を寄せていた(何がそうさせていたのか分からないが)あの悪魔がいたから、燐は廉造の言葉を受け入れられたのだろう。
「もう一度、あの悪魔と話をつけなくちゃ。」
 あの正十字町の大通りで対峙したとき、悪魔落ちしてサタンの力を吸収した雪男を倒すことによって、メフィストは物質界を圧迫していた虚無界のパワーを殺ぐのに成功したと言う。最初から雪男を追い詰めるつもりで仕掛けてきたとしか言いようが無い。
 
「おじちゃん。すごいおこってるようにみえますが、だれにおこってるんですか?」
 雪男の視線の先を繋げて双子の片方が首をかしげている。
「君は、えーと」
「らんのほうです。おじちゃんが、るんかぼくかまようのは、しかたないです。」
「ごめんね。すぐに言えなくて。」
 燐が病院に行っている間、雪男は双子を連れてアパートの敷地内にある小さな公園に出ていた。二人の目線の先には、浴衣姿で松葉杖をついているメフィストとるんが滑り台で遊んでいる。奇しくも五年前に死闘を演じた男二人が、平和な住宅地で子どもを連れて遊んでいるのだった。ただし雪男はベンチに腰掛けてメフィストには近寄らない。目顔で挨拶しただけだった。メフィストのほうもそれに苦笑を返してきただけ。そんなふうに因縁の二人が再会した。
 るんはよっぽどメフィストが好きなのか、片割れが自分の側を離れてもまるで気にすることなくメフィストとはしゃいでいた。そんなるんを雪男の目の前のらんは四歳児にしては冷めた目で眺めている。
「僕に気を遣ってくれているのかい? あっちでお兄ちゃんと遊んでいいんだよ。」
「るんがいないときに、おじちゃんとはなしたいことがあったので、ちょうどいいんです。」
四歳のわりに要領が良いし流暢に喋るものだなと雪男は感心した。その要領の良さが昔の自分にあれば、案外いじめられなかったのかもしれない。その反動で卑屈な性格になってしまったのだから、その実感は多大なものだった。
「おじちゃんがらん君に答えられることなんてあるのかな?」
「たぶんぜんぶこたえてくれるとおもいます。まず、うちのおかあさんはすきですか?」
「すきだよ。」
「うちのおとうさんは?」
「……きらいだよ。」
「どうしてですか?」
「君たちのお母さんを僕から横取りしたから。」
「ぼくたちはどうですか?」
「すきだよ。」
一つ問われるごとに一つ答える。淡々と言われる言葉は、子どもにしては容赦ない。子どもだから容赦ないの間違いだろうか。らんは雪男の回答を聞くたびに頷きながら咀嚼しているようにも見えた。
「ぼくもそのうち、メフィストおじちゃんのことをきらいになるのかな。」
 らんがぽつんと言う。
「それはどうしてだい?」
 質問者と回答者が入れ替わる。らんは拙い口調で淡々と答える。
「メフィストおじちゃんがぼくからるんを「よこどり」するかもしれないからです。」
「あのおじちゃんは、嘘吐いたり悪だくみはするかもしれないけど、誰かから誰かを横取りするようなひとじゃないと思うよ。」
「ぜったいに、「よこどり」されます。だってるんがメフィストおじちゃんのことがだいすきだからです。」
 雪男から少し離れた場所でるんは、一メートルに満たない身体で倍以上のメフィストの膝に乗っている。メフィストはそれを拒むことはない。それはまだ年長者に小さい子が懐いている光景だが、それが思春期を迎えるころには別の何かに変わっているのかもしれない。
「ぼくはおおきくなったら、るんとけっこんして、ぼくらのおじいちゃんのせかいにいこうとおもってました。」
「さらっと聞き捨てならないこと言ったよね。」
「はい、いいました。おとうさんはずっこけました。」
 お父さんの前で言ったのかよと雪男は呟いた。らんは要領が良くて肝が据わっている。
「お父さんはなんて言ってた?」
「おまえはあくまだから、それはありかもしれへんな。といってました。でもぼくはそのゆめを、あきらめました。」
 しかも潔かった。雪男は顔面を片手で押さえながら、言葉を続ける。
「るん君がメフィストおじちゃんが好きだから? でも、るん君がずっとあのおじちゃんを好きだとは限らないよ。」
 らんは大好きな兄を目で追いながら、子どもにしては低い声で「だめですよ」と呟く。
「そういう「きぼうてきかんそく」に、ぼくがしがみついていると、るんをふしあわせにしてしまいそうなのです。ぼくはるんのふしあわせが、だいきらいなのです。」
「でもそれじゃ、君が不幸せになるんじゃないのかい? それって不公平なんじゃないのかい?」
 らんは雪男を見上げる。幼かった頃の自分とは似ても似つかない、幼かった頃の兄そのものな顔立ち。しかしその達観したような目つきは、そんな兄の面影を裏切っている。寧ろその暗い情念は、自分と似通っていて、目の当たりにするのが苦しい。
「これはおもいつきなんですけど、おじちゃん、ぼくとけっこんしませんか? おとうさんがいうように、あくまどうしなら、もんだいないとおもうんですけど。」
 雪男はベンチから身体がずり落ちそうだった。というか、自分が悪魔だということが、ばれてしまっていた。
「あくまどうしでも、おじちゃんと甥っ子は結婚して大丈夫なのかな?」
 雪男はそれが駄目なことは勿論知っている。
「るんとメフィストおじちゃんも、おじとおいです。」
「彼らのことは横に置こうよ。というか、メフィストおじちゃんをお母さんの兄弟だって認めてるんだね。僕はどうもそうだと思いたくないんだけど。」
 潔すぎる。大胆すぎる。雪男はどうもついていけない。らんの言い分を聞いて、ツッコミどころにツッコむしか無さそうだ。
「らん君。君はヤケになってないよね? ていうか、ヤケになってるよね。ヤケになってるとしか考えられないよ。」
 悪魔落ちしてからこのかた、こんなにぐだぐだした思いに囚われたことはない。とりあえず、この甥っ子はまだ更正しようがあるのだから、どうにかできるだけやってみようと思った。しかしどうしていいか分からない。
「らん君。」
「いいんです。今のところは、ぼくのことちょっといしきしてくれるだけで。」
「人生、こんなところで諦めちゃ、駄目だからね。僕が言うようなことじゃないけど、僕みたいにはならないでね。僕の道連れになることもないからね。」
 らんは子どもらしくなく溜息をつく。
「おじちゃんもまだ、おかあさんをあきらめてないんですよね。だからきのうもおかあさんといっしょにねたりしたんでしょ。」
 ぎくっと雪男は固まった。寝静まったのを確認したはずなのに。
「せまいおうちなので、うちのなかでおこってることはだいたいつつぬけなのです。」
「壁が薄いってことなんだね。」
「おじちゃんたちのはなしもきこえてました。」
 それには雪男の胸はぎくりどころではなかった。この潔くて大胆で要領が良くて賢い甥っ子がどれだけ理解しているか、戦々恐々だった。
「そっか、聞こえてたのか。」
「るんはねてたので、だいじょうぶです。」
 そういえば、るんのほうとはほとんど話していないなと雪男は思った。そしてあれだけ疎ましいと思っていたメフィストのことも、この甥っ子と会話をしている内に頭の中を離れていたのに気がついた。再びメフィストのほうに視線をやると、膝の上でだいぶ眠そうになっていたたるんを腕に抱き上げてこちらに歩いてくる途中だった。
「らんはこちらにいましたか。おじちゃんと楽しそうに、いや、おじちゃんが楽しいことになっている姿が見えましたよ。」
「はい。おじちゃんといろいろはなしてました。るんは、メフィストおじちゃんをこまらせてませんでしたか?」
「子どもに困らされるのは、大人としては本望です。」
「そうですか。」
 メフィストは雪男に松葉杖を支えていたほうの手を伸ばした。
「どうです? これから私の家でおやつでも。らんはそのあとお昼寝したほうがいいでしょうし。燐が帰ってくるまでもう少しかかりそうですから。」
「おことばにあまえさせてもらいます。るんははしゃぐとすぐにねむたくなっちゃうけど、ぼくはあまりねむたくならないのですが、るんがおきるまでまつことにします。」
 そう言ってらんは雪男の隣から立ち上がった。雪男も釣られて立ち上がる。
「僕もお邪魔させてもらっていいですか? フェレス卿。」
「構いませんよ。かつての仇敵の家でよければ、どうぞ。」
 皮肉な響きはなかった。悪魔のお茶目な戯言。それを素直に聞き流せる余裕が出来たことに、誰よりも雪男が驚いてしまった。





一区切りがついたので、ちょっと現在に戻ってみました。いろいろと進化系の双子の弟編でした。

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☆ss「スカボロフェア」 藤堂とネイガウス 勝燐

 ああ、破滅したい。
 
 藤堂の脳裏に十の十六乗くらいは掠めた言葉だった。しかし当の藤堂自身はその言葉を呟くまでもなく、とっくに破滅したも同然なのだけど。
 正十字学園祓魔師養成塾の講師の役職を離れて結構長い期間が過ぎていたが、切れ切れの情報は耳に入ってくる。あくまで塾の内部だけの秘密事項として、理事長メフィストフェレスの深遠なる思慮かただの思いつきか分からないが、サタンの息子が籍を置くことになったそうな。それを藤堂は未だ知らない振りをしている。
 
 ああ、崩壊したい。
 
 藤堂の目の前には整然とした世界が広がっている。それは祓魔師を育てる場所としてこれほど相応しいものはなかった。しかしその中に不穏の芽が潜んでいる。
 一見すると藤堂のような冴えない一講師崩れには縁の無い話だった。
しかしそんな藤堂をかつて慕っていた生徒もいないわけじゃない。卒業から六年も経つのに、ひと月にいっぺんくらいに手紙を送ってくる教え子がいた。手紙の文面を思い出して藤堂はくすりと微笑む。それには彼女の真剣な思いが綴られていたからだ。
「宝生君は本当に真面目だね。それに心配になるくらい不器用だ。変わってないね。僕の言葉なんかに耳を貸して、大事な和尚様を疑う羽目になるなんて。でも信じてくれて嬉しいよ。」
 
 
 さあて、今日はどんなふうに時間を潰そうか? 
 
 書類整理は出来ているし、備品の管理も万端だし。部下への指示はもう全部メールで送っている。まだ午前中だと言うのに、すっかりやることがなくなってしまった。出動命令が出れば軽く二日くらいは早く過ぎてくれるけどと、藤堂はデスクの上の冷めた紙コップのコーヒーの水面を見つめる。
 廊下側がガラス張りになった事務所の外に人影が見える。明るい西洋風の建物にそぐわないようで案外似合っているように見える隻眼の男がいた。
 イゴール・ネイガウス。
 自分よりは一回り半年下だが、正十字騎士団に所属してからは二十年近くになるベテランだ。現在は塾講師になっているらしい。本人がわざとしているかどうか分からないが、あまり感情を表に出すような男ではない。年頃の子ども相手の講師としてはなかなか優秀らしい。あれでもっと愛想が良ければ人気者になれただろうし、上からの覚えも良くて、もっと上に出世出来ただろう。
「あ。それは無理かもしれないな。」
 ネイガウスの人生の別ルートを想像するだけ想像して、藤堂はそれを否定した。単純に思い出しただけだった。
 ガラス越しに目が合ったので、にっこりと笑って会釈をする。ネイガウスも努めて笑おうとしたのか、不器用に頬を少し痙攣させて会釈で返してきた。そしてそれがまるで無理をしているわけでない姿勢の良さで、事務所の側を通り過ぎていく。
「可愛いな。」
 藤堂はくすくす笑うと、口元を手で覆ってこみ上げてくる笑みを押さえ込もうとした。
 
 今日も、世界も私も変わらない。世界も私も混沌として、なんとか平和を装っていた。
 
     *   *   *
 
 若い子供の群れはまるで子犬がじゃれあっているように見える。それなのに、大人になれば妙によそよそしく特別な相手じゃないと、手を握ることさえ稀になってしまうのが不可思議で寂しい。みんな多かれ少なかれそんなことを思っているだろうが、あくまで内面のことなので、それが表にいかにもというふうに現れている人間などいない。しかし今、藤堂が眺めているのは、そんな内面をいとも容易く見せてしまっている年頃の少年たちだった。
 少年たちはみんな一様に嬉しそうだ。誰もが自分はこの中では仲間だと信じているし、自分を取り囲むみんなが味方だと確信しているせいだろう。その中に紛れている悪魔に気付かずに。
「あれがサタンの息子か……。」
 全然悪魔っぽく見えない。立てた頭髪を金髪に染めた長身のいかつい男に勉強を教えてもらっている。側にはピンクに染めたちゃらそうな生徒と、小柄な坊主頭がいる。
「ここさっき教えたやろっ。」
「ご、ごめんなさーい。」
 悪魔っぽくないわけだ。見た目馬鹿っぽいと思っていたが、やっぱり馬鹿らしい。金髪の男と見比べれば、どちらが悪魔なのか分かったもんじゃない。
「見聞きした情報と噛み合わないなあ。」
 人より力が強くて乱暴者として幼少時は怖がられてて、中学はほとんどさぼりっぱなしで教師にも放置されていた。そんな社会不適合児だと聞いていたのに。
藤堂は首を捻る。まるで普通の子供じゃないか。聞いた話では人間のほうの弟は、天才で絵に描いたような聖人らしい。それと対比する兄にしては――。
「パンチが足りないな。」
 というか、弟が出来すぎというべきか。
 
「アレを不思議に思っているのですか? サタンの息子なのに普通じゃないかと。」
「ネイガウス君。君もあの子の事情を知っているのかい?」
「私は祓魔塾の、魔法円と印章術の講師だったのですから。」
 藤堂の後ろには、いつのまにかネイガウスがいた。藤堂は振り返らずににこやかに言う。
「いやあ。どんな悪鬼が学園をうろつくのかと、ある意味戦々恐々としてましたが、随分と普通で大人しいですよね。可愛いというか。」
「それがサタンの子のやり口かもしれませんよ。」
 ネイガウスを振り返って目顔でそうなんですかと問いかける。ネイガウスは頷いた。藤堂は再び事務所の窓から見える中庭を覗き込む。悪魔落ちした影響で目はかなりよくなっているが、わざと顔をしかめてネイガウスの目を騙す。
「……そういう意味でおっしゃられたんでしょうか?」
 ネイガウスに指摘されて気がついた。悪魔の息子、燐の頬がうっすらと赤くなっている。目線はひたすら金髪の男を見ていた。
「金髪の方は勝呂竜士といいます。明陀宗の総本家の跡取り息子で、成績優秀で素行も良好な優等生です。ピンクの頭の生徒と小柄の坊主頭の生徒は、彼の取り巻きと言っていいでしょう。」
「つまりは、サタンの息子は男をたぶらかそうとしている、と?」
 ネイガウスは藤堂の言葉を否定する。
「そんな知恵があるようなたまではありません。奴はたぶらかすどころか、自分こそが人間に滑稽な思いを抱き、それに溺れているようですから。」
「つまり健気に一途に一人の男を思っている、ということですかね。」
 ネイガウスは先の燐に対する藤堂の「可愛い」という発言を思い出したのだろう。ぶすっと、良い様に言いすぎではありませんかと返してきた。
「頭が悪いだけです。救いようの無い悪魔ですから。」
「出来の悪い子ほど可愛く見えてしまうのも人情ですよ。自分自身が出来が悪くてもね。」
 はあ? っと聞こえてきそうな目つきと口元でネイガウスは顔をはすに見た。藤堂は内心釣れたと嬉しくなったが、かつての自分の本音でもあるので、わざとらしく少し寂しげに「僕のことです」と答えた。ネイガウスは静かに冷静さを装って激昂する。
「それは本当にご自分のことを言っているのですか。平均以上の能力を持っている方が、そのように自分を平均以下みたいだと言うのは不愉快なのですが。」
 藤堂はかりかりと人差し指で頭を掻く。
「でも選ばれた天才に比べれば、私など空気よりも薄い存在ですよ。父にもお前は薄ぼんやりとして、はっきりしないと叱られてばかりでしたから。それに上に兄が二人いるのですが、兄たちと比べたら、私には覇気がなくて凡庸なのは目に見えて明らかだったんですから。そうですね。私にとって羨ましい存在とは、あなたに酷評されている悪魔の弟のような人間なのかもしれません。」
「奥村雪男ですか。」
 それにはすんなりとネイガウスは納得したように頷いた。藤堂は思いついたまま言葉を連ねる。
「聞けば彼らの母親は祓魔師だったそうですね。聖と邪が片方ずつに凝縮されたのが、彼らなのでしょう。」
 藤堂はネイガウスの機嫌を取るように上手いこと言ったつもりだが、ネイガウスはふとその一つしかない目を曇らせた。
「それは、まだ決め付けられません。」
 気にはなるが多分彼は藤堂にこれ以上何も話してくれないだろう。藤堂はさも今思い出したと言わんばかりにコーヒーの入ったポットを指差して、一杯いかがですかとネイガウスに提案してみた。ネイガウスはいただきますと答えたので、藤堂は紙コップにコーヒーを注いで、お茶請けですとビンに入った「おっとっと」を差し出した。
「これはいったい?」
 一つ取り出してネイガウスは不思議そうに見ている。どうやら日本暮らしは長いけれど駄菓子にはやはり明るくないらしい。
「お好みは分かりませんが、食べてみて下さい。」
 ネイガウスは一つ口に入れてみる。かりっと噛んだ音がネイガウス口の中から聞こえたところで、ネイガウスは首を捻っている。
「不味くはないですが平凡な味ですね。」
「そこがいいんですよ。まるで私みたいでしょ。」
 ますますネイガウスは首を捻る。
「あなたはご自分のことがそんな好きではないということを、さっき言っていたじゃないですか。」
 藤堂は少ない身振りで年上ぶった講釈を垂れる。
「人間は心底自分のことは嫌いになれませんよ。私はある時からそれに気付きまして。嫌いなときは嫌いでいいじゃないかと思い直してみたんですよ。」
 ネイガウスの隻眼が見開かれる。藤堂の気まぐれそのものの言葉の何処に心を動かされたのか定かではないが、この孤独な男の心に藤堂は上手い具合に滑り込めたようだ。
「あなたは、強いですね。そのように、そのお歳で考えを改めることが出来るなんて。」
「え? 簡単なことでしたよ。」
 藤堂が謙遜していると思ったのか、ネイガウスはうっすらと笑った。平凡な味だとは言っていたが、ひとつふたつとおっとっとに手を伸ばしている。なんか癖になったらしい。
 藤堂は再び窓から見える少年たちのじゃれあいに頬を緩めていた。やがてピンクと坊主頭の二人が、燐と勝呂を残して手を振って歩いて退散した。課題が終わったので先に寮に帰るようだ。勝呂はまだまだ手こずっている燐に付き合っているらしい。五分ほど経って、今まで取り組んでいたプリントを勝呂のほうに見せている。勝呂はそれを指差しながら確認したあと、燐の頭を優しく撫でた。
「ほおっ。」
 ネイガウスは藤堂の妙な声に反応して後ろからのぞき見てくる。ネイガウスが屈んだところで、眼帯で隠れていないほうの目を手の平で覆おうとした。
「駄目ですよ。あなたはあの子たちの教師なのだから。生徒の濡れ場を見るもんじゃありません。」
 ネイガウスは力いっぱい藤堂の手を引き剥がす。明るくなった視界の中で燐は、勝呂の膝の間に座って胸板に頬を擦り寄せていた。
「藤堂さん。あなたは奥村燐が勝呂竜士をたぶらかしたのかと問うてきましたが、あながちそれは正解だったのかもしれません。」
 ネイガウスは窓のサッシに両手を乗せて落胆していた。
 
 
 寄りによってネイガウスに見られていることを燐は知らずに、勝呂に甘えている。勝呂も満更ではなさそうだった。ときたま勝呂の指が燐の髪の毛で遊んでいる。
「あー、お前。気にしとらんよな? さっきまでは結構きついことお前に言っとったけど。」
 志摩と子猫丸が一緒にいた手前、言葉がきつくなりがちだったことを勝呂は気にしている。燐は勝呂の顔を見上げてはふっと声を漏らすと、また勝呂の胸板に顔を埋めた。
「勝呂が厳しくしてくれないと、俺困る。」
 勝呂は一瞬上半身が滑り落ちそうだった。
「お前恥ずかしいな。」
「いいじゃん。誰もいないんだから。」
 相変わらず二人とも、いい年こいた大人の視線に気がついていない。それ以前にここは屋外の中庭である。男女のカップルでもかなり痛い場面を繰り広げているのに、男同士のいちゃつきはなお一層痛く見えてしまう。しかしこの中庭は塾の内部にあるせいか、下手に教室にいるよりは教師にも発見されにくい。
 ところが祓魔塾の教師ときたら、あまり生徒の風紀に対して取り締まる姿勢は希薄なので、生徒同士の不純同性交友をたとえ目撃しても、取り立てて問題にしないだろう。そういうのは学園の教師の領分だからだ。ただし奥村燐の弟・奥村雪男を除いての話だが。ここには雪男はいなかったのだから仕方ない。
 ひとしきり勝呂の制服のシャツに顔を擦り付けていた燐が、また勝呂を見上げる。そしておもむろに瞼を閉じた。勝呂は辺りをきょろきょろと見回す。しかし上の階に注意が行ってないらしく、勝呂は誰もいないものと判断して顔を傾けた。
「がはっ。」
 夕暮れの事務室でネイガウスは咳払いをした。思いのほかにそれは辺りに響いた。勝呂はそれに気付く。もう少しで触れそうだった燐の唇から大げさに離れる。
「あ……。」
 勿論燐にもその咳払いが聞こえていたので、慌てて勝呂の膝の間から降りた。二人はきょろきょろと辺りを見回すが、その頃にはネイガウスと藤堂は窓から事務室の中ほどに移動していた。
「無粋ですねえ。キスの一つや二つ。」
「……。」
「あなた年頃の男の性欲を否定する派ですか?」
「……。」
「人間も動物ですからね。性欲に支配された時には頭の箍が外れるもんですよ。」
「アレの場合は、悪魔が人間の理性を麻痺させたとしか思えない。」
「魔女狩りの理論ですね。」
 ネイガウスは口を噤む。
「あなたはどちらかというと、悪魔のやることに寛容過ぎやしませんか?」
「悪魔に厳しくするなら、人間にも厳しくするべきでしょう。あなたは人間のほうが悪魔より上等と言い切れるのですか?」
 ネイガウスは菓子のビンに蓋をすると藤堂のほうに押し返した。そして空になった紙コップをゴミ箱に捨てると、ご馳走様と言って一礼した。
「また来てくださいね。いつでもコーヒーをご馳走しますよ。」
 ネイガウスは黙って退室する。藤堂はそれを横目で見ていた。
「可愛い。本当に可愛いな。」
 もう一度見た窓の外には、勝呂と燐の二人の姿はなかった。





長編でオフで書こうとしていた中年と壮年です。意外ときゃぴきゃぴしています。ちなみにカプではありません。続く・・・かな?

