幸福雑音
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☆ss「茜色が燃える時」燐雪 R18
密閉されて篭った屋内の熱気を逃がすように窓を開けようとした。短い間留守にしていた部屋の空気はやはり少し違和感のある匂いがする。手をかけた窓の桟にうっすらと積もった埃にも溜息が漏れる。
「疲れてるし掃除は明日でいっか。」
燐は床に荷物を下ろして呟く。数日前までいた和室の畳敷きとはまるで趣の違う無機質で雑然とした部屋に雪男は余計に疲れた気分になってしまった。またここでの生活が待っているのかと。
兄といるのは嫌なわけじゃないが、他者を交えない二人きりというのは濃密な気配から時々逃げ出したくなる。今までは頭の中で誤魔化して麻痺させて平気を装っていたが、京都でのあの悪魔落ちの男との接触によってその誤魔化しが今は無効になってしまっている。
今、雪男の頭の中は受容する全ての刺激に対して無防備だった。全てがストレートに脳に届いて、全てを情報として脳が処理し、それにいちいち細かい感想なり感傷が頭の中を巡っている。
なにもかもあの残酷なことをへらへらと笑いながら言った男のせいだった。あの男の言葉に追い詰められて踊らされていた自分が情けない。そのあとに魔菌の王を焼き払った兄に対して手を上げてしまった。それを引きずってか少し兄弟関係がぎくしゃくしてしまっていた。
「兄さんごめん。あのとき、殴ったりして。」
今更というような謝罪だったが雪男はそれを口にせずにはいられなかった。
「あー……。」
燐は自分の頬を撫でながら間の抜けた声を出した。雪男はそんな暢気な態度の燐に近づいてそっと燐の手の平と頬の間に自分の手を滑らせた。
「雪男……。」
雪男の手の甲に燐の手が重ねられる。
不意に雪男の手が捻られるように取られた。
「兄さん? 何をするんだい。……痛いんだけど……。」
振りほどこうとしたが燐は雪男の手を放そうとしない。捻られた腕を痛みから逃れるために動けばそれは兄に引き寄せられるようになってしまう。
「……。」
唐突な真似をする兄の表情が気になってくる。窓から入ってくる翳った日の光の加減でそれを確認するには目を凝らしてみるしかない。そしてなおも兄に引き寄せられる。
兄は――。
いやらしいくらいに笑っていた。強引な力を行使しているのが嘘なくらいに、まるで悪気がないとでも言うように、その表情は柔らかすぎた。
「雪男。」
声までも弾んでいる。疲れて沈みがちになっている雪男とは正反対に兄の高揚したような表情と声が部屋の中では異様に映った。
「なんだよ。なんか嬉しいことでもあったわけ?」
雪男はなんとなく異様な兄に問いかけてみる。その間にも燐は雪男の腕を離さない。
「嬉しいこと?」
雪男の問いにますます燐の顔がこれ以上ないというくらいに歓喜の表情を浮かべる。
「嬉しいに決まってるだろ。だって俺は――。」
燐は雪男の腕を取っているのとは反対の手を翳して手の平に青い炎を灯らせる。
「ほら。」
それを雪男に見せる。腐病を撒き散らす悪魔を焼き払ったが人間を害することはなかった青い悪魔の炎。それの意味するところは燐が口にせずとも雪男は理解した。
「兄さん。気持ちは分かるよ。でも……。」
炎のコントロールはマスターした。燐が雪男に言いたいことはそれに尽きるだろう。しかし燐にとって大変なのはこれからだということを雪男は燐本人以上に知っている。燐は手の平の上の炎をうっとりと見ているけれど、雪男はそんな暢気な兄の姿に眉を顰めた。
「この炎が俺の思い通りになるってことは、俺はもう危険対象じゃねえってのと同じだよな。」
燐はそれを認めてもいい。塾の仲間も周りの祓魔師もそれを容認するだろう。だからというわけではないが、雪男の口から自然と毀れてきたのは、そんな兄や周囲を批判するような言葉だった。
「あのねえ、それを最終的に決めるのはヴァチカン本部だよ。暫定的には兄さんの意見には同意だけど、本決まりで安全認定されるのは認定試験に受かってからだから。」
兄は弟の言葉を聞いているのか聞いていないのか、相変わらず炎を見つめたままだった。雪男は次第に兄に苛立ってきていた。
「雪男。お前だって嬉しいだろ。」
雪男は兄の主観的過ぎる言葉に何かが切れた。
「兄さん? さっきの僕が言ったこと聞いてた? 試験受からなきゃ、一番納得させなきゃいけない相手に認めさせられないんだよ? 兄さんは、ぶっちゃけ言うけどこれからのほうが大変なんだよ。」
「なんだよ。雪男。喜んでくれねえのかよ?」
途端に兄が悲しそうな顔をする。雪男ははっとなって「ごめん」と口走った。
「別に嬉しくないわけじゃないよ。兄さんが浮かれているように見えたから、また教師面して釘を刺しただけだから。」
「じゃあ。雪男も喜んでくれる?」
それには素直に頷けない雪男だった。雪男としては兄にそんな最終兵器的な能力ばかり精度を上げられても困惑のほうが先に立ってしまう。それが兄の一番の売りだとしても。無益で無害なただの馬鹿でいてくれるほうが、雪男にとっては素直に喜べた。しかしながら兄なりに喜ばしいことを、唯一の身内の雪男がしかめっ面で見ている光景というのも、兄に気の毒な話だった。
「なんだかんだで危ない橋も渡ったけど、良かったとは思ってる。」
雪男は歯切れの悪い同意しか示せなかった。腹の中ではやはりそんな兄に同調できない自分がいた。しかし口だけでも動いてくれたのが助かった。たぶん兄はそんな自分のことを疑ったりはしないだろうと、これまでの兄を見てきた雪男はその信頼にこの場だけでも胡坐を掻かせてもらうことにした。
「兄さん。お腹空かない? せっかくだし、何処かに夕食を食べに行く? 今からご飯作るのもしんどいだろうし。僕からのお祝いもかねて奢るから。」
兄は手の平の上の炎を握り潰す。それは何の名残も残さず消え失せた。目の前でただ青く揺らめいただけ。兄の意思がなければ何ものも燃やすことのない炎だった。
