幸福雑音
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☆ss「悪魔の兄を弟がエンドにしちゃうぞな腐った話」第3話「アホなのねの弾丸」 燐雪
俺の好きな子は同い年で、真面目で、頭がよくて、俺より背が高くて大人っぽい。
「兄さん。十五秒以上続けて僕に視線を向けないでくれる?」
「う、うん。ごめん。」
「今勉強の最中なんだからね。教科書に集中して。」
どうせ僕のことを可愛いとか、その足りない脳みそで思ってたんだろうと雪男は嘆息する。そのとおりだったので燐は何も言えなかった。
今日は学校のない曜日なので、金がないしがない身の燐は寮の自室で雪男に言いつけられた勉強に頭を抱えていた。その息抜き(と、目の保養)のつもりで教科書から雪男に視線を向けていたら、雪男にきついことを言われて沈んでいるところである。
俺の好きな子は感情的な言葉が嫌いだ。
そして、そんな雪男が自分に向けてくる唯一の感情的な言葉は「嫌い」。雪男が言うには嫌いというのは言葉足らずらしい。兄の雪男に向けてくる感情の性的な部分が唯一嫌いなのらしい。
あの衝撃の塾の授業の初日から、燐と雪男の寮での同居生活はさらに続いていた。雪男はあいかわらず、ことあるごとに燐を殺しかねない言動を取っている。しかし怪我をさせてしまったのが手だった場合は、薬を盛らない弁当を作ってくれるようにはなった。上達のほどは推して知るべしだが。
燐は悪魔の血の影響か、怪我が怖いほどに早く治る。普通の人間ならとっくに傷だらけで学校関係者などに虐待を疑われるレベルになっているはずが、今になっても誰もこの歪な兄弟関係に気づいていないらしい。誰にもそれらしきことを言われたことはない。
なにより、燐は雪男にやられるなら誰かに助けを求めるつもりはないから、ほとんどやられっぱなしのされ放題だった。しかし別に燐は馬鹿なので気にしようがない。
というか、雪男に虐待まがいの仕打ちをされている時が、唯一の雪男からの燐への能動的接触なので、それがないと逆に不安になることもある。そんなことが、お仕置きという名目で行われていた。
記述がだんだん危険なものになってきた。
「雪男ちゃん。今日なんだか顔色悪くない?」
「また見てるの兄さん?」
さっき顔を見たときの印象を言っただけなのに、こうも煩そうに言われると燐だってカチンとくる。
「心配で見てるくらいのことは許してくれよ。」
元から色白な雪男の顔色が、今日はなんだか透けたように青白く見える。
同じ学園に通いだして、雪男が祓魔師の資格を習得しているということを知って初めて目の当たりにしたことだが、この弟は普通の十五歳では考えられない多忙な毎日を送っていた。どれくらい多忙かと言えば、睡眠時間が四時間という人間離れしたサラリーマン並みだった。おまけに肩書きも高校生・祓魔師・塾講師。その上、物質界にとって危険対象である燐が身内なので、その監視役も任されている。
あまり気のつくほうではない燐でも思いつくことだが、あんなに殺したいと言っていた対象である燐と、ほぼ毎日長時間、同じ場所を共有しているとなればストレスを溜めて当然なんじゃないか。しかも今日は朝から同じ部屋で過ごしている。燐は暴力を受けながらでも雪男と一緒にいられる時間は嬉しかったが、雪男は案外違うのかもしれないという仮定を思いついてしまった。そうなったら馬鹿の率直さでそれを言い出さずにはいられない。
雪男の青白い顔を見ながら、燐は最近薄々思っていたことを口に出した。
「雪男。どうせこの寮には俺たちしかいないから、俺とお前は一人ずつ別の部屋に住めばいいんじゃないか?」
雪男はパソコンのキーボードを叩いていた手を止めて燐を見る。その表情は眉を顰めて不愉快そうにしていた。