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☆ss「24-①」雪燐 魔法の一日の始まり:朝

 ほんの少し早まってしまったかもと雪男は思った。丸々二十四時間の猶予なら、一週間後にして、予約を取ってどこかに一泊旅行も可能だったはずなのに。でも思い直してみれば、そんな決まりきったような、お仕着せの休暇も何かが違うような気がする。何せ条件の一つが「兄の記憶に残らない」という、後で思い出を二人で振り返ることがないものなのだから。
 ここは開き直って自分の自己満足に徹底してやろうと。雪男が一番にやったことは――。
 
「兄さん起きて! はい起きて、起きて! 兄さん。兄さん。起きてよ!」
 
 雪男が目覚まし時計も顔負けの声を上げて、布団を引っ張ると、少し引っ張り返されるような抵抗感があったが、すぐに布団を奪取出来た。布団の下にいた燐は朝の光から身を庇うかのように、顔を腕で覆っている。
「なんだよ……。今日は学校なんて、ねえのに……。」
「そうだよ。学校がないんだよ。」
 燐はまだ寝たりないかのようにその場には無い布団を手探りで探している。
「だったら寝かせて……」
「駄目!」
 雪男はベッドの上の兄の顔の間近に顔を寄せる。
「さあ、兄さん。朝だよ。起きようよ。」
「雪男ちゃん。課題なら昼前ぐらいからやるつもりだから。宿題もちゃんとやるつもりだから。ほんとだから。」
 燐が弱弱しい声で雪男に懇願する。雪男は燐の背中を叩きながら耳元に口を寄せて、とっておきの言葉を言ってやる。
「課題なんか今日はやらなくていいんだよ。」
 雪男の一言に燐は寝ぼけていた目をぱっちりと開けた。
「それ、マジで言ってるのか? 雪男、変なもの食った?」
「兄さん。僕朝ごはんもまだなんだから。」
「だって、土日も課題課題って、うるさいお前が。課題やんなくて良いって、どういうことだよ。」
「あう。」
 日頃の報いが早速襲ってきた。寄ると触ると小言ばかりを兄にぼやき続けた、この数ヶ月間の行いのツケが当然のように燐に不審がらせている。
「僕、今日、任務ないから。これは、僕の勝手だけど。兄さん? 燐兄さん。お願い。今日は僕に付き合って? あ。付き合うって言ってもね、兄さんの苦手な勉強とかじゃないんだよっ。た、た、た、たまには兄さんと兄弟水入らずで、遊びたいなあって。駄目? 駄目?」
 苦しい。苦し過ぎる。ぽかんと口を開けている燐を前に雪男は冷や汗が止まらない。燐に今回の休日のカラクリを話すわけにもいかない。しかしこのままでは、ここでゲームオーバーになりかねなかった。
「いきなりだよな。」
 燐のぽつりと言った言葉に雪男は背筋を戦慄させる。それはメフィストにも言われた言葉だった。自分の性急すぎる願いに対して、やはりこう返されるのが筋というものらしい。
「ひょっとして、なんか都合悪かった?」
 ふと思ってみれば、兄と勝呂達との勉強会の約束なんかあったら即アウトだった。燐はそんなことないと首を振る。雪男はほっと息をついた。
「お前、この学校に来てからずっと、中学の時のように俺を野放しにさせてくれてなかったからさ――。今日も何か怒られる前に勉強しようかなと思ってたんだよ。俺。」
 また雪男の胃と心臓がぎゅっと締まる音がした。燐は怪訝そうな顔で雪男に問いかける。
「本当に勉強しなくていいんだな?」
「うん。ほんとだよ。今日は勉強しなくていいから、だから僕に付き合って……」
 勉強しなくていいというのは、燐にとってはほいほいと受け入れられることだろうが、その交換条件に乗ってくれるかが問題だった。
ただでさえあまり趣味の合う兄弟とは言えない双子だし、改めて思い返してみれば、燐と外遊びした記憶も希薄な雪男だった。なにせ小学校に入ってすぐから祓魔師の修行に明け暮れていたし、正十字学園に入るための受験勉強もあった。二年前からは任務に担ぎ出されていたし、最近の兄弟関係は言わずもがなな現状である。
幾ら雪男が燐を求めていても、燐がそれに応えてくれるような土台というか下地は既に風化して跡形もなくなっていそうな気がする。自分が燐を慕っていたと燐が思っていた年月は、幼稚園を卒園したときから途絶えていたと思われても仕方が無い。(そうだ。原作でも、そこから先の年月の描写は黙殺されるかのように省かれていた。)
 もういっそのこと、今日の休日のカラクリについて話してしまおうか。ここでネックなのは兄の記憶だけだし。そこだけを伏せれば。記憶に残らないものなら……と思ったが――。 
この兄なら絶対、下らねえ付き合ってられねえと吐き捨てられるだろう。だって普通の休日でも出来るだろ、という話になってしまうんだもん。
でも、雪男にとって兄に自分の本心を曝け出すなんて、恥ずかしくて死んだほうがマシな歪な意地があった。だからわざわざメフィストに兄の記憶に残らない休日を頼んだのに。
 だけど――。このままでは燐を説得するだけに、どれだけ言葉と時間を費やしてしまうのだろうか。というか、こんな自分で燐を説得する自信が、雪男にははっきり言ってない。そんな自信はたった数十秒で枯れ果ててしまっている。
 
『なんだ。天才だとか、特待生とか、先生だとか、何の役にも立たないじゃないか。寧ろ邪魔にしかなってねえだろうが。』
 
 本気で泣きそうだった。
「う、うっく……」
そしてそれが表情に出た途端、今度は燐が慌ててしまう。
「うわっ。ごめん。俺が素直じゃなかった。付き合うから。付き合うからな、な? せっかく雪男が勉強しなくて良いってくれたのに、兄ちゃん、ちょっと怖くなっちゃってびびって、ほんとごめん。だから泣くな。朝飯まだって言ったよな。なんか俺が作ってやろうか?」
 燐の手が優しく雪男の手を握ってきた。昔の雪男以外には恐ろしいと怖がられていたが、雪男だけには優しかった手が触れてきている。雪男はそんな兄の最近ではあまり見られなくなっていた自分だけに向ける表情に胸が震える。
「兄さん――。」
「いやっ。ちょっと泣くのは勘弁な! お前にもなんか事情があるんだよな。そうだよな?」
 雪男はこくこくと頷き続ける。
「今日は、今日だけは特別なんだ。」
「それはよくわかった。」
 燐はこれ以上、雪男を刺激しないようにどうどうと手を翳している。もう雪男の豹変ぶりは気にしていないらしい。それ以上に、いきなり泣き出しそうになった弟を宥めるのに一生懸命なようだった。この甘さが兄の兄たる由縁で、騙しやすいのが、捻くれた自分にとっては、何物にも代えがたい恩恵を与えてくれているようで、どこか胸が痛んだ。
「兄さん。好きだよ。」
 一瞬燐の口から悲鳴が上がりそうだったが、燐はどうやらすぐに別の解釈に行き着いたようにそうだなと口にする。
「兄ちゃん。まだ、お前に好かれてたんだな。」
 今度は雪男がきょとんと首を傾げる。
「いつ僕が兄さんを嫌いって言ったんだい?」
 困ったような兄の顔を見て雪男ははっとなった。その表情に気づいたのか燐は愚痴を言うように小声でぼやいている。
「嫌いとは言われてねえけど――。」
 特別な休日は反省で始まってしまった。雪男はごめんなさいと口の中で呟いた。兄に辛辣なことばかり言っていた自分を心底悔いた。兄の困ったような顔に、訴えかけるように雪男は繰り返し言う。
「本当に僕は兄さんのことが好きなんだから。」
「わかった。わかったから。」
 燐は少し目を逸らして鼻の頭を指先で掻くと、「俺も」と小さな声で呟いた。
「っへへ……。」
 燐は照れ笑いを後姿で隠しながら部屋を出る。その後ろを雪男もついていく。
「まずは、飯でも食べようか。何作ろうかな。」
「僕も一緒に作る。」
 燐がぎょっとしたように振り向く。
「そんなこと言われたの、幼稚園以来だな。」
「懐かしいでしょ?」
「な、懐かしいっていうか。う、う、うん。」
 
     *   *   *
 
 燐が口ごもったのには理由があった。
燐が料理を始めた当初、雪男も一緒になって台所に立っていた時期もあった。あの頃は常に兄にべったりだったから、兄のやることはなんでも真似したがった。燐は最初の悲惨な卵焼きから着々ととんとん拍子に腕を上げたが、それは燐の少ない才能の一つが開花したと言っていいものだった。
 しかし一緒になって料理を始めた雪男は、まるでその才能がなかった。周囲の大人はこぞって雪男は男の子なんだし、燐と違って頭が良いしと、いろいろ言い訳を捏ねながら雪男に料理を薦めなかった。雪男のその欠点は料理から遠ざけられることで埋もれてしまっていた。その埋もれてしまった欠点が、今更のように掘り起こされる寸前だった。
 
「大丈夫だよ。目玉焼きなら僕にも出来るから。」
 フライパンをコンロの上に置いて、雪男は燐に頷いてみせる。燐は微妙な笑顔を浮かべていた。さりげなくウコバクに合図を送る。さあて、と雪男は(両利きなので)両手で卵を一つずつ持ってコンロの角にぶつけようとしたところを燐に止められた。
「雪男。まず卵はボールの中に割れよ。」
 そして雪男の前にボールを差し出す。雪男は渋々と兄さんだって直接フライパンに割り入れるくせにと呟いていた。
「いいから。」
「わかったよ。せーの。」
 ぐしゃ。 卵はボールの中に黄身を破壊して殻が混じった状態で落とされた。
「あれ? あれ?」
 燐はそれを予測していたように頷く。苦笑いを浮かべて雪男の前からボールをひょいっと奪った。
「大丈夫だ。殻を取り除けば。これは兄ちゃんがオムレツにしてやろう。」
「待って! 失敗したのは僕の分だから。兄さんの分はちゃんと割ってみせるから!」
 別のボールに雪男は改めて卵を割りいれる。しかし今度も見事に黄身は潰れた。
「ははは……兄ちゃんの分もオムレツだな。」
 燐は最初から雪男が失敗することを見越していたようだった。しかしそれを口にしない。雪男は俯いて唇をかみ締めている。燐は手を洗うとボールの中の卵の殻を丁寧に拾う。そして胡椒やら塩やら牛乳を混ぜて、軽やかに焼いてみせる。
「ほら。出来たぞ。ゆき、お……?」
 雪男は俯いたまま口の中で何か呟いている。
「今日ぐらい……今日しかないのに……、なんで、しょっぱなから失敗……。」
 燐の耳にはそれは聞こえなかった。燐はくすっと笑うとオムレツを食卓に並べてケチャップでそれぞれの名前を書いてやる。
「ったく。しょうがねえな。昔のべそっ子に戻ったみてえじゃねえか。」
「だって。だって。僕だって出来るつもりだったのに。」
 燐はまたよしよしと雪男の頭を撫でている。日頃の仕返しとばかりに嫌味とかを言ってやり返されても仕方ない状況なのに、どこまでも兄の手も言葉も優しい。当たり前のように仕返しされると思った自分に気づいてみれば、どれだけ自分は兄に対して傲慢な言葉の数々を投げつけていたんだろうか。本当に兄は甘くてお人よしだ。
 ウコバクが二人分のトーストを持ってくる。
「じゃ、いただきまーす。」
「いただきます。」
 時計に目をやれば午前七時。残り二十三時間は楽しく過ごしたい雪男だった。





しょっぱなから出鼻をくじかれた雪男でした。nhkの教育テレビでマインに弟子入りしてこい。

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☆ss「ドールハウス」シュラアサ 過去捏造

 霧隠シュラは、聖騎士になる前のアーサーを知っていた。前聖騎士であるかつては師匠だった藤本獅郎のあまりの変貌に失望したシュラが、日本を離れてヴァチカンに勤務していた時だった。そんなある日、上のほうから打診があった。
「青い夜から十年以上が過ぎて、聖職者や祓魔師の数もある程度は回復した。しかし、上級の資格を取れる人材はまだまだ不足傾向にある。そしてその上に立つ人間の候補となるともっと数が足りない状況だ。だからあの男に関しては、出自も経歴も度外視で聖騎士に任命してしまった事情がある。」
 前置きからして藤本への敵意が窺えた。男は長い前置きの続きをまだ喋り続けている。
「あの男は実力はあるが、いまいちヴァチカンに従順とは言い難い。というのも、代々続いたどの家の出でもないし、祓魔師になった経緯も不透明だからだ。君が見切りを付けて日本からヴァチカンに来てくれたことは、当然の帰結かもしれない。」
 自分の師匠をくそみそに言われてもシュラは眉一つ動かさない。当時のシュラはヴァチカン内で藤本の耄碌ぶりを、自分から同僚に愚痴っては憂さを晴らしていた。ヴァチカンのエリート連中は、何故かそんな弟子の憂鬱に深く同情してくれているような口ぶりだった。シュラの言葉を鵜呑みにすることで、藤本もたいしたことないと安心したかったのかもしれない。身内から、しかもたった一人ともいえる愛弟子から攻撃されるようでは、聖騎士としての高く評価される人望も疑わしいものだからだ。
目の前の偉いさんは藤本とそう歳の変わらない壮年の男で、ヴァチカン勤務と言っても、直接現場に立つことはなくお役所仕事をこなすような立場だった。いわゆる家庭で子供に尊敬されないタイプの父親といった感じだった。藤本とは真逆の。
「私こそ出自の知れない人間なんですが、そんな私に何を?」
 勝手に同調してくるならともかく、それに付け込まれるつもりはシュラにはなかった。候補生からとんとん拍子に昇格した自分こそ、ヴァチカンにとってはキープしおきたい人材だろうが、幾ら今の藤本に反発しようが、権力者に良いように使われるのはごめん被りたいところだった。
 それにこの男は、シュラが完璧に藤本に対して愛想を尽かしているからヴァチカンにいると思い込んでいるらしい。
 
シュラ自身は何かの場では口汚く藤本を罵ったこともあるが、それは未練の裏返しでもある。そういうふうに言わなければ、弟子以上に見てくれないツレナイ男に対する辛さを和らげることが出来なかったからだ。だから余計に激しい言葉で目の前にいない男のことを悪し様に言ってしまっていた。
『あのことも、言ってないし。』
 藤本のブラックボックスとも言える、シュラへの頼みごとについての話は誰にもしていない。そこのところがまだ少しは藤本に対して期待しているところなんだろう。あの男が男を廃業するまでに、ひょっとしたら自分を女として見てくれるかもしれないと、ちょっとずれた希望を持ってしまうのだ。
 
 そんなことより、目の前の胡散臭い話があった。
「アーサー・О・エンジェルという青年のことはもちろん知っているな?」
「祓魔師としての実力もあって、出自経歴ともに完璧。そしてヴァチカンへの忠誠も堅い。本当にヴァチカンの祓魔師の鑑みたいな男ですね。」
 男はシュラの言葉に深く頷いているが、憂鬱そうに溜息をついた。
「しかしそんな彼も完璧とは言い難いんだよ。」
 そうか? 
シュラは首を傾げる。アーサーという男は、ヴァチカンが求める要素は全て揃っているようには見えるのに、何故そんなにこの偉いさんは暗い顔をしているんだろう。
「彼には君の元師匠で現聖騎士の藤本のような華やかな戦果とか戦歴が足りない。」
 シュラは開いた口が塞がらない。それが秘蔵っ子の秘蔵っ子たる由縁だろうと心の中にツッコミを入れた。ヴァチカンにとって貴重な純粋培養だからこそ、雨風に当てず育ててきたんだろうに。いわゆる汚い現実と乖離させて完全潔白無菌状態で育てたんだろうに。
「それは年齢のこともありますから仕方ないでしょう。」
 本当に表面を撫でただけの言い方を選んでシュラはさりげなく男のボケた言葉に反論する。しかし男は真剣な顔で、そうではないのだと言う。
「藤本は規格外な聖騎士とはいえ、ヴァチカン以外では支持率が異様に高い。人望もある。藤本が参加する作戦は異常に士気が高くなり、その結果、想定された以上の戦果を上げてくる。」
 近頃の藤本に失望しているのは直接の弟子で、藤本の弱みを知っているシュラくらいだ。シュラが未練たらたらの藤本への悪口を言えるのは、藤本をあまり良く思っていない者が他より多い、総本山ヴァチカンにおいてしかない。他所でそんなことを言えば、村八分どころの扱いではないだろう。名家の出が統率している支部でも、悪魔に対する実行部隊の要員は先頭を切って戦う、飄々として人間味があって、それでいて実力は随一の藤本を賞賛する者も多い。
「藤本と並ぶ存在に今すぐしたいわけですね。そのエンジェルを。」
 無茶すぎるとシュラは呆れた。
「どうかね?」
「正直言いますと、彼にとって酷だと思いますよ。」
「何故かね?」
 そんなこともわからねえのかオッサンとシュラは溜息が漏れそうになった。現場を離れてそんな肥満した身体を揺すぶっているから、ヴァチカンの外の人間にとって理想の姿が藤本に取って変わられてしまうんだよと、心中で毒づく。
「まずさっき言ったように、年齢差と経験の差が歴然としすぎてます。そしてこれは私の想像上のことですが、アーサーという青年はあまりにも神の側に偏った物の見方をしているのではないでしょうか。上はそれを賞賛するでしょうが、下の現場の人間にとっては現実味が無さ過ぎて、ついていけないと考えかねません。戦い方にしても悪魔を知ろうとしないで、嫌悪の対象としているのみで対しているようでは、祓魔師としては甘いと考えます。」
 敢えて歯に衣着せぬ率直な言葉を言ってみた。当然のように男の眉が歪む。小娘の言葉に反論したくて仕方ないだろうが、シュラの言うことが正論だと分かっているようだ。
 シュラはこほんと咳払いした。
「あまりにも言いすぎました。しかし後半に言ったことは、経験で補うことは出来ると思います。あと十年か二十年すれば彼も藤本と同等か、それ以上になれると思います。確実に。」
「十年二十年じゃ遅すぎるんだよ。」
「まあそれまで藤本が聖騎士として健在である保証はないですよね。そして貴方もこれから十年二十年も藤本に対して苦々しい思いを抱えて、このヴァチカンに仕えているのも業腹でしょうし。」
 アーサーより少しでも上の世代に藤本に対抗できる存在はいない。実力から考えて一番近いのはやはり直接の弟子であるシュラしかいない。しかしシュラも世代としては若すぎるし、藤本が危険視される要因となった出自と経歴の危うさを抱えている。つまりそういうことなのだろう。
「君がエンジェルを補佐して彼に手柄を与えてくれないか?」
「私が十年二十年の年月が必要な部分を補えと?」
 きたー。シュラはなんともいえない気持ちになった。
 あくまで一番手はアーサーにしたいらしい。当たり前の判断だ。おまけにこの男はアーサーの係累だ。身内びいきもいい加減にしろと怒鳴りたくなる。しかしそこは堪える。直属の上司がいなくて、ヴァチカンの中でふらふらしているばかりなので、シュラはやっつけ仕事ばかりで碌な作戦に従事したことがなかった。そこに目を付けられたとしたら、自分の不徳の為せる業としか言いようが無い。
 それでもすぐに返事をするわけにはいかない。
「少し考えさせて……」
「悪くない話だと思うのだがね。」
 今までの長ったらしい前置きだとか解説が関係なくなるほどの強引な畳みかけだった。何が悪くない話だとシュラは思った。要はアーサーの踏み台になれと言ってきている。よっぽど自分は野心が無いとか、献身も厭わないとか、好き勝手な想像を膨らまされているらしい。このたれ目で挑発的な格好をしている女が、どうしてそんなふうなお人よしに見えるんだろうか? やはり藤本の弟子だったことが尾を引いているのだろうか。
「えー。今決心しますから、ちょっと私のために言って欲しいことがあるんですけど?」
「何かね?」
 シュラは景気づけにお願いしますと言って、男に頼んだ。
「私の不肖の師匠の悪口を思いつく限り言ってくれませんか。」
「お安い御用だよ。」
 本当にお安い御用だったらしい。シュラの今まで重ねてきた藤本への罵詈雑言はやはり、愛情の裏返しとしか思えなかった。男の口からはいやらしくて辛辣で嫉ましくて堪らないというような呪いの言葉が次々と溢れかえってきた。
 
     *   *   *
 
 本日はお日柄も良くと言うのではないのだろうが、あの偉いさんに承諾の返事をしたその翌日にアーサーその人からシュラは呼び出されてしまった。これは業務内に入るのかと件の偉いさんに問いかけてみた。偉いさんは無言のまま辞令の紙を差し出した。そしてシュラは仕方なくエンジェル家の門をくぐった。
 
 アーサーの私室だという部屋に通された。初回から露骨過ぎる案内だった。
「やあ君かい。」
 歯切れが良くて爽やかな挨拶だった。うざいくらいに。しかし見るからに素直なので好感は持てる。
「はじめましてぇ。霧隠ぇシュラぁ、とぉ言いますぅ。」
 巻き舌でわざとむかつかせる名乗りをしてみた。これに対する反応でたいていは相手がどんな奴か判断できる。滅多なことじゃやらかさないけれど。
「緊張しているのかい? ここで座って楽にしていいから。」
 アーサーは自分が座っていた椅子から立ち上がってシュラに譲る。そして自分はその向かいに部屋の隅から椅子を引っ張ってきて座った。シュラは部屋を見回して「あー」と思った。
 アーサーが座っていたのは部屋の奥がわ、つまり上座かとシュラは変に納得する。
「日本風の作法はこれでよかったよな?」
「座敷じゃないと意味ないけどな。」
 アーサーはシュラが部屋に入ったとき、上座で待ち構えていたから輪をかけて意味が無い。案の定、アーサーの尻で暖められた椅子のすわり心地は悪かった。
 シュラとアーサーは机を挟まずに椅子に腰掛けて向かい合っていた。
「不肖の師匠に苦労させられたそうだね。可哀想に。」
「可哀想か! 私は助けられた恩もあったし、いろいろとあいつに対して思いだしたのもつい最近のことだし。それも私が勝手に思ってたりすることだし。かわいそがられる謂れはないんだけど。」
「そう思わなければ、やり切れないんだね。」
 同情してくれるのはいいが、上から目線なのがむかつく。しかしこの程度は他のヴァチカン連中にも見られる傾向なので、まだ流せる範囲だった。
「君は今まで尽くす相手を間違えていたんだよ。」
 私は藤本に尽くしてたっけ? 
日本から来た女だというだけで、そんな演歌の文句のような人生を想像されても困る。シュラは寧ろラテン音楽のほうが好きだ。
「たはは……。」
「その困ったような笑い方、図星だね。」
 他の発想は無いらしい。シュラは今日のところは挨拶だけなので早いとこ流して退散しようと思った。目の前でニコニコ笑っているアーサーは、ニコニコ笑いながらシュラの頭から足の先までを観察しているようだった。どうせこいつも男なんだから、挑発的な格好のシュラに何か思っているんだろう。
「君は――。」
 ほらきたとシュラは思った。アーサーが口を開く。
「どころかしこもツルツルだ。腕毛もすね毛も無い。」
 シュラは椅子から転げ落ちる。ついでに尻餅をついてしまった。
「いや一応自分女なんで、無駄毛の処理くらいは欠かしてないんですけど。」
「え? オレはやらないよ。ていうか、それ処理ってやつしてるんだ。」
「女は大抵無駄毛は剃ってるんですよ。だからツルツルなんっすよ!」
 世間じゃあったほうが驚かれるんだぞとシュラは付け足した。アーサーはへえそうなのと言い掛けたが、途中で「そうだった」とわざとらしく頷く。
「任務で忙しくてちょっと一般知識を忘れていたよ。そうだよね。女はそうするよね。」
 忘れてたんじゃなくて知らなかったんだろう。そしてそれを寸前で取り繕ったつもりなんだろう。というか、ある程度の経験がある男なら普通に知っているところだ。どう見ても思春期を過ぎて随分と経つだろうに、そんなことも知らないということは――。
「あんたは――」
 上司に対してあんた呼ばわりはちょっとぞんざい過ぎると思ったが、他に呼びかける言葉が見つからない。
「うん。なんだい?」
 シュラに何か追及されると思ったのか目が泳いでいる。
「あんた、女と付き合ったことないだろう。」
「………………うん。学校はずっと男子校だったし。ここに来てからも周りは男ばっかだったし。」
 そうだろう。ねんごろになった女どころか、同じ所で衣食や勉強を共にした女もいそうにない。だから無駄毛の処理にいちいち驚いているんだ。シュラはだめもとでアーサーに問いかける。
「母親は? お姉さんとか、妹とかは?」
「してるとこ見たことないし。」
「そりゃそうだ。でも、なんか話じゃ聞かない?」
 上司と部下の初顔合わせの話題が最低すぎる。いっそのこと自分の露出度の高い乳とか肌とか、太ももとか、これまた挑発的な色の髪に言及して欲しかったところだ。
 アーサーは腕まくりをして自分の金色の産毛が生えた二の腕を撫でている。
「ありえねえ。しょっぱな無駄毛の話なんてありえねえだろ。」
「なんか言った?」
 シュラは気を取り直して座ったまま最敬礼をする。
「失礼しました。最初からくだけすぎました。本日から私が貴方を補佐することになりました。」
「それは前もって聞いている。」
 アーサーは捲くった腕を袖にしまって真剣な顔をした。
「君は歴戦の兵らしいから、期待しているよ。」
 そういうふうに上から目線の偉そうなことを言っている姿を見たら、さっきまでの世間知らずっぷりが白昼夢に思えてくる。しかしここで型に嵌れるところが、この男にとって弱点になりかねないとシュラは考える。無邪気にして尊大。素材としては悪くない。ではやはりこの男をして小器か大器かを分けるのは、それにつく人間次第らしい。
ここは最初からがつんといくべきだろう。とりあえず、ある程度は鍛えないと。シュラは脳内の電卓を弾く。演算結果は予想以上に手が掛かかりそうな男だと出た。
 やりがいがあるぜとシュラは不敵な笑みを浮かべた。つられて笑い返してくる男の胸倉をいきなりシュラは掴んで自分のほうに引き寄せた。
「な、なんだい?」
「部下として一つ要求していいか?」
「え? 何を?」
「早いうちに」
 うんうんとアーサーは頷いている。素直。可愛い。でもそれじゃ駄目。シュラは断頭台のロープを切る言葉を吐く。
 
「童貞捨てて来い。」
 
 アーサーは声もなくシュラの顔を凝視している。
「品行方正で経験値の少ない奴は悪魔に付け込まれやすい。何の経験かも問わずによ。その理屈は分かるよな。」
「君の言いたいことは理解している。でも相手がいないんだ。」
 アーサーはシュラの顔を見つめ続けている。
「君がオレをどうにかしてくれるのかな?」
 アーサーは期待しているような眼差しをシュラに向けた。
「甘えんじゃねえ!」
 シュラは自分の片手でアーサーの両頬から顔を掴みあげる。どれだけ整った顔をしていても、これをされたらどんな人間でも間抜け面になってしまう。アーサーも例外じゃなかった。
「なんでもかんでもお膳立てしてもらえると思ったら大間違いだ。」
「でも自信ないよ。」
「堂々と、情けないことをはっきり言うな。ていうかお前の見てくれだったら、引っかかる女はいくらでもいる。あ、でも病気にだけは気をつけろよ。」
 アーサーは再びうんうんと頷く。シュラはアーサーの顔を離してやる。もとどおりの整った顔に戻った。
「君は本心からオレに忠告してくれているんだね。今まで僕が知らなかったことを知るべきだと。ありがとう。」
 本心と言えば本心なのかもしれないが、シュラはアーサーが言うほどに入れ込むつもりはなかった。というか、アーサーの言葉はいい話にしてそれで片付けてしまいかねないような気がしたので、シュラは改めて念を押す。
「童貞捨てて来い、つーのはマジ近日中にクリアして貰わなくちゃ困るんだからな。」
「えー。」
「えーじゃねえ。」
「だって、童貞捨てる前に経験しておくべきことが沢山あるような気がするけど。」
 要するに恋のプロセスを踏んでそれに至るべきだと言いたいらしい。一般人ならそれは正論だが、悪魔を相手にする祓魔師としては、そんな良識に従ってもらっては困る。
「悪魔に付け込まれるって言っただろうが! これから私はお前をえげつない世界に引っ張りこんじまうんだから、童貞捨てることで躊躇されちゃ、この先やっていけねえぞ。今のままじゃ藤本超えるのに十年二十年じゃ全然足りねえんだよ。」
 
「藤本――。君の師匠の……。破天荒で、破廉恥で破戒者の聖騎士。」
 
 アーサーは藤本の二つ名を呟く。
 なんだこいつ。
 シュラはアーサーの突然のわずかな変化に釘付けになる。豹変とまでとはいかないけれど、何かが明らかに違っている。その何かはシュラには分からない。アーサーに説明を求めても、アーサーは「わからない」としか言えないだろうから。
「オレは十年も二十年もかけてられない。だから君がオレの部下になったんだっけ。オレがこのざまじゃ、君がオレの隣にいる意味がない。――。わかった。やってみるよ。」
 シュラは肩を竦める。
「突然なんだよ。」
「目が覚めただけだよ。」
 アーサーは立って両手を広げる。そのままシュラをハグした。
「オレのことをよろしく頼むよ。シュラ。」
 おいおいとシュラは呆れた。
「とにかくお前が聖騎士になるまでは、とことん付き合ってやるよ。」
「うん。嬉しいよ。」
 シュラを抱きしめる腕に力が篭る。しかしそれにシュラは鼻白む。
「聖騎士になるまでだかんな。」
「えー?」
 えー? じゃねえんだよとシュラはアーサーの腕から逃れると、その鼻先を指で弾いた。




