幸福雑音
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☆ss「カプリチョーソ」志摩燐前提の雪燐、「アラベスク」シリーズ「ロマンス」の続き
「ゆきおおじちゃんごはんです。」
雪男はるんを膝に乗せて絵本を読んでやっていた。すると台所にいる燐の側で晩御飯が出来るのを待っていたらんが雪男を呼びに来た。
「もう出来たんだ。るん君、続きは寝る前にね。」
「うん。」
雪男は台所に行く。その後ろに双子の甥っ子がついてくる。
「兄さん。手伝うよ。」
燐が手渡すよそったご飯とおかずを手つきの盆に載せてテーブルに運ぶ。子供用の小さな茶碗や食器が可愛いなとか、常日頃なら思い浮かべもしないようなことをつらつら思う。席についた雪男の側に双子達が両方から茶碗を持って移動してきた。
「なんかすげー懐かれてるなお前。」
「僕もどうしてか分からないんだけど。」
父親が入院して心細いのだろうか。それとなく目顔で燐を見ると、燐は気まずそうな笑いを浮かべる。その気まずさは雪男にではなく、入院している廉造に向けているようにも見えた。廉造と双子は親子と言えども、一緒に暮らし始めてから二年くらいしか経っていない。なんとなく子供としてはあまり父に対する実感が無いのかもしれないと雪男は思った。だから大人の男なら、誰にでもこうして懐いてしまうのかもしれない。
志摩家の夕食はテレビを付けない。修道院育ちの燐の生活習慣が、かなりこの家に影響しているようだ。雪男は両方の双子の食事をそれとなく手伝ってやる。そして上手にこぼさずに食べられれば褒めてもやった。なんだか親というものの気持ちを実感する。
昼間昼寝はしていたが夕方まで雪男が来て双子はしゃいでいたので、夕食が済み風呂に入ると二人とも首で船を漕ぎ始める。燐がるんとらんの布団を敷いてやって寝かせてやる。
「今日は寝る前の絵本を読まなかったな。まあたまにはいっか。」
子供部屋の襖を閉めて燐が雪男のほうに振り返った。雪男は時計をちらりと見て燐に問いかける。
「今夜も僕はこの家で泊まってもいいのかな? 兄さん。」
どんな顔をされるかなと雪男は不安に駆られた。昼間結局、抱き締めてしまっただけに、るんとらんを挟まない二人きりは、感情の波がどのように変わるか分からないと雪男は思っていた。ところが燐はそんな雪男の胸に顔を埋めてくる。
「廉造がいなくて、心細いんだ。」
嬉しいようなむずがゆいような、なんか情けないような感覚が雪男を襲う。追い出されたほうが良かったかもしれない。しかし己の欲に雪男は耐えられず、今日もこの家に泊まろうと思った。
「僕は兄さんと一緒に寝てもいいの?」
俯いた燐が頷く。自然と雪男の口の端が上がった。
* * *
あきらかに二人用の大きさの布団に入ると、兄の匂いだけではない他の匂いも鼻について雪男は顔をしかめた。そんな雪男に気がついてないように燐は雪男の隣に滑り込むと、そのまま目を閉じる。
「兄さん。」
雪男は躊躇いよりも衝動に従って燐に手を伸ばす。目を閉じたままの燐が口を開いた。
「お前俺のこと少し怒ってるって昼間言ってたけど、俺もお前のこと少し恨んでたんだ。」
雪男は届く前の手を止める。そして聞き返した。
「恨み?」
兄の横で浮ついている雪男の耳に抜けていこうとする言葉の中で、たった三文字が反響してはなれない。
「五年前。俺が、廉造とままごとみたいな結婚式して熱海に逃げ出すように新婚旅行に行く前のこと、覚えてるか? お前あのあとすぐに悪魔落ちしたから忘れてるかもしれねえけど。」
覚えてないとは言えない。純粋だった兄に対する思いに、たった一つの汚点があったことを忘れるわけがない。苦くて痛い、胸につっかかり続けている思い出だった。
「覚えてるか?」
燐が再び問いかけてくる。雪男は頷いた。
「覚えてるよ。兄さんがわざわざ口にしたくない思い出を語る必要はないよ。」
燐はゆっくりと目を開ける。しかし瞳の奥には雪男を訝しげに思う気配が漂っていた。
「俺はお前が俺のことを考えて、あの時そうしたってことくらいは理解出来てるんだけど?」
「だけど――?」
雪男の脳裏には、五年前泣きはらした目で自分に助けを求めてきた兄の姿が蘇る。自分が兄に告げた言葉と一緒に。
『兄さんが僕にそれを打ち明けてくれて嬉しいよ。だから僕は兄さんに出来ることを助言することにするよ。……現聖騎士の庇護は受けるべきだと思う。たとえ愛人の形でも。』
五年前の残暑。燐にとっても雪男にとっても運命の九月だった。
祓魔師にならなければ命を絶たれるという期限が迫っていた。その矢先に燐はアーサーの公然の愛人になればアーサーの力によって命を長らえさせてもいいという提案を受けた。そのときその場にいた志摩廉造には断固として反対されたが、志摩と別れてから燐は弟の雪男に助けを求めた。