「僕は兄さんを監視してないといけないんだから。」
「か、監視のこともあったんだっけ。だからその俺は、変なことしないから。雪男があとで困ることとか。それに監視なら、この前みたいに盗聴器でもカメラでも仕掛けとけばいいじゃないか。」
「どうしてそんなに、僕を遠ざけたがるんだい?」
「いや。なんか。今思ったことなんだけど、お前の気が休まらないんじゃないかなっと思って。」
雪男は額に手をやると薄く目を瞑ってふぅっと息をつく。
「兄さんはそんなこと考えつかなくていいから。」
「兄ちゃんが弟を心配しちゃいけないのかよっ。」
流石に能天気で肉体的にも精神的にも痛覚が鈍い燐でも、椅子から立ち上がるくらいには雪男の言葉に腹が立った。
「せめて今くらいは俺どっか行って時間潰すし。」
「僕の目の届かない所で何をするつもりなんだい。兄さんは。」
燐は自分に信用はないのは仕方ないとは思っている。
「大人しく勉強してるよ。」
「その言葉を信用させるような実績が兄さんにあるっていうの。僕の留守中に自慰ばっかりしてるような兄さんに。」
確かに雪男が留守中に燐はオナニーは何回かしたことはある。その度ごとに雪男に折檻されても、なかなかそれは懲りることがなかった。そうでもしてないと、この同居生活で、雪男にとって最悪なことを仕出かさないとは限らなかったからだ。それすらも汚らわしいと言うような雪男の言葉に、燐はやっぱり距離を置いたほうがいいと決心してしまう。
「いいよ。俺他所の部屋に引っ越すから。盗聴器とカメラはメフィストから貰ってちゃんと設置するし。」
燐はベッドまで歩いていって、とりあえず枕と布団だけを抱えて部屋から出て行こうとした。当座の必要なものがそれだけというのも、このアホな男には相応しかった。
「兄さん?」
まさかそこまですぐ燐に行動されてしまうとは思わなかった雪男は、いつもの慎重な雪男らしくなく、立ち上がった拍子に椅子を倒して燐の肩を掴みにかかる。
「勝手なことすんなっ。この悪魔!」
「悪魔って呼ばれるのは結構だよ。どうせ俺は悪魔だよ。お前の傍にいてもお前を何一つ安心させてやれない、そんな駄目悪魔だよ!」
燐は雪男を押しのけて再びドアのほうに向かう。今日のところは一応自分の我を通しておきたいと、アホはアホなりに考えて雪男の手を振り払う。アホにも意地があった。自分が虐待まがいの暴力を受けるのはまだいい。しかし好きな子が神経をすり減らして青い顔をしているのは我慢ならない。幾ら自分が暴力を受けようと、好きな子の精神的不安を何一つ解消させてやれないなら、尚更だった。
当然雪男との別居生活に耐えられなくなるのは燐のほうが先になるだろうが、そのちょっとの間だけでも雪男が少しでも楽になるなら、出来るだけ離れ離れも我慢してみようと燐は健気にも思った。
「兄さん、僕に対して当て付けるつもりかい!」
燐は振り返る。
「そんなふうに取りたいなら取ってろよ。どうせお前は俺の気持ちなんか全否定だろうからな!」
燐は今度こそ出て行ってやるとドアノブを握る。ドアノブを回したと同時に、破裂音がして自分の頭に鈍痛が走った。
怪我をしてもすぐ治り、なかなか死なない身体の燐だが、その鈍痛には後ろを振り返らざるを得ない。何時の間に取り出されたのか、硝煙が雪男の銃の銃口から漂っている。自分の後頭部に手をやり目の前に持ってくると、べっとりと血で濡れていた。
「今度は貫通させるよ。」
「てめえ……」
怪我の治りが早いだけではなく身体の強度も悪魔並みな燐の頭蓋骨は、雪男の撃った弾丸さえも跳ね返したらしい。しかし相当威力の弱い弾だったようだ。雪男は銃からその弾残りを抜き出して、銀製の対悪魔用の弾丸に入れ替えている。その光景に燐は背筋が凍った。
『俺、今度こそ殺されるかも。』
それならそれでもいいかもしれない。
