幸福雑音
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☆『続・super scription of date』中編② 燐雪前提の朴雪 R18 微グロ表現あり
朴朔子の抹殺。
それは幾度も雪男の脳裏に浮かんでいた。しかし無数にいる個人など殺しきれるわけがない。それに朴は自分達兄弟を助けてくれた。とは言っても、かなり不本意な道筋に引きずり込まれただけかもしれないが、それでも助けられたことには変わりがない。
ドアを開けた先は崩壊したままの祓魔塾の教室だった。中央には志摩が引きずり込まれた流砂の穴が大きく口を開けている。
「あのときは志摩君には悪いことをしたね。僕は。」
朴は祓魔塾のステージでの雪男と志摩の段を覗き見していた。当然二人の間で演じられた愁嘆場も知っている。
「志摩君は夢の中の具体的なことは忘れているはずだからね。そこまで気にしなくていいんじゃないかな。」
観測者の薄情さで朴はさらっと言ってのけた。志摩にとっては記憶にはないものの、味わった嫌な感じは後遺症のように残っていて、アレ以来少し塞ぎこみがちになっていたらしい。それでも時が解決するレベルだと誰も得には気にしていない。
だが志摩がそんなことになった原因は実は朴だった。
精神世界に入る前の志摩に朴が指示したことがあった。それは、とりあえず色仕掛けでちゅーまで漕ぎ着けろという意味不明なものだった。現実離れした展開と、とどめのちゅーとで、雪男の閉じ込められた精神世界を揺さぶろうということだったらしい。多少戸惑ってはいたが満更ではなさそうな志摩だったのだが、それでも一言朴に言わずにはいられなかった。志摩が朴に言ったのは。
『回りくどいことせんと、ちゃんと状況を説明して説得しといたほうがええんやない?』
それには雪男も同感だった。普通なら事情を説明するべきだ。現に三番目に送り込まれた兄は雪男に対してちゃんと雪男がいる状況を教えた。だからあの時の現状が変わったのだ。
「あー。あれは。」
朴は決まり悪そうに笑って「だってそれじゃ面白くないでしょ。」と言った。それをそのまま志摩に暴露したい衝動に雪男は駆られるが、志摩は精神世界のことは覚えていないらしいので今更蒸し返しても無駄な話だった。というか、三番目の燐の番になってやっと妥協したのかこの女と、雪男は自分達が半分以上は遊ばれていたことに軽く落ち込んでしまう。
「しえみちゃんはね、ちゅー以上に発展しちゃいそうだから、慌てて回収しちゃったんだ。やっぱ天然の子の威力って凄いよね。」
雪男は朴を流砂の穴に突き落としたくなる。しえみへの指示も志摩と大差なかったらしい。雪男にとってしえみは所謂別腹で、兄への思いとは別に愛してやまない存在だ。そんな純粋な気持ちもダシにされたっぽい。
「先生。何か勘違いしてるようだけど、手ブラは私だって想定外だったんだよ。」
「信用できるか。といいたいところですけど、僕がヌーディストビーチだなんて誘導しちゃった所為ですよね。ほんとにしえみさんには申し訳ないことしてしまった。」
そうだ。あの時のしえみの大胆さは、雪男を連れ戻したい一心からのものだったのだ。それに付け込んだ朴という勝手で悪質なプロデューサーに煽られてしたことだったのだ。そうに違いない。しえみには何の罪もない。
「まあ、未遂でよかったよね。現実には何も影響しないけど。」
「ああ、そうでしょうとも。貴女は全て自分得なんでしょうから。」
破壊された壁の向こうの白亜の砂浜を朴と眺める。
あの砂浜でのしえみとの白昼夢を思い出すと、雪男は身体の芯が疼くような感触に身じろぐ。しえみのさらさらとした綺麗な金髪。甘い目元。着物姿からは考えられない露出された肌の艶めかしさ。とろけるような声。悪魔落ちした自分ではもう手が伸ばせないだろう。
回想を振り切るように朴を見る。
「可愛かったよね。あのときのしえみちゃん。ああほんとに、私、あの場面の先生が嫉ましくて嫉ましくて。」
グッドタイミングで思い出をぶち壊してくれた。
雪男は全てがどうでもよくなって砂浜に歩き出す。朴は慌てて後を追ったが、歩幅の差故に追いつくのにしばらく掛かった。
追いついたところで雪男は朴に問いかける。
「ここから六○二号室にどうやって行くつもりですか? 僕の記憶が確かなら、あの部屋へ来たのは夢から覚めたってことになってたと思うんですけど。」
「空間そのものが繋がってないって言いたいのかな?」
「だって学園が存在するような場所じゃないだろうが。」
と言いながら雪男は目線の先にあるものに絶句する。リゾートホテルが並び立つ中で正十字学園が異彩を放っていた。
「現実の理は関係なかったな。そういえば。」