シュラとアーサーの出会い編でした。これから若旦那と番頭の腐れ縁が始まります。

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☆ss「24」 雪燐、ほんの序盤戦

「今期の奥村先生の業績ですが。申し分ないと思います。一人を除いた塾生を候補生に昇格することも出来ましたし。」
「それは僕一人の成果ではありませんよ。理事長。」
「それは知ってます。それを承知で敢えて言ってるんです。」
 土曜日の早朝に、理事長室に呼び出された雪男はメフィストの慇懃な褒め言葉に、こっそりと肩を竦める。
「では本題です。今期の貴方にボーナスを与えたいと思いますが、何か叶えたいことはありませんか?」
 雪男は金じゃねえのかよと内心毒づいたが顔には勿論出さなかった。
「金品が相場だと思うのですが。」
「でも貴方の場合、貯金にしてしまって銀行の肥やしにしてしまいそうでつまらないのですよ。貴方自身が貴方の労苦に対して報われたと実感して頂けるようなものがあったとしたら、貴方が何を望むかにも興味はありますし。」
 何を夢のようなことを言っているんだ。このオッサンはと、雪男はこめかみあたりが痛くなるような気がした。ただでさえ兄を守るという目的の三割も達成出来たと思えない状況なのに。そしてやはり出来るなら、金が欲しいとも思う。
 雪男が強く言えば、メフィストは渋々ながら金を渡してくれるかもしれない。ボーナスとは本来、常識的にはそうやって支払われるものだから。
「失礼ですが、やはり僕は現金が――」
「笑止!」
 メフィストは雪男を指差す。
「私はボーナスという言葉を賞与とは訳しませんよ。」
「いや。組織なんですから賞与と訳すべきでしょう。」
「貴方ねえ、多感な十五歳が金で買えるものしか興味ないなんて、なんて無味乾燥なんでしょう。しかも貴方はさっき私が言ったとおり、金で手に入るものすら興味がないような気がして心配なのですよ。日本がどうしていつも不景気なのか知っていますか? 日本人はお金を使わずに、箪笥か銀行に必要以上に貯めこんでしまうという性質も原因だそうですよ。貴方はそんな日本人の典型だ。」
「いや僕は日本人ですから。それに景気はいまいちですけど、国内が安定しているのはそういった国民性の成せるわざなんですよ。」
「私は貴方と天下国家を語りたいから呼び出したわけじゃないんです!」
 悪魔が駄々をこねている。
「さあ、言ってごらんなさい。金で買えるだろうが買えないだろうが、貴方が望むものを。」
 雪男は一つ深呼吸をしてメフィストの目を正面から見据えて言う。
「サタンの首。」
 ほおとメフィストは溜息をつく。
「そうきましたか。でもそれは無理です。」
「でしょう。」
 メフィストは机上で指を組んで考え事をしている。何が欲しいと尋ねておきながら、それを却下してしまったため、この悪魔なりに後ろめたくなったらしい。雪男としても上司の言わんとしていることは汲んでいる。要は雪男にたまにはやりたいことをやればいいと、そう勧めているんだろう。
雪男の日常はやらなければいけないことだらけなので、やりたいことがそれに埋もれてしまっている。雪男は今現在はそれを苦に思っていない。苦に思わないように努めている状態だ。雪男は上司の意を汲んでつらつらと独り言を言ってみる。
「休みの日に普通に休んでいると不安になるんですよね。どんどん仕事とかやるべきことが後回しにされて、溜まってしまうような気がして。そしてついつい休みの日にも仕事に手を付けてしまうんです。」
「そう。私はそれを心配していたんです。」
 メフィストは先ほどの不名誉な言葉を払拭するかのように言う。雪男は独り言を続ける。
「普通に有給休暇頂いても、僕はその時間にさえも仕事をしてしまうと思います。仕事とかやるべきことを忘れられないと思います。その忘れている時間さえも、時間として過ぎてしまいますから。」
 自分は仕事と余暇の区別がついていない。雪男はそれに自分で気づいていなかった。独り言では自覚しているようなことを言っておきながら、その実は他人事のようだった。他人から忠告された言葉を繰り返しているようなものだ。
「十五歳と言えば、時間が無限にあると錯覚するようなそんな時期じゃないんですか?」
「はっきりいうと有限ですね。一日が四十八時間になって欲しい気分です。」
 メフィストは首を横に振る。
「流石に太陽と地球のリズムバランスを崩す力は私にはありません。」
 本当に一日が四十八時間になって欲しいと思っているわけじゃない。四十八時間あれば、せめて一時間くらいは普通に兄の燐と過ごせるかもしれない。
「えっと、こんなこと言ってもたぶん無理だって言われるかもしれませんけど。」
「なんですか?」
「僕と特定の人間の時間だけ、別に今この世界の時の流れから切り離すことは出来ますか? 二十四時間の外というか。浦島太郎に起きたことの逆を起こせないかと。」
「特定の人間というのは、お兄さんですか?」
「そうです。あと出来れば、その時の記憶は僕にあっても兄には無いようにして欲しいんです。」
「そのときの思い出を、二人で共有したいと思わないんですか?」
「今の僕たちの関係を崩したくないんです。」
「それで関係がどうこうなるとは思いませんけどね。」
 雪男は机に手を置いて、屈みこんでメフィストに迫る。
「今のやりとりから貴方から反論はありませんでしたね? そしたら出来るということですね?」
「私の得意分野ですよ。時間と空間のことについては。まあ貴方から別の願いをこれ以上引き出すのは無理そうですし。どうです? 束の間の無限の休日を与えましょうか?」
「無限と銘打っても、実際は有限でしょうが。というか、一日分の時間で結構です。」
 とにかく現実に反映されない休日が欲しい。
「金を要求してきたときにはケチ臭い方だと思いましたが、奥村先生はケチだとしても欲張りじゃないところが好感が持てるんですよね。」
「欲張りは悪魔につけこまれますからね。」
 暗にメフィストに対してあまり恩を着たいと思わないのが正解かもしれない。しかしメフィストという悪魔は実際に無限の休日を現実にする力があるらしい。そして今、雪男にはそれに取って代わる願い事はない。
「それでは確認しておきます。この願いはボーナスという名目で、これは僕が受け取る正当な報酬ということでいいですね?」
「いいですよ?」
「そして、この休暇は現実には何にも反映されず、奥村雪男にしか記憶されない一日ということでよろしいでしょうか?」
「お兄さんにとっては貴方と過ごした一日は無かったことにして欲しいと?」
 雪男はそれに頷くのに数秒かけた。
「そうです。あくまで僕があげた業績に対する対価なんですから、僕以外にも影響があってはいけないと思います。」
 メフィストの表情を窺う。雪男はこの上司に対してはどういうわけか突っ張る態度を取りがちになる。でもそれを上司に指摘されていないので、そこの所はやめどころがついていない。さぞかし青臭いと思われているかもと雪男は歯がゆくなる。
「せっかくのお兄さんとの楽しい時間を、自分だけが抱え込んでしまうんですね。」
「少々くどいですよ。理事長。」
「それもそうですね。では、いつごろがいいですか?」
「そうですね。今日がちょうど土曜日ですから、今五時三十分ですね。僕が寮に帰って六時からスタートということで。」
 メフィストは目を丸くしている。隈がちょうどよくパンダのぬいぐるみじみていた。いつも人を食ったような悪魔が本気で驚いている。
「すぐ過ぎやしませんか? もうちょっと準備とかなんかあるでしょう。」
「ノープロブレムです。僕にとっては貴方の心変わりのほうにリスクを感じていますから。」
 そんなふうに上司を皮肉っていても、内心は待ちきれないのだろうとメフィストは顔に出さないようにほくそ笑む。堅物を装っていても、やはり十五歳のガキだとメフィストは思った。
 
雪男は一礼すると理事長室のドアを開け退室する。その姿が消えたあと、メフィストは高速移動でドアの前に移動し耳を澄ますと回廊を走り去る足音が聞こえた。
「あの奥村先生が廊下走ってますよ。どんだけー。」
 メフィストに呆れられながらも雪男は寮の六○二号室の前まで一気に走ってそのドアの前に立つ。右手の腕時計で時間を確認すると、五時五十七分三十秒。
 あと二分と少し。六時になったらこのドアを開けよう。そして兄を起こして楽しい一日を始めよう。今までの息苦しかった数ヶ月を取り戻せるかどうかは分からないが、悪魔の気まぐれに今は感謝しよう。
「あと一分。五十九秒。五十八秒。………。」
 どうせ兄の記憶には残らないけど――。
 それでもいい。そのほうがいい。この休日は誰のどんな現実にも波紋を残すところがない。自分の胸の中にひっそりと仕舞い込まれる。
「三。二。一。兄さん――。」
 
 このあと雪男は楽しい休日を過ごすことになる。しかし悪魔の気まぐれな魔法は、雪男の望むまま履行されるわけではない。



はい。まだ始まってもいません。とりあえず雪男と理事長の攻防ということで。これから雪ちゃんははじけまくる予定です。ほかにもシュラアサで海外ドラマタイトルパクリssを画策中。(ぱくるのはタイトルだけです。)

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☆ss「Esperanza-きんぞうモンキー-」蝮←柔造←金造。「まむしスネーク」の後日談

 金造が柔造の蝮への感情を聞かされて二週間後の雨の降る夕方、金造は正十字騎士団京都出張所深部の事務所に立ち寄った。一番隊隊長の宝生蝮が折りしも帰り支度をしていた。真面目で遅くまで残る癖のある蝮には珍しいことだった。
 カレンダーを見てみる。六月四日。蝮の誕生日だった。金造は納得した。
「よお。蝮…………はんっ。」
「なんやその鳴き声は。」
「蝮はん言うたんやないか。」
 蝮は煩そうに目の前の金造を見据える。京都出張所の事務所の出入り口でまた志摩と宝生が喧嘩かと、明陀出身ではない祓魔師が足早に避難し始めている。屋内でキリクを振り回されたり、蛇を召喚されたりしての大騒ぎに巻き込まれたくないからだ。身内で構成される組織の困ったところだった。
「金造。私に何か用があるん?」
 今日の蝮はしかし機嫌がいいらしい。外がざんざん降りの雨だからだろうか。事務所の中は薄暗い。節約のためなのか、深部一番隊隊長の習性からかは分からないが、蛍光灯ぐらいつけてばいいんじゃないかと金造は思った。
 しかし今は、そんなことは今は気にしないほうがいい。
「用言うんやないんやけど。お前から柔兄への伝言ちゃんと伝えといたから。」
「伝言言うて、二週間くらい前やないか。」
「だから事後報告や。ていうかお前なあ、幾ら俺におおきに言うといて言うても、毎日柔兄と一日一回くらいは顔合わしとんやろ。直接本人にも言うんが筋やないか。」
 年上相手に説教じみたことを言うつもりはなかったが、柔造がほのかに気がある女かと思うと胸がムカムカして言わずにはいられなかった。
「それは私かて失礼やなと思ったけど。何回も言うのもなあ。しつこいんやないか。」
 蝮はきょとんとしている。蝮は実際には柔造には何もツッコミを入れられていない。それを彼女も了承している。しかし何故か五つ下の柔造の弟に、二週間前の前の至らない自分を無意味に責められる理由が分からない。
 金造は今日に限っては自分のヒステリックな言動に対して反応が薄い蝮に、拍子抜けの感じがして余計にストレスを募らせる。
「金造?」
「まあ、ええ。」
 金造は辺りを見回す。就業時間が過ぎているので周りに無関係な人間はいない。所属の違う男と女が同じオフィスで仕事後に二人きりという状況は、普通ならその二人はただの仲ではないと勘繰られてもおかしくは無いだろうが、志摩と宝生ではその恋愛構図は想像しにくい。お互いに何か因縁をつけているんだろうと思われるのが関の山だ。現に金造は蝮に対して結構挑発的なことを言ってしまっていたが、今回の蝮はよっぽど機嫌がいいのかそれに乗ってこない。
 金造はここ二週間のもやもやをここで晴らすために、蝮に問いかけてみる。
「まあ、ええわ。ほんで、蝮…はん。あんたに訊きたいんやけどなあ。あんた、俺に、おねえはんって呼ばれる気ある?」
「なんで赤の他人の申に姉扱いされんとあかんのん。それにおねえはんなら、志摩にもおるやろ。」
「ああもう! じれったいし鈍いんじゃあ。義理のおねえはんになる気があるんかって訊いとるんや。」
 はあ? 蝮の甲高い疑問の声が廊下に木霊する。
「柔造か、あんたの一つ上のお兄が、うちの婿に来るいうことなんか? そないな話、父様から聞いた覚え無いんやけど。」
「どっちもやらんわい! お前がうちに来るんや。強いて言えば柔兄の嫁に!」
 蝮は胸の前で両手を振っている。
「はあ? 私かて跡取りやの知っとるやろ?」
「はあはあ言うな。お前ら姉妹どれも似たようなもんやから、錦や青に跡取りの座を譲ってもええやろ。」
 そのとき蝮は誰にも、親にも、姉妹にも打ち明けずに、胸に秘めていた秘密が胸を過ぎった。藤堂三郎太に示唆された明陀の後ろ暗い側面について知っているのは、今のところ自分だけだ。そして、いずれは自分が単独行動でそれをどうにかしようと思っている。
そうすれば当然、自分は今確定している跡取りの資格を失うだろう。つまり妹たちのどちらかが宝生の跡取りになる。遅かれ早かれ、そうなる。
 しかしそれは今、金造に言われてわずかに自覚したに過ぎない。今はまだ跡取りの重圧から逃げるつもりはないし、それを他人に言うなど愚の骨頂だと性格が一途な蝮でも判断がついた。
「あほらし。」
「あほらしとはなんや。」
「私は柔造の嫁になるつもりはあらへんわ。大体、柔造もそんな気ないやろ。それをあんたが騒ぎ立ててどうなるん?」
「それは……そう、やけど。」
 当人同士はそんな気を微塵も見せていないのに、身内でありながらも外野である金造が一人騒いでいるのが今の現状だ。アホみたいだと言われて当然だった。
「金造。あんたが何焦っとるんかは知らんけど、私は柔造にそんな気は全然あらへんから。」
 金造はこの言葉が決定打なのかとイラつきながらも少しほっとする。その溜息から何か察したらしい蝮は、いつになく優しい口調で呟く。
「志摩と宝生が手を取って勝呂の本家を盛り立てるのはええ思うよ。」
 仲の悪い両家が協力し合えば明陀にとっても重畳だ。しかし金造は、蝮の言い草に違和感を感じていた。そしてまた蝮が口を開く。
「ほんでも、そしたら柔造にはうちの妹のどっちかを嫁にして、そっちのあんたの一つ上のお兄を私の婿にすればええんやないかな? うん。それやったら、どっちも跡取りが家を出ていかんで済むやろ。」
あほお! 全っ然わかっとらへん!
金造が吼える。声の限り。
「誰が政略結婚の話しとんや。お前の妹が代わりになるはずあらへん。だって柔兄がずっと気にしとんのは、お前だけや!」
 蝮はもうその表情しか出来ないのかというくらいの、あっけに取られて開いた口が塞がらないという顔をしている。本当にこの女は柔兄に対してなんも思うところが無いんやなと金造は確信する。
「柔兄のなんが不満言うんや。柔兄、おなごはんにはモテモテやぞ。お前は高校の時にそれ見とったやろ。」
「それは、柔造にモテ期が来とったんやと思っとった。ほれ、人生に何回か来るアレかなあっと。」
「違うわ! 柔兄は俺が物心つく頃からずっとモテモテや。お前こそ今自分がモテ期やと思ったことあるんか?」
「私はまだ来てないと思ってるし。」
 金造は蝮の淡々とした言い方に余計に頭にくる。雨が降っていることといい、蝮が挑発に乗ってこないことといい、あくまでこの口論は自分が暴走しているだけなことといい、何一つ金造にとっていいことがない。
「お前はピット器官で物見てるんかい! お前迎えに行った時に、柔兄あんなにソワソワしとったのに。」
「そうやったかな?」
「バックミラーとかでお前の余所行き姿チラチラ見とったとか。」
「私は初心者の運転が怖くてそれどころやなかったから。」
「なんでそんな時に限って常識人な感覚なんや。ていうか柔兄は安全運転の優良ドライバーや。」
「そうやな。信号も黄色で止まっとったなあ。偉い思うたわあ。それに比べて無理やり前に割り込んできた黒のステラにはむかついたなあ。あれも初心者やったなあ。」
「そんなスバルのマイナーな車の車種のことは思い出せて――。」
 金造はぜえぜえと息を吐いている。横入りした車ほども気にされていない柔兄が可哀想で可哀想で仕方が無かった。しかし蝮は柔造の安全運転だけは素直に褒めてくれた。こういう妙なポイントを押さえてくれるところが余計に金造をむかつかせる。
「もう柔兄を振り回さんで欲しいわ。」
「別に振り回しとるつもりは無いんやけど。いうか、私いつあいつ振り回すようなこと言った?」
 それは本当のことだった。蝮が柔造に対して思わせぶりなことを言ったりやらかした事実は、客観的にはない。勝手に柔造が振り回されているし、それを見て金造が腹を立てているだけだ。金造がやけくそになって言う。
「ほんなら態度で表せ。」
「いつもとはいわんけど、ある程度は喧嘩しとるやん。」
 もう蝮にはどうしていいか分からない。喧嘩以外にどうしろというのだろうか。
 金造にとっては柔兄の喧嘩腰は、好きな子ほどとか、可愛さあまっての領域であることを、近くいて感じている。そんな柔造に蝮は、まるで意識もくそもないような嫌味を機械的に返しているんだろう。
幼馴染の近すぎる距離とか、お互いが跡取りだとか、家同士が仲が悪いとか、祓魔師だとか、蝮が柔造に対して鈍くなる原因が沢山あるのも金造は知っている。
百歩譲って思ったことだが、蝮はまだ柔造への気持ちを気づいてないだろうとか思ったが、仮にそんな気持ちがあって気づくとしても、この女にとっては十年単位の遥か未来のことだろう。そんな気の遠くなるような未来まで金造は柔造を待ちぼうけさせたくなかった。
そしてこの女への思いを打ち切らせることが正義のようであり、互いにとって良い事だと金造は思うようになってきた。金造は外の雨の音に耳を澄ませる。それが自分に決断を促しているようだった。
「蝮。今からうちの家に来てくれん。柔兄もう帰ってきとる頃やから。そこではっきりさせようや。」
 蝮はこの金造についていかなかったら、余計に事がこじれると思って仕方なく頷いた。
「蝮。柔兄にメールせえ。車で迎えに来て欲しいって。」
「迷惑やないの? 私は傘持っとるし、歩いて行ってもええんやけど。」
 金造はきっと蝮を睨む。いつもなら難なく見返せるその目つきなのに、何故かこの時ばかりはその目に威圧されてしまった。
「引導を渡す男に、最後の我侭言ったれや。」
「わ、わかったわ。……打てばええんやろ。――済まないんやけど、ちょっと車で迎えに来て欲しいです。ごめんなさい。蝮。……これでええ?」
「ええことにしたるわ。」
 今日が誕生日。特別な日にメールで呼び出された柔造は、多分ウキウキしながら車を走らせることだろう。でも今日が最後だ。
蝮は相変わらずわけがわからないとブツブツ言いながら柔造を待っている。この女になんとも思われてないと告げられる兄の心中を思うと気の毒どころの騒ぎではないが、そんなのはこんな女を好きになった柔造が悪いのだと言い聞かせる。だから自分も報いを受けようと金造は思った。
この女に柔造が振られたあと、自分も兄に告白して玉砕してやろうと誓った。
 
京の町にまだまだ雨は降り続いていた。





誕生日なのに何故か災難な蝮ちゃんでした。このあと柔造と蝮は心置きなく喧嘩するトムとジェリーのような関係になります。そしてその晩の出来事は志摩さんちでは「六四事件」と語られます。
金造の告白については、また機会がありましたら。

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☆ss「パラディン」 「アラベスク」シリーズ本編続き

 時系列は巻き戻ったまま。
ちっぽけな悪魔は誰もいない部屋にいた。世界もまだ何の兆しも見せていない。
「もしもし。メフィスト。」
 物質界での無力な自分を実感しながらも、燐は定めの時が刻一刻と近づいているのをただ待っていた。
『燐。』
 その胡散臭いを声を聞いて安心してしまう自分は馬鹿だ。なんですかとよく通る声でメフィストは問いかけてくる。
「俺。ジジイの葬式の日に、お前に大見栄切ったけど、本当はそんなに大それたことを望んでいるわけじゃないんだ。」
『初耳ですねえ。』
「誰にも言った覚えねえもん。雪男以外は。」
 あの義父の葬儀のあと、燐はメフィストに祓魔師にさせてくれと頼んだ。それは目的じゃなくて、手段だった。同じようにシュラにも自分が生きていくことの証として、聖騎士なると言った。それも目的ではなくて、手段だった。
 自分を訝しげに見たり思ったりしている人間に対して、自分を認めて欲しいから、精一杯人間の味方になる生き方を選んだ。今は手段すらも奪われかねないが。
『うーん……。そうならそうと言って下さいよ。貴方の言い方だと、目的と手段が入れ違って伝わってますよ。』
「俺は馬鹿ではったりばっかりの不良だもん。」
『素直になりなさい。もう遅いですけど。』
 メフィストがまるで囁くように告げた言葉に、燐は嗚咽を隠せなくなっていた。その場にはいないが、いれば多分背中でも摩ってくれそうだった。
『この際、貴方の本当の願いなんてのを、この悪魔に告白しなさい。』
 燐は言おうかどうか迷ったが、メフィストが電話の向こうで「さあ」と呼びかけるので、言わないままでいることが出来なくなった。
「俺は好きな人たちと、普通に幸せに暮らしたい。出来ればだけど。その中の誰かと恋愛して結婚して、子供とか出来ると最高だな。」
『雪男君はそれを知っておきながら、アーサーとの契約を勧めたわけですね。』
「雪男のことは責めないでくれよ。メフィスト。」
 
 雪男は今、燐を自室の六○二号室に置き去りにして、外でアーサーと連絡を取っているらしい。兄にやり取りを聞かせたくないのか、それとも土壇場で逃げ出さないようにか、きつくここから出てきてはいけないと念を押して、燐はそれに頷いた。そして雪男がドアの外に消えたあと、燐は一件だけ登録した番号に電話を掛けた。それがメフィストだった。
『もう決まってしまったものは覆せません。覆したいのなら、決まってしまったことを裏切るしかありませんよ。』
 悪魔は唆すように囁く。
 雪男には思ってもみないことだったが、実は燐は頻繁にメフィストと連絡を取っていた。一日に一回くらいは、その日にあったことなどを一分か二分くらい話すとか、ただ単におやすみか、おはようを言うくらいが精精だったが、その積み重ねがあったお陰で燐はメフィストに連絡を入れる決心がついた。燐のぶっきらぼうに告げる言葉に、メフィストは常に耳を傾けていた。
『弟を裏切るのは怖いですか?』
「俺に出来ると思う?」
『やれますか? というか、やる気あるんですか?』
「雪男を裏切ったら、俺、どうすればいいのかな?」
『雪男君が貴方の裏切りに何を思うかでしょうね。』
 燐は口籠る。メフィストは溜息をついた。
『たぶんもの凄く失望されると思いますよ。』
「そんなの、やだ。」
『でもそうしなければ、貴方を待っているのは絶望だけですよ。いくらアーサーが優しかろうと、アーサーと良好な関係を築けようと、それは所詮、妥協と齟齬ですよ。それが延々と続くだけですよ。貴方が弟の計算と思いに引きずられて決心したのならね。』
「じゃあどうすればいいって言うんだよ。」
『貴方にとって、時間が無限にあると思うのですか。もうそろそろ、この電話も切らなければいけないんじゃないんですか?』
 燐は涙を零して声を振り絞って言った。それが燐の吐き出した本音だった。
 
「助けてくれよ!」
 
 メフィストは電話は切っていないが、受話器の向こうで黙ったままだ。
『あーあ。さっきから私の横でその言葉を待っていた人がいるんですけど。』
 いきなり、何かをひったくるような音が燐の耳に入った。そして続いて聞こえてきたのは、誰よりも頼りなくて、誰よりもかっこわるくて、誰よりも期待していなかった男の声だった。
『奥村君! 聞いたで、さっきの言葉。』
「志摩? なんで?」
 ドアの外に雪男が帰ってくる足音が聞こえてくる。志摩は早口で燐に何かを伝えている。
『理事長がとっておきの卑怯技を使ってくれるって。俺ら絶対、奥村君を迎えに行くから。それまであの金髪に手ぇ出されんように守り通すんやで。』
「守るって……」
『奥村君の貞操や。俺の為にとっといてや。』
 それだけ言うと電話がぶつりと切れた。燐は素早く携帯電話をポケットに隠す。涙も袖で拭って弟にぎこちない笑顔を見せた。
「兄さん。今から行くよ。」
「あ。ああ。」
 燐は弟についていく。さっきまでの電話での会話が夢だと思ってしまいそうなほど、現実は淡々としていた。
 
     *   *   *
 
 アーサーは燐と同衾するはずのベッドで一人、突っ伏していた。その後頭部に誰かが拳骨を落とす。
「痛い! 二回も殴らないでくれ!」
「馬鹿! なに三賢人に丸め込まれてるんだよ。お前!」
 拳骨をぐりぐりとねじ込んでいるはシュラだった。
「私がいなかったら早速、いらんことをてめえに指示しやがって。あいつらは余程、私がうざいようだな。」
 一回目にアーサーを殴ったのは燐だった。その一撃でアーサーの意識は沈んだ。生かさず殺さずの絶妙な一発だった。完全に燐を掌中に収めていたと思っていたが故の、致命的な油断だった。
「彼と仲良く、出来そうだったのにな。」
 アーサーがさも残念そうに言う。シュラは根本的な問題を指摘する。
「仲良くなる方法がまずすぎるだろ。」
 愛人契約でなる仲良しなんて気持ち悪いとシュラは吐き捨てる。
「俺は聖職者だから愛人しか持てないんだもん。」
 燐とメフィストを切り離す為の騎士団の謀略だったのだが、この男には関係ないらしい。単純に好意を持った燐を助けられるからと、上層部の指示に従っていたということだ。しかもこの男自身がメフィストを訝しがっていた。はっきり言えば、アーサーがメフィストに敵対しても可笑しくない感情を抱えていたのも、今回の騒動を加速させた原因でもある。  
しかし、まさかの土壇場で燐は逃げ出した。弟の雪男からも言質は取れていたので、本当に予想外だった。
 殴られたあとに、それでもこれもありかなと思いながら、アーサーはベッドに沈んだ。燐は助けに来たメフィストにつれ攫われたのだろう。意識を失っていても、嗅覚が仇敵の香水の匂いを感じ取っていた。そして気がつくとシュラががいた。昔、迷惑をかけたときに見せていた、そのままの冷たい目で自分を見ていた。
「男社会の言い訳三昧は聞き飽きてるんだよ。しゃあねえけどさあ。はあ……とりあえず、燐がてめえに手を出されてないだけでも一安心か。」
 これからどうなるかわかんねえけどな。シュラはごちる。とりあえず三賢人は黙ってスルーしてくれそうにはない。その上、雪男の気がかりだった。
 メフィストから携帯にメールがあった。燐は救出したからあとの始末は頼むと、打たれてあった。だからシュラは昔の好で世話を焼いていた現・聖騎士の介抱というか、相手をしている。
「おい、お前。三日くらい昏倒してたことにして、三賢人に報告を遅らせるんだぞ。わかったな?」
「三日って、ちょっと無理な気がするけど。まあいっか。ああシュラ。なんか、本来の僕たちの関係に戻れたようだね。」
「いつまでのことを言ってんのかな? お前、私が散々フォローしてやったから聖騎士になれたんだろうが。部下っだっちゅうことだけで、よくも私に世話かけまくりやがって。」
「だってシュラが有能だから悪いんだよ。俺が権謀術数なんて難しいこと出来るわけないじゃん。」
「だから今回も利用されてんのが、分かってねえのか!」
 シュラはもう一発、この金ぴか頭に食らわしてやろうかと思った。しかしその裏表の無さと、建前と本音の差の無さ加減がアーサーのどうしようもない長所なので、仕方なく許してやる。
「どいつもこいつも、聖騎士ってやつは――。」
「俺、シュラの為に聖騎士になったんだけどな?」
「何がどうしたら私の為になるんだよ。」
「だってシュラと聖騎士は因縁の仲だろ。」
 シュラは脱力してアーサーの頭を撫でてやる。
「私は業が深いらしいな。因縁が果てしなく続いていくぜ。」
 せめて燐との因縁は円満な未来が待って欲しいものだぜとシュラは呟いた。
 
