幸福雑音
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☆ss「白と黒」勝燐前提の雪燐、朴出「廃獄ラブソング」からの微妙な続き
その夜、帰ってきた兄は弟と眼を合わせようとしなかった。いや、単に燐が雪男を注視する理由がなかったための、何の気なしの行動でしかなかったのかもしれない。ただ兄は何度か自分を振り返ってくる弟の視線に気がつくと、顔を逸らすまではいかないが、その都度表情を誤魔化そうとして不自然に笑っていた。
「今日ちょっと遅かったね。兄さん。」
「あー……。すまん。」
あっさり謝るところも怪しいと雪男は思う。兄は笑い話のように今日あったことの前半部分だけ語り始める。
「前に朴に尻触られただろ。俺。」
「知ってるよ。聞いたよ。兄さんから。」
「それを神木にやっかまれてさ――。しえみまで抱き込んで塾が終わったあと、俺に仕返ししてきたんだよ。」
数日前に燐は通り魔的に女子にセクハラされた。元・塾生の朴朔子から。朴は女好きの癖に男子の燐に興味を持ち、男子なら多少のお下劣行為もどうということはないだろうという凄く手間勝手な理屈で、燐に無体な真似をした。幸いにも燐は、女相手に本気で屈辱とか被害者意識を感じないタイプだったので、行き過ぎた冗談程度にしか思っていなかった。あっさり許せたのは、事後に朴に気になっていたと告白されたせいもあったのかもしれない。
しかしそこをなあなあで済ませられないのが、朴のヤキモチ焼きな連れ合いである神木出雲だった。女好きな朴が男に興味を持った上、手まで出したことで神木出雲は燐を報復すべき恋敵と見做したようだ。
その結果が今夜である。
「神木としえみに乳とか尻とか揉まれてよー。後から朴まで来て……。ごめんなさいで済まされたぜ。済むわけねえって。」
「じゃあ兄さんは、今回は流石にごめんなさいで済ませないつもり?」
「そうは言ってねえだろ。」
燐が雪男に一歩詰め寄ったときに、雪男の鼻を掠める嫌な匂いがあった。
「兄さん。汗臭い。」
「あー。俺ちょっと暴れたから……。」
歯切れ悪そうに燐は言うと、自分のスペースに行こうとした。雪男が後ろから手首を掴む。
「違う。兄さんの汗の匂いじゃないよ。これは。」
「か……神木かな? ……それか、しえみかな?」
「女子の汗とは違うだろ。」
燐は目線を泳がせながらも雪男と距離を取ろうとするが、雪男はそれを許さなかった。
「大体状況は読めたよ。女子三人だけじゃなくて、勝呂君もいたんだろ。」
燐は気まずそうに頷いた。
「……俺が騒いだから、駆けつけてはくれたぜ。でもあいつはすぐに、朴に返り討ちにあってさ! 結局……俺を助けるどころか、一緒に被害者になったかな。」
「一緒に被害者になったあとは?」
燐は目を逸らすが雪男は燐の頭を捕まえて無理やり自分のほうに向けさせた。
「なんだよ。言わなきゃいけねえのかよ。」
「兄さんがわざとらしく言わないようにしようとしてるからだろ。僕がこうやって詰問しなかったら、言わずに済めばいいよなって思ってるよね。」
「雪男……。」
燐が五月から勝呂と付き合っているという事実を鑑みれば、雪男は問いかけることさえ無駄な言わずもがななことを言っていると自分でも自覚している。燐がこの詰問に正直に答えたとしても、雪男が問いかける前に燐からの申告があろうとも、雪男が示す反応は一つしかない。燐が頑固に口を閉ざしたとしても、雪男の感情は決まりきっていた。
「キスぐらいじゃ、そんなふうに汗の匂いなんか移らないよね。」
雪男は低い声で諦めたように呟いて、燐の身体を離した。
「雪男。」
今度は燐のほうから雪男に迫る。
「俺と勝呂がその……そういうことするのって、そんなに駄目なことかよ。」
