幸福雑音
女性向け二次創作サイト。 イベント参加情報もここに載せています。 オフは忍たま、オンでは青エク中心。
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☆☆リクエスト企画「バンダースナッチ」燐雪
長らくお待たせしまってごめんなさい。最後のリクエストなばばさんから「セクシーな雪ちゃん」です。
雪男はサンマの小骨を箸で取り除きながら口に運んでいた。対面の燐はそんなまどろっこしいことはしない。骨ごとわしわしと食べている。
ふと燐は箸を止めた。
「雪男。これ一尾百円なんだぜ。」
「安いねー。」
「冷凍品だからな。」
「でも美味しいよね。」
「旬になったらこんな冷凍品じゃなくても一尾五十円くらいになるはずだ。」
「ありがたいもんだね。」
燐はほぼ頭と骨だけになったサンマを見て溜息をついている。
「だけどな、俺はもう嫌なんだよ。」
「何がだい? 兄さん。」
雪男はサンマの片身をひっくり返しながらニコニコしている。燐は無言で机をどんっと叩いた。
「俺はもう嫌だ! 幾ら安いし栄養価が高いからって、もう一週間くらいサンマ続きだよ。幾ら、幾ら……。うぅ……。食費が乏しいからって。もう飽きたんだよっ。」
雪男は心底呆れた。月初めには肉ばっかりのメニューだった癖に。計画性というものをいい加減身に着けて欲しい。
「兄さん。僕は三百六十五日サンマでも構わないけど。兄さんが焼いてくれるなら。」
「そんな言葉を嬉しがるような心境じゃねえんだよ。これを見ろ!」
燐が広げるのはつい最近まで改装中だった大型スーパーの広告だった。
「リニューアルオープン特価! ステーキ肉一枚千円!(約二百グラム)しかも黒毛和牛!」
「僕、肉はどうでもいい。」
「一般家庭のおばちゃんが参加出来る、そんな激安イベントのはずなのに。俺は舞踏会に行けないシンデレラかよっ。」
本当に言っていることがみみっちい。認めたくは無いけど上級の悪魔に「若君」だと呼ばれ、いわゆる「虚無界の王の落胤」なんて立場なんだから、もう少しそれらしい言動を取って欲しいものだった。そうすれば兄に反感を持つ人間や悪魔にも、多少なりともハッタリをかませるのにと雪男は思った。
「兄さん。おばちゃんの財布の中身は、お父さんの給料だってこと頭から抜けてるよ。」
ていうか男子高生が、おばちゃんばかりの舞踏会に参加したがるなよと雪男は呟く。燐はまた黙々と茶碗のご飯を掻き込んでいる。
「この学校、バイト禁止だしな。」
燐は雪男を上目遣いで見ている。
「雪男ちゃん。食費……」
「駄目。ちゃんと月初めに渡したよね。」
「そうだよな。」
この諦めの良さは兄弟の長年の付き合いの成せる業だった。
「せめて俺の使える金に余裕があればな。」
「それって『もしもピアノが弾けたなら』くらい物悲しいものがあるよ。それに兄さんの金はフェレス卿から支給されるのが唯一なんだから。」
「それだ!」
燐は食べ終わった食器をてきぱきと片付けだす。そして雪男にも早く食って片付けろよ愚図と暴言を吐いた。
「おい!」
なにやら思いついたような兄は、そんな雪男の浮かべた殺気にも気づかず、雪男が食べ終えた食器を横からぶんどって、雪男の手を取った。
* * *
「金をせびりにまた性懲りも無く私のところに来たわけですか。奥村ブラザーズ!」
「ブラザーズじゃないですよ。兄さん一人だけです。」
「なんだよ。ステーキ肉はちゃんと二枚買う予定で今月の小遣い二千円追加してくれって頼みに来たんじゃねえかよ。」
「ほんと僕は、肉なんてどうでもいいから。」
メフィストは息の合わない兄弟をせせら笑う。
「そうですか。年頃の男らしく肉に対する欲望のために、私に頭を下げに来たのですね。」
「フェレス卿。なんかその言い方いかがわしいです。」
「そうだよ。肉に対する欲望だよ。略して肉欲だよっ。」
「兄さんもそれ以上言わないで! ていうか、広辞苑使って今度みっちり勉強しようね!」
雪男がぜえぜえと息をついているので、燐は黙ってその背中を撫でてあげていた。
「――わかりました。今回に限り二千円追加しましょう。」
「え、こんなあっさりでいいのかよ。」
メフィストは人差し指を振る。
「一つだけ条件があります。貴方たちに、つい最近の私に欠乏しているものを要求したいと思います。」
「なんだよ。塩分か? 鉄分か? それとも脂肪分か? 食物繊維か?」
「栄養素から離れましょうよ。まあ、栄養と言えば栄養ですが。心の栄養ですね。」
雪男は息が落ち着いたのか、メフィストに淡々と言う。
「なんか嫌な予感がするんですけど、僕も参加なんですか?」
メフィストは両手を組んで魔法で愛用の椅子を出して座る。
「ちょっとだけ、目の前で私好みの『ごっこ遊び』をして欲しいだけですよ。」
メフィストは財布を開いて二千円札を燐に手渡す。燐は嬉しそうに雪男の目の前でくるくると踊っている。悪魔との交渉は既に図らずも雪男に丸投げされていた。
「それで、僕らは何ごっこをすればいいのですか?」
「ふふふふふ……。それは当日、明日の夕方あたりまでに決めておきます。」
そうですか。
今夜の雪男はそうやって返事をするしかなかった。
* * *
メフィストの言った『ごっこ遊び』の当日夕方。旧男子寮の食堂。そこには意外な面々が集まっていた。
「雪ちゃんっ。」
「しえみさん何故あなたがっ。」
しえみの横には出雲と朴も並んでいる。出雲の顔は相変わらずむすっとしているが、何故かそわそわしているような雰囲気も見られた。
「私達、理事長にお呼ばれなんだよ。」
