幸福雑音
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☆『続・super scription of date』中編③ 燐雪前提の朴雪
雪男と朴は旧男子寮だった場所にたどり着いた。ただしそこは寮の形を成していなかった。
「私はこの建物に見覚えがないんだけど。先生は何か知ってる?」
雪男は淡々と答える。
「僕達が育った教会です。」
目の前には古びてこじんまりとした小さな教会が建っていた。朴はあちゃあと声を上げて雪男を見ている。
「燐君一人で残されたもんだから、色々と模様替えしたみたいだね。ちょっと思ったより事態は深刻かも。」
「深刻って、どういうことですか。」
朴は地面の土をいじりながら雪男に説明し始める。
「あのね。先生から話を聞いた時点じゃ、私って燐君はここじゃ冬眠してるみたいにじっとしてるとばかり思ってたんだよ。でもどうやら、この世界に順応してそれなりに先生の精神世界に改造も加えちゃってる。もしかしたらあの時の先生のように、なかなか帰ろうとしてくれないかもしれない。」
「大丈夫ですよ。兄は真っ当な人間ですから説明すればすぐに説得されて僕達についてきてくれます。」
「いや。なんか。でもね、……」
朴は何か口の中で呟いて思案しているようだ。
「先生。一つだけ質問いいですか? 先生にはここに燐君が残りたくなる、積極的な理由に心当たりありませんか? 先生がここにいなくなっても構わないくらいの理由が。」
「兄さんにとって僕が別にいなくてもいい? そんなのはないでしょ。」
「怖い! 先生怖い!」
朴は雪男の病的な独占欲を垣間見た。しかしながら自分の精神に相手を閉じ込めようとする人間だということを朴が一番視認しておきながら、この反応は雪男の兄への執着を甘く見ていたとしか言いようがないのかもしれない。
「先生! 聞いて!」
「なんですか。貴女の推測の根拠を話すとでも?」
「そ、そこまで大それたことは……。ただの勘です。」
「ただの勘ごときで不用意なこと言わないで下さい。まあいいです。聞いてあげます。」
偉そうだと朴が思ったか思わなかったか。しかし一応は耳を傾けてくれるようなので、朴は言葉に普段三割り増しくらい気を遣いながら雪男に語りかける。
「教会って不特定多数の地域住民が入ることを想定しますよね。訪れる人には誰にでも開かれている場所。」
「うん。日曜礼拝のときは少ないけど人は来てたし、バザーも開かれるし、懺悔室は時々使われるし。神父さんに悪魔祓いを頼む人もいたし。」
朴は目の前の教会を指差す。
「なんかこの教会って、感覚的に入りにくい雰囲気だと思わない?」
別に荒れた様子でもない。薄暗いどころか周囲に建造物もないので日向のど真ん中。それなのに朴は入りにくいと雪男にはっきり告げた。
「僕はそれほどじゃないけど。朴さん個人の感じ方でしょう。朴さんは一万人いる自分がなにやら後ろめたいことをしていても可笑しくないですから。つまり罪人が神の家を恐れる心理でしょう。」
「失礼ですね。ちゃんと稼いで日々のご飯は食べてます。急に見覚えのない建物に出くわした私の錯覚だと思いたいですよ。でも、この教会はなんだか燐君がここに閉じこもるためにここに出現させたような、そんな気がするんです。先生から同意を得られなかったわけですけど、先生はこの教会の住人としてカウントされてるからっていう推測もできます。」
雪男は朴を覚めた目で見ていた。あれだけ雪男の犯した罪に関して根拠を並べ立てた女の言葉にしては稚拙過ぎたからだ。見た目にバリケードでも張り巡らされているならそれも説得力もあるが、この教会にそんなあからさまなものはない。だか、雪男が十五年間見てきた義父の教会のトレースそのものの建物の外観からは、どう見ても朴がそこまで警戒するような要素は見つからない。同じように朴はこの教会の異様さにどうして雪男は気づかないのかと首を捻っているが、お互いにその感覚の違いを説明し合うことはこの状況では叶いそうにない。そういうディスカッションは雪男は時間の無駄だと思っていたからだった。