雪男は苦々しく顔を歪めた。一体この兄は何を言っているんだろう。月並みなことを今更思われているのだろうか。
「僕は兄さんのことが好きだって言ったろう。だったら僕の勝呂君に対する嫉妬も察して欲しいもんだね。だいたい兄さんは、僕のことも好きだって言ったよね。以前。手放す気がないとか。その癖、勝呂君と僕は、しっかり恋人と弟として区別して扱ってるよね。まあ、分かってたけど。結局兄さんは僕のことを弟以上に思ってないってことだろ。あの時はそういう風にしか言えなかったから、あんなこと言っただけなんだよね。」
「違う!」
燐は雪男にさらに詰め寄る。
「兄さ……。」
「お前がそういう勘違いして、俺を信じないなら。俺は行動で示すしかないよな?」
行動で示す? いつもそれを兄は信条にしているらしいが、今回ばかりは生半可な行動では雪男の嫉妬を止めることは出来ないだろう。だいたい勝呂に対する、兄の甘くて手放しの態度は、十五年間燐の側にいた雪男を腹立たせる姿だった。自分達が育った教会の外の人間からは悉く疎まれていた燐は、他人に媚びる術を知らないはずだった。そういうものだと雪男は理解していたつもりだった。
雪男の目から見る燐の勝呂への態度は、そんな過去の積み重ねで雪男が理解した兄を全否定するようなものであり、雪男自身がそんな燐に対して何の心の支えにもなっていなかったことを垣間見せる光景だった。
兄は自分にごくたまに弱音くらいは吐いてくれたけれど、甘えてはくれなかった。逆に兄としての姿勢に固執させてしまった。
『こんなはずじゃなかった。兄さんは僕が守るはずだったのに。』
いつかは雪男だけを頼ってくれるはずだった。自分だけが燐を抱きしめるはずだった。そして燐は自分の辛かったことを全部自分に吐き出してくれると思っていた。今までずっとお前に縋りたかったんだよと。そう言ってくれると思っていた。
目の前の兄は妙に顔を赤くしている。
「どうやって証明してくれるんだい?」
多少の小細工では雪男は揺れないと気持ちを固める。燐はその意思を読み取ったように、雪男に呼びかける。
「こっち。もっと俺のほうに寄れよ。」
「こうかい?」
雪男は燐に近寄る。燐は少し背伸びをして言った。
「ほっぺと口、どっちがいい?」
雪男はぽかんと口を開いた。
「なんだい、それ?」
燐はさらに顔に血を上らせながら言う。
「だから、キスするんだったら、どっちにされたいんだ?」
「……呆れた。」
雪男は燐から離れて自分のベッドに腰を下ろした。
「キスしてくれるって言うんだったら、してもらおうかな。もちろん口のほうで。だけど。」
まずは風呂に入ってくれ。
雪男は裏返った声で口早に言った。それが恥ずかしくて雪男まで紅くなる。
「風呂?」
「まずはその汗臭さをどうにかしてくれってことだよ。他の男の匂いをさせたままキスだなんて、やっぱり兄さんはふしだらでアバズレなんだろうね。」
燐は自分のスペースに行って着替えやらタオルやらを引っ張り出し始めた。
「そりゃあ済まねえな。確かにお前に言われるのも当たり前か。俺は頭悪くて、色ボケしてるせいで、お前が俺にむかついているのにも気づいてやれねえ。」
「色ボケっ、じ、自体には別に、別に、む……むかちゅいてないにょっ。」
空回る舌を宥めながら言ったつもりが、とても恥ずかしい噛み方をしてしまった。
「へえへえ。そんじゃ行ってくる。」
燐は雪男の噛み噛みの台詞を聞かなかったように、風呂道具を抱えて部屋を出て行った。雪男はその姿を確認してから胸を押さえる。そしてベッドから崩れ落ちた。手の平にはどくどくという心臓の鼓動を感じる。
「あんの、クソ兄。僕をどうしようって思っているんだ。」