だってこの学園に入ってからずっと宣言されてたし。それに好きな子がこれからの人生心安らかに生きていけるなら、俺は尊い犠牲(自分に対してどんだけ大それたことを言っているのか。やはりアホ故か)でいいと燐は思った。
燐は両手を広げて布団を床に落として雪男と対峙する。アホに似合わず今日は頭が妙に回る。
「てめえがそのつもりなら――」
抵抗する気はないが、抵抗する振りはしよう。どうせ素手対銃なんだ。負けるのはこっちなんだ。
燐はわずかにその身体から青い炎をゆらめかせる。本当に微弱に、弱弱しく、間違っても雪男を燃やさないように。
「ひっ……」
雪男はわずかに怯えたような表情を浮かべる。燐が血塗れの手を広げて一歩近寄ると、雪男の顔はさらに蒼白になり、口からは声にならない悲鳴が上がった。
「……どれだけ僕の心を乱したら気が済むんだ。この悪魔。」
「どうせ俺は悪魔だよ。そんで、最悪の兄貴だったな。そんな兄貴を撃って、お前が悪魔から自由になっていいから。」
でも最後にチューだけでもしたかったな。
「え? なんだって? 僕とチューしたいぃ?」
「はうっ。また顔に出た!」
折角のシリアスなシーンがぶち壊しだった。しかし折角だから、なんとなくお願いしてみたら叶うのかもしれないと燐は思いつく。アホは転んでもただでは起きない。
「ゆ、雪男ちゃん。兄ちゃん殺されてもいいから、一回だけでもキスしてくれないかな?」
「またそんなこと言い出すかな。この変態悪魔!」
「雪男ちゃん。さっきから兄ちゃんのこと、悪魔としか呼んでないよ。いやいいんだけど。キスしてくれない? いや、させてくれない?」
雪男は光を眼鏡に反射させて立ち尽くしている。
「そ、そうだ。兄ちゃんにキスされたあと、それ以上のことを強要させられそうになったことにしよう。そうしたら俺を殺しちゃったとしても正当防衛で、雪男ちゃんは法律に触れたことにならないし。」
「そこまでして僕とキスしたいの?」
「したいです。」
雪男はふるふると震える。兄の馬鹿さ加減のせいなのか。
「兄さん。僕は兄さんを殺したあとのこと、実は何も考えてなかったんだよ。兄さんみたいに、これだったら正当防衛になるだろうからとか。自己保身的な、そういうこと。普通なら考えて当たり前だよね。頭の悪い兄さんが考えつくことくらいは。」
「あっ。そうだよな。よく考えたら、世間体的に俺すごく不名誉な死に様なんだよな。」
強姦未遂で被害者の抵抗にあって死亡。しかも殺人犯は無罪。
「でも僕が刑務所に入らないように、馬鹿なりに頭を回してくれてありがとう。」
雪男は燐に近づく。燐が瞬きする間に、雪男の唇が燐の唇を掠めた。
「僕からしたんだから、これは同罪だね。」
「えっ。さっき雪男ちゃん、俺にキスしたの? うそ。そんな……」
うろたえる兄の頭を雪男は引き寄せる。
「ごめん。後ろから銃なんかで撃っちゃって。だって兄さんを引き止めたかったから。僕本当に、兄さんに嫌われたかと思った。ずっと酷いことしてることは自覚しているんだけど。」
「それは前にも聞いたけど、雪男はそうせざるを得ないんだろ。俺に対して。」
雪男は頷く。燐はたった数週間だったが、溜め込んでいた疑問を吐き出す。
「お前をそうさせるのは、一体なんなんだ?」
雪男はそれに苦笑いを浮かべる。話したくないことを無理やり喋るようなそれではなくて、喋りたいけど喋りづらいといったような顔だった。しかし雪男は勇気を振り絞ったように語り始める。
「僕にはまだ性体験はないけど、この頭がなんだか記憶しているみたいなんだ。そういうの。兄さんがサタンの炎を継いでしまったように、僕はお母さんの記憶を受け継いでしまった。お母さんが僕らを身篭った日の晩の出来事の記憶を。」