エキストラ付の『ごっこ遊び』かよと雪男は途方に暮れた。しかも寄りによってしえみを呼ぶなと叫びたかった。それと祓魔塾にとって貴重な女子に変なモノを見せて愛想尽かされたらどうするんだと憤った。
「俺らも理事長に言われて来たんやけど。」
厨房から勝呂たちが顔を出す。
「理事長に呼ばれて野次馬なんです。それと、食堂からオムライスを出前してこいって。こういうのは、奥村君に作らしておけばええのになあ。」
厨房のカウンターの上にはラップを掛けられたオムライスが乗っている。しかし雪男はそれにケチャップがかかってないのが妙に気になった。何故だか知らないが気になってしまう。
雪男が混乱している内に厨房の外から複数の足音が近づいてくる。
「失礼しまーす。」
「失礼します。」
「失礼、する。」
続いて入ってきたのは、祓魔塾の講師陣、湯川・椿・ネイガウスだった。その後ろから燐が暢気に顔を覗かせた。
「うーっす。なんか先生らも案内して欲しいって、あいつからメールが来たんだよ。」
「ほいほい案内しないでよ!」
湯川・椿・ネイガウスもやはり女子と同じようにそわそわとした表情を浮かべている。
「こんにちは。講師をやめた私も招待してくれて、嬉しいやら恐縮やら。」
眼鏡の冴えないが穏やかそうに見えるオッサンが入ってきた。
「貴方は誰ですか!」
「初めまして。藤堂三郎太と申します。おまけで来ました。」
現役でもない講師まで呼び集められるという事実に、雪男は本日ここで行われるイベントに対して本気で怯え始める。その肩を燐はひしっと抱く。
「雪男。大丈夫だって。ただお前が俺に奉仕するだけでいいって言うシナリオらしいぞ。」
「奉仕!」
なんじゃそれ。雪男は頭を抱えて蹲る。
最後の客・藤堂が現れて一分弱。見計らったようにメフィストが愛用の椅子に座ったまま、わずかに宙を浮きながら唐突に出現した。
「紳士淑女諸君! グーテン・アーベント。今宵はうたかたの戯れか、碑に記されるべき物語か。舞台の始まりです。役者はたった二人。主演男優と主演女優のみ。まず、厳しくも心優しいご主人様・奥村燐!」
おお! と、燐はわけがわかっているのかわかってないのか、両手を振り上げて一同に向かって吼える。
「そして、瀟洒で完璧、それでありながら愛らしいドジっ子メイド・奥村雪男!」
メフィストは口上を述べながら椅子から降りて、蹲って泣きそうになっている雪男の腕を引っ張りあげる。
「アイン。ツヴァイ。ドライ。」
メフィストのマントがひらめいて一瞬、雪男の姿を隠してしまう。そして現れたのは、ふりふりの白いドレスエプロンを祓魔師のコートの上に着た雪男の姿だった。
「なんじゃこりゃあ!」
「貴方は七曲署の刑事じゃないんですから。ちなみに祓魔師は殉職しても二階級特進はしません。」
雪男はこんな姿にされてまで怯えたままではいられない。しかしふと視線を感じて振り返ると、しえみを筆頭に女子連中の目が輝いている。
「雪ちゃん。可愛い。」
出雲もつかつかと雪男に近づくと、エプロンのフリルを摘んでにやけそうになる顔を必至で押さえ込んでいる。しかしその口からは堪えきれずに「ふわふわ…」と呟かれていた。
「しえみさん。神木さん。見ないで!」
またも雪男は蹲る。そして憎憎しげにメフィストを見上げた。
「フェレス卿、貴方が企んだのは、僕を公衆の面前で晒しものにするためだったんですね。」
雪男の言い草に男連中がそれぞれの言い訳を始めた。
「いや。だから。俺はただの野次馬でええと言われて……。オムライスの配達だけのつもりでもあったし。」
「ぼ、僕もですぅ。」
勝呂と子猫丸は自分たちが本当に目的もなく来たかのように言う。本当かどうかは分からないが、この二人だけでも信じてやりたい雪男だった。
雪男は今度は講師陣(藤堂を含む)に振り返った。
「先生方は?」
「私はただの興味本位の野次馬根性で来たんじゃないんだよ。」
椿のまさかの言葉に雪男は息を呑んだ。
「私たちは営利目的のマニュアル行為でなければ夢の中でしか目の当たりに出来ない光景を、この目に焼き付けるためにここに来たんだ!」
湯川がメフィスト顔負けの口上を言った。京都組から志摩が控えめに雪男と湯川の間に入ってきた。
「何度も言うようですけど、ほんと僕ら野次馬ですから。」
なんだか本気が入った教師たちから一線を画したい一心で志摩は言っているようだった。そんな志摩の肩を掴んで後ろに避けると、ネイガウスが一歩雪男に近づく。
「私は、ちゃんと――アレだからな。あれ? そう、あれだ! 夢の中で、なんだったかな……。湯川先生。さっきのもう一回言って下さい。」
無理に言葉を繕おうとして却って墓穴を掘るネイガウスだった。湯川はそっと先ほどの言葉を耳打ちする。
「そういうことですか。とんだプロジェクトXですね。」
それは実に用意周到だった。
お約束とお約束が手を繋いで足並みを揃えている。無造作なはずのメンバーに感じた違和感。ただのイタズラ心やからかい半分でないことは理解出来る。ある意味である種の真剣さが伝わってくる。日頃そんな素振りを見せないネイガウスでさえも。この場に各々の希望を胸に集った者達は、男女を越え年齢を越え、立場を越え、メフィストの誘いに一枚噛んだ者達であることは間違いないらしい。
同じ病を共有する者たち。メフィストが発端ではあるが、今この状況は彼らが実現に漕ぎ着けた最高の舞台だった。
「そうか。やるしかないか。」
頑張って。頑張れ。頑張ってください。頑張ったらええんやない。ちょっと頑張ってよね。近いはずの声援が果てしなく遠くに聞こえる。
もう逃げも隠れも出来ない。能天気に兄は巻き込まれるままに巻き込まれて、雪男の悲壮感に気づかない。しかもその兄まで「頑張るぞ」とか言っている。