雪男の口から溜息が毀れ出る。夢の中だから、夢の世界だから、何もかもの辻褄合わせは考えなくてもいいのだろう。だとすれば自分の夢なのに雪男はその中でままならないのは、せせこましい辻褄合わせに始終しているせいなのだろう。だから簡単に朴に踏み込まれて現実にサルベージされた。悪魔落ちして来るところまで来たはずなのに、とことん得るものより失うものに目を眩まされている。
「で。正十字学園まで結構距離がありそうなんですけど、まさかその距離まで縮めることは可能なんでしょうか。」
朴は目を逸らしてへへへと笑う。
「じゃあ。仕方がないので地道に歩きましょうか。」
朴と雪男は長い道中を歩き出す。ここに来る前の長いトンネルの道中嫌というほど朴と会話(長さといい内容といい)をしたので特に朴も雪男もおざなりな会話を敢えてしようという精神状態にはならなかった。二人はお互いに声を発さず黙々と歩く。
雪男の仮初の脳内では過ぎ去って失われた兄との甘い日々が再生されていた。
* * *
雪男の目の前には兄の後頭部とその下には広げられたノートが机の上にあった。ノートには兄の個性的な字が並んでいて、字の巧拙はともかく一ヶ月前より内容は見るからに進化していた。一ヶ月間の雪男のスパルタ教育の賜物だった。勉強への集中力も見違えるほどだ。だがそのぶん消耗するのか勉強が一区切りするとこうやって机に突っ伏して半ば仮死状態のようにじっと動かなくなる。それを雪男が頃合を見て起こしてまた勉強に戻るのが常だった。
時計の針が十分だけ進んだ。雪男は兄に近寄ってその頬を人差し指で突いた。
「兄さん。起きてよ。次の章いくからね。」
「……う…うう……。う、うん。」
しかし兄は起き上がろうとしない。雪男としては苦手だったことを一ヶ月間続けた苦痛は分からなくもない。しかし鉄は熱いうちに打てというのがこの場合正しいだろう。
雪男は兄の耳元に口を近づけて再び声を掛ける。
「兄さん。」
しかし兄はのびたままだ。その腕はだらりと下に垂れて机の下で膝の間に隠れてしまっている。
「兄さん。」
「ごめん雪男。今日はちょっと無理だ。」
「なんで?」
雪男は兄の言葉に少し苛立ちを覚えて兄の肩を両手でぎゅっと掴んだ。燐の身体がびくっと反応する。雪男は構わずそのまま兄の背中に身体を密着させ、再び兄を呼ぶ。
「兄さん。どうしたの?」
「あ……。はあ。あー……。」
何かに耐えているらしい兄に雪男は異変を感じた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
燐はうつ伏せていた顔を見上げて雪男のほうを見た。その顔は紅潮して目は潤み、口と鼻は忙しなく呼吸を短く頻繁に続けていた。
「雪男がくっついてくるから、そんで触りまくるから……:」
「なにそれ……」
雪男は恐る恐る兄に問い返す。机の下に隠れていた燐の両手に視線を移すと、それは股間で何かを覆い隠していた。隠されてはいたが同じ同性として瞬時に察してしまう。
「それ。僕のせいなの?」
「いや、その。ちょっとトイレ行ってくる。」
前かがみになって立ち上がる燐を雪男はその長身で阻んだ。
「駄目だよ、兄さん。」
「駄目つったってさあ。行かせてくれよ雪男。」
燐は切羽詰ったように雪男を押し退けようとするが、雪男は退かず、燐と揉み合いにながらも次第に兄を押さえ込んでいった。燐はなんとしてでも部屋から出て自分自身の欲を処理したいと思うのだが、何故か弟がそれを許してくれない。苦し紛れに思いつくことを口走る。
「お前に触られてこうなってるってこと、怒ってんのかよ! だからこんな嫌がらせすんのかよ。」
雪男の腕の中で燐はまるで暴れる猫のように身じろいで目を吊り上げている。盛りのついた動物を下手に刺激してはいけないというのは常識以前の問題なのだが、雪男は敢えて燐を余計に怒らせる言葉を選ぶ。
「なんだよ。そんなことでなんで僕が怒るの? 今まで散々すれ違ってきた僕達の関係を兄さんはまた繰り返そうっていうの? たかだか僕に触られて勃起したことが、そんなに兄さんにとって罪悪感を呼ぶものなの? 僕達は互いの思いは確かめ合ったはずだろ。また一方の思い込みでそれを台無しにするの?」
「限度があるだろ! お前は男で俺の弟で、すごく大切なんだから。俺が汚していいわけねえだろ。」
雪男は馬鹿と叫んで燐の胸に飛び込む。燐はあうっと叫んで後ろに尻餅をついた。雪男は正面から燐を見下ろす。
「僕がそんなに兄さんが思うように綺麗かどうか、わからせてあげようか?」
顔を近づけてくる雪男の目は挑発的で、燐の経験の中で積み上げてきたあらゆる弟を裏切る姿だった。掠れた声で雪男は燐に呼びかける。
「この一ヶ月間、ずっときっかけが欲しかったんだよ。でも僕から切り出しても兄さんはそんな思い込みで僕を拒絶するだろうから、兄さんの我慢が途切れるこの瞬間を待ってたんだ。」
燐は雪男の言葉を聞いて目を見開いて愕然としていた。しかし思い出したようにうっと言葉を詰まらせて股間に手を置こうとする。その燐の手を払いのけて雪男からその欲望の具現に触れる。
