幸福雑音
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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第2話「ランチボックスポイズン」燐雪
朝任務から帰ってきた雪男の目は、千枚通しのような鋭さを帯びていた。燐は目を泳がせながらおはようと言う。雪男は胸ポケットから煙草のケースを取り出すと、口に一本咥えた。
「雪男。お前、悪魔の兄ちゃんへの腹いせに不良になるつもりか!」
「不良は兄さんだろ。」
「う、うぅ……」
雪男は燐には構わずライターを取り出して火をつける。
「大丈夫だよ。吸うわけじゃないんだ。」
そういうと雪男はつかつかと燐の側に寄ってその手を取る。燐が何かを考えない内に、何かを言い出さない内に、雪男はその煙草を燐の手の甲に押し付けた。その温度、七百度。
「ぎゃあああ!」
燐は慌てて手を引っ込めて自分の手をふうふうと吹いている。雪男は煙草を投げ捨て足で踏みにじった。そしておもむろに救急箱を取り出す。
「手当てするからこっち来て。」
火傷は痛い。雪男に手当てされるのは大好き。さまざまな矛盾を無視しながら燐は手の甲を差し出す。雪男は今度は兄の手を手厚く手当てしだす。
「なんでこんなことされるか、身に覚えあるよね。」
燐はぎくっと背中を震わす。雪男が帰ってこない内にゴミ箱のティッシュは撤去したし、ファブリーズも部屋中に振りかけた。ボトルの本体も隠している。エロ本の隠し場所もこの部屋じゃない。二人きりの寮の中なんだから、毎日隠す部屋を変えていればばれないはずなのに。
「僕が留守の間に、また不健全で非生産的で、不品行で不衛生なことをこの手でしたんだろう?」
「雪男。それってただの憶測なんじゃないのか?」
雪男は一旦兄から離れる。そして携帯電話充電器が繋がっているコンセントのタップから何かを取り出した。それを燐に突きつける。
「盗聴器だよ。」
「ひええぇ!」
雪男はそれを音声が出るように操作する。たちまち燐のあられのない声が雑音混じりに部屋に響いた。
「やっぱりね。」
「やっぱりねって、お前まだ聞いたわけじゃなかったんだろうが! 流石に兄ちゃんも怒るぞ。」
「でも鉄板だったわけでしょ。大体、帰ってきたときに部屋が妙に片付いていたら不審に思うでしょ。おまけにファブリーズ臭いし。兄さんの枕元にあったボックスティッシュの箱も見当たらないし。その割にはゴミ箱は空っぽだし。」
偽装工作が行き過ぎた。燐は自分が完全犯罪に向かないことを実感した。しかし燐のやった行為はけして犯罪ではない。今度からはエロ本を隠す場所と共に、オナニーするのもこの部屋じゃないほうがいいらしい。
「そうだね。この部屋じゃなければ、多少はいっか。」
相変わらず顔に考えていることが出ているらしい。ほとほと隠し事には向いていない。
「兄さん。自慰をした手で触った場所は全部消毒しといてね。」
雪男は医療用のアルコールとガーゼを燐に突きつける。そして腕を組んで早くと言わんばかりに顎をしゃくった。燐は泣き泣きベッドの手すりをアルコールで拭き始める。
「兄さん。汚いことをした手で料理して欲しくないのもあるけど、今日のお弁当は僕が作るから。消毒したあとで食堂に来てね。」
「え?」
「振り向いてる暇があったら、さっさと消毒終わらせて。」
雪男はそう言うと、ばたんとドアを閉めた。取り残された燐はわけのわからない涙がこみ上げていた。
『そりゃあ、雪男が俺のスケベ行為が許せないのは分かるけど。兄ちゃん、雪男がいなくて寂しくて、気がついたら右手が……。』