「そんなに怖がるなって。俺、少しだけメフィストからレクチャーを受けたし。ほとんどがアドリブになるだろうけどな。ほら、お前も軽い気持ちでイメージでやればいいんじゃないのかな。イメージで。」
メフィストが燐の肩を叩く。
「アドリブとはいえ失望させないで下さいよ。」
「俺と雪男が揃って、お前を失望させるわけがないだろ。」
どっから来るんだ。その自信は。しかし、かなり怯えと緊張が全身を廻りきっている雪男にとっては、それすらも心強かった。この兄とならやれるかもしれない。いや、やらなければこの場は収まらない。
「じゃあ、兄さん。いくよ――。」
「おう!」
燐は食堂のパイプ椅子に腰掛ける。その場にいたものの視線がスポットライトのように燐に集中する。その緊張感をまるで屁とも思ってないように、堂々と座っている。その所作はいつもの能天気で頭の悪いチンピラ男子高生ではなく、どこかのお屋敷のご主人様のように重々しく優雅だった。
(本当に兄さんは、悪魔の若君なんだ……)
雪男はいつもとは打って変わった兄の姿に言葉が出ない。
「雪男。食事を持ってきてくれ。」
(そんなことより、演技しないと。)
「はい。」
自分の上ずった声が嫌に恥ずかしい雪男だった。雪男は京都組が指差すオムライス(盆に載せられてスプーンが添えられている)を両手で運ぶ。
「今日のお食事はオムライスで御座います。ご主人様。」
燐の前に恭しくそれを置くと、メフィストが遠くから声を張り上げた。
「その黄色い殺風景な卵の上に、貴方の最愛のご主人様の名前を書くのです!」
子猫丸が黒子のように小さな身体をさらに小さくして雪男にケチャップを渡す。雪男はそれを受け取ると、黄色い薄焼き卵の上に名前を書き始めたが――。
とある一点で手が止まる。
(なんでフルネームで書こうとしたんだ。僕は。)
「どうしたのかな?」
ご主人様口調の燐が卵の上を覗き込む。
(兄さん。上手くフォローしてくれ。)
「も、申し訳ありません。ご主人様っ。」
覗きこむ観客の目の前。卵の上には「おくむらり」まで書かれていた。しかしもう一字「ん」を書く余裕は卵の上にはなかった。
「失敗だな。卵の上に名前さえも満足に書けないのか? お前は。」
「ご、ご主人様……。身の程を知らず全部書こうとしたら、その……しっぱい……」
(よし。上手くいきそう。)
「そんな言い訳するような悪いメイドは嫌いだ。」
(え?)
『嫌い』という言葉にひどく雪男は動揺した。
「そんな……。雪男を、嫌いにならないで下さい……。ご主人さまぁ。」
ただのお芝居のつもりなのに、何故か妙な熱が篭ってくるのを感じる。本当に燐が自分のご主人様のような錯覚を覚えてくる。何故ならいつも浮ついている燐の目が、ただひたすら雪男を見ているからだ。支配的に。
ざわざわとギャラリーがざわめく。
奥村燐。この男はただの優しいご主人様を演じるつもりはないらしい。もう一ランク上、メイドの全てを支配し、調教しようとする絶対君主になっている。今まさに奥村燐は可愛い自分のメイドであり弟の雪男を、自分色に染め上げようと敢えて、叱責し羞恥を煽り、雪男の全てを支配し所有し、あられもなく懇願させ、その媚態を眉一つ動かすまでもなく淡々とした態度で、ことも無げに従わせる絶対的なご主人様っぷりを見せていた。
「雪男は、ご主人様のオムライスに粗相を……」
雪男もなんだか入り込んでしまっている。だって今日の兄さんはいつもの兄さんと違うから。
「哀れっぽく振舞えば許してもらえると思っているのか? 馬鹿なやつ。」
「あぁ……。申し訳ありません。雪男は駄目で、馬鹿なメイドなんです。だから……」
(自分で、自分のこと、馬鹿って言っちゃった……)
燐の雪男を見る目はどこか冷たさすらも感じる。
「どうした。おねだりか? 何をして欲しい?」
意地悪く問いかける燐は、とても付け焼刃の演技とは思えない。よほどメフィストのレクチャーが完璧だったのか? それとも、もっと違う要因がこの舞台に隠されているのか?
『もしかしてこれがこの男の本性か?』
メフィストは今までの自分の認識を改めざるをえなかった。
燐と雪男のやり取りはまだ続く。
「ご主人様。雪男を叱って下さい。お仕置き……してください。」
「そうだな。」
燐は顎をしゃくり上げる。
「このオムライスをスプーンを使わずに食べろ。」
「お箸を、使うのですか?」
「馬鹿か。お前のような駄目メイドは犬のように直に食うがいいわ。」
(ええええええええええ!)
流石の雪男も怖気づいてしまう。哀れみを乞うように兄に情けない眼差しを向けてしまうけど、兄は瞬きもせず、そんな雪男を目で拒否した。
燐は椅子から立ち上がると、途中までしか名前の書かれていないオムライスの皿を雪男の前にどんと置く。ケチャップが飛び散って雪男の頬やエプロンに付いた。周りが「酷い」と呟いている。しかしその声は何気に興奮を覚えているようだった。
雪男は机の端に手をかけて中腰になる。燐は淡々と弟に指示を出した。
「まずそのケチャップを舐めて貰おうかな? 書き損じとはいえど俺の名前だ。心を込めて舐め取るんだな。」
雪男は舌先を出して薄焼き卵の表面に舌を這わせる。
「あ……。トマトの味が。」
「ケチャップだから当たり前だろうが。いちいち反応しているんじゃない。本当に恥ずかしいやつ。」
「はいっ。」
雪男の痴態を見ている誰かの生唾が飲み込まれる音が微かにした。しばらく見ているうちに雪男は薄焼き卵を口に銜えて引っ張り始める。
「雪男!」
「はいぃ?」
(僕、なんか変なことした?)