「硬い……。それにどくどくと心臓みたいに脈うってる。」
燐は涙目になっていた。惨めでかっこ悪くて、だからこそ弟の口から出てくるはしたない言葉に少し胸の中の重苦しいものが軽くなった。こんな生々しくて傍から見たら汚らしくも聞こえる会話の中で、燐は迂闊にも救いを見出してしまった。
「お前は、男同士のってどういうのか知ってるのかよ?」
少し平静さを取り戻した燐は雪男に問いかける。雪男は兄が会話の途中で萎えたり果てたりしないように、微妙に調節しながら兄の股間を撫でて頷いた。
「知ってる。だから…兄さんいいよ…」
結局、雪男の誘いを燐は拒否出来るはずがなかった。
切羽詰った性欲に抗えなかったのもあるが、巧妙な雪男の泣き脅しと甘言が燐のなけなしの理性を揺さぶり崩壊させた。まだ戸惑いが勝っている兄の手を引き、強引にベッドに引きずり込んだ。雪男は自分から服を脱ぎ、露になった長い手足を兄にからみつかせてかきくどいた。
「兄さん、禁忌を犯すこと…恐れないで。僕を思う気持ちに正直になればそんなことどうでも良くなるんじゃない? もう僕は小さくて弱くて、兄さんが守ってやりたくなるような可愛い弟じゃないだろ。この完全に男の身体になった僕に欲情したんだよね。兄さんは。だったらそれが兄さんの本性なんだよ、僕達の間で取り繕う必要なんかない。」
雪男は燐に圧し掛かって息を荒げた。挑発的で扇情的な言葉も挙動も、半ば演技だったが、兄を興奮させ箍をぶちきるためなら何の羞恥も雪男の心には湧かない。
「だから来て…。僕、どうなってもいいから。」
「雪男。」
自分がやけに性急になっているのはうっすらとは感じていた。きっかけが兄の発情だとしても、「飛ばしすぎだ」とか「抑制しなければ」とか頭の端っこくらいでは何やら計算していた。なのに自分のはしたない口は忙しなく、乱れた息の合間に兄を煽る言葉を吐いている。
雪男は兄に抱きつき肩口に唇を寄せる。シャツの生地に噛み付いて呼気と唾液でぐちゃぐちゃにしてやった。犬が飼い主に構ってもらおうとして見せる媚態とあまり違いがないようなことをしているんだろうけど、今の雪男には人間としての矜持なんてどうでもよかった。
シャツを口に咥えて耳元で切なげに鼻を鳴らしていると、やっと燐の手が伸びてきた。
「雪男。ほんとにいいんだな?」
うんうんと雪男は何度も頷く。兄の肩から顔を離して見返すと、兄の表情はひどく固く、今まで見たことがないくらい真剣な顔をしていた。そんな表情に欲情した頬の赤みがアンバランスである種の滑稽さを生み出していた。自分は兄にとんでもなく重たい決心をさせてしまったのだと自覚する。
「兄さん。ごめん。わがまま言って。」
「わがまま?」
「兄さんが特に何も感じてないならいいよ。」
雪男は広げた脚で燐の腰を挟み込む。腕を燐の首に巻きつけそのまま後ろに倒れこんだ。自分の上の兄の重さが嬉しいのに切なくなって、無意識に巻きつけた腕に力が篭った。
* * *
兄をその気にさせるまでは演技で出していた声が、いつのまにか演技ではなくなっていた。
「あ……兄さん……いた、い。い……いいっ。」
どっちだよとわずかに兄がおろおろしている。兄を受け入れているところは痛いが、兄の腹で擦られている雪男のそこは気持ちいい。そんな具体的でがっかりなことは口に出せないという計算は働いてしまう。やはり初めてなので行為そのものにはのめりこめない。ただはあはあと声を上げたり息を吐いていると、頭の中が空っぽになっていくようで、そこが気持ちよかった。自他共に、特に兄が認める優等生の奥村雪男が、こんなふうに兄とふしだらに繋がって番っている。眉を顰めるどころか石礫を投げられて糾弾されても可笑しくないことをして、それを快楽にしている事実は雪男の頭の中で凝り固まった不安を忘却に導いてくれる。ある意味、堕落してそれ故に怖いものがなくなったという偽物な安心感が包んでくれていた。
兄もそんな偽物の安息に自分と同じように堕ちてくれればいいのにと、自分の視界の中で身体を揺らしている兄のぼやけた顔を見上げながら、微笑んでみせた。
『ほんとに悪魔になったみたい。』
もうそろそろ時も兄の感情も満ちる。
兄は固く目を瞑って、雪男の腰を掴む手に力を込めた。食いしばった歯の間から獣じみた嗚咽が漏れ、雪男の中に埋まっていたモノが雪男の中で痙攣したあと熱い液体を吐き出した……ようだった。
「お、終わったんだよね? 兄さん…」
「ぜえ……ぜえ……。」
燐は初めて故の全力投球故に雪男の胸に突っ伏する。
「兄さん、大丈夫?」
下になっている雪男のほうが、そんな兄の様子を見て不安そうに尋ねてしまう始末だった。
「ま、まあな。」
ふうっと息をついた兄がまた雪男を抱く前の固い表情を見せてごめんと呟いた。それがなんとなく悲しくて、雪男は自分の中から出て行こうとする兄を引きとめようと、兄の唇にキスをした。