とにかくあの兄は雪男を黙らせてしまった。しかも台詞を噛ませてしまうほどの威力を見せた。雪男はもっと言いたいことがあったはずなのに、それが全て吹き飛んでいた。
「キスぐらいで。この僕を懐柔できると思ってるのか。あのアバズレ!」
布団に八つ当たりするも現実は兄に懐柔されているようなもの。あんな頭が弱くて行き当たりばったりな提案で、それでも自分はここまで動揺している。
「僕と兄さんがキス……。」
夢には見ていた。それが現実になる。しかし何故だ。この憤り。この敗北感。あのクソ兄はキスなんかそれこそ勝呂と日常的にしているんだろうが、雪男にとっては今日が初めてなのだ。
「なんで断らなかったんだ。僕も。悪魔に誘惑されるなんて、祓魔師として愚の骨頂だろ。アレを断れたら、兄さんのペースにならなかったのに。」
兄のふしだらさを糾弾するにしても、自分が同じようなことをしてしまえば、その糾弾に効力がなくなる。それが狙いなのかと雪男は絶望する。
しかしそれを風呂上りの燐を目の前にして断るだけの心の強さは雪男にはなかった。雪男はなんだかんだ言って、その燐の提案は僥倖であったし、跳ね除けてしまう意思の強さもなかった。
「はあ……。ん?」
雪男のポケットのスマフォが振動している。雪男がそれに手を伸ばしてみると電話の着信のようだ。雪男は電話に出る。
「もしもし……奥村ですが。」
『朴です。奥村先生、聞いて聞いて。』
はしゃいだ朴の声を聞いて、何をだと雪男は首を傾げる。朴は元塾生だから雪男への連絡用に番号は知っている。しかし今こうやって掛けてくる理由が分からない。
『あのね。今日は出雲ちゃんがね~。』
「ああ。随分と女子三人で羽目を外されたそうですね。兄から聞きました。」
雪男は普通の声で当たり障りなく返した。朴は電話の向こうでふふふとか笑っている。
『あらら。燐君弟にも言いつけちゃうんだ。ほんと子どもっぽいな。』
その子どもっぽい兄に散々振り回されている自分は何だと雪男は呆然とする。しかし朴の容赦ない批評に多少カチンとくるものがあった。
「兄も僕に言いつけたくて言いつけたわけじゃないと思いますよ。」
『もしかして、先生のほうから聞く形だったの?』
「様子が不審でしたからね。」
雪男はまた平坦に返したが、朴は「そっか」と返す。
「あまり女子が男子に対して度を越した行為はしないほうがいいと思います。感情的になることもなるべく抑えるべきだと思います。貴方のようにそれを煽るなんてことは、論外だと。」
『ふーん……。』
雪男の提言に朴は淡白だった。その引き伸ばされた語尾からは上辺だけの教師面に対する皮肉も窺えた。自分達のような十代そこそこの子どもとも大人ともつかないような時期に、そんな人間同士の感情の機微になにも感じずにいろなんて、なんて不自然な話だろう。それに動揺したり流されたりするのが普通だと、朴は言外に含んでいる。
「すみません。説教じみたことを。兄も特に怒ってるとか引きずっている様子はありませんし。僕が少々過敏になっていたのかもしれません。」
『うん。そんなことだと思ってた。それより聞いて。出雲ちゃんがね、今私の横でね。うふふ、うふふ……。』
なんだか電話の向こうが変な雰囲気だった。いつもうすら笑いの朴だったが、今夜は本気でにやついている。全開にした禍々しいまでの幸福感が伝わってくるようだ。
『出雲ちゃん。かあいい。かあいいよ。』
「神木さん。横にいるんですね。」
『うん。そうだよ。私のベッドで寝てる。』
雪男の耳には出雲の寝息なんぞは聞こえない。
「はあ。」
なんだか早目に電話を切ったほうが良さそうな気がする。
「朴さんもベッドの中にいらっしゃるのなら、これで電話を切ったほうがいいでしょう。では、おやすみなさい。」
『待って! 今出雲ちゃんの声聞かせてあげるから!』