「じゃあ。警戒している貴女は外で待機しといてくださいよ。」
「そういうわけにはいかないよ。前科持ちの先生だけに行かせるなんて迂闊な真似。」
そう言って朴は教会の扉のところまで駆け寄るとその扉に手をかける。
「うぉいしょお!」
雪男からすれば馬鹿馬鹿しくなるほどの掛け声を上げて扉を引っ張っている。
「教会の扉には鍵なんか掛けられたことなんてないですよ。なんですか。開かないんですか?」
「いや。鍵が掛かってる様子はないんだけどね。なんか凄く扉が重い。開けることに抵抗されてる感じ。」
「貸して下さい。」
雪男は不承不承に朴に変わって扉の前に行く。雪男が触れると扉の取っ手は軽くかちゃという音を立てた。
「なんだ。全然重くないじゃないですか。行きますよ。」
雪男が入ってそこにすかさず朴も続こうとしたら、雪男が教会内に入ったと同時に扉はばたんと朴を跳ね除けるように閉じてしまった。
「ぶほっ。」
「何やってるんですか。とろいですね!」
隔てられた扉の内側から雪男の苛立った声が聞こえてくる。朴は再び扉を引っ張るがびくともしない。
「なんですか。開かないんですか?」
「先生。内側から開けてみてよ。」
しかし雪男が扉を開けてくる様子がない。
「朴さん。もしかしたら僕しか入れないようになっている仕様かもしれません。開きません。」
「なにそれ。誰得な設定なの?」
「まあここまで来れたんだから、あとは兄さんに会うだけです。僕一人でも大丈夫でしょう。」
雪男が自分に都合よく事を進める気がうっすら透けているような言い方だった。何を根拠の大丈夫だと朴は再び雪男に呼びかけた。
「先生!」
「もう、心配性だな貴女は。こういうときには身内で水入らずのほうが良いんですよ。」
「いや。それが信用出来たら苦労はしないんだから。そういうのに限って裏切られるんだから。先生、ちょっとそこで待っててよ。先生。ラブホまで戻ってその扉をぶっ壊す最終兵器持ってくるから。」
「その間に僕が兄さんを連れて出てきますから。」
「いや駄目だから。絶対二人きりで会っちゃ駄目だから。」
雪男の返事はなかった。朴は憎憎しげに扉をにらみつけた後、それに背を向けくそっと悪態を漏らす。頭に血が上るのを抑えるために出雲ちゃんと口の中で唱え、よしっと気合を入れた。
朴は教会の裏手に走って物置らしき場所を見つける。
「んとにもお。あの困ったちゃんは私の言うことに聞く耳もちゃあしないし。」
朴は金属製の扉に何度も蹴りを入れて破壊してしまう。
「あったあ。」
物置の中にはママチャリが仕舞われていた。教会そのものは朴を拒絶していたが、物置まではそうとはいかなかったようだ。
「最終兵器取りに行かなくちゃ。」
朴は自転車に跨るともと来た道を引き返すべく全力でペダルを踏んだ。ママチャリの見た目ではあるが、その性能はスポーツ用のオフロード自転車並の速度と走行性を備えていた。それは朴の並々ならぬ危機感を象徴するようだった。
「てええいっ。」
何であの弟は兄のこととなると、分かりやすいバッドエンドに向かおうとするんだろう。 自転車は砂埃を上げて白い砂浜を越えていく。朴の悪い予感には間に合わないだろうが、そこは行くしかないのが今の状況で、朴は自分の出来る精一杯をするしかなかった。
* * *
教会の内部に入ってかつての自分達の部屋や居間を見回っていたがそこに兄の姿はなかった。もしかしてと思いたどり着いた場所が礼拝堂だった。そこで頭から毛布を被った人影を見つける。僅かに見えた横顔からすぐに燐だとわかった。
雪男は兄を目の前にしておきながら声をひとつ掛けるのに長い間戸惑っていた。