我慢が利いてないのかな? 燐はする必要のない自己嫌悪を覚えてしまった。それでも包帯を巻かれた右手が疼く。
「好き。雪男、好き。」
唱えた愛の詠唱を聴いてくれる弟はいなかった。
「兄さんのバカっ。スケベっ。」
雪男は生卵を調理台に軽くぶつける。そして溜息をつきながらボールに割りいれた。
「僕は兄さんに出来るだけ痛みを与えないように殺したいんだよ。あんな拷問じみたことしたくないのに。どうして懲りないんだ。」
理不尽な思いを雪男は料理に込める。その様子に厨房の主は雪男の顔と手元を交互に眺め、危なっかしいと思っているのだろうか、時折指差したり誘導しようとするように手振りで何かを伝えようとしている。親切な悪魔の気遣いも雪男にとってはあまり意味が無い。
不安を吐き出すようにその口から呟きが漏れた。
「嫌われたかな? 兄さんに。」
何を今更である。殺すといっておいて、拷問まがいのことをしておいて。それでも兄を好きなのは変わりない。しかしどうしても、たった一点が許せない。
「酷いよ、お母さん。僕だけにあんなのを押し付けて……。」
顔も知らない母親への恨み言はただの独り言だった。ウコバクは自分の兄貴に向かってあんなの呼ばわりは無いだろうという目をしている。ウコバクにとって燐は物質界で唯一の料理友達。その非難めいた目に向かって雪男は言い訳をする。
「兄さんのことをあんなのって言ったわけじゃないから。」
なら、なんなのだろう。しかし雪男は口元を手で覆って青ざめた顔をしている。流石にウコバクももういいよというように手を振った。
しばらくして気分が治ったらしい雪男は再び料理を始めた。料理本と睨めっこをしながら、三十分ほどして二人分の弁当が出来上がった。その頃には消毒を終わらせてげんなりした兄も食堂に入ってきた。
「雪男。ちゃんと消毒済ませたから。だから許してくれないか?」
「今日だけのことは、今日だけで許してあげる。」
ふんと雪男はそっぽを向く。そして弁当箱を渡しに燐のほうに歩いていく。
「あ。やっぱやめた。」
「なんで?」
「僕兄さんと一緒に食べたい。だから、昼休みに特進科の教室に来て欲しいんだけど?」
「うん。分かった。特進科だなっ。」
即答だった。相変わらず頭の悪い兄だった。でも嫌われてなくて良かった。
スキップで食堂を出て行く兄の姿を雪男の冷たい目だけが追っていた。
* * *
燐は緊張した面持ちで特進科の教室に向かう。普通科と違い、燐と同じ制服を着ているくせに優等生ばかりが集まっていると思うと、妙な威圧感を感じてしまう。もしや指差されたりとかしないかと不安に思った。
教壇側の入り口から顔を覗かせてみる。雪男は外面なのか、久しぶりににこやかな笑みを見せて燐を手招きしてくれた。
「兄さん。ここだと居心地悪そうだから、外に出ようか?」
「いいぜ。」
雪男は小さな手提げ袋を取り出すと、付いてきてと燐に言った。
今朝の冷たいどころじゃない仕打ち(実際は灼熱地獄)をまるで感じさせない笑顔だった。しかしぐりぐりと足の甲は踏まれている。燐は苦笑いを浮かべた。
雪男に連れられて燐は校舎の外に出た。雪男はやけに人気の無い場所ばかり選んで歩く。そして最終的に足を止めたのは、外付けの階段の身を隠せる場所だった。
「雪男、ちゃんと俺の分の弁当持ってきてくれた?」
「わざわざ兄さんに食べて欲しくて作ったんだよ。持ってこなくてどうするの?」
『わざわざ』『兄さんに』『食べて』『欲しくて』。一つずつ独立して聞くとなんだかすごく意味ありげに聞こえる。そういえば弟は悪魔薬学のエキスパートだったような気がする。まさかわざわざこの弟が作ったのは、なんだか危ないお薬が入ったお弁当なんじゃないだろうか?