はしゃいだような声に引き止められたあと、電話の向こうでは「出雲ちゃーん」と呼ぶ朴の声が遠くに聞こえた。ややごそごそしたような物音がしたあと、いきなり聞いたことのない出雲の声が雪男の耳に飛び込んできた。
『いやあ!』
続けてくすくす笑う朴の声と一緒に、出雲の甘いような掠れた声が聞こえてくる。寝言や寝息にはどうしても聞こえない。雪男はあまりのことに硬直して何も対処出来なかった。しばらくて、はあはあと息を弾ませた朴が『どうだった?』と問いかけてくる。
「……。」
雪男は無言だった。しかしどうにか立ち直って朴に告げる。
「何のテロですか。」
『出雲ちゃんの寝込みを襲うテロ~。出雲ちゃんは今私の携帯を取り上げようとしているけど、うふふふ……。あんまり力入ってないよ。出雲ちゃん。』
電話の向こうの出雲は、きゃんきゃん吠えながら朴から携帯を取り上げようと暴れているらしく、争うような物音が聞こえてくる。事情を知らなければ警察を呼んでしまいそうだった。事情を知っていたとしても呼んでしまいそうだ。出雲の泣き声ともつかないような声がやけに遠くに聞こえる。雪男の五感が精神より先に現実逃避を始めているようだった。
『朴いいかげんにしなさいよ! きゃあ!』
雪男は居た堪れなくなっている。
『先生ぇ。出雲ちゃんの上に馬乗りになっちゃた。出雲ちゃん。先生に何か一言おねがい。』
『うわあん……。朴のばかあ!』
『だって。せんせ。じゃあ、実況・朴朔子、解説・朴朔子でお送りしました。』
出雲のさらに高くなった声を掻き消すように、朴は雪男にそれだけを告げて電話は切った。雪男はスマフォをベッドの上に叩きつける。故障とかそんなのは気にしてられなかった。
「快楽主義者が!」
勢いよく立ち上がったが頭がくらっとして床に尻餅をつく。
「兄さんから勝呂君の匂いが移るなんてのは、まだマシなほうだったんだな。」
生々しい実況を聞かされるよりは。雪男は勝呂や燐がなんだかんだで常識の範囲でいちゃついて、さりげなく雪男に配慮してくれていたことを不本意ながら思い知る。それにしても朴という女はなんて節度が無いんだ。それに付き合う出雲が気の毒な気もするが、それも違うような気もする。
「神木さんが朴さんのベッドにいたってのは、そういうことだよね。」
そして、それをわざわざ雪男のような人間に言ってくる朴の露悪趣味も、出雲に対する思いの裏返しなのだろう。
「どうした。雪男。そんなとこで座り込んで。」
自室のドアが開いて、兄が湯上りで髪を濡らしたまま入ってくる。
「ああ。ちょっと性質の悪いイタズラ電話が掛かってきて。少し疲れただけ。」
燐は雪男の顔を心配そうに覗きこんで大丈夫かと問いかけてくる。
「大丈夫だと思う。」
そうかと言って燐は顔を寄せてきた。目を閉じて雪男の唇にキスをする。そしてすぐに離された。
「……。なんかあっさりしてるような。」
雪男はそのさりげなさに不満を口にした。心外だとばかりに燐は口を尖らす。
「そうか? こんなもんだけどな。」
何と比べてるんだと雪男は思ったが、多分勝呂とのキスなのだろうと納得した。
「そんなもんで済んでるんだ。ある意味びっくり。」
「まあな。って、そんなもんって言うな。結構恥ずかしいんだからな。」
雪男は手の平で目を覆う。
「あっそう。」
雪男は笑いたくなった。自分がアバズレ呼ばわりした男がやけに初心に見えてしまった。
「兄さん。もう一回して。さっきのイタズラ電話で、かなりショックで消耗してたんだ。……お願い。もう一回で復活出来そうなんだ。」
「えー……。」
そう言いながらも憔悴したような顔の弟を放っておけない兄は、もう一回だけ弟にキスしてやった。
とばっちりの雪男でした。しかし何気にラッキーでもあります。
「今日ちょっと遅かったね。兄さん。」
「あー……。すまん。」
