幸福雑音
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☆ss「アフターバンダースナッチ」燐雪
六○二号室のドアを燐が開ける。雪男は兄にお姫様抱っこされたままだった。どこに持っていけばいいのか分からなかった両腕は兄の首に回されている。走る兄から伝わる振動をそうしなければ和らげられなかったからだ。
逃げてる兄弟を追う誰かがいなくて本当に良かったと思う。部屋の中まできて立ち止まった燐は雪男に向かって言った。
「おい。もうしがみつかなくても大丈夫だぞ。それよりもあそこじゃ余裕なくて拭いてやれなかったけど。」
燐はそっと雪男をベッドに腰掛けさせる。そして自分のスペースからタオルを持ってきて雪男の口を拭いだした。
「あーあ。べたべただな。」
雪男の口の周りは、ケチャップだとか米粒だとか刻んだ野菜だとかでひどい有様になっている。小さな子どもでもそこまで汚さないだろうという状態だった。
「じ、自分でやるよ。」
雪男は燐の手からタオルを取ろうとしたが、燐はタオルを手放してくれない。
「だーめ。俺がやるの。」
「いつまで優しいご主人様のつもりでいるんだい?」
「は? もうアホ芝居は終わってるだろ。」
アホ芝居。
雪男の頬にかぁっと血が上る。そして心臓が今更のように激しく脈打った。自分の意思を裏切る身体がぶるぶると震える。目の前の景色が霞む。
「雪男?」
「兄さん。僕のあの姿、アホみたいって、思って、たの?」
顔が赤くなるは、悔しさと恥ずかしさのせいだった。
「え。そんな……」
「馬鹿みたいな冗談だと思って、あんなことやそんなことを、僕にさせてたの!」
雪男はぼろぼろと涙を零している。燐はおろおろと雪男を宥めようと言葉を続けようとした。しかし雪男の癇癪は止まらない。
「も、もういいよっ。済んだことだし。当の兄さんが本気に取ってないなら、みんなも本気に取ってないよね。あー。よかったよ。それで。」
「ゆ、雪男。いや、馬鹿とか冗談だとは思ってねえよ。お前、凄く可愛かったし。ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないけど。お前が素直に言うこと聞いてくれるから。つい。」
雪男はきっと涙が滲んだ目で燐を睨んだ。
「いつまで優しいご主人様やってんだよ!」
「元からご主人様なんてやってねえよ!」
「じゃああれは、兄さんの素だって言うのかい! あんな兄さん。僕は今までひとっつも見たことなかったんだから。信じられるもんか!」
雪男が今まで兄だと信じていた姿は、今日のあのお芝居で裏切られたということか。なんて馬鹿馬鹿しい。自分の見ていたものの薄っぺらさが憎らしい。でもそんな兄に気圧されて、それに半ば悦んで従っていた自分が一番忌々しい。まるでそんな兄をずっと待ち焦がれていたみたいで、自らの身体と心が汚らわしい。
あんなふうに兄に支配されたいと思っていたのが自分の本性なのか。
兄に責められていたときに感じた恍惚感の心地よさを、まだ覚えている自分の身体が、頭の中が、なにもかもが腹立たしい。そして今すぐにでも死んでしまって、そんな身体も頭もなかったことにしてしまいたい。
「落ち着けよ。雪男――。」
また燐は普段みたいに笑って弟を宥めようとする。じゃあ自分も普段どおりに戻ってしまえばいいのに。雪男は涙を止めようとしたが、そうすればするほど、せりあがってくる感情が胸を圧迫する。
「お、お前がそんなに嫌がるとは思わなかったけど。俺は………、かなり嬉しかったんだぜ。そりゃあ少しはいじめちゃったのかもしれないけど。」
「少し? あれが? 公衆の面前でオムライス犬食いさせて、いじめられるのが気持ちいい恥ずかしいメイドですって言わせておいて。」
「アレくらいは罰ゲームくらいのレベルだろ?」
「兄さんみたいな不良のチンピラにはね。誰も笑ってなかったでしょ。誰も笑えなかったんだよ。」
雪男はそれどころではなくて気がついてなかったが、あの時一同くすりともが笑っていなかったのは、あまりのあの舞台の兄弟の容赦ない壮絶さのせいで、感動して何も言えなかったのだ。しかし雪男の主観ではそうではないので、その真実は雪男の頭に入る余地が無い。