燐は合点がいかず腕を組んで弟の言葉を理解しようと苦しんでいる。雪男も自分の受け継いだ記憶に対して理解に苦しんだことはあったので、そこは燐を責めない。
雪男は拳銃を机の上に置く。そしてまた近づいて、燐の後頭部を撫でた。
「少し凹んでるけど、ここまで動けるなら大丈夫そうだね。だいぶ僕も手加減出来るようになったのかな。」
燐にとっては有難いのか、そうでないのか分からないような言葉だった。雪男の白い手のひらが燐の血で赤く染まっている。目の前でそれを翳している弟を見ると、それは宗教画のような言いようのない光景を思わせた。
まるで悪魔を罰する聖女か、聖人の血を手に受けて懺悔する悪女のようにも思えた。
雪男はちょっと待っててと言って部屋の中で頻繁に使うものランキングナンバーワンの救急箱を持ってくる。当然ソレは部屋の一番に手の届くところにあった。
「傷が塞がるまで絆創膏張っておくからね。」
「おう。いつも悪いな。」
雪男は大きな絆創膏をバッテンに燐の頭に張ると、その上を軽く撫でる。手についた血は燐の頭の傷を消毒するときに一緒に拭われていた。
「ところで雪男ちゃん。雪男ちゃんは性体験はないってさっき言ってたよね。」
雪男のめったに見られない優しい顔を台無しにする燐の台詞。雪男は拳を上げて威嚇した。
「なに! またそういうことばっかり言う!」
燐は頭を掻いて、へへへと笑う。
「さっきのキスって初めてかな。ちなみに兄ちゃんも初めて……」
「それ以上言ったら、前から弾をめり込ませるよ。」
燐は慌てて机に戻る。雪男も倒した椅子を元通りにして、またパソコンに向かった。
「うふふ。うふふ。」
兄が時折、唇に触れながら気味の悪い笑い声を上げている。意識していると思われるのも癪なので、雪男はまた黙々と作業に没頭した。
今回も修羅場でした。たぶん次も修羅場でしょう。というか、三話まできてまだ他の登場人物が出現していないのにびっくりです。うちの話としては珍しいです。(アラベスクなんか志摩燐なのに、雪男とメフィストのバトルから始まりました)
「兄さん。十五秒以上続けて僕に視線を向けないでくれる?」
「う、うん。ごめん。」
「今勉強の最中なんだからね。教科書に集中して。」
どうせ僕のことを可愛いとか、その足りない脳みそで思ってたんだろうと雪男は嘆息する。そのとおりだったので燐は何も言えなかった。
今日は学校のない曜日なので、金がないしがない身の燐は寮の自室で雪男に言いつけられた勉強に頭を抱えていた。その息抜き(と、目の保養)のつもりで教科書から雪男に視線を向けていたら、雪男にきついことを言われて沈んでいるところである。
俺の好きな子は感情的な言葉が嫌いだ。
そして、そんな雪男が自分に向けてくる唯一の感情的な言葉は「嫌い」。雪男が言うには嫌いというのは言葉足らずらしい。兄の雪男に向けてくる感情の性的な部分が唯一嫌いなのらしい。
あの衝撃の塾の授業の初日から、燐と雪男の寮での同居生活はさらに続いていた。雪男はあいかわらず、ことあるごとに燐を殺しかねない言動を取っている。しかし怪我をさせてしまったのが手だった場合は、薬を盛らない弁当を作ってくれるようにはなった。上達のほどは推して知るべしだが。
燐は悪魔の血の影響か、怪我が怖いほどに早く治る。普通の人間ならとっくに傷だらけで学校関係者などに虐待を疑われるレベルになっているはずが、今になっても誰もこの歪な兄弟関係に気づいていないらしい。誰にもそれらしきことを言われたことはない。
なにより、燐は雪男にやられるなら誰かに助けを求めるつもりはないから、ほとんどやられっぱなしのされ放題だった。しかし別に燐は馬鹿なので気にしようがない。
というか、雪男に虐待まがいの仕打ちをされている時が、唯一の雪男からの燐への能動的接触なので、それがないと逆に不安になることもある。そんなことが、お仕置きという名目で行われていた。