 
やっと志摩が声だけで登場です。先にアーサーの番外編やってよかったと思います。ていうか思いついてよかった。セーフ。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第五話「白き手のイゾルデ」 燐雪、燐勝・志摩勝要素あり

 思いもがけぬ僥倖はいつ訪れるか分からない。
 
 毎日が台風襲来(ハリケーンも有りよ)な燐の毎日に、つかの間の雲の切れ間が三日ぐらい前から訪れていた。しかしそれは、素直に喜んでいいのかどうか戸惑う晴れ間だった。
 メフィストが散歩に興じているところに燐が通りかかったので、あくまでメフィストは義務的に声をかけた。
「おや奥村君。君が五体満足で痣もない姿でいるとは。」
「まあな。俺としては良いのか悪いのか、ほれ、よく言うだろ?」
「複雑な心境ですか。」
 燐は胸の前で腕を組む。今回の雪男の任務は期限がないらしい。いつも予定期間は定められていて、とりあえず作戦という名目の仕事を期限内にこなしているらしかったのだが。とういうことは、騎士団は下調べなり状況把握などをしたあとに、戦力を投入しているということだ。しかし今回は、下調べから作戦実行まで同じ期間内にしてしまわないといけないらしく、決まった期限を定められないらしい。
「雪男のやつ、今頃アンパン片手に張り込みなんかしてんのかな? 住宅街に潜伏しているらしいし。」
「そうですね。人間に憑依した悪魔って、住宅街とか集合住宅を根城にしていることが多いのですよ、実は。人数の少ない核家族は、ぶっちゃけ言うと隠れ蓑というか、小さな要塞じみてますからね。何が起こっても大抵は外に知られません。」
「まるで刑事ドラマみたいだな。」
「家族という密室は悲劇を生み出しやすいですから。」
「含蓄のある言葉だな。」
「あんたらのことですよ。」
 虐待なんて一番ポピュラーな悲劇ではありませんかと、メフィストは燐を横目で見る。ここで多少なりとも暗い顔になれば可愛げがあるのだが、自分自身のことなのにこの男はまるで人事のように聞いている。見れば頬のあたりがやたらとツヤツヤして血色がいい。新たに加えられる傷がないだけでなく、精神的にも肉体的にも上々な様子だった。
「奥村先生がいない間に、下半身事情を発散しまくってるようですね。」
「お前生徒相手にはもっと婉曲な言い方したほうがいいぞ。」
「あからさまなのはお互い様でしょう。羽根を伸ばしすぎるのはどうかと思いますが、こんなことでも無いよりはましですからね。性欲処理行為についてですが、あくまで単独行動でお願いしますよ。間違っても他の生徒を巻き込まないで下さい。」
「俺は雪男一筋だからな。」
「はいはい。」
 性欲ばりばりの癖に身持ちは固いと言いたいのか。
メフィストはちらっと燐の手元を見る。さっきからそれが気になっていたので、思い切って問うことにした。
「その美味しそうな和菓子の包みはなんです?」
 燐は普段ならチープな氷菓やスナック菓子ぐらいしか持ち歩いているのしか見たこと無いが、今日は打って変わって、どこかの和菓子の包み紙を抱えている。その封はまだ切られていない。メフィストの嗅覚が中身の正体を知らしめたのだ。高級菓子ではないが、きっと袋の中には、可愛らしくも侘び寂びを感じさせるものが詰まっているに違いない。しかも機械生産ではなく手作りの。
 メフィストは和菓子には目が無いので、内容によったらご相伴に与りたいところだった。燐は手に提げた袋を掲げて何気ないように言う。
「勝呂が差し入れだって。」
 メフィストは嗚呼とおこぼれに与るのを諦めた。勝呂竜士が奥村燐に、虐待被害への同情を超えた感情を持っているのを分かっているので、そんな気持ちの篭った贈り物を強請るのは大人気ないと思った。しかし流石、京都の坊である。この男には廉価な駄菓子でもやっておけばいいものを。
「奥村君。早く食べないと、それすぐ悪くなりますよ。」
「うん。寮に帰って食おうと思ったんだけどさ」
「思ったんだけど、何ですか?」
 燐は新しいほうの男子寮の方角を向いて呟いた。
「一人で食うのも寂しいからさ、勝呂の部屋に行って一緒に食べようかなって。」
 好意のブーメランが恐ろしいメフィストだった。燐は、あいつ俺にこれ押し付けてすぐに帰っちゃったから、これから追いかけようと思ってたんだと付け加える。メフィストはああそうですかと言って、燐をしっしと追い払うような仕草をした。
 燐はまたほけほけと歩き出している。
「まあいいでしょう。悪魔の身でありながら束の間の幸せを満喫するのも。」
 
     *   *   *
 
 男子寮、某室。ぶっちゃけいうと勝呂の部屋。勝呂と志摩と子猫丸の三人部屋。
「な、なんや奥村。急に……なんでこないなとこに来たん? さっき分かれたばかりやのに。」
「いや。お前からこれ貰ったのはいいけど。一人で食いきれないことはないんだけど、なんとなく一人で食うのも寂しいし。このところ雪男もいねえから。だから、一緒に食おうって思って。」
「そ、そうか。とりあえず入りぃ。おかんが押し付けて来た茶でも淹れるわ。」
 勝呂は湯沸しポットを持って部屋から出て行く。その間に燐は見るとはなしに部屋の中を見回した。そして勝手知ったように部屋の奥のベッドにダイブする。非常識だった。自分がいつも部屋に帰ってきて自分がやっていることを、他人の部屋でも臆面もなく実行するあたりが、世間なれしているのか世間ずれしているのか分からない感じだった。奥村燐の辞書に人見知りという文字は無い。
 大急ぎで水をポットに満タンにしてきた勝呂に、燐はベッドの上から「よお!」と手を振る。
「おい奥村! お前、俺のベッドで何さらしとんや!」
「お前のだったのか。」
 勝呂はあわあわと動揺していたが、少しすると落ち着いたのかポットをコンセントに繋いで茶葉なりを用意し始めた。ちらちらと燐のほうを見るが、小憎らしいほどに燐は勝呂のベッドで寛いでいた。ポットが沸騰するまで手持ち無沙汰な感じだったが、その手持ち無沙汰はアホの一言で崩壊した。
「なんだよ。お前もこっち来て座れよ。勝呂のベッドだろ?」
 水より先に勝呂は湯だってしまいそうだった。この部屋に子猫丸と志摩はいない。別に狙い済ましたわけではないが、そんな状況になっている。
「わ、わかったわ。行くわ。」
 自分のベッドに上がるのに照れているのが恥ずかしかった。勝呂はわざと、どすどすと足音を立ててベッドに上がる。
「これでええか?」
「なんで訊くんだ?」
 寝そべっている燐の横の空いたスペースに勝呂は腰掛けている。燐はそれが習性なのか、くんくんと匂いを嗅いでいた。
「あんま男臭くねえな。お前らの部屋。子猫丸はあんま臭そうにないし、志摩はシャレっ気があるから分かるとして、お前あたりは物凄く男臭そうなイメージがあったけど。」
「た、鍛錬の所為や。」
 勝呂は常日頃から鍛錬を欠かさないので、その度に汗を流すようにしていた。だから実質的な匂いは少ないのかもしれない。
「お前こそさっきから凄く汗臭いんやけど。」
「夜にはだいたいシャワー浴びるから。」
 どんな欧米化やと勝呂は思った。だいたいということは、浴びんこともあるんかこのものぐさとも思った。
「お前ちゃんと湯船に入って洗ったほうがええぞ。日本は湿気が多いんやからな。」
「そんなの俺も日本人なんだから知ってるよ。でもそれを言うなら雪男だってシャワー派なんだぜ。しかも朝シャワー派なんだからな。」
「え。奥村先生って夜パスして朝にシャワー浴びるん?」
 燐はそうなんだよと起き上がって話し始めた。好きな子の自分しか知らないプライベートを語れるとなると、どうしても熱が篭ってしまうらしい。
 
 
 深夜、任務から帰ってきた雪男はふらふらと奥にある自分のベッドのほうに歩いていく。燐は素早く跳ね起きると、雪男のコートの背中を掴んでその足を止めた。
『雪男。コート脱いで風呂場行けよ。任務あとのすげえ匂いがするんだけど。』
『今、夜の二時だろ? 僕六時には起きなくちゃいけなくなるから、風呂に入ってたら睡眠時間足りなくなるよ。』
『どうせ朝シャワーするんだから、学校行く時間は同じだろうが。』
『あれは目覚ましになるんだよ。』
 そんなことを言ってベッドに倒れこもうとする雪男を、燐はとりあえず抱きとめた。雪男の少し濃くなった体臭の他に、悪魔の体液だろうか錆臭い匂いとか、酸っぱい匂いとか、そのものずばりな生臭い匂い(雨の日に車に轢かれた蛙をへばりつかせたアスファルトのような)も燐の鼻を刺激する。こんな匂いに塗れても、今の雪男には睡眠のほうが優先されるのかと燐は妙に感心してしまう。
『せめて服は着替えよう。な?』
『疲れている僕から服を脱がせようって言うの? 明日の朝どうなるか分かってるんだろうね……』
 口はまだ動いているが、目は既に閉じかかって声も寝息に変わりかけている。本当にこの弟は極限まで体力を消費してしまう傾向があるようだ。少しは加減して働けばいいのにと燐はいつも思っているが、祓魔師の任務はそうそう手抜きが許されるほど楽じゃないらしい。
そしてそれも違うかなと燐は思った。
『俺と同じ悪魔を相手にしてると思っちゃうと、気が抜けねえんだろうな。』
 そう言いながら雪男のコートのボタンを外していく。雪男の腕が上がって一度燐の手首を掴んだが、すぐにそれはパタンと下ろされた。
『さあ、雪男ちゃんと着替えよう、な?』
 
 
「ちょっと待て! 自分さっき、自分のこと悪魔言うたやろ。」
 あれ? 燐は首を傾げるが、据わった目で勝呂に問いかける。
「そんなもん。薄々は感づいてただろう。」
「うわ! 開き直った!」
 確かにメフィストの部屋でクローゼットの中で盗み聞きしていた時もそれらしいことは聞いていた。それに燐の怪我の治りの早さだとか、雪男が折檻するときに使用する凶器の過激さには違和感を持っていた。
「ほんま、悪魔なんかい?」
 燐は頭が良くないのでこの場での誤魔化しかたはわからない。しかし、ここで誤魔化すのは良くないという判断だけはついた。
「うん。尻尾とかあるし。」
 燐はするりと尻尾を勝呂の前に出す。それは作り物ではなく、神経の通ったものだった。
「……でさ、雪男のやつがさ」
「そっちに戻るんかい! ていうか、兄弟なんやから、先生も悪魔ちゃうんかい。」
「いや。ぶっちゃけ雪男は違う。俺にとっては天使。」
「残酷な天使かい! ほんでテーゼかい!」
 頭の整理がまだつかないのか、勝呂は狭いベッドでのた打ち回っている。燐は勝呂が落ち着くのを待っていたが、なかなか勝呂の煩悶は解消されないようだった。
 他人の部屋なのにまた燐は、勝手知ったるように戸棚から急須と湯のみを持ってきて、いい加減沸騰しまくっているポットの湯で茶を淹れる。
「おーい勝呂。饅頭食おうぜ。」
 爆弾発言をやらかしたばかりの男がと勝呂は憤慨しているが、アホにそんなことは通用しない。そして鼻につく汗の匂いが無視出来なくなった勝呂は、湯のみに手を伸ばす燐の手をぴしゃっと叩いた。
「ちょっと待った。やっぱ饅頭食う前にお前シャワー浴びて来い。」
「ええー? 着替えは?」
「俺が貸したるわ。汗臭いと折角の饅頭も台無しやわ。」
 着替えとタオルを持たせて、燐をシャワー室に押し込めて勝呂は再びポット付近に戻る。
「あいつ。あんな能天気でよく悪魔なんかやっとられるわ。」
 悪魔という重大問題を抱えている癖に。弟からそれで折檻される毎日の癖に。燐の悩むべき部分まで勝呂が請け負っているような気分になってくる。だいたいあんな、どんくさい悪魔が存在していいものだろうか。人間の弱さに付け込むのが悪魔だろうに。あの馬鹿は身体は頑強なのだろうが、打たれ弱すぎる。
 そしてかなりのお人よしだ。弟に対しては無抵抗主義と言えばかっこいいが、他所から見れば虐待被害者で惨めな身の上だ。しかもそんな弟にべた惚れなのだから救われない。
 勝呂は自分のイメージの悪魔との重ならなさに憂鬱になる。なまじ気になっていた相手だからこそもある。しかもこんな何にもない普通の日に自分の正体を明かすなんて。
「最終回にアンヌに正体をばらした、セブンくらいの演出くらいせんかっ。」
 あいつにとってのアンヌはあの弟なのだろうけど。俯いて物思いに耽っていた勝呂の気も知らずに、ほけほけとアホが帰ってきた。勝呂は燐と自分の分の湯のみに茶を入れる。
「ただいま。」
「おかえり。」
 燐は勝呂の向かい側に座って饅頭の袋を開ける。かなり大振りな饅頭を燐は取り出した。そして手洗ってきたからと言って、勝呂に饅頭を手渡した。本当に人間に饅頭を勧める悪魔なんてありえ無すぎる。
「お、おおきに。」
「俺が悪魔って聞いて、嫌になったか?」
 勝呂は少し考え込んだが、いやと返した。燐はそっかと言って饅頭を頬張った。饅頭を飲み込んだあと、何食わぬ顔で勝呂に言う。
「今なら引き返せるぞ、お前。」
「何からや。」
「俺から。俺ってさ、悪魔だし弟とも上手くいってるとは言えないし。ここに帰る途中に志摩に会ったんだけど、あんまり坊の同情惹くようなことしないほうがいいって叱られたよ。」
 勝呂は幼馴染の勝手な手出しに前のめりになった。
「あんの、志摩っ。そんなこと思ってたんかい。しかも言うんかい。」
「志摩すごく心配してたぞ。俺みたいにややこしい問題抱えた奴に、深入りして大変なことになりそうで怖いって。」
「俺は誰かにお守りしてもらわんでも、自分で付き合う相手くらい選べるわ。」
 だからもう関わるなとか言うな。勝呂は叫ぶように燐に告げた。燐は勝呂の剣幕にきょとーんとしている。勝呂も羞恥に声を詰まらせながら、それでも自分の気持ちを言葉にせずにはいられなかった。
「俺は。べ……別に先生の代わりに抱きつかれても全然、か、構わへんから。ほ、他にもいろいろしてもええから……」
「勝呂?」
 燐にはわけがわからない。でも、勝呂が自分に対して嫌悪感を持っていないことだけは分かった。
「お前も、饅頭食えば?」
 ほれと勝呂の饅頭を指差す。勝呂は震える手元で自分の口元まで饅頭を持っていって、小さく一口齧った。
「あー。それ俺のとあんこ違うっ。」
 アホが目敏く指摘してきた。勝呂も今更ながら二種類買ったことを思い出したので頷く。
「あ、そうやな。」
「勝呂。俺の一口やるから、お前の一口くれよ。」
 そんならと勝呂が饅頭を割ろうとしたが、それより早く燐が饅頭にかぶりついてきた。しかも勝呂が齧った上から。
「うん。うまい。」
 そして自分の饅頭を勝呂に差し出してくる。燐が齧った部分を勝呂に向けて。
「お、俺は――。」
「遠慮すんなよ。ほら。」
 仕方なく勝呂は差し出される饅頭に口をつけたが、よく馴染んでいる味が今日はさっぱり分からなかった。
そしてアホはというと、饅頭を食べ終え茶を飲むと、じゃ帰るわとあっさり立ち上がった。勝呂の気も知らないで、こういうところが悪魔なのだろうか。
 ドアの前まで歩いていくアホを、勝呂は呼び止める。
「ちょっと待て。シャワー浴びたついでやから。」
 勝呂は自分の机の引き出しから、小さな小瓶を取り出す。
「香水? 女みてえなもん持ってるんだな。」
「阿呆。身だしなみやし、これはコロンや。」
 勝呂は自分の指に数滴垂らして、燐の首に液体を付ける。
「なんかいい匂い。」
 燐も満更ではなさそうだ。くんと匂いを嗅いで嬉しそうにしている。
「さっきの話の続きなんだけどさ、俺あいつのこと着替えさせて身体も拭いてやったんだ。悪魔の匂いに塗れているままにしたくなくてよ。」
 勝呂はその光景を想像する。肌蹴た雪男の肌を優しく甲斐甲斐しく拭いてやっている燐の姿が浮かんだところで、泣きたくなってきた。
「雪男が寝言で、兄さんやめてとか言うんだよ。すっげえ怖がってるような声で。俺、そんな気ないのに。ただ雪男を綺麗にしてやりたいだけなのに。」
 勝呂は燐に手を伸ばしてどうしようかと迷う。この悪魔は俺を試しているのだろうか? しかしこの悪魔が恋するのは、実の弟だ。胸が痛いどころの騒ぎじゃない。
「言うたやろ。俺、先生の代わりで構わへんって。」
「勝呂――。」
 燐の手を引いてベッドに逆戻りしたろうかと勝呂は大胆にも思ったが、外で痺れを切らしていたらしい志摩がわざとらしくドアを押し開けてきたので、結局は何もなかった。
「奥村君? もう入ってええ?」
「じゃあまたな、勝呂。」
「お、おう。」
 寮の廊下を駆けていく姿を見送る勝呂。その後ろで志摩がわざとらしく溜息をついた。
 
     *   *   *
 
「長居したつもりもねえのに、もう七時だ。」
 急ぐ必要もないのに駆け足で寮に燐は戻っていく。自室のドアの前に来ると、一足先に戻っていたらしい雪男が立っていた。
「おかえり兄さん。いい匂いだね。」
 褒めているはずなのに、雪男の顔はまったく笑っていない。どころか、眉間に皴を寄せている。
「任務、もう終わったのか?」
「終わったから帰ってきたんだよ。何か悪い?」
「全然。」
 後ろめたそうなところを見せない燐に雪男は何か感じたらしく、余計に不機嫌そうな顔をしてからドアを開けた。
「お前相変わらずすげえ匂いだな。」
「悪かったね。三日間風呂に入れなかったし。流石に今日は朝にするなんて言えないよ。」
 雪男は自分と燐を見比べて皮肉げに言った。
「他所でお風呂に入ってくるような兄さんみたいに、僕は気楽じゃないんだ。」
「いや。勝呂がおやつ食う前に、汗臭いのどうにかしろって言うから。」
 そうなんだ。雪男は邪悪な笑みを浮かべた。
「勝呂君におやつに呼ばれるくらい、仲良かったんだ。」
「俺のほうから押しかけたんだけど。」
 またもや雪男の眉がひくりと動く。
「あんまり迷惑かけちゃ駄目だよ。彼は名家の御曹司なのだから。」
 実態はそれほどでもないが、一応の体裁としては違うことはない。
「兄さんと付き合うと、彼まで不良にしてしまいかねないからね。そうなると困るのは僕もなんだからね。」
「き、気をつけるわ。」
 いつものように雪男に対して従順な燐の姿を見て多少は溜飲を下げたのか、雪男はホルスターを下ろすと、はいと手を広げて燐の前に立った。
「雪男ちゃん?」
「服を脱がせて。いつもやってくれてるように。」
 燐は顔を赤くして呆気に取られている。いつもはかなり嫌がられているというか、わけの分からない罪悪感に苛まれるのに。今日は雪男からおねだりされてしまった。
「いいのかよ?」
 言う前に手は雪男のほうに伸びている。そして慣れたように祓魔師のコートのボタンを外していく。その下の上着もカッターシャツもボタンを外しては雪男の足元に落としていく。ベルトに手が掛かったところで、雪男はそこまでとストップをかけた。
「あとは風呂場に行ってから。兄さん、洗ってくれるよね。僕のこと。」
「もちろん……。」
 
 
 雪男の身体を洗うということは燐も浴室に入らなければいけないということ。
「兄さんも服脱いでよ。」
「え。俺はシャワー浴びたんだけど。」
「見慣れない服着てるけど、勝呂君のだろ? 洗って返さないと。」
 雪男は有無を言わせず燐の着ていたTシャツを一気に脱がせた。それを脱衣かごにぽんっと投げ入れる。自分から借り物だと言った癖に、妙に扱いが雑だった。それはズボンも同様だった。
「じゃあ行くよ。」
 全裸になった燐の腕を引っ張る雪男。そしてすぐさま燐に熱めのシャワーを浴びせた。
「あちっ。」
 火傷する温度ではないが、条件反射で身構えてしまう。雪男は温度調節とシャワーノズルを燐に譲る。
「さあ、ちゃんと洗ってよ。兄さん。」
 燐の目の前で浴室の低い椅子に腰掛けている。燐は身体を洗うためのスポンジを片手に固まってしまった。
「雪男。お前どうしちゃったんだよ?」
「僕の前で他の男の匂いなんかさせるからだよ。」
 シャワーの音に掻き消されて、雪男の小さく呟いた声は燐には聞こえなかった。
「いいじゃない。兄さんみたいな悪魔のような匂いをぷんぷんさせるよりは。」
「あうっ。」
 そういう言い方をされると、やっぱり傷つく。燐は大人しく雪男の身体を洗ってやるしかない。
「変なとこ触ったら許さないからね。そこは自分で洗うから。」
「はーい……」
 締めるところはきっちり締めてくれる。シャワーの湯に流されて兄がさせていたコロンの匂いが落ちたところで、雪男は兄に気づかれないようにほっと息をついた。




勝呂本格参戦です。次はアサ子が魔窟に迷い込む予定です。

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☆ss「ソルジャーブルー」「アラベスク」シリーズ番外編、アサ燐

 雪男と燐が、正十字騎士団日本本部にしつらえられたアーサー・О・エンジェルの仮住まいに向かう前の出来事だ。
 
 雪男と燐の間では、既に燐はアーサーの愛人になるべきだという方針は決まっていた。しかし彼の元に向かうまでの経緯で既に知らされていることだが、燐はこのルートに納得しておらず、陰鬱な気分で毎日を過ごしていた。聖騎士であるアーサーはそれなりに所用があるのか、燐が引き渡される段取りとかは、なかなか連絡が来ない状態で、それ故に燐は気持ちの整理が覚束ないでいた。
 
「奥村君。僕らの任務に良ければついて行ってみないかね。」
 塾の講師の一人である椿薫が燐に何気なく言ってきた。燐はそれに目を丸くする。
「え? 候補生の俺が勝手について行っていいのかよ。行きたいけどさ。」
「最近君が騒ぎをおこ……いや、素行が落ち着いてきたからね。それにスランプ気味なんじゃないかと湯川先生も仰ってましたし。」
 結構淡々と塾生に接しているのかと思えば、椿・湯川両講師は、燐が思うより頭が柔らかいというか、それなりに人情のある人柄らしい。燐からすればスランプというのも、自分の元からの物覚えの悪さじゃないかと思わないわけじゃないが、どうしてもその好意には飛びついていってしまう。
「行く、行く行く行く!」
 前のめりになる燐を押し留めるように、椿は燐の目の前に手を翳した。
「そんなに乗り気になってくれてる所、悪いんだけどね。場所は正十字学園の森林区域なんだよ。やっぱり君の場合近場じゃないと、私らも上にうるさく言われる身だから。」
 燐は「ああ。やっぱり。」と思ったが、そんな事情でも燐を誘ってくれた椿と湯川には感謝せずにはいられなかった。サタンの落胤であることを知りながらも、あくまで椿と湯川にとっては「この頃調子の悪い教え子」だと思われている事実は、燐の気持ちを軽くしてくれた。
「今回の任務は軽いものだけど、人数は結構投入されているんだ。で、君に頼みたいのはねえ。」
「斬りこみ隊長か!」
「君は候補生だろ。」
 冷静でもっともなツッコミだった。
「頼みたいのは拠点での留守番と、炊き出しなんだ。」
 雑用係かと燐は気が抜けたが、前のキャンプでの楽しかった思い出もあるので、そんなに悪い気はしなかった。それに大人数の食事を作るのは修道院時代で馴染んでいる。
「森林地帯は祓魔師の演習場みたいなものだからね。さっきは任務なんてそれらしく大袈裟に言っちゃいましたけど、本当はかなり演習の側面のほうが強いんですよ。定期講習みたいなものです。だからあんまり気張らないようにして下さい。あくまで貴方の仕事は美味しいご飯を作ることですから。」
「はいっ。奥村燐、頑張ります!」
 自分の取り柄に関してはそれなりに期待されている。今の燐にとってはそれだけでも嬉しかった。
 