兄は弟の顔を見上げて首を傾げた。弟は何も気づいていないような兄に向かって言う。
「ねえ。この手を放してくれる? もうさっきから少し痺れてきてるし。」
燐に握られたままの腕は手先がの血が少し失せて体温が低くなってきている。そして燐に告げたとおり感覚も鈍くなってきていた。それでも燐は雪男から手を放さない。その代わり何かを小声で呟いた。
「……いって……。」
「なに?」
「お祝いって、メシじゃないといけないの?」
手を放すより先にお祝いに食らいついた燐を見ながら雪男は少し逡巡する。
「今すぐだったら夕ご飯奢るくらいしか思いつかないな。何か欲しいものあるなら教えて。近日中にはどうにかできるから。」
「欲しいもんでいいんだな。お前にもらえるもんだったら。」
「そうだね。僕があげられるものだったら。」
雪男は部屋に帰ってきてから、まったく兄に警戒を緩めなかった。ところがこの瞬間だけは不用意に兄の言葉に頷いた。
「何が欲しいの? 兄さん。」
兄は口の端を上げる。その回答を聞いて弟は兄の悪魔的な本性を垣間見た。
* * *
兄の言葉で真空化した頭に徐々に血の気が戻ってきた。そして記憶が過去へと逆流する。
始まりは小学校中学年ごろの夏だった。教会からさほど離れていない用水路が増水して、そこで子どもが一人溺れた。それを兄が助けた。普通なら一緒に流されて兄こそ二次災害の被害者になるところだったが、兄は見事にその子どもを助け当時燐を誤解していた周囲の大人を一時見直させることになった。
雪男は内心冷や冷やしていた。そんなことが出来たのは兄の悪魔の能力ゆえと分かっていて、傍らの義父の顔を窺っていた記憶はある。それでも兄を認め頭を撫でる大人と嬉しそうな兄を見ているとその心配も薄れていた。
その喧騒のあと、兄におめでとうと言った。兄はぱっと顔を輝かせた。
「雪男! 兄ちゃんすごい?」
「うん。」
「なら……」
兄は自分の額を髪を掻き揚げて見せて「ちゅうしてくれ」と要求してきた。
「えー……」
「駄目なのかよ……」
だってと兄は雪男にその場で思いついたような理由を話し出した。
兄の言葉の根拠は御伽噺の天使から善行に報いて祝福のキスを受ける善人ということらしかったが、雪男には意味の分からない理屈だった。雪男は天使ではないのだし、兄にとって何の有難みがあるのだろうと怪訝に思った。
それでもその当時は兄のしょぼくれた顔を見たくなかったので、結局雪男は燐の額にキスをした。
二回目は中学二年の体育祭だった。燐のクラスの当時の体育会系の人気者にトラブルがあった。体育祭のヒーローが体育祭前日に足を捻挫してしまったのだ。
その生徒に代わって燐がリレーのアンカーを務めることになった。そしてこれまた悪魔の身体能力によって、リレーは燐のクラスが首位になってしまった。そのときの雪男のクラスのアンカーは、まさしく雪男その人で、図らずとも兄弟対決となってしまったのだ。
ラストの走者まで燐のクラスは絶望的最下位だった。それを燐がごぼう抜きして最後に雪男を追い抜いてゴールした。振り向いてクラスメイトより先に雪男に笑いかけた燐に、雪男は苦笑いで言った。
「おめでとう……。兄さん。」
燐のクラスは歓喜で半狂乱だった。誰も期待していなかった登校拒否の不良の活躍に、本来のヒーロー不在の絶望的不利を塗り替えられた事実に沸いた。雪男はそんなクラスメイトに賞賛される兄を、やはり皮肉げな気持ちで見送った。兄の活躍もやはり無自覚な悪魔の力ありきであったからだ。
教会に帰ってから燐はもじもじと雪男に前のようにご褒美を強請ってもいいかと尋ねてきた。
「兄さんの活躍で僕のクラスは勝てなかったんだけど。そんな僕からご褒美を強請るわけ?」
「え? ええ? いいじゃねえかよ。俺せっかく皆に褒められたし。雪男だって俺におめでとうって言ったじゃねえか。」
よっぽど嬉しいんだろうなと納得したし、また燐の額にキスでもすればいいのだろうと雪男は軽い気持ちで「いいよ」と投げ捨てるように言った。
「じゃあ……してもいいか? いいよな?」
「だから何を。」
兄は顔を赤くして部屋を見回す。ドアのところまで歩いてそのドアを開けて外を窺うほどの用心深さだった。
「よし。誰も来ねえ。」
燐は雪男のほうを振り向いたあと、驚くほどの素早さで雪男を二段ベッドの下の段、雪男の寝床に雪男を押し倒した。
「兄さん?」
そこから先は何が起こったのかわからなくなったと言いたくなるくらいに曖昧な記憶だった。
しかしそれは現在になって再び想起される。
「俺本当は知ってたんだ。俺が他人に褒められるようなことをしたとき、お前だけはいつもあまり嬉しそうじゃなかったこと。」
そんなことはないと組み伏せられたベッドの上で雪男は言おうとしたが、燐は異様なほど優しげな微笑を見せて首を横に振った。掴まれた腕はまだ掴まれたままだった。もう感覚なんか無いに等しい。
「そうだよな。今になって分かったんだけど、俺が悪魔だって知ってたお前にとっちゃあ、俺の説明不能な火事場の馬鹿力が元で周りから褒められたって、嬉しいわけないよな。だってそれは、お前の嫌いな悪魔の力だもんな。そんなもん目の前で見せられて嫌だったんだろ? 京都でも熱海でもそうだったんだよな。」
あの日兄は押し倒してきたそのあと、雪男にキスさせてくれと言い放った。そしてやはり胸にもやもやを秘めたまま、雪男はその要求を飲んだ。
毅然と拒絶すればどうなるというわけでもない。これが兄の「初めて」の要求ならば。現在の雪男は既に燐という悪魔の要求を「二回も」叶えてしまっている。最初の甘くてくすぐったい要求から息苦しくて直接的な要求にエスカレートしている。三回目の要求を拒絶は出来ないと雪男は自然と確信してしまった。
この部屋は。と、雪男は見慣れたようで馴染めない部屋の天井を、兄の顔ごしに見上げて眼を瞑った。ドアの外を見なくても誰も来ないことは分かっている。