自分が精神世界から脱出する間、現実世界では十二時間が経過する間に、この世界では四ヶ月間経っていたことになっていた。兄の精神の半分がこの雪男の精神世界に取り残されてからは十日が経っている。計算すれば八十ヶ月。七年近くもここに置き去りにしたことになる。
「朴さんから兄さんの精神の半分が取り残されていると断定されるまで、深く考えてはなかったけど。十日間も放置していたのは不味かったかもしれない。」
しかし冬休み中に朴は出雲と寮から出て行方が知れなかった。その間にヴァチカンからの視察もあり、全てが後手に回ってしまった。何もかも自分が蒔いた種ではあるが理不尽な怒りがこみ上げるのは止められなかった。
教会の入り口のところで朴を締め出したままにしたのは、燐に遭遇したときの雪男が感極まってしでかしかねない行動を朴に見られたくなかったからだった。それなのに雪男は燐になかなか駆け寄ることも出来ずにいた。
「兄さん。」
無言で兄は顔を上げる。そこはステンドグラス越に入る光が色鮮やかで、雪男から懐かしい教会の中なのに異様な雰囲気を漂わせていた。礼拝堂の祭壇の直ぐ下に兄は蹲っていた。
「兄さん。」
再び呼びかけて兄に近づく。間隔にして六年以上も経っているはずなのに兄はほとんど見た目が変わっていなかった。ただ少し痩せたという印象で日に当たってなかったのか顔も青白かった。
「……雪男。何処行ってたんだよ。六年も。極秘の任務だったのか?」
現実世界の呆けた兄より若干受け答えがはっきりしている。朴の見積もりでは半分と言っていたが、この世界での雪男の不可解な行方不明に何らかの辻褄合わせをしようとしているあたり、もっと多くの割合で精神が取り残されていた可能性が高い。それは燐のこの世界に対する未練が大きいからではないからかと雪男は思った。
何故? 精神の大半を縛るほどの事象がこの世界に有ったとでもいうのだろうか。兄のそんな状態に理由があるのか? 納得する答えを得るにははっきりと訊いて見るしかない。そこで兄の答えがかみ合えば雪男の不安は杞憂に終わるだろう。そう願って雪男は燐に問いかける。
「どうしたの兄さん。僕と一緒にあの時帰ったはずじゃなかったの? なんでこんなところに残ってたの?」
「ああ……。なんか、帰り損ねちゃった。」
燐はすかさず精神世界での辻褄合わせを放棄した。そこは雪男にしてみては幸いだった。
「帰り損ねた、じゃないよ。先に僕を迎えに来たのは兄さんだよ。」
「そうだな。すまん。だけど」
燐は祭壇の上に上がる。燐の手招きに雪男は従った。
「お前の夢の中に一緒に閉じ込められて後から朴が助けに来たんだったよな。」
燐はサルベージされた日のことまではきちんと把握しているようだ。だが続いて燐の告げようとする言葉に雪男はひたすら嫌な予感がした。
「だけど俺にはここから帰れない理由が出来てたんだ。」
雪男の脳裏に朴が言った「積極的に燐が残りたい理由」という言葉が蘇る。この精神世界では自我が普通の現実世界より強調されることは、雪男は身を持って知っている。兄はそれを戸惑いもなく雪男に伝えようとしている。何の矛盾もなくひたすらそれが雪男も喜んでくれるだろうと思っていることが、その軽い足取りから推察できた。
そして祭壇の上の籠の中で綺麗な白くて柔らかい布の上の小さな物体に心臓が高鳴る。
「これ。あの時の?」
燐は愛おしそうに籠の中の物体の表面を撫でる。
「この世界の真実を知っても、これが心残りで。お前も俺も出て行ったら可哀想だろ。」
籠の中には卵が一つ。
それを直視すると雪男は悲鳴を上げたくなる。
「兄さん……。兄さんはそんなに、その卵のこと――。」
目に映る卵と兄は雪男の自業自得の象徴だった。
「お前と初めてエッチした翌朝にお前が産んでくれた卵だよ。」
何個中編があるんだよ。次こそ後編?