びくりと雪男は薄焼き卵から口を離した。完全に兄に怯えている。燐はオムライスを指差しながら言う。
「薄焼き卵とケチャップライスを別々に食べるのは邪道だ。ちゃんと一緒に食べるんだ。」
厳しめな口調で指示を出す。そうなれば端から齧っていくしかない。そんな雪男の様子を燐はじっと見つめていた。
何の感情も無い目で見つめられていると思うと、情けないないような嬉しいような、恥ずかしいような、切ないような、何もかも綯い交ぜにしたような感情で頭の中が痺れてくる。
犬のようにはしたない姿をご主人様の兄が見守っている。メイドがちゃんと罰を実行しているか見張っているだけだろう。それを嬉しいなんて思う神経がどうかしているけれど、とめどなく溢れてくるものは止められない。もっと辱めて欲しいなんて、自分はなんだかおかしくなってきているんじゃないかと思った。ご主人様だけじゃない。他の人も見ているのに。でもこれは兄さんに言いつけられた、お仕置きだから。ちゃんと終わらせなくちゃ。
燐はさておき、雪男はすっかり調教されているドジっ子メイドになりきっていた。半分ほど食べ終えたところで、燐が雪男の口元を指差す。
「口の周りがケチャップで汚れているな。」
雪男の口の周りはケチャップとケチャップに染められたライスに塗れている。犬食いしているのだから当たり前だ。しかも雪男は指摘してきた燐に言われてやっているだけだったのに。雪男は恥らうように口元を手で隠そうとしている。
「だ、だって。お皿から直接食べて……」
「また言い訳をする。」
燐は溜息をつくと雪男から視線を逸らす。雪男はそれにさらに動揺した。
「ごめんなさい……。ごめんなさいっ。」
「さっさと食べてしまいなさい。周りの人達も居た堪れないよ。」
雪男はさらに皿の上のオムライスをはぐはぐと恥ずかしい格好で食べ進めている。燐の冷たい声がまた雪男に降る。
「お前。本当はそんな恥ずかしい姿を、みんなに見られて却って悦んでいるんじゃないのか?」
雪男は言葉が出なかった。否定しても、この兄には否定に取って貰えないだろう。しかし無言の回答は、そのまま肯定と受け取られた。
「お仕置きの追加だ。お前は恥ずかしいところを見られて悦ぶような、恥知らずのメイドだと言え。」
「そ……。そんなこと――。」
急に顔が引き上げられる。眼前に燐の顔が迫っていた。
「さあ。言うんだ。その可愛い口で。大きな声で。お前のその恥ずかしい姿を御覧になっている皆様にも、ちゃんと聞こえるようにな。」
兄とメフィストに付き合わされるお芝居なのに、自動人形である雪男は、ついに意思を持ったように口を開いて、言葉を迸らせた。
「ゆ……。雪男は悦んで、い……います。皆様に見られて、……とても気持ちいいです。でも、ご主人様に見られるのが、一番、……いちばん気持ちいいです。雪男はそんな、恥ずかしくて、はしたない……駄目なメイドです。」
燐に強く命令された途端、口をついて頭になかった言葉が一挙に口からすらすらと出てきてしまった。瞳を潤ませ、声を震わせ、雪男は燐を見上げた。
「よし。よく出来た。ここまでお前が正直になるとは思わなかったぞ。今日はこれでよしとしてやろう。さあ、ご褒美だ。」
「ごほうび、ですか。そんな……」
「ご主人様の厚意を無下にするのも悪いメイドだぞ。雪男。お前はひたすら俺を喜ばせていればいい。」
燐は取り上げていたスプーンを手に取りオムライスを掬うと、雪男の口元に突きつけた。
「ほら。あーん。」
「はい。」
雪男は燐の差し出すオムライスをおずおずと口に入れる。燐の表情は無機質な無表情から、慈愛に満ちた微笑に変わっていた。
甘ったるいやり取りが続いて、オムライスは最後の一口になった。
「ご主人様。私がご主人様のお食事を食べてしまっているのですがっ。」
燐は頬をカリカリと掻きながら、素知らぬふうに言う。
「そうか。気づかなかったな。」
「どうしよう。どうしましょう。」
また先ほどの恥ずかしい思いを繰り返すのかと、雪男は不安になる。しかし燐はしょうがないと呟いた。
「こればかりは俺のうっかりだ。ドジなメイドに構うのが楽しすぎるのがいけない。」
「ご主人様。喜んで頂けたのですか?」
「楽しかった――。」
うおぉー! ご主人様がでれた!
誰かが叫ぶ。散々サディスティックな振る舞いを見せた癖に、いきなり甘くなる。これほどの卑怯技はない。周囲は一斉に立ち上がった。とんでもない素晴らしいものを見せてもらったと。
「ここからは皆様に見せるわけにはいかないな。雪男。六○二号室で続きをしようか。」
「え?」
雪男の身体が宙に浮く。燐にお姫様抱っこされていたのだ。
「ご主人、様?」
どぎまぎしている雪男に燐は囁く。
「このまま、ばっくれるぞ。」
雪男はそこでやっと正気に戻った。
「う、うん。兄さん……」
「それでは皆の衆! アデュー。アリデベルチ。アウフヴィーダーゼーエン。グッドラック!」
出任せに外国語を口走って二人は食堂を出る。誰も後を追わない。すっかり毒気を抜かれたらしい。あのメフィストでさえも。
「凄かったな。アレ。」
「なんだかんだで奥村雪男があの奥村燐を、兄さん扱いし続けるはずだよ。」
「もうメイド喫茶程度で夢を見られないよ。」
「ご主人様になれへんわ。俺ら。」
逢魔が時の幻想は覚めてしまえば、夢を見ていた傍観者たちが騒ぐだけだった。
本当に隣のスペースだからとリクを強請ってしまった結果がこれです。セクシーというよりは、M属性雪ちゃんになってしまいました。志摩雪でも書きかけていたのですが、ある好きなサイトさんのssにキーワードが同じ作品があったので、没ってしまいました。志摩雪を待っていらっしゃいましたら本当にすみません。
楽しんでいただけたら幸いです。リクエストありがとうございました!