四月のあの日、兄の監視を含めて雪男は自分ごと兄を隔離した。この旧寮こそ、誰も寄せ付けることのない兄にとって好都合な城砦だった。兄の自分への執着は薄々という言葉では足りないくらいに感じていたくせに、敢えて自分は事が起こった時に誰にも助けを求められない場所に兄と二人きりになることを選んでしまった。
「兄さんは卑屈で滑稽で愚直だ。」
決定的なことを先延ばしにしていたのは雪男ではない。兄本人だった。その気になればいつだって手を伸ばせたはずなのに、それをしなかった。自分も雪男も納得する理由、ご褒美という名目がなければ、この悪魔は雪男に手を出せないのだった。これは人間と悪魔の契約そのものだなと雪男は実感した。
「雪男は俺にとってのご褒美だから。」
なんだそれと心の中で呟いて雪男は笑いたくなった。お互いがお互いを生身の人間だと認めていないのを許容しあっているような、そんな歪な関係なのか。
ああ。もうどうにでもなれと思うには、雪男はまだまだ往生際がよくなかった。
* * *
幼い頃は病弱だったが鍛えた身体の頑強さには多少の自信はあった。精神的なず太さには恵まれなかったが、その分用心深い性分で補っていた。
何を今更なようだが頭の中で自分のスペックを雪男は確認する。その中で男との性交に必要な部分を抽出していた。
今自分が置かれている状況に自分が耐えられるかどうか、自分自身を値踏みする。今回はどうにか耐えられそうだと雪男は踏んだ。
服は自分で脱ぐからと言ったのに兄はそれを受け入れてくれなかった。服を脱がすところから兄にとってはご褒美のようだ。もっと勿体ぶった言い方をすれば戦利品か。確かに兄が勝ち取ったのだからそう思われてもしょうがないのかもしれない。だんだん晒される肌に兄が愛おしそうに手を這わせる。
このままただ横たわっているだけで目を瞑っていればいいのかもしれない。そんなマグロ状態でも兄はそれなりに楽しめるかもと、雪男はこれから起こることに対して逃げ道を残した。
医学を多少齧っている雪男は男の身体の構造の単純さ加減を熟知していた。同性を受け入れる入り口は本来そんな目的で存在するものではない。それを含めて考え得る痛みや傷や出血への恐れなんぞは想定内としか言いようがない。もしもと、少し怖く思うのは感染症だがそれも後の処置でどうとでもなる。
「雪男……。」
兄の上ずった声が耳元を掠める。平気な振りをしようとしたが、目を開けて見た兄の表情は弟の様子を心配そうに窺うものだった。
「兄さん。」
「怖いか? 雪男? ごめんな。」
怖い? 僕が? 雪男は兄の言葉をいぶかしく思う。怖がらせていると思うなら最初からするなよとは言わないが、悪魔らしくない思いやりを感じさせる言い方に声が少し尖る。
「僕が兄さんを怖がるとでも?」
「だってお前、身体がちがちじゃねえか。」
雪男は自分の身体を省みる。冷静さを装っている内心とは異なり僅かに緊張しているらしいことは見て取れた。
「慣れてないからね……。ていうか、経験皆無だからね。」
雪男は言い訳をするように兄に吐き捨てる。
「皆無ってなんだよ。」
「一度もしたことないってこと。」
「えっ、ごめん。」
「なんで謝る!」
雪男は思わず兄を怒鳴った。兄は気弱そうにびくっと背中を震わせる。
「いいから早く済ませて。……お願いだから。僕になんやかんや考えさせないで……。」
冷たい言い方だと自分でも思う。燐は分かったと頷きながら雪男の乳首に舌を這わせた。済まなそうにしていてもそれでもやることはやるんだと、雪男は自分と同じ男というものにに幻滅に似た感情を覚えた。自分が欲情する対象に対して、欲望を隠さないところとか。敢えて中断して今回はやめてやろうという心の余裕がないところとか。そもそも雪男が行為に対して同意したとはいえ、本意ではないというくらい分かっているだろうにとか。
それについては色々と雪男にも思うところがある。同じ男に、同じ血を分けた兄弟に無理やり陵辱されるような屈辱は回避したい。それについては兄の中の手前勝手なマイルールには感謝している。一つは雪男や周囲が納得する功績を挙げていること。もう一つはその功績に対しての褒賞となる雪男その人から許可を貰うこと。雪男は兄にしては兄のマイルールは意外と理にかなっているなと妙に感心した。
「雪男は本当は俺と、こういうことしたくないんだよな?」
燐は雪男の鎖骨に唇を寄せながら寂しそうに言った。
「したくないけど。兄さんだから許してあげる。」
「今は……それでもいい。雪男……。」
雪男は兄の頭を撫でてあげた。兄の愚昧さを許すことで雪男の中の鬱憤が少し軽くなったような気がした。
全ては雪男の勝手な推測でしかないのだが、これからのことを思うと色々と都合が良かった。監視者とその対象が変に馴れ合わなくてもいいこと。相変わらず精神的な優位に立てること。兄からの身体の要求のタイミングが雪男にも測れること。兄にとってのその機会は限りなく限定されているし頻度も少ないだろうと、前もって分かっていること。
兄が泣き笑いのような表情を浮かべる。
雪男の心には何も響かない。何も湧き上がってこない。それでも爪の先ほどこの悪魔を可愛いと思えてしまう感性だけは残っているようだ。雪男は無意識に頬を緩ませて燐に微笑みかけていた。
「雪男……。」
その甘い表情に兄の意識は融けているのだろう。
「しょうがないな兄さんは……。」
早く済ませて貰うにはそれなりのことをしなければならないのだと悟った雪男は、ずらしたジャージからはみ出している兄の一物に手を伸ばすがさっと身を引かれてしまった。
「駄目だ。雪男はそんなことしない……。」
「なに決め付けてるんだよ?」
「そんな……。不良なこと……。」
ふうんと頷きながらも雪男は身体を起こして、うろたえる兄を尻目に兄自身を手で包んだ。
「あうっ……」
けしておざなりな行為だと取られないように両手で丁寧に扱いてやる。