「いや。そうじゃないと思うけどな。」
雪男を説得するために軽く罰ゲームと言ってしまったが、燐にとっては思いもよらぬ日頃からの欲求を実現させてしまったことへの罪悪感もある。いつのまにか手の届かないところに弟が上り詰めていたと知ったときから、本当にわずかずつ肥大していった欲求。そして今この場で泣きじゃくる弟の姿さえもが、燐にとっては堪らない。
それを誤魔化そうとすればするほど雪男の怒りを買ってしまうなら、いっそ全てを吐き出した上で怒りを被るほうがマシに思えてきた。
「雪男。きっかけはメフィストに金をせびるための引き換えだったけど、俺、本当は、雪男にああいうことしてみたいって思ってたのかもしれない。でも芝居をしていくうちに止まらなくなって。それなのに雪男が気持ちよさそうな顔するから、調子に乗ってああいうことまで言わせちまった。――ほんとに、ごめん。」
雪男は俯いて膝の上で拳を握る。
「雪男が恥ずかしがったり、涙目になったりして、すっげえ興奮した。声なんかずっと震えてたし。でも、お前からすれば迷惑だっただろうし。勘弁してほしかっただろうな。」
雪男はすんと鼻を啜る。長い睫の影だけが一度震えた。
「雪男。ほんとに可愛かった。それに恥ずかしがってるところが凄く、やらしかったし。みんなの前じゃなかったら、ああいうふう俺は終わらせなかったと思う。何やらかすか分からなかった。お前が必至に好き勝手やる俺のフォローをしてくれたのに、アホ芝居なんて言って茶化してすまない。俺、本当に……お前のこと好きだし、また機会があったら、あんなふうにしたいなって思ってるんだ。だけど迷惑だよな。もう二度としたくないに決まってるよな。」
「本当に、言ってることが一方的だよね。」
燐は肩を竦めて縮こまっている。殴られても仕方ないと思っていた。雪男が顔を上げると燐は気まずそうに顔を伏せた。
雪男は口を開く。
「本当に兄さんは自分のために弟巻き込んで、優しくしたいだとか、恥ずかしがらせたいとか、みんなの面前じゃなかったら何するか分からなかったとか。本当に勝手すぎるよね。それ聞かされる弟の身になってよ。」
燐は胸に手を当ててしばらく考えている。そのうちに苦しそうに呻きだした。本気で弟の身になってみようと、脳内でシュミレーションしているらしい。しかしその脳内シュミュレーションには足りない感情が幾つもあるだろう。何故なら雪男も、兄に辱められたり優しくされたことが嬉しかったのだから。
雪男は燐の鼻を摘む。
「馬鹿兄っ。なんでそんなに苦しそうなんだよ。」
「お前が嫌がってたのが、すごく、わかったから。」
「僕が分かって欲しかったのは嫌がってたことじゃない。兄さんも言葉の端々で言ってただろ? あのときの僕はどういうふうに見えてた? さっきの兄さんみたいに苦しそうに呻いてた?」
燐はまた宙に視線を泳がせる。
「いや。なんかお前は、夢みてるような顔してたよな。でもあのときはお芝居だと思ってたし。」
「僕がそんなに芝居ッ気のある人間だと思う?」
燐は黙り込む。しかし決定的なことを言ってこないので、雪男は痺れを切らせた。
「本当にメイドに恥ずかしいことを言わせたいご主人様だね。兄さんは。お望みどおり気の利かないご主人様の前で言ってやるよ。耳をかっぽじってよく聞けよ。ご主人様。」
雪男はすうっと息を大きく吸って、真っ赤な顔で燐に告白する。
「兄さんのあの言葉や態度が、お芝居じゃないって聞いて嬉しい。は、恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。……僕は……その、兄さんのことが、……。」
最初だけは威勢が良かったが、雪男の言葉は次第に弱気が表に出てきていた。それが余計に雪男の羞恥を煽る。
「兄さんのことが、なんだ? 雪男。最後まで聞いてるから。」
「聞かなくていいから、察してよ。」
「いや。やっぱり言え。」
「命令かよ!」
なんて傲岸な男なんだろう。憎らしい。でも、――。
「……そんな兄さんが、好き、なんだよ。」
再び俯いて顔を両手で隠した雪男の頭を燐は撫でる。
「よく素直に言ったな。雪男。」
「だからご主人様じゃないんだろ!」
「当たり前だ。俺はお前の兄貴だ。」
雪男がひたすら恥らっている様を燐は満足そうに見ている。