雪男はサンマの小骨を箸で取り除きながら口に運んでいた。対面の燐はそんなまどろっこしいことはしない。骨ごとわしわしと食べている。
ふと燐は箸を止めた。
「雪男。これ一尾百円なんだぜ。」
「安いねー。」
「冷凍品だからな。」
「でも美味しいよね。」
「旬になったらこんな冷凍品じゃなくても一尾五十円くらいになるはずだ。」
「ありがたいもんだね。」
燐はほぼ頭と骨だけになったサンマを見て溜息をついている。
「だけどな、俺はもう嫌なんだよ。」
「何がだい? 兄さん。」
雪男はサンマの片身をひっくり返しながらニコニコしている。燐は無言で机をどんっと叩いた。
「俺はもう嫌だ! 幾ら安いし栄養価が高いからって、もう一週間くらいサンマ続きだよ。幾ら、幾ら……。うぅ……。食費が乏しいからって。もう飽きたんだよっ。」
雪男は心底呆れた。月初めには肉ばっかりのメニューだった癖に。計画性というものをいい加減身に着けて欲しい。
「兄さん。僕は三百六十五日サンマでも構わないけど。兄さんが焼いてくれるなら。」
「そんな言葉を嬉しがるような心境じゃねえんだよ。これを見ろ!」
燐が広げるのはつい最近まで改装中だった大型スーパーの広告だった。
「リニューアルオープン特価! ステーキ肉一枚千円!(約二百グラム)しかも黒毛和牛!」
「僕、肉はどうでもいい。」
「一般家庭のおばちゃんが参加出来る、そんな激安イベントのはずなのに。俺は舞踏会に行けないシンデレラかよっ。」
本当に言っていることがみみっちい。認めたくは無いけど上級の悪魔に「若君」だと呼ばれ、いわゆる「虚無界の王の落胤」なんて立場なんだから、もう少しそれらしい言動を取って欲しいものだった。そうすれば兄に反感を持つ人間や悪魔にも、多少なりともハッタリをかませるのにと雪男は思った。
「兄さん。おばちゃんの財布の中身は、お父さんの給料だってこと頭から抜けてるよ。」
ていうか男子高生が、おばちゃんばかりの舞踏会に参加したがるなよと雪男は呟く。燐はまた黙々と茶碗のご飯を掻き込んでいる。
「この学校、バイト禁止だしな。」
燐は雪男を上目遣いで見ている。
「雪男ちゃん。食費……」
「駄目。ちゃんと月初めに渡したよね。」
「そうだよな。」
この諦めの良さは兄弟の長年の付き合いの成せる業だった。
「せめて俺の使える金に余裕があればな。」
「それって『もしもピアノが弾けたなら』くらい物悲しいものがあるよ。それに兄さんの金はフェレス卿から支給されるのが唯一なんだから。」
「それだ!」
燐は食べ終わった食器をてきぱきと片付けだす。そして雪男にも早く食って片付けろよ愚図と暴言を吐いた。
「おい!」
なにやら思いついたような兄は、そんな雪男の浮かべた殺気にも気づかず、雪男が食べ終えた食器を横からぶんどって、雪男の手を取った。
* * *
「金をせびりにまた性懲りも無く私のところに来たわけですか。奥村ブラザーズ!」
「ブラザーズじゃないですよ。兄さん一人だけです。」
「なんだよ。ステーキ肉はちゃんと二枚買う予定で今月の小遣い二千円追加してくれって頼みに来たんじゃねえかよ。」
「ほんと僕は、肉なんてどうでもいいから。」
メフィストは息の合わない兄弟をせせら笑う。
「そうですか。年頃の男らしく肉に対する欲望のために、私に頭を下げに来たのですね。」
「フェレス卿。なんかその言い方いかがわしいです。」
「そうだよ。肉に対する欲望だよ。略して肉欲だよっ。」
「兄さんもそれ以上言わないで! ていうか、広辞苑使って今度みっちり勉強しようね!」
雪男がぜえぜえと息をついているので、燐は黙ってその背中を撫でてあげていた。
「――わかりました。今回に限り二千円追加しましょう。」
「え、こんなあっさりでいいのかよ。」
メフィストは人差し指を振る。
「一つだけ条件があります。貴方たちに、つい最近の私に欠乏しているものを要求したいと思います。」
「なんだよ。塩分か? 鉄分か? それとも脂肪分か? 食物繊維か?」
「栄養素から離れましょうよ。まあ、栄養と言えば栄養ですが。心の栄養ですね。」
雪男は息が落ち着いたのか、メフィストに淡々と言う。
「なんか嫌な予感がするんですけど、僕も参加なんですか?」
メフィストは両手を組んで魔法で愛用の椅子を出して座る。
「ちょっとだけ、目の前で私好みの『ごっこ遊び』をして欲しいだけですよ。」
メフィストは財布を開いて二千円札を燐に手渡す。燐は嬉しそうに雪男の目の前でくるくると踊っている。悪魔との交渉は既に図らずも雪男に丸投げされていた。
「それで、僕らは何ごっこをすればいいのですか?」
「ふふふふふ……。それは当日、明日の夕方あたりまでに決めておきます。」
そうですか。
今夜の雪男はそうやって返事をするしかなかった。
* * *
メフィストの言った『ごっこ遊び』の当日夕方。旧男子寮の食堂。そこには意外な面々が集まっていた。
「雪ちゃんっ。」
「しえみさん何故あなたがっ。」
しえみの横には出雲と朴も並んでいる。出雲の顔は相変わらずむすっとしているが、何故かそわそわしているような雰囲気も見られた。
「私達、理事長にお呼ばれなんだよ。」
エキストラ付の『ごっこ遊び』かよと雪男は途方に暮れた。しかも寄りによってしえみを呼ぶなと叫びたかった。それと祓魔塾にとって貴重な女子に変なモノを見せて愛想尽かされたらどうするんだと憤った。
「俺らも理事長に言われて来たんやけど。」
厨房から勝呂たちが顔を出す。