記述がだんだん危険なものになってきた。
「雪男ちゃん。今日なんだか顔色悪くない?」
「また見てるの兄さん?」
さっき顔を見たときの印象を言っただけなのに、こうも煩そうに言われると燐だってカチンとくる。
「心配で見てるくらいのことは許してくれよ。」
元から色白な雪男の顔色が、今日はなんだか透けたように青白く見える。
同じ学園に通いだして、雪男が祓魔師の資格を習得しているということを知って初めて目の当たりにしたことだが、この弟は普通の十五歳では考えられない多忙な毎日を送っていた。どれくらい多忙かと言えば、睡眠時間が四時間という人間離れしたサラリーマン並みだった。おまけに肩書きも高校生・祓魔師・塾講師。その上、物質界にとって危険対象である燐が身内なので、その監視役も任されている。
あまり気のつくほうではない燐でも思いつくことだが、あんなに殺したいと言っていた対象である燐と、ほぼ毎日長時間、同じ場所を共有しているとなればストレスを溜めて当然なんじゃないか。しかも今日は朝から同じ部屋で過ごしている。燐は暴力を受けながらでも雪男と一緒にいられる時間は嬉しかったが、雪男は案外違うのかもしれないという仮定を思いついてしまった。そうなったら馬鹿の率直さでそれを言い出さずにはいられない。
雪男の青白い顔を見ながら、燐は最近薄々思っていたことを口に出した。
「雪男。どうせこの寮には俺たちしかいないから、俺とお前は一人ずつ別の部屋に住めばいいんじゃないか?」
雪男はパソコンのキーボードを叩いていた手を止めて燐を見る。その表情は眉を顰めて不愉快そうにしていた。
「僕は兄さんを監視してないといけないんだから。」
「か、監視のこともあったんだっけ。だからその俺は、変なことしないから。雪男があとで困ることとか。それに監視なら、この前みたいに盗聴器でもカメラでも仕掛けとけばいいじゃないか。」
「どうしてそんなに、僕を遠ざけたがるんだい?」
「いや。なんか。今思ったことなんだけど、お前の気が休まらないんじゃないかなっと思って。」
雪男は額に手をやると薄く目を瞑ってふぅっと息をつく。
「兄さんはそんなこと考えつかなくていいから。」
「兄ちゃんが弟を心配しちゃいけないのかよっ。」
流石に能天気で肉体的にも精神的にも痛覚が鈍い燐でも、椅子から立ち上がるくらいには雪男の言葉に腹が立った。
「せめて今くらいは俺どっか行って時間潰すし。」
「僕の目の届かない所で何をするつもりなんだい。兄さんは。」
燐は自分に信用はないのは仕方ないとは思っている。
「大人しく勉強してるよ。」
「その言葉を信用させるような実績が兄さんにあるっていうの。僕の留守中に自慰ばっかりしてるような兄さんに。」
確かに雪男が留守中に燐はオナニーは何回かしたことはある。その度ごとに雪男に折檻されても、なかなかそれは懲りることがなかった。そうでもしてないと、この同居生活で、雪男にとって最悪なことを仕出かさないとは限らなかったからだ。それすらも汚らわしいと言うような雪男の言葉に、燐はやっぱり距離を置いたほうがいいと決心してしまう。
「いいよ。俺他所の部屋に引っ越すから。盗聴器とカメラはメフィストから貰ってちゃんと設置するし。」
燐はベッドまで歩いていって、とりあえず枕と布団だけを抱えて部屋から出て行こうとした。当座の必要なものがそれだけというのも、このアホな男には相応しかった。
「兄さん?」
まさかそこまですぐ燐に行動されてしまうとは思わなかった雪男は、いつもの慎重な雪男らしくなく、立ち上がった拍子に椅子を倒して燐の肩を掴みにかかる。
「勝手なことすんなっ。この悪魔!」
「悪魔って呼ばれるのは結構だよ。どうせ俺は悪魔だよ。お前の傍にいてもお前を何一つ安心させてやれない、そんな駄目悪魔だよ!」