     *   *   *
 
 そんな椿や湯川への株が大暴落を起こしそうになったのは、拠点での留守番に思わぬ人物がいたからだ。
「やあ、サタンの息子。」
「………」
 どうしてこいつがここにいる?
 しかも他の演習参加者は拠点を離れて虫の悪魔とドンパチやっている。今この場には燐しかおらず、燐はカレー鍋に大量のカレーの仕込みを終えて、煮込み工程に入っているところだった。つまり大方の準備を終え、あとは時が進むまま鍋をかき回していればいい状態だった。無視を決め込もうかと思っていた燐に、アーサーは否応無く声を掛けてきた。
「椿先生や湯川先生から聞いてないんですけど。」
 アーサーは朗らかに笑いながら、燐の問いかけになっていない言葉に対して回答を差し出した。
「彼らにとっては聖騎士は敬意の対象だからね。彼らに気兼ねさせないように、はからったまでさ。つまり俺がここに来たのはお忍びなのさ。」
 そう言って燐の目の前の男、アーサーは嫌らしいくらいに爽やかな笑みを向けてくる。とりあえずこの男がここに来たということは、目当ては燐なのだろう。そして、話題となればかなり限られてくる。燐はその場から離れることも出来ないので、恐る恐るアーサーが話しかけてくるのを待った。
「いい返事を貰えて嬉しいよ。」
 やはりあのことかと燐は身構える。
「もう、そっちに連絡が行ってたのか。」
 燐は硬く無理やり笑顔を見せようとしている。でも上手くいかない。多分雪男がアーサーに連絡を入れたのだろう。アーサーは怪訝そうに燐に尋ねる。
「なんだい。快く決心してくれたと思ったのに。」
「俺だって引きずる感情はあるんだよ。」
「……。審問のことかな?」
 敢えて具体的に言えばそうなのだが、燐としてはそれだとはっきり言い切れない。アーサーは一つ溜息をついて燐が座っている隣に腰を下ろした。
「いつまでも拗ねて欲しくないなあ。俺はそんなに一面だけの人間じゃないんだぜ。今日だってこうして君と打ち解けに来たわけだし。」
 まあしょうがないっちゃしょうがないと、アーサーは審問の時とは違うフランクな言い方で笑い飛ばす。
「あんたさ。気をつけたほうがいいぜ。」
 燐が平坦な声でアーサーに告げる。
「何を気をつけたらいいのかな?」
 燐はカレー鍋とアーサーの距離を見比べて、交互に指差しながら言った。
「今日はカレーだから。カレーって結構跳ねるんだぜ。その自慢のださい一張羅を汚したくないだろ。その服を着てるときはミートソースにも気をつけたほうがいいぞ。」
 相変わらずアーサーの白服についてはつっこむ燐だった。
「君ねえ。俺だってカレーを食べようがミートスパ食べようが、まったく困らないカジュアルな普段着とかも持っているんだよ。」
 若干白系の服が多いのも本当だけどとアーサーは付け加えた。燐は何故か自分の目が丸くなるのを感じた。お高くとまっている相手にちょっと卑屈なことを言ってみたつもりだったのに、クソ真面目に答えてきたのにはちょっとびっくりした。それにこいつ、カレーとかミートスパとか食うのかと、それも燐のアーサーに対する認識を揺さぶっていた。
「君だって大嫌いな聖騎士の服が汚れるのを心配をするわけだ。俺はてっきり嫌がらせにカレーをぶつけられるかと思ったよ。俺は君に嫌われているから、そんなことが有り得ると思っていた。それでどうやってカレーを回避しようかと無駄に頭を捻っていたんだよ。」
 アーサーの発言に燐がぷっと吹き出す。
「ほら、ちゃんと俺の前でも笑えるじゃんか。」
「なんだか今のお前って、普通の気のいい兄ちゃんなんだもん。」
 全然不愉快じゃない。燐にとっては不思議な体験だった。気を許すべきじゃないのに心がほぐれてしまう。
「少しは俺のこと好きになってくれたかな?」
「それはない。」
「冷たいな。だけど当たり前な感情だな。」
 それこそが人間だ。と、アーサーは感慨深そうなことを言う。
でも燐が考えているのはもっと甘くて青臭いことだった。愛人になれと強要してこなければ、もっとすんなりとアーサーのことを好きになれたかもしれない。とにかくアーサーに関してのことはタイミングとか、何かよく分からないものの巡り合わせが悪すぎるような気がしてきた。
 
「愛人とか言われなかったらなあ。」
 
 思わず出た恨み言。燐はそれを思い出すたびに泣きそうになる。それに気づいたアーサーは、やってしまったと呟く。
「君が嫌なのは俺じゃなくて、愛人だということっぽいな。」
 燐は俯いてアーサーから顔を隠す。
「あんたが、あんなことさえ言わなけりゃ、俺は弟から見捨てられるみたいなこと言われないで済んだんだ。」
「ん? ううん? うーん?」
 アーサーは頭を抱えて唸っている。
「わからねえのか? 俺は祓魔師の認定試験に受からないと殺される。だけど最初から不合格ってことに、されているかもしれないって弟から聞いた。それに今のまま保護者がメフィストだと、ヴァチカンに対して心証が良くないって。」
「ああ、それは当たり前だ。最初から不合格にするなんていう、後ろめたいことはしないけど。君がメフィストの保護下にあるのは、俺にしても信用ならないと思っている。」
 やっぱりそうかと、燐は顔を曇らせる。でもなとアーサーは付け加える。
「それは君を悪魔として扱う場合だ。俺は君を引き取ったら、人間の奥村燐として出来るだけ扱いたいと思っている。」
 雪男はアーサーのことを信頼できる人物だと言っていた。アーサーは自分にも好意を持っていると燐に告げてきた。だから助けてくれると。それが悪いことじゃないことぐらい燐にも分かっている。
 アーサーは言葉を続ける。
「そりゃあ少しは、君の身体に痛いことや苦しいこともしないといけないけど、従順にしていればそれなりに扱ってあげられる。」
眩しい金色の髪が燐の黒髪をあざ笑うように揺れる。そしてさらっと燐の肌が毛羽立つようなことを言う。燐はようやく理解する。普通な優しい好青年と、悪魔には冷酷な祓魔師が、混然一体としているのがアーサーという男なのだと。
「本当に君の身体に対する仕打ちは最小限に留めてあげられるようにはする。俺に抱かれる身体が嫌なことを記憶するのは、あの審問のときだけだと思って欲しいと思っている。」
 そこまで露骨なことを言われると燐の頬は引きつってしまう。でもしょうがない。アーサーは燐が同意したことを前提に話をしているのだ。
建前と本音を同時進行に聞かされる気まずさにアーサーは気づいていない。建前と本音の区別もついていないのかもしれない。しかるにこの男にとっては、絶え間ない笑顔の明るさだけが真実なのだろう。
燐は再び黙ると、保温容器の中から白飯を皿によそうと、出来立てのカレーをその上にかけてアーサーの前に出した。
「さっそく手料理を振舞ってくれるのかい?」
「お口に合えば嬉しいです。」
 もうこの男の言葉は自分に痛みすら感じさせない。完全に隔てられた世界にいるような感覚だった。
「慣れない敬語を無理して使わなくてもいいよ。」
 アーサーはスプーンを片手に持ってカレーを頬張ろうとしたが、燐がそれを止める。
「お召し物が汚れます。どうぞこれを。」
 アーサーが着せられたのは、燐が料理をするときに使っていたエプロンだった。アーサーはくすくすと嬉しそうに笑う。もう既に燐を掌中に収めたことを確信しているのか。それとも、燐のわずかながらの気遣いが純粋に嬉しかったのか。
そんなことは燐にはまだ分からない。ただもうこの男に反抗する気すら失せてしまった。あまりにも違い過ぎるから。
 サタンの子供と現・聖騎士のたった一度の、ささやかに優しくて甘いひとときだった。



今回は先には進まず、むしろ時系列は戻ってアサ燐でした。アーサーについてはもう1クッションおきたかったからです。まあ、愛人契約とはいえ「そこまでアサ燐ルートも悪くないよ」という話です。誰かを圧倒的悪者にする話は苦手なんですよね。悪魔落ちしてしまった雪男はフォローする場面もたくさんあるんですが、アーサーが置いてけぼりにされそうだったので、ここでちょっといれてみました。
「アラベスク」は原作の展開無視もいいところなので、描写不足なキャラがたくさんいると思います。補足をいれて欲しいキャラの話がありましたら、リクエストください。

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☆ss「高砂4」勝燐夫婦ネタという名の、勝呂家ギャグ

 勝呂竜士はストレスで今にも倒れそうだったが、自分の妻である燐が右側に寄り添ってくれている為に意識を飛ばすことはなかった。
 
 ことは京都に行く朝方に起こった。幼馴染の志摩が里帰りの途中の竜士に電話を掛けてきた。
『奥村先生。今日休み取って京都に朝早く新幹線で行く言うてたけど、一緒やあらへんの?』
「まず質問や。どうしてそれ知っとん?」
『えー……。事務にいるうちの姉ちゃんが、先生が京都行きの切符手配しとったって。』
 竜士の側には燐しかいない。しかも自分達は確実に雪男より遅い時間の新幹線に乗って来ている。となれば先回りされたとしか考えようがない。
 ただでさえ恋人として付き合っている当初から、暗に燐の弟として交際に反対していた雪男。結婚してからもその姿勢は変わらなかった。寧ろより一層反対の度合いが高くなっている。
「志摩。奥村先生は寺のほうにに行ったんか?」
『えーとな、そこまではよう分からん。』
 燐が竜士のシャツを引っ張る。
「クロは『とらや』に行くって独り言を聞いたって言ってたけど。」
「なんやそれ。いきなりっ。つか、クロの言葉信じられるかっ。」
「だってクロがそう言ってるし。なあ?」
 クロはそうだと言っているらしいが、竜士には「にゃあ」としか聞こえない。しかしよく考えてみれば、クロは勝呂夫妻の家と雪男の家を行き来している。雪男が独り言を言っている時に、クロが気付かれずに接近するのは不可能ではない。
「奥村先生、先に行っとるって。はよせなっ。」
 雪男は絶対、世間で言うところの姑根性を利用して竜士の母親を味方にしようとしている。しかしそれは初対面なことが災いするだろう、とんだお門違いな考えだ。あのおかんに常識は通用しない。あの奥村先生みたいな人だったら、絶対にあのおかんのペースに呑まれる。そしてとんでもないルートに突入してしまう。
 勝呂は燐の手を引いて走る。どうか間に合ってくれと寺の息子の癖に神に祈った。
 
 しかし遅かった。雪男はにこやかに虎子の横に座っている。
「……雪男?」
 燐もどう反応していいか分からないらしい。竜士もどうしていいか分からない。母親の虎子が何か言い出すまでは。
「竜士。さっきなあ、騎士団本部に話つけてなあ、雪ちゃん明日付けで転勤することになったんや。ほんでな、雪ちゃんに付いてくる部下いうことで、あんたと燐ちゃんも転勤になったからな。」
「おかん。俺は最初から京都には戻るつもり言うたやろ?」
 虎子はそないなこと言うたかて、と横にいる雪男と顔を見合わせる。
「勝呂君。兄さん。急にいろいろ決まったことでびっくりしたかもしれないけど。」
「いや。もうなんかいろいろと予想は付いとったけど。びっくりした言うのは、急だったということだけや。明日やて? 引越しどうするん? 俺も燐もちょっと実家に顔見せるつもりで帰ってきただけやのに、いきなり明日から京都の出張所で仕事やと?」
「ええやん。雪ちゃん鍵持っとるから、引越しは鍵つこうて、ぱぱっとやってまえばええんやん。」
「そんなことに鍵使うたら、理事長がヴァチカンから煩く言われてしまうやろ。嫁の後見人だった人なんやから、あんまり迷惑かけるわけにもいかないんや。」
 勝呂はささやかな抵抗を試みてみたが、やはり虎子には通用しなかった。
「まあええわ。志摩君に頼めばなんとかしてくれるやろ。」
 身内やから迷惑もたいしたことあらへんし。そう言われれば竜士も「あいつにはそれくらいの迷惑をかけてもええやろ」と思えてしまう。結局、燐と竜士は帰ってきたその瞬間から、とらやに住むことが決まってしまった。
 
「雪男。お前とこうして寝るのって久しぶりだよな。」
「そうだね。幼稚園の頃、同じベッドで寝ていたとき以来だよね。」
 燐と雪男は布団を並べてほのぼのと昔を懐かしんでいる。雪男の向こう側で竜士が苦笑いを浮かべていた。
「どうして、先生と俺ら川の字やっとるんやろ。」
 せめて燐が(身長差からして)真ん中の線を担当してくれればと願うが、真ん中は早々に雪男が占拠していた。
「川の字か……」
「何か不満ですか? 勝呂君。」
「いや、介の字よりはいいです。」
 とりあえず上司であること以前に雪男には逆らわないほうがいい。この状況はおいおい虎子に掛け合ってどうにかしようと竜士は思った。
 三人が寝ているのは広さだけは五十畳敷きの座敷だった。虎子曰く荷物さえ入ってくればそんなに広さも気にならんと言っていたが、そんなことは全然あり得ないと竜士は思う。今まで燐と暮らしていたのは、六畳二間がいいところだったので、いきなりこんなだだっぴろいところは勘弁して欲しかった。
『ここって宴会場やろ。不景気やから使わんようなったんで俺らに丸投げしよったな。』
 ぶつぶつ言っている竜士の横で、雪男と燐はきゃっきゃとはしゃいでいる。
「こんばんわあ。」
 襖を開けて入ってきたのは、虎子と亭主の達磨だった。どういうつもりか分からないが、後ろにいる達磨は二組ほどの布団を抱えている。
「おとん。おかん。どないしたん? 俺らもう寝るつもりやけど。」
 息子を無視して虎子は燐に話しかける。
「燐ちゃん。今日あたしらもここで寝させて貰うわ。ええやろ。なあ、雪ちゃんもええやろ?」
「おかあはん。もちろん良いですよ。」
 雪男は立って達磨から布団を受け取ると、甲斐甲斐しく二組の布団を敷き始めた。何を勝手にと竜士も半身を布団の上に起こす。何気にまだ新婚ほやほやな燐と竜士なのに、新居の第一夜から嫁の弟が川の字でもやもやしているところに、親までが押しかけてくるなんて、わけがわからなすぎる。
「思い出すわあ。竜士が中学卒業するまで親子三人で川の字で寝てたんよなあ。」
 そんな恥ずかしい過去を今言わんでもと竜士は顔が赤くなる。親子はこれが普通やと騙され続け、それに従った黒歴史を暴露されてしまった。上京したあと、志摩は兄弟が多い癖に一人で寝ていたという事実を聞かされて初めて、自分がおかしいと気づかされてしまった。
「だから竜士君は一人っ子なんですね。」
「いややわあ、雪ちゃん。そないなおぼこい顔で下ネタやなんて、よういうギャップってやつ?」
「おかあはん見習って、ちょっとはっちゃけてみようなんて思ったんです。」
 雪男の虎子に対する尊敬じみた念を竜士は感じ取る。このままでは雪男が虎子二号と化す不吉な未来が見えてしまう。
「ま、まあ。来たもんはしょうがないわ。もう寝ようや!」
 とにかく寝てしまえば朝は来る。なんやかんやの修正はそれからだと竜士は思った。しかしそれは許されなかった。
「なんか普通に並んで寝るのもつまらんわあ。」
「そうですか。おかあはん?」
「おかあさん。普通に並ばない寝方ってなんかある?」
「燐まで乗るなや!」
「そうやねえ。」
「おかん。今日は普通に並んで寝よう。最初から奇を衒う必要はあらへん。」
 雪男が竜士のほうをぎろりと睨む。
「竜士君。おかあはんが折角提案しているんだよ。」
 自分の上司はすっかりおかんの手下に成り果てている。味方になってくれそうな父の達磨はそれをにこにこと見ているだけだ。
「そうや。みんなで竜士を囲んで、「日」の字で寝ようや。」
 それじゃ席替えだと竜士を除いた四人が布団を持って立ち上がる。そして絶妙なチームワークで布団による「日」の字が完成してしまった。もう竜士は何もツッコミが浮かばない。この為にこんな部屋に入れられたのかもしれないと、虎子の遊び心に辟易した。
「わあ! 楽しいわあ。やっぱり家族が増えるのってええわあ。」
「おかあさん、俺も楽しい。」
「修道院にいたころは人数いてもやらなかったからかもしれないね、兄さん。」
「だって修道院には座敷無かったからな。」
 みんなのはしゃぐ声を聞きながら、日の字の横棒担当の竜士はなんとも言えない溜息をついた。





本編の虎子さん見ると、いろいろと寂しかったんじゃないかと思います。だから京都編が終わったらはっちゃけるんじゃないかとも。しかし息子は大迷惑です。今回少しはほのぼのしたかな? と思っています。達磨さんはきっとにこにこと奥さんと嫁と嫁の弟の大暴れを見守る優しい舅になると思います。ちょこっとサロンパスのCMネタをパクリました。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第4話「レスキューコーリング」燐雪、志摩勝

俺の好きな子は、俺への殺意を他のみんなには上手に隠している。
 
 雨の中捨てられてぼろぼろの子犬のように、俯いた遠め目に見れば何の変哲もないようで近づけばえもいわれぬ雰囲気を醸し出している男が、理事長室の前で膝を抱えて蹲っていた。メフィストは何の悪意もなく近寄って、その肩を軽く叩いた。
「いっつぅ……」
「おやおやそんなに強く触ったつもりもないんですけどね。ここなんかどうですか? 奥村君。」
 メフィストは今度は膝に手を置いてみる。
「いてえって。そこが一番新しい傷なんだよ。」
 ほお? メフィストは心配より好奇心が強いのか、その他の場所も軽く叩いてその度に燐は痛みに眉を寄せた。とうとうメフィストが燐の袖を捲り上げる。衣替えがまだの長袖の学園制服の下には、数え切れないではないが数えるのが億劫になるような、痛々しい青痣を幾つか見えた。
「悪魔の身体にそこまで傷をつけるとは、貴方の弟の折檻は尋常じゃありませんね。」
 胡散臭い享楽主義に見えるメフィストでさえも眉の一筋くらいは動かすような、そんな燐のありさまだった。
「獅郎が草葉の陰で泣いてますよ。きっと。」
「傷は派手だけど、そんなに痛くないんだ。」
 あんなに呻いていたくせに強がりだけは一人前だった。
「痛いのは心ですか。」
 しかし強がりもそこまでは届かず燐は頷く。そのあと鼻を啜っている。目も赤くなっていた。
そりゃあそうだ。サタンの息子という出自の割には、燐は育ての親に恵まれていた。この学園に来るまでは外の世界との不協和音はあったが、基本ほけほけとした馬鹿でも良かった。ところが十五歳の四月から弟から虐待紛いの、いや、虐待そのものの暴力を受けている。
「奥村君。いや、燐。貴方は、弟からのそれを外に言いふらすつもりはないのですか?」
 つまりは虐待の事実を訴えて、外に助けてもらえとメフィストは言っている。
「お前は助けるつもりはないのかよ。俺のこと。」
 何のためにこんなところで蹲って同情を惹いているんだと燐は毒づく。メフィストはやっぱりわざとですかと溜息をついた。わざとらし過ぎる不幸な演出ぐらいしか、その馬鹿な頭には思いつかなかったらしい。流石、元ヤン。
「私は貴方たち兄弟に対しては公正で平等な立場ですけど、元々赤の他人ですからね。兄弟喧嘩くらいで助けを求めないで下さい。事がこじれる元ですよ。」
 この有様が人間の常識には兄弟喧嘩で済むのかよと燐は噛み付く。
「はなっから助ける気なんてないだろ!」
「そういう貴方からは、はなっから本気で助かりたいという気持ちが見えてきません。」
 燐は息を呑む。そして左手を自分の心臓の前で握った。
「そうだよ。傷云々は別にどうってことねえんだよ。心の問題なんだよ。」
「じゃあ、私には助けられませんよ。貴方を暴力から解放することは出来るかもしれません。しかし、貴方たち兄弟を相互して助けることは出来ません。」
 燐はメフィストの理屈をなんとなくも理解できてないように口を開けている。
「俺なんか悪いことしたのかな? だからこんなに救われねえ気持ちばっかに、なったりするのかな? 雪男を好きになったのは、なんかの罰かな?」
 燐は遠い目をする。その暗い瞳の青さがメフィストの興味を惹く。燐は堪えきれずに言葉を迸らせた。
「あいつのことじろじろ盗み見て、そんだけじゃ足りなくなって、服の隙間からなんか見えないかなとか覗き込んで、もちろん雪男には分からないようにしてるけど。そんでもってちょっと近寄って匂いなんか嗅いじゃったりして、まだまだ大丈夫だと思ったら、すれ違う振りして触ってみたりして、雪男が寝不足でぼーっとしてる時なんか、躓いたふりしてベッドに一緒にダイブしたりとか。」
「ちょっと待て! 貴方そんだけやったら殴られてあたりまえですよ!」
 雪男も虐待に走る前に直接それが嫌って言えよ! メフィストは頭を抱える。
「貴方たち兄弟は望むとも望まざろうとも、もっと色んな人に観測されるべきですね。私の視野の広さと深さを以ってしても、私がどれだけ貴方たちの事情を知っていようとも、どうにかしてあげられる自信がありません。」
「なんだよ。四人部屋パスして俺と雪男を二人部屋に叩き込んだ癖に。こちとら毎日生殺しなんだよ。一日に俺が何回死んでくれとか、殺すとか言われてるのか、知ってるのか?」
 いつのまにかヤンキー座りになった燐がひぃふぅと指を折りながら、言われた呪いの言葉を数えている。それが十本の指で三往復したとき、メフィストは言葉で遮った。
「まさしく生殺しでしょうね。ていうか、そこまで互いへの言動の異常さが酷いとは思ってませんでしたよ。」
「ちっ。悪魔同士なら分かり合えると思ってたのに。」
「私は悪魔ですけど変態じゃありませんから。」
 会話を中断してメフィストは部屋に燐を招き入れる。
「さあ今日はどのシリーズですか?」
「あー。さっきお前に愚痴ってたら無性に、眼鏡っ子が痴漢されるシチュエーションを見たくなったなあ。」
「こういう映像作品で眼鏡っ子ものを探すのはちょっと骨なんですよね。」
 そう言いながらもメフィストはドイツ語で一二の三と唱えてDVDの幾つかのパッケージを燐の手のひらの上に召喚する。
「貴方。ここに来ることは、弟さんにちゃんとなんらかの言い訳をしてきたんでしょうね? こんな性欲処理に私が加担していることを知られたら、夜道もろくろく歩けませんよ。」
「いや。メフィスト相手だったら、あいつ意外と警戒のハードル低くなるぞ。保護者とかなんとかだからって。何故か志摩相手だといろいろ疑われるんだよな。」
 メフィストはモニターの前で色々と待機している燐を一瞥すると、お友達は選びなさいと言って自分だけのために紅茶を淹れに行った。
 