「私はこの建物に見覚えがないんだけど。先生は何か知ってる?」
雪男は淡々と答える。
「僕達が育った教会です。」
目の前には古びてこじんまりとした小さな教会が建っていた。朴はあちゃあと声を上げて雪男を見ている。
「燐君一人で残されたもんだから、色々と模様替えしたみたいだね。ちょっと思ったより事態は深刻かも。」
「深刻って、どういうことですか。」
朴は地面の土をいじりながら雪男に説明し始める。
「あのね。先生から話を聞いた時点じゃ、私って燐君はここじゃ冬眠してるみたいにじっとしてるとばかり思ってたんだよ。でもどうやら、この世界に順応してそれなりに先生の精神世界に改造も加えちゃってる。もしかしたらあの時の先生のように、なかなか帰ろうとしてくれないかもしれない。」
「大丈夫ですよ。兄は真っ当な人間ですから説明すればすぐに説得されて僕達についてきてくれます。」
「いや。なんか。でもね、……」
朴は何か口の中で呟いて思案しているようだ。
「先生。一つだけ質問いいですか? 先生にはここに燐君が残りたくなる、積極的な理由に心当たりありませんか? 先生がここにいなくなっても構わないくらいの理由が。」
「兄さんにとって僕が別にいなくてもいい? そんなのはないでしょ。」
「怖い! 先生怖い!」
朴は雪男の病的な独占欲を垣間見た。しかしながら自分の精神に相手を閉じ込めようとする人間だということを朴が一番視認しておきながら、この反応は雪男の兄への執着を甘く見ていたとしか言いようがないのかもしれない。
「先生! 聞いて!」
「なんですか。貴女の推測の根拠を話すとでも?」
「そ、そこまで大それたことは……。ただの勘です。」
「ただの勘ごときで不用意なこと言わないで下さい。まあいいです。聞いてあげます。」
偉そうだと朴が思ったか思わなかったか。しかし一応は耳を傾けてくれるようなので、朴は言葉に普段三割り増しくらい気を遣いながら雪男に語りかける。
「教会って不特定多数の地域住民が入ることを想定しますよね。訪れる人には誰にでも開かれている場所。」
「うん。日曜礼拝のときは少ないけど人は来てたし、バザーも開かれるし、懺悔室は時々使われるし。神父さんに悪魔祓いを頼む人もいたし。」
朴は目の前の教会を指差す。
「なんかこの教会って、感覚的に入りにくい雰囲気だと思わない?」
別に荒れた様子でもない。薄暗いどころか周囲に建造物もないので日向のど真ん中。それなのに朴は入りにくいと雪男にはっきり告げた。
「僕はそれほどじゃないけど。朴さん個人の感じ方でしょう。朴さんは一万人いる自分がなにやら後ろめたいことをしていても可笑しくないですから。つまり罪人が神の家を恐れる心理でしょう。」
「失礼ですね。ちゃんと稼いで日々のご飯は食べてます。急に見覚えのない建物に出くわした私の錯覚だと思いたいですよ。でも、この教会はなんだか燐君がここに閉じこもるためにここに出現させたような、そんな気がするんです。先生から同意を得られなかったわけですけど、先生はこの教会の住人としてカウントされてるからっていう推測もできます。」
雪男は朴を覚めた目で見ていた。あれだけ雪男の犯した罪に関して根拠を並べ立てた女の言葉にしては稚拙過ぎたからだ。見た目にバリケードでも張り巡らされているならそれも説得力もあるが、この教会にそんなあからさまなものはない。だか、雪男が十五年間見てきた義父の教会のトレースそのものの建物の外観からは、どう見ても朴がそこまで警戒するような要素は見つからない。同じように朴はこの教会の異様さにどうして雪男は気づかないのかと首を捻っているが、お互いにその感覚の違いを説明し合うことはこの状況では叶いそうにない。そういうディスカッションは雪男は時間の無駄だと思っていたからだった。
「じゃあ。警戒している貴女は外で待機しといてくださいよ。」