「こんなにしちゃって。僕にスケベ行為したかったくせに三ヶ月……もうそろそろ四ヶ月か……よくやせ我慢したもんだね。」
先端からにじみ出るものを指に絡ませてぬるぬるとした感触に任せて指を滑らせる。そのたびに兄が声にならない声を上げて泣きそうになるものだから、雪男はそれが愉快でしょうがない。
「雪男ぉ……。……あぅ……。」
「え? 兄さん?」
突然兄が抱きついてきたと思えば、再び雪男を押し倒して乱雑に重なっている敷布団や掛け布団に埋めてくる。雪男の足に半端に絡まっていたスラックスと下着を完全に足から抜いて、ふーふーと荒い息を吐き、雪男の膝を両手で割り開いた。
興奮させすぎたと雪男は臍を噛んだが、燐の意識は軽く飛んでいるようで目が焦点を合わせきれていないなどと観察じみた目を燐に向けていた。
腰が持ち上げられ布団との間に兄の膝が入り込んでくる。
「……いやっ……」
いきなり後ろに指を突き入れられる。勿論すんなり入るわけがない。兄は焦ったように指を引き抜くと自分の口に持っていき、その指を舐めて再び同じところに突き入れた。
「痛っ……。」
今までどこか冷静さを残していた雪男だったが、その冷静さは兄の獣じみた行為で一瞬で崩れ去ろうとしている。
「痛……い、から……。」
雪男が声を上げるたび燐は自分の指を舐めその部分に抜き差しを繰り返している。幸いにも出血はしていないが、それは燐が我に返る機会が訪れそうにないことを同時に示していた。
「雪男? まだ痛い? 兄ちゃんも初めてだから、よく、わかんねえから。」
わかって堪るもんかと雪男は心の中で兄に毒づく。屈辱感を回避しようとしてきたのに、その為に冷静さを固辞したり、兄を先導するような真似をしたのに。もうそんなことが何の功も奏さなくなっている。それどころか冷静さを固辞した故に後から迫ってきた屈辱感の色が濃く雪男を取り巻いて、そこには何の逃げ場もないことを自覚させられた。
たかだか痛みぐらいだと高を括っていた。ギブ&テイクの行為だと思っていた。そうではないのだと今この瞬間に思い知らされる。相手が悪魔だという以前に、同性に陵辱されるという意味を雪男は履き違えて軽く考えていた。それは自分のことを強い人間だと思い込もうとしていた自分を否定されるような恐怖すら覚える。自分の自信など、今自分の身体や自分の感覚を犯している相手には何も関係がないのだと気づかされる。
それでも諦め悪く雪男は兄に責め続けられている部分から意識を逸らそうとした。その為に必要な言葉を吐こうと口を開く。
「何? 雪男?」
「……。キスして。」
燐は動きを止めて固まっていた。まさか雪男の口からそんな要求が飛び出してくるとは思わなかったのだ。
「え? いいの?」
雪男は声が出なかったので無言で頷く。薄く開いた雪男の口に燐がむしゃぶりついてくる。燐の手は雪男のそこから離れて、雪男をきつく抱きしめた。
『んー……。』
燐が夢中で雪男の口内を蹂躙している間に、雪男は燐の一物を握って自分のアナルに押し当て一気にそれを押し込んだ。まるで自分の身体にナイフを突き立てるように。
「んっ……。んんっ。」
思わぬ刺激にぷはっと燐は息を吐くと、お互いの下半身の状況に目を剥いた。驚いている兄を睨み付けて雪男は脅すように言う。
「早く、終わらせてって……最初に言ったでしょ?」
燐にとっては不意を突かれたというか騙し打ちみたいなやり方というか、やられ方だった。それでも雪男がとてつもなく怒っている様子に何の文句も言えなかった。
「兄さん……。さっさと動いてよ。中途半端にしか入ってないんだから、外れたら僕もう、二度と入れさせてやんないんだからね!」
脅しをかけてくる雪男に燐はこくこくと頷くばかりで行動に移す様子がない。雪男は半ば涙ぐみながら燐に訴えかける。
「う……うう…、もう痛いの限界……。」
雪男は自らの心持は泣いた振りのつもりでいたが、燐から見える表情は振りと本気の区別がつかないくらいだった。
「あ。ああ……あー……。ごめん。マジごめん……。」
雪男は相変わらず痛さに呻いていたが、いずれは終わりがくる痛みだと思えば耐えられると思った。燐のほうも欲望が勝ってなのか頭がパニックから立ち直れないためか、雪男の中から出て行ってやるという選択肢が思いつかないらしい。雪男の言うとおりにせっせと動いて出来るだけ早く欲望を吐き出そうと苦心していた。
自分のほうに前かがみになっている兄の首に雪男は腕を巻きつかせる。少しでも痛みの感覚を逃すためなのだが、それはどう見ても好きな男に熱烈に抱きついている恋人にしか見えない。
「ゆ……雪男っ。」
「あ…あっ……兄さん。」
ベッドが揺れるたびに夕暮れの残滓に埃が舞うのがはっきりと見える。眼鏡を掛けていないのに感覚がおかしくなったのかと雪男は舞う埃をおぼろげに見た。
凹凸を埋めあってお互いに密着した腰を揺すりながら、こんなに近くにいる相手にあまり頭がいっていない雪男だった。痛みはかなりもう薄れ掛けている。圧迫感と遅れてきた僅かな快感らしきものに意識を向けて、なにかを誤魔化していた。
「雪男っ。もうちょっとでイくからっ……。」
「う、うん……。」
やっと終わる。雪男は思わず終わる前なのに安堵してしまった。その安堵のあとに燐の上半身が雪男に倒れこんできた。
「終わったの? 兄さん?」
「……。」
燐はこくりと頷いた。その肩甲骨あたりを雪男はぽんぽんと叩く。
「ありがと……。ごめんね。急かしてばっかであまりよくなかったでしょ?」
「いや……。俺こそ途中からよく分かってなくて。痛い思いさせたし。」
お互いに男だから自分の至らなさが分かるぶん、最悪とは言わないがそう言っても差し支えないくらいの性行為だった。
「次は頑張るから。」
「次があるといいね。」
「次があるように頑張るからっ。」
「頑張らなくてもいいよ。」
殺生で情け容赦のない言葉だったが、多分この兄は挫けないと雪男は思った。