「マスターベーション一つに目くじら立てる相手をよく好きなままでいられますよね。」
 
     *   *   *
 
 今日も今日とて、祓魔師資格習得に意欲を燃やす勝呂を筆頭に(中井さん的な意味で)、塾生たちは塾開始三十分前には教室で待機していた。勿論、遅刻すれすれ組の燐はそこにいない。
「奥村は相変わらず遅いなあ。」
 勝呂はいわずもがななことを言う。志摩はびくっと背筋が震えたが、平静を装って軽口を叩く。
「放課後ろくに用事もあらへんのに、あれはもう義務的に遅刻すれすれしとるとしか思えへんなあ。」
 むそくそな燐へのコメントに、しえみが「はい」と手を上げる。
「違うよ。燐は放課後、雪ちゃんのところに一旦寄ってからこっちに来るんだよ。雪ちゃんが、そこらへんの柄の悪い人に絡まれないように、後ろからそっと見張ってるんだって。」
 その言葉を聞いた勝呂と志摩は顔を見合わせる。見るからに柄の悪そうな奴がよくもそんなことを言えるもんだと声を潜めている。
「入試一位の先生に因縁つけようとする不良なんて、この学園におらんやろ。」
「坊。疑問が甘すぎですわ。俺見たことあるんです。若先生が更衣室で講師の制服に着替えているのを覗き見している、奥村君の姿を。」
「言うたかて。服着替えるいうて上だけやろ。」
「着替えを覗く言うところにツッコまんあたり、坊も薄々感づいとるんですね。」
「着替えがどうのこうのはお前から聞いて初めて知ったんやけど、奥村の若先生見る目線のねちっこさには前から気づいてたわ。」
「話巻き戻しますけど。例え上着一枚でも、特別な感情持っとる子が脱ぐ姿言うんは、くるんと違いますか?」
「阿呆。そんなもん俺に分からそうとすな。」
 勝呂は机に頬杖をついた。子猫丸は二人を見比べながら、ほんの少し顔色を悪くさせて呟くように言う。
「奥村君は男が好きなんやろか。」
 あまりにもストレートな言い方に、志摩は子猫丸の口を塞ぐ。
「あかん。俺みたいなのが言うんはともかく、子猫さんが言ったらあかん。」
 三人は肩を竦めながら溜息をつく。しえみは三人の会話に半分もついていけてなかったが、まだここにいない燐が消極的ながら非難されているような雰囲気を感じ取ったので、立ち上がって三人に喝を入れる。
「燐は雪ちゃんが好きなんだよ。」
「そうや。俺らそういうふうに理解しとるんやけど。」
「だったら何で、そんなにみんな嫌そうで暗い顔してるの?」
 あまりにも悪気の無い、状況をまるで分かってない言葉だったが、三人は何故か何も言い返せない。
 やめときなさい。今まで黙っていた出雲が、聞いていられなさにわざわざ間に入って、しえみの肩を叩く。
「とにかくね、女子に被害が無ければそれでいいの。特に私や朴にね。」
 しえみは納得していないのか、出雲が背を向けたあと小声で勝呂に言う。
「私、燐と雪ちゃんが羨ましいんだよ。あんなふうに、いつも傷だらけになるぐらい喧嘩出来るのは、兄弟だからだよね。」
 勝呂の顔色が蒼白になる。
「杜山さんも、気づいてたんか。」
「坊。杜山さんが気づいとるから何や言うんや。奥村君の傷は覗きとかの自業自得やん。坊が顔色悪うすることあらへん。」
 塾初日から数週間が経った今日のこの頃だったが、ほとんどの塾生は奥村兄弟にまつわる虐待の事実を知っていた。常に消毒液やらメンソレの匂いを漂わし、時には包帯やら絆創膏が長袖の下から覗く同級生の異常さは、嫌でも毎日会っていれば分かる。それを今まで見て見ない振りを続けていた。奥村燐が教室ではひたすら明るく振舞っている所為もあるが。
「他の先生に相談したほうがええんとちゃうんか。」
 横にいる志摩に勝呂は相談するような独り言を呟いている。志摩はやめてくださいと綺麗な関西イントネーションで言って、勝呂の手をぎゅっと握る。大事な坊は常識人だけど世間知らずなので、近寄らないほうがいいものをいまいち分かっていない。志摩は勝呂のそんなところを可愛いと思っているが、今回ばかりはそれを許すわけにはいかない。
「とりあえずスルーできるだけスルーするのがいいと思います。なんや奥村君って人間離れしたところもありますから。」
 意外と燐の正体の一端を言い当てているような志摩のコメントだった。勝呂は耐え切れないように首を横に振る。
「実は、」
 勝呂は意を決したように志摩に言葉をかける。志摩は子猫丸の口を塞いでいた手を解いて「なんですのん。坊。」と聞き耳を立てる。
「前、奥村先生が出張で三日ほど留守にしたやろ。そんとき俺奥村に、」
 勝呂のただならぬ気配に志摩と子猫丸は緊張した面持ちを見せる。
「奥村が思いつめた目ぇして、『お前、雪男と身長そう変わらねえよな』と言われて抱きつかれたんや。」
 志摩と子猫丸はぎゃああっと叫んで、勝呂のほうに詰め寄る。大事な坊の一大事がとっくの昔に起こっていたなんて、初耳もいいところだった。
「ほんで、何されたんやって……。って、もっと早く相談して下さいよ。」
 切実な問題だった。
「あ。でも僕も奥村君に抱きつかれたことありますよ。『雪男みたいに色白だな』とか言われたような。」
「子猫さんには警報ベル持ってもらわんとあかんなあ。」
 勝呂はまだ話の途中だと言って、続きを話し始める。
「抱きついたあとにな、お前ダイエットしろ。あと六キロ言われたわ。一センチ違うだけなのに、六キロも体重多いと抱き心地がいまいち言われたんや。確かに重過ぎるかもしれんし、頑張れば絞れないわけやないけど。」
「坊。なんでそこでダイエットしてみようと思うんや。坊はがっちりしてるくらいがちょうどええのに。奥村君はわかっとらん。そんなことより、変に同情したらあかん。俺言わんとこ思うてたけど、俺も奥村君にあと身長四センチ伸ばせ言われたわ。」
 子猫丸はきょとんとしている。
「僕そんな駄目だしされませんでした。」
「そりゃあ、子猫さんはそのままで可愛いからやろうなあ。」
 一旦退いていた神木出雲が再びつかつかと三人に近づいてきた。
「とにかくねえ、あんたらダイエットでも人体改造でもして、私たち女子の被害を水際で食い止める土塁になってよね!」
 暗に男好きの変態の人身御供になれと言っている出雲に、今まで無視を決め込んでいた宝や山田もぶるりと背中を震わせているのが勝呂たちにも見えた。
 危険から身を守るのは男女平等やろと勝呂は思うが、屍襲撃事件以来、影の実力者として塾にて認定されている、しえみまで非難することになってしまうので、言い方を自然と変えざるを得ない。
「神木。女子言う理由で、クラスメイトのことなのに、対岸の火事決め込むんはどういうことや。」
 案の定、しえみはうんうんと頷いている。しかしたぶん、意味は分かっていない。出雲は、はっと勝呂の言葉を笑い飛ばす。
「勝呂、そんなことを言っているあんただって、奥村燐や先生を本気で助ける気無いでしょ。」
 出雲の挑発するような言葉に、勝呂はちょっと考え込んだあと「そうでもない」と返した。出雲は口を開けたまま呆然とした。そこは言葉を詰まらせるところだと言いたげに。志摩が前のめりになって勝呂を掻き口説く。
「ぼ、坊。早まらんといて下さいっ。」
「そやかてなんか、ほっとけんやろ。」
「ほっときましょうよ。」
 志摩に続いて子猫丸が、早まったことを言っている勝呂を宥めようと言葉を発する。
「坊はただの同級生の為に、汚れてもかまわん言うんですか?」
 直接的な表現は極力避けられたようだが、却って生々しく聞こえてしまう。勝呂は顔を赤くして口の中で小さく何かを呟いている。
「え? 坊。聞こえまへんけど?」
「せやから志摩……。俺あんなふうに抱きつかれたんは初めてやから――。」
「これやから世間知らずのボンボンは!」
 勝呂のお目付け役としては痛恨のミスもいいところだった。実家に報告すればすぐさま自分は両親兄弟総出で凹られる。
 
「そういえば一時間目は悪魔薬学なのに、雪ちゃんも遅いよね。」
 
 しえみが会話の間隙に何気なく言った途端、何かを感じ取ったらしい勝呂が立ち上がって走って教室を出て行く。その後を志摩と子猫丸も追う。何の前触れと教室と廊下がざわめいた。
「なんや坊。なんか察知したんかな。」
「志摩さん。いざとなったら気絶させてでも教室に連れ戻しましょう。」
 志摩と子猫丸を追い抜いて、教室の後ろにいた山田がこっちだと志摩と子猫丸を誘導する。
「山田君、なんでいきなり……」
「あいつらに関して何か思ってるのは、あんたらだけじゃねえんだよ。俺は面倒だから最終的にあんたらに丸投げするかもしれないけど、ちょっとしたことだけはさせてくれ。」
 フードを目深に被った山田は志摩と子猫丸を先導する。なんでこないなことにと、京都三人衆のうち二人は思ったか思わなかったか。しかし後ろを振り向くと、神木出雲と杜山しえみと宝も後から続いている。
勝呂に追いついた山田はこっちから気配がすると言って、塾生全員を連れて建物の裏手にある階段を指差した。
「下だ!」
 山田の声と同時に勝呂が転げ落ちるようなスピードで一目散に階段を駆け下りる。奥村燐の姿が見えない限り止りそうにない。
いつのまにか弟好きな変態が塾生の心を一つにしているようだ。とにかく奥村兄弟二人の不在が、きな臭い何かに塾生の心を引き寄せている。人知を超えたそれを、シンクロとかシンパシーとか言うのだろうか? 神がかりな運命の歯車が合致して重々しい音を立てて加速しているようだった。
 階段を下って行く先に、勝呂のとさか頭がわずかに見えた。立ち尽くすその目線の先に、銃を構えた雪男と這い蹲って後ずさる燐の姿があった。
全員が階段の最下部に集結する。雪男は突然現れた塾生たちに動ずることなく、冷静に兄に銃口を向けたままだった。
「せんせ。それ何しとん?」
「……」
 勝呂の問いかけに雪男は無言だった。勝呂は尚更叫ぶ。
「自分の兄に何やっとる言うとるんや!」
「勝呂。俺たちのことはほっといて、いいから……」
 燐が銃口から庇うように下げた頭を、わずかに上げて言った。いいわけがない。燐のこめかみや頬には掠った弾の痕が見えた。少し皮膚を抉ったそこから、血がドクドクと流れている。
 複数の視線に晒されて雪男はにっこり笑うと、何事もなかったかのように銃をしまう。それを見た燐が立ち上がって塾生一同に「ごめんな」と軽い口調で言った。
「ちょっと躓いて顔からこけたんだよ。雪男は銃の調子が悪いから点検してる最中でさあ……」
 勝呂は立ち尽くしている。そんな嘘、こんな状況で信じろと言うほうが無理だと言いたかったが、雪男がコートから医療セットを取り出して燐の手当てを始めたので、それ以上は口に出せなかった。
「本当、兄さんってそそっかしいよね。」
「うん。ごめんな。雪男。」
 兄弟に視線を向ける一堂の前で、雪男は医療セットの中を引っ掻き回しながら、困ったように首を傾げる。
「兄さんがしょっちゅう怪我するから、消毒用のガーゼが足りなくなっちゃったよ。」
「そ、そうか。本当に済まないなあ、雪男。」
 雪男は燐の頬に顔を近づけると、血が滲んでいるそこに唇を当てて流れる血を舐め取った。勝呂はそれに目が釘付けになっている。
「ゆ、雪男?」
「ガーゼが足りないからしょうがないだろ。」
 何度も傷口に舌が這うのを、燐はとろけそうな顔で受け止めている。
勝呂は堪らなくなって膝から崩れ落ちる。その肩を震える手で志摩と子猫丸が支えた。
「やっぱり、燐と雪ちゃんって仲良しだよね。」
 しえみの的外れな言葉に、とうとう冷静さを保てなくなった出雲は顔を覆った。
 
「馬鹿っ。」
 
 出雲は踵を返して一番に階段を上がっていく。その場の、しえみを除いた一同がそれに倣う。皆の思いは一緒だった。
この兄弟は誰も助けられない。曲がって歪んで捩れて完結してしまうしか救いの道が無さそうだ。それが不特定多数による観測の結果の上に出た結論。
 
     *   *   *
 
「まさか理事長室にまで盗聴器を仕掛けられてるとはねえ。貴方たち兄弟の所為で、正十字学園は無法地帯ですよ。」
 学園の管理者であるはずのメフィストが一講師の影の専横を許してしまったことを、遺憾だとばかりに嘆いた。調度品には銃痕が残っている。いつもの魔法でそれは直せるが、メフィストはその場で起こった非日常の余韻をしばらくは忘れられそうにない。
 
 開けられるドア。間髪いれず撃ち込まれる銃弾。銃弾の一発は燐が眺めていたモニターに直撃した。そのあと燐は脱兎のごとく理事長室から出て行って、当然の如く雪男はそれを追った。あとに残ったメフィストは滅茶苦茶になった部屋の中で呆然としていた。
 
「やっぱりしょっちゅうお前のところに来すぎたかな。」
 メフィストはシルクハットのつばに手をやって、俯いてみせる。そして苦々しく言った。
「貴方がここに来すぎたにしても、普通自分の上司の部屋に仕掛けませんよ。おまけに銃を持って襲撃するなんて。貴方の淫行に対しては奥村先生はどんな社会的規律も無視するつもりですよ。貴方に多少以上の非はありますが。そうだとしても奥村雪男の行為に私は納得しかねます。ところで。これから貴方の逃げ場は本格的になくなりましたけど。これからどうするんです?」
 燐は見るからにあまり物を考えなさそうな顔であっけらかんと言う。
「逃げたから、いけなかったのかもしれねえ。雪男、滅茶苦茶怒ってたし。」
「私は逃げることは悪だと思ってませんけどねえ。逃げ場の無い人生なんて安息が無いのと一緒じゃないですか。」
 それはメフィストだけの恨み言じゃなかった。しかしわからずやで鈍い燐は、てへへと笑って絆創膏が張られた頬を撫でている。
「だから俺には安息なんてあっちゃいけないってことだろ。悪魔で兄貴っていう事実は変えられねえし。俺が雪男を好きだってことも。」
「それで、いいんですか?」
 燐は涙ぐむ前の一歩手前の笑顔で頷く。
「だから俺はあいつに殺されないように、頑張らなくちゃいけないんだ。」
 燐は迷惑をかけたなと言って、メフィストに頭を下げて理事長室から出て行った。
メフィストはクローゼットに隠れていた勝呂に声を掛ける。
「鈍くて馬鹿な男は嫌ですよね。助けを求めなくても、助けようとする誰かの声に耳を傾けて欲しいものですよね。」
 勝呂はクローゼットから這い出る。
「ほんまやなあ。それにしても、悪魔ってなんや?」
 勝呂の最後の問いかけにはメフィストは答えない。勝呂が本当の意味で燐を助けたいなら、近いうちに自分でたどり着くべき真実だったから。
 
 建物から出た燐を雪男が迎えに来ていた。
「おう。帰ろうか雪男。」
「うん。兄さん。」
 その歪な後姿を見送る勝呂。勝呂は拳を硬く握った。
 
×俺の好きな子は、俺への殺意を他のみんなには上手に隠している。
○俺の好きな子は、俺への殺意を他のみんなには上手に隠せていなかった。




今回かなり長くなってしまいました。勝呂たちもとうとう参戦です。今回修羅場がそれほどでもないので、私達的には楽でした。毎回オチの雪男のデレシーンを考えるのがしんどいような、楽しみなような、そんな今日のこのごろです。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第3話「アホなのねの弾丸」 燐雪

 俺の好きな子は同い年で、真面目で、頭がよくて、俺より背が高くて大人っぽい。
 
「兄さん。十五秒以上続けて僕に視線を向けないでくれる?」
「う、うん。ごめん。」
「今勉強の最中なんだからね。教科書に集中して。」
 どうせ僕のことを可愛いとか、その足りない脳みそで思ってたんだろうと雪男は嘆息する。そのとおりだったので燐は何も言えなかった。
 今日は学校のない曜日なので、金がないしがない身の燐は寮の自室で雪男に言いつけられた勉強に頭を抱えていた。その息抜き(と、目の保養)のつもりで教科書から雪男に視線を向けていたら、雪男にきついことを言われて沈んでいるところである。
 
 俺の好きな子は感情的な言葉が嫌いだ。
 
そして、そんな雪男が自分に向けてくる唯一の感情的な言葉は「嫌い」。雪男が言うには嫌いというのは言葉足らずらしい。兄の雪男に向けてくる感情の性的な部分が唯一嫌いなのらしい。
 あの衝撃の塾の授業の初日から、燐と雪男の寮での同居生活はさらに続いていた。雪男はあいかわらず、ことあるごとに燐を殺しかねない言動を取っている。しかし怪我をさせてしまったのが手だった場合は、薬を盛らない弁当を作ってくれるようにはなった。上達のほどは推して知るべしだが。
燐は悪魔の血の影響か、怪我が怖いほどに早く治る。普通の人間ならとっくに傷だらけで学校関係者などに虐待を疑われるレベルになっているはずが、今になっても誰もこの歪な兄弟関係に気づいていないらしい。誰にもそれらしきことを言われたことはない。
なにより、燐は雪男にやられるなら誰かに助けを求めるつもりはないから、ほとんどやられっぱなしのされ放題だった。しかし別に燐は馬鹿なので気にしようがない。
というか、雪男に虐待まがいの仕打ちをされている時が、唯一の雪男からの燐への能動的接触なので、それがないと逆に不安になることもある。そんなことが、お仕置きという名目で行われていた。
記述がだんだん危険なものになってきた。
「雪男ちゃん。今日なんだか顔色悪くない?」
「また見てるの兄さん?」
 さっき顔を見たときの印象を言っただけなのに、こうも煩そうに言われると燐だってカチンとくる。
「心配で見てるくらいのことは許してくれよ。」
 元から色白な雪男の顔色が、今日はなんだか透けたように青白く見える。
 同じ学園に通いだして、雪男が祓魔師の資格を習得しているということを知って初めて目の当たりにしたことだが、この弟は普通の十五歳では考えられない多忙な毎日を送っていた。どれくらい多忙かと言えば、睡眠時間が四時間という人間離れしたサラリーマン並みだった。おまけに肩書きも高校生・祓魔師・塾講師。その上、物質界にとって危険対象である燐が身内なので、その監視役も任されている。
あまり気のつくほうではない燐でも思いつくことだが、あんなに殺したいと言っていた対象である燐と、ほぼ毎日長時間、同じ場所を共有しているとなればストレスを溜めて当然なんじゃないか。しかも今日は朝から同じ部屋で過ごしている。燐は暴力を受けながらでも雪男と一緒にいられる時間は嬉しかったが、雪男は案外違うのかもしれないという仮定を思いついてしまった。そうなったら馬鹿の率直さでそれを言い出さずにはいられない。  
雪男の青白い顔を見ながら、燐は最近薄々思っていたことを口に出した。
「雪男。どうせこの寮には俺たちしかいないから、俺とお前は一人ずつ別の部屋に住めばいいんじゃないか?」
 雪男はパソコンのキーボードを叩いていた手を止めて燐を見る。その表情は眉を顰めて不愉快そうにしていた。
「僕は兄さんを監視してないといけないんだから。」
「か、監視のこともあったんだっけ。だからその俺は、変なことしないから。雪男があとで困ることとか。それに監視なら、この前みたいに盗聴器でもカメラでも仕掛けとけばいいじゃないか。」
「どうしてそんなに、僕を遠ざけたがるんだい?」
「いや。なんか。今思ったことなんだけど、お前の気が休まらないんじゃないかなっと思って。」
 雪男は額に手をやると薄く目を瞑ってふぅっと息をつく。
「兄さんはそんなこと考えつかなくていいから。」
「兄ちゃんが弟を心配しちゃいけないのかよっ。」
 流石に能天気で肉体的にも精神的にも痛覚が鈍い燐でも、椅子から立ち上がるくらいには雪男の言葉に腹が立った。
「せめて今くらいは俺どっか行って時間潰すし。」
「僕の目の届かない所で何をするつもりなんだい。兄さんは。」
 燐は自分に信用はないのは仕方ないとは思っている。
「大人しく勉強してるよ。」
「その言葉を信用させるような実績が兄さんにあるっていうの。僕の留守中に自慰ばっかりしてるような兄さんに。」
 確かに雪男が留守中に燐はオナニーは何回かしたことはある。その度ごとに雪男に折檻されても、なかなかそれは懲りることがなかった。そうでもしてないと、この同居生活で、雪男にとって最悪なことを仕出かさないとは限らなかったからだ。それすらも汚らわしいと言うような雪男の言葉に、燐はやっぱり距離を置いたほうがいいと決心してしまう。
「いいよ。俺他所の部屋に引っ越すから。盗聴器とカメラはメフィストから貰ってちゃんと設置するし。」
 燐はベッドまで歩いていって、とりあえず枕と布団だけを抱えて部屋から出て行こうとした。当座の必要なものがそれだけというのも、このアホな男には相応しかった。
「兄さん?」
まさかそこまですぐ燐に行動されてしまうとは思わなかった雪男は、いつもの慎重な雪男らしくなく、立ち上がった拍子に椅子を倒して燐の肩を掴みにかかる。
「勝手なことすんなっ。この悪魔!」
「悪魔って呼ばれるのは結構だよ。どうせ俺は悪魔だよ。お前の傍にいてもお前を何一つ安心させてやれない、そんな駄目悪魔だよ!」
 燐は雪男を押しのけて再びドアのほうに向かう。今日のところは一応自分の我を通しておきたいと、アホはアホなりに考えて雪男の手を振り払う。アホにも意地があった。自分が虐待まがいの暴力を受けるのはまだいい。しかし好きな子が神経をすり減らして青い顔をしているのは我慢ならない。幾ら自分が暴力を受けようと、好きな子の精神的不安を何一つ解消させてやれないなら、尚更だった。
 当然雪男との別居生活に耐えられなくなるのは燐のほうが先になるだろうが、そのちょっとの間だけでも雪男が少しでも楽になるなら、出来るだけ離れ離れも我慢してみようと燐は健気にも思った。
「兄さん、僕に対して当て付けるつもりかい!」
 燐は振り返る。
「そんなふうに取りたいなら取ってろよ。どうせお前は俺の気持ちなんか全否定だろうからな!」
 燐は今度こそ出て行ってやるとドアノブを握る。ドアノブを回したと同時に、破裂音がして自分の頭に鈍痛が走った。
 怪我をしてもすぐ治り、なかなか死なない身体の燐だが、その鈍痛には後ろを振り返らざるを得ない。何時の間に取り出されたのか、硝煙が雪男の銃の銃口から漂っている。自分の後頭部に手をやり目の前に持ってくると、べっとりと血で濡れていた。
「今度は貫通させるよ。」
「てめえ……」
 怪我の治りが早いだけではなく身体の強度も悪魔並みな燐の頭蓋骨は、雪男の撃った弾丸さえも跳ね返したらしい。しかし相当威力の弱い弾だったようだ。雪男は銃からその弾残りを抜き出して、銀製の対悪魔用の弾丸に入れ替えている。その光景に燐は背筋が凍った。
『俺、今度こそ殺されるかも。』
 それならそれでもいいかもしれない。
だってこの学園に入ってからずっと宣言されてたし。それに好きな子がこれからの人生心安らかに生きていけるなら、俺は尊い犠牲(自分に対してどんだけ大それたことを言っているのか。やはりアホ故か)でいいと燐は思った。
 燐は両手を広げて布団を床に落として雪男と対峙する。アホに似合わず今日は頭が妙に回る。
「てめえがそのつもりなら――」
抵抗する気はないが、抵抗する振りはしよう。どうせ素手対銃なんだ。負けるのはこっちなんだ。
 燐はわずかにその身体から青い炎をゆらめかせる。本当に微弱に、弱弱しく、間違っても雪男を燃やさないように。
「ひっ……」
 雪男はわずかに怯えたような表情を浮かべる。燐が血塗れの手を広げて一歩近寄ると、雪男の顔はさらに蒼白になり、口からは声にならない悲鳴が上がった。
「……どれだけ僕の心を乱したら気が済むんだ。この悪魔。」
「どうせ俺は悪魔だよ。そんで、最悪の兄貴だったな。そんな兄貴を撃って、お前が悪魔から自由になっていいから。」
 でも最後にチューだけでもしたかったな。
「え? なんだって? 僕とチューしたいぃ?」
「はうっ。また顔に出た!」
 折角のシリアスなシーンがぶち壊しだった。しかし折角だから、なんとなくお願いしてみたら叶うのかもしれないと燐は思いつく。アホは転んでもただでは起きない。
「ゆ、雪男ちゃん。兄ちゃん殺されてもいいから、一回だけでもキスしてくれないかな?」
「またそんなこと言い出すかな。この変態悪魔!」
「雪男ちゃん。さっきから兄ちゃんのこと、悪魔としか呼んでないよ。いやいいんだけど。キスしてくれない? いや、させてくれない?」
 雪男は光を眼鏡に反射させて立ち尽くしている。
「そ、そうだ。兄ちゃんにキスされたあと、それ以上のことを強要させられそうになったことにしよう。そうしたら俺を殺しちゃったとしても正当防衛で、雪男ちゃんは法律に触れたことにならないし。」
「そこまでして僕とキスしたいの?」
「したいです。」
 雪男はふるふると震える。兄の馬鹿さ加減のせいなのか。
「兄さん。僕は兄さんを殺したあとのこと、実は何も考えてなかったんだよ。兄さんみたいに、これだったら正当防衛になるだろうからとか。自己保身的な、そういうこと。普通なら考えて当たり前だよね。頭の悪い兄さんが考えつくことくらいは。」
「あっ。そうだよな。よく考えたら、世間体的に俺すごく不名誉な死に様なんだよな。」
 強姦未遂で被害者の抵抗にあって死亡。しかも殺人犯は無罪。
「でも僕が刑務所に入らないように、馬鹿なりに頭を回してくれてありがとう。」
 雪男は燐に近づく。燐が瞬きする間に、雪男の唇が燐の唇を掠めた。
「僕からしたんだから、これは同罪だね。」
「えっ。さっき雪男ちゃん、俺にキスしたの? うそ。そんな……」
 うろたえる兄の頭を雪男は引き寄せる。
「ごめん。後ろから銃なんかで撃っちゃって。だって兄さんを引き止めたかったから。僕本当に、兄さんに嫌われたかと思った。ずっと酷いことしてることは自覚しているんだけど。」
「それは前にも聞いたけど、雪男はそうせざるを得ないんだろ。俺に対して。」
 雪男は頷く。燐はたった数週間だったが、溜め込んでいた疑問を吐き出す。
「お前をそうさせるのは、一体なんなんだ?」
 雪男はそれに苦笑いを浮かべる。話したくないことを無理やり喋るようなそれではなくて、喋りたいけど喋りづらいといったような顔だった。しかし雪男は勇気を振り絞ったように語り始める。
「僕にはまだ性体験はないけど、この頭がなんだか記憶しているみたいなんだ。そういうの。兄さんがサタンの炎を継いでしまったように、僕はお母さんの記憶を受け継いでしまった。お母さんが僕らを身篭った日の晩の出来事の記憶を。」
 燐は合点がいかず腕を組んで弟の言葉を理解しようと苦しんでいる。雪男も自分の受け継いだ記憶に対して理解に苦しんだことはあったので、そこは燐を責めない。
 雪男は拳銃を机の上に置く。そしてまた近づいて、燐の後頭部を撫でた。
「少し凹んでるけど、ここまで動けるなら大丈夫そうだね。だいぶ僕も手加減出来るようになったのかな。」
 燐にとっては有難いのか、そうでないのか分からないような言葉だった。雪男の白い手のひらが燐の血で赤く染まっている。目の前でそれを翳している弟を見ると、それは宗教画のような言いようのない光景を思わせた。
まるで悪魔を罰する聖女か、聖人の血を手に受けて懺悔する悪女のようにも思えた。
雪男はちょっと待っててと言って部屋の中で頻繁に使うものランキングナンバーワンの救急箱を持ってくる。当然ソレは部屋の一番に手の届くところにあった。
「傷が塞がるまで絆創膏張っておくからね。」
「おう。いつも悪いな。」
 雪男は大きな絆創膏をバッテンに燐の頭に張ると、その上を軽く撫でる。手についた血は燐の頭の傷を消毒するときに一緒に拭われていた。
「ところで雪男ちゃん。雪男ちゃんは性体験はないってさっき言ってたよね。」
 雪男のめったに見られない優しい顔を台無しにする燐の台詞。雪男は拳を上げて威嚇した。
「なに! またそういうことばっかり言う!」
 燐は頭を掻いて、へへへと笑う。
「さっきのキスって初めてかな。ちなみに兄ちゃんも初めて……」
「それ以上言ったら、前から弾をめり込ませるよ。」
 燐は慌てて机に戻る。雪男も倒した椅子を元通りにして、またパソコンに向かった。
「うふふ。うふふ。」
 兄が時折、唇に触れながら気味の悪い笑い声を上げている。意識していると思われるのも癪なので、雪男はまた黙々と作業に没頭した。
 




今回も修羅場でした。たぶん次も修羅場でしょう。というか、三話まできてまだ他の登場人物が出現していないのにびっくりです。うちの話としては珍しいです。(アラベスクなんか志摩燐なのに、雪男とメフィストのバトルから始まりました)

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☆ss「デュランダル」勝燐 京都編後捏造

「勝呂はさあ……」
 現在の状況とあまりそぐわないような掠れた声で燐は言った。俯いた顔の下で、両手の指はシャツのボタンを外している。勝呂はそれをぼんやりと見ていた。
 雪男が不在の六○二号室は、小さな雑音さえ鮮明に耳に入ってくる。燐がしきりにしばたいている瞬きの音だとか、吐き出す息、わずかな衣擦れさえも聞こえてくるようだ。
「なんや?」
 燐は全てボタンを外し終えたあと、勝呂の座っているベッドのほうに近づく。燐はベッドの上の勝呂のすぐ隣に座った。
「俺が初めてお前のこと、好きだって言ったときのこと覚えてる?」
「さあ、どうやったかな。」
 実際にあまり記憶にはなかった。薄情というのではないが、特別に記憶に残るような言い方をされた覚えがない。
「本当に、覚えてない?」
最初はかっこいいとか、頼りになるとか、そんな言い方がだんだんと形を変えて、直接的に好意を伝えるような言葉に変わっていったと思う。何月何日のいつごろだったとか、その時の周りの様子とか。でも、二人きりだったということは覚えていた。それくらいにまで一緒にいることが普通になった頃にさりげなく言われた言葉だった。
 記憶が曖昧なのは、もう一つ理由がある。上書きされた記憶の方に引き摺られているからだ。燐のブラックボックスとも言える出自を聞かされるまでの期間のことは、その後の怒涛の京都での数日間の密度に比べれば、消し飛ぶように薄い記憶になってしまっている。
 