燐はこの時点で雪男と同じ部屋で一週間ほど過ごしているので、ちょっとしたことは学習していた。靴の中に画鋲とか。階段にピアノ線とか。ベッドの中にタランチュラとか。昼寝をしている最中に、部屋の隙間を目張りされてドライアイスが大量に置かれていたこともあった。または練炭入りの七輪。
燐はらしくなく雪男からの弁当を受け取れずにいた。しかしそれを許す雪男ではない。
「兄さん。僕は兄さんと違って料理はからっきし駄目なほうだけど。今更嫌そうな顔をされると悲しいよ。気持ちだけは込めたつもりなんだ。」
燐は固まってしまう。
「まさか美味しくないからって、食べてくれないことなんてないよね?」
片手が弁当のほうに伸びるが、途中でやはり止まってしまう。
「ちょっと違和感のある味かもしれないけど、食べられないほどじゃないと思うんだ!」
燐の身体が跳ねる。これはやはり何か入っているに違いない。燐は勇気を出して訊いてみることにした。
「雪男。弁当に、何か入れた?」
雪男は黙り込む。そしてばつが悪そうに頷いた。
「その弁当食べたら、俺どうなっちゃうの?」
雪男は相変わらず口元だけで笑っている。
「雪男は俺がどうなっちゃうのか、分かってるんだよね?」
雪男は目を逸らそうとしたが、思い直して燐を再び凝視する。
「でも雪男はどうしても、俺にその弁当食べさせたいんだよね?」
雪男は頷く。目がきらきら光っている。その綺麗さ加減が余計に燐を追い詰める。
「そっか。うん。」
燐は弁当を受け取った。そして大慌てで蓋を開ける。そして焦げあとの目立つ卵焼きを箸で摘んだ。
「雪男ちゃんっ。いただきます!」
そこから先は早かった。中に込められた殺意が身体を巡る前に完食せしめたかったから。案の定弁当は全体的に薬のような苦味があった。横目で雪男を見ると、さっきまでのにこにこした顔が嘘のように無表情になっている。そしてその顔は何かを待っているようにも見えた。
昼休みの気だるい日差しが妙な雰囲気を雪男に纏わせている。
「はあ。はあ……」
「全部食べたね? 兄さん。」
再び雪男は春の埃っぽい陽の光を背に微笑んだ。最終回にヒロインが主人公に向けるような笑顔だった。
『今日が俺の最終回か?』
燐は襲ってくるかもしれない痛みとか震えに身構える。
しかし一向に燐の身には何も起こらない。
「雪男ちゃん。俺、死なないんだけど。」
「だろうね。幾ら性欲で全細胞が構成されているような兄さんでも、性欲減退剤じゃ死なないよね。」
「なにそれっ。」
燐は雪男に詰め寄る。
「ケダモノには餌に混ぜて与えるしかないでしょ。」
「ケダモノ言うな! 年中盛ってるのは人間の証拠だろうが!」
「いや。兄さんは悪魔だから、年中無休二十四時間営業で盛ってるんじゃないかと。」
「おいぃ。」
結局毒ではなかったので、ちょっとほっとはしてみるが、なんて物を実の兄貴に飲ませるんだと燐は思った。
「ごめんね。兄さん。」
急に雪男が燐に抱きついてきた。
「な、なに? びっくりするじゃん。」
雪男は燐の様子を窺うように上目遣いで見てくる。
「どう? ドキドキする?」
燐は自分の心臓に手を置く。
「いや。なんか全然しないわ。」
「じゃあ、効いてるみたい。良かった。」
「よくねえ!」
心臓が恋心に機能しないだけで、頭の中は嬉しさだったり驚きだったり、ごっちゃごちゃなんだよと燐は叫びたかった。そんな燐の気持ちを知らぬげに、雪男は遠い目をしながら一人ごちている。
「ずっと続けて服用していれば、一回でこんなに効くんだから、きっと性欲を全然感じなくなるよ。兄さん。」
「雪男ちゃん。兄ちゃんを不能にしたいの?」
それなら良かったんだけどと雪男は眉を顰めて泣きそうな顔になっている。
「それは偶然出来た試作品だったんだ。」