燐としては本当にどうしていいか分からなかったからこそ、雪男なら自分のことを考えて何か言ってくれると信じたかったから。雪男なら燐の意に沿わないアーサーの愛人になることに、その当時は夫でもない他人同然な志摩以上に反対してくれると思っていた。
雪男がそういってくれたら、その結果自分は死ぬことになっても良かった。自分を人間として認めてくれる弟の優しさを確かめて、死に臨むならそれでもいいかと思うくらいに、弟のその一言が聞きたかった。
アーサーの誘惑に揺らいだ安易な自分を雪男なら叱ってくれて、戦おうと言ってくれると期待していた。
この時点で燐は廉造の言葉をすんなり受け入れたわけじゃなかった。だからこそ雪男に最終的に自分を委ねることにした。しかし雪男は固い声で燐に告げる。
『神の言葉なら貞操は命より重いと言うけど、僕たちは神様の世界で生きてないんだ。兄さんは悪魔だし。どこまで行っても騎士団の人間にとっては、排除するか拘束しておきたい対象なんだ。もしかしたら祓魔師の認定試験の結果は、不合格に決まっている、かもしれない。結局兄さんの綺麗な心は裏切られるんだ。だけどそんな兄さんの手付かずの純潔がアーサー卿が兄さんを所望して庇護する材料になるなら、利用したほうがいい。』
燐は足元がぐらつく。雪男は部屋にあった椅子に燐を座らせた。
『生き残る道が、数ヵ月後の認定試験に合格するだけっていうのは、さっき言った理由僕としては無茶だと思う。騎士団にとっては兄さんの頑張りも、理事長の賭けも関係ないわけだし。』
不合格ってことにすればいいだけなのだから。
『俺、頑張るから。文句無しの誰でも認める合格なら、誰も不合格に出来ないだろっ。愛人になるかどうかの返答は今すぐ決めろって言われてないし。それまではアーサーの提案は保留ってことにならねえのか?』
駄目だと雪男は即答する。
『保留だけはしちゃ駄目だ。これだけは余裕のある時期に決めておくしかない。兄さん。僕だって本当は辛いんだ。』
雪男は燐に言い聞かせるように言う。でも本当は自分に言い聞かせている言葉だった。最愛の兄を生かしたいが為に、他所の男の慰み者として差し出さなければ、たった一人の大好きな人を守れない現実。それが雪男の意思をあざ笑う。
しかしアーサーに兄を委ねれば兄の命を長らえるばかりではない。サタンの干渉からもメフィストの不透明な思惑からも離脱させることも出来る。雪男はもうメフィストを兄の後見人として信じられなくなってきている。だから後ろ盾として、ヴァチカンの最高位に近いアーサーに兄の安寧を委ねたかった。それが自分に出来る最良の選択だと思い込もうとしていた。
兄の健気な心が折られることで、自分と同じところに堕ちてくれれば、雪男の苦しい心だって少しは軽くなるような気がした。
それでも折れない燐は雪男に縋る。唇が震えて、青い瞳が揺らいでいる。もう兄だからなんだという意地を捨てて、一人の男として雪男に訴えかけてくる。
『俺嫌だ。あいつの愛人なんて。雪男。俺死んでもいいから、あいつの愛人になってまで生きていたくないから。』
『そんなこと言っちゃ駄目だ。僕は兄さんに生きていて欲しい。僕の為だと思って。』
『雪男のため?』
燐は戸惑いに足が竦んでいる。雪男は兄の強情さはよく分かっていた。しかし自分に普段は反抗的なことを言いながら、心の奥底には亡き義父の身代わりとして雪男に対する甘えがあることには気付いている。兄は自分に依存している。だからそれを利用して、自分が兄の心を折らなければと思った。
『兄さんは悪魔なんだ。そのうち普通の人間みたいに恋をしたいなんて思っちゃいけない。そんな甘えた希望は捨てるんだ。』
「俺はその言葉にすげー傷ついた。でもその時ばかりはお前の言うことを聞くしかないと思ったんだ。」
だけど結局辿ったルートは、雪男の思いも燐の決意も裏切ったものになった。なんて馬鹿な展開なんだろう。
聖騎士の愛人になることなく、燐は志摩と結婚して子供を身ごもり、雪男は悪魔落ちして兄と五年間も会えずにいて、今更ながら二人は同じ布団で眠りに入ろうとしている。
結論からすれば。筋の全然通らない、無茶苦茶な年月を過ごしてもサタンの落胤は、生きていた。何もかもあの青い炎に焼かれて残ったものは、ある意味滑稽かもしれない日常だった。
自分を恨んでいたという兄の告白に、雪男はあまり心を揺さぶられることはなかった。今まで思い返すのも忌まわしいと思っていたが、今夜は兄の隣でぐっすりと眠れそうだった。燐は自分に伸ばされたままになっていた雪男の手を握る。
「雪男。聞いてくれ。」
「いいよ。兄さん。」
昔より少し低くなった兄の声が暗い部屋の中で溶けていった。
燐と雪男の回想はもう少し続きます。五年前の真実は今のところ三割がた明かされました。
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