燐は雪男を押しのけて再びドアのほうに向かう。今日のところは一応自分の我を通しておきたいと、アホはアホなりに考えて雪男の手を振り払う。アホにも意地があった。自分が虐待まがいの暴力を受けるのはまだいい。しかし好きな子が神経をすり減らして青い顔をしているのは我慢ならない。幾ら自分が暴力を受けようと、好きな子の精神的不安を何一つ解消させてやれないなら、尚更だった。
当然雪男との別居生活に耐えられなくなるのは燐のほうが先になるだろうが、そのちょっとの間だけでも雪男が少しでも楽になるなら、出来るだけ離れ離れも我慢してみようと燐は健気にも思った。
「兄さん、僕に対して当て付けるつもりかい!」
燐は振り返る。
「そんなふうに取りたいなら取ってろよ。どうせお前は俺の気持ちなんか全否定だろうからな!」
燐は今度こそ出て行ってやるとドアノブを握る。ドアノブを回したと同時に、破裂音がして自分の頭に鈍痛が走った。
怪我をしてもすぐ治り、なかなか死なない身体の燐だが、その鈍痛には後ろを振り返らざるを得ない。何時の間に取り出されたのか、硝煙が雪男の銃の銃口から漂っている。自分の後頭部に手をやり目の前に持ってくると、べっとりと血で濡れていた。
「今度は貫通させるよ。」
「てめえ……」
怪我の治りが早いだけではなく身体の強度も悪魔並みな燐の頭蓋骨は、雪男の撃った弾丸さえも跳ね返したらしい。しかし相当威力の弱い弾だったようだ。雪男は銃からその弾残りを抜き出して、銀製の対悪魔用の弾丸に入れ替えている。その光景に燐は背筋が凍った。
『俺、今度こそ殺されるかも。』
それならそれでもいいかもしれない。
だってこの学園に入ってからずっと宣言されてたし。それに好きな子がこれからの人生心安らかに生きていけるなら、俺は尊い犠牲(自分に対してどんだけ大それたことを言っているのか。やはりアホ故か)でいいと燐は思った。
燐は両手を広げて布団を床に落として雪男と対峙する。アホに似合わず今日は頭が妙に回る。
「てめえがそのつもりなら――」
抵抗する気はないが、抵抗する振りはしよう。どうせ素手対銃なんだ。負けるのはこっちなんだ。
燐はわずかにその身体から青い炎をゆらめかせる。本当に微弱に、弱弱しく、間違っても雪男を燃やさないように。
「ひっ……」
雪男はわずかに怯えたような表情を浮かべる。燐が血塗れの手を広げて一歩近寄ると、雪男の顔はさらに蒼白になり、口からは声にならない悲鳴が上がった。
「……どれだけ僕の心を乱したら気が済むんだ。この悪魔。」
「どうせ俺は悪魔だよ。そんで、最悪の兄貴だったな。そんな兄貴を撃って、お前が悪魔から自由になっていいから。」
でも最後にチューだけでもしたかったな。
「え? なんだって? 僕とチューしたいぃ?」
「はうっ。また顔に出た!」
折角のシリアスなシーンがぶち壊しだった。しかし折角だから、なんとなくお願いしてみたら叶うのかもしれないと燐は思いつく。アホは転んでもただでは起きない。
「ゆ、雪男ちゃん。兄ちゃん殺されてもいいから、一回だけでもキスしてくれないかな?」
「またそんなこと言い出すかな。この変態悪魔!」
「雪男ちゃん。さっきから兄ちゃんのこと、悪魔としか呼んでないよ。いやいいんだけど。キスしてくれない? いや、させてくれない?」
雪男は光を眼鏡に反射させて立ち尽くしている。
「そ、そうだ。兄ちゃんにキスされたあと、それ以上のことを強要させられそうになったことにしよう。そうしたら俺を殺しちゃったとしても正当防衛で、雪男ちゃんは法律に触れたことにならないし。」
「そこまでして僕とキスしたいの?」
「したいです。」
雪男はふるふると震える。兄の馬鹿さ加減のせいなのか。