「ええええええええええ? 臨床例まったくなし! 俺が実験台?」
「そういうことになるかもね。だから二度と同じ薬は作れないんだ。僕にとっては一回限りの奇跡だね。それをこんな早くに使って、勿体無かったな。」
本当に悲しそうに雪男は言う。しかし燐のほうがもっと悲しかった。雪男は燐の身体に回した腕に力を入れてぎゅっと抱き締めてくる。
「今だけだね。兄さんにこうして、ひっついてられるのも。」
それは俺が今性欲ゼロのせいなのかと問いかけたくなる。絶対にむらむらされないという保証がないと、この弟は兄に触れることも出来ないのだろうか? だったら――。
「ごめん。俺、薬が切れたらまたお前のこと……」
「知ってる。分かってる。どうしようもないのは。僕なんだって。不自然で不条理なことを言ってるのは僕なんだって。この一週間ずっと何気に僕は兄さんに甘えていたことは自覚している。」
あの罠は雪男の無言の訴えだったのか。
雪男の背中におずおずと燐は腕を回す。そして弟と同じように抱き締めた。
「雪男。俺は、殺してもなかなか死なない兄ちゃんだから。この程度なら悲しいけどまだ大丈夫。でももっと悲しくなったら、兄ちゃん本当に死んじゃうかも。」
「駄目だよ。兄さん。兄さんは僕が殺すんだから。兄さんの悲しみになんかくれてやんない。」
だからそれが悲しくなるのに。
薬はいつまで効いてくれるのだろうか? 明日の朝? 真夜中? 夕方? それとも昼休みが終わったら、もうお終い?
「雪男。昼からの授業さぼれる?」
「なんで?」
「薬が切れるまで、ここでこうしていようよ。お前だって兄ちゃんを殺さないで済む時間くらいは、一緒にいても大丈夫だろ?」
雪男は頷く。燐の肩に頭を預けて、まるで甘えるように顔を擦り付けてくる。
「雪男。好きだよ。」
「僕も。兄さん。」
欲は失せても恋はなくならないことを燐はここで知った。
普通だったら燐に飲ませるのはエッチな薬だろう・・・。それを雪男が「兄さん。今のままじゃ辛いだろ?」とか言う展開ですが、この雪男は本当にもう。カップリングを反対にするだけでこんなに殺伐するとは思いませんでした。
「雪男。お前、悪魔の兄ちゃんへの腹いせに不良になるつもりか!」
「不良は兄さんだろ。」
「う、うぅ……」
雪男は燐には構わずライターを取り出して火をつける。
「大丈夫だよ。吸うわけじゃないんだ。」
そういうと雪男はつかつかと燐の側に寄ってその手を取る。燐が何かを考えない内に、何かを言い出さない内に、雪男はその煙草を燐の手の甲に押し付けた。その温度、七百度。
「ぎゃあああ!」
燐は慌てて手を引っ込めて自分の手をふうふうと吹いている。雪男は煙草を投げ捨て足で踏みにじった。そしておもむろに救急箱を取り出す。
「手当てするからこっち来て。」
火傷は痛い。雪男に手当てされるのは大好き。さまざまな矛盾を無視しながら燐は手の甲を差し出す。雪男は今度は兄の手を手厚く手当てしだす。
「なんでこんなことされるか、身に覚えあるよね。」
燐はぎくっと背中を震わす。雪男が帰ってこない内にゴミ箱のティッシュは撤去したし、ファブリーズも部屋中に振りかけた。ボトルの本体も隠している。エロ本の隠し場所もこの部屋じゃない。二人きりの寮の中なんだから、毎日隠す部屋を変えていればばれないはずなのに。
「僕が留守の間に、また不健全で非生産的で、不品行で不衛生なことをこの手でしたんだろう?」
「雪男。それってただの憶測なんじゃないのか?」
雪男は一旦兄から離れる。そして携帯電話充電器が繋がっているコンセントのタップから何かを取り出した。それを燐に突きつける。
「盗聴器だよ。」
「ひええぇ!」
雪男はそれを音声が出るように操作する。たちまち燐のあられのない声が雑音混じりに部屋に響いた。