兄さんはまさに「い・ま・に♪」でした。タイトルは某ガンアクションアニメのエンディングより。まさにこれはひどい。
「疲れてるし掃除は明日でいっか。」
燐は床に荷物を下ろして呟く。数日前までいた和室の畳敷きとはまるで趣の違う無機質で雑然とした部屋に雪男は余計に疲れた気分になってしまった。またここでの生活が待っているのかと。
兄といるのは嫌なわけじゃないが、他者を交えない二人きりというのは濃密な気配から時々逃げ出したくなる。今までは頭の中で誤魔化して麻痺させて平気を装っていたが、京都でのあの悪魔落ちの男との接触によってその誤魔化しが今は無効になってしまっている。
今、雪男の頭の中は受容する全ての刺激に対して無防備だった。全てがストレートに脳に届いて、全てを情報として脳が処理し、それにいちいち細かい感想なり感傷が頭の中を巡っている。
なにもかもあの残酷なことをへらへらと笑いながら言った男のせいだった。あの男の言葉に追い詰められて踊らされていた自分が情けない。そのあとに魔菌の王を焼き払った兄に対して手を上げてしまった。それを引きずってか少し兄弟関係がぎくしゃくしてしまっていた。
「兄さんごめん。あのとき、殴ったりして。」
今更というような謝罪だったが雪男はそれを口にせずにはいられなかった。
「あー……。」
燐は自分の頬を撫でながら間の抜けた声を出した。雪男はそんな暢気な態度の燐に近づいてそっと燐の手の平と頬の間に自分の手を滑らせた。
「雪男……。」
雪男の手の甲に燐の手が重ねられる。
不意に雪男の手が捻られるように取られた。
「兄さん? 何をするんだい。……痛いんだけど……。」
振りほどこうとしたが燐は雪男の手を放そうとしない。捻られた腕を痛みから逃れるために動けばそれは兄に引き寄せられるようになってしまう。
「……。」
唐突な真似をする兄の表情が気になってくる。窓から入ってくる翳った日の光の加減でそれを確認するには目を凝らしてみるしかない。そしてなおも兄に引き寄せられる。
兄は――。
いやらしいくらいに笑っていた。強引な力を行使しているのが嘘なくらいに、まるで悪気がないとでも言うように、その表情は柔らかすぎた。
「雪男。」
声までも弾んでいる。疲れて沈みがちになっている雪男とは正反対に兄の高揚したような表情と声が部屋の中では異様に映った。
「なんだよ。なんか嬉しいことでもあったわけ?」
雪男はなんとなく異様な兄に問いかけてみる。その間にも燐は雪男の腕を離さない。
「嬉しいこと?」
雪男の問いにますます燐の顔がこれ以上ないというくらいに歓喜の表情を浮かべる。
「嬉しいに決まってるだろ。だって俺は――。」
燐は雪男の腕を取っているのとは反対の手を翳して手の平に青い炎を灯らせる。
「ほら。」
それを雪男に見せる。腐病を撒き散らす悪魔を焼き払ったが人間を害することはなかった青い悪魔の炎。それの意味するところは燐が口にせずとも雪男は理解した。
「兄さん。気持ちは分かるよ。でも……。」
炎のコントロールはマスターした。燐が雪男に言いたいことはそれに尽きるだろう。しかし燐にとって大変なのはこれからだということを雪男は燐本人以上に知っている。燐は手の平の上の炎をうっとりと見ているけれど、雪男はそんな暢気な兄の姿に眉を顰めた。
「この炎が俺の思い通りになるってことは、俺はもう危険対象じゃねえってのと同じだよな。」
燐はそれを認めてもいい。塾の仲間も周りの祓魔師もそれを容認するだろう。だからというわけではないが、雪男の口から自然と毀れてきたのは、そんな兄や周囲を批判するような言葉だった。
「あのねえ、それを最終的に決めるのはヴァチカン本部だよ。暫定的には兄さんの意見には同意だけど、本決まりで安全認定されるのは認定試験に受かってからだから。」
兄は弟の言葉を聞いているのか聞いていないのか、相変わらず炎を見つめたままだった。雪男は次第に兄に苛立ってきていた。
「雪男。お前だって嬉しいだろ。」
雪男は兄の主観的過ぎる言葉に何かが切れた。
「兄さん? さっきの僕が言ったこと聞いてた? 試験受からなきゃ、一番納得させなきゃいけない相手に認めさせられないんだよ? 兄さんは、ぶっちゃけ言うけどこれからのほうが大変なんだよ。」
「なんだよ。雪男。喜んでくれねえのかよ?」
途端に兄が悲しそうな顔をする。雪男ははっとなって「ごめん」と口走った。
「別に嬉しくないわけじゃないよ。兄さんが浮かれているように見えたから、また教師面して釘を刺しただけだから。」
「じゃあ。雪男も喜んでくれる?」
それには素直に頷けない雪男だった。雪男としては兄にそんな最終兵器的な能力ばかり精度を上げられても困惑のほうが先に立ってしまう。それが兄の一番の売りだとしても。無益で無害なただの馬鹿でいてくれるほうが、雪男にとっては素直に喜べた。しかしながら兄なりに喜ばしいことを、唯一の身内の雪男がしかめっ面で見ている光景というのも、兄に気の毒な話だった。
「なんだかんだで危ない橋も渡ったけど、良かったとは思ってる。」
雪男は歯切れの悪い同意しか示せなかった。腹の中ではやはりそんな兄に同調できない自分がいた。しかし口だけでも動いてくれたのが助かった。たぶん兄はそんな自分のことを疑ったりはしないだろうと、これまでの兄を見てきた雪男はその信頼にこの場だけでも胡坐を掻かせてもらうことにした。
「兄さん。お腹空かない? せっかくだし、何処かに夕食を食べに行く? 今からご飯作るのもしんどいだろうし。僕からのお祝いもかねて奢るから。」
兄は手の平の上の炎を握り潰す。それは何の名残も残さず消え失せた。目の前でただ青く揺らめいただけ。兄の意思がなければ何ものも燃やすことのない炎だった。
兄は弟の顔を見上げて首を傾げた。弟は何も気づいていないような兄に向かって言う。
「ねえ。この手を放してくれる? もうさっきから少し痺れてきてるし。」