「良かった。嫌われたんじゃなくて。」
反省はしているが、全然態度は変わっていない。
雪男も思い知った。自分たちが見せていたのは、お芝居じゃなくて、今まで隠れていた自分たちの本性だと。だから演劇の素人であるはず自分たちが、観客に笑われることなく迫真の舞台を見せることが出来たのだと。願わくば。観客たちにはそれに気づいて欲しくない。ずっと永遠にあれは見事な虚実だったと思って欲しかった。
「兄さん。今度僕のあんな姿を見たいと思ったら、どうか、誰もいない二人きりのときにして。」
「えー。あれはあれで、俺としては燃えるんだけど。」
公衆の面前でいちゃつくカップルでもやりたいのかと雪男はげんなりする。恥ずかしかったのが気持ちよかったけど、自分はまだそこまで常識から外れた気持ちよさは身に余る。それを思うと、お互いの気持ちを知る前に、非常識な気持ちよさを図らずも教えてしまったメフィストを恨めしく思う。
それならば――。
「兄さん。あのときみんながいなかったら、僕をどうしたいって思ってた?」
次の瞬間、雪男は思い切り後ろに押し倒されていた。自分の上にはあはあと息を荒げた兄が覆いかぶさっている。
「ご主人様を煽るなんて悪いメイドだ。」
「ご主人様じゃないでしょ。」
「じゃあ、兄貴を煽るなんて悪い弟だ。」
その兄の言い草には言い返せない弟だった。それを肯定と受け取った燐は雪男のコートのボタンを外していく。
「誰か来るかもしれないよ。」
「そんな物好きがこの部屋に来たら、次のお芝居の練習だって誤魔化しゃあいいよ。」
次のお芝居があるのかよと雪男は溜息が出る。
「やっぱ肉欲だな。」
「意味知ってたんだ。」
不良がやりがちな、辞書でいやらしい言葉にだけラインを引くという習慣を雪男は知らない。不良は思わぬような卑猥な言葉だけは熟知しているものなのだ。
燐の口走った言葉と圧し掛かってくる兄の体重に顔を赤くした雪男は、大人しくベッドの上で目を瞑った。
リクエストの続編を書いてしまいました。いっぺんにやれよという話ですね。ここから先はもうお芝居でもなんでもないので一旦終了。暗転です。もとからお芝居じゃないんですけど。燐雪で殺伐ではなく、あまあまを書いてみたかったのは私の隠れた本音だったのでしょうか?
逃げてる兄弟を追う誰かがいなくて本当に良かったと思う。部屋の中まできて立ち止まった燐は雪男に向かって言った。
「おい。もうしがみつかなくても大丈夫だぞ。それよりもあそこじゃ余裕なくて拭いてやれなかったけど。」
燐はそっと雪男をベッドに腰掛けさせる。そして自分のスペースからタオルを持ってきて雪男の口を拭いだした。
「あーあ。べたべただな。」
雪男の口の周りは、ケチャップだとか米粒だとか刻んだ野菜だとかでひどい有様になっている。小さな子どもでもそこまで汚さないだろうという状態だった。
「じ、自分でやるよ。」
雪男は燐の手からタオルを取ろうとしたが、燐はタオルを手放してくれない。
「だーめ。俺がやるの。」
「いつまで優しいご主人様のつもりでいるんだい?」
「は? もうアホ芝居は終わってるだろ。」
アホ芝居。
雪男の頬にかぁっと血が上る。そして心臓が今更のように激しく脈打った。自分の意思を裏切る身体がぶるぶると震える。目の前の景色が霞む。
「雪男?」
「兄さん。僕のあの姿、アホみたいって、思って、たの?」
顔が赤くなるは、悔しさと恥ずかしさのせいだった。
「え。そんな……」
「馬鹿みたいな冗談だと思って、あんなことやそんなことを、僕にさせてたの!」
雪男はぼろぼろと涙を零している。燐はおろおろと雪男を宥めようと言葉を続けようとした。しかし雪男の癇癪は止まらない。
「も、もういいよっ。済んだことだし。当の兄さんが本気に取ってないなら、みんなも本気に取ってないよね。あー。よかったよ。それで。」
「ゆ、雪男。いや、馬鹿とか冗談だとは思ってねえよ。お前、凄く可愛かったし。ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないけど。お前が素直に言うこと聞いてくれるから。つい。」
雪男はきっと涙が滲んだ目で燐を睨んだ。
「いつまで優しいご主人様やってんだよ!」
「元からご主人様なんてやってねえよ!」