「理事長に呼ばれて野次馬なんです。それと、食堂からオムライスを出前してこいって。こういうのは、奥村君に作らしておけばええのになあ。」
厨房のカウンターの上にはラップを掛けられたオムライスが乗っている。しかし雪男はそれにケチャップがかかってないのが妙に気になった。何故だか知らないが気になってしまう。
雪男が混乱している内に厨房の外から複数の足音が近づいてくる。
「失礼しまーす。」
「失礼します。」
「失礼、する。」
続いて入ってきたのは、祓魔塾の講師陣、湯川・椿・ネイガウスだった。その後ろから燐が暢気に顔を覗かせた。
「うーっす。なんか先生らも案内して欲しいって、あいつからメールが来たんだよ。」
「ほいほい案内しないでよ!」
湯川・椿・ネイガウスもやはり女子と同じようにそわそわとした表情を浮かべている。
「こんにちは。講師をやめた私も招待してくれて、嬉しいやら恐縮やら。」
眼鏡の冴えないが穏やかそうに見えるオッサンが入ってきた。
「貴方は誰ですか!」
「初めまして。藤堂三郎太と申します。おまけで来ました。」
現役でもない講師まで呼び集められるという事実に、雪男は本日ここで行われるイベントに対して本気で怯え始める。その肩を燐はひしっと抱く。
「雪男。大丈夫だって。ただお前が俺に奉仕するだけでいいって言うシナリオらしいぞ。」
「奉仕!」
なんじゃそれ。雪男は頭を抱えて蹲る。
最後の客・藤堂が現れて一分弱。見計らったようにメフィストが愛用の椅子に座ったまま、わずかに宙を浮きながら唐突に出現した。
「紳士淑女諸君! グーテン・アーベント。今宵はうたかたの戯れか、碑に記されるべき物語か。舞台の始まりです。役者はたった二人。主演男優と主演女優のみ。まず、厳しくも心優しいご主人様・奥村燐!」
おお! と、燐はわけがわかっているのかわかってないのか、両手を振り上げて一同に向かって吼える。
「そして、瀟洒で完璧、それでありながら愛らしいドジっ子メイド・奥村雪男!」
メフィストは口上を述べながら椅子から降りて、蹲って泣きそうになっている雪男の腕を引っ張りあげる。
「アイン。ツヴァイ。ドライ。」
メフィストのマントがひらめいて一瞬、雪男の姿を隠してしまう。そして現れたのは、ふりふりの白いドレスエプロンを祓魔師のコートの上に着た雪男の姿だった。
「なんじゃこりゃあ!」
「貴方は七曲署の刑事じゃないんですから。ちなみに祓魔師は殉職しても二階級特進はしません。」
雪男はこんな姿にされてまで怯えたままではいられない。しかしふと視線を感じて振り返ると、しえみを筆頭に女子連中の目が輝いている。
「雪ちゃん。可愛い。」
出雲もつかつかと雪男に近づくと、エプロンのフリルを摘んでにやけそうになる顔を必至で押さえ込んでいる。しかしその口からは堪えきれずに「ふわふわ…」と呟かれていた。
「しえみさん。神木さん。見ないで!」
またも雪男は蹲る。そして憎憎しげにメフィストを見上げた。
「フェレス卿、貴方が企んだのは、僕を公衆の面前で晒しものにするためだったんですね。」
雪男の言い草に男連中がそれぞれの言い訳を始めた。
「いや。だから。俺はただの野次馬でええと言われて……。オムライスの配達だけのつもりでもあったし。」
「ぼ、僕もですぅ。」
勝呂と子猫丸は自分たちが本当に目的もなく来たかのように言う。本当かどうかは分からないが、この二人だけでも信じてやりたい雪男だった。
雪男は今度は講師陣(藤堂を含む)に振り返った。
「先生方は?」
「私はただの興味本位の野次馬根性で来たんじゃないんだよ。」
椿のまさかの言葉に雪男は息を呑んだ。
「私たちは営利目的のマニュアル行為でなければ夢の中でしか目の当たりに出来ない光景を、この目に焼き付けるためにここに来たんだ!」
湯川がメフィスト顔負けの口上を言った。京都組から志摩が控えめに雪男と湯川の間に入ってきた。
「何度も言うようですけど、ほんと僕ら野次馬ですから。」
なんだか本気が入った教師たちから一線を画したい一心で志摩は言っているようだった。そんな志摩の肩を掴んで後ろに避けると、ネイガウスが一歩雪男に近づく。
「私は、ちゃんと――アレだからな。あれ? そう、あれだ! 夢の中で、なんだったかな……。湯川先生。さっきのもう一回言って下さい。」
無理に言葉を繕おうとして却って墓穴を掘るネイガウスだった。湯川はそっと先ほどの言葉を耳打ちする。
「そういうことですか。とんだプロジェクトXですね。」
それは実に用意周到だった。
お約束とお約束が手を繋いで足並みを揃えている。無造作なはずのメンバーに感じた違和感。ただのイタズラ心やからかい半分でないことは理解出来る。ある意味である種の真剣さが伝わってくる。日頃そんな素振りを見せないネイガウスでさえも。この場に各々の希望を胸に集った者達は、男女を越え年齢を越え、立場を越え、メフィストの誘いに一枚噛んだ者達であることは間違いないらしい。
同じ病を共有する者たち。メフィストが発端ではあるが、今この状況は彼らが実現に漕ぎ着けた最高の舞台だった。
「そうか。やるしかないか。」
頑張って。頑張れ。頑張ってください。頑張ったらええんやない。ちょっと頑張ってよね。近いはずの声援が果てしなく遠くに聞こえる。
もう逃げも隠れも出来ない。能天気に兄は巻き込まれるままに巻き込まれて、雪男の悲壮感に気づかない。しかもその兄まで「頑張るぞ」とか言っている。