 そんでも一応、終わらせたんや。俺ら。
 
 勝呂は燐の腕を引っ張って、自分のほうに引き寄せる。燐は大人しく勝呂の胸に顔を埋めた。燐は今から眠ってしまいそうに目を伏せている。そしてすぐ傍にいる勝呂の気配に自分の存在を溶け込ませようとしているようにも見えた。
まだ京都での出来事のなにもかもの感触がまとわりついて離れてくれない。でも二人ともそんなことは口には出さない。
 だからこうして今、勝呂は燐と触れ合う距離にいるけど、胸の中には色んな傷痕が残っている。もう燐のことを単なる可愛い馬鹿とは思えない。出会ってから夏休みの始めまでの燐との甘いやりとりは、とっくに過去のものになっていた。もうあの悪魔の気配が微塵もなくて、その存在を自分の対岸だと思っていた日々と同じようにはいかない。
 でも燐の問いかけで、勝呂もおぼろげながらに思い出したことがあった。
「あんときお前は、俺を好きや言うたんやなくて、好き『かも』って言ったんやなかったかな?」
「『かも』がついてたから、覚えて貰えなかったのかな。」
 相変わらず馬鹿なことを訊いてくる。『かも』がついている程度の差は、勝呂は気にしていない。呼び出されて告白されたわけじゃなかったんだから。本当に日常の些事に紛れるようなところで言われたのだから、その時の燐の曖昧さは仕方ない。
「確かお前。あんとき、俺の手をごついなとか言うて、人の手で遊んどったやろ。そのどさくさに言われたんやなかったかな。」
「俺は。その前からお前のことかっこいいとか言うのも、結構勇気いったんだけどな。相手にされなかったらとか、嫌がられたらどうしようとか。俺最初、お前に良いように思われてなかったし。」
 燐は顔を隠すように俯いている。垂らされていた手が上がって、勝呂のシャツを掴んだ。
「でもお前、俺のこと構ってくれるようになって嬉しかった。そんでお前の手触ってたら、胸がぎゅっと痛くなって、思わず言っちゃった。」
「それで、『かも』か――。」
 燐は頷く。勝呂は目を下にやった。燐の自分よりは小さな背中の向こうに悪魔の尻尾が見えた。サタンの息子だということを隠していたときは、一回も目にすることはなかったそれ。どんなにおぞましいものかと思いきや、ちょっと間抜けさすら感じるような、この馬鹿な男の一部分としては相応な姿だった。
 馬鹿な、か――。
 もうそんな言葉で片付けてはいられない。馬鹿である以上に、悪魔の首領の息子なのだから。しかもずっと昔から倒すと決めていた魔王の。
幾ら近い距離で向き合っても、それだけは胸の重石として燻り続ける。幾らこいつがしおらしく笑いかけてきても、キスをねだっても、肌を晒して誘ってきても、俺はそれを忘れることは出来ない。忘れられなくても、好きなことには変わりないのかもしれないが。無邪気で純粋なままではいられない。
 たぶんずっと好きでい続けていたら、ずっとその痛みが勝呂を苛むに違いない。それでも――。
「勝呂、好き。」「俺も好きなんや。」
 馬鹿な男は相変わらず馬鹿のひとつ覚えのように、変わらない愛の言葉を囁く。そして勝呂も愛の言葉で返した。





いろいろ雪男とか雪男とか雪男が不安な今日のこのごろですが、京都編後捏造書いてしまいました。雪男がどうなっていてもとりあえず、なんとかなるお話にしました。

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☆ss「パルツィヴァール」雪男としえみ「アラベスク」シリーズ

 しえみはほぼ地面しか見ないで歩いている雪男を見た。雪男は寮に向かっている途中のようだった。傍には燐がいない。声をかけていては追いつけないので、和装の限界まで歩幅を広げて早足で追いかける。
「雪ちゃんっ。」
 振り向いた雪男の顔はその名前のとおりに蒼白だった。声をかけずに近づいたのは、もうひとつ理由があった。雪男が漂わせている異様な雰囲気から、声をかけた途端に消えるように逃げ出されると直感的に思ったからだ。自分が精神的に不安定だった時に、母親にとっていた態度がそれだった。
「しえみさん……」
「雪ちゃん。顔色悪いよ。私ちょうど水筒にお茶入れてるから、あげようか?」
 問いただすまでもなく、雪男が普通の状態ではないことは分かっているので、余計なことは訊かない。知りたくて堪らないけど、答えてくれない場合、しえみは自分だったら対処できないことをわかっている。とにかく今は、一緒にいる時間を長く取ることに専念することにした。
「しえみさん。今は何も喉を通りません。」
「ゆっくりでいいんだよ。飲めば気持ちが落ち着くと思うから。あ、あそこに座ろうか。」
 しえみは雪男の腕を引っ張って大樹の木陰に誘導しようとした。
「たまたま通りかかったしえみさんに、迷惑はかけられませんから。」
「迷惑なんかじゃないよ。雪ちゃんはずっと前から私のこと助けてくれてたもん。」
 雪男は無理やり笑おうとしたが、上手く出来なかった。そして何か言わなければならないと思ったのか、口を開こうとしたが、やはりそれすらも叶わないようだ。何か余程のことがあったんだろうか。
 それを思いついた途端、しえみは急に雪男の隣に燐がいないことが気になってくる。燐は必ず雪男の傍にいるわけじゃないけど、こんな雪男が尋常じゃないときには一緒にいなきゃいけないんじゃないかなと、しえみは思った。
 しえみは自分が携帯を所持していないことを悔やんだ。携帯さえ持っていれば、燐に雪男の元気のなさを伝えることが出来るのに。燐と二人ならなんとかなるかもしれないのに。
 雪男はおぼつかない足取りを寮の方角に向ける。
「しえみさん。僕、寮に帰りますから。」
「駄目っ。」
 思わず叫んだ。寮の中に帰してしまえば、きっと雪男は部屋に閉じこもったまま誰にも自分が大変なことを教えない。しえみにだって完全に隠してしまう。次に会ったときにはなんにもなかったことにされてしまう。
もう大丈夫。治りました。心配かけさせてすみませんでした。様々なすっきりとした誤魔化しの数々が頭を掠めた。
「駄目だよ。帰せないよ。雪ちゃん……。お願い――。」
 雪男は白い顔をしえみに正面から見せた。
「あなた、今日という日にこんなところにいるなんて。何の虫の知らせなんです?」
「とおりかかっただけだよ。でも、雪ちゃんが変だから。」
 雪男は俯いてごめんなさいと唱える。そして、僕を断罪するために来たのかと思ったと、しえみがまるで思いつかなかったことを口にした。
「私が、断罪? なんで私が雪ちゃんに、そんなことをしなきゃいけないの?」
 
「そいつが人でなしの、とんだ功利主義者だからだ。」
 
 赤い髪が木々の中の緑の光の反射の中では浮いていた。シュラが雪男を睨み付けている。シュラの姿と見た瞬間、雪男の顔にわずかに生気が蘇った。シュラはまるで空気を切り裂くように駆け寄りもしないのに高速で、雪男としえみの目の前に気がつけば立っていた。
「そのクソ野郎はヴァチカンに自分の兄を売りやがった。」
 しえみは聞きなれないが聞き覚えのある単語の記憶を引きずり出す。
「ヴァチカン? 燐を処刑しようとした人達の、いる……」
 雪男のほうを見返そうとしたが、突風のように雪男に肉薄したシュラがその胴に蹴りを入れた。
「雪ちゃんっ。なにするの! シュラさん。」
 シュラは構わず雪男を踏みつける。しえみはそれを見てられない。雪男を助けたいけど、シュラの言ったことが頭に引っかかって言葉が出ない。
「こいつはなあ、燐を――」
「しえみさんには、話さないで……」
「聞くか馬鹿。図々しいこと言ってんじゃねえ。」
 しえみはおろおろと二人を見るしかない。シュラは蹴り転がした雪男の仰向けになった頭を髪を掴んで、しえみのほうに向かせる。
「この野郎は、現聖騎士に自分の兄貴を妾に差し出しやがったんだ。メフィストからさっき連絡があったときは、あいつの得意の笑えない大法螺かと思ったけど。念のためにアーサーの野郎の屋敷に行ったら、客人がいるから今日は通せないって言われたさ。無理やり押し入ったら、もうどっかに鍵で移動したあとだった。使用人を締め上げたら、その客人ってのが、奥村燐と吐いてくれたよ。その付き添いが奥村雪男、お前ってこともな。」
 雪男は項垂れようとするがシュラはそれを許さない。
「てめえは、自分の打算のために、とんでもないことをしたのが分かってねえようだな。メフィストは胡散臭い大嘘吐きだが、てめえら兄弟に対しては誰よりも骨を折ってくれたのに。」
「兄さんに対する汚らわしい欲からだ。」
 そんなふうに取ってるのかよと、シュラは叫ぶ。
「お前、何に目が眩んでるんだよ。メフィストの傍には獅郎がいた。お前の義父が信じてた相手だぞ。」
「信じられていたから、騙してたんでしょう?」
「違うっ。信じられていたから、あの大嘘吐きは信頼に応えようとしたんだろうが。お前のその言葉は、お前の父親を疑うってことだぞ。」
 雪男は顔を歪めてシュラから目を背ける。
「何を信じるっていうんですか? 僕にはもう何を信じたらいいのとか、そういう甘えたことを考える暇はないんです。確かに兄さんを手放したかもしれませんが、絶対僕のもとに取り戻してみせます。」
 シュラはもう一発雪男に拳を叩き込んでから、その手を放した。雪男は何もすることなく、重力とシュラの力に任せて倒れこむ。
「取り戻して、それが元のままの燐なのか? お前のことを信じてて、お人よしで馬鹿で、夢見がちだけど誰よりも甘い、そんなあいつか? それこそ甘えた考えだと思い知れ。」
 シュラはそう言うと踵を返す。
「シュラさん!」
 しえみは叫ぶ。
「燐は、燐は助からないの? そのアーサーって人の妾っていうのになっちゃうの? 私とか勝呂君たちとか神木さんとか、仲間が集まっても駄目なの? 私は力になれないの?」
 シュラは頭を掻く。興奮のあまり、しえみがいたことを失念していた。しえみはそんなシュラの困ったような仕草に、自分の弱さを悟って胸の奥が痛んだ。
 シュラは少し悩んで、雪男に人差し指を向ける。
「とにかく今は、大人の私らが、なんとかしてみるから。あんたに頼みたいのは、そのアホを正気に戻して欲しいってとこかな?」
「シュラさん。もう遅いですよ。僕が兄さんを見送ってから二時間は経ちます。」
 シュラは雪男に冷笑を浴びせる。
「メフィストはちゃんと感づいているから、奴も動いているはずだ。私はメフィストは手放しで信用しないけど、獅郎からのあいつへの信頼だけは信じる。」
 しえみは雪男を抱き起こす。その身体は大柄で重いはずなのに、なんだか魂が磨り減って軽くなって、今にも壊れてしまいそうな気がした。しかし雪男はそんな壊れそうな自分を構うことなく、シュラを引きとめようと掠れた声を上げる。
「シュラさん。兄さんを連れ戻しちゃ駄目だ。今だけは駄目なんだ。ヴァチカンに対する反逆行為だと看做されてしまう可能性がある。」
「うるせーよ。権力だけがものを言うようじゃ、祓魔師はやってらんねえだろうが。私やメフィストがやることを、指を咥えて見てろ。それこそ思い知れ。」
 シュラは剣に手をやって走り去る。そのあとを立ち上がって追いかけようとした雪男を、太い木の枝が絡んで雪男の足を止めた。
「しえみさん……。」
 まさかしえみに止められるとは思っていなかった。しえみの肩には小さな使い魔。それの力によって植物をしえみは操っていた。
「雪ちゃん。駄目だよ。」
 静かな声でしえみが言う。
「放してくれ。兄さんが連れ戻されれば、兄さんは殺されてしまう。」
「どうして信用できるって思った人のところから燐を一旦連れ戻したら、その人に燐が殺されなくちゃいけないの? もしそうなっちゃうんだったら、雪ちゃんが間違ってるんだよ。」
 しえみはなおも雪男を放そうとしない。
「わかってくれ。しえみさん。全部兄さんのためなんだ。」
 しえみは薄く微笑んで雪男の頬に触れる。
「駄目だよ。雪ちゃんは間違ってるんだから。友達が間違ってるの可哀想だから止めないっていうのは、それこそ間違ってるから。」
「あなたに何が分かるっていうんだあ!」
 雪男は木の枝に爪を食い込ませる。爪のほうが耐え切れなくなって剥れようとして、指先から血が流れる。雪男は自分だけがなんとかしなくちゃと思い込んでいるから、どれだけ自分がボロボロになってもなんとかしようとする。
 その点自分はなんだろうと、しえみは考える。でも答えはすぐ出た。それを雪男に告げる。
「私はわかってないかもしれない。一人じゃ何も出来ない。でもこれからの為に出来ることはあるよ。三年後、五年後、十年後のために私は強くなるよ。でも今は、雪ちゃんを足止めするくらいしか出来ないけど。」
 シュラさんから頼みごとかと雪男は憎憎しげに言う。
「しえみさん。僕のこと最低だと思ってるのかい。」
 しえみは雪男の眼鏡を取ると、ハンカチで涙を拭ってやる。
「うん。最低なのかもしれない。でもそれは、私が雪ちゃんのこと何にも分かってないだけで、シュラさんも今の私とおんなじだからで。あの人は雪ちゃんのことを最低だと思い込んでるのかもしれない。だからね。私、頑張るよ。雪ちゃんと燐のためなら頑張れるよ。雪ちゃんと同じじゃないけど、一人で頑張れる限り一人で頑張ってみるから。」
 まるで未来を見通しているような預言者の言葉のようだった。雪男はしえみさんが頑張ることじゃないと首をぶんぶんと振る。しえみはにっこりして言った。
「何もかもが駄目にならない、終わりになんかならないから。」
 背伸びをして泣き顔の雪男の頭を撫でながら、しえみも泣き顔になった。
 
 


ついにしえみが出ました。しかし志摩はいつ再登場するのでしょうか? 次回も出ないかも。でも出るかも。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第2話「ランチボックスポイズン」燐雪

朝任務から帰ってきた雪男の目は、千枚通しのような鋭さを帯びていた。燐は目を泳がせながらおはようと言う。雪男は胸ポケットから煙草のケースを取り出すと、口に一本咥えた。
「雪男。お前、悪魔の兄ちゃんへの腹いせに不良になるつもりか!」
「不良は兄さんだろ。」
「う、うぅ……」
 雪男は燐には構わずライターを取り出して火をつける。
「大丈夫だよ。吸うわけじゃないんだ。」
 そういうと雪男はつかつかと燐の側に寄ってその手を取る。燐が何かを考えない内に、何かを言い出さない内に、雪男はその煙草を燐の手の甲に押し付けた。その温度、七百度。
「ぎゃあああ!」
 燐は慌てて手を引っ込めて自分の手をふうふうと吹いている。雪男は煙草を投げ捨て足で踏みにじった。そしておもむろに救急箱を取り出す。
「手当てするからこっち来て。」
 火傷は痛い。雪男に手当てされるのは大好き。さまざまな矛盾を無視しながら燐は手の甲を差し出す。雪男は今度は兄の手を手厚く手当てしだす。
「なんでこんなことされるか、身に覚えあるよね。」
 燐はぎくっと背中を震わす。雪男が帰ってこない内にゴミ箱のティッシュは撤去したし、ファブリーズも部屋中に振りかけた。ボトルの本体も隠している。エロ本の隠し場所もこの部屋じゃない。二人きりの寮の中なんだから、毎日隠す部屋を変えていればばれないはずなのに。
「僕が留守の間に、また不健全で非生産的で、不品行で不衛生なことをこの手でしたんだろう?」
「雪男。それってただの憶測なんじゃないのか?」
 雪男は一旦兄から離れる。そして携帯電話充電器が繋がっているコンセントのタップから何かを取り出した。それを燐に突きつける。
「盗聴器だよ。」
「ひええぇ!」
 雪男はそれを音声が出るように操作する。たちまち燐のあられのない声が雑音混じりに部屋に響いた。
「やっぱりね。」
「やっぱりねって、お前まだ聞いたわけじゃなかったんだろうが! 流石に兄ちゃんも怒るぞ。」
「でも鉄板だったわけでしょ。大体、帰ってきたときに部屋が妙に片付いていたら不審に思うでしょ。おまけにファブリーズ臭いし。兄さんの枕元にあったボックスティッシュの箱も見当たらないし。その割にはゴミ箱は空っぽだし。」
 偽装工作が行き過ぎた。燐は自分が完全犯罪に向かないことを実感した。しかし燐のやった行為はけして犯罪ではない。今度からはエロ本を隠す場所と共に、オナニーするのもこの部屋じゃないほうがいいらしい。
「そうだね。この部屋じゃなければ、多少はいっか。」
 相変わらず顔に考えていることが出ているらしい。ほとほと隠し事には向いていない。
「兄さん。自慰をした手で触った場所は全部消毒しといてね。」
 雪男は医療用のアルコールとガーゼを燐に突きつける。そして腕を組んで早くと言わんばかりに顎をしゃくった。燐は泣き泣きベッドの手すりをアルコールで拭き始める。
「兄さん。汚いことをした手で料理して欲しくないのもあるけど、今日のお弁当は僕が作るから。消毒したあとで食堂に来てね。」
「え?」
「振り向いてる暇があったら、さっさと消毒終わらせて。」
 雪男はそう言うと、ばたんとドアを閉めた。取り残された燐はわけのわからない涙がこみ上げていた。
『そりゃあ、雪男が俺のスケベ行為が許せないのは分かるけど。兄ちゃん、雪男がいなくて寂しくて、気がついたら右手が……。』
 我慢が利いてないのかな? 燐はする必要のない自己嫌悪を覚えてしまった。それでも包帯を巻かれた右手が疼く。
「好き。雪男、好き。」
 唱えた愛の詠唱を聴いてくれる弟はいなかった。
 
「兄さんのバカっ。スケベっ。」
 雪男は生卵を調理台に軽くぶつける。そして溜息をつきながらボールに割りいれた。
「僕は兄さんに出来るだけ痛みを与えないように殺したいんだよ。あんな拷問じみたことしたくないのに。どうして懲りないんだ。」
 理不尽な思いを雪男は料理に込める。その様子に厨房の主は雪男の顔と手元を交互に眺め、危なっかしいと思っているのだろうか、時折指差したり誘導しようとするように手振りで何かを伝えようとしている。親切な悪魔の気遣いも雪男にとってはあまり意味が無い。
 不安を吐き出すようにその口から呟きが漏れた。
「嫌われたかな? 兄さんに。」
 何を今更である。殺すといっておいて、拷問まがいのことをしておいて。それでも兄を好きなのは変わりない。しかしどうしても、たった一点が許せない。
「酷いよ、お母さん。僕だけにあんなのを押し付けて……。」
 顔も知らない母親への恨み言はただの独り言だった。ウコバクは自分の兄貴に向かってあんなの呼ばわりは無いだろうという目をしている。ウコバクにとって燐は物質界で唯一の料理友達。その非難めいた目に向かって雪男は言い訳をする。
「兄さんのことをあんなのって言ったわけじゃないから。」
 なら、なんなのだろう。しかし雪男は口元を手で覆って青ざめた顔をしている。流石にウコバクももういいよというように手を振った。
 しばらくして気分が治ったらしい雪男は再び料理を始めた。料理本と睨めっこをしながら、三十分ほどして二人分の弁当が出来上がった。その頃には消毒を終わらせてげんなりした兄も食堂に入ってきた。
「雪男。ちゃんと消毒済ませたから。だから許してくれないか?」
「今日だけのことは、今日だけで許してあげる。」
 ふんと雪男はそっぽを向く。そして弁当箱を渡しに燐のほうに歩いていく。
「あ。やっぱやめた。」
「なんで?」
「僕兄さんと一緒に食べたい。だから、昼休みに特進科の教室に来て欲しいんだけど?」
「うん。分かった。特進科だなっ。」
 即答だった。相変わらず頭の悪い兄だった。でも嫌われてなくて良かった。
 スキップで食堂を出て行く兄の姿を雪男の冷たい目だけが追っていた。
 
     *   *   *
 
 燐は緊張した面持ちで特進科の教室に向かう。普通科と違い、燐と同じ制服を着ているくせに優等生ばかりが集まっていると思うと、妙な威圧感を感じてしまう。もしや指差されたりとかしないかと不安に思った。
 教壇側の入り口から顔を覗かせてみる。雪男は外面なのか、久しぶりににこやかな笑みを見せて燐を手招きしてくれた。
「兄さん。ここだと居心地悪そうだから、外に出ようか?」
「いいぜ。」
 雪男は小さな手提げ袋を取り出すと、付いてきてと燐に言った。
 今朝の冷たいどころじゃない仕打ち(実際は灼熱地獄)をまるで感じさせない笑顔だった。しかしぐりぐりと足の甲は踏まれている。燐は苦笑いを浮かべた。
 
 雪男に連れられて燐は校舎の外に出た。雪男はやけに人気の無い場所ばかり選んで歩く。そして最終的に足を止めたのは、外付けの階段の身を隠せる場所だった。
「雪男、ちゃんと俺の分の弁当持ってきてくれた?」
「わざわざ兄さんに食べて欲しくて作ったんだよ。持ってこなくてどうするの?」
『わざわざ』『兄さんに』『食べて』『欲しくて』。一つずつ独立して聞くとなんだかすごく意味ありげに聞こえる。そういえば弟は悪魔薬学のエキスパートだったような気がする。まさかわざわざこの弟が作ったのは、なんだか危ないお薬が入ったお弁当なんじゃないだろうか?  
燐はこの時点で雪男と同じ部屋で一週間ほど過ごしているので、ちょっとしたことは学習していた。靴の中に画鋲とか。階段にピアノ線とか。ベッドの中にタランチュラとか。昼寝をしている最中に、部屋の隙間を目張りされてドライアイスが大量に置かれていたこともあった。または練炭入りの七輪。
燐はらしくなく雪男からの弁当を受け取れずにいた。しかしそれを許す雪男ではない。
「兄さん。僕は兄さんと違って料理はからっきし駄目なほうだけど。今更嫌そうな顔をされると悲しいよ。気持ちだけは込めたつもりなんだ。」
 燐は固まってしまう。
「まさか美味しくないからって、食べてくれないことなんてないよね?」
 片手が弁当のほうに伸びるが、途中でやはり止まってしまう。
「ちょっと違和感のある味かもしれないけど、食べられないほどじゃないと思うんだ!」
 燐の身体が跳ねる。これはやはり何か入っているに違いない。燐は勇気を出して訊いてみることにした。
「雪男。弁当に、何か入れた?」
 雪男は黙り込む。そしてばつが悪そうに頷いた。
「その弁当食べたら、俺どうなっちゃうの?」
 雪男は相変わらず口元だけで笑っている。
「雪男は俺がどうなっちゃうのか、分かってるんだよね?」
 雪男は目を逸らそうとしたが、思い直して燐を再び凝視する。
「でも雪男はどうしても、俺にその弁当食べさせたいんだよね?」
 雪男は頷く。目がきらきら光っている。その綺麗さ加減が余計に燐を追い詰める。
「そっか。うん。」
 燐は弁当を受け取った。そして大慌てで蓋を開ける。そして焦げあとの目立つ卵焼きを箸で摘んだ。
「雪男ちゃんっ。いただきます!」
 そこから先は早かった。中に込められた殺意が身体を巡る前に完食せしめたかったから。案の定弁当は全体的に薬のような苦味があった。横目で雪男を見ると、さっきまでのにこにこした顔が嘘のように無表情になっている。そしてその顔は何かを待っているようにも見えた。
昼休みの気だるい日差しが妙な雰囲気を雪男に纏わせている。
「はあ。はあ……」
「全部食べたね? 兄さん。」
 再び雪男は春の埃っぽい陽の光を背に微笑んだ。最終回にヒロインが主人公に向けるような笑顔だった。
『今日が俺の最終回か?』
 燐は襲ってくるかもしれない痛みとか震えに身構える。
しかし一向に燐の身には何も起こらない。
「雪男ちゃん。俺、死なないんだけど。」
「だろうね。幾ら性欲で全細胞が構成されているような兄さんでも、性欲減退剤じゃ死なないよね。」
「なにそれっ。」
 燐は雪男に詰め寄る。
「ケダモノには餌に混ぜて与えるしかないでしょ。」
「ケダモノ言うな! 年中盛ってるのは人間の証拠だろうが!」
「いや。兄さんは悪魔だから、年中無休二十四時間営業で盛ってるんじゃないかと。」
「おいぃ。」
 結局毒ではなかったので、ちょっとほっとはしてみるが、なんて物を実の兄貴に飲ませるんだと燐は思った。
「ごめんね。兄さん。」
 急に雪男が燐に抱きついてきた。
「な、なに? びっくりするじゃん。」
 雪男は燐の様子を窺うように上目遣いで見てくる。
「どう? ドキドキする?」
 燐は自分の心臓に手を置く。
「いや。なんか全然しないわ。」
「じゃあ、効いてるみたい。良かった。」
「よくねえ!」
 心臓が恋心に機能しないだけで、頭の中は嬉しさだったり驚きだったり、ごっちゃごちゃなんだよと燐は叫びたかった。そんな燐の気持ちを知らぬげに、雪男は遠い目をしながら一人ごちている。
「ずっと続けて服用していれば、一回でこんなに効くんだから、きっと性欲を全然感じなくなるよ。兄さん。」
「雪男ちゃん。兄ちゃんを不能にしたいの?」
 それなら良かったんだけどと雪男は眉を顰めて泣きそうな顔になっている。
「それは偶然出来た試作品だったんだ。」
「ええええええええええ? 臨床例まったくなし! 俺が実験台?」
「そういうことになるかもね。だから二度と同じ薬は作れないんだ。僕にとっては一回限りの奇跡だね。それをこんな早くに使って、勿体無かったな。」
 本当に悲しそうに雪男は言う。しかし燐のほうがもっと悲しかった。雪男は燐の身体に回した腕に力を入れてぎゅっと抱き締めてくる。
「今だけだね。兄さんにこうして、ひっついてられるのも。」
 それは俺が今性欲ゼロのせいなのかと問いかけたくなる。絶対にむらむらされないという保証がないと、この弟は兄に触れることも出来ないのだろうか? だったら――。
「ごめん。俺、薬が切れたらまたお前のこと……」
「知ってる。分かってる。どうしようもないのは。僕なんだって。不自然で不条理なことを言ってるのは僕なんだって。この一週間ずっと何気に僕は兄さんに甘えていたことは自覚している。」
 あの罠は雪男の無言の訴えだったのか。
雪男の背中におずおずと燐は腕を回す。そして弟と同じように抱き締めた。
「雪男。俺は、殺してもなかなか死なない兄ちゃんだから。この程度なら悲しいけどまだ大丈夫。でももっと悲しくなったら、兄ちゃん本当に死んじゃうかも。」
「駄目だよ。兄さん。兄さんは僕が殺すんだから。兄さんの悲しみになんかくれてやんない。」
 だからそれが悲しくなるのに。
 薬はいつまで効いてくれるのだろうか? 明日の朝? 真夜中? 夕方? それとも昼休みが終わったら、もうお終い? 
「雪男。昼からの授業さぼれる?」
「なんで?」
「薬が切れるまで、ここでこうしていようよ。お前だって兄ちゃんを殺さないで済む時間くらいは、一緒にいても大丈夫だろ?」
 雪男は頷く。燐の肩に頭を預けて、まるで甘えるように顔を擦り付けてくる。
「雪男。好きだよ。」
「僕も。兄さん。」
 欲は失せても恋はなくならないことを燐はここで知った。