「やっぱりね。」
「やっぱりねって、お前まだ聞いたわけじゃなかったんだろうが! 流石に兄ちゃんも怒るぞ。」
「でも鉄板だったわけでしょ。大体、帰ってきたときに部屋が妙に片付いていたら不審に思うでしょ。おまけにファブリーズ臭いし。兄さんの枕元にあったボックスティッシュの箱も見当たらないし。その割にはゴミ箱は空っぽだし。」
偽装工作が行き過ぎた。燐は自分が完全犯罪に向かないことを実感した。しかし燐のやった行為はけして犯罪ではない。今度からはエロ本を隠す場所と共に、オナニーするのもこの部屋じゃないほうがいいらしい。
「そうだね。この部屋じゃなければ、多少はいっか。」
相変わらず顔に考えていることが出ているらしい。ほとほと隠し事には向いていない。
「兄さん。自慰をした手で触った場所は全部消毒しといてね。」
雪男は医療用のアルコールとガーゼを燐に突きつける。そして腕を組んで早くと言わんばかりに顎をしゃくった。燐は泣き泣きベッドの手すりをアルコールで拭き始める。
「兄さん。汚いことをした手で料理して欲しくないのもあるけど、今日のお弁当は僕が作るから。消毒したあとで食堂に来てね。」
「え?」
「振り向いてる暇があったら、さっさと消毒終わらせて。」
雪男はそう言うと、ばたんとドアを閉めた。取り残された燐はわけのわからない涙がこみ上げていた。
『そりゃあ、雪男が俺のスケベ行為が許せないのは分かるけど。兄ちゃん、雪男がいなくて寂しくて、気がついたら右手が……。』
我慢が利いてないのかな? 燐はする必要のない自己嫌悪を覚えてしまった。それでも包帯を巻かれた右手が疼く。
「好き。雪男、好き。」
唱えた愛の詠唱を聴いてくれる弟はいなかった。
「兄さんのバカっ。スケベっ。」
雪男は生卵を調理台に軽くぶつける。そして溜息をつきながらボールに割りいれた。
「僕は兄さんに出来るだけ痛みを与えないように殺したいんだよ。あんな拷問じみたことしたくないのに。どうして懲りないんだ。」
理不尽な思いを雪男は料理に込める。その様子に厨房の主は雪男の顔と手元を交互に眺め、危なっかしいと思っているのだろうか、時折指差したり誘導しようとするように手振りで何かを伝えようとしている。親切な悪魔の気遣いも雪男にとってはあまり意味が無い。
不安を吐き出すようにその口から呟きが漏れた。
「嫌われたかな? 兄さんに。」
何を今更である。殺すといっておいて、拷問まがいのことをしておいて。それでも兄を好きなのは変わりない。しかしどうしても、たった一点が許せない。
「酷いよ、お母さん。僕だけにあんなのを押し付けて……。」
顔も知らない母親への恨み言はただの独り言だった。ウコバクは自分の兄貴に向かってあんなの呼ばわりは無いだろうという目をしている。ウコバクにとって燐は物質界で唯一の料理友達。その非難めいた目に向かって雪男は言い訳をする。
「兄さんのことをあんなのって言ったわけじゃないから。」
なら、なんなのだろう。しかし雪男は口元を手で覆って青ざめた顔をしている。流石にウコバクももういいよというように手を振った。
しばらくして気分が治ったらしい雪男は再び料理を始めた。料理本と睨めっこをしながら、三十分ほどして二人分の弁当が出来上がった。その頃には消毒を終わらせてげんなりした兄も食堂に入ってきた。
「雪男。ちゃんと消毒済ませたから。だから許してくれないか?」
「今日だけのことは、今日だけで許してあげる。」
ふんと雪男はそっぽを向く。そして弁当箱を渡しに燐のほうに歩いていく。
「あ。やっぱやめた。」
「なんで?」
「僕兄さんと一緒に食べたい。だから、昼休みに特進科の教室に来て欲しいんだけど?」
「うん。分かった。特進科だなっ。」