あっさり謝るところも怪しいと雪男は思う。兄は笑い話のように今日あったことの前半部分だけ語り始める。
「前に朴に尻触られただろ。俺。」
「知ってるよ。聞いたよ。兄さんから。」
「それを神木にやっかまれてさ――。しえみまで抱き込んで塾が終わったあと、俺に仕返ししてきたんだよ。」
数日前に燐は通り魔的に女子にセクハラされた。元・塾生の朴朔子から。朴は女好きの癖に男子の燐に興味を持ち、男子なら多少のお下劣行為もどうということはないだろうという凄く手間勝手な理屈で、燐に無体な真似をした。幸いにも燐は、女相手に本気で屈辱とか被害者意識を感じないタイプだったので、行き過ぎた冗談程度にしか思っていなかった。あっさり許せたのは、事後に朴に気になっていたと告白されたせいもあったのかもしれない。
しかしそこをなあなあで済ませられないのが、朴のヤキモチ焼きな連れ合いである神木出雲だった。女好きな朴が男に興味を持った上、手まで出したことで神木出雲は燐を報復すべき恋敵と見做したようだ。
その結果が今夜である。
「神木としえみに乳とか尻とか揉まれてよー。後から朴まで来て……。ごめんなさいで済まされたぜ。済むわけねえって。」
「じゃあ兄さんは、今回は流石にごめんなさいで済ませないつもり?」
「そうは言ってねえだろ。」
燐が雪男に一歩詰め寄ったときに、雪男の鼻を掠める嫌な匂いがあった。
「兄さん。汗臭い。」
「あー。俺ちょっと暴れたから……。」
歯切れ悪そうに燐は言うと、自分のスペースに行こうとした。雪男が後ろから手首を掴む。
「違う。兄さんの汗の匂いじゃないよ。これは。」
「か……神木かな? ……それか、しえみかな?」
「女子の汗とは違うだろ。」
燐は目線を泳がせながらも雪男と距離を取ろうとするが、雪男はそれを許さなかった。
「大体状況は読めたよ。女子三人だけじゃなくて、勝呂君もいたんだろ。」
燐は気まずそうに頷いた。
「……俺が騒いだから、駆けつけてはくれたぜ。でもあいつはすぐに、朴に返り討ちにあってさ! 結局……俺を助けるどころか、一緒に被害者になったかな。」
「一緒に被害者になったあとは?」
燐は目を逸らすが雪男は燐の頭を捕まえて無理やり自分のほうに向けさせた。
「なんだよ。言わなきゃいけねえのかよ。」
「兄さんがわざとらしく言わないようにしようとしてるからだろ。僕がこうやって詰問しなかったら、言わずに済めばいいよなって思ってるよね。」
「雪男……。」
燐が五月から勝呂と付き合っているという事実を鑑みれば、雪男は問いかけることさえ無駄な言わずもがななことを言っていると自分でも自覚している。燐がこの詰問に正直に答えたとしても、雪男が問いかける前に燐からの申告があろうとも、雪男が示す反応は一つしかない。燐が頑固に口を閉ざしたとしても、雪男の感情は決まりきっていた。
「キスぐらいじゃ、そんなふうに汗の匂いなんか移らないよね。」
雪男は低い声で諦めたように呟いて、燐の身体を離した。
「雪男。」
今度は燐のほうから雪男に迫る。
「俺と勝呂がその……そういうことするのって、そんなに駄目なことかよ。」
雪男は苦々しく顔を歪めた。一体この兄は何を言っているんだろう。月並みなことを今更思われているのだろうか。
「僕は兄さんのことが好きだって言ったろう。だったら僕の勝呂君に対する嫉妬も察して欲しいもんだね。だいたい兄さんは、僕のことも好きだって言ったよね。以前。手放す気がないとか。その癖、勝呂君と僕は、しっかり恋人と弟として区別して扱ってるよね。まあ、分かってたけど。結局兄さんは僕のことを弟以上に思ってないってことだろ。あの時はそういう風にしか言えなかったから、あんなこと言っただけなんだよね。」
「違う!」
燐は雪男にさらに詰め寄る。