「そういうわけにはいかないよ。前科持ちの先生だけに行かせるなんて迂闊な真似。」
そう言って朴は教会の扉のところまで駆け寄るとその扉に手をかける。
「うぉいしょお!」
雪男からすれば馬鹿馬鹿しくなるほどの掛け声を上げて扉を引っ張っている。
「教会の扉には鍵なんか掛けられたことなんてないですよ。なんですか。開かないんですか?」
「いや。鍵が掛かってる様子はないんだけどね。なんか凄く扉が重い。開けることに抵抗されてる感じ。」
「貸して下さい。」
雪男は不承不承に朴に変わって扉の前に行く。雪男が触れると扉の取っ手は軽くかちゃという音を立てた。
「なんだ。全然重くないじゃないですか。行きますよ。」
雪男が入ってそこにすかさず朴も続こうとしたら、雪男が教会内に入ったと同時に扉はばたんと朴を跳ね除けるように閉じてしまった。
「ぶほっ。」
「何やってるんですか。とろいですね!」
隔てられた扉の内側から雪男の苛立った声が聞こえてくる。朴は再び扉を引っ張るがびくともしない。
「なんですか。開かないんですか?」
「先生。内側から開けてみてよ。」
しかし雪男が扉を開けてくる様子がない。
「朴さん。もしかしたら僕しか入れないようになっている仕様かもしれません。開きません。」
「なにそれ。誰得な設定なの?」
「まあここまで来れたんだから、あとは兄さんに会うだけです。僕一人でも大丈夫でしょう。」
雪男が自分に都合よく事を進める気がうっすら透けているような言い方だった。何を根拠の大丈夫だと朴は再び雪男に呼びかけた。
「先生!」
「もう、心配性だな貴女は。こういうときには身内で水入らずのほうが良いんですよ。」
「いや。それが信用出来たら苦労はしないんだから。そういうのに限って裏切られるんだから。先生、ちょっとそこで待っててよ。先生。ラブホまで戻ってその扉をぶっ壊す最終兵器持ってくるから。」
「その間に僕が兄さんを連れて出てきますから。」
「いや駄目だから。絶対二人きりで会っちゃ駄目だから。」
雪男の返事はなかった。朴は憎憎しげに扉をにらみつけた後、それに背を向けくそっと悪態を漏らす。頭に血が上るのを抑えるために出雲ちゃんと口の中で唱え、よしっと気合を入れた。
朴は教会の裏手に走って物置らしき場所を見つける。
「んとにもお。あの困ったちゃんは私の言うことに聞く耳もちゃあしないし。」
朴は金属製の扉に何度も蹴りを入れて破壊してしまう。
「あったあ。」
物置の中にはママチャリが仕舞われていた。教会そのものは朴を拒絶していたが、物置まではそうとはいかなかったようだ。
「最終兵器取りに行かなくちゃ。」
朴は自転車に跨るともと来た道を引き返すべく全力でペダルを踏んだ。ママチャリの見た目ではあるが、その性能はスポーツ用のオフロード自転車並の速度と走行性を備えていた。それは朴の並々ならぬ危機感を象徴するようだった。
「てええいっ。」
何であの弟は兄のこととなると、分かりやすいバッドエンドに向かおうとするんだろう。 自転車は砂埃を上げて白い砂浜を越えていく。朴の悪い予感には間に合わないだろうが、そこは行くしかないのが今の状況で、朴は自分の出来る精一杯をするしかなかった。
* * *
教会の内部に入ってかつての自分達の部屋や居間を見回っていたがそこに兄の姿はなかった。もしかしてと思いたどり着いた場所が礼拝堂だった。そこで頭から毛布を被った人影を見つける。僅かに見えた横顔からすぐに燐だとわかった。
雪男は兄を目の前にしておきながら声をひとつ掛けるのに長い間戸惑っていた。
自分が精神世界から脱出する間、現実世界では十二時間が経過する間に、この世界では四ヶ月間経っていたことになっていた。兄の精神の半分がこの雪男の精神世界に取り残されてからは十日が経っている。計算すれば八十ヶ月。七年近くもここに置き去りにしたことになる。