即答だった。相変わらず頭の悪い兄だった。でも嫌われてなくて良かった。
スキップで食堂を出て行く兄の姿を雪男の冷たい目だけが追っていた。
* * *
燐は緊張した面持ちで特進科の教室に向かう。普通科と違い、燐と同じ制服を着ているくせに優等生ばかりが集まっていると思うと、妙な威圧感を感じてしまう。もしや指差されたりとかしないかと不安に思った。
教壇側の入り口から顔を覗かせてみる。雪男は外面なのか、久しぶりににこやかな笑みを見せて燐を手招きしてくれた。
「兄さん。ここだと居心地悪そうだから、外に出ようか?」
「いいぜ。」
雪男は小さな手提げ袋を取り出すと、付いてきてと燐に言った。
今朝の冷たいどころじゃない仕打ち(実際は灼熱地獄)をまるで感じさせない笑顔だった。しかしぐりぐりと足の甲は踏まれている。燐は苦笑いを浮かべた。
雪男に連れられて燐は校舎の外に出た。雪男はやけに人気の無い場所ばかり選んで歩く。そして最終的に足を止めたのは、外付けの階段の身を隠せる場所だった。
「雪男、ちゃんと俺の分の弁当持ってきてくれた?」
「わざわざ兄さんに食べて欲しくて作ったんだよ。持ってこなくてどうするの?」
『わざわざ』『兄さんに』『食べて』『欲しくて』。一つずつ独立して聞くとなんだかすごく意味ありげに聞こえる。そういえば弟は悪魔薬学のエキスパートだったような気がする。まさかわざわざこの弟が作ったのは、なんだか危ないお薬が入ったお弁当なんじゃないだろうか?
燐はこの時点で雪男と同じ部屋で一週間ほど過ごしているので、ちょっとしたことは学習していた。靴の中に画鋲とか。階段にピアノ線とか。ベッドの中にタランチュラとか。昼寝をしている最中に、部屋の隙間を目張りされてドライアイスが大量に置かれていたこともあった。または練炭入りの七輪。
燐はらしくなく雪男からの弁当を受け取れずにいた。しかしそれを許す雪男ではない。
「兄さん。僕は兄さんと違って料理はからっきし駄目なほうだけど。今更嫌そうな顔をされると悲しいよ。気持ちだけは込めたつもりなんだ。」
燐は固まってしまう。
「まさか美味しくないからって、食べてくれないことなんてないよね?」
片手が弁当のほうに伸びるが、途中でやはり止まってしまう。
「ちょっと違和感のある味かもしれないけど、食べられないほどじゃないと思うんだ!」
燐の身体が跳ねる。これはやはり何か入っているに違いない。燐は勇気を出して訊いてみることにした。
「雪男。弁当に、何か入れた?」
雪男は黙り込む。そしてばつが悪そうに頷いた。
「その弁当食べたら、俺どうなっちゃうの?」
雪男は相変わらず口元だけで笑っている。
「雪男は俺がどうなっちゃうのか、分かってるんだよね?」
雪男は目を逸らそうとしたが、思い直して燐を再び凝視する。
「でも雪男はどうしても、俺にその弁当食べさせたいんだよね?」
雪男は頷く。目がきらきら光っている。その綺麗さ加減が余計に燐を追い詰める。
「そっか。うん。」
燐は弁当を受け取った。そして大慌てで蓋を開ける。そして焦げあとの目立つ卵焼きを箸で摘んだ。
「雪男ちゃんっ。いただきます!」
そこから先は早かった。中に込められた殺意が身体を巡る前に完食せしめたかったから。案の定弁当は全体的に薬のような苦味があった。横目で雪男を見ると、さっきまでのにこにこした顔が嘘のように無表情になっている。そしてその顔は何かを待っているようにも見えた。
昼休みの気だるい日差しが妙な雰囲気を雪男に纏わせている。
「はあ。はあ……」
「全部食べたね? 兄さん。」
再び雪男は春の埃っぽい陽の光を背に微笑んだ。最終回にヒロインが主人公に向けるような笑顔だった。
『今日が俺の最終回か?』
燐は襲ってくるかもしれない痛みとか震えに身構える。