燐に握られたままの腕は手先がの血が少し失せて体温が低くなってきている。そして燐に告げたとおり感覚も鈍くなってきていた。それでも燐は雪男から手を放さない。その代わり何かを小声で呟いた。
「……いって……。」
「なに?」
「お祝いって、メシじゃないといけないの?」
手を放すより先にお祝いに食らいついた燐を見ながら雪男は少し逡巡する。
「今すぐだったら夕ご飯奢るくらいしか思いつかないな。何か欲しいものあるなら教えて。近日中にはどうにかできるから。」
「欲しいもんでいいんだな。お前にもらえるもんだったら。」
「そうだね。僕があげられるものだったら。」
雪男は部屋に帰ってきてから、まったく兄に警戒を緩めなかった。ところがこの瞬間だけは不用意に兄の言葉に頷いた。
「何が欲しいの? 兄さん。」
兄は口の端を上げる。その回答を聞いて弟は兄の悪魔的な本性を垣間見た。
* * *
兄の言葉で真空化した頭に徐々に血の気が戻ってきた。そして記憶が過去へと逆流する。
始まりは小学校中学年ごろの夏だった。教会からさほど離れていない用水路が増水して、そこで子どもが一人溺れた。それを兄が助けた。普通なら一緒に流されて兄こそ二次災害の被害者になるところだったが、兄は見事にその子どもを助け当時燐を誤解していた周囲の大人を一時見直させることになった。
雪男は内心冷や冷やしていた。そんなことが出来たのは兄の悪魔の能力ゆえと分かっていて、傍らの義父の顔を窺っていた記憶はある。それでも兄を認め頭を撫でる大人と嬉しそうな兄を見ているとその心配も薄れていた。
その喧騒のあと、兄におめでとうと言った。兄はぱっと顔を輝かせた。
「雪男! 兄ちゃんすごい?」
「うん。」
「なら……」
兄は自分の額を髪を掻き揚げて見せて「ちゅうしてくれ」と要求してきた。
「えー……」
「駄目なのかよ……」
だってと兄は雪男にその場で思いついたような理由を話し出した。
兄の言葉の根拠は御伽噺の天使から善行に報いて祝福のキスを受ける善人ということらしかったが、雪男には意味の分からない理屈だった。雪男は天使ではないのだし、兄にとって何の有難みがあるのだろうと怪訝に思った。
それでもその当時は兄のしょぼくれた顔を見たくなかったので、結局雪男は燐の額にキスをした。
二回目は中学二年の体育祭だった。燐のクラスの当時の体育会系の人気者にトラブルがあった。体育祭のヒーローが体育祭前日に足を捻挫してしまったのだ。
その生徒に代わって燐がリレーのアンカーを務めることになった。そしてこれまた悪魔の身体能力によって、リレーは燐のクラスが首位になってしまった。そのときの雪男のクラスのアンカーは、まさしく雪男その人で、図らずとも兄弟対決となってしまったのだ。
ラストの走者まで燐のクラスは絶望的最下位だった。それを燐がごぼう抜きして最後に雪男を追い抜いてゴールした。振り向いてクラスメイトより先に雪男に笑いかけた燐に、雪男は苦笑いで言った。
「おめでとう……。兄さん。」
燐のクラスは歓喜で半狂乱だった。誰も期待していなかった登校拒否の不良の活躍に、本来のヒーロー不在の絶望的不利を塗り替えられた事実に沸いた。雪男はそんなクラスメイトに賞賛される兄を、やはり皮肉げな気持ちで見送った。兄の活躍もやはり無自覚な悪魔の力ありきであったからだ。
教会に帰ってから燐はもじもじと雪男に前のようにご褒美を強請ってもいいかと尋ねてきた。
「兄さんの活躍で僕のクラスは勝てなかったんだけど。そんな僕からご褒美を強請るわけ?」
「え? ええ? いいじゃねえかよ。俺せっかく皆に褒められたし。雪男だって俺におめでとうって言ったじゃねえか。」
よっぽど嬉しいんだろうなと納得したし、また燐の額にキスでもすればいいのだろうと雪男は軽い気持ちで「いいよ」と投げ捨てるように言った。
「じゃあ……してもいいか? いいよな?」
「だから何を。」
兄は顔を赤くして部屋を見回す。ドアのところまで歩いてそのドアを開けて外を窺うほどの用心深さだった。
「よし。誰も来ねえ。」
燐は雪男のほうを振り向いたあと、驚くほどの素早さで雪男を二段ベッドの下の段、雪男の寝床に雪男を押し倒した。
「兄さん?」
そこから先は何が起こったのかわからなくなったと言いたくなるくらいに曖昧な記憶だった。
しかしそれは現在になって再び想起される。
- * *
「俺本当は知ってたんだ。俺が他人に褒められるようなことをしたとき、お前だけはいつもあまり嬉しそうじゃなかったこと。」
そんなことはないと組み伏せられたベッドの上で雪男は言おうとしたが、燐は異様なほど優しげな微笑を見せて首を横に振った。掴まれた腕はまだ掴まれたままだった。もう感覚なんか無いに等しい。
「そうだよな。今になって分かったんだけど、俺が悪魔だって知ってたお前にとっちゃあ、俺の説明不能な火事場の馬鹿力が元で周りから褒められたって、嬉しいわけないよな。だってそれは、お前の嫌いな悪魔の力だもんな。そんなもん目の前で見せられて嫌だったんだろ? 京都でも熱海でもそうだったんだよな。」
あの日兄は押し倒してきたそのあと、雪男にキスさせてくれと言い放った。そしてやはり胸にもやもやを秘めたまま、雪男はその要求を飲んだ。
毅然と拒絶すればどうなるというわけでもない。これが兄の「初めて」の要求ならば。現在の雪男は既に燐という悪魔の要求を「二回も」叶えてしまっている。最初の甘くてくすぐったい要求から息苦しくて直接的な要求にエスカレートしている。三回目の要求を拒絶は出来ないと雪男は自然と確信してしまった。
この部屋は。と、雪男は見慣れたようで馴染めない部屋の天井を、兄の顔ごしに見上げて眼を瞑った。ドアの外を見なくても誰も来ないことは分かっている。
四月のあの日、兄の監視を含めて雪男は自分ごと兄を隔離した。この旧寮こそ、誰も寄せ付けることのない兄にとって好都合な城砦だった。兄の自分への執着は薄々という言葉では足りないくらいに感じていたくせに、敢えて自分は事が起こった時に誰にも助けを求められない場所に兄と二人きりになることを選んでしまった。