「朴さんから兄さんの精神の半分が取り残されていると断定されるまで、深く考えてはなかったけど。十日間も放置していたのは不味かったかもしれない。」
しかし冬休み中に朴は出雲と寮から出て行方が知れなかった。その間にヴァチカンからの視察もあり、全てが後手に回ってしまった。何もかも自分が蒔いた種ではあるが理不尽な怒りがこみ上げるのは止められなかった。
教会の入り口のところで朴を締め出したままにしたのは、燐に遭遇したときの雪男が感極まってしでかしかねない行動を朴に見られたくなかったからだった。それなのに雪男は燐になかなか駆け寄ることも出来ずにいた。
「兄さん。」
無言で兄は顔を上げる。そこはステンドグラス越に入る光が色鮮やかで、雪男から懐かしい教会の中なのに異様な雰囲気を漂わせていた。礼拝堂の祭壇の直ぐ下に兄は蹲っていた。
「兄さん。」
再び呼びかけて兄に近づく。間隔にして六年以上も経っているはずなのに兄はほとんど見た目が変わっていなかった。ただ少し痩せたという印象で日に当たってなかったのか顔も青白かった。
「……雪男。何処行ってたんだよ。六年も。極秘の任務だったのか?」
現実世界の呆けた兄より若干受け答えがはっきりしている。朴の見積もりでは半分と言っていたが、この世界での雪男の不可解な行方不明に何らかの辻褄合わせをしようとしているあたり、もっと多くの割合で精神が取り残されていた可能性が高い。それは燐のこの世界に対する未練が大きいからではないからかと雪男は思った。
何故? 精神の大半を縛るほどの事象がこの世界に有ったとでもいうのだろうか。兄のそんな状態に理由があるのか? 納得する答えを得るにははっきりと訊いて見るしかない。そこで兄の答えがかみ合えば雪男の不安は杞憂に終わるだろう。そう願って雪男は燐に問いかける。
「どうしたの兄さん。僕と一緒にあの時帰ったはずじゃなかったの? なんでこんなところに残ってたの?」
「ああ……。なんか、帰り損ねちゃった。」
燐はすかさず精神世界での辻褄合わせを放棄した。そこは雪男にしてみては幸いだった。
「帰り損ねた、じゃないよ。先に僕を迎えに来たのは兄さんだよ。」
「そうだな。すまん。だけど」
燐は祭壇の上に上がる。燐の手招きに雪男は従った。
「お前の夢の中に一緒に閉じ込められて後から朴が助けに来たんだったよな。」
燐はサルベージされた日のことまではきちんと把握しているようだ。だが続いて燐の告げようとする言葉に雪男はひたすら嫌な予感がした。
「だけど俺にはここから帰れない理由が出来てたんだ。」
雪男の脳裏に朴が言った「積極的に燐が残りたい理由」という言葉が蘇る。この精神世界では自我が普通の現実世界より強調されることは、雪男は身を持って知っている。兄はそれを戸惑いもなく雪男に伝えようとしている。何の矛盾もなくひたすらそれが雪男も喜んでくれるだろうと思っていることが、その軽い足取りから推察できた。
そして祭壇の上の籠の中で綺麗な白くて柔らかい布の上の小さな物体に心臓が高鳴る。
「これ。あの時の?」
燐は愛おしそうに籠の中の物体の表面を撫でる。
「この世界の真実を知っても、これが心残りで。お前も俺も出て行ったら可哀想だろ。」
籠の中には卵が一つ。
それを直視すると雪男は悲鳴を上げたくなる。
「兄さん……。兄さんはそんなに、その卵のこと――。」
目に映る卵と兄は雪男の自業自得の象徴だった。
「お前と初めてエッチした翌朝にお前が産んでくれた卵だよ。」
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忍たまで「幸福雑音」というサークルで、大阪のイベントに出没しています。
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