普通だったら燐に飲ませるのはエッチな薬だろう・・・。それを雪男が「兄さん。今のままじゃ辛いだろ?」とか言う展開ですが、この雪男は本当にもう。カップリングを反対にするだけでこんなに殺伐するとは思いませんでした。

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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」燐雪

この話は今までの燐受けssをまるで無視した設定になっています。以下注意点
・燐が攻めです。雪男が受けです。燐雪です。
・燐が滅茶苦茶雪男のことが好きです。
・雪男が病んでます。
以上が大丈夫なかたはスクロールでどうぞ。(いっぺんやってみたかった。)
















「いっそ死んでくれ。」
 その瞬間に燐の頭に浮かんだ文字は、巨大な「がーん」であった。奥村燐十五歳。つい先日、自分自身の出生の秘密を知って、そのついでに義父を亡くしたばかりのいたいけな十五歳であった。そして今日から悪魔のくせに祓魔師になるという、なんじゃそりゃな運命を辿るはずだった。
 そこで待っていたのは既に祓魔師になって、自分達の教師だと名乗った弟の雪男。その現実が信じられず、燐は弟と口論になった。その口論の騒ぎは下級の悪魔の群れを呼び寄せ、他の生徒たちと奥村兄弟を分断していた。
 他でもない燐にとって可愛くて可愛くて可愛くて仕方ない(大事なことなので三回言いました)な雪男に、死んでくれと言われた。
 唖然としている燐の前で雪男は、悪魔をぽんぽんと二丁拳銃で打ち抜いている。「あの可愛い雪男ちゃんがっ」と燐は今までの雪男に対して見ていた夢がクラッシュされたような気がした。その感覚が足元を掬う。そしてさらに雪男の口から吐かれた言葉に、燐は自分の耳を疑った。
「いや。いっそのこと、兄さんは僕が殺す。」
 兄さんは僕が殺す。兄さんは僕が殺す。兄さんは僕が――。頭の中でひたすらその言葉がドップラー効果を引き起こしながらリピートされる。
「ちょっと待てよ!」
 燐はその雪男の言葉に反論せずにいられない。燐の言葉はあっさりとスルーされる。今まであんなに兄の言葉に耳を傾けてくれた弟が、手の平を返したように冷淡に言った。
「バカだな、兄さん。どうして祓魔師になりたいなんて言い出したんだ?」
 燐の脳裏に父親の墓前でメフィストに告げられた選択肢を思い出す。あのピエロは、三択どれを選んでも死ぬしかないと言っていた。しかし燐にとっては、ここで死んだら可愛い雪男と二度と会えなくなるじゃねえかという思いで満たされていた。
 とっくにただの弟だなんて思っていない。いつかは一線を踏み外したい。そう思っていたのに。だから、咄嗟に、ハッタリをかますことにした。
『俺をお前たちの仲間にしろ!』
 メフィストは愉快そうに笑った。ハッタリが見破られたかと内心びびったが、とりあえず首の皮一枚繋がった。メフィストは面白いという理由で、燐を正十字学園に迎え入れてくれた。そしてそれは思ってもみなかった、雪男と同じ高校に通うという奇跡だった。最低な身の上にしては、自分は運だけは太いなと思った。
 なのに。なのに、とんだ不運が待っていた。弟が最後の悪魔を打ち落とす。この状況なら生徒一人を誤射、で済むかもしれないなあと雪男はぼそっと言った。
あの可愛い雪男が。身体が弱くていじめられっ子で、だけど頭が良くて気立てが良くて、眼鏡っ子で、チャームポイントは可愛いのか色っぽいのか分からない泣き黒子で、妹属性で、兄ちゃんより背が高いけどウエストは細くて、足の小さい雪男が。
雪男は燐の心を読んだかのように、なんで兄さんは僕のウエストが兄さんより細いって知ってるのと言ってきた。どうやら顔に書いてあったらしい。
 燐はその据わった目に臆してしまう。
「お前にとって俺が生きてることがそんなに嫌なら、今からでも俺、メフィストのとこに行って出頭してこようか? それとも誰にも見つからないように、どっかに行ってのたれ死んだらいいのか?」
「どっちも却下だね。」
 雪男はドライアイスより冷たい声で言った。
「いやあ! その言い方、お兄ちゃんの可愛い雪男ちゃんとちがうぅ!」
 可愛いという言葉に雪男は顔をしかめていた。燐は気を取り直してなおも提案してみる。
「俺はお前と一緒に生きていたいから、祓魔師にでもなんでもなって生き抜いてやるつもりだった。だけどそれは俺の自分勝手だったかもしれない。お前にとっては迷惑でしかなかったかもしれない。だからって、兄貴に、銃口突きつけるなよ。お前がそんなことする必要ないから。」
 雪男は今度は液体酸素より冷たい声で言った。(バナナで釘が打てるようになります。)
「兄さんは何も分かってない。」
「分かってねえのはお前だよ。お前はサタンの息子を殺すつもりかもしれねえけど、それは、実の兄貴を殺すことになるんだぞ。俺はお前にとって、もう兄貴じゃねえのか?」
 燐はもう涙がちょちょ切れている。その涙の粒が一瞬でダイヤモンドダストになりそうな眼差しを雪男は向けてくる。
「なにそれ。先に兄弟だなんて思ってなかったのは、兄さんのほうじゃないか。」
「はうっ。」
 雪男はまるで汚物でも見るような目で燐を見ている。
「バレてたのか――。俺がお前のことをオカズにしてオナってたの。」
「ベッドの下のエロ本のラインナップが、妹か眼鏡っ子か委員長物ばっかりだなと思った時は確信は持てなかったけど。」
「お前いつのまにそんなもん見つけてたんだよ。」
 大好きな弟にそんな恥かしい物を見られていた。死にたい。いやでも、殺されるのだけは勘弁だった。
「その間に僕の写真が挟んであったら、もう疑う以前の問題だよね。」
 雪男は溜息をつく。燐に向けられた銃口がわずかに下を向いた。その隙を燐は見逃さなかった。
「ゆきおおお!」
「うわっ。」
 片方の手は上手く掴めたが、もう片方の銃口が燐の側頭部に押し付けられた。雪男の目は冷静に燐を威嚇してくる。言葉にするまでもないと言うような迷いの無さだった。
ここで弟に向かって手を上げて降伏するべきだろうか? 今弟の身体のうち、片手だけは燐の思い通りになる。しかし思い通りにした途端に自分のドたまがぶち抜かれるのは必至だろう。しかし大人しくしていても自分の頭は鉛弾をめり込ませることになる。
「兄さん。大人しく僕の手を放すんだ。」
「嫌だ。」
 燐は苦々しく笑う。もう雪男と両思いになるなんて可能性はこの人生で、これぽっちも残されてないだろう。人生そのものだって、残りなんかあと数分後にはなくなってしまうかもしれない。嗚呼。いいことなんて何にもない人生だった。それを言い出したら、雪男とのなんやかんや(すごく語弊がある。精精、怪我を手当てしてもらった時に指の股を撫でられたことが凄く気持ち良かったとかそれぐらい。)も否定してしまう。それでも燐は言いたかった。
「撃つなら撃ちゃあいいじゃねえか。でもこの手は放さないからな!」
 青い炎は燐を包み込む。雪男はそれを見て目を見開いた。燃やされると思ったのかもしれない。雪男の怯えた顔を見て燐は、あ、今のナシ、とあっさり炎を引っ込めた。弟のことになると炎のコントロールは完璧だった。
「兄さん放してくれよ。」
「いやあ! どうせ死ぬなら雪男ちゃんの手を握っていたいの!」
「なんでそんなに聞き分けが無いかなあ?」
 自分では命がけの懇願だったのに、雪男にとってはしつこい態度に取られてしまったらしい。それが悲しくて悔しくて、それでも雪男が好きだから。思わず体重を雪男に乗せた。雪男の身体は壁に押し付けられる。その胸倉に燐は顔を埋めた。
「お前が俺に対してどれだけ失望してるのか、兄ちゃんよーく分かった。」
「分かったなら、僕に殺されてくれる?」
「お前、俺がお前のこと好きなのそんなに嫌?」
「いやらしい目で見られるのは嫌だ。」
 なんて潔癖症な弟なんだ。兄ちゃんは知っているのに。雪男ちゃんは兄ちゃんに比べて声変わりも生えてくるのも精通も早かった癖に。兄ちゃんより先に大人になっておいて、自分は全然疚しくないなんて、そんな奇跡みたいな人間がいるかよ。大体いやらしい目なんて言われたけど、それ以上に汚したくないとも思っていたのに。
「また顔に書いてある。何でそんなに性的なことしか頭に無いんだ兄さんは。僕にはそんな低俗なことで消耗する余裕なんてなかったよ。だから普通の男と僕を一緒にしないでくれ。」
 雪男は自分の胸の内を語り始める。すぐに殺すつもりの兄に向かって。
「小さな頃から悪魔が見えていた僕は、そんな世界で生きていくには強くならなくちゃいけないと思って祓魔師になったんだ。辛いこともあったよ。投げ出したくなることもあったよ。でもそんなとき、僕より大変なことになる兄さんを支えなくちゃと思えたら、何故かそんな弱気が吹き飛んだんだ。」
「雪男……。」
 相変わらず雪男の銃口は燐の頭の横に据えられているのに、燐はそんなことも気にならないくらい雪男に見蕩れていた。こんなときなのに相変わらず雪男は可愛い。
「僕は真剣に兄さんのことを思っていたのに、兄さんは頭の中で僕を穢し続けていたんだろ!」
「いや、ちょっと……、魔がさしただけだから。結局アレでちゃんと抜けたわけじゃないし。」
 何回もオカズにしてたけど、それで抜けるとは限らない。しかしそんなことは雪男には関係ない。
「汚らわしいよ。許せないよ。だから兄さん、僕に殺されて?」
 雪男の顔はくしゃくしゃだった。雪男だって頭から燐を汚らわしいと思っているわけじゃない。それでもなんだか自分の決意が、その燐の好意と行為で裏切られたような気がして、どうしようもないのだろう。その裏切りの代償を兄に支払わせるには、あまりにも雪男の持論は自分勝手すぎるところもある。だからこそ代償を支払わせるにも、兄にとって理不尽な形でしか成し遂げられないのだろう。
多感な時期を勉強と努力三昧で過ごしてしまったことが、ものすごい反動で雪男を狂わせて壊してしまったのか。その引き金を引いたのは、何も知らなかった燐の何気なくて浅はかな弟を好きな気持ちだったのか。
それでも、そんな雪男に怯えながら驚きながら命乞いをしながら平伏しながら、燐は暢気にも無神経にも不謹慎にも関わらず、或る言葉が脳裏を掠めて、しかもそれが口から出てしまった。
「雪男。――い。」
「え? なんだって?」
 雪男は銃口を強く押し付けて燐に聞き返してくる。
「いてっ。いてえよ。」
「返答次第じゃ、痛いどころじゃ済まないよ。さっきなんて言った?」
 
「綺麗。」
 
 雪男は腕の長さの分だけ燐から離れた。その雪男の身体を追うように、燐の言葉が雪男にぶつけられる。
「雪男ちゃん、綺麗。っていいました!」
「なんでそうなるんだい!」
 えーだって、と燐は頭を掻きながら言う。
「だって怒ってる雪男ちゃんって綺麗なんだもん。」
「殺されかけてるのに、そんな……暢気なこと考えないで。」
 銃を握る雪男の手がぷるぷると震えている。そしてだんだんとその手は下に下がっていた。
「それってやらしい意味で言ったわけじゃないんだよね?」
「いちいち確認しないと気がすまないのか? つかどんだけ、いやらしいことが嫌いなんだ。」
「綺麗っていうのは、ニュアンスからしてちょっと畏怖の念が込められてるよね。一線引いて観察した上での言葉だよね。」
「そこまで分析しちゃう?」
 雪男は目をつぶって考え込んでいる。次に目を開けたとき、雪男は悪くないと言った。
「うん。悪くない。なんか嬉しい。手放しでずっと可愛い可愛いって言われてた時よりも、断然良い。」
 燐には分からない雪男の心理だった。今まで不機嫌そうだった雪男が、この教室に来て初めての笑顔を見せた。
「今日のところはその言葉で見逃してあげる。」
 燐は自分を指差して雪男に確認してみる。
「え? 俺お前に殺されなくて済むの?」
 雪男は横に首を振った。
「今日だけは、ね。いつかは必ず兄さんを殺すつもりだから。」
 結局殺す気はあるってことかよ。燐は肩を落とす。雪男はごめんね兄さんと言いながら銃をホルスターに戻した。
「そんなにがっかりしないでよ。僕は兄さんが嫌いだから殺したいんじゃないんだ。」
 そんな言葉に慰められるほど、今日傷ついた燐の心が癒されるはずがない。聞かされたくなかった弟の本音も、自分の最低な人生のスパイスなのだろうか。でもこの最低な人生をなるたけ長く雪男と過ごしたいなと思う燐だった。



はい。うちにとってのイレギュラー中のイレギュラー中のイレギュラールートの燐雪でした。雪男は燐のことが好きなんですけど、同じくらい殺したいとも思ってます。攻め燐は鈍いというか、悪魔の癖にライトノベル主人公のような奴なので雪男にかなり振り回されます。結局絶対にエッチなんて出来ないんじゃないかな。
既にこっちの雪男は精神的悪魔落ちをしているようなものなので、色んな意味で開き直っていて、藤堂さん的な悪魔落ちはないと思います。悪魔の甘言より、自分の意思のほうが強い子なので。
以上、言い訳でした。

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☆ss「ザ ハッター」 志摩燐(和解編)、メフィ燐。「ハンプティダンプティ」の一応完結編

 

「あなたは落ち込んだ格好をしていれば、私が声をかけてくれると思ってるんですか?」
 
 そう言いながらもメフィストは燐の前に現れた。ここで時刻を確定させるのは既にお約束になっている。十八時四十三分三十八秒。ちょうど日が地平線に(そんなもんあるんか)沈んだ直後の黄昏時だった。これから夜が始まる。
「俺は俺で勝手に落ち込んでるだけだから。」
 そう言いながらも、地面に座っていた燐はスライドするように横にずれて、メフィストが座るスペースを作る。メフィストは渋々というように燐の隣に少し離れて腰掛けたが、その脇にぺったりと燐がくっついてきた。少しメフィストに対して寄りかかるように。メフィストははあっと溜息をつくと、燐を引き離すようにその肩を押した。
 燐は迷惑がられていることに気付いたのか、メフィストに寄りかかった肩を離して妙に姿勢良く座っている。
「中学の時と違って、お友達は上手いこと出来てるようですね。」
 メフィストはいっちょまえに保護者らしいことを言ってくる。燐は戸惑いながらも頷いた。
「普通のお友達ですよね。同性交遊とか宿敵と書く関係じゃないですよね?」
 え? と燐は言葉を詰まらせる。どうやら一つかそれとも両方か、該当する誰かがいるらしい。狭い人間関係でよくそんなことになるものだ。やはり悪魔の血統の成せる業か。
「私はそのことについては雪男君ほど煩くは言いませんよ。上辺だけの付き合いで済ませられるほど、あなたは器用じゃないし合理主義でもないですからね。」
「どうせ俺は不器用な馬鹿だよ。」
「で。それが落ち込んでいるのと何か関係があるのですか?」
 燐は関係ないかもと前置きを入れて話し始める。
「俺は料理が得意で、それなりにポリシーがあったんだ。ここで出来た友達に料理作ってくれって頼まれて、作ったんだけど。そいつがマヨラーだったんだ。俺はそれが許せなくて、そいつを怒鳴ってしまったんだけど。だけどしばらくして、そいつは俺の料理の間違いを指摘してきた。サンマの塩焼きは内臓を取らないのが常識だって。その時は雪男のフォローでうやむやになったんだけど。」
 メフィストは苦笑いを浮かべる。奥村先生は兄馬鹿だからと口の中でもごもごと燐に聞こえないように言った。
「つまり互いに間違いがあったというわけですね。いや。どちらも正解だけど、噛み違って喧嘩になってしまったのですね。」
「喧嘩ってほどじゃないけど。先に怒鳴っちゃったの俺だから。」
「あなたが怒鳴りたくなった気持ちは分かりますよ。でも、その友達が仕返しに来た気持ちも分かります。」
 燐は脇に置かれたメフィストの手に手を重ねてくる。メフィストはぱしっとその手を払った。
「ほら。また隙があったら私に甘えようとする。あなたそうやってちょっとずつ接近していって、仕舞いには膝の上が指定席になるのが常套手段でしょうが。」
「俺そんなことしたっけ?」
「自覚ないんですか。勝呂君とか勝呂君とか、勝呂君にやらかしてるでしょ。でも魔性の男にならないのが、あなたなんですよね。精精天然ボケとしか言われない。だけど私には気安く甘えないで下さいよ。あなたは納得しないでしょうが、私はあなたの兄なのですから。」
 燐は首を傾げている。しかし兄という言葉から何か拾い上げたようだ。
「兄ちゃんって言うくらいなら、少しくらい……」
「あなたは弟に甘えて欲しい兄なのでしょう。しかし私は雪男君ほどと言うわけじゃないですが、自立した弟のほうが好ましいのですよ。」
「けち。」
「けちで結構。」
 そんなことを言いながらも、燐からの相談事ならば、ほんの少し引き受けるつもりのメフィストだった。
「友達付き合いに不慣れなあなたに、考える杖だけは貸しておきましょう。あなたはマヨラーの子と穏便に折り合いを付けたいのですね。」
「うん。もう今じゃ俺の考え方が固すぎたってことが分かったから。」
「だからその折り合いをつけるきっかけを作ればいいのでしょう?」
 燐はうんうんと頷く。メフィストは一つ提案してみる。
「彼がマヨラーだということを逆手に取ったことをしてみては?」
「それじゃまた、俺からの仕返しってことにならないか?」
「なりません。」
 メフィストはチッチと指を振った。
「まあ、私の言う通りにしてみて下さいよ。」
 そう言ってメフィストは燐の耳にこそこそと囁いた。燐の顔がぱあっと明るくなる。顔を離したメフィストに燐は、どさくさに紛れて抱きついた。
「ありがとっ。メフィスト。俺、これからはお前のこと、ピエロなんて呼ばねえよ!」
「こら。離しなさい。」
 メフィストは淡々と燐の腕を解く。燐の名残惜しそうな顔を尻目にメフィストは背中を見せる。
「では、健闘を祈ります。」
 
     *   *   *
 
「うまあ。これ最高やわ。」
 志摩は元々垂れ目な目を余計に垂れさせて、燐が抱えたタッパーの中身を頬張っていた。添えられたレタスのグリーンの上には、ピンクのソースの掛かった鶏のから揚げ。ソースの色は奇しくも志摩の頭の色と同じだった。
「から揚げのオーロラソースがけだぜ。マヨネーズとケチャップを混ぜて作ってみたんだ。隠し味にマスタードと生クリームも混ぜてみたんだけど。」
「う……。マヨラーの俺のためにこんな――。」
「俺だって作ってくれって頼まれたのに、食い方一つに頭ごなしに怒鳴ったから。料理に対して融通が利かなかったこと、反省してたんだ。」
「いや。俺もそれについては相当子猫さんや坊に呆れられてたんや。気にすることなかったのに。」
 燐はその割にはリベンジに来たよなお前、と心のなかでツッコんだ。でも志摩が手放しで喜んでくれるので、これでいっかとも思った。志摩はあぐあぐとから揚げを頬張っている。燐はそれを子供に対する母親のような微笑みを浮かべながら見ていた。
「今度はタルタルソースに合うなんかを作ってやろうか?」
「ありがとう! 奥村君。俺らもう他人やないんやな。」
「いや、他人だけど。でも、友達だよな。」
 
 その光景を苦々しく物陰から見ている眼鏡がいた。
「あの悪魔。兄さんに余計な知恵をつけやがって。」
 最愛の兄の得意料理が、このままじゃこってり系になってしまう。雪男の前に新たな脅威が待ち構えていた。
 




ちょっと「フレーズ」の設定を流用してみました。メフィストは本当の意味で燐を甘やかしません。しかし燐は藤本の面影をメフィストに求めています。
オーロラソースネタは書いた日の朝飯で思いつきました。

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☆ss「マクベス」 「アラベスク」シリーズ過去編 雪燐「カプリチョーソ」の続き

「大丈夫だよね? 覚悟は出来てるよね?」
 
 燐は魔法の鍵で雪男に付き添われて、正十字騎士団の本部にある上級祓魔師のための居住区に来ていた。危険対象の上、監視対象である燐がここを訪れたのに、何の警戒も動きもないのは、事前に雪男が現・聖騎士に話を通していたから。燐がここを訪れたのは、現・聖騎士のアーサー・オーギュスト・エンジェルの申し出を承諾する旨を伝えにきたからである。つまりある意味では遅ればせながら、燐はかつて父の墓前でメフィストと、初めての授業の時にいざこざの中で雪男に勧められた、騎士団へ出頭に出ることを呑んだ形になった。
 居住区は学校から離れた上層部にあった。当然、燐と雪男の寮とは比べ物にならないほどの建物が立ち並ぶ。普通の町より外国人が多い。
「ここにはシュラさんの家もあるから、見つからないように気をつけないと。」
 雪男は呟く。そして兄の腕を取って、外観はまるで城というような屋敷に入っていく。雪男が言うには、ヴァチカンに家がある祓魔師のための集合住宅らしかった。古風な外観は城のようだが、マンションみたいなものだろう。
 雪男はメモどおりの手順で城の中を進んでいく。途中でエレベーターに乗り、ガラス張りの壁から二人で外を眺める。
「俺があいつのところについたら、雪男はどうするんだ?」
 雪男は一瞬だけ口ごもる。しかしはっきりと口にした。
「僕に見届けてもらうつもりはないでしょ? 僕はアーサー卿に対しては何も心配していないから。卿は約束は守る人だし、実力も人格も優れた人だよ。兄さんも彼を信頼すれば、彼もきっと信頼に答えてくれる。」
「アーサーが信頼できそうなのはわかった。」
 なのになんで、こんなに心が沈むんだろう。冷静に考えれば本当に悪い話ではない。心が沈むのはやはり、懲戒審問のことと足を切られたことを引き摺っているからなのか。
「兄さん。懲戒審問で何が起こったのか、僕は話で聞いただけしか知らない。だから僕は兄さんからしてみれば、あの人を手放しで信頼しすぎていると思われても、仕方ないのかもしれない。」
「俺はそんなつもりじゃ……」
 そこまで顔色に出ていたのか。燐は思わず雪男から目を逸らす。雪男は背けた燐の顔を自分のほうに向けさせると、その肩を抱き締めた。
「少しの間、いや何年かの間の辛抱だ。兄さん、僕がヴァチカンでも通用するような実力をつけたら、必ず兄さんを迎えに行くから。」
「雪男――。」
 ならば俺を今すぐ助けてくれよ。燐の目は言外に無意識に訴えていた。雪男はその視線に対して首を横に振る。それでも言いたいことはあった。
「本当は僕は、他の男に指の一本だって兄さんに触れさせたくない。兄さんが男との生々しい行為を受け入れなければならないなんて、考えただけで気が狂いそうだよ。」
「俺が嫌そうな顔したからか?」
 そうではないと雪男は再び首を振る。
この単純な兄は、まだ弟の本当の気持ちに気付かない。たぶん雪男が告白するまで、永遠に気付くことはない。他の男との行為が許せないんじゃない。そういうことを兄にしたいと思うのが自分だからだ。何度心の中でその思いを否定しても、神に許しを請うても、完全に消し去ることは叶わない。
アーサーとの話があったとき、いっそのこと自分が先に兄を陵辱してしまおうかと思った。しかしそんなことをすれば、兄はそのことをアーサーに隠し通すことが出来ないに違いない。もしそれがばれたら、それこそ兄の中の人間を誑かす悪魔をヴァチカン側に確定させてしまう。
この手を離せば、兄は他の男に抱かれることにはなるけど、不可能だとずっと思っていたヴァチカン側の庇護を受けることは出来る。煮えくり返りそうな腸を抑え込んで、雪男は兄に笑いかける。
「僕が勝手に嫌だと思ってるだけだよ。僕は兄さんが生きていられれば、それでいい。でも必ず僕のもとに連れ戻すから。」
 エレベーターの扉が開く。開いた扉の外には珍しく普段着のアーサーが待っていた。燐は唐突に背中を雪男に押されて外に出る。そして雪男は兄が振り向かないうちに扉をボタン一つで閉ざした。
 一人きりのガラス張りの小部屋に雪男は一人取り残される。下っていくエレベーター。その中で雪男は涙を流して崩れ落ちていた。小部屋はガラス張りで外の景色はあけすけに見えているのに、外にいる誰もが泣いている雪男には気付かなかった。
 
 



ついに過去編書きました。次回はアーサーと燐の話です。

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柴仲達
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読書、二次創作
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忍たまで「幸福雑音」というサークルで、大阪のイベントに出没しています。
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