「兄さんは卑屈で滑稽で愚直だ。」
決定的なことを先延ばしにしていたのは雪男ではない。兄本人だった。その気になればいつだって手を伸ばせたはずなのに、それをしなかった。自分も雪男も納得する理由、ご褒美という名目がなければ、この悪魔は雪男に手を出せないのだった。これは人間と悪魔の契約そのものだなと雪男は実感した。
「雪男は俺にとってのご褒美だから。」
なんだそれと心の中で呟いて雪男は笑いたくなった。お互いがお互いを生身の人間だと認めていないのを許容しあっているような、そんな歪な関係なのか。
ああ。もうどうにでもなれと思うには、雪男はまだまだ往生際がよくなかった。
* * *
幼い頃は病弱だったが鍛えた身体の頑強さには多少の自信はあった。精神的なず太さには恵まれなかったが、その分用心深い性分で補っていた。
何を今更なようだが頭の中で自分のスペックを雪男は確認する。その中で男との性交に必要な部分を抽出していた。
今自分が置かれている状況に自分が耐えられるかどうか、自分自身を値踏みする。今回はどうにか耐えられそうだと雪男は踏んだ。
服は自分で脱ぐからと言ったのに兄はそれを受け入れてくれなかった。服を脱がすところから兄にとってはご褒美のようだ。もっと勿体ぶった言い方をすれば戦利品か。確かに兄が勝ち取ったのだからそう思われてもしょうがないのかもしれない。だんだん晒される肌に兄が愛おしそうに手を這わせる。
このままただ横たわっているだけで目を瞑っていればいいのかもしれない。そんなマグロ状態でも兄はそれなりに楽しめるかもと、雪男はこれから起こることに対して逃げ道を残した。
医学を多少齧っている雪男は男の身体の構造の単純さ加減を熟知していた。同性を受け入れる入り口は本来そんな目的で存在するものではない。それを含めて考え得る痛みや傷や出血への恐れなんぞは想定内としか言いようがない。もしもと、少し怖く思うのは感染症だがそれも後の処置でどうとでもなる。
「雪男……。」
兄の上ずった声が耳元を掠める。平気な振りをしようとしたが、目を開けて見た兄の表情は弟の様子を心配そうに窺うものだった。
「兄さん。」
「怖いか? 雪男? ごめんな。」
怖い? 僕が? 雪男は兄の言葉をいぶかしく思う。怖がらせていると思うなら最初からするなよとは言わないが、悪魔らしくない思いやりを感じさせる言い方に声が少し尖る。
「僕が兄さんを怖がるとでも?」
「だってお前、身体がちがちじゃねえか。」
雪男は自分の身体を省みる。冷静さを装っている内心とは異なり僅かに緊張しているらしいことは見て取れた。
「慣れてないからね……。ていうか、経験皆無だからね。」
雪男は言い訳をするように兄に吐き捨てる。
「皆無ってなんだよ。」
「一度もしたことないってこと。」
「えっ、ごめん。」
「なんで謝る!」
雪男は思わず兄を怒鳴った。兄は気弱そうにびくっと背中を震わせる。
「いいから早く済ませて。……お願いだから。僕になんやかんや考えさせないで……。」
冷たい言い方だと自分でも思う。燐は分かったと頷きながら雪男の乳首に舌を這わせた。済まなそうにしていてもそれでもやることはやるんだと、雪男は自分と同じ男というものにに幻滅に似た感情を覚えた。自分が欲情する対象に対して、欲望を隠さないところとか。敢えて中断して今回はやめてやろうという心の余裕がないところとか。そもそも雪男が行為に対して同意したとはいえ、本意ではないというくらい分かっているだろうにとか。
それについては色々と雪男にも思うところがある。同じ男に、同じ血を分けた兄弟に無理やり陵辱されるような屈辱は回避したい。それについては兄の中の手前勝手なマイルールには感謝している。一つは雪男や周囲が納得する功績を挙げていること。もう一つはその功績に対しての褒賞となる雪男その人から許可を貰うこと。雪男は兄にしては兄のマイルールは意外と理にかなっているなと妙に感心した。
「雪男は本当は俺と、こういうことしたくないんだよな?」
燐は雪男の鎖骨に唇を寄せながら寂しそうに言った。
「したくないけど。兄さんだから許してあげる。」
「今は……それでもいい。雪男……。」
雪男は兄の頭を撫でてあげた。兄の愚昧さを許すことで雪男の中の鬱憤が少し軽くなったような気がした。
全ては雪男の勝手な推測でしかないのだが、これからのことを思うと色々と都合が良かった。監視者とその対象が変に馴れ合わなくてもいいこと。相変わらず精神的な優位に立てること。兄からの身体の要求のタイミングが雪男にも測れること。兄にとってのその機会は限りなく限定されているし頻度も少ないだろうと、前もって分かっていること。
兄が泣き笑いのような表情を浮かべる。
雪男の心には何も響かない。何も湧き上がってこない。それでも爪の先ほどこの悪魔を可愛いと思えてしまう感性だけは残っているようだ。雪男は無意識に頬を緩ませて燐に微笑みかけていた。
「雪男……。」
その甘い表情に兄の意識は融けているのだろう。
「しょうがないな兄さんは……。」
早く済ませて貰うにはそれなりのことをしなければならないのだと悟った雪男は、ずらしたジャージからはみ出している兄の一物に手を伸ばすがさっと身を引かれてしまった。
「駄目だ。雪男はそんなことしない……。」
「なに決め付けてるんだよ?」
「そんな……。不良なこと……。」
ふうんと頷きながらも雪男は身体を起こして、うろたえる兄を尻目に兄自身を手で包んだ。
「あうっ……」
けしておざなりな行為だと取られないように両手で丁寧に扱いてやる。
「こんなにしちゃって。僕にスケベ行為したかったくせに三ヶ月……もうそろそろ四ヶ月か……よくやせ我慢したもんだね。」
先端からにじみ出るものを指に絡ませてぬるぬるとした感触に任せて指を滑らせる。そのたびに兄が声にならない声を上げて泣きそうになるものだから、雪男はそれが愉快でしょうがない。