「兄さ……。」
「お前がそういう勘違いして、俺を信じないなら。俺は行動で示すしかないよな?」
行動で示す? いつもそれを兄は信条にしているらしいが、今回ばかりは生半可な行動では雪男の嫉妬を止めることは出来ないだろう。だいたい勝呂に対する、兄の甘くて手放しの態度は、十五年間燐の側にいた雪男を腹立たせる姿だった。自分達が育った教会の外の人間からは悉く疎まれていた燐は、他人に媚びる術を知らないはずだった。そういうものだと雪男は理解していたつもりだった。
雪男の目から見る燐の勝呂への態度は、そんな過去の積み重ねで雪男が理解した兄を全否定するようなものであり、雪男自身がそんな燐に対して何の心の支えにもなっていなかったことを垣間見せる光景だった。
兄は自分にごくたまに弱音くらいは吐いてくれたけれど、甘えてはくれなかった。逆に兄としての姿勢に固執させてしまった。
『こんなはずじゃなかった。兄さんは僕が守るはずだったのに。』
いつかは雪男だけを頼ってくれるはずだった。自分だけが燐を抱きしめるはずだった。そして燐は自分の辛かったことを全部自分に吐き出してくれると思っていた。今までずっとお前に縋りたかったんだよと。そう言ってくれると思っていた。
目の前の兄は妙に顔を赤くしている。
「どうやって証明してくれるんだい?」
多少の小細工では雪男は揺れないと気持ちを固める。燐はその意思を読み取ったように、雪男に呼びかける。
「こっち。もっと俺のほうに寄れよ。」
「こうかい?」
雪男は燐に近寄る。燐は少し背伸びをして言った。
「ほっぺと口、どっちがいい?」
雪男はぽかんと口を開いた。
「なんだい、それ?」
燐はさらに顔に血を上らせながら言う。
「だから、キスするんだったら、どっちにされたいんだ?」
「……呆れた。」
雪男は燐から離れて自分のベッドに腰を下ろした。
「キスしてくれるって言うんだったら、してもらおうかな。もちろん口のほうで。だけど。」
まずは風呂に入ってくれ。
雪男は裏返った声で口早に言った。それが恥ずかしくて雪男まで紅くなる。
「風呂?」
「まずはその汗臭さをどうにかしてくれってことだよ。他の男の匂いをさせたままキスだなんて、やっぱり兄さんはふしだらでアバズレなんだろうね。」
燐は自分のスペースに行って着替えやらタオルやらを引っ張り出し始めた。
「そりゃあ済まねえな。確かにお前に言われるのも当たり前か。俺は頭悪くて、色ボケしてるせいで、お前が俺にむかついているのにも気づいてやれねえ。」
「色ボケっ、じ、自体には別に、別に、む……むかちゅいてないにょっ。」
空回る舌を宥めながら言ったつもりが、とても恥ずかしい噛み方をしてしまった。
「へえへえ。そんじゃ行ってくる。」
燐は雪男の噛み噛みの台詞を聞かなかったように、風呂道具を抱えて部屋を出て行った。雪男はその姿を確認してから胸を押さえる。そしてベッドから崩れ落ちた。手の平にはどくどくという心臓の鼓動を感じる。
「あんの、クソ兄。僕をどうしようって思っているんだ。」
とにかくあの兄は雪男を黙らせてしまった。しかも台詞を噛ませてしまうほどの威力を見せた。雪男はもっと言いたいことがあったはずなのに、それが全て吹き飛んでいた。
「キスぐらいで。この僕を懐柔できると思ってるのか。あのアバズレ!」
布団に八つ当たりするも現実は兄に懐柔されているようなもの。あんな頭が弱くて行き当たりばったりな提案で、それでも自分はここまで動揺している。
「僕と兄さんがキス……。」
夢には見ていた。それが現実になる。しかし何故だ。この憤り。この敗北感。あのクソ兄はキスなんかそれこそ勝呂と日常的にしているんだろうが、雪男にとっては今日が初めてなのだ。