しかし一向に燐の身には何も起こらない。
「雪男ちゃん。俺、死なないんだけど。」
「だろうね。幾ら性欲で全細胞が構成されているような兄さんでも、性欲減退剤じゃ死なないよね。」
「なにそれっ。」
燐は雪男に詰め寄る。
「ケダモノには餌に混ぜて与えるしかないでしょ。」
「ケダモノ言うな! 年中盛ってるのは人間の証拠だろうが!」
「いや。兄さんは悪魔だから、年中無休二十四時間営業で盛ってるんじゃないかと。」
「おいぃ。」
結局毒ではなかったので、ちょっとほっとはしてみるが、なんて物を実の兄貴に飲ませるんだと燐は思った。
「ごめんね。兄さん。」
急に雪男が燐に抱きついてきた。
「な、なに? びっくりするじゃん。」
雪男は燐の様子を窺うように上目遣いで見てくる。
「どう? ドキドキする?」
燐は自分の心臓に手を置く。
「いや。なんか全然しないわ。」
「じゃあ、効いてるみたい。良かった。」
「よくねえ!」
心臓が恋心に機能しないだけで、頭の中は嬉しさだったり驚きだったり、ごっちゃごちゃなんだよと燐は叫びたかった。そんな燐の気持ちを知らぬげに、雪男は遠い目をしながら一人ごちている。
「ずっと続けて服用していれば、一回でこんなに効くんだから、きっと性欲を全然感じなくなるよ。兄さん。」
「雪男ちゃん。兄ちゃんを不能にしたいの?」
それなら良かったんだけどと雪男は眉を顰めて泣きそうな顔になっている。
「それは偶然出来た試作品だったんだ。」
「ええええええええええ? 臨床例まったくなし! 俺が実験台?」
「そういうことになるかもね。だから二度と同じ薬は作れないんだ。僕にとっては一回限りの奇跡だね。それをこんな早くに使って、勿体無かったな。」
本当に悲しそうに雪男は言う。しかし燐のほうがもっと悲しかった。雪男は燐の身体に回した腕に力を入れてぎゅっと抱き締めてくる。
「今だけだね。兄さんにこうして、ひっついてられるのも。」
それは俺が今性欲ゼロのせいなのかと問いかけたくなる。絶対にむらむらされないという保証がないと、この弟は兄に触れることも出来ないのだろうか? だったら――。
「ごめん。俺、薬が切れたらまたお前のこと……」
「知ってる。分かってる。どうしようもないのは。僕なんだって。不自然で不条理なことを言ってるのは僕なんだって。この一週間ずっと何気に僕は兄さんに甘えていたことは自覚している。」
あの罠は雪男の無言の訴えだったのか。
雪男の背中におずおずと燐は腕を回す。そして弟と同じように抱き締めた。
「雪男。俺は、殺してもなかなか死なない兄ちゃんだから。この程度なら悲しいけどまだ大丈夫。でももっと悲しくなったら、兄ちゃん本当に死んじゃうかも。」
「駄目だよ。兄さん。兄さんは僕が殺すんだから。兄さんの悲しみになんかくれてやんない。」
だからそれが悲しくなるのに。
薬はいつまで効いてくれるのだろうか? 明日の朝? 真夜中? 夕方? それとも昼休みが終わったら、もうお終い?
「雪男。昼からの授業さぼれる?」
「なんで?」
「薬が切れるまで、ここでこうしていようよ。お前だって兄ちゃんを殺さないで済む時間くらいは、一緒にいても大丈夫だろ?」
雪男は頷く。燐の肩に頭を預けて、まるで甘えるように顔を擦り付けてくる。
「雪男。好きだよ。」
「僕も。兄さん。」
欲は失せても恋はなくならないことを燐はここで知った。
普通だったら燐に飲ませるのはエッチな薬だろう・・・。それを雪男が「兄さん。今のままじゃ辛いだろ?」とか言う展開ですが、この雪男は本当にもう。カップリングを反対にするだけでこんなに殺伐するとは思いませんでした。
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