「まだ。抜かないで。」
「まだ、大丈夫なのかよ。」
それは二回目のことかと不安げながらに期待してしまう。どうやら今見せているしょぼくれた顔の割には後悔は薄いらしい。
燐は思い出したように雪男の項に指を這わせたり鎖骨に唇を当てたりしていた。前戯をうっかりすっ飛ばしたという事実に今更ながらに気がついたらしい。雪男は兄に触れられる度に小さく声を漏らす。
「あ……あんっ……。」
そんな雪男の声に釣られたように、燐がまたうっと声を漏らす。どうやらまた下半身の具体的な反応と脳の欲情の回線が繋がってしまったようだ。
雪男にとってはそんな単純構造な兄の思考と肉体が愛おしい。そんな思いを込めて、兄を銜え込んでいる部分を自分の意思で締め付けてみる。上手くいくかは自分でもよく分からないが、ただ兄を受け入れているだけというより雪男自身も兄に奉仕してみたいという気持ちの表れだった。
「ゆ、雪男っ。お前は締めなくてもいいから。」
なのに兄から焦ったような制止の声を図れた。
「え? 駄目なの?」
「呼吸あってないから! 兄ちゃんが進もうとするとき止められちゃうから!」
雪男はぷっと吹き出した。
雪男の都合のいいように出来ている精神世界。半ばその中に取り込んでいる兄。なのにどこか兄らしさは失われないし、こんなときなのに笑えてしまうこともある。
雪男が兄に肉体関係を迫ったのは、精神世界での兄を雪男の意思に閉じ込めて定着させる目的があった。兄と兄弟以上の関係を結べば、兄はもう自分と離れられなくなる。
かつて自分は、兄を檻に閉じ込めても無駄だという結論を出した。それは物理的に兄の肉体と精神を閉じ込める檻。それが不可能だということだ。
今回兄に施したのは精神的な檻。肉体と精神を切り離した状態で、精神を閉じ込め物理的に動ける肉体の行動さえも封ずるという手段だった。しかも兄を騙すという形で。
急ごしらえな計算だったが、兄の人の良さが雪男の計画にいいように働いてくれた。
雪男は兄に気づかれないように、恥ずかしさを装って顔を隠した手の平の下でほくそ笑んだ。弟の心という檻の中で何の疑いも持つことなく、弟と平穏な日々を過ごすことになる。まるで終わってから後が全く語られない、続くことの想定されていない御伽噺の「めでたしめでたし」の世界観。物語の終わったあとにもう何も起こらないことだけが確定している。だけど現実にそれはあり得ない。あったとしたら多分破滅した世界だろう。
雪男はベッドの傍に立って、死んだように安らかに眠る兄の髪を掬いながら、うっとりとその寝顔を眺めていた。かつてはその寝顔に憎しみを感じていた時期もあったが、もうこうなってはただただ愛おしいだけだ。雪男の中にはまだ兄の放ったものが留まっている。それは精液という形を取っているが、実態は兄から吸い取った精神エネルギーだ。それが自分の仮初の肉体に浸透していくのがわかった。
「悪魔と悪魔の結合か。なんだかなるべくして成ったという感じだな。」
腹の中で何かが蠢く。雪男は身体を二つに折り曲げ、こみ上げてくるものを抑えるように口を押さえる。身体の中で兄の放ったものと何かが化学反応を起こしたように暴れている。そしてそれは少しずつ形を成してきているのが実感できた。
『ふ…僕の能力は一つだけじゃなかったみたいだな。』
冷静に分析しながら予想外の出来事に対応は出来なかった。雪男は二本の足で立っていることが困難になり、床にへたりこんでしまった。
ほんの少し恐怖めいたものも感じる。雪男の体内で今まで分散していた「ソレ」は出来る限り小さく集合し硬質な外殻を纏って固まった。次第にそれは雪男の体外に出ようともがいていた。
嗚咽を漏らし嘔吐直前で止まる感覚にのた打ち回りながら、雪男は自分の体内で覚醒したものに歯を見せて悪魔らしい笑みを浮かべる。
「はあ……はあ……」
脚を投げ出し首を仰け反らせ、寝ている兄を視界の真ん中に入れ、兄に何の助けを求めることなく、雪男は独り、息を殺してその瞬間を待っていた。
「次からは……絶対にゴムが必要だな。」
会陰部分が熱く充血している。今まで雪男の身体にはなかった器官が形成された。それは出来たばかりだが、それが最終的に成すべきことをこの瞬間に成し遂げようとしていた。
「がはっ……。ぐ……あうっ。」
ようやく痛みと異物感が治まると雪男はそのまま兄の横にくず折れた。
それはそのときだけ覗き見を遠慮して朴が知らなかった場面だった。兄弟のファースト・アフェアをデバガメするのはさすがに気が引けたからなのだが、朴は事後に起きた雪男の異常を見逃してしまっていた。朴は数時間後それを後悔することになる。
雪男の回想は隣を歩く朴には気づかれることなく雪男の脳内に流れ、あの日の雪男が意識を失ったところで終わった。災厄の萌芽はそれに現れていたのに見逃されたままだった。