「雪男ぉ……。……あぅ……。」
「え? 兄さん?」
突然兄が抱きついてきたと思えば、再び雪男を押し倒して乱雑に重なっている敷布団や掛け布団に埋めてくる。雪男の足に半端に絡まっていたスラックスと下着を完全に足から抜いて、ふーふーと荒い息を吐き、雪男の膝を両手で割り開いた。
興奮させすぎたと雪男は臍を噛んだが、燐の意識は軽く飛んでいるようで目が焦点を合わせきれていないなどと観察じみた目を燐に向けていた。
腰が持ち上げられ布団との間に兄の膝が入り込んでくる。
「……いやっ……」
いきなり後ろに指を突き入れられる。勿論すんなり入るわけがない。兄は焦ったように指を引き抜くと自分の口に持っていき、その指を舐めて再び同じところに突き入れた。
「痛っ……。」
今までどこか冷静さを残していた雪男だったが、その冷静さは兄の獣じみた行為で一瞬で崩れ去ろうとしている。
「痛……い、から……。」
雪男が声を上げるたび燐は自分の指を舐めその部分に抜き差しを繰り返している。幸いにも出血はしていないが、それは燐が我に返る機会が訪れそうにないことを同時に示していた。
「雪男? まだ痛い? 兄ちゃんも初めてだから、よく、わかんねえから。」
わかって堪るもんかと雪男は心の中で兄に毒づく。屈辱感を回避しようとしてきたのに、その為に冷静さを固辞したり、兄を先導するような真似をしたのに。もうそんなことが何の功も奏さなくなっている。それどころか冷静さを固辞した故に後から迫ってきた屈辱感の色が濃く雪男を取り巻いて、そこには何の逃げ場もないことを自覚させられた。
たかだか痛みぐらいだと高を括っていた。ギブ&テイクの行為だと思っていた。そうではないのだと今この瞬間に思い知らされる。相手が悪魔だという以前に、同性に陵辱されるという意味を雪男は履き違えて軽く考えていた。それは自分のことを強い人間だと思い込もうとしていた自分を否定されるような恐怖すら覚える。自分の自信など、今自分の身体や自分の感覚を犯している相手には何も関係がないのだと気づかされる。
それでも諦め悪く雪男は兄に責め続けられている部分から意識を逸らそうとした。その為に必要な言葉を吐こうと口を開く。
「何? 雪男?」
「……。キスして。」
燐は動きを止めて固まっていた。まさか雪男の口からそんな要求が飛び出してくるとは思わなかったのだ。
「え? いいの?」
雪男は声が出なかったので無言で頷く。薄く開いた雪男の口に燐がむしゃぶりついてくる。燐の手は雪男のそこから離れて、雪男をきつく抱きしめた。
『んー……。』
燐が夢中で雪男の口内を蹂躙している間に、雪男は燐の一物を握って自分のアナルに押し当て一気にそれを押し込んだ。まるで自分の身体にナイフを突き立てるように。
「んっ……。んんっ。」
思わぬ刺激にぷはっと燐は息を吐くと、お互いの下半身の状況に目を剥いた。驚いている兄を睨み付けて雪男は脅すように言う。
「早く、終わらせてって……最初に言ったでしょ?」
燐にとっては不意を突かれたというか騙し打ちみたいなやり方というか、やられ方だった。それでも雪男がとてつもなく怒っている様子に何の文句も言えなかった。
「兄さん……。さっさと動いてよ。中途半端にしか入ってないんだから、外れたら僕もう、二度と入れさせてやんないんだからね!」
脅しをかけてくる雪男に燐はこくこくと頷くばかりで行動に移す様子がない。雪男は半ば涙ぐみながら燐に訴えかける。
「う……うう…、もう痛いの限界……。」
雪男は自らの心持は泣いた振りのつもりでいたが、燐から見える表情は振りと本気の区別がつかないくらいだった。
「あ。ああ……あー……。ごめん。マジごめん……。」
雪男は相変わらず痛さに呻いていたが、いずれは終わりがくる痛みだと思えば耐えられると思った。燐のほうも欲望が勝ってなのか頭がパニックから立ち直れないためか、雪男の中から出て行ってやるという選択肢が思いつかないらしい。雪男の言うとおりにせっせと動いて出来るだけ早く欲望を吐き出そうと苦心していた。
自分のほうに前かがみになっている兄の首に雪男は腕を巻きつかせる。少しでも痛みの感覚を逃すためなのだが、それはどう見ても好きな男に熱烈に抱きついている恋人にしか見えない。
「ゆ……雪男っ。」
「あ…あっ……兄さん。」
ベッドが揺れるたびに夕暮れの残滓に埃が舞うのがはっきりと見える。眼鏡を掛けていないのに感覚がおかしくなったのかと雪男は舞う埃をおぼろげに見た。
凹凸を埋めあってお互いに密着した腰を揺すりながら、こんなに近くにいる相手にあまり頭がいっていない雪男だった。痛みはかなりもう薄れ掛けている。圧迫感と遅れてきた僅かな快感らしきものに意識を向けて、なにかを誤魔化していた。
「雪男っ。もうちょっとでイくからっ……。」
「う、うん……。」
やっと終わる。雪男は思わず終わる前なのに安堵してしまった。その安堵のあとに燐の上半身が雪男に倒れこんできた。
「終わったの? 兄さん?」
「……。」
燐はこくりと頷いた。その肩甲骨あたりを雪男はぽんぽんと叩く。
「ありがと……。ごめんね。急かしてばっかであまりよくなかったでしょ?」
「いや……。俺こそ途中からよく分かってなくて。痛い思いさせたし。」
お互いに男だから自分の至らなさが分かるぶん、最悪とは言わないがそう言っても差し支えないくらいの性行為だった。
「次は頑張るから。」
「次があるといいね。」
「次があるように頑張るからっ。」
「頑張らなくてもいいよ。」
殺生で情け容赦のない言葉だったが、多分この兄は挫けないと雪男は思った。
兄さんはまさに「い・ま・に♪」でした。タイトルは某ガンアクションアニメのエンディングより。まさにこれはひどい。
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