「そんなに怖がるなって。俺、少しだけメフィストからレクチャーを受けたし。ほとんどがアドリブになるだろうけどな。ほら、お前も軽い気持ちでイメージでやればいいんじゃないのかな。イメージで。」
メフィストが燐の肩を叩く。
「アドリブとはいえ失望させないで下さいよ。」
「俺と雪男が揃って、お前を失望させるわけがないだろ。」
どっから来るんだ。その自信は。しかし、かなり怯えと緊張が全身を廻りきっている雪男にとっては、それすらも心強かった。この兄とならやれるかもしれない。いや、やらなければこの場は収まらない。
「じゃあ、兄さん。いくよ――。」
「おう!」
燐は食堂のパイプ椅子に腰掛ける。その場にいたものの視線がスポットライトのように燐に集中する。その緊張感をまるで屁とも思ってないように、堂々と座っている。その所作はいつもの能天気で頭の悪いチンピラ男子高生ではなく、どこかのお屋敷のご主人様のように重々しく優雅だった。
(本当に兄さんは、悪魔の若君なんだ……)
雪男はいつもとは打って変わった兄の姿に言葉が出ない。
「雪男。食事を持ってきてくれ。」
(そんなことより、演技しないと。)
「はい。」
自分の上ずった声が嫌に恥ずかしい雪男だった。雪男は京都組が指差すオムライス(盆に載せられてスプーンが添えられている)を両手で運ぶ。
「今日のお食事はオムライスで御座います。ご主人様。」
燐の前に恭しくそれを置くと、メフィストが遠くから声を張り上げた。
「その黄色い殺風景な卵の上に、貴方の最愛のご主人様の名前を書くのです!」
子猫丸が黒子のように小さな身体をさらに小さくして雪男にケチャップを渡す。雪男はそれを受け取ると、黄色い薄焼き卵の上に名前を書き始めたが――。
とある一点で手が止まる。
(なんでフルネームで書こうとしたんだ。僕は。)
「どうしたのかな?」
ご主人様口調の燐が卵の上を覗き込む。
(兄さん。上手くフォローしてくれ。)
「も、申し訳ありません。ご主人様っ。」
覗きこむ観客の目の前。卵の上には「おくむらり」まで書かれていた。しかしもう一字「ん」を書く余裕は卵の上にはなかった。
「失敗だな。卵の上に名前さえも満足に書けないのか? お前は。」
「ご、ご主人様……。身の程を知らず全部書こうとしたら、その……しっぱい……」
(よし。上手くいきそう。)
「そんな言い訳するような悪いメイドは嫌いだ。」
(え?)
『嫌い』という言葉にひどく雪男は動揺した。
「そんな……。雪男を、嫌いにならないで下さい……。ご主人さまぁ。」
ただのお芝居のつもりなのに、何故か妙な熱が篭ってくるのを感じる。本当に燐が自分のご主人様のような錯覚を覚えてくる。何故ならいつも浮ついている燐の目が、ただひたすら雪男を見ているからだ。支配的に。
ざわざわとギャラリーがざわめく。
奥村燐。この男はただの優しいご主人様を演じるつもりはないらしい。もう一ランク上、メイドの全てを支配し、調教しようとする絶対君主になっている。今まさに奥村燐は可愛い自分のメイドであり弟の雪男を、自分色に染め上げようと敢えて、叱責し羞恥を煽り、雪男の全てを支配し所有し、あられもなく懇願させ、その媚態を眉一つ動かすまでもなく淡々とした態度で、ことも無げに従わせる絶対的なご主人様っぷりを見せていた。
「雪男は、ご主人様のオムライスに粗相を……」
雪男もなんだか入り込んでしまっている。だって今日の兄さんはいつもの兄さんと違うから。
「哀れっぽく振舞えば許してもらえると思っているのか? 馬鹿なやつ。」
「あぁ……。申し訳ありません。雪男は駄目で、馬鹿なメイドなんです。だから……」
(自分で、自分のこと、馬鹿って言っちゃった……)
燐の雪男を見る目はどこか冷たさすらも感じる。
「どうした。おねだりか? 何をして欲しい?」
意地悪く問いかける燐は、とても付け焼刃の演技とは思えない。よほどメフィストのレクチャーが完璧だったのか? それとも、もっと違う要因がこの舞台に隠されているのか?
『もしかしてこれがこの男の本性か?』
メフィストは今までの自分の認識を改めざるをえなかった。
燐と雪男のやり取りはまだ続く。
「ご主人様。雪男を叱って下さい。お仕置き……してください。」
「そうだな。」
燐は顎をしゃくり上げる。
「このオムライスをスプーンを使わずに食べろ。」
「お箸を、使うのですか?」
「馬鹿か。お前のような駄目メイドは犬のように直に食うがいいわ。」
(ええええええええええ!)
流石の雪男も怖気づいてしまう。哀れみを乞うように兄に情けない眼差しを向けてしまうけど、兄は瞬きもせず、そんな雪男を目で拒否した。
燐は椅子から立ち上がると、途中までしか名前の書かれていないオムライスの皿を雪男の前にどんと置く。ケチャップが飛び散って雪男の頬やエプロンに付いた。周りが「酷い」と呟いている。しかしその声は何気に興奮を覚えているようだった。
雪男は机の端に手をかけて中腰になる。燐は淡々と弟に指示を出した。
「まずそのケチャップを舐めて貰おうかな? 書き損じとはいえど俺の名前だ。心を込めて舐め取るんだな。」
雪男は舌先を出して薄焼き卵の表面に舌を這わせる。
「あ……。トマトの味が。」
「ケチャップだから当たり前だろうが。いちいち反応しているんじゃない。本当に恥ずかしいやつ。」
「はいっ。」
雪男の痴態を見ている誰かの生唾が飲み込まれる音が微かにした。しばらく見ているうちに雪男は薄焼き卵を口に銜えて引っ張り始める。
「雪男!」
「はいぃ?」
(僕、なんか変なことした?)