ごめんなさい。まだ続きます。
それは幾度も雪男の脳裏に浮かんでいた。しかし無数にいる個人など殺しきれるわけがない。それに朴は自分達兄弟を助けてくれた。とは言っても、かなり不本意な道筋に引きずり込まれただけかもしれないが、それでも助けられたことには変わりがない。
ドアを開けた先は崩壊したままの祓魔塾の教室だった。中央には志摩が引きずり込まれた流砂の穴が大きく口を開けている。
「あのときは志摩君には悪いことをしたね。僕は。」
朴は祓魔塾のステージでの雪男と志摩の段を覗き見していた。当然二人の間で演じられた愁嘆場も知っている。
「志摩君は夢の中の具体的なことは忘れているはずだからね。そこまで気にしなくていいんじゃないかな。」
観測者の薄情さで朴はさらっと言ってのけた。志摩にとっては記憶にはないものの、味わった嫌な感じは後遺症のように残っていて、アレ以来少し塞ぎこみがちになっていたらしい。それでも時が解決するレベルだと誰も得には気にしていない。
だが志摩がそんなことになった原因は実は朴だった。
精神世界に入る前の志摩に朴が指示したことがあった。それは、とりあえず色仕掛けでちゅーまで漕ぎ着けろという意味不明なものだった。現実離れした展開と、とどめのちゅーとで、雪男の閉じ込められた精神世界を揺さぶろうということだったらしい。多少戸惑ってはいたが満更ではなさそうな志摩だったのだが、それでも一言朴に言わずにはいられなかった。志摩が朴に言ったのは。
『回りくどいことせんと、ちゃんと状況を説明して説得しといたほうがええんやない?』
それには雪男も同感だった。普通なら事情を説明するべきだ。現に三番目に送り込まれた兄は雪男に対してちゃんと雪男がいる状況を教えた。だからあの時の現状が変わったのだ。
「あー。あれは。」
朴は決まり悪そうに笑って「だってそれじゃ面白くないでしょ。」と言った。それをそのまま志摩に暴露したい衝動に雪男は駆られるが、志摩は精神世界のことは覚えていないらしいので今更蒸し返しても無駄な話だった。というか、三番目の燐の番になってやっと妥協したのかこの女と、雪男は自分達が半分以上は遊ばれていたことに軽く落ち込んでしまう。
「しえみちゃんはね、ちゅー以上に発展しちゃいそうだから、慌てて回収しちゃったんだ。やっぱ天然の子の威力って凄いよね。」
雪男は朴を流砂の穴に突き落としたくなる。しえみへの指示も志摩と大差なかったらしい。雪男にとってしえみは所謂別腹で、兄への思いとは別に愛してやまない存在だ。そんな純粋な気持ちもダシにされたっぽい。
「先生。何か勘違いしてるようだけど、手ブラは私だって想定外だったんだよ。」
「信用できるか。といいたいところですけど、僕がヌーディストビーチだなんて誘導しちゃった所為ですよね。ほんとにしえみさんには申し訳ないことしてしまった。」
そうだ。あの時のしえみの大胆さは、雪男を連れ戻したい一心からのものだったのだ。それに付け込んだ朴という勝手で悪質なプロデューサーに煽られてしたことだったのだ。そうに違いない。しえみには何の罪もない。
「まあ、未遂でよかったよね。現実には何も影響しないけど。」
「ああ、そうでしょうとも。貴女は全て自分得なんでしょうから。」
破壊された壁の向こうの白亜の砂浜を朴と眺める。
あの砂浜でのしえみとの白昼夢を思い出すと、雪男は身体の芯が疼くような感触に身じろぐ。しえみのさらさらとした綺麗な金髪。甘い目元。着物姿からは考えられない露出された肌の艶めかしさ。とろけるような声。悪魔落ちした自分ではもう手が伸ばせないだろう。
回想を振り切るように朴を見る。
「可愛かったよね。あのときのしえみちゃん。ああほんとに、私、あの場面の先生が嫉ましくて嫉ましくて。」
グッドタイミングで思い出をぶち壊してくれた。
雪男は全てがどうでもよくなって砂浜に歩き出す。朴は慌てて後を追ったが、歩幅の差故に追いつくのにしばらく掛かった。
追いついたところで雪男は朴に問いかける。
「ここから六○二号室にどうやって行くつもりですか? 僕の記憶が確かなら、あの部屋へ来たのは夢から覚めたってことになってたと思うんですけど。」
「空間そのものが繋がってないって言いたいのかな?」
「だって学園が存在するような場所じゃないだろうが。」
と言いながら雪男は目線の先にあるものに絶句する。リゾートホテルが並び立つ中で正十字学園が異彩を放っていた。
「現実の理は関係なかったな。そういえば。」
雪男の口から溜息が毀れ出る。夢の中だから、夢の世界だから、何もかもの辻褄合わせは考えなくてもいいのだろう。だとすれば自分の夢なのに雪男はその中でままならないのは、せせこましい辻褄合わせに始終しているせいなのだろう。だから簡単に朴に踏み込まれて現実にサルベージされた。悪魔落ちして来るところまで来たはずなのに、とことん得るものより失うものに目を眩まされている。