「なんで断らなかったんだ。僕も。悪魔に誘惑されるなんて、祓魔師として愚の骨頂だろ。アレを断れたら、兄さんのペースにならなかったのに。」
兄のふしだらさを糾弾するにしても、自分が同じようなことをしてしまえば、その糾弾に効力がなくなる。それが狙いなのかと雪男は絶望する。
しかしそれを風呂上りの燐を目の前にして断るだけの心の強さは雪男にはなかった。雪男はなんだかんだ言って、その燐の提案は僥倖であったし、跳ね除けてしまう意思の強さもなかった。
「はあ……。ん?」
雪男のポケットのスマフォが振動している。雪男がそれに手を伸ばしてみると電話の着信のようだ。雪男は電話に出る。
「もしもし……奥村ですが。」
『朴です。奥村先生、聞いて聞いて。』
はしゃいだ朴の声を聞いて、何をだと雪男は首を傾げる。朴は元塾生だから雪男への連絡用に番号は知っている。しかし今こうやって掛けてくる理由が分からない。
『あのね。今日は出雲ちゃんがね~。』
「ああ。随分と女子三人で羽目を外されたそうですね。兄から聞きました。」
雪男は普通の声で当たり障りなく返した。朴は電話の向こうでふふふとか笑っている。
『あらら。燐君弟にも言いつけちゃうんだ。ほんと子どもっぽいな。』
その子どもっぽい兄に散々振り回されている自分は何だと雪男は呆然とする。しかし朴の容赦ない批評に多少カチンとくるものがあった。
「兄も僕に言いつけたくて言いつけたわけじゃないと思いますよ。」
『もしかして、先生のほうから聞く形だったの?』
「様子が不審でしたからね。」
雪男はまた平坦に返したが、朴は「そっか」と返す。
「あまり女子が男子に対して度を越した行為はしないほうがいいと思います。感情的になることもなるべく抑えるべきだと思います。貴方のようにそれを煽るなんてことは、論外だと。」
『ふーん……。』
雪男の提言に朴は淡白だった。その引き伸ばされた語尾からは上辺だけの教師面に対する皮肉も窺えた。自分達のような十代そこそこの子どもとも大人ともつかないような時期に、そんな人間同士の感情の機微になにも感じずにいろなんて、なんて不自然な話だろう。それに動揺したり流されたりするのが普通だと、朴は言外に含んでいる。
「すみません。説教じみたことを。兄も特に怒ってるとか引きずっている様子はありませんし。僕が少々過敏になっていたのかもしれません。」
『うん。そんなことだと思ってた。それより聞いて。出雲ちゃんがね、今私の横でね。うふふ、うふふ……。』
なんだか電話の向こうが変な雰囲気だった。いつもうすら笑いの朴だったが、今夜は本気でにやついている。全開にした禍々しいまでの幸福感が伝わってくるようだ。
『出雲ちゃん。かあいい。かあいいよ。』
「神木さん。横にいるんですね。」
『うん。そうだよ。私のベッドで寝てる。』
雪男の耳には出雲の寝息なんぞは聞こえない。
「はあ。」
なんだか早目に電話を切ったほうが良さそうな気がする。
「朴さんもベッドの中にいらっしゃるのなら、これで電話を切ったほうがいいでしょう。では、おやすみなさい。」
『待って! 今出雲ちゃんの声聞かせてあげるから!』
はしゃいだような声に引き止められたあと、電話の向こうでは「出雲ちゃーん」と呼ぶ朴の声が遠くに聞こえた。ややごそごそしたような物音がしたあと、いきなり聞いたことのない出雲の声が雪男の耳に飛び込んできた。
『いやあ!』
続けてくすくす笑う朴の声と一緒に、出雲の甘いような掠れた声が聞こえてくる。寝言や寝息にはどうしても聞こえない。雪男はあまりのことに硬直して何も対処出来なかった。しばらくて、はあはあと息を弾ませた朴が『どうだった?』と問いかけてくる。
「……。」
雪男は無言だった。しかしどうにか立ち直って朴に告げる。
「何のテロですか。」