びくりと雪男は薄焼き卵から口を離した。完全に兄に怯えている。燐はオムライスを指差しながら言う。
「薄焼き卵とケチャップライスを別々に食べるのは邪道だ。ちゃんと一緒に食べるんだ。」
厳しめな口調で指示を出す。そうなれば端から齧っていくしかない。そんな雪男の様子を燐はじっと見つめていた。
何の感情も無い目で見つめられていると思うと、情けないないような嬉しいような、恥ずかしいような、切ないような、何もかも綯い交ぜにしたような感情で頭の中が痺れてくる。
犬のようにはしたない姿をご主人様の兄が見守っている。メイドがちゃんと罰を実行しているか見張っているだけだろう。それを嬉しいなんて思う神経がどうかしているけれど、とめどなく溢れてくるものは止められない。もっと辱めて欲しいなんて、自分はなんだかおかしくなってきているんじゃないかと思った。ご主人様だけじゃない。他の人も見ているのに。でもこれは兄さんに言いつけられた、お仕置きだから。ちゃんと終わらせなくちゃ。
燐はさておき、雪男はすっかり調教されているドジっ子メイドになりきっていた。半分ほど食べ終えたところで、燐が雪男の口元を指差す。
「口の周りがケチャップで汚れているな。」
雪男の口の周りはケチャップとケチャップに染められたライスに塗れている。犬食いしているのだから当たり前だ。しかも雪男は指摘してきた燐に言われてやっているだけだったのに。雪男は恥らうように口元を手で隠そうとしている。
「だ、だって。お皿から直接食べて……」
「また言い訳をする。」
燐は溜息をつくと雪男から視線を逸らす。雪男はそれにさらに動揺した。
「ごめんなさい……。ごめんなさいっ。」
「さっさと食べてしまいなさい。周りの人達も居た堪れないよ。」
雪男はさらに皿の上のオムライスをはぐはぐと恥ずかしい格好で食べ進めている。燐の冷たい声がまた雪男に降る。
「お前。本当はそんな恥ずかしい姿を、みんなに見られて却って悦んでいるんじゃないのか?」
雪男は言葉が出なかった。否定しても、この兄には否定に取って貰えないだろう。しかし無言の回答は、そのまま肯定と受け取られた。
「お仕置きの追加だ。お前は恥ずかしいところを見られて悦ぶような、恥知らずのメイドだと言え。」
「そ……。そんなこと――。」
急に顔が引き上げられる。眼前に燐の顔が迫っていた。
「さあ。言うんだ。その可愛い口で。大きな声で。お前のその恥ずかしい姿を御覧になっている皆様にも、ちゃんと聞こえるようにな。」
兄とメフィストに付き合わされるお芝居なのに、自動人形である雪男は、ついに意思を持ったように口を開いて、言葉を迸らせた。
「ゆ……。雪男は悦んで、い……います。皆様に見られて、……とても気持ちいいです。でも、ご主人様に見られるのが、一番、……いちばん気持ちいいです。雪男はそんな、恥ずかしくて、はしたない……駄目なメイドです。」
燐に強く命令された途端、口をついて頭になかった言葉が一挙に口からすらすらと出てきてしまった。瞳を潤ませ、声を震わせ、雪男は燐を見上げた。
「よし。よく出来た。ここまでお前が正直になるとは思わなかったぞ。今日はこれでよしとしてやろう。さあ、ご褒美だ。」
「ごほうび、ですか。そんな……」
「ご主人様の厚意を無下にするのも悪いメイドだぞ。雪男。お前はひたすら俺を喜ばせていればいい。」
燐は取り上げていたスプーンを手に取りオムライスを掬うと、雪男の口元に突きつけた。
「ほら。あーん。」
「はい。」
雪男は燐の差し出すオムライスをおずおずと口に入れる。燐の表情は無機質な無表情から、慈愛に満ちた微笑に変わっていた。
甘ったるいやり取りが続いて、オムライスは最後の一口になった。
「ご主人様。私がご主人様のお食事を食べてしまっているのですがっ。」
燐は頬をカリカリと掻きながら、素知らぬふうに言う。
「そうか。気づかなかったな。」
「どうしよう。どうしましょう。」
また先ほどの恥ずかしい思いを繰り返すのかと、雪男は不安になる。しかし燐はしょうがないと呟いた。
「こればかりは俺のうっかりだ。ドジなメイドに構うのが楽しすぎるのがいけない。」
「ご主人様。喜んで頂けたのですか?」
「楽しかった――。」
うおぉー! ご主人様がでれた!
誰かが叫ぶ。散々サディスティックな振る舞いを見せた癖に、いきなり甘くなる。これほどの卑怯技はない。周囲は一斉に立ち上がった。とんでもない素晴らしいものを見せてもらったと。
「ここからは皆様に見せるわけにはいかないな。雪男。六○二号室で続きをしようか。」
「え?」
雪男の身体が宙に浮く。燐にお姫様抱っこされていたのだ。
「ご主人、様?」
どぎまぎしている雪男に燐は囁く。
「このまま、ばっくれるぞ。」
雪男はそこでやっと正気に戻った。
「う、うん。兄さん……」
「それでは皆の衆! アデュー。アリデベルチ。アウフヴィーダーゼーエン。グッドラック!」
出任せに外国語を口走って二人は食堂を出る。誰も後を追わない。すっかり毒気を抜かれたらしい。あのメフィストでさえも。
「凄かったな。アレ。」
「なんだかんだで奥村雪男があの奥村燐を、兄さん扱いし続けるはずだよ。」
「もうメイド喫茶程度で夢を見られないよ。」
「ご主人様になれへんわ。俺ら。」
逢魔が時の幻想は覚めてしまえば、夢を見ていた傍観者たちが騒ぐだけだった。
本当に隣のスペースだからとリクを強請ってしまった結果がこれです。セクシーというよりは、M属性雪ちゃんになってしまいました。志摩雪でも書きかけていたのですが、ある好きなサイトさんのssにキーワードが同じ作品があったので、没ってしまいました。志摩雪を待っていらっしゃいましたら本当にすみません。
楽しんでいただけたら幸いです。リクエストありがとうございました!
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