「で。正十字学園まで結構距離がありそうなんですけど、まさかその距離まで縮めることは可能なんでしょうか。」
朴は目を逸らしてへへへと笑う。
「じゃあ。仕方がないので地道に歩きましょうか。」
朴と雪男は長い道中を歩き出す。ここに来る前の長いトンネルの道中嫌というほど朴と会話(長さといい内容といい)をしたので特に朴も雪男もおざなりな会話を敢えてしようという精神状態にはならなかった。二人はお互いに声を発さず黙々と歩く。
雪男の仮初の脳内では過ぎ去って失われた兄との甘い日々が再生されていた。
* * *
雪男の目の前には兄の後頭部とその下には広げられたノートが机の上にあった。ノートには兄の個性的な字が並んでいて、字の巧拙はともかく一ヶ月前より内容は見るからに進化していた。一ヶ月間の雪男のスパルタ教育の賜物だった。勉強への集中力も見違えるほどだ。だがそのぶん消耗するのか勉強が一区切りするとこうやって机に突っ伏して半ば仮死状態のようにじっと動かなくなる。それを雪男が頃合を見て起こしてまた勉強に戻るのが常だった。
時計の針が十分だけ進んだ。雪男は兄に近寄ってその頬を人差し指で突いた。
「兄さん。起きてよ。次の章いくからね。」
「……う…うう……。う、うん。」
しかし兄は起き上がろうとしない。雪男としては苦手だったことを一ヶ月間続けた苦痛は分からなくもない。しかし鉄は熱いうちに打てというのがこの場合正しいだろう。
雪男は兄の耳元に口を近づけて再び声を掛ける。
「兄さん。」
しかし兄はのびたままだ。その腕はだらりと下に垂れて机の下で膝の間に隠れてしまっている。
「兄さん。」
「ごめん雪男。今日はちょっと無理だ。」
「なんで?」
雪男は兄の言葉に少し苛立ちを覚えて兄の肩を両手でぎゅっと掴んだ。燐の身体がびくっと反応する。雪男は構わずそのまま兄の背中に身体を密着させ、再び兄を呼ぶ。
「兄さん。どうしたの?」
「あ……。はあ。あー……。」
何かに耐えているらしい兄に雪男は異変を感じた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
燐はうつ伏せていた顔を見上げて雪男のほうを見た。その顔は紅潮して目は潤み、口と鼻は忙しなく呼吸を短く頻繁に続けていた。
「雪男がくっついてくるから、そんで触りまくるから……:」
「なにそれ……」
雪男は恐る恐る兄に問い返す。机の下に隠れていた燐の両手に視線を移すと、それは股間で何かを覆い隠していた。隠されてはいたが同じ同性として瞬時に察してしまう。
「それ。僕のせいなの?」
「いや、その。ちょっとトイレ行ってくる。」
前かがみになって立ち上がる燐を雪男はその長身で阻んだ。
「駄目だよ、兄さん。」
「駄目つったってさあ。行かせてくれよ雪男。」
燐は切羽詰ったように雪男を押し退けようとするが、雪男は退かず、燐と揉み合いにながらも次第に兄を押さえ込んでいった。燐はなんとしてでも部屋から出て自分自身の欲を処理したいと思うのだが、何故か弟がそれを許してくれない。苦し紛れに思いつくことを口走る。
「お前に触られてこうなってるってこと、怒ってんのかよ! だからこんな嫌がらせすんのかよ。」
雪男の腕の中で燐はまるで暴れる猫のように身じろいで目を吊り上げている。盛りのついた動物を下手に刺激してはいけないというのは常識以前の問題なのだが、雪男は敢えて燐を余計に怒らせる言葉を選ぶ。
「なんだよ。そんなことでなんで僕が怒るの? 今まで散々すれ違ってきた僕達の関係を兄さんはまた繰り返そうっていうの? たかだか僕に触られて勃起したことが、そんなに兄さんにとって罪悪感を呼ぶものなの? 僕達は互いの思いは確かめ合ったはずだろ。また一方の思い込みでそれを台無しにするの?」
「限度があるだろ! お前は男で俺の弟で、すごく大切なんだから。俺が汚していいわけねえだろ。」
雪男は馬鹿と叫んで燐の胸に飛び込む。燐はあうっと叫んで後ろに尻餅をついた。雪男は正面から燐を見下ろす。
「僕がそんなに兄さんが思うように綺麗かどうか、わからせてあげようか?」
顔を近づけてくる雪男の目は挑発的で、燐の経験の中で積み上げてきたあらゆる弟を裏切る姿だった。掠れた声で雪男は燐に呼びかける。
「この一ヶ月間、ずっときっかけが欲しかったんだよ。でも僕から切り出しても兄さんはそんな思い込みで僕を拒絶するだろうから、兄さんの我慢が途切れるこの瞬間を待ってたんだ。」
燐は雪男の言葉を聞いて目を見開いて愕然としていた。しかし思い出したようにうっと言葉を詰まらせて股間に手を置こうとする。その燐の手を払いのけて雪男からその欲望の具現に触れる。
「硬い……。それにどくどくと心臓みたいに脈うってる。」