「じゃああれは、兄さんの素だって言うのかい! あんな兄さん。僕は今までひとっつも見たことなかったんだから。信じられるもんか!」
雪男が今まで兄だと信じていた姿は、今日のあのお芝居で裏切られたということか。なんて馬鹿馬鹿しい。自分の見ていたものの薄っぺらさが憎らしい。でもそんな兄に気圧されて、それに半ば悦んで従っていた自分が一番忌々しい。まるでそんな兄をずっと待ち焦がれていたみたいで、自らの身体と心が汚らわしい。
あんなふうに兄に支配されたいと思っていたのが自分の本性なのか。
兄に責められていたときに感じた恍惚感の心地よさを、まだ覚えている自分の身体が、頭の中が、なにもかもが腹立たしい。そして今すぐにでも死んでしまって、そんな身体も頭もなかったことにしてしまいたい。
「落ち着けよ。雪男――。」
また燐は普段みたいに笑って弟を宥めようとする。じゃあ自分も普段どおりに戻ってしまえばいいのに。雪男は涙を止めようとしたが、そうすればするほど、せりあがってくる感情が胸を圧迫する。
「お、お前がそんなに嫌がるとは思わなかったけど。俺は………、かなり嬉しかったんだぜ。そりゃあ少しはいじめちゃったのかもしれないけど。」
「少し? あれが? 公衆の面前でオムライス犬食いさせて、いじめられるのが気持ちいい恥ずかしいメイドですって言わせておいて。」
「アレくらいは罰ゲームくらいのレベルだろ?」
「兄さんみたいな不良のチンピラにはね。誰も笑ってなかったでしょ。誰も笑えなかったんだよ。」
雪男はそれどころではなくて気がついてなかったが、あの時一同くすりともが笑っていなかったのは、あまりのあの舞台の兄弟の容赦ない壮絶さのせいで、感動して何も言えなかったのだ。しかし雪男の主観ではそうではないので、その真実は雪男の頭に入る余地が無い。
「いや。そうじゃないと思うけどな。」
雪男を説得するために軽く罰ゲームと言ってしまったが、燐にとっては思いもよらぬ日頃からの欲求を実現させてしまったことへの罪悪感もある。いつのまにか手の届かないところに弟が上り詰めていたと知ったときから、本当にわずかずつ肥大していった欲求。そして今この場で泣きじゃくる弟の姿さえもが、燐にとっては堪らない。
それを誤魔化そうとすればするほど雪男の怒りを買ってしまうなら、いっそ全てを吐き出した上で怒りを被るほうがマシに思えてきた。
「雪男。きっかけはメフィストに金をせびるための引き換えだったけど、俺、本当は、雪男にああいうことしてみたいって思ってたのかもしれない。でも芝居をしていくうちに止まらなくなって。それなのに雪男が気持ちよさそうな顔するから、調子に乗ってああいうことまで言わせちまった。――ほんとに、ごめん。」
雪男は俯いて膝の上で拳を握る。
「雪男が恥ずかしがったり、涙目になったりして、すっげえ興奮した。声なんかずっと震えてたし。でも、お前からすれば迷惑だっただろうし。勘弁してほしかっただろうな。」
雪男はすんと鼻を啜る。長い睫の影だけが一度震えた。
「雪男。ほんとに可愛かった。それに恥ずかしがってるところが凄く、やらしかったし。みんなの前じゃなかったら、ああいうふう俺は終わらせなかったと思う。何やらかすか分からなかった。お前が必至に好き勝手やる俺のフォローをしてくれたのに、アホ芝居なんて言って茶化してすまない。俺、本当に……お前のこと好きだし、また機会があったら、あんなふうにしたいなって思ってるんだ。だけど迷惑だよな。もう二度としたくないに決まってるよな。」
「本当に、言ってることが一方的だよね。」
燐は肩を竦めて縮こまっている。殴られても仕方ないと思っていた。雪男が顔を上げると燐は気まずそうに顔を伏せた。
雪男は口を開く。
「本当に兄さんは自分のために弟巻き込んで、優しくしたいだとか、恥ずかしがらせたいとか、みんなの面前じゃなかったら何するか分からなかったとか。本当に勝手すぎるよね。それ聞かされる弟の身になってよ。」
燐は胸に手を当ててしばらく考えている。そのうちに苦しそうに呻きだした。本気で弟の身になってみようと、脳内でシュミレーションしているらしい。しかしその脳内シュミュレーションには足りない感情が幾つもあるだろう。何故なら雪男も、兄に辱められたり優しくされたことが嬉しかったのだから。
雪男は燐の鼻を摘む。
「馬鹿兄っ。なんでそんなに苦しそうなんだよ。」
「お前が嫌がってたのが、すごく、わかったから。」
「僕が分かって欲しかったのは嫌がってたことじゃない。兄さんも言葉の端々で言ってただろ? あのときの僕はどういうふうに見えてた? さっきの兄さんみたいに苦しそうに呻いてた?」
燐はまた宙に視線を泳がせる。
「いや。なんかお前は、夢みてるような顔してたよな。でもあのときはお芝居だと思ってたし。」
「僕がそんなに芝居ッ気のある人間だと思う?」
燐は黙り込む。しかし決定的なことを言ってこないので、雪男は痺れを切らせた。
「本当にメイドに恥ずかしいことを言わせたいご主人様だね。兄さんは。お望みどおり気の利かないご主人様の前で言ってやるよ。耳をかっぽじってよく聞けよ。ご主人様。」
雪男はすうっと息を大きく吸って、真っ赤な顔で燐に告白する。
「兄さんのあの言葉や態度が、お芝居じゃないって聞いて嬉しい。は、恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。……僕は……その、兄さんのことが、……。」
最初だけは威勢が良かったが、雪男の言葉は次第に弱気が表に出てきていた。それが余計に雪男の羞恥を煽る。
「兄さんのことが、なんだ? 雪男。最後まで聞いてるから。」
「聞かなくていいから、察してよ。」
「いや。やっぱり言え。」
「命令かよ!」
なんて傲岸な男なんだろう。憎らしい。でも、――。
「……そんな兄さんが、好き、なんだよ。」
再び俯いて顔を両手で隠した雪男の頭を燐は撫でる。
「よく素直に言ったな。雪男。」
「だからご主人様じゃないんだろ!」
「当たり前だ。俺はお前の兄貴だ。」
雪男がひたすら恥らっている様を燐は満足そうに見ている。
「良かった。嫌われたんじゃなくて。」
反省はしているが、全然態度は変わっていない。
雪男も思い知った。自分たちが見せていたのは、お芝居じゃなくて、今まで隠れていた自分たちの本性だと。だから演劇の素人であるはず自分たちが、観客に笑われることなく迫真の舞台を見せることが出来たのだと。願わくば。観客たちにはそれに気づいて欲しくない。ずっと永遠にあれは見事な虚実だったと思って欲しかった。
「兄さん。今度僕のあんな姿を見たいと思ったら、どうか、誰もいない二人きりのときにして。」
「えー。あれはあれで、俺としては燃えるんだけど。」
公衆の面前でいちゃつくカップルでもやりたいのかと雪男はげんなりする。恥ずかしかったのが気持ちよかったけど、自分はまだそこまで常識から外れた気持ちよさは身に余る。それを思うと、お互いの気持ちを知る前に、非常識な気持ちよさを図らずも教えてしまったメフィストを恨めしく思う。
それならば――。
「兄さん。あのときみんながいなかったら、僕をどうしたいって思ってた?」
次の瞬間、雪男は思い切り後ろに押し倒されていた。自分の上にはあはあと息を荒げた兄が覆いかぶさっている。
「ご主人様を煽るなんて悪いメイドだ。」
「ご主人様じゃないでしょ。」
「じゃあ、兄貴を煽るなんて悪い弟だ。」
その兄の言い草には言い返せない弟だった。それを肯定と受け取った燐は雪男のコートのボタンを外していく。
「誰か来るかもしれないよ。」
「そんな物好きがこの部屋に来たら、次のお芝居の練習だって誤魔化しゃあいいよ。」
次のお芝居があるのかよと雪男は溜息が出る。
「やっぱ肉欲だな。」
「意味知ってたんだ。」
不良がやりがちな、辞書でいやらしい言葉にだけラインを引くという習慣を雪男は知らない。不良は思わぬような卑猥な言葉だけは熟知しているものなのだ。
燐の口走った言葉と圧し掛かってくる兄の体重に顔を赤くした雪男は、大人しくベッドの上で目を瞑った。
リクエストの続編を書いてしまいました。いっぺんにやれよという話ですね。ここから先はもうお芝居でもなんでもないので一旦終了。暗転です。もとからお芝居じゃないんですけど。燐雪で殺伐ではなく、あまあまを書いてみたかったのは私の隠れた本音だったのでしょうか?
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