「兄さん。僕は兄さんを殺したあとのこと、実は何も考えてなかったんだよ。兄さんみたいに、これだったら正当防衛になるだろうからとか。自己保身的な、そういうこと。普通なら考えて当たり前だよね。頭の悪い兄さんが考えつくことくらいは。」
「あっ。そうだよな。よく考えたら、世間体的に俺すごく不名誉な死に様なんだよな。」
強姦未遂で被害者の抵抗にあって死亡。しかも殺人犯は無罪。
「でも僕が刑務所に入らないように、馬鹿なりに頭を回してくれてありがとう。」
雪男は燐に近づく。燐が瞬きする間に、雪男の唇が燐の唇を掠めた。
「僕からしたんだから、これは同罪だね。」
「えっ。さっき雪男ちゃん、俺にキスしたの? うそ。そんな……」
うろたえる兄の頭を雪男は引き寄せる。
「ごめん。後ろから銃なんかで撃っちゃって。だって兄さんを引き止めたかったから。僕本当に、兄さんに嫌われたかと思った。ずっと酷いことしてることは自覚しているんだけど。」
「それは前にも聞いたけど、雪男はそうせざるを得ないんだろ。俺に対して。」
雪男は頷く。燐はたった数週間だったが、溜め込んでいた疑問を吐き出す。
「お前をそうさせるのは、一体なんなんだ?」
雪男はそれに苦笑いを浮かべる。話したくないことを無理やり喋るようなそれではなくて、喋りたいけど喋りづらいといったような顔だった。しかし雪男は勇気を振り絞ったように語り始める。
「僕にはまだ性体験はないけど、この頭がなんだか記憶しているみたいなんだ。そういうの。兄さんがサタンの炎を継いでしまったように、僕はお母さんの記憶を受け継いでしまった。お母さんが僕らを身篭った日の晩の出来事の記憶を。」
燐は合点がいかず腕を組んで弟の言葉を理解しようと苦しんでいる。雪男も自分の受け継いだ記憶に対して理解に苦しんだことはあったので、そこは燐を責めない。
雪男は拳銃を机の上に置く。そしてまた近づいて、燐の後頭部を撫でた。
「少し凹んでるけど、ここまで動けるなら大丈夫そうだね。だいぶ僕も手加減出来るようになったのかな。」
燐にとっては有難いのか、そうでないのか分からないような言葉だった。雪男の白い手のひらが燐の血で赤く染まっている。目の前でそれを翳している弟を見ると、それは宗教画のような言いようのない光景を思わせた。
まるで悪魔を罰する聖女か、聖人の血を手に受けて懺悔する悪女のようにも思えた。
雪男はちょっと待っててと言って部屋の中で頻繁に使うものランキングナンバーワンの救急箱を持ってくる。当然ソレは部屋の一番に手の届くところにあった。
「傷が塞がるまで絆創膏張っておくからね。」
「おう。いつも悪いな。」
雪男は大きな絆創膏をバッテンに燐の頭に張ると、その上を軽く撫でる。手についた血は燐の頭の傷を消毒するときに一緒に拭われていた。
「ところで雪男ちゃん。雪男ちゃんは性体験はないってさっき言ってたよね。」
雪男のめったに見られない優しい顔を台無しにする燐の台詞。雪男は拳を上げて威嚇した。
「なに! またそういうことばっかり言う!」
燐は頭を掻いて、へへへと笑う。
「さっきのキスって初めてかな。ちなみに兄ちゃんも初めて……」
「それ以上言ったら、前から弾をめり込ませるよ。」
燐は慌てて机に戻る。雪男も倒した椅子を元通りにして、またパソコンに向かった。
「うふふ。うふふ。」
兄が時折、唇に触れながら気味の悪い笑い声を上げている。意識していると思われるのも癪なので、雪男はまた黙々と作業に没頭した。
今回も修羅場でした。たぶん次も修羅場でしょう。というか、三話まできてまだ他の登場人物が出現していないのにびっくりです。うちの話としては珍しいです。(アラベスクなんか志摩燐なのに、雪男とメフィストのバトルから始まりました)
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