燐は涙目になっていた。惨めでかっこ悪くて、だからこそ弟の口から出てくるはしたない言葉に少し胸の中の重苦しいものが軽くなった。こんな生々しくて傍から見たら汚らしくも聞こえる会話の中で、燐は迂闊にも救いを見出してしまった。
「お前は、男同士のってどういうのか知ってるのかよ?」
少し平静さを取り戻した燐は雪男に問いかける。雪男は兄が会話の途中で萎えたり果てたりしないように、微妙に調節しながら兄の股間を撫でて頷いた。
「知ってる。だから…兄さんいいよ…」
結局、雪男の誘いを燐は拒否出来るはずがなかった。
切羽詰った性欲に抗えなかったのもあるが、巧妙な雪男の泣き脅しと甘言が燐のなけなしの理性を揺さぶり崩壊させた。まだ戸惑いが勝っている兄の手を引き、強引にベッドに引きずり込んだ。雪男は自分から服を脱ぎ、露になった長い手足を兄にからみつかせてかきくどいた。
「兄さん、禁忌を犯すこと…恐れないで。僕を思う気持ちに正直になればそんなことどうでも良くなるんじゃない? もう僕は小さくて弱くて、兄さんが守ってやりたくなるような可愛い弟じゃないだろ。この完全に男の身体になった僕に欲情したんだよね。兄さんは。だったらそれが兄さんの本性なんだよ、僕達の間で取り繕う必要なんかない。」
雪男は燐に圧し掛かって息を荒げた。挑発的で扇情的な言葉も挙動も、半ば演技だったが、兄を興奮させ箍をぶちきるためなら何の羞恥も雪男の心には湧かない。
「だから来て…。僕、どうなってもいいから。」
「雪男。」
自分がやけに性急になっているのはうっすらとは感じていた。きっかけが兄の発情だとしても、「飛ばしすぎだ」とか「抑制しなければ」とか頭の端っこくらいでは何やら計算していた。なのに自分のはしたない口は忙しなく、乱れた息の合間に兄を煽る言葉を吐いている。
雪男は兄に抱きつき肩口に唇を寄せる。シャツの生地に噛み付いて呼気と唾液でぐちゃぐちゃにしてやった。犬が飼い主に構ってもらおうとして見せる媚態とあまり違いがないようなことをしているんだろうけど、今の雪男には人間としての矜持なんてどうでもよかった。
シャツを口に咥えて耳元で切なげに鼻を鳴らしていると、やっと燐の手が伸びてきた。
「雪男。ほんとにいいんだな?」
うんうんと雪男は何度も頷く。兄の肩から顔を離して見返すと、兄の表情はひどく固く、今まで見たことがないくらい真剣な顔をしていた。そんな表情に欲情した頬の赤みがアンバランスである種の滑稽さを生み出していた。自分は兄にとんでもなく重たい決心をさせてしまったのだと自覚する。
「兄さん。ごめん。わがまま言って。」
「わがまま?」
「兄さんが特に何も感じてないならいいよ。」
雪男は広げた脚で燐の腰を挟み込む。腕を燐の首に巻きつけそのまま後ろに倒れこんだ。自分の上の兄の重さが嬉しいのに切なくなって、無意識に巻きつけた腕に力が篭った。
* * *
兄をその気にさせるまでは演技で出していた声が、いつのまにか演技ではなくなっていた。
「あ……兄さん……いた、い。い……いいっ。」
どっちだよとわずかに兄がおろおろしている。兄を受け入れているところは痛いが、兄の腹で擦られている雪男のそこは気持ちいい。そんな具体的でがっかりなことは口に出せないという計算は働いてしまう。やはり初めてなので行為そのものにはのめりこめない。ただはあはあと声を上げたり息を吐いていると、頭の中が空っぽになっていくようで、そこが気持ちよかった。自他共に、特に兄が認める優等生の奥村雪男が、こんなふうに兄とふしだらに繋がって番っている。眉を顰めるどころか石礫を投げられて糾弾されても可笑しくないことをして、それを快楽にしている事実は雪男の頭の中で凝り固まった不安を忘却に導いてくれる。ある意味、堕落してそれ故に怖いものがなくなったという偽物な安心感が包んでくれていた。
兄もそんな偽物の安息に自分と同じように堕ちてくれればいいのにと、自分の視界の中で身体を揺らしている兄のぼやけた顔を見上げながら、微笑んでみせた。
『ほんとに悪魔になったみたい。』
もうそろそろ時も兄の感情も満ちる。
兄は固く目を瞑って、雪男の腰を掴む手に力を込めた。食いしばった歯の間から獣じみた嗚咽が漏れ、雪男の中に埋まっていたモノが雪男の中で痙攣したあと熱い液体を吐き出した……ようだった。
「お、終わったんだよね? 兄さん…」
「ぜえ……ぜえ……。」
燐は初めて故の全力投球故に雪男の胸に突っ伏する。
「兄さん、大丈夫?」
下になっている雪男のほうが、そんな兄の様子を見て不安そうに尋ねてしまう始末だった。
「ま、まあな。」
ふうっと息をついた兄がまた雪男を抱く前の固い表情を見せてごめんと呟いた。それがなんとなく悲しくて、雪男は自分の中から出て行こうとする兄を引きとめようと、兄の唇にキスをした。
「まだ。抜かないで。」
「まだ、大丈夫なのかよ。」