『出雲ちゃんの寝込みを襲うテロ~。出雲ちゃんは今私の携帯を取り上げようとしているけど、うふふふ……。あんまり力入ってないよ。出雲ちゃん。』
電話の向こうの出雲は、きゃんきゃん吠えながら朴から携帯を取り上げようと暴れているらしく、争うような物音が聞こえてくる。事情を知らなければ警察を呼んでしまいそうだった。事情を知っていたとしても呼んでしまいそうだ。出雲の泣き声ともつかないような声がやけに遠くに聞こえる。雪男の五感が精神より先に現実逃避を始めているようだった。
『朴いいかげんにしなさいよ! きゃあ!』
雪男は居た堪れなくなっている。
『先生ぇ。出雲ちゃんの上に馬乗りになっちゃた。出雲ちゃん。先生に何か一言おねがい。』
『うわあん……。朴のばかあ!』
『だって。せんせ。じゃあ、実況・朴朔子、解説・朴朔子でお送りしました。』
出雲のさらに高くなった声を掻き消すように、朴は雪男にそれだけを告げて電話は切った。雪男はスマフォをベッドの上に叩きつける。故障とかそんなのは気にしてられなかった。
「快楽主義者が!」
勢いよく立ち上がったが頭がくらっとして床に尻餅をつく。
「兄さんから勝呂君の匂いが移るなんてのは、まだマシなほうだったんだな。」
生々しい実況を聞かされるよりは。雪男は勝呂や燐がなんだかんだで常識の範囲でいちゃついて、さりげなく雪男に配慮してくれていたことを不本意ながら思い知る。それにしても朴という女はなんて節度が無いんだ。それに付き合う出雲が気の毒な気もするが、それも違うような気もする。
「神木さんが朴さんのベッドにいたってのは、そういうことだよね。」
そして、それをわざわざ雪男のような人間に言ってくる朴の露悪趣味も、出雲に対する思いの裏返しなのだろう。
「どうした。雪男。そんなとこで座り込んで。」
自室のドアが開いて、兄が湯上りで髪を濡らしたまま入ってくる。
「ああ。ちょっと性質の悪いイタズラ電話が掛かってきて。少し疲れただけ。」
燐は雪男の顔を心配そうに覗きこんで大丈夫かと問いかけてくる。
「大丈夫だと思う。」
そうかと言って燐は顔を寄せてきた。目を閉じて雪男の唇にキスをする。そしてすぐに離された。
「……。なんかあっさりしてるような。」
雪男はそのさりげなさに不満を口にした。心外だとばかりに燐は口を尖らす。
「そうか? こんなもんだけどな。」
何と比べてるんだと雪男は思ったが、多分勝呂とのキスなのだろうと納得した。
「そんなもんで済んでるんだ。ある意味びっくり。」
「まあな。って、そんなもんって言うな。結構恥ずかしいんだからな。」
雪男は手の平で目を覆う。
「あっそう。」
雪男は笑いたくなった。自分がアバズレ呼ばわりした男がやけに初心に見えてしまった。
「兄さん。もう一回して。さっきのイタズラ電話で、かなりショックで消耗してたんだ。……お願い。もう一回で復活出来そうなんだ。」
「えー……。」
そう言いながらも憔悴したような顔の弟を放っておけない兄は、もう一回だけ弟にキスしてやった。
とばっちりの雪男でした。しかし何気にラッキーでもあります。
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柴仲達
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会社員
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読書、二次創作
自己紹介:
忍たまで「幸福雑音」というサークルで、大阪のイベントに出没しています。
絵描きの竹さんと字書きの柴の二人サークルです。
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