それは二回目のことかと不安げながらに期待してしまう。どうやら今見せているしょぼくれた顔の割には後悔は薄いらしい。
燐は思い出したように雪男の項に指を這わせたり鎖骨に唇を当てたりしていた。前戯をうっかりすっ飛ばしたという事実に今更ながらに気がついたらしい。雪男は兄に触れられる度に小さく声を漏らす。
「あ……あんっ……。」
そんな雪男の声に釣られたように、燐がまたうっと声を漏らす。どうやらまた下半身の具体的な反応と脳の欲情の回線が繋がってしまったようだ。
雪男にとってはそんな単純構造な兄の思考と肉体が愛おしい。そんな思いを込めて、兄を銜え込んでいる部分を自分の意思で締め付けてみる。上手くいくかは自分でもよく分からないが、ただ兄を受け入れているだけというより雪男自身も兄に奉仕してみたいという気持ちの表れだった。
「ゆ、雪男っ。お前は締めなくてもいいから。」
なのに兄から焦ったような制止の声を図れた。
「え? 駄目なの?」
「呼吸あってないから! 兄ちゃんが進もうとするとき止められちゃうから!」
雪男はぷっと吹き出した。
雪男の都合のいいように出来ている精神世界。半ばその中に取り込んでいる兄。なのにどこか兄らしさは失われないし、こんなときなのに笑えてしまうこともある。
雪男が兄に肉体関係を迫ったのは、精神世界での兄を雪男の意思に閉じ込めて定着させる目的があった。兄と兄弟以上の関係を結べば、兄はもう自分と離れられなくなる。
かつて自分は、兄を檻に閉じ込めても無駄だという結論を出した。それは物理的に兄の肉体と精神を閉じ込める檻。それが不可能だということだ。
今回兄に施したのは精神的な檻。肉体と精神を切り離した状態で、精神を閉じ込め物理的に動ける肉体の行動さえも封ずるという手段だった。しかも兄を騙すという形で。
急ごしらえな計算だったが、兄の人の良さが雪男の計画にいいように働いてくれた。
雪男は兄に気づかれないように、恥ずかしさを装って顔を隠した手の平の下でほくそ笑んだ。弟の心という檻の中で何の疑いも持つことなく、弟と平穏な日々を過ごすことになる。まるで終わってから後が全く語られない、続くことの想定されていない御伽噺の「めでたしめでたし」の世界観。物語の終わったあとにもう何も起こらないことだけが確定している。だけど現実にそれはあり得ない。あったとしたら多分破滅した世界だろう。
雪男はベッドの傍に立って、死んだように安らかに眠る兄の髪を掬いながら、うっとりとその寝顔を眺めていた。かつてはその寝顔に憎しみを感じていた時期もあったが、もうこうなってはただただ愛おしいだけだ。雪男の中にはまだ兄の放ったものが留まっている。それは精液という形を取っているが、実態は兄から吸い取った精神エネルギーだ。それが自分の仮初の肉体に浸透していくのがわかった。
「悪魔と悪魔の結合か。なんだかなるべくして成ったという感じだな。」
腹の中で何かが蠢く。雪男は身体を二つに折り曲げ、こみ上げてくるものを抑えるように口を押さえる。身体の中で兄の放ったものと何かが化学反応を起こしたように暴れている。そしてそれは少しずつ形を成してきているのが実感できた。
『ふ…僕の能力は一つだけじゃなかったみたいだな。』
冷静に分析しながら予想外の出来事に対応は出来なかった。雪男は二本の足で立っていることが困難になり、床にへたりこんでしまった。
ほんの少し恐怖めいたものも感じる。雪男の体内で今まで分散していた「ソレ」は出来る限り小さく集合し硬質な外殻を纏って固まった。次第にそれは雪男の体外に出ようともがいていた。
嗚咽を漏らし嘔吐直前で止まる感覚にのた打ち回りながら、雪男は自分の体内で覚醒したものに歯を見せて悪魔らしい笑みを浮かべる。
「はあ……はあ……」
脚を投げ出し首を仰け反らせ、寝ている兄を視界の真ん中に入れ、兄に何の助けを求めることなく、雪男は独り、息を殺してその瞬間を待っていた。
「次からは……絶対にゴムが必要だな。」
会陰部分が熱く充血している。今まで雪男の身体にはなかった器官が形成された。それは出来たばかりだが、それが最終的に成すべきことをこの瞬間に成し遂げようとしていた。
「がはっ……。ぐ……あうっ。」
ようやく痛みと異物感が治まると雪男はそのまま兄の横にくず折れた。
それはそのときだけ覗き見を遠慮して朴が知らなかった場面だった。兄弟のファースト・アフェアをデバガメするのはさすがに気が引けたからなのだが、朴は事後に起きた雪男の異常を見逃してしまっていた。朴は数時間後それを後悔することになる。
雪男の回想は隣を歩く朴には気づかれることなく雪男の脳内に流れ、あの日の雪男が意識を失ったところで終わった。災厄の萌芽はそれに現れていたのに見逃されたままだった。
ごめんなさい。